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「か」


2024年鑑賞作品

鍵のある風景 Eカップ豊熟 (Eカップ本番 II 豊熱)
1989年 59分 日本 カラー
監督: 佐藤俊喜 脚本:小林宏一
撮影:下元哲 音楽:ISAO YAMADA
出演:中根徹 藤沙月 井上あんり 夢恋次郎 本多菊次郎 平賀勘一


2024/2/21/水 録画(日本映画専門チャンネル)
R15版にしても、ピンクとしてもかなりカラミ多めだなという印象と、当時の女優さんのサイドをばっちりカールしたヘアスタイル、寝る時もシャワーの時にもパール系べったり口紅がそのまんまというあたりに時代を感じたりもする。今はほとんどそんなことはないが、女優さんの芝居もなかなか厳しくって、これはどうかなぁと正直、思っていた。
でも後半、彼らの事情が急速に明らかにされてくると、いや、正確に言うと夫の真情が明らかになってくると、何もかもが切なくなってくる。結局誰もが、片思い、いや、思い合っていたのに、その気持ちを確かめ合えない。本当の愛を確かめ合えない。

いかにもな、出だしではあるんである。タイトル通り豊満な祐子は、水泳インストラクターの青年、保夫としっぽり楽しんでいる。プールの高い観覧席から、飛び込んだ彼に拍手を送るというシーンは、まるで学園ドラマのひとコマのようにすがすがしいのだけれど、その後繰り返されるセックスでは、旦那はインポでバカ、だなどと二人で笑い合ってはカラミまくる。
それは本当に、いかにもな、人妻と青年のしっぽり不倫のように、見えた。彼らにとって祐子の夫、文夫は妻を満足させることも出来ないツマラナイ男なのだと。

本当に、よくある平凡な、図式に見えたのだった。しばらくは、観客だってそう思わされていた。今や専業主婦というのも奇跡の職業だが、祐子はその肩書なのに、出歩きまくって、あら帰ってたのね、という始末である。簡単にできる食事なんかないわよ、と文句は一人前だが、文夫はただダンマリである。
並べられたベッドでそれぞれに眠る二人は、もうすっかり倦怠期、というか、祐子側がこのタイクツな夫に飽き飽きしているようにしか、見えなかった。

でも、そうじゃないことを見抜いていたのは、インストラクターの青年、保夫であった、ということなんだろう。
彼は沖縄に転勤が決まって、祐子に一緒に来てくれないか、と言った。むしろ、祐子は、その話を聞いた時、これを機に別れてくれ、いや、そもそも自分と切れたいから転勤を希望したんじゃないかと疑うが、でもその疑いも、後から思えば確かに、どこかうつろで、まぁこんな日も来るかと思っていたような節もあった。いや、女優さんの芝居がまぁまぁアレなので、文脈からではあるんだけれど(爆)。

でも正直、観客側としては、彼が本気なのがちょっとビックリした。むしろ祐子の方が執着しているんじゃないかと思った。
そして……祐子が執着していたのは、これは、観終わっていろいろ思い返しても断定までは出来ないんだけれど、やっぱりやっぱり、夫の文夫だったとしか思えないのだ。

祐子との結婚生活を、同僚のチャラい男に揶揄されているシーンでは、祐子が見た目まんまのヤリマンで、この同僚もその相手の一人であるだけだと思っていた。
でも実際は……彼女の言葉を信じるならば、いや、こんな言い方はない。それならば、このチャラ男の、つまりはレイプ男の言葉の方を信じることになるではないか。

ああ、言ってしまった。そう、確かに祐子はモテモテだったんだろう。文夫にとっては高根の花だった。それでもダメもとで、アタックした。なんとかして、彼女の一人暮らしのアパートに入り込んだ。
てか、コーヒーだけよ、だなんて言って招き入れたんだから、祐子だってそんな予感があったに違いなかったのだ。

後から思い返せば……かなりのパーセンテージをしめるカラミシーンの中で、この、回想される祐子と文夫の、お互い判っていながら一応抵抗しつつ、求め合いながらもゆっくりとお互いを求め合うセックス、この場面のセックスだけが、愛と幸せが、あったのだった。
ここだけだった。もう、ありとあらゆるセックスが乱発しまくりに埋め尽くされる中で、愚直ともいえる、あの頃を懐かしく回想するこの場面だけが、幸せだったのだ。

祐子と文夫が夫婦となってから、セックスはしないままだったのだろうと思われる。それは、倦怠期というんじゃない。そもそも、結婚することになる、その直前の、ひどい出来事だった。
あの幸せなセックスの時に文夫は、祐子に結婚宣言をした。誰とデキていたってかまわない。俺は君が好きだから、君と結婚するんだと宣言して、祐子は幸せな苦笑をしたのだった。
なのに、あのチャラ同僚に、祐子はレイプされる。それを、文夫は見てしまう。彼女と幸せなセックスをした、彼女のアパートで、凌辱されている彼女を、見てしまう。

タイトルになっている、鍵のある風景。鍵は、祐子が一人暮らしをしていた川沿いのアパートのものだった。クリーニングが間に合わないからと、古いスーツを祐子は文夫に渡した。そのポケットに入っていた鍵。
当然今は違う人が住んでいる。川を挟んで見えるそのベランダを、文夫は見上げた。そう、わざわざ電車に乗って、会社を仮病で休んでまで、出かけたのだった。
その鍵で入り込み、思い出をかみしめる。その経過で、先述した、この作品の中でたった一回の、セックスまみれの本作の中でたった一回の、幸せなセックスがあった。

ベッドで寝ちゃって、現在の住人が戻ってきちゃう。OLさんと思しき彼女は彼氏を連れ込んで、文夫はベッドの下でそのセックスにじっと息をひそめている。
いかにもピンクな展開だし、かなりしんねりと尺をとって描かれるのもいかにもなのだけれど、これまた後から考えると……結局はさ、だんだんと精神がやられていく文夫にとって、ここで繰り広げられている、いわば平凡な、何の問題もない恋人同士のセックスというものが、同じ部屋で彼が祐子としたものと重なったのは当然なんだよね。

それ以来、会社を休んでは、住んでいる女性が出勤するのを見送って、入り込んで入り浸る。湯を沸かし、弁当を食べ、ぼんやりと過ごす。
文夫は、時には、妻を凌辱する妄想をすることだってあった。観客側が、おっ、やるじゃねーかよ、と思ったら、脂汗をかいてまんじりともせずな彼に切り替わって、ああ……違った、出来ないんだ、彼は、と思った。
妻に対する愛と欲情はあるのに、なぜそれが出来ないのか、この時にはまだ判らなかった。もしかしたら、祐子がそれを待っていたのかもしれないということも。

この部屋で、同僚が祐子をレイプしていて、恋人同士になりかけていた文夫が遭遇し、包丁をふりかぶった。
その後彼女と結婚したのだということが判ると、その前の、あの幸せなセックス、高根の花だった彼女が自分の元に来てくれる幸せが、同僚のレイプによって地に落とされ、……いやそれは、祐子の自尊心が地に落とされ、文夫は祐子を愛しているのは違いないのに、彼女に手を出せなくなった。愛を、表現することが出来なくなった。

そんな、そんなの、ないわ!すべてが判ってしまえば、祐子が若いツバメとしっぽりやってるのも、文夫が仕事にかまけているという言い訳で妻と夫婦生活が営めてないのも、すべてがすべてが、二人ともが、お互い相対できない怖さに対する言い訳やんか!!愛し合ってるんやんか!!なのになのに……。

今なら判る。祐子の浮気相手の保夫が、君はなんでそんなに亭主を憎んでいるのかと違和感を感じるのは当然だ。マイホーム主義って感じなのに、なんでそんなにボロクソ言うの?と彼は心底不思議そうに言った。
浮気をしている訳でもない(てか、テメーが浮気してる)、暴力を振るわれている訳でも、言葉の暴力がある訳でもない。
だったら予測されるのは一つ、愛しているのにその見返りがないことへの不満だと、誰もが思う。そして……そのとおりなのだろうけれど、そこには、そうストレートに言い切れない事情があった訳だけれど。

保夫が祐子に、ダンナを捨てて、一緒に沖縄に来てほしいと言った、それは、文夫が祐子に言った、君が誰とデキていたってかまわない、君と結婚するんだ、というストレートな告白と同じ熱量だった。
だから……どっちを選ぶのかと、思った。本当は、文夫を選んでほしかった。あの、幸せなセックスが、まるでまぼろしのように、遠くかすんでしまう気がした。それは、文夫が今、見失ってしまっているから。鍵という、リアルなアイテムで、タイムスリップしてしまって、今の奥さんが見えなくなってしまった。いや、今の奥さんとはもう……その境目を見たくないがために、かつての時間に飛んで、もう戻ってきたくなくなったのか。

祐子は、そんな事情は知らない。話をしようとはしたけれど夫とかみ合わず、それ以上はなかった。あっさりとスーツケースを引きずって、出て行った。
文夫は、クラフト飛行機を作っていたのだった。祐子はそれを、部屋の中で無造作に飛ばして、出て行った。部屋の中でぽつりと落ちた筈だった。

それが、オープニング映像と重なる。プロペラが回る、無機質な団地を眼下に、くるくると飛んでいく。どこに自分の住む部屋があるのか判らなくなるような、無数の団地は、この当時からひと昔前には、成功の象徴だっただろうけれど、この時には、こうしてぶっきらぼうに映されるように、押し込まれて生活している、息苦しさの象徴なのだ。
そして今、現代にいたると、高齢化が進み、空き家が進み、廃墟化となる。こんな未来の、そのとば口にある団地の姿をリアルに映している……なんか鳥肌が立つ。

文夫はもうこの時点では、すっかり精神をヤラれている。ずっとずっと昔のことなのに、このアパートに、愛する祐子がいると思い込んでいる。
当然、今の住人である女子がキャー!!と叫び、慌てた文夫ともみあいになり、文夫はうっかり、ベランダから落下してしまうんである。

沖縄の恋人の元に出発する祐子が何気なく飛ばしたダンナが作った飛行機、プロペラが回り続け、無機質な団地を見下ろしていく。この無数の小さな窓の中に、子供が工作で作るような四角い箱の四角い窓の中で、無数の物語があるのだった。
文夫と祐子がセルフタイマーで映した写真、もう本当に……80年代って感じの、セルフ撮り出来る今の手慣れた写真とは全然違う、男の子は慣れてなくて、女の子は慣れた笑顔で、それがなんかたまらなく切なかった。

レイプまでされた祐子の方がキツいと単純に思いがちだけれど、その彼女を愛しているのは本当なのに、セックス自体が彼女を傷つけるんじゃないかと思って手を出せない、一方で彼女が他の男とセックスしていることは薄々感じている、しまいには愛する妻から、なぜ自分と結婚したのかと、同情なのかと、責め立てられてしまうだなんて……。
クソ鬼畜地獄行きチャラ同僚のことがなかったら、ただただラブラブ夫婦になっていた筈。いや、それは言い訳か。二人がお互いの想いを確かめ合っていたならば。お互いが、そこまでの勇気が出なかったのか。

文夫が降りたつ東中野の駅、駅の階段はそのままだけど、当然周辺の商店事情とか違ってて、うわー!と思っちゃう。
サトウトシキ監督は、初期は漢字表記だったこと、知らなかった。ピンク隆盛期の歴史の一端を垣間見ることが出来て嬉しい。★★★☆☆


彼方のうた
2023年 84分 日本 カラー
監督:杉田協士 脚本:杉田協士
撮影:飯岡幸子 音楽:スカンク/SKANK
出演:小川あん 中村優子 眞島秀和 Kaya 野上絹代 端田新菜 深澤しほ 五十嵐まりこ 荒木知佳 黒川由美子 金子岳憲 大須みづほ 安楽涼 小林えみ 石原夏実 和田清人 伊東茄那 吉川愛歩 伊東沙保

2024/1/14/日 劇場(池袋シネマ・ロサ)
激ムズ、と思ったが、不思議に不快感はなかった。そしてこの監督さん、絶対初見だと思っていたら、デビュー作を拝見していて、やはり激ムズで、今感想文を読み返すと文句つけまくってて本当にハズかしい(すみません……)。
つまりちゃんと作風を貫いている訳なんだけど、当時感じた困惑を本作では不思議と感じなかったのは、私もちょっとは成長したのか、いやその……。

記憶力ないもんで、感想文を読み返しても思い出せないんだけれど、オフィシャルサイトの解説読んでみたら、そんな隠された伏線あったのかとか思ったことが、本作ではなかったのは、それだけそぎ落とされたものになっていたのかもしれないとも思う。
本作の激ムズさにパンフレットを買いたくなったけれどぐっとこらえたのはケチではなくて、感じ方が左右されちゃうから。それでいてオフィシャルサイトは読むんだけど(まぁそのね、最低限の輪郭は確認したいな、と思う訳(汗))、むしろそのオフィシャルサイトで書かれている物語は、そう書いちゃうと一本の線にしかならないような、もっとこの作品は観る人にゆだねられているんじゃないかと、それぞれで感じたいとさえ、思ったのだった。

なにひとつ、解明されない。謎だらけ。春(小川あん)は一体何者なのか。彼女が自然に出会ったように見えた人たちは、確かに確かに、彼女が意識して接触していた。でもそれが、とても優しく、穏やかに距離を詰めて、彼らに「どこかで会ったことありましたか?」と問いかけさせた。
それこそオフィシャルサイトでは、春がその彼らと子供時代出会っていると解説されていたけれど、必ずしもそうとも感じなかった。

いや、眞島秀和氏演じる剛にはその投げかけは確かにあった。彼から問われて春は、「……中学時代、駅のホームで」それだけぽつりと言ったら、剛は顔をゆがめて涙をこぼしたのだった。
何があったのかと観客であるこちらは驚き、当然その回収がなされるだろうと待っているんだけれど、来ないのだ。その後も春は冒頭出会った雪子(中村優子)や、映画製作教室、デッサン教室で邂逅する人々と、独特の距離を詰めていく。

次第に、ああこれは、謎解きなどされないのだと判ってくる。何があったのかなんて、確かに考えてみればさほど重要ではないのだ。
春は剛と意識的に出会った、いや、再会した。それは、彼を救いたいから……という言い方は違うような気がする。確かにその言葉が一番判りやすい言い方だけれど、春の存在自体がなにか……本当にここに存在している肉体なのかと感じたりしたもんだから。

そこまで思うのはうがちすぎだろうか?確かにオフィシャルサイトの解説では、春が母親への想いを抱えていて、それを母親と同じ年代であろう雪子の中に見出すようなことが書かれていて、そうかなと思わなくもない。春は私世代には懐かしいポータブルカセットプレーヤーを持っていて、そこには川のせせらぎの音が録音されているらしく、その川がどこなのかを、雪子と共に探す道行きが本作の中盤、丁寧にじっくりと描かれるのだから。
でも劇中、春ははっきりと母親の思い出とは言っていないし(多分……ちょっと自信ない(爆))、このいかにもエモい要素こそが、春を現実味がないというか、どこか空から降ってきているような感覚にさせた。

雪子や剛にどんな事情があるのか、先述のように全く明かされはしない。雪子の年頃の女性が一人暮らしをしているのは、今の時代では珍しくもないけれど、どうにも見逃せないその寂しいたたずまいを、春は感じ取ってしまう。
道を聞いただけ、言ってしまえばただそれだけで、雪子の家で手料理をランチにいただくなんて、普通に考えればありえないのに、丁寧な時間をかけて、春は雪子と友達になった。

友達、というんじゃないのかとも思うけれど、そうとしか言いようがない。剛とも、そうだ。剛に対しては、春はハッキリと、後をつけるというか、そんな行動に出ていて、剛が春の職場を訪ねるところから邂逅が始まった。どこかで会ったことがあるようなと問われ、春は先述の、駅のホームの話をした。
雪子に対してとはハッキリ対応が違う。それぞれに、春は対応を変化させている。駅のホームで剛に何があったのか、その時の剛の年齢を想像し、観客側にあれこれと考えさせる。

そうか……答え合わせが必要だと思ったけれど、答え合わせをしてしまったら、受け手の中に膨らんだ物語を、壊してしまうことになる、ということなのかもしれない。
春とは確かに、過去に会っている。それも、春がティーンエイジャーの頃なのだから、10年、あるいはそれ以上前。今の剛も雪子も落ち着いた生活をしているけれど、それまでに当然、いろいろあった、それを、どうやら過去に会っているらしい、春を通してあぶりだされる。もしかしたら、彼らが、今はそれなりに暮らしているけれど、目を背けていた若き頃の過去を。

春は雪子の中に母親を見ている……のかも、というのは、確かに感じなくはなかった。カセットテープ、川のせせらぎ、それもそうだけれど、春側ではなく、雪子側……先述したようにこの年頃の独身女性は珍しくもないけれど、雪子には隠しようもない影があって、彼女が暮らしている部屋は、……上手く言えないけれど、かつて一緒に暮らしていた誰かの空間があって、それが画面の外にあって、映さないようにしていて。
一見して落ち着いたインテリアの、オシャレ住まいに見えるんだけれど、映し出されるのはオムレツを作るキッチンと、二人がそれを食するダイニングテーブルのみで、大きな冷蔵庫といい、欠損を感じずにはいられなかったのだ。まぁリアル独女の私もあーゆーでっかい冷蔵庫持ってるけどさ。

だからやっぱり、雪子がキーマンだったのだと思う。中盤は、剛との出会いから、娘ちゃんのシナリオを映画作品として撮影し、皆で喜び合う、という大団円に至るが、冒頭が雪子との出会いで、ラストは雪子との別れ、なのだから。
別れ……なのかどうかは、そこでカットアウトされるから、判らないけれど。

そう、剛との出会いから、娘ちゃんのシナリオ、そもそも春が通っていた映画製作教室の生徒さんたちを巻き込んで、撮りましょうよということになって、小さな小さな、剛と娘ちゃんが暮らす家で、スマホで撮影して、撮りあげるんである。
ちゃんと、地元の劇場で上映会まで至り、カットが変わると春がいつも行っている、剛とも訪れ、彼が涙を流した、小さな、カフェのような、バーのようなお店である。

撮影に協力してくれた教室の生徒たち、ほかにもどんどん、訪れて、歌いながら入ってくるカップルや、赤ちゃんを連れてお食い初めな儀式を皆でにこやかに見守ったりする。
もうなんか……こうなると、夢みたいである。極楽浄土の、場面を見ているみたい。だって今まで見知っていた人たちかどうかも、よく判らないままなだれ込んで、でもただただ幸福なのだもの。

デッサン教室で、一人のおばさまから、私のことずっと見てるよね?とにこやかながらも結構しつこく糾弾されたシークエンスがあって、先述してきたように、謎の回収はされないから、あのおばさまに対してはなんだったんだろうというモヤモヤは残ったり。
いや、もう、モヤモヤは残りまくりなんだよね。でもそういうことかと、割と早い段階で覚悟が決まったし、なんだか不思議と……見守りたい欲求にかられたもんだから。

春を演じる小川あん氏がなんていうか……まぁ単純に可愛いんだけど、どこか哲学的なオーラがあって、終始彼女に引きずり倒された感は、あった。
雪子を演じる中村優子氏も、もう彼女はまさに、そうした女優さんだから、冒頭とラストを締め、川のせせらぎを探すバイク二人乗り旅は詩のように美しかった。

ラストは、それこそ何の回収もされない、むしろ、もやもやをかき回しまくるラストは、でもこれが、本作の答えそのものだった。
春が雪子の家を訪ねる。3回目ぐらいだろうか。最初の出会いでオムレツをごちそうになり、次はその作り方を伝授してもらった。雪子さんのオムレツを食べたいと、春は言った。
静かな、本当に静かな。川の音を探しに行った上田への旅、名物のかたやきそばを食べに入ったお店も、一緒に耳を傾けた川辺、一心になっている春を慮って、一人カフェで待つ雪子さん、静かな、時間の流れだった。

このラストに、私は勝手に、春は、そもそもきっと、今この世界にいないであろう春は、大好きな雪子さんに別れを告げて行ってしまうのだろうと、感じた。
だって、一緒に食事をして、辞するのに、私、行きます、と言ったのだもの。そんな表現、ないじゃない。もうそろそろ帰ります、じゃあそろそろお暇します。そんなところでしょ。行きます、って何、何!!

雪子さんは駅まで送ると玄関まで出て行った。その時、雪子さんも春も、そのお顔を映し出さなかった。ただ、立ち尽くし、雪子さんが、ダメよと(言い回し、違ったかもしれない)、言ったのだった。
そして、春をそっと抱き締めて、抱き締められた春の、小川あん氏の二重の大きな瞳が、決して閉じられることなく、見開かれているのに、寂し気に、哀し気に、焦点さえ合わずに、こちらを見ているのだった。

受け手にゆだねてくれていると信じられれば、グッと深度のある作品だと思う。すみません、自信がどうにも持てないもんだから(爆)。
映画製作やデッサンの教室での、市井の生き生きとした雰囲気が、ああこういう感じ、商業映画にはない感覚だから、それがすっごく良くって。そこからメインの作劇にしっかりつなげていっているっていうのが素晴らしいと思った。ドキュメンタリズムとフィクションの融合、初期の是枝監督を思い出したりして。★★★★☆


彼女はなぜ、猿を逃したか?
2022年 98分 日本 カラー
監督:高橋泉 脚本:高橋泉
撮影:恵水流生 音楽:小山絵里奈
出演:新恵みどり 廣末哲万 藤嶋花音 萩原護 高根沢光 結

2024/3/5/火 劇場(ポレポレ東中野)
なんという不思議なタイトル。ここから一体何が始まるのか、想像もつかない。中盤は、これは恐るべき社会派作品かもと思い、実際そうなんだけれど、身構えていたら案外とというべきか、望外というべきか、不思議にハッピーな着地点へと誘われる面白さ。

そう、社会派なのだ。このSNS社会で散々憂えられているというのに、それが起こっている渦中の人たちは、それがマジに正義だと思っている、あの図式。ここではそれが、どこかのんびりとした話題である。
女子高生が動物園の猿を逃がした。確かにケシカランことだし危険なことだけれど、後に事情が明らかになる時に語られる、ライオンじゃ危ないだろ、猿ぐらいにしろよ、じゃぁじゃんけんで決める!だなんていう無邪気さは最初から感じていたのに。現代はあっという間にそれを、不穏な空気に祭り上げてしまう。

いや、現代じゃ、ないのだった。30年前。それも、かなり後半になってから明かされる。二重、いや三重ぐらいの構造になっているので、もはやさっそくネタバレするのもアレなんだけど。

40代後半ぐらいと思われる優子が未唯という女子高生にインタビューしている。これが猿を逃がしたという女子高生である。のらりくらりと、ひょうひょうと真意を明かさない未唯に優子は翻弄される。
一方で未唯は、他の男からもインタビューを受けている。それを優子は知りようもない筈なのに、あの子は私のほかに取材を受けているに違いない、と言い募るんである。
そんな優子を夫である奏太は心配し、どこか腫れ物に触るように接するが、一方でまるでティーンエイジャーの恋人同士のように無邪気にいちゃついたりもするんである。

奏太の経営しているあれは編集プロダクションか何かなのか、そこにアルバイトに来ているトキオ君を、僕たち夫婦には子供がいないから、と自宅に誘ったりもするんである。次第に、この若者二人と中年夫婦二人が、奇妙に交わっていく。
トキオ君は、未唯が語る、執拗にカメラを向けるウザイ近所の男の子、CAM君として語られ、だから最初は当然、同じ時間軸で彼らの関係があるのかと思った。CAM君と呼ばれる男の子は、猿を逃がした女子高生、その時の動画を、ワンフレームでいいから提供してほしい、と週刊誌記者から誘われた。映画監督を目指しているのならまたとないチャンスだなどと、言葉巧みに乗せられて。

めんどくさいからこのあたりでネタばらししちゃうけど、優子はルポライターでもなんでもない。彼女が取材していると思い込んでいる対象は、30年前の自分。誰かほかの取材を受けているに違いないという、その違う取材の映像データなんである。
この取材をもとに、母親と上手く行っていない不安定な女子高生、若者の代弁者、ニッパーを突き出す煽情的な写真には目に黒線を引かれて、まるで凶悪犯罪者のように煽り立てられたのだった。

猿を逃がしただけなのに。いや、だけ、というのは理解の仕方によってそらまぁ変わってくるだろうが、よりシリアスにとらえた方が、世間様から叩かれない、無難、祭り上げる対象がある方がこっちは隠れていられる、そういうことなのだろう。

その30年前の幼い出来心で起こした事件で住所まで特定され、精神を病んで、かつての自分を救い出そうとして、こんな状態になっている。CAM君として週刊誌に写真を売った男の子は、奏太の事務所でアルバイトをしているトキオ君にソックリである。
段々と、境界線がおかしくなってくる。トキオ君は映画監督を目指している。それはかつてのCAM……奏太と同じなのだ。CAM君は奏太だった。未唯は優子だった。

優子がこの事実に向き合えず、あの子を助けなきゃ、あの子を助けられるのは自分だけだと常軌を逸していく。一方で奏太もまた、そんな妻を隠し撮りし、こっそり編集をしているところをトキオ君に見られて狼狽する。このあたりになってくると、観客であるこちとらも相当混乱し、え、え??一体何が起こってるの?という状態……。
優子を演じる新恵みどり氏が、結構序盤の方から、聞き取りづらいというか、ウィスパーボイス気味で、取り乱してくると余計に何を言っているのか判らなくなって、余計に……でも、何を言っているか判っていようが判っていまいが、大した問題じゃなかったのだ。

優子は、かつての自分を救いたかった、いや、救えると思っていた。目の前にいると思っていた未唯という女子高生は、実際はモニターの向こうにきっと何十回も同じ応答を優子に対して繰り返していた。
そしてそれは、かつての自分がしていた応答であって、それを優子は、その応答こそがうっかり自分を追い詰めたと、そう思って、思い込んで30年が経って、あの頃の自分を救いたいと……いや違う。

そう、三重構造なんだもの。こんな狂った妻を、更に外側から撮影している夫、映画監督になりたかった夫。いつもケアしているんだから、これぐらいいいだろ、という展開になって、やっば、と思う。
パートナーをケアしているふりをして自身の創作活動のネタにしている彼。それを知って当然激怒する妻。……これは、ヤバい展開になったと思ったのだが。

そしてここで、ちょっと軌道修正。未唯として語られる、優子の30年前の女の子、CAMとして語られる奏太の30年前の男の子。インタビュー動画で未唯は、CAMを、執拗に撮り続けるのがイヤだと何度も言った、と不快感を示した。
未唯は女優になりたいんだと言った。でも、あんな才能のないヤツに最初に撮られるのはイヤだからと、言い放った。てことは、CAMが、単にカメラを回しているんじゃなく、彼もまたクリエイターとして独り立ちしたいと思っているのだということが、思えばここで既に示されているし、そのことを彼女が知っているってことは、話したこともない近所の男の子じゃない。見知っていて、仲良くて、関係性があったのに、知らない、と言い通したのは、彼のことをかばう気持ちがあったのか。

一方のCAMは、週刊誌に写真を売ってしまい、未唯が窮地に立たされたことを、……後の奏太が優子に対して贖罪の気持ちを、この30年間ずっとずっと、抱き続けてきたということなのか。
このあたりになってくると、時間軸、精神状態、今いる人物と過去の人物がごちゃごちゃになって、本当に訳が判らなくなる。なぜ猿を逃がしたのか……それは、拾った財布の持ち主のガールフレンドがくれた動物園のタダ券。この奇妙な出会いも、実際に描かれると更に奇妙。

大金が入っていると思ったぶ厚い財布の中には般若心経を印刷した紙。その持ち主である彼氏と連絡が取れないと現れた彼女さんは、彼氏さんがこの般若心経に心酔した、大いなる心理を若い二人に伝授する。
未唯は、彼氏さんが彼女さんの元に来るようにと、デートする筈だったこの当日、デートする筈だった動物園で事件を起こそうと、そう思って、最初はライオンを逃がそうと思ったところを、 CAM君に諭されて、猿を逃がすことにしたのだった。

そりゃだめよ、そりゃだめなんだけど、なんて可愛らしい話なのって、ことじゃん!そして、この場面、実際こうだったと示される場面は、更にきちんと構築されることとなる。
狂気の妻とその妻を映画のネタにしていた夫の筈だった二人が、ぱん!と切り替わり、二人して編集した動画を観ている。それまでの、緊迫していながらどこかスタイリッシュだった様子ではなく、手ぬぐいハチマキなんかして、泥臭くて、ここはこう、あれはこうした方が、だなんて、二人して定食屋でもやってるかのような丁々発止なんである。

正直、この場面に至って、本当にほっとした。30年の苦しみを見せられるのは、本当に苦しかったから。そういうこうことじゃないんだということは、判ってるんだけれど、本当にそうして苦しんでいる人がいるってことは、判ってるんだけれど。
でも、こうして、30年経って、二人が、まるで夫婦漫才みたいに、これを映画にする、今生きている、今の若者を依り代にして、というのが、その若い二人が楽しそうで、そしてちょっとわざとらしいキーマンのキャラクターも楽しくて、ここに着地した、着地してくれたのが、私はなんだか、救われた、嬉しかった。

今個人的に危惧しているのは、こうしたヒドい泥沼にはまりたくなくて、あらゆるニュースを遠ざけてしまって、なぁんにも考えなくなってしまっていること。私のような、そういう人もいるんじゃないだろうかと思う。
SNSはいい面もいっぱいあるけれど、議論の場としては成熟していない。どうしたらいいんだろう。もう登場してから、結構な時間が経っているのに。★★★☆☆


カラオケ行こ!
2024年 107分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:野木亜紀子
撮影:柳島克己 音楽:世武裕子
出演:綾野剛 齋藤潤 芳根京子 橋本じゅん やべきょうすけ 吉永秀平 チャンス大城 RED RICE 八木美樹 後聖人 井澤徹 岡部ひろき 米村亮太朗 坂井真紀 宮崎吐夢 ヒコロヒー 加藤雅也 北村一輝

2024/1/25/木 劇場(ユナイテッド・シネマ豊洲)
失礼ながら、タイトルと予告編を見てもそんなに面白そうと思わなくて(爆)危うくスルーしかけたのだが、危ない危ない。だって山下敦弘監督作品なんだから、そんな訳ない。
コミックス原作というのは存じ上げなかったのだけれど、確かに言われてみればこの荒唐無稽な設定はそれっぽい。ヤクザが男子中学生に歌唱指導を請うなんて。

ヤクザと言いつつ、彼らは確かにビジュアルはめちゃくちゃヤクザなんだけれど、いわゆるヤクザ稼業をしている様子は見えてこない。その根城はミナミギンザと呼ばれる打ち捨てられたような一角であるらしいのだが、彼らが集まっているシーンは合唱部部長の男子中学生、岡聡実が歌唱指導するカラオケルームと、組長の誕生会が開かれる寂れたスナックなのだから、もはや事務所すらない通いの組員たちなのではないかと疑うくらい。
物語の最後にはそのミナミギンザは取り壊され、聡実は狂児と一時連絡が取れなくなるというんだから、なんだか彼らがヤクザごっこでもしていたんじゃないかというようなファンタジーさなのだ。

でもそれは、すべていい意味で、である。リアルヤクザ稼業がこの物語の中に入ってきてしまったら、すべてがぶち壊しである。組長から破門されたシャブ中の男が物語のキーマンとなるが、つまりそれだけ、この組も組長も妙に健全なのだ。
ただ一つ健全じゃないのは、組長の性癖。ヘタクソ技術で人に刺青入れるのが大好き。カラオケ大会で一番ヘタだった組員に、手ずからヘタヘタ刺青を、しかもしんねりこってり入れられるという激痛つき。それを回避するために、成田狂児は岡聡実に声をかけたのだった。

狂児を演じるのは綾野剛氏。細身を黒のスリムなスーツにしなやかにすべらせ、ほれぼれとする男っぷりである。
雨の中、彼は中学生の合唱コンクールに紛れ込む。その天使の歌声に引き寄せられるようにして。後に彼は聡実に、この日は兄貴の命日だったと言い、その日の様子がドラマティックな回想で描かれるのだが、その雨の日、狂児が見送ったその兄貴は、たんぽぽ音楽教室に入っていったのだった。狂児が必死に止めても、振り切って。
つまり、兄貴はメンツを捨てた、殺した、ということなのだろうが、こんな具合にシリアスに思わせてズッコケさせるのが可愛らしく可笑しく、最後まで決して重たく終わらせないのが、すんごく、イイのだ。

中学生合唱の天使の声。中学生の合唱には一定のコアファンがいるというのを聞いたことがある。小学校でも高校でも大人の合唱でもなく、中学生。それはきっと、本作の中で描かれる、特に男子の、声変わりのはざまにある危うさも関係しているのだろう。
聡実は後輩男子から圧倒的尊敬を受けるソプラノの持ち主だけれど、人知れずその悩みを抱えている。いや、顧問の男性教師は気づいている。ピアノ演奏をしているノーテンキな女性教師は気づいてなかったけど。

どうやら常勝校だったらしいのが3位に甘んじて、全国大会への切符を獲得できなかったことに、生徒たちは落胆し、恐らく聡実はそれを……自分のせいだと思っていたのだろうことが、後々判ってくる。
無邪気な後輩男子は、先輩のソプラノは完璧でしたよ!と憤慨し、敗因を追究しようとしない先生や部員たちにくってかかるのだが、これは聡実にとってはあまりに辛い。後輩君にだっていつかは来る声変わりを、彼はちっとも気づいてない、尊敬する先輩にそんなことが訪れつつあることも。

苦しくて、部活動もままならない聡実が狂児から声をかけられ、彼の歌唱指導と共に、もう一つ入り浸っている場所が、これがたまらなくイイんだよね。
映画を見る部。見る映画はモノクロのクラシック名画。たった一人の部員(つまり部長)の男の子と聡実は、今とはまるで違う価値観にツッコミつつ暗い部室で並んで鑑賞している。

しかも、DVDですらない、VHSテープなのだ。激高した後輩君が乗り込んできて、動画なんて見てる場合じゃないでしょ、と言うと部長の彼は、動画じゃない、映画だから、と毅然として言った。なんか、胸が熱くなってしまった。
今は動画全盛の時代。映画だって動画だろ、という世間的感覚をひしひしと感じていたから。そりゃ、物理的にはそうなんだけど、違うよ!!と思っているのはもうロートルばかりかと思っていたから……。後輩君が巻き戻しボタンを押したら、あっ……と、二人は固まってしまう。巻き戻しが故障しているデッキ、後戻りはできない。なんだかやけに深い意味合いに思ってしまう。

この映画を見る部のシークエンスは好きすぎて、ここで延々喋ってしまいそうなので、ちょっと軌道修正。そうそう、狂児と聡実なのだった。
狂児、という名前がヤクザにも芸名的なものがあるのかと、ある程度彼と関係性を築いてから聡実は聞いてみた。運転免許証にもしっかり、狂児、とあった。
……リアルに、人名に使える漢字に入ってないんちゃうんかなぁとも思うが、このとち狂った名前になったエピソードが、母親がヒコロヒー氏、祖父が加藤雅也氏で回想され、ヒコロヒー氏の昭和の色っぽいお母ちゃんの感じが最高だし、ムチャクチャだけど、なんか納得しちゃうんである。

狂児はX JAPANの紅を歌いたがる。彼の音域ではハイトーンに無理があり、最初の披露のシーンから、観客の私たちも思わず失笑してしまうし、真顔で「気持ち悪いです」と聡実も言う。狂児の音域に合う曲をリストアップして、狂児もまた素直に練習するんだけれど、一曲ごとに、紅を挟んできて「紅だー!!!」と目をむいて絶叫するんだから、なんかもう、笑ってしまう。
和子が好きだったから……だなどと意味ありげにつぶやくもんだから、今はいない恋人かと思ったら母親の名前だと。死んじゃったのと言うとピンピンしてると。なんだかガッカリしたような顔をする聡実も可笑しいし、こんな具合にとにかく、つまらないシリアスを排除しまくるのが、なんともイイんである。

聡実側、合唱部の青春の葛藤。荒唐無稽な設定と最初言ってしまったけれど、合唱部の青春や、第二次性徴期の苦悩、声変わりという男の子側の視点が、合唱部のボーイソプラノにぶつけられる。それを大人の男性、しかもヤクザという野性味あふれまくる男性にぶつけてくる、というのは、これは、ひょっとしたら、これ以上ない素晴らしいアイディアかも!と思ってしまった。
ボーイソプラノが出なくなってしまった自分を、でもそれを、100%キラキラに尊敬している後輩男子に言うことができない。映画を見る部に逃げ込む。サンタクロースを題材にしたオールドムービーに冷静にツッコむ聡実に、部員の男の子が言った。「僕がサンタクロース信じてる人だったらどうするんだ」それは、本当に信じているのかどうか判断しかねるトーンで、聡実は動揺して謝ったのだった。
中学生でサンタクロースを信じてるか否かは、人によって意見が分かれるところだろうし、この子も信じている訳じゃなくって、映画を愛しているから、そんなこと言ってくれるな、と牽制したのだろう。

後輩君が巻き戻しちゃってぶっ壊したVHSデッキ、ミナミギンザの怪しげなリサイクルショップで格安のものを見つけた聡実に、シャブ中の男が絡んでくる。それが、狂児が言っていたシャブ中で破門されたヤツであり、クライマックスのキーマン、最重要人物となる。
先述したけど、この時にも狂児はこのシャブ男を、聡実をカツアゲしようとしたということもあるけれどボッコボコにしてるし、クライマックス、あわや狂児が死んだと思わせた事故の相手がこのシャブ男で、ここでもまた狂児はボッコボコにしてるんであって、……なんか徹底的過ぎてちょっとかわいそうな気がするぐらいなんだけれど、この物語世界の中ではヤクザはビジュアルだけのファンタジーで、メンドクサイ組長に翻弄されている真面目な組員たちのドタバタ、みたいなさ。

でも、聡実は、現実社会の中学生として、リアルに苦悩している訳だし、そのあたりは難しい対比なんだけれど、一見してダブル主演のように狂児と聡実は対等に見えるけれど、やっぱりやっぱり、リアル中学生、聡実こそがこの物語のメインオブメインだと思うんだよね。少なくとも、映画となった本作では。
ファンタジーと言ってしまったけれど、それは、リアル中学男子の聡実を一人の男として成長させるための、ヤクザ男子たちは白雪姫に仕える小人たちな存在よ。最後の最後に出てくる、話だけに出ていた困ったちゃん組長でさえ、狂児を心配して誕生会のスナックに乗り込んできた聡実を、狂児は死んだとウソをついて、彼を成長させるために、歌わせた。その時聡実が歌ったのが、狂児がこだわり続けていた紅、だったのだった。

そうか、そこに来るか!!狂児に対して、裏声が気持ち悪い、と言っていたあのハイトーン。実際のX JAPANのToshi氏は裏声をテクニカルに駆使している訳だが、素人にはそんなことできない。
聡実は、声変わりのはざまにいた。ちょっと前なら。ボーイソプラノが美しく発声出来ていた頃なら、躊躇なく、問題なく、余裕で紅を歌えただろう。それこそ、自信マンマン、狂児に対してお手本を示していただろう。
でも……ムリヤリ連れてこられたカラオケボックス、狂児に対してはもちろん、その後、同様に教示を賜りたいと押しかけてきた組員たちにも辛辣なアドバイスを授けた聡実だったけれど、いやむしろ、そんな悩みがなかったならば、歌が大好きな、歌うことが大好きな彼は、もっと楽しく、にこやかに、指導できたかもしれないのに。

ボーイソプラノを失ってしまう合唱部男子、これはまさしく、中学合唱でしかない。はかなく、切なく、でも、確かな成長である。聡実だってそんなことは判っているけれど、それをうまく後輩に説明できないし、心配している両親にも、上手く伝えられない。
両親を演じる坂井真紀氏、宮崎吐夢氏のとっても庶民的なあたたかさがめちゃめちゃ良くて、思春期の聡実が、うっかり親を傷つけちゃったことに気づいておどおどしちゃう、そんな優しさとか、グッときまくって、涙が出ちゃう。

声変わりが気かかっていて、先生たちは気を遣って後輩男子に補欠練習を用意し、でも後輩男子はそんな事情もくみ取れずぶんむくれ、そんな中、事件が起きる。
合唱祭会場に向かうバスの中で、いつも練習していたカラオケ店駐車場の事故を目撃する。狂児の車が追突されて激しく破壊、たんかで運ばれている血だらけの誰かは、毛布がかけられていて見えなかったけれど、狂児がペインティングしていた音叉が地面に残されていたのだった。

えー!!絶対死んでないよね、そりゃないよね!!と思いつつ、気が気じゃなかった。聡実が合唱祭を、歌えませんと頭を下げ、組長の誕生会が行われるスナックに駆けつける。組長から、あいつは死んだ的なことを告げられ、聡実は激高。組長は、静かにマイクを手渡した。歌えよ、と。

成人男子にはキビしい裏声、それを、聡実は、声変わり直前の彼は、決死の覚悟で歌ったのだった。声変わりしてなければ、きっと見事に歌い切ったんだろう。リアルに、リアルに、演じる齋藤潤君のリアルな苦しさが伝わる。中盤まではきれいなソプラノで、ファルセットなんて使わなくて良かった。でも段々苦しくなって、最後は喉が死にそうになっていた。
でもそれが、凄く良かったのだ。必死に、本当に必死に、歌った。この歌、冒頭の英語のリリックを、聡実は日本語訳ならぬ、大阪弁で訳して、凄く凄くそれが、グッとマッチしたのだった。こんな詩だったんだと。それは彼を、まだ恋も知らないような彼を,大人にさせたのだろう。

聡実役の齋藤潤君はじめ、中学生たちはオーディションで抜擢された無名な子らしくって、その無垢なぎこちなさがたまらなくリアリティがあった。それを役者さんたちがしっかりサポートして、こんな奇跡な化学反応が出来上がるのだ。まさに理想の映画製作。★★★★★


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