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M:I−2 2000/M:I−2 2000
2000年 124分 アメリカ カラー
監督:ジョン・ウー 脚本:ロバート・タウン
撮影:ジェフリー・L・キンボール 音楽:ハンス・ジマー
出演:トム・クルーズ/ダグレイ・スコット/サンディ・ニュートン/リチャード・ロックスバーグ/ジョン・ポルソン/ブレンダン・グリーソン/レイド・セルベッジア/ヴィング・レイムス
ああ、そうそう、そう言えば前作のブライアン・デ・パルマ監督による「ミッション:インポッシブル」では、あまりのあまりにトム・クルーズだけのための映画になっていたこと(思い出してみるとエマニュエル・ベアールやジャン・レノも出ていたのに、彼らの役柄があまりに単純すぎて観てる時もずいぶん納得行かなかったものだが、今や彼らが出ていたのも忘れてたくらいだものなあ……やっぱり)がとても気になったけれど、本作は勿論大スター、トム・クルーズがいやんなっちゃうくらいカッコイイトム映画ではあるものの、三角関係となる敵のショーン・アンブローズ(ダグレイ・スコット)のちょっと共感してしまうような悪役キャラや、ヒロイン、サンディ・ニュートンの素晴らしい美しさが彼と拮抗するほどに際立つ。いやあ、サンディ・ニュートン!あの秀作「シャンドライの恋」でももちろん美しかったけれど、役柄の上での野暮ったさがあったし、それに美しいというより幼さを残すキュートな感じだったのが、本作でのナイアのセクシーな美しさには本当に驚いた。同一人物だというのが信じられないくらいである。彼女、実はかなり侮れない役者なのかも。
んで、ナイアは腕の立つ女泥棒で、トム・クルーズ演じるイーサン・ハントの右腕となり元彼であるアンブローズ率いる敵に立ち向かっていくのだが、彼女は峰不二子のようなしたたかな美しさだし、どこかの時点で鮮やかに裏切るんじゃないのかな、などと思っていたら、そんなことは全然なく、それどころか彼女はだんだんとヒーロー、イーサン・ハントに守られる弱き女性と化していってしまう。そしてスパイ映画だというのに、ラストシーンは彼女とハントのラブラブシーンで終了するのにはちょっと驚いてしまった。
実は私はそれほどウー作品をチェックしていないので(と言うと邪道モンとどつかれそうなので怖くて言えないのだが……)“鳩が飛び立つ”と“スローモーション”もジョン・ウー印の表現だったのですね……二挺拳銃だけじゃなくて。「喜劇王」ではそこもちゃんと押さえてたんだなあ。すっごい今更で恥ずかしいけど。ま、それはさておき、そのスローモーションによる一瞬の時間の引き延ばし作戦には、これは「巨人の星」か「キャプテン翼」かなどと思ったが……まあ、非常にいい意味で劇画チック、見せ方が上手い(というのもちょっと違う気がするが)のだ。先述のトム・クルーズのやりすぎアクションも含めて、んなバカな、と思いつつもノセられちゃうんである。
冒頭から他人ソックリのマスクを使っての騙しあいが何度も何度も繰り返されるので、ハントが殺されてしまった!と思わせるクライマックスでも、こりゃマスクでしょうとあっさりヨメてしまうのが残念だった。このあたりも劇画っぽいんだけどね。「ルパン三世」でもよく使ってたし。でもワンエピソードにそう何度もは使わないよ。困ってしまうとすぐマスク、て感じで、いくらなんでも御都合主義過ぎやしないかしらん?それに、敵とはいえ、自分がマスクをかぶせたことによって恐怖のうちに死んでいく相手を口元に笑みを浮かべて見守るハントにはいささか興ざめしてしまったし。もちろん、バレないようにその人のフリして表情を作ってたってことなんだろうけど……それにしてもちょっと引いたなあ。だってこの時殺されてしまうアンブローズの手下が、ちょっとイイ男だったもんだからさあ。
ラストに向かうにしたがって、マーシャル・アーツのアクションもカーアクションも、そして大爆発もとどまることを知らずに激しくなっていき、「カスケーダー」もさすがにかなわん、って感じなのだけど、そこでは既にストーリーが語られ終わっているせいなのか(ハントを救うためとっさに自分に病原菌を注射したナイアの、発病へのカウントダウンの中ではあるけど、解毒薬を持ったハントが絶対間に合うのは判ってるからねえ)何だかだんだんと飽きてきちゃうんである。凄いなあと思って観てはいるんだけど、飽和状態になってきちゃって、ああ、また爆発だよ、なんて思ったりして、しまいにはタイクツで眠くなってしまう始末で。正直、飛び蹴りや横っ飛び二挺拳銃といったハデなアクションよりも、最後の最後、死んだと思ったアンブローズが後ろから銃で狙ってきた時、砂に埋まっていた銃をとっさに蹴り上げて倒れながらぶっ放す、という最後のアクションシーンが一番ココロ惹かれた。お得意のスローモーションもたっぷり使ってたしね。
しかしまあ、前作から4年たって、トム・クルーズは自分のスターとしての位置づけのみならず、スタッフや共演者を最大限に生かす術をより良く身につけたという感慨。呪われたようにオスカーを取れないクルーズ、プロデューサーとしての才能が彼には一番あるのかも。★★★☆☆
うーん、でも確かに、ブライアン・デ・パルマ監督って今までどんなの撮ってたんだっけ?と思うほど、なんだか可愛らしいほどの、王道SF映画、なのだね、これ。火星というだけで、何が甘酸っぱいものを感じさせるというか……なんでも数年前にNASAが、火星にはかつて生命体がいた可能性がある、と発表したことが発端となった作品らしいのだが、そうした権威のあるところから出た、科学的な映画と言うより(でも、“科学的”というだけで、なにか懐かしい感じがするけれど)、神話的な趣を呈している。
あちこちで言及されているように、ストーリーや、宇宙技術のアイテムは、「2001年宇宙の度」「アポロ13」「未知との遭遇」などの過去のスペースものの片鱗をうかがわせるものだ。まさかパクリとまでは言わないものの、新鮮な、斬新なといった軌道からははずれている。しかし今やそうした映画群から派生した宇宙のイメージがスタンダードになっていると言えるのならば、“正統派の、王道の宇宙SFモノ”を作るとこうなるのかな、という好感はある。クライマックスに出てくる火星人の造形など、これまでのクラシックなイメージをまるで裏切らない、どこかレトロといってもいい姿形をしており、ラストクレジットが出る前に、星空をバックにきちんと「THE END」を出すに至って、監督がそうしたナツカシ雰囲気を保つことを心がけていたことを決定付ける。
実写においては初の(「トイ・ストーリー2」が先陣)、フィルムを使わないデジタル映写、DLPシネマ方式での上映となった本作、というのは観終わった後に気づいたのだが、確かに観ている間中、恐ろしくクリアーだな、とは感じていた。星がきらめく感じ、宇宙船のつるんとした感じ、火星の地表に出現した謎の巨大な石の顔、火星人たちに招き寄せられる白に塗りつぶされた神秘的な空間……そうしたものが、全くちらつきなく映し出される。ここまでキレイだと、それは懐かしい、夢物語な感覚を余計に増幅させる不思議。
顔が童顔だから、いつまでも年を取ったことに気づかなかったティム・ロビンス、ふと気づくと、彼、頭が真っ白ではないか!あー、びっくりした。別に役柄上だからではないよね?そう言われてみれば顔もかすかに老けてきたような気がするし……。彼が扮するウッディが、宇宙空間に放り出されてしまって、どうしても助からないと知った時、助けに行こうとする同じ宇宙飛行士である妻ににっこりと微笑んで、「愛してるよ」と言い、自ら宇宙服のヘルメットを脱いでしまう!(顔はグレイに凍り付き、即死、そのまま流されていってしまう……)というシーンが一番強烈だった。
主人公であるゲイリー・シニーズ。「アポロ13」では宇宙に行けなかった彼が、今回は凄腕の宇宙船操縦士として、皆を引っ張っていく。同じく宇宙飛行士だった妻をつい最近亡くした傷を持つ彼は、そうした暗い影を常にその身体にたたえている。妻と二人、仲睦まじそうに乗船するウッディとテリーをまぶしげに見つめて。しかし、普通こういう境遇の人が乗ってたら、あんなにこれ見よがしにベタベタしないよなー、ウッディとテリー!ま、この辺は気にしないあたりがアメリカ人ぽいけど。ゲイリー・シニーズはそれでなくても、暗い影のあるようなイメージの人だが……それはまるでユースケ・サンタマリアのようにいつでも目の下にクマがあることや、意地悪っぽく唇の端が上がる独特の笑顔だからだろうか。しかし本作のゲイリー・シニーズは、ちょっと驚くほどハンサムで、私は何となく見とれてしまった。クリアーな画面のせいもあるのか?いやいや、顔だけじゃなくて、なんていうか全体の雰囲気が……だってまず、あのたくましい二の腕と胸板の厚さにすがりつきたくなっちゃうわあ!?遠く離れた宇宙船から発信された仲間たちの“ハッピーバースデー”メッセージにテレる姿も素敵だわあ!そして、亡き妻を思い、亡き友を思い、もう何も失うものはない、と最後一人だけ“火星人の招待”を受けて残る時の表情も、火星人方式の宇宙船の中で水に満たされ、戸惑いながらも、その中で普通に目を開け、呼吸できる(?)と気づいた時のハレバレした表情も、ホレる!
最初の“テスト”だったという砂嵐のシーンは凄かった。まあ当たり前にCGだけど、巻き込まれた体がバッ!と散らすようにちぎれてしまって……でも、あのどこか過剰なくらいの描写もまた神話チックかもしれない。
ベテランの宇宙飛行士たちの中で、一人、いかにも青二才という感じの若いアストロノーツであるフィル(ジェリー・オコーネル)がなかなか可愛らしい。思えば、火星人の発してきた音波がDNA組織を模したものだと気づくキッカケとなったのは、彼の“必需品”であるM&Mで作った無重力状態中に浮かせたそれだったんだものね。
火星にたどり着き、星条旗を立てる。何の疑いもなく曇りのない愛国心で国旗を立てられる彼らがちょっとうらやましい。★★★☆☆
実話云々というのは、観客にとっては大して重要ではないと思われる。そこで語られている物語が、真摯に胸を打つかどうかだけが重要なんであって。ホラー映画の帝王、ウェス・クレイヴン監督がこんなタイプの映画を撮った、いやそれ以前に撮りたかったというのがオドロキなのだが、この“実話”を彼は時間軸にそって丁寧につづっていった。音楽こそ(ヴァイオリンのではなく、映画音楽の方)これでもかといった感動を盛り上げる大仰さだが、物語のつむぎ方はいたってシンプルである。ことに、彼女が教師としての信念に燃えているというような下手すると鼻につく描きかたではなく、一人の女性、一人の母親、そして何よりも一人の人間としてまず存在し、その苦悩を描き、その存在が前提としてあっての教師であるから子供たちの寄せる信頼と、後に親のそれをも獲得してゆくのが信憑性を持つのだ。
彼女が夫に浮気されて去られ、優しくしてくれた幼なじみにグラつき、自分の依頼心の強さに気づいてキッパリとそれを絶つ過程に共感が持てる。最初から鼻っ柱の強い女なのではなく、いまだにどうしても存在してしまう、男あっての女という状態に彼女自身が気づき、それを克服していく過程が胸に響くのだ。劇中で「子供たちには父親が必要」と、それを半ば脅し文句にして幼なじみの男に迫るような場面があるが、その後、父親がいなくっても子供たちは立派に成長して行く。それどころか、恋人のいない母親を心配して新聞広告を出し、彼女のパートナーを見つけてしまうという事までやってのけるのだから。
このような過程があるから、「私はハーレムの子供たちを救おうと思っているわけじゃない。私は夫に去られて、子供たちを養うのに必要な仕事なの」というロベルタの言葉が、逆に非常に教師としてのプロフェッショナル、一人間としての真摯な態度を感じさせ、それによって子供をヴァイオリンの授業から外させていた親の心を動かしてしまうのに、非常に説得力をもたらすのである。それは女同士、母親同士の共感で、などという甘っちょろいものじゃないから素晴らしいのだ。ロベルタを演じるメリル・ストリープは、女性の地位を確立するべく、意味のある役や物語を選んで出演し、奔走してきた女優で、本作もまさしくその延長線上にあるのは明らかなのだが、本作ではその女としての部分を乗り越え、一人間、一教師として存在してからの輝きが素晴らしい。……しかし、女性が、あるいは女優が、この位の年齢に、そして離婚だなんだということを乗り越えなければ一人の人間としての存在価値も危ういと思うと暗澹たる思いもするのだけど。夫や男に翻弄されている前半部分のロベルタは、物凄くミジメである。そしてああ、こういうの、女だよなあ、と思ってしまうのがさらに歯がゆいのだ。
登場するハーレムの小学校の子供たちはその土地柄もあって、小さいながらもいろんな問題を抱えていて、みんな非常に印象的だ。銃撃戦にあって殺されてしまう子供まで出てくる。その子に授業中ケンカして「死んでしまえ!」と言ってしまったことで、ひどく落ち込んでしまう子、両親の離婚や祖母の死でヴァイオリンの演奏がままならない子、足が悪くて立って演奏が出来ず、あきらめそうになってしまう子など、その小さな身体いっぱいに悩んでいる子供たちが痛ましくてしょうがない。しかし子供は未来への時間をいっぱい持っている点で、そして急速に成長して行く点で、大人よりもずっとタフで強いのだ。音楽のパワーをすぐに元気に還元する事が出来る。音楽にはそれだけの力があるのだ。それにこのハーレム小学校の子達、授業中にロベルタ先生の言う事を聞かないで騒いでいる時も、リズムを刻んでいたりして、もうまるで生まれた時からブラックミュージックの洗礼を受けてるがごとく、である。音楽的カンは、お育ちのいい土地の子供たちよりサエているのかもしれない。
この足の悪い女の子の、あまりのカワユサにスクリーンに釘付けになってしまった。10年後成長した姿は大した事なかったけど(笑)。カワユいといえば、最近イイ映画というと必ず出ている感のある名子役、キーラン・カルキンが本作でもまたナカナカの好演。冒頭から10年後に15歳(だったと思うが)に成長したロベルタの次男として出てくる彼は、その利発そうな中にもチャメっけがあり、(長男ともども)母親思いの優しい息子、というあたりがこちらのツボをつんつんつついてくる。いやあ、彼はほんとにイイ。しつこいくらい何度も言うが、顔は確かに似てるけど、兄マコーレーとはひと味どころか10味ぐらい違う。しかも今回は彼、ピアノを弾くのよね!あー、もう私はピアノ弾きの男性(という年齢ではまだないけど。まだ少年よね)には無条件に弱いのよッ!いやーもう、美しい!
晴れの舞台、日本ならきっと皆白いブラウスに紺のスカートかズボンでも着て来させるところなんだろうけど、やはりアメリカ、皆それぞれにイチバンのおめかしをしてきているのがイイ。そのおしゃれっぷりが皆とっても可愛くて。小人数クラスの音楽の授業といい、個人を大切にする(まあ時にその個人主義が自分勝手にすりかわる感もなきにしもあらずだけど)重要さを、もっと日本は学ぶべきなのではないだろうか。★★★★☆
そうした普遍的コミックな世界を否応なく感じさせるのは、そのキャラクター達がすべて唯一一個の存在であり、血のつながりを感じさせないからだ。まさしく“キャラクター”なのである。フィギュアなんかと同じで(ミラクル・ペティントの世界のフィギュアだったら欲しいわ)。ペティントの父親なんかも出てくるけど、それはあくまで“ペティントの父親”という一個のキャラクターであり、実際にペティントとの親子のつながりを感じさせるものはない。
だって、突然出来る子供は“火星人”だし、“精神病院からの脱走患者”だし“モツブ共和国(どこじゃそれ)の黒人の男の子”なんだから。これは無神経に言うと叱られてしまいそうなキワキワの、でも紛れもなくフリークスたちであって、“火星人”なんてホントまんま、小人な人たちなんだから。フリークスはどこか哀しい影を帯びているイメージがあったものだが、ここにはそんな影は微塵も見られない。“人と違う”ことはここでは勲章なのだ!思えばそれは今の時代、当然のことであったはずなのだけど、言葉で言うほどカンタンではなかったのだ。“人と違うこと”は家族の絆や継承さえ否定するような、自分の独自に生み出した感性だけを頼りにすることなのだから。
“血のつながりのなさ”が決定的なのは、ペティント夫妻に“子供がどうやって出来るか”という知識がないということなのである!もっと言ってしまえば、彼らには性欲がないのだ。とある大家族のお父さんが「子沢山なんてカンタンだよ、やればいいのさタラリン、タラリンと」とズボンのサスペンダーを伸ばしながらアッケラカンと言っているのを聞いた子供時代のペティントと後に妻となるオリビアは、その行為こそが子供の作り方なのだと信じてしまうというぶっ飛びさ。思えば性欲とは種の存続の本能であり、それがないということが、この絶対個人であるコミック的キャラクターの位置づけを決定的にするのだ。
それともう一つ、ペティントがオリビアを好きになった感情も、性的欲望とは本当に一切無関係なところから発生しているということがステキなんである。しかし判らないのはオリビアで、ペティントが疑うように彼女が本当に盲目なのかどうかも疑わしく(妙にワザとらしい上目遣いが確信犯的)、さらに言えばペティントが彼女に向けるような明確な愛情を彼女の方には感じない。そのあたりのイカガワしさが実に彼女らしいのだ。でもこのあたり、女性の持っている自己演出や打算的な部分を皮肉たっぷりにクローズアップして作り上げたキャラクターとも言える……小憎らしい監督だ!主人公のペティントじいさんは意外とフツウなんだよね。誠実というか。監督が「男って誠実なんだよお」と言ってるみたいでね(笑)。
スペインがピカソやガウディを生んだ国だというのがペドロ・アルモドバル監督の登場の時よりずーっと首肯させられる。この色彩とぶっ飛んだ感覚、ガンコに自分だけの表現方法を確立しようとしている感じが。デジタル合成や巻き戻しなど、現代的なコワザをふんだんに使っていながら、意固地なまでにアナログな手触りにこだわるあたりがこの監督の持ち味。まるで「ブリキのおもちゃ博物館」のようなベコボコしたまるっこい宇宙船や、栓抜きになっている聖ニコラウス像なんていう味な小道具は、その全てが商品化できそうで、意外と商売人なのかも?
タイトルロールだし、ペティントじいさんが主人公かと思いきや、じつは主人公は脱走患者、ウシリョスだったんじゃないかなー。冒頭、え、これ本編?とちょっとビックリさせられたモノクロのウシリョス脱走場面から、何度となく挿入される、彼の幼少期のひどくザンコクなトラウマ(母親が貨物につぶされて死んでしまう!)場面、そしてそこで出会った“親友”をずーっとトランクに閉じ込めていたのを気づいていないあたり……しかもしかもその“親友”がもう一人の火星人だったあたり!この映画のキーとなる全てを彼が握っているのだもの。ペティントじいさんは受け身で、そこに通り過ぎる物語を戸惑いながら受け止め受け流していくという感じで、いわば狂言回し。チラシの宣伝みたいに宇宙人のカッコをすることもなく(それをするのはウシリョスだ)、ラストには待望の里子の黒人の男の子をゲットしてハッピーエンドとなる。ただただ待ち続ける徹底的な受動精神は逆に積極的でガンコなそれと言えるのかも?
しっかし、ウシリョスに性の喜びを教えられて花畑の中をくるくると踊りまくり、その後無邪気にペティントじいさんに向かって「今夜はタラリン、タラリンよ!」なんて言うオリビアはスゴい。スゴすぎる(しかもいくつだよ、あんた……)。しかもペティントもそのことでウシリョスに感謝し、本当の「タラリン、タラリン」に励んでいるらしいんだから……でも彼らは自力で子供が出来るには時既に遅し、前述の様に里子の男の子が訪れる。やっぱり彼らの絶対的個人なコミックキャラは不滅なんである。
大人になるほどに血のつながりや自分のルーツや自分の受けた影響を気にするようになる。様々なことを知っていくにつれ、自分の存在を自分だけで表現する自信を失い、何かにつながりを求めるようになる。それがオトナになるということならば、自分が自分であることを恐れないことがコドモ文化のスバラシさだ。この監督はその様々なことを知った上でコドモ文化も失わないことが出来る希有な人物、なのかもしれない。
それにしても、“宇宙服で来場したら1000円で観られる”というナイスな企画をモノにしたツワモノはいるのかしらん??★★★★☆