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「あ」


2000年鑑賞作品

愛ここにありてHERE ON EARTH
2000年 97分 アメリカ カラー
監督:マーク・ピズナースキー 脚本:マイケル・セイズマン
撮影:マイケル・D・オシーア 音楽:アンドレア・モリコーネ
出演:クリス・クライン/リリー・ソビエスキー/ジョシュ・ハートネット/マイケル・ルーカー/アニー・コーリー/ブルース・グリーンウッド


2000/11/20/月 劇場(スバル座)
2000年版「ある愛の詩」あ?(でも、私「ある愛の詩」は観てないかも)これのどこが“涙と感動のラブ・ストーリー”なのだ。この作品で泣く人がいるんならちょっと教えて欲しい。確かに最後、ヒロインはガンで死んでしまうが、“ヒロインがガンで死ぬ”って設定自体がかなり陳腐だぞお。それにさあ、この主人公であるカップル二人は一体なんなの!某評論家さんがこの共感できない、成長しないキャラがリアリティがあり、そんな彼らだから愛しくなる、なーんてことを書いてたけど、判らんわい!大体、この作品がキネ旬で特集記事になってるっつーのも解せないしさ(その前に特集すべき作品は多々あるだろ!)。

何が共感できないって、この男の子の方の主人公、ケリーが、実に鼻持ちならないエリートで、“貧乏人”をバカにしまくり、自分のせいでダイナー一軒全焼させた(!)のに、裁判で店の建て直し工事に携わることを命じられて不満気な顔をし、実際何度となく投げ出そうとし……一体こいつはなんなんなんだ!それでもこいつに一人間として誠実に対応しようとしているまわりの大人たちが気の毒だわい!どんなにしても、こいつはそれをありがたいなんてカケラも思ってないんだから。しかも、しかもだよ、そうした謙虚な感情を覚える前に、そのダイナーの娘とラブラブになっちまうんだから。自分が全焼させた店の女の子、なのに、その子に対してもその事実に関して悪かったとかいうそぶりをまるで見せない。そんなこと思ってないんじゃないかって気すらしてくる。

しかもしかも、そんなコイツにホレるヒロインのサマンサも判らん!まあ、そりゃ、恋心なんて不可解なものだが、それにしたって、相手は自分の店をメチャクチャにしたヤツであり、しかもその建て増し工事すらしぶしぶやっているのであり、しかもしかもあんたら“貧乏人”を最後までさげすんでる奴なんだぞ!彼女が、最初からどうも彼が気になって仕方ないらしく、後をつけ、彼が答辞を読むはずだった卒業式を覗き見しているのを発見、詩を引用した答辞をつぶやく彼を見てホレたらしいのだが、何だよ、それ!サマンサは詩人になって森で暮らすのが夢だというが(お前は仙人か、小人かなんかか?)男が詩をそらんじたぐらいで参るな、アホ!

その上、コイツが上半身裸になって見事な肉体美を見せたりするとフラフラ近寄ったりして、まったく、あんたちょっと、おかしいよ。それにさあ、あんなに一途にサマンサを大切に思っているジャスパーという男の子がいるのにさあ。しかもその子、さんざんこのケリーにコケにされて、それで男の子らしく憤激して彼と対決してるってのに、そのケリーにサマンサを持ってかれるなんて、あんまりじゃないの!まあ、そりゃ、このジャスパーのキャラはいささか単純に過ぎるのかもしれないけど、この二人があんまりヒドいから、もう共感しまくってしまう。普通の(?)映画だったら、ステロタイプすぎるなあ、と思うかもしれないけど。ひょっとしてその辺がネラい?でも脇役だけにシンパシイ感じさせて、どうするっちゅーの。

いやあ、やっぱり女は愛されてナンボだと思うけどなあ、というのはティーンのこの子達には通用しないのか。ケリーも確かにサマンサにのぼせ上がってはいるけれど、ジャスパーの、もうずーっと長い間の、そして真摯な愛情とは比べもんにならんではないか。ケリーの場合、自分のことしか考えてないもん。自分がこの子と一緒にいたいから、そうでないと自分が傷つくから、強引な手に出て彼女を連れ去ってしまう。ジャスパーは自分よりもサマンサの気持ちの方を考えてて(これぞ、ホレてるってことよ)彼女がいよいよ危ないって時にはライバルに頭を下げる。しかしこの期に及んでも、コイツは自分の身の振り方の方が大切なんだから(あ、でもこの辺は居眠っててよく知らないけど(笑)。だって、あんまりつまんないんだもん。あとでHPで読んだんだわ。)。

サマンサのガン宣告もあまりにも唐突だし、それに立ち向かう彼女の姿も、突然悟りを開いたようになって、オイオイ!と思っちゃうし。まさか、ヒロインが死ぬ、ってだけで泣かせようとしているわけではあるまいが、もうちょっと丁寧に展開して欲しいわ。

リリー・ソビエスキーはね、好きなんだけどね。「アイズ ワイド シャット」より、断然「25年目のキス」の彼女が最高だ(この頃はそのまんま読みの“リーリー・ソビエスキー”の表記だったが……)。「ディープ・インパクト」は、うーん、あんまり好きな映画じゃないし、覚えてない。彼女自身は“シャイでミステリアスな感じのする(ジャスパー役の)ジョシュの方が好み”というから思わず、良かった良かった?彼女の、フランスの血を引いているというのがナットクの、ほんとにフランス少女女優のようなコケティッシュな風貌、そのスラリと長い足(!ほんと、この足にはちょいと参るよ)。うーん、イイわあ。フランス語も話せるっていうんだから、やっぱりここはフランス映画に出てもらわなくちゃね。★☆☆☆☆


逢いたくてヴェニス2 MANNER,2 FRAUEN−4 PROBLEME
1998年 93分 ドイツ カラー
監督:ビビアン・ネーフェ 脚本:ビビアン・ネーフェ/ワルター・ケルガー/バーバラ・ヤーゴ/パメラ・カッツ
撮影:ペーター・ドゥットリング 音楽:ディーター・シュライプ
出演:アグライア・シスコヴィッチ/ハイノ・フェルヒ/ゲデオン・ブルクハート/ヒルデ・ファン・ミーゲン

2000/1/24/月 劇場(シネマ・カリテ)
二組の夫婦がそれぞれとっかえカップルになるというのは「ワン・ナイト・スタンド」であったけれど、あれはそれぞれが双方知らない間に浮気をしていた、という偶然だった。しかも、お互いとっかえになった後も双方ともに上手く続いている。そんなんアリ?とも思ったが、片方のカップルが壊れてしまう本作の方がよりこの先不安である。お互いの配偶者の不倫旅行を追いかけているうちに芽生えた恋なのだが、たった二日間で燃え上がったこの恋、情熱的なラストを飾るも、どうしてもこの二人がそのままいい関係を保ちつづけるとは思えなくって……いや別にこれが結婚しているカップルの話ではなく、単なる恋人同士のとっかえ物語だったらいいんだけどね、そういう情熱も。それってやっぱり考えすぎなのかしらん?

昨今取りざたされているニュー・ニュー・ジャーマン・シネマたるもののラインからずれることなく、本作もまた、若々しく、強引とも思えるほどのエネルギッシュさで展開していくのだけれど、やはりその例にもれず、ハリウッド映画そのままの、きっちりとした、観てる間はそれなりに面白いけれど、観終わったら、自分のお気に入りには追加されないような、平凡さ。そういう意味で、私は現在もてはやされている新生ドイツ映画界が、逆に危機なのではないかと思ってしまうのだけど。

ま、それはともかく、本作である。夫のルイスはカイショのない貧乏画家。プライドばっかり高くって、ホンモノの才能を持っているかどうかさえアヤしい。二人の子供を抱えて家庭を切り盛りしているのは妻のエバ。でも彼女もまたガマンなんかしない方なので、仕事先のカフェでイヤな客にプッツリ切れて、料理を膝にぶちまけ、クビになってしまう。よくこんなこらえ性の無さでウェイトレスなんぞ続いてたもんだ。そしてそのイヤな客というのが、実はルイスの浮気相手である辣腕銀行家、シャルロットの夫で、これまた敏腕弁護士であるニック。ルイス&エバ夫婦とは雲泥の差である超高級な暮らしを送るハイソなお二人だが、ほとんど家庭内別居状態。別にケンカしているわけではなく、お互い忙しすぎるのだ。そしてそのせいで特にご夫人の方の性欲が満たされないのが彼女の浮気の原因。だって彼女、「昨日はセックスの日だったのよ、今からでも出来るわ」と早朝から家の内線電話で夫に言うほど元気元気。一方のニックはというと、少なくともご夫人とのセックスにはあまり興味がないらしい。このニックがどーしても許せないことには、夫人との日本料理店での食事の場面で、寿司のネタを全部はがしてイヤそうにまとめ、しょうゆ小皿にてんもりにしやがるんである。もう、このシーンを見た時には本気でコイツしめころしたろーかと思ったが……。

んで、エバが仕事先をクビになった日、ルイスはシャルロットとヴェニスへ一週間の不倫旅行に出かけてしまう。ひょんなことからその事実を知ったエバ、強引にニックを拉致し、しかも幼い子供を連れて猛然とヴェニスへ突っ走るんである。当然のごとくニックは猛抵抗。お家を見ても判るとおり異常にキレイ好きの彼は、そしていわく子供アレルギーなんだそうで、子供たちに近づかれるとクシャミの連発。お金を払うから、と鼻持ちならない態度にまで出るが、エバは全く頓着せず、彼に車を壊されかけても平然と修理し、トラックのヒッチハイクをして逃げ出そうとする彼を絶妙の演技で「妻と子供たちを捨てた夫」に仕立て上げてふんづかまえて連れ戻す。そうこうしているうちにどしゃ降りの雨に降られるわ、財布や何かと一緒に車は盗まれるわ。

ニックは一体どのあたりから彼女に惹かれるようになったんだろう。その辺がどうも判らない。 空腹に耐えかねて高級レストランで無銭飲食をした時、見事なピアノの腕前を披露する彼女に目を見張った彼だけれど、本当にその時唐突、という感じで、とてもそれ以外で彼女にシンパシイを感じる場面などなかった気がするんだけど。それは彼女の方も同様で、だんだんと子供に慣れてくる彼をへえー、みたいには見つめているけど、それが果たして好意とか、いわんや恋と言うには無理がある。そう、だから彼ら二人の恋心の盛り上がりが感じられないまま、どっちかっていうとデコボコ珍道中、てな趣なんで、野宿で交わす偶然のキスもあんまりドキドキさせてくれない。不法侵入したホテルでも、お互い身の上話をしてしんみりとはするけれど、それがセックスしようという気持ちの高まりと行くまでには??うーん。でも確かに観てるこっちは、やっちゃえ、やっちゃえ!なーんて思ってるんだけどさ(笑)。

子供たちが、この子供嫌いの珍客に何かとまとわりつく無邪気さはカワイイけどね。ことに、子供らしい、無邪気な質問を次々と繰り出してくる長男の方が。この男の子、いつもいつも何だろうって考えてるあたり「あの、夏の日 とんでろじいちゃん」のボケタこと由太みたいでねー。お父さん(ルイス)とお母さん(エバ)にはいつも「あとで」と言われるか、適当な答えでお茶を濁されていたのが、ニックが「(子供だからって適当なこと言わないで)ちゃんと答えてやれ」と言って、本当に、大人に対してでも難しいような正確で精密な答えを出してくれることにすっかり信頼したのであろう。ニックの手をしっかりつないで歩く。カワイイ。女の子の方はね、あのラストの一言のためだけに存在しているような部分があるからさ。少々言葉が遅く、いまだ喋れなかった彼女が(あるいは上手くいっていない両親のためにストレスを抱えていたのかもしれないけど)、ニックとの別れ際に「だいしゅき(字幕では)」とのたまう。なあんとなく、いかにもちょっとほろりとさせましょう、てな感じで、しかもやっぱりこのためだけに彼女のキャラ設定をしたようで、いただけない。

クリーンな無菌室で生活していたようなニックが、雨に降られ、ほこりにまみれてどんどん汚れていくのだけれど、それにしたがって彼の信じていたハイソな信条もどんどん崩れていく。その環境に順応していくことによって、彼の子供アレルギーも治っていくわけで。しかし、ということは、彼の方が一方的にエバのフィールドに近づくことによって距離を縮めているわけで、エバの方から歩み寄ることはない。どっちかというと感情的な部分でも、彼の方がエバに惹かれていっている感じで、エバはもう、断固として変わらない、んである。まあそれが彼女のいいところで別に双方ともに変わる必要もないのかなあ。変わる男と変わらない女。でも、このままじゃ、絶対二人衝突するぞお。だって、シャルロットとの結婚生活が空虚なものであったニックとは違って、ギリギリまでエバはルイスを愛していると言っているわけだし、船から海(河?)に飛び込んで(水アレルギーなのに!)「エバ、君を愛している!」と叫ぶニックの姿に感動して彼女もまた飛び込んじゃった、てな感じなんだもん。

ま、恋愛はお互い同じ分量だけ好きだというのは有り得ないわけで、だからこそヤキモキしたりなんだりが楽しいわけだけどさ。でもさ、この場合一方は子連れで、恋愛じゃなく結婚問題なんだからさ。いやいや別にいいんだけど、いくつになろうと、結婚してようと、恋することは素晴らしいことだと、ま、こういう結論なんだろうし。うーん、こうぐちゃぐちゃ言いたくなるのは、つまりは今一つ惚れきれないというか、そう、それこそしつこいけど、ハリウッドスタイルにきっちりはまり込んじゃってて、展開に見合った破天荒さをその物語以上に感じられなかったからさ。なんか、ワクワクしないんだよなあ。★★☆☆☆


新しい神様
1999年 99分 日本 カラー
監督:土屋豊 脚本:土屋豊
撮影:土屋豊 雨宮処凛 伊藤秀人 音楽:(主題曲)加藤健(REBEL BLUE)
出演:雨宮処凛 伊藤秀人 土屋豊

2000/8/22/火 劇場(ユーロスペース)
右翼パンクバンド、「維新赤誠塾」のボーカルの雨宮処凛と塾長の伊藤秀人を、左翼思想の土屋監督が密着するドキュメンタリー。これは行動のドキュメンタリーというよりは、言葉のドキュメンタリー。自分を説明する言葉を捜すと何度も行き詰まってしまった「「A」」の荒木氏とは対照的に、彼らはあらゆる言葉を尽くして模索していく。もっとぴったりの言葉はないかと。天皇、天皇制、日の丸君が代、民族性、民族派……すがりたいけれど、考えてみればこれほど漠然としたものもないこれらのことを徹底的に考えて。街頭で演説している右翼そのままに、そうした形骸化した言葉をふりまわすこともある伊藤氏が、その一方で非常に自分の言葉で語っているのが印象的である。彼は土屋氏の言葉に耳を傾ける用意もあるし、そのことで自分の言葉もどんどん素直になる。……でも、なぜかライブハウスなど、多くの人に語りかける時、彼はマニュアル化した右翼団体のように、古い言葉に頼ってしまうのだ。彼は組織に依存することから脱却しながらも、完全な“個人”であることを恐れているように見える。

しかしその一方で、最初から自分の存在意義の模索の末右翼になったヒロイン、雨宮処凛は違う。彼女は自分に自信がなくて「自分なんてないもん」と断固として繰り返し、すがるもの、信じられるものが欲しいのだと言い、今自分にとってのそれが天皇なのだという。面白いことに彼女が本作の中で本当に監督に恋することで、その対象が段々と土屋氏にシフトしていく。彼女の言葉も、最初の(北朝鮮旅行の時に顕著だった)ムジャキなものから、次第に的確で、洗練されたものへと成熟していく。生きた言葉を発する生きた人間を恋する=信頼、尊敬すること(もちろん天皇だって生きた人間だけど、もっと漠然とした偶像的存在だし)で変わってゆくのだ。「右翼も左翼もどうでもいいの。そうした小さな中で収まってしまうのが怖い」と彼女は言い、「皆それぞれ違うのに、違うやり方があるのに、どうしてそんなことが判らないの!?」と憤る。そして彼女もまるで恐れるように「でもこれは個人主義っていうのとは違うの」と繰り返すのだが、彼女は、そして伊藤氏も次第に個人の大切さに目覚めていくように思える。

そもそも、私は右翼、左翼というのがリアルに伝わる世代ではない。だから私より年下の雨宮処凛が右翼思想に傾倒し、民族だ、国士だと熱弁を振るうのが非常に不思議なのだが、彼女の使うそれらの言葉は、右翼としての言葉というよりやはり自分を語る時の言葉なのだ。「“学校”とか“社会”という小さな共同体からは村八分にされそうで怖いけど(実際されたし)“民族”って大きく言ってしまえば……(私も入れるし)」そして国のため、天皇陛下のために死んでいったかつての兵士の気概に憧れる。今の日本のためには死ねないと思いつつも、祖国だ民族だと熱く語る矛盾。しかしその矛盾は個人個人が内々に抱えている矛盾そのものであり、個人主義を恐れる彼らもやはり第一義は自分なのだ。

そもそも、“国”って何?ただの国土ではないか。大和民族って?別にアイヌがどうのこうのと言って単一民族主義に批判を加えようというのではない。ただ、地方で生まれ育った人間にとっては最初に地方と中央との関わりの思想があるから、こうした彼らの論には多分に中央集権的なものを感じずにはいられないのだが……。いやいやしかし、雨宮さんだって伊藤さんだって地方出身者なんだけれど。彼らは最初に自分のアイデンティティの中に深く耽溺してしまうところからスタートして、そこから右翼に直結してしまったのでこうした少々の矛盾(とは違う気がするが)には気づかないのだ。

雨宮さんが“政治運動”に感じてゆく歯がゆさ……そりゃそうだ。“政治運動”は決して“政治”ではないんだから、それで世の中は変わらない。じゃあ、どうすればいいのか?いや、そもそも“世の中”って、なんだ?それって変えなきゃいけないことなのか、変えられるものなのか?“世の中”なんてものが本当にあるのだとしたら、それは個人個人の積み重なりによる、意識の大きな波とでもいうようなものだ。それは扇動することで変わるのではなく、個人個人が彼らのように深く内面を見つめて変わっていくものだ。むしろ扇動は、逆効果なのである。彼らが美しいと思うかつての時代は、個人の内面を見つめる必要なんて、なかった。絶対価値を強制的に与えられていたからだ。“強制的に”ということも判らないうちから。個人と全体がイコールのものだった。みな同じ思想で生き、死んでいった。それは美しい一致団結か?否!伊藤氏は「今の自分たちがあるのは過去の先達が作り上げてきたものがあるからだ。それを否定するのは許さない」と喝破するが、そうだろうか。勇気を持って否定したのは、その過去の価値観で生きてきた人たちではなかったのか。戦争が終わり、玉音放送を聞いてその価値観が押し付けられたものだと判ってから、戦争や思想で以降の世代を自分たちのように苦しめたくないと思う彼らが変えてきた結果の現在なのではないか。そして現代の私たちは否定しているのではない、批判しているのだ。別に言葉遊びをしているわけじゃない。否定は、いわば、無視、ないことにすること。それはいわば無責任だ。批判はより良くしていこうという意識のもとに発する、議論を前提とした発言や思想だ。今の日本が平和ボケしていると言うのならば、こうした先達たちの“思いやり”の結果がその一因だということにも目を向けなくてはいけない。それこそ“否定”してはいけない。何故過去の行いが間違っていたか、価値観や思想の是非を充分に後世に伝えることなく、ただただ平和がいいからと邁進してきたことこそを批判する勇気を持たなくてはいけないのだ。過去は決して、美しくなんかない。

雨宮処凛さんは確かにとてもチャーミングな人で、しだいに彼女の物語になっていくのは止めようがないのだけれど、しかしこれを「一人の女の子の自分探しの物語」などと単純に断定するのはどうかとも思うのである。大体、24歳が「女の子」かぁ?まるで「うちの会社の女の子」なーんていう言い方とおんなじではないか!ミニスカ右翼などという言い方も、思わずウマイ!と言ってしまう一方で、なんだかなあ、とも思ってしまう。なにか右翼である彼女をオリの外からパンダを見つめるように興味津々で見ているような視線で。彼女と土屋監督が「ラブラブ」になることで(上映後の質疑応答で彼女自身が発言)彼女は変わって行く。もちろん恋愛の前に、この映画の撮影という事実がこそ、彼女だけではなく、よりかたくなだった伊藤氏をも変えていくわけだけど、でもやはり恋愛の力は否定できない。ラストを監督自身のはにかみながらの「彼女が自分には必要な人」という告白で締めくくることによって、まるで何か、恋愛映画を観た後のような錯覚に陥ってしまいそうになる。それは確かに微笑ましくステキなラストなのだが……。

恋愛の持つ、人をポジティブに変える力は確かに素晴らしいけれど、私はそれが逆に怖い。“愛がすべてで終わってしまうのは違う”と雨宮さんは言っていたけれど、そしてそれは確かにそうなんだけど、恋愛の、言葉の力を急速に無力にしてしまうある種の麻薬のような力が、それまで積み上げてきたものを壊してしまいそうな気がして。そしてその恋愛が終わった時、そのポジティブな力を持続していくことが出来るんだろうか?という恐怖を、以前いたところ以下にまで後退してしまいそうな不安を、なぜ感じてしまうのだろう。それは、探し続けてやっとつかまえたと思った“自分”がなくなってしまうような不安。恋愛の力がプラスなのかマイナスなのか、あるいはそうした上下では計れないベクトルを持つものなのか、私にはいまだに判らない。

監督は雨宮さんにビデオカメラを渡し、自分で自分の言葉を記録するように指示する。彼女は最後には「(ビデオ)カメラがないと生きていけない!」と言うほどにまでになる。しかし彼女はビデオカメラがなくったって生きていけるに決まっている。だって、ビデオカメラは彼女自身だったのだから。彼女はカメラではなく、自分に向かって語ることで言葉が生まれ、“自分なんてない”と思っていた自己を確実に形成していったのだから。これって、こうして映画を観ちゃ感想文をこねくり回し、そのことで映画そのものよりも、自分の内側が見えてくるのが嬉しくて面白くて続けている私と共通している気がする!……でも、正直言って私は言葉を尽くすのは怖い作業なのだけど……いつでも。ぴったりと来る言葉を捜して言葉を連ねていくほどにウソになっていくような気がして。上手い言い方だなあ!などと思う時は、それは単に外面だけの言葉なのではないかと思われて。

今までは多くの人に訴えたいと思いつつも、その一般大衆が敵だという矛盾した意識を抱えていた(ほんとに矛盾だらけだ)彼らが、ライブハウスで初めて客との一体感を得て、感動する。興奮気味に夜の町を足早に歩きながら喋る二人は、借り物の言葉と虚飾の歴史に振り回されていた、画一化したかつての姿ではない。そのライブで言おうかどうしようか迷っていた「天皇陛下、万歳!」を叫んだ雨宮さんが、上映後のトークショーで「今は絶対に言わない。天皇制を支持しているような顔をしている人たちが、その実批判を口にして悦に入っているのがイヤになったし、今、信じられるのは天皇ではなく、自分だから」とキッパリと、さわやかに言い放ったのが印象的だった。★★★★★


アデュー、ぼくたちの入江MARIE,BAIE DES ANGES
1997年 90分 フランス カラー
監督:マニュエル・プラダル 脚本:マニュエル・プラダル
撮影:クリストフ・ポロック 音楽:カルロ・クリベッリ
出演:フレデリック・マルグラ/ヴァヒナ・ジョカンテ/ニコラス・ヴェルベール/アミラ・カサール

2000/4/2/日 劇場(シネマスクエアとうきゅう)
フランス映画の伝統的お家芸である多感な少年、少女期のいらだち、無軌道さを描いていく作品は、でもこれもまた古典的なものになったのか、最近あまり見なかったような気がする。「禁じられた遊び」や「大人は判ってくれない」に通じるようなカラーを感じながらも、なんだろうなあ、これは……などと首を傾げてしまう。(ちょっと古い例になるけれど)先の二つの作品には明らかに抑圧された子供時代の、その矛先は社会だったり大人だったりというのがあった。彼ら自身がそれをはっきりと意識しているわけではなく理由のないいらだちのように思っていたとしても、そうしたバックグラウンドがあったからこそ、彼らの無力さが切なく痛ましく胸に響いたのだ。しかしこの作品には、それがない。全くある意味純粋に彼らの抱える理由のないいらだちを描いていくのだが、よって、彼らの行動は何ら共感できるものになっていかないのだ。共感できなくても、理解あるいは納得できればまだいいけれど、それも出来ない。

主人公である少年オルソと少女マリーは、フランス、コートダジュールにある“天使の入江”のある小さな港町に住んでいる。アメリカの水兵たちが常駐し、マリーは彼らとともにたわむれる。劇中のセリフによれば彼女はまだ14歳。確かに顔も体つきもまだまだ幼い。水兵たちを挑発しながらも、キスされることさえ恐れる彼女。一方のオルソは(観ている時にはちっとも判らなかったけれど、チラシの解説によると)この地に流れ着いた孤独なジプシーの少年であり、地元の少年たちとしょっちゅういさかいを起こしている。彼と彼女は目の端に、お互いの存在を常に感じていて、しかしすれ違っていく。そしてだんだんと距離を縮めていき、手を取り、無邪気な恋愛を謳歌するのだが……。

鮫のひれの形に見える三角形の二つの大きな岩を見に、多くの観光客が押し寄せているこの入江、その真夏の数日間がまるで永遠に続いていくかのような感覚をおこす。真夏の空気は他の季節のように日常を感じさせるそれではなく、どこか異次元的な時間に支配されているからだ。薄いワンピース姿で舞い踊るマリーの姿はその非現実的な空気に良く似合う。あるいはここが入江だから、とても解放されているように見えてどこにも行けない海の行き止まり、閉ざされた場所だから、そこでぐるぐると回るこの物語がそうした永遠性を感じさせるのかもしれない。

アメリカから来ている水兵は、外の世界を象徴する憧憬と嫉妬の的だ。マリーが彼らにまとわりつくのも、逆に少年たちが彼らを疎ましがるのも、その感情からなのだろう。しかし、一人、オルソだけはこの水兵たちに何らの興味を持たない。今から思えば彼は外から来たジプシーの少年なのだからそれもまた当然なのだ。そしてマリーが彼に吸い寄せられるように近づいていったのも、水兵たちとは違う、自らの力で外に出ていけるこの少年の内在する力に無意識に惹かれたのかもしれない。そしてオルソは、逆にマリーの中に落ち着ける場所を探していたのかもしれず……。ああそうだ、そう考えれば納得が行く。実は、彼ら二人がなぜ銃を手に入れ、強盗を働いたりしたのかが判らず、理由のない無軌道さですますにはちょっとあんまりだと思ったのだけど、彼らが金さえあれば二人でなら生きていけると思って起こした行動なのなら何となく判る。しかし二人が襲った先の主人によってマリーは撃たれ、そのはかない命を散らしてしまう。

……などとまあ、もっともらしい理屈を何とかひねり出しても、ただ単純に「あー、つまんなかった」という感想を変えることは出来ないのだけど。正直、こんなガキの時から、無邪気さを失ってアンニュイにかまえ、恋愛ベタベタなあたりがいかにもフランスやなーなどと思い、やっぱり私にはついてけんわ、と嘆息してしまうのだった。★☆☆☆☆


ANA+OTTO アナとオットーLOS AMANTES DEL CIRCULO POLAR
1998年 112分 スペイン カラー
監督:フリオ・メデム 脚本:フリオ・メデム
撮影: 音楽:
出演:ナイワ・ニムリ/フェレ・マルティネス

2000/2/3/木 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
運命の二人の物語は、回文の名前、再会する北欧の地、義姉弟、取り交わされる秘密のメモなど、まるで、萩尾望都の作品のよう。多分に寓話的、少女趣味的であるのだが、青みがかった冷たい空気の感覚がなんと言っても魅力的で、酔わされてしまう。スペインの場面からすでにそうで、これがスペイン映画だと言うのがちょっと信じられないほど、もう最初から北欧の映画ではないかと思われるほどなのだ。

彼ら二人は、まわりからも、そして自らも家族という足かせにがんじがらめにされている。幼い日、彼ら二人は全く偶然に、家族がどうのということを関係なしに出会うのだけれど、アナはまずそこに父を見、オットーは後々アナに母を見るようになる。子供である彼らにとってその時点で最愛の人。しかし、後に恋人になる二人にとってその面影を重ねたのは不幸と言うしかない。恋人は父や母を超えるべき存在ではなく(と言うより、超えられないだろう)、それとは全く異質である存在、異質だからこそ愛する存在なのだと認識するのに、余計に時間がかかってしまうからだ。そして二人がようやくそのことに気づいた時、そこから先の二人の時間は一瞬なのだ……永遠の一瞬とも言えるけれども。

と、私はラスト、オットー側の描写を取ったのだけれど……そう、この物語はいわゆる三人称を取らない。同じエピソードがアナ、オットーそれぞれの目から錯綜して語られるのである。その出逢い、同居、初めてのキス、そしてセックス。はじめ、オットーに対して直感的に死んだ父親を重ねていたアナが、意識的にオットーを恋人として好きになろうと自分からキスしたりセックスに誘ったりするのに対して、オットーの方は、全く逆、リードされていくうちに、恋の気持ちから、アナに母親を重ねていくようになるのが皮肉である。誘われるままにアナの部屋に窓から忍び込み、一糸まとわぬ姿でベッドに横たわるアナに恐れをなしていったん逃げ出し、彼女に背を向けてマスターベーションで処理してしまおうとするオットー。彼にとってセックスはまだ、夢想の中にしかないのだ。それをアナが、彼女だって初めてだったろうに、笑顔でベッドに引き込むのである。二人は途中からまるで「君の名は」のようにすれ違い、ラストの約束の地、フィンランドで再会できるか否かが焦点となっていくのだが、二人の気持ちがようやくリンクすることになるそのラストで待っていたものはというと……。

甘美な蜜月をおくっていたアナとオットーが別離を迎える事件が、オットーの実母の死である。アナの最愛の父親が、オットーと出会うその時に死んでしまっていることで、彼女はオットーによってその悲しみを乗り越えているのだが、オットーにとっての母親はアナとの関係があったからこそより複雑な存在と化している。両親の離婚によっていったんは母親と暮らしていたオットーが、アナと一緒にいたいがためにアナの母親と再婚した父親との同居を決めるのだが、彼の心にはそれが母を裏切ったこととしてずっと引っかかっている。その上、彼が発見した母親の死は、たった一人寂しく、オットーが訪れるまで誰にも見つけられず、テーブルの上に置かれた食べ物に集まってきたハエが母親の死骸にまでたかっているというすさまじいもので、この美しい母親に対して、両親の離婚後は特に恋人のようであった彼を打ちのめすには充分すぎる事件だったのだ。

思えばオットーがアナに母親を見ていたのは、実際の彼の母親を重ねていたのではなかったのだろう。父親に捨てられたかわいそうな母親に、僕はずっと愛している、絶対離れないと言った時から、“恋人のよう”ではなく、実際に恋人の感覚であったであろうオットーにとって、その時から母親は存在しなくなってしまった。だからこそ、アナに母親を求めたのだ。表面意識下では、アナを恋人と思っていることが、彼によりいっそうの意識の複雑化を招いてしまった。母が死に、だびにふされるとき、その混乱した意識が頂点に達したかのように彼は狂乱して号泣する。父親はそんな彼を抱きしめるが、彼の本当の心など判ろう筈もない。そしてオットーは家を出ていってしまう。

アナのかわりを求めるかのようにひっきりなしに女を変えるオットーと、父親のように年の離れた、小学校時代の教師と同棲するアナ。そしてオットーは、スペイン=フィンランド間の航空郵便のパイロットになる。オットーの名前の由来は、彼の祖父が出会ったという、ドイツ飛行兵。そしてアナはフィンランドへ向かい、そこで出会ったかつてドイツ兵だったというオットーという名の老人に会い、彼がまさしくそのオットーなのだと確信するのである。そして、オットーに手紙を書き送る。「待ちに待った偶然よ。勇気を出して窓から入って」と。

果たして、この老人、本当にそのオットーだったのかどうかは疑問の残るところなのだが……。アナは意識的なのか、それとも自分の確信さえあればいいと思っているのか、この老人に決定的な質問をしていないのだ。そしてオットーはまさしくその飛行兵のように、墜落する飛行機からパラシュートで脱出し、アナの住むすぐ近くの森に引っかかる。さて、ここからが問題で、アナは飛行機が墜落したと聞いて新聞を見に急いで街に出かけ、それをオットーも追うわけなのだが、アナ側の描写と、オットー側の描写が、これまで以上に、決定的に違うのだ。アナは売店の新聞を引っつかみ、かの老人オットーの元に駆けていく。「なんて書いているの、訳して!」取り乱す彼女をなだめてその老人オットーは、本物の彼、オットーが来ていることを告げ、二人は喜びの抱擁を果たす……やれやれ、ようやくハッピーエンドだと思いかけた観客の前に、こんどはオットー側の視点が動き出す。売店の新聞を取るアナを見つけ、すわ駆け出そうとしたオットーの目の前で、アナは車に引かれてしまう。舞い上がる新聞と、道路を滑って行くアナ。急いで駆けつけ、もう瞳孔開きっぱなしといった感じのアナの目を覗き込むオットー。その瞳にはオットーの姿がクリアーに映し出されていて……そして本編はこちらの方を大トリにカットアウトされるのだ。

冒頭で、舞い上がる新聞(オットー側)、階段を駆け上がるアナの足(アナ側)の描写がすでに提示されていて、それはどちらの視点が本当などと言うのではなく、どちらも真実なのだということなのかもしれないが……ああ、でも、やはり現実はひとつのはず。どうして、どうしてオットーの視点の方を真実だと感じてしまうのだろう。……オットーを待ちに待ちつづけたアナの夢見つづけた光景が、こうして現実になるわけがないと、どうしてか思ってしまう。……そうだ、現実を乗り越えたのはアナではなかったのだ。彼女は父親の死を乗り越えたのではなく、その時にオットーが現れたことによって、現実問題をすりかえてしまったのだ。その時からこの最後の瞬間まで自分で構築した夢の時間が続いていた。思えば老人オットーをあのドイツ兵だと信じ込んだのだってそうだ。でもオットーは、オットーの方こそ現実に素直に向き合い、振り回され、そして本当に現実を乗り越えたのだ。彼が見ているものは、いつでも本当のこと。だから、彼の見た悲劇のラストが本当だと確信してしまうのだ。でもそれは、この上なく美しい結末なのだけど……。★★★☆☆


あの子を探して一個不能少/NOT ONE LESS
1999年 106分 中国 カラー
監督:チャン・イーモウ 脚本:シー・シアンション
撮影:ホウ・ヨン 音楽:サン・パオ
出演:ウェイ・ミンジ/チャン・ホエクー/チャン・ジェンダ/カオ・エンマン/フー・シンミン/ワン・シュウラン/バイ・メイ

2000/8/11/金 劇場(Bunkamura ル・シネマ)
自分たちの生活や価値観や、すべてをもっともらしく言葉で説明したがることや、優しさの意味を簡単に考えてしまうことや、……その他いろんないろんなことが恥ずかしくなってきて仕方がなかった。実際こうやっていつものように感想を書くのだって、恥ずかしい。この映画のこの子供たちの、言葉でなんて言いようのない本物の前では全てがニセモノになってしまいそうで。

中国の砂ぼこりの舞いあがる広大な土地に、ぼつんと置かれた小さな小学校、そこに代用教員としてやってくる、生徒たちとさして変わらないような13歳の女の子、ウェイ。お母さんが危篤のため、心配ながらも彼女に後を託すカオ先生はもう半年も給料が据え置かれている。ウェイは自分のお給料がもらえるのか不安になって必死に村長に談判する……この冒頭の描写から、自分たちの安穏とした生活と彼らの本当の厳しさに身が縮こまる思いである。ドキュメント風でありながら、描写はいつでもユーモアにあふれているのだけれど。ボランティア精神の本当の意味とか、お金の本当のありがたさとか、自然は優しくなんかないんだとか、そういう言葉に出してしまうといささか陳腐にも思えることがひしひしとリアルに迫ってくる。

わんぱく盛りの子供たちは、大体平均3〜4年生といったところだろうか。教室で暴れまくり、騒ぎまくり、ウェイの手に負えるわけもない。彼女にとって大事なのは「一人も生徒を減らさないこと」そうすれば、カオ先生がご褒美のお金をくれるはずなのだ。しかしそれはまもなくアッサリ果たされなくなってしまう。足の早い女の子が見込まれて都会の学校に引き抜かれることになったからだ。ウェイは必死に彼女を隠すのだが、あえなく見つかって彼女は笑顔で転校してしまう。……この「一人も生徒を減らさない」という意識がウェイを支えており、それは最初、あからさまにお金のためだったわけだけど、いや、最後までお金のためというのはあったと思うのだけど(その辺がしたたかなリアルさなのだ……まるでいやな気がしないあたりが凄い)、でもたった11歳で都会に出稼ぎに行ったチャンを救い出そうと思った時、そしてそのチャンが都会の喧騒の中で行方不明になったと知った時、彼女の意識は確実に変わって行く。ただそれも、教師としての意識に目覚めたとか、子供がこんな都会に出稼ぎに出なくてはならないことに対する憤りとか、そうしたいかにもな理由など、まるでまとってないのがいいのだ。彼女の意識はもっともっとシンプルで、チャンが心配という気持ちもずっと後になってふっと気がつくぐらいで、チャンを探し出したい、それ一点に尽きるのだ。

そう、感情ってずっともっとシンプルなものなのだ。よく映画などのモノローグにあるように、言葉で明確に感じたりしない。感情、気持ちは本来説明の出来ないもののはずだ。だからこそ熱いしピュアなのだ。何を考えていたのかとか、どういう気持ちだったのかとか、あるいは恋愛問題で誰が好きとか嫌いとか、そうしたことをハッキリさせたがるようになった人間の歴史が、感情に言葉を求め、その結果ウソを生み出すようになった気がする。だから言葉の無力さをも感じるのだ。言葉は都会の貧しさの象徴かもしれない。そして感情の豊かさが、この映画の子供たちの象徴で。そう、感情を表現するための言葉が、いつしかそれ自体の力に頼るようになって、自らの知識や知的さを誇示する道具になりさがってしまったような気がして……。ああ、それで言ったら私だってそうだ。わかってもいないくせにこうやって言葉をこねくり回したがって。

彼女も子供たちもチャンを探しに行くバス代さえ捻出できないほどお金がない。それは子供だからと言うのではなくて、彼らの家庭が貧しいから。「都会まで行くバス代を稼ぐには何日どれくらいレンガを運べばいいか?」が、にわかに算数の授業に早変わりするところはやたらと説得力がある。それまでウェイはカオ先生に言われたとおり、黒板に書いたものを生徒に写させれば事足りていたはずだからだ。わずかに知っている歌や踊りを教えようとしても ぎこちなかったし。この“算数の授業”を垣間見た村長さんが「やるじゃないか」と満足そうに帰っていく。子供たちは自分たちの計算にしたがってかなりムリヤリ、というか勝手に仕事をし、バス代を捻出しようとするのだが、それは「一度も飲んだことがない」コーラをみんなで回し飲みするのが精一杯の額。これらの描写はユーモラスなのだが、必死さが生み出すユーモラスさだから、心に刻み込まれて忘れられない。それはこの作品全体のテーマでもある。

結局バスにただ乗りしようということになって、生徒たちは一致団結してウェイをバスに乗せるのだが、途中バレて彼女は降ろされてしまう。せっかく頑張ってくれた生徒たちのもとにすごすごと帰れないと思ったのか、あるいは彼女のガンコな気持ちがそうさせたのか、ウェイは遠い都会に向かって歩き出す。途中なんとかヒッチハイクに成功し、着いた都会は目も回るような喧燥。足早に歩く人々は皆こぎれいな格好をし、ほこりっぽい服装と真っ赤なほっぺのウェイは一目で田舎から出てきたと判るのだが、でもここでも、見慣れているはずの都会の描写に、まさしくこうした喧騒の中の一人である自分が恥ずかしくなってくるのである。なけなしのお金を手書きの尋ね人チラシを書くためにはたいてしまうウェイに、テレビならば効果てきめんと教えられて丸2日局の前で「眼鏡をかけた局長」を訪ねまわるウェイに、本当にたまらなくなってしまう。彼女のそうした姿が都会の人々の心を打つのは当然で、ついにはテレビに出てチャンに訴え、チャンを探し出すどころかチャンや村に対する膨大な寄付金までをも生み出してしまう。しかしそうした都会特有の単純な、言ってしまえば自己満足な親切心が、なんだかもう、ただただ恥ずかしいのだ……それはそれこそ、『電波少年』に出てくる“都会の親切な人々”といったおもむきで、あぁ、なんか、シニカルな“箱男”の言ってたことも判るなあ、なぞと思ってしまうのである。彼は田舎の人たちの親切心には心うたれてたみたいだし。

テレビカメラが同伴しての、仰々しいウェイとチャンの帰郷。“心ある人”からの贈り物である、トラックいっぱいの文房具。そうした“都会の親切”と、それが田舎の大人を舞い上がらせている様は、いささか滑稽ですらある。子供たちは、今まで白しかなかった、それもちびたものを指につけてまで使っていたチョークが、色とりどりにあるのに喜び、ウェイ先生が好きな色で一人一字書いていい、と言うのに答えて、黒板いっぱいに思い思いの色で、丁寧に書いていく。この時、表意文字を持つ中国、そしてそれが判る日本の私たちは、ああ、なんて幸せなんだろう、と嬉しくなってしまう。そしてじつに丁寧に大切にチョークを使う子供たちに。このエンディングは、希に見る名ラストシーンだ。

都会に生きている私たちも、それなりに必死で生きていると思っていたけれど、いや、都会だからこその大変さがあるなどと思っていたけれど、そんな考えがいとも簡単に崩壊してしまう。この、本当の生きる必死さの前では、そんな“必死さ”“大変さ”は妙なプライドを伴ったものなのだと思い知らされてしまう。しかも彼らの必死さには、私たちにある自己愛的なシリアスや悲愴がないのだ。大変だからこそ、楽しく、面白く、素晴らしい。人生がポジティブなのだ。

正直こうやって言葉を尽くすのは、この作品において意味がない。脚本ばかりを大事にする昨今のハリウッド的な映画を一掃するパワー、映画がもつ映像の力を、そこに登場する人物の力を最大限に信頼したという点が、最も素晴らしい。★★★★☆


あばよダチ公
1974年 93分 日本 カラー
監督:沢田幸弘 脚本:神波史男
撮影:山崎善弘 音楽:月見里太一
出演:松田優作 河原崎健三 大門正明 加藤小夜子 佐藤蛾次郎

2000/4/25/火 劇場(新宿昭和館)
昭和館にはめずらしい、70年代、現代モノニューアクションの三作品のプログラム。しかも松田優作がかかってるのなんて、私ほんとに初めて観たですわ。男四人と女一人の、若者の無軌道さを描いた作品だけど、その中でキャラが立っているのは松田氏と佐藤蛾次郎くらいなもんで。ま、紅一点加藤小夜子はセクシーなナイスバディを惜しげもなくさらし(すんなりと長くキレイなおみ足と、デカくて形のいい胸!)、松田優作と再三からんじゃって、かなり見せてくれましたけど。

冒頭、松田優作扮するもっさん(と呼ばれてたと思うが)が刑務所から出所してくるところから始まる。強盗と殺人未遂の罪らしいが、後から考えてみると彼が出所したてというのはこの物語にほとんど反映されてない。別にそんな設定を作らんでもいいんだろうに、「主人公が冒頭出所してくる」というのってほんとよくあるパターンなのだよなあ。まあとにかく、そんなわけで仲間たちと久しぶりに会った彼は多分以前とあいも変わらないバカをやって暴れまくる。20万円の領収書を切られるバーで、再三書き直しを要求し、その度に紙代5千円を上乗せさせられるシーンは笑える。

部屋に戻った三人を訪ねてきたのが、そのうちの一人の幼なじみであるというシンコ。故郷の町がダムに沈むこととなり、ギリギリまでゴネて保証金を釣り上げようという作戦を相談しにきたのだ。もうこの登場から超ミニスカートで挑発しまくる彼女、映画全編中タマりまくって、女を見ると「ハマグリ、ハマグリぃ〜」とむしゃぶりつく(オイオイ!)佐藤蛾次郎は、この彼女のチラリズムでもうすでにヤバい!?「そんなことしたら、あんたも狂っちまうかも知れんぜ」と彼女に言うもっさんに「狂えるものなら狂ってみたいわ」と挑発的な視線を放ちながら軽く節をつけて言うシンコに、もはや彼は腰が引けている。かくして明日に備えて雑魚寝とあいなる五人は、しかし男性陣四人がまともに眠れるはずもなく……というわけで、シンコともっさんが結婚する事で秩序を守る事になり、さっそくダムの出来る町へ出発!

ダム予定地の、ほったて小屋の中で立てこもる間は、もうとにかくもんもんとした描写が笑えるんである。ま、もんもんとしてるのは、もっさん&シンコをのぞく男性三人だけだが。その中でも特に佐藤蛾次郎は欲求不満で今にも死にそうである。季節は真夏らしく、汗だくで絡みあうもっさんとシンコを、これまた汗だくで聞き耳を立てる男性三人の、湯気の立つような毎晩。ダッチワイフの取り合いになるシーンは爆笑!(しかもなんでここにダッチワイフが……こうなる事を見越して誰かが持ってきたのか!?)この友人三人に申しわけなくなったもっさんが、シンコに彼らと寝てやってくれるように頼むのだが、理の当然で彼女はヒステリックに怒り出す。彼女の怒りにもっさんはかなり再三にわたってぶん殴るのだけど、それにちっともひるまないでしまいには猟銃をぶっ放してしまう彼女が最高!かくして、三人は娼婦をムリヤリ強奪してくるという策に出る。一番マズいのにあたったヤツは、女の顔に布をかぶせて欲求を満たすという(笑)。もっさんも、むくれてるシンコの服をそっと脱がし、コトに及ぶ。この全員のこんなシーンを真上からつぶさに撮るとはなんちゅー悪趣味……。

食料も尽きてきて、いよいよ事態は窮してくる。ヤギをかっぱらったりしても、長くは続かず、そうこうしているうちに佐藤蛾次郎が先の娼婦のワナに引っかかって、ダム建設をになっている暴力団組織に拉致されてしまう。彼を取り戻すために立てこもりを解散せざるを得なくなってしまって……シンコを残してこの町から立ち去ろうとする彼らだが、どうせなら一発打ち上げよう!と現金強奪を決意、組事務所に乗り込んで金庫を奪うのに成功しかけるも、警察に囲み込まれて、一転人質を取ったたてこもり事件と方向転換。なんつー計画性の無さ……。一夜が明け、建物に発煙筒や破壊用石?をぶち込まれるに至って、彼ら、「食っちまえばこっちのもんだ!」と金を次々に食い出す!?うー、見てるだけで喉がつまりそうだ……しかも佐藤蛾次郎は、500円札食ってるしさ(当然松田優作に「万札を食えよ!」と突っ込まれるわけだが)。クレーンで釣り下げられた破壊用石にぶら下がって無謀な逃亡を試み、しかもそれが成功してしまう(無理があるなあ……)。これからどうする、と問うメンバーの一人にもっさんは腹を叩いて「これだけ金があるんだから、それを使ってから考えようぜ」って、おいおい、どうやって出すつもりなんだよ!硬貨ならそれこそ下から出るのを待ちゃいいけど、紙幣なんて消化されちゃうんじゃないの!?それとも吐き出すつもりでいるわけ?うーむ……。

セックス&バイオレンス&金という、青春の渇望三大アイテムの下、鬱屈のたまる真夏に展開する、しかも紅一点というのがキャストというよりは男性三人に対する設定的なあたりも、典型的な無軌道青春ものですなあ。★★★☆☆


雨あがる
2000年 91分 日本 カラー
監督:小泉堯史 脚本:黒澤明
撮影:上田正浩 音楽:佐藤勝
出演:寺尾聰 宮崎美子 三船史郎 吉岡秀隆 井川比佐志 仲代達矢 原田美枝子 松村達雄 壇ふみ 加藤隆之 山口馬木也 若松俊秀 隆大介 森塚敏 長沢政義 下川辰平 奥村公延 大寶智子 鈴木美恵 保沢道子 頭師孝雄

2000/2/2/水 劇場(みゆき座)
黒澤監督の往年の代表作の数々を観る前に、晩年の作品の方を先にオンタイムで観ている私にとって、黒澤監督は優しくてあったかい作品を撮る監督、という印象が強い。遺作である「まあだだよ」がとてもとても好きで、でも当時、あるいは今でもあの作品の評価が芳しくないのが不思議だった。でも、文句なく面白い、ワクワクする痛快作を数多く残している監督であり、その作品群を先に観ている人たちにとってはなるほど、そう思うのも無理ないかなあ、と考えるようになったのは、私がそうした作品たちをようやっと観るようになってから。でもだから、私は幸せだったなあ、と思うのだ。本作を観た時、あの時のあったかい気持ちがよみがえってきた。

本作は、黒澤監督の脚本における遺作のうちのひとつで、監督にとって久々の時代劇。でも「時代劇」=大作という今や悪しき常識になってしまった先入観を軽やかに裏切ってくれる。主人公の浪人、三沢伊兵衛は武芸の達人だが、彼はその腕を見せびらかしたりしない。それどころか、それをまるで恥じているかのごとくいつも恐縮至極で、妻たよや、宿泊先の貧しい人々に対してさえ、敬語を使う。この人物を演じる寺尾聰のなんというハマリぶり!心優しくて、不器用で、いつもニコニコしている。でもひとたび刀をとると、その立ち居振舞いは目の覚めるほどの鋭敏さ。ああ、いいなあ、まるで三沢伊兵衛を、いや、黒澤監督の思い描く理想の人物をやるために生まれてきたみたいだ、と私は惚れ惚れと見やってしまった。その妻、たよに扮する宮崎美子もとてもいい。でしゃばらず、しっかりもので、夫を心から心配し、信頼し、愛している。私はこういった、男性側から見た理想の妻像を腹立たしく思うことが多いはずなのに、それが本作では微塵も感じられないのはどうしたことだろう。伊兵衛がこの妻に負けず劣らず彼女を心配し、信頼し、愛しているのがよく判るせいだろうか……とにかく、この少女のような可愛らしさを残したしっかりものの奥さんは、出番こそ伊兵衛よりも数段少ないけれど、もう一人の主人公と言いたいくらい

伊兵衛が長々と続く雨で川止めにあい、ようやく雨が上がった時、なまった体を動かしに森の中へと入っていく。みずみずしい緑の中で刀を振る伊兵衛の姿は殺気と言うよりも静謐。精神性で武道をやっている感じがにじみ出ている。彼はふっとため息をつき、何やってんだ俺は……と思い巡らすのである。腕も人柄も申し分ないはずなのに、なぜか仕官がかなわない彼は、妻たよに苦労をかけるのを申し訳なく思っているのだ。そこに偶然若侍同士の果たし合いを目撃、見事な腕前で止めたのをこの土地の藩の城主が見ていて、その腕に惚れ込み、彼を城に招き入れようとするのだが……。

この城主を演じる三船史郎、言うまでもなく三船敏郎のご長男。一見単純バカのようなお殿様だが、恨みを引きずることのないさっぱりした性格で、物事の善悪を良く判っている。無邪気奔放、そのカリスマ性。これが驚くほどに父、三船敏郎のそうしたチャームに似ているのだ。何といっても見所は伊兵衛の腕試しをする御前試合で、彼みずからが槍を振り回す場面。お殿様が相手をするなんて、と慌てふためく周囲をものともせず、伊兵衛に立ち向かうのだが、いかんせん、腕が違いすぎる。つい本気になってしまった双方、伊兵衛がじりじり殿様を生け垣まで追いつめると、その後ろは池があったらしく、生け垣の中に姿が消えたかと思うと、水音が!びしょぬれであがってくる殿様に恐縮して謝りまくる伊兵衛、それをどなりつける殿様の図があまりにユーモラスで大爆笑!

しょんぼりと帰って行く伊兵衛。もちろんそんなことで彼の仕官の道を閉ざすような心の狭い殿様であるはずはなく、彼は伊兵衛に是非来て欲しいと乞うのだが、よそ者の彼が仕官に任命されるのを妬む輩によって、彼が掛け試合をしたことがバレてしまい、その話はパーになってしまうのだ。しかしこの掛け試合とて、貧しいものたちを見かねてせめて一夜の酒宴をと思い、やったこと。報告に来た二人の城のものに、たよが穏やかに笑みを浮かべ、しかし泰然と言い放つ。「私はこの人のすることを信頼しています。あなたたちのようなデクノボウには判らないでしょう」小声でいさめる伊兵衛だが、彼は内心どんなにか嬉しかったことか。そして観客も。このたよの、あふれるばかりの愛情の美しさにかなうものなどないではないか。

その話を戻ってきた従者から聞いた殿様、「む、デクノボウと言ったか……そなたはこのことをなんと聞く」とそのうちの一人の従者に問う。石頭、と殿様から呼ばれる頭の固いその従者(井川比佐志)が「はあ?」ととんまな響きで答えるのには爆笑!「もうよい!」と殿様は自分の信念を固めたかのような表情で、もう一人の話の判る従者(吉岡秀隆)に、二人を追うように命じるのだ。嬉しそうに威勢よく返事をして、殿様と二人、馬を駆って追いかける。ああ、お願い、追いついて!

それと平行して描かれる、二人が宿から旅立つ朝、宿の中で一人孤立していたおきん(原田美枝子)が、たよにぶっきらぼうに、「つまんないもんだけど」と手土産を持たせる。この夫婦が自分の寂しさを初めて理解してくれたのであり、あの酒宴の席でみなとほんの少しでも打ち解けることが出来たであろう彼女の、せいいっぱいの気持ち。そんな彼女に対して本当に嬉しそうに、笑顔で感謝の気持ちを述べるたよ。ああ、いいなあ、やっぱりこの奥さん!そして二人は、目に染みる緑の中を歩いていく。たよが先に、少し遅れて伊兵衛が後からゆっくりついてくる。「ちょっと待っててください、少し汗を流してきます」と言って、森の中に消えた伊兵衛、居合いをし、気を落ち着けると彼女の元に戻ってきてこう言うのだ。「未練は斬って捨てました。元気を出してください」それに答えて奥さん「わたくしは元気ですよ」そしてイタズラっぽく伊兵衛のいつもの口癖を真似て「……と、思います」と。そして笑いあう二人はまた緑の中を歩いていく。あああ、もう、いいなあ、この夫婦!

殿様の追手がこの二人に追いつくかどうかは描かれないのだけど、ああもう、どっちでもいいや、と思える幸福感。どんな状況にあっても、この二人の信頼しあった関係は変わらないのだし……伊兵衛は、たよをこの貧乏な放浪暮らしから何とか救ってやりたいと願っていたのだろうけど、彼女がそんな事を望んでいるのではないことを、きっと今回のことで知っただろう。

役者の地の良さが際立つ作品で、小泉監督の演出力がどんなものかというのは、正直見えてこない。とても丁寧で、誠実な作り。それが、この作品のカラーにピタリとマッチした。彼は黒澤監督の遺志を継いでこの映画の監督をしたせいか、自分の意図が黒澤監督のそれを邪魔しないようにと慎重に作っている感じもして。彼が今後も映画を監督していくのなら、どういう顔を見せてくれるのだろうか。★★★★☆


アメリカン・ヒストリーXAMERICAN HISTORYX
1998年 120分 アメリカ カラー/モノクロ
監督:トニー・ケイ 脚本:デイヴィッド・マッケンナ
撮影:トニー・ケイ 音楽:アン・ダドリー
出演:エドワード・ノートン/エドワード・ファーロング/ビヴァリー・ダンジェロ/ジェニファー・リーン/タラ・ブランチャード/ウィリアム・ラス/イーサン・サプリー/フェルーザ・バルク/エイブリー・ブルックス/エリオット・グールド/ステイシー・キーチ/ガイ・トリー

2000/4/5/水 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
エドワード・ノートンがとにかく凄い。だって顔が違う!あのちょっと下ぶくれ気味の気弱で情けなさそうなイメージだった彼と本当に同一人物なのかと(2、3作しか観ていない、そのキャラでのイメージなのだけど)、思わず何度も顔を見つめてしまった。体は今まで見たことなかったけど、おそらくこれだけ顔が変わってしまったくらいだから、この鍛え上げられた肉体は相当のトレーニングによるものなのだろう。ネオナチの鍵十字が立体的な迫力を持って浮かび上がる、その筋肉見本のような肉体そのものが、セリフよりも何よりもこのデレクという役柄を鮮やかに、そして恐ろしく表現している。

平和ボケしている日本人の私には、この強烈な人種差別を実感を持って理解することなどとうてい出来そうもない。劇中、デレクの妹が彼に対して苦々しげに「ミスターKKK!」と言うのに対して、デレクはあざ笑い「俺はKKKじゃない、ネオナチだ」と言う場面があるけれど、後で解説を読まなければ、それぞれがどういう思想を持った組織なのかなんてピンとこなかった……情けないけど。強烈な白人至上主義のみならず、有色人種に対する恐ろしいまでの蔑視と憎しみ。有色人種が白人に対して憎しみを持つのは判る。けれど、なぜ白人が有色人種に対して……?それを説明するセリフの数々は戦慄するのに充分値する。曰く、アメリカはヨーロッパ系白人によって発展してきた。曰く、そこに有色人種たちが乗り込んできて踏み荒した。曰く、彼らは社会のクズだ、擁護する必要などない、追い出せ。……しかし、アメリカで人種問題が叫ばれ出したのも、有色人種が本当の意味で社会に進出するようになったのもほんのここ最近だということに気づく時、こうした思想が、特に驚くべきものではなく、もしかしたらいまだにいわば常識的な意識として白人たちの中に根づいているのかもしれないのだ。こうして、“白人”と書くのにはなんの問題もないのに、“黒人”という言葉だけがネガティブな響きを持ってしまうことが、そう簡単に解決しない根の深さを象徴しているのだから。

そう言えば以前、宗教の問題に言及する機会があった時、信仰する人を公平に扱うべき宗教が、実はひどく差別的で、欺まんに満ちたものであることについて考え込んでしまったことがあった。信仰の偶像としてあるキリストや釈迦が、明らかにあるひとつのタイプを持っているということ……それでもまだ釈迦は(解脱によって)性別を超えたところがあるけれど、キリストは明らかに白人であり、男性であるのである。そしてキリストを産んだマリアは“汚れのない処女”。こっちまで言及すると主題がずれるので書かないが。だから私は、キリスト教徒である有色人種の人たちは、白人の神様を崇めるのに抵抗はないのか、と思ったことがあった。

しかしそのことについても強烈に意識しているのは白人の方なのかもしれない、と本作を観て思う。キリストからして白人なのだから、というような思想。有色人種の人たちに関しては、それこそそうしたことを乗り越えなければ信仰など出来るはずもなく、ある意味かなり悟った状態、もしかしたら白人たちより深い信仰を持った状態に“させられている”のではないか、と。

本作はこのネオナチ組織に身を投じたデレクと、彼が殺人罪で捕まり、全く人が変わって出所してきた様子とが交互に描かれる。前者はモノクロ映像、後者はカラー。あれほどまでに心底白人至上主義に浸っていたデレクが、それをすっかり悔い改めた様子で出てくるのに拍子抜けし、なんだか単純な教訓映画?などと早合点しそうになったのだけれど、とんでもない。デレクがそうした境地に至るには、刑務所内でのすさまじい体験があったのであり、そうした体験を経なければ(そしてその前に人を殺すことをもしなければ)人間は変われないということ自体が恐ろしいのだ。しかも、このデレクの犯した罪のツケが、悔い改めた後の彼にも容赦なく襲ってくるラストには、デレクのように「あんまりだ!」と叫びたくなってしまう。

この兄を熱烈に慕う弟のダニー(エドワード・ファーロング。やはり作品の選択眼がしっかりしている)は兄が人を殺す場面を目撃していたのにもかかわらず、それどころかその後ますます兄を崇め奉るようになる。確かにあの場面でのノートンは強烈だった。自動車泥棒の黒人を撃って捕らえ、道路の縁石をかませて頭を蹴り飛ばし、首の骨を折って殺す場面も凄かったが、その後、警察が到着して彼を捕らえる時、顔に満足そうな笑みを浮かべ、警官の言うとおりに手を挙げ、頭の後ろでくみ、ひざまづくという動作が、卑屈ではなく、まさしく教祖に見えてしまうのだ。女とセックスをしている最中に飛び出してきたので、下着一枚だった彼は、輝くばかりの裸身を誇らしげに警察のライトにさらす。そのスキン・ヘッドもまた、この場面においてはひどくピュアというか、宗教的ストイックにすら感じさせる。たっぷりとったスローモーションと、ゴスペルのような音楽が更にそれを助長し、おののきながらも見とれてしまうほどの、威厳(と言っていいのかどうか……)。劇場を出た後、この場面のことを話していた男性が「あの場面のエドワード・ノートンはめちゃくちゃカッコよかったよなー。何か魂の殉教者っていうか、磔にされるキリストみたいでさ」と感想をもらしていたのを聞いて、こりゃまたキケンな見方だと思いつつ、でも確かにそう見える、いや、そう見せていると思わざるを得ない。それは多分、前述のキリスト=白人思想に対する痛烈な批判であるのだ。だから、ただカッコよかった、と感心するのはあまりにコワい。

刑務所に入ったデレクが改心するのには二つの出来事が作用していた。ひとつは、同じ思想を持っていると思って近づいた白人グループが口先だけの薄っぺらい奴等で、しかもそいつらにシャワールームでレイプされてしまうこと。この出来事にショックを受け、訪ねてきた高校時代の校長(黒人)の前で涙を流す彼がひどく痛ましい。……こんな屈辱的な体験をしたのも初めてなら、そのことで泣いてしまうなんてことも初めてだったのだろう。そんなデレクに校長は暖かくしかし厳しいアドバイスをしてくれる。「君は聡明な人間だ。自分の思想の矛盾にいつか気づくと思っていた」と。

そしてもう一つ、刑務所内で彼と一緒に働く一人の黒人との出逢い。彼は実に屈託がなく、心を閉ざすデレクを陥落させるのにあっさり成功する。「お前は何をやったんだ」と聞くデレクに、警官による理不尽な事実のでっち上げでデレクより重い6年の罪をきせられたことを話す彼。デレクの思想はだんだんと揺らぎ始める……。やはり、個人対個人の力が一番強力なのだな、と思う。思想は、“思想”だから、ひとりの、あるいは同じ種類の人間たちによって膨らんでいってしまうものだ。その視線で他のことが推測され、断定され、実際に検証することをしない。しかしこうして、個人のキャラクターが相対し、具体的な事実として提示される時、断定されるまでに強固に塗り固められていたはずの思想があっさりと崩れてしまう。結局正しいことが一番強いのだ。

それは弟のダニーの思想が、デレクのそれよりももっとあっさりと、それこそ数時間で崩れ去ってしまうことにも顕著である。ダニーの思想は思想ではなく、兄への憧憬だったのだから当然だが、しかしデレクが改心しなければ、彼はこんなもろい思想でもそれを崩すきっかけのないまま進み、デレクのような恐ろしい犯罪に手を染めることになったかもしれないのである。……それは免れたものの、ダニーはデレクの罪が生み出してしまった憎しみによって、銃弾を浴び、絶命。駆けつけたデレクは血だらけの弟を抱きしめて天を仰ぎ「あんまりだ!」と絶叫するのである。憎しみは限りなく連鎖され、それは容易には断ち切ることが出来ない。でもここでデレクが何とか踏みとどまって断ち切ってしまえれば……そう、出来るだけ多くの人間たちがふんばって憎しみを断ち切っていくことが(それは犠牲ではなく、みずからも幸せになるための)平和への道なのだ、と思う。

デレクがこうした思想に陥ったのは、父親の影響だったことが最後に明かされる。その前まではデレクはかの校長先生がレクチャーする黒人文学を興味を持って学ぶリベラルな若者だった。それに対して明らかに不満を見せる父親。「それは侵略者である黒人の、白人に対する洗脳なんだ」とデレクを説き伏せる。父親を尊敬し、愛するデレクは校長先生よりも父親の言葉を信じてしまうのである。しかし、こうした人種問題について表向きは理解のあるふりをしながら、こんな風に隠れた場面でさげすんだ態度をとるこの父親のあさましさに、もし息子の立場じゃなかったらデレクは気づいたかもしれない。そしてこの父親が黒人に殺されたことで、父親から受け継いでしまったその思想、いや憎しみはもはや後戻りできないほどに増幅してしまう。憎しみにはこうした家族、血のつながりの問題も絡んで、容易には断ち切れないものなのだけれど……。

過去シーンにおけるモノクロ画面はニュース映像のような戦慄すべき迫力で斬りつけてくる。そしてそのモノクロから、ラスト、ダニーの銃殺シーンにおける鮮やかな血しぶきがネガに焼き付けられたように頭から離れない。監督は撮影も兼ねているという、ハリウッドでは(他の国の映画でも)珍しいケース。幻惑的なカメラワークと演出とが完全に連動するこの新人監督(!)の力量は計り知れない。★★★★☆


アメリカン・ビューティーAMERICAN BEAUTY
1999年 122分 アメリカ カラー
監督:サム・メンデス 脚本:アラン・ボール
撮影:コンラッド・L・ホール 音楽:トーマス・ニューマン
出演:ケヴィン・スペイシー/アネット・ベニング/ソーラ・バーチ/ウェス・ベントレー/ミーナ・スバーリ/ピーター・ギャラガー/アリソン・ジャーニー/クリス・クーパー

2000/5/21/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
アカデミー賞を独占し、見る記事見る記事(時折皮肉めいたコメントはあるものの)絶賛の嵐、しかしタイトルや惹句ではどうも像がつかめず、どんな傑作か感動作か、と思って観てみたら……正直困惑してしまった。別につまらなかったというわけではない。というか、実に普通、普通の感慨。皮肉でもこねくり回した感想でもなく、これがどうしてそこまで熱狂的に評されるのか判らず、考え込んでしまった。舞台劇のような巧みさは感じられなくもなかったけれど……。

つまりは中流家庭の、家庭崩壊の話である。少々のストレスに目をつぶって何となく過ごしていけば、乗り越えられたかもしれない、どこにでもある家庭の亀裂。多少違うと言えば、父親で、夫であるうだつの上がらない主人公、レスター(ケヴィン・スペイシー)が、多少常軌を逸するほどに娘の同級生の美少女に熱を上げてしまったことくらい。まあ、それがすべての引き金になったとも言えるのだけれど。カイショのない夫に苛立つキャリアウーマンの妻、キャロリン(アネット・ベニング)はピカピカのカタログのようなインテリアライフに生きがいを燃やし、10代にありがちな理由のない不満や苛立ちをもてあます娘のジェーンは、仮面夫婦な両親、ことにスケベな本能をあらわにした父親を嫌悪している。

美少女、アンジェラ(ミーナ・スバーリ)に好かれたい一心でワークアウトに精を出したり、恋に情熱を傾けることで強気になって会社を辞め、生き生きとバーガーショップで働き出したり、マリファナを吸ったり。レスターの再生はなかなか微笑ましい。一方の妻、キャロリンは不満解消に同業者間でスター的存在の不動産王、バディ(ピーター・ギャラガー。マンガチックな風貌がピッタリ。)と不倫にふける。アンジェラは「12歳の頃から男は皆私とやりたがるの」と自分の美貌とセックスアピールを自慢してやまない。

しかしレスターの夢想シーンといい、キャロリンもアンジェラも、そしてとなりの風変わりなリッキーに惹かれていくジェーンもまたそうだが、家庭崩壊の元凶はすべてセックスにあり、という感じになんだかなー、と思う。思えばアメリカ映画における幾多の家庭崩壊(あるいは夫婦崩壊)映画って、必ずそうなのだよな。ま、それが人間の一番本質的な、根源的なものといえばそうなのかもしれないけれど、なんだかちょっと浅はかすぎるというか、生理的嫌悪感を感じる気がしないでもない。レスターはアンジェラを、ではなく美少女を性的対象として見、彼女を思い浮かべて自慰行為をする。それをキャロリンに見つかって夫婦喧嘩する時、彼女との不和を、全くご無沙汰なセックスが証拠だと得々と説明する。セックスがなけりゃ夫婦生活は意味がないといわんばかりである。本当にそうなのだろうか……。

アンジェラが、いざレスターとコトに及ぼうという時、彼女は自分が実は経験がないことを告白する。その時になってレスターは初めて彼女をまっすぐに見たように思う。優しく彼女にガウンを着せかけるレスター。自分の、一見して判る美貌とセックスアピールが、凡庸なものとして埋没してしまうんではないかという恐怖で、逆に自身を締め付けていたアンジェラの、彼女にしか判らない孤独と哀しさが胸を打つ。彼女がレスターの自分への気持ちに気づき、半ば得意げに誘惑の視線を投げかけていたのも、初めての時は年上の男性にリードして欲しかったのだろうという彼女のせっぱつまった気持ちに思いが及んでしまう。だから正直私は主人公のレスターよりも、ジェーンよりも、そして強烈なラストで印象を残す、実はゲイだった厳格な元海兵隊員のフィッツ大佐(クリス・クーパー。リッキーの父親)よりも彼女が印象的だった。

キャロリンもまた自分を埋没させないために夫をさげすむ。そしてそのためには自分の仕事を成功させること……それが上手く行かなくて、泣き出しそうになり、「泣くな、泣くな!」と自らを平手打するも、やはり泣き出してしまう彼女。ラスト、フィッツ大佐によって射殺された、夫の変わり果てた姿を見て狂乱する彼女は、結局はその夫がいなくては自分の存在を確立することが出来なかったのだという皮肉である。それは決して彼を愛していたからという狂乱ではないところが、ますます持って皮肉なんである。それにしてもこの彼女のテンションの高さは、舞台風という感じで、引いてしまう感覚は否めなかった。うーん、でもこれがアメリカの普通の感情の示し方だったりして?まさかね。

結局はこの物語のどこにも愛が存在しない、その事が私を冷めさせてしまうのかもしれない。たった一人の中に存在する一人よがりの愛でもいい、はっきりと、これならば愛だ、と感じられるものがあったならば。あるいは孤独でもいい。ここで描かれる孤独は、自信過剰が過ぎた上に発生した、どこか欺まんに満ちたものばかりだ。それもまた哀れな孤独には違いないのだが、そのあたりが非常に自信家のアメリカ的なそれであり、共感するにははばかられてしまう。やや大めの登場人物達が交錯していくという描き方は、「マグノリア」にも似ているような気もする。そして「マグノリア」にはいささかうんざりするような表面的な「愛」が描かれ、本作にはちょっとシニカルに過ぎるほどにそれがない。リッキーとジェーンにそれが芽生えそうな気もしないでもないが、彼も彼女も10代特有の曖昧さやエキセントリックさの方が先に行っているし。

“アメリカン……”というタイトルって、結構あるなあと思った時に、そう言えば、日本では“日本の……”というタイトルって(昔はわりとあった気がするけど)あまりないよなあ、と思い至った。何かそれが、アメリカの自信満々さと、故にそれが崩壊した時の悲惨さを如実に表している気がして。だから、ふと、そうだ、アメリカって、まだまだ若い国なんだよなあ、などと思ったりもしてしまう。でも、そうした自信のあった時、挫折した時、そして今の、どーでもいいや的な空気が支配している現代の日本を考える時、何かこれからのアメリカをついつい危惧してしまう。この作品で象徴的な、赤い薔薇の花びらが舞う華やかさとそして“花びら”である隠微さと衰退と破壊の感覚、それらをひっくるめてビューティーなのか……その点のシニカルさだけは秀逸だったりして。★★★☆☆


ある探偵の憂鬱
1998年 71分 日本 カラー
監督:矢城潤一 脚本:矢城潤一
撮影:新妻宏昭 音楽:小幡亨
出演:大城英司 馬渕晴子 小沢美貴 中村方隆 かとうかなみ

2000/5/1/月 劇場(中野武蔵野ホール/レイト)
依頼を受けたある探偵がある婦人を監視する。その婦人はめったに外に出る事はなく、向かい側に建つ部屋にこもる探偵は必然的に、ほぼ一日中彼女を見つめ続ける事になる……こんな、下手するとかなり退屈しそうな物語が、絶妙な押しと引きで実にスリリングに引き込んで行く。ラストには意外な結末が用意されてはいるのだが、その驚きはこの作品のあくまで付足し的魅力に過ぎないのだ。

さびれた事務所でたった一人、蝿など叩いて退屈をまぎらしている探偵のもとに、一人の老紳士がやってくる。何も喋らず、依頼書だけを手渡すその紳士。一人の老婦人を監視してほしいとの依頼。尾行や身元調査など一切必要ない。ただ、監視だけしてくれれば良いと言う。三行半を突きつけられた夫が、その理由を見つけたいためなのか……とまれ、探偵はその老婦人の住むマンションの部屋を見る事が出来る向かいのアパートの一室にこもりきりになる。

上品そうな老婦人は、食事、読書、刺繍、ベランダの花への水やり、就寝、とほぼ時間をずらすことなく実に禁欲的に、しかし楽しげに生活を送っている。男の影も事件の影も見当たらない。したがって探偵のレポートは次第に詳細なものになってゆく……分刻みで老婦人の行動を記してゆくが、それでも老婦人の生活はそれに合わせているかのようにまるで変わらないのだ。探偵はそれに退屈するどころかどんどん彼女に魅せられていく。いわば彼女と一分違わず同じ生活をしているようなものだ……それはどこか官能的な感覚さえ起こさせる。彼女にミステリアスな影などないのに、幻想の若い女を見、取り付かれてゆく。いや、確かに老婦人にはミステリアスな影があったのだ。

あまりに老婦人の毎日が変わらないから、と思ったのか、探偵はしばしば恋人なのか娼婦なのか、とにかく女と外のホテルでセックスを楽しむ。会話といい化粧の感じといい、いかにも、とりあえずブランド志向のバカそうな女である。探偵はときおり老婦人(あるいは幻想の女)が気になるのかセックスに身が入らない。罵倒する女。そして探偵が張り込みの部屋に戻ってくると、その時に限っていつでも老婦人は普段より早く就寝しているのだ。「まだ寝る時間には早い……」狼狽する探偵は、しかしレポートにはいつもの就寝時間を記録する。その時間を暗記するほどに彼女の生活を熟知しているのだ。

見る男と見られる女。その関係はエロティックで、実にスリリングだ。探偵を演じる大城英司は、非常に端整な顔立ちの俳優、そして老婦人を演じるのは、いるだけで品の良い存在感を放つ大ベテランの馬渕晴子。画的にも二人のコラボレーションは美しく、何かが起きそうな予感でドキドキさせる。しかし二人が同一場面に映る場面はほんのちょっとしかなく……探偵が思い余って老婦人の家に侵入しようとしたのを見つかった時と、老婦人殺害を依頼され、実際に侵入した時……この時探偵は秘密を知る事となる。

レポートはすべて老婦人の手元にあった。あの時尋ねてきた老紳士の服や帽子がクローゼットにかけてあった。……全ては彼女が仕組んだことだったのだ。自ら見つめられ続けること、そして自分の殺害を設定した彼女は、忘れられたかつての舞台女優。人に見られることに快感を得ていたはずの彼女の、最後の願いだったのだ。探偵は彼女の首を絞めて殺し、しかしその死は変死と片づけられる。それもまた彼女の手配だったのか。何はともあれ、探偵には大きな喪失感が残されただろう……。

私はこの監視が彼女の仕組んだものだと知った時、いやその前……彼女が探偵ののぞく望遠鏡に気づいているかのように(当然気づいていたわけだが)こちらに向かって微笑んだ時から、探偵の見る幻想の女は彼女が探偵を幻惑するために用意したものなのではないか、と思ったのだが……。そして探偵はその女を単体の魅力的な女として見ていたのではなく、若い頃の老婦人を、あるいは現在の老婦人の魅力を具現化したものとして見ていたのではないかと……。そう思わせるほどに探偵は仕事という範疇を超えた執拗さで老婦人を監視することに執着していたし、彼女を演じる馬渕晴子がまた、そう思わせるほどの魅力をたたえていたのだ。

探偵が彼女を写真に撮ろうと向けたカメラのレンズが太陽光に反射し、それに驚いて手をかざしながら探偵の方を凝視した老婦人、慌ててカーテンの後ろに隠れる探偵……。後から思えば、彼女は何もかも知った上で探偵を翻弄していたのであり、探偵もまた、何も知らないまでも自分から翻弄されていたようなところがあり、この二人の共犯関係が殺害シーンで一気に昇華する。その艶めいた幻惑的魅力!老婦人を追って洞窟の中に通じる大きな舞台に迷い込んだりといった、現実とも幻想ともつかない体験が探偵を徐々に追いつめるが、彼は自ら望んでその中に分け入っていったのだ。彼にとっては女とのセックスより、しだいにこの老婦人(と幻想の女)との関係の方がよほど感じるものがあったのだろう……見つめる彼の目のアップや、彼女を映した膨大な写真の中に上半身裸の体を投げ出す彼の表情はそれを語ってあまりある。

探偵が彼女を監視している部屋が、思いっきり畳敷きなのだけが、カクッとなるものがあったが……。それに実を言うと、あのバカそうな女の登場もあまり好きではない。何だかあまりにも決まりきった女の造形だし、あんな女を登場させなくたって、探偵と老婦人の刺激的な関係は充分描けているのだもの。そうだ、監視する、監視されるという、こんなシンプルな描写でそれを感じさせるのだから凄いではないか。シンプルといえば、探偵と老婦人はじめ全ての登場人物(といっても数えるほどの人数だが)に名前が与えられていないのも何か非常にスリリング&ストイック。馬渕晴子は当然ながら、この探偵を演じる大城英司(見た事はあるような気がするけれど、名前と顔を一致させるのは初めて)の抑制された演技力もなかなか。★★★★☆


アンジェラの灰ANGELA’S ASHES
1999年 145分 アイルランド=アメリカ カラー
監督:アラン・パーカー 脚本:アラン・パーカー/ローラ・ジョーンズ
撮影:マイケル・セレシン 音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:エミリー・ワトソン/ロバート・カーライル/マイケル・リッジ/キアラン・オーウェンズ

2000/11/12/月 劇場(シャンテ・シネ)
1930年代の、原作者フランク・マコートの子供時代を描いたピューリッツァー賞受賞作の映画化。この原作が小説ではなく(ピューリッツァー賞を取っただけあって)ノンフィクションルポのようにとらえられているものらしいのだが(未読)、多くの回想録がそうであるように、その色合いはノスタルジックな文学性に満ちている。しかしそんなロマンティックなことを言っていられないほどにその貧しさの状況は悲惨であり、彼らがそれでもまるで救ってくれない神に手を合わせるのが不思議ですらある。この状況……アイルランドの現代史を押さえていないとなかなか判りづらいのだが(鑑賞後にHP等で改めて知った)、この原作者が回想している少年の頃にそれをどこまで判っていたかを考えると、まあ、日本にいる私と同程度だろうと思えるし……。だから、ここで少年、フランクから感じとられるのは原因の判らないひもじさと、理由の判らない(北の人間だということに対する)周囲の侮蔑と、そして原因も理由も関係ない両親や兄弟への愛情である。

厳しいカトリックのアイルランドが、中絶も離婚もつい最近まで厳しく禁止されていた、などということは当方知らなかったものだから、子供が次々死んでも、そしてどんなに貧しくても、わりと懲りずに子供を作るこの夫妻に首を傾げていたのだけど……うーむ、これぞ貧乏子沢山という奴だろうか。でも、避妊も出来なかったのかなあ?避妊も禁止されてた、なんてことはないよね?(あるのか?でもそんなもの、判りっこないよなあ)何はともあれ、冒頭からいきなり生まれたばかりの女の子が死に、また生んで、そしてまたまた双子の男の子が死に……といった具合で、なんかもう果てしなく気が滅入ってくる。雨ばかり降っているじめじめした様子は、日本のようなむしむしした感じではなくただひたすら芯までしんしんとしみてきてひどく寒そうな様子で、これまた滅入るし。気候と状況がこれほどシンクロしているのも、少年になったフランクが「天気とキリスト」などというケッ作作文で、ここは雨ばかり降ってるから、神様はいない、と喝破したのが妙に説得力がある。だって、こうした貧しさがカラッとした気候の元の、明るい太陽や極彩色の花々の中に展開されるのはどうしても想像できないもの……やはり、招くものがあるのかもしれない。いまだに北アイルランド問題は解決していないのだし。

確かに一生懸命なんだけど、子供たちにとってはいいお父さんだし、妻のアンジェラにとっても愛する夫には違いないんだけど、アル中で仕事が続かないことで、ただでさえ悲惨な時代に、さらに悲惨な生活を家族に強いてしまうマラキー。原作では妻に暴力をふるうなど、共感しにくいキャラクターだったらしいのだが、映画化にあたってはそうした面は省かれている。これは多分、原作者であるフランク初め家族たちはこのどうしようもない男を、それでも愛していた、という点を汲んだのだろう。時間の制約のある映画化にあたっては、出来事の真実よりも、感情の真実を重視することが肝要であるから。

一体、何度目の失業者役?と思ってしまうロバート・カーライルだが、ここでの彼はいつも生真面目な格好をして、決まった職が工場勤めでもスーツを着ていくような男。アル中であるという点を除けば、信心深く、子供たちには物語を語って聞かせて心を豊かにさせ、自転車の古タイヤで靴を作ってやる、なかなかイイ男である。実際、ここでのロバート・カーライルは、かなりハンサム。どうしても逃れられない酒を、どこかシニカルに哀しげに飲んでいる様子など、少年のフランクが責めきれなかった気持ちもなんだか良く判る気がして。

そしてこのお父さんが出稼ぎに行って、ついにもう永遠に帰ってこなくなってから(別に死んだわけではないらしいが)一家の悲惨さはまた新たな局面を迎える。母アンジェラは頼みの綱の実母の死によって、デブでスケベな従兄弟の家に身を寄せるしかなくなり、職を得たフランクは、たまらずそこを出る。彼が居候するのは、かつて、北出身ということで散々冷たくされた叔母夫婦(とりあえず、叔父はそんなことはないのだが)のところなのだが、相変わらずクールな叔母ではあったけれど、フランクのためにスーツを新調してくれる。……なんだかちょっと、じーんときてしまう。彼らには子供がいない。もしかしたら、マラキーとアンジェラがうらやましかったのかも。口ではいろいろ言いながらも、気に留めていてくれる存在というのは、思えば家族そのものではないか。

フランクが初めて恋した肺病やみの年上の女性も死んでしまう。フランクが電信配達人の傍らバイトしていた金貸しの老婦人も死んでしまう。まあ、ほんとにまあ、よく人の死ぬ話だわと奇妙に感心などしてしまうのだが、そうした中で生き残っていったフランクは、死んだ人たちの人生を無意識ながらも背負っている。だから、彼は死ぬわけにはいかないのだ。彼は父親が行ってしまったロンドンよりも、もっと大きな舞台、アメリカを目指す。多少いただけないことをしても。

カトリックの厳しいお国柄だけあって、教会や懺悔室は繰り返し出てくるし、フランクの通う学校でも、その教えが日常として出てくる。ただ、その描写は多分にユーモラスで、特に懺悔室の司教など、年寄りで耳が遠かったり、妙にセックスのことに詳しかったり。でも、そんな中、青年特有のフランクの悩みを静かに受け止めてくれる司教もいて、その静かな威厳にカトリック本来の厳かさや美しさが現れている気がする。

貧しさは、そりゃ出来ることなら回避したいけれど、でも子供時代にある程度の(これはちょっとひどすぎるけど)貧しさを体験することは、実は重要なことなのかもしれない。物乞いをするような状況にまでなって、フランクはプライドや思いやりを知っただろうし(思いやりを施す側では、真の思いやりは学べない)物質的に貧しいのなら、精神的に豊かになろうと、豊かにしてあげようと努力する。そう、それがまさしく、あのお父さん、マラキーであり、フランクたちがこんな状況下でもまっすぐに生きてゆけたのはそのせいなのだ。今の子供たちにどこか不安を感じているのはまさにそこで、彼らは貧しさといったものをまるで体験していないから。家が貧しくなくてもいいのだ。親は、子供にある程度貧しさを感じさせなければならない。本当に必要なものが何かを真に感じ取れるようになるまで。

こういう時代が(日本でもある程度)あったからこそ、親は子供には豊かな生活をさせてあげたいと思い、そのことが現代の社会の豊かさを作り上げていったことは間違いないのだが、判断の出来ないうちに物質の豊かさを与えすぎると、精神の豊かさは育てられない気がするのだ。だから……いわば選択の余地なく精神を豊かに育てられたこういう時代は、むしろ幸福だったのではと思えるくらいなのだが。原作者、フランク・マコートが言う「幸せな子供時代なんて語る価値もない」という言葉が、そんな、いろんな意味を含めて感じられるのだ。★★★☆☆


暗戦 デッドエンド
年 分 香港 カラー
監督:ジョニー・トゥ 脚本:ヤウ・ナイホイ/ローレンス・クロチャード/ジュリアン・カーボン
撮影:音楽:レイモンド・ウォン
出演:アンディ・ラウ/ラウ・チンワン/ヨーヨー・モン/ホイ・シューハン/レイ・チーホン

2000/7/27/木 劇場(キネカ大森)
香港映画界超人気スターでありながら、なぜか私は今まで殆どその作品を観ることがなかった。いつでもあまりに“アンディ・ラウ主演!!”という看板ばかりが大きかったせいで今一つ観る気持ちが持ててなかったかもしれない。しかしまあ今回は、チラシからして対等の相棒がいるバディムービーみたいだし、アンディはこの作品で金像奨最優秀男優賞を取ったというし、ちょこっと興味をひかれたのだ。

物語は末期ガンで余命幾ばくもない男が復讐のために最後に仕掛けた完全犯罪を、敏腕刑事、ホーを相棒に選んで巻き込みやり遂げるというもの。要所要所で血を吐きながら甘いマスクをゆがめるアンディ・ラウは予想通りお耽美全開なのだが、相棒のホー刑事を演じるラウ・チンワン(本作の彼はちょっと原田大二郎入ってる?)がかなりの存在感で引っかきまわしてくれるので結構バランスがとれている。ウソとニセモノの小道具を巧みに使って翻弄するアンディ扮するこの男に、ホー刑事が次第に犯罪者と刑事という枠を超えて惹かれていく様を巧みに表現、アンディより彼の方が上手いと思うけどなあ。

アンディはなんたって最期のゲームに挑む犯罪者の役だから、いろいろと鮮やかなシーンは用意されているのだけど、でもあれだけはいただけなかったなあ、女装して敵を欺くというヤツ。いくら甘いマスクでも、それは男性としての甘さであって、女装しても筋肉のつき方や肌の感じがまんま男なんだもん。それなのに結構露出系のカッコさせるから、余計目も当てられなくて。しかもあのゴワゴワのカツラは、一発で自毛じゃないと判るではないか!ほとんどコントの女装状態で、劇中の登場人物達が「あの女は誰だ」と言っているのが不思議なほど女に見えない。

バスの中で敵の目をくらます為、半ば強引に彼と恋人同士のフリをさせた女性が、その後やっぱりバスの中で再会した時、自ら彼を助けようと同じ行為をする。……最後の最後までプラトニック・ラブであり、それどころかお互いに好意を持っていることも口にすることがなかった二人。男が奪い取った宝石のペンダントが彼女の胸元に光っていて、それが彼の気持ちを何よりあらわしている。最後の最後、男にまんまとハメられて逃げられたホー刑事が、それからしばらくたってバスの中でこのペンダントを下げた女性を見つけ、これをくれたのを最後にしばらく会っていない、という彼女に、いつかまた会えるかもしれない、と言うのだ。……彼が末期ガンだったことを知っているのに……。

でも私はなんとなくホー刑事の気持ちが判るような気がするのだ。巧妙な口技で鼻面を引き回してくれたあの男、その最後の別れも、血を吐いて意識を失ったフリをしてみせながら、まんまと逃げおおせたんだもの、ひょっとしたら病気のことも全部ウソだったんじゃないか、と思いたかったんではなかろうかと。実際、そうじゃないとは言いきれないような幕切れではあったし……うーん、でもやっぱり病気のことはホントだったろうが。でもそう思って、もう一度会いたい、と心のどこかでホー刑事は願ってるんじゃないかな……やはり。

このお相手のお姉ちゃんはやけに美人だったっすねえー。まるでシャンプーのCMみたいに髪もサラサラでさ。ヨーヨー・モンとは奇妙な名前だが……「ヒーロー・ネバー・ダイ」に出てたって?観てないからなあ……。

香港映画特有のどこかチープな色合いの画面が気にならなくもなかったのだが(香港映画では時々感じるんだよね、どこがって訳じゃないんだけど、何でだろう)アンディ・ラウよりラウ・チンワンの表情や演技っぷりの豊かさが良かった。あ、それより、アンディが喫茶店(?)でいつも見ている「はーい、アッコです」のアニメが妙に気になる!一体あれの必然性は??ああしかし当然のことながら向こうの言葉で吹替えられてて、ジュンちゃんが登場したとしても故・塩沢兼人氏の声じゃないのだが……。★★★☆☆


アンナと王様ANNA AND THE KING
1999年 147分 アメリカ カラー
監督:アンディ・テナント 脚本:スティーヴ・ミアーソン/ピーター・クライクス
撮影:カレブ・デシャネル 音楽:ジョージ・フェントン
出演:ジョディ・フォスター/チョウ・ユンファ/バイ・リン/トム・フェルトン/シード・アルウィ/ランダル・ダク・キム/リム・ケイ・シュー/メリッサ・キャンベル/キース・チン/マノ・マニアム/シャンシニ・ヴェヌゴパール

2000/3/1/水 劇場(ニュー東宝シネマ)
やだ、もう、チョウさん素敵いぃ!(いかりや長介ではない)あー、大変大変、チョウさんの素敵さがアジアのみならず全世界に広まっちゃうじゃないの!(別にいいけど)チョウ・ユンファがモンクット王を演じると聞いた時から、ああ、これはハマリ役だ!と思ったんだー。'46年の「アンナとシャム王」は観てないけど'56年の「王様と私」は大好きで、しかもこれでユル・ブリンナーに惚れまくった私。だからブリンナーのイメージが強かったとは言うものの、チョウさんならやってくれると思ってた。しかしまさかここまでとは……。あああ、もう素敵すぎる、ヤバイヤバイ!リメイクものは元を凌駕しないとつねづね思っているけど('46年→'56年は判らないけど)ちょっと、ねえ、これに関しちゃなかなかいい線行ってるんでないの?

大作らしく、2時間半の長丁場。ま、最近は3時間を超す“大作”も多いから、そうでもないんだろうけど、先に上映時間知らないで良かった……時間を見ただけで私は結構くじけちゃうから。しかし、チョウさんに見とれているだけでもうあっという間に時間が過ぎてしまう。うー、こればかりはやはりハリウッドの力を感じてしまうな。一から作ったという豪奢な宮殿、寺院、町並み。国王にひれ伏す、数千を数えるエキストラ。象だ、遊覧船だ、とまあまあまあ、口をあんぐりあけるほどの壮大さ!CGは爆破シーンのみとの言葉どおり、それらの、そこに確実に“ある”存在感の迫力はほんと凄くて。CGってどんなものでも作れちゃうけど、いまだにまだCGの映像はそれと判るようなうすっぺらい感触を起こさせるし、実際は何十人かの人々をCGで何千人もの群集に見せる手法にしたって、実際に存在する何千人の人たちのリアルな躍動感にはかなわないものなあ。

シャム(現在のタイ)に王の子供たちの家庭教師としてやってきたアンナの物語は、もう言わずもがなだが(私はあくまで'56年版と比較するしかないんだけど)、アンナとモンクット王のみならず、その子供たちや、数多い王の愛人、奴隷問題にも焦点を当てる掘り下げの深さが本作の見所。アンナの教育が実ったか、近代化を大胆に推し進め、後にタイ最高の王と言われる、第一皇太子、チュラロンコーン。アンナの息子ルイを、おそらく初めての友達として、そしておそらくこれも初めてのけんかを体験する家庭教師一日目。そう、バリバリの王室育ちとは言え、この皇太子、やんちゃで好奇心が強くて。でも、人一倍悩む心と皇太子であるという自我もまた強くて。「なぜ同じ人間なのに奴隷と王様がいるのか」とアンナに問いかける彼に、アンナは「アンクル・トムの小屋」の本を差し出す。「女の書いた本?」「そうよ、それを読んでからディスカッションしましょう」しかしまだまだ古く厳しく、モンクット王は「近代化には時間がかかるのだ。こういう本は読ませないでほしい」とアンナを牽制する。それを受け入れるアンナ。でもこのことは、のちに奴隷制廃止を実現させた皇太子の大きな礎になったに違いない(このエピソードが事実だとしたら、だけど)。

コレラにかかって死んでしまう、モンクット王最愛の小さな王女の愛らしさもまた格別。王の教えた英語を鈴の音のような声で喋り、お絵描きが大好きな女の子。彼女が死んでしまう時、その小さな体を抱きしめて肩を震わせて泣くチョウ・ユンファ!ああ!彼の、どうしてやることも出来ないと苛立つ姿は本当に胸に迫る。このエピソードともうひとつ、王に献上された愛人のタプティムが愛する男が忘れられずに逃げ出し、処刑されてしまう話でも。ここではアンナが怒りのあまりうっかり「王様はこんなことお許しにならない!」と“私が言えば王様は言うことを聞く”的なことを口走ってしまったことで、王のメンツはつぶれ、介入を阻んでしまうのである。こうした談が挿入されるのも画期的。確かに今の時代は、それぞれの国の文化を大切にしよう!みたいなスローガンがちょっと病的なほどに行き届いていて、この作品でも、「東洋より優れている西洋が教えて差し上げる」といった、避けては通れない作品自体のカラーを上手く回避している。でも、あからさまに西洋のやり方が間違っている場合がある、とまで言うのは珍しい。この時のアンナの言動は、自分が正しいことは声に出して言わなければ、という西洋的な傲慢さがあり明らかに配慮に欠けていて、彼女がもうちょっと慎重に考えて抑えていたらタプティムは助かったかもしれないのだから。

23人の妻と42人の愛人の中で焦点を当てられるのは、この、恋人との愛を貫き、非業の死をとげる最も新しい側女のタプティムと、第一夫人の二人だけ。この第一夫人が、なかなかいい。何といっても美しい。そしてあまり言葉は発しないのだけど、ああ、彼女は確かに第一夫人なのだなあ、と思わせる王に対する深い理解と、自分がまとめ上げる女達の気持ちを一手に引き受ける度量を持っている感じ。正直、私は彼女の方のエピソードをもっと見たかった。

まあ、こんなゴタク(?)は正直どうでもいいんである。とにかく素敵なチョウさんを見ているだけで幸せ。彼の魅力は、言葉では上手く言い表せない。人間味というか、人情味があふれ出ている感じ。その笑顔!とにかく最初から最後まで彼の極上の笑顔には参りっぱなしで、表面上はアンナの強硬な意見に押されているように見えつつ、実は彼がアンナを上手くコントロールしているという……あああ、私もチョウさんにコントロールされたいわあ!?小さな金縁の眼鏡も知的に似合って素敵だし。そしてこの物語といえばなんたって「シャル・ウィ・ダンス?」諸外国の高官を集めて開かれた夜会で、アンナに手を差し伸べる時のチョウさんのあの笑顔!ううう、ちょっとその素敵さはルール違反だよお!?威圧的な力を持つゆえの王なのではなく、寛容力を持つゆえのカリスマ性。内部に裏切り者が出て、諸外国の敵陣に追いつめられるクライマックス、無茶な手勢でほとんど自殺行為な行動に出る王を、素晴らしい機転をきかせて救い出すアンナと王の子供たち。彼らを前にして「私と来たことが間違えた。男数人で敵を止めることが出来るなんて」という場面でも見せる、そうした懐の広さがとにかく素敵。指導者はこうでなくっちゃ、いけません。ああ、もうチョウさんったら、素敵なんだから!

些末なことは言わないで、ひたすらチョウさんの素敵さだけであっさり★★★★★をつけようかと思ってたんだけど、最後の最後、アンナがこの国を去る決心をして王とラストダンスを踊る場面、王が「はじめてわかった、男がひとりの女で満足できるということを」と言わせたところで、ふう、と気持ちが萎えてしまった。そんなこと、言わなくったって、判ってるのに、言わせちゃだめだよ、そんなこと!王もアンナもお互いに愛し合っているのが判っているけどそれを言える立場じゃない、だからこそ切ないのに。チョウさんもアンナ役のジョディ・フォスターもお互いへの感情が育っていくのを充分すぎるほどに観客に感じさせてくれているんだから、こんなヤボな台詞、言わせないで欲しかったと思うのは私だけなんだろうか。でも、ハリウッド映画って、絶対こうなんだよな……言葉で決着つけなければ安心できないのかな(「タイタニック」で弦楽三人組に「君たちと演奏できて光栄だった」と最後に言わせた時も同じこと思った……)。それって、役者の力を信じてない、映画(映像)自体の力を信じてないってことなんじゃないのかなあ?ことほど次第にやたらと脚本(言葉)ばかりを信頼するんだよな。文学じゃないんだからさあ、それ以外の部分を汲んでくれよ。海岸でのキス未満や、このラストダンスで頬を触るのですらやりすぎだと思ったのに。

ああ、でももういいや、だってだって、チョウさんが素敵なんだもん!それ以外何があるというのだ!!!★★★★☆


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