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ピーター・グリーナウェイ 8 1/2の女たち/81/2WOMEN
1999年 118分 イギリス=フランス=ドイツ=ベネルクス3国 カラー
監督:ピーター・グリーナウェイ 脚本:ピーター・グリーナウェイ
撮影: 音楽:
出演:ジョン・スタンディング/マシュー・デラメェア/ヴィヴィアン・ウー/伊能静/アマンダ・プラマー/真野きりな
うーん、確かに彼女のビジュアルの鮮烈さは生かされてはいるものの、そしてこうして時間が経って思い返してみると、うーん、得な役柄だったかもしれないと思わなくはないものの、やっぱり、ヤダッ。エキセントリックな狂ったヤマトナデシコ、とでもいった趣なのだが、これがやることといいいでたちといい、非常に美しくないんだもの。彼女を買った親子の、父親の方が彼女を褒め称える言葉、「肌が真っ白で,華奢で、まるで私のペニスが梅の花に突っ込んでいくようだった」などという言は、妙に魅惑的だったりするのだけど、それを実際に画として美しいと感じさせる部分が……うーむ。自殺して水に浮かんでいる時だって白目むかせてさあ。……まあ、真野きりなだから出来るとも言えるけど(彼女の話をする時どうしてもついつい何度も持ち出してしまうんだけど……田中麗奈には出来ないよな)。
なんて書いてると、どんな話じゃ、と思っちゃうんだけど、観てる時もそう思ってた私(笑)。誰かが言っていたが、予習してから観た方がいいというのはそうかもしれない。観てる時はストーリーから何から何が何だか判んなくって、終始ケムに巻かれているといった感じなのだけど、HPなどでストーリーを読んでみると、実に単純明解なのだよね。ジュネーブに住む富豪の父子が世界中から集めた個性的な(と言うより奇妙な)美女たちで娼館を作る、という……。でも、その単純なはずのストーリーをワザと判りにくくしているような、そんな感じなのだ。感じ、感じ、とアイマイだけど、ホントに何とも言いがたいんだもの。ああ、でもこういう世界って確かに、芸術の一端にある、特に絵画とかに見られるそういう芸術性で、そう最初から観念?していれば無理にストーリーを追おうなんて考えなかったんだけど。
多分前作の「ピーター・グリーナウェイの枕草子」あたりからだと思うのだけれど、この監督、一体日本のどこにそんなに興味を持っているのだろう。日本が好きなのかどうかもアヤしいところである。奇妙にねじまがってて、美しくはあるけれどどこか気色が悪い。確かに日本ではあるのだけど、日本人が見る日本では決してない(当たり前だが)。でも不思議なことに、嫌悪感はないのだ。勘違いしているという感じもない。歌舞伎の描写も、女形に憧れる奇妙な和服の女(これが真野きりなだ)も、息子の京都の部屋のテレビに映し出されている相撲中継も、そして本作の重要な(かどうかもアヤしいが)要素であるパチンコも、外国人が興味を示す日本文化では確かにあるのだけど、それ以上に現代の、現在の日本人が確かにこれが日本だと感じうるものでもあって。その辺が「チャーリーズ・エンジェル」で感じたイヤな感覚とは全く違うな、と思ったんだけど。それに本作の場合は日本人キャストが何人も重要な位置を占めているし。
息子が父親のために作り出したこの性欲、性愛の花園だけれど、息子もまたその虜になっている。当たり前だが息子の方が若いし、見た目的にもほっそりとしたハンサムで魅力的だ。しかし不思議なことに、女たちは彼には(ほぼ)見向きもせずに、もはや老人の父親とのセックスに興味を示すのである。それを最も象徴しているのが、唯一人、自ら押しかけてきた女で、父子ともに惹かれていたパルミラ(ポリー・ウォーカー)。父親亡き後彼女に言い寄る息子に「貴方は若いし(セックスが)単純すぎるのよ。こなれてないの。私はそれでは物足りないのよ」と痛烈に浴びせるシーンがその最たるもので、ずいぶんとナマナマしいこと言うなあ、と思ったけど、セックスに限らず、男性に対して女がこういう風に感じるというのは、確かにある。若い男だと、いつか自分が捨てられてしまうのではという恐怖感、というのもあるのだが。男の場合は女と違ってギリギリまで性欲も性能力も残ってるから。でもそれだけじゃなくて、ああ、そうだ、多分女は(とりあえず自分のことは置いといて)男の最後の女になりたいんだ、という理由のせいもあるかもしれない。
しかしまあ、こうしたもっともらしい受け止め方はこの作品には似つかわしくないな、って気がする。もっとなんと言うか、何にも言わずに受け止めちゃった方が正しいんではないか。ブタの前で調子っぱずれの歌を甲高い声で歌いながらキモノで舞い躍る女、全裸で白馬にまたがって走り去って行く馬と豚に恋する女、1/2と呼ばれる口を聞かない巫女姿の小さな女、陰毛をツルツルに剃った尼姿で本当に宗教に目覚めてしまった女、妊娠が趣味で、しょっちゅうはらんでは子供を売り飛ばす女、そうした“女”のビジュアルの強烈さが、しかし無条件で魅力的(美しい、と言ってしまうのはなんとなく躊躇してしまう)と思えるのもオドロキで。対照的に男の方はというと、結構スパスパ脱いだりはするものの、それこそ至極単純で、一言で言い終わっちゃうような感じで。
タイトルからしても「フェリーニの8 1/2」に色んな形で通じているのだが、私、そうだフェリーニのも、ダメだったんだあ。これもまた記憶のかなたではっきりとは思い出せないんだけど、理解できない私はバカなんだろうかと、おっそろしく悩んだ記憶はある。若かったせいかも?知れないけど。てことは本作でも頭抱える私は、いまだ若いのかしらん(笑)。★★☆☆☆
でもね、ちょっとだけヒネリもあったりするんだ。村を守るために立ち上がるまさしくヒーロー、マックスは、いわゆる“ヨソ者”。でも彼の持論は「生まれ育った場所は関係なく、心安らげるところこそ故郷」。ラストにはやはりこの村の者ではない、本来は村の敵である工事作業員たちが、マックスに共感、信奉して悪徳軍団をやっつけるのだ!そう、そこに生まれ育った人たちこそ、その土地のいいところを意外に見落としていたり、その土地への愛を忘れていたりするのだ。それをマックスは思い出させてくれるんである。全世界的に都会重視、中央集権的傾向に一石を投じているのだ(ほんとかよ)。
まあ、でもやっぱり大人の物語だよな。だって、エッチだもん(笑)。隣の村の女の子に一目で恋に落ちるマックスの友人、カスパーはもういきなりヤリまくっちゃって、しかもその女の子は双子で、二人そろってカスパーのワザに参っちゃうし(画的にスゴいぞ……殆どドッペルゲンガーの悪夢だ(笑))、村にやってきた場違いなアメリカ人?ケバ系中年女(しかし実はエマの義母であり、ストーリーのカギを握る人物)とゲイであったはずの美少年がお互い一目で恋に落ち、視線と舌の動き(!)で誘いをかけるし、恋愛を自分自身に固く禁じている司祭も、キリスト像をくるんと後ろ向きにして初めての恋に溺れちゃうし。圧巻は、マックスと彼が恋する“山の天使”エマとが初めて結ばれる(天使の割には、大胆にすっぽんぽんになりますな)岩の洞窟(マックスの住処だ。クール!)でのヨーデルファック!だってさあ、ほんとヨーデルのリズムに合わせて腰動かして(キャー!)、体位を変えて(キャーキャー!)、まさしくヨーデルが歓喜の声になって昇天しちゃうんだもん(イヤー!)。それにしても、女の子が上になった双方仰向け状態でのバック攻めはいくらなんでも無理があるんじゃないのお〜(そんなこともないの?いやーん、ワタシ判んなーい)。
司祭がためらいながらも恋に落ちることが出来たのも、この村では神様の声が実にフツーに降ってくるからなのだよなー。話し掛ければ、すぐに答えてくれる。しかも、どうやらその話し掛けられた本人だけでなく、一緒にいる人なんかにもちゃんと聞こえているらしいんだからスゴい。確かにこの美しき高山地帯では神様に近そうな気がするもんなー。なんかもう、普通に話してるんだもん。メッチャフレンドリーに俗語使って(笑)。日本語字幕の崩し方が、どの程度まで本来の言葉の感じを伝えてるかは判らないけど、どうやらかなり気兼ねない話し方してるんだろうな、あれは。だって神様に対する態度で判るって(笑)。あれって、ちょっと、日本の神様(あるいは、妖怪とかそのへん)に対するフレンドリーさと似てるような気がする。崇め奉ってるんじゃなく、ほんと生活の一部なんだよなあ。でも、ちゃんと恐れ敬う絶対的な存在でもあって。そういうところもソックリ。司祭は、恋に生きることをキリスト様に承認され(た途端、即、両腕を上げて相手のカティに「結婚して(ハートマークつけたい!)」と言うのがむちゃくちゃ可笑しい!)、でも司祭職は神様からクビされちゃうんだもんね。ちょっと可哀想かも?神様の嫉妬かしらん。
しっかし、ヨーデルがこれほどまでにココロ躍るものだとは知らなかった。しかも、この村の老若男女が歌ってて、当たり前ながら若い人も歌ってて、それが凄くカッコイイ!マックスが切り立った崖の上でギターをかき鳴らしながらエマに愛を歌うところ、彼のギターに呼応した女の子が、まさしくアドリブのライブ感たっぷりに彼のギターに合わせてセッションヨーデルする場面は圧巻!ロックでありジャズ感もあり、民謡の力強さあり、しかし当然ながらパーフェクトなヨーデル。素晴らしい!そしてこのちょっと笑っちゃうくらいにパーフェクトな自然美の中で繰り広げられるノーテンキな物語にぴったりマッチして嬉しくなっちゃう!
それにしても、このニキ・リストという監督、過去に一作だけ日本公開されているというけど、私それは観てないし、これほどエンタテインメントを(かなりベタだけど(笑))しっかり見せてくれる人の作品がさっぱり入ってこないって、もったいないなあ。もう、ほんと、もっと観たいわ、ニキ・リスト映画を!ニヒリストと音が似てるけど、ニヒリストには程遠いエンタメ監督だわあ(全然関係ナシ!)★★★★☆
伝言ダイヤルで新しい恋人を探すナディアは、気の合いそうな広告カメラマン、ティムと出会う。二度目に会った時、彼の部屋で早くも身体を重ねる二人だが、ティムは寝た直後からどこか冷たくなってしまう。彼の部屋から辞し、バスの中で一人涙を流すナディアが痛ましい。彼女はこの後にもティムに電話をかけて会おうとしているから(この電話の時ベッドに横たわるティムの横には女性がおり、やはりそれだけの奴だったと判るのだけど)もしかしたらハッキリと彼の態度に決断を下していたわけではないのかもしれないけれど、本能的な部分で、察知していたのだ。……こういう男、セックスしてしまうと急に冷たくなってしまう男が物語にはよく出てくるけれどやっぱりいるのだろうか、そんなもんなんだろうか……。
彼女がラスト、父親の元を訪ねた時に行き会う黒人男性が、あれは両親の家の隣人の息子?ナディアと彼は見知ったように話してたけど、私見逃したかなあ、どこで彼らが出会っていたか思い出せないんだけど……。ナディアの店のお客さんだった?でもなんにせよ、この時一緒に歩いていく二人の雰囲気は、ティムの時のどこか作られた“気の合いそうな”感じとはまるで違って、本当に微笑ましく可愛らしくお似合いで、ああ、良かったナディア!と安堵してしまう。
夫と別れて一人息子と暮らしながら奔放な恋愛を楽しんでいる、ナディの姉デビーの、実はかなり気丈な女っぷりも好きだったが、妊娠中に伴侶が仕事を辞めてしまった妹モリーのエピソードが印象的だった。確かに彼女にとってはひどく悲劇的なのだろうけれど、話を聞いているデビーとナディアが思わず笑い出してしまうほどに、モリーはツライ状況でも何でもないのだ。彼女はエディに愛されていて、彼が出ていったとしてもそれが一時的な事だと、第三者であるデビーとナディアには判ってしまうから……今現在、愛されている人がいない二人だからこそ。モリーはマタニティブルーもあるのかもしれないけれど、エディが黙って仕事を辞めてしまった事に、必要以上に過敏に反応する。エディが帰ってきた時に「仕事はどう?」と冷たく一瞥するモリーはコワい!エディが何も言えずにそのまま家を出てしまう気持ちが判らなくもない……。
そしてエディがいないままモリーは出産し、ほおら、あんなに頼り切っていた男がいなくったって、女は一人でこんな大事業を成し遂げる事が出来るんだよ!と思っているところへ、同じ病院に事故って運び込まれたエディと再会する。もはや母となって精神的にもすっかり強くなったように見えるモリーと、いまだに彼女に許しを請おうと縮こまって(怪我のせいで余計に)いるエディ。エディの提案したアリスという名前をつけた女の子を双方車椅子に乗りながらのぞき込む様子は幸せな夫婦そのものだ。やっぱり女の方が強い方がバランスが取れているのかもしれない。
しかし、女の方が強すぎるのも問題で。彼女らの両親は、すっかり濡れ落ち葉の父親と、それをうっとうしがる母親という、まさしく救いようのない状況。イライラしている母親も見苦しいのだけど、最初のうちは確かにこの父親じゃあ……と思っていたのがだんだんとそうではないことが見えてくる。息子、ダレンが家を出た事で彼らの関係はぎくしゃくし、父親はそれが母親のせいだったと思っているし、母親ももしかしたら逆にそう思っている。まさしく“子はかすがい”の逆見本のような状態なのだが、父親が隣人の陽気な黒人女性とのふれあいで心が少し開かれ、今まで言えなかったことが言えたことによって、わずかながら二人の間に風穴があく。少なくとも父親の方は“だれもが嫌いな”(と彼が評した)母親を嫌いではないのだ。それは隣人女性とのダンスで心が軽やかになった彼がベッドの中で母親の身体をまさぐる場面でも判る。……愛しているからこそ、長い間のあつれきも深かったのだ。
この母親、イライラした気持ちをうるさい犬を毒殺するなんてことに向けてしまうに至って、何だかとたんに彼女の方が可哀想になってくる。……ただ黙っていた、弱いように見えていた父親の方が実は強くて、彼女は実はとても弱い女なのかもしれない、なんて……。溺愛していたであろう息子が出ていってしまって精神のバランスを崩し、周囲の人間全てを嫌いになる事で自分を支えていたのではないか、なんて……。そうして考えると、男と女、どっちの方が強いとか、そんなことではなくて、彼らはただ、一生懸命に自分で自分を支えて立って生きているんだと、それだけなんだと思えてくる。愛する人も出来るし、愛する人を作ろうともがいたりするけれど、その相手によって立っているのではなく、自分で立っているしか出来ないんだと。愛する人や兄弟や家族は確かにかけがえなく大切だけれど、それは自分以上のものではないのだと……それは個人主義とか自分勝手とかナルシシズムなどというものではない。と言うより、人は他者に対する愛ばかりを盲信しすぎているのだ。だからこそ、それを失った時、あるいはそれが見つからない時、人間はとたんに弱くなってしまう。自分を愛するという行為が、愚かな事のように思われていたのかもしれないけれど、そうではない。生きていく上でそれは必要な大前提であり、そのことでやっと一人前の人間であり、だからこそ、一人の人間として他人も愛する事が出来るのだ。
原題そのままのタイトルの横行があまりにひどくなってきた昨今に、この秀逸な邦題がまず心惹かれた。原題のまま「ワンダーランド」でも(難しい言葉でもないから)充分いけただろうに、内容をきちっと理解し、愛し、その魅力を言い表したタイトルをつけてくれたその姿勢がとても素敵だ。まさしく光りにあふれたロンドンの街を、孤独感からその光にのみ込まれそうになりながらも、その中を必死に泳いでいく人たちが、切なくって身につまされていとおしい。光といってもそれは勿論太陽の光などであるはずはなく、優しい月の光でも勿論なく、都会から安らぎの夜を奪う人工の光だ。でもその光がやわらかくてあたたかくて、何だかだんだんと彼らを守ってくれる光のような気がしてくる。……安らぎの筈の夜も、孤独な彼らにとってはそれこそのみ込まれてしまう闇なのかもしれないのだ。東京も、こんな風に映し出す事が出来るのだろうか。東京もこんな風に包み込んでくれる「ひかりのまち」となってくれているのだろうか。★★★☆☆
いい年をして恋に恋する女、チュニと失恋したてでもう恋は懲り懲りだと思っている男、チョルス。既にこの設定からして赤面してしまいそうになる。しかも二人合作のシナリオから生み出された世界は、さらに輪をかけて少女漫画というより童話の世界の恋人同士のようにほのぼのと展開されるのだから、さらに、である。しかし、こうした言ってしまえば臆面もないアコガレとしての恋愛世界は、久しく見ていなかったような気もする。言うまでもなくそれは全世界的に映画監督は男性が占めていて、こうした女性の、“アコガレとしての恋愛世界”を描くどころか、知るよしもなかったであろうから。その点、このイ・ジョンヒャン監督は男性社会の中で肩肘はって女性監督しているという力みが全くなく、自分のかなり恥ずかしいアコガレ世界をノリノリで演出していて、すがすがしい。
このチュニを演じるシム・ウナ。「カル」の徹底的に暗い役柄の後に観たので、かなりのインパクト。出世作「八月のクリスマス」の役柄の方にやや近いが、しかしここでの彼女は男勝りと言うよりは単なるズボラなチュニをかなり大胆に演じている。大胆……うん、そう、ちょっとオーバーアクト気味かな、とも思えるのだが、まあ、こういう(少女漫画的、童話的)世界だから、監督の意図なのかもしれない。結婚式のビデオカメラマンという、一応は独立したキャリア・ウーマンなのだが、部屋の中はほこりだらけでメチャメチャ、コップは全部割れてしまってペットボトル口飲み、いかにも部屋着といった感じのデロンとした格好、いやー、実にシンパシィを感じさせる。一人暮らしの女なんて、こんなもんよ。
彼女の住んでいる部屋に前に住んでいた女性、タヘの元恋人、チョルスが軍隊の休暇で訪ねてくる。“元”恋人、になってしまっているのを彼は知らない。チュニの留守中に合鍵で入り込んでしまうのだが、いくら家具が同じだからって、この散らかりよう(後で登場するタヘの様子からすると、こういう生活タイプの女性ではないだろう)で気づきそうなもんだが。枕の匂いなんか嗅がなくても。
タヘにこっぴどくフラれ、行き場のない彼をチュニは「私を女だと思わないと言ったわよね」ということで、休暇の十日間住まわせてやることにする。チュニはコンクールに応募するためのシナリオを執筆中。手書きの原稿をパソコンで打ち直しているのだけれど、キーボードタッチのあまりのヘタさにチョルスが見かねて“代打”。シナリオを読み、チュニの恋というよりは憧れの恋心を知ることとなる。「君は本当の愛を知らない」とシナリオの合作を申し出る彼。美術館好きのチュニと動物園好きのチョルス共作のシナリオタイトルは「美術館の隣の動物園」。美術館に勤める女はタヘ、動物園の獣医である男はチュニの憧れの人、インゴン。
ま、言うまでもなく、このシナリオ執筆にしたがって、彼らの心も育まれていくのである。もちろんチョルスは失恋したてであり、いまだにタヘとなんとかヨリを戻そうと悪戦苦闘しているのだが、彼女とは全く正反対だけれど憧れの人の前ではいそいそとおしゃれをするチュニを微笑ましい笑顔で見守っている。そういう意味ではチュニの方が、自分の気持ちに気づくのが遅い。チョルスが本当の自分(インゴンに声をかけることも出来なくて落ち込んでいたりする)を見つめていることに気づかないのだ。
彼らが書き進めるシナリオの中の物語が、バツグンに可愛い。これが単体の話だったら、もう恥ずかしくて身悶えするところだが、“劇中で創作されている物語”というワンクッションが非常に上手く効果を上げているのだ。そしてもちろんその効果を監督がネラッているのは間違いなく、だからこそ、こんなにも星が瞬くような、画面の色合いもファンタジックな恋物語に仕立て上げたのだろう。現実のキッツいタヘとは全く正反対のシナリオ中のタヘ、濃いメイクは一緒だが(笑)、それもまたなぜかシナリオ中のタヘとなると、異様にカワイイのである。どこか、昔のアメリカンホームドラマのようで。対するインゴン役のアン・ソンギ。現実の彼はあまり出てこないが(もっぱらチュニの話に散々出てくるだけで)この寡黙な、そして孤独な動物園勤務の獣医である彼は、なんだかとてつもなく素敵である。ちょくちょく観ているはずだけど(最近でも「スプリング・イン・ホームタウン」で観てるし)こんなに素敵な人だったかしらん。タヘの自転車の後ろに乗って、そして後からタヘを自転車の後ろに乗せて走っていく場面は、ほんとに可愛くって、可愛くって、大好き!
このシナリオの中の二人が、ハッピーエンドを迎えられるのか、恋愛経験のないチュニは決めかねたまま、チョルスの帰る日がやってくる。お互いの気持ちに気づきはじめていながら、それぞれの傷心を抱えて素直に向き合えない。チョルスは自らラストをしたため、コンクールに投函する。今思えばそれは彼の願望だったに違いないのだが、そこは映画、ちゃんと奇跡が起こるのである。チョルスを追ってチュニは二人の気持ちが通じ合った初めての場所であり、シナリオの舞台である美術館&動物園に向かう。そこで最初の時はチュニは美術館へ、チョルスは動物園へと行った。チュニはチョルスがいるであろうと動物園へと向かうのだが、チョルスは美術館の中にいる。お互いを思っているからこそのすれ違い。ああ!と思っていると、それぞれ出てきた二人が外で鉢合わせる。
「俺の書いたシナリオの続きが気になるか?」と顔を近づけるチョルス。驚いて横を向くチュニの顔を強引に正面に向かせてキスをする。「これが俺のハッピーエンドだ。気に入らなかったか?」チュニは照れ隠しのような、奇妙な、しかし可愛らしい表情を見せて、いや、もう内心ドッキドキなのだろう、だってチョルスと目を合わせないもの、でもチョルスと仲良く手をつないで歩き出す。そして、ジ・エンド。
ポップでキュートな音楽も、この作品世界にピッタリ。その音楽の心地よさもあいまってか、こんなにオチャメな話の筈なのに、何故か涙が出てしまって、泣き笑いのようになってしまった。こんな感覚も久しぶり。★★★☆☆
実はこの作品を観たいと思ったのは、うーん、「美少年の恋」という耽美的なタイトルに惹かれたというのも正直なところなんだけど、それよりも何よりもあのカワユイカワユイ、スー・チーが出ているからなんである。「ゴージャス」でメチャぼれした彼女、でもこの作品では、別に彼女が出てくる必要ないんでないの?と思われるほどにチョイ出演で、どーでもいいような、ヤッツケ的な役回り。一応女性も出しといて画面に彩りを添えたかったのかしらん。「ゴージャス」で見せていたキュートな可愛さではなく、ここでは長いスリットから見え隠れする真っ白ですらりとしたおみ足や、真っ赤な唇、高価そうなアクセなど(それに何か事業を経営しているらしい)完全に“大人の女”。カワユイスー・チーの方が好みだけど、こういう女も似合ってる。
んでまあ、原題からも推測できるように、これはきっと日本のやおいモノコミックスの影響を受けているんではあるまいか、という世界で。実際見に来ていた観客も、そういうのが好きそうな10代〜20代前半の若い女の子達がゾロゾロ(男性一人、あるいは男性二人で……というのもいらっしゃいましたね)。“美少年”と言うにはちょいとツライお年頃の彼ら(平均して25歳くらいだ)、いわゆるホスト系ですな、主人公のお仕事もそうだし。
この主人公であるジゴロのジェット(なんか凄い死語的な語感……)を演じるスティーブン・フォンは、ああ、こういう人香港明星っぽい!と思える、日本ではちょっと古い時代に流行ったような、ベタ甘なルックスにナルシスティックな長髪。光GENJIの諸星風?という感じ。彼が恋する警官(うーん、コスプレフリーク!)のサムを演じるダニエル・ウーは、もの言いたげなおちょぼ口が印象的な、清新な青年。彼のまわりにはいつも涼やかな風が吹きぬけていくよう。あと二人からんでくるんだけど、彼らに関しては、年齢のことを抜きにしても美少年と言うにはちょっと違うような……。ジェットの同僚で同居人であるアチン(ジェイソン・ツアン)に関しては、この仕事に就く前のエピソードでその当時はサエないサラリーマンだった様子が描かれるから納得できるけど、スター歌手であるK.S.(テレンス・イン)は、「小さい頃からスター顔だって言われた」などとこっちが吹き出すようなセリフをかまし、「ジェームス・ディーンには自分でも似てると思う」とこれまた追いうちをかけてくる。おいおい!ヤラシー顔のジェームス・ディーンだなあ!
このサムをかなめとして、彼と関わった三人の男たちが不思議な縁で結ばれていく。ファイと呼ばれていた頃の、会社員であったサムとアチンの友情から淡い恋への発展、その頃サムはK.S.と出会い、ほぼ彼の方が一方的に熱を上げ、サムに恋していたアチンを傷つけることとなる。この展開を見ていると、まるでお互い一見してゲイ同士だと判ってしまうがごとく、わりと平気で口説いたり、コトに及んだりするんだけど、そんなに直感(超能力!?)が働くものなのかなあ……。ちなみに、こうした同性愛映画に限らず、香港映画って、何だかすぐ男性を白のブリーフ姿(上に着るなら白のランニング)にしたがるのはなんなんでしょうねえー。なんかみんなしてものすごーくナルシスティックに思えてしまって、目のやり場に困る!?
この主演四人はいわゆる新世代で気負いがなく、そのうち二人はアメリカでの生活の経験があることもあり、だからこうした同性愛演技にも特に抵抗がなかったのだという。メイク・ラブ・シーンもそうだけど、二人でのシャワーシーンなんてまー、びっくりするほどしんねり濃厚に、しかもなんてことなくやってのけちゃうんだもんなあ(日本の同じ年代の男優でここまで出来るかしらん)。そういやあ、「ブエノスアイレス」でだまされてゲイの役をやることになり、恐ろしく拒否反応したというトニー・レオンのそれを思い返してみると、この作品での彼らの方が別に普通の恋愛してるんだよ、といった自然体で相手を求めている感じ。なんか、トニーは悲壮感があったもんね……もちろん作品世界がそうだったんだけどさ。
とは言っても、この映画でも彼らの親世代はまだまだそうしたことに全面的に理解を示すまでにはいかない。両親が出てくるのはサムだけだけど、このサムが、とにかく優秀ないい子で育ってきて、母親が「もっといけない子でも良かったと思う。それが普通でしょう」と心配するくらいだったという。それはおそらく彼が小さな頃から自分がゲイだということに自覚的であったため、両親がそれを受け入れられないだろうと考えたためだと思うんだけど、これは間違った選択だったと言うしかない。両親のことをこれだけ思いやって愛しているならば、彼は自分を偽ってはいけなかったのだ。妙齢になった息子がゲイだと突然知ってしまった父親が(それもサムとジェットの×××シーンを見てしまう!)黙って涙を流して息子を見つめる……“家族を裏切った”と思い込んだ?サムは自殺を図ってしまうのだ。しかし、父親があの時絶句していたのは、けして息子に落胆していたわけではないと思うんだけどなー。そりゃ、保守的な世代の彼らにとって、ショックだったろうとは思うけど、愛する息子なんだもん。どちらかと言えば「どうして私たち親に言ってくれなかった」という思いがあったんではないかと……。それに、これでは親思いの息子とは言えないよ、自殺だなんて、さらに親を追い込むことになるのにさあ。
ま、サムはその外見から察するにあまりあるほどに、繊細で、弱さを抱えた人間だった、んだよね。どうやら彼は、多重人格の持ち主でもあったようだし(でもそのことについてははっきり触れられてなかったけど)、もしかしたら自分のそうした本質について、自覚的どころか逆に自分でも見ないようにしていたという方が正解かもしれない。思えば、ジェットへの思いを正直に告白するのは遺書によってで、それまでは彼とはあくまで友情で結ばれた関係だと言いたがっていたわけだし、K.S.に出会ったことをアチンに話す時だって、「僕がゲイかと聞かれた」とさも困惑気味に言うのだし。ひょっとして、彼の両親よりも彼の方が保守的だったのかもしれないとさえ思うのだ。一人で抱え込んで、まるでそれが罪であるかのように思い込んで、一人で死んでいってしまった……。
私はこの二人のエピソードより、サム(この時はファイ)に惚れて貢いで(それもサムの惚れたK.S.のために)、売春の世界に身を投じてしまうアチンが切なかったなあ。結局アチンはそのままサムと別れ、男娼を続けることとなるわけで、ある日街でサムと偶然出会ったアチンが、サムの方がまるでアチンを覚えていないことに(知らないふりをしていただけだけど)愕然とし、同僚のジェシーを抱きしめて号泣する場面が哀しい。その後、ジェットの恋人がサムだと判った時には更に失望して、かつてサムから贈られた瀬戸物の扇の置物を(しかしよりによってプレゼントにこういうものを選ぶセンスが判らない……)叩き割ってしまう。アチンを心配するジェシーがまたいいんだな。彼一人は多分結構若くて、ちっちゃくて“美少年”と言っても差し支えない。髪の毛を染めて同僚(先輩?)のジェットやアチンに「なに色気づいてんだよ」とこづかれる彼、外国人のパトロンとともにこの地を離れることを決めるのだけど、多分アチンが好きだったんだろうな……心ここにあらずアチンへの片思い、これまた切ない。
美少年に警官の服を着せて写真を撮るのが趣味のオヤジが登場し、その場面では大いに笑わせてくれる。そのオヤジも可笑しいのだが、写真を撮られるマッチョな“美少年”たちのポーズがビミョーに可笑しいのだ。なんか、こういうフッとした落しがあるもんだから、諸手をあげて耽美的な作品だの、「三島的」だのと(映画祭で言われていたらしい!)言うのは今一つはばかられるのだが……。★★☆☆☆
でも正直言って私は、またこういう世界かあ、と正直ガッカリした気分も否めなかった。訳の判らないまま車を飛ばし、セックスをし、他人に暴力をふるい、果ては殺人まで侵してしまう男と女。若い男はキレやすく、しかし女はそんな男からなぜか離れられないという……。そしてこれが愛だといい、キレやすい若者の疾走感がピュアなのだという。好意的な隣人の青年が殺されるのも、二人の愛の結果なのか。そりゃまあこれは、映画の世界に過ぎない。二人の愛の形を描くためならば、その手段に殺人を使ってもかまわないのかもしれない。でも、最近この手の手段が多すぎる気がするのは私だけなんだろうか。こういう時代だから、なんだろうか……。
女は田舎から、その町よりもちょっとだけ都会な街に出てきて、紡績工場で働いている。そして仕事の後は学校に通い、保母の資格を取ろうと考えている。この紡績工場の設定や働いているシケた感じがやけにリアル。そういえば、こういう微妙に貧乏な感じって、世の中にいっぱいあると思うのに、不思議と映画(多分テレビドラマでも)で観た事がなかった。みんな“普通”の会社のOLだったり、“普通”の大学生だったり。じつはそんなの、ちっとも普通じゃないのに。それなりに夢を持って、それなりに前向きに生きていたこの彼女、真美(小島聖)が、世の中に刹那的な接し方をしている智影(千原浩史)に出会った時から、その“それなり”が急に意味のないものになってしまう。彼女のその意識は、決して間違っているものじゃなかったのだけれど、彼の強烈な生き急ぎの強さの前には実に無力だったのだ。正しいことよりも、強いこと。彼に引きずられるようにして、他人の金を盗む事で享楽的に過ごす日々、ふと真美の言った現実的な、しかし陳腐な言葉がこの日々の危うい均衡を破る事になってしまう。彼女曰く「こんなこと、いつまで続けるの?」
盗難の現場を抑えられて、ついに御用となった智影から逃げ出す真美が、しかし結局隠れていた実家に迎えに来た彼に、安堵のような表情を見せる場面は印象的である。智影はもちろん真美に惚れているだろうけれど、彼はそれよりも死の誘惑にとりつかれているようなところがあって、実際に惚れきっているのは真美の方であったように思う。彼女が彼から逃げようとするのも、偶然にも彼からはぐれてしまうのも、彼女の中の、惚れているがゆえの彼に対する恐怖心を感じるからだ。
智影は彼女に一緒に死のうか、と言い、あの殺人事件を起こす直前に彼女に首を絞めさせるのだが、未遂に終わる。その後の逃避行の時にも、ガス自殺に失敗して大やけどを負っている。そして、最終的には、数年後偶然に再会した二人、真美が(現在の夫で智影との間の息子の父親となってくれているらしい)男をかばって智影を刺し、二人海岸で腕をからめたシーンで終わるのである。多分だけれど、そこで智影はこときれており、その表情はどこか安堵したように見える。そして真美の表情は幸せと哀しさが入り交じっているように思える。“死”という最大のライバルに、智影を渡してしまったように思えてしまうのだ。
彼ら二人に殺されてしまう、隣人のサラリーマン、鶴見辰吾(パンツまで脱がされて、ロングショットながらもあのあらわな姿は……!)や、二人に居座られてしまう部屋の持ち主で真美のかつての恋人、村上淳、そして小さな食堂の経営者で、真美と家庭を持ち、智影に刺されて瀕死の状態になりながらも、何をどう察したのか「どこにも連絡しなくていい」と息も絶え絶えに言うシーンが心に残る阿部寛など、彼らの犠牲になる脇の男達が、皆一様に哀しいばかりのいい人、いい男達なのがたまらない。
瀬々監督作品だから、あまりむげな点はつけたくないのでちょっと甘くなったんだけど、なんだかあまり心に響いてくれなかった。千原浩史にせよ、小島聖にせよ、やや型にはまっていて、他の瀬々監督作品の俳優さん達のような(というほどちゃんと観ているわけではないけれど)somethingを感じさせてくれなかったのが原因かなあ……。★★★☆☆
んで、本作はというと、これはもう全き、マギーとレオンのラブストーリーのみを語り尽くし、周囲の脇役たちは、二人を見守る心優しき人たち、といった趣である。「ラヴソング」のようなドラマチックさというよりは、もっと市井の男女のささやかな気持ちのすれ違いとでもいうような。とは言いつつ、レオンは最終的には世界が注目するに至る天才コンピューター・プログラマーであり、再プロポーズには彼の作ったバーチャル国家の市民たちを使ってハデなアプローチを試みるといった“ドラマチック”な展開も繰り広げられるのだけれど、そこでは結実せず、突然の地震が起こり、お互いを心配して駆け付け鉢合わせしたところで本当の気持ちがあふれ出て抱擁、キスとなりメデタシとなるあたりも、そのへんの“市井の男女”の恋愛のステキさが良く出ている。
マギー演じるエレンは、子持ち、バツイチのタクシードライバー。10才になるオマセで利発な男の子を育てながら、画家を夢見てダイナミックな壁画を描くアーティストでもある。少女の華奢さとは違う、大人の女の痩躯が、男に頼らずにたくましく生きていく女性のカッコよさと、同時にその無理して突っ張っているところを支えて欲しいと思っている女の弱さ、そして同時に色香をも漂わせて、さすがである。こんな風に男勝りな役を演ってもやっぱり美しいマギー!そしてレオン演じるマイクは、白亜の豪邸に住み、モテモテながらも、本当に愛する女性を見つけることが出来ないまま突っ走ってきた男。知らずに人を傷つけてしまう、成長しきれない子供のようなところを持ちながら、不思議と彼を憎みきれないのは、自分が好きなら相手も好きでいてくれると、信頼しているなら信頼してくれていると思っているような、その正直で天衣無縫さのためなのだ。
それは、どちらかというとエレンとの関係よりも、彼の従兄弟で仕事上の相棒であるボブとの間によく現れている。彼こそ、女など見向きもせずに、この才能ある、しかし無謀なボスの下で、そのボスを愛するが故に辛抱強く支えてきた。その“愛する”という部分が、どの程度まで、つまり冗談めかしていう、「俺の彼氏になれ」という言葉がどこまで本当なのかは判らないのだが、理想だけで振る舞い、ビジネスチャンスどころか会社の命運まで風前のともしびにしてしまうマイクを、しかし決して見放さず、彼の才能を信じてどうにか大逆転しようと奔走する姿が、そしてそれを成功させる粘り強さが素晴らしい。演じるエリック・コット(前はエリック・コッの表記だったよね。こっちの方が読みやすいけど)がその苦労する部下であり、兄を愛する弟、って感じが実に人間臭くあふれてて、イイんだよなあ。チャウ・シウチョンとかこの人とか、香港の俳優って、甘いマスクのお兄ちゃんばっかりじゃなく、こういう人間味のあるタイプの俳優もそろってて、うらやましい。
マイクとエレンは、そうしたながきに渡る信頼が勝ち得た愛情ではなく、タイトルが示すように直感の恋愛である。それも、その直感を身体を重ねて確かめ合う。彼らは愛の言葉を一言も口にしないうちに、それもエレンのタクシーの中でまるでスラップスティックコメディのようにバタバタしながらセックスをする。その翌日、筋肉痛に身体を強張らせながら、二人は、それぞれに信頼する人、エレンは息子のスコット、マイクは大家で父親のように心配してくれるロバートにその気持ちの変化をさとられるのである。大人の恋愛は、若い頃のように、必ずしも感情が育っていくことを重要としない。もちろんそれが理想だけれど、運命の相手というものがいるのなら、そんな過程は必要ないんである。一瞬でスパークし、身体を重ねることで生まれる感情が、そこから育っていくこともあるのだ。……ということを、特に最近の映画でよく目にする気がする。この劇中でも、マイクが仕事のためにと仕方なしに寝たタカビーなキャリアウーマン、ヴァージニアが「可愛い顔してたから寝てみたけど、私のタイプじゃないわね」などとほざく場面があり、ナンダコイツと思いもするものの、彼女もまた、寝てみることで手っ取り早く自分に合う相手を探しているとも言えるわけで。
アップダウンの続く、そしてその高い坂の上からは絶好のロケーションが広がるサンフランシスコの街並みをタクシードライバーであるエレンがレイバン風のサングラスとドライバー手袋でさっそうと走らせるカッコ良さ。路面電車?と平行にすれ違い、きちんと整備された美しい街路を見せる、まさしく映画的なシーンの連続である。監督が同時にカメラマンでもあるというセンスがこのあたりにもあらわれている。タクシードライバーって、こんなに映画にハマるんだったかと、しかも女性ドライバーという独特のカッコよさと華がマギーに良く似合っていて。息子のスコットが、そんな母親、エレンを気遣ってるっていうのが、でも底抜けに明るくて素直だっていうのが、実に 可愛らしくてね。
エレンがバツイチで子持ちだと知ってもちっともひるまず、あっけらかんとスコットと仲良くなってしまうマイクが、ややもするとリアリティに欠けそうにも思えるのだけれど、それが不思議とそうでもないのは、スコットが母親の幸せを願っていること、マイクがエレンを愛していること、そしてマイクが先述したような、まっさらな、子供のような気持ちを持っていることがとても良くかみ合っているのだ。マイクがヴァージニアと寝たことを知って、同棲を取りやめ、荷物をまとめて帰宅、泣きじゃくるエレンを何も聞かずに抱きしめるスコット、そしてマイクとめでたくヨリをもどし、その抱擁とキスをニコニコしながら眺めるスコット、ああ!まだ10歳のガキンチョとは思えぬ、なんという愛情の深さよ!
なんか最近はジャッキー映画に限らずやたらと目にするラストクレジットでのNG集。ベッドで事後のレオンとマギーが出すNGシーンになんかドキドキしたりして。うーん、NGも色っぽいわあ。
意外なことに、このテアトル池袋、私初めて入ったんだわ。今までは割と他の上映館と作品がダブってたせいだと思うんだけど、この劇場でも単館ものを扱うようになって、最近の公開本数の多さを改めて実感してしまう。嬉しいけど、高いし、追いきれん。★★★☆☆
農民を困らせる笠松一家を襲撃したことで親分をはじめ、二代目残した一家が全滅してしまった戸ヶ崎一家。温情ある親分(水島道太郎。惚れるわ〜)はお竜さんがこの騒ぎに巻き込まれないよう、計らってくれたのだが、この理不尽な報を聞いたお竜さんは当然ながら一路戸ヶ崎一家のいる上州へと飛ぶ。せっかく最愛のお竜さんが帰ってきたのに……と熊虎親分はふくれ顔なのだが……って、この親分、モロサインペンで鼻とかほっぺたに点々つけて、書きひげかいて、映画のメイクじゃないよ!なフザケたコメディリリーフが楽しいんだけど、え、ほんとに若山富三郎なの!?
あっと、そしてもう一人、脇ではこの人のことを言わずにはいられない。笠松一家の側近の手下の一人で、ちらとも表情を変えず、ほとんど台詞もないながら、視線が引き寄せられてしまう菅原文太、若い!クール!
農民を搾取し、娘を生糸工場でタダ同然に働かせ、逃げ出すものはボコボコに叩きのめす笠松一家。もうそれだけでたたっ殺してやりたくなる悪辣もんなのだけど、警察機構までをも丸め込み戸ヶ崎一家の二代目をひっとらえた上、彼を取り返すためにお竜さんが正当に勝ったにもかかわらず、それをさらに利用して、二代目の恋人を騙し、郵便馬車の権利を分捕った上、この娘さんを陵辱するという最低ヤロー!ゆうきちさん(だったと思うけど、二代目の名前。漢字が判らん)に会わす顔がないと、一度は自害まで考え、号泣する(ほんとに号泣……あれはマジだぞ。この状況設定を考えたらほんとあれくらい泣けるわ)この娘さんのなんという痛ましさ!お竜さん、私も女だから気持ちは良く判る、この背中を見てご覧、この墨。肌についた傷は一生消えないんだ。でも、心には墨は入れられない。心はきれいなままなんだ、と必死になって諭す。娘さん、今度は違う涙をゴウゴウに流す……うーうーうー、もう本当に、泣いちゃうぞ、私ぁ!
しかしこの二代目は、結局このクソ笠松に殺されてしまい、もうカンベンならんとお竜さん、表情は変えないながらも顔を紅潮させて怒り(う、美しい……)笠松一家の元へとドスとピストルをたもとに入れて乗り込むんである。縁があるのか、それまでに何くれと世話になった流れ者の鶴田浩二(これまた役名忘れた……ほんとに記憶力無いわ)とともに。あ、もう一人、数少ない残った子分、山城新吾(若い!)も一緒だわ。鶴田浩二、私ちょいと苦手なんだけど、本作の彼はなかなか良かった。「あれが人間の幸せなんだねえ。お竜さんにも人間の幸せをつかんでもらいたい。ドスよりもお針の方が似合ってるぜ」と言い、お竜さんはふと泣き出しそうになってその場を駆け出す。時代劇だからこういう差別的セリフも許しちゃう。それにこの状況だとほんとに……泣けるんだもん。
この状況がどういう状況かというと……もう一人、実に泣けるカップルがいましてですね。緋牡丹のお竜さんをライバル視する、弁天のお蓮(この字でいいのかな)とそのダンナ。彼らは本当に運命の二人というのがぴたりとくる。この二人と何となく縁があり、行く先々でよく会うという鶴田浩二が語るには、もともとはこのダンナの兄貴分の女だったお蓮さん、二人の仲がバレて、このダンナは“男じゃなくされてしまった”(去勢されちゃったのか……ヒドい)んだけど、「それでもあの二人はいつでもぴったりくっついて離れねえ」んだそうで。笠松の親分のお抱え博徒である彼女は、かのクソ笠松に抱かれたりもするんだけど(このダンナとは出来ないもんなあ……切ない)心は絶対に許さない。お竜さんとの戦いに敗れたお蓮さんが、笠松の子分集にボコボコにされるのを、最初のうちは歯を食いしばって、どこか性的興奮を抑えるような表情で耐えているこのダンナが強烈な印象。しかしたまらず止めに入ると彼の方がもっとヒドくやられてしまう。そして二人が逃げ込んできたのが、さきほどのお竜さんと鶴田浩二のいる場面、廃小屋だったわけで。なんかもう、むちゃくちゃ泣けるんだよなあ、この二人……。
とにかく、笠松親分を殺したる!と向かうお竜さん(と子分の山城新吾)の前に、鶴田浩二が待っている。あの小屋で彼女が落としたかんざしを髪にさしてやり(くっそー、キザだけど……いいシーンだ!)、二人(おっと三人か)笠松一家の元へ。バックには藤純子の歌う主題歌が流れ、いやがおうにも盛り上がる。そして追いつめた笠松親分をもう存分に存分に斬り殺す二人。特にお竜さんの手首のかえったドスの煌きは、ほんとありゃマジだぞ……って感じ。そして二人無事生き残った……ハズが、しぶとく息があった手下の一人が鶴田浩二を鉄砲で撃ってしまう。虫の息の彼、「俺の死体は海にでも流してください。ヤクザに……墓場はいらねえ」と言って息絶える。その彼にすがりつき、泣きじゃくるお竜さん、後ろから抱えるようにして彼の耳に頬を何度もこすりつけるようにするしぐさが、なんとも色っぽく……やっぱりホレてたんだなあ……そりゃそうか……。
左手も添えずに片手で軽々とピストルをぶっ放す姿のモダンなカッコ良さといい、敵を投げ飛ばす時やまるで伝統舞踊のようなしなやかな美しさのドスさばきといい、もう本当に惚れ惚れしてしまう。藍の着物がその柳のような体躯に(背も結構高いよね)似合いすぎるほどに似合う。(対照的に、弁天のお蓮さんの着物にでっかいサイコロがデザインしてあったのには笑ったが……)。花札を操る時に見せるしなやかで美しい真っ白な指、そしてきちっと合わせられた襟元からすんなりと伸びる美しい白い首……やはり「緋牡丹博徒」の藤純子は最高だ!★★★★☆
しっかし、笑わせるところはしっかり笑わせるのが「緋牡丹博徒」のスバラシイところで。今回大笑いしたのは、お竜さんがその探していた盲目の娘さん、おキミちゃんと感動の再会を果たす場面。いろんな人が居合わせてるんだけど、おかみさん風の女性がもらい泣きしながらも、ひっきりなしになにか食べてるんだもの。カマボコとかみかんとか。しかもみかんは皮むいて丁寧に白いのを取り除いたりして。ウケたなあ、あれは!
そして毎回出てくるコメディリリーフ、熊虎親分の若山富三郎は今回もキョーレツ!赤鼻にチョビヒゲまではいつもと一緒(だったような気がするが)だけど、それが非常に強調されるシルクハットにタキシード、首もとには黒いリボンを結んで白い手袋という、学芸会でマジックでもやろうかといういでたちで窮地のお竜さんを救いに来る。なんだってそんなアホなカッコしてんのかと思ったら一応(?)理由はあって。これから上海にお渡りになるんだそうで(キバッたんですなー)。しかし似合いすぎだわ、そのアホさが最高!お竜さんが会話の流れで「ちょっと待って!」と言うと「おー待ってるで、何年でも待ってるわ。わし、ずっと独身やさかい」と返すのも最高!
おキミちゃんはスリで金を稼ぐ悪い癖がある。それをいましめる、彼女にホレきってるあんさん。目医者になりたかったという彼は、彼女の目が一度手術しているのを一目で見て取る。このあんさんが、いいんだよなあ。もういい人、を絵に画いたような好青年。なにか「北の国から」で蛍ちゃんと結婚したあの男の子(あー、大好きなのに、役名忘れた!)を思い出す。おキミちゃんは丸顔で小さな目に小さな口のかなりファニー&ベビーフェイス。正直このあんさんがこれほどまでにこのコに惚れきってるのが不思議なくらいなのだが……いやいや、女の子を外見で好きになっていないという点で、余計に見所のある奴ではないか、やっぱり!
このあんさんは(ひじょーに似合わないけど)極道のはしくれ。組との板挟みで悩んで、一度はおキミちゃんと別れようともするも、お竜さんに説得される。「女の幸せは好きな人と添い遂げるこつ。それしかなか」……うーん、そうお?ま、ま、いいでしょう、ここで異論を挟むのはこういうタイプの映画に対してはかなり野暮ってもの。一匹狼の女侠であるお竜さんは、その“女の幸せ”をつかむことは出来ないわけで、その大切さが骨身にしみてるとそーゆーわけだから。お竜さんは一人でいた方が断然カッコイイけどね。
ところで、このあんさん、こんなイイ人が渡世(しかもワルい組なんだ)にいたら、きっと死んじゃうなあ、と思ってたら、やっぱり死んじゃった!おキミちゃんが捕らわれて、目をつぶされそうになり、しかもレイプされそうになったところを割って入って、ボコボコにされ、階段から突き落とされて……。おキミちゃんの悲痛な叫びと、血だらけの彼にすがりつく様があまりにもツラい。
そしてお決まり、お竜さんが敵を討ちにあんさんのいた鮫洲政一家へと乗り込む。ほんとはそこのボスとサシでの勝負だったはずが、ソヤツはとことんキタナイ奴だから、大勢の手勢を用意して待ちかまえている。“立会人”としてついてきた青山(菅原文太)とお竜さんがドスをきらめかして大立ち回りのクライマックス!……しかし判らないのはラストで、傷を負った青山をお竜さんが抱き起こすと、彼、ここに残るのは一人でいい、とかなんとか言い、お竜さんの顔がブレたストップモーションでさーっと流れていくアップで終わるんだよね。あれはどういう意味なんだろう、ボスがまだ死んでなくて、青山がそれを引き受けて相討ちになるとか、そういう意味なんだろうか?
非常にエモーショナルな描写が多い。お竜さんと青山の目のどアップが交互に繰り返されるとか。このブレたラストのアップショットだってそうだしね。なにか、きちっとした定石を保っているイメージのこうした仁侠映画において、非常に新鮮な感覚。
ところで、とっても今更な話なんだけど、お竜さんって、熊本の人吉の人だったんだ……ウッチャンと同郷ではないか!★★★★☆
太平洋戦争前後の、外界から閉ざされた小さな移民の島。真珠湾攻撃によって今は米国人である日系人たちにも容赦なく理不尽な仕打ちが降りかかる……強制収容所への送還、不当逮捕……。白人の少年イシュマエル(イーサン・ホーク)と日系人の少女ハツエ(工藤夕貴)の、静かに秘密に育んできた純粋な恋もいとも簡単に打ち砕かれてしまう。そして二人がそれぞれの立場で大人になった時、ハツエのダンナであるカズオが、今も残る日本人、日系人差別により、事故による知り合いの死亡が彼による殺人との疑惑をかけられてしまう。そして……。
イーサン・ホークは平均的な美形の、地味めな俳優に見えながら実はかなりいい役者なんじゃないかと私は思っている。いい意味で自己主張のない、職人的な役者。ワルい役を演ったのを見たことがないから判らないけれど、こうした、ある種の誠実な人間を演らせると、同じ誠実さでもその微妙な違いを繊細に表現してくれる。「大いなる遺産」('97)でそうした彼にとても感心したけれど、ここでもそう。傍聴席の柵の隙間からハツエを熱っぽく眺める彼は、物語中何度も挿入される彼とハツエとの長く、忘れられない恋をその全身に感じさせてくれる。
そう、この過去シーン、少年少女時代のイシュマエルとハツエ、そして成長してイーサン・ホークと工藤夕貴がそれぞれ演じる二人のひそやかな逢い引きはこの映画の一番の見どころ。小さな島という、物理的にも閉ざされた、そして世間的にも閉鎖的な社会で、二人が恐る恐る愛を育んでいく様子は、とても美しい。加えて二人の密会場所は霧や雨でいつもしっとりと濡れた杉林の洞窟であり、その秘密の気分をいよいよ増幅させる。特に最初、ハツエに恋するイシュマエルが海岸で彼女にキスをすると逃げられてしまい、その後彼女を追ってこの洞窟で二人きりになり彼女に謝るシーン、ハツエは謝る必要などないといい、親から白人の男の子とのつきあいを禁じられていると告白する。洞窟の外では雨がそぼ降っており、二人の髪はしっとりと濡れていて……特に少女ハツエのまさしく烏の濡れ羽色のような長い黒髪が水を含んでいる様子はこの少女の年にしてすでに官能的なものを感じさせてどきどきしてしまう。
イシュマエルは戦争で片腕を失い、帰還後は父親の後を継いで新聞記者となる。父親は日系人差別に敢然と戦った、いわば日系人社会のカリスマ的存在で、イシュマエルもまたその父親の考えに賛同し、尊敬はしているけれど、あまりにも大きい父親の存在に自分が重ねられることに戸惑う。そんな時に、かの事件の発生。日系人と結婚してしまったハツエへの思いと、差別社会への憤りが複雑に交錯して素直に彼女のために奔走できない彼、彼女のダンナが無実だという決定的な証拠を手に入れてさえも、まだ逡巡している。
日系人たちが実際に受けた理不尽な差別……土地の譲渡に対する問題(頑としてカズオに土地を譲らないあの排他的な白人婦人!)や、強制収容所問題、などをシビアに描きながらも、その実大切なものとして描かれているのは、このイシュマエルのハツエに対する思いのように、人対人の関係の濃密さのように思う。作品自体はハツエのダンナの裁判に焦点が当てられていて、それに苦悩するハツエの姿が主軸になり、そうした意味で彼女は物理的には全き主演なのだけれど、狂言回しのイシュマエルの心情がハツエのそれよりも前面に押し出されているため、やはり彼の主演かなという気がしてくる。彼の場合、人種差別問題に憤りを感じる正義にあつき青年なわけだけど、彼が突き動かされているのはそうした普遍的な社会通念ではなく、ただひとりの彼女、ハツエに対する思いがそうさせているのであり、それはどんな正しい論議よりも納得し信頼しうる“人の心”なのだ。……結局、人間同士の問題が解決するには人対人しかないのだと、「アメリカン・ヒストリーX」でも感じたことをここでもまた思う。
荒れ狂う猛吹雪の中決断するイシュマエル、彼の清潔で誠実な愛情はまさしくその雪のよう。彼の心の中では次第におさまり、静かに降り積もっていくような、雪。「新日本暴行暗黒史 復讐鬼」といい、「死国」といい、私は閉ざされた土地の美しさ、そこで醸成される人の心を描く映画に弱いかもしれない……。★★★☆☆
この麻生久美子扮する真鍋朋美が海難事故で行方不明になり、遺体の上がらないまま葬式が行われることになる。彼女の小学校の同級生たちが久々に故郷に集まってくる。彼らは印象の薄かった彼女の記憶をなかなか取り戻せず、彼女の死に哀しさや厳粛さを実感できないで、まるで同窓会のようにはしゃいでいる。……この小学校の同級生として集まるメンメンはかなり個性的で面白いのだが、実は結構年齢バラバラではないだろうか?麻生久美子ってまだ22でしょ、土屋久美子や袴田吉彦は少なくとも私と同じくらいは行ってるはずだし。
それにしても、中学校や高校の友人はどうしたんだと思わなくもないが、一度この土地を離れ、高校になって戻ってきた朋美は、そこでもあまり友人が出来なかったのかもしれない。死の直前に彼女のまわりを取巻いていた数人の男たちの回想によって現れる、儚くて哀しい彼女の姿からそんな印象を受ける。彼女が最後につきあっていた(と彼本人は思っていた)男性、死ぬ数日前の深夜に突然訪ねてこられた彼女の教師、その教師が彼女とつきあっていると聞いていた高橋という男性、教師の家に泊まった翌朝に彼女がモーニングを食べた喫茶店のマスター(ちなみに彼女の高校の同級生……彼女の記憶には残ってなかったけど)、彼女と前に付き合っていたメイクアップアーチストで、別れてからも彼女のメイクだけはやっていた男性……そこに出てくるのはみな男ばかりで、大人になってからの彼女が、いやもしかしたら子供の頃からずっと、信頼できる同性の友達が出来なかったのではないだろうかと思われて……。男たちはもちろん、そんな頼りなげな彼女を本気で心配し、本当に愛していたんだろうけど、女として愛されていても、一人間として友達がいない朋美は何だかひどく哀れに思えてしまう。
しかも、彼女が元彼との会話で最後に話題にし、死してから幽霊となって現れる相手は、この男たちの誰でもなく、小学校時代の初恋の人、輝明(袴田吉彦)なのである。そういえばこんな話を聞いたことがある……女が一番大切にしている思い出は初恋で、死ぬ前に思い出す一番も初恋の人であると。男性は妻なり最後の恋人を口にするのだけど、女性は違うのだと。結局は女性は何も汚れないままにとっておける思い出を優先するという点で、ある意味現実から目を背けているとも言え、かなりズルイというかしたたかなのだ……いや、残酷と言った方がいいかもしれない。彼女の死で涙にくれたり混乱したり、責任を感じたりしてパニクッてるこれら男性陣をよそに、朋美のことなどスッカリ忘れていた輝明のもとにだけ現れるのだから。
ドッヂボール、日食、ひまわりの種、隠した靴、盗まれた縦笛。小学校時代の思い出が甘酸っぱく回想され、時にはそれが現実と交差しそうになりながらすれ違っていく。……これは、子供の頃を地方で過ごし、大人になって(高校を卒業して)都会に出てくる人には共通に感じている感覚だろう。久しぶりに帰る故郷には、子供時代がそのまま封じ込められている。ことに、年月が経つと結構変わってしまう中都会ではなく、こんな風な小さな港町で、駅に降り立ったとたん「なつかしい!」と声を上げるほどに変わらない風景が待っていてくれる土地では。
朋美がどこか都会に出て暮らしていたのか、この土地で暮らし続けていたのかちょっと判然としなかったのだが……小学校の同級生のうちの一人(粟田麗)は一年前に朋美に会っているのだけれど、彼女は吉彦が朋美の葬式を知らせに行ったのでも判るとおり東京で暮らしているのだし……。しかし朋美の葬式に現れた男たちが東京に住んでいたとは考えにくく(特にあの喫茶店のマスターなんか、死ぬ前にちょっと会ったってだけのことで東京から駆けつけるとは思えないもんね)やはりこの港町に彼女はずっと住み続けていたということなんだろう。そうだ、一時期離れていたとはいうものの、この決して楽しいとは思えなかった小学校時代の空気を閉じ込めたままの土地で暮らし続けてしまったことが、彼女にカラを破かせないままにしてしまったのだ。どこか依頼心が強く、誰かに寄りかかっていないと倒れてしまいそうな彼女の……。真っ赤なドレスが余計彼女のそうした寂寥感を際立たせて、淋しく切ない。
朋美がなぜ漁船で海に出たかというのが、「太陽が見たかったんだよ、ひまわりなんでしょ」という粟田麗のセリフだけでは今一つ了解しにくかったのだが。もう一人のコが言った「……まさか自殺じゃないよねえ」という方がしっくりときたりして。しかし最後まで彼女の遺体はあがらず、生々しい哀しさを与えない。作品の色合いも朋美の登場シーン以外は明るく色めいていて、どこかさわやかな印象。ことに、彼女の葬式後に飲み明かし(この夜に輝明は彼女の幽霊?と会っている)海に繰り出した彼らが砂に埋まった壊れかけた小船を掘り出してはしゃぎながら海中へ滑り出し、結局転覆してびしょぬれになって浜辺に座り込んでいるシークエンスなど、まるで悩みない青春映画のようである。皆喪服姿ではあるのだけど、上着を脱いだシャツやフラウスの白が太陽に輝いていて。
意図的に現実の厳しさを排したようなこの作品に、非常に手触りの柔らかい画面が似合っている。「DOG−FOOD」や「タイムレス メロディ」の撮影監督であるというのはナルホド納得。カメラマン自体に作家性のある人かもしれない。
キャストは総じて魅力的。お気に入りの土屋久美子や北村一輝(オッ、「蝉祭りの島」コンビだ!)、粟田麗、コメディリリーフのマギー(ジョビジョバ)などは言うに及ばず、根岸季衣や銀粉蝶といったベテラン勢も、かなり笑わせてくれたりしちゃうし(季衣さん、最高!)。しかし、クレジットでも大きく名前が出てきて、チラシにもひょっとしたら麻生久美子よりも目立って顔が出てて、相当に重要な人物のように思わせていながら、その実別に彼女が出てこなくても良かったんじゃないのと思われるほどに、はっきり言っちゃえばジャマな役柄だった、輝明の恋人役である河村彩のこうした扱いには首をひねってしまったが……。★★★☆☆
しかし、どことなく中だるみしているような……?主軸がこの日系ブラジル人の主人公テアと中国女のミッシエル・リー(!!)の愛の逃亡劇におかれているせいなのか。三池監督は男女のラブ・ストーリーは多分、あまり得意ではない、と思う。孤高の男や、男同士の関係にはゾクゾクさせるものを感じるのだが。それも、こう最初っから二人の関係が固まってしまっているのだと、どうにも盛り上がらない。その点「日本黒社会 LEY LINES」などはラブ・ストーリーの側面が男同士の関係や闇社会などの物語の展開に上手く絡み合って切ない感じを出していたのだが、本作だとこのふたりの関係はそのものひとつとして独立している感じで。彼らの間に通う気持ちが全く見えないのだ。
と言いつつ、三池監督に期待するところって、そんなところじゃないし(ヒドい言い方だな)こっちが期待するところはちゃんと抑えてくれてるんだけどね。だって、あんなん埼玉なわけないやん!という荒涼とした広大な大地、そこに立てられたケバいカレーの看板、という冒頭からして爆笑したし、映画原作者と映画評論家(塩田さん、またあ、なにやってんの!)の戦い!は闘鶏で、ニワトリがマトリックスやってる!のには悶絶笑。塩田さん、三池作品に出るたびに壊れていくわ……。
主人公が素人であるという点をカヴァーするためなのか、目を引くキャスティングがなされていて、これがなかなかに功を奏している。それはミッチーこと及川光博と吉川晃司である。さすがスターな二人だけあって、カメラに映えるし、存在感がある。自分の見せ方が上手いのだ。ミッチーは中国マフィアのボスといういきなりの強烈な役柄を、驚くほどのハマリぶりで見せてくれて、その中国語も妖しく響く。彼が卓球に長けていて、吉川晃司扮するヤクザの伏見と卓球対決する場面の目のイキかたは!しかもこの場面でもちょっとマトリックス入ってて、“卓球”というシチュエイションとともに密かに笑わせてくれるし。
そして吉川晃司。彼はちょっと太ったかな?私は彼がスクリーンをにぎわせていた頃あまり映画を観ていなくて、彼がこれほどスクリーン映えするお人だとは知らなかった。大柄なせいもあるけれど、非常に不敵な感じが全身からビシバシ漂ってくる。その体躯に長いコートを翻らせると、ヤクザというよりほとんどマフィアである。躊躇なく人を殺し、女の子を連れ去ってしまう。
さまざまな在日外国人が出てくる中で、マーリオとケイの二人が国外脱出をするために助けを求めたロシア人も笑えた。珍妙な字幕でロシア講座?をする様にも笑ったが、「ロシア人はヤケ酒は飲まない、酒が好きだから飲むんだ」などと言ってウオツカを楽しそうに飲んでいる。約束した脱出がダメになったと知ったケイが、そのウオツカを口に含んでそいつに吹き付け、火をつけた時にはビックリ(笑)。「安いのあるよ!」とうろたえまくる彼と一緒に慌てふためいているマーリオが可笑しい。
うーん、それにしても、どこが乗りきれなかったんだろう?それぞれの場面は面白いし、魅力的だし、まさしく三池監督な世界には違いないんだけど、全体を貫くカラーに欠けているというか……三池監督の、いつもの、一本にねじ伏せきってしまう豪腕が今一つ感じられない。彼ら在日ブラジル人の心のオアシスである女の子、カーラの存在も彼女がどう彼らに影響を与えているのかというのが、抽象的というか中途半端というか、ただたんに展開の歯車を鈍らせているような気がするし。
いや、それ以上に、主人公のマーリオに、観客がとことん惚れさすだけのせっぱつまった魅力が感じられないのが痛い。例えば仲間のカルロスを殺されてここ一番感情が爆発する!という場面でも、なんだか、女に言われて行動する、といった感じですらある。同じくストリートからのスカウトだった山本政志監督「JUNK FOOD」の鬼丸は、風貌だけではなくその強烈なオーラで圧倒させ、そのまま役者の道に進んだ今もその存在感は健在である。それを考えると、このマーリオ役のTEAHは……うーん、どうかな、という気がするのだけど。
思えば、三池監督の作品って、確かにみんなキャラは強烈だし、物語は破天荒だし、なんだけど、そのキャラたちには不思議に統一感があって、一本の太い線に貫かれてて、その線こそが三池監督の豪腕演出なわけだったのだけど、本作はそのキャラたちがそれぞれにシンクロしなくて、つながっていかなくて、それは気持ちの面でもそうだし、画的な面でもそうなんだけど、だからどうものめり込めない。先述したようにマーリオとケイもそうだし、マーリオとカルロスの友情関係も、口で言っているほどには信頼しあっているように見えない。だから、カルロスが殺された時にマーリオが表面上は怒っているように見えるものの、どこか淡々としたものを感じるのはムリないのである。
ところで、なんでルシアはマーリオを殺したの?無駄な旅費使って、あんなきれいな沖縄の水色の海を血で汚すなよ……ねえ。★★★☆☆
しかしこの映画はある意味凄いっつーか、ほとんどシュールっつーか、ああでもほんと、これぞアイドル映画!って気ぃしたなあ。とにかくメンバーの顔アップショットがやたらと多い!しかもメンバーそれぞれ、不公平にならないように、みたいに順繰りにアップで撮っていくという……。モー娘。は人数が多いから、最後の方にはだんだん恥ずかしくなってきちゃったりして。そして観てる時からそうじゃないかと思ったけど、HPの撮影日記見たらやっぱり撮影期間恐ろしく短いし、監督と、あるいは他の共演者との密な関係なんて全然なさそうだし。そういうのって、やっぱり画面に出ちゃうもんなのね。演技の上手い下手は別にして。濃密な時間がまるでないんだもん。
その割にそれぞれのキャラの背景は妙にシリアスを盛り込んできてるんだよなあ。母親がろうあ者であるヒロインのあゆみ(安倍なつみ)はじめ、父親から暴力をふるわれている真穂(市井紗耶香)、プライドを傷つけられて狂言自殺を試みる麗子(飯田圭織)などなど。しかしあゆみはまだしも、真穂のこうした設定は、何でこの父親が暴力ふるってるのか判らんまま、最後にはこの父親があっさり子供にアタマ下げちゃって、??という感じ。そう、あゆみはまだいいんだよね。なんといってもそのろうあ者である母親を松坂慶子!がやってるという豪華さ、さすがは大女優の貫禄でちょいと演技に難ありのなっちを(そしてさやりんも)ちゃんとひっぱってっちゃうから。ほんと、こういうのを観るとホンモノの役者の素晴らしさを痛感しますわ。北村総一朗氏や近藤芳正氏はメンバーとの絡みがないし、光浦靖子氏は、……うーん、やっぱり難ありですな。コントじゃないんだから。ま、彼女にはコント的な要素を求めてるんだろうけど、寒いです、はっきり言って。作品全体が寒いんだからしょうがない?大体“厳格な女子校には若い男を入れるべからず”って言自体が、いつの少女漫画?って感じだもんなあ。
あゆみと真穂は二人とも親に対して悩んでいるという共通点でつながってるんだけど、この二人がツーショットで出てくる時の衣装がスゴかったわ。ほとんどおそろい状態の赤とピンクの、しかもブリブリの格好で。一体なんだってこんなワケノワカラナイ、しかも二人とも似たような服を選ぶんだ?ここに限らず、(特にあゆみに関して)衣装センスがなさすぎるんだよなあ。この辺、モー娘。のステージ衣装がダサダサなのと妙に共通してたりして!?
例え役を演じていてもやっぱり飯田圭織嬢は笑わせてくれるわ。実力がある自分に自信過剰になるが故にバスケ部内で孤立してしまう麗子は、そのハメた人物である副キャプテン(?)につめよるんだけど、彼女のまわりをモンローウォークのようにクネクネと歩き回って責め立てるのには思わず爆笑しそうになってしまった!彼女はいつでも自分に注目が集まっていなければガマンならなくて、自殺騒ぎを起こすのだけど、実際に自殺するのではなく、血のりを使ってひと騒動。「だって、私に注目が集まらないなんて、プライドが許さないんだもーん!」と言い放つ、特に“もーん!”の部分のアホな感じが最高ですな。あ、そうそう、この保健室の場面ではこれだけは必見でしょう!というシーンがあって。麗子のカバンから血のりを発見し、それをぶちまけ、まえのめりに滑ってうつ伏せ状態で体を床にしたたか打ってしまうさなえ役の後藤真希嬢ね。あれは演技を超えた迫力?って、いやいやあれは演技じゃなくて素で転んでますわ、スゲー。
さて、この作品のウリは実際の駅伝大会に出場しているという臨場感なわけだけど、これがねえ。おっかけるファンの大群とかの方に目が行っちゃいますわな。しかもね、肝心なとこ……モー娘。の走りがね……ほら、劇中で練習しているシーンではやたら速いのよ。だってそのシーンでは当然の事ながら100メートルくらいを走りながら台詞を言うという撮影スタイルだったらしいからさ。この実際の駅伝シーンの走りがとにかく遅ッ!劇中の練習シーンとギャップがありすぎるんだよなあ。もうそれでひざがカクッとなっちゃう。しかも後藤真希ちゃんはスタートラインで隣の平家みちよ嬢と素で喋ってるしさ。おいおい、緊張感ないぞ!
選手宣誓を手話でやったり、倒れ込んでゴールしたあと観客席に母親の姿を見つけて手話で初めて本心を伝えるあゆみのシーンはまあまあ感動的ではあった。しかしねえ、上映終了後に(観客数が少ないからパラパラではあったけど)拍手が起こったのには驚いたわ。えええ?この映画に対して拍手するかあ!?って。うーん、ファンって凄いわあ。HPの掲示板見たら、なんか感動して号泣したとかいう書き込みがいっぱいあって、思わず驚いて目がブラックホールになっちゃいそうになったわ!?しかも何度もリピーターしてるとは……。そんで、その子たちは、そうじゃない人たち(新聞に記事を書いた記者とか)に対して、素直な心を持ってないとか憤ってるのね。いやね、それは君たちがモー娘。のファンであり(私も好きだけどさ)、そして多分、普段映画なんてそんなに観てないでしょ、君たち。って思っちゃうんだな。ま、今は文化が多極化してるし、モーニング娘。に応援する時間に生活の時間を割いている熱心なファンに向かってまで、映画をもっと観るべきだ!なんて思わないけど、やっぱり映画は一番入りやすくて見る目を育ててくれる芸術だと思うからさあ。こんな映画でやすやすと感動してちゃイカンのですよ。んーでも、あの掲示板の書き込みは、否定的なものは管理者ですべて削除されてるって雰囲気だったけど……。
あゆみに思いを寄せる、そして知子(矢口真里)が思いを寄せるサーファーの俊也を演じる押尾学には見覚えがある……と思ったら、「実録外伝 武闘派黒社会」で観たんだ、そうだそうだ。いやー、もう高校生なんて年じゃないでしょ、かの作品でも若いとはいえいっぱしのチンピラ役だったんだから。ま、ま、いいけど。
ラストもラスト、いかにもとってつけたように、ファンサービスで新メンバー四人が、古株メンバー以上のクサさ大爆発で出てきたのには、ああアイドル映画の正しき終わり方だ!?などと思ったりして。スポンサーの一つであるローソンをばっちりバックにしてるのには笑ったけど。あ、それで言ったら、校長役の北村総一朗氏が飲んでいるキャベジンも提供かと思ったら、違いましたね。だから何だというわけじゃないけどね……。
しかしなっちの太ももはダイナマイトでしたね。あのくらいぷくぷくしてるのは好みだけど、走るとブルブルしちゃって、やっぱアイドルとしてはツラいか? ★★☆☆☆