home! |
追憶の上海/紅色恋人/A TIME TO REMEMBER
1998年 97分 中国 カラー
監督:イエ・イン 脚本:チアン・チータオ/マーク・カプラン/アンディ・ナンサンソン
撮影:チャン・リー 音楽:遠藤幸二
出演:レスリー・チャン/メイ・ティン/タオ・ツァオルー/トッド・バブコック/ロバート・マックレー/イエ・タンタン
でもでも、本作でのレスリーは、ギリギリセーフ。最近の、シリアスをやる時のレスリーは、あまりに入りすぎてて、時にあまりのクサさ、キザさに、こちらが逃げ出したくなる時があるから。前作の「もういちど逢いたくて/星月童話」のレスリーも境界線上で危なかったが、「夜半歌聲 逢いたくて、逢えなくて」の彼は大マジで王子様のちょうちんパンツに白タイツまではいちゃって目も当てられなかったもんなあ(しかし妙に似たタイトルなんだよな)。本作では理想に燃える若き革命家という、実に実にそういった意味でヤバい役柄。しかも現実の歴史としての時代背景は確固としてあるものの、実話ではなくて架空の人物(でしょう)なものだから、さらにレスリー暴走のキケン大ありなんである。ただ前述したとおり、これは実質的にはレスリー主演ではないので、彼のアクセル全開をなんとかまぬがれたという感じ。ほんとレスリー、「金枝玉葉」シリーズとかのコメディだと絶妙な味わいを発揮するのに、そして過去のシリアスレスリーもまた絶妙だったのに、最近のナルシス入ったレスリーは実に危なっかしいんだよなあ。
まあ、やっぱり美しいからいいんだけどね。今回は、傷を負って全身汗びっしょりでうんうん唸ってるわ、どしゃ降りの雨にうたれて最愛の人を助けに行くわと、“水もしたたる……”を地で行く色っぽさ。あいもかわらず変わらないお方だが、それなりに年輪を感じさせるようになってきた。年を取ったというのとは違う、ほんと、年は驚くほど取らないんだけど、でもやっぱり40代だと思えるし、その年相応の魅力と官能とカリスマ性を兼ね備えているのだ。やはり希有な、得難いスターだよなあ。
そんなレスリー扮するジンを愛するチウチウには、これが映画デビューだというメイ・ティン。ジンに初めて出会う場面ではややカマトトっぽさが入り、現在のシーンでは、男二人の間でゆれるには迫力不足な感のある彼女は、ちょっと中途半端だったかもしれない。彼女から往診を頼まれるペイン医師が彼女に惚れる強いキッカケもなく、ま、彼の言うように彼女はそれなりに美しいお人なのだが、彼が彼女に惹かれているのは、この地ではよそ者であり、そしてそれでいいと思っている彼のエキゾチックへの憧憬が生み出した感情のように思えるのだ。
そのチウチウに惚れられているジンは、亡き妻の幻影に苦しんでいて、最後の最後までチウチウのことをどう思っているのかが判然としないわけだけど、自分の命を投げ出して彼女を救いに行き、野っぱらに置かれた椅子に腰掛けて警察の銃弾を浴びる非業の最期にいたることで、彼の本気の愛を痛烈に感じさせられる。しかもその下敷きには、理想の革命を誓い合った同志としての結びつきがあり、この強固な絆にはヤワなエキゾチシズムの憧憬などかないっこないんである。
とは言うものの、ペイン医師は、産褥のため亡くなったチウチウの、ジンとの間の女の子を引き取り、この子に両親の素晴らしさを説いて育て上げるのだから、彼は彼なりの真剣な愛だったんだろうけれど。いやー、それにしても、この子に両親の遺骨を見せる最後の最後にいたるまで、これでもか!てほどの大メロドラマですなー。チラシの解説も“人はここまで、激しく、深く愛し合うことができるのか……!その胸に迫る切なさ、痛みは、あふれる涙とともに観る者すべての心に熱い感動をもたらすに違いない”(もたらさんわ)とかなりスゴく、ここまでくるとヤケになってるような気までし、読んでるこっちが赤面するほど。大体が、オモテのキャッチコピーが“巨大な歴史のうねりが数奇な運命と哀しい愛を生んだ!短くも美しく激しく命をかけた恋が燃え上がる!”だもんなあ……今時あるのね、こんな惹句。しかし、まるでそんな展開をテレてしまったかのように、ラスト、この義父と娘のショットを俯瞰で撮ると、二人を撮る撮影隊の様子が画面に入ってきて、え?なんでこんなことするの?と首を傾げてしまう。なんなんだあ、意図が全く判らんぞ。
この時代を再現した気合いの入った美術は見ごたえあり、でした。★★☆☆☆
実際にいた、そして切り離されたベトちゃん、ドクちゃんにしても、萩尾望都が描いた「半身」の二人にしても、手塚治虫の「ブラックジャック」に出てきたそれも、そして世で語られているシャム双生児のほとんど全てが子供であり、大人のそれなど考えてみたこともなかったから、ブレイクとフランシスの二人がヒロインのペニーの前に現れる登場シーンではさすがにドキッとした。自分が自分であるという自我が形成されていくにしたがって、結合したままでいられるはずもなく、だからこそこんな年齢になるまでずっとこのままの形である彼らが信じられないのだが、そのへんがおとぎばなし的テイストであり、画的な魅力とインパクトなのだ。
ただ、判らない、そうした双子が本当にいたのかもしれず……などと思うのは、一卵性双生児というのがそうでない人たちには判らない、特別な共有関係を持っているのは明らかだからだ。もちろん双子であっても、そして彼らが結合していようがいまいが一人一人別個の人間には違いないのだが、彼らを完全に分けて理解する、あるいは理解しなければならないという第三者の人道的な考えが、当事者の双子の彼らには当たらないのではないかとどうしても感じてしまう部分がある。それほど一卵性双生児には不思議が多い。痛みを共有するとか、遠く離れた相手の危機を察知するとか、さまざまな事例もあげられるわけで、実際、もともとは一人の人間に形成されるはずだった一個の卵が分裂したために二人になったという点で、その同一性は否定できない。そしてその分裂を途中で止めてしまった結合性双生児がさらにその色合いが濃いのはさもありなん、なのだが、不思議なことに逆に分裂しきれなかった彼ら……ブレイクとフランシスはまるで陰と陽のように、はっきりと個性が分かれているのだ。
でもそれは、一人の人間に備わっているそれぞれの要素であり、離れて生まれてくる一卵性双生児だったならば、均等に分け与えられたものであったと考えることもできる。それらを分担して持っている彼らは、だからこそそれぞれに色濃く、その要素だけで成り立っているが故に痛ましいほどにピュアで傷つきやすいように感じられて胸が痛くなってしまう。そしてつながっているが故に、お互いがそれぞれに受け止める傷つきやすい心が、流入を繰り返す。……哀しい心だけが循環を繰り返す。
彼らがひっそりと身を置くホテルに呼ばれた、モデル志望のスレンダーな娼婦、ペニーは、最初はさすがに驚いたものの、「普通の兄弟みたいなの、醜くないのよ」と友達に語り、対等の友人関係として付き合っていこうとする。しかし彼女の心がブレイクの方に引き寄せられ、ブレイクもまた彼女に惹かれはじめるのと同時に、彼ら三人の関係は揺らぎはじめる。ブレイクはフランシスから切り離されたいと取り乱し、二人はケンカする。……二人のケンカは、自分自身を傷つける行為に他ならず、とても辛い。ペニーとブレイクの恋の感情とはまた全く別の、運命の関係として、二人が愛し合っているからこそ、辛い。
ペニーに請われて二人を診察したドクターは、フランシスがかなり弱っていて長くはなく、このままではブレイクも危ないと言う。「彼らはこのホテルに死にに来たんだ」そう言われれば、彼らがチョコレートケーキだの、綿菓子だのばかりを口にしていたことが思い出され、あれは多分にファンタジックな描写だったけれど、その実、もう死を覚悟していた二人が、好きなものばかりを食べていたのだと気がつく。……甘いものばかりを食べて暮らしたいと思っていた子供の頃のように。
自分たちを捨てた母親との決死の再会、彼らを金もうけのネタにしようとするテレビ屋、思わず飛び出た外の世界で受ける人々の奇異なものを見る視線……そうした、とりあえずおさえとこうという予測できるエピソードなど意味なくするほど、彼らは映画的な魅力に溢れている。まるで立体メガネでのぞき見る元の画像のように、左右対称に現れるブレイクとフランシスの不可思議さ。彼らは本当にハンサムで、その画は悪夢のようでもあり、幻想的な夢のようでもある。相手の耳元にささやいて意思を伝える二人の姿、そのさやさやと聞こえてくる声が、静かな森で聞こえる木の葉の音のように優しい。そして彼らと出会うペニーは、美人で素晴らしくスタイルが良いけれど(なんといっても現スーパーモデルなのだそうだし)その折れそうな身体と、弱さを隠すかのようなキツめのメイクが、これまたひどく痛ましく、そして優しく美しいのだ。
フランシスは死に、切り離されたブレイクは元いた見世物小屋へと身を寄せる。そこを訪ねるペニーは、フランシスと共有していた片足、片腕を失い、いやそれよりも、フランシスそのものを失ったことでひどく小さくなってしまったようなブレイクと再会する。そしてかつてフランシスとやったように、二人一緒にギターをつま弾く。……ペニーに支えられて外へと歩き出すブレイク、そのラストシーンはほの見える未来への希望と、穏やかで強い愛情が胸に迫る。
監督、脚本はこの双子を演じたポーリッシュ兄弟。俳優もイケる演技力と、この美形っぷり、そして何より、こうした個性的な物語を、囁きや衣擦れの音をも拾い上げるような繊細な描写で美しく切り取る感覚、いやはやユニークな才能がまたしても、だ。★★★★☆
本作なぞはまさしくそれのオンパレード。「エロス」というテーマのもと、五人の異才監督たちが競作するというその第一弾で、この企画自体に望月監督が加わっているのだという。……ナルホド。しかし全編に繰り広げられるそれは、エロスというのとは違う気がするなあ。ただただ、エグい。ちっともそういうセクシャルな気分にはさせず、どんどんミジメにも似た気分になっていくだけ。あ、でも、それがネライ、だったんだろうな、とは思うのだけれど。だって、これはバブル崩壊後の日本と現在絶頂の好景気であるアメリカを、冴えない男とアメリカからの金髪留学生になぞらえていて、しかも主人公はその男の方なのだもの。
大学で教鞭を執る、経済学の助教授である彼。経済学なんぞいくら学んだって、この不況下にどう生きていけばいいのか示唆できない低迷期の日本を、これ以上はないくらいにミジメな姿をさらして体現する諏訪太朗。しかもしかも彼は、まるでバブルの意味の無さを今更ながら再認識するかのように、不毛なセックスへの妄想をただただ膨らませているんである。彼はまともなセックスが出来ない。金髪留学生のアンナを盗み撮りしたビデオを見ながら(これまたエグいビデオなんだ)マスターベーションしたり、金髪娼婦に嘲笑われながら、日本のホテトル嬢にしゃぶらせたりしてイくんである。あのバブルが、非生産的なもの(まともにセックスしない)ものであり、他国から見下げられるような意味のない経済行為であったことを、本当に、これ以上ないくらいミジメにミジメに描いていく。
一方の金髪留学生、アンナはどうかというと、これが、おかしいんだ。だって、このアンナを演じているのが、まったき日本人、木村衣里。その彼女が髪を金髪に染めてやっているんである。確かに彼女スタイルは抜群に良くてアメリカ女性並みだけど、どう見てもどう見てもどーう見てもやっぱり日本人。どうしてこんなキャスティングをしたのか、違和感ばかりがつきまとって観てる間は落ち着かなかったのだけど、こうして考えてみると何となくなるほどと思う。彼女は未曾有の好景気が続くアメリカから、日本のバブル崩壊を反面教師として学ぶためにやってきた。口では日本のかつての好景気と今のアメリカのそれは違うと言うけれど、アメリカ人の皮?をかぶった日本人としてのアンナであることで、アメリカの好景気のなんというか、胡散臭さみたいなものを暗に示唆しているようで。アンナはインテリ(ちょいと必要以上にスカート短すぎだけど)だけど、もう一人出てくるアメリカ女性、リンダは、娼婦で、ちゃんとアメリカ女性(だろう)のソフィアが演っている。これもまたアブないキャスティング。
自分に異常な、歪んだ欲望を持っていることに気づいたアンナは、彼、高坂助教授を散々にもてあそぶ。大きなキャリーバッグに裸の彼をつめこんで引きずり回したり、彼を縛り上げた前でアメリカ人の彼とセックスしてみたり。それはまるで、好景気のアメリカが、不況を脱せない今の日本をさげすんでいるような光景。そして、こちら日本はというと、もうすっかりその不況にまみれてしまって、それに変な執着感を覚えているほど、という格好。白いがふがふしたブリーフと紺のソックスだけの姿で、膝を抱え、そう、おケツまるだしの実に実に恥ずかしい格好で街を引き回される高坂助教授、いや諏訪太朗、ああ、役者って大変なのね……ほんと、あれは……尋常じゃなく恥ずかしくてミジメだぞ!
もう一人興味深い人物が出てくる。さびれた駅のホームでいつも出会うサラリーマン風の男、ラサール石井。役名も与えられていないラサール氏だが、彼と高坂がそのホームで缶コーヒーを飲みながら交わす会話シーンはこの映画の中で唯一まともである。“ホームの男”は、この不況でまともな仕事がないという感じで、だからといって何をしていいのか判らず、とりあえずいつものようにスーツを着て、いつものように最寄り駅に来ているのだけど、といった風体である。彼は高坂に、以前ここで自殺した男がいたことを告げ、「人生って、何なんでしょうねえ、家族?恋愛?趣味?……全部結局金じゃないですか」と一人ごちる。……彼は最後、電車に飛び込んでしまったのだろうか?
高坂は、このせりふを受けて、アンナに「私たちは金の関係ではなかった。私は金を払っていないし、君は金を受け取っていない」と迫るが、彼女は相手にしない。「通貨と金髪」そうか……しかしこの双方ともがなんと意味のない、バカバカしいものなのか。そしてそう思ったわけでもないだろうが、高坂は彼女を殺してしまうのである。そして殺した彼女を裸にしてあのキャリーバッグに詰め、アメリカ人娼婦、リンダのもとへ向かう。「今までありがとう、君にあのバッグをあげるよ」という高坂。その中身を見てうろたえる彼女をもまた撃ち殺し、……バッグに詰まったアンナの死体を画面の隅にとらえながら、高坂はリンダの下着を脱がせ、自分のパンツもおろし、いざ死姦をば、と体を重ねるんである。……吐き気がするような、場面。
こんな風にあとから考えると、なんだか面白い映画だったような気もしてきたんだけど、ああでも、やっぱり私にはダメだ!なんだか、画面の質も妙に悪くてピントが甘いし。ところで判らないのがラスト。大学を辞した高坂が、河川敷?でホームレスのような格好で青ビニールを張った中に冷蔵庫を持ち込み、その中に無数のペットボトルに入った赤い液体を入れていて、それを「オッサン、また頼むよ!」と言って訪ねてくる常連風の少年たちにふるまうんである。一体あれは何なんだ?青ビニールの、しかも照明の下で赤く見えるだけで、実は単なるお茶だったりして……いやいやいや、あの思わせぶりな映し方でそんな筈はない。しかも、あの二つの死体はどうしたんだよう。……えっ、えっ、マサカ!★★☆☆☆
女の私がこんなことで憤ってちゃいけないのかもしれないが……しかし劇場も新宿トーアというそれなりの性質を持ったところなんだし、やはりこれは“宣伝に偽りあり”でしょう。だって“黒木瞳、ストリッパー役を熱演”だの“黒木瞳、衝撃のストリップ・ティーズ!”だのって目にしたら誰だってさあ……って、ちょっとしつこいか。ま、とりあえずそれは置いといて、物語としてはかなり普遍的でオーソドックスな、もっと言っちゃえばちょっと古いような感じである。奔放な母に反発する理想肌の娘。しかしこの母にはやむにやまれぬ事情があり、娘もまた自分が恋を知ることによりこの母親を理解し愛するようになる、という……。
祖母の死によって上京してきた娘、夏海(今村理恵)。祖母の看病であきらめた大学に挑戦するために予備校に通うべく、イヤイヤながら母親との同居をはじめる。この母親、遙(黒木瞳)は恋していて、その相手は借金で首が回らなくなっている松寿司の三代目、松尾(中村梅雀)。このカイショウのない男のために、ギャラを前借りし、娘の金にまで手をつけて母娘は一時危機的状態に。この金はもともと遙が必死に仕送りしたものだけど、「おばあちゃんが貯めてくれてた」というアタマである娘の夏海は激怒する。ま、実際、これはマズかったよねー。
娘を長年ほっといたとはいえ、それは自分の母親に対する意地からそうしていただけで、遙は確かに夏海を娘として愛している。その時間の隔たりのギャップに戸惑う母としての姿と、どうしようもない男にホレてしまう女としての姿がちゃんと違和感なく同時に存在し、どちらか一方に肩入れすることなくバランス良く演じているあたりはさすが黒木瞳、もはやベテランである。対する娘の今村理恵はただただ不機嫌なままで押し通して、ある時突然明るくなったり、理解ある娘になったりといった感じでちょっとぎこちない。デビュー作「洗礼」は見逃したけど、佐伯の日菜ちゃんが主演だった「もう、ひとりじゃない」でもやっぱりそんな印象だったし。ラスト、松尾のもとへと旅立った遙のかわりにステージに立つ時も、緊張から来る固さとか、あるいはさすが「浅草の月」の娘だ!とでもいうような舞台度胸というよりも、なにかただ覇気がないだけに見えてしまう。
夏海が親の大切さを実感していく過程のエピソードとして、彼女が恋する司法浪人生、達也(加藤晴彦)の父親がやくざの組長で、彼の母親は父親の身代わりになって死んでしまい、いまやその父親も末期ガンに冒されて死の床にいる、というこれまたコテコテの人情物語が用意されているんだけど、ちょっとこれもねえ……。こういう話で泣かそうというあたり、なんだかやっぱり東映だなーという気がしたりして。若頭?役の白竜は相変わらずカッコよかったけど。
しかし本作を斬って捨てるには欽ちゃんこと萩本欽一と、中村梅雀が良すぎるんである。欽ちゃんは遙を花形ストリッパー「浅草の月」に育て上げたストリップ小屋「ロマン座」の社長。男で身を滅ぼしかねない、そして年頃の娘を持って戸惑う遙を一心に心配している。浅草はまさしく彼のホームグラウンド。水を得た魚の様に、人情味あふれるキャラクターを演じている。遙と夏海と三人、酔っ払って浅草の仲見世通りをフラフラと上機嫌で歩くところはちょっぴり欽ちゃんだなあ、って気がするものの、基本的にはあのテンションの高い舞台人としての彼の姿は見当たらない。じつに自然でイイ感じなのだ。
そしてなんといってもバツグンなのは中村梅雀!彼には泣かされた。もう、さすが!上手い!としか言いようがない。黒木瞳、ひいては花形ストリッパーと恋するには少々頼りない風貌なのだが、それがドンピシャなんである。彼の演じる松尾はなにをやってもうまく行かない男。“三代目は家をつぶす”とは良く言ったものだけど、回転寿司に客を取られ、ギャンブル好きで借金地獄、思い切ってやって当たったランチサービスも食中毒を出して店は休業に追い込まれる始末。自殺すらも失敗して夏海から「自殺する勇気なんてないくせに。ほんとに死ぬつもりだったんなら母さんの前から消えてよ!」と吐いて捨てるように言われてしまう。でもこの男、なぜか憎めない。ほんとどうしようもない男のはずなのにほっとけない。遙の気持ちがよーく判るんである。どんなに手助けしても無駄になることを心のどこかで判っていながら、助けてあげたい、と思わせてしまう。このナサケなさと切なさがあふれ出た中村梅雀がとにかく素晴らしい。
いくら今村理恵がエイベックス所属だからって、この映画の主題歌に浜崎あゆみはないだろうと思うのだが……この人情味や味わいがラストの歌で全部吹っ飛んじゃったよ。★★★☆☆
ハマちゃんはみち子さん一筋だから、寅さんとは違って彼の恋物語は期待できない。ので他にラブストーリーが存在するわけだ。ハマちゃんの釣りの弟子である、同じ会社の資材部管理課に勤める宇佐美吾郎(村田雄浩)と、ハマちゃんのいる営業三課の華である磯村志乃(桜井幸子)の、デブウサギの犠牲(彼女のウサギを彼が食べてしまった!)が取り持つ恋物語はまあ定石どおり。この二人以外に、はっきりと恋の感情だと示されているわけではないけれど、スーさん(三國連太郎)と、出張先の沖縄で彼の案内役を仰せつかった地元の小さなタクシー会社の女社長、知念玉恵(余貴美子)との“経営者同士”が交わす深い信頼と淡い気持ちが、さすがベテラン演技巧者同士!で素敵なのだ。それにこの場面では、全国各地の郷土色を生かすという点で、「男はつらいよ」の系譜を引き継ぐ本シリーズの魅力が最大限に生かされているし。ウチナー口はもちろん、彼女の住む沖縄家屋、彼の母親による家庭料理ソーキソバと沖縄音楽、と一般的なイメージである観光地沖縄のトロピカルなイメージよりずっと魅力的。そしてこの女社長にスーさんは会社の大小に関係ない経営哲学を学ぶのだし。
スーさんのお供で一緒に沖縄に来たハマちゃんはといえば、この地に転勤になった宇佐美と小船で意気揚々と釣りに出かけるのだが、嵐に遭いあやうく転覆しそうになり、気を失ったまま彼らがたどり着く無人島はそれこそ観光地沖縄のイメージそのままの地。しかしそこで彼らは水もない酷暑の中で、一本のやしの木のわずかな影の下に必死に逃げ込むありさま。そう、最初なんで宇佐美とハマちゃんがTの字になっているんだろうと思っていたら、影の形のとおりに寝ているわけで(笑)、寝ているうちに太陽が移動し、つまり影も移動して、目を覚ましたハマちゃんが「アチチチ!なんで影が動いたのを教えないんだよ!」と一瞬先に気がついて移動した宇佐美に文句を言うんである。はてには宇佐美がみち子さんに見えてしまうという幻覚まで発生、男同士の、しかもこんな二人の濃厚なキス……うげげ。本土の人が持つ、楽園としての観光地沖縄のイメージを一蹴しているとも言うべきこの場面は痛快。
そして東京に帰り、スーさんは社員を大切にする知念社長にならって、リストラ策を却下するのである。その第一の候補にあげられていたハマちゃんはそんな経緯もつゆ知らず、遭難していたせいとは言え5日も遅れて「めんそーれ!」とゴキゲンで出社し、宇佐美との結婚で退職することになった志乃を祝う。出張先で社長をほったらかしにしたことにより島流しをおおせつかりそうになるが、それを聞いたハマちゃんはそこで釣り三昧だと大喜びであえなく却下……はい、大団円大団円。
大阪の隠し玉?「燃えよピンポン」の高田聖子(リストラを進めるアメリカの調査会社の通訳)と、見掛けによらずとぼけた味が魅力であるはずの永澤俊矢(沖縄のホテルマン)がもったいない使われかたでちょっと残念。★★★☆☆