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星願 あなたにもういちど/星語心願/FLY ME TO POLARIS
1999年 93分 香港 カラー
監督:ジングル・マ 脚本:ロー・チーリャン/ヤン・シンリン
撮影:ジングル・マ/チャン・ゴクハン 音楽:ピーター・カム
出演:セシリア・チャン/リッチー・レン/ウィリアム・ソー/エリック・ツァン/エリック・コット/シャーレン・タン/ラム・サンサン
その主たる原因は、多分ヒロインにある。もっとも感情移入しなければいけないヒロイン、オータムを演じるセシリア・チャンが、ヘタなんだもん。いやいや、少女女優はヘタでもいいの。むしろその方が好感が持てるということもあるのだけれど、彼女の場合、“泣く”ことだけにとにかく心血を注いでて、しかもその泣きのシーンもほんとにその役柄に感情移入して泣いているかどうかはあやしいもんなのだ。なーんて、ね。そう思ったのは、彼女のインタビューで、監督が「君の弟が海外に移住して会えなくなってしまうことを想像してごらん」などと言って泣きのシーンを演出していた、というのを読んだせいかもしれないんだけど。でもそれを読んで、ああ、やっぱりそういう泣きだったんだ、と思ったのも事実で。不思議と判っちゃうんだよなあ、そういうのって。ほんとにそのことで泣いてるのかどうかって。彼女、そうした泣きのシーンや、取り乱すシーンや、そうしたテンションを必要とするところでは妙に頑張ってるんだけど、その他のところではいささか集中力にかけてるって感じだし。もっと役を生きて欲しいのよね。考えてみればこのセシリア・チャン、デビューである前作「喜劇王」は、テンションだけで運ばれているような作品だったし、その中で彼女もテンションだけで駆け抜けてる感じだったし、だからあの時はそうしたことを感じなかったんだよなあ。
一方、主人公である死んでしまう青年、オニオン役のリッチー・レンは結構頑張っていた、と思う。「ゴージャス」でスー・チー扮するヒロインに思いを寄せる青年役、ああ、いたいた!とは思うけど、ぜっんぜん覚えてない(笑)。だってあの時はスー・チーがあまり可愛いすぎて……いやいや、そんなことはどうでもいいんだけど。本作の彼はまず、なんかカワユイのだ。前半、彼は目が見えなくて声も出せない二重苦を背負った青年をさらりと熱演して、ケナゲで、声は出ないけどお喋りで、静かに明るくて、という矛盾した要素をなかなかに上手く演じてる。黙ったままニコニコしているサマがなんともチャーミングなのだ。そしてアッサリと車にはねられて死んでしまったあと、声と視力を取り戻して地上に戻ってからは、……うーん、フツーかな(笑)。でもセシリア・チャンよりはイイけど。
この突然死んでしまう部分が、いやその部分のみならず全体に、かなりライトに綴ってゆくのだけど、それもまた私が泣けなかった原因かもしれない。ま、全編湿っぽく泣かせに来てたら、それもまたうっとうしくって逆効果だったろうけど、でもある程度の緩急はつけてほしい。ラストあたりで急に一生懸命泣かせに来ても、それまでに気持ちが盛り上がってないから、なんかスクリーンの中の二人だけが盛り上がってるって気になってしまう。オニオンが死んで悲しい、とか言ってる割には、オータムは泣くシーン以外はかなりアッサリした表情を見せているのもねえ。だってさ、彼女、オニオンに対する思いが、患者に対する看護婦としての使命感なのか、恋の感情なのか、って葛藤する部分もあるわけでしょ?それなのに、このアッサリ加減は、なんなの。泣きゃいいってもんじゃないでしょうが。……これは、彼女のが悪いのか、それともそういう演出を監督がつけてるんだろうか?
監督はジングル・マ。かなり聞いたことのある名前だと思ったら、「ラヴソング」などの傑作を多く手がけているカメラマン。カメラマンの割にはそうした見える部分をずいぶんと気にしないのね。それともこの子が可愛いから、それだけで良しとしちゃってるのかあ?実際、ちょっと垢抜けない気分はするものの、このセシリア・チャンはちょっとビックリするほどの美少女だし。でもだからこそ彼女の魅力を引き出すために、もっと適切な演出をつけてほしかったなあ、なんて。
オータムに思いを寄せる青年医師、ウー先生役のウィリアム・ソー、そして、ただひとり自らオニオンの正体に気付く(設定ではオニオンは生前とは違う姿である、ということになってるのよね。でもまんまおんなじ人だけど)彼の親友のジャンボ役、エリック・ツァン(彼は「ラヴソング」の親分役といい、ホントに名優ね!)の両脇役はイイ。上手い。それに本来なら恋敵で、ある意味悪役となる位置のはずのウー先生も、オニオンにとって恩人である医師だし、実際最後までいい人だし、この作品には悪い人は出てこないのよね。それこそオニオンを轢いてしまった(それもオニオンがオータムとのことで浮かれて車道に突然飛び出したからだし)カップルも彼の墓参りに訪れてたりするし。まあ、それはこういうタイプのラブストーリーではお約束だけど。
ラスト、天に召されるオニオンがきらきらと光る流星群とともに消えてゆくというこっぱ恥ずかしいSFX、うー、これで泣けと言うの?セシリア・チャンは大泣きだったが……。★★☆☆☆
二人の女に一人の男。女はホテトル嬢に、トラウマを抱えた自閉気味の少女。という女の双方の設定はそれだけでちょっとイラつかせるものを感じなくもない。ああ、またこんなんか、と。ただ、行定監督の視線と柔らかな映像が優しすぎて、そんな私のねじくれた気持ちも後退してしまう。私は不感症だからこの仕事がヘイキなの、と言ってはばからないミヤコが出会った客の新谷。彼によってミヤコはセックスで初めてイクという経験をする。それが単なる体の相性だったのか、それとも……。ミヤコは客としてではなく、新谷と会うようになる。そして一緒に暮らす、いわば自分の収入で住まわせているサキコをも彼に会わせる。静かで穏やかで、でも実は危うさを内包していたことに二人とも気づかなかった、そのささやかな女二人の生活に小さなさざなみが立ちはじめる……。
新谷の存在は確かに気持ちの上で二人(三人と言った方がいいかな)を揺り動かしているのだけれど、セックスが介在していることで、問題はセックスの有無にあるのだと、勘違いしそうになる。いや、そう思いたがっていたのは、ミヤコだったのか……。彼女は新谷に感じながらも、気持ちは彼には渡していなかった。彼女が彼に執拗にセックスを求めるのは、ミヤコに対してそれが出来ないからだったのだ。そしてミヤコに彼をあてがうのも、また同じこと。でもミヤコが新谷と心を交していき、体も交わらせ、明らかに新谷がサキコからミヤコに心も体も移していくのを目の当たりにしてミヤコは動揺する。それは最初、新谷をミヤコに渡したくないということなのかなとも思えもしたのだが、そうではない、ミヤコを新谷に渡したくないということだったのだ。
でもサキコもいつからそれに自覚的だったのか判らない。セックスを介在して彼女が初めて感じられた男の存在ということによって、ミヤコが体と心のバランスを危うくしているのが判る。ミヤコがサキコに感じたかった感覚、そしてサキコが好きだからこそ、別の人には感じることはないだろうと思い込んでいたセックスの感覚を、新谷によって得てしまった彼女は、新谷との感覚にサキコを夢想しながらも、やはりその相手はサキコではないのだ。そしてその感覚をサキコと共有することによって、間接的にでもサキコと一体になろうとしても、サキコの相手もミヤコではないのだ。それに明らかに新谷とサキコはミヤコを外した部分で気持ちと体を重ねている。サキコとセックスした後では、新谷は絡みついてくるミヤコにうっとうしげである。突然はじき出されたかのようなミヤコの心の痛み。
では、サキコはどうなのか?サキコはこんなにもミヤコに愛されているのに、いまだに親と義母との葛藤で自分は汚いと、愛されないのだと思い込んでいる。それは逆説的に自分への偏愛とも言えるのだが、サキコはまだそのことには気づかない。ミヤコはサキコに女の子らしいワンピースをプレゼントしたりもするが、そしてそれは本当にサキコに良く似合っているのだが、サキコは私にはこんなのは似合わない、といつもいつもジャージやTシャツ姿でいる。こんなにかわいいのに、こんなに愛されているのに、お前こそ贅沢な奴だ、と思ってしまうぐらい。
最初の頃、イチャイチャしている新谷とミヤコに取り残されているのはサキコの方である。ある日、サキコはいつものように屋上で一歩、二歩、と行進する練習?をしている時、突如下に落ちてしまい、足を骨折する。それは、もちろん偶然の事故なのだろうが、まるでわざとのようにも思える。この時、新谷とのデートの最中、ミヤコはサキコに似合いそうなかわいいミュールを買っている。多分またミヤコは私にはこんなの似合わないよお、と言いそうな。そしてこの事故をきっかけにするように、ミヤコは新谷にサキコを抱いてくれるように頼み、しかし新谷は多分そのこととは関係なしにサキコの孤独の感情にシンパシィを重ねて彼女を抱く。“そのこととは関係なしに”という部分にミヤコも気づいていたに違いない。
確かに、サキコの痛みの方が見えやすい。だからなのか、新谷がミヤコからサキコに心を移していくのは。大体新谷というのは何者なのか。最後まで本名が明かされない、昔自分がいじめていた子の名前を名乗っているという彼。しかも彼の気持ちも、もしかして持っている彼自身の痛みも、最後まで見えることはない。まぼろしとも言えるような存在で、ミヤコとサキコの二人の生活のバランスをかき回すために現われたかのような人物なのだ。それが二人にとっていいことだったのか、悪いことだったのか……。サキコがすくった(ちょっとおまけしてもらった)三匹の赤い金魚が、新谷の提案で小さなジューサーミキサーに泳がせられる。その場面で、はしゃぐ二人の後ろでバケツを持ってたたずむミヤコが哀しい。その金魚は、ミヤコの幻想で示されるように、ちょっとボタンを押したらあっという間に真っ赤な血にまみれて崩壊してしまう危ういバランス。それはあまりにも直裁にこの三人を象徴していて、象徴しすぎていて。ミキサーの中の金魚たちは、限られた空間の中をぐるぐると、酸素欠乏気味に泳いでいる。誰か一人が抜け出さないと、その空間はあまりに狭すぎる。
最初に抜け出したのは、新谷だった。そしてそれによって元に戻るかと思われたミヤコとサキコの生活は、突然のミヤコの死で終焉を迎える。なぜミヤコは死んでしまったのか。あの骨が実は致命傷だったのか、あのマニアックな客を怒らせて殺されてしまったのか。ミヤコが荼毘にふされる時、そこにはサキコしかいない。実は家族との絆が断たれていたのはサキコではなく、ミヤコの方だったのか。愛されたいと願っていたのも……。
デビューの時からしっかり見せてくれているつぐみちゃんは、ここでもしっかり見せてくれる。一見、見せそうもない童顔の顔とのギャップで、そして意外に豊満なバストだったりして、結構嬉しくさせてくれる。一方の麻生久美子は、「カンゾー先生」でこそあらわなお尻を見せてくれたものの、とんと見せてくれない。今回のような役柄だったら不可欠だと思うのに、不自然だと思うぐらいに胸もしっかり隠して、見せない。イメージがあるのかなあ、ちょっとつまらない。★★★☆☆
嫉妬深いというマユリの目を盗んで、隠れてセックスをする二人。一方のマユリはこの二人の関係に気づいて、報告する吟次をいたぶる。手足を縛り、自分の泣き所をなめさせ、剣山で愛撫するというSMな行為によって。たまらず射精する吟次に、マユリは悲鳴をあげる。「あたしはこれが大っきらいなんだよ!」その後、縛り上げたミクを腰につけた擬似ペニスで犯すという場面もあり、このマユリは男に対して極度な拒絶反応があるらしい。しかし、和彦のことは偏愛している。姉弟というには、異常なくらいに。といって、近親相姦に陥るわけでもない……なぜなのか。
和彦とミクが手に手をとって逃げ出そうとすると、二人は捕えられる。二人は縛り上げられ、和彦の目の前で、マユリの命令で吟次によって犯されるミク。たまらず叫んだ和彦の言葉「もうやめてくれよ、母さん!」驚き、目を見張るミク。「母さんって、どういうこと!?」その言葉を聞いた途端、髪をかきむしり、狂乱するマユリ。思い出したくない、封じ込められてしまった過去が放たれてしまった。そして今度は「姉さん!」とマユリに呼びかける吟次。???一体どうなってるのー!?と思っていると、こっからがちょっとスゴイ。ヘタウマな少女漫画風劇画で、彼らの呪われた血の関係が説明されるのだ。……いやー、この漫画にはちょっと引いちゃったけど……それまでが、まあ、他の作品と比べてもエッチの濃厚度は高かったけど、でもその和風で古い、ワビサビな雰囲気が渋かったもんだから、ありゃりゃりゃりゃ、なんだこれはー!?と思ったのは否めないんだなあ……。再現フィルムのほうがまだ良かったけど……。
んで、まあ、どういうことかっていうと、マユリは吟次の父親が結婚した母親の連れ子で、この義父に12歳の頃に性的虐待を受けていたということ。それを知って嫉妬に狂った母親が彼女を殺そうとしたところ、逆に父親を殺してしまったこと。母親は完全に狂乱してダイナマイトを体中にくくりつけ、河に入っていって爆死したこと。そしてその時、マユリは義父との子、和彦を妊娠してしまっていたこと……。うーん、火サスか昼メロな展開?ほのかな恋心さえ抱いていた、二歳年上のお姉ちゃんを、子供ゆえ救えなかったことを後悔し続ける吟次と、呪われた子供でも、やはり愛しているがゆえに過去を封じ込めたマユリ、そしてこの3人の中で複雑すぎる存在である和彦。過去のトラウマを忘れようとしてか、ミクのような目にあった女が数多くいたという。
あれ以来、男に対する憎悪から、男とすることが出来ないマユリ。「でも、和彦となら出来るような気がする。愛しているのよ」と和彦を脱がせにかかるマユリを、吟次が後ろから殴りつける。崩れ落ちるマユリ。吟次はマユリにダイナマイトをくくりつける(しかし……なんでダイナマイトなんて、どうやって手に入れるんだろ?)「ようやくこの人を救うことが出来る」と、彼女を後ろから抱きしめ、和彦とミクに逃げるように促す。爆音を背に、命からがら逃げてきた二人、これからどうしたらいいんだと頭を抱える和彦に、私がいるじゃない、と声をかけるミク。「私、女将さんの気持ち、判るような気がする」と言ってミクが告白したのは、彼女もまた、他に女を作った男を殺してきた過去を持っていたのだ。私だけを愛してくれる男じゃなきゃ許せない、と狂ったように叫ぶミクを呆然と眺める和彦。迫るパトカーの音。そして……ジ・エンド。
母親からの異様な愛情と嫉妬を恐れ、忘れたいと思うかのように、女とのセックスに溺れまくる和彦という図式は、ちょっと吉田秋生「ラヴァーズ・キス」の藤井を思い出させなくもない。しかし和彦が「入れた感じも他の女と全然違う」と惚れこんだミクは、誤った選択だったかもしれないが……。
呪われた血、その性の妄執が、濃厚で繰り返し表れる絡みシーンに無理なく結びついていて、これぞピンク映画、という感じ。湯けむりの中で、狭くて暗い荷物部屋の中で、廃工場の中で、ほの暗い行灯風照明の和室の中でと、セックスは秘めるべきであるという隠微さがこれでもかと連打される。ミクや、和彦のガールフレンドの若々しい肉体も魅力だが、赤い襦袢に乱れた髪を鬼のように揺らせる、熟した女のマユリにやはり圧倒される。何と言っても、彼女は12歳の時以来、いわゆる挿入するまでのセックスをしていないという設定であり、それが彼女の異様なまでの執着心を煽り立てているようで、恐ろしい。恐ろしいながら、美しい。
タイトルどおり、いたるところで妙に尻フェチなところも、またヨイ。★★★☆☆
この作品に出てくる少女たちは、みな目の覚めるほど長い足を制服の短いスカートからあらわにしている。ショットも彼女たちのそうしたカモシカのような足を執拗に追う。一瞬、軽やかに駆け抜けていく時代、と錯覚しそうになるけれど、彼女たちのその足が、あまりに細く、あまりに頼りなく、そしてだからこそ美しいのが判る。笑いさざめいている彼女たちは、その笑いさざめくことで心の曇りから目をそむけている。ひょっとすると、そのまま過ぎ去ってしまうことも出来る。そうできたら、幸せなのかもしれない。いや……。
この少女たちの中で、まず胡摩だけがその曇りに気づく。友達との距離を感じると、どんどんその距離が離れていく。「学校、友達、いつものおしゃべり、どんな言葉も私には届かない」友達たちも、彼女の異変に気づく。胡摩はただ気づいてしまっただけで、彼女らと何かが違うという訳ではない。あるいは彼女たちにもそのことは判っていたのかもしれない。気づいてしまった彼女に、深層意識下で嫉妬していたのかもしれない。なんにせよ、彼女たちは胡摩から距離を置く。一層、胡摩と彼女たちとの距離が離れる。
少女である、という一点で彼女たちを結んでいた糸が、風に揺らされるようにバランスを崩し始める。胡摩から距離を置く彼女たちの間にもさまざまな糸の引き方があって、胡摩への視線をそらさずにいる者もいる。しかし胡摩は彼女自身の心の曇りに気づいた時から、そのほかのことに気づくだけの余裕がない。ひょっとしたら少女の残酷さはそこにあるのかもしれないな、とも思う。彼女たちはそれぞれに必死で、それぞれの心の中に沈んでいて、その姿は美しく、彼女たちに手を差しのべようと思うのだけれど、彼女たちはそれを許さない。少女の世界には絶対の掟があり、それは同じ少女同士でも破ってはいけないものなのだ。
胡摩は、ある日「世界の終わり」と名づけられた、古びた雑貨店に出会う。古びたというのはその店が入っているアパートが取り壊し寸前に古びているだけで、その店自体はつい最近開店したばかりである。しかしその“古びた”がそのまま店の形容詞になっても差し支えないと思われるほど、その店は昔からそこにあったかのように、ひっそりと息づいている。胡摩はそこに自分の息をする場所を見つけ、何度となく出入りするようになる。しかし彼女がそこに行く時は、学校にいる時の彼女とは違う、キュートに着飾った彼女である。少女ファッション雑誌から抜け出たような、様々な洋服で“武装”し、その店に忍び込むように、踊るように、入っていく。
その店のオーナーは情報誌のライターをやめたばかりの青年、雄高。文章の持つ力、その理想に挫折した彼は、このボロアパートを存続させるために、部屋代をタダにするからここに残って店をやらないかという家主の誘いに応じて、その雑貨店を開店した。雑貨店というより、古道具屋。懐かしい小物をいっぱい揃えて、照明はろうそくの明かりだけ。かつての同僚が気にして勝手に雑誌に掲載した時にちょこっとだけ騒々しくなったけれど、それ以降はお世辞にも流行っているとはいえない。というより、客は胡摩だけではないかと思うぐらい。彼女が買ってゆく、小さな紙せっけんの50円が、その日の一日の売上。その50円が、彼に生きる資格を与えているかのよう。
彼の挫折の理由は、社会に生きていくには甘すぎるのかもしれないのだけれども、判りすぎるほどに判って胸が痛い。編集部から言われて、レストランのハンバーグのサイズまで測量する彼に、女主人が言う「味のこともちゃんと書いてね」というひと言は、しごく当然のことなのだが、読者が求めている(と編集部が思っている)文章と、取材される側と、取材する彼、それぞれの気持ちが乖離している、この奇妙な世間というものをまさにその一場面で切り取っている。生きていくということは、この奇妙な乖離に目をつぶっていくことなのかもしれないが、彼にはそれが出来ない。出来ない彼が、うらやましく思える。
アパートの家主が死に、その息子が店に訪ねてくる。彼は来るなり、いきなり店の照明をつける。ほの明るい居心地の良さの中に眠っていたものたちが、悲鳴をあげて飛び去っていってしまったような残酷な明るさの中に照らされ、呆然と彼を見つめる雄高。アパートの取り壊しのために、立ち退きを要求する彼に、さらに呆然とする。行き場を失う胡摩と雄高。「……二人でどこか行っちゃおうか」銀河鉄道777みたいな、今はもう絶対にない木張りの列車に乗って彼らは逃避行に出る。店に飾ってあった、黒光りする波が映し出された写真を持って。その場所が見つかった時が旅の終わり、そして二人の別れかもしれないと、ぼんやりと不安に思う気持ちが的中する。胡摩の父親から派遣された私立探偵が、彼らに追いつき、彼女に耳打ちしたのだ。雄高を困った立場に追い込みたくないのなら、と。思い悩む胡摩。彼と二人、動かない川面にボートを浮かべたり、小さな部屋の中でぼんやりと並んで座ったりする。何をするともなく。「こうしていると、時間が止まっているみたい」そうじゃない、彼女は、時間が止まってしまったらいいと、そう思ったに違いない。でも、時間は止まらないのだ、決して。どんなに願っても。
流木が静かに留まる、澄んでいながらよどんでいるような川のほとりで、胡摩は彼に別れを告げる。川を眺めていた彼に目隠しをして、「私がいいと言うまで、絶対に目を開けないで下さい」と言って、恐る恐る後ずさりをし、探偵の車に乗り、行ってしまう。雄高は多分予期していたのだろうけれど、車の音で振り返り、立ちすくむ。その別れは世間の時間が彼らを許さなかったからだ。止まらない時間というものは、結局は世間が刻んでいる時間。この世界にたった二人だけだったなら、本当に時間は止まっていたかもしれない。
胡摩の気持ちをどこか理解しているような、若すぎるほど若い美術教師。少女を引きずっている彼女にも、その止まらない時間に対するもどかしさが見え隠れする。そして胡摩を欠いた少女たちの、奇妙でどこか残酷なたわむれも。少女の頃、でも確かにあの時、時間は止まっていたのかもしれない。曇った心のまま。でも、曇天を思わせるその心は、曇天がどこかあたたかくてほの明るい優しさを持っているのと同じように、決して絶望に彩られているわけじゃない。私は曇り空が好きだ。曇り空の優しさ、美しさは、日本の風景に似合っていると思っている。「楽園」のように、本作も曇り空が美しい。そしてラストシーンは、胡摩がその曇り空が切れたところから薄く差し込む太陽の光に手をかざしている後姿。素敵だ。
「2 デュオ」の時から気になって仕方のない、西島秀俊がやはり素晴らしい。とても地味な外見なんだけれども、彼は背中と空気で語る役者。本当にその世界の住人になってしまう人。胡摩を演じる高橋マリ子と、恋人でもなく、友達でもない、この時、この空間だけの関係性を作り上げる。黒一色の装いも、冷たい印象どころか、不思議とあたたかさを感じさせる。寂しさや哀しさを知っている人だから持っているあたたかさを。
カチカチと刻む時計、風のそよぎ……驚くほど丁寧に拾っている音たち。それだけで涙が出そうになる。そうしたひとつひとつのかすかな音に耳をすませていると、時間は止まらないにしても、少しだけゆっくりになってくれそう。オルゴールのような印象の残る優しいピアノ。それに合わせてくるくると踊る胡摩のきゃしゃな足。それを強調するような淡いピンクのトウシューズ。壊れそうな世界を必死に支えてる。今だけの、優しい、優しい時間。★★★★☆
舞台はウォーターズ監督の出身地、ボルチモア。落ち目のアカデミー賞候補止まりのハリウッド女優、ハニー・ホィットウッドが、プレミア試写会場から狂信的な映画テロリスト!?たちによって強引に誘拐される。彼らはスプロケット・ホールズと名乗る、腐ったハリウッド映画を憎む映画制作チーム。自分たちが信じる映画を作るためには命を落とす危険をも辞さない覚悟の彼らは、自分たちの映画の広告塔としてハニーに白羽の矢を立てたのだった。しかしもしかしたら彼ら、あるいはリーダーで監督であるセシル・B・ディメンテッドは、最初から彼女が同士になる素質アリってことを見抜いてたのかもしれないけど。廃劇場にしつらえられたアングラなセットから撮影は進められていく。この時点では、まー、いかにも映画狂の奴らの作る稚拙さが見え、も、もしかしてウォーターズ監督ったら、インディーズ映画に対するもっのすごい皮肉をこめて描くつもりなの!?とハラハラしたんだけど、彼らが“ホンモノの映画”を撮るために、ハリウッド映画を上映するシネコンや、撮影所、映画協会の集まりなどに銃をぶっ放しながらゲリラ撮影を敢行していくにしたがって、おっそろしいほどの臨場感とクレイジーな“ホンモノの映画”がフィルムに収められていく過程にブルブル震えてしまううう。多少!?死人が出ても構わないムチャクチャぶりは、とーぜん良識派と呼ばれるハリウッド映画の手先どもには排除され、一方心ある??映画ファンたちからはほとんど教祖状態で熱狂的に賛同される。
警察や映画団体と銃撃戦になりながらの(!んなことあるのか!?でもアメリカだから、正当防衛という名のもとでは、何でもやっちゃいそうだよなー)ゲリラ撮影だから、マジで命が危険にさらされることも多々あるわけで、その時に彼らが逃げ込むカンフー映画専門館とか、チームの一人であるポルノ女優、チェリッシュの特集上映が組まれている成人映画館とかにいる観客たちの強力な(というかキョーレツな)チームワークで敵を撃退するっていうのが、もー嬉しすぎてたまんないんである。カンフー映画と成人映画っていう選択が、イイよね。しかも後者はアナル専門女優の、しかもネズミ相手の一人芝居に、劇場の男どもがそろってカキまくってるんだから(どわあ)。しかもである。ラストシーンを撮影する最後のゲリラロケーションは、さらってきた“元”ハリウッド女優、ハニーの三本立ての、しかもドライブインシアターで、しかし来てるヤツらは、やっぱりハリウッド映画に対してどこか斜に構えた奴らで、こんなクソ映画に出てるハニー・ホィットウッドだなんて、なんつーことを言いながら観てるわけだ。そこにスプロケット・ホールズのメンメンが乗り込むわけだから、もう彼らは大熱狂、まさしくホンモノの女優へと突き抜けたハニーを喝采をもって迎えるのだ。
最初こそ純ハリウッド映画によって現われ、その端正な風貌から横道なスター街道を突っ走るものと思われていたスティーブン・ドーフが、しかしその後の作品選択は迷走に次ぐ迷走、特に「ブレイド」では、この人の頭はどーにかなっちゃってるんではないか!?と思うぐらいだったんだけど、しっかし大マジだったのね、この人は。つまりはこのセシル・B・ディメンテッドにハマるほどの狂った映画バカ野郎だからこその迷走だったんであり、そー考えてみればちょっと目つきが怪しい気も……。そーいやあエドワード・ファーロングだって、デビュー作以降はハリウッドの王道から外れた作品選択をしていたし、ジョン・ウォーターズ監督が目をつける役者っていうのは、やっぱりそうした自らの映画への熱意を感じる役者、なんだろうなあ。
スティーブン・ドーフ、もともとカッコイイ人なんだけど、本作ではまさしくまさしくまさーしく!ムチャクチャカッコイイ。リーダーでカリスマとはいえ、このメンバーの中ではわりと比較的まともないでたちなんだけど(ほかの奴らはまさしく映画的にキレまくり)やっぱり誰よりもイッちゃってるんである。そのドーフの演技がね、ある種のシニカルなユーモラスさを感じさせるキャラであるにもかかわらず、もうそんなことは完全に無視しているかのような、まさしく白熱の熱演っぷりなのである。もちろん、だからこそ素晴らしいんであり、ほかのメンバーがそうしたコミカルな部分は総じて引き受けてくれているからこそ、彼自身は思いっきりマジ演技で爆発しても、その存在が浮いたりこちらが引いちゃったりしないのだ。このバランスももっのすごくギリギリの綱渡りというか、そうは見えないけど?すっごく計算されている、のかも。
その彼らにさらわれる“全身ハリウッド女優”から“全身映画女優”に変貌するメラニー・グリフィスも圧巻中の圧巻。前者も後者もハマリすぎるほどにハマリまくり、悪魔(魔女?)メークにパンクなファッションもクールに決まってゆき、屋根から飛び降りてチャッと着地し、ビシッと銃を構えながらハリウッド映画に対する制裁を叫ぶ彼女は、くぅーッというほどにカッコイイんである。監督セシルは先述のポルノ女優、チェリッシュとデキてるんだけど、このハニーとはそうした男女の枠をすっ飛ばして、次第に同志的な魂の結びつきを築いていくのが、ありありと見えて、なんかジーンときちゃうんである。こーゆー絆の高まりをしっかり演じて見せてくれるスティーブン・ドーフとメラニー・グリフィスは、やっぱりさすが演技派なのじゃー。
彼らは映画制作中は禁欲令をしかれ、性欲はスクリーンにぶつけろ!というわけなんだけど、ラストシーン終了後、やった、これでセックスできる!とばかりに、セシルはチェリッシュと、ほかのメンバーはメンバー同士とかあるいはファンの中から指名してヤッちゃうとか、あたり一面セックスの嵐で、おいおい、スクリーンにぶつけたはずの性欲なのに、タマりまくりやんか!と大ウケなのである。いや、大ウケしてるのもつかの間、市警察が突入してきて、セシルの両親も駆けつけていて、この両親「お前には監督なんかできっこない」って呼びかけたりしてて、セシルはそれに異常なまでに反応して七転八倒の苦しみで、でもそうした精神と、そしてここまでに負った銃創で満身創痍になりながらも撮影を断行、完了、我慢し続けたセックスもめでたくヤリ終え、群集の熱狂と警察の包囲の中、自らの身体にガソリンをぶちまけ、火達磨になりながら屋根から落下するんである!な、なんというソーゼツなラスト!そしてそれを目の前に見守っている同志のハニー、警察へと連行される姿も女王のように神々しくて……あー、すごい、このセシルとハニーの究極の到達点が。それにしても、この息子の最期に「……まあ、この子はこうなる運命だったわね」てな感じでミョーに達観している両親がスゴい。実にこの親にしてこの息子だったのかも。
でも、編集を放棄しちゃ、ダメだよー、セシル。ハリウッド映画がダメになったのは、監督が編集権を失っちゃったことも一因だと、私は思ってて、まあ、生き残った仲間がいるからいいんかもしれんけど、監督が編集をする、あるいは編集に立ち会うのが一番やと思うのね、私。
映画ファンの心をくすぐる映画は数多くあれど、くすぐるどころか、かきむしってこすりまくってぶん殴る??ほどの本作は、もうたまんないなー!★★★★☆
でも、アジア系だからこそ、という気もする。彼女、アナベル・チョンは、本当の意味でのフェミニズムというものに、そして今現在それが成し遂げられているかという問題に、大いに懐疑的な女性だ。それには、シンガポール系で中国がルーツだという、彼女自身を形作っているアジアの血もまた、避けて通れない問題。実際、彼女自身を深く掘り下げる後半に置いて、彼女はその苦悩に真正面から直面することになる。本名であるグレース・クェックである自分とアナベル・チョンである自分。その間で揺れ動く。女性の弱さとアジア系のそれとが、彼女の中で不可分に存在する。だから、説得力がある。
前人未到と思われた彼女の記録を、300人斬りで破ってしまうアメリカ人ポルノ女優が現れる。後から追う者は、簡単だ。その危険性も判らず、道を切り開くアナベル・チョンと比べたら、その価値は、半減以下である。実際、そいつはただデカパイで野心ばかりが強い、バカ女に見える。実際は知らないけれど。アナベルはセックスが好きなだけのバカ女ではない。劇中「彼女は根っからの好きモノだ」と談じる関係者の意見もあるけれど、それは一方では当たっているかもしれないけれど、それだけが真実ではない。彼女が、セックスというものを非常に客観的に見ていることに驚かされる。というか、客観的に見ることが、使命だと考えているようにすら思える。例えばこんなシーンがある。彼女は自分の仕事が撮影された写真をチェックする。プレゼント用にとか、写真集とか、宣伝写真とか、そうしたことにも関わっているのだ。絶妙な形容詞を加えながらキワドい写真を適切に処理していく彼女の姿は、非常にプロフェッショナル。彼女は自分自身が、引いては女性がどう見られているか、熟知している。プロなのだ。
それにしても、アメリカのポルノというものは、ここに使われているものの範囲でしか判らないけれど、えらく即物的である。それこそアナベルの251人斬りの映像など、これで興奮する輩がいるのかしらといぶかるほど、まるで訴えない。動物的なのだ。ほんとに動物の性交を思わせるほど。あるいはアナベルがシニカルに批判しているのも、その辺なのかなと思えたりもする。彼女はポルノ業界にいながら、ポルノ業界の異端児である。ポルノもアートだと言いながら、同業者からも批判されるような立場になってしまう。そのことに落ち込んだりもするけれど、しかし彼女は我が道を突き進んでゆく。彼女の意識はただ単にその業界で働いている、という意識しかない彼らとは全く違うところから発しているのだ。彼女はポルノというものが、あまりにも男性のみに向けられたカルチャーであり、性的欲望は女性にもあるのに、それが全く省みられることがないということに憤っている。251人の男性とセックスすることで、男性の(ペニスの)価値をただの数として引き下げた、というのは、確かに非常に当たっていると思う。彼女は「絶倫男がいるなら、絶倫女がいたっていいじゃない」と高らかに宣言する。本当だ、まさにその通りだ。10時間で251人。これを逆に男性が出来るかといったら、ムリなのではないか。まさしく彼女は身体を張ってどころか命をかけてやってのけた。後にエイズ検査に出かける彼女にドキッとして、陰性が出たことにホッとする。
彼女がするのは、全く、感情を交えないセックス。ただ、セックスである。劇中から受けるアメリカのポルノもそんな感じである。とはいえ、実際のアメリカの成人フィルム事情を知っているわけではないので、エラそうなことは言えないのだが、日本でだったら、こういうことは起こりえないんじゃないか、という気がする。アメリカは女性先進国だけれど、もしかしたらそれはほんの一握りの部分にしか過ぎないんじゃないか、ハデに見えてる部分だけなんじゃないか、と思える部分も確かにあり、逆に日本は女性後進国のように見えて、見えにくい部分で女性はアメリカよりも確実に躍進しているんじゃないか、と、思えたりもするのだ。見えにくい部分、そう、この成人フィルムという点に置いて。日本にも、ただのAVモノというものは存在するけれど、一方で作家性の発揮されるピンク映画というものが存在しており、心ある映画ファンなら、それが“感情を交えたセックス”である、アートであることを判っているし、かつてのロマンポルノとか、時を経たものに関してはもっと世間的な価値と認知も獲得している。そこで活躍する女優の、女優としてのプロ意識もしかりである。でもそれもまた、“見えにくい部分”であることには変わりなく、アナベルのように、声高に言える状況というものが、いっそ必要なのかな、という気もするのだ。
アナベルの恋人という存在が、劇中では出てこない。親友であるという同居している(ゲイらしい)男の子や、クラスメイトや、スタッフや、いとこなんかは出てくるのだが。彼女が“感情を交えないセックス”を、仕事の上のみならず、私生活でもそうだという事実が、なんとも複雑な気分をもたらす。彼女、セックスが所詮セックスでしかない、と達観しているような気がして。好きな相手だからこそ性的欲望を感じるのだとか、そういうことが少なくとも女性的な感覚なのだとか、少なくともそう信じたいと思っていたこちらの気分をガツンとついてくるのだ。アナベルはバイセクシャルである。エイズが世の中に出てきた時に、このバイセクシャルという存在が、世の中に認知されたのだと、彼女は大学の講義で主張した。それは、例えそれが愛であっても、行為でしか計られないという、現実でもある。感情と性的欲望は確かに不可分なものだけど、感情と違って性的欲望がそれ単体で存在できるという事実において、バイセクシャルという自己の存在がいかに難しいものであったか、想像に難くない。
彼女は故郷、シンガポールに帰る。本名の、グレースとして。両親には、自分がこんな世界的に知られたポルノ女優だということはバレていない。両親には知られたくないと願いつつも、でも自分のしていることを両親に判ってもらいたいという気持ちもある。自分で言う前に、タレこみ電話でそれが知れてしまう。彼女は「それがこのクリスチャンの国の伝統なの」と自嘲気味に言いながら、その瞳には涙が溢れている。彼女はどうしても自分自身の口で告白したいと、意を決して母親に告白する。自分を信じて、と泣きながら言う。母親は、信じるしかないじゃない、とやはり涙して言う。絶対に、いい娘に、自慢できる娘になる、と決意する。この後、アナベルはどう出るのかな、とハラハラしていたら、1年後、彼女はポルノ業界に復帰するのである。一瞬、ちょっと意外にも思え、直後、あっぱれだと思い返す。女性の性を、アメリカに、引いては世界に正しく開示できるのは、彼女しかいないだろう。
彼女が、自分の体にコンプレックスを持っていたと告白する部分があるのだけれど、あの彼女の記録を更新したアメリカポルノ女優と並んでオッパイを見せるところなんかで改めて思うに、やっぱり、アジアの女性の身体はキレイだよなー!ただ乳がデカいだけで、大味なアメリカーンな女優と違って、肌は上品な象牙色できめ細かいし、オッパイの形もキレイだし、言っちゃえば乳首の色も桜色でキレイだし。並んで映ったあのバカ女優のオッパイより、断然アナベルのオッパイの方がキレイだったもんなあ。……歯は、タバコのせいかお酒のせいか、ちょっと不健康そうなのが気になったけど。
前半の俗物っぽいセンセーショナルな展開で衝撃的に惹き付けてから、彼女のアイデンティティを探る後半に至る構成が秀逸。セクシュアリティというものを、本当の意味での根源から、そして自らの肉体を持って追及するアナベル・チョンは、真の意味での学者であり、“超女性”なのだと、思う。★★★★★
だからこうして2日あまりたった今、あの映画を、あの写真を、あの声を思い返して書き進めてみると、あの時からどんどん蓄積されてきている茫漠とした思いに驚いてしまう。たった36歳で夭折してしまった(36歳で死んでしまう芸術家って、やたら多い気がする……この年齢って、何かあるのだろうか)、体の弱かった一人の写真家。その彼が生み出した写真が持つ、人の心に長時間居座り続けるこの力は一体なんなんだろう。彼の写真集や雑誌による特集などは、非常に長くじわじわと、反響が波紋のように広がっていったのだという。一発目でインパクトがなければ消されてしまうような刹那的な時代に、こういう力が存在しているというのは、全くもって驚くべき希少なことだ。
チラシに使われている、ソックリな女の子二人の写真。……そうだ、私はこの写真に射抜かれたようになって、まるでとらわれて逃げられない小動物みたいに、その説明できない力にからめとられ、劇場に足を運んでしまったのだ。この変形版のチラシの写真、そこに写っているのは、全く同じ格好をして林の中で手をつないでいる女の子二人。彼女たちの顔は全く笑っていなくて、まるでカメラの奥を覗き込むようにじっとこちらを見つめている。ちょっと怖いような写真である。いや、ちょっとじゃなくて、かなり怖いかもしれない。何だか「シャイニング」の双子のオバケみたい、なんて冗談ぽく思ったりもするぐらい。この写真だけじゃなく、この映画で提示される写真に写る人々のまなざし、たたずまいは、こちらにふとそんな怖さを感じさせるものがある。一度その写真に目を合わせてしまったら、何だかこちらをずっと見つめられている気がして、何度も恐る恐る振り返ってしまうような。時間が経てば経つほど、あの写真の中の人々のまなざしを強く感じてしまうのだ。
この力は、なんなのだろう、本当に。まるで彼らが時間を空間をこえてこちらを見据え続けているかのような、この力は。彼の写真は優しさ、愛情、共感といった言葉でとらえられることが多いのだという。……そうなのか?私には、こちらの心の中をじっと見つめられているような、かすかな、そしてどんどん蓄積されていく怖さの方をより感じてしまう。あるいはそれは、自分自身に見つめ返されているような感覚なのかもしれなくて、それが親密感や共感とも言えるのかも知れないけれど、自分が客観的にそこにいて、自分をじっと見つめているというのは、とても怖い感覚だ。相手は誰よりも自分を知ってるから。逃げられないから。そうした怖さが、そして力がこの牛腸茂雄という人の写真に潜んでいる気がして仕方がないのだ。
彼の被写体になった人々の証言もある。写された自分の表情は何だかあまりよくなくて、当時は好きじゃなかった、と。どの写真の人だったか忘れたけれど、ある女性がそんなことを言っていた。何だかそれって、切実に判る気がする。好きじゃないという感覚を起こさせるのは、ただすっと見逃すことが出来ないのは、やはりそれにはそれだけの負の力があるからだと。“負の力”なんていうと聞こえが悪いんだけど、人の強さやエネルギーって、やっぱりそこから出てきているように思う。彼の写真を見ると、さらにそれをあらためて思う。だからか、彼の写真はとてもとても静かなのに、一見ただの人々、生活を写し出しているに過ぎない感じなのに、ひどく生命エネルギーを感じるのだ。決して陽性ではない、しかし揺るぎない生の力。彼自身が病弱で若くして死んでしまったことと非常に対照的であるようで、逆にだからこそ生み出せたのではとも思わせる、この力。
彼の残したちょっと実験的なモノクロフィルムや、町の風景、風に揺れる草原と背の低い一本の木、西島秀俊の声によって再生される家族にあてて残した手紙や草稿が、その夢のような世界に漂っていく。西島秀俊の声も静かながら負の怖さを感じさせるようなところがあるが、それに輪をかけるのが実際の牛腸茂雄の肉声であり、その不条理なような、切実な呼びかけが、彼の写真に感じた感情と驚くほどリンクしていく。時間が経つほどに蓄積する力も、全く同じである。
佐藤真監督は夢のような映画にしたいと言った。私にとって夢は、いつでも怖さを伴っている。明るく楽しい夢なんてほとんど見たことがない。悪夢というのではないけれど、自分の中の暗部に入り込む直前でフラフラ漂っているような怖さである。そういう意味では、この作品はまさしく夢のような映画なのだ。静かで優しいけれど、怖くて逃れられない、そんな力を感じる……。★★★☆☆
10歳の女の子に向けて作った、と明確に明言されていたせいか、劇場にはそれぐらいの年頃の女の子も多かったように思う。彼女たちがどんなふうに受け止めたのかにとても興味が湧くが、年だけは大人になってしまった私は、あの年頃に感じていた不安や、不安の中でも無我夢中で走り続けることや、その中で覚えよう、何かを得ようと必死だった、あの感じを思い出して泣き笑いが絶えなかった。千尋は両親が禁断の地にずんずん入っていって、お金という武器を信じきって無法を働くのに参加しない。子供にはお金という武器を駆使できないからだ……というのが、今の世の中でどの程度有効なのかは怪しいところでもあるのだが。しかしこのすべり出しの描写には、何かふと背筋が緊張する思いがあった。そんなに振りかざすほどお金持ちな訳ではないけれど、こういう感覚って、確かに大人にはあるからだ。お金で買えないものがあるとか口では言いながら、その実お金で何でも買えると思っている。そのことが人間を傲慢にしたり卑屈にしたりさえする。そしてゆがんだ社会を作っていく。
子供にまだその影響が及んでいないのなら、千尋のような体験をした子供が(簡単にいうけれど、でも子供は確かにそうした世界とのつながりを持っている。大人に言わせれば夢を見たというところだろうが)大人になった時、そしてそれを忘れていなかったなら、きっととてもリベラルな人間になっていることだろう。彼女はこの油屋というお風呂屋さんで(なんで湯が油なのかなあ……)、必死に働き続ける。彼女が働くことによって得られる対価はお金ではなく、そこにいてもいいということ、つまりは、生きていてもいいということなのだ。本来の働くということはまさしく、生きていくためのお金を得るという意味で、確かにそうだったはずなのだけれど、その対価としてのお金に生活を潤すだけの余裕が出てきてしまった時、本来の意味を見失ってしまった。千尋はそうした大人社会に入る前に、本当の意味での働くということを身を持って体験することになる。
というところに入る前、その働く許可、つまりは生きる許可を受けるまでも大変で、そして味方である王子様(でしょう、やはり)ハクから大きな握り飯をほおばって思わずワンワン泣くシーンが、最初に涙腺がゆるんだところ。本当にボタボタと大粒の涙で、すごく生々しさがあった。ご飯を食べて、ちょっと安心してふと気がゆるんで出てきた涙に感情が連動して大泣きしてしまうという感覚って、ああ、あるよなあ、と幼き頃を思い出し……いや、今だって結構そうかもしれない。泣きながら食べて、泣いているのに、すごくおいしいなあと感じてたりする。そしてちょっとだけ元気になる。
この油屋に出入りする妖怪たち、本当に様々なもののけ達で、怖くって、かわいくって、もうたまらん!てな感じ。宮崎監督の頭の中(まあ、彼だけが考えたわけではないのかもしれないけど)はどうなっているんだ……。頭の中を覗いてみたいと思う映画監督はこの宮崎監督と三谷幸喜監督ぐらいかな?なんて。どうやら“おおとりさま”という名前らしい、巨体のヒヨコみたいな妖怪がかわいくってねー。重そうな体でジャンプしてたり、もこもこひしめき合ってお風呂に入ったり。もーう、抱きつきたいッ!(等身大のぬいぐるみとか欲しい)千尋を何気なく助けてくれる、白くてもったりした、太ったヤギみたいな“おしらさま”の妙な包容力も好きだし、坊と湯バードが変身させられたネズミとハエドリのコンビや(ハエドリに運ばれる坊ネズミがぶらーんとしている様がキュートすぎる〜)、こんぺいとうがエサのススワタリたちのかわいさときたら……千尋のマネしてエンガチョやるところとか、最高!……しかし、エンガチョなんて今でもやるの?
思いっきり西洋趣味の、つまりはおとぎ話の中の魔法使いのおばあさんそのままの湯婆婆と、土蜘蛛をほうふつとさせる、愛こそすべてなナイス爺(好きだわー)釜爺は、声を演じる夏木マリと菅原文太の達者さで、まさしく助演賞ものの素晴らしさ。特に夏木マリはちょっと悪ノリしすぎなぐらいで、本職の声優さんもマッツァオの怪演。いやー、びっくりしたわ。
しかしなんといっても、この妖怪たちの中でのメインはカオナシであろう。このカオナシに関しては、他のキャラ以上に現代社会のナンタラとか、いろんな意味を付加することができるだろうが、他人の声を借りなければコミュニケーションできない、他人に好かれたいのに正しい方法が判らない、ただ見つめるとか、ついていくしかできない彼の哀しさはたまらないものがあった。金(きん)でつって相手にされているときはめいっぱい増幅していて、そうではない、いわゆる地の時は消え入りそうになる。
千尋に両親はと聞かれ、取り乱し、寂しい、寂しい……と繰り返す彼は、自分の意味付けが出来ないのだ。誰かに相手にされることによって自分の存在を見出そうとしているけれど、それは相手がいなくなったら自分が消えてしまうということに他ならない。……それってものすごく判る、身につまされる。千尋は彼の差し出す金を拒絶する。前述したように彼女にとっての対価はお金ではないからだ。金=お金で存在を成り立たせていると言う点でもカオナシはやはり人間の、大人の人間のある面を想像させる。一部の人間ではなくて、人間の持つ、一部の面。誰もがカオナシの気持ちが判るからこそ、彼にシンパシィを感じるのだし、彼を受け入れてくれた銭婆にありがとう、って言いたくなるのだ。
それにしてもハクの素敵さは尋常じゃなかった。せいぜい千尋と同年輩の男の子、そして声を当てているのも12歳の男の子(!うー、自分では気づいていないんだろうなあ、この声の色気に……)で、まだ声変わりする前の透明な声のトーンと、透明な存在感。登場した時から、千尋を見つけて目を大きく見開くあの場面から、ドキドキするぐらい素敵だった。……何なんだろうなあ、あの色気は……。それに彼が白い龍に変身するというのも、白馬の王子様っぽさを感じるし、彼自身が自分が何者かを判ってなくって、それゆえに彼を話の筋の上でなかなか信用できないというのも、そうした神秘的な色気に拍車をかける。宮崎監督はこのハクに関する言葉を全然残してなくて、もっぱら千尋とかカオナシに関してばかりだけれど、観に来た多くの女の子&女性の心をとらえたのは、このハクに決まってるのに!しかし、上映終了後、後ろに座っていた女の子が「ハクってすごい素敵で声もイメージぴったりって感じなんだけど、実際声を当てている人を見ると、えー!?って感じですごいガッカリ」と言っていたのが気になってしまった。見たいような見たくないような……。
千尋がハクとの出会いを思い出し、彼にその名を告げる。その瞬間、龍の姿で彼女を乗せていた彼のウロコが、まさしく目からうろこが落ちるというようなそんな感じでぱあーっと弾けていく。「覚えている。私の中に千尋が落ちた時のことを」というハクの台詞や(“中”よ、中!)、ハクの本当の名前を聞いて「すごい名前、神様みたい」と笑いながら大きな瞳から浮かぶ涙が空に吸い込まれる千尋、二人手と手を取り、おでこをすり合わせながら空を飛んで行くその様は、少女性を突き抜けたときめきがあった。その前からも何度か挿入されていた、その出会いの時の千尋が水に潜ってはっとした表情をする場面も、水や雨が性的なものを象徴するというイメージも手伝ってか、そうした性の目覚めを感じさせるものがあったし……。
神々の、そして民たちのにぎやかな祝祭ムードが、一番好きだったかもしれない。こういう部分も、日本の伝統の良さなのだもの。なかなかそういうのって外国に知られていないし、私たちも日本や日本人を語る時に意外と抜け落ちている部分のような気がする。このお祭り熱が日本人の心に伝わって、それこそお祭り騒ぎ並の大ヒットになったのかもしれない。★★★★★