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「ひ」


2012年鑑賞作品

ピアノマニア/Pianomania
2009年 97分 オーストリア=ドイツ カラー
監督:ロベルト・シビス/リリアン・フランク 脚本:
撮影:ロベルト・シビス/ジャージー・パラツ 音楽:
出演:ピエール=ロラン・エマール/ラン・ラン/ティル・フェルナー/アルフレート・ブレンデル/ジュリアス・ドレイク/シュテファン・クニュップファー/イグデスマン&ジョー


2012/1/26/木 劇場(シネマート新宿)
小さな劇場は予想外?に満員で、カップルで来てた男の子が「まさに、マニアが集まってるんだな」などと言っていたけど、そんなこたーない。てことはあなたたちはクラシックファンなのかもしれんが、私はピアノはまあ好きでも、“まあ好き”って程度で、本作に出てくる名だたる(らしい。いや、知らんから(爆))ピアニストたちを一人も知らない。
あ、一人だけ知ってた。のだめちゃんのピアノを吹き替えたことで有名なラン・ラン。まさに彼を予告編で見かけたことも足を運んだ理由であるぐらいだもの。
でもラン・ランには驚いたなあ。まさにのだめちゃん吹き替えに指名されたの、本作を見て大納得しちゃった。ていうかさ、実際の作品ではその演奏の音はとても小さくしか聞こえてこなくて、破天荒なのだめの演奏としての魅力はちっとも伝えてなかったんだな。
なんてもったいない。それじゃ彼が指名されて演奏した意味がないじゃん。

などと、のだめちゃんのことは別にいいんだけど(爆)。でもね、ラン・ランは確かに、特に日本の観客にとっては客寄せパンダだったかもしれない。
だって彼の登場はほんのちょっと。あくまで主人公の調律師、シュテファン・クニュップファーの元を訪れるピアニストの一人。いやそれでも場をさらうけれどね。
アヴァンギャルドなスニーカーとジーンズ姿で、客入れのことも気づかないほどリハーサルに没頭しているラン・ラン。正装してステージに立って、嵐のように観客をなぎ倒してしまう演奏のラン・ラン。
彼は現代のピアニストとして、まさに代表として象徴として本作に現われ、風のように去っていく。

ある意味、気鋭のピアニスト、ラン・ランの存在は、もう一人の、シュテファンを苦しめまくるベテランピアニスト、ピエール=ロラン・エマールを対照的に際立たせるためにあったのかもしれない。
ラン・ランも確かにピアノの調子には当然、こだわるけれども、その表現する言葉にしても言ってしまえば大味で、彼の器量でピアノを打ち負かしてしまうようなところがある。誤解を恐れずに言えば、調律師としてはやりやすいタイプの弾き手ではなかろうかと思う。
しかしエマールは「素晴らしい。しかしひとつ質問がある」の口癖でシュテファンを震え上がらせる。
一音の響き、明るさ、きらめき、伸び、消え方、あらゆる言葉を駆使して、捕まえようのない音というものを自分の理想に近づけようとする。
いや、近づけようとするどころじゃない、そうならなければ、彼は弾かないのだ。

ピアノ。世界中の楽器の中でただひとつ(多分)、演奏者が持って歩けない楽器。演奏者自身が手入れも出来なければ、技術的なことも職人任せで、言葉というあいまいなもので仕上がりを指示しなければいけないやっかいなもの。
劇中には何百年も昔から今に伝わる鍵盤楽器、クラヴィコードなども登場し、それを愛でる弾き手は言う。コンサートグランドピアノは確かに魅力的だ。ホールに響かせる音は、クラヴィコードには出ないから。でもだからこそ、その大きさが、雑であることも否めない、と。
私はこの言葉に、驚いてしまった。ピアノほど繊細な楽器はないと思っていたから。鍵盤楽器というだけで、その88鍵が単音、和音で織り成す複雑さは繊細以外に表現のしようがないと思っていたから。
でも本作を見ると、確かに繊細でも、その繊細さは楽器の魅力としての繊細さよりも、弾き手や演奏場所や、時には録音環境を翻弄する繊細さ、まるでわがままで気まぐれな猫のような繊細さという魅力なのかもしれない、と思うんである。

で、なんか言い忘れてるけど(爆)とりあえず基本ラインとしては、主人公の調律師、かの名高いスタインウェイ社の技術主任であるシュテファン・クニュップファーの一年を追うのね。
彼の仕事ぶりのアウトラインを示すために、先述したように客寄せラン・ランが登場したり、音楽祭に出かけたりもするけれど、基本ラインは、エマールがバッハの未完の傑作「フーガの技法」を録音するためのピアノ選びから音作りまで奔走しまくる日々を追うんである。

そもそも、調律師にはメッチャ憧れがある。それこそそれを判りやすく示してくれたと思ったのは、中尾幸世が夢のようだった「四季・ユートピアノ」である。
トランクひとつに道具を詰め込んでピアノからピアノへ旅をする。音叉を響かせてじっと耳を傾ける。旅先で出会う孤独なピアノは言葉のない音だけで、彼女に語りかける……なんてさ。メッチャ憧れたもんだ。
実際、実家のピアノを調律してくれる調律師さんの作業は、まさに魔法のようで、いくら見てても見飽きることがなかった。見たことのない工具の数々、どこが変わったのか判らない微妙な作業、かつて弾き手だったことを隠しようのない、試し弾きのスケールの華麗さ。しまいには火であぶったりして調整するマジカル。

かつては弾き手であり、今は音のプロだから、ピアノを愛し、音楽を愛していても、ちょっと音が狂っているともう聴けなくなる哀しき“職業病”。
かつては弾き手であり、っていう部分に最も哀感を感じるが、私が勝手に憧れた、何より一人きりで闘わなければならないという点は、確かにひとつの真実ではあるだろうと思う。
でも調律師さんが向き合うのはピアノと共に、それ以上にその弾き手であり、時にはその弾き手と密接に関わるスタッフ(ここでは、絶対に名録音になると判っているから、気合の入っている音響技術スタッフたち)もまた巻き込まれていく。

チーム、なんだよね。それが一番、目からウロコだった。単純に、勝手に、御伽噺のように、ピアノに呼ばれて旅をする調律師、みたいなイメージがあったから。
エマールの録音が佳境に入って、コーヒーマシンや奥さんの作ったチーズケーキでスタッフたちと和気あいあいと盛り上がるシュテファンの姿に、ほんっと、目からウロコだったのだ。

むしろ孤独なのは、ピアノそのものであるのかもしれない。ナンバーで呼ばれる時点で、何がしかの寂寥感を感じる。
勿論、優秀なピアノは名ピアニストたちに愛され、売却されると知るとエマールが呆然と哀しんでいると、シュテファンがスタインウェイ社の幹部に訴える場面なぞもある。
でも売却される方が優先されることや、シュテファンにしても、エマールが満足するピアノが失われることの方が苦悩であること、“優秀なピアノ”以外の、ピアノは、ナンバーで呼ばれる以外のこともないまま流されていくことを、こんなにハッキリと目にしてしまうと、なんかホントに……。
だってさ、それって、人間に置き換えて考えたら、凄い凄い、キツいじゃん。

それにしてもね、ピアノは本当に美しいよね。そのままでも美しいけど、解体されて、一つ一つのパーツがあらわにされて、時には音響反射板なんていう人工的なものが取り付けられると途端に違和感を感じるほどに、それ自体で完璧な姿。
ピアノに限らず楽器は皆そうなのかもしれないけど、先述したように、唯一持ち歩けない楽器、そういう意味で女王様のように誇り高く、一方で孤独を強いられる楽器であるピアノは……人間が作った筈なのに、神様が創ったと思ってしまうような崇高さがある。
でも、それこそ先述のように、番号だけでスルーされる数々のピアノがあるのだけれど……。

シュテファンがほどこす調律を、これはドキュメンタリーといえども後撮りが相当あっただろ、と思わせる、ありえないアングルからのショットの数々。
弦の間にフェルトを差し入れたり、ずらりと並んだハンマーを映し出す角度も、マイクロレベルでさ、彼のほどこす作業に従って、後撮りが絶対、相当あった筈、だよ。
でもね、そういう丁寧な後作業が、見事に臨場感を生み出すのよ。本式のドキュメンタリー(という言い方もおかしいかもしれないけど)ならば、つまり、その時起こっていることだけを追いかけているならば、本作のチャームは出なかっただろうと思う。
だってピアノはそれだけのことを要求する、高貴な猫のように誇り高くワガママな(のは、弾き手かもしれないが)存在なんだもの。

そういう意味では、このデジタルの時代が何より後押ししたと思う。最初から、クリアな映像の美しさに圧倒された。
神様が創りたもうたような、美しい存在のピアノ、しかも調律という繊細な、神業。
デジタルというのはね、こと映画の世界においては、娯楽性以外ではあまりいい言われようをしないけど(ていうか、それですら、揶揄されるような感覚がいまだにあるし)、本作を見て、本当に感動した。
ピアノはこれぞという、つややかな黒。真珠のように輝く鍵盤、優しい玉子型のハンマーは、そのフェルトの質感が触れるように感じられるし、そう、シュテファンが形状の違うハンマーの調達に苦労するシークエンスが映画的に最もドキドキさせるから、その感触を、魅力を、観客に感じさせるのはとても大事なことなんだもの。

ハンマーが弦を叩くことによって音が出るピアノというのは、本当に魔法のようだ。弾き手が望む音を作り出すために、時には弦に届かないぐらい、ハンマーが空振りするぐらいの調節をするというシュテファンの技術の凄まじさ。
“空振り”という部分がその場にいたレコーディングスタッフを爆笑させるけれど、それはエマールの指の力ならギリギリ届くところであり、つまり、本当に、彼のためだけの、もっと言ってしまえば、この曲を、この場所で、この時間に弾く、この彼のためだけの調律だということなのだ。

一時間、いやほんの数十分、いや数分経っただけで、エマールから「ひとつ質問がある」と言われてしまう。
録音の最中、「シュテファンが戻ってきたら、すぐに行かせよう」とスタッフからジョークが出るほど、シュテファン自身も「今日は運動量が多くなりそうだ」という言葉どおり、控え室とホールの間の階段を何度も何度も行き来する。

そりゃあね、そりゃあ、劇中でもちらりと言われていることだけれど、楽器にこだわらない演奏者だっているだろう。
これはクラシックに特化した作品ということもあるけれど、例えばジャズの弾き手なら、そんなにこだわらないような気がする……なんて思うのは、それこそ偏見だろうか?
調律師にとっては幸せなこと、ピアノ自身にとっては幸せなこと、演奏者にとって、そして観客にとって……。

だって、シュテファンも言ってたけど、普通の人なら、つまり観客なら気づかない音の違いなんだもの。もちろんどこに境界線を引くかというのは、誰かが決めなきゃいけない、それを演奏者が決めるのが最も理想的なことには違いないんだけど……。
究極の音作りに唸り、予想通りのエマールの「質問がある」に、シュテファンの苦労を思いつつ思わず噴き出しちゃったりもするんだけど、なんか……音楽って、なんだろう、って、思ったりする。
神様が創りたもうたなんて言っちゃったけど、やっぱり人間が作ったもので、そして完璧な音階や完璧な音の響きっていうのは、人間の、しかもプロフェッショナルな人間の頭の中にしかなくて……。
それこそデジタルよ。デジタルピアノなんてものが現代はあって、少なくとも狂いのない音階だけは再現?出来る筈なのに。

本作が、デジタルの美しさによってピアノのそれが表現されていることを思うと、どこに境界線を引いて、どこに理想を求めるのか、それこそ判らなくなってくる。
だってさ、録音技術なんてそれこそデジタルな筈じゃない。それをエマールは聴いて、テイクの良し悪しを決めてるしさ。
私ね、本当に感動したんだよ。黒塗りのピアノがつやめく、弦がきらめく、ハンマーのフェルトが優しい感触を伝える、いわば理数的な美しさに。

そんな優しいフェルトのハンマーも、ずらりと並んでシュテファンがザッとならすと、ひとつの狂いもなく、均等に立ち上がっては、収まっていく。
音のあいまいな部分をピアニストは求めるけれど、実際は、ピアノの美しさは、計算されつくした理数的な美しさにあると思う。
優美な曲線、重々しさ、ひとつひとつ少しずつ長さや大きさの違う弦やハンマーの完璧さ。そしてそれを、ピアニストの芸術的な要求を理数的に換算してマイクロ単位で調整する調律師のプロフェッショナル。

しかもそのクリアな映像の美しさは、ピアノを、クラシック音楽をじっくりと伝え続けてきたこの古都の美しさも存分に映し出してさ。むしろその方が意外だったかもしれない。
ベートーベン、モーツァルト、シューベルト……数々の名音楽家の名前がついたホールがさらりと存在し、その時代を伝える優美な彫刻が街を彩る。
夜景は大都市という下品なそれではなく、まさに宝石のように漆黒の中に明りがきらめく、それはね、まさに、まさに、ピアノそのもののきらめきだったのだ。

音楽というものが生まれ、それを奏でるための楽器が生まれ、演奏する人、聴く人、調整する人が生まれ……そうすると、こんな、その関係性だけで芸術のような、不思議な出来事が生まれるのかと、呆然と、思う。
シュテファンがね、日本人の技術者が見学に来た時のことを口にした時、ちょっとヒヤッとした、のは、こうした芸術としてのピアノではなく、どちらかといえば工業製品、繊細さというよりは狂いのない均一性を武器にして、プロよりは一般の人たちに届く道具としてのピアノブランドを日本人が世界に流布させたから。
本作はなんたってスタインウェイで、音楽の都、ウィーンなんだもの。ヤ○ハやカ×イなんて恐れ多くて口に出せないよ。
でも音楽は、演奏するにしても聴くにしても、全ての人に届くものであってほしいと思うと、なかなかに複雑な気持ちになったりも、するかもしれない。

という、うがった気持ちを晴れさせてくれるのは、こんな繊細でプロフェッショナルな仕事をしているシュテファンが、対照的、というにもあまりにぶっ飛びすぎている、コミックショーピアノにも関わっている、ていうかメッチャハマっていることなんである。
全然前提もなしに、エマールのピアノに苦悩している途中で、突然アイディアが浮かんだ!とか言って、ピアノの蓋の支えにバイオリンを使うとか言い出して、???と思っていたら、なんか、キエー!と日本刀?を振り回すアジア人?や、ヤバイ、やっぱり日本人バカにされてるのかと思ったら、とんでもない。
シュテファン、ピアノを使ったコミックショーに関わってて、しかも、夢中なの!もうラストにはさ、ピアノの足までバイオリンにすげかえて、ほーら大丈夫、なんて、悪ノリしすぎ!!!
「壊れてもいい楽器はあるか、なんてヘンだよね」って、判ってんだろーが!エマールのためにピアノ一台、鍵盤一音に苦悩していたのに、信じられない!!

キエー!と吠えてた、やたらハイテンションに高音でケケケと笑うリチャード・ヒョンギ・ジョー、って、韓国の人なの!日本以上に保守的なイメージなのに、なんか負けた!って感じ!クヤしい!!
それを言ったら中国人のラン・ランだってそうだよなー。この中で日本人は出てこない。見学に来た技術者が、こんな大きなホコリがあったとそーっと言って、シュテファンが元に戻しておいてくださいとジョークで言ったら目を見開いて驚いてたというエピソードだけ。
なんか……日本人だけ音楽にも芸術にもユーモアにもおいてけぼりな気がして、メッチャ悔しい!★★★★☆


ひとつの歌
2011年 100分 日本 カラー
監督:杉田協士 脚本:杉田協士
撮影:飯岡幸子 音楽:柳下美恵
出演:金子岳憲 石坂友里 枡野浩一 天光眞弓 塩見三省

2012/10/23/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
結構タイトル買いだけで足を運んだりするので、本作も心構えも何もなく観てしまうところだった……方がひょっとしたら良かったのかどうかは、判らない。
こういう単館期間限定公開は最近見逃しも多いので、最近は努めてチラシをもらってくるんだけど、それでちらと試写を見てる人のコメント読んでしまって、しまった、と思った。

……これはどうやら相当判りづらいタイプの映画らしい。相当アンテナ張ってても、ヤバいかもしれない。いや、もう、それならきっと私は判らないから、気づかないから、判らないこと前提で身構えずに観ようと、結構観る前色々逡巡した上でそう決意して観た。
そう決意してても後からイントロダクションなんぞを読むと、やはりうろたえてしまう。ええっ人身事故が起きていたとか、その被害者の写真を偶然撮ってたとか、その娘の存在を知って守りたいと思ったとか、そんなこと全然、判らなかったんですけどーっ、という心の叫び。

ていうか、“人身事故”に気づけないと、その後の流れは当然つかめない。ささやかな音などに気づけないと、写真好きの青年と写真館の娘の淡い恋物語だとだけ思ってしまう、という解説もあったが、実際私はそうとしか受け取れないまま観終ってしまったので、まさに言い当てられて、それは予想していたことだったのにかなりボーゼンとしてしまった。
いや、そりゃあ、物語の最後に彼が差し出すポラロイド、君のお母さんを偶然映していたんだ、というシーンに至って、彼が彼女のお母さんの遺影にふいをつかれたように慟哭した意味にも気づくのだが、だからといってそのシーンで全てが明らかになった訳でもないので、あとから筋を知って本当に、動揺してしまったのだった。

筋、なんて言うのはそりゃあ好きじゃない。読書感想文にあらすじ書いときゃそれでOKなんていう小学生じゃないんだから、あるいは、小説の方が映画より優れているとかいうかみ合わない議論のレベルで言っているんじゃないんだから。映画は映画であり、人がいて、いや、いない場合もあるか、とにかく、その流れる映像からダイレクトに感じるものなのだから。

でも、でも……何か、ね。すんごい、試されているというか、観客をふるいにかけているというか、まんまと私はふるい落とされてしまった訳だけれども。
ささやかに、というかこっそりと示されるポイントに気づかなければ、この映画を理解出来ないんだよ、ぼんやり見てちゃダメだよと言われてるみたいで……いや確かにそれはとても重要なことなんだけど、なんか難関テストみたいでさ、映画というひとつの流れのダイナミズムではない気がしてさ……。

まあ、それは多分に言い訳たっぷり入ってるんだけど(爆)。あれ?でも、イントロダクションによれば、この青年、剛(という名前自体、劇中で言っていただろうか……)は亡くなった女性の娘、桐子の存在を知って彼女に、まあいわば近づいたのに、遺影の写真を見てまるで初めて気づいたように慟哭し、彼女にもそう説明していたのは、おかしくない?
……彼女にはそう言い訳しただけなのかもしれないけど、でも遺影を見ての慟哭は、まさにそこで初めて気づいたように見えたけどなあ……。

いろんなことに気づけてないのに、そんなつまらないところにこだわっても仕方ないんだけど(爆)。まあ、だからまあ、私的には、あまり好きではないタイプの映画、かなあ。
見た目的にはやたら上手い。こういうのを、才能のある画作りというんだろうと思う。そもそもチラシの雰囲気が凄く素敵なので、惹かれたんであった。
女の子が可愛いというのもあったけど(爆。でもこれ重要。)画作りはやたら上手い。それこそ、“写真好きの青年と写真館の女の子の恋物語”としての画、スクーターに二人乗りしている画一発で、心ときめくものがあった。
でもそのデートはやたらワンシーンの尺を引っ張り、その中での彼の回想だか妄想チックな展開もあって、色々気づけないこっちとしては冷や汗もんなんだけどね……。いや、それも、展開、構成の前後も、判ってなくて見ているから、記憶に自信ない、アヤフヤかもしれない(爆)。

最も判らなかったのは、もうひとつのシークエンス、ピンクのTシャツの男とその家族との関わりである。
なんかね、妙にしんねりと描くから、なんかミステリチックに映るんだけど、結局なんだったんだろうと思ったら、これもまた死ぬ前のこの男性の姿を収めているという、同じ展開、なんだ、よね?あれ、違う?……本当にヒントが少ないから……。
メインストリームの桐子とその母親のエピソードがあるから、一体なんで彼はそうも死ぬ前の人の写真を撮っちゃうのか(爆)、それってアヤしいっつーか、危険人物ちゃうのと(爆爆)。

このピンクTシャツ男、いい年なのに昼間からこんなラフな格好でフラフラしている時点でなんか事情がありそうな感じだし、しかも剛とはかなりニアミスな接近の仕方してるから、知り合いなのかと思わせる雰囲気もあって、でもなんかつかず離れずで……なんかもう、ワケ判らん!!
……そりゃね、そりゃそりゃ、説明過多で観客をバカにしているような親切映画は私だってイヤさ。でも基本、私はバカだし(爆)、私以外の観客も頭いい人ばかりじゃないと思うし(爆爆)。
何より映画は総合芸術だし……こんな、なんか、判る人だけに判る、みたいな手法取られると、どうしていいか判らなくて凄く、困る!

……うー、完全にヒガミだな。いやね、別に、単純に、ボーイミーツガールのお話と思って観たって素敵だとは思うのよ。映画は観客が受け止めて完成するものだという定義、それはどんな芸術にも当てはまることだと思うけど、やっぱり若い芸術である映画は、まだまだその定義も作り手によって左右されてしまうからさ……。
あのね、このピンクTシャツの男が、まるでキーマンのように思わせぶりだから、このささやかで慎ましく美しい物語の魅力が、そこでちょっと、損なわれているような気も、しないでもなかった。というのは、勿論、何も気づけなかった言い訳なんだけど(爆)。

でもね、物語の冒頭、ポラロイドカメラをかまえた剛が駅のホームで近づく中年女性、楽譜のような大きな冊子を手に小さく歌っている女性、この画一発で、彼女がこの物語のキーマンであると、思ったけれど、その時には思ったんだけれど、あまりにナチュラルで、そのまますうっと通り過ぎるもんだからさ。
そしてその後、彼の周りに出てくる、エキストラなのか脇役なのかあるいはゲリラ撮影に映り込んでしまった通行人なのかもとさえ思うような、定義しきれないナチュラルピープルがわんさか登場するからさ、その最初の思いが揺らいでしまう訳。
忘れた訳じゃないんだけれど、忘れた感じになってしまって、で、あの思わせぶりマンマンなピンクTの男でしょ、……なんがイジワルなテストされてる気がしちゃう。

いや……マジにヒガミだ、これは(爆)。でもね、このピンクT男性の存在はなんだったんだろうという気は正直、しちゃう。彼が交通事故か何かなのか、死んでしまったことを示唆するのは、思わせぶりに通りに出てくる喪服の二人の姿、そしてそれをバイクにまたがったまま凝視する剛の姿だけ。
それこそ凡百の映画やドラマなら、黒白の幕とか忌中の札とか見せちゃうところだろうが、でも喪服の人間二人出てきただけでは、私には判らない(泣)。それに死んだ人間の生前の写真を二人も撮っているというのも、やっぱりなんだか気味悪い気がするし……。

なんかムダに掘り下げると、映画そのものを語るにはホントムダな作業でしかない気がしてくるんだけど……(爆)。
そうなの、私は、これを、本当に単純に、ボーイミーツガールの物語で見られれば、美しいと思った。そうとしか見られなかったからというヒガミではあるけど(爆)。
それだけに、前半の、後から思えばヒントが散りばめまくられた展開が辛かったのだ。意図的に、恐らく明らかに意図的に台詞がなかった。ゼロだった。言ってきたように、映像での“説明”ですら微かなのに、台詞の“説明”もないと、もう壊滅的だった。

判ってる、判ってるよ、台詞を“説明”として用いることがどんなにヤボだってことぐらい。私だってそんなん、キライだ。
でも、人は、人間は、言葉によって生きているものだし、ちっちゃくて弱い人間が、大きくて強い生命力を持つほかの生物たちと唯一違う“武器”は、たった一つ、言葉だけ、なんだもの。
それがウソやいつわりや、それさえもない空虚な飾りばかりをまとっていることぐらい、判ってる。でも、それを放棄してしまったら、もう人間は、最弱になってしまうじゃない……。

この物語の重要なアイテムはポラロイド写真だし、まさにそれで思いをつないでいる訳なんだけど、それも、それさえも、見せないじゃない。もうそうなるとさ……。
昨今の若い才能は本当に素晴らしくて、最後にバッと驚かせたり、じらす構成とか、その緻密さとか、本当に上手いと思うけど、いや、本作にはあざとさまでは感じないけど、才気こそを感じるけど……。

正直ね、前半のムッツリダンマリから、台詞が発せられた時に、本当にホッとしてしまったのだ。それは本当に、なんてことない台詞だった。まさに、ザ・社交辞令な世間話さ。
剛は植木職人で、お得意さんの主婦と、まさにありがちな会話をするわけ。暑いのに申し訳ないわねえ、いえ平気です。甘いものどうぞ。ありがとうございます。主人が死んでからほったらかしで草ボーボーで。キレイにしちゃいますか。そうお?悪いわね。……みたいな。

でもそれでも、ものすごくホッとしたのだ。人間に戻ってきた気がした。それはちゃんと、意図的だったのだろうか。どうなのだろうか。
まあその場面では、剛も先輩の職人もお客の主婦もおざなりな会話だけだったし、いわゆる日本人の社交辞令ではあった。
でも、そこで彼らが礼儀として手を合わせたご主人の仏壇、部屋に掲げられた遺影。古い日本家屋によくある風情。
そしてこの場所は後に、剛が桐子を、なんか判らん初老の男性のバースデーパーティーに連れて行く家……ではなかった……か……もう、レイトで目がしょぼしょぼで記憶があいまいで(サイテーだな……)。
そう、バースデーパーティー。ご丁寧にもバンド演奏まで披露され、大事な人のパーティーのように映るけど、見てる限りではよく判んない(爆)。

これを、ボーイミーツガールの恋物語だと、単純に思っては、いけないのだろうか。写真というアイテムの中でも、ポラロイドという、一瞬、たった一枚という刹那のイメージは、この中で、それこそ思わせぶりに示される人間の一生の切なさを思わせもするけれど、でもそんな“思わせぶり”が微か過ぎて、気づけなかったドンカンのバカだからさ、私は(爆)。

ああ、でも、そうか、そうだよね、ポラロイドなんだよね……。凄く、意味があるアイテムだと思うんだけど、でも彼がポラロイドに寄せる思いも、あるいは彼女が「これ大好き。ちょっと見せてもらっていいですか」というほどの思いも、それこそストイックなまま、判らないまま、だったからさあ……。
そりゃ、台詞、言葉というのは、ヤボよ。時に、ヤボよ。説明は時にヤボだと思う。でも彼がなぜポラロイドで写真を撮り続けているのか、彼女がなぜ、ポラロイドが好きなのか、運命のトコなのに、まるで判らないのは、二人の結びつきが運命という名のご都合主義に見えても仕方ない気がしてしまう。

説明してもそうかもしれないけど、でも……そのために言葉があるんじゃないの、そのために脚本があるんじゃないの。
それ以上の火サスかミステリのようなバックグラウンドまで行っちゃったらそれこそヤボだけど、そのバランスをつかさどることこそが、映画、なんじゃないのかなあ。

桐子が、死ぬ直前のお母さんのポラを見てこらえきれずに慟哭した場面、それに呼応した彼の、声にも言葉にも出来ないたたずまい、そこまで計算だったんだろうとは思うけれど、でもここだけ、計算外に感じて、心打たれた。
正直、この時に、えーっ?そーゆーことーっ!?とも思ったけど……でもこの場面だけでいいや、全ていいやとも、思った。
“ひとつの歌”はしょうがないけど作られた感があったから、昔からある口慣れた感を出すのは難しかったから。それを口ずさむお母さんの画は、その回想が、ちょっぴりツラかったこともあるんだけれども……。★★☆☆☆


ピナ・バウシュ 夢の教室/Tanztraume ‐ Jugendliche tanzen Kontakthof von Pina Bausch
2010年 89分 ドイツ カラー
監督:アン・リンセル 脚本:アン・リンセル
撮影:ライナー・ホフマン 音楽:ウーヴェ・ドレッシュ/トーマス・ケラー/トビアス・リンセル/ポール・オベルレ/ティム・ドーンケ
出演:ピナ・バウシュ/ベネディクト・ビリエ/ジョセフィーヌ・アン・エンディコット

2012/3/20/火 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
ピナ・バウシュという名前を初めて聞いたのはいつだったろうか。ヴッパタール舞踏団も含めて、前衛舞踏、イコール難解なイメージを知らず知らず持ってた。
ていうか、私が名前を、その存在を知った頃には彼女はもう相応に年をとっていたし、ダンサーというとみずみずしく若い肉体、みたいな固定観念があったから(今思うと、なんて狭い価値観かと思うんだけど)、余計に??という感じでもあった。
ていうかていうか、つまり私は彼女のダンスを見たことがなかったから。つまりつまり、本作に出てくるティーンエイジャーたちとさして変わらないほどの認識のなさ。

本作は、指導者としても大きな功績を残していたピナが、ガンに倒れて68歳の若さで亡くなってしまったことで、図らずも大きな価値を持つ作品になってしまった、のだろうか。
そうか、68歳。それこそ私のような先入観があったれば、ダンサーとしては68歳は……などとツマラナイことを思っていたであろうが……。

いや、実際、ピナがどこまで現役で踊っていたかは判らないけど、でも少なくとも、アルモドバルの「トーク・トゥ・ハー」の冒頭のダンスは彼女自身が踊っていたというんだから(そうだっけ)、やはり、生涯現役であったのだろう。
とにかく、やはり、天寿を全うしたなどという年ではなかった。若かった。彼女の、恐らく古い伝統を突き崩した(なんたってドイツなんて、相当カタそうだしさ)新しく、先鋭的で、魅力的な感覚の功績を思えば、まさに駆け抜けたと言っていいのかもしれない。彼女をロクに知らない私でさえ、そう思う。

とはいえ、本作にはピナはほんのちょっぴりしか、出てこないのね。一応ウリとしては、ピナの指導者としての側面、それも若い人たちを指導する貴重な映像、それこそ、決して見ることの出来ない創作の舞台裏を、ピナの親友的立場のリンセル監督だからこそ入り込めたという、奇跡の10ヶ月。まさかピナがこんなに早く亡くなるとも思ってなかっただろうから、図らずも奇跡的な作品と言えるのだろう。
いや、でも、もしかしたら……もっと若い頃のピナ・バウシュがどんな風貌だったか知らないから、本作の中のピナは、凄く痩せてて、目も落ち窪んで見えたのね。それはダンサーとしての研ぎ澄まされた姿なのかと思っていたけれど、ひょっとしたら……違ったのかもしれない。

で、そう、ピナはちょっとしか出てこないんだよな。だから、ピナの若者への指導を映し出したフィルムとして確かに貴重なんだろうけれど、正直言ってその要素はちょっとピンとこない。いや、その貴重さを思えば、凄く凄いことなのかもしれないけど、なんせ私はホント、その凄さが判んないヤツだから。
ピナが出てくるのは中盤も大分過ぎてから。いや、そりゃまあ若者たちは、ピナに会えることで大興奮、その経験がかけがえのないものだと口々に言うけれど、でもそもそもピナの存在自体を知らなかったような子達だからさ。
その感覚って、恐らく、ここまでレッスンしてきた中で、ピナの肝煎り、ヴッパタール舞踊団で活躍したダンサー、ジョーとベネディクトが彼らに植え付けてきたことじゃないかなあと思うのよ。

確かに、ピナのカリスマ性は凄い。でも彼女自身はとてもさらりとしていて、そんなカリスマ性をことさらに押し付ける感じはない。ピナ・バウシュという存在を知らなければ、よく判らないなァと思うかもしれない。
そこが面白いところでもあり、この作品を受け止める柔軟性でもあると思うんだけど、まあそのう……私はピナのこと、ことほど左様によく判ってなかったからさ、
中盤までずっとジョーとベネディクトが子供たちを指導しているでしょ、どっちがピナかなあ、なんか私がうろ覚えに知ってるピナとどっちも似てないなあとか思ってたの。サイアク(爆)。

まあ、でも、ね。結局本作の主役は、私と同等にピナのことも知らなければ、ダンス経験もなく、実に普通に青春の悶々を抱えてここに集まってきたティーンエイジャーたち、なのよね。
もうね、この若い子たちを見てるだけでね、もう、もう、若いってだけで、なんて素晴らしいんだろうと思うの!こんなこと言っちゃうと、語弊があるかもしれない。若い子達に、ケッと思われるかもしれない。でもホントにそうなんだもん。仕方ないんだもん。

だから、私が若い頃、例えば彼らと同じ頃に本作を観たなら、全く違った感覚を持ったに違いない。彼らと同じ、若い苦悩でシンクロして、もっと深く理解できて、その方が良かった気がする。
だって、もう、ただただ、可愛いばかりなんだもん。私だって、若い頃には、彼らと同じ頃には、彼らのように、初々しい含羞と深い苦悩と無邪気さと、とにかくこんな、ただただ抱きしめたくなるようなチャーミングを持っていた筈……多分……なのに。

いや、ここは言い切りたい!だって、彼らは本当に普通の若者たちなの。これもまた語弊があるな(爆)。つまりね、体型も肌の色も器量も、勿論性格やセンスや、最終的に見出されるダンスのセンスだって千差万別なの。
この場合、私的に大いに強調したいのはヤハリ、体型と器量だろうか(爆)。でもそれは本当に大いに、なの。まあ言っちゃえばさ、デブでも(爆)ブスでも(爆爆)、その彼女自身100パーセントとして、本当に可愛いの。その肉体が隅々までリアルに彼女自身なの。
舞台に上がり、カラフルでセクシーなドレスを身にまとい、つややかにメイクをするとこれがまた、みずみずしいセクシーになるの!

なんかうっかり女の子のことだけ言っちゃったけど(爆)、男の子がまた、可愛くて可愛くて(爆縛)。
やっぱりね、女の子の方が、大人よ。ていうか、基本純粋さは同じなんだけど、女の子はやっぱり生まれながらの女優、メイクをしてセクシーなドレスを着ると、急にレディーになる。
まさに第二次性長期、おっぱいとヒップが出てくる、脂肪もつきやすくなる。お尻が目立つことを気にしている彼女たちが、舞台ではメチャクチャコケティッシュにヒップを振る!真っ赤な口紅が、最初はしっくり来ない気がしたのに、その柔らかな白い肌によく映えて、もう、女!なの!

で、男の子のことを言おうと思ったのに、また女の子に脱線してしまった(爆)。もうー、男の子、男の子よ!
40人からの人数がいるからね、やっぱりメインは何となく絞られてくる。キャストにしても、プライベートなことを聞き出すことにしてもね。
ピナの代表的なプログラムであるという「コンタクトホーフ」を上演するまでの過程であり、その稽古を追っていくんだけど、このプログラムってのが、実にじっつに瑞々しく、若さと恋の季節に満ち満ちていて、もう見ててほっぺたが赤くなっちゃうの!
というのは、最終的に完成形が舞台で示されて、ああこういうプログラムなんだ、と思う訳なんだけど……でもそれだって、尺の中では断片的に示されるだけだし、なんたって前衛的だから、やっぱり私は全然理解してないかもしれないんだけど(爆)、でも少なくとも、稽古場面では正直、何が何やら判らんのよね。

何が何やら判らんかったけど、その中でも稽古場面からメッチャ魅力的だったのが、恋する男の子と女の子が、部屋の、かなり広い部屋の(だって、舞台いっぱいだもの)右と左の隅で、椅子に座って、お互いを見つめあいながら、華やいだ音楽が流れる中、片時も視線を外さずに、笑顔で、恥じらいながら、服を脱いでいくプログラム。
もう、もう、もうー!!その恋する気持ちがめちゃくちゃ、初々しくて、でもホラ、ティーンエイジャーのセックスに対するめちゃめちゃまっすぐな本能がなんともまぶしくて。
それをこの、ちょっと押したら水が出そうなほどに?みずみずしいワカモンがやっちゃう訳でしょ!!ああもう、見てるだけで涙が出そうさ!!

だってだって、確かに女の子も可愛かったさ、恥じらいも稽古中からあったさ。でもやっぱり、度胸がつくのは男の子より早かったよね。
男の子がね、男の子が……そのヤワな肉体といい、出来上がってない柔らかな顔立ちといい、もう、タマランのさー!!
男の子はね、やっぱり、女の子より、成長が遅いじゃん。ほんと、これだけ数が集まると、それをすんごく感じた。身体的にはガッチリ成長してる子もいるんだけど、でもやっぱり、違うの。
特に、衣装をつけると違う。先述のようにセクシーなドレスを身にまとうと、メイクのせいもあるだろうけど、女の子はいきなり女になる。
でも男の子たちはね、スーツを着てるのよ、でもね、そのスーツに着られてる感じがもう、もう、もうー、メチャクチャ可愛いのっ!!

特にこの脱ぎあうプログラムの男の子は、ひょろりと華奢でさ、長い前髪にコダワリがある感じがまた可愛くて、スーツも、サイズが合ってるはずなのに、肩が落ちてるほどに華奢でしっくり来ない感じがたまらなく可愛いのよねー!!
とにかく脱ぐことにハズカシさを感じている彼、脱ぐこと自体よりもそれが意味することを理解する恥ずかしさ、なんだろうなあ。
それも充分萌えるが、最終的に舞台上できっちり、女の子を見つめながら、愛しさを表現する恥じらいの笑顔で、ブリーフいっちょにまでなる、その少年の肢体にマジ鼻血出そうっす!!

……いかんいかん、取り乱してしまった。本作的に重要なキャストは他にいるってのに。
二日間の両方のキャストに抜擢される女の子は、ピナが登場する前の、指導者二人にしっかり見出されて気に入られている。
彼女のバックグラウンドもまた、父親が突然ガス爆発で死んでしまった、それまで家族は普通に完全なものだと思っていた、と語る彼女に、メインキャスト、ヒロインにふさわしいドラマティックを感じる。
ただ彼女は私好みじゃないもんで(爆)。ちょっとやせぎすでさ、言ってみればピナに似た体型かもしれない。彼女とオープニングアクトで春の妖精のようにピンクのヒラヒラで舞い踊る女の子のムチ加減の方が好きだったなあ。

その子だったかな?違ったか……沢山の男の子たちに、いや、最初は一人二人の男の子に優しく慰められている風だったのが、三人、四人、五人……どんどん増えてきて、だんだんムチャクチャになってきて、別に具体的に何をされる訳じゃないんだけど、なでられ、触られ、抱きつかれ、髪を引っ張られ、倒され、お尻をひっぱたかれ……とエスカレートする。
エスカレートしても、“何をされる”訳ではないんだけど、ロリエロなカッコの女の子を、着慣れないスーツ姿のヤワい男の子たちがよってたかってちょしまくるエスカレートが、なんか、なんか、若くてみずみずしくてムダに?体力あって可愛くて、とにかく色々なだけに、なんかすんごいスリリングでドッキドキでや、ヤッバイ!
そもそもこのプログラムがプロの舞踏団によって踊られていた筈であり、その感覚とは絶対違うと思うんだけど、もう、もう、これはヤバイっす。10代のリアルな男の子女の子の肉体でやられたら、ヤバイっす!!

……なんか、私、激しく間違ってる?いやそんなこと、ないよね?だってさ、指導するジョー&ベネディクト、そしてちょっとしか登場しないにしてもピナ・バウシュも、彼らを本当にいとおしげな顔で見つめているんだもの。
そもそもこのプログラムを若者たちにやらせようというのは、ピナの企画。ピナの名を知らしめた、代表的な名舞台であるという。
まだ自我さえも固まらない、無限大の未来のある若い人たちがやってこその作品であると、彼女は思って企画したと思う。そうに違いない!だって、だって、すんごく、男の子、女の子、ステキなんだもん!!

女の子はね、先述したメインの女の子が象徴的だけど、やはり、舞台にメインキャストとして抜擢されることに重きをおくのね。
二日とも出られるとは思わなかった。(二日目をやると思ってた)彼女には気まずいけど……と言いつつ嬉しそう、一日しか出られないことになったそのもう片方の女の子は、残念だけど、一日出られるだけでも嬉しい、と言う。

一方男の子の方は、いつも一緒の親友と分かれての出番となったことに、双方ともに不安を隠せないってところが、か、可愛すぎる。
しかもその片方の子はさ、この、恋の要素満載の舞台に「いや、オレは彼女いるから」と判った風をやたら吹かせるんだけど、実際は「舞台のようには触らない。キスはするけど」とりあえずキスは、カノジョに対する記号のようなものなのかもしれないなあ。
そういやあ、恋バナを披露しあう場面で、ナンパした女の子に暗闇の地下室でキスした筈が、その親友にキスしてた、なんてテッパン話は最高だったしなあ。

彼にとって大事なのは、カノジョよりも小さい頃からずっと一緒、離れたことなどなかった、この親友であることは明らかなのだ。
あるいは別の男の子は「女性は尊敬している」その理由は、女手ひとつで男ばかりの兄弟を育て上げたお母さんに対する尊敬。実は彼の中では同じ“女”でも、お母さんと同世代の女の子は結びついていないんだよね。
自分はロマ語を喋るジプシーだと、アイデンティティはメッチャしっかりしてるのに。男の子って、なあんでこんな、可愛いんだろ。

……こう書いてきたら、なんかキャラを思い違い食い違いしている気がしてきた。可愛い可愛い言いながら、なんてテキトーな私(爆)。
うう、でも、いいもん、可愛いんだもん。男の子、女の子、ダイエットだの、筋トレだの、しなくていいんだからね!ああ、若い肉体、そのリアルな素敵さ。一人一人、違う肉体のアイデンティティ。
普通にダンス、ダンサーと思えば、経験がないことも含めて、彼らの肉体はそりゃあ、あまりにゆるみきっている、向いてないことはなはだしい、のだろう。でもピナが目指す、表現するものは、そうじゃないんだよね。

前衛だのアバンギャルドだのというイメージにとらわれすぎていた。ピナが目指しているものは、それこそ伝統が強いていたダンサーとしてのストイック、同じ筋肉、同じ体型が閉じ込める狭い人間性ではなくて、全ての人間、全ての肉体であったんだろうと思う。
そしてそれが、よりみずみずしく、未来に向って無限大に広がっているのが、10代の若者たちで、もう、これがもう、言葉なんて、いらないんだもん。

そりゃさ、最初は、もうどうしようもなかったよ。それはただそこにいる10代の肉体の未来としてだけでも、言葉を、持たなかった。
彼らがつかむ何か、きっかけ、それは彼らはピナと出会ったからそのきっかけだったけど、早からず、遅からず、何かをつかんで、こんな風にキラキラ輝くのだろう。
そんな時が、私にもあったの?うーん……あったと思いたいけど……もう遠く過ぎ去ってしまって、確かめるすべもないさ。
こんな風に、客観的に見ることが出来る超ラッキーな彼らが、うらやましい!!まさに、まさに夢の教室。★★★☆☆


ヒミズ
2011年 129分 日本 カラー
監督:園子温 脚本:園子温
撮影:谷川創平 音楽:原田智英
出演:染谷将太 二階堂ふみ 渡辺哲 吹越満 神楽坂恵 光石研 渡辺真起子 黒沢あすか でんでん 村上淳 窪塚洋介 吉高由里子 西島隆弘 鈴木杏

2012/1/17/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
あ、救いがあるんだ、あってくれるんだ……と思った。
園監督の映画で救いがあれば、こんなにも美しい世界が待っていることは、確かに判っていた。最後までその救いに核心が持てなくて、不安にさいなまれながらも、その救いに、その救いがもたらす美しい世界を、ほとんどすがるような思いで渇望した。

頑張れ、住田、頑張れ、住田!頑張れ、住田!!!

彼女が叫ぶ。彼自身も叫ぶ。
メチャクチャに走りながら。顔をぐしゃぐしゃに泣き叫びながら。走る、走る。
どこまでも、絶望ばかりが行き来したその草原の道を走る。

愛し合っている二人。住田と茶沢。
確かに茶沢の夢見る未来は、ろうそくが灯される乙女チックな中で夢見る幸せな未来は、あまりにも現実味がないのかもしれない。
でもきっと、そんな未来が待っていると、この救いに確信を持った。

もうなんか急いてしまって、一気にラストを言ってしまったけれど。
でもこの頑張れって言葉は、凄く重要なんだもの。キーワード、以上の大きな意味を持ってる。

原作はあるものの、3.11が起こってしまって、監督はこの地でのロケをゲリラ撮影のように敢行した、と聞いている。
正直その話を聞いた時も、冒頭に映し出される、津波で壊滅させられた街を見た時も、なんともいえない複雑な思いだった。
劇中のテレビがひっきりなしに福島の原発のニュースを流しているのもその気持ちを増幅させた。

確かに、こんな画はどんな優秀な美術さんでも作れはしまい。ある意味千載一遇のチャンスだったよネなどと、イジワルなことを思ったりもした。
だってこれは現実で、ここでお芝居をしている役者さんたちのいるフィクションの世界じゃない。なのにさ、と。

でも、見終わった時には、なんだかそんなことどうでも良くなっていた、気がする。
誤解を恐れずに言えば、この震災のロケーションを使っていようがいまいが、どうでも良かったような気さえする。

だって、彼らはその風景の持つ力に寄りかかることは一切、なかったんだもの。
負けてなかった、なんて言い方は良くないのかもしれない。でも、住田は、茶沢は、そして彼らを取り巻く大人たちは、くたびれて、ボロボロだけど、でも“頑張って”生きている。生きていく、のだ。

そう、“頑張って”。この言葉は、こうした災害が起こった時、言うべきか言わざるべきか、みたいな議論が必ずなされた。
今回もそりゃあ勿論ケンケンガクガク、頑張れと言われなくても頑張ってるんだから傷つくとか、頑張ろう、と被災者自身が言えば問題ないのだとか、次第にこの言葉自体が腫れ物に触るようなものになってしまって、うっかり口に出すことさえ出来なくなってしまっていた。
もう、罪の言葉のような、そんな感じ。

その感じは、劇中にも端的に示されている。住田たちの担任の先生は、まことしやかに、実にまことしやかに、君たち若者が頑張って担っていくのだと吠える。
そう、吠えている。君たちはたった一つの花なのだと。
……この言葉も、オンリーワンかトップワンか、二番目じゃダメなんですかと言った誰かさんの発言も含めて大いに議論されるところであり、しかしそれは全て、大人の側でしかめつらしく議論されるところであり。

震災後も粛々とボートハウスを守っている中学生、住田にとっては、頑張ることも夢も未来もオンリーワンであることも何もかも、価値のないことだった。
“夢”は、平凡な大人になること。貸しボート屋をついで細々と、そこそこ食っていけるだけの生活。それが自分の大いなる夢だと。

そんな住田にストーカーのごとくつきまとっているのが、茶原。
彼の語録に心酔し、カラー紙に大書して部屋に貼り出すほどで、彼自身にも積極的に接触する。
しかし、父に「お前、いらねえんだよ。本当に死んでくれないか」とケケケと笑って言われ、母はめんどくさげに男と出て行ったような住田にとって、アッケラカンとした茶原はただメンドクサイだけの女子であった。

んだけど、実は茶原も住田に負けず劣らずの壮絶環境。黒沢あすかが演じているってだけで、うっわこの母親の子供にはなりたくないと思わせる(いや、単に園監督での彼女のイメージだけなんだけど……)。
ここでも死んでくれと笑いながら、恫喝しながら、恋人に泣きつきながら楽しげに娘に懇願する母親。
ご丁寧に首吊り台まで建設中で、これが完成したら死んでくれるよネと、ギャグにしてはあまりにヒドすぎる。
途中までは気丈に強気を見せる茶沢も、大人の理不尽な圧力に逃げ出してドアを閉めて、涙を流すしかない。

住田、茶沢、と、苗字で呼ばれるんだよね。ことに女の子が苗字で呼ばれているのは珍しい。劇中で苗字で呼ばれていても、解説では下の名前で書かれていたりするのが常なんだけど、本作はそのあたりも徹底している。
しかも、住田なぞは中学生なのに、貸しボート屋の周囲に集う、震災で家を失って青シートで“仮設住宅”を作っている大人たちに住田さん、と呼ばれているんである。
しかも皮肉など全く挟まず、本当に、尊敬を込めて。

最初はね、いくら住田君が彼らが敷地内にいることを容認しているとはいえ、そこまでの態度をとるかな、と思った。
でも次第に判ってくる。彼らは住田君を、君ですらない、住田さんとして、大人として、というか、人間同士として、対等に見ているんだ。

住田に次々と降りかかる、カイショのない父親や、その父親の借金を取り立てに来るヤクザや、父親に対する嫌悪は共有していると思っていた母親までも……。
彼を大人としての力の元に屈しさせて、子供扱いするくせに、大人としてすべき態度は示さない。

でも、ヤクザに関しては、後に驚くべき展開が待っていて、ホントに一筋縄ではいかないんだけど……。
まあとにかく、住田君は、住田、なんだよね。下の名前で呼ばれる、子供ではない。
でもそれはもうひとつの意味としては、彼が忌み嫌う親から離れられないという意味でもある。
父親がふりかざす、お前が生まれたことが誤算だったという言い様は、確かにこの父親と母親がいなければ、彼は存在しなかったということになり、そのリクツが住田を苦しめる。
だからこそ、彼は“住田”から逃れられない。

通常は下の名前で呼ばれる、つまりはいつまでたっても社会的立場が得られない女の子である茶沢も、“茶沢”なんである。これが、私にとってはかなりの印象度だった。
彼女の下の名前が唱えられるのは、それこそ理不尽な母親から、彼女のなけなしのおこずかいをパチンコに持ってかれようとする場面のみで。
のみ、だけど、母親は、アンタの名前は私がつけてやったんだよ!と、それ一点のみで、彼女は所有物でどう扱ってもいいのだという態度を示した。

でもそこでも、母親は、「茶沢景子という名前は……」という言い方をしたんだよね。景子という名前は、じゃなくて。何かそれが、凄く意識的に感じたんだよなあ……。
母親にとっての苗字は、夫のそれであり、夫とラブラブするには、娘はジャマだとハッキリ言うけれども、何かね、そう思うとこの残忍な母親も哀しい気が、してしまった。

一体この状態が震災前からなのか後からなのかも、ちょっと気になった。
絆、絆と、呪いか暗号のように繰り返される中、そこからとりこぼされてしまったこんな例もひょっとしたら……ひょっとしたらあるのかもしれない、って。
それでも子供は、女は、その呪縛のような“苗字”から逃れられないのだ、って。

全篇、特に前半は、近年の園監督らしい(などと言ってはよろしくない?)目を覆うような暴力描写である。
父に殴られ、ヤクザに殴られ、子供である住田はなすすべもないけれど、特にヤクザに対しては、こんなことで負けねえ!と、痛々しいほどの気力を見せるんである。
“住田さん”を尊敬しているくたびれた大人たちは、なんたってくたびれているから助けることも出来ず、ちょっと口を挟むと同様にぶっ飛ばされる始末である。

私ね、だから最初、どうしようかと思った。いたたまれなかった。
それでなくてもそう、近年の園作品のバイオレンス、あるいは、リアルなバイオレンスが作品性を高めるような昨今のゲージュツ的風潮に、ヘタレな私は近年とみにお疲れ気味で(爆)。
話題をさらった「冷たい熱帯魚」あたりでは、ついていこうとする努力もはいつくばり気味でさ。
暴力がゲージュツなのかなあ、やたら激しい雨とかもありがちだよね、空晴れてるしさ、などと、オバサンくさいことを心の中でつぶやいていたりしたのであった。

まあ確かに、映像芸術である映画にとって、最も動きのある暴力描写は魅力的であるのは確か。
古くはチャップリンだって“拳闘映画”を撮り、塚本映画が世に出たのだって、バイオレンスの映像美学だったのだもの。

でも年とともに疲れてきちゃってさあ(爆)。最先端になるほどに、それもリアルになっていくじゃない。アクションも血の描写も。
それに残酷な感情のリアルさが加わると、ああ、私、なんで映画を見に来てるんだろ、なんで映画が好きだったのかな、とまで思いつめちゃう(爆)。
映画を観て、幸せな気持ちになりたいのになあ、って。

そんな気持ちを見透かされたようだった。確かに「冷たい熱帯魚」では救いなんかありようもなかった。それ以前の園作品も、それこそゲージュツ的過ぎて、イマイチ苦手だった。
でも本作は……あんなにも住田をぶっ飛ばし、容赦なく殴りつけ、子供相手になんてひどいことを、借金したのはあの人でなしの父親じゃん、と思ったヤクザが、カネを返されると住田に対して、まるで旧来の友人のようににこやかに接する段に至って、あ、あれ?と思ってしまった。

彼らは、悪人じゃなかったの。憎悪のあまり父親を殺してしまった(おっと!さらりとキモを言ってしまった!まあいいや……(汗))にとって、二番目に憎むべき相手ではなかったの。

ヤクザたちは、実は住田を子ども扱いしてそうに見えながら、実はこれ以上なく大人扱いしていたのかもしれないなあ、なんて。
金を貸した父親も、母親もいなくなった住田を容赦なく痛めつける彼らになんてヒドいと思ったけど、その借金を何とかできる相手でなければ、痛めつけなかったのかなあ、って。
いや、勿論、その父親の息子であり、ここに父親が戻ってくるなり連絡があるなりするかもしれないからということがあったとしても。

父親をうっかり殺してしまった(もううっかりとしか言い様がない……壮絶な場面だけど、もうそれしか言い様がない)住田が、もう自分は人殺しだと、自殺も自首もしない、せめて世の中のために役に立ちたいと願う。
そのためには悪人成敗だと、時代劇のようなことを思う。
そう、時代劇のように、世の中のクズを成敗していけたら、確かに気持ちがいいけど、住田は、サイアクの父親とはいえ、人一人を殺してしまった住田は……。

自分自身がクズではないのかという気持ちを抱えながら、包丁を紙袋に無造作に投げ入れて、街を徘徊する。
紙袋に透けて見える包丁の影が、恐ろしいというより、なんだかファンタジックに映る。
途中、ゴロツキに切りつけたりするけれど、最終的にホンモノの通り魔に遭遇して、その通り魔が叫ぶ「オレは誰なんだよ!」の言葉に立ちすくんでしまう。

バスの中で席を譲らない若者に小言を言った中年女性が刺される場面に遭遇するシーンに至ってくると、何かだんだんまったりと現実味がなくなってきて、これは住田君の夢か妄想か、朦朧とした意識なのかと思ってしまう。

紙切れのようにばらまかれるお金、「オレは誰なんだよ!」と叫ぶ男、苗字で呼ばれる子供たち、無力感ばかりを誘う津波の後の街。
一体、何が出来るというの、それどころか、どうやって生きていけるの、いや、どうやってどころか、生きていけるのか。

住田君を、父親の借金から救ったのは、彼を一番、住田さん住田さんとなつく(という言い方はアレだけど)中年、というより初老のオッサン、夜野さん。
凄腕のスリの青年と出会って、メチャメチャ危ない橋を渡って、住田の父親の借金、六百万円を見事手にするんである。

窪塚洋介氏がスリの青年。なんだかんだあるけれど、彼はヤハリ得がたい存在感だよなあ。
あの独特の喋り口調は、それだけで何かがある、んだよね。絶対ヤバイだろと思わせるカルさに、ノセられる怖さ。

なんかどうしても住田君を演じる染谷君にシフトしてしまうけど、実際、彼がこの物語の主人公であるとは思うけど、彼を結果的に立ち直らせる、つまりは彼女の存在なくしては、この映画が暴力アート映画ではなく、青春傑作映画になることはなかった、二階堂ふみ嬢も素晴らしいんだよね。
彼女に関しては、園映画の独特の感性に不可欠な、詩情、あるいは詩を実際に、ダイレクトに表現する部分において、めっちゃ託されていた。もう、ホント、臆面もないぐらいに。

住田君語録を部屋に貼りまくっている描写、彼に似合う詩の朗読、実に、園イズムだった。
普通の人間になりたいと願ってやまない住田君の言葉の数々は、一見現代的厭世に見えるけれど、それがどんなに、そう、願ってやまないほどに難しいことなのか。
それを住田君自身が一番良く知っていて、それを観客にじっくりと知らしめていくというのが、つまりはこの映画だということなのかもしれないんである。

担任教師がのほほんと言う夢や希望の言葉が、空虚ではなく真摯に願う肉体のある言葉になるまでに、どれだけ心と身体に血を流さなければいけないのか。
厭世的に見える夢や希望が、どれだけ野望に満ちた夢や希望なのか。

二階堂ふみ嬢は、彼女が演じる茶沢は、住田君には決して弱みを見せないけど、先述したように、彼に負けないぐらい(という言い方もヘンかな)壮絶な家庭環境である。
ある意味、外からの介入がないだけ、彼女の方が悲惨ではないかとも思う。
だって実は、住田君には、非力だけれど心優しい大人たちがいっぱいいるんだもの。
それが茶沢にも、金を返されりゃ心優しい大人として接してくるヤクザの親分にも見えている。

観客にだって、最初から見えている。なんでこんなに優しい味方がいるのに、どんどんどんどん袋小路に追い詰められるんだよ、と思う。
でもなぜなんて、そんな理由は判ってるさ。その相手が、親だからだ。親じゃなければ、いくらだって切り捨てられるし、殺すのに躊躇もしない(かもしれない)し、殺してあんなに同様もしない(かもしれない)もの。

茶沢も本当に悲惨だけど、悲惨な境遇だけど、彼女は内の悲惨さを、外に発散させる術を持っているんだよね。
女の子だから、と言うのは簡単だけど、それもあるかもしれないけど。
いきなり冒頭に言っちゃったけど、彼女がどんなに住田君から疎まれても、それこそメッチャ殴られても(そうなの、このワカモン同士も容赦なく殴りあうのが、男の子が女の子を容赦なく殴るのが、すんごいビックリしてさ……)、めげない。もうパンツ丸見えで土手を転がっても、めげない。

住田君は割と寡黙だから、彼女が彼の言葉を代弁する感じである。
タイトルにもなっているヒミズは、新井素子さんの小説に出てきたなあ、と思った。ヒミズがモグラの一種であることを知らないんですか?みたいな感じで出てきた。
そう、普通は、知らないよ。本作では、モグラになりたい、ヒミズになりたい、という表現と、ご丁寧にもその種目や生態が一瞬とはいえ解説されるから、ああそうなんだと思うけれど、モグラではなく、ヒミズだと、限定するのはやはり、意味ありげだよね。
原作ではどうか知らないけど、地中生物であるモグラより、それでも誰もが知っているモグラより、同じ種類でも誰も知らないヒミズであることに、自嘲的誇り、みたいな、投げやりなアンビバレンツを感じるというか……。

ある意味住田君は映画的であり、茶沢さんは現実的である。この震災の、非現実的な風景の中で、リアリティがあるのは住田君の方だから、茶沢さんは時折ひ弱に見えてしまう。
彼女が言う、自首した方がいい、まだ未来へは時間がある、罪を償って、立派な大人になるんだ、という台詞は、この過酷な現実、ことに住田君にとってのそれの中ではあまりに空虚に聞こえるのだ。

でも、住田君を心配する大人たちが、非力ながらも逃げ出すことなくそばにいてくれて、茶沢さんが、母親から逃げ出す形とは言え、住田君の貸しボート屋を繁盛させるなんてことが、理不尽な残酷な現実の間に、まるで軽いエピソードのように挿入されていることに気づかない訳にもいかなくなると、あんな空虚に思えた言葉が、夢のような言葉が、ひょっとしたら現実になるかもしれないと、恐る恐る思えてくるのだ。

なんでこんなに、幸せを、夢を、未来を、信じることが怖くなったんだろう。暴力は、肉体的痛みは、あんなに馬鹿馬鹿しくて単純なのに、どうして簡単に人間を陥れてしまうの。
幸せや夢や未来という言葉が、なぜこんなに安っぽく、空虚で、バカみたいになってしまったの。

希望に満ちた言葉たちが、価値を失ってしまったことさえ気づかずにいたから、そこからこの映画が始まったから、その価値を取り戻せるなんてこと、思う筈もなかった。
震災後の風景も、見ていられないほどの暴力描写も、存在を心を魂を惨殺するクソまみれの言葉に、簡単にうちのめされてしまって、ああ、やっぱり園監督は苦手だと思っていたのに。

救いが、現われたのだ。

最初は、安っぽいと思った。

壊れていく住田君を心配する大人たちが集って、さびれた貸しボート屋を、ボートハウスって感じに塗りなおして、電球ぶら下げたりした時には、半信半疑だった。こんなちょっと、大林映画チック?なの、園映画に似合わないと思った。
でもその大人たちが、もうここには来ないよと、サヨナラと手を振った時、それが彼らの愛情だと観客には判ったけど、今までは、住田君の方から拒絶していた彼らが去ったことがショックで、ああ、本当に住田君は一人になったと思った。

でも茶沢さんがそばにいて、明日警察に自首しようと言った。そして幸せな未来を説いた。結婚しよう、と言った。愛し合っているんだもの、と。
こんなまっすぐな言葉、一体いつ、言えていただろう。住田君は「茶沢さんは、バイト先のえくぼの大学生と恋に落ちるよ」と茶化しながらも、彼女の言葉に涙を流した。
この救いに震えながらも、でもまだ、信じきれずにいたのだ。だって、あの、ヤクザが、住田君のためにと、残していった拳銃が、あったから。

結果的には、ズルい!って感じ。いったんは茶沢さんの言葉にほだされたように見えた住田君が、彼女が寝ている隙に起き出して、拳銃を手にして、沼へとしずしず入っていくんだもの。
ご丁寧にもその後、住田君がいないことに気づいて外に出た茶沢さんが、静まり返った沼に泣きながら住田君への呪いの言葉を叫ぶなんていうシーンまであるもんだから、ああやっぱり園作品に救いなんて求めちゃダメだったんだ、と思いかけたから……。

ズルい、ズルい、ズルい!!!こんなフェイント、ズルいよ!!!その後、これぞ真実の、真実の“頑張れ”をぶつけ合いながら疾走する二人に、斜に構えながら涙をこらえていたのに、撃ち抜かれずにはいられないじゃないのーーーー!!

二人とも、特に見る機会が多かった染谷君に関しては、充分実力派若手俳優の地位を確立していると思ってたんで、これでブレイクとか言われるのはなんか不本意な気がするけど(爆。悔しいだけ)、これはさあ、これはそりゃ……世界を震撼させる二人だよね、確かに。
若くて白く柔らかい肌や、びっしりと長いまつげが、殴られ、全身泥まみれになり、それ以上に心がズタズタになるのが、それだけで……言っちゃなんだけど、スクリーン映えしすぎて、ドギマギしてしまう。

若い人たちがどんどん主役になっていくことって、仕方ないことなのかもな、ヘンな言い方かもしれないけど。
年食ってくと、ある程度は、脇に回らざるを得ない、のかも。
だって、この言い様のないエネルギーは、その魅力は、もう言い様がないんだもん。どんなにスターのオーラがあっても、「デンデラ」じゃあダメなんだもん(ゴメン!)。

まだ年初だけど、このまま本作が今年の日本映画のトップを走っちゃうかもしれない、気がする。 ★★★★★


百日のセツナ 禁断の恋
2012年 82分 日本 カラー
監督:いまおかしんじ 脚本:いまおかしんじ
撮影:田宮健彦 音楽:碇英記
出演:由愛可奈 和田聰宏 忍成修吾 辰巳ゆい 倖田李梨 団時朗

2012/10/3/水 劇場(池袋シネマ・ロサ/レイト)
この企画、前は確かテアトル新宿とかでやってて、結構チェック出来ていたのに、この劇場でいつの間にやら春、夏の作品群が終わっていてショックを受けていたのに、秋の三作も始まってからどこだかでチラシを見つけてようやく気づいた(泣)。
うー、やっぱ、年齢的にもレイトはだんだん厳しくなるしなあ(涙)。とはいえ、いまおか監督の新作となるとやはり頑張って駆けつけざるを得ない。

キャスト陣もかなりイイ感じ。辰巳ゆいってどこかで聞いた名前だなあ、あ、「若きロッテちゃんの悩み」のかあ。どうやら彼女はいまおか監督に気に入られたらしい。芝居、出来てたもんね。
しかしこのキャスト順だと、え、ひょっとして彼女、あのボンデージのSM女王様的吸血鬼?えー、全然印象違う!うむ、やっぱり彼女は芝居デキる子なんだねっ。

しかし、主演は私、初見の子である。役柄的なこともあるが、前半のブリブリはしゃぎっぷりの芝居がかなりキツく、うう、これで私最後まで見てられるかしら……と不安になる。
彼女の相手となる和田聰宏氏や忍成君がとても素敵なだけに、余計にそのバランスの悪さにヒヤヒヤとなるんである。

ていうか、彼女に引きずられる形で彼らの芝居までなんかヘタに見えてしまう!!これはヤバい!うーむ、そもそも日本で吸血鬼でとなると、なかなか画のリアリティという時点で難しいからなあ……。
と思ったところで、そーいやー、つい先日観た岩井監督作品も「ヴァンパイア」。しかしていきなりカナダ?で撮りやがった。うーむ、だからつまり、日本でソレをやろうとするとやはりやはり難しいのか??

まあそこら辺を逆手にとった、キッチュな設定とストーリー展開にはなってる。大体、いきなり登場するのが悪魔白塗りメイクなのに、メイド服になぜか足元はソックスとスニーカーといういでたちのおじさん(爆)。
と、なぜか豚、いや、顔だけ豚(汗)。……ヴァンパイア伝説に豚ってなんか関係あったっけ……あったのかもしれない……まあいいや。

そこに、十字架を胸におったてられた和田氏演じるプラドが瀕死の状態。メイド風おじさんは十字架をぐりぐりやっていたぶり、女を預かってくれれば命は助けてやろうじゃないの、と取引をもちかける。
あたりは時間の感覚が全く判らない薄墨色、どこか田舎町のひと気のない郊外、といった感じのロケーションを、空気の色合いだけで非現実的に見せるのはさすがと思う。

しかもどぷーんとくる日本海チック(多分日本海だろうな)の海まで出てくる。メイド服おじさんが言うその女は、素裸で海岸に体育すわりをしている。
お尻に砂がついたのを慌てたようにカメラがパンアップしなくてもいいじゃんと思ったり。だってつくさ、お尻に砂。
で、カットが替わるとお尻に砂ついてない。どうでもいいことが気になるオバサンの私(爆)。

この少女、という年でもないと思うがともかく、メイド服おじさんが作り上げたというセツナという少女、このネーミングはおじさん、まるで結末を見越しているかのようなのだが、まあそういうことだわな、と。
まだ心と身体が一致していない不完全な状態、100日経たないうちにセックスしてしまったら死んでしまう、プラド、お前も死んでしまうんだからな、と脅迫よろしく送り出す。

普通に何も知らない少女なら、100日セックスしないでいることぐらいなんてことないのだろーが、セツナはもうしょっぱなから「もんもんとする、してくれよぉ」とプラドにまとわりつくんである。
……早めに言っとくと、セツナはともかく、思いっきり日本人で、舞台設定も日本なのにプラドなんて名前だっつーのも結構キビしかったりする。彼女が“セツナ”だからこそ、余計にそのアンバランスがこっぱずかしいんである。
うーむ、一体どうしたいの、いまおか監督(爆)。日本のヴァンパイアなら、なんか無難にケンとかシンとかでいいじゃん。いや、それは単に私の勝手な違和感か……。

いやさいやさ、プラドを演じる和田氏が、もともと彼はかなりお気に入りの役者さんで、だけどなんかあんまり観る機会、ないんだよなあ。
すっごく彼、いいと思うんだけど、だから今回、彼の名前を目にしたのが一番、足を運ぶ理由になったのだった。
久しぶりに見たら余計に、ヤバい色気がむんむんに立ち上っていて、彼に吸血鬼役を振りたくなるの、メッチャ判る!と思った。

で、そのヒロイン役の可奈嬢だが、中盤、プラドのために血を求め、セクシーなメイクとカッコで夜の街に立つようになると、雰囲気も芝居も落ち着くんだよね。
でもそれまでが……つまり、無垢な何も知らない少女のまま、キャピキャピとはしゃいでいる状態の彼女は、その芝居を生身に焼きつけるにはかなりキビしくって……実際、これはかなり高度なテクニックを要求されるお芝居だと思うなあ。多少大げさなウソが許される舞台ならまだしも、映像だとねえ……。

それに、そういうロリな魅力を追究するなら、ロリ顔なのに逆におっぱいもおっきくて、ぽちゃぽちゃしたような女の子だったらそそられたのに(爆)。うう、なんか私かなりサイテーなこと言ってるような気がするけど(爆爆)。
確かに彼女のおっぱいは小さめだけどつんと上向いてとてもきれいで、おなかもさすがぺったんこでメイド服おじさんが「いい身体してるだろう」と言うだけあるんだけど、でもこのセツナの役なら、そんなエロロリ風味であるか、危険を承知でもっともっと少女な女の子か、だったらソソられたのになあ(おっさんかよ)。

まあでも、いわゆる、極めてフツーの女の子であるというのが、重要だったのかもしれない。対照的に出てくる、先述した、辰巳ゆい嬢演じるボンデージヴァンパイアがいるもんねえ!
可奈嬢はすっぴん(風メイク)にぱんつが見えそで見える(爆)、ミニミニワンピース(というか、チュニックだけで下はいてない)という無防備ファッションのまま、街に繰り出す。プラドが完全なヴァンパイア体で、昼間は外に出られないのだけれど、セツナがヘーキで出られるのはやはりまだ不完全体だから、なのかな?

そんな中彼女が迷い込んだ教会で、運命的な出会いが。そもそもヴァンパイアが教会に入った時点で充分運命的だが。
そこにいる神父さんが忍成君。も、萌えるー(汗汗)。忍成君に神父。これは考えつかなかったけど、確かにやらせたい。もうコスプレだけで、死にそう(爆)。いや、コスプレって、白シャツに黒ボトムなだけなんだけどさ。でも、ヤバイ!
忍成君の、まがまがしい柔らかさとでもいうような独特の雰囲気が、単なる優しい神父さんってだけじゃなく、この世界観になんともはや合っている!いやー、ヤバいなあ。忍成君にしても和田氏にしても、いまおか監督との顔合わせだけでかなりドキドキなのにさ!

若き神父さん以外、例えば信者さんとか他のスタッフとかがまるで出てこないのが、非現実感、と言えればいいけど、まあそこはちょっとコスト的な雰囲気がかもし出されてしまうのは惜しいけど。
セツナはこの神父さんに恋、したんだよね、多分。あまり、明確ではない。セツナは結果的にプラドを選んだから神父さんに別れを告げに来たんだし、最後、プラドに抱かれて死を選ぶんだから、プラドに恋をしていたという結論ならば確かにスッキリとするんだけど、でも恋、していたよなあ。

叶わぬ恋、恋とはだからこそ恋。プラドは同族で、だから恋というよりは、愛……というよりは……運命、使命、みたいなさ、そんな感じ。
だから切ないのかなあ。セツナが恋も愛も、愛の中の同族愛も家族愛も、恐らく区別がつかないまま、ただ感情の整理のつかない渦の中、死んでしまったのが……。

何気にまたしてもオチバレしてるけど(爆)。まあ、いいじゃん、言っちゃえ、言っちゃえ(ヤケクソ)。
100日ルールを破ったのは、セツナ自身よ。いや確かに彼女はプラドに預けられた最初から、もんもんするんだよお、と訴えて、勝手に男をナンパしちゃったりして、あの神父さんとだって危ないトコで未遂だったんである。
あ、そうだ、未遂、だったんだ!結果的にはプラドに抱かれてセツナは死んだけれども、その前に、かくまった神父さんに、セツナは「抱いてほしい」って、そういや言った!んでもって、かなり未遂な状況までこぎつけた!(こぎつけたというのもアレだが……)。

神父さんはなんたって出来たお方だから未遂に終わってくれた訳だが(でも結局その後、プラドに誤解されてあえなく血ぃ吸われてお陀仏になっちゃうんだけどさ)、最初にセツナが、この人とセックスして死ぬなら、と選んだのは……神父さん、だったんだよなあ……。
それはさ、セツナ自身が、吸血鬼である自分に疑問を持ち始めたこと、つまり、人間たちと仲良くなりたいのに、人間の血を吸う、つまり殺さなければ自分たちは生きていけないというジレンマに気づき始めたこと。
そして、教会の、手足に釘を打たれ、人々の罪を背負って死んでいったイエス様に手を合わせたあの場面もあいまって、セツナはもうかなり早くから、人の命を奪ってまで生き延びる自分の存在の意味を、見極めていたのだろうか。

なんて、ありがちな解釈をついついしたくなるが、基本はね、恋のドキドキだと思うんだよな。
セツナは生まれたばかりの女の子。なのにもう「したいよー」とセックスのなんたるかを知ってることはちょーっと解せないけど(爆)、とにかく、感情という面では、まだまだ未成熟な女の子、なんである。
プラドはここまで吸血鬼として恐らくかなり長い間生きてきて、だからあんなボンデージ元カノが現われたりする訳で(100年前とか言ってたような)。

最初はセツナのウザイばかりの無垢さ(まあ、正直ウザいけど(爆)。ボンデージ女王様が「ブリッコしやがって!」とシメにかかるの、めっちゃ気持ち判る(爆爆))にウンザリしてた。つまり、長い人生……じゃなくて、吸血鬼生の中でも、中だるみっつーか、中年にさしかかったっつーか、恋のトキメキなんぞ、忘れかけてた、いや、忘れ果ててた、ってことだろーな。

冒頭ね、セツナを連れて血を求めて夜の街をさまよう場面、セツナはタイクツして、オープンカーから夜の街に飛び出しちゃって、男をナンパ(川瀬氏、こういう、飢えてるけど弱気な感じの男、さすが絶妙だなー)する。
そこにプラドが犬みたくクンクン後を追ってセツナを奪還する。……しかし、最初からセツナがあんなにムラムラしてたんだから、車に置き去りにするなんてあまりにも結果が判りきっていた様な……。

んでもってその置き去りにしている間にプラドはお食事をしていた訳だが、そのお相手は李梨姐さん。さすがこのあたりは、信頼できるワキ固めである。しかも、カラミ要員ではないのよね。姐さん、ある意味脱ぎ損(爆)。
プラドは仕事帰りのOLという風情の彼女を言葉巧みに誘い、彼女の方こそその気になって閑散とした成人映画館に誘い込みコトに及ぶけど、姐さんはノリノリだったけど、結果的にヤッてはいない、よね?
太ももにガブリと噛み付いて、その時には姐さん、恍惚とした表情を浮かべるけど、結局「死ぬ!死ぬ!」意味どおり、死んでしまう。

吸血鬼が血を吸った人間が死んでしまうって、いつからの定説だっけ?とちょっと思ったりする。私ら世代だけ?吸血鬼が血を吸った相手も吸血鬼になる、っていうの。
そらー、その計算からすれば、まさにネズミ算式であっという間に人間全部が吸血鬼、吸血鬼が滅びるのは心臓にくいを打たれるか、太陽のもとにさらされるかして、チリになって消えていくって説だったんだけど、それじゃあいくらなんでも追いつかない。
その疑問はずっとあって、そこを突っ込んだパロディ小説なんかもあったけど、いつの間にやら、吸血鬼が襲った人間は死ぬ、という方が常識になってるの?いつから??

まあそんなことはどうでもいいんだが……。んでね、実はプラドが冒頭、十字架を突き立てられて死にかけてる、その下手人?はこの神父さんでね、そらー、プラドは今度会ったら百年目な訳。
でもセツナが先に出会って、なんか好感触で、しかもプラドは昼日中は出歩けない。そんなうちに、神父さんとセツナはイイ雰囲気に……。
神父さんがセツナに言い寄られて、キスと押し倒すぐらいまでは行っちゃってからハッと我にかえって自分を制し、「童貞?みたいなもんだよ」と言うの、忍成君が神父さん、って状況にこの台詞はメッチャ萌える!!あー、ヤバい(ヘンタイみたい……)。

でね、結果的には、ね。誤解から神父さんをプラドが殺しちゃう、血を吸っちゃう。まあこの画だけで、このまがまがセクシー二人組(どんなネーミングだ……)、かなり萌え萌えだが(爆)。
しかしさあ、ホントに、ホンットに、完全なる誤解なんだから、セツナはプラドと生きていくことを決意して、神父さんにお別れを告げに来ただけなんだから、セツナがその事情をちゃんと説明しなきゃダメじゃん!「違うの!」とか言いながら、神父さんの後ろにさっと隠れ、プラドを追うのも一拍おいてから、って!
セツナの揺れる気持ちは、設定的には理解できるけど、これじゃいかにも、“セツナの止める間もなく、プラドの嫉妬が神父さんに炸裂”って状況をわっかりやすく作っちゃってるもんなあ。

あと一日じゃないかと、メイド服おじさんが言う。この時点では、ちょっとピンと来なかった。つまり彼らがこの、黄泉の国チックな場面に帰ってきた理由が。
セツナが、最後のお願い、みたいな感じでプラドに抱いてほしいと言い、それに対してプラドが、子供みたいな、泣きそうな顔で応じて、やっと判った。
彼らはここに、死にに来たのだ。それぞれ、短すぎる人生、人生、じゃないか……、長すぎる吸血鬼生、を思い浮かべ、まさに、セツナの、刹那のセックスを永遠にして、生まれた海へと、消えていった。

セツナが言ったんだよね。海から生まれた、って。登場シーンから、それを示唆する印象深さ。全ての生き物は海から生まれるチックな深い世界観だが、メイド服おじさんによって作られた不完全体の吸血鬼が海から生まれる……うーん。

しかもプラドまで、死んで海に帰っていくしさ。……セツナ=可奈嬢が涙ながらのプラドによって抱き上げられて(この場面で既に、首が垂れてないのが気になったが……)海に戻される。
水面に浮かばされた瞬間、いかにも呼吸を確保するべく首が持ち上がったのが、ガックリ。うーっ、いくら低予算でも、こういうトコはキッチリ演出してくれーっ。

やたら色っぽい和田氏と忍成君、和田氏が忍成君の首筋にかぶりつき、忍成君が白目をむいて絶叫する場面が一番ゾクゾクした、なんて言ったらそれこそヘンタイくさい(爆)。
個人的に、この二人のがっぷり組んだ共演作が見たい。改めて、いまおか作品で!★★★☆☆


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