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喜劇王/喜劇之王
1999年 90分 香港 カラー
監督:リー・リクチー/チャウ・シンチー 脚本:チャウ・シンチー/エリカ・リー/ツァン・カンチョング/ファン・ミンハン
撮影:ウォン・ウィンハン 音楽:日向大介
出演:チャウ・シンチー/カレン・モク/セシリア・チャン/ン・マンタ/ジャッキー・チェン
福祉公民館の職員ながら自分では“俳優”と自認してやまないワン(チャウ・シンチー)。しかし彼はエキストラの小さな役にも過剰な役作りをし、監督はじめとする現場スタッフに疎ましがられているんである。通行人の役を演らせられている覇気の無いエキストラ達に向かって、監督になりきってダメ出しをしているワン、その冒頭シーンからもう大爆笑。だって、ほんとに皆おどろおどろしげで、ゾンビか何かが歩いているという画なんだもん!
さてさて、ワンさん、“登場すぐ撃たれて死ぬ”だけの司祭の役として出演が決定するも、主役のカレン・モクの華麗なる(しかし大笑いの)アクションがばっちり決まった後にフラフラとカメラの前に“生き返って”「この人物は執念深いんです」と言い放ち、当然ながら即座に追っ払われちまう。それにしてもこの撮影シーンはスゴかった。何がスゴいって、まず単純にアクションシーンとしてのスゴさ、お得意のワイヤーワークも使いつつ(撮影シーンという設定だから、ワイヤーもしっかり見えてる)、華麗なガンさばきから繰り出される銃撃戦の迫力。カレン・モク扮するキュンイは、不必要なまでにアクロバティックな宙返りやターンを繰り返し、しかしそれがやたらとキマッているのが逆に可笑しい。さらに可笑しいのが、彼女のそうしたキメの場面には白い鳩が飛び交う上、まんまジョン・ウーな銃突き付け合いを、しまいには小型砲みたいなものにまで順々にグレードアップしていくのには笑った!しかも大マジなんだもんなあ……参るわ。
とまあ、かくして撮影所を追い出されたワンは、公民館の仕事に戻る。彼がカギを開けてくれるのを待ちわびていた子供たち、卓球の玉が無いので卓球台でバドミントンをやり、プロレスをやり、ビリヤードもどきをやり、その間には常にステージでオバチャンが朗々たる歌を歌い、ぽちゃぽちゃに太った裸の男の子がウロウロ。それが何でこんなに可笑しいんだろう(笑)。
そんな彼の元にやってくるのが、パブ「女子高生初恋の夜」のホステスのメンメン。“演劇講師”の看板を掲げている彼に、客にウケる女子高生演技を伝授してもらうためにやってきたのだ。そこでは彼を徹底的にバカにしていたホステスの一人、ピウピウ(セシリア・チャン)だったが、彼の言うとおり客の前で(ワサビを含んで!)目に涙を溜めて「あなたが大好きなの」とやったらこれが大成功!あらためて、芸、いやいやもとい演技を教えてもらうために彼の元へとやってくる。ここで“目の演技”を伝授する場面は抱腹絶倒!ワンの言うとおりに必死にウブな女子高生を演じようと、白目むいたり少女漫画よろしく目をパチパチさせたり、と、七変化するセシリア・チャンがバツグン!そうしてついに男をメロメロにする目を習得したその視線に吸い込まれるワン……カメラが引くと、腰に手をあて、足を前後に開き、彼女のあごに人差し指をかけてうわむかせているというワンのこれでもか!なキメキメポーズがあらわになって大爆笑!
かくして彼と彼女はそのままずるずると惹かれ合い、ついにメイク・ラブ。翌朝、高給ホステスの出張サービスを受けてしまった、とこともあろうにワンはなけなしの金を彼女のバッグの上に置き、それを硬い表情で受け取ってその場を辞するピウピウ。その彼女を追いかけてワンは言う。「君を養うよ!」「何言ってんの、自分も養えないくせに」……その後、バスの中で哀しさか嬉しさか、号泣するピウピウが切ない。
そんなさえないワンに突然ビッグ・チャンスがめぐってくる。かのスター女優、キュンイが、彼のプロ根性に目をつけて主役に抜擢するというのだ。演技テストにも合格(キュンイ相手に死に逝くヒロインに泣き伏すヒーローを水っ洟たれながら熱演!もう少しでその洟がキュンイの口の中に入りそうになる!)。“養ってもらう”ためにホステスをやめて彼の元に来たピウピウとも仲直り、まさしく幸福絶頂の彼だったが、次の日現場に行くと、なぜか彼は主役から降ろされていて……。
その後の展開が、面白かったけど、何だかとってつけたような感じで。今まで彼を苛め抜いていた弁当係(ン・マンタ)が実は秘密警察だといって、「リハーサルもない、臨機応変な演技が要求される現場だ」と、おとり捜査で取引現場を一網打尽にする計画に彼をスカウトする。頭の中でカッコイイ銃撃戦とキメ台詞を用意して望んだワン、しかしほんとに事態は予測を超え、まさしく彼の“臨機応変な”演技が要求される展開に……。マグレか?どうか、とにかく相手組織を撃ちまくって勝利を収めたワン、しかしこれだけは言うべきと、「悪いな、俺は秘密警察だ」とキメ台詞。おいおい、傍では相棒が死にかけてるっちゅーの!
ボロボロになって家に帰ると、ピウピウが待っている。「遅くなるならなるって、連絡くらいしてよ!主役だろうと何だろうと(うーん、泣かせるフレーズだ)、私はあんたに養ってもらうんだからね!」そんな彼女をふいに抱きしめるワン。「君を愛してる」ちょっとキューンときちゃうなあ。
町の青二才なチンピラの若者たちがかなり笑わせてくれた。任侠ものにハマッているのか、「仁義は判っている!」と豪語する、ヘンな声の少年も可笑しかったが、なんといってもどこの物理科の学生か、というようなチンピラには到底そぐわないメガネの青年が可笑しくて。彼、ショバ代の集金に出かけるのだけど、「俺の言うとおりやれ」というワンが、かのハダカの男の子を相手に遊び始めたもんだから、ワンが男の子のおちんちんを小枝でつついたり、指ではじいたりするのまでマネして(アホか!)相手のヤクザを烈火のごとく怒らせてしまう。ついには決死の覚悟で両手に包丁を持って襲いかかるも、あっさり平手打されてベソかくていたらく。
ワンはこの仲間のチンピラ達を巻き込んで、自分が主演の「雷雨」という舞台を作り上げる。これが、ブルース・リーもやったことがあるという(?ホントかなあ)代物で、チャウ・シンチー、かなりカッチョイイアクションも披露!この舞台稽古をしている時が一番イキイキしている彼、思わず「あんまり楽しそうだったから」と舞台に上がったピウピウも目に入らず投げ飛ばしてしまう始末(笑)。結局ワンは、かの“リハーサルなき芝居”の経験で“演技をしたいのなら、どこでしても同じ”ことを学んだか、ラストシーンでは仲間を率いての舞台を企画、それにはキュンイも駆けつけて大盛況の舞台挨拶でラストカット。まさしく“鶏口となるも牛後となるなかれ”なわけだ。
先述したけど、それまでの流れを急に止めるような感じで犯罪現場に駆り出される展開が、それだけがちょっぴり残念だったんだよなあ。この物語の流れではないような気がして。しかし共同監督を務め、共同脚本を執筆し、全てを自分の体で体現するこのチャウ・シンチー、顔の印象はいまだに薄いけど(笑)、やっぱりチェックしないわけにはいかないんだなあ!★★★★☆
毎週水曜に開かれる晩餐会、みながこれぞと思う奇人(はっきり言ってしまえば、バカ)を連れてきて、そのおバカッぷりをみんなで笑い、一番のおバカを連れてきた者が勝者という、まあ実に、倣岸不遜な趣味を持ちあわせている男たち。編集者のピエール(ティエリー・レルミット)は今夜絶対の自信があった。もうこれ以上のバカはいないでしょう、というフランソワ(ジャック・ヴィルレ)を見つけたから。誰かれとなしに自分の作ったマッチ棒を使った模型の写真を見せて延々と自慢しまくるフランソワは、しかしその模型とは違って物事を次々と壊しまくる、大変なお方だったのだ!
タイトルは「晩餐会」、劇中でも、その毎週水曜の晩餐会は説明されるけれど、その様子はチラリと映されるだけで、実際の舞台はその晩餐会ではない。というのも、このピエール、ゴルフの最中に突然のギックリ腰になって、歩くこともままならず、医者から絶対安静を命じられてしまったからだ。この晩餐会を何よりも楽しみにしているピエールは何とか立ち上がろうとするのだが、空しい努力。美しい妻(アレクサンドル・バンダヌート)は、この夫の悪趣味が我慢できず(ま、そりゃそうだ)、家を出ていってしまうし、踏んだり蹴ったり。そこへ、今夜連れて行くはずだったフランソワが到着する。想像以上の彼のおバカッぷりに、これはやはりどうしても連れて行かなければならないと奮起するピエールだが、フランソワのドジで床に投げ出されてさらに悪化。しかも悪いことに妻から決定的な別れの電話が入ってきて……。
本当に彼がおバカだと判ったんなら、その時点で速やかにお引きとり願ったら、こんなことにはならなかったであろうピエール。彼はフランソワのおバカが自分とは関係ないところで存在していたからこそ面白がってもいられたのだが、満足に動けない今の彼にとっては、フランソワの格好の餌食である。フランソワは、自分が(他人から見て)バカだということの自覚がなく、根はイイヤツというか、世話焼きなので、なんとかピエールを助けようと尽力するのだが、すればするほど事態は悪化の一途をたどっていくんである。この過程はかなり、スゴイ。もっぱら電話を使った展開。妻の居所を捜すために、浮気相手であろうと思われる小説家である友人にフランソワを使って探りを入れさせるのだが、架空の設定を現実だと思い込んで本題をすっかり忘れてしまったり、後でかけ直すという相手にあっさり電話番号を教えてしまったり(相手はピエールの友人だってば!)といった始末。しかもそれを責められても、なんで怒られてるのか判らないというんだから。
そのフランソワの電話でのやり取りを見ていると、彼はいわゆる“バカ”ではないのだよな、と思う。ベルギーなまりで会話するなんていう芸当を見せたり、言葉の運びも機智があるし。つまりは、フランソワはノメリ込んでしまうお方なのだ。マッチ棒の模型の趣味がそれをあらかじめ証明している。これと思ったら、まっしぐら。他のことなんてあっさり忘れてしまう。ある意味長所とでも言いたい性格。そんな彼に、“小説を映画化したいプロデューサーのフリをして妻の居所を探る”なんてフクザツ?なことをやらせて、最初の部分に熱中するあまり後半の部分(でもそれが本題なんだよー)を忘れたことを責めたって、も、どうしようもない。それだけならいざ知らず、家に戻ってきたその妻を、このフランソワ、ピエールのもとに押しかけてきた色情女と勘違いして追い返してしまうのだ!
かくして事態に気付いたその友人もピエールのもとに駆けつける。妻はそこにはいなかったのだ。フランソワがかの晩餐会の客だと気付いて笑いが止まらないその友人。なんとかフランソワを帰そうとするも、もう一人の浮気相手と思われる広告屋の別荘の場所を友人の税務官が知っている、と彼が言い出したことからさらにもう一山、ふた山。その税務官、どんな家でも丸裸にしてしまうというらつ腕者と聞いて、アセッたピエールは家中のヤバい絵画や装飾品を大移動。「妻との別れの決定的要因を作った上に、税務官まで!」と友人はさらに引きつったように笑い出す。しかしそこで明らかにされた真実は、なんとその広告屋と税務官の妻の浮気だった!
この税務官、確かに凄腕者なのだが、なんたってフランソワと友人同士というのだから、彼にに負けず劣らずかなりキテいる。いや、フランソワは善良なぶんだけまだいいかもしれないが、この税務官、その腕で別に恨みもない他人を丸裸にし、破滅に陥れるのが趣味らしいのだから。ま、ともかくかくして彼はその場を辞し、ピエールの友人も帰り、しかしフランソワはまだ帰ろうとしない。そこに妻が交通事故に遭ったという電話が。そして遂にフランソワにかの晩餐会の趣旨がバレてしまう。傷つくフランソワだが、それでも妻から拒絶されているピエールをほっておけない。そしてビックリするのがここから。フランソワはピエールの妻に電話をかけ、誠心誠意、語りかけるのだ。彼のもとに戻ってやってほしいと。これは指示されてやっているのではなく、公衆電話からかけているのだと。設定と現実をごっちゃにすることなく感動的な電話をかけるフランソワの誠意に、愚かなのは自分の方だったと反省するピエールだが、そううまく行ったままは終わらない。あーあ、想像どおり、そこにかかってきた妻からの電話にフランソワが間髪入れず出ちゃうんだもん!
目を見開いてフランソワのバカッぷりにいちいち感嘆するピエールに扮するティエリー・レルミットもいいが、なんたって、天才的なまでにフランソワそのままなジャック・ヴィルレの巧みさはどうだ!はげちゃびんで、チビな容姿が最大限に効果的だが、それ以上に、バカを畳み掛けていくそのリズムと迫力?完全にバカだと観客にあきれられそうなところを、独特のチャーミングさでフワリとかわす。見たとおり、もともとは舞台劇。うん、舞台で見たらもっとスリリングで面白そう。★★★★☆
本作は3つのエピソードが同時進行していく。@屋敷に住み込み、その沼の蓮をつんで売る娘とその屋敷に住むハンセン病で閉じこもってしまった主人の話。A娼婦に恋してしまったシクロ(自転車版タクシー)の運転手。Bストリートキッズである物売りの少年とヴェトナム戦争時、当地の女性との間に出来た娘を探す元米兵。それぞれ季節も違い、同時に進行しているわけではないのだけれど、それぞれの穏やかで優しい結末が同時に訪れることによって、至福感を味わえるのだ。
@物語の始まりは、この少女、キエン・アン(グエン・ゴック・ヒエップ)が美しい蓮が絶えず咲く広大な沼を擁する屋敷に住み込みで働くようになったところから始まる。大きな笠をかぶり、じっとりとにじむ汗をぬぐいながら、時間の流れが止まってしまったかのような沼を小さな一人用の船でチャプリとこぎ、つぼみの状態の真っ白な蓮の花を摘んでいく。最初こそ、その蒸し暑そうな様子と、アジアの中でも特に地味な傾向の顔立ちであるヴェトナムの人たちの容姿に戸惑いを覚えるものの、次第に、ああこれこそが真の美しさなのだと気がついてくる。ことに、このキエン・アンを演じるグエン・ゴック・ヒエップなる少女(スゴイな……こういうのが普通の名前なんだろうか)の清楚で凛とした表情とたたずまいに。彼女が汗をぬぐっている姿を見ていると、蒸し暑さというより、この湿度の高さがアジアの個性、力の源で、本質的な美しさなどと思ってしまうのである。街頭で蓮を売る彼女の小さな姿は、慎ましく、ささやかで、これが本当の美しさなんだよな、とまたしても感じ入る。蓮のつぼみがこれほど清楚で、可憐で、しかも美しいとはついぞ知らなかった。まっすぐにのびた茎と、そこに固く巻かれたつぼみは力強く、なおかつたおやか。そしてその純白の清楚さ。……そう、まさしくこのキエン・アンそのものなのだ。
彼女は屋敷の中に閉じこもりきりだった主人の詩作を読み、その豊かな感性に魅せられる。それはでも、彼女こそが豊かな感性の持ち主だったからこそ見出せたもの。ハンセン病で顔が崩れてしまった主人を見ても、彼女はちっとも臆さない。彼女がその主人の外見を見ていないからである。彼女は指まで崩れてしまったその主人、ダオのかわりになることを申し出る。もちろん字幕ではあるけれど、この主人の詩は本当に美しく、音まで美しく響く。この主人が「最後の客人」として死を迎える時、枕元に呼ばれたキエン・アンが歌う畑作の女たちの歌、彼女の涙、本当に美しい。
Aシクロの運転手と娼婦の話。くだんのチラシの写真はこの女性、ラン(ゾーイ・ブイ)が、真っ白なドレスを着て、ふりそそぐ真っ赤な花の咲く木の下に立っているというもので、これが喩えようもなく美しいのだ(なんか、美しい、ばっかり言ってるけど、ほんとにそうなのだもの)。しかし、そこにいたるまでには長い長い道のりがある。彼女はシクロ乗りのハイ(ドン・ズオン)に、少女時代の思い出話としてその花の話をするのだけど、彼らが相対する場面は、何たって彼女は娼婦だから、隠微な場所ばかりである。ランはいつでも華やかな、言ってみればちょっとエッチな格好をしているのだが、ハイはそんな彼女の中に真に美しいものを見出したのだろう。彼女のためだけにシクロを走らせる。……なんだかそれはどこか「無法松の一生」を思い出させる。無骨だけれど、本当の優しさと情熱を持っている彼。ハイはシクロ競争で得た賞金で、彼女を“買う”。しかし、寝ることはせず、豪華なホテルをとって、美しい服を贈り、彼女が眠りにつく姿を見届けることで満足するのである。自分に過分な理想を見ている、と彼を遠ざけようとするランだけれど、粗末な自分の自宅で、客から受けた背中の傷を黙って手当てしてくれたハイに(この場面は官能的、かつ感動的)心を許す。帰ろうとしたハイの手を握ってとめる場面は泣かせる。そして、ようやく、あの花の場面である。ハイがランを目隠ししてその花の下に連れて行くんである。本当にこんな花があるのか……絶えず降り注ぐように落ちてくる真っ赤な花、こんな映画的な花があるなんて。そして、「飾ることなく生きていけばいい」と花を拾い上げて本と共にランに渡すハイ。あの「個性的に生きる」とかいうタイトルの本は、かの地で有名な本なのだろうか。
B三つ目のエピソードは、二つの話に分裂しているおもむき。ストリート・キッズの少年、ウッディと元米兵のヘイガー(ハーヴェイ・カイテル)は確かに数場面相対するけれど、実際には娘を探すヘイガーと、箱を探すウッディの話に別れている。……ああそうか、“探す”という点で一致しているんだ。そしてその探しているものは、彼らにとってのアイデンティティそのもの。正直言って、ヴェトナム人達の話の中で、ヘイガーの話だけが浮いてる感じもするんだけれど……なんていうか、そこだけいかにもアメリカ人的なエピソードで。しかしそれを受ける娘側は、淡々としていて、ああやっぱりアジアの感覚だな、と思うのだけど。ウッディ少年のエピソードの方が魅力的。そして、季節は雨季である。どしゃ降りの雨の中、タバコとガムを売り歩くウッディ少年。彼はヘイガーと出会い、ヘイガーが消えたとき少年の商売道具である箱も消えていた。かくして、少年は箱を見つけるために彼を探すこととなる。ヘイガーが見つかっても、箱は見つからない。私は最初、このウッディ少年が、客の同情を引くため、雨の日を選んで商売をしているんだと思っていたのが、違うんだな。常に、常に雨なのだ。そして箱を無くして途方に暮れたウッディ少年の姿に、こっちの同情が引かれてしまうのだ。その少年に近づきパンを差し出す、やはりストリート・キッズの幼い少女。二人が寄りかかりあって雨やどりの階段で眠る姿の哀切さ。箱を無くして、一人で生きていた拠り所が突然なくなった少年を救う少女。やがて箱が見つかるのだけど、少年はかけよる少女と手をつないで歩いていく。箱だけが自分の存在証明であった少年、もう一人ではないのだ。
最後は、その手をつないだ二人と、真っ赤な花の下、向き合うハイとラン、そして、主人、ダオの生地の川に、真っ白な咲きほころんだ蓮の花を撒き散らすキエン・アン、それぞれのラストが描かれる。大仰なハッピーエンドではないかもしれないけど、ああ、人生は小さな幸せを見逃すことなく大切に積み重ねていくことなんだな、と思わせる。だから、これはハッピーエンドではなく、これからもずっと続いていくささやかな人生の節目にすぎないのだ。★★★☆☆
彼演じる行脚の又市はあたかも水戸黄門のように、たまたま行きあった土地での事件を解決に導くわけなのだが、彼の場合、特に正義感や何かに突き動かされているわけでもなく、謎解きに執着しているわけでもなさそうなところが不気味でもあり、面白くもある。大体「姿形はボウズだが無信心の……」と言って行脚し、やたらと剣?の腕も立つ、というところがアヤしい。彼は行動全てに理由が判らないんである、そこが面白い。そして彼とともに事件解決へと臨む戯作者の山岡百介(佐野史郎)は、同業者の京極亭(京極夏彦)がすれ違ってからかい気味に言うように、どこかオタク気質な調べ物好きで、不思議な話を追っては、その真実を突き止めるのに快感を感じているような人物、「私が調べたところでは……」が口癖である。どこか感覚的な又市とはずいぶんと対照的で、しかしそこがいいコンビネーションなんである。しかし最後には人間の憎悪が色濃くにじんだ事件に懲りたかのように「もう、調べものはイヤになりました」と結ぶ彼。
もう一人、事件解決チームに加わる紅一点、山猫廻しのおぎんには遠山景織子。彼女もどこか田辺誠一と同じく、一筋縄ではいかないところがある。一見リス、ウサギ系の美少女が大人になった、という感じなのだが、その実ふと油断していると噛み付きそうな毒性を持っている。か弱そうに見えて、実は誰よりも強くしぶとい。太陽の明るい光というよりは、月の冷たい光という感じの陰性を持つ。ナルホド、そういうところはこうした怪談時代劇にあっているかもしれない。
しかしこれは厳密には怪談ではない。七人が死なないと止まないという、人々が呪いだ、たたりだと口々に噂しあっている、“七人みさき”という『怪談』を、彼ら三人が『事件』へと引き摺り下ろすんである。実際は、妾腹の子として日陰で育てられてきた城主の歪んだ心が生んだ結果である……しかし、確かに彼は出生の運命に呪われていたかもしれない。
彼が回りにはべらすカラフルな着物にカラフルな頭をした美女?二人、まるで最近のシブヤの女の子みたいに着物から太股にょっきり出して、なぜかレズ行為をしたりして、なんだかなーと思ったりするが、もう一人、お稚児さんのように彼に仕える、これまた化粧を施された男性(役名忘却)がなかなか印象的なんである。彼は捕らえられた山岡とおぎん(……ん?この二人じゃなかったような気がしてきた)を逃がそうとするのだが、それを城主に見つかってしまう。「余を憎んでいるだろうが、もはやお前は余なしではいられない体なのだ」と二人の目の前で濃厚に彼を愛撫する城主。うっわあ……舌の出し入れがばっちり見える、もんのすごいレロレロなディープキスに腰が引ける……男性同士でここまで思い切った演技には、なかなかお目にかかれない。
冒頭、又市を助けることで知り合う浪人役の小木茂光も味わい深い。10年目に伴侶にようやく子供が出来、江戸で少々荒っぽい金稼ぎをして仕官の道を得ようと故郷へ帰ってきたところ、その奥さんを“七人みさき”の血祭りに挙げられてしまうのである……。彼の、日本男児的な控えめな奥さんへの愛情表現といい、その復讐にこれまた静かに燃やされる憎悪といい、いやー、シブいッ!田辺誠一のドライさとはまた違う、クールなのだけど、その実アツいものを秘めているところがしびれるのだわ〜。そして、城主のお付きで、実は実父である(ってことだよね、あれ?)小松政夫も切なくて良かったなあ。
鈴を鳴らし、頭にろうそくでも立ててそうなブキミな白装束のいでたちでゆらりゆらりと歩く田辺誠一、似合う!似合いすぎるのがコワい……。その天然パーマも妙にその格好に似合っているのが不思議……その存在自体がギャップや矛盾に満ち満ちているなぞめいたところがピッタリなのだ。彼は典型的な現代劇の俳優かと思ってたら(しかしその現代劇での存在位置も非常に独特ではあったけど)、どうしてどうして、時代劇にハマるではないか。★★★☆☆
しかししかし、一人だけピンと引っかかった人がいた。準主役である長島慶造氏である。一体彼は何者?私、初めて観る気がするんだけど(と思ったら、違った!大大大好きな「蝉祭りの島」の若き村長役で出てたではないか、不覚!)。原案、企画にも名を連ねているというあたりもひどく気になる。最初は単なる脇役の一人のような感じがするものの、次第次第に主役である清水宏次郎を喰っていって、彼と一騎打ちになるあたりでは、何だかもうやたらとカッコイイ!顔のパーツは皆小さめで、地味な顔立ちなんだけど、それがだんだんだんだん鬼気せまる顔に変化していき、最初っからハデな顔立ちの清水氏の毒気の無さを完全に制圧してしまうのである。どこかホスト系のスーツにひるがえる黒いコートも画になる!そのクライマックスでは清水氏の銃弾に倒れるものの、血だらけになって倒れた彼の手がピクリと動き、次のシーン、背後から清水氏を狙っている!いやあれは、清水氏が狙っている人と同じ人を狙ってたんかな?
などとオマヌケな疑問を発しているのでも判るとおり、今一つ話が良く判らなかったんだけど(笑)。なんだか前半たっぷり眠くってさあ(苦笑)。中国マフィアの攻勢に押されている博多の街の話で、清水氏はギャンブル店のオーナーで、ヤクザではないらしい。しかし店を管理下においているのはヤクザであり、その組織の一員が長島氏。だから一応清水氏と長島氏は味方関係にあるはずなのだが、しかし兄弟の盃云々といった関係ではなく(ま、今時のヤクザがそんな事を言うかどうかも疑問だけど)、どこかお互いに信用していない感じの間柄。支配下に置かれながら、自分のやり方を貫き通す清水氏を長島氏は苦々しげに思っている……てな展開だったと思うんだけど。
ま、とりあえず、この長島慶造という人はチェックしなければ!と思ったのだった。うーん、それともVシネでは活躍している人なのだろうか?★★★☆☆
自分を20歳だと思い込む80歳の老人、日暮里歩が、ホームヘルパーとして派遣されてきた18歳の古代なりすを、学生時代のマドンナと信じ込んで「これは夢だ、なんて素敵な夢なんだろう」と有頂天になる。外の世界は彼が知っていたものとは大きく変わり、連絡を取ろうと思った友人が皆鬼籍の人だと知り、彼の現実感はどんどん薄れてゆく。なりすが自分のそばにいてくれることだって、最初から夢だと思っていたのに、それが夢か現実かをどうしても確かめたくなる彼。そして……。
一方のなりすは血のつながらない弟へのかなわぬ恋に悩んでいる。しかも自分の友達と弟が付き合いはじめたことで、打ちのめされる彼女。そんな日暮里さんとなりすの気持ちの距離が段々縮まって深まって行くのが見えるよう。そして遅刻したなりすを家まで迎えに行こうとして外にさまよい出た日暮里さんを懸命に探す彼女は、やっと見つけた彼と路上にへたり込み、日暮里さんからプロポーズを受ける。
日暮里さんとの結婚を決意したなりすに忠告する弟と友達に、なりすは言う。「愛情と同情がどう違うっていうの?」と。彼女の目を覚まさせようとする二人はもちろん反駁するのだが、彼女は取り合わない。……私は思わず考え込んでしまった。同情と愛情……相手を思いやること、そしてその感情に共感し共有するのが同情なのだとしたら、これぞまさしく愛情なのではないかと。逆に、世に愛情と呼ばれているものは、「同情はいらないから愛が欲しい」なんて言葉に象徴されるように、自分に都合のいいもの、例えば自分を庇護してくれるような感覚として考えがちであり、この感覚こそ単なる同情に過ぎないのではないか?……ああ、それならば同情が愛情で愛情が同情で……だから、なりすの言ってる事がなんだかとっても首肯できるのだ。彼女がそこまで深く考えているわけではないにしても、日暮里さんとの関わりで感情が大きく成熟し、そうしたことを本能的に理解しうるようになっているのだ。
“血のつながらない弟へのかなわぬ恋”なんて、ほんと少女マンガな世界なのだが、凡百の少女マンガのようにその恋がかなえられる事はない。思えばその設定というのは、自分との感覚を完全に共有できる相手としての彼であり、それは運命的に見えながらもその実ずいぶんと子供っぽい、せまい世界での感情に過ぎないのだ。それは結局“恋”の感情を出る事はなく、他人を一から知り、知らない他人だからこそ愛する感情でなければ、やはり“愛”には発展しないような気がする。……基本的には。もちろん「ANA+OTTO アナとオットー」のようなこともあるわけだし、一概には言えないのだが。
大体、ファンタジーというのは残酷なものだ。ファンタジーだからこそ残酷なのかもしれない。御伽噺のようなフワフワした衣で優しく包んでおきながら、現実はこんなにツラいんだよ、と突きつけてくる。でもだからこそ、現実社会の素晴らしさも実感できる。夢の世界に生きる日暮里さんがなりすに恋した時、これが夢か現実か知りたくて屋根の上からひらりと“飛ぶ”。当然これは現実の世界だから彼はそのまま下に落下して死んでしまう。でも、なりすが現実の女の子だったこと、そのなりすと会えたことが現実だったことを知ることが出来たこの結末の方を、日暮里さんは望んでいたのだろう。
「自分はまだ13歳なのにみんなは50過ぎのオッサンだって言うんや」というクレープ売りの子供(!)や、日暮里さんに「まだ生きてたか、クソジジイ」と(わざわざ)言いに来る隣の女の子、その女の子にバイオリンを教えているちょっとイッちゃってる男性(金谷ヒデユキ!うっそお、気づかなかった。……太ったんじゃない?)などなど、犬童ワールドなサブキャストたちが最高。特にこの口の悪い女の子は、かなり意味ありげなアップショットが多く、彼女こそがなりすよりも先に日暮里さんを好きだったんじゃないかと思えるくらいなのだが……。時々ひどく大人びて見える表情を見せるものだから……。
日暮里さんとなりすを演じる伊勢谷友介、池脇千鶴が抜群にいい。特に池脇千鶴は!ああやはり「大阪物語」はマグレなんかじゃなかったんだ。判ってたけど。自然な演技とか、そんな言葉じゃ説明できない、このスクリーンに息づいている彼女は。彼女はまるでネコヤナギ、そうだネコヤナギみたいだ。ふっくりしててツヤツヤしてて、そのかわいらしい声と、柔らかく丸い体つき、あふれるほどの言葉を飲み込んでいるその瞳とその唇が、もうーたまらない!18歳の女の子として劇中のなりすは、男友達と夜を明かし、寝坊した翌朝(昼?)慌ててパンツをはいたりする描写があって、私は思わず、イヤー!千鶴ちゃん、イヤー!と心の中で叫んだりもしたんだけどさ(笑)。テレビドラマでの彼女は見てないけど、やっぱり彼女は映画女優!これはまさしく天賦の才能!★★★☆☆