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「A2」
2001年 131分 日本 カラー
監督:森達也 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:森達也 安岡卓治 音楽:
出演:
そして、「A2」を観た。一度観ただけではとても咀嚼できないほど密度が濃くて、もう一度観た。
映画としてのエンタテインメント性にまず非常に優れているというのは前作と同様で、ドキュメンタリーで、しかもこれだけ重い題材で明るく笑える場面がほぼ全編にちりばめられているということに驚きつつ、充分に楽しみながらも、頭の中は膨れ上がる思いでいっぱいになって、こぼれ落ちそうだった。一度目に観てから間を置いていろんな考えがあって、そしてその思いを抱いて二度目を観たら、さらにそれが二倍三倍に膨れ上がって、駆け巡った。問題は全然単純じゃない。複雑で、どこから手をつけていいのか判らないぐらい。でも、原因や根本はひょっとしたら実にシンプルな一つのことなのかもしれない、と思った。でも、それが何なのか……今の時点では私の中では答えが出ない。
前作の主人公である荒木浩広報部長が、仲間とともに膨大な資料を倉庫から運び出す場面からはじまる。その膨大な資料は、地下鉄サリン事件発生から出たマスコミ媒体物……テレビ番組の録画テープや、週刊誌や、その他もろもろ。本当に膨大な量で、「見るのが仕事」と語る荒木氏も、あまりに膨大すぎて、だんだん何を問題にすべきなのか、対策すべきなのか判らなくなった、と苦笑する。
この時点で、私は既に打ちのめされる。「A」でも出てきた描写だけれど、彼らはあの時からやはりずっと続けて、世間で自分たちがどう扱われているかに、決して目をそらさなかったという事実に。しかもこんな、絶句するほどの膨大な量に対して。
前作でもマスコミ報道の異常な煽り方は描かれていたけれど、本作はそれに更に深く切り込む。と同時にそれに絡む警察も。昨今のさまざまな事件で警察に対する信頼は急速に失われているけれども、それを糾弾すべきマスコミが警察報道を鵜呑みに、というより、間違いだと判っていてそのまま報道してしまう、という事実に呆然とする。
当事者であった信者たちが、事の真相を森監督のカメラの前で明らかにするのである。オウム新法設立のきっかけとなった信者同士の監禁事件。その記事は私も読んだ覚えがあるけれど、“衰弱した信者を保護”したとされるその“衰弱した信者”である彼は、玄関に出て行ったらいきなり頭に服をかぶせられ、必死に抵抗するのを数名で取り押さえられて救急車に押し込められた、と語る。そしてその様子はマスコミも見ていて、衰弱しているはずなどないと判っているのに、警察報道のまま記事を掲載。そして病院で検査しても当然何の異常も出ないのに、警察は病院側に、もうマスコミに発表してしまったから、何とか入院させてくれ、と、当の彼本人の目の前で言ったのだという。
確かにこれもまた、彼の語ることを映画の観客であるこちらが鵜呑みにするのだっておかしい、ということなのかもしれない。彼らによって数限りなく語られる、マスコミの意図的な誤報が、彼らの言うとおりだという証拠は確かにない。
しかし、このドキュメンタリーには決定的な切り札があった。それは、確かにそこにはマスコミがいる、それを森監督のビデオカメラはとらえているのに、彼らが映したはずの映像を私たちは絶対に見た覚えがないという“証拠”が。
「A」で印象的だったのは、慣れない荒木氏が懸命にマスコミの矢面に立って対処しているのを、周りの関係者が「荒木さんの誠実さには誰だってほだされるよ」と言っていたこと。確かにオウムの内部に持ち込んだ森監督のカメラから見れば、どう見たって荒木氏の態度の方が真摯で誠実だ。普通の場合だったら、こうした人物が信頼を勝ち取るのは疑い得ないところだろうと思う。しかし、荒木氏はオウム信者であり、知ってのとおり世の中はゴウゴウのオウム批判の嵐だ。「A」の中では荒木氏の誠実さはついに外の人間に届くまでには行かなかった。そして、本当に届く日が来るのだろうかと、暗澹たる気持ちにさせられたのも事実。
しかし、あれから数年がたち、本当に本当に小さいけれど、奇跡的な風穴が開いていた。全国に散らばった信者たちはどこに行っても出て行けのシュプレヒコールにあい、住民たちと衝突し、その住民運動がまっとうな正義として報道される、という繰り返しが起きていた。本作は全国各地の信者たちの居住区に飛び、オウム排除の住民運動を数々映し出す。当然そのほとんどは話し合いすら出来ない状態で、“殺人集団”、“信者とは話をするな、体にも触れるな”、“姿を見かけたらオウム出て行けと叫べ”、などという、落ち着いて考えれば、人権蹂躙もはなはだしい“正義”である。しかしその中にたった一つ、一部住民が信者たちと和気あいあいとした関係を築いているところがあった。
そもそもの前提は、自治体が建てた監視小屋の隣に、住民のボランティアで設置された監視テント。最初は他の居住地と同様、ただただ拒否する住民の反発があったといい、いまだ立場上は撤去されないままある、扇情的な言葉と字体で書きなぐられたオウム反対の看板もある。しかしそんな状態のまま、彼らは実に楽しそうに談笑し、最初は恐かったよね、いやこっちはあんたが恐かったんだよ、などと言い合ったりする。あんたは閉じこもって勉強不足だから、と“現世”の宗教本や数学のテキスト(!)をプレゼントするおっちゃんと、仏教談義に花が咲く信者の秋山氏。酔っぱらっていい気持ちになってるおっちゃんに声をかけると、いや、これ甘酒だよお、という可愛らしい可笑しさ。もちろんこれも、この土地の住民の、さらに一部の住民にしかすぎないのだが、彼らは、死にもの狂いで相手にぶつかっていったからこそ、理解しあえるようになった、と言う。でも、混乱していると。情が移っちゃってねえ、何でだかねえ、などと臆せずにカメラに向かって語る住民たち。信者たちが脱会するんならすんなり受け入れるけど、でも彼らがそれを絶対にしないことも、判っている。最初はオウム、オウム信者という敵と闘っていたけど、今は見えない敵と闘っている感じだ、と言う男性もいる。その見えない敵というのが、何なのか判らないと……。
その一部住民とその他住民との折り合いがつかないことが原因になったのか、監視テントは撤去されることになる。その様子を各局のマスコミが取材にやってくる。住民と信者とがともに協力して解体作業が進む。監視する側とされる側が、朗らかな笑い声を上げながら作業を進める。マスコミは驚き戸惑い、その様子を確かにカメラには収めているのだが……そこで信者の男性が「放送はされないでしょうね」と語るように、こんな画は見た覚えがない。フジテレビもテレビ朝日も来ているのは森監督のビデオカメラにバッチリ映っているのに、である。
この場面で信者の一人、秋山氏が大量の塩水を飲み、一気に吐き出す、という修行の一環?であるワザを披露することになる。それこそこんな場面を撮られたらまたやっかいだと、住民たちがテレビの人は遠慮してください、と遠ざけるシーンも印象深い。そしてその塩水吐きのキョーレツさに、一瞬静まり返る住民たちも妙にオカしいのだが……。そう言えばこの塩水吐きにはもう一つ、オウムの施設で森監督がソファで眠っている時、この塩水吐きの音で目覚め、ちょっと拒絶気味の風に寝返りをうって背中を向けるという場面がある。あるいはあの有名な、色とりどりのコードが取り付けられた帽子をかぶって電流を流す、というのもそうなのだけれど、でも結局、あの事件のことではなくて、オウム信者たちの日々の生活とか、そういうものの中で拒絶反応を示すものは、しょせんこんな程度のものなんじゃないか、って気もする。修行を促進する小道具として使われるそれらが、“そうではない業界”に属する人間にとって理解しがたいものだ、というのは、職業や、趣味や、様々な組織や、そういうものが違った時に生じるものと大して変わりはないんじゃないかと。だから彼らと打ち解けた住民たちがその帽子によって耳たぶが焦げてしまっている秋山氏に対しても、その塩水吐きに対しても、その程度のレベルの拒否反応しか示さないというのは、至極真っ当なのではないのか。
そして、信者たちがこの土地を去る日、別れを惜しむ住民たちが三々五々、集まってくる。住民たちに請われてオウムの教義本をプレゼントする秋山氏。このシーンで決定的に、ああ、本当に彼らは信者たちを理解しようと必死に努力しているんだ、これが死にもの狂いということなんだ、と痛感する。信仰することと、それを勉強し、理解することとは違う。その違いは非常に重要である。でもそれを信仰だと見られることを恐れることが、私たちの保身としてのオウムバッシングにつながっているのだ。一人のオバチャンは言う。「健康でいてほしい。そして一生懸命修行をしてね。えらいと思ってたんだよ。周りからどんなにつつかれても、自分の信じた道をまっすぐ、ピーンと進んでいてね。人間ってあっち行ったりこっち行ったりって揺れるものじゃない。それがあんなにまっすぐにね。ずっと大したもんだと思ってたんだよ」勿論問題はもっとずっと複雑。でも根本のシンプルなひとつがあるとしたら、こんなようなものなのかもしれない。シンプルで、無邪気なまでにシンプルなんだけど、死にもの狂いでぶつかった末に生じたこの言葉には、有無を言わさぬ感動的なまでの説得力があった。
その他の土地では……死にもの狂いになっていないその他の土地では、とにかくヒドいエピソードの花盛りである。ことに、千人規模の集会が行われたという土地では、信者たちが住む家に住民の代表たちが訪ねてくる。信者たちが中に入って話し合いましょうと促しても、決して中には入ろうとせず、決議文のプリントを渡し、これを門の外から読み上げますから、ときびすを返す。そして拡声器でオウム出て行けー!と何度も叫んで、これでよしとばかりに引き上げていくのだ。これにはこの信者たちのみならず、スクリーンのこちら側にいる観客の私たちも、あまりのアホらしさに口アングリである。ガスボンベの交換を住民が阻止したりといった理不尽な行為など、挙げればきりがないのだけど、こうした住民たちには信者たちと話し合おうという気など、毛頭ないのだ。ただ出て行ってくれさえすればいいのだ。そのことによって住民同士の団結を図って盛り上がることに、正義を行っているという快感を覚え、そして出て行ってくれた結果、自分たちの努力が実ったと、これで幸福に暮らせる、ということになりさえすればいいのだ。
ひとりひとりは、決して悪い人なんかじゃないはず。その中には、自分の大好きな人や尊敬している人も、きっといるだろう。でも、集団になると、人間って、失われてしまう。それもこうしたひとつ方向にしか頑として流れない情報にさらされた集団の人間は。集団それそのものが一つの奇怪な生き物になって、残酷に、激しく、うねる。でもその集団の力によって勝ち取ってきたものが、確かに人間の歴史の中にはあった。でも、数々の権利を勝ち取って、もう勝ち取るものがなくなってしまったら、こんな風に別の目的を求めて飢えた怪物のように矛先を変えてしまうのか。
住民の出て行け騒動とマスコミのあさましさがもっとも出たのは、信者がその土地のとある不動産会社に雇い入れられていたのが“発覚”して問題になった時。前作の荒木氏から本作の主人公を受け継いだ、もう一人の「A」である秋山氏が、この騒ぎを静めるのにどうしたらいいのか煩悶しながら現場に到着する。同行した森監督に「今、全国で最も注目を浴びていますよね」と苦笑しながら、どう言ったものなのかと、騒ぎになることも恐れて近づけない。森氏の取り計らいで、集まっていたこの地域の長たちに会うことが出来るのだが、秋山氏が騒ぎを起こしたことに対して謝罪し、すぐに出て行くつもりでいますから、と頭を下げるのに対し、彼ら(5、6人はいたか)は秋山氏を取り囲んで、いつ出て行ってくれるのか、すぐにでも出て行ってもらいたい、と口々に連呼する。それでなければ我々が困るからと。
これは相手が世間の敵であるオウム信者でなければ、あからさまにその差別主義が人道的問題になる、つるし上げの場面。でも彼らはオウムは敵だから、どんな主張をしたって当然の権利だと思っている。秋山氏、激昂するのをやっとの思いで抑えるように、「私たちは謝罪し、補償をしていくしかないんですよ」としぼり出した後、「……出て行きますから」と悲しく語気を強める。いたたまれない、といったようにドアを開けて足早に去る秋山氏に走り寄り、無遠慮にマイクをつきつけるテレビの女性リポーター。「あなたが信者の責任者ですか。今日はどういった話し合いで」「……」無言のまま足を早める秋山氏。こういう画って、確かにテレビでよく見る。そして何も言わない被写体の人物に対して、何か言えよなー、などと呑気に思ってしまう。でも、でも。こんな風に彼の側にカメラを据えてみたら。リポーターの方が、マスコミの方が、いかに理不尽で非道なのかがわかる。怒鳴りつけない秋山氏が凄いとさえ思ってしまう。彼は無言のまま車に乗り込み、音高くドアを閉める。……それぐらいしか、彼には抵抗する態度が取れない。この場面は、本当に、ただただ単純に憤りと悲しさで、顔が熱くなってしまった。こんなの、こんなの取材なんかじゃない!
この、どこの土地に行っても追い出される、という事実には、新聞報道などを見るにつけても、じゃあ、どこに行けというのか、これでは死ねと言っているようなものではないかと、本当に、怒りと悲しさともどかしさでどうしようもない気分にさせられたものだが、その同じ感情を、思いもよらない人たちが代弁してくれた。それが、何と、本当に何と、右翼なのである!右翼といえば、前作「A」ではオウム廃絶の一番先頭に立って、あの騒音どころか轟音の街宣車で叫びまくっていたシーンがあったが、そして本作にもそうした描写はある土地で描かれているのだけれど(しかし、同じくオウム反対の運動をしている住民たちが引いているのが実にシニカルで可笑しい)、かの上祐史浩氏が出所して落ち着いた先の横浜市で、一つの右翼団体が実に個性的な活動を展開する。
最初こそ、彼らの右翼独特のドスのきいた物言いに、スクリーンの中のことだというのにビクビクしてしまうのだけど、落ち着いて聞いてみると、あれれ?何だか実にまっとうなことを言っているぞと……。“警察を通した話も、マスコミを通した話も、聞きたくないんだよ。俺たちは毒ガスなんて作る術はない。せいぜい刺すか撃つかそんなもんだ(!)。だからちゃんとボディーチェックを受けて、紳士的に直接お話し合いをしたいって言っているのに、何でダメなんだ”と言い方が実にコワいので一見、ものすごく不当なことを言っているように聞こえるのが可哀想なほど、マトモなことを言っているのである。そのコワい物言いをしている右翼のオジサマたちをバックにほろ酔い気分のおじいちゃんが、あんなふうに言っちゃだめだよねー、優しく優しく、と合いの手を入れているのが爆笑モノなのだが、それはまあ、置いといて。
「A」でオウムの中に入り込んでしまった森監督にはビックリしたけど、本作では右翼に入り込んじゃうんだから更にビックリした!街宣車には初めて乗りますよ、だなんて乗せてもらったりまでしちゃう。本当に森監督ってば、何て、何て凄い人なんだろう!この右翼の幹部たちは言う。どこに行っても出て行け出て行けって、じゃあどこに行けばいいのかなんて全然考えてないんだよ。そのおかしさを判ってるから、俺たち右翼はそんなことは言わない、とオウム死ねだのオウム出て行けという言葉は禁句、と活動員たちに言い含め、オウム解散と謝罪、賠償を叫ぶデモ行進を決行する。しかし、そのまっとうなデモ行進も、翌日の新聞には「右翼団体がオウム撤退を求めデモ行進」と出てしまう。その記事を見ながら、右翼幹部たちは、こういう風に書かれちゃうんだよね。それでオウムの人たちがこれを見て、ああやっぱり右翼はそうなんだ、と思っちゃうんだよね、とボヤく。右翼は良く書かれたことなんてないから、と言う彼の言葉に、そりゃ……と思いかけて、ハッと気づいて思わず思考が沈黙する。そう言えば、彼らが何を掲げて、何を信じて、そんな活動をしているのか、考えたことなんて、なかったんだ。世間から排除されている彼らだからこそ、同じ思いをしているオウムに対する間違った対処に気づけたし、それを主張することも出来るけれど、それを主張しても、右翼の言うことなんて、と、こんな風に適当にあしらわれて。オウムも右翼もあっさり悪にしてしまえば、そりゃコトは簡単だから。悪に対する正義として闘えばいいだけの話だからと。でも、そんなのって、ない。そんな“シンプル”は、絶対に願いさげだ。
そうだ、上祐氏が出てくるんである。彼は、いわばオウムの拒否反応に対する最後の砦だった。荒木氏に共感できても、上祐氏はとうてい受け入れることが出来ないだろうと、思っていた。だけれど、森氏のカメラにさらされる上祐氏は、慎重に考え、言葉を選んで発言する、信仰する信者の一人に過ぎないのである。彼は相当に頭がよく、あの“ああ言えば上祐”と言われていた頃は、オウムを守りたいがためにその能力を弁舌にフルに使ったんだろう。あれもまた、マスコミにあおられて作り上げられた一つの例だったのではないか。これほどマスコミはご都合主義のウソばっかりだと見せられていても、植え付けられた情報というのはやはり恐ろしく、あの頃のイメージがどうしても鮮烈に残っていたから、彼が出所してオウムに戻ってきたら、あの誠実な荒木氏などもあっという間に操られてしまうんじゃないかとか、ホントに偏見で思ってしまっていたんだけど、荒木氏らとともに慎重にマスコミへの対応を協議している彼の姿には、幹部信者としてのピリピリした責任の空気が痛く感じられるほどだった。森氏のことも、聞いてはいたんだろうけれど、上祐氏のいない間に入り込んだ人物だったのに、他の多くの信者と同様、森監督の存在とカメラに無防備といっていいほどである。森監督に対して、「森さん、(オウムではなく)アレフですよ」、と親しげなからかいの調子さえ含めて笑いながら言うのにも、(恥ずかしながら)仰天する。他の信者たちと、そのくったくのなさは何も変わらない。まあ、多少ご飯が他の信者より豪華だけど(と言っても、ご飯に何かかけて食べる信者たちに対して、上祐氏はチャーハンだという、その程度の違いなのが何か泣けるものがある?)。
記者たちに対して、「(攻撃的な住民もマスコミも)みんな友達だと思っていますから。そういう心がまえで行こうと思っています」と語る上祐氏の境地は、まさしく悟りを開いたようにさえ見えてしまう。そんな上祐氏に森監督はインタビューを試みる。上祐さんは一生懸命現世の言葉に訳して言っているけれど、伝えきれないもどかしさがあるんではないかと感じたと。そうすると、上祐氏はふっと沈思黙考したのちこう答える。「本当に残るものとは、言葉では表現できないものですから」と。
……これには、参った。言葉に振り回されて、言葉の嘘に悩むばかりの最近の私には、あまりに、堪えた。自分が恥ずかしくなって、逃げ出したくなったくらいに、ショックだった。あの事件以前の教団は間違っていた、自分もその一員だった、と迷いもなく言い切った彼の覚悟が、この一語に尽きる気がした。もちろんそう言い切る中にも、言い切れない迷いや葛藤があるに違いない。他の信者たちは教祖を信じること、認めることに対してまだノーと言えないし、これからも言えないだろうということを、迷いながらも、こんなこと言ってマズいですかね、と言いながらもそうした結論を出さざるを得ない。それは麻原被告がこのオウムの原点であり、全てを作り出した人間であり、その教義を信仰する以上、殺人者を信仰することが矛盾だと判っていても、それは親が殺人者であっても親は親であり、子として親を最後まで守りたいと、信じたいという気持ちと同じように、いやそれ以上の強力な、強烈な“信仰”なのだ。そしてまた、上祐氏にもそうした思いがあるには違いないのだけど……でも彼は、幹部だから、責任者だから、そして何と言ってもあの事件の当事者の一人だから、何かの拠りどころによってその矛盾を封じ込めるしかない。その拠りどころを象徴するものが、あのひと言だったような、気がしたのだ。
そう、こんなことを言ったらマズい、ということは彼らは重々承知している。麻原被告がどんなワケの判らないことを言っても、そんなことには関心がない、ただ時を待っているだけだと、今のこの状態も彼の意によるものなのだと、苦笑しながら、マズいですよね、こんなこと言ったら、と言いながら、吐露してしまう。そのあまりの正直さと、その内容にああやっぱりそうなのかという思い、その双方で衝撃的である。森監督が最後、「A」の主人公であった荒木氏に締めくくらせるようにインタビューを試みる場面で、結局は融和できないと思うんですよ、表層的には出来ても、と荒木氏に問いかける。荒木氏はそれに対して、何も、本当に何も言葉が見つからなくて、「消えてしまえばいいと思われているんでしょうけど……」とそれこそ消え入るような声で言う。彼らが抱える、世間と決定的に迎合しないこの麻原被告への信仰、でもそれは私たちならわざわざ声に出して言うこともなく、隠したままで人生を送ってしまうような、それぞれが持っている大なり小なりの危険思想(誰でも持っていると思う)の一つなのではないだろうか?彼らはそれを、そのことを口にすることはマズいと判っていながらも、でも言ってしまう。彼らの信仰が、それを隠せなくて。私には彼らのその愚かなまでの無防備さと、それと真逆な私たちのどちらが危険な思想を持っているのか、判断できないでいる。融和できない原因は、もしかして、ひょっとしたら、……私たちの方にあるのではないかと。
松本サリン事件で容疑者にさせられた河野義行さんにオウム信者らが謝罪に行く場面が、マスコミ同行のもと描かれる。……河野氏というのが、こんなに素晴らしい、というか、出来た人物だったとは知らなかった。彼は信者たちといろいろと話し合いをし、今日ここに来られた目的は謝罪なのだとしたら、私はそれを受ける気はないけれども(というニュアンスは拒否、というよりも必要がない、というような意味に取れる)セレモニーとして必要ならば、カメラも来ていることだし、やりましょう、と言う。河野さんが謝罪を受けるタイプの人ではないこと、謝罪するとしたらどういう風に言おうか、など何やかんやで信者たちの間でどうしようか……という空気になり、河野氏はならば、やめましょう、私はセレモニーとしての謝罪でも、あなたたちの出直しにとって必要であると思うから、セッティングしたのだけれど、そこまでちゃんと腹を括って用意をしていないのなら、やめておきましょう、と言う。そういうところがあなたたちは甘いんですよ、と。世間からいいかげんに見られてしまうんですよ、と。この河野氏の淡々とした説教が実に強力に説得力があって、信者たちはうなだれてしまう。
確かに、こうした甘さというのは信者たちにはあって、それはでも事前に用意するとか、そういう周到な俗っぽさと無縁な世界に生活しているせいが多分にあるのだけれど、こういう事態である現在、そんなことでは出直しなんて出来ないよという河野氏の言葉には、実に深い説得力があるのだ。河野氏は、オウムが誤解されたり傷ついたりしないように最大限配慮してこの場を設けた。しかしそれは、その作られた場面だけをマスコミに提示するということが、そもそもは警察も含めたマスコミによる被害者であった河野氏の、彼らに対する批判が向けられているということを、用意された画を持って帰るだけのマスコミはどれだけ気づいているんだろうか?いや、気づいてはいるんだろう。気づいていて、甘んじることしか出来ないマスコミ。
それは朝日新聞社で出している雑誌、AERAの記者がオウム施設を訪ねてくる場面にも描かれる。その記者は言う。(オウムバッシング、意図的な誤報)の流れに、逆らえない。逆らうことは濁流に裸で飛び込むような恐怖がある。書きたいように書けない歯がゆさを感じている、と。もっともだ。確かにもっともなんだ。でも、だけど、だからどうしようもないのか?どうしても、どうしようもないのか?今現在、それが出来ているのは恐らく森監督一人だけで、でもこんな東京の片隅の小さな小屋で上映されるに過ぎなくて、前作の「A」は(当然ながら)ビデオ化されることなんてなくて、……言論の自由、表現の自由、真実を勇気を持って伝えるマスコミの使命、そんな理想は一体どこに砕け散ってしまったのだろう!
秋山氏を訪ねてくる、かつて同じ部活に所属していた友達だという男性。彼は今毎日新聞の記者をやっていて、オウム騒動の取材現場で秋山氏に再会したという。皆心配しているよ、家へも帰ったりしないんでしょ。と問い掛ける彼に、当たり前じゃん、出家しているんだから。と笑いながらこともなげに返す秋山氏。昔の友達の名前が出たり、あいつはちょっと(秋山氏がオウムに入ったことに)ショックを受けて、恐がっているみたい、という彼に、秋山氏は、そっか、恐がってるか、と軽い調子ではありつつ、何だかその目はやっぱり哀しそう。彼らのそんな、学生時代を思い出させるような親しげで、でも懐かしげで、優しい口調の会話は、その夕陽の柔らかな金色の光の中で、ひどくリリカルでノスタルジックにさえ映る。ドキュメンタリーでありながら、まるで劇映画のように切なさがこみ上げる名場面だ。会話中に秋山氏に携帯電話がかかってきて、秋山氏がそれに応対している間、目を伏せてなんとも言えず感慨深げな表情を浮かべている記者の彼のアップなど、本当にドキュメンタリーなのかと目を疑うほど。「何でウソを平気で報道するマスコミなんて職業についたのか判らないよ」「僕も、好きな人や家族とも会えない出家をするなんて判らない」そんな風に言い合っても、何とかお互いを理解しようとつとめている友達同士の空気が、胸がつまるほど、いとおしい。秋山氏はいい記事を書いてくださいよ、と彼を送り出す。名残惜しげに後ろをふりかえりつつ、下ろした手を小さく振って、去って行く彼。
書ききれないほどに、うろたえてしまう描写がいくつもある。ピンクの修行着を着た10代そこそこの女の子の信者が本当に可愛らしくて、キティちゃんに執着しているのをからかわれるところとか……その時、彼女たちの笑いさざめく声がバックに、外にはオウム出て行けの看板がやはりあったりとか。一心に呼吸を整えて、お経?を口ずさむ修行中にも、携帯電話がかかってくるとごく普通に出ちゃったりとか。普通に一番つらいのは性欲だと、真顔で語る男性信者が、夢精やマスターベーションのことまでまるで臆せずに話してしまうことや……いずれにせよ、どうして?と思うほど彼らは明るくて、いつもいつも笑顔で。どうして、どうしてそんなに笑っていられるの?とこんな目にあっているのに、普通だったら自殺してもおかしくないぐらいの異常なバッシングの中、なぜそれでも外の世界の人間を憎まずにいられるのか、笑顔でいられるのか。仲間がいるから?信仰があるから?それが強さ?私は、とてもこんな風には強くはなれないよ。絶対に、つぶされてしまう。絶対に、逃げてしまう。
本当に……判らなくなるのだ。普通や正常や、信じるものが何かの意味が。彼らは本当に特別なのか?洗脳ではなく、信仰だというのをどうして疑い、責められるのか?一体、彼らと私たちの違いは?殺人者であるグルを、考えに考えた末、今も信仰するしかない彼らの方が誠実だと言うのは、ただ危険な考えだと斬って捨てられるのか?相手のボロが見えるととたんに掌を返してバッシングする……それこそ最近の鈴木宗男氏や辻元清美氏に対してのような私たちの態度に、本当に誠実さがあっただろうか?ヘンな例えだけど……そう、この鈴木宗男氏に対する、昔からの知己である松山千春氏の“擁護発言”、戸惑いつつも、しっかり真実を見極めて支えたいという彼の方がよっぽど誠実じゃないかと思うのに似ている気がする。
結局、今の鈴木宗男氏バッシングが際限なくエスカレートする現象に、だんだんいくらなんでもヒドいと感じてくるし……これってスケープゴートなんじゃないかって。自分たちが正義の側にまわるために、背負ってもらえるものを限りなく背負わせる、いけにえ。より大きな漠たる悪を隠すための……オウムもそんな存在になりかかっている気がして。少なくとも彼ら信者たちは私たちみたいに与えられた(ゆがんだ)情報がさも自分の考えででもあるかのようにふるまって、簡単にバッシングするようなことは決してない。膨大な資料の中で途方にくれるまで考えに考えぬく。私たちは……そこまで彼らのことを考え抜いた上で責めているのか?
確かに私は本作と、そして前作の「A」にただただショックを受けて、必要以上のことにまで考えを及ばせている、という気持ちも否めない。あの時の事件、あれは確かに起こってしまったこと。それを忘れたわけじゃない。それが、あまりにも考えなしに“オウム擁護”の方向に向かっているのかもしれない。何だか興奮してしまって、一般市民やマスコミを一方的に糾弾しそうになる自分を危ない、と思う。自分だって一般市民のくせに。しかも、自分で発掘した事実でもないくせに。結局「A」だって「A2」だって、確かに一つ一つの作品なのであって、意図を織り込ませないようにしているのが特徴ではあっても、やはりその見せ方には森監督や安岡プロデューサーの思惑が入っているのは間違いない。それこそ“与えられた情報”にお前だってそのまま乗っかっているじゃないか、と言われれば返す言葉がない。だけれども、少なくとも私は「A」や「A2」を観て、私は本当に誠実だろうかと、誠実に生きているだろうかとショックを受けた。頭が痛くなるぐらい考えてしまった。だから……だから?
私は、こんな風に自分が直接の被害者じゃないというのに、いや、直接の被害者でも、こんな風に“敵”を憎むのは、嫌だ。憎むという感情が自分を蝕んで蝕んで、ただただ苦しくなる。それが、嫌だ。努力しても、どうしても好きになれないというのなら、ここにいる権利を主張するより、自分から離れてしまった方がいい。自分の苦しさを何倍にもして相手に返そうとするよりも。敵というものを作り出したくない。憎みたくない。もし、もし私が誰かに殺され、死んでしまったとしても、その相手を憎みたくない。親にもその殺した相手を私の代わりに憎んでほしくない。哀しんではほしいけれど、憎んでほしくない。それがどんなにキレイすぎる理想に過ぎないってことぐらい、判ってる。でもそのぐらい思わなければ、私だって容易に敵を憎む側に回ってしまう、弱い人間なのだ。
つい先日の新聞に、警察寮内に“忍び込んで”探偵社の宣伝チラシをポスティングしていた(オウムのチラシではないのである)信者が“不法侵入”で逮捕された、という小さな記事が載っていた。これのどこがいけなくて犯罪なんだろう?と、この映画を観なければ疑問にも思うことなく、オウムの信者だから何をしても犯罪なのだ、と感じている、何も変わらない現在の日本の状況を、またしても辛く感じた。★★★★★
ところでこれ、実際に起きた事件が元になっているという。しかしその事件が起きたのはドイツじゃなくて、アメリカ。心理学会で封印されているという事件らしいが、映画になることならどんなエグいことでも取り上げちゃうハリウッドが手付かずになっていたというのはちょっと意外。でも自分の暗部にはなかなか目を向けたがらないアメリカだからそれも当然か。ベトナム描いても自分たちが傷ついたことばかりを言ってるもんね。と、いう訳でこの題材をいただいちゃったのがドイツ。これは正解だった。さすがフロイトを生んだ国、精神的に深く耽溺していく恐怖と、何と言ってもナチの拭い去りがたい影。ドイツで作られた、というだけで、言及しなくてもつきまとう影。強烈な自己嫌悪だからこそ、粘っこくまとわりつく影。
ドイツの人に実際に接したことがあるわけではないけれど、さまざまなところで見聞きしていると彼らがナチに対して強烈な自己嫌悪感を持っていることに気づく。これは敗北の嫌悪感よりもさらに辛く厳しい自己嫌悪だ。ただでさえ自己嫌悪とは人間の中で最も辛い感情なのに。でもヘンな言い方だけど、彼らがそうした強烈な自己嫌悪を持ち続けていることをどこかうらやましくも思う。日本人だって当然持ってなきゃいけない自己嫌悪感だから。そのことによって彼らは深い精神世界を持ち得ており、仏教徒よりも深い深い諦念や悟りの心があるようにさえ思う。そのことがフロイトの文化を育て続けてきたようにも思う。
大学の心理学部が、新聞広告で募集した24人を看守役、囚人役に振り分けて行った実験。役と環境を与えられただけで、実際には一般人がどのような変化を遂げるか……予想をはるかに越えて急激に、急速に変わっていく彼ら。ついには凄惨な事態にまで発展し、この実験は心理学会で禁止される事態になる。データを取るために非人間的な実験を強行することに、このデータがそんなに貴重なものなのかと、まるで精神を侵食され変化していく人間を、研究者たちが舌なめずりして喜んで眺めているようで、そのことに最も慄然とする。看守、囚人二手の関係性における問題が重要なのではないのが判る。つまりはヒヨコの刷り込みだ……たった一人の、この実験の責任者、トン教授の存在、ただ一人のトップの存在が、ピラミッド構造の下の彼らをこんなにも簡単に狂わせる。
と、いうところで全く違う映画を思い出した。若松孝二監督の「処女ゲバゲバ」。ボスの命令で、人質の男ホシをボスと呼ぶよう命じられていた男達が、ホシの迫力に圧倒されているせいもあるのか、ホシとボスを頭の中で別にして考えることが出来ず、ホシを恐れ、逃げまどっていたあのシーンがふと頭に思い浮かんだ。名前としての、肩書きとしての力が滑稽なまでに人間に影響を与えることを。普通の人が、トップの存在や環境によって自分の意志やポリシーなど、クズ以下にさらされてしまう。それこそ、ナチ裁判での最も有名なアイヒマン裁判、そのドキュメンタリーである「スペシャリスト―自覚なき殺戮者―」では、アイヒマンは確かに大勢のユダヤ人虐殺を指示したのに、その場を離れた彼はあまりにもあまりにも普通だった。あまりに普通すぎて、その映画の画像をゴチャゴチャといじくってみたのではないかと思うほど。……実際、この映画をアメリカで作るのはムリかもね。だって、今のアメリカってば、ブッシュという、それこそ張子の虎のトップに彼らのようにすっかり牛耳られてるんだもの。しかも自己嫌悪の歴史もないんじゃ、ねえ。
と、言いつつも、いわゆるニュー・ジャーマン・シネマと呼ばれる最近のドイツ映画は、ハリウッド的娯楽味が強くて、正直この心理ホラーもそうした部分は否めないものもあるのだが。人間が変貌していく怖さを、暴力行為、つまりはアクションムービー方向に傾かせていることにちょっと不満を感じなくもない。ただ、やはりドイツなので、そのナチの影を引きずることとして、彼らは多分世界一制服が似合うと思うんだけど、それが実に効果絶大なのだ。勿論それは看守役の彼らね。あの威圧的な制服、無機質な警棒、冷たい金髪に蒼ざめた肌、青く冷たい目がそれに包まれると、サディズムの陶酔にも似て恐ろしく似つかわしい。だから、その看守役の中で、黒い瞳に黒い髪の熊さんみたいなボッシュは、人間的な面を持っていて、囚人役に“脱落”する。どんどん狂気に取り込まれていくベルスは、その点完璧な看守役で、どこかその美しさに呆然となるぐらい。“役に没頭する役”役者冥利に尽きるに違いない。
でも、主役は囚人役のタレク。今でこそタクシー運転手だが、元々記者であった彼は、この実験をリポートしようと応募した。事態を引っ掻き回すために、彼は必要以上に仲間を煽る。そんな彼を制し、後には強固な絆で結ばれるのが、軍から潜入してきたシュタインホフ。確かに物語の中の見え方としては彼らの方がメインではあるのだけれど、後味としては圧倒的にベルス達看守の方。人間が強いものに頭をたれるのは、一般的な世界でもかなり簡単なこと。哀しいけど、誇りを失うことも。不満を持ったり落ち込んだりすることの方が、意志を持ち続けることよりずっと容易だから。そのことで弱者であることを正当化できるから。でもその逆がこれほど簡単なことだというのが衝撃なのだ。支配者になった者が狂っているならば、その支配者に屈服する者が狂うのは当然で、そして世界が狂っていくことも。……もしかして今の現代社会は、もはやそうした取り返しのつかない狂気の世界に入っているということなのか?でもその看守たちも、あくまでトン教授というリーダーの下の、彼らもまた“囚人”。
まるでそれは、実はいもしないリーダーの影の下、庇護という暖かさにくるまれていることにも気づかず、正義や反抗心で自分の存在を必死にアピールしているような、そんな恐ろしい錯覚にとらわれてしまう。いや、錯覚じゃないのかもしれない。リーダーの上にはまた、彼をその行動に向かわせるところのトップがいて、お上がいて……その実、そのどれもが夢想に過ぎないんじゃないかと思うような、そう思えてしまうほどの、根本的な人間の愚かしさ。一体何のために生きているのか、行動しているのか、何の意志に、何のポリシーに基づいて?どんどんそれが見えなくなる。あったはずの自我が失われていく……いや、そんなもの最初からなかったんだと言われるかもしれないのが、それこそが最も恐ろしいこと。
この狂気の実験をリポートしてやろうと潜入したタレクが、不安と恐怖に陥ってパニック症状が出る。過呼吸状態で息が出来ない。ここまでひどい状態では勿論なかったけれど、私自身もどうしようもない不安感に押しつぶされそうになって、呼吸がうまく出来なくて苦しくなる経験があるから、何だかタレクを見ているだけでぜいぜいと胸が苦しくなってしまう。加えてこれだけはお願い、ヤメて!と叫びそうになってしまうブラックボックス。これは、本当に拷問だよ……空気が通ると言われたって、光も音も届かないこんな場所に入れられたら、恐怖で息が出来なくなって、狂死してしまうに違いない。人間って、どうしてこんなものを考え出してしまうんだろう。こんなものを考え出すということは、それが人間に与える恐怖を知っているからということで、本当にそれって正気の沙汰じゃないよ。……何か時々、人間がこの世に生まれ、こうして“繁栄”している、そのことこそが間違いだったんじゃないかって気がしてしまう。
ところで、この映画にあの三池監督がコメントを寄せているんだけど……確かにこの映画、三池監督の言うように秀作だと思うけど、衝撃という点では、監督、あなたの映画の方がよっぽど“恐ろしわ”、絶対。まあ、でもあのテポドン監督が“皆さんは三食抜いても観なあかん。”と推薦するんだから。★★★★☆
しかしやはりホンモノを観てしまうと。膨大な数のダンサー、その全てが選ばれ勝ち残った強力なライバルたちの中で、生き残るのがどんなに難しいか……。それこそローザンヌは世界各国から若いダンサーたちが集うけれども、世界各国での選抜によってきているわけで、これが層の厚い、オペラ座の団員たちが揃って受けていたりなんかしたら、とても太刀打ちできないだろう。完璧な環境の中でこなされる完璧なカリキュラム、どんなに好きでも頑張っても、力が無ければ続けることさえ許されない世界。それが精神の傷つきやすい10歳以下の小さな頃からスタートされる。
エトワールとは四段階にレベル分けさせられるダンサーたちの、更にトップにのみ冠される称号。これのみは昇格試験ではなく、幹部による抜擢によって与えられ、下のランクのダンサーがいきなりエトワールになることもあるという。「任命されたからって、急に上手くなるわけじゃない。責任が多くなるだけ」と語る、まだ20代半ばのエトワールである女性ダンサー。任命されてすぐに怪我をしてしまい、復帰するのに大変な苦労をし、「10代の頃よりも20代だと治るのも遅い」と、まだ世間的には充分に若いのに、そう語る彼女。年齢とともに役に対する知識は深まるけれども、体がついていかなくなる、と語る男性ダンサーも、せいぜいがとこ30代だが、引退後のことを考えなければならないところに来ていると語る。
引退……そうか、バレエダンサーは世間的な仕事のように50になっても60になっても出来るというわけではないのだ。まあ人によっては幾つになっても踊り続けるダンサーもいるだろうが、このオペラ座では定年制度がある。女性は40歳、男性は45歳。年金も出るという。この年金が出る、というところにさ、さすが……と感心したが、40歳やそこらで人生の幕引きが出来るわけが無い。一般的な“第二の人生”の響きが趣味生活を楽しむみたいなところにあるのと違って、本当の意味での第二の人生を探さなくてはいけないのだ。これまでの人生を身も心もバレエに捧げきっていたのに。
もちろん、その前にその道をあきらめざるを得ないダンサーの方が大半。ことに女性は子供を産むと体型が崩れるといわれ、結婚、出産はタブー視されてきたという。今ではそれもクリアするダンサーも現われたが、それでも結婚、出産=引退というイメージは変わらない。バレエから転職するとしたら?と問われるある女性ダンサーが「母親になるのもいいかもね。24時間フルタイムの仕事よ」と答える。ここにいる限りは両立は非常に厳しいことを考えての発言なのだろうし、確かに母親業はそれだけ大変なものなのだけれど、ここで語られる女性のダンサーの第二の人生が、全てこの一点に集中しているかに見えるのがちょっと気になる。
オペラ座の団員たちの練習、舞台風景とあいまって、そのダンサーたちを輩出する母体としてのバレエ学校の様子も描かれる。13〜14歳ぐらいの少女たちの美しいこと!驚嘆するほどに細い肢体と長い手足。バレエダンサーというのはなぜああも手足が長いのだろう、と常々思っていたのだが、あんなふうにピンと足をのばして跳躍したり、天までとどけとばかりに腕をまっすぐに伸ばしたりしていれば、伸びていってしまうのではないかと思ってしまう。それほど、ダンサーたちの肉体的厳しさを見せつけられる。
跳躍して床に下りる時に発する凄まじい足音、舞台袖で息を切らし、汗をかくダンサーたち……この映画で最も驚かされたのはここかもしれない。もちろんダンサーなのだから、息を切らしたり汗をかいたりするのは当然なのだが、バレエダンサーにそのイメージは全く皆無だったからだ。ふっわふわの綺麗なチュチュをまとった優雅な姿で、はあはあと呼吸を乱して、その背中がてらてらと汗で光り、あごからも汗が滴り落ちている姿なんて!トウシューズに隠された足のマメの痛々しさときたらない。これは話には聞いていたところではあるけれど、実際に見てみると正視できないほど。カメラも正視できないのか、あまりきちんととらえはしなかったのだけど、足の指全部に大きくて真っ赤なマメがボコボコと出来ているのだ。かかとも赤く擦りむけている。ご、拷問だ……そんな状態で抗生物質を飲みながら舞台に立つだなんて、殆ど正気の沙汰ではない。
あるダンサーが語っていたように、バレエは彼らにとって生きることそのものなのだということを痛烈に了解させられる場面である。踊ることが出来なければ意味がない。他人の怪我やアクシデントを待って完璧に練習をこなしているダンサーたちを見るにつけてもその厳しさを痛感する。しかし彼らはそれに対してそれほど葛藤を感じているようには見えない。代役が回ってくれば、役をもらって舞台で踊れることを素直に喜んでステージに飛び出して行く。そんなことはお互い了解済みなのだ……踊ることが何よりも好き。愛よりも強くと語るほどに。
小さな頃から団員になるまで、周りはみんな子供の頃から見知った間柄で、しかしライバル同士。心から打ち解けられる友達にはなれないと語る人もいれば、そこには兄弟愛に近い感情があると語る人もおり、あるいは親友も婚約者も団員だ、何と言っても気心が知れているから……などなど、実にさまざま。正直このあたりはこちらが満足できるほどに彼らの真情を聞き出せているとは思いがたい。あるいはこの場面だけではなく、バレエ学校の生徒たちや、振付家、教師などにインタビューする場面でも。冒頭に“3ヶ月密着取材をした”と語られた時、3ヶ月じゃ短いんじゃないか……と感じたのだ。
無論、彼らはバレエに専心しているだけであり、このドキュメンタリーに進んで協力する義務などはないわけだが、それにしてもこのインタビュアー(監督自身だろうな)やカメラに対して心を許していない、カベがあることをどうしても感じてしまう。何というか……割と予測のつく、一般的な答えで、本音まで到達する前にかわされてしまっている感じがするのだ。クラシックバレエの殿堂、オペラ座にカメラが潜入するだけで記録的価値があるのかもしれないのだけれど、実際に見たい、聞きたいのはここなので、正直物足りない。稽古や舞台にしても、案外淡々と映しているのみで、それは確かに正解な撮り方なのだろうが、インタビューに関してもそんな感じなので……ちょっと拍子抜けしてしまう。
しかしそうしたインタビューの中でも、強く印象に残ったのは、引退した女性エトワールのその言葉。バレエダンサーとしての人生のリズムはあまりに早すぎる。これが人生なの?もちろん、バレエに没頭した今までの時間は素晴らしいものだったけれど……と。彼女の口から漏れた、これからの第二の人生、という言葉。その前に衝撃を受けた言葉ではあるけれど、本当にそれに直面している人の言葉だけに、切実に響く。まるで定年後の老後の言葉みたいなんだけれど、バレエダンサーの“定年後”である彼ら彼女らにとってはまさしくその通りなのだ。それはこれまでバレエに費やした時間と同じぐらい、あるいはもっともっと長く残された、もしかしたらこちらがメインになるかもしれない第二の人生。
エトワールの娘として頑張っている団員、ミテキ・クドーが何度も取り上げられる。黒髪に黒い瞳、親しみのある風貌で、クドーというからには……と思っていたらやはりお父さんが日本人であった。何だか嬉しい。どこか冷たい陶磁器のお人形みたいな白色系ダンサーたちの中で、彼女はとてもチャーミングに映る。伸びやかに成長してほしい。
バレエがひそかなブームなのか、秋にはアメリカン・バレエシアターの来日に合わせて、フレデリック・ワイズマン監督によるアメリカン・バレエシアターのドキュメンタリーが公開されるという。本作との対比の面でも、ぜひ注目したい。 ★★★☆☆