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「い」


2000年鑑賞作品

イグジステンズeXistenZ
1999年 97分 アメリカ カラー
監督:デイヴィッド・クローネンバーグ 脚本:デイヴィッド・クロンーネンバーグ
撮影:ピーター・サスキツキー 音楽:ハワード・ショア
出演:ジェニファー・ジェイソン・リー/ジュード・ロウ/イアン・ホルム/ドン・マッケラー/カラム・キース・レネエ/サラ・ポーリー/クリストファー・エクルストン/ウィレム・デフォー


2000/5/24/水 劇場(丸の内ピカデリー2)
うげげげげ……昼時前に観る映画じゃないわなあ……と全篇口をおさえっぱなしという感じ。これが近未来なんだとしたら、私ゃ絶対長生きしたくないわあ……。とにかく出てくるものの造形全てがぐにゃぐにゃしてて、ぐちゃぐちゃしててネトネトしててドロドロしてて、……うーむ、混沌は一番の源、一番聖なるものの象徴とも言えるが。

クローネンバーグ作品は観ているようであまり観てなかったので、割とこうしたビギナー的なショックが大きかったかも。この物語の主役たるゲームポッド(マシン)の造形からしてなんだそりゃ!だし。どう見てもへその緒にしか見えないものがコードになっていて、大きな乳状突起のある部分を指ではじくとスタートになるマシン、何でも胎盤の形を模しているらしい?しかもそのコードを脊髄にあけた穴に直接接続するなんて!その“バイオポート”とよばれる穴を腰にあける場面でもうかなり引いてたのに、そのあいた穴にこのコードをねじ込むに至っては本気で失神しそうだった。うーうーうー、やめてくれえ、腰を手術したことのある人間にとっては特にその描写はエグすぎる!

加えてこのゲームポッドが両生類の有精卵を培養して作ったもので、その製造工場として出てくるゲームの世界ではそうした両生類やら魚やらの血まみれの分解状態のものがぞろぞろ出てくるという始末。適度にリアルなネトネト加減と、ちょっとツクリモノめいたプルプル加減がキモチワルさを倍加する……もおお、私はカエルがこの世で一番キライなんだってばッ!「マグノリア」といい、なんだってこういう気味の悪いカエルばかり出てくるんだ、もう!一番ヤメてくれよと思ったのは、ゲーム内の中華料理屋でテッド(ジュード・ロウ)が頼んだ突然変異の両生類の料理“スペシャル”。なんか、ゼラチンだか煮こごりだかわかんないものに覆われ、それをペロンとはがしながらむしゃぶりつく描写に本気で吐きそうになってしまう。しかし、中華料理のイメージとしてある、ワケノワカラナイ食材のワケノワカラナイ調理法、というのにはしっかり合致しちゃうんだよなー。中国の人は怒るだろうけどさ、こういう気味の悪さって確かにあるんだもん。

……とまあ、何だかその気持ち悪さを嫌がっているような書き方をしてしまったけど、実を言うとかなり好きな世界だったりして。目に見える部分での独創性、という点でクローネンバーグ監督は恐ろしく秀でている。そこには感触があり、匂いがあり、痛さや気持ち良さまである。それは総じていささかあからさまなほどにエグい“エロティックさ”に言いかえることも出来る。というより、それこそそのものずばりセックスの象徴と言ってしまっていいのだろう。脊髄の穴にコード(それも有機体の)を“挿入”したり、その穴を舌で愛撫したり。スタートボタンである乳状突起を指でなぶるようなしぐさだってモロだし。そしてこの世界がこうまでグロテスクで気持ちが悪くて、ぐちゃぐちゃした汚いものとして描かれているのは、それが前戯も含めたセックスのある一方でのイメージであるとも言える。そうしたいささかスカトロ趣味のような部分に快感を覚えるという点で、人間というものの奇妙さを突いているのではないか、と。あるいは前述したように、“混沌は一番の源、一番聖なるものの象徴”がイコールセックスであるととらえることも出来るか。

ただそうした感覚的な秀逸さに比べて、設定や展開は非常に典型的というか、禁じ手である夢オチ的なところがあって、うーん、という感じではあるんだけど。夢(この場合はゲーム)の中にまた夢があり、こちらが現実の設定だと信じていたものもまた夢であり……といった入れ子構造は、映画のみならず小説や漫画でよく見られる手法。しかしそうしたシンプルさだからこそ、あのグロテスクな世界が主役となり、存分に気持ち悪がらせてくれるわけで。こうした世界にありがちな、急いたようなカッティングはせず、夜か室内か、といった暗い画面を貼りつくように映し出す。ゲームから抜け出て現実(では実はないんだけど)に戻る境目も、朝目が覚める時みたいにくっきりとしている。その世界観と、キャストに自信があるから出来るのだろう。闇に生息しているみたいなイメージのあるジェニファー・ジェイソン・リー(ゲームデザイナー。でも本当は……)と、田宮二郎みたいな、どこか気味の悪い美貌を持つジュード・ロウ(警備員見習い)の二人はこの世界によく似合っている。加えて言うならば、ウィレム・デフォーもドン・マッケラーもイアン・ホルムも、皆そうしたどこかイメージを感じさせる役者ばかり。

ゲームデザイナーとゲーム会社を、現実の精神状態をおかしくさせる悪の根源として壊滅させるという行動が、ゲームの中でも、最後の最後、二重のゲームから覚めた、本当の現実(?これもあやしいが)でも貫かれる。映画も含めたすべての先鋭的な芸術が現在進行形では一般的にはなかなか認知されないことに対しての逆説的な批判か。しかし実際、ゲーム世界に代表されるバーチャルな感覚が人間の自我意識を侵食している感は無きにしもあらず、だからなあ。でも私はゲームをやらないから、逆にこんな想像だけでテキトーなことが言えるんだけど……そういう無責任な輩が一番良くないということを批判してたりして?

一番好きだったのは、ほんの一瞬の登場だった、ギョーザみたいな発光する携帯電話。しかしあれ、着信はともかく、どうやってかけるのか謎だけど……。★★★☆☆


ISOLA 多重人格少女
2000年 94分 日本 カラー
監督:水谷俊之 脚本:水谷俊之 木下麦太
撮影:栗山修司 音楽:David Matthews
出演:黒澤優 木村佳乃 石黒賢 手塚理美 渡辺真起子

2000/2/16/水 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
ミス東京ウォーカーは東宝ホラーでデビューするのが条件なんでしょうか?うーん、確かに第1回、第2回と、単純な美少女というより、どこかまがまがしさを表現できるような個性的な少女達だ。しかし、「死国」の莎代里役でデビューした第1回ミス東京ウォーカーである栗山千明は、ただ者ではないと感じさせるふてぶてしいまでの存在感だったけれど、本作の第2回ミス東京ウォーカーの彼女、黒澤優はというと……ああでも彼女の場合、役柄が難しすぎたのだ。彼女自身はやはり、その厚ぼったい唇と三白眼気味の瞳が強烈な印象を与え、この子もまた一筋縄ではいかないな、と思わせてくれるのだけど、多重人格、それも13人の人格をあわせ持つという役をこなしきるにはやはり無理が感じられてしまって。とはいえ、13人のショットをハイスピードで映し出す場面はあるものの、その中の何人かの人格をピックアップして演じているのだけれど、それもかなり形だけで終わっている感じもし……。まったくの新人のデビュー作では難しすぎたよなあ、やっぱり。

加えて作品自体の吸引力が、弱い。更に加えて彼女を固める俳優も、弱い。阪神淡路大震災の被災地にボランティアとして来て、この千尋(黒澤優)に出会う、人の感情が読める由香里に扮する木村佳乃も、体外(幽体)離脱実験中に震災に遭い、共同で実験を行っていたパートナー、高野弥生(渡辺真起子。うー、彼女ほどの女優をこれだけの役で終わらせるとは……)を失った真部に扮する石黒賢も、スクリーンに刻みつけるだけの、あるいは千尋を支えきれるだけの度量を持たないのだ。ああ、それで言えばそれこそ、「死国」の二人、夏川結衣と筒井道隆には確実にそれがあり……言いたかないけど、そこが映画俳優とテレビ俳優の差ではないかと、思ってしまったりするのだ。いや、テレビに中心に出ている役者さんだって、映画で魅力的な人もいっぱいいるから、言ってみれば、映画でも力を発揮できる役者と、そうでない役者、と言うべきかな。映画で印象的にデビューしたのにテレビ中心になってしまってその力を失ってしまった役者さんもいるけれど……。

タイトルが示す、13番目の人格、ISOLAが、殺人嗜好の悪魔の人格だった、というのだけれど、彼女が具体的に殺人を犯すというのではなく、彼女の思念によって、人々が奇妙な自殺をとげていく。彼女を追いつめた教師が焼き鳥屋の食べ終わった串を頚動脈に突き刺して死ぬのにはちょっと笑ったが……、しかしあれに見えるは水上竜士御仁!あはは、相変わらずヘンな役だなあ。えー、それはともかく、そうした“呪い”の人格が、具体的な怖さとしてこちらに響かないのが致命的。だって、それが本作の恐怖のテーマであり、それで怖がらせられなかったら、もうおしまいではないか。ISOLAはほとんど瞬間的に彼女の表情に浮かびあがるだけで、その人格がどういう風に“悪魔の人格”なんだか、よく判らないうちに進行してしまう。でもよく判らないからこそ怖いんだとも言えるんだけれど、でもやっぱり怖くないんだもん!

震災で傷ついた人々の心がどんどんどんどん千尋の中に入っていってしまって多重人格を形成し、そして自身も両親の交通事故や義父の性的虐待で傷ついている彼女。その彼女と、体外離脱実験を行っている研究チームとのつながりはいま一つ弱いというか……別に千尋だけの話でいいのになあ、と思ってしまう。いくら幽体離脱を“体外離脱”だなんて、学術っぽい言い方に変えてみても、その研究を行っているという設定だけで、もうファンタジーの世界で、切実性を弱めてしまうのだ。活字だけだったらそうでもないのかもしれないけれど、映像にした時、粘着質の液体に一糸まとわぬ姿で浮かんでるとか、すっかりファンタジックで。加えて真部は魂だけとなった弥生をその身に受け入れ、飛び降り自殺を図ってこの呪いを完全に断ち切ろうとするのだが、その展開もまた御伽噺なんだよなあ。自分を愛してくれている弥生を自分の肉体に受け入れるという場面も、思ったほどの官能的な効果をあげていない。それになんといっても震災の現実的な悲劇とどうしてもマッチングしてくれない。しかも泣けないし。

原作ものホラーって、映画にするには結構難しいのかもしれない。映画のホラーが怖がらせるのは映像においてであって、活字のかもす恐怖とは質的に明らかに違うものだから……。最近オリジナルな物語を展開してくれる映画や監督があんまりいないんだよなあ……。★★☆☆☆


ICHIGENSAN いちげんさん
1999年 122分 日本 カラー
監督:森本功 脚本:森本功
撮影:ピーター・ボロッシュ音楽:S.E.N.S.
出演:エドワード・アタートン 鈴木保奈美 中田喜子 渡辺哲 藤田宗久 塩谷俊 蟹江敬三

2000/2/13/日 劇場(シネマスクエアとうきゅう)
日本人の優しさは、よそ者を排除する“優しさ”である。“ガイジン”が箸を使えないのを見ても笑ったりしないけれど教えようとはしない。それどころか頼まれもしないのに最初からナイフとフォークを出したりする。そしてこの映画の主人公、“僕”のように箸を頼んだり流暢な日本語で応対したりするとうろたえる始末。彼らの誇る日本文化は、彼らだけで守らねばならない、彼らだけがその良さを判っていなければならないものなのである。しかし東京などではこうした意識も薄れてきており、こんな風によそ者を排除はしないけれど、逆に受け入れもせず、日本古来の文化など風前の灯火である。それがいまだ残っている京都の美しさが、その排除という前提のもとになりたっているのはある種事実ではあるけれど、これは愚かな民族意識というほかはない。どちらにしても日本人はまだまだ開かれていないのだ。

主人公の“僕”(エドワード・アタートン)は放浪癖のあるスイス人で、日本文学を学ぶために京都の大学に留学中。日本人以上に日本の文化や生活に精通しているにもかかわらず、前述のように侮蔑的な思いをするのはしょっちゅうである。そんな彼が出会うのが、盲目の京子。彼女のために本の対面朗読を行うのが彼の仕事。京子は目は見えないけれどもその場の雰囲気やわずかな音であらゆることを察知することが出来る女性。彼がテレているとか、もうすぐ雨が降ってきそうだとか、雨粒がどこに落ちているか……葉っぱに落ちているのか、石畳を叩いているのか、が判るのである。大学卒業後、すぐに就職する気がおこらなくて、という京子はしかし好奇心の固まりで、彼の手につかまってどこへでも出かけて行く。

京子を演じる鈴木保奈美は、あからさまな“目の見えない演技”をすることはない。声のする相手の方にまっすぐ顔を向けている時など、見えているんじゃないかと思うほどである。彼女の目の黒目部分は本当に、塗りつぶされているように漆黒だということに初めて気づく。その目に釘付けになる“僕”の気持ちが良く判る。見えていないはずなのに、全てをその中にたたえているかのような、黒メノウのようにつややかな、瞳。

うがちすぎだというのは判っていても、私は、だから京子が実は見えているんじゃないかと思えて仕方がなかった。京子が“僕”にあてた年賀状で達筆な筆で書いていたりするし……目の見えない人でも補助があればあれくらいは書けるのかもしれず、あるいは彼女の母親が代筆しているのかもしれないのだけど。そういうことではなくて、目が見えていたとしても彼女はそうした感性の先天的な持ち主であろうとは思うのだけど、“僕”が見てしまうような、京都の汚い部分に心(目)を閉ざしているような気がするのだ。彼女が就職しないのも、あるいはそんな理由からのような……。“僕”は京子によって文字面だけではない、より深い部分を感化されていくことになるけれど、京子もまた“僕”によって、文字面=表層世界を、そしてそれがそれほど恐るるに値しないことを学んでいったのではないか、と。

とはいえ、“僕”が最終的に味わう侮辱はまた相当なものである。彼は全神経を傾けて卒業論文執筆に当たる。どんな内容のものかは描かれないものの、多分京子からの影響で、深い部分まで掘り下げた意欲作であったろうと思う。しかし、口頭試問で言われたことといえば、表紙の字の間違い、それも、一画がちょっと飛び出しているというそれだけのことで「君には本当にがっかりした」と言われ、内容もろくに読んでもらえていないのである。……これは表面的なことこそをもっとも大事なこととして必死に守ろうとしている、京都の、そして日本の愚かな姿そのものだ。それ自体に何の意味もないということを、大切なのはそこにひそんでいる精神世界、精神文化だということを、彼らはとうの昔に忘れてしまっているのだ。“僕”はショックを受けるが、そんな必要など全然ない。ショックを受けるのは私たちの方であるべきなのだ。

本作で重要なものとなる本は、そうした表層のもの=文字と、そこから何かを探る内面世界という二つの世界を実に端的に示している。思えばその文字というものは、漢字は表意文字でそれ自体に意味を含んでいるけれども、日本人が作り出したものではない。日本の文字として存在するのは、その漢字を崩して作られた平仮名とカタカナ、つまりは表音文字であり、それ自体に意味を持つものではない。しかし日本人は仮名の字体の持つ流れるような美しさを誇ってきた。それもまた、表面だけにとらわれる日本人を象徴してはいないだろうか?

そうした日本に傷つけられる“僕”もまた、対面朗読の最初のうちは、その文字を追うだけであっただろう。彼もまた表面的なことしか知らなかったのだ。しかし京子によって内面世界に触れることで日本のそうした醜さ、愚かさに気付くことになる。彼はあるバイトを経験する。それはイギリスのテレビ局が制作する、ヤクザの世界のドキュメンタリー番組、その通訳である。彼はそこで初めてよそ者として扱われないことに快感を覚える。彼の手をさぐって指がちゃんとついているかどうかを確かめる京子に彼は笑って言う。「外の人間の指を切ったりはしないよ」それに答えて京子、「そうなの、つまらないわね」……結局はどこの世界でも、そしてどんな人間でも異邦人なのだと、彼女は意識せずして判っているのだ。しかし、それこそが、個人が個人であることこそが素晴らしいことなのだというところまで行きついているかどうかは……。そして“僕”と京子は結局別々の道を歩み始めることとなる。

接写し、順番にピントを合わせていく雨にぬれた緑のみずみずしさや、障子からの自然光が差し込むほのかな畳の明るさ、しっとりした木戸の日本家屋、石庭、古い路地、京都の“表面的な”美しさが際立ち、ああでもやはり、いいよなあ、これぞ日本の美しさなんだよなあ、と思ってしまう。撮影監督はこれまた異邦人のピーター・ボロッシュ。彼はこの日本の美しさに『心』を感じることが出来たのだろうか。そして日本人は、ここに『心』をどれほど残していくことが出来るのだろうか★★★☆☆


いつまでも二人でWITH OR WITHOUT YOU
1999年 90分 イギリス=アメリカ カラー
監督:マイケル・ウィンターボトム 脚本:ジョン・フォート
撮影:ブノワ・デローム 音楽:エイドリアン・ジョンストン
出演:デヴラ・カーワン/クリストファー・エクルストン/イヴァン・アタル

2000/11/16/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
同じ30歳を目の前にした女性でも、同時期に公開された「ひかりのまち」のアリスは独身、そして本作のロージーは結婚五年目。そして彼女と夫であるヴィンセントの悩みは子供が出来ないこと、なのである。作品のカラーもまず見た目からしてずいぶんと違う。「ひかりのまち」がウェットな感覚なのに対して、本作はどこか風通しがいいような、サラッとした感じである。ウィンターボトム監督は作品ごとにカラーの全く違う監督ではあるけれど、それにしても、こんなどこか(いい意味で)昼メロチックな色合いの作品を撮るとは意外だった。明らかにコメディだし。

妻の初恋の人が現れるという三角関係の話ではあるのだけど、その彼は10年も前にペンパルだったという、一度も会ったことのない相手であり、しかもフランス人(ちなみにここは北アイルランドのベルファスト)。つまり、御伽噺の中のようなキャラクターなのでドロドロしない。それでもそうしたいわば“王子様”が、しかもかつて自分が編んだ稚拙なセーターを着て現れるというんだから、ロマンティックなシチュエイションはバッチリである。ロージーが結婚していなければ、すぐさまロマンスが始まったと思わせる。

結婚五年目という、そら倦怠期だ、という状況の二人の前にひょっこり現れる初恋の相手のフランス人。まあこれだけだったら、ロージーが多少浮気してもアリかな(!?)と思わなくもないのだが、ひとつネックがあって。それは、ロージーとヴィンセントが、今子供を熱望しているということ。でもどうやらヴィンセント側に不妊症があるらしく、なかなか上手く行かない。睾丸を温めちゃダメとか、部屋の風水とか、一番妊娠しやすい体温の時にと昼休みに家に飛んで帰って20分でセックスしたりとか、とにかく二人の涙ぐましい努力はかなり笑えるのだが、「セックスって、楽しいはずよね」とつぶやき、夫がバスルームに行ったとたんに不意に嗚咽をもらすロージーの情けなくて惨めな気持ちが痛切。

ここで描かれているのは、恋と愛と家族。恋は言うまでもなく初恋の人、ブノワに対して。あるいは、ヴィンセントの昔の恋人である美容師、キャシーもそうかもしれない。彼女はいまだにヴィンセントをあきらめきれなくて、かなりあからさまな誘惑をして、しかもそれが成功してしまうのだから。しかしこの場面は結構笑えた。ワザとガラスを割って、(妻のオヤジさんの後を継いだ)ガラス屋であるヴィンセントを呼び出し、ちょっとしたすきにあっという間に裸になって(ほんとに早かったぞ……)ヴィンセントの前に、どお?てな感じで立ちはだかる。その彼女にこれまたあっという間におおいかぶさるヴィンセント。ロージーとの、子作りのための義務的なセックスにプレッシャーを感じてたのもあるとは思うけど、でもねえ、男って、やーねー(ま、この場合はキャシーもあんまりだが)。

愛と家族は一つ線上につながっている。もちろんいろいろと例外はあるけれど、愛から子供、そして家族とつながっていくから。ヴィンセントは両親を亡くしていて、多分ロージーよりも家族志向が強い。だから、ロージーの家族との食事会にも積極的に参加してるし、早く子供を作って本格的に家族としてみとめられたいのだろう。ロージーは子供が出来ないこともあって、その自分の家族ともギクシャクしている。しかし、それが、ラストで子供をもうけた彼女は、それがウソのように家族と晴れやかにうちとけていて、ヴィンセントもまたしかり。

愛と家族がこうしてつながっていることを見れば、恋はそれだけで完結していることが良く判る。ひょっとしたら愛よりも恋の方が感情の密度とかの完成度は高いのだけれど、かつて、その恋が恋だけで終わったものは、再び再燃して愛に昇華するのは難しい。恋という、より完全な完成を終えてしまっているからである。ロージーとブノワは、ペンパルだけの関係でかつて出来なかったことをやっているにすぎない。ここでの二人はあの頃の二人なのだ。10代だった時の。ヴィンセントが入り込めないのも当然で。だって、まだ彼はロージーと出会っていないのだから。

まあ、だから“どっちを選ぶか”なんていうのは、映画を観る前からそりゃ、夫の方でしょう、と思い、それはそのとおりだったのだが、思ったよりもロージーに心揺れている感じはなかった。熱を上げているブノワに対して、彼女の方は“あの頃好きだった人”という区分分けが明確になされている感じがする。女は初恋の思い出はとても大切にするけれど、それを現実と混同したりはしない。多分男の方がロマンティックで、初恋を現実にしたいと思っているのかもしれない。女の初恋に対するそうした姿勢は、わりと残酷というか、例えば夫をそうして選んでも、人生の終焉にもっとも大切な思い出は何かと問われたら、初恋を選んだりしちゃうかもしれないわけで。ま、その辺の男女の違いが面白いわけだけど。

子供が産まれたロージーにブノワからお祝いの電話がかかってきて、その時ブノワの様子も映すかな、と思ったら、電話の声だけで。その声がなんだか淋しそうでね、気になってしまった。ブノワは別れた彼女とやりなおせなかったのかな……今もひとりでいるのだろうか、なんて。

コンサートホールの受付嬢であるロージーが、イヤミな上司やワガママな指揮者にウンザリして、アナウンスでにこやかに罵倒し、サッと辞めてしまう場面は痛快だった!それに至るまで彼女はさんざん我慢に我慢を重ねていて、もうこれ以上は限界、というところだったわけで。あー、私も一度でいいからやってみたい!……ストレス、たまってるかしらん。★★★☆☆


一瞬の夢小武/Xiao Wu
1997年 108分 中国=香港 カラー
監督:ジャ・ジャンクー 脚本:ジャ・ジャンクー
撮影:ユー・リクウァイ 音楽:
出演:ワン・ホンワァイ/ハオ・ホンジャン/ズオ・バイタオ

2000/1/10/月・祝 劇場(ユーロスペース)
スリの少年団のボスとして刹那的な生き方をしている小武(シャオウー)の物語。現代中国を飾らずに切り取った、ジャ・ジャンクー監督、27歳の長編デビュー作。27歳……私と同じ年の時にこんな作品を撮ってしまったのか。でも、今の時代の27歳といったら、確かにこんな風に世間を見据えているかもしれない。夢を見る部分は、本当に、ほんの少しになってしまった。だから、「一瞬の夢」……なんだか切実に判る気がする。一瞬に過ぎてしまう夢。ここで小武が見る夢は、少女との甘美で至福な時間。ガサガサと潤いのない彼らの生活を描写する中で、そこだけが上質のラブストーリーのように輝いている。だから、このままハッピーエンドを迎えるわけがないと予測できるから胸が苦しく、でも、無理だと判っていながら、なんとかこのまま行ってほしいと切実に願う。でも、やはりそれはかなえられない。夢は一瞬だから夢なのかもしれない。一生続く夢なんて、ある訳がない。「夢が現実」になった時、もう夢ではなくなっているのだもの。

およそ主人公らしくない風体、ミスター・オクレみたいな小武。10代と思しき少年らを率いているけれど、彼自身は20代だろう。昔のスリ仲間で、今や青年実業家となったヨンが、結婚式に小武を呼ばなかったことからコトは始まる。小武の前では「内輪の式だから」などというものの、その実、スリだった過去を思い出させる小武は彼にとって迷惑千万なのだ。友達すらも永遠ではない。そんな小武の前にあらわれるのが、カラオケ・バーのホステス、メイメイ。店ではただのイケイケ姉ちゃんに見える彼女、病気で店を休み、スッピンでふとんに潜り込んでいる姿のほうが、ずっと若々しくてステキである。メイメイのことが心に引っかかった小武は、彼女を見舞いに行く。友達とシェアしていると思しき部屋はベッドを置いただけできつきつの、殺風景で寒々しい部屋。しかし、その窓際のベッドに二人で腰を下ろし、窓から差し込む光に輪郭をやわらかにしながら時を過ごす二人は、その時は気づかなかったかもしれないけれど、多分、人生の中でそうはない幸せな時間を過ごしている。小武はスター志望だというメイメイに歌を歌ってくれという。彼女はフェイ・ウォンの歌を静かに歌い出す。ふと、声をつまらせ……涙を落としたのだろうか、こんどはあなたの番、と小武にふるメイメイ。歌は歌えない、と拒む小武、どうしてもという彼女に目をつぶらせ、聞かせるのはライターを着火させると流れる「エリーゼのために」。メイメイは小武の膝に頭をしずめる。……一瞬の夢。ライターの火も、その刹那の音楽も、まさしく“一瞬”である。

この後、二人はなんだか笑っちゃうくらいラブラブになるのだが、この時の時間以上に心が通い合った瞬間は多分もう訪れていない。「私の彼になって」「いいよ」などと交わす会話の、甘ったるい現実感のなさ。……あの時の時間は甘美だったけれど、今、二人で生きているという現実感は確かにあったと思う。それがどんどん失われていく。しかしはしゃいだ小武はそれに気づかない。さびれた銭湯で一人調子っぱずれの歌を歌ったり(そう、彼は歌うようになるのだ)、メイメイとデュエットまでする。ダンスまでしてしまう。カラオケ・バーでいちゃいちゃしているところを仲間にジャマされて怒ったりする。その幸福の時間が、そうやってどんどんマヌケなものに……空虚なものになっていることに気づかないのだ。ついには指輪まで買ってしまう小武、そしてその直後、メイメイはいなくなる。彼に何も告げず、誰にも行き先を明らかにしないまま。……予測していたとはいえ、えええ、メイメイ、なんでなんでなんで!?と心の中で叫んでしまう。でも多分、メイメイの方が先に気づいてしまったんだろう。あの瞬間だけが真実だったことに。

意気消沈した小武が帰る実家。そこでも彼に安住する場所はない。貧しいながらもまっとうに生きている親や兄弟たちから彼は明らかに浮いている。孤独である。メイメイに贈るつもりだった指輪を母親にプレゼントするも、それをあっさり兄嫁に横流しされてしまう。激怒する小武。その態度にこれまた激怒する父親。小武は「もう戻ってくるな!」という父親の罵声を背中に家を後にする。……キツい。親兄弟すら心安らげる場所ではないなんて。彼にもう行くところはない。それを証明するかのように、小武はスリをしくじって逮捕されてしまう。調書を取られる警察署のテレビから流れてくるのは「エリーゼのために」。小武にとってのエリーゼは、ポケベルに「幸運を祈っている」とだけメッセージを入れてくる。思えばベートーベンにとってのエリーゼも、やぶれた恋ではなかったか。

集まってくる野次馬も気にせずそのままカメラに収めたという、フィクションと現実がそこここに交差している本作で、それがもっとも印象的なのが、ラスト。連行する警官がちょっと買い物をしてくるといって、小武を路上に手錠をつないだまま放置してしまう。なすすべもない小武の周りに、通りすがりの人々が集まってくる。否応なき視線。本当に、立ち止まってじっと彼を見つめるのだ。それは撮影中に生じた、物見高い野次馬にすぎないのだが、ついに逮捕されたスリの常習犯に対する冷たき視線にしっかり“演出”されているのが凄い。小武の行き場のなさを決定的なものにしていて、どうしようもない気分にさせるのだもの。

幸福を得るのに、恋は一番確実で有効な手段だけれど、それを持続させるのほど難しいものはないのだろう。メイメイは多分、自分にとっての確かな幸せをつかむために彼から離れた。彼女には小武と違って、見えているものがあったのだ。恋ほど甘美ではないけれど、恋よりも手応えを感じることができる何かが。そしてそれは夢ではなく、現実なものなのだろうけれど、「一瞬の夢」よりも価値のある何かを。小武にそれを見つけることができるのだろうか。彼があの「一瞬の夢」だけを心の糧に生きていくのだとしたら……美しいけれど、哀しい。★★★☆☆


いつものように ―大分篇―
1997年 70分 日本 カラー
監督:けんもち聡 脚本:けんもち聡
撮影:中山愉佳子 音楽:
出演:高瀬アラタ 河野智典 萩田良絵

2000/9/15/祝 なかの芸能小劇場
2年以上前、いわゆる「東京篇」を観て、この「大分篇」の存在を知ってからもう観たくて観たくて観たくてたまらなかった。それぐらい「東京篇」には本当にベタボレしてて、どこかでやってくれるだろうと思ってずっと待っていたのに全然で、監督の名前もそれからピタリと聞かなくなってしまい、ああ、もうダメかなあ、と思っていたら、突然のこの特別上映!たった三日間の上映でも嬉しくって、心待ちにして初日に駆けつけた。ああ、しかも、監督と河野、高瀬、両主演俳優が舞台挨拶に!前作でタカセ氏にホレてた私は握手を請うどころか、目を見る事すら出来なかったけど、とにかく嬉しかった!

「東京篇」の前に作られている本作は、だからと言ってその前篇というわけではなく、この「大分編」できちっと完結している。しかし今「東京篇」を思い起こすと、中国語を自在に操っていたタカセが、この「大分篇」ではずっとテープで勉強していたり(テープを巻き戻しながら四声を黙々と繰り返すタカセが何とはなしに可笑しい)といった具体的なエピソードをはじめ、コウノとタカセの性格や関係性も勿論リンクしていて、やはりなかなかに興味深い。相変わらず(というかもともとというべきか)コウノは女にカルいが、タカセは相手に異性を感じさせるところまで行かないいわゆる「いい人」にとどまってしまう。この「大分篇」で二人が知り合う(コウノにとっては遠い親戚の)ヨシエは、後半タカセと行動を共にし、かなりイイ雰囲気になる。ヨシエの帰る時間が迫り、駅でタカセが彼女の電話番号を聞き出し、自分の電話番号も何とか彼女に教えるのだけど、それまでで、二人がその後連絡を取り合うという感じは、しないのだ。……なぜだろう。別にその後の「東京篇」でタカセが別の女の子に好意を持っていたからとか、そういうんじゃなくて、本当に、友達としてイイ雰囲気になっていたのが、この駅でのシーンでそれすら壊してしまった気がして……。もう、ほんとタカセは切ないくらい、「いい人」のまんま終わっちゃうのだ。でも大好きだけど、ホントに。

一方のコウノはというと、彼は「東京篇」同様、故郷に帰ってきたというのに、やはりドラッグの運び屋で奔走している。そして「東京篇」同様、その為に危険な思いをするというようなことはなく、ほんとにまるで普通のアルバイトをしているかのような描写。しかし彼ももはや学生などと言う年ではなく(多分)、彼のカルさは不安を隠すためのもののように見える。運びに行った先の土地で女の子を誘おうとしても上手く行かず、たった一人ビジネスホテルでぼんやりテレビのニュースを見たり、枕の中身をぶちまけてベッドの上に絵を描いたり、シャワーを浴びながら自分の急所をもてあそんだりといった一人遊びをして過ごしているコウノは、その普段のお調子者の姿からは想像も出来ない孤独さだ。面白いのは普段行動を共にしているコウノとタカセの間にさしたる友情関係を感じる事もないと言う部分で、正直二人がなぜ行動を共にしているかすらも良く判らない(一応仕事の相棒みたいな感じではあるのだが、タカセは全く関与してこないし)。もしこの「大分篇」だけを観ていたら、本当に二人は友達なのかと思ったかもしれないけれども、そして今でも具体的には良く判らないのだけれど、正反対の性格のコウノとタカセが、はっきり友人とか親友とか言うんじゃなくても、どこか気分としての心のより所のような存在としてお互いをそれなりに大切に思っているのが、感じられるのだ。もしかしたらそれは、「親友」などといって寄りかかってしまう関係よりも、大人としての友人関係なのかもしれない……ちょっと淋しいけれど。

寝袋を担いで一人で旅をする男性が、タカセとヨシエにつかの間合流するエピソードも面白い。彼はピアニカとカスタネットを旅の友達に、ジャズをやる、と言って「ヨウスケ」(ひじ打ち演奏!)を披露したりする。すっかり打ち解けてきたあたりで、彼は突然別れを告げてしまう。道端で買ったたこ焼を二人に残して。そのたこ焼カーの懐かしげな宣伝音楽が妙に切ない。

この男性もまさしくこの物語を象徴する人物なのだ。コウノもタカセもヨシエも、そしてこの放浪青年もみんな一人ぼっちで、もう少しで人間関係が一段深まるというところで、今一歩を踏み出せずスルリと交わしてしまう。だからと言って人と関わりたくないわけではなくて、人のぬくもりはやっぱり恋しくて。でもその居心地の良さから一歩進むのがためらわれて。それはこの、まだ少しだけ子供でいたい年頃の最後のあがきなのかもしれない。タカセとヨシエのデート(?)で二人は互いに恋人がいるような話をし(ほんとかな……少なくともタカセの方は違う気がするが)、結婚の話題を口にする。「まだ全然考えてない」というタカセと、「子供は好きやから早く欲しいけど、まだ早い気がする」と言うヨシエ。しかしヨシエは友人の結婚式に出席するために神戸から大分に出てきたのであり、決してもう「早い」という年齢ではないのだ。……子供でいられないのは、二人だって判っているはずなのだけれど、もう少し、もう少し、と……。

ほんとにそこで喋っているような自然体と、その会話自体で物語が発展するのではなく、形にならない気持ちを浮き彫りにしていくような感覚が心地いい。特に、やはり高瀬氏のナチュラルな魅力にはホレてしまう!正直「東京篇」ほどにココロ躍らされる事はなかったのだけど、でもそれは逆に、この「大分篇」の1年後に作られたその「東京篇」で、明らかに成長し、洗練された監督の手腕が感じられて嬉しいのだ。だから、早く、早くけんもち監督の新作が観たいのだ!★★★☆☆


インビジブルHOLLOW MAN
2000年 分 アメリカ カラー
監督:ポール・バーホーベン 脚本:アンドリュー・W・マーロウ
撮影:ジョスト・バカーノ 音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:ケビン・ベーコン/エリザベス・シュー/ジョシュ・プローリン/キム・ディケンズ/グレッグ・グランバーグ/ジョーイ・スロトニック/メアリー・ランドル/ウィリアム・ディベイン

2000/10/7/土 劇場(みゆき座/先行オールナイト)
ハリウッド映画だからってなんでもかんでも持ってくるってのはもうそろそろヤメテ欲しい気がする……。なんか、オソロシクつまんなかったぞお……日本でヒットするんかいね?あいもかわらず“全米第一位スタート!”の惹句がついてるけど、最初だけでしょ。向こうでも評判は良くなかったって言うしさあ……。いや、確かに映像はスゴいよ。今の技術があってこその透明人間映画だとは確かに思う。“確かにそこにいるのに、見えない”というのを、質感、量感、気配、全てにおいて完璧に成し遂げてる。水の中に入ったり、液体や消化器液のような霧状のものをかけられたりした時に現れるリアルと迫力には、本当に現在の技術のあまりのスゴさに口をあんぐりあけっぱなしという感じで。でも、それだけなんだよね。技術の見世物市。特に透明状態から可視化のプロセスをたどる時の、血清が血管を通り、内臓や筋肉が現れ……という、グロテスクなまでのリアル感は、判った、しつこい!と言いたくなるほど“どうだ、スゴイだろう”という意図がミエミエ。

しっかし、あーあ、もうこれで、透明人間映画に対するファンタジックな夢が、完全に消え去ってしまったという感じだ。透明人間は、人間の永遠の夢であり、しかしどこまでも御伽噺のような優しさを持ち、“見えないのにいる”という、映画にとっては実に想像力をかき立てる題材だったのに……。勿論、テーマに対してどんな取り組み方をしようと自由なんだけど……本作はあくまでリアル指向で、科学者たちが透明化の研究を国家プロジェクトとして行い、透明化した生物に対しては温度を色で感知するゴーグルをかけ……といった具合。ま、このゴーグルも、他の全ての人間も当然ながら映ってしまうわけで、諸刃の剣な訳だけど、その辺のスリリングさには対しては興味がないみたいで、全然生かしてなかったなあ?

人から見えないことの苛立ちと自由を満喫する解放感を同時に持つという、人間の複雑な心理に着目したのが透明人間映画としての本作の、最も重要なオリジナリティの筈なのだけど、これもまた、あっさり自由への欲望に負ける方向にだけ仕立てているのも好きになれない。透明化が予期せぬ長期間にわたり、苛立ちから解放感へ、そしてそれがエスカレートして……ということなんだろうけど、例えば彼がそのことで孤独にさいなまれたり、元に戻れるのかという不安に身を焦がしたりして、精神のバランスを失っていく、などとゆー繊細な心理描写は全くなく、何だか意味もなく狂気に走っていって、ふと気付くとただのヘンタイ&シリアルキラーと変貌しているのだからまったくもって首を傾げてしまう。まあ、最初からどっかキ印っぽい(あ、これって使っちゃいけない言葉なんだっけ?)ヤツだったけどさ。

でも、そういうヤツだから、殺してあー、スッキリ、てなもんなのか?うーん、これってほんとハリウッド映画にありがちなんだが……。クライマックス、やっつけてもやっつけても死なない(さすがにヘキエキ。お約束とはいえ、いくらなんでも死ななすぎだ)ケイン(おっと、やっと名前が出てきた。こやつが透明人間だわな)をまさしく業火の中に突き落とすヒロインの言葉が「地獄へ落ちろ!」だもんねえ。ほんとやんなっちゃう。やんなっちゃうといえば、あーあ、またかよ、な大爆発のオンパレードで、全くこれしかないんかい、ハリウッド映画はよお、と嘆息。同じ爆発させるのだって、見せ方があるでしょうが。見せ方によって観てるこっちが身震いする迫力が出るってもんでさ、ただ爆発させりゃいいと思ってんだから、まったくアホか。

技術に溺れちゃいけない見本のような作品でした。技術はあくまでサポートなのだ、少なくとも映画にとっては。どんなスゴイ技術だって、いつか古くなってしまうんだから、それだけで映画を作っちゃその作品の存在価値がなくなるんだということを、ちゃんと判って欲しい、ほんとに。ついでに言うと、このより判りにくくした邦題は一体何なんだ??★☆☆☆☆


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