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「わ」


2001年鑑賞作品

わすれな草半支煙
1999年 101分 香港 カラー
監督:イップ・カムハン 脚本:イップ・カムハン
撮影: 音楽:
出演:エリック・ツァン/ニコラス・ツェー/スー・チー/ジョー・クーク/エレイン・ジン/テレンス・イン/スティーヴン・フォン/サム・リー/ケリー・チャン


2001/2/23/金 劇場(テアトル池袋)
新世代の香港若手スター、ニコラス・ツェーを前面に宣伝しているけれど、実は彼は狂言回し的な位置であり、真の主役はエリック・ツァンであった!あのエリック・ツァンが主役ッ!ふと気付くと、やたらと顔見るこのお方、「星願 あなたにもういちど」を観たのがほんのこの二日前だったりするもんだから、あ、また……と思うんだけど、しっかり今回は主役である。彼と言えばなんと言っても「ラヴソング」素晴らしき名脇役、と思ってたんだけど、主役を張ると、でも非常に位置をわきまえた主役っぷりでこれまたイイんである。そのちょっとふとっちょな外見からくる自分のコミカルさを充分に理解していて、きちっとそこで笑わせつつ、しかし、いやだからこそ、そのギャップで切なさがグワッと全開するんである。あーん、もう、エリック・ツァン、ホレちゃうかも!

冒頭であり、彼の登場シーンは、ブラジルである。何故彼がブラジルにいるのか、その理由は物語の中で二転三転するのだが。彼がこのブラジルの街を出て行く時、何度も何度も聞いたと思われる、針が飛びまくりのレコードはテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」もちろん中国語バージョン。この曲は彼のお気に入りソングらしく、その後何度も何度も出てくる。彼が日本語カラオケ(なんで!?)をじっと見つめ続けてエンドレスで歌う場面も出てくる。彼の出世作「ラヴソング」がテレサ・テンの歌が引っ張っていたような部分あったことを思い出したりする。ところでそう、この街を出て行く時、彼は街頭でサッカーに興じている子供たち(なんたって、ブラジルだから)の外れたボールを後ろ足でポンと蹴り上げて去ってゆくのだ。えええ、上手い!なんで!?と思ったら、このエリック・ツァン、もともとはプロサッカー選手だったとか!うっそお、この体型で!?(失礼!)なんという意外な経歴!

彼をサポートするそのニコラス・ツェー、彼、少なくとも私が見た作品(例えば「ジェネックス・コップ」)では他の若手スターと同列出演が多くって(本作でもみんなこぞって出演してるけど、ゲスト出演ぽいちょっと出)、そこではサム・リーにしてもスティーブン・フォンにしてもダニエル・ウーにしてもアクが強くて、彼ひとり外見もサラッとしてて、だから印象も今ひとつ薄かったんだけど、本作ではこの位置なので、ようやく彼ひとりをじっくりと見、その良さを実感することが出来た。ちょっとDA PAMPのYUKINARI君に似てるような好青年(彼もまたあの四人の中では一番サラッとしてるよね)。エリック・ツァン扮するヒョウのホラ話をアッサリ信じちゃったり(っつーか、その過去再現シーンでヒョウの役をスティーヴン・フォン、敵相手をサム・リーが演じてるっていう時点で観客にとっては、こりゃあホラだろうと思っちゃう、ってとこなんだけど(笑))、行きずりの男によって自分が作られた、その行きずりの男を街角で待ち続ける娼婦の母親(エレイン・ジン)をこれ以上なくいたわってたり、腐れ縁の幼なじみの女の子(ジョー・クーク)を捨て切れなかったり、と、優しさと優柔不断さと騙されやすさがみんな同じ要素から発しているような繊細な若き青年ぶりが母性本能をくすぐりますなあ。

ヒョウはかつてしがないチンピラだった時、やっぱりしがないチンピラだった九龍とバーの女をめぐってケンカになり、負けたのに、隙をついて九龍を背中から撃つという卑怯な手に出て、この香港の街からブラジルへと逃げていったのだった。彼が帰ってきたのは、そのケンカの原因となったバーの女に会いたい一心で。それというのも、彼はアルツハイマーに侵されて、日一日と記憶を失っていく運命にあったからだ。彼女のことだけは、一生覚えていたい、そのためには、もう一度ひとめ会いたい、と、30年ぶりに九龍に殺されるかもしれないという恐れをようやく振り切って香港へと帰ってきたのだ。

ニコラス・ツェー扮するスモーキーは当初、ヒョウはかつて組織の若きリーダーで、自分こそが九龍から背中から撃たれ、気付いた時にはブラジル行きの船に乗せられていたと聞かされるのである。今から思えばもう自分にはあとがないというゆえの開き直りでなのだが、暴れ者のチンピラをひとにらみで追い返す気迫にもホレこんで、彼の手助けをすることとなる。スモーキーは街角の婦人警官(ケリー・チャン)をこっそりビデオで盗み撮りをして憧れている一方、幼なじみの女の子に雨の日、突然ピアノを贈るという(まあ、成り行きでかっぱらったものだけど)まだまだ世間知らずの純情青年。このピアノのプレゼントのシーンはかなりステキだった。街でヒョウとスモーキーがチンピラにからまれて、ピアノをカクレミノに、それを運ぶ振りをしてこっそり逃げ出す。まー、どっから持ってきたんだか、とにかくそれを返さないで、あの女の子にあげようということになり、路上を二人でピアノを押して行く。途中雨が降ってくる。ピアノの下で雨宿りをしようということになる。そこで聞かされるのがヒョウのホラ話なのだが、その中で唯一の真実は、けだるく美しいバーの女の面影である。演じるはスー・チー。私は彼女はカワユイ役柄の方が好みなのだけど、そのパーツのアンバランスさと何よりそのたっぷりとした唇、これを真っ赤な紅に染めると、こりゃあまあ、ほんとにまあ、色っぽく美しく、そしてその薄くて濃い独特の顔立ちは、時代を超越してて、なるほど30年後に全くそのまま変わらず(文字通り、ほんとにそのまま)ヒョウの前に現れるのもナットクなのである。

そう、やっと会えた時、彼女はあの時と変わらずけだるげに座ってこちらを見ていた。いよいよ自分の記憶が怪しくなってきたヒョウが汗だくで店に駆け込んでくる。彼女を見つける。全く変わっていないことに驚いたのか、あるいは本当に彼女がいたことに驚いたのか、いや、変わらぬ美しさにボーゼンとしたと言った方が正しいかもしれない。立ち尽くす彼。彼女にタバコをすすめ、彼女の誘いでダンスを踊る。テーブルの上で。これは……この彼女は、本当に、ホンモノなのか。ヒョウの幻想なのか。いやでも、タバコを買ってくる、と席をはずしたこの彼女とすれ違う、店に入ってきたスモーキーが、彼女を、あ、と言う感じで一瞬振り返るんである。その時、半ば茫然自失したヒョウが、もういい、もう充分だとでもいった趣で、たった一発だけこめた銃弾を自らのこめかみに押し当てる。ああっ、と思う。九龍を殺すために、たった一発の弾丸で充分だと用意されたその銃、たった一発で充分だったのは、彼女の記憶を刻みつけた状態で自ら死を迎えるからだったのだ、何故今までそのことに気付かなかったのだろう!

しかし、次のシーンでは、ヒョウは街角に、その彼女から聞きだした名前、アナンという文字を落書きしまくっている。注意する婦人警官はスモーキーのアコガレのあの女性。割って入るスモーキー。今やアルツハイマーに完全に侵されてしまったヒョウをスモーキーが世話しているのだ。あなた、チンピラやめたの、この人世話して偉いわね、と笑いかける彼女に、スモーキーは初めて笑顔を見た、と少々の驚きと隠しきれない嬉しさを込めてつぶやくのだ。若い二人に込められた希望のさわやかさと、アルツハイマーとなっても彼女、アナンのことを決して忘れない、忘れようとしないヒョウの悲観的ではない病気と戦いながら生きる姿は、決して大げさにしてなくて、本当にサラッとしてるんだけど、思い返せば、ああ、ホントに的を絞って描いてるなあ、と思うのだ。

病気に侵された時、人間の尊厳を守るために死を選ぶか、最後まで生を貫き通すか。それはもちろんその状況によって違うものだけど、その葛藤の末に、そしてスモーキーという相棒を得てヒョウが選んだ後者の道は、勇気ある、そして意味のある選択だったに違いない。★★★☆☆


忘れられぬ人々
2000年 120分 日本 カラー
監督:篠崎誠 脚本:篠崎誠 山村玲
撮影:鈴木一博 音楽:リトル・クリーチャーズ
出演:三橋達也 大木実 青木富夫 内海桂子 風見章子 篠田三郎 真田麻垂美 遠藤雅 星美智子 佐伯秀男 大森南朋 中村育二 井口昇 黒沼弘巳 伊沢磨紀 山中聡 羽柴誠 末吉くん 梁時榮 ドミニク・ローズ 芹川藍 羽賀優里亜 春風亭昇太 鈴木卓爾

2000/9/21/金 劇場(テアトル新宿)
これほど新作を待たされた監督はいなかっただろう。いくらなんでも5年は待たせすぎだ!などと思いつつ、あの衝撃的な感動を覚えた「おかえり」から、やっと5年をめぐって篠崎監督の新作に出会えたことをとてもとても嬉しく思う。淡々としたリズムの中に怖いほどの緊張感に満ち溢れていた前作から、今回はどんな作品になっているのかと思い、3人の老名優たちがフィーチュアリングされていると知って、これは一転、小津的な静かな世界なのかと思いきや、最初のうちこそそう思わせたものの、予期もしない波風がこっそりと近づいてきて、あっと声をあげそうになる横殴りの暴風雨になる。びっくりし、息をのみ、しかしやはり涙があふれた。

戦争=過去のトラウマを持ちつつ現代を静かに生きている老人たちが現代と接点を持つ時、彼らはそのために死んでしまう……とこう言ってしまうと本当にミもフタもないのだが、でもその毒、その哀しさはどうしようもなく胸に迫る。老人たち=かつての若者たちが戦場という、もう二度と繰り返してはいけない場所で学んだものは、しかし真実の友情であり真実の愛情だった。一方、現代の若者たちが戦争もない平和なはずの今(というのも、危うくなってきたが)、それを得ることが非常に難しいこの皮肉。仁は「自分のために死んでくれる友達がいるか。俺はお前のために死ねる」という友人の言葉に惑わされて、その友人が勧める会社の説明会に行き、ほとんど洗脳のようにしてその会社、その社長に心酔させられてしまう。

画面のこちら側から観ている私たちには、最初っからどうにもうさんくさげなのだが、仁はそれに気づかない。それは最初にあの「自分のために死んでくれる友達がいるか」という部分に彼が衝撃を受けているから。しかしだからと言って、この台詞を吐いた友人が嘘を言っているかというとそうとも言い切れない。この友人は自分もその台詞を言われてそれが本当の友情だと信じてしまったのであり、彼の中ではそれが真実になってしまっているのだ。まるで伝言ゲームのようにそんな台詞で取り込んでいってしまったのだろう、この会社は。一番トップにいる社長がその根源であるとすら言えないかもしれない。根源は本物を生み出せなくなってしまったこの社会そのものかもしれない。この社長もそう思うからこそ、その社会に反発してこの会社の理念を作った。しかし間違った社会をお手本にしたから、ただ単に逆説的に作り上げてもやはり捻じ曲がってしまった。そういうことなのかもしれない。

この台詞に対応する形で出てくる、三老人たちの戦争の回想シーンがある。在日韓国人であったと思われる金山という青年兵士が、負傷して動けなくなってしまう。背後からは敵が迫っている。金山は「死ぬんだったら、友達に殺されて死にたい」と韓国語で言う。韓国語で言うからこそ、本当の、本気の意志だと思える。しかしそう言われた木島は、その言葉の意味は判っていただろうが、彼を撃てない。そして金山は結局、敵の爆撃で死んでしまうのだ。多分木島は、そのことをずっと後悔して生きてきたんだろうと思う。金山の孫である百合子に彼の最期を聞かれた時、木島は一瞬言葉を飲み……このくだりのことには触れなかった。友達のために死ねるのが本当の友情ではなく、友達を殺せるのが本当の友情かもしれないという、凄まじい問題提起。もちろんそれは、その友達が助からないという条件付なのであるが……しかしやはりこんなものを見せ付けられてしまうと、「友達のために死ねる」という言葉すら薄っぺらいものに感じてしまう凄さ。でもそれを完全に信仰して言っている大森南朋は凄かった。彼はふと気づくとすごくいい位置にいる俳優。気づくのが遅かったかも……。

三人の老人たちがそれぞれにあまりにもあまりにも魅力的。木島(三橋達也)は古い小さな平屋建てに住み、野菜を育てて暮らしているちょっとヘンクツ気味のじいさん。しかし近所に住む色の浅黒いアメリカ人(ハーフ?)の男の子、ケンと金山の遺品のハーモニカを介して心を通わせる。雑誌のインタビューで、ケンの父親が米兵だと知った時にさらりと流したことに対して、もっと演技をすれば良かったと三橋氏は悔やまれていたが、しかし私はそれこそが木島であり、敵ではなく、戦争そのものを憎むという姿勢にきちんとのっとっているのではないのかと思ったのだ。話しはずれるけど、そういう気持ちを持っていれば、先日のテロのような攻撃を受けても、即報復という意識にはならないと思う。敵ではなく、争いを憎むなら。だからこの木島とケンの交流は、そうしたものを言外ににじませていて、凄く良かったのだ。

居酒屋を切り盛りする平八(大木実)は、共に生きてきた妻が余命いくばくもないことを知って、戸惑いながらも最後まで泣かせる愛情を見せる。このテレ屋の愛情表現をよーく判っている、気丈で明るい奥さんに扮する内海桂子がすんごく良くって。あんたが嘘をついてもちゃーんと判るんだから、なんていう場面なんか何十年も一緒に暮らしてきた夫婦の、何も言わなくてもわかっちゃう愛情の深さをぎゅっと凝縮して示していて、ああ、何ていいんだろうと思ってしまう。若い恋人同士や若い夫婦もカッコよくて美しくて素敵だけど、やっぱりこんな風に長年連れ添ってきた夫婦の美しさにはかなわない。それも実際は他人同士であるこの二人が、まさしく名演技でそれを体現する素晴らしさにも感嘆してしまう。でもそれこそ夫婦はもともと他人同士、それがこんな愛情を分かち合えるんだから、……人生って、素晴らしい。

そしてややコメディリリーフ的な民夫がまた実にいい。この年になって、いや年なんて関係ないさと恋に落ちちゃうおじいちゃんに、演じる青木富夫が実に似合ってる。恋する相手は上品な老婦人。一緒にボートに乗ったり彼女の教える生け花教室に通ったり、果ては彼女にプレゼントする指輪を買うために赤い絹糸でおまじないとごまかして指のサイズをはかったりと、ちょっと思わずキュンと来ちゃいそうなまさしく恋のエピソードのフル回転。しかしこの彼女、小春はくだんの霊感商法にだまされて、すっかり放心状態になってしまう。すべてを失った彼女のもとに、指輪を携えて民夫が訪ねていっても、彼女は彼を戦地に行った夫だと思っている。民夫は一人短刀を忍ばせて、小春をだました会社の元に行く。そして命を散らしてしまう。コメディリリーフだと思っていた彼、恋しているのも惚れっぽい彼の性分だと思っていたこちらに衝撃を与える。でも、民夫は、いいことなんか何一つなかった戦争だけど、そこでお前たちに出会えたこと、友達になれたことだけは良かったと、今思えばこの作品の根幹に触れるようなことを言い、そしてその後にあんな行動に出たのだ。それに小春のためだけではなかった。平八も妻が病気だという心の弱さにつけ込まれて、やはりこの会社にだまされていたのだから。

若い世代とこの老世代、そしてこの会社との橋渡しをしてしまう、金山の孫の百合子。看護婦として平八の妻の担当をしている彼女は、仕事もだんだん判ってきて、後輩もできて、充実はしているんだけど、人のために何かしたいと思っていたけれど、結局は自分のためなんだよね……などと、20代半ばに抱える特有の漠然とした、煮え切らない思いに心揺れている。演じる大のお気に入りの真田麻垂美ちゃんが、相変わらずイイんだなあ。彼女は清楚さと現代っ子っぽい部分とをバランス良く保っている女の子で、どちらに転んでもわざとらしさやいやみが全然ない。感受性にあふれているというのを凄く感じさせる。

そして彼女の恋人で、心の弱さにつけ込まれてこの会社に引き入れられてしまう仁にこちらも待ちに待ってた遠藤雅。彼は百合子と違って、仕事に悩む前にリストラにあってしまい、その後、自分が情熱を傾けられる仕事も見つからず、そんな自分をふがいないと思い、百合子に対しても申し訳ないと思い、でもまじめに語るのは何となく気恥ずかしくて、でもやっぱりおかしい、間違っていると気づくだけの心の強さは持っている。百合子が「あいつ本当はそんな奴じゃないんです」とちょっとくだけた言い方に愛情が込められているのを感じさせて彼をかばうのが、仁の人となりをこんな風に説明する以上に的確に言い当てている気がする。こういう、モヤモヤとしたものを自分でもてあましている様な役って、想像以上に難しいと思うんだけど、遠藤雅はこういうのが本当に上手い。この二人はまさしくみずみずしいという言葉が当てはまる。

「あんなふうに一緒に年をとっていけたらいいね」と百合子が言うように、二人が一緒に生きていって欲しいな、と思う。それが、戦争で生き長らえて、この年まで苦しみながら生きてきた三人が、彼ら若い世代のために命を散らしたことに対する最大級の返礼ではないだろうか。

そう、本当にこのクライマックスには、参った、驚いた。弔い合戦とばかりに、木島と平八は敵陣、あの悪徳会社の元に乗り込む。何と木島はスラリと長い日本刀を持っている!そしてもっと驚いたのは、その敵が、ピストルを持っていたことである!!そりゃ、射撃練習とか言ってたけど、本当にこういう目的のために??それにしても全然動じずに冷静に、木島たちに向かってドン!ドン!と発砲する社長(篠田三郎)にアゼンとしつつ、その社長にまるで高倉健のごとく、抱き合うようにして相手に刀をグサリとやる木島、いやいや三橋達也のオーラに、さらにアゼンとする。ま、まさかこんな展開になるとは……。しかしこの会社はこの社会を象徴しているに過ぎず、まさしくこの社会は、かつての戦争と匹敵するぐらいの悲惨さであるという暗示のような気もしてゾッとする。私たちは戦場に生きているのだと。それも、友情すらも生み出せない戦場に。

しかしラスト、まるで天使のようにケンぼうの元に姿をあらわした三人、その友情の象徴である金山のハーモニカを彼に届け、穏やかに地平の向こうに去って行く。その前からずっと泣いていたけど、ここに至って更に涙腺がゆるくなる。韓国人だった金山もそうだし、アメリカ人であるケンもそう、その国のことを特に声高く言わないところが、本来の人間の関係、友情関係にそんなものは何ひとつ関係ないんだよと言っている気がするのだ。もちろん、それはそんなに簡単なことではなくて、「ホタル」のようにそれをどうしても避けて通れないというのが本当のところではあるけれど、でも「ホタル」にしたって、言いたかったのはその一点ではなかったろうか。国も何にも関係なく、ただ友達でいられたら、戦争なんて起きるわけがない。人間がただ暮らしているだけの地球、そう考えれば、それってそんなに難しいことではないように思えるのに……。★★★★☆


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