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「す」


2000年鑑賞作品

SWING MAN
2000年 87分 日本 カラー
監督:前田哲 脚本:前田哲 森らいみ
撮影:山本英夫 音楽:Jenka
出演:木下ほうか 粟田麗 宮崎あおい 北村一輝 なにわゆうじ 田口浩正 麿赤兒 沖津和 村上淳 小島可奈子 加勢大周 大河内奈々子 真日龍子 ひふみかおり 井筒和幸 金子政 役所広司 小島聖 辰巳裕二 辰巳浩三 木村祐一 土平ドンペイ 大森南朋 宮内こずえ 西山樹 増島雅人 宮本聖也 星野うさぎ 滝川なち 宮純子 西守正樹


2000/11/5/日 劇場(シネ・アミューズ/レイト)
う〜〜〜ん、わからんッ!判ろうとする気も起こらないなあ。確かにこれ、小説のままだったらそれほど頭抱えずに済んだのかもしれないけど……こういう観念的な世界って、映像で見ちゃうと、ついつい頭が現実的に理解しようと働いちゃうから、???マークの嵐になっちゃう。で、結局ほづみさんは誰に殴られたの?っていう……ひょっとしたらヤボな疑問を投げかけたくなっちゃう。それは自分だって、自分で自分を殴りたかったんだって、はーなるほどと、言うわけには何故だかいかない。確かにそれって文学的というか、心情の感覚としては判るんだけど、ここではもっぱら現実に起きた出来事として語られていくから、そう素直に「ああ、そういう風に思うことってあるわよねー」などと思うわけにはいかない……と思うのはアタマ固すぎなの?うーん、つまりは、そうした不条理な恐怖としてとらえればいいのかなあ……でも怖くないけど……。

いつでも観てるはずなんだけど、どの映画で何の役だったか思い出せない木下ほうか氏は、まさしく日本のジョン・マルコヴィッチというところで、その彼が主演している!という新鮮な驚きは確かにあるんだけど。なんでも彼は、数々の現場でいろいろな不満や疑問が鬱積してて、今回の、映画初プロデュース&主演になったのだとか。う〜〜〜ん、でも、これが納得のいった映画だってことなのかあ……。

彼が演じる俳優、木田ほづみの部屋には、木下ほうか本人が実際に出演したチラシ?類がたくさん貼ってて……遠くて良くわかんないけど「絆」とか「どつきどつかれ」とか「クラヤミノレクイエム」といった……なんかそれらが嬉しいし、木田ほづみという役名や、彼の友人役で出演する北村一輝が北ちゃんと呼ばれてたりすることに、そしてその北ちゃんが連続してオカマの役だとからかわれてたりVシネの話してたり、あるいはカメにつける名前に朝吉だの清次だのと言ってたり(「悪名」シリーズ(ちなみに第三作以降)ですな)とか、映画ファンには妙にくすぐられる部分が満載なのだけど、でもなんだかそれって、内輪ウケのような気もして。「役者には(この作品が)気に入ってもらえると思う」なんて発言してるのも(それを言ってたのは監督の方だったっけ)、ちょっとなあ。

理不尽な暴力によるケガで仕事を失った俳優、ほづみが、六人の目撃者に会って自分の中のモヤモヤした部分を次第に見つけ出していく……見つかった凶器のバットから検出されたのは自分の指紋。「10代から30代の、中肉中背、黒っぽい服装」の男はあまりにも漠然とした日本人の典型であり、それは翻って、自分の中にあると気付いていなかったドス黒い欲望だったということなのか。目撃者の一人である少女が聞いた「助けて」という言葉が、殴られているほづみではなく、その得体の知れない加害者、もう一人のほづみであったのだというのなら、それはどういうことなのか、他人を殴り殺すのを必死に押しとどめて自分を殴ったのか、それとも最初から自分を殴り殺したかったのか。

無表情な表情が恐ろしい彼からはいかような解釈も可能ということなのだろうが、というよりも、なんだか観念的なセリフの数々で煙に巻かれてしまったという感の方が強くて。特にね、その目撃者の女の子が判んない。彼女は“子供の頃に”(今でも充分子供なのに、そんな事を言うからちょっと笑ってしまう)そういう、人が助けを呼ぶ声をよく聞いてて、それはいつでもその後に死んでしまう近しき人たちの声で。だから彼女は久々に聞いたその“声”におびえてなかなかほづみに会おうとしないのだけれど、彼の危機を察知したのか、自ら彼の家へ会いに来る(なんで場所知ってるんだ……それも超能力か?)。その時ほづみはまさしく狂気が頂点に達してヤバい時で。

でもこの女の子がその彼について語ってるのが、なんだか意味が良くわかんないんだよなあ。自分側の表現に終わっちゃってて。それに、この年頃の子の表現にしちゃあ、ちょっと違和感だなあ、というような言葉が多々あって……“私をどこに連れ出すのか”とか“どうして私を刺激するのか”とか……まあ、偏見なのかもしれないけど、そう、文字だけで見ると別になんてこともないのだけど、この子の口から出ると、なんか凄くしっくり来ないのだ。借り物の言葉のように聞こえる。それを泣きそうな顔で聞いている彼の恋人、亜季(粟田麗)も良く判らない。彼女はどういう風にどこまで理解し受け止めているのか?観客の私はひたすら??なのだけど、彼女の場合はコイビトだから判っちゃうのだろうか?う〜〜〜ん!むしろ、こんな言葉による説明なんて排除した方が良かったんじゃないだろうか。映画なんだから。コトバですらカッチリ固められないのなら、観客に委ねてしまった方が、広がりが出たのではないのか。

こんな髪型の粟田麗は初めて見た。なんか、松嶋菜々子な感じだが(と思ったのは私だけじゃなかったのね、やっぱり。髪型が似てるだけなんだけど)、カワユイ。木下氏より10も年下ではないか。結構ラブシーンもあって、くっそう、うらやましい。

妙に可笑しかったのは、ほづみが恋人の亜希や目撃者との待ち合わせで使う喫茶店のドリンクカウンターの後ろにいる店員二人。この二人は兄弟?双子?よく似てて、可笑しいというより、その良く似た顔を見合わせたりするのが、なんか悪夢的な画で、コワい。う〜ん、ドッペルゲンガー!まあ、この辺、作品のテーマを匂わせてるんだろうなあ。実際、ちょっとぞっとしなくもない。暗くてよく顔が判んないんだけど、似てるなってのは判る、みたいなところがね。

多分リアルで役者さんたちにはおおお、と思われるのであろう、バットを持ったほづみが乗込む(幻想としての)撮影所でのシーン、ピントが合うことなく通り過ぎる役所広司に嬉しくなる。同じ撮影所での別シーンで、ドラァグ・クイーン風のいでたちをした北村一輝に、これぞ彼!とまたまた嬉しくなる。目撃者の一人であるモシャモシャアタマのカルい若者を演じる村上淳が「役所さんだって、スゲエ!」と言うのも、あんたも他の映画で再三共演してんじゃん!と可笑しい。実は密かにイイ役者だと思っている加勢大周も、ちょとアブなさ加減が似合ってて、デブだと言われてショックを受けるマネージャー?役の田口浩正が可笑しくて。しっかし、小島聖は一体どこに出てたんだあ?★★☆☆☆


SUPER FOLK SONG ピアノが愛した女。
1992年 81分 日本 モノクロ
監督:坂西伊作 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:夏野大介 音楽:
出演:矢野顕子 鈴木慶一 谷川俊太郎 糸井重里 三浦光紀 宮沢和史

2000/12/13/水 劇場(銀座テアトルシネマ/モーニング)
これはもうずいぶん前に……製作年度は1992年だからもう本当にずいぶん前になる、結構ひっそりと地味に公開され、その作品の存在を知った時には終わってて、それ以来、観たくて観たくて観たくて観たくてたまらなかった作品である。いきなり二週間の再上映とは(アンコール上映というには8年の歳月は長すぎる!)一体何の理由があるのかは知らないが、そして今回のアンコール上映もやっぱりひっそりで、とある劇場でチラシを手にした時には既に始まっていて、もう本当にあわてて観に行った。…………神様ありがとう!

矢野顕子は、天才である。
今の世の中さまざまなところに天才は跋扈しているけれど、矢野顕子こそが本物の天才である。で、あるからこそ、その天才が、こんなにも生みの苦しみに苦しんで、「何で出来ないんだろう!?」なんて口走って、曲の冒頭から何度も何度もつまづいて、「出来るのは判ってるんだけど、技術が追いつかない!」とこめかみに両手を当てて考え込み、も、本当に鬼のように厳しい顔をしてレコーディングに臨んでいるのには驚いた。あのアッコちゃんが。菩薩のような笑顔で楽しげにピアノを弾いて楽しげに歌うピアノと歌の女神のアッコちゃんが!彼女はいつだってまるでピアノとへその緒でつながれているかのように、軽やかについーっと私たちの前でそのパフォーマンスを見せてくれているのに。その彼女がこんなにも厳しい顔をして、苦しんでいるなんて。

ピアノ一台と、彼女。それだけが音源。全曲つなぎなし、完全クリアのみOKという贅沢なアルバム“SUPER FOLK SONG”は、他人の曲をカヴァーしたアルバムである。しかしその全ての曲は驚くほど矢野顕子自身の曲になり、最初から彼女のために生み出されているとしか思えないほど。タイトルの“ピアノが愛した女。”は(ピアノから愛された女、ではないところがイイ。もっとずっと積極的だ)素敵だし、まさしくそうなのだが、ここでの彼女は“ピアノを愛した女”でもあり、ピアノに拒絶されることもあり、両手を広げて受け入れられることもあり、ものすごく距離があってなかなか近づけなかったり、その反対に抱き合っているほどに、いやアッコちゃん自身がそのピアノであるかのように相思相愛になっている時もある。しかし、いずれにせよピアノとそうした関係を結ぶことが出来る彼女は、やはりまぎれもない天才なのだ。彼女にとってピアノは楽器ではなく、自分であり、運命の相手である。私はそう思うからこそ、彼女が妻でありお母さんであることに時々不思議に思ってしまったりして……お母さんは似合ってるけど。それにね、世界的に活躍していると“言われてる”坂本教授より、彼女の方が驚異的に才能があり、真の天才なのだけどなあ。

「今、声が出てるから食べちゃうとまた落ちちゃうと思うのね」と言って食事を取らなかったかと思えば、他の曲ではお腹がすいてすいて「ああ、だめ、譜面が全部うどんに見えちゃう。あたしってほんとにいやしいんだ」と言い、うどんの到着に嬉声をあげる(しかしその鍋焼きうどんの蓋を開けてうげっという顔をする!?)アッコちゃん。マイクの位置や、ペダルを踏む時の音を気にして、そして素人にはまるで判らないピアノの微細な音の違いに敏感に反応して調律し直してもらうアッコちゃん。「中央線」という、宮沢和史作詞作曲の長めの曲に四苦八苦し、もうほんとに真ん中までカンペキに出来てたのに、間奏でつまづいて鍵盤をバーン!と叩いて頭を抱えるアッコちゃん。そんなアッコちゃんに付き合うスタッフがね、素晴らしいんだ。びっくりするほど少数精鋭なんだけど(常に映ってるのは二人しかいない)彼女が本当にコワい顔をして煮詰まっていても、何度も何度もつまづいても、そんな風にもう少しのところで失敗しても、いつもニコニコしてる。全然、心配してないのだ。彼女が天才であることをとっても良く判っていて、むしろその過程を見ていられるのを楽しんでいる感じすらして。

折々に差し挟まれる、彼女を語る人々。その場面にクレジットは入らないが、彼女にゆかりのある人たちだからすぐ判る。鈴木慶一!谷川俊太郎!糸井重里!宮沢和史!そしてもう一人、これは知らなかった人である、彼女を発掘した三浦光紀氏、彼の話が一番感動的だった。彼女の才能に最初っから打たれていた人。発掘したとか育てたとかいうのではなく、そして、いろんな才能あるアーティストに出会ったけれど、その時から今までずっと彼にとってアッコちゃんは、彼女だけは特別なんだと。そう、そうだよねえ!

「オーマイ、ガッドネス!」うーん、さすがアメリカ在住のアッコちゃんは、そんな言葉を連発する。しかしそれが何度も何度も続いた後、完クリしたその後「……I made it!」とつぶやいたり「I got it!」と小さく叫んだりするその言葉が、英語だということを忘れるほどに、こちらの肝にずーんと入ってくる。あんなにも鬼のように厳しい顔をしていたアッコちゃんが、歌に入り込むうちにあのやさしい菩薩笑顔になる。観ている時に、それが完クリできるバージョンだと知りようもないのに、なぜか判ってしまうというか、いや、もはやそんなことはどうでも良くなって、彼女の声に、自在なピアノに、優しいコトバに、それらが三位一体になった素晴らしき奇跡に、急に顔がくしゃってなって、涙がドッとあふれ出てしまう。あああああああ、なんだ、なんなんだこの感じ!スクリーンの中で、アッコちゃんはあんなに楽しげに歌っているのに、なんで私は泣いているんだ!?本当に優しいものに触れた時、それが言葉であっても音楽であっても声であっても、こういう泣きたいような感覚って起こるんだけど、それが三つ全部そろって押し寄せてきたら、もうひとたまりもなくなってしまうのだ。優しいものとは、こんなにも厳しいことを乗り越えて、初めて生み出されるのだなあ。だからこそ、その優しさは、本物なのだ。

矢野顕子は天才、矢野顕子こそが天才、真の天才なのである。★★★★★


ストレイト・ストーリーTHE STRAIGHT STORY
1999年 111分 アメリカ カラー
監督:デイヴィッド・リンチ 脚本:ジョン・ローチ/メアリー・スウィーニー
撮影:フレディ・フランシス 音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:リチャード・ファーンズワース/シシー・スペイセク/ハリー・ディーン・スタントン

2000/4/4/火 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
デイヴィッド・リンチ監督作品は私はあまり観ていないのだけど、とにかく前作「ロスト・ハイウェイ」の印象が強烈で、今回の題材の選択と、その語り口の変容には一般的な例にもれず私もまた非常に驚いた。けれど、“180度変わった”とか“いや実にリンチ的だ”などと(特に後者の論をさも得意げにふりまわす)議論されているのをみる時、また改めて、ああ、映画は作品一つ一つだけをじっくりと見つめたいよなあ、と思ってしまう。作家論というのも大事だけれど、それはオン・タイムにおいてはそれほど必要なことではないと思うのだ。これからどんな変化が現れるか判らないという点において、完全な作家論はその作家が没してからでしか出来ないから。これが誰の作品かなんてのはどうでもいいと思うくらい、素敵な映画があらわれれば、聞きたいのはそんな論議ではないのだ。

ストレイト、というのは主人公の名前(名字)だけれど、それが意味するようにいっそのこと邦題を「まっすぐな物語」とでもしたかったくらいだ。そこには老人特有のガンコさがあり、それは主人公アルヴィン・ストレイト自らもそう言っているのだけれど、それはガンコではなく、まっすぐな意志だと思える崇高さ。10年も仲たがいをしている兄が倒れたという知らせを受けて、アルヴィンは、兄に会いに行くために時速8キロしか出ないトラクターにトレイラーをつけて、580キロの旅に出る。車の免許を持っていないから、こうした形になったわけだけど、飛行機やバスを乗り継いだほうがはるかに楽なはずなのに、そうしない。しかも彼は腰を痛めていて歩くのに杖を2本も必要とするのに、である。さらに、その長い旅の間に倒れた兄が元気でいるかどうかも判らないのに、である。と、最初は単純にそんな合理的な理由から来る矛盾を感じてもいたけれど、最後にはそんな考えはきれいさっぱりと拭い去られていた。10年の仲たがいを清算する旅、いやそれだけではなく、人生そのものを振りかえることになる旅に、この580キロをしっかりと感じる時速8キロのスピードと6週間の時間が必要だったのだ。

もともと農機具でそんな長い距離を走るというのは無理があり、最初はすぐにエンコして戻ってきてしまう。それを気の毒そうに見やる町の同年輩の男たちが妙にユーモラス。しかしアルヴィンはあきらめない。彼に長年の友人である農機具メーカーのトムが、自分が大切に使っていたから大丈夫、と丁寧に整備した小さなトラクターを格安で譲ってくれる。この町のこうした人々を皮切りに、とにかく出てくる人出てくる人、みんないい人たちで、それだけで泣けてしまう。大林監督の映画を評した、これはホメ言葉としての「こんなにいい人ばかりで映画が成立するものなのか」というのがあったけれど、それをここでも感じることが出来る。劇中、こんな無茶な旅を続けるアルヴィンに対して、変な人もいるでしょう、と心配する御婦人もいるのだけれど、彼が出会うのはみんな、涙が出るほどいい人たちばかりだ。……アルヴィン自身がそうだから。類は友を呼ぶ、って本当なんだよなあ、と思えるのだ。

借りた電話にきちんと電話代を置いていくアルヴィンの礼儀を黙って受け取ってくれる男性や、口ばっかりうるさい双子の修理工がアルヴィンの(ここばかりは)口八丁によってあっさり陥落して値引きしてしまうところ、週に一度は通勤途中に車で鹿を跳ね飛ばしてしまい「いつもいつもこうなの!鹿が好きなのに!」と絶叫する女性などなど、登場するすべての人物を語りたいほどチャーミング。特にこの鹿のエピソードは、その鹿をアルヴィンが食してしまい(!)、そのアルヴィンのまわりには仲間?の鹿が取巻いているという爆笑シーンがあって、しかもしかも、その鹿のツノをトレイラーの前面に取り付けてしまうのだからもう!

アルヴィンは娘、ローズと二人暮らしである。このローズを演じるシシー・スペイセクがまた、いいのだ。私はいまだにシシー・スペイセクというと、即座に「キャリー」を思い出してしまうくらい、あの時の印象が強烈で、その後も何度かスクリーンで観てはいるものの、今回、彼女がもうすっかり年をとっているのに驚き、ああでも、そうだよなあ、と思い直す。はっきりと言葉で言及されてはいないけれど、このローズは軽い知的障害を持っていて、不注意から子供を火事に遭わせてしまって行政側に子供を取り上げられてしまった気の毒な女性。確かに彼女の言動は少々頼りないのだけど、でもその一生懸命さや、愛情の深さ、父親の行動に対して理解し、支えようとするその心が、けして大げさではない演技ゆえに、よけいに心に染みる。旅先からこの娘に電話を入れたアルヴィン、メモとエンピツを取るために受話器のコイルをいっぱいいっぱいに伸ばしてスクリーンから見切れてしまうローズが目に見えるかのように、思わずこぼれる彼の笑いが、娘に対する愛情を存分に感じさせて、何だかそれだけでじーんと来てしまうのだ。

アルヴィンは行く先々で出会う老若男女に自分のこれまでの人生やこの旅の目的を語っていく。その中には家族に嫌われていると思い込んで家出してきた妊娠している若い娘や、自転車レースをしている若者たちもいる(この彼らに次々と追い越され、野営先で合流した時にトラクターで乗り入れてくるアルヴィンが拍手で迎えられるのが好きだなあ!)。彼らに切々と語るそうした人生譚は下手するとただのじーさんの説教になってしまうのだけど、このアルヴィンを演じるリチャード・ファーンズワースは、しっかりと聞かせてくれる。「年を取って良かったことは、些細なことが気にならなくなったこと、反対に最悪なのは、若い頃のことを覚えていることだ」と語る。私は今まで、カッコイイ老人とは、若者さながらにアクティブに動き回る、年を感じさせない若い考えを持っているような人のことだと思っていたが、それが浅はかだったと気付かされた。カッコイイ老人とは、こういう御仁のことを言うのだ!もちろん、580キロをトラクターで行こうなんて、充分アクティブではあるのだけど、彼の体はガタガタで、目も悪い。その語り口は静かで、人生を経験し尽くした達観があり、それが有無を言わさず人を聞き入らせてしまう。「経験だけはつんでいるから」と、年を取っているということではなく、年を重ねたことを自分の中に誇りとして持っている素敵さ。

監督が言うように、このリチャード・ファーンズワースという人はこの役のために存在するかのようだ。彼の言葉なき言葉、その姿から語っている人生。村上龍氏が言及しているように、そこには「鉄道員(ぽっぽや)」の健さんと同じものを感じさせる。そう、言葉なき言葉だ……確かに道中アルヴィンはこのように自分のことを結構喋るのだけど、その言外のところに感じるものがあり、その最たるものは最高に感動的なラストシーンである。やっと、ほんとうにやっと兄の元にたどり着いたアルヴィン、歩行器でようやく歩いている兄と二本杖の弟の再会は、ハリウッド映画に顕著な抱擁もなければ、感激の言葉の雨あられもない。兄のライルはアルヴィンの乗ってきたトラクターに気づき「あれに乗ってきたのか?」と聞く。「そうだ」とアルヴィンが返す。ただそれだけである。そして二人何も言わず、並んで座り、空を仰いで、その目には涙が光る。10年前の仲たがいが、一瞬にして消え去り、子供の頃に一緒に見上げた空が、きっとそのまま星空になる。……ああ、これだよなあ!本当に私は純粋に感動してしまった。★★★★☆


スプリング・イン・ホームタウンSPRING IN HOMETOWN/
1998年 121分 韓国 カラー
監督:イ・グァンモ 脚本:イ・グァンモ
撮影:キム・ヒョング 音楽:ウォン・イル
出演:アン・ソンギ/イ・イン/キム・ジョンウ/オ・ジヘ

2000/11/17/金 劇場(シネ・ラ・セット)
こういう映像とか、こういう作風とか、どこかで観たことあるようなないようなといった感じで。ははあ、なるほど、タルコフスキーだ、アンゲロプロスだと言われるのも判るが(わたしはあんまり(特に前者は)観てないけど)、それって逆に、映画的経験としてみんなが過去に体験してて、保証された安心感みたいな部分があるんじゃないの?と思わなくもない。広大な中国の風景はそりゃあ、美しかろうし、例えば日本だったらどんなに大自然が残ると言われているところだってここまでの映像は撮れないだろうし。あるいは政治的な問題の絡む、そしてそれに人間が翻弄される物語だって、もちろんそうしたことを映画に残していくことは大事なんだろうけど、そうしたことを記憶に持たないような国の若い映画作家(まぁ、言うまでもなく日本のことだ)だったらとても作れないし、そうした国の観客だと(私のことだ)ナルホド、大変だったんだなあ、と思いこそすれ、共感するまでには至らない。われながら情けないとは思うけど、私は映画は個人の、そう極々私的な部分を拡大した芸術だと思ってて(本来芸術ってそういうもんじゃないんだろうか?)だから、こういう映画は割と、苦手である。

まあ、それでも、そういう問題を押し出しつつ、個人の感情が絡むような映画だったら……例えば「風の輝く朝に/等待黎明」のようなタイプの映画だったら、非常に心揺さぶるまでにいくのだが。うーむ、正直言って本作はあまりそうした感慨は、なかった。豊かなものと、貧しいもの、そこに見られるあまりにもあからさまな侮蔑とへりくだり。しかしそれぞれの子供の間にはそうした障壁は無く、無二の親友である……訳も無く、お互い相手に対してどこか引け目を感じていること、駐留米軍によって経済が助けられているものの、彼らのために踏みにじられるものがあること……身体を売る女たちのこと。アカと呼ばれる人たち。こうして思い起こしてみても、確かにそれが映し出される様子は辛く、哀しく、胸に訴えるものはあるものの、やはりどこかで観た映画だ、と思わずにはいられない。アメリカ兵を見るとチョコレートを無心し、その双眼鏡を欲しがる子供たちも、覗き見した子供が、自分の母親がアメリカ兵に身体をまかせているのを見て愕然とする表情も、曲がりくねった道を延々と歩く家族も(なんか、まんまキアロスタミだもんな)まさしくそうだ。

最初に糾弾されている人々は、アカと呼ばれている人たちだ。私には何度映画でこうした人たちやその主義を聞いてもピンと来ないものがあるのだが、本作でもただアカを皆殺しにせよ、とばかりにこぶしを突き上げて反発するばかりで、どうもよく判らない。まあ、これは、私が韓国の(ひいては世界の)歴史に疎いせいであるのだろうが。彼らが叫ぶところによると、アカは人々を虐殺し、妊娠している女性さえその腹を突きとおし……聞いていると彼らが何故そんなことをしたのか、ますます判らなくなってくるのだが。そんなこんなで、そのアカを親に持つとある子供が、その親が彼が学ぶ女教師の家族を皆殺しにしたことで彼女からあからさまに疎まれ(ま、そりゃそうだな)、学校を辞めてしまうくだりなどもある。……子供に罪はないのに、という、まあ、お約束なエピソードであるのだが、その直前、その彼が宿題をやってこなかったことで、仕置きのために彼の手を打つその女教師が、だんだんと激昂してヒステリックになっていく様が、真に迫っていて、コワい。人間なんて、口で言うほどリベラルな心を持つことなんて出来ないのだ。

豊かな家の子供であるソンミンは、間借りさせている貧しい家の子、チャンヒと親友なのだが、彼らの間には言うまでもなく大きな溝がある。子供同士には関係ない、というようなきれいごとは通用しないんである。例え子供といえど、その階級の違いは敏感に感じとっている。貧しい子はもちろん、富める子も相手に対して臆した気持ちを持っている。ソンミンの母親はチャンヒの母親に対して(父親は従軍中、途中体を壊して帰ってくる)あからさまにふんぞり返った態度を取る一方、父親は自分が働いているアメリカ軍の洗濯の仕事を斡旋してやるなどするのだが、実際にチャンヒの家族を思いやっていたのはこの母親の方だったのかな、と思えるのが……父親は、彼女に対して、売春の手引きをし、それが多分(手っ取り早く金が稼げるということで)彼女のためだと思っているあたりが、その安っぽく底の浅い優しさが結局は彼女を深く傷つけているのだと思い当たるからだ。威張り散らしているように見えた母親の方はと言えば、割とイイところで彼女にいたわりの言葉をかけたりして、結局、この母親は、自分が彼女に対して出来ることの範囲をしっかり判っていたということであり、それは難しいことなんだけれど、それこそが優しさなのだと思うのだ。

富めるアメリカ軍に従事して、イイ目を見ていたようだったこのソンミンの家族も、迫害される日がやってくる。父親が、真っ赤なペンキ?を浴びせられて帰ってきた日から、あっというまにソンミン一家は転落の一途をたどる。笑ってしまうぐらいに、その立場はあっという間に逆転する。このあたりの世情も良く判らなかったのだけど、ただ、人間の信じている価値というものが実際はなんとまあ、モロく、何の実体も持たないものなのだと痛感するのである。しかし、あるいは子供であるソンミンはさほどショックを受けていないかもしれない。彼は友達であるチャンヒや、アカの両親を持った同級生によって、そうした気持ちを共有していた部分があるから。逆に、もうこの生活が不動のものだと思い込んでいた大人たちの方が、ショックは大きいかもしれない。ラストの、めまいがするほど広大な、曲がりくねった道をもはや点となって移動する彼らの姿が、大人に対してはどこか絶望感を、子供に対しては未来への希望を思わせるのはそのせいか。

特にいいとか悪いとかいう意味ではなく、なにか思ったとおりの映画だったな、という印象。★★★☆☆


スペーストラベラーズ
年 分 日本 カラー
監督:本広克行 脚本:岡田惠和
撮影:藤石修 音楽:松本晃彦
出演:金城武 安藤政信 池内博之 深津絵里 筧利夫 鈴木砂羽 甲本雅浩 武野功雄 渡辺謙 大杉漣 ガッツ石松 濱田雅功 小木茂光 中山仁 高杉亘

2000/4/17/月 劇場(丸の内東映)
いやあッ、素直に面白かったッスねえー。正直、「スペーストラベラーズ」なんていうタイトルにはなんじゃらほい、と思ってたんだけど、それも含めた細かいアイテムへの目配りがとにかく心憎いほど行き届いていて、それだけでもワクワクしてしまう。「踊る大捜査線 THE MOVIE」から引き続くアイテム(テロリスト、渡辺謙が抱える時限爆弾入りのクマのぬいぐるみ!)もあったりして、ま、その辺非常にオタク的とも言えるのだけど、そうしたクラい感じがなく、とにかくパーッと開けている感じ。「スペーストラベラーズ」という架空のSFアニメーションのキャラクターにピッタリ合うメンバーが偶然そろった、という強盗犯人の青年3人、押し入られた銀行員2人、居合わせた客4人の9人からなるニセテロリスト軍団“スペーストラベラーズ”の面々がもーう嬉しくなっちゃうほどキャラが立っているのだ。人数では負けるけど、これほど大勢のキャラが一人一人立っているのは「ラヂオの時間」以来?(「マグノリア」あたりに見習って欲しいですなあ)マンガ的、というのをしっかり自覚した(だって、架空とはいえアニメキャラを模してるんだもんね)いい意味でのステロタイプさで、大いに楽しませてくれる。

飽きさせないし、たまらなく好きにさせてくれるアイテムが盛りだくさんなのだけど、惜しむらくは何だか画面がベタッとしていてテレビ的な薄っぺらさを感じること。なんでかなあ、いろいろとデジタル合成する関係でフィルム撮りしてないのかもしれない。明るくてクリアな画面だけど、なんだかどうしても安っぽく見えてしまうというか、キャラがコミカルな分特にそうで……。

孤児院でずっと一緒に育ってきたとか、場所も判らない絵葉書の写真の南の島に、いつか一緒に行こうと約束していたなどという設定は少々クサすぎるけれど、この強盗犯三人を演じる金城武、安藤政信、池内博之の三人がまずとてもイイ。金城氏は日本でのブレイクのキッカケとなった「不夜城」やドラマのイメージのシリアスさよりも、彼自身も好きだという(なんたって志村けんを尊敬してるんだから……)コミカルなフットワークの方が断然似合っている。素直だけどガンコものの、“ブラックキャット”、安藤政信は、彼はほんと、映画に対する姿勢とその選択眼がイイんだよなあ。役柄に幅が出ないのが気になるところだが、こういうキャラを素直に演じられるところはやはり得難い魅力。アニメ、「スペーストラベラーズ」の大ファンで、この組織犯の提唱者である彼はしかしオタク的というより、その好きなものに対する一生懸命さ(それは幼なじみの二人に対する気持ちでも)がとにかく好感度大、大、大なのである。そして池内博之。台詞は極端に少ないけれど、その眼光鋭さ、二人に気にかけてもらっている様子、そしてなんと言っても突然の哀しい死が彼を心に焼きつける。……この場面については後述。

誰かが言及していたように、ほんとに「1999年の夏休み」なベリーショートがとにかくキュート!な深津絵里や、“ホイ”というキャラ名に異常な拒否反応を示す筧利夫(うーん、香港系の方には悪いけど、その気持ちよく判る……ホイと言えば懐かしのホイ三兄弟のおバカなイメージ?)、その妻のセクシーダイナマイト&きっぷのいいスッテキ!な鈴木砂羽、時限爆弾解体という大見どころが用意されているいかにも電気屋のオヤジさんという感じの武野功雄、ただ一人、アニメキャラの設定が当てはまらないところが愛しい?気弱な銀行員、甲本雅浩などなど、スペーストラベラーズの面々はみんなほんとに大好き!なのだけど、なんといっても素晴らしいのは偶然居合わせた客にして国際指名手配中のテロリスト、“クラッシュボンバー”こと渡辺謙のカッコ良さで、もう私は見ている最中何度鼻血を吹きそうになったか判らない!?作戦がどんどんどんどん裏目に出てしまうナサケない三人組を顔には出さずともハラハラしながら見つめ、彼らを牽引していく。バッと上着を脱いだ時の黒いタンクトップが隆々と盛り上がる鍛え上げられた体、さっさかアーミーブーツの紐を締め上げるその姿、そしてクマのぬいぐるみを片時も離さない(Mr.ビーンかあ!?)そのギャップの愛らしさ……あああああ、もおおお、渡辺謙、カッコ良すぎだっちゅーの!今までは「てなもんや商社」の王(ワン)課長が最高!と思ってたけれど、このクラッシュボンバーの謙さんも……うーん、悩んじゃうなあ。

おっと、この二人を忘れちゃいけない、そうそう、よくぞまあ、このコラボレーションを思いついてくれた!と手を叩いて狂喜してしまう大杉漣とガッツ石松のお二人さん!銀行強盗に入られたコスモ銀行の支店長である大杉漣と、デカ(刑事)長を退職後、この銀行の警備員の職についたガッツ石松氏。気がきいてんだかきいてないんだかわかんないガッツ氏の機転によって強盗犯を外に残し金庫内に閉じ込められた二人は、朝まで一緒に過ごすことになる。気合いの入ったジャンケンや、ガッツ氏が次々と取り出すウィスキーやおつまみ、そして最後には二人ともランニング姿になってガッツ氏の膝枕に大杉漣が頭を乗せるという格好で双方ともに寝入ってしまう画が最高!

さて、強制突撃によって池内博之が突然撃たれてしまうことから始まるラストのクライマックスは、なかなかに感動的。うー、ちょっとズルいよなあ、とは思うけど、なんといってもこの場面でのスローモーションとゴスペル調の音楽の使い方が上手いのだ。ゆっくりと、顔を歪めて階段の手すりから転げ落ちる池内博之、彼に駆け寄って泣き叫ぶ金城武、返り血をあびて呆然とたたずむ深津絵里。その後、無謀にも二人っきりで外に飛び出す金城と安藤(直前にふりかえる二人の一瞬の静止が印象的)を残し、他のメンバーは抵抗するも突入してきた機動隊により取り押さえられる……台詞を一切消されたスローモーションと音楽で演出されるその場面は、金八先生の第二シーズン、不良どもが警察にいっせいに捕まるあの場面で中島みゆきさんの「世情」がかかるシーンを思い出したりして。

なんでも数多くの映画をパロッているらしいのだけど、私はこの場面での外に飛び出す二人の静止画に「明日に向かって撃て!」を模しているのぐらいしか気づかなかったが……。

つまりはこの三人はみな死んでしまったのだろう……時が経ち、みどり(深津絵里)が本屋(渋谷のBOOK1st?)を一人歩いている時、ふと藤本(安藤政信)の影を見たような気がして追いかけていく。あの刹那、淡い気持ちをお互い抱いた彼を忘れられないのだ。もちろん彼であるはずはなく、そのまま外に出ると、クリスマスのイルミネーション。大型ビジョンにアニメ「スペーストラベラーズ」の劇場版?予告編が流れ、みどりはそれを見上げているうちに、みるみる目に涙がたまっていく……思い出したのか笑顔になりながら慟哭する深津絵里のその表情が素晴らしい!前述のストップモーションの二人をラストにせず、彼女のこの表情をラストに持ってきたのがとても良かった。★★★★☆


スペシャリスト―自覚なき殺戮者―/UN SPECIALISTE
1999年 128分 フランス=ドイツ=ベルギー=オーストリア=イスラエル モノクロ(一部カラー)
監督:エイアル・シヴァン 脚本:エイアル・シヴァン/ロニー・ブローマン
撮影:――(資料映像) 音楽:
出演:アドルフ・アイヒマン

2000/3/16/木 劇場(BOX東中野)
全編、裁判のみで通される構成が正直ちょっとツラい。しかし実際のアイヒマン裁判の資料映像だけで観客に訴えようという姿勢は、この最大の組織犯罪であるナチスの問題に、作者の安易な感傷的意図を差し挟まないという点で大きな意味がある。

実質350時間にも渡るフィルムを編集したのだという。多分、編集したことによって、アイヒマンという人、そして人間という生き物のある一部分がより大きく現れてきている。アイヒマンは元ナチスのエリート中佐。「ユダヤ人移送計画」の専門家(スペシャリスト)で、数え切れないほど多くのユダヤ人を強制収容所に送り込んで死なせた、ナチスの罪の下手人の一人。彼は極悪人には見えないし、実際極悪人でもないのだろう。ごく普通の、自ら言うように至極勤勉な、きっちり計画して遂行することに生きがいを感じているような、優秀な男。そしてこれがありがちな展開のように、(オウムの事件の時などに扇情的に報道されたように)優秀すぎ、マジメすぎたからこそ常識的な判断が出来なかったというのでもない。彼は「命令を拒否することは出来なかった」と言い、「任務を果たしただけだ」と言うけれど、盲目的に上の言うことだけが正しいと思っているわけでもなく、恐ろしいと感じる気持ちも、自分で考える力もちゃんとある。

彼のことを恐ろしいと感じることがあるとすれば、それは、彼の中に見ることが出来る人間の多面性で、それが私たちの中にもごく普通に存在しているのだと気づくことだ。彼は最初、「ユダヤ人移送計画」が強制収容所による大量虐殺になることとは知らず、ユダヤ人たちのためになること、彼らの祖国を守ることだと信じて疑わなかったという。もちろん最後の最後までそれを信じきっていたわけもなく、それが突然だったか、じわじわとだったかは推し量りかねるのだけれど、この恐ろしい犯罪に自分が荷担していることを知ることとなる。彼は一方で配属転換を上司にかけあいもするが、一方ではそれまでどおりきっちりと任務を遂行するのだ。仕事をする自分と、人間としての葛藤を感じる自分、それが同時に存在することは、プライベートな感情と仕事上の感情を使い分けている私たちと同じように、普通であり正常なことだ。しかも、それをしっかりと自分で認識している彼は、決して異常な人間であるわけもない。

自分の仕事を完璧に遂行したことを述べる時のアイヒマンは、膨大な書類を目の前に置き、しかもそれの全てが頭の中に完璧に入っているらしく、検事側の質問にすばやく適当するページをめくって、一瞬も躊躇することなく、感情的になることもない。しかしアイヒマンの述べるような事務的な経緯が検事側や傍聴人が欲しがっていることではないのだ。彼らはアイヒマンがユダヤ人をガス室に送り込んだこと、残酷なやり方で殺戮を行った生々しい出来事を彼の口から聞き出し、その残忍さに震え、彼を罵倒し、反省を乞う彼を見たいのだ。そうしたこちら側の意図からアイヒマンは見事に外れていく。その時、私たちがそうした俗悪な(と言うのもはばかられる雰囲気なのだが)興味を持っていることを逆に気付かされることになる。彼一人の責任でないことは判っているのに、彼が「私の権限の及ぶところではなかった」と言うのに憤りを覚えるこの大衆の無責任な感覚。ナチスの罪に対してこうした個人的な裁判が行われることの是非にすら思いが及んでしまう。戦争における戦犯や、組織的犯罪で命令に従った下手人たちを裁くことは正しいことなのか?こうした大きな犯罪を裁こうとする時、責任の所在を追っていくうちに、雲をつかむような状態になってしまう時の空しさ、それに決着をつけようと、判りやすい悪人を作り出そうとする人間の意識。それが単に自分を納得させたいという欲望を静めるだけのものだということに、私たちが気付くことは少ない。

アイヒマンが、自分の仕事を語る時に膨大な資料を繰りながらであるのに対して、その仕事がユダヤ人殺戮に及んでしまったことに気付き、そこからの感情の経緯を語る時には、彼の手には資料は全くなくなる。語り口調は驚くほど変わらず、相変わらずよどみないのだけれど、いやだからこそ、彼が仕事の遂行のことよりも、この重大な事実についてきっとずっと深く深く考えていたのだろうと思い当たってしまう。「逃げることなど出来なかった。私は大海の一滴、私一人が拒否しても何も変わらない」という彼の言葉をどうして否定できるだろう。良心があったなら、このとてつもない犯罪を止めるべきだったなどということを、彼に言えるとでもいうのだろうか。そんな事を言えないことは判っている。だから、彼らはアイヒマン自体が極悪非道な人間であることを望んだのだ。そうすればそこで気持ちの決着がついたから。

でも、アイヒマンは普通以上に普通の人間だった。誰よりもこの事態を理解していて、なおかつ冷静だった。サブタイトルの「自覚なき殺戮者」はあたっていない。この犯罪の恐ろしさを判っていながらも、結局はその一端や、あるいは間違った情報をも信じているかもしれない一般大衆が彼を半狂乱になって弾劾する様の方が、よほど極悪非道で無責任に見えてきてしまう。多分、実際そうなのだろうと思う。私たちはいつだってその事件の表面的な残酷さだけを見、それに荷担したのが自分ではないことに満足しているのだから。この感覚……「「A」」の時とよく似ている。いつの時代も、そしてどこの国も、人間は同じ問題を抱えているのだ。★★★★☆


スリ
2000年 112分 日本 カラー
監督:黒木和雄 脚本:真辺克彦 堤泰之 黒木和雄
撮影:川上皓市 音楽:松村禎三
出演:原田芳雄 真野きりな 柏原収史 石橋蓮司 風吹ジュン 平田満 香川照之 川島郭志 岸本祐二 hal 真理明美 すまけい 伊佐山ひろ子

2000/11/7/火 劇場(シネ・アミューズ)
大変だあ、私、この黒木和雄監督作品、初見かもしれない。うーむ、なんという勉強不足。そのフィルモグラフィは傑作として聞こえの高いものばかりだというのに。そして、本作。チラシのデザインのイメージで、なんかイランあたりの映画かと思った(ほんと、よく見てない……)。しかしその独特のイメージ……その話の内容的な面白さもさる事ながら、なんか画面に色気があるのだ。成熟しているというか。ベテラン俳優が出ているというだけのことじゃない気がする。例えば若手の真野きりなや柏原収史(私は柏原兄弟の見分けがつかん)が出ている場面でもそうだから。色はシックに落ち着いてて、影の暗さやむき出しのコンクリート、磨かれた木の床の質感がひんやりと心地よくて。ああ、なんというかこの、東京という大都会の、ほんとに片隅に、ひっそりと暮らしている、そんな感じ。一方でその仕事(スリ)の舞台は雑然とした、ほんとに都会そのものの混雑した電車の中で、……その不自然に明るい色合いとの対照も印象的。

ちなみに私はロベール・ブレッソンの「スリ」も観ていないのだが(ほんと、どーしよーもないかも……)、本作のスリの技術にはかなり心惹かれる(惹かれちゃマズいか)ものがあった。電車の中で実際にスる場面ももちろんだけど、弟子入りした一樹(柏原収史)が今やアル中ですっかり腕が落ちたものの、ベテランのスリである海藤(原田芳雄)に手ほどきを受ける場面がメチャ面白くて。海藤を付け回している刑事(石橋蓮司)に彼が「スリの専門学校を作るんだ、ベルギーとフランスに姉妹校(だったかな)作って」などというのが、ちょっとイイかもと思うくらい奥が深くて。

その海藤に、孤児となった小さな頃に拾われ、娘同然に育てられたレイ(真野きりな)。“同居人”などと説明されているけど、娘に他ならない。この真野きりながねー……むっちゃくちゃイイ!バツグンにイイ!!今までも「dead BEAT」「BULLET BALLET バレット・バレエ」などの出演作品を見るたび、イイわあ、と思ってたけど……。“20世紀最後の映画女優”は田中麗奈なんぞではなく、絶対にこの真野きりなだ!本作での彼女は、それまでのどこか突っ張ってたイメージよりも(それも勿論あるんだけど)もっと痛々しくて、ちょっと触れただけで傷つきそうな、同時にその触れたこっちの手も切れそうな危うさを持っている。心からこのアル中のオッサンを慕っている彼女の、ほんとに全身で心配している様子に見ているだけで泣きそうになってしまう。それでいて、ナマイキなフレンチドールといったいでたちで電車に乗り込み、自分の体を痴漢に触らせながら、財布を抜き取る、なんていう場面では一樹ならずともその鮮やかさに目を奪われて。

彼女がつとめる保健所で、毎日順番に殺さなければいけない犬たちに涙を落とす彼女、歯を食いしばり、なんとか愛情を注いでくれる飼い主を、と心を砕く彼女……。そこで彼女と二人働く吃音気味の男性とのやりとりも、同僚としての愛情にあふれてて、なんだか凄く、イイんだよなあ。彼女が、その心の弱さをホレてしまった一樹にさらけ出す場面もイイ。行かないで、お願いだから、と震えながらすがり、あんたにいて欲しいの、とまるで本能がそうさせずにいられないかのように唇を求めていく。このせっぱつまった心細さと、この若さならではの色気がたまらない!こんなん出来るのは、彼女しかいない!海藤が一樹にレイを落とせと言ったのも、彼女なら彼にホレるだろうこと、そして自分がいなくなった後、彼女を任せられる男を探していて見つかった、と思ったからなのだろう。ほんと、海藤は真の父親なのだ。

海藤を敵対視しているレイの兄が、一樹を人質に海藤をおびき寄せる場面。「お願い、あの人を助けて、あの人の子供がお腹にいるの」と海藤にすがるレイ、海藤が自分はここにいるからあいつに来るように言ってやれ、と言うと「出来ない、出来ない」とぶるぶる震え泣くレイ。下手するとかなりベタなセリフ回しになってしまうところを、まあなんとまあ、本当に痛ましいまでのギリギリさ!そしてこの兄に海藤の手が何度も何度も踏み潰されるのを「手だけはやめて!手だけはやめてえ!!」と泣き叫ぶのも……。演技が上手いとかそういうレヴェルじゃないんだ。本能でそこに存在してる、役を生きてる。真野きりな、最高。

断酒会の主宰者である鈴子(風吹ジュン)と、その会のどこか偽善めいた滑稽な部分を揶揄するかのような海藤とのやりとりは、しかし何故だか両者がそれぞれの立場にだんだんと近寄っていく。大人の恋愛なのだけど、そんなスマートじゃなくて、二人ともどっか不器用で傷つきやすくて。あれほど自分に戒めていたはずの酒をかっくらって海藤にもとに乗込んでいく鈴子の、弱いんだか強いんだか判んないようなところが、「なんで、いないのよお」と泣きべそかくところが、愛しくってたまんない。それに応えて奥の方から「俺はここだ!」と叫ぶ海藤、それを聞いて「いた、いたあ!」と泣き笑いする鈴子。ああッ!もおおお!風吹ジュン、今までで一番イイかもしれない。なんかほんとに感情がむき出しで。笑っちゃうほど真面目で、だから傷ついてしまう。海藤と対照的だから故によく似てて。

レイがバカな引き取り手からもぎ取ってきた、ストレスから?声が出ない犬がメチャ可愛い。海藤が犬が苦手だというのもユーモラスなのだけど、この犬、積極的になついてはいかないものの、いつも実に絶妙な距離でじっと海藤を見つめて(見守って?)いて。海藤が酒に手を出さないように自らの手足を縛って寝ている時もその傍らに丸くなってたりして。あー、なんという可愛さだ、ちくしょう。私はネコ派なんだけど、こと映画に関しては、やっぱ犬の方が芸達者というか、可愛いんだよなー。

文字どおり踏みにじられて、真っ黒になったその指をしかし懸命に動かし、激痛に顔をしかめながらももう一度スリに挑む海藤と、それを向かい側のホームから見守っている刑事。「アル中が治ったら、逮捕してやる」との言葉通り、彼は海藤を捕まえるべく(だよね)、海藤のいるホームに急ぎ向かう。とたんに駆け出す海藤。そしてカットアウト。当初の脚本でもそうだったらしいけど、なにかね、鈴子と結ばれる場面があったりして、もう海藤死んじゃうかな、なんて雰囲気があったんだけど、なにかこのタフなラストに嬉しくなってしまった。シリアスが充満してたのが、ふっと軽くなったような、ユーモラスさが湧き出たような。

主演の原田芳雄は勿論さすがの素晴らしさ。しかし本作はキャストが総じて、誰一人取りこぼしなく良すぎる!やっぱり作品の良さが演技を引き出すんだろうなあ。先述したほかにも、石橋蓮司も、香川照之(彼、ほんと上手いよなあ。もっと映画に出て欲しいんだけど)も、あとはもうエトセトラエトセトラって感じで、もう唸っちゃうもん、上手くって。あー、ほんとに良かった。これはもう一回観よう!★★★★★


スリーピー・ホロウSLEEPY HOLLOW
1999年 106分 アメリカ カラー
監督:ティム・バートン 脚本:アンドリュー・ケヴィン・ウォーカー
撮影:エマニュエル・ルベツキー 音楽:ダニー・エルフマン
出演:ジョニー・デップ/クリスティーナ・リッチ/クリストファー・ウォーケン/ミランダ・リチャードソン/マイケル・ガンボン/キャスパー・ヴァン・ディーン/クリストファー・リー/リサ・マリー

2000/3/12/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
ティム・バートンの新作の情報もほとんど伝えられないまま、かなり唐突に公開された感覚のある本作。えッ、ティム・バートンとジョニー・デップの再々コンビ作なんて聞いてないよお、しかも、クリスティーナ・リッチが共演だとお!?何々、スリーピー・ホロウって、どーゆー意味?またそのまんまカタカナタイトルで訳判んないのお、と?マークだらけ。でもでもこれが……おおお、これぞ、ティム・バートンワールド!しかも、ジョニー・デップがやたらハンサム!クリスティーナ・リッチきれええ、うわあ、ミランダ・リチャードソンだ、クリストファー・ウォーケンだ、何、あれはクリストファー・リーだとお!ともう大変!

物語はアメリカ人なら誰でも知っているフェアリー・テイルということだが、日本人の私は勿論知らない。だから、もしかしたらあったかもしれないイメージとのギャップなんかにもまったく悩まされずに観ることが出来る。アメリカ、というよりはヨーロッパのおとぎばなしみたいな雰囲気。立ち枯れた木や下に敷き詰められた枯葉、古い家屋の暖炉やベッドのアンティークなデザイン……一見正統的なコスチューム・プレイによる歴史ものかと思わせるほどなのだけれど、やっぱりどこかが違う。どこかに寓話的なフィクショナルが潜り込んでいて。

これらの不思議な魔力を際立たせるその画面の美しさには、驚いた。それも、黒の美しさ。ただ、黒、な筈なのに、その黒はクラシックな、シックな落ち着きを放っていて、あれは一体、何が違うんだろう?確実に、現代社会の中にはないと思わせるような、黒。そしてその黒を全身にまとい、髪も黒、瞳も黒のジョニー・デップ!青白いほどに生気のない肌がこれまた魔力的なものを感じさせる(まさしく「シザーハンズ」のそれだ!)。彼自身は、非現実的なものは信じない科学的捜査を誇りとしている捜査官なのだけれど、だんだんと科学では説明できない事態に巻き込まれていくのを最初から予期させるようなそのいでたちである。

それにしてもジョニー・デップ、こんなにハンサムな人だったろうか?今までで一番ハンサムなんじゃなかろうか。密度の濃いまつげ、それに縁取られた吸い込まれそうな黒い大きな瞳、その美しい黒髪。まがまがしいようなエキゾティシズムが奇跡的に純粋な美に結晶したような美しさ。しかも、彼がその美しさのまましっかりコメディ・リリーフも買って出ちゃうところが嬉しいのである。みずからが設計した奇妙奇天烈な実験機械(これがナイス!)を装着してケント・デリカットみたいにレンズで目が大きくなったり、実際に亡霊を目の当たりにし、自分の科学的信頼などいとも簡単にガラガラと崩れ、毛布を引っかぶってベッドのすみでガタガタ震えている様なんか、もう可愛らしくって仕方がない。“死人の木”を見つけ出してその幹を切ると生身の肌のように鮮血が吹き出してくる(!設定もそうだけど、画的に凄い!)時などに見せる及び腰も愛しいなあ。

そしてまるでおとぎの国のお姫様さながらに彼の前にあらわれるクリスティーナ・リッチの美しさもまた格別。まさしくジョニー・デップとは180度対照的な、白の美神。きらきらと輝く巻き毛のプラチナブロンドがよく映える雪のような肌は、ジョニー・デップの白さとは違う、生気をたたえた肌である。彼女はクライマックスまで敵か味方か判らない謎の人物なのだけど、いや!こんなポジティブな美しさを持った女の子が敵な筈はない!と妙に確信を持ってしまう。1980年生まれの彼女、これ以上少しでも若ければロリータ的に、少しでも上ならば危険なファム・ファタルに傾いてしまうであろう、まさにこの一瞬の年頃にはまり込んだキャラクターだ。今までクリスティーナ・リッチと言えば彼女こそ黒髪黒い瞳のクール&ミステリアスなイメージだったのに、ここではまるで生まれながらこうしたピュアないでたちだったかのような錯覚を起こさせるほど。うーむ、これもまたたぐい希なる演技力。

1799年という世紀の変わり目、発達しはじめた科学と、未だ残る因習がせめぎあっているような時代。完全に作られてしまう現代のおとぎばなしより、その頃にはもしかしたら現実にあったかもしれないフェアリー・テイル。ニューヨーク郊外にあるスリーピー・ホロウという村に伝わる伝説は、その時点からたった20年前に起こった事件が発端であることが、そうした感覚をより強くさせる。敵の首を次々に刈ることが生きがいだった騎士が、逆に敵に追いつめられて自らの首を刈られて死んでしまう。そしてその首が墓場から持ち去られて以来、彼は自分の首を取り戻すまで、その村の人々の首を刈り続ける……。

ほとんどを首なし状態で画面に登場し、クレジットまでされない(!)クリストファー・ウォーケンの尖った歯と恐ろしい表情がスゴい。そして実は裏で糸を引いていたのがクリスティーナ・リッチの義母役であるミランダ・リチャードソンで、彼女の魔女的な風貌と風格がこれまたピッタリ。

カトリーナ(クリスティーナ・リッチ)が描いていた不可思議な模様を“呪いの目”だと信じ込んでいたイカボッド(ジョニー・デップ)だが、実は“愛する人を守るための魔術”だったという展開が泣かせるなあ。彼女が裏切ったと思い込んで村を立ち去りかけた彼が、その真実に気付いて猛然と馬を走らせる。そして回る風車に捕まっての脱出劇まで見せる大スペクタクル!そして首なし騎士の乗った真っ黒の馬、デアデビルと、馬車や馬での追っかけっこアクションは圧巻の一言。ひょっとしたらカーアクションなんかよりずっと迫力があるかもしれない。まるで「駅馬車」か「ベン・ハー」!?馬車から滑り落ち、這い上がり、馬に飛び移り……んん?なんだかどこかで見たような……これってジャッキー・チェンのノリじゃないのお、絶対何かのジャッキー映画で観た気がするんだけど、偶然かしらん。でもそのスピードもさる事ながら、何よりめまぐるしいほどの、そしてそれがうるさくならずにスリリングに盛り上げていくカッティングにすっかり乗せられて大興奮、“手に汗にぎる”などという言葉を実感してしまった。

やはりティム・バートンの本領発揮は「バットマン」(やはりティム・バートン監督版が一番いい!)や「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」の流れを汲む、しっかりフィクション、チャーミングなユーモラスさ、そして怖くないホラー、しかし闇の美しさは格別、といった要素に彩られたもので、本作はまさしくその集大成。そういえば、西欧、特にアメリカの監督の中でここまで暗闇にこだわり、それを美しく撮る監督はこの人ぐらいではなかろうか。本作では昼でもすっきりと晴れ渡ることはなく、霧の立ち込めているような曇り空。それはこの村が外界から完全に遮断されていることを暗示させもする。ティム・バートンワールド、ワンダフル!★★★★☆


駿河遊侠伝 賭場あらし
1964年 90分 日本 カラー
監督:森一生 脚本:新藤兼人
撮影:今井ひろし 音楽:塚原哲夫
出演:勝新太郎 天知茂 大辻伺郎 山本礼三郎 瑳峨三智子 藤村志保 丸井太郎

2000/7/18/火 劇場(新宿昭和館)
キャストのわりと早い位置に天知茂の名前を見つけて、きゃあ、やったあ!と心の中で躍り上がったのに、いつまでたっても彼が登場しない!あんまり待ちくたびれて、じりじりしはじめた後半三分の一位になって、ようやく出てきてくれた。あー、でも、これがむちゃくちゃイイ役で、終わってみれば脇キャストの中で一番だったりするんだからねー。もう出てきたとたん、あまりのカッコよさにざわざわっと鳥肌が立っちゃったよ!

なんて言いつつ、いやいやそうそう、これは勝新が主人公の次郎長ものなのでした。しばらく次郎長なのだと判らなかった。坊主にあと三年の命と占われてヤケクソになり、イカサマ博打の旅に出ている清水の次郎長が勝新の役。彼にくっついて回っているもともとは髪床の男が実に笑える。次郎長の初恋の人を売り飛ばした男を次郎長が斬ろうとするのを加勢して、彼がはずみで斬ってしまい、大慌て。次郎長は半ば面白がって「なんたっておめえは人斬っちまったんだからな」と耳元でささやく度、震え上がる彼。ビビリまくって、それから先は出ない小便を立ち止まり立ち止まり絞り出す始末。「また小便かよ、出ないんなら止めとけ」と次郎長、しまいには彼が「次郎さん……」と呼びかけるだけで「止めてろ」と言う始末。これが何回も繰り返されて、今度は「止めてろ」「止まってる」となるんだから!

旅の先々でさまざまな手強い人物に会って成長していく次郎長。バクチですっかり取られ、川辺でハダカでたき火していた友人に出会い、「お前さんに会う時はいつもハダカだな」「ちげえねえ!」ワッハッハと笑いあう様が可笑しい!その友人に教えられて、スゴ腕の胴元のいる賭場へと腕試しに出かける次郎長。しかしそこで手玉に取るつもりがすっかり手玉に取られた美しい女胴元にホレこみ、「弁天様の生まれ変わりだ」とうっとり。また別の場所ですっかり落ちぶれたように見える親分が実は実に出来た信頼できる人だというのに感激したりする。そこの道楽ものの一人息子が、帰ってきたところにたまたま居合わせた二人、「さっぱりしていいお人なんですがね、惚れっぽいもんで、しょっちゅう問題を起こすんですよ」と家臣が言うのを聞いた髪床の彼、「惚れっぽいって?それじゃあおいらとおんなじだ」とニンマリ、次郎長いさめて「バカ言え、お前のはただの女好きだ。女好きと惚れっぽいってのは違う」「どう違うんでさ」「言うなれば、肉体的と精神的の違いだな」……ナルホド!!

その“女好き”の男どもが、女を買いに出かけるシーンもまたみもの。サイフをすられたことに気づかずお座敷に入っちまった二人は、慌てず騒がずしっかり飲み食いし、酔った勢いを装って天女の舞を披露、すっかりウケまくったところをそのまま廊下に舞い躍り出て、トンズラしちまうんである。女の着物を腰に巻いたまま、しばらく膝を合わせてナヨナヨとしている髪床が可笑しくて!

そしてようやく天知茂の登場するエピソードである。先述の親分さんの子分、吉左衛門といざこざを起こしている七蔵のもとに向かう次郎長。吉左衛門からはこやつを斬れば報酬は弾むと言いつけられている。しかし、行った先で主人の留守を守っていたのは、なんとまあ、次郎長が捜し求めていた初恋のおときさんだった!「今ではあの人が私にとってかけがえのない人なんです」と言うおときさんの言葉にうなだれる次郎長。そして帰ってくる七蔵(天知茂ッ!)を待ち伏せるも、その全く臆しない堂々とした男っぷりに(メチャカッコイイ!!)スッカリ降参、よーく話を聞いてみるとワルいのは吉左衛門の方だと判り、手打ちを行わせるのだが……。

ああここからのラストのクライマックスがねえ!手打ちを終えた七蔵を送っていく次郎長、「奥さんを大事にしてあげてください」「ああ、私には出来すぎた女房かもしれない。いずれはこんな生活からは足を洗って、静かに畑仕事でもして暮らすつもりなのだ」と七蔵。と、そこに殺気を感じる二人。「……どうやら面倒なことになりそうだな」「ここは私が収めますから、七蔵さんは奥さんのもとに行ってあげてください」「そうは行かない」現われでたのは吉左衛門の差し向けた大群の手勢!次郎長と七蔵、二人斬って斬って斬りまくる!その間ずっと「早く奥さんのもとへ行ってください!おときさんを幸せにしてやってください!」と叫び続ける次郎長。ああもう私はハラハラしてしまって、まさかまさか七蔵さん(=天知茂)が死んじゃうんじゃないかって!でも七蔵さん、次郎長の心意気に応えて「……すまぬ!」と敵を振り切って一目散に家路へと走っていく。それを確認した次郎長、もうずいぶんと減った手勢を相手に鬼気迫る勢いで襲いかかる!

その場所は胸ぐらいまではある青々とした麦畑の中で、実に立ち回りにくそうなのだけど、そのさわやかな緑色が、もう40年近く前の作品だというのにちっとも色褪せてなくて美しくて、目にまぶしい。その中を立ち回る勝新に次第にクローズアップしていき、彼がこの緑の中を疾走するがごとくな画になり、緑が画面を走っていき、そのままラストになる。それはなにか……このまま次郎長が死んじゃうんじゃないか!と思わせるようなラストで。

思えば勝新と天知茂の顔合わせは心震える「座頭市物語」!あー、ほんと天知茂はめっちゃ素敵なんだから!もう。★★★★☆


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