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「と」


1999年鑑賞作品

透明人間と蝿男
1957年 96分 日本 モノクロ
監督:村山三男 脚本:高岩肇
撮影:村井博 音楽:大久保徳二郎
出演:品川隆二 叶順子 鶴見丈二 北原義郎 毛利郁子 中条静男


1999/7/7/水 ビデオ(富岡氏所蔵)
いやー、驚きました、私。何がって、だって蝿男なんだもの。人間の身体と合体する蝿男じゃなくて、蝿に変身する蝿男。劇中の新聞記事でまんま「蝿男の恐怖」の見出しが出て、えええ?と思って調べたら、かの「ザ・フライ」のオリジナルで、原題はやっぱり「THE FLY」だけど、邦題が「蝿男の恐怖」になっているあの蝿と合体するホラー映画は(なぜかビデオ持ってる……なぜ持ってるんだろう、私。)、この作品より1年前の製作で、しかも日本劇場未公開。じゃあ、あの日本タイトルは、この作品から取ったということで……お見それいたしました。

それで、そうそう、これは透明人間と蝿男の話。そしてまたまたむちゃくちゃシリアスなのである。戦争が影を落とすのも、他の大映変身ものと同じ。ここでは戦犯の問題が絡んできて、戦後10年あまりという、混乱が収まり、そうした複雑な問題がまさに噴出してくる時代であり、白黒の、光を抑えた画面が一層陰陰滅滅としてくる。51年が日本映画で初めてカラーが出てきた年ではあるが、ちょうどこの年の前後ぐらいがモノクロとカラーが入れ替わる時期に当たり、その中で、SFという娯楽ものに区分けされる作品にモノクロを選択しているというのは結構興味深い。でもなんたって透明人間と蝿男なんだから、やっぱりモノクロがあってるかな。

劇中の“科学的説明”がちゃんと説得力があるのが、毎回変身人間もので感心することの一つ。宇宙光線の実験中に偶然生まれた、可視光線の逆の波長を持つ不可視光線、これを当てると、透明になるというよりは、人間の目には映らなくなる。そして、太陽光線を長く浴びている顔や手は透明にはならなかったり、もとに戻す光線を当てると全身にガンがはびこって死んでしまったりと、妙にリアリティがあるのだ(もちろん、後々完全な光線が完成するのだけど)。

その透明光線を狙ってくる敵の蝿男。蝿のサイズに小さくなることによって、完全犯罪を成し遂げ(これも変身人間もののお約束だあな)、警察を翻弄させる。黒幕が仕掛けた初代(?)蝿男が女と薬におぼれてみさかいなく人を殺しまくり、変死を遂げてしまう。アヤしいキャバレーで半裸で踊る踊り子の描写も、この変身人間ものには必ずと言っていいほど出てくるんだよね……この時代の風俗の特徴なのかなあ。それにしても街中に蝿男に注意するポスターを貼り、宣伝カーで「あなたのすぐ側に蝿男はいます。ご注意下さい」ってのには笑った。どう注意しろって言うんだか!まさしく頭上注意と同じで、注意しようがないんである。

その蝿男との対決のクライマックスは、ヘリコプターまで動員しての(ヘリって、お金かかるんだよね……)気合の入ったスペクタクル。女性がちょっとだけど活躍するのも嬉しいんである。★★★☆☆


どこまでもいこう
1999年 75分 日本 カラー
監督:塩田明彦 脚本:塩田明彦
撮影:鈴木一博 音楽:岸野雄一
出演:鈴木雄作 水野真吾 芳賀優里亜 堀広子 松本きょうじ 若菜江里 石井和香 中村久美 津田寛治 木下ほうか

1999/10/29/金 劇場(ユーロスペース)
夕暮れは子供の時間、と言ったのは、新井素子氏だった、と思う。それも、空が茜色になるとか、そういう画的にもロマンティックな早い時間ではなく、もっと遅く、あと数分で夜の暗闇が支配するような、お互いの顔の判別がつかなくなるような夕暮れ時。そしてこの子供の年は厳しく限定される。明るい太陽の下で無邪気に遊ぶのが似合うひとケタ年齢ではいけない。夜に自分の時間を多く持つようになる中学生でもいけない。だんだんと周りが見えてきて、無邪気さだけを保つには難しくなってくる、さりとてまだそれを手放すのは惜しい年頃、10歳頃の子供たち。まさしく本作の子供たちがそうなのだ。

そして本作で印象的なのはまさしくこの遅い夕暮れ時。雨が降っているのか、石畳が濡れて光っている行き止まりの道、ライトもない、影も出来ない薄暗やみの公園。そこで彼らは一人だったり二人だったり三人だったり。でも何人でいても彼ら一人一人が孤独を抱えはじめている。それまでの年では感じていなかったものを。孤独は大人の象徴でもあり、アイデンティティの別名でもあるかもしれない。

そう、同じ子供映画でも、これが例えば「ズッコケ三人組」だったらそういう影が微塵もないのは、彼らが3年生とか、4年生とか、そういう孤独を持つ前の年頃だからだ。遊びのことだけを考えて夢中になれる時代だから(ま、現代だとそうもいかないのだろうけど)。10歳になると、例えば判りやすい形で女の子で早い子には生理が始まってくるし、身体的な変化も現れ始める時期。否応にも自己と向き合わざるを得なくなるのだ。5年生という、いわゆる高学年に属することも大きい。教えを請うだけの存在ではなく、かといってすべての責任を負わされる6年生とは違う微妙な年頃。

本作の中で、メインキャラの一人の子が死ぬ。家庭の事情ってやつに巻き込まれて、母親と心中死してしまうのだ。この“死”という感覚を具体的に取り込めるようになるのもこの年頃からのように思う。子供と親の心中死……大林宣彦監督の「ふたり」を思い出す(あれでは子供は生き残ったけれど)。親に従属するしかない痛ましい子供の死。

この死んでしまった男の子、野村が、その前に主人公アキラの家に訪ねてくる。アキラはこの男の子の意外な才能……器用にミニチュア模型を作る……で彼を見直していて、彼に友情を感じ始めていたのだけれど、“親友”である光一の誘いによって、野村の誕生会をすっぽかしてしまったのだ。野村は自分が離婚した父親に引き取られるのでもうお別れかもしれない、と言って、アキラにコンバットのミニチュア模型をプレゼントしてくれる。窓から紙飛行機爆弾を飛ばす遊びに興じる二人。そこだけ永遠に続くかと思われる少年の時間。

この男の子の死にしても、悪魔的な転校生の出現、アキラと光一がヤクルト強奪をするイタズラ、ピストル花火をする夜遊びなど、さまざまな出来事の間にはさしたる因果関係はない。そのエピソード間は拍子抜けするほどあっさりとつながれる。それが子供の特異な才能のように思う(でも、冒頭の、土手から投げ出された金の入ったカバンをガメたエピソードがそのまんまになっているのだけは気になるけど……だって、新聞のコラム記事の隅に映り込ませるなんてことまでするから、絶対その後、一波乱あるのかと思ってたのに)。どんな歳の人間でも、生活はこんな風にいろんな出来事が関係なくつなぎ合わされているのだけど、大人になってくると、自分の核をすえて(それは仕事であったり恋愛であったり、もっと抽象的な悩みや楽しみであったりするんだけど)、それに従って自分自身で物語を構築するようになる。毎日自分でひとり芝居をしているようなもんである。でも子供は、自分と出来事を別物として関係させている。だから楽しいことと哀しいことを同時に存在させることが出来る。哀しいことがあっても楽しいことは楽しいし、ごはんだっておいしいんである。ラッセ・ハルストレムの「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」がそれを魅力的に描出した傑作だった。

でも本作の子供、特にひょろりと背が高く、みんなよりひとつ頭が出てるぶんだけ大人びているアキラは、次第に哀しみを核にして自分を構築するようになっている。野村が死んだ時、彼は他のこと全ても哀しく見えはじめている。夕暮れを一人で歩く。彼の後ろ姿はもう哀しみと孤独を知ってしまった大人なのだ。

多分女の子は男の子より少し早く大人になる。「男子って、バカだよね」「超バカ」という女の子の言葉は、単にバカにした言葉というよりも、先に大人になっている女の子の、ちょっとした母性本能が入った言葉だと思うのだ。……それをそう感じて言わせているのかどうかは疑問だが……本作では男の子の、あるいは男性監督の視点で描かれているから、女の子の描写には多少不満が残るので。ラスト、なだらかな緑の丘で仰向けに横たわるアキラに近づいてきて隣に腰をおろし、子供お菓子の決定版、ビスコ(私はカルケットが好きだが……関係ないけど)をくれる女の子、本橋。彼女が去った後、一人飛び上がるアキラ。子供お菓子によって、異性を意識するという大人への階段を一歩登ったアキラ。やはり先導するのは先に大人になった女の子なわけで。この本橋を演じる芳賀優里亜の鋭い目線はほんとに色っぽさを感じて魅力的で、監督もこの眼力?には参ったんじゃないかと思うほど、彼女の睨み付ける顔が何度となく出てくる。それも、振り返りざま、肩越しにガン飛ばすんである。スゴイ迫力!

主人公のアキラを演じる鈴木雄作、まるでトリュフォーの「大人は判ってくれない」のアントワーヌ・ドワネルのよう。そういえば年頃も、あちらの設定は12歳で、まさしく、ギリギリこの“夕暮れ時”の子供だ。友達のつながりを示す魅力的な言葉であった“親友”の定義も崩れ始め(この年の頃って、ほんと、親友とかって言いたがりだったよなあ)、死の意味を身を持って実感し、でも自分の感情をどう持っていけばいいか判らない、自分が苛立っているのがどうしてなのか判らない、突如として異邦人になったような孤独にとらわれた少年の時。彼、とにかく“つらがまえ“がいい。非常にいい男になる、いやもはやいい男だ!写生会の時、野村に声をかけた時の目配せのカッコよさときたら、小学生に対してドキドキしちゃったよ。10歳やそこらでそんなに色っぽい手をしてるんじゃないよ、全く!

テーマ・ソングであるピアニカメインのアンサンブル「史上最大の作戦」がハマリすぎるほどにハマっている。野村の残した写生会での絵、湖の周りをコンバットスタイルの二人(野村とアキラ?)が走っている絵、もはや戻らない少年の時が封じ込められた絵にも重なっていって強く印象を残す。★★★★☆


ドすけべ母娘
1995年 50分 日本 カラー
監督:松岡邦彦 脚本:瀬々敬久
撮影:音楽:
出演;葉月蛍 吉行由美 馬場衝平

1999/2/24/水 劇場(亀有名画座)
なななんと、瀬々監督が舞台挨拶に来ていてびっくり仰天。何でも監督が中心になって今回のラストショーの特集上映が決定したらしい。それで、ヒロインの葉月蛍さんが来ていてまたまたびっくり。実際にはなかなかピンクは観られなくても、ピンクの主演女優として何度となく名前を観ているし、一度だけ一般映画の「京極真珠」で主演者の一人として観ていて、その独特の空気の発散のしかたにメロメロになっていたのであった。

冒頭、最初の雨粒を口で受け取ろうとしている葉月さん。「あ、入った」と言う彼女にそばにいた男の子が「嘘言え、降ってねえじゃんか」と言ったとたんにどしゃ降りの雨が降ってくる。灰色の墓石がしっとりと濡れていく。この舞台はどこだろう。今も昔もあるようでないような湿り気のある田舎町。赤いスカーフのセーラー服や、きっちりカラーをつけている学ランがますますそんな幻想性を醸し出す。男の子が彼女を愛撫しても気が乗らないからと振り切り、母親が連れ込んだ男とセックスしているのを覗き見しているときも、その後トイレで自慰行為にふけっているときも、いやその後のすべての性的行為において彼女はなにかとても淡々と超越していている。

母親の男を連れ込んで「あんたとずっとやりたいと思っていた」と言う彼女に、彼女の母親に対しては執拗な愛撫を繰り返していた男が、まるでレイプさながらにただ挿入するシーンの寒々しさ。帰ってきた母親に「あの男とやったよ、(座って足を開いて)ここでしたよ、こういうのって母娘(おやこ)どんぶりっていうんだよね」と言う彼女につかみ掛かる母親。母親を殺すために、バルサンの缶を横から開けてすり鉢ですり、母親の薬とすりかえた後、突然場面が飛び、切り立った崖のある波の荒い海に続いたアスファルトの道路をふらふらと歩いてきて倒れ込む彼女の姿をロングで捕らえた画に惚れ惚れきてしまう。彼女はあの男の子供を身ごもってしまったのだった。

場面は変わってもその海と、湿った感じの砂浜に、やはり湿り気を感じる。妊娠、というのにもどこか湿り気を感じるし……。彼女がその砂浜で男とセックスをするシーンで湿った砂と彼女の真っ黒な長い髪が真っ白な肌に吸いつく、二人で果てた後に満潮になったのか、波が忍び寄ってくる……美しい。その二人の行為を高台から見下ろす先の男の子を小さく捕らえたショットもたまらなくいい。その男に「妊娠しちゃったみたい、判るの。子宮を直撃(!)って感じ」と言う彼女。その男と空き巣をする場面で暇つぶしなのか、ガスの元栓に風船をあてがってふくらませ、何個も色とりどりの風船を部屋中に撒き散らしているシーンもすごく印象的だった。だってなにか、子宮の中身を想像させるんだもの。手塚治虫の「ブラックジャック」で中絶した少女のお腹の中身がこういう描写で描かれてたのを思い出したりして。

そうその、彼女を探しに来た男の子が、走る彼女を追いかけ、二人して交互に転び「思い出したんだ。臨海学校で来た、どこまでも続く砂丘って、ここのことだろ」と彼女に言う。その後静かにその砂丘でセックスする二人。男の子が彼女の作った風船に誤ってライターを近づけてしまって爆発させてしまう。重傷を負った男の子を砂丘に引きずってきた彼女が「死なないで、ねえ」と言って唐突にカットアウト。……やられたかもしれない。★★★★★


ドッグス
199 年 78分 日本 モノクロ
監督:長崎俊一 脚本:長崎俊一 中島吾郎 桜井恵子
撮影:本田茂 音楽:近藤等則
出演;水島かおり 遠藤憲一 諏訪太朗 塚本晋也

1999/2/19/金 劇場(ユーロスペース)
長崎俊一監督の前作「ロマンス」にはさしたる感慨はなかったんだけど、キャストに塚本晋也監督の名前を見つけて観に来る気になった。確かに塚本監督は相変わらずいい味を出していたけど、やはり脇役で、私の目を釘付けにしたのはヒロイン、笠谷を演じる水島かおりの驚きのクールさなのだ!本当に驚いた。彼女がこんなクールなハードボイルドな女刑事を、しかもハマリ役で演じられるとは!世界一好きな映画「青春デンデケデケデケ」は何十回も観たせいもあって、私の中の水島かおりといえば、あのきっぷのいい“兄ちゃん”のイメージに尽きていたんだけど、もうこの水島かおりには参った。惚れたね!自分の奥さんをここまで女優として開花させる長崎監督に脱帽である。

彼女は笑わない。共犯関係にある寺西に「初めて笑ったところを見た」と言われるのと同じく、観客もそこであ、初めて笑った、と思うのだ。そして、笑顔は本当にそこだけ。バサバサに長くのびた前髪の下からまっすぐに見つめる視線。彼女は、ガソリンが漏れ出た車に火のついたライターを落とそうとした遠藤憲一扮する寺西宏一(「とどかずの町で」の監督、主演の人の名前だ!と思ったら、あちらは大西功一であった……)を車中から救い出す。もう一人は車内で炎上。「助けてくれない方がよかった」とつぶやく寺西。これが引き金になったのかどうか判らないけど、彼女はこの出来事を事故として処理してしまうのだ。

……この笠谷のいいところ(?)は、刑事としての正義感とかそういったものには興味がないところ。なんたって冒頭のモノローグで“ブラウン管に支配される日常に嫌気がさしてこの職業を選んだ”てなことを言うくらいだもの。それはでもこの警察の描写にも言えることで、とはいうものの登場するのは笠谷と彼女の上司である虻川(諏訪太朗。いい上司だ!)の二人だけで、あとは会話で説明しているだけなんだけど、他に重要な事件が持ち上がれば、他の事件の捜査は縮小され、事実上の解散になってしまったりする。「踊る大捜査線」ですみれさんが言っていた、「事件に大きいも小さいもない」というのはやはり理想に過ぎないのだ。

笠谷は感情を全く表に出さないし、いつも黒のパンツスタイルで髪を風に遊ばせて早足で歩き回り、その中にすべての激情を押し込んでいるように見える。寺西に対する感情も、けしてスクリーンのこちらがわに気取られることなく、寺西と二人でゆすり犯を追いつめて屋上から突き落としてしまった後に、彼の部屋でその興奮が爆発したように彼を求める笠谷に寺西同様(彼が最初本当に呆然としている様が面白い)驚いてしまうのだ。……いや、驚くけれども、やはりどこかで微かに笠谷のその気持ちに気づいていたかもしれない。寺西を見舞いに行くのをためらっている笠谷の姿に、いや、その前に、寺西の呟きを聞いている笠谷の、一見無表情に見える表情に彼に対する思いがにじみ出ていたのかもしれない。

彼女と寺西の会話はひどくドライで、事件の処理に関することで終始している。だからこそ本当に時々発せられる“恋人の会話”「あなたが捕まるなんて絶対嫌」「信じたいけど信じられないんだよ」にハッとさせられるのだ。しかし、例えばこの二人が結婚するとかがどうしても想像できない。この二人はギリギリの状況でどうしようもなく惹かれあってしまった刹那の二人なのだもの……。寺西を捕まらせないように立ち回り、どんどん泥沼に入っていく笠谷。証拠のネガを探すためにゆすり犯の部屋や探偵事務所に忍び込み、その現場を見られた事務員を殺し、現場に火をつけ、その事実を知られた虻川刑事に「自首して欲しい」と言われるものの、連続殺人犯(塚本晋也!)を追いつめ射殺したことを利用して振り向きざまに虻川刑事までも殺し、その罪を連続殺人犯に負わせる。そこでも彼女の表情は変わらない。いや、微かに哀しげな光をその瞳に宿らせたような気がするけれど……。

「人が死ぬってどういうこと?」「その人の思い出や記憶が残ること」「人を殺すってどういうこと?」……モノローグの静かな響きがたまらない。その後、彼女が往来に荷物を置いてしゃがみこんでいるところで唐突にカットアウトされてエンド。寺西と再会するところが描かれないことがショック……いやそれこそが完璧だ。

デジタルビデオによる作品ということだけど、こんな映画的な映画があるだろうか!この前のキネ旬ベストテンの選考でどっかのキネ旬友の会の選考委員が「ビデオで撮られたもの(「A」)や、テレビ番組の延長線であるもの(「踊る大捜査線」)は映画ではない」なんてほざいていたが、アホである。少なくとも私にとって映画とは、劇場にかかりさえすれば、いやもっと言ってしまえば、映画的、これは映画だと感じられさえすれば映画なんだ!反対に最初っからフィルムで撮られていたって、こんなのテレビドラマで充分じゃない、と思う映画の方がよほどたくさんある。とにかく、この「ドッグス」に関しては誰にも文句は言わせない!

それにしても「女刑事RIKO 聖母の深き淵」といい、この「ドッグス」といい、本当にハードボイルドなのは女の方かもしれないのだなあ!★★★★★


DOG−FOOD
1998年 47分 日本 カラー
監督:田辺誠一 脚本:田辺誠一 椎名英姫 スミマサノリ
撮影:福本淳 音楽:MOKU
出演:田辺誠一 椎名英姫 アベディーン・モハメッド+リズム 友田誉子

1999/5/14/金 劇場(ユーロスペース)
孤独、孤独、孤独!主人公である田辺誠一扮する男は全身からそう主張している。好きな女との思い出を封じ込めたヨーヨーを冷凍庫の中から見つけ出した時、たまらず床にへたり込み、自殺した犬のドッグ・フードを夢中で食べるクライマックスまで。彼の飼っていた(あるいは出ていった妻が飼っていたのかもしれない)犬、パオパオは自らトラックに飛び込んだのだという。見えない犬といつのものように散歩するかのように、今はいない犬の首輪を持ったままふらふらとさまよう彼にたまりかねてそう教えてくれる通りすがりの人。

その犬、パオパオや、いつもお風呂を借りに来るイラン人(?)の男は彼を助けたいと、いつも願っていたのではないか。しかし彼は何も見ていない。妻が出ていったことや、ベトナムに赴任が決まっているという事実すら、彼の瞳には映っていないように見える。妻が出ていったのは、彼に他に好きな女がいると知ったからだというが、そのことが彼の心を支配しているようにも見えない。ただ孤独、無為。途中エレベーターの中に女や妻の幻影を見て、必死に追いかけたりもするが生身の女が彼に触れてくることはない。ふと訪ねてきた妻は、忘れ物を取りに来たと言いつつ彼にオムライス(?)を作ったりもするが、彼の心が空虚なのを見て取ったのか、彼女もまた、無言のまま出ていってしまう。彼がいつもスーツ、犬の散歩の時すらスーツで、しっかりと彼の心に鍵をかけているのを無意識に自己主張しているようだ。

ベトナムへの赴任前の一週間が描かれる本作。冒頭に荷物を整理している彼が部屋の隅から、川で犬を助けた時にダメにしたエアマックスを見つける。中盤、犬は自殺し、もうベトナムに発つという前日、犬小屋の中から犬が持ってきてしまったと思われる様々な靴を彼は発見する。「これはエアマックスじゃないよ」と苦笑しながら靴をつまみあげる彼の表情に少しだけ孤独の影が取れている。犬の心といったら変だけど、でも実際その心が彼に届いたのだろう。彼につきまとうイラン人の男とも一緒に食事をし、心を通わせる。「お前、日本、好き?」「……この家は好きだよ」この男もまた内面の孤独と必死に闘っているのだろう。ふと流れるやわらかな時間が嬉しい。

犬が持ってきてしまった靴を家の前にならべ、「持ち主の人、すみません」の貼り紙をして家を出ていく彼。扉にぶら下げられたくだんのヨーヨー。そしてジェーン・バーキンの歌声。

田辺誠一のナレーションはすこぶる魅力的だが、この言葉が何か気恥ずかしくて。あまり作品に意味を付加しているとも思えないし、私はない方が好きだなあ。映画なんだから、言葉なき言葉を聞かせてほしい。それに女も。夏祭の思い出のシーンは叙情的で美しいけど、そのヨーヨーが冷凍庫に保存されていたというエピソードも好きだけど、やっぱり何だか恥ずかしい。犬とイラン人と男、それだけで充分な気がする。 孤独な男の背景に女がちらつくのは孤独が持つある種のストイックさと矛盾するようであまり好きではない。それにやたら甘いメロディーが実に効果的なところでインサートされるのも、メロドラマっぽくてガクッと来てしまう。何か心の深いところに届くのを妨害しているかのよう。かといってそれがなかったら届くのかというと、……なのだけど。デジカメで撮ったという映像は独特の柔らかさで結構魅力的。庭に犬小屋があって、小さくて低い門があるという、つつましやかな日本家屋もいい感じ。しかしそのライオン頭で普通のサラリーマンという設定……なの?ねえ、田辺監督。★★★☆☆


トップレスTOPLESS WOMEN TALK ABOUT THEIR LIVES
1997年 90分 ニュージーランド カラー
監督:ハリー・シンクレア 脚本:ハリー・シンクレア
撮影:ディル・マクレディ 音楽:フライング・ナン・ゴールド
出演:ダニエル・コーマック イアン・ヒューズ ジョエル・トベック ウィラ・オニール

1999/3/4/木 劇場(シネヴィヴァン六本木)
ええーっ!私も(何故か)女性監督とばかり思ってたよー!なんでそんな、思い込んでたのかなあ。だって、“ハリー”ってしっかり男性名なのに。“シンクレア”って名字がなんだか女性の名前っぽかったせいだろうか……。いやいや、観ている時も「やーっぱ、女性監督よねー。女が見たいと思ってる女性がここにはいる!」なぞと悦に入っていたのに、凄い悔しい!……悔しいけど、これ、ひえーっ!と思うくらい面白い!

物語は行く先々で期待(予想)を裏切られるのに、表現が破綻することはなく、この手の作品にありがちな、ナルシスティックな演出に辟易させられることがない。中絶手術の日を一週間間違えて子供を産まざるをえなくなったという冒頭からしてヒャー。トップレスの女性に人生を語らせるという??な自作品を傑作だと信じて疑わない脚本家のアントが、実はこき下ろされていたことを知ると崖から自殺を図ったのはいいが、捜索隊の狭間に呆然と立ち泳ぎしていたり。その彼が家に帰ると、アントを励まそうとしていたんだか、母親がトップレスでアイロンをかけていたのには当方も腰を抜かしたが、それを見て精神バランスを一気に崩したアントも可笑しい。

こうしたエピソードの積み重ねが構成される本作品は、破天荒でありながら、きちっと観客を楽しませることが前提にあるのだ!しかも、大筋のほかに小技も使う……主人公であるリズ役のダニエル・コーマックが実際に妊婦で、刻々と変化していく肉体をさらけ出す。ベッドの上に正座してるシーンで、太股とお腹の擦れ合う部分をアップにしてからカメラをひく、そのアップのカット、ほんとに一瞬女性の××××かと思ってどびっくり。まったく、お茶目さんな監督だ……。

そうしたある意味強烈なエピソードの中で、一番度肝を抜かれたのは、同居を解消して出て行こうとしたニールが「本当は君を愛している」「知ってたわ。実は私もなの」と言って、見てるこっちを幸せドキドキ気分にさせておきながら、次のカットでプルーに電話しているリズが「嘘をついちゃったの。出産のときに一人は嫌だから、つい彼を愛してると」!!!どっひゃー!である。しかも、彼女の言葉に有頂天になったニールがリズの元彼のセックスマシーンで手芸オタク、ジェフに彼が送ってきた赤ちゃん用の毛糸の靴下(お手製!)を叩き付けてこれ以上付きまとうな!と言うべくバイクで意気揚々と出かけたら、こちらはこちらでタイヘンな状況にあってガールフレンドを猛スピードで追っかけてるジェフの車に接触、崖から落っこちてしまう!虫の息でぶっ倒れているところになぜかヤギがやってきて(めんこいヤギだ)不思議そうに彼を見つめたりするのが、私、ツボに入っちゃって抱腹絶倒!そんでもってほんとにニール、死んじゃうんだもの!アゼン、である。

その頃、ガールフレンドに去られたジェフにまたしても口説かれている最中急に産気づいたリズが、冒頭、中絶手術に向かう時と同じように往来でヒッチハイクをするものの、つかまらず、たまたま通りかかった(プルーを刺した後の!)アントに助けを求め、病院が見つからないまま、これも病院だからいいだろうと何と獣医に連れ込む!それも、(妊婦だから)お腹がせり出て足が開いた状態の彼女を、後ろから脇に手を引っかけてずるずるバックしていくという運び方が、もう可笑しくて可笑しくてたまらない。そこの獣医さん、動物の手術中で「これが終わったらすぐ行く!」なんて言ってくれるんだけど(それも凄いよなー……)それを待てず、騒ぎ立てる動物に呼応するかのように、息み、するっと子供を産んでしまうリズ!

あんなに「一人で産むのは恐い」と言っていたのに、いざ産んでしまえば女性天下、ラストは彼女が友人の女性たちに囲まれて赤ちゃんをあやしているという、まったく女性がシンパシイを感じる(男なんていらない!という)ものだったから、絶対絶対女性監督だと思ったのに。女性でなきゃ描けないと思うことでも描ける男性がいるなんて……もう、凄い悔しい!!★★★★★


富江
1999年 95分 日本 カラー
監督:及川中 脚本:及川中
撮影:鈴木一博 音楽:二見裕志 木村敏宏
出演:中村麻美 菅野美穂 洞口依子 田口トモロヲ 草野康太

1999/3/31/水 劇場(新宿ジョイシネマ3/レイト)
雨の中精神科医細野辰子(洞口依子)の元を訪ねてくるトモロヲさん、どう見たっていつもどおりのヘンな役かと思ったら、何と刑事役!初めてではないだろうか、しかも、似合わない(笑)。洞口依子は「CURE」の時の役をほうふつとさせる、淡々とした表情と口調が逆に恐い。その刑事が持ってくる集合写真の、中央の女の子の顔がえぐりとられている。二度殺され、何度となく殺人事件のファイルに名前を残し、さかのぼると明治時代にまでその名がある謎の少女、川上富江。

買い物用のビニール袋に目だけのぞいている。それをがらんどうの部屋に持ってかえってヨーグルトを食べさせる男。次のシーンには髪の長い少女が後ろ向きに鏡の前に座っていて、しかし彼女の顔は現れない。そしてまた次のシーンには、明らかに成長した少女の、またしても後ろ姿。懇願する男を振りきって出て行く少女「何でもしてくれるの?(突然ドスの効いた声で)だったら死んでよ」この台詞、この声で、ああ、やっぱり菅野美穂だ!と確信。外見は清純なのに、なぜかファム・ファタルが良く似合う彼女、いや、そのロリータ的な所が第一条件なのかもしれない。

その少女の描写と平行して、交通事故(と本人は思っているが実際は富江との確執、事件)後の記憶の不備、悪夢から来る不眠症で精神科医の元へ通っている泉沢月子(中村麻美)。彼女の周りでおこる数々の奇怪な殺人事件、そして富江との再会……。「私のことを忘れちゃうなんてひどい、あんなに仲良しだったのに。」殺されても再び蘇る富江「あなたに言い忘れていたことがあったの、あなたは私、私はあなたなのよ」月子にキスする富江、少女同士のキスシーンは柔らかく、美しく、恐ろしい。

富江を爆発させて永遠に葬り去ったと思った月子、鏡を見ると富江と同じ、左目の下にホクロが出来ている。思わず鏡を覗き込む月子。その隣にふっと顔をならべる富江……。

光沢のない暗い色調の画面が日本的ホラーの恐怖を醸し出す……といいつつ、正直全く恐くなかったけど。音楽を使わなさすぎるのもメリハリに欠けて、集中しにくい。ストーリーもところどころ意味不明な箇所があるし(それはただたんに私がふと居眠りをしている間に判らなくなってしまっただけかも……)。富江に扮する菅野美穂が一人、その奔放で魔性な魅力を放っていてこの作品を持たせてるという感じ?★★★☆☆


トランスミッション trancemission
1999年 74分 日本 カラー
監督:高橋栄樹 脚本:小林弘利
撮影:藤田直樹 音楽:
出演:村上淳 川合千晴 THE YELLOW MONKEY 石堂夏央 ロジャー・アレン 森山周一郎(声のみ)

1999/8/19/木 劇場(俳優座トーキーナイト)
映画ではなくテクノから感覚を学んだという監督曰く「いいDJのプレイはヘタな映画よりよっぽど映像的」なんだそうで。なーに言ってんだかねー。それこそ“映画”と“映像”、“映画的”と“映像的”は全く違うものじゃないか。少なくとも私はそう思うのだけど?本作は“ヘタな映画”そのものだ。こういうものを“映像的”だというのはそりゃ判る。でも決してこれは“映画的”ではないのだ。映画を観に来る観客は“映画”を観に来ているんであって、自己満足的な“映像”を観たいんじゃない。ビデオクリップ出身の監督であり、有名アーティストを数多く手がけたということだが、そのアーティストのビデオクリップならば、いい。“身体的な感覚”に訴えかけるような映像感覚が求められるものだし、なによりそのアーティストのファンの存在がある。でも映画は違うでしょう?別に私はイエモンを観に来ているわけじゃないんだからさあ。それにこういう“感覚”で1時間以上も観させられちゃ飽きるっつーの。

まあ、一応物語はあるけど、これまたなんか子供だましのSFそのものなんだよなー。メタリックな装置が置いてある、冷たい感じのするオフィスで、暗号を使って取り引きしている男の脳に何かが侵蝕し、都合の悪いことが起こると自在に過去に引き戻され、男は次第に狂気を帯びていく。電気コードが接続された鉄仮面みたいなお面をかぶせられ、遠隔操作で脳に刺激を与えられる所とか、すべての行動を脳に直接マイクで命令するとか、あ、でもこう書いてみれば結構面白そうな感じなんだけど、観てるとちっとも面白くない。どこかの漫画ででも観たような感じ。新鮮に思えそうで新鮮に感じられない。

“新鮮さ”って難しいんだ。こういう既成、オリジナル取り混ぜた映像のサンプリング感覚や、光の露出が大きい色合い、何度とないフラッシュバック、などなど、一見新鮮そうに見えて、もういくらでも予測がついてしまう。だからといってストーリーを先行させて欲しいといっているのではなく、むしろその逆。一つの映画作品がいかに自分の記憶に残るかは何か一つ、あるいは複数のシーンを妙に強く覚えていることにあると思うから……これは「ガンモ」の時に思ったんだけど、「ガンモ」はそうしたシーンが頭からお尻まで詰まっているような映画だった。ストーリーはあってないようなもので、でもただの“映像の羅列”からはすれすれの線で(もちろん確信犯的に)カーブしており、まさにそこには“映画的イメージ”があったのだ。新しい世代の映画は、映画、とただ一言で言うのではなく、“映画的映画”の魅力にあるのだと思う。いかに“映像的映画”にせずに“映画的映画”に昇華させるか……むろん、映像の感覚の面白さっていうのは、まだたかだか100年、新しい芸術分野である映画独自の特徴なんだけれど、そこで止まっていてはそれはやはりただの映像であり、別の分野……ビデオクリップとかTVとか……では許容されても、こと映画となるとそれに何らかの化学変化をおこしてくれなくてはツライ。そう、「ガンモ」にはそれがあったんだよな。そのコラージュのしかた……羅列の方法、とでもいったような、その感覚。

この「トランスミッション」はその化学変化が起こっていないのだ。監督ご自慢の、ラストシーン、6分間に1000カット、既成の映像をもまじえてつないでいく見せ場であるはずのシーンが、すぐに飽きてしまうのは、それが“ただつないでいるだけ”だから。バックに“炸裂”するテクノだけではその化学反応は起こらない。……うーん、多分に音楽に寄りかかってる感じもするしなあ。

この主人公の男(村上淳)の恋人役である石堂夏央。耳のシルエットがギザギザになっているくらいに無数につけたピアスが彼女の不安定さ、不気味さを描き出す。しかし……石堂夏央の良さ、例えば不敵さとか、その不敵さに包まれたピュアさとかいったものが全て封じ込められてしまっている。かといって彼女の新たな魅力を引き出すというのでもなく、おにんぎょさんみたいに扱われているのは不服。

でもこれはこの作品のすべてのキャラに言えることなのだけど……誰一人として訴えかけてくる人がいない。主人公である村上淳も、侵蝕に懸命に抗おうとしているけれど、“テクノ映像感覚”に埋もれてしまってさっぱり響いてこない。ま、この監督は最初からそんな意図はないんだろうけど……フューチャリングされているイエモンにいたってはあんたらなんなんだ?といった感じで、なんだかさっぱり判らない。ムラジュンの脳をいじくり、痴漢撃退機みたいな赤外線だか光だかが出るリモコンみたいのをカメラ(人)にむかって発射してばかりいて、そして最後には自分たちは警察だという。なんというベタなオチ!

上映後、劇場を後にする人たち、ほとんどがせいぜいいって20代前半という若い客層だったけど「なんだか全然判らなかった」「つまんない」と困惑気味の感想が聞こえてきた。多分監督が意図するコアな客層だと思うが、ほら、何にも伝わってないよ、高橋監督!★☆☆☆☆


ドリームメーカー
1999年 112分 日本 カラー
監督:菅原浩志 脚本:菅原浩志 小林弘利 犬童一心
撮影: 林淳一郎 音楽:佐橋俊彦 (総監督)松浦勝人 (プロデューサー)土屋純一
出演:辺土名一茶 上原多香子 徳井優 袴田吉彦 原田健二 宮本真希 唐渡亮 柳葉敏郎 高島礼子 富士純子 梅宮辰夫

1999/11/24/水 劇場(丸の内東映)
つまんないんだろうなあ、と思って観に行った作品が本当につまんないんだもんなあ。最初からそう思うこっちのおごった気持ちを心地よく裏切ってくれるのを期待してたのに……。大抵はつまんないだろうなあと思いつつ観にいくものって、面白いまではいかないものの、意外なところで嬉しがらせてくれたりするものだけれど、なーんにもなかった。菅原浩志監督、名前は見たことあるけど……と思ってフィルモグラフィーをみるとデビュー作の「ぼくらの七日間戦争」は観たけど印象に残ってない。近作は「ときめきメモリアル」「マグニチュード」……はあ、つまんないだろうなあと思って観に行かなかった作品たちだったな。

なんでも、安室奈美恵を筆頭にSPEEDやDA PUMPなどを擁する今をときめく芸能事務所、ライジング・プロダクションの代表取締役の平氏が“自ら原案を提供、陣頭に立ち製作を指揮”したんだとか。あー、きっとこの始まりからしていけなかったんだ。いかにも自分だけの思い込みでこの話はイケる、と強引に企画を押し進めた感じだもの。だって、その原案というストーリー、今どき少女漫画だってこんなんないわ!というこっぱずかしさ(実話が元になっているそうだが……)。いくら「二人が喋ってる。」や「大阪物語」の才気あふれる脚本家、犬童一心が参加していても料理しようが無いわけだ。えー、何でも、音楽の夢をあきらめきれない若者が、小さなレンタルレコード店、マジックランタンに積み上げられた貴重なレコードに惚れ込んでその店で働くようになる。ま、この設定はなかなかいい。しかしすぐ近所に超大型CDレンタル店がオープンし(「ユー・ガット・メール」ですな)しかもそこの社長(柳葉敏郎)が執拗に妨害し(ありがちすぎな敵役!)、しかもしかも、彼が惚れていた店のオーナーの姪、美希(上原多香子)が病魔にむしばまれ、ついには死んでしまい(出た!必殺病気悲恋もの!)、彼はうちひしがれるものの彼女の思い出を胸に立派な音楽プロデューサーに成長する。おいおい音楽プロデューサーかよー。なんていかにもなイマドキのオシャレな(死語)職業!しかも、黄色い髪をなびかせてオープンカーに乗りながら携帯電話で話しているという、恐ろしくこっ恥ずかしい描写!

レッド・ヒートという暴走族に入るというエピソードもあるのだけど、その必然性は何?青春を象徴するものとしてのバイク、なのかなあ。それもまたクサすぎるぞ、オイ!そこの紅一点、麗香(宮本真希)との淡いやりとりも、淡すぎて何にも意味もたない。でもさすが宮本真希やそこのリーダー唐渡亮は上手かった。若い役者が中心になるこの映画、なんか下手な人が多い中で、ほっと息がつける。それと主人公、マサトの友人である小森を演じる袴田吉彦も。しかし暴走族のリーダーで、実年齢31歳の唐渡亮というのはちょいと苦しいけど。それを言ったら、袴田氏も高校生とは!?おーい、10近くサバよんでるんじゃないかあ?

そうそう、役者のヘタさは、ツラい。主人公のマサトを演じる辺土名一茶はともかく、ヒロインである美希役の上原多香子のあまりのヘタさには、本気で驚いた。演技経験がなくても今の若い人だといろんな点で場慣れしているから結構それなりにこなす人がほとんどだし、役者で始まってなくても歌手やってる人はステージ上で一種の演技をしているわけだから、みんな演技をそれなりに、あるいは見事にこなすのに、なんなんだ、この子はあ?大体歌を歌ってるのにこの活舌の悪さはなんなんなんだ?感情が入れてるのかと疑うほど表情に乏しく覇気がないし、本当にやる気があるのかなあ。これでSPEED解散後は女優になりたいだなんて、あんたそりゃ無理だよ……。

確かにこの子、美少女なんだけど、なんか、テレビの印象そのまんま、なんだよね。スクリーン映えしない。美少女って、それだけで“はきだめに鶴”状態で存在感が出るはずなのに、存在感がない。たとえば美少女度で言えば広末涼子や池脇千鶴より上なんだろうけど、彼女らが、特にスクリーンにおいて特別のオーラを放っているのに対し、上原多香子にはそれがないのだ。映像におけるフォトジェニックさが著しく欠けている。これさえあれば多少の演技力の難も隠れるというものなんだけどねえ。少なくとも映画女優は無理だわな。だからね、彼女が死んじゃうのも全然悲しい気分にならんのよ。菅原監督曰く「彼女は倒れる場面で手をつかずに肩から落ちるというのを何度もやってくれて、ほんとうに頑張ってくれた」って、そんなのはその役柄になったら誰でもやるだろう……そんなことしか誉めることがないのか、やはり……。

いろんな点でつつきたくなる部分があって。例えば両親のいない美希をひきとっているマジックランタンのオーナー(徳井優)は美希の病気を知ってたはずなのに全然気遣ってないのは何故?物語の中盤、いきなりマサトは美希を南の島(……)に連れて行くのだけど、マジックランタンが危機に陥ってるのになんでそんな余裕があるわけ?美希は最終的に死んじゃうほどの深刻な病状のはずなのに、まるで軽い内臓の病気みたいに普通の入院生活して、マジックランタン再起をかけたディスコイベントのチラシ作りを夜遅くまでしたりして、そんなこと病院がさせていいのか?美希が描いているのは明らかに油絵なのに、水彩用のパレットをへーぜんと使っているのは一体??

高島礼子のラジオDJ役はちょっと良かった。「愚か者 傷だらけの天使」の坂上みきを思い出したりして。彼女の探している幻のレコードがマジックランタンにあって、それをマサトがスタジオの外から手に掲げたそのレコードを彼女に「ありましたよ!」と見せるところなんていいではないか。DJと言えば別の意味でのDJ、ディスコイベントでマサトがDJをつとめるのだけど、最近観た「孤独の中の光 Seamless」の剣太郎セガールを思い出す。しかしDJ役としては剣太郎の方がイケてましたね。★☆☆☆☆


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