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「ほ」


2001年鑑賞作品

暴行切り裂きジャック
1976年 71分 日本 カラー
監督:伊藤亮爾 脚本:桂千穂
撮影:森勝 音楽:月見里太一
出演:桂たまき 林ゆたか 山科ゆり 八城夏子 岡本麗 丘奈保美 潤ますみ


2001/4/20/金 劇場(シネパトス/レイト)
タイトルのインパクトで、前から観たいと思っていた作品。……あらゆる意味でスゴかった。男、ケンは洋菓子喫茶の住み込みのケーキ職人。女、ユリはその店のウェイトレス。冒頭、大きなデコレーションケーキを飾り立てているケン、ユリは大して仕事をする気もなく、後ろからそれを退屈そうに眺めている。出来上がったところで女はイタズラっぽい笑顔を浮かべて、そのケーキをナイフでザクリと斜めに切ってしまう。それにかぶさるタイトルクレジット。

外は雨。ユリはケンに送ってくれ、と誘いをかける。土砂降りの雨の中、車は走っていく。と、道路にフラフラと現れる女。ねえ、乗せてよ、としなだれかかるその女の異様な雰囲気に気おされて、乗せてしまう。後部座席で服を脱ぎだす女。車に乗せてあった、残り物のケーキのクリームを裸身に塗りたくってはしゃぐ様は、異様である。「ほら、だれでもこんなふうに血が出るのよ」と、やはり笑いながらケーキナイフを自らの腕に突き立てる女。気色悪くなったケンとユリは女をムリヤリ放り出すが、女はやはり笑いながら車にすがってくる。振り切る。鈍い音がする。恐る恐る戻ってみると、女はこと切れていた。

この最初の殺人シーンの、謎の女の異様さがまるでトラウマのように強烈なインパクトである。その後この二人が、というよりケンが手当たり次第にそこらの女を殺していくのだが、その後に出てくる女性は当然のことながら、最初から最後まで恐れおののいている。なのにこの最初の女は、死ぬ直前まで笑い声を立てているのだから。狂女。そう言ってしまうだけでは足りない気がするくらい。真っ白な肌に薄いオーガンジーのような水色のミニワンピース、それが雨にびっしょりとぬれてすっかり透けていて、髪から滴る雨水が、顔をなまめかしく濡らしている。まるで最初から幽霊みたいな女。

この女を、誰にも判らないように始末しよう、と、廃工場に捨てに行くのだが、この時、何かに女の股がひっかかって、それを知らずに引きずろうとした結果、そこから裂けてしまう(!)。なんとも言えない音が響き、鮮血がほとばしり、二人は顔を見合わせる。何とか死体を始末した二人は、ユリの部屋に行き、ケンは怯えからなのか、異様な興奮からなのか、ユリを激しく求める。それに歓喜の声をあげるユリ。

かくして二人はめでたく(?)恋人同士になるのだが、あの最初の晩のように、セックスで燃えることができない。と、いうか、ユリの方は燃えてるんだけど、ケンはうつろなのである。ユリは、あのことで燃えることができたんなら、また女を殺しましょ、とこともなげに言う(!)。ケンは驚きつつも、ユリに従い、よく店に来る女学生を襲う。廃ボーリング場で(……よくまあこうもつぶれた場所があるもんだ)女学生を裸にして縛り上げる。カメラが引くと、午後の光がやる気なさげに差し込む程度に薄暗く、あちこち崩れ落ちててほこりっぽいそのボーリング場、そのピンの手前に縛り上げられた全裸の女と、それをレーンの後ろでたがめすがめつしているユリとケン、という画は、残酷ながらもなぜだか耽美的である。叫びだそうとした女をケンは黙らせようとして飛びかかり、結果、彼女を刺す。股から切り裂き上げる。抱きつくユリ。ユリが激しくケンを求める。……やはりケンはうつろである。燃えているのは、ユリだけなのである。

あとはもうこの繰り返しだ。ケンは女を殺すときには、興奮状態でどこか恍惚としているようにすら見えるのだが、その後はまるでユリのダッチワイフ(この場合ダッチ亭主?)のように、彼女に求められるままである。ケンの絶頂は、殺しのときに終わっているようなのである。その余韻をユリに分け与えているかのような。外人墓地で殺した有閑マダムを適当な墓の中に放り込んだり、結婚式場の屋上で巫女姿の女を殺したり、そのシチュエイションはある種の美学にのっとって行われている。しかも、殺しのシーンの時には必ず、ダバダバダバ……と懐かしいエレクトリックな音色と女声のスキャットが流れるのである。一体、なんなんだこれは!?こんなシーンで流れるものなのか、それは!?ケンが全身に力を込めて、女を股から切り裂くというシーンに、女が崩れ落ちるシーンに、かぶさるこの明るいとも暗いともつかないスキャットに、ガクッと脱力感を感じる。

ケンはユリの求めにも応じないようになり、彼女を無視して一人、殺戮を続ける。ユリはそれに気づいて、次の現場、ブティックの女主人を殺したもとへ駆けつける。きらびやかな店内がかき乱され、ユリとは対照的なすらりとしたモダンな女が血にまみれて倒れている様は、スタイリッシュな美しさすら感じてしまう。この始末、どうすんのよ、と詰め寄るユリを押しのけて、ケンはまた次の獲物を探しに行く。病院の看護婦寮。密室で数人の女を追い詰めて惨殺するケンには、もはや美学は感じられない。そこにまたしても駆けつけたユリを、ついに殺してしまう。カットが変わると、丘の稜線の上を、楽しげにケーキナイフをもてあそびながら一人歩いていくケンのシルエットとなる。そこにまたしてもダバダバダ!ああッ、なんなんだ、こいつは!?

いかにもはすっぱな、という、体つきもエッチなユリ=桂たまきに対して、このケンを演じる林ゆたかは、なんかまるでさだまさしみたいな冴えない風貌である。やせぎすの身体に地味な顔立ち。しかし、あの外人墓地にピクニックに出かけ、青空の下でユリに身体を求められながら、全く興味のわかない顔で彼女の作ったサンドイッチをほおばったりするあたりから、不気味な存在感を増してくる。地味な顔だけに、そうなると異様な不気味さが際立つ。それにしてもあんないかにも切れなさそうなケーキナイフでブチュブチュと女を下から切り裂いていくのは、もちろんフレームの外側で、こちらにそうと想像させるに過ぎないのだが、それにしたってかなり、エグい。吐きそうなぐらいのエグさである。

やばいなあ、ダバダバダ……が頭から消えないんだけど……何とかしてくれえ。★★★☆☆


ポエトリー、セックスTHE MONKEY’S MASK
2000年 分 オーストラリア カラー
監督:サマンサ・ラング 脚本:アン・ケネディ
撮影: 音楽:
出演:スージー・ポーター/ケリー・マクギリス/マートン・チョカス/アビー・コーニッシュ

2001/7/16/月 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
「女と女と井戸の中」で、女同士の愛憎の息苦しさを見せたサマンサ・ラング監督が、また女同士の(というか、男、女入り乱れての)愛の世界を突きつけてきた。ここまでこだわるラング監督って、ひょっとしてレズビアンなんだろうか?まあそんなことはどうでもいいのだが。赤裸々な詩と虚構の詩。愛としてのセックスとセックスでしかないセックス。その二つは容易にくるりと翻る事ができる。どちらも同じだということすらできる。そもそも、純粋などちらかなんて、それこそレトリックにしか過ぎないのだというような。それを決めるのは、ただ、人間の感情だけ。

詩に熱烈な情熱を捧げていた女子大生、ミッキー(アビー・コーニッシュ)が失踪した。彼女の行方の捜索を依頼された女探偵、ジル(スージー・ポーター)。彼女はその捜査中、ミッキーの大学での担当教官であったダイアナ(ケリー・マクギリス)と出会って、一目で恋に落ちる。そんな中、ミッキーの惨殺死体が彼女の家の庭に埋められているのが発見される。行方の捜索は、犯人の捜索に転じた。ミッキーが敬愛していた詩人、彼らとの肉体関係からジルは捜査を進めていく。次第にまとっていく濃厚な官能の匂い。最初は辟易していた詩の世界が、いや、いわゆる詩壇の詩人たちによる虚構の詩にはうんざりしていたジルが、ミッキーの、セックスと愛情が混乱した詩の世界にはまり込んでいく。最も疑わなければいけない人物との愛欲に溺れながら……。

両親にとってミッキーは、普通の、何の問題もない女の子。いや、実際ミッキーはジルのいうように普通のティーンエイジャーだったのだ。その“普通”のモノサシが、彼女の両親と一般的な感覚と違っていただけ。最初に娘の行方の捜索を依頼した場面で、彼女の母親はこんなふうにいう。「あの子には恋人はいない。ボーイフレンドはいるけれども」この台詞。母親にとっては、別に何の疑問を持つこともない台詞だったんだろう。でも、それはこうだ。ステディがいないから、誰とでもセックスする女の子。これが象徴するように、ミッキーに対するイメージは作中でくるくると変わってゆく。それこそラショーモナイズとでもいったごときに。そんなふうにインランな小悪魔に見える時もある。しかし最後にあらわれてきたのは、愛がほしいためにセックスを重ねていた、哀れな世間知らずの女の子の姿。セックスが愛だと、愛がセックスだと信じて疑わなかった、いや信じたかった彼女が、しかしそれとは矛盾する3Pの状況で殺される。

と、いうのが実際だったのかは、今や誰にもわからない。ミッキーの親友だったという女の子が泣きじゃくりながら、あの子は愛されたがっていたのだという台詞からそんなふうに想像しただけだ。でも。それが確信されるのは、ミッキーを、そして彼女を殺した犯人を追っているジルが、まるで彼女の呪縛に絡めとられるかのように、その同じ相手、ダイアナと彼女の夫、ニックに翻弄されていくからだ。ダイアナが自分とセックスするのは愛だからなのだと、それこそ小娘のように思い、ダイアナが結婚していた事実や、最終的に自分が性欲を解消する相手でしかなかったことに、今更ながら深いショックを受ける。彼女だっていろいろな経験をしてきただろうに、多分恋をするたびごとにリセットされてしまうのだ。それが普通。多分ミッキーもそう。でもそうでない人間もいるのだ。それがダイアナとニック。ある意味ではこの夫婦こそが賢明な人間なのかもしれないと思うほどに。

世に溢れている流行歌のたぐいにしてもそうだし、詩というものが結局、最終的に愛だ、恋だといってくるのにいささかのうっとうしさを感じながらも、結局は本能的なそれにあらがうことができないということなのか、とも思う。それはさらにうっとうしいことなのだけれども。うっとうしいと感じるのは、多分、それこそ“世に溢れている流行歌のたぐい”の恋愛詩が、この作中で詩壇の詩人たちが後生大事にしているような、レトリックだけに終始しているからだ。ペダンチックなまでに。そこにミッキーのような、自分の心臓を開いて見せるような本能の詩が現れたときに、詩人たちは狼狽する。ある人なぞは、悪魔の詩でまどわされた、とまでいう。何てことはない。自分では覗こうとしなかった、一番本質的な、いわば恥ずかしい部分を、彼女がまっすぐに提示してきただけなのだ。でもそれは最後の切り札。それを早々に出してしまった彼女が破滅の道を辿ったのは仕方なかったのかもしれない。いや、人間はいつでも本末転倒で、こんなふうに切り札を先に出してしまって、その後は世渡りを身につけてしまって、切り札を持っていた自分をすら忘れてしまう。でも別にそれでいいのだ。人間なんてそんなもんだ。ダイアナとニックのように、切り札を出してくるむき出しの人間をかぎつけるやつらが現れなければ。ミッキーだって、そんな自分を忘れて生きていっただろうに。

でも。残されたビデオテープの中で、まるで目に涙をためているようにも見える彼女が、しぼり出すように愛の詩を朗読するのを見ると、もしかして、これは本当に言うのが危険なことなんだけれど、彼女は、このままで殺されてしまったことが、幸せだったのかもとも……。自分の信じる純粋なことを脱ぎ捨てていくのが生きていくことなのだとしたら。いや、でもそれが脱ぎ捨てるどころか、一気に打ち砕かれたときに彼女は殺されたのだから、やはり一番悲惨だったのか。

そういえば見てなかったな、と思ったら、ケリー・マクギリスはハリウッドに幻滅して引退状態だったのだとか。思わずそれだけで彼女を信頼してしまうなー。ジルを一目で陥落してしまうダイアナを演じる彼女が、女同士のセックスを、それもどっかーんと全裸で体当たりしているのに衝撃を受ける。私の中での彼女のイメージは、インテリ女優で、こういうことができちゃうというのが考えられなかったから。それこそ、彼女こそ、この映画で、これは比喩的な意味で脱ぎ捨てるものがあったのだろう。人間、幾つになっても生まれ変われるチャンスというのはあるものなのだ。

そしてジル。演じるのはスージー・ポーター。彼女がねー……。確かに危なっかしい少年と少女の間のような彼女はキュートなのだが、白人特有のしみ(そばかす?じゃないよね)がすんごい気になっちゃって。あんなにすごいものなのか。白人の人って、その割には日光にあたることとか気にせずに露出するよな、とも思うのだが、映画であれほどそれを隠さないのは初めて見た。普通メイクで隠すよねえ?そのあたり、何となくこのラング監督の、映画の虚飾に対する反発を感じたりもするが。最初の方の、太極拳?を集団でやっている場面で彼女のアップになるのだが、そのとき、うわっ、すごい斑点しみ!と思ったとたんに彼女からピントがずれたのは、観客が思ったようにカメラもそう思ったのか?でもそれ以降は特に気にするでもなく、バンバン寄ってたけど……。「フリーズ・ミー」で井上晴美の肌の荒れが最後まで気になって作品自体に全然集中できなかったのと同じで、やっぱりこのスージー・ポーターのお肌が最後まで気になってしまった。そんなの、私だけかなあ……。

ランチにスシレストランが出てきたり、一瞬日本語の看板が目に入ったり、なんだか妙に日本やなあ、と思ってたら、この作品自体、松尾芭蕉にインスパイアされた原作から来ているとは!原題は、松尾芭蕉が晩年に読んだ句から取られた、仮面の下にはまた仮面があって、一体真実の顔などあるのか、という意味合い。まさしくだ。それに芭蕉、俳句、確かに詩だ!嬉しくもあり、日本人としてちょっと悔しくもある。日本人ももうちょっと自国の文化に誇りを持たねばね。★★★☆☆


火垂(ほたる)
2000年 164分 日本 カラー
監督:河瀬直美 脚本:河瀬直美
撮影:猪本雅三 河瀬直美 音楽:松岡奈緒美 河瀬直美
出演:中村優子 永澤俊矢 山口美也子 光石研 小野陽太郎 杉山延治 柳東史 武村瑞穂 福井美香 山本善之 宮崎快尭 北見敏之

2001/4/6/金 劇場(テアトル新宿)
観ている間中、うっとうしさとしか言い表せない感情ばかりがわきあがってきて、しかもこの長尺で、観終わるまでが非常に辛かった。主人公の心象を象徴しているかのような、わざとらしいまでに不安定な手持ちカメラもわずらわしかったし。しかしこの物語、いわゆる人の痛みを描いているわけだし、こんな風に思うのってかなりの人非人なのではなかろうか……と自己嫌悪にとらわれたが、某雑誌の某評論家さんも同じような感想をもらしていたので、思わずホッとしてしまった。……ホッとしてしまうのも、どうかと思うのだが。この河瀬監督の前作、「萌の朱雀」も私は苦手だった。河瀬監督の持つ独特のリズムというものが、多分私とはどこまで行っても交わらないのだ、と思ったし、本作ではそれプラス、多少イライラする気分も加味されてしまった。……やっぱり私は理解力に乏しいヤツなのかもしれない。

あまりにも台詞が聞き取りづらくて、あまりにもヒロインが悲劇のオーラばかり発していて(これもある意味凄いけど)人物相関図や人物の置かれた状況を、なかなか把握できない。いや、最後まで把握できなかった気すらする。ヒロイン、あやこは幼い頃親に捨てられ、姉さんと呼ぶストリッパーの恭子と一緒に暮らしている。あやこと出会う運命の恋人は、若き陶芸家の大司。そうか、陶芸家だったのか。ただたんにこのお祭りのために皿焼いてるだけかと思った……だから彼の職業がずーっと判然としなくって。それは単に私がバカなだけ、あーあ。

このあやこ、一体なんなんだか、自分が好きになる男の前で自暴自棄の態を披露するのだ。必ず。これが判らない。というか、この描写でヒロインがとてつもなくイヤになってしまう。確かにこのヒロイン、苦悩してるんだろう。心を痛めてるんだろう。でも、なぜ?親に捨てられたから?ストリッパーという職業を恥じているから?前者はともかく後者だとしたら、それを誇りとしている姉さんにならってストリッパーとなったのではないのか?そりゃそう簡単に割り切れないものだというのは判るつもり。でも映画で見せる以上、判らせて欲しい。観客はその映画の世界に無知な状態で、観るのだから。

「萌の朱雀」では美しい風景が主人公のようなところがあって(これだけって感じで私はどうもダメだったのだけど)人物に対してわりと突き放したような感じがあったのだけど、本作では監督があやこにどっぷり浸っている感じがどうしてもしてしまう。監督、チラシとクレジットで苗字が違ってた。全然知らなくて驚いたけど(ホント私ってこういう情報にウトいんだよなー)、仙道武則プロデューサーと離婚していたんだ。それもこの映画の製作中に。そういう色眼鏡で見るのは絶対にイヤだけど、でもどうしてもそういうのって、作用してしまうんじゃないか、そう思われてしまって仕方ないんじゃないか。そういうことじゃなくても、映画は作っているその人の人となりとか、精神状態とか、映してしまうと思う。その点で、あまりにパブリックなこうした事態が製作中に起こってしまったことは、河瀬監督にとって二重に不幸であったとは思う。でもだからといって同情票を差し上げる気も起こらないけれど。この、ヒロインに対するあまりの説明のなさ、それでいてあまりの感情移入。あやこを第三者として見ていないことから起こる、自己憐憫の感覚だから、こちらにうっとうしさを感じさせてしまうのではないか。監督には、そして心ある観客には判るのかもしれないけれど、バカな私にはちっとも判らない。

その対比のせいもあってか、彼女に付き添う大司と恭子姉さんは魅力的だ。大司を演じる永澤俊矢は、「汝殺すなかれ」でホレこんだ人(代表作に入れてほしい)。若さからくる豪放磊落さというイメージだったのに、彼ももう40になるんだ。それを充分に感じさせる、一旦枯れて熟した色気と包容力。ヒロイン、あやことの一対一の時に見せる演技は全身から感情がほとばしり、まさしく絶品。あやこにうっとうしさを感じるがゆえに、それを受け止める彼がことさらステキに見えてしまう。カレーを食べさせあったり、コーラをかわりばんこに飲んだりする場面は多少気恥ずかしいが……。そして恭子姉さん。あやこを勇気づけるために駅前のストリートミュージシャンに合わせてストリップしてしまう思い切りの良さを持ちながら、自分の終焉の時を静かに受け止める、ベテランストリッパーにして、無我の境地を感じさせる女性。それこそ彼女こそが数々の修羅を歩いてきたはずであり、彼女に比べてあやこの感情の不安定さがなんと子供っぽいものに見えることか。

あやこが故郷、香川に10年ぶりに帰ることになり、自分の帰る1日前に祖母が他界していたことを知る。ストリップ劇場に警察のガサ入れが入って二日間拘留されていた彼女は、予定通り帰ることが出来ていたなら、その最期に間に合ったかもしれない、と悔やみ、せっかく会いに来てくれた大司にまたしてもあの拒絶の態を披露するのである。そういえば最初、あやこは大司に向かって自分がストリッパーであることをどう思うのか、としんねりと繰り返し聞いてゲンナリしたものだが(しかしそれに辛抱強く答えてやる大司=永澤俊矢にはホレボレする)、ここに至ってまた同じ理由で勝手に自己嫌悪に陥り、殻に閉じこもるのだ。一体彼女はいつになったら強くなるのか、一体強くなろうとしているのか?

彼女の強さを感じられるのだとしたら、最後、大司の窯をぶち壊す場面においてである。……しかし、この場面、とっても重要なものなのだということは雰囲気で判るのだが、だけど、何故?何故壊さなければいけないのだ?この窯って、ものすごーく大切なものじゃ、ないのか?あやこが今までの自分を壊すためという象徴のためにやっているのか?ならばなぜ、この窯じゃなきゃいけないのだ?あああああ、判らない。結局は判らなさだけなのかもしれない。私が苦手だと思うのは。ヒロインの気持ちが全然伝わらないのだもの。

ちょうど谷崎の「陰影礼賛」を読んでいたので、最近はなんでもかんでも照明でくまなく照らしてしまう、と嘆いていた谷崎が愛した、さまざまなところに潜む闇の美しさが、この映画、引いては古都、奈良には奇跡的に息づいていると思った。二人がそれぞれ暮らしている奈良の長屋の、そう、こんなところがまだあったんだ、という一種のコミュニティを感じさせる居住空間、あやこの故郷の、目にしみる田んぼの緑と穏やかな山々。かつてどこにだって普通にあったはずのこんな風景(特に後者はひときわ涙が出そうな懐かしさを感じさせる)。そして奈良の、炎を扱うダイナミックな、あるいはセンシティブなお祭りの数々。その比類なき美しさ。そうしたものをフィルムに丁寧に残していく、その点で河瀬直美監督は確かに重要な作家なのだろう。海外の映画祭での受賞を見ても、そうした文化的な部分を高く評価されているようだし。でも、劇場に人が入っていないという事実、無論こうした作品はじっくり口コミで、というタイプのものではあるけれど、やはりどこまで第三者に訴えかける力があるのかは疑問。オフィシャルサイトに書き込んでいる人たちは、こちらがナルホドと思うほど深く共鳴していて、やっぱり私がワカラズヤなのか、と思ったりもするんだけど。でも共鳴しない人は書き込まないわけだし……うーむ。★★☆☆☆


ホタル
2001年 114分 日本 カラー
監督:降旗康男 脚本:竹山洋 降旗康男
撮影:木村大作 音楽:国吉良一
出演:高倉健 田中裕子 井川比佐志 奈良岡朋子 小林稔侍 夏八木勲 水橋己 小澤征悦 高杉瑞穂 今井淑未 笛木夕子 小林綾子 中井貴一 原田龍二 石橋蓮司

2001/7/1/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
もう涙と嗚咽で本当に困ってしまった。鑑賞後に記事を読み、オフィシャルサイトをのぞき、そのたびに思い出してぐずぐず泣いているというぐらいである。私は戦争世代ではないし、思い出すものなど何もないはずなんだけれど、健さんの思いにやられちゃったかなあ。

しかしとかく戦争ものは、そう単純に感動したとか泣いたとか、それだけですまされないことはわかっているつもり。ことに日本がアジア諸国にした仕打ちが近年になってようやく明らかにされた今では、余計にそうである。近年になってようやく!私はこのことがとても恥ずかしかった。それも私たちの世代においてすらいまだ学校できちんと教えられることもなく、なぜ知ったかといえば、それこそ映画においてだったのだ。「風の輝く朝に(等待黎明)」を観たときのショックと恥ずかしさといったらなかった。特にそれ以降、日本のつくる戦争映画にはどこか臆した気分になっていた。なぜただ単純に被害者であるということだけに安住していられるのか。被害者であるからこそ痛みがわかるわけだけど、加害者であることに目をつぶり続けていいわけがない。原爆ものはまだしも、特攻隊ものは日本人の犠牲精神を賛美するもののような気がして、観られなかった。観ていないのだからそれは単なる私の思い込みでそれまでの特攻隊映画だってもっと真摯に主張するところがあったのだろうとは思う。でも、日本軍のために戦わせられた、そのために祖国からもその事実を受け入れられない韓国、朝鮮人の人たちのことを描いたのは初めてなのではないか。

健さんが回想する、自分の上官であった、このキム・ソンジェ(金山)は、しかしこの映画の主人公でもあるといっていいほどの役回りである。劇中で言うように遺書など検閲を受けたのだろうし、本当の彼らがどう思っていたのかなどは知る由もない。いささか美しく言わせすぎたという気もしないでもないのだが、そこはこうしたことの第一歩だという点を評価したいし、何よりも演じた小澤征悦がすばらしいのだ。そう、彼って、彼を映画で見るたびに何度も同じことをいっているけれど、今時じゃない顔、その骨太さが魅力で、ああ、確かにこの時代の青年の顔と体つきだ、って思うのだ。彼が民族の誇りのために死ぬのだといい、残していってしまう婚約者知さん、そして祖国の家族に言葉を残すシーンには涙が溢れる。それを聞いているのはやはり特攻隊員の自分の部下で、伝えられるはずもなかったその言葉が、戦後50年も経って、届けられることになるのだ。

このともさんと、この時この金山の言葉を聞いていた、生き残ってしまった山岡は結婚する。恋愛の果ての結婚ではない。お互いの痛みを知る同志の、支えあっていくための結婚である。その長い年月の夫婦生活のうちに愛というには単純すぎるほどの夫婦関係を結んでいく。田中裕子はこの役にはかわいそうなぐらい若いし、だから高倉健との夫婦役は無理があるはずなんだけど、そこはなんといっても素晴らしき役者同士、よりそって生きてきた夫婦の時間を感じさせる空気感のある演技を見せてくれる。この彼ら二人の(もちろん二人だけではないが)演技こそがこの物語を真摯に語らせるものになっていると思う。

彼らの胸のうちには、暗黙の了解として語られずにいる金山の存在がずっとある。知さんは難病にかかって余命いくばくもない。このまま金山を思い出としたままいってしまうのも、そういう結論もあったのかもしれないけれど、そこにふいに飛び込んでくる金山の遺族が見つかったという話。特攻隊員たちを親身に世話していた(トミヤ)食堂のおばちゃん(奈良岡朋子。身震いするほど素晴らしい)が、彼ら二人に遺品を届けにいってほしいという。逡巡するものがあったものの、二人は韓国へと飛ぶ。韓国の一族たちはなぜキム・ソンジェが日本のために死んでしまったのか、その事実すら否定しようとしている。無理からぬ話である。そこで健さんが語るあの日の言葉、その中に出てくる自分の名前に息をのむともさん。……それまでもずっとずっと泣いていたけれど、ここではひたすら慟哭を抑えられなくて。キム・ソンジェ=金山の思いがうわーっと襲ってきたように、思ったのだ。あの時残した言葉以上に無念だったはずの彼の思いが。そしてこの時意を決したように、私がその知子ですと言って歩み出た田中裕子の心中が、顔の表情のみならず体全体に変化となって表れてくるさまに息をのみつつまたしても号泣。彼のおばに当たる夫人が、あなたのことは聞いていますよと、ソンジェがお嫁さんと二人で帰ってくるのを待っていた、姉(彼の母親)は、あの時代に自分の嫁は日本人なのだと堂々としていた、とキム・ソンジェが送ってきていた彼と知さんが二人写っている写真を見せてくれる。号泣である。

韓国の人は、どう思うかな、この映画を観た韓国文化院院長であるキム・ジョンムン氏は、賛辞を寄せてくれながらも、韓国人としてみた場合のいささかの違和感を幾つか上げている。それを読んで、韓国人のオブザーバースタッフをつけることはできなかったのかな、と思う。本来それはすべきことなのではなかったのだろうか。韓国人特攻隊員がいたという事実を、しかし架空のキャラクターで描くのだから、その人すべてに当時の在日韓国人兵士の思いを集約させるほどの責任がのしかかるのだから。それがちょっと残念だったと思う。しかしこの映画、韓国で上映されるだろうか。近年の日韓の映画輸出入の垣根は急速に取り払われ、健さんの前作の「鉄道員(ぽっぽや)」も公開、大ヒットしたという。ちょっと怖いなとは思いつつ、この「ホタル」も何とか海を渡ってくれないか、と思う。その時本当の意味でこの映画は完結を迎えるのじゃないか、と思うのだ。

山岡と共に生き残ってしまった特攻隊員として出てくるのが、やはりあの時金山上官の言葉を聞いていた藤枝(井川比佐志)。彼は昭和が終わったことを受けて、自分の昭和を終わらせるために自死する。昭和というものがどれだけ重かったか、語るにあまりあるそのエピソードは、作品全体に、最後まで横溢している。彼の墓参りに訪れた山岡は、あいつの話を聞いて、一緒に酒を飲んであげられていたら、と悔やむ。人にはそれぐらいしかできることなどないのだから、と。……本当にそのとおりだね。人のできることって、それぐらいしかない。でも、それが人には大切なんだ。そしてこの藤枝の思いを受けて、受け継ごうとする孫娘の真実(水橋貴己。かわゆいのー)の存在は救いだが、しかし実際にこういう子供たちがどれだけ存在するのだろうか。いや、何も教えられなかった私たちの世代と違って、彼らには希望を託せるのかもしれない。若いときにもっとこういうことを考えてみたかったと悔いる私たちとは違って。

特攻隊という事実はあまりにも悲惨で、それはなぜ悲惨かというと、それがただただ愚かな行為だったからだ。そういうと兵士たちを侮辱することになってしまうのかもしれないけれど、もちろんこの場合の愚かはそんなことをさせた当時の日本という国の愚かさにある。この作戦は一人一人の命を爆弾にするという、いわばその命が日本を救うのだと、命の価値を逆手に取った卑怯なやり口だったのだ。命の価値を口にしながら、その価値を使い捨てにしか思っていない卑怯で、巧妙なやり口だったのだ。この映画が始まる前、「パール・ハーバー」の予告編をやっていた。画面にはこの「ホタル」に出てくる特攻機とそっくりそのまま同じ日の丸の一人乗り飛行機が、まるで無機質に飛んでいた。何だか吐き気をもよおした。実際「パール・ハーバー」でどのように描かれているのかは、知らない。そして真珠湾攻撃は確かに卑怯な戦法だったのだろう。でも、そのことで原爆を正当化し……つまり、アメリカ国民の命をこれ以上奪われる事を避けたという意味で原爆作戦は正しかったと思っているらしいアメリカには、やはり……。今でもアメリカは戦争をやりたがりだし、(「パール・ハーバー」によって志願兵の向上を狙っているのだという!)戦争に勝った負けたはないなどといっても、やはり戦勝国には戦争の痛みなど本当にはわからないのか。戦争によって失った命があるのは同じはずだけれど、勝った国では、それが無駄な死ではなかったと思えるから。でも負けた国、あるいは敵国の兵士にされた国にとっては、その死が無駄ではなかったと思うことがどんなに難しいか。

降旗監督が少年のころ、こんなふうに飛び立つ直前の特攻兵たちに会っていて、こういわれたという。「戦争はもう負けだ。少年飛行兵なぞ志願したら許さん。外交官になれ。科学者になって国を再興しろ」戦時期には決して許されなかったであろう言葉をいっていたんだ。やっぱり、彼らはちゃんとわかっていたんだね。……ますます涙がとまらなかった。★★★★☆


ボディドロップ・アスファルト
2000年 96分 日本 カラー
監督:和田淳子 脚本:和田淳子
撮影:白尾一博 宮下昇 音楽:コモエスタ八重樫
出演:小山田サユリ 尾木真琴 田中要次 岸野雄一 マチュー・マンシュ あがた森魚 大久保賢一 鈴木慶一 手塚眞 沼田元氣 安藤純子 磯部啓之 加藤幸太 鈴木卓爾 小代浩人 金井勝

2001/8/10/金 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/レイト)
この日たまたま和田淳子監督のティーチ・インがあって、映画制作のお話を聞けて、それはとても興味深かったんだけど、逆に、聞かなかった方が映画を面白く感じ取れたかな、と思ってしまった。私はこの和田監督の作品は今回が初見なのだけど、今までは短編映画を何本か作っている人で、どうやらそれまでの作品とは随分と趣を異にするらしい。前半部にあらわれている女の子のモノローグ、あの感じが今までの和田監督のカラーだったらしくて。もしその短編時代の作品を観ていたら、この違いにぶっ飛んだかもしれないと思いつつ、いやでも、短編時代の作品を観ていたら、この長編を観ようとは思わなかったかも、とも思う。

というのは、この前半部分の女の子のモノローグは、はっきり言っちゃえばうっとうしいことこの上なくて、聞いちゃいられねえ、というのが正直なところだったから。本当にこのまま最後まで行ったらどうしようかと、劇場を出るタイミングを計っていたぐらい。それが途中から急に弾け出して、その弾け方は尋常じゃなくて、結局、うっわ、これすごい好き!と思えたのだけれど。ただ、和田監督のお話を聞いていると、そして作品を観ている時にも思わなくもなかったことではあるけれど、観客の予想を裏切ることを常に考えて構成している目線がすごく感じられて。もちろんだからこそ面白かったのだし、その裏切られ方は予想以上の裏切られ方で、楽しくって仕方なかったから、いいんだけど……。ああ、私、何か歯切れ悪いなあ。要するに、あのティーチ・インを聞かなきゃよかったなあと思ったのだ。いろんな計算がされているという話を聞いてしまうと、何故だかキャーキャー言って(もちろん心の中で)喜んでいた映画に対する気持ちが、ああ、そうなんだ……という気持ちになってしまうと言うか……。

まあ、そりゃ、そんなことは映画自体には全く関係がない。女性監督だからとか、女の子感覚だからとかいうことは言いたくないので(それって絶対、逆差別だと思う)言わないし、前述したようにあのモノローグには拒絶反応で、あれが女性感覚ゆえだといわれたら、かなり反発しちゃうところだし。ただ、あれがあるからこそ、このヒロイン、エリの造形が面白いわけで。つまりはこう。彼女は仕事もせず、恋人がいないとか、日常が怖いとか、何かそんなことで日々自分の内側でブツブツ言っている子なわけ。そのブツブツはもう、すっごい自意識過剰な部分と、それとは真逆な部分で構成されているというヤッカイなもので、つまりは、私に構わないで、と言っている一方で、私を認めて、と叫んでいる超ワガママなものなのだ。しかし彼女がそこから抜け出せたのは、その思いを理想の自分を造形するという形で原稿用紙にぶつけた結果、思いもかけず新進女流作家として認められてしまったから。そのタイトルったら、思いっきりベタな「ソフトクリームLOVE」!そこからいきなりのカラオケ・ミュージカルで、そして小説の中のリエと現実のエリとが同時進行のゴチャマゼ状態。

ヒロイン、エリがいきなり愛の告白をする相手が、あーらびっくり、オッサン編集長だったり、その彼に振られた後に出会う“毛唐の青年”が、実は丸山立夫という日本人だったり(彼と出会う一瞬にエリの頭の中によぎる瀕死のジーちゃんの遺言シーンが笑える)。この男性遍歴の流れからして既に可笑しいのだが、その丸山さんとの待ち合わせを決めるくだりが一番ツボにはまった。丸山さんはハチ公前もモヤイ像もわかんなくて、“初台の吉野屋”を提案する。どこ、それ、というエリに、彼が説明するそれが最高に可笑しいのだ。曰く、京王線ではなくて京王新線……駅前の初台の派出所を通り過ぎ……緑と赤の銀行の間の道で……パズルみたいな壁のある……もう途中からわけ判らん状態になってくるのをエリは必死で聞きとめ、あ、それってパークハイアットのところ、と食いついていくと、丸山さんはそこまでは行かない、そこから四百メートル手前の、とかまた妙に細かいことを言うのである。

エリは大きなプレゼントを抱えてその待ち合わせ場所に嬉々として向かうのだが、丸山さんは「御縁があるから五円玉」(笑)と言いながら落ちている五円玉を拾ったところを、自分勝手なヒップホップ哲学に酔っている二人組の運転する車にはねられてしまい、その待ち合わせ場所には現れない。そのはねられた時、五円玉は大きくバウンドし、空高く高く、高−く舞い上がる……。なんていうキッチュなCGはここだけでなく随所に現れ、風船にグッタリした人が吊り下げられているとか、UFOが飛び交って、男の子が吸い込まれちゃうとか、それが物語に何らの影響を与えない点景として描かれるのが妙に可笑しいんである。

丸山さんが現れないことによって、エリはまたしてもあの陰鬱なモノローグの世界に入っていく。幸せな恋愛を謳歌する小説の中のリエに嫉妬し、彼女もまた不幸のどん底に突き落としてやろうと画策する。仕事人間で浮気をしているかつての恋人である夫、しかも莫大な借金を抱えて行方をくらましてしまった夫に失望して、小説の中のリエは自殺させられてしまう……なんていう、自分勝手なエリのやり方に、ワープロの画面の向こうからリエが反撃する。ちょっとー、あんたいいかげんにしなさいよ、てなもんで。で、ここで驚いたエリがふっと正気に返って、やだやだ、こんなとこ誰かに見られたら、頭がおかしいって思われちゃう、というと、本当に見知らぬ誰かが部屋の影から覗いているのだ!びびび、びっくりしたー!

とまあ、このあたりからエリの妄想も暴走していって、彼女がちょっと考えたことが全部現実になってしまう世界に突入したりしちゃう。それで、彼女はヘタなこと考えられない、と思い始めると余計に考えちゃって、“考えちゃいけないってことを考えちゃいけない……”とつぶやきながらさまよいだす。しかしはっと立ち止まると、「考えちゃったー」何をと思ったら、いきなりの地球爆発!街中が、世界中が炎に包まれ、そしてエリ以外のすべてが消滅し、彼女は砂漠にひとり残される。これがまた、足跡だらけの砂漠なんだな(笑。鳥取砂丘か!?いや、ただの海岸の砂浜かも……)そこにあらわれ出るのはこーりゃびっくり、神様ッ!……こりゃまたまた、チープな神様で、しかしエリはこの神様のアドヴァイスにすっかり心癒され、この妄想世界から抜け出すことができるんである。んで、天上からきゃあああ、とばかりに地上のアスファルトに叩きつけられて、んで「ボディドロップアスファルト」なわけ。

モノローグのエリと、そこから抜け出した(ととりあえずは思っている)エリとの間に挟まれる二度のタイトルクレジットや、とにかく常に舵取りを急カーブにする物語展開、ヘタウマを自覚的にしているキュートなCGなどなど、破天荒に見えてそれほど破天荒じゃなくって、妙にまとまっている。それが良くもあり悪くもあるなあというのは、でもそれはあのティーチ・インを聞いたからそんなふうに思えちゃっただけで、それを聞いていなければただ単純にチャーミングでメチャ楽しいと思えるんだろう。あ、でもそのあたりが、画面から受ける印象はちょっと似た感じでも、破天荒を破天荒のままに描出できる「サノバビッチ☆サブ 〜青春グッバイ〜」の松梨智子監督なんかとは違う感じなんだよなあ。うむ。しかしこの和田監督とても若くて、まだ27歳だっていうんだから(うっわ、私より年下だよー)それにやっぱり女性監督って貴重だし、今後、どう展開するのかがとても楽しみ。

主人公、エリを演じる小山田サユリの、ジーン・セバーグばりの可愛らしさと、とにかく粋なコモエスタ八重樫の音楽が作品世界を良質に保ち続けている。和田監督はとかくビデオの特質である生っぽさを強調していたけれど、それはやはり前半部分の私小説的モノローグのエリに言えることであり、私にとってはあくまでこの弾けた上品さが良かった。★★★★☆


ほとけ
2001年 113分 日本 カラー
監督:辻仁成 脚本:辻仁成
撮影:蔦井孝洋 音楽:辻仁成
出演:武田真治 yuma 大浦龍宇一 城尚輝 津田寛治 不二子 根岸季衣 千石規子 井川比佐志

2001/9/6/木 劇場(歌舞伎町シネマスクエアとうきゅう)
どうしようもなく惚れこんだ前作、「千年旅人」があったので、どうかなあと思いつつ観に行ったら、そう思っていたせいか、どうかなあ、という思いのまま観終わってしまった。盲目の(というのは、実はいつわりの)少女、ユマ(yuma)が何があっても好きだと言い張るシバ(大浦龍宇一)が解説で紹介されているような“きっぷもいいし、腕力もあり、仲間からも慕われ”……というのがどうも首肯できないし、というより、この“仲間”というのも、敵対するグループも、単なるゴロツキで、やってることも、見た目的にも、ひどく浅薄で魅力がない。もちろん、それは物語上意図的なことなのだと判ってはいるのだが……。

そしてシバの弟で主人公のライ(武田真治)は、今まで怒りや悲しみといった感情を表に出したことがないという人物。それゆえにほとけと呼ばれてからかわれ、その存在をこのゴロツキたちに否定されている。彼が思いを寄せているのが、ユマ。彼女はどんなにライがシバは彼女のことを幸せに出来ないと言っても、耳を貸さない。愛し方が判らないライは、ぎこちなく彼女を砂浜に押し倒してみたりもするのだが、それは彼女の、最も傷つく部分をえぐってしまう。

「千年旅人」と同じく、自身の名前で辻監督のミューズを演じてみせるyuma。前作にあったような、悲しい中にもその快活さが救いであるというキャラでもなく、彼女は最後まで悲惨である。彼女はナマケモノの両親を養うために、働いている。それどころか、義父に幼い頃から夜の相手をさせられている。しかもそれは母親も了承済み(というより、母親が積極的にやらせている)である。彼女の中ではセックスは愛情とは決して結びつかない。だからこそシバが好きだと言い張っているのかもしれない。シバはユマが利用できると思っているうちは、彼女のことを拒否しないし、恋人のようなそぶりすら見せる。しかし、決して手は出さない。それはシバのずるいところで、ユマを自分の女にしようとは思っていないからだ。

実はユマの目が見えていることをたった一人気づいたライ。でも、ユマの目は、完全に見えているわけではない。いや、もちろん完全に見えてはいるんだけれど、彼女は、自分の見たくないものには、それを見てしまったとしても、見ていない、見えないことにしてしまえるのだ。ユマがシバと都会に出て行こうとお客の金をちょろまかしてまでコツコツためたお金をとっていってしまった場面を見ても、彼女の中ではそれをなかったことにしてしまえる。でも、ライが彼女の目が見えることに気づいてから、ユマの中のその法則も揺らいでいるように見える。しかしそれはゆがんだ結果を生んでしまった。彼女はシバのその行動を見てしまうと、自分の中の見たくないものを消し去ろうとでもするかのように、父親のペニスを食いちぎった後、両親を包丁で惨殺してしまう。そしてその記憶も、シバが金をとった記憶と共に封じ込めてしまう。

ライは始終鉄くずを拾い集め、それを使って巨大な仏を作っている。彼はこれが完成し、魂が込められた時、この汚い世界を破壊してくれるのだと信じている。それは間違っているとたしなめるユマ。たしかにこの仏は完成し、その目が妖しく光り輝いても、彼自身が世界を破壊することはなかった。しかし作り手であるライの、表に出せない怒りのエネルギーがそこに込められ続け、それが乗り移ったかのように、ライがシバを荒れ狂う海に突き落とすという凶行を生んでしまう。あるいは、ユマの両親惨殺もそうだったかもしれない。死んだと思ったシバは、強く頭を打った痴呆状態で救出された。そんな彼を献身的に世話をするユマ。今はこの人には私が必要、と、何か嬉しそうにすら見える。そんな彼女に自分が兄を不具者にしたのだと告げてしまうライ。彼女と痛みの記憶を分け合おうとしたのか。しかしその結果は……。

ユマの、幼い頃から植え付けられ続けた心の哀しみは本当に痛いけれど、でもあんなサイテー男のシバを慕い続ける彼女に共感するということがなかなか出来ない。演じるyumaは、「千年旅人」の時の、月の寂しさと太陽の明るさを同時に併せ持っていたような少女の魅力から、少女と言い切るにはやや無理のある、ちょっとだけ大人になった姿になった。ノースリーブで膝下のふわりとしたワンピースが良く似合うような、真っ黒い髪とふくよかで真白い肌。どんなに陵辱されていても無垢さを失わない印象はこの人独自のもので、それは多分に魅力的なのだけれど。そして彼女の側に立っていると、ライを演じる武田真治の印象も、それまで見てきた、美女や美少女の隣に立っている彼のそれとは随分と違って見える。どんなに頑張っても心が交わることがないのだけれど、でも共犯者であり、ライが言うように、唯一の運命の相手であるのだと。でもそれは悲しい色彩に満ちている、その先の破滅を予感させるものなのだけれど。

ここが函館の街だと気づくのに時間がかかってしまった。物語中ではそれには言及されないし(臥牛市という名前というのも言っていた?)、実際架空の街だということらしい。荒涼としていて、寂れていて、海にはシバやその敵対するムジのグループなどの決して美しいとは言えないだらしのない男たちがたむろしていて、なんだかちょっとガックリしてしまう。いかにも古く、使い込まれた船員会館などその風情には感心するものもあるのだけれど、やはり函館をふるさとに持つものとしては、何か複雑な気持ちにならざるを得ない。辻監督にとっても特別な地であるからこそ、ここを舞台にしたんだろうけれど……。美しいと感じられる街のたたずまいが一つもない、というのは、かなり辛い。

結局追いつめられたユマが……いや彼女は何に追いつめられていたのか、あるいは、共に死んでしまえば、その向こうの世界には元通りのシバが優しく迎えてくれると思ったのか、彼の首をギリギリと絞め、自分は包丁で首をかき切って死ぬ。非力な少女が、訳がわからないまでも力だけはある青年の首を必死になって締め上げる後姿。そして彼を抱き、涙を流し、ライが見つけたときには彼女は自身の血をシバにも浴びせながら、美しい心中の姿をその夕暮れにさらしていた。美しいのだけれど、でもやっぱり許容したくないラストシーン。呆然と泣き崩れる、愛し方を(ことにユマに対しての)知らなかったライの痛みも、哀しいけれどやっぱり許容したくない。

自分の中で咀嚼するのに難しい作品。もう一度観たら変わるかもしれないけれども……。★★★☆☆


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