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ファンタジア/2000/FANTASIA/2000
2000年 分 アメリカ カラー
監督:@(交響曲第五番=ベートーベン)ビショーテ・ハント(アニメーション・アート)/A(交響詩 ローマの松=レスピーギ)ヘンデル・ブトイ(アニメーション)ディーン・ゴードン(アート)B(ラプソディ・イン・ブルー=ガーシュウィン)エリック・ゴールドバーグ(アニメーション)スーザン・マッケンジー・ゴールドバーグ(アート)/C(鉛の兵隊=ショスタコービチ)ヘンデル・ブトイ(アニメーション)マイク・ハンフリース(アート)/D(動物の謝肉祭 フィナーレ=サン=サーンス)エリック・ゴールドバーグ(アニメーション)スーザン・マッケンジー・ゴールドバーグ(アート)/E(魔法使いの弟子=デュンカ)ジェームス・アルガー(アニメーション)トム・コドリック、チャールズ・フィリッピ、ザック・シュワルツ(アート)/F(行進曲 威風堂々 第一、第二、第三、第四=エルガー)フランシス・グレイバス(アニメーション)ダン・クーパー(アート)/G(火の鳥=ストラヴィンスキー)ポール&ゲイトン・ブリッツィ(アニメーション)カール・ジョーンズ(アート) 脚本:――――
撮影:―――― 音楽:(演奏)シカゴ交響楽団
出演:
ああでも、ここならば!東京アイマックス・シアターはいつ来てもその見上げるほどの高さから、覗き込むほどの下までの超巨大スクリーンから繰り広げられる映像体験に圧倒されるのだが、今回は特に大興奮!通常の横長ではない、スクリーンの比率が独特なので、3D映画など、このスクリーンに合わせて作られた、限られた作品しか上映できないため、今一つ認知度が低かったのだけれど、今回はなんたって、ディズニーの「ファンタジア」なんである。椅子の耳元にもスピーカーが用意されているため、ミッキーが逃げ回っている声などのリアルさは、思わず振り向きそうになってしまうほどだし。それにああ、「ファンタジア」!私は実は今回が未見なのだけれど、これほどまでに素晴らしいとは!総合芸術であると言われながら、時に“劇伴”などと称され、映像の付随的立場だった音楽を、映像を主導する主役として引きずり出した。「1001Nights ワン・サウザンド・ワン ナイツ」などは、この「ファンタジア」の影響を受けた企画なのかも。現在まで残り続ける力を持つ、主にクラシックの名曲を、巨大スクリーンに展開するワクワクする映像と、迫力スピーカーでコンサートホールさながらに聴ける凄さ!
8つの曲からつむぎ出される8つの映像体験。……@交響曲第五番(ベートーベン)/A交響詩 ローマの松(レスピーギ)Bラプソディ・イン・ブルー(ガシュウィン)C鉛の兵隊(ショスタコービチ)D動物の謝肉祭 フィナーレ(サン=サーンス)E魔法使いの弟子(デュンカ)F行進曲 威風堂々 第一、第二、第三、第四(エルガー)G火の鳥(ストラヴィンスキー)。時に@のように音の直接的印象から抽象的な幾何学アート映像が紡ぎ出されたり、B、Dのように完全に音のキメに合わせたストーリーが展開されたり、あるいは、C、E、Fのように音楽の全体的な流れに有名なストーリーを(無論台詞なしで)語ったり。Aのクジラが空を飛んだり、Gの妖精とヘラジカによる燃え尽きた森の再生などは、音の流れから喚起される、少々観念的なファンタジーワールド。しかし生命の根源を問うような、「ファンタジア」ならではの世界観。
何といっても素晴らしかったのが、「ラプソディ・イン・ブルー」である。この曲だけ、他とは異なり全きジャズの響きを聴けるというのも大きいのだけれど、いや、そんなことは小さなこと。アル・ハーシュフェルドという、(私は初めて知ったけれど)アメリカの有名な風刺画家の絵を動かす、その線の動きのしなやかさとめまぐるしいスピードときたら!とてつもなく上にハイスピードで駆け上がり、とてつもなく下にあっという間に落下して行く。どうやってカウントを取ったのだろうと驚嘆する、この曲のリズムの、そして旋律のメリハリの効いた緩急にピタリと合わせた登場人物達の動き!夜はジャズクラブで演奏する工事現場の人夫が、失業中のしょぼくれた男が、一日中お稽古事に振りまわされる小さな女の子が、そしてこちらは買物好きの御夫人に振りまわされる御主人が、ニューヨークの街に響き渡る予測のつかないジャズの旋律に行ったりきたり、右往左往。思い切りシンプルな、でも強烈な個性をもつ線が、まるで生き物のように巨大スクリーンを走りまわる!
「ファンタジア」の原点である1937年の「魔法使いの弟子」は、確かに何だか観たことがある。これはかなり有名なもののはず。怠け心を出した魔法使いの弟子、ミッキーが生半可な魔法を使ってほうきに水くみをやらせたところ、これが止まらなくて大洪水!その動きのクオリティの高さは、まさかこれが60年以上前の作品だとはとても思えず、画面の色や粒子がちょっと粗いかしら、と思う程度で驚異的。
「鉛の兵隊」は童話からそのまんま抜け出してきたようなキュートな絵が楽しい。「動物の謝肉祭」はこれぞディズニー!と言いたい、コミカルでスピーディー、そして“フラミンゴがヨーヨーをしたらどうなるか?”なんていう絶対オリジナルな動きをくりだしてきて大いに興奮&笑わせてくれる。ノアの箱船の物語がドナルド・ダックを主役に繰り広げられる「行進曲 威風堂々」は、ああ、このアメリカ映画なんかでよく聴く(なんでもアメリカの卒業式でよく使われるんだとか)ちょっとエラソーな曲はこういうタイトルだったのか、と初めて知る。そして恋人と離れ離れになってしまうドナルドの物語に危うく泣きそうになってしまう自分にびっくり!?しかし、最後はちゃんと恋人と会えて、良かった良かった!
スティーブ・マーティンやベット・ミドラーなどの豪華なナビゲート役も楽しい。こういうスクリーンだから字幕を入れる位置が難しいのかもしれないけれど、吹き替えで、結構来ていた外国人の人たち、本編は音楽だけだからいいけど、この中継ぎの部分判らない人たちもいただろうなあ、などと……しかし、ミッキーの吹き替え、あれはヒドイ。あの気が抜けるような声を選定したのは一体誰!?
観終わった後に、「凄かった……」とつぶやき、すべての魂が抜かれたようにボー然としてしまうほど、素晴らしかった!★★★★★
うーん、でも私はそうかなあ、という気分だったのだけど。確かに彼らの演奏は素晴らしく、年を感じさせない、というのではなく、その年輪をそのままパワーにしている凄さは本当に刮目するものがあるのだけど。やっぱりこれを“ヴィム・ヴェンダースの新作”として観に行った意識が、うーん、うーん、うーん、とうならせてしまうのだ。あ、でも私ヴェンダース監督の映画には、なんだかいつもうー、判らん、と思わされている気がするけれど。「ベルリン・天使の詩」は無条件に好きだったけど、近年の、特に前作「エンド・オブ・バイオレンス」はワッケ判らなくて頭抱えてたもんなあ……。本作はそうした訳の判らなさはない、いやもうこれ以上ないくらい判りやすいのだけど、その判りやすさが逆に、え、こんなんでいいの?とついつい思ってしまうのは……やっぱり私がアマノジャクなんだろうか。
とにかく、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』なんである。それ以外、何もない。彼らの音楽に惚れ込んで、その音を、姿を、ソウルをスクリーンに刻み込みたくて、ヴェンダース監督は彼らの演奏姿と、インタビューを実に丁寧に折り込んでいく。街を歩く姿も挿入する。最年長、1902年生まれ(!)のコンパイ・セグンドを始め、彼らの驚異的な天性のパワーと、悠久のリズムを感じさせるこれまた天性の音楽性。ラテンの陽性のリズムを刻むさまざまな楽器、スペインの哀切なメロディラインを高らかにのびやかに歌い上げる歌声。ヴェンダースの、どうです、彼らは凄いでしょう、という声が聞こえてきそうである。確かに彼らの魅力には、誰もが参るに違いない。
でもなあ、と思うんである。今一つのめり込めないのはなぜだろう……。ドキュメンタリー映画が、時として劇映画以上にワクワクさせてくれる、あの感覚がないからだろうか。不公平がないようにというのか、あるいはメンバー全てに愛を注いでいるせいもあるのだろう、ヴェンダースはあらゆるメンバーに語らせ、そのインタビューシーンとその人物がメインとなっている演奏場面とをジグザグに入れていくのだが、それが分散、あるいは分断される感覚をもたらしてしまう。ドキュメンタリーとしてあまりに正当な作り。いや、ドキュメンタリーとは、撮っていくうちに見えてくる何かをつかんで、あるいは何かをつかむためにドキュメンタリーを撮る、という部分があると思うのだけど、本作は最初から最後まで彼らをこう撮るんだ、ということしかない。そういう意味ではドキュメンタリーというより、しっかり劇映画。たしかにこれだと、特定の人物に肩入れすることによって、監督が主人公に据えたいと思っている“音楽”が脇に置かれてしまうということはない。ないけれど……。
“特定の人物に肩入れすることない”と言っておきながら、私は、ピアニストであるルベーン・ゴンサレスが印象的だった。彼がアプライト・ピアノを軽やかに弾いていると、次第に体操の練習をする子供たちが集まってきて、ピアノを弾く彼にまとわりついたり、その音楽に合わせて平均台を渡ったりする。老ピアニストと子供たちという場面が、ああ、音楽がつないでいくんだなあ、という感覚を呼び起こされて。……そうか、観客一人一人が誰かに肩入れする、それでいいのかもしれない。作り手から提示されるものだけに反応するのではなく。そういう意味では、意外に観客主導型映画なのかな。
いわばこれは、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の広域宣伝フィルム、なんだなあ。いやむしろ、ヴェンダース監督のプライベートフィルムと言った方がいいかもしれない。好きなものを撮るということ、ある意味映画の原点とも言えるところに立ち返って、彼はこの映画を撮った。もうそれだけで充分なのかもしれないと。★★☆☆☆
彼女が別れた恋人を追ってほとんど思い込みだけで一人町を飛び出してきたこと、彼を愛したのは、自分を初めて美しいと言ってくれたこと、などの彼女を形作る材料が、(特に男性側から見た)理想像としての少女を描いている感だけを抱かせる。自分の強い意志を貫いて行動しているように見えて、実は彼女は他人(恋人)によってしか存在できていないのであり、いわばそれが男性(ここではヒルディッチに象徴される)にとっての理想の少女像(もっと言ってしまえば女性像)なのである。ヒルディッチが自分が独身だということを明らかに恥じているのは、彼がそうした守るべき女性=家族を持ち得ていないという点にある。フェリシアはこの恋人の子供をお腹に宿している。しかしヒルディッチの説得によってその子供を堕ろしてしまう。ヒルディッチの、過去の母親によるトラウマがそうさせているのだとも言えるが、ヒルディッチにとって少女は少女のままでいなければならないのだ。それはとりもなおさず男性にとって女性が家族になるのと同じようには女性が家族を持つことを許していないことを意味する。男性にとっての女性が家族なのだとしても、女性にとっての男性はただひとりの存在、いわば支配者と奴隷の存在でなければならないのだ。
ヒルディッチが古いテレビの料理番組を見ながら、広く豪華な台所で料理を作っているシーンが折々挿入される。その最初から、画面に映っているのと同じ容器を使っていることに気づいてどこか背筋が寒くなる。見ながら、と言いつつ、彼はその全ての手順を熟知していて、実に手際よく料理を仕上げていく……。そうした画面が繰り返されるうちに、実はそこに映っている魔女的な美しさを持つ女性が彼の母親であり、彼がまさしくこの母親によって奴隷のように扱われていたことが明らかになる。ヒルディッチがこのような歪んだ性質の男に出来上がったのも、まさしくこの過去が根っこにあるわけだが、この母親とヒルディッチの関係を否定的に描いているほどにはヒルディッチのそうした少女たちへのまなざしに対して冷たくない気がするのである。彼は戦慄すべき、そして憎むべき殺人者のはずなのだが、彼の行為は愛を得られない哀しい男の行き着いた行動であり、ラスト、彼に殺されなかった唯一の少女であるフェリシアは彼と彼に殺された女性たちを哀れみ、慈しむような思いで振りかえるのだから……。このフェリシアの役回りは判りすぎるくらい判るのだけど、それに共感は出来かねる。
フェリシアはアイルランド人であり、イギリス軍に従事することになった“裏切り者”である恋人のために、家族からも冷たく突き放される。こうした隣国同士の深い根のある憎みあいは、そうしたものがない日本にとって、語弊があるかもしれないけれどとても興味深い。それはでも国に対する愛情と言う点でそれこそ日本にはないものであり、その部分ではなんだかうらやましい気もする。しかしフェリシアがどこまで自分がアイルランド人であるということに自覚的だったかは疑問だが……。
過去と現在をモザイク状にする構成は巧みではあるけれど、昨今ではやや使い古された感もあってあまりそそられない。しかしヒルディッチ側の過去映像……モノクロの、母親の料理番組と、そのバックステージは虚構と現実をブラックユーモアのスパイスを効かせて描いており非常に面白い。フリフリのワンピースに濃い化粧を施したこのホスト役の女性をつとめる母親は、古い神話やおとぎばなしにおける美しさと残酷さをあわせもち、幼き日の(この頃から太っていた……)ヒルディッチが愛しながらも憎悪の感情を押さえ切れないという、子供にはコントロールしきれないアンビバレンツを抱かせるのに充分なキャラクター。そしてそれが虚構の世界でも一瞬交錯するシーン……アシスタント役を務めるヒルディッチがもたもたしているのに業を煮やして彼の口に生の鳥の肝臓を突っ込むという場面の残酷な可笑しさは秀逸。
ヒルディッチとフェリシアをかき回す、偽善者丸出しなヘンなキリスト教団体が笑える。しかしこれに何の意味を持たせているのかは不可解なところだが……。アトム・エゴヤン監督の作品、今後も観るかどうかは悩むところだなあ……。★★☆☆☆
でもこれは素直に楽しめた。カラーとしてはシネマライズかPARCO SPACE PART3(今のシネクイントではなく)にかかれば良かったかな、というような感じ。主人公の男の子がブサイクめなのがイイ。だってこれが、ディスコでダンスを披露する場面で、観客を惹きつけてノリノリで踊りまくったり、クライマックスのダンスコンテストでまんまトラボルタのカッコでパートナーを高くリフトしちゃったりで、段違いにカッコ良くなってしまうんだもの!
この映画の完全にネラったシンプルさとダサユーモアと偽トラボルタに象徴されるウソッコ加減が、逆に非常に映画としての成熟を感じさせる。ニクラシイほどに計算づくなのだ。だからこそ先述したように主人公のダンスシーンが予想外にカッコ良く際立つし。その一方で実は深刻な現代の問題をも描いていたりして。
主人公、ホックの出来のいい弟は、実は「女になりたい」願望を持つ子だった、という……。その登場場面から、ホックとはずいぶん違ってきゃしゃなかわいらしい男の子だなあ、と思っていたけど(ゲイのネコなのか、性同一性障害なのか判然としないが)。もう一人いるハーレクインかぶれの妹、ムイは、1日ごとにエリザベスだフランチェスカだと名前を変えるおしゃまな女の子で大いに笑わせてくれるのだけど、その同じ場面で「僕はレスリーに名前を変えてもう5年だ」などとこの弟クンがからかうホックに憤るもんだから、彼もまたヘンな外国かぶれのガキなのかと苦笑しかけたら、その監督のワナに大いにはまってしまったということで……ムイが気まぐれにヒロインの名前を名乗ってウットリするのとはワケが違う、彼は大マジだったのだ。「女になりたいんだ」と言い出してようやく気づく。そうだ、レスリーって、男でも女でもいい名前だったんだ……。この弟にとってはレスリーこそが自分、そしてこの弟の告白があって、妹はムイという本来の自分を取り戻すというところもいい。
とまあ、そんな話題も織り混ぜつつ、しかし主人公、ホックにはこの弟ほどの悩みなんてなかった。だからこそ彼がこの「サタデーナイト・フィーバー」(劇中では「フォーエバー・フィーバー」)と出会ってから仕事をクビになったり、この弟の生まれてからずっと悩み続けてきた事実を知ったり、そして何よりダンスに目覚めたことで、彼のかわりばえのしないタイクツな人生が、深くて大きなものになっていくのが非常にダイナミックに感じられるのだ。弟のことも、ダンスのパートナーのことも、そこから派生する恋愛問題も、それに直面するたび、ホックは実に初々しく真剣に悩んでくれちゃうもんだから嬉しくなってしまう。
このホックは、だからこうして見ていくうちに、どんどん好きになってっちゃうんである。演じるエイドリアン・パンなる役者さんは、実はかなりウマい人かもしれない。なんたってダンスの上手さはナミじゃない。そしてカンフーも!もともとホックはブルース・リーかぶれで、部屋中にリーのポスターを貼りまくり、「燃えよドラゴン」の立ち回りをカンペキにマスターしているというフリーク。思えばその、カンフーの力強いと同時にしなやかな動きが、ホックにダンスの資質があるということを示唆していたのかもしれない。最初に人前で披露するディスコでのシーンで、彼が右手の人差し指を高く突き立てて腰をくねらせた場面では、もう思いっきりワクワクしてしまった!
偽トラボルタはこの映画の大きな目玉だ。似てない、似てないと巷では言われてるけど、私は妙に似てると思ったなあ。というか、劇中の映画看板に描かれてる、シンガポール風濃い目の味付けのトラボルタに似てるんだ。ホント、映画の看板の似顔絵って、その土地風の味わいになっちゃうんだよね、面白いことに。それにまあ、トラボルタはもともと濃い目だし。そしてこの偽トラボルタが、まさしく「カイロの紫のバラ」よろしくスクリーンから抜け出してきて(映画ファン究極の夢ですな)、悩めるホックにアドバイスしてくれる。ホックが窮地に立った時、どうしてもトラボルタに会わなければ、と「フォーエバー・フィーバー」を上映している劇場を探し回るあたりも利いている。でも、そのあたりからこの偽トラボルタはホックを静かに見守るだけになる。彼が教えたのはファッションとほんの少しの勇気。そこからどこまで勝ち取るかはホック自身にかかっているのだ。
このファッションをキメるくだりも、良かったなあ。さまざまなハデハデの洋服を試して、行き着いたのは金茶色のシャツとスリムパンツ。気に入っていたヘアスタイル(というか、あれはまんま、リーの髪型だな)も変えて。このカッコで、家族の食卓にガチガチで加わるホックが笑える。妹、ムイには「ズボンがピチピチ」と忍び笑いされ、ディスコで落ち合った友人たちにも最初は失笑されるものの、ステージでの彼の勇姿で彼らもすっかり大興奮!
ホックがダンスをやろうと思ったのは、一方でコンテストで優勝し、賞金5000ドルを勝ち取るためだった。それは、ずっと夢だったバイクを買うこと。最初は単純に小さな頃からの夢としてバイクを買うことに過ぎなかったのが、一緒にダンススクールに通ってくれた幼なじみの女の子、メイの存在の大切さが増してくるうちに、彼女をバイクの後ろに乗せたいと思うようになる。しかし実際に優勝して勝ち取ったお金は、悩むあまりに自殺未遂してしまったレスリーの性転換手術にプレゼント、ホックはメイのもとへと朝早くの街を疾走する。……このあたりから、メイとのキスシーンでのハッピーエンドまで、期待通りの「青春のシアワセ」感ですんなり満足。
ダンススクールの、もんの凄く濃い顔(偽トラボルタの比じゃない!)のインストラクターがちょっとツボだったなあ。実際に彼がきちんと教えてる場面なんか出てきやしないところも妙に好きだ。勝手に踊って勝手についてこさせて、鏡に映る自分にナルシスティックになってて、レッスンの最後には必ずクサい格言(「ダンス上手はロマンス上手」だの)を、しかも毎回違った言葉を(笑)、披露するという……。
ところで、この作品は「Shall we ダンス?」を全米配給したミラマックスによって、全米公開されるそうだけど、ミラマックスは1年に1本、アジア映画を配給するんだそうで。この事実は初めて知ったけど、たった一本!ということに驚いてしまった。事実上、アメリカではアジア映画が拡大公開されるのなんて、この一本だけじゃないのだろうか……やっぱりアメリカは自国映画の国なんだよなー、ヤレヤレ。しかも、この作品で監督デビューしたグレン・ゴーイはさっそく引き抜かれてて、ミラマックスで3本の契約まで成されてるとか。ちょっと早すぎないかしらん。またしても外国の才能をハリウッドカラーに染めてツブしにかかってるんだろうか……
まあ、何にせよ、観ている間中ずっとニコニコ顔になってしまった本作品の魅力はホンモノ。全部シンガポールミュージシャンによるカヴァーだという(!)今聴くと逆に新鮮な70年代ミュージックも買い!★★★★☆
不貞をはたらいているその妻、静子(星遥子)は、冒頭は和服で登場し、そのつややかな色気を最初っから発散してくる。そして涼しげなワンピース姿でバドミントンに興じたりといった、さわやかな色気も発揮する。黒崎がやっとの思いで手に入れたというのも肯ける、美しい妻。彼女が黒崎の編集者、川田(村上淳)と関係を持っているのは、そして英語塾教師のマックとこれ見よがしにベタベタするのは、黒崎に対する愛情の裏返しなのか?それとも……。
まあ、ただの浮気ならば、川田に緊縛させたりしないであろう。黒崎が取材と称してモデルの女の子を引っ張り込み、縛られた女の子は嬉しそうにもだえ、黒崎は興奮気味にその様子を“取材”し執筆するといった場面を何度となく見させられている静子は、ひょっとしたら自分を縛ってくれないことで、この女の子に嫉妬していたのかもしれない。言うまでもなく緊縛はSMプレイであり、SMは束縛すること、束縛されることに対する欲望とその充足である。それはひとつの愛の形にもたとえられる。静子を盲目的に愛している黒崎は、彼女を大切にしたいからこそ縛ったりはしないのだろうが、緊縛が黒崎の嗜好の領域に入っているのではないかと思ってしまう静子にとっては、縛ってくれないのは愛してないからだと考えても仕方がないかもしれない。あるいは、“奥様”として家の仕事をしなくてもよい、自由な生活を与えられている彼女は、束縛に対する欲望がつのっていたのかもしれない。
しかし黒崎は、静子が川田に縛られていると知ると、当然嫉妬に狂うも、逆に非常なる興奮を覚えて筆が進むんである。川田に浮気を止めるどころか、関係を続けさせ、しかも妻の声をテープに録ることまでさせる。確かに黒崎は仕事だけではなく、SM嗜好だったのだ。しかし、静子の誤算は黒崎がSではなく、Mの方だというのを知らずにいたこと。夫婦の愛は、双方離れたところでちゃんと燃え上がりながらも、その炎は交わる事なく終焉を迎えてしまう。
てっきり静子がマックと浮気しているとばかり思っていた黒崎の苦悩に、見透かされているとカン違いして過ちを告白してしまう川田に扮する村上淳が面白い。かなりキッツい関西弁を操る彼は、静子から固く口止めされていたにもかかわらず、黒崎にアッサリと白状してしまうあたりからどうも軽々しい奴。静子のフェラがいかに上手いかを、細部に渡って得々と喋くるあたりは爆笑モノである。しかし彼の協力で、そして妻の愛を犠牲にして黒崎は(多分)傑作を書き上げるのである。芸術は愛を犠牲にするとか、愛よりも芸術の価値は重いとか、ひょっとしたらそんなシリアスなテーマも含んでいるのかもしれない?んなことないかな。
モデルの女の子が黒崎の家まで通ってくる田んぼの中の道には見覚えがある……遠くに体育館が見えて、あれはたしか宮代か白岡の町立(?)体育館へと続く道だ(あ、幸手だったかもしれない)。見渡す限り新緑の水田で、風が吹き渡って、青空が地平線いっぱいにまで見えて、確かに20年前の、まだこんなに世の中が忙しくなかった頃の雰囲気を感じさせる。そうそう、20年前という設定なんだけど、黒崎の家や、川田と静子が乗り込む電車などはまあ問題ないのだけど、たったひとつ、川田が静子と偶然行き会う小さな駅の待合室、確かに古ぼけた感じなのだが、真新しい、いかにも最新型のドリンクの自動販売機が映ってしまっていたのだけがちょっと気になってしまった。★★★☆☆
弟分が同じ獄中で死亡、彼のたった一人の身内である姉は引き取りに来なかった。シャバに出た五郎はその姉を探し当て、彼女が弟を出獄させる金を作るために赤線の女になっていた事を知る。そしてその女にホレているストリップ劇場の小屋主、五郎がボイラーマンとしての職を得たホテルの受付嬢、この地一帯を牛耳っている名振会、その窓際族(?)で彼女に謎の金を送っているワケありの男などが絡んでくる……。
五郎と当然のように惹かれあう、この受付嬢に扮する松原智恵子は、ただキレイなだけのお姉ちゃんのような感じもしないでもないが、しかしやはり抜群に美しい。美しいというのは一種の才能である。しかも彼女の場合、もう絶対脱がないって感じの(今まで脱いだ事あるのかなあ)、非常に清楚な、育ちの良いお嬢さんという感じの美しさ。大きな瞳はそれだけでなにかを言いたげで。こういうお嬢さんには粗野な五郎のような男が良く似合う。五郎を一人待ちぼうけて、やっと現れた彼を見つけると不意に彼の胸に飛び込み、お互いたまらず固く抱き合ってくちづけあうシーンは、まさしく良き時代の恋人同士で、素直に胸が熱くなる。
名振会の若いモンで、彼女を手込めにされたあんちゃんとその彼女、先述の赤線のお姉さんとストリップ劇場主の二組のカップルも泣かせる。二組とも、ヤクザに関わったばっかりに非業の死を研げてしまうのだ。前者カップルは貨物列車の中で心中、後者カップルは名振会の奴等になぶり殺しにされて。どちらの男二人も名振会の、ヤクザの風上にも置けない卑劣なやり方で五郎を狙わせる事によって、苦しんで苦しんで。ヤクザ映画でありながら、ヤクザがどうしようもないものである事を再三にわたって登場人物たちに語らせるのは、やはり元ヤクザの原作者だからだろうか。
その名振会の中でも、ある辛い出来事から、とうの昔にヤクザに見切りをつけながらも、他に行く当てもなくヤクザを続けている佐藤慶がイイ。あー、ようやく佐藤慶の名前と顔が一致したよ。若い頃の彼って、遠藤憲一に似てる気がする!ちょっとアクの強い役どころが似合うあたりも。自分が殺してしまった男の娘である松原智恵子扮する受付嬢に金を送るも、そのことが逆に彼女を追いつめる事になり、五郎に責められる彼が切ない。でもその五郎も、彼が名振会の中で唯一、いやそんなこととは切り離しても価値のある男だと判っている。だから、彼が五郎と対決せざるを得なくなる場面はひどくツラい。
しかも彼はもう最初から死ぬ気であり、「ヤクザなんてもんは、皆死んでしまえばいいんだ」と言ってワザと五郎と刺し違えるのである。このセリフも、原作者の意図が出てる。そして五郎と彼女に早く逃げるように促し、ためらう二人に「俺の死を無駄にするな!」と叫ぶのにはグワーン!と来た。「××の死を無駄にするな」って、そこにはいつでもその台詞を言っている人以外の人物の名前が入ると思っていたのに……。そして五郎と彼女が無事逃げおおせるため、「まだ死なんぞ!」と今や敵となった名振会の追手と対峙する!……もう涙が出てしまう。
しかしそれでも五郎はまだ逃げないのだ。彼女の故郷である伊豆に一緒に帰るフリをしながら、彼女一人を船に乗せる。絶叫する彼女。その彼女を見つめて立ち尽くす彼は、まるで死を覚悟しているかのようなたたずまいでドキッとする。そして五郎は、彼を追ってきた名振会の奴等と死闘を繰り広げる。驚異的な強さで奴等を倒していくも彼自身も相当の痛手を負う。全員を倒し終わった彼がフラフラと顔を上げた時……もしかしたら彼もこのまま死んでしまうのではと思ったその時、彼の目線の先に、彼女の姿が遠くとらえられるのだ。幻なんかじゃない。大きな瞳をさらに大きく開けて、責めるような、慈しむような色をたたえている彼女。その豆粒ほどの姿を画面のこちら側で見つめる彼。その完璧なショットでカットアウト。むっちゃ泣かせる!★★★★☆
ははあ、これ、実話なんだってねえ。いや、全くの実話ではなく、実話をもとにしたフィクション、てやつだけど。実際にはレディ・レベッカのような女性がいたかは不明だし(恋愛した女性は結構いたみたいだけど)、プランケットはもっともっとズルい奴で最後にはマクレーンを裏切って姿をくらましちゃうし、マクレーンは死んじゃうし、ということで……でも映画化にあたって、プランケット&マクレーンのキャラは実際の二人のそれを双方相互、微妙に交錯させた上でプラスαを施していく。まるで子供が特撮ヒーローに憧れるみたいに紳士に憧れている、良く言えばピュアな、ま、言っちゃえば世間知らずでお坊ちゃんなマクレーンと、そんな彼に相棒としての才能と相性を見出し、どんなに彼がヘマをやってもこまめにフォロー、怪我した彼をつきっきりで看病する場面などでは母性愛にも似た感性をも見せる、見かけよりもずっと、そしてマクレーンより実際に“紳士”なプランケット。
そしてこの二人にからんでくるのがレディ・レベッカ……と言いたいところだが、彼女の存在はもうひとつ。確かにマクレーンはレベッカにのぼせあがっているし、紳士強盗に襲われた第一号である彼女もいち早くマクレーンがその強盗だと見抜いてるんだけど、この窮屈な上流社会に押し込められている彼女はほとんど身動きがとれなくて、正直、ラスト二人と一緒に逃げる段になって唐突に加わってきた印象すら残る。でも、リヴ・タイラーは結構イケてるんだけどね。彼女、コスプレが似合うんだよなあ。「オネーギンの恋文」から引き続いての時代物。有名なのは「アルマゲドン」や「クッキー・フォーチュン」といったところで、特に後者ではベリーショートで奔放な現代娘、それもとてもキュートだったんだけど、彼女の射抜くばかりのクールなブルー・アイ、それと対照的な官能的な唇がこういうドレスものに非常に映える。アメリカ女優だけど、イギリスの上流社会の、その中で押さえつけられているじゃじゃ馬にハマってる。
おぼっちゃまなマクレーンを演じるジョニー・リー・ミラーは、「トレインスポッティング」での記憶が私にはほとんどない。彼といえばやっぱりお坊ちゃま的な空気をまとっていた、年上好み(つまりはどこかマザコン気味?)なビジネスマンを演じていた「アフターグロウ」。このぽちゃぽちゃしたしまりのない雰囲気がやっぱりそんな感じなんだよなあ。そしてプランケットは大お気に入りのロバート・カーライル。彼は実際上の人物は勿論、多分脚本上のキャラよりもさらにどこか切ない気分を加味している。やっぱり彼はマクレーンに惚れてたんじゃないのかなあ。はっきりそうは明言してないけど。逃亡する痛快なラスト、レベッカが新しく相棒に加わった時、どこか寂しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。そして二人を先に行かせ、自分は追手を食い止めるために身をさらす。……だから私は彼ここで死んでしまうんじゃないかと思ったんだけど、二人はちゃんとプランケットを助けに引き返してくる。その時の返り血を浴びたプランケットの表情、何とも言えず絶妙なんだよね。あー、やっぱ、ロバート・カーライルはイイ!
ああそうそう、プランケットがゲイじゃないか、と感じたのは、ラスト直前まで三人とともに馬を走らせてるドラァグ・クィーン的なお人(役名忘却)がいるから。プランケットと彼(?)の信頼関係も、なかなかに泣かせるものがあって、「私はここから先は行かないわ。新大陸は私にはあまりに粗野だもの」とニッコリ笑い、それを言われたプランケットが見せる切なさの入り交じった表情がまたしても絶妙なんだもの。「私がここに残ってロンドンの若い男の子達を征服しなきゃ」とかそんなことを言っていたような気がしたが(全然違ったりして)とにかく、彼は押さえつけられて何も出来なかったレベッカと違い、実にしなやかに動きまわり、その窮屈な世界を逆手にとってこれからも生きていくんだろう……なんて思わせる。
しっかし、ほおんと、このマクレーン救出場面は鳥肌が立ったなあ。いやいや、充分に推測はついてたから意外な驚きではなかったんだけど(実話は知らなかったし)。捕まったマクレーンが裁判で死刑を宣告され、処刑場に行き、首に縄をかけられて空高く吊り上げられるまで、タメにタメにタメて描写していくから、絶対プランケットが助けに来てくれると思ったもの。馬に乗って突撃してきて、その一流の射撃の腕で(決闘の場面でも実証済)吊縄をぶっちぎる。なぁんか、これと同じ手法を何か(映画?漫画?)で観たような気もするし。ああ、でもなんにせよ、ロバート・カーライル、カッコイイ!ぷよぷよしたジョニー・リー・ミラーなど彼の足元にも及ばない!
ミュージックビデオ出身で本作が劇場映画デビューであるというジェイク・スコット。その名でピンとくるとおり、父がリドリー、おじがトニーのスコットファミリー。近年“ミュージックビデオ(クリップ)出身”というのは洋の東西を問わずたくさんいるんだから、それだけで「新鮮な感覚を持つ」と評するのは違う気がするけど。
しっかし、画面が暗すぎやしないかなあ、と思っていたら、何でも監督曰く、この時代の状況……照明のなさ……を考えてそうしたんだという。時代劇で隅々までこうこうと明るく照らしわたしているのが彼は我慢ならないんだと。うーん、それはナルホドとも思うけど、はっきり言って、ただ見づらいだけなんですけど。こうしたこだわりも大切だろうけど、それによって映画が、画面がどう見えてくるかに気を配っているとは思えないなあ。ただただ暗いだけ、メリハリもなくて。
その演出は言うほど新鮮でも大胆でもないと思うけど。これだけじゃこの監督の力量はちょっと判らない。★★★☆☆
彼女が死体を業務用の大きな冷凍庫詰めにし、「フリーズするのって、キレイなのね」などとヌカし、死体が増えるごとに一個ずつ冷凍庫は増え、ついにはブレーカーが降りてしまって、暑い夏、電力をすべて冷凍庫にささげた彼女はエアコンもすべて切って冷凍人間と化した彼らと共に楽しげに暮らすんである。彼らの死体と一緒にアイスクリームやらロックアイスやらを入れて、死体に語り掛けながら晩酌する彼女。……これがブラック・ユーモアなどということに気づくのは、映画を観終わってチラシやらHPやらをチェックしてからだった。……確かに状況を考えればそうなのだが、ちっとも笑えなかった。ますます嫌悪感は増すばかりである。何故って、彼女が狂っていくから。私は映画に散々散々出てくる、女が狂っていくというシチュエイションがもうガマンならんのだ。考えなしのバカな行為と、狂気が同時に進行していくのだからもう耐えられない。何故?何故女ばかりが狂わなくちゃならんのだ。しかもこんなスーパーボディの女までもが?
彼女は死体を残して高飛びすることを決意し、それこそ鼻歌まじりで渡航の準備をしている。と、そこに、去っていったはずの恋人(松岡俊介)が現れ、謝罪し、ヨリを戻したいという。彼女は高飛びのことなどスッカリ忘れた風で、はしゃいでシャワーを浴び、セクシーなドレスを着て迎える。……なんてアホな!シャワーを浴びるのにも電気がいるので、冷凍庫の一つは電源が切られた。次第に腐臭を放ち出す死体……。
メイク・ラブのあと、「何か、クサくない?」という恋人の言葉に動転し、狂ったようにシャワーを浴びる彼女。私がクサいんだ、私が!と彼女は根本的な事実をすら直視できていない様子である。と、恋人がついに死体を見つけてしまう。その背後から忍び寄り、目をむいて恋人の頭に鉄槌を振り下ろす彼女!すっかり男を殺す癖がついてしまったんだろうか、大体、三人目の男(竹中直人)を殺す段に至っては、シャワーカーテンをひっかぶせて殴り殺し、「お風呂に入ってくれれば汚れずにすんだのに」などとため息をつくありさまなのだから。
三人のレイプ犯、北村一輝、鶴見辰吾、竹中直人はみなそれぞれにさすがの強烈さ。鶴見辰吾の、最初は妙に腰の低い小心者が、遠慮せずにビールに手を出し、酒に酔うほどに狂暴な本性を現すあたりも面白いのだが、やはり一番スゴいのは、「4Pやろうぜ、4P」などと言いくさり、「酒のつまみ作れよ」と勝手なことばかり言い(しかしそれで作り出す彼女も彼女だが……)、彼女の恋人にレイプのことをバラしてしまう北村一輝である。ああでもでも、またしても、またしてもこんな役柄の北村一輝……。「蝉祭りの島」ではようやく優しげな彼を見ることが出来たのに。もちろん北村氏はそのたぐい希なる演技力で、こうした役を演らせると、本当に吐き気がするほどイヤな男を全身から体現してさすがなのだけど、こうした役ばかり続いてしまうと、なにか妙なマンネリズムを感じてしまうのである。それに、もったいないよ、絶対。まあ彼は石井組は初登板だけれど……。それにしても彼は妙に竹中直人との共演が多い気がするなあ。
最初の男の殺人シーンで見せる、バスタブでの格闘シーン(北村一輝、全裸!)の大迫力は言わずもがなだが、その後に体中についた血を、男の死体をまたいでシャワーで落とす彼女が強烈な印象。物凄い巨乳と物凄い長い足と、くびれたウエスト。とても狂いそうにない強靭なスタイルなのだが……。この行為からもう理解の範疇を超えており、ここですでに彼女は狂ってしまっているのだろう。
しかしそれよりも何よりも気になったのは、そのヒロイン、井上晴美の肌の荒れである。ほんと、あんまりひどいので、これはキャラの設定なのかと思ったぐらい。なんでもクランクイン前に風邪をひいて治らず、それがますます拍車をかけたらしいのだが。密室劇だし、彼女は出ずっぱりで、アップシーンも、それも顔のパーツを大映しの、あるいはあおりの超どアップも多いので、もう最初から最後まで気になってしまった。「はるか、ノスタルジィ」の石田ひかりの時もそれを感じたが、あの時はアップになったほんの数カットだけだったのに対し、本作の彼女はそのほとんどのシーンで目が行ってしまう。
ラスト、恋人を殺した後、どしゃ降りの雨が降っている外を脱力したように眺める彼女、そして次のシーンでは彼女の姿はない。……飛び降りてしまったのだろうか?★★☆☆☆
随分前、もう一年も前に確かあれは「スネーク・アイズ」のビデオを観た時、本作品の予告編が入ってて、劇中で現代のストーリーと同時進行していくSF風砂漠での近未来の映像(本作を見ると、なんでも地球が自転を止めてしまった為、地球の半分が灼熱、半分が厳寒の地になってしまったんだそうな)が意味ありげに使われており、どんな映画なのかさっぱり判らず、なんなんだぁ、これは??とすっかりインプットされていた。「昔っから世の中を動かしてるのはマニアだった。アインシュタインは物理マニアだったし、コペルニクスは天文マニア、マルクスは経済マニア、そして、俺は、フィギュアマニア!」「人間と動物の違いは何だ。……人間はSFを考え出した!」という、今から思えばこの「ブリスター!」の世界観をこの二言でピタリと言い当てている台詞が、余計何なんだ、一体!?の気持ちを増幅させた。この洗脳?の仕方は正解だったかもしれない。その正体を見極めたいという思いがずーっと頭の片隅に残っていたのだもの。ま、でも一番、早く観たい!と思わせたのは、大お気に入りの真田麻垂美ちゃんの名前をキャストに見つけたからなんだけどね。
その麻垂美ちゃんは、主人公のアメコミフィギュアマニア、ユウジ(伊藤英明)のガールフレンド、マミ役。最初判らなかったほど、とても大人びた印象でスクリーンに登場した。撮影時期としては、「きみのためにできること」より前じゃないかと思われるんだけど、その時よりも、なんだかスリムで髪にパーマなんかかかってるせいかなあ。ユウジとシーツをかぶってイチャイチャするシーンなんかもあって、ああ、麻垂美ちゃん、大人になっちゃって……などと涙目になったが、心配するにはおよびませんで、この時点でユウジはまだまだマミの大切さを骨身にしみて判ってないガキで、こんなことしてる間も大切なフィギュアが壊れてないか点検してマミを怒らせてしまう。伝説の激レアフィギュア、「ヘルバンカー」を手に入れるために居候しているマミの部屋の家財道具を売っぱらっちまって彼女を激怒させたりする(そりゃ怒るって)。でもマミはユウジと別れられないんだよなー。ほんとこんな奴つきあう価値もないと思わせるくらいヒドい奴なのに、でもその純粋なフィギュアへの愛故と判ってるから、それに嫉妬しながらも、憎めない。でもね、最後には「お前は限定一体だからな」とユウジはマミの大切さをそんな素敵な言い方で表現するのが泣かせるではないか!
物語の進行とともに、ユウジのフィギュアコレクターとしてのあり方も大きく変わっていく。タイトルにもなっているブリスターとは、フィギュアが入っている透明パッケージの通称。ブリスターを開ける派、開けない派に別れるのだが、ユウジは当初、絶対にブリスターを開けない派。開けてしまうと極端に市場価値も下がるし、それで遊びたい時は、保存用と遊び用、二体買うのがホンモノのマニアだと公言してはばからない。しかしそういう“ただ集めるだけ”“並んでいるのを見てニヤニヤ満足”という構図こそ、マニアが世間からうっとうしがられるイメージなのであり、何のために集めるのか、どうして欲しいと思うのか、それを自分にどう反映させるのかという、いわば人間の成長という普遍的なテーマがそこにあるんである。最終的に、いまや世界にただ一体しかないフィギュア「ヘルバンカー」を手に入れた時、ユウジは躊躇なくブリスターを開け、愛しげにそのボディに触れる。彼の目の前にはそのヘルバンカーを作った、いまや死を迎えるばかりの老人がそんなユウジを見つめている。……作った人間にとって、その作品を額に入れて棚に上げて置かれるより、隅々まで触ってその作品世界を堪能し、心ゆくまで遊んで欲しいと願っているのだと暗に提示しているようだ。
……あッ!それって「トイ・ストーリー2」と全く同じテーマではないか!(しかもこの「ブリスター!」の方が製作されたのは確実に先なハズだ!)しかもしかも、「トイ・ストーリー2」ではオモチャが子供にいつか忘れ去られるということが絶対不可避のこととして描かれていたけれど、本作では違う。オモチャは子供だけのものではなく、大人になろうと、いや年齢など関係なく、それを愛しているのなら未来永劫愛し続けるものなのだと高らかに宣言している。別に子供限定の特別なものでも何でもない、愛情の対象として普通に存在しているものなのだと。それは今の大人が子供っぽいのではなく、むしろ逆。自分の好きなものはいくつになっても自信を持って愛していることを公言できるという、文化的成熟なのだ。その点、まだまだマンガやアニメが子供のものだとするアメリカ(の映画)よりも日本の方がずーっとオトナなんである。フッ、勝ったな!
先述したように、(実はユウジの子孫である)近未来の男達の対決と、現在のストーリーの他、ヘルバンカーの原作世界がこれまたスリリングに挿入されていく。これがまた上手く出来てるんだ!ほんと、モロアメコミ風の絵柄に、やはりソレ風なべったりしたカラー。それがちょっとしたアニメーションさながらに、絵柄やコマを上手く編集してこちらをグイグイ引き込んでゆく。これがまた幻の原作といわれるもので、ユウジはどこかマユツバものの“原作のコピー”を手に入れて狂喜したりする描写も、細かい!
しっかし、なんといってもスバラシかったのは、その不適さがピッタリの山崎裕太が演じるハサモト!だよなあ!ロボット&アニメマニアの彼は、ユウジよりずっと早い時期からマニアとはなんぞや、ということを判っているオトナ。年齢的には明らかに少年なんだけど、ひどくクール!「集めた先には何があるんだよ。考えたことあるのか。作ることだろ。集めて、いろんなものを見て、そして自分の糧にするんだ」と言う彼は、オリジナルフィギュア作りに没頭する。その卓越したデザインセンスと画力に既に圧倒されているのに、「これを可動節102の立体にする」などという腕前を持つ!
しかし彼もまた切ないほどにピュアなんだよなあ……。マミの友達でネイルアーティストの女の子にそのスケッチを誉められ、グループ展に参加しないかと誘われた彼、彼女がこうした世界を理解しているのだと嬉しくなり、彼女をモデルにデザインに取りかかる。しかしそのデザイン画を見た彼女、急に引いてしまって(どうやらアニメオタクなどというものに関してアレルギーがあるらしい)「私達がやってるのはアートなの。一緒にしないで!」と激しく拒絶。ハサモトは奈落の底に突き落とされるんである。「なにがアートだ。スピルバーグもクリストファー・ドイルもアンノもみんな同じ地平でやっているはずだろ!」と吠える。
ほんとだよ!ハッキリ言って、この女の子の“アート”なんて単なる自己満足。ハサモトの口にしたこれらアーティストもハサモトも、自分だけの世界だけで完結するものではないという、プロフェッショナルな意識がまずあり(だからこそ、さまざまなものを見て、それらを超える自分だけの表現とはなにかを考えているのだろう)、それが自分の個性、自己表現を支えているという強固な地盤がある。あんな女の子なんかバッカヤロー!だ!と憤っていたら、ああ、良かった、この映画のラストもラスト、ホントのラストシーンで、このハサモトのデザインがコンテストの大賞に選ばれるというハッピーエンドが!その告知を見て、持っていた紙袋を思わず取り落としてしまうハサモト。ああ、良かったあー!……それにしても一時ほんとに恋してしまうハサモトは愛しかった。恋は人間を成長させるのよねッ!この恋が故にこのデザインは出来上がったわけだし……。
ユウジもまた、マミの存在の重さを思い知ったこと、作り手の思いを思い知ったことで自分の中を表現欲を思い出すこととなる。そして近未来の世界まで受け継がれる、あの職人老人の家系に代々受け継がれた両手8本の指(親指にはその本人が宿るのだという)が、そんな彼をがっちり支えてゆくのだろう!
他にもSF映画を作ることが人生最大の夢、それがゆえ借金を作って消えてしまう中年SFオタクのテラダ(声優の大塚明夫!)や、ジャンルを問わずただ“激レア”なもの(「ジョン・レノンを殺した銃」とか、みんなインチキくさいものばっかり!)をゲットすることに突っ走るハイエナ野郎(櫻田宗久)など、忘れがたいキャラがゾクゾク。ギューギュー詰めの映画の世界に違わず、オフィシャルHPもまた読み切れないほどめっちゃ盛りだくさんなのも嬉しいのだ!!★★★★☆
見えないものに対する恐怖を徹底的に描くという姿勢は、アメリカ映画では珍しいものだが(「シックス・センス」でもその点に着目していたけれど、あの作品では見えないものを見せていた)その見えないものに対する恐怖を描くというのは案外難しく、つまり、闇に何かが潜んでいるという感覚なのだけれど、これをまったきドキュメンタリー手法でやろうとすると、本作のように中の登場人物たちだけが怖がっているように見えてしまうのだ。本作は、この三人の俳優たちを実際に極限状態に追い込み、三人だけで撮影させ、すべてをアドリブでやらせたとのことだから、ある意味本当のドキュメンタリーであり、こっちが怖くなかろうと三人は本当に怖かったんだろうけど。でも、これを恐怖映画として劇場に送り込むにはそれでは困るんである。
俳優たちにナマな演技をさせるため、アドリブをさせるというのは、結構見られる手法だ。最近では「M/OTHER」がその出色の成功例。しかし、かの作品では俳優と監督の関係は密に行われていた。常に物語にどう関わっているか、その中でどう生きているかを考えていたからこそ、そして役者としての力量もあったからこそ、あれだけの濃密な世界を描くことができた。しかし本作はどうだろう?三人は実名で登場しているけれど、そのバックグラウンドは違うものだし、彼らが画面の中で演じている(のではないんだろうが)のは、訳の判らない恐怖、その一点に尽き、その恐怖の感覚を観客に知らせようとはしていないから、こちらにはいまいち伝わらない。
確かにこの“ドキュメンタリー”の中にも、さまざまなアイテムは用意されている。青い粘液、積み上げられた石、枝で作られた呪術的な人形等々、……なんでもそれらは、監督たちが俳優たちに気づかれないようにこっそり置いたものだとか。だからこそ俳優のリアクションはホンモノなんだということなんだが、そんなことは観客は知らないし、まあ、小道具だわな、という印象しか残らない。
途中、監督役であるヘザーが、みんなのお母さんに謝るところ、極限状態に追い込まれた彼女の本気のアクションだったのだろう、確かに。でも、あの場面で鼻水垂らしてビデオに向かって喋っている図、彼女の中に、絶対役者としての計算が働いているはずで、その意図を感じてしまうとなんだか急にこちらの気分が萎えてしまうのだ。確かに迫真の“演技”。でもこれがまったくのドキュメンタリー、もしくは、まったくの劇映画だったら、そのアクションに感慨も持てたのかもしれないけれど、そうした打算がどうしても見えてしまう、こういうグレーゾーンな手法ではどこかでさめてしまうのは否めない。
ラストのぶっちぎりはなかなかよかった。この時はじめて、最後まで見せなかったことや、“ドキュメンタリータッチ”の稚拙な画面が功を奏した感じ。かつて魔女によって儀式めいた殺戮が繰り返されたと思しき廃屋で、いなくなった一人のクルーの声を聞きつけたマイケルが(ヘザーには聞こえないらしい)上へ、下へと狂気じみて走りまわる。それを必死に追いかけるヘザーの前に展開されたのは、こんどはマイケルの首吊り死体。そこでヘザーのこの世のものとも思えない悲鳴が響き、カメラは地に落ち、何も映っていないフィルムがカタンカタンと回りつづける。しかしだ、この場面がイイのは、この場面だけに、ほかの場面にはなかった“演出”があるからに他ならない。そりゃそうでしょ、マイケルはほんとに死んだわけじゃないんだし、声を追って階段を走り回るのだって、この時ばかりは声だけ聞かせてリアクションを期待したのではなく、その動きを指示したとしか思えないもの。ここでは、“ドキュメンタリー”は“劇映画”の手法に勝てなかったのだ。
インディーズの作品、そして森の中での狂気ということで、なにか「鬼畜大宴会」なんぞを思い出してしまうのだけど、かの作品はものすごくきっちり撮っていたんだよなあ。内容は狂気そのものなんだけど、ものすごく緻密に、観客を引きずり込むことを計算した客観的な冷静さがあって、劇映画としての凄みがあった。インディーズだからと稚拙さに逃げないで、画面もキレイだった。キレイだからこそ、狂気が身にしみた。比較するのも変だけど、本作は確かに周囲には用意周到さが感じられるけれど、こと本編に関しては、観客が置き去りにされた感じがあってそこがどうしても好きになれない。
もしこの作品を、配給会社の当初の予定通りミニシアターの、それもレイトかなんかで観ていたら、もっと切実に感じて面白かったんではないかと思われる。やっぱり、作品のカラーによるブッキングって、絶対あると思うもの。まあ、でもそれは自分がこういう作品はこういう劇場で、という体験が染みついているせいで、それ自体が作品を差別することになって、いけないのかもしれないとは思うのだけど。この作品がアメリカでメガ・ヒットを飛ばしちゃったことで、日本でもメジャーでの超拡大公開になってしまったんだけれど、アメリカでのそれが、最初は限定公開から、話題が広がり、拡大公開へと発展していったのとは違って、日本ではもういきなりハリウッド大作映画とおんなじ扱いの公開だから、そうしたミステリアス性も薄められてしまう。こういうタイプの作品を、大勢の人たちといっしょに、巨大な劇場の巨大なスクリーンで観ると、作品の魅力がかえって薄れてしまうと感じるのは私だけなんだろうか。★★☆☆☆
主人公、ジミー・シャノン(クリス・オドネル)がせっぱつまってプロポーズしまくる元彼女の中にさまざまな女性がいて、仕事や学問に熱心に生きる女性もたくさんいるのだけど、そうした女性たちに対してネガティブな視線を向けているのが気になる。“万年学生”だという勉強熱心な女性は、「あなたの考えは家父長制度をいまだに反映している」などといった論で彼を圧倒し、野菜に夢中でレストランで働いている女性も、彼の話などそっちのけで、自分の夢を熱く語る。私にとっては彼女たちはとても魅力的に思えるけれど、ジミーも、そして作り手側の視線も、こうした女たちは“うざい”だけなのだ。
また、オペラ歌手として出てくるマライア・キャリーや、証券取引所でアクティブに仕事をする女性(彼女は婚約者がいたのでバツだったのだけど)などに対してジミーがくじけるのは、どこかこうした女性は自分には手いっぱいだとでもいうような……意地悪な見方をすれば、こうした女性じゃ自分の思い通りにはいかない(もっと言っちゃえば自分の支配下には置けない)と考えているようにすら見えてしまう……いくらなんでもうがちすぎだろうか?
こうした女性たちに対してだけではない。“結婚を夢見る女性”に対しては、クライマックスの1000人の花嫁大暴走で完璧におちょくっている。もちろんそんなことにいちいちめくじらを立てても始まらない、だってこれはコメディ映画なんだから……と思っても、作り手側に女性に対するこうしたガッチリ固まったイメージを感じ取ってしまって、どうしても気楽に笑うことが出来ない。
女がこぞって花嫁のブーケを取りたがり、ブーケを勝ち取った女性とつきあっている男性は、ついにお迎えが来た、とでも言いたいような悲痛な顔で、次なる犠牲者=ウェディングカップルの誕生とあいなるわけである。ああ、もちろんもちろん、これはコメディだと判っている、判っているけど……でもやっぱり面白くないッ!なんつーか……遠い未来のことか、過ぎ去ったあの日々、なんていうのならもっと楽に笑えたかもしれないけど、この年頃の(30前後)登場人物たちが自分にしっかりリンクしてくるから、さらに敏感に反応しちゃうんである。いわば挨拶代わりに結婚のことを話題にされるうっとうしさときたら、結婚する気のない人にとってこの上なくわずらわしいものであり、しかもみなさん、女性はすべからく結婚したいと思っていると考えていらっしゃるらしく……それをこの映画にもものすごーく感じ取っちゃうのである。1000人の花嫁の中にはもう50か、60かと思われる御婦人もいて「これが私のラストチャンスなのよ!」と絶叫する場面まで用意されている……ああまるで、結婚しない(作り手は“結婚できない”と思ってるんだろうけど)女性は生きてる価値などないとでも言いたげではないか。
結婚したいと思っている女性に対してだって、かなり失礼な描写だ。そういう女性たちは、好きな男性と結婚したいのであり、とりあえず結婚できればいいとか、ウェディングドレスが着たいからとか、三食昼寝付きの生活が得られるからと考えているわけではない。莫大な遺産を相続するこの主人公、ジミー・シャノンの花嫁募集広告に1000人もの花嫁が押し寄せるシーンは、まさしく女は結婚できればいいと、しかも金つきの結婚なら申し分ないとパープリンな頭で考えてるのだとでも言いたいような場面。あーもう、判ってます、判ってます。これはコメディで、このシーンのアイディアあってのこの映画であり、確かにこのスペクタクルシーンは壮観ではあるんだけど……うー、もっと昔か、もっと未来に観たらこんなにイライラしなくてすんだかもしれないのに。
“アイディア”と言いつつ、この作品はかのバスター・キートンの大、大傑作「セブン・チャンス」のストーリーとアイディアをそのまんまもらった、いわばリメイクであるんだけど。主人公、ジミー・シャノンの名前もおんなじだし。でもリメイクというのはおこがましいほどに、「セブン・チャンス」のいいところなんてまるで継承してない。まず、「セブン・チャンス」のジミー(バスター・キートン)にはもっと純粋な愛があった。他のプロポーズしまくる女性には特定のキャラクターを設けていないから、こんな不愉快な思いをすることもない。
花嫁の大群衆は、あくまでコメディの記号としてのそれであって、画的な力以上の意味を持たせず、しかもこの大群衆は「セブン・チャンス」の方が数段迫力があるのである。人数だけでなく、彼女らはタフなバスター・キートンに負けないくらいしつこく彼を追い回し、それがバツグンに面白いのだ。本作のジミーに扮するクリス・オドネルに彼ほどのコメディ・センスがあるはずもなく、花嫁の群集はただ追いかけて走るだけで人数の壮観さしか語るべきところもない。オリジナルがあるだけに、比較せざるをえなくなるのだが、本作は全篇にわたってとにかく芸がないんである。もちろん、75年も前の(!)作品をそのまま焼き直しできるはずもなく、現代の問題を盛り込んで、そちらに重点を置いた作品となっているわけだけど、その部分がどこか勘違いしていると言うか、ことごとくカンに触るのだ。
そういえばこの花嫁たちが教会に集まってジミーを見つけ出し、彼の、花嫁に対する条件として「やっぱり金髪でやせた女がいいんでしょ!」と一人の女性が問いただす場面がある。実際、ジミーの本命である彼女、アン(レニー・セルウィガー)はまさしく金髪でやせた女性。ジミーは「そりゃ金髪は好きだけど……」などと口ごもり、女たちはやっぱり男は……てな感じでさざめく。気のせいかもしれないけど、妙に黒髪の女性たちが多いような気がする……もしかして意図的?だとしたらちょっとこれは差別問題だぞぉ。
30歳の誕生日、午後六時までに、という彼の祖父が残した遺言ビデオに基づいてこの騒動は起こされているわけだけど、このビデオ、最後までちゃんと観てないんだよね。祖父の顔が大映しになって「ファッ……!」というところで止められている。私は、このあとになにか重要なことが続けられていて、それが映画の展開を大きく左右するんだとばっかり思ってたのに、結局ただ単純に午後六時リミットでアンと無事結婚の誓いを立てることが出来ただけだった……つまんない。
ちなみに、これ、原題は「プロポーズ」ではなく、「結婚」でもなく、「THE BACHELOR」つまり「独身」。なにかそのへんに、正直な気持ちが表れてるみたいに思えるなあ。★★☆☆☆