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国宝
2025年 175分 日本 カラー
監督:李相日 脚本:奥寺佐渡子
撮影:ソフィアン・エル・ファニ 音楽:原摩利彦
出演:吉沢亮 横浜流星 高畑充希 寺島しのぶ 森七菜 三浦貴大 見上愛 黒川想矢 越山敬達 永瀬正敏 嶋田久作 宮澤エマ 中村鴈治郎 田中泯 渡辺謙 芹澤興人 瀧内公美
最後の回、レイトショーに飛び込んだのだけれど、終わって時計を見て驚いた。もう私の寝る時間(爆)。そんな長尺とは思わなくて。私は腰抜けだから、3時間とか言われるともうそれだけで選択肢から外しそうになる。
だから情報を入れていなくて良かった。終わって驚いたぐらい、長尺だなんて全然感じなかった。もちろん長尺の見応えはメチャクチャあったけど、もう、とにかくすごいものを見たと思って……本年度のナンバーワンは確定、主演賞も、助演賞も、脚本賞も、監督賞も、撮影も美術も確定!かもしれないと思うほど。
歌舞伎の世界は現代でも謎だらけ。世襲制、血筋、私たち一般人がこそこそ邪推しているものを、ビックリするぐらい真正面から取り上げた本作に、まずその姿勢に驚く。
でも時代設定はいわゆる昭和から始まっている。そのあたりに、今は違うからネという牽制があるような気もするけれど、実際にそうなんだろうけれど、あるいはこの時代設定は、今ならコンプライアンスという名でいろいろアウトな、でもそれだけ自由におおらかに描けるということなのかもしれないとも思う。
だって、私が魅了された映画黄金期そのものなんだもの。本作の主人公、部屋子として外から歌舞伎の世界に飛び込む喜久雄(吉沢亮)は、ヤクザの親分さんの息子である。まだ少年だというのにその背中には立派なフクロウが羽ばたいている。
抗争の末、目の前で父親が殺されるという、日本の任侠映画がかつて黄金期を放っていたからこそ描ける冒頭の、これぞ映画のスペクタクルとでも言いたい導入部に、だからとても嬉しくなる。ミスターインディーズ映画な永瀬正敏氏が、この大きな作品で、華々しく、そして凄絶に散る父親を演じているのもムネアツである。
あるいは、上方歌舞伎、というのも大きいかなぁ。私はホント、無知で不勉強で判らなくって、後からいろいろ調べたけれど、でも謎が多くて。今や歌舞伎は東京が拠点、上方歌舞伎のジャンルがあるにしても、東京の歌舞伎座からまずスタートする、みたいな認識が強い。
でも本作で描かれているのは上方歌舞伎であり、舞台も上方、であるんだよね?関西の、あるいはそもそも喜久雄は九州から来たんであり、西日本の空気感は、単純に関西と関東という括りとはまた違う。
任侠世界は西日本ではまた違う文化圏で強いものがあるし、その抗争で身寄りを失った喜久雄という少年の存在は、関西、上方歌舞伎という中で非常にドラマティック。
そしてさぁ、なんたって、男の子ふたりというのがヤバい。喜久雄が預けられた先の惣領息子、世襲が絶対の歌舞伎界において先が約束されている俊介は最初こそ彼を警戒していたが、なんたって同じ年ごろの男の子同士、しかも同じ道を切磋琢磨する同士、あっという間に仲良くなる。
中学生ぐらいの頃の、ギリギリ声変わりするか否か、筋肉も薄くて、厳しい稽古に悲鳴を上げて這いつくばるとか、その厳しい稽古を分かち合って、通学途中の橋の上で振りの練習をするとか、もー腐女子にはたまらん妄想が爆発である。
それは大人になってから、哀しい大人の事情、世間の事情、何より梨園の事情によって、仲良し二人の仲が何度となく引き裂かれることになっても、変わらないのだ。
腐女子妄想が爆発する、二人の思い合いは変わらない。美しい男子二人が、美しい女形として切磋琢磨して、そんなことになるんだから、もう腐女子は、あぁ腐女子は。
本当に、吉沢亮、横浜流星、両氏が素晴らしくて。こんなガチに歌舞伎界を描くんなら、歌舞伎役者をキャスティングするという選択肢もあったんじゃないかと、鑑賞後、この二人だからこそ素晴らしかったけれど、そんな風に言われちゃったんじゃないかと思ったのだが、そんなことは愚の骨頂、そりゃ監督さんは考えてらっしゃる。
歌舞伎役者の役ではあるけれど、歌舞伎役者ではない人間としての部分を重視しての、この最高の二人のキャスティングだったのだという。
そして、長い時間をかけての歌舞伎の稽古。そりゃそうだ……これはとんでもない重圧。ほとんどの歌舞伎の舞台シーンを、二人だけで演じるのだから。
俳優部、ということは言われるけれど、いわゆるスターシステムの商業映画は、スタッフさんたちは長い準備にかかわるけれど、俳優たちは撮影の期間プラスアルファぐらいな印象。俳優部というチームにこんなに力を入れた作品、ちょっと最近では思い当たらない。
カメラワーク、カット技術、これは生の歌舞伎鑑賞は勿論、今さかんにやっているシネマ歌舞伎でもやられていない、まさに、物語世界があって組み込まれているからこその、彼らの人生が組み込まれた舞台シーンのなんというドラマティックさ。
つまりはさ、その前提がなければ、こんな、言ってしまえばやりすぎなぐらいのカッティングと編集の舞台の見せ方は出来ないんだもの。映画という、マジックの中でなければ。
そして、二人とも女形だというのも。歌舞伎独特、日本独特の文化だけれど、でもその女形に才能を見出された二人、という着眼点は、それが上方歌舞伎の中で、という相乗効果もあって、めちゃくちゃワクワクする。だって腐女子だから(爆)。
美しい男子が美しい女形として、そして幼い頃からめっちゃ仲良くって、梨園の、そして世間の理不尽さで何度も仲を裂かれても、怒るフリは相手を思いやってのこと。もう、女子はいらんやん!
そう、女子はいらないのだ……それも、心地いい気持ちで久々に感じられた。もちろん、彼らを取り巻く女子は様々に登場する。そもそも喜久雄の恋人だった春江が俊介と家庭を持つに至るし、喜久雄はその前に、芸妓との間に娘をもうけている。
喜久雄の方がその点はしたたかというか、いや、彼は危機感があったのだ、常に。外から入ってきたから。しかも、極道の子だから。極道に関しては週刊誌で暴露されたりもして、それは辛かったけど、でも彼にとってはやはり、血筋じゃないことが何より大きかった。
それはさ、梨園の世界を外から見ている私らにも容易に想像できることで、それこそ、皇室と同じぐらい、血筋ブランドはキツくて。今は違う、のかもしれないんだけれど……。
そのことで、血筋がない喜久雄は勿論、ある俊介も苦しむことになる。二人とも才能も人気もあったけれど、才能をより買われていたのが喜久雄の方で、血筋が大事にされるこの世界で考えられない抜擢をされてしまう。
彼の師匠であり、俊介の父親である半二郎が決断したことで、妻は強硬に反対するし、俊介は出奔してしまうし。結局喜久雄はその後、冷や飯を食わされる事態になり、焦って問題を起こしてこの世界を離れることになってしまって、もうぐちゃぐちゃ。
今の時代もまんまおんなじの、ワイドショー、週刊誌で貶められる図式。周囲が、ほとぼりが冷めるまで待てばいいと言っても、そりゃさ、やっぱり今のことしか考えられないよ。それが判るだけに……。
喜久雄を演じる吉沢氏がさ、彼の複雑な陰影を買ってこそのキャスティングで、現役の歌舞伎役者を抜擢するべきかも、というのを、吉沢氏の深みこそが監督さんはじめ、製作サイド、そしてその後指導することになる実際の歌舞伎役者さんサイドを動かしたという。
それがめちゃくちゃ大英断だった。奇しくもつまらないワイドショー的騒動があって、でもそれを、吉沢氏自身の誠実さがすべてを動かして、本作の公開に何事もなく至ったことが、本作そのものへの思い入れにつながる運命にさえ思えたりして。
喜久雄は俊介の血筋に嫉妬し、俊介は喜久雄の才能に嫉妬し、家族や梨園や世間の風当たりに何度となく彼らは引き裂かれる。
そうなのよね……二人にはそれぞれそりゃぁ女子は介在するし、それぞれ子供ももうけるけれど、やっぱり、ニコイチの男子二人、なんだよなぁ。それも美しい女形同士で藤娘、娘道成寺を双子姉妹のように演じる。これは女子は嫉妬するさぁ……美しすぎるんだもの。
ケンワタナベ扮する半二郎の代役として、まさかの喜久雄の抜擢から物語は急速に転がり出す。かなりのスパンで、俊介、喜久雄のブランクが描かれる。双方、地方のドサ回りを経験するのだけれど、それをリアルに描写されるのは喜久雄であり、打算でちょっかいかけて、うっかりついてこられちゃった先輩役者の娘ちゃんとのシークエンスが……なかなかにツラいんである。
でも、ちょっとズルいとも思っちゃう。俊介のブランクは、すっかり行方不明のように扱われ、実はドサ周りをしていたんですよ、と収められ、それを前提のようにして、喜久雄の辛いドサ周り日々が描かれるのだが、きっと、恐らく、喜久雄は、打算でヤッちまった彼女のことを、愛してないんだもの……そこが、俊介と違うところなんだもの……。
そもそも、喜久雄の恋人であった春江なのに、俊介に奪われたことになんのショッキングな描写がなかったのが、これはもう、意図的だと思って……。恋人をとられたことなんてどうでもいいのだ。だって喜久雄は恋人と思ってなかったんだから。
いや……ここんところは、難しい。喜久雄は歌舞伎役者になることにとにかく執着していた。そのことが段々と判ってくると、先輩の娘ちゃんをいてこましたのは、やっぱりそういうことなのかなと思った。
ドサまわり描写は辛くて、クソ客にボッコボコにされたりもする。でもその時確かに、駆け落ち同然に同行していた彼女は、このあたりから、なんだか存在を感じなくなってたんだよな。
でも、難しい。この時代設定では必須で役者のパートナー、つまり、女子の恋人は彼を支える必須の存在なんだけれど、それまでは確かに、ついてくわ!!と森七菜氏演じる彰子がいた筈なんだけど、いない、いつのまにかいない。
あでやかな舞台上の喜久雄にぼおっとした客とその取り巻きが、酒の勢いで起こしたトラブル。今の時代、叫ばれ、考えさせられる、性差、多様性を突きつけられる。
フェミニズム野郎は、どうでもいい方向に行っちゃいがちだな。俊介が父親譲りの糖尿病で義足になった先の舞台とか、いや、そもそもの、彼らの断絶を起こした襲名のこととか、あるんだけど、そーゆー重要なことは、きっといい感じにまとめられていると思うからさ(丸投げ……)。
とにかく、信じられない、歌舞伎の女形の完璧さ、そして妙齢男子二人の腐女子爆発。マジで女子いらんやんて。あぁイイもの観た!大満足。★★★★★
一体あの時、私は何をしていたんだろう。あの一瞬だけの日々、というには遠く年老いてしまったから、まるで想像が及ばなかった、いや、漠然と、可哀想だな、だなんて無責任なことは思っていた。たった数年の学生時代という時を、コロナが襲った彼らのことを。
コロナが襲った直後から、クリエイターたちはいわば責任と自覚をもって様々にあの時を刻印しようともがいていたと思う。その時々の作品はどれも素晴らしかったけれど、やっぱり、あの頃を客観的に見られるだけの時間が経って、そしてその当事者だった人たちがまだまだその途上にいる若さで、という今のタイミングが、こんなにも珠玉の作品を産み出すんだなぁ、と思って……。
それはまず、素晴らしい原作があり、それを、当時の記憶を鮮明に残す若い役者さんたちが体現することによって、本当に魂が、気持ちが、震えることがあるんだと、奇跡のタイミングってやっぱりあるんだなぁと、思った。
天文、というのが思いもかけぬアイディア。でも確かに原作者の辻村深月先生が言うように、野外ならば、というのはそうだよねと思う。
もちろん、そう上手くはいかない。本作に描かれる風光明媚な田舎町、人も少なく、青い空と青い海が開けていて、感染なんてしないよと思う場所でさえ、マスクをし、距離をとり、よそ者(特に東京)からの人を病原菌扱いにし、関わる人たちを戦犯扱いして村八分にする。私は東京にいてそれを見ていて、だから実家にはおいそれと帰れなかったことをまざまざと思い出す。
本作の中にも、五島列島への離島留学で来ている高校生のうち、帰省している間にコロナが蔓延し、島に帰れなくなった男子高校生が描かれる。そして、島に残っている留学生たちもここぞとばかりによそ者扱いにされる。地元の女の子も、旅館を営んでいることで苛烈な差別にあう。
ほんの数年前、まるでそれが正義のように横行したことを、それは東京もあったし、全国であった。でもそれはさ、大人の目から見れば、あーあ、こーゆー、視野の狭い人たちっているんだよね、と思えるけれど、子供たちは。親のなりわいがそうであったら。
そしてそのことによって、友達とも距離を置かれる。その友達だって、苦しい。でも、自分の家にはおじいとおばあがいるから、そしてお姉ちゃんが医療従事者だから、とかもう、あぁ、あの時に一気に噴出した苦しいこと、理不尽なこと、絶対におかしいのに声をあげられなかったことを数々思い出して、それが、子供と言うことで頭を押さえられるティーンエイジャー達だったんだと思ったらもう、胸が締め付けられる。
オフィシャルサイトの写真でも、キャストの紹介はみんな、劇中と同じくマスクをしている。まさに当時そのもので、監督さんが語るように表情がほとんど見えなくなるリスクはあるけれど、これがあの時だったし、マスクで半分以上顔を覆われていても、若き彼らの感情はめちゃくちゃ伝わってくるのだ。
天文、そう、天文なのだ。まず主軸となる茨城の高校の天文部。一気にコロナが広まって、活動が制限されてしまう。この年の新入生の亜紗(桜田ひより)と凛久(水沢林太郎)は、それぞれにアツい天文への想いを持っていて、入部の時から戦友である。
物語の冒頭は、亜紗が憧れる女性宇宙飛行士のトークショーに足を運んでいるシーンから始まる。実に粋な答え合わせを用意して、ラストシーン、ここに戻ってくるんである。
五島列島は、先述したような村八分状態、その中で天文台での観測イベントがそれぞれに固まった彼らの心を解きほぐしていく。天文台の館長を演じる近藤芳正氏が凄く良くて、いや、てか、メインとなる茨城、五島、東京、それぞれの大人たち、つまり子供たちを指導する立場の教師である彼らもまたメチャクチャ、イイんである。
あの時、私も大人の一人だったけれど、そりゃそれなりに大変なことはあったけれど、基本的には引きこもっていればいいから、楽だった。だから、そのことに対する罪悪感もなくはなかったけれど、ただ楽をしていた。
でもあの時、一生に一度のかけがえのない学生生活を送っている子供たちと、その一番近くにいた指導者の大人たちのことこそを、考えたことがなくって、めちゃめちゃ、刺さったのだった。
そりゃ、安易に言える訳がない。今はしょうがない、いつかは、だなんて。中学、あるいは高校の3年間、たった3年間、コロナがいつまで続くかも判らないのに、部活は自粛だとか大人はあっさり言えるよね、と言われたら返す言葉なんてない。
その当時の先生たちの、大人の立場故の苦悩が、そうか、全然思い至らなかった。大人という立場ならやり過ごせるだろうと思っていた自分を恥じてしまう。
天文、という、思いがけない世界が、この三カ所の中学生、高校生を結びつける。茨城の天文部の高校生たちが、これまでは自分たちの部活合宿でやっていたスターキャッチコンテストを、学外に発信して、オンラインでやろうと企画する。
オンライン。コロナはにっくき敵だったけれど、それまではなんとなくとか、大企業でしか出来ていなかったオンライン、在宅、リモートを飛躍的に普及させた。と同時に、世界中を一気に狭くした。
確かにあの時、東京は病原菌扱いされて、帰省も旅行も出来なくなった。そういう意味では分断された。でも、どんなに遠い場所にいても、しかも複数で一気につながることが、それ以前もなくはなかったけれど、どこか近未来のマンガチックに感じていたことが、普通になった。
誤解を恐れずに言えば、戦争は絶対にダメなことだけれど、ダメだということが確立される以前のその悲劇によって、あらゆる技術が飛躍的に発達したことは事実で、なんだか神様に試されているような気がする。
提唱した茨城、五島は高校生たちだけれど、東京組は中学生なんである。たった一人の男子一年生を強引に理科部に引き込んだ女の子、この男子のサッカーの先輩が高校で宇宙線を研究していることをきっかけに、フテていたこの男子中学生ものめり込んでいく。
茨城、五島、東京と、場所は違えど、何か全然変わんなくて。今どこの彼らを描いているのか、混同しかけるぐらい(それは私が単についていけないだけ(爆))。
このスターキャッチコンテストというのが、めちゃくちゃイイのだ。まず望遠鏡は手作り、あらゆる星の位置を予習しておいて、出題されたら即座に望遠鏡の位置を定め、捕らえ、ジャッジされる。
天文部、という、まぁ偏見的に乙女女子ロマンチック部活と思っていたのが、望遠鏡の設計を目標にする部員がいるし、このコンテストは自作の望遠鏡が必須だし、星の等級、正確な位置、望遠鏡の正確な固定と、めちゃくちゃストイック。
しかもそれが、当然夜空の、夜に行われるワクワク感といい、これは知らない世界だったなぁと思う。
でも、これは勝ち負けじゃないのだ。それまではサッカー部だったから、勝負の世界にいたであろう中学生男子が、そもそも勇気を出して茨城の高校生に連絡をとって参加することになって、星を覚えて位置を覚えて、めちゃくちゃ善戦して、だから負けて悔しそうにしていたのを、彼を誘った女の子は言ったのであった。これは勝ち負けじゃないんだよ、と。
ハッとした。文化部にもアスリート的側面はあるというスタンスでの描き方だと思って、そういうの、あるじゃん、吹奏楽とか合唱とか、「ちはやふる」で有名になった百人一首とかもさ。それらも勝ち負けがひとつのスタンスになっていた、確かに。
でもそうじゃないのだ。確かに勝負事にはしていたし、いち早く星をキャッチすることに力を合わせて、盛り上がってはいた。でも、星を、悠久の世界である星を、それぞれ会えない距離であるところから、一緒の星を見ていることが、大事なのだ。
やだ、なんかベタなこと言っちゃって、ちょっとハズかしくなった。でもそれを、本作は、あの稀有な災厄を通じて描いてくれたのは確かなのだった。
みんなそれぞれ、個性的なマスクをしている。今現在、いろいろ落ち着くと、みんな不織布マスクになったけれど、当時は不足していたこともあって、手作り布マスク、ウレタンマスク、昔ながらのガーゼの、いわゆるアベノマスク、と千差万別で、これまた当時、あれこれ苦言を呈されていた記憶を思い出す。
三カ所それぞれの青春模様が刻まれるのだけれど、やっぱり女の子同士の友情が残酷に引き裂かれ、それが心優しき男の子たちによって修復されていく、しかもその先には、三角関係まで発生する、という五島の高校生たちがキュンキュンきちゃったなぁ。
いやでも、やっぱり、そもそもの、この企画を立ち上げた、茨城の天文部の高校生たちである。本作のヒロインである亜紗は、女性宇宙飛行士、花井うみかに憧れた幼少時代から、ぶれずに今ここにいる。
彼女の同士ともいえる、同時に入部した凛久はナスミス式望遠鏡を製作し、姉にそれを見せることを目標にしている。車椅子ユーザーのこのお姉ちゃんと凛久、そして亜紗が同じ時に、花井氏のトークショーに参加して、感銘を受けていたことは、観客だけに知らされることなんである。
凛久たちきょうだいの両親は、コロナのあれこれもあって離婚することになり、凛久は高校なかばで転校を余儀なくされてしまう。これはね、本当に悪しき、子供は親の都合に合わせなければならないという、本当に悪しき習慣が産む、子供への強制。
共に苦しい時期を乗り越えて、オンラインコンテストを大成功に導いたのに、凛久が悄然と帰って行ったのを、屋上から発見されるシーンがきゅーんとくる。いかにも地方の空いた、ガタンゴトンとのんびり走るローカル列車のなかで、凛久はずっと言えていなかった両親の離婚による転校を告白するんである。
動揺した亜紗を先輩がぎゅーってする、ローカル列車の中のシーンから、もう私の心の震えは止まらなかった、気がする。
あの時の若き彼らの、まだ未成年であり学生であり子供であることでどうしようもなかった苦しさを、身勝手な大人であった自分たちに突きつけられて、無力であることを突きつけられて、そして、でもどうしようもなかったあの時を思って、締め付けられてしまう。
本作はね、いろんなことを思い出す。実際、あの時一番苦しかったのは、本作で描かれていたように若い学生たちだったと思う。大人たちは、もちろんあれこれあったけれど、それなりに諦念があって、やりすごすだけの適当さがあったから。
でもあの子たちは……なぜ、それを、きちんと思いやってあげられなかったのだろう。でも、その中で彼らがきちんと、きちんとどころか、200%な力を発揮して、大人を巻き込み、勇気を振り絞り、オンラインスターキャッチコンテストを見事成功させたのであった。
大人たちもまた、凄く良かったのだった。文化部顧問あるあるなのかなぁ。全然経験がなくて、おろおろしちゃって、でも生徒たちの熱意に押されて頑張る、みたいなスタンスが可愛くて、これって、運動部や、文化部の中でも伝統ある吹奏楽とかではないだろうなぁ。
だからこそ、先生同士で、子供たちのためにと結束するのがメチャクチャ胸アツで、これってさ、確立された部活動ではありえないと思うし、大人となった自分を顧みると、大人になって得られるコミュニティって本当に少ない、それが、部活動の顧問でさえないなんて悲しいけれど、こんな奇跡があるのならと……。
そうね、本作は、もちろんティーンエイジャーの闘いにこそムネアツだけれど、自分と年の近い教師たちの、大人だから経験豊富な筈なのに、ここにきていきなり初体験にぶつかって子供たち共に闘って乗り越えた、先生たちの頑張りに心熱くなってしまった。
星、っていうのが、やっぱりいい。離れた場所で、オンラインでつながって、同じ空を見る。
ラストには、無数の参加者が画面を埋め尽くし、まさに涙腺が崩壊する。コロナは憎いし苦しかったけど、いつだって、なにがあったって、だからこその今があるんだなぁと思う。-★★★★★