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「り」


2000年鑑賞作品

リトル・チュン細路祥/LITTLE CHEUNG
1999年 103分 香港=日本 カラー
監督:フルーツ・チャン 脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン 音楽:ラム・ワーチュン
出演:ユイ・ユエミン/マク・ワイファン/ゲイリー・ライ


2000/9/19/火 劇場(ユーロスペース)
一発でフルーツ・チャン監督作品と判る、どこか切ないクリアブルーの画面(毎回思うけど、撮影と音楽が同じ人っていうのが!)、そして、香港返還三部作の完結篇だという本作は、初めて子供を題材に使った。「メイド・イン・ホンコン」「花火降る夏」の前二作では、行く先を決めなくては行けない年頃の若者たちが香港の中国返還という時代の大きなうねりに直面し、抱える未来への不安がその作品を覆っていたが、ここでは主人公の子供たちには未来への不安は特に感じられない。主人公のリトル・チュンよりも、彼と仲良しになる訃報移民の女の子、ファンはある程度はそうした不安や今現在警察の影におびえるといった事実はあるのだけれど、それでも今が楽しい事が一番、それどころか訳もなく未来は明るいと信じているようなところがある。“お金が夢と理想だと知っている”と口にしながらも、その実、そのお金に大人のように振り回されたりしない。チップがはずまれればムジャキに大きなケーキではしゃいだりもする。彼らの方がよっぽど正しいお金の使い方を知っているかもしれない。

リトル・チュンの名前は、国民的大スター、ブラザー・チュンから名づけられた。名づけたおばあちゃんは、かつて女優で、このブラザー・チュンとも、そして近所のホイおじさんとも関係があったらしい。今でもこのおばあちゃんに恋心を抱くホイおじさん、そしてその息子でケチでサイテーな奴のヤクザのボス、デビッド、リトル・チュンの家のメイドで彼が慕っているフィリピン人のアーミ、そして街の心優しき大人たち……そう、本作に出てくる大人たちは幾人かの例外はいるものの、チュンを可愛がる目線でとらえられているせいか、童話の世界のように、みなとても優しい人たちだ。チュンの父親は言う事を聞かない息子に厳しくおしおきをするも、チュンに家出されてしまい、アタフタしてしまうし。しかしこの描写には理由があって、彼は同じことをしてチュンの兄である長男、ハンにやはり家出され、そのまま彼は行方不明になってしまったのだ。

チュンと一緒にカウント・ダウンをしようと言ったファンの願いも空しく、彼女の家族は不法入国者として強制出国の憂き目にあってしまう。それを目撃し、懸命に警察の車を追いかけるチュン。しかし同じ時に糖尿病で倒れたデビッドの救急車を間違えて追ってしまう。この場面はとてもユーモラスではあるのだが、チュンが追いかけていると気づいたファンが、しかしその車を追い越してデビッドの救急車を追っていってしまうのを見て哀しそうな表情になる場面はさすがにキューンと来る。チュンは止まった救急車に飛び込み、デビッドが「来てくれたのか!お前は優しい子だなあ!」とカン違いして喜ぶのに、違うと言えない。今やすっかり街のツマハジキ者のデビッドが、しかも病気ですっかり気落ちしているのに冷たく出来ないのだ……そんな大人の考えに成長したチュンはそれと引き換えに小さな恋に永遠の別れを告げる事になってしまう。大人になるとは、基本的にこうしたことの繰り返しのような気がする。大人って、なんて切なくて理不尽な犠牲を払わなくてはならないのだろう!

フルーツ・チャン監督は、まったく汚物ネタがお好きなお人だ。「メイド・イン・ホンコン」ではせいぜい立ちション程度だったけど、「花火降る夏」では使用済みナプキンと使用済みおむつ(しかも大人用に大便!)が登場し、本作ではさらにグレードアップ(?)して、おしっこ入りレモネード(!!)と、使用済みタンポン入りアイスティー(!!!)という強烈さ。しかも後者は、それをよそ見しながら飲み干したデビッドが、口からヒモをぶら下げて口中真っ赤にしているという(!!!!)オッソロシイ描写があるんだからスゴすぎる。うえええ。しかしイヤな奴への仕返しとしては確かにサイコー!

しかしやはり、女の子の方が大人というか、先に大人になるんだなあというのは改めて感じた。身体的にも、ファンの方が背が高いし。かくまっているチュンを彼の父親に引き渡す場面で見せる泣き顔もそうだが、追いかけてきたチュンとの永遠の別れの時に見せる淋しそうな表情は特にまるで大人の女性のそれである。それはまるで、ブラザー・チュンを思いながら死んでいったおばあちゃんの表情にも似ている気がして……。

大人用の自転車を勇ましくこいで、看板だらけの香港の街を出前へと走り回るチュンとファン。飛行機が低く飛び、狭く暗い路地にひっそりと住む人々がいる雑然とした街。非常に画になりながらも、厳しい現実をも内包している街。返還を挟んで、そして変換後も大きく揺れ動くこの街を、チュンのようなこれからの世代がどこまで支えていく事が出来るのだろうか。★★★☆☆


リプリーTHE TALENTED MR.RIPLEY
1999年 140分 アメリカ カラー
監督:アンソニー・ミンゲラ 脚本:アンソニー・ミンゲラ
撮影:ジョン・シール 音楽:ガブリエル・ヤレド
出演:マット・デイモン/ジュード・ロウ/グウィネス・パルトロウ/ケイト・ブランシェット/フィリップ・シーモア・ホフマン/ジャック・ダベンポート/ジェイムズ・レブホーン/セルジオ・ルビーニ/フィリップ・ベイカー・ホール/セリア・ウェストン/リサ・エイヒホーン

2000/9/6/水 劇場(丸の内ピカデリー1)
あの「太陽がいっぱい」のリメイクということで、しかし私はあの作品が、とにかくドッキドキで、鮮烈で驚愕のラストに絶句して、悪いことは出来ないー!と思ったことしか覚えていなく、この「リプリー」を観て、あれ、こんな話だったかな、などと思ってしまった。あの、いやらしいくらい美青年だったアラン・ドロンがやった役が、マット・デイモンで、その相手がジュード・ロウなんて、逆じゃないのお?なんて思ったのも、物語を覚えてないから……むしろ、意外なキャスティングだったのはあの頃のドロンの方だったのだ。美しいジュードに愛情と執着と憎悪、もうぐっちゃぐちゃの感情でワケが判らなくなるマット、この図式はやたらと説得力がある。特に垢抜けない最初の頃のマット演じるトムが、美しいジュードの横で歯をむき出したように笑う様はまるでチンパンジーのようでなんかもう気の毒になってくるのだが、彼がジュード演じるディッキーを殺し、彼になりすましていくことで、本当に美しい青年になっていくのだから驚愕である。

もっともあの淀川氏が、「自分だけが二人がゲイの感情を持っていると判った」と言った「太陽がいっぱい」とは、その部分が明らかに違うのは判る。主人公、トムは自分のゲイに自覚的で、思いを寄せられるディッキーもまたそれを充分に気づいている。ディッキーは自分が美しいということも(演じるジュード・ロウは本当に美しい……現代でこんなタイプの俳優が出てくるとは!)ちゃんと判っており、金づるであり、自分に思いを寄せているという点でいいオモチャであるトムを好奇心でもてあそぶ。なかなかそれに気づかない、いや気づきたくないトムが、二人乗りこんで沖に出たボートの上で決定的にフラれ(“うっとうしい”“気味が悪い”……これ以上の拒絶の言葉があるだろうか!)思わずディッキーにむかってオールを振り回し、その瞬間に発露した殺意を自分でも信じられないかのようにアタフタしながらも、しかしどうしてもその手を止めることが出来ずに撲殺してしまう。この時の、抑えられない涙を浮かべたマットの切迫した表情が凄まじく、素晴らしい。

ここまでのフリも充分に長く、それだけで一本の映画が成立しそうな勢いだが、ここからが本筋。……私、「太陽がいっぱい」でもここからの物語がこんなに長かった記憶がどうもないのだが……ほんと、あのラストシーンばかりが強烈にインプットされてるからなあ。ま、それはおいといて。時々ボロが出そうになりながらも、トムの犯罪とディッキーに成りすました彼の正体はバレることがない。どこか行き当たりばったりに見えながらその実相当に計算された計画なのか……いやいや、そうと言うよりは、トムがいつもオドオドとして不完全だから、その不完全さが完全犯罪に仕立てているのだ。何という皮肉。ついにはディッキーの父親の希望によって息子の代わりという立場までゲットしてしまうのだが、唯一人、ディッキーの恋人だったマージ(グウィネス・パルトロウ)だけが「私には判る、あなたがやったのよ!」と泣き叫ぶ。……ほんとに女の勘と本能は恐ろしい。

で、そんな彼女の言葉も聞きいれられることもないことにホッとしてしまう。……そんな風にだんだんとトムに感情移入してしまう観客である自分に気づいて思わず戦慄してしまう。犯罪に荷担する気持ちと同時に、当然のように半ば本能的に、下層階級にシンパシイを感じていることに。このあたりは明らかにミンゲラ監督の術中に陥っているのであり、全く悪趣味な監督だと思わずにはいられないのだが。ホントに上流階級の人ならばやはりディッキーやマージに共感するんだろうか……いや……。

完全犯罪をめでたく(?)成し遂げようとしたところで、彼に好意を持ち、理解し愛そうとするゲイの音楽家、ピーター(ジャック・ダベンポート)が現れたのがトムの誤算であった。無論、観客の方も相当にビックリする。「太陽がいっぱい」にはもちろん、原作にもそんな人物は出てこないからだ。あ、ひょっとしてみんなが感情移入するトムに幸せを与えてあげたのかな、と思いきや、とてつもなく残酷なラストを用意する。……同じ愛する人を殺すのでも、ディッキーの時とはまるで違うシチュエイションでの、トムの気持ちが理解できず首をひねりながらも、いや、でもやっぱり判るような気がする、などと思ってしまうのはなぜだろう……。「僕には判る、君の優しさが」などと言うピーターに、殺意にも至る反発を感じてしまうトムの、いまだ残っていた下層階級の卑屈な精神に共感しているのか。……ああ!またしても“共感させられて”いるのだ、監督に!主人公に共感すればするほどミジメになってく映画なんて、なんて悪趣味なんだと思いつつ、満足感があるのは何故なのだ。よけい悪趣味ではないか!!くそお。

その洗練されたタッチに見惚れながらも、なぜか不安な気持ちをかきたてられる秀逸なオープニング。全篇を彩る陽気な、そしてクールな、……そして哀しいジャズ。南欧のまぶしい太陽とやるせない空気。そこに漂う、異邦人としてのアメリカ人たち。個人主義のくせに、やたらとアメリカ人という誇りだけは不思議なほど持っている国民性であるから、これほどまでに彼らが異国での漂泊感を感じさせる作品はちょっと思いつかない。そこになんとなくイジワルな満足感を覚えつつ、しかしやはり共感してしまうのは、この孤独感と漂泊感が、この世紀末の、時代の気分を反映しているからだ。この物語の時代設定はかの作品と同じく50年代なのだが、仲間よりも恋人よりも片思いの相手よりも、自分を探し当てるのに四苦八苦する物語に仕立て上げた今回のリメイクは、そうした部分がオリジナルになかったわけではないが、やはり相当に趣を異にしている印象を持つ。

思えばジャズという音楽の要素は多分に意味ありげである。どんな音楽とも融合できる柔軟性を持ちながら、その中の区分けは驚くほどカッキリと成されている。ジャズという大きな懐でつながっているように見えながらも、その中では排他的な気分も漂っている。陽気なジャズにノリノリのディッキーと、「マイ・ファニー・バレンタイン」で中性的でありながら渋い歌声をもの憂げに聞かせる(!)トムを、おなじジャズファンで括っているように見せかけながら、実は双方の嗜好は交叉しない、全く違う世界の人間なのだというニクい仕掛け。もともとジャズファンだったディッキーの方がジャズという柔軟性を持っているように見えながら、実はクラシックの下地があってジャズに魅せられたトムの方がそれを持っていたのだ。だからこそ、完全犯罪寸前までをもやり遂げられたのだ。

音楽の持つ意味と、ただシンプルに心地よい音楽を聞かせるという点で、これほど音楽が秀逸な映画も久しぶりだ。★★★★☆


リュシアン 赤い小人LE NAIN ROUGE
1998年 102分 ベルギー=フランス パートカラー
監督:イヴァン・ル・モワーヌ 脚本:
撮影:ダニー・イルセン 音楽:アレクセイ・シェリジン/ダニエル・ブラント
出演:ジャン=イヴ・チュアル/アニタ・エクバーグ/ディナ・ゴージ/ミシェル・ペルロン/アルノ・シュヴリエ

2000/9/21/木 劇場(シネ・ラ・セット)
上映終了間際に観た事をかなり後悔してしまった。不思議なほどに心惹かれ、もう一度観たいと、何度でも観たいと思ってしまった。モノクロの画面とその中で繰り広げられるどこか残酷なファンタジー、そのサーカス場面などは、これが現代に作られた映画だというのがちょっと信じがたいほどのノスタルジックさで、その世界観だけでも心ときめいてしまう。しかしそんな外見的な事だけでは無論なくて、主人公の“小人”リュシアンの、彼を愛する少女、イジスの、彼が愛した富豪の怪女、パオラ(アニタ・エクバーグ!)の、パオラの夫のボブの、イジスの父である座長の、そして本当の父である道化師の、全ての人たちの哀しい愛がたまらないのだ。

身体の成長が止まってしまった背の低いリュシアンが受ける不当な軽蔑、嫉妬と憎悪の上の殺人、その後の堕落など、哀しい男、リュシアンのかなりドロドロとした側面も描かれるのだけれど、すべては穏やかで優しい、どこか哀しいような切ないような愛情で救われてくれる。それは言うまでもなくサーカスの少女、イジスの無償の愛である。法律事務所に勤めるリュシアンが、離婚訴訟の顧客として出会ったオペラ歌手のパオラと退廃的な愛人関係になり、イジスの元から足が遠のいてしまうと、たまに会いに来た彼に、彼女は哀しげな瞳で「私はあなたが好きなのに(どうしてそんなひどい仕打ちをするの)……」とつぶやくのである。それはとても11歳の少女とは思えない愛情表現。少女故に無垢ではあるが、決して幼稚な愛情ではない。サーカスという、さまざまな人間模様のある世界に生まれ育ったせいなのか、自分が背信の愛から生まれた子供だからなのか、彼女は驚くほどに真の愛がなんであるかを本能的に知っているのだ。彼女がリュシアンと出会った時、彼女と同じくらいの背丈であるリュシアンを「ゴブリン(小鬼)みたい」と実に子供らしくはしゃいでもみせるのだが、もうその時から彼女の瞳は運命の恋人としてのリュシアンをしっかりと捕らえて離さない。

パオラの夫ボブの嘲笑を浴びながらもズルズルと肉体関係を続け、ついに彼女にソデにされて彼女を殺してしまうリュシアン。この場面での、パオラのメイク道具を借りてウィッグをかぶり、おどけた化粧をし、黒い涙を流すリュシアンの姿は、滑稽で、だからこそひどく哀れで涙が出てしまう。例え子供なみに背が小さくても、成人の男性の筋肉を備えている彼は(自分の体のコンプレックスからなのか、執拗に腕立てふせをする場面も出てくる)巨体のパオラもアッサリと殺してしまう事が出来る。……そういう部分、どこか彼を見くびっていたであろう彼女を。それはひどく皮肉である。そしてリュシアンはまんまとその罪を夫、ボブになすりつけることに成功する。リュシアンにひどい言動ばかりを繰り返していたボブにはいい気味だともこの時点では思わなくもなかったのだが、サーカス団に入ったリュシアンの元に、逃げ疲れてボロボロになったボブが訪ねてくるに至って、彼もまたそれまでのより所がなくなったとたんダメになってしまうような、小心の哀しい人間だったことが判るのだ。

リュシアンとボブは、だから実はかなりの似たもの同士だったのかもしれない。同じ女にホレて、同じく堕ちてしまった彼ら。リュシアンは自分がパオラを殺害したことは隠して彼を相棒に迎える。しかし彼とのコンビが上手くいけばいくほど彼の心は追いつめられたのか、ある日ステージ上でリュシアンは突然自分の役割を放棄してしまう……。ボブは恐らくリュシアンがパオラを殺した事を気づいたような気がするけれど、彼を責める事はしない。サーカスから退いて、リュシアンを見守っている。彼のそんな変わらない友情がひどく心を打つ。

リュシアンは自分と同じ背丈である子供たちだけを相手に興行を行う事を劇場主に申し入れ、念願のイジスとのコンビを組む事になる。パオラやボブとのことを乗り越え、イジスとの愛情にやっと真正面から向き合う事になったこのあたりからのリュシアンとイジスの場面は美しい。海岸で(後ろに大勢の子供たちのギャラリーが出来ている!)逆立ちをしながら砂浜に横たわるイジスに愛の言葉を告げるリュシアン。絶える事のない波が寄せては返し、寄せては返し、まるで二人の愛が永遠に続いていく事を約束してくれているかのよう。

などと夢想していたから、ラストシーンにはちょっとヒヤッとさせられた。……神様はやっぱり残酷な仕打ちをしたのかと思って。リュシアンは自分の身長を超える事のない子供たちを集めた公演で、イジスはブランコに乗り、それをリュシアンはライトで大きくした自分の手の影で押し返す。二度、三度、子供たちは大きく目を見開いて、この不思議なマジックに見入っている。この時、彼女を見上げていたリュシアンの道化のつけ鼻がまるで不吉ななにかを予感させるかのように赤く染まる。と、イジスが突然の落下!まるで何かに魅入られたように、ふわりと……。うっそお、イジス、リュシアンを一人にしないでよお!と心の中で絶叫したら、間一髪、リュシアンがその手に彼女を受け止めた!しかしイジスは目を開かない。お願い、お願いイジス、目を開けて!とやはり心の中で泣きそうになる私。と……イジスはゆっくりと目を開け、幸福そうに微笑み、リュシアンは彼女をしっかりと抱きしめた。その二人のまわりに駆け寄った子供たちがひしめき合う。……ああ、なんてなんて、幸福なラストなんだろう!イジスはリュシアンを試したのかな……自分の母親はそうやって死んでしまった。自分はリュシアンの愛によって生きていく事ができるのかと、母親とは違うのかと。少女なのに、やっぱり女なんだ。

リュシアンがとてもいいのだ。背はちっちゃいけれど、ほんとに普通の、悩める大人。背がちっちゃいことで悩んでいるわけではなく、大人として、愛に悩み、仕事に悩み、人から侮辱される事に悩み、自己の確立に悩む。パオラにアタックする時もかなり積極的で、彼女の前でガウンを落とし、一糸まとわぬ姿になって「マンマ・ミーヤ!(あらまあ!)」と言わせたりする。いくつくらいなんだろう、彼は。目尻のしわがキュートで、30代半ばってとこだろうか。40にはいってないんだろうか。黒目がちな瞳が(モノクロだからほんとに黒かどうか判らないが)とてもキレイで、ハンサム。彼が竹馬のようなものに乗って、羽根をつけ、「君の守護天使だよ」とイジスを喜ばせた時には、あーもう、私この人にホレた!と思ってしまった。彼は勿論大人のいろんな汚い部分を見てきたし経験しているのだけど、ピエロになった彼の瞳から流れる黒い涙を見ていると、ああ、彼はやっぱりピュアで無垢な心を持っているんだと思わずにはいられない。傷つけば傷つくほどに汚い部分がはがれていって、強がっては見せるんだけれど、よけい傷つきやすくなって。

それにしても、このイジスが原作にはない登場人物だというのが本当に驚いてしまうのだが。彼女がいなければこの映画は成立しないではないか。原作のリュシアンは一体どうなってしまうんだろう。

小さな男と少女が愛をもって見つめあう姿、下手すればカルト的なグロテスクになりかねないのに、まるでそうならない。それは夢のように美しい。かなりきちっとしたストーリーテリングではあるものの、この映画の輝きは言葉では説明できない画で語る詩のような部分にあり、そのポエティックさ、リリカルさが琴線をつつきまくってくるのだ。あちこちで言及されているように、どこかフェリーニの「道」を思わせなくもないのだが、本作での二人にはちゃんとハッピーエンドを用意してくれたのが本当に、本当に嬉しかった。★★★★★


リング0 バースデイ
2000年 99分 日本 カラー
監督:鶴田法男 脚本:高橋洋
撮影:柴主高秀 音楽:尾形真一郎
出演:仲間由紀恵 田辺誠一 麻生久美子 田中好子

2000/2/16/水 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
今回の監督は、劇場用ホラー映画への進出を本当に心待ちにしていた鶴田法男監督ということで、かなり期待していた。鶴田監督のビデオ(テレビ)作品、「ほんとにあった怖い話」のあまりの怖さに戦慄し、加えてそこではいつでも少女達のみずみずしく初々しい姿が活写されていたから。ホラーブームの昨今、大本命は絶対に鶴田監督だ!と思ってじりじりしながら待っていたので、それは本当に嬉しかったのだけど……。

思えばこのシリーズの第一作、「リング」の怖さの最大限のものは、延々と続くであろう、終りのないダビングされるビデオという決着のつけ方にあったわけなのだけど、映像にした時に、貞子の姿があまりに怖かったので、そのキャラクターが一種ホラークイーンのような人気を呼び、映画の続編の後に原作が追いかけてくるような(「リング2」は映画オリジナルではなかっただろうか?)格好になってしまった。それゆえ貞子を出してくることを切り札にしているような傾向になってきてしまったわけなのだが、そのキャラクターが見慣れたものになってしまい、どうしても最初ほどのインパクトを与えることが出来なくなってしまうのだ。本作では貞子がそれほどまでに強い怨念を残すほどに追いつめられた原因を探る過去の物語であり、彼女はまだ年若い、美しい女の子として出てくる。しかしそれでも“あの”貞子の姿は絶対切り札なので、まあなんと、貞子が二人いた、などという設定が用意されているのである。双子かなんかだったのか知らないが、もう一人の貞子はクスリで成長を止められ、幼女のままの姿で、そしてあのざんばら髪で顔を隠した上に白いワンピースという貞子スタイルで出てくるわけで。

とはいうものの、クライマックスでの貞子の登場シーンにはやはり戦慄させられる場面があったのだが。それは、田中好子と麻生久美子が小さな小屋に逃げ込んで一安心、とふと窓の外を見ると、貞子がすこし遠くにたたずんでいるのが見え、慌てて窓を閉め、玄関にまわるとそこにすでに貞子が立っており(!)、後ずさりしながら部屋の隅に逃げると、奇妙にすばやい動きをしながら入ってきて体中の骨をバキバキ折りながら近づいてくる場面。ここは本当に怖かった。しかし怖かったのはそこだけだったんだが……。

物語のほとんどは、観客に与える恐怖というより、貞子本人が、コントロールできない自分に恐怖している描写である。そんな貞子を周囲は気味悪く見つめ、恐怖が起こる前から彼女を恐怖の対象として遠ざける。自分でも訳の判らないまま孤独まで背負わされてしまう貞子に扮する仲間由紀恵は美しく、鶴田監督が彼女にヒロイン役を熱望したのに応える好演。それにしても、ストーリーの展開上仕方のないことだとは言え、彼女が演出家を呪い殺したと思い込んだ団員達が、おびえる彼女を取り囲んで殴る蹴るでなぶり殺す描写はあんまりだ。しかもそこにかけつけた、新聞記者だった夫が貞子の母親に“呪い殺された”恨みを持つ宮地彰子(田中好子)に「私が殺すはずだったのに」と苦々しげに言わせるダメ押し付きである……ちょっとこれはヒドい。

勿論その中にも救いはあって。どんなことがあっても彼女を信じてくれる劇団の音響マン、遠山博の存在。扮するは田辺誠一!本当に彼はスクリーン映えする俳優だ。その一種特異な風貌が、印象的に画面に刻まれる。いつでも(もちろん本作でも)イイ男な彼だけど、意外と容貌怪異な役をやってもハマるんじゃないかと実は心ひそかに思っているのだが……。そしてもう一人の救いは、遠山にホレている団員の衣装係?立原悦子(麻生久美子)。彼女も最初貞子を気味悪がっていて、遠山に貞子から離れるように懇願するのだが、彼が貞子を本当に愛していることを知って、二人の逃亡を泣きながら見逃す彼女が何といっても泣かせる。

「リング2」で、引き上げられた貞子の遺骨を鑑定した結果、彼女がほんの1〜2年前まで生きていたことが判明するのだが、本作で、伊熊博士に致死量のクスリを打たれ、逃げ出した彼女が井戸に投げ落とされる直前、博士にオノ?で斬りつけられるという周到さでとても生きているとは思えないのだが。しかしその前に団員達になぶり殺された(と思われた)後にも生還しているし、本作の中で他人を治癒する能力を持つことが判明した彼女が、自分も治癒することが出来たということなんだろうな……うーむ。

なんにせよ、これで「リング」シリーズはついに終わったわけだ。鶴田監督には全くオリジナルで、またコワいホラー映画を見せて欲しい。★★★☆☆


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