home!

「ね」


2002年鑑賞作品

義姉さんの濡れた太もも
2001年 60分 日本 カラー
監督:荒木太郎 脚本:内藤忠司
撮影:前井一作 音楽:
出演:時任歩 佐倉萌 前野さちこ 西川方啓 縄文人 木立隆雅 入月謙一


2002/4/21/日 劇場(池袋新文芸座/第14回ピンク大賞AN)
噂の荒木太郎監督作品を初見。そのお姿も初めて見たが、トンがった主張を持っていると聞いていたイメージとは裏腹な、まるで大学生のような若々しさに面食らいつつ、しかしやはり噂どおりトンがったポリシーを存分に披露して、舞台にうやうやしく登場することをも嫌い、客席から舞台に上がり、そしてまた風のように去っていった。彼の言うとおり、ピンク映画というのは、ピンク劇場で観ればこそだというのは、確かにその通りなのだろう。どんなに映写状態が悪かろうとも、スクリーンがすすけていようとも。この作品は、そんな劇場で観ていたらもっときっと幻惑させられるものなのではないかと思わされる快作だった。最初から最後まで、驚かされた。

夫を亡くして未亡人になってしまった旅館の若女将、マリ。どんどん亡き夫に似てくる、理工系の彼の弟、コウジ。奔放な仲居に手を焼き、その仲居がいつものような男遊びでこの弟に手を出しても、彼女はその身を焦がす欲望を彼女のように手近に満たせない。彼女はその欲望を自慰によって抑える。その書生といった感じの弟の雰囲気、ここを定宿としているらしい、お気楽な身分の文士の客……閉ざされた山奥とはいえ、その時代はいくらか過去のものを思わせ、古き良き時代、貞淑な未亡人モノ、しかも女将かあ、色っぽい……と鼻の下をのばしかけたその時、眠りから目覚めた彼女は、確かに同じ女性なのに、まさに今の、現代の東京に生きる女性、女流AV監督を生業とする女性、マキコに変わっているのだ。

え、え、何?それって、どういうこと??とこちらの頭がついていけないうちに、話はどんどこ展開する。彼女の仕事の様子が映し出される。“カズノコ天井”の膣(初めて聞いたわ)を持つAVギャルのアイちゃん(オッパイはデカいが、肌の荒れが気になる)を自らの手でイカせながら、ハンディカメラでぽんぽん撮影を続ける彼女。男顔負けのエグいAVを撮り、かなりの美人なのに、恋愛にも結婚にも興味がない風で、ひそかに彼女に恋しているAVプロデューサー、サイトウは心配している。彼女が夢に見ていた未亡人の若女将は愛する人でなければセックスは出来ない、とそのほてった体を引き受けてあげようとした文士を振り切ったのに、彼女はセックスはセックス、と割り切っていて、美青年のホストをご指名し、彼女の住む高級マンションで純粋に欲望を満たす。

こういう仕事をしているホストの彼までが、「マキコさん、恋はしないんですか」と心配するほど、彼女は恋に対して拒否反応を示している。それはあまりに冷徹なだけに、逆に病的とも言えるほどに。やがてその高級マンションが、マキコが夢に見るマリの義弟、コウジの住む部屋と同じであることが判明する。……マリにとってはマキコが夢なのだが。マキコとマリの夢は半々で、その境目にはまるで初期の大林監督のようなノリの、8ミリ風映像が差し挟まれたりし、他にも手持ちカメラによる、ちょっとギャグタッチとも思えるような早回し気味の揺れる映像が踊りこんだりして、確信犯的な映画青年っぽい青臭さを演出している。夢と現実、というより、夢と夢という感じがして、怖くなる。実際、夢が現実よりも長くなったら、あるいは凌駕するほどの強さを持ったら、夢の方が現実になってしまうのでは、などと考えることはよくある。しかし、ここではお互いに見ている夢同士で、現実は存在しないんじゃないかと思えるような、不思議な感覚に満ちている。

彼女二人が目覚めるたびに、それぞれの見た“夢”を、「……いやらしい夢」と評するように、感情のままに、あるいはそれと真逆な本能のままにセックスをする夢の中の自分に嫌悪感を示す彼女たちは、真逆なだけに、相反する両極である奇妙な対のような相似点を感じる。マリである彼女が出来なかったことを、マキコが実現し、しかしマキコはマリをこそうらやましいと感じているような。その気分に影響されたかのようなマキコが、自分を恋しているサイトウの気持ちに半ば感染したかのように(いや、彼女もまた、以前から彼のことが好きだったのかもしれないが……)彼の思いを受け入れ、混浴温泉の風呂の中で熱情的なセックスを繰り広げるのは、マキコが夢に見続けていた、マリの切り盛りしていた旅館。彼女はその後、彼を俳優に使ってアイちゃんを相手にさせ、AVを撮りあげるという豪腕を見せるのだけど、その当のアイちゃんが、マキコがいつもと違うことを見抜き、男が皆早漏になっちゃう彼女の“カズノコ天井”にサイトウが長持ちしたのは、その前に監督とエッチしたからなんだね、なんて言う。言ってることはスゴいんだけど、このイケイケギャル(……死語?)のアイちゃんが、マキコが恋していることを喝破するというあたりが、頑ななマキコよりずっとオトナな感じがして、ハッとさせられちゃうのもイイ。

この町、この旅館でデジャヴを感じるマキコではあるけれど、まだ彼女たちの半々の夢は続いている。このまま夢・夢の半々で終わってしまったらどうしよう!?とそんな期待も半分持ちながら観続けていると、案外とまっとうな結末が待っている。マキコの夢の中(つまり、マリの描写)で出てきた写真に、マキコは見覚えがあった。それは自分。つまり、マキコが見ていたのは、母親の記憶だったのだ。マリがコウジとの思いを遂げ、彼と幸福になるため、いったん旅館に戻るのに乗った飛行機で事故にあい、死んでしまった。マリが飛行機に乗ったシーンを見て、ガバッと夢から覚めるマキコ。その場所は彼女の住んでいるマンションで、そしてコウジが住んでいた場所。覚えのある自分の写真、そして自分ソックリだった母の写真を探し出し、全てに合点が行くマキコ。恋の意味もセックスの意味も、綺麗に融合、昇華していくどこか甘酸っぱいラストがじんとくる。

ピンク映画に不可欠なセックス、その意味付けを、どこか哲学的な形而上な世界に展開してみせる荒木監督の手腕に素直に敬服してしまう。そして二役のヒロインを鮮やかに演じ、未亡人の色香と、現代キャリアウーマンのカッコよさを見事に演じ分けた、時任歩の玲瓏な美しさに感服。★★★★☆


猫の恩返し
2002年 75分 日本 カラー
監督:森田宏幸 脚本:吉田玲子
撮影:高橋賢太郎 音楽:野見祐二
声の出演:池脇千鶴 袴田吉彦 前田亜季 山田孝之 佐藤仁美 佐戸井けん太 濱田マリ 渡辺哲 斉藤洋介 岡江久美子 丹波哲郎  田中敦子 宮本充 長克巳 塚本景子 白鳥由里 香月弥生 駒村多恵 本名陽子 鈴井貴之 大泉洋 安田顕 岸祐二 中村俊洋 清水敏孝 青木誠 江川大輔 新垣樽助 よのひかり

2002/9/1/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
観るのが遅れている間に、どんどんロングランヒットになってしまって、これまたどんどん耳に目に入ってきてしまう情報に、何だかすでに観たような気分になりそうになりながらも、あの「千と千尋の神隠し」の超特大ヒットにのまれることなく快ヒットを飛ばした本作に心惹かれたのには、ヒットしているという以上のさまざまな理由があった。猫にはとことんヨワいこと、どうやらあの「耳をすませば」から連関しているらしいこと。大好きなちーちゃんこと池脇千鶴嬢がヒロインの声を当てていること……等々。ことに最後の理由は大きい。私はとにかく千鶴嬢にメロメロに参りまくっていて、私の中ではネコヤナギのイメージガール(何だそりゃ)の彼女が、猫に囲まれる女の子を演じるなんて、もうそれだけでココロトキメクのである。彼女のシルキーボイスならぬネコヤナギボイス!ああー、想像するだけで、たまらーん。

と、想像してばかりもいられないので、遅まきながら劇場に足を運ぶ。オマケ的な併映だと思っていた「ギブリーズ」の予想外の痛快さに驚きながら、いよいよ本編。画面のヒロインのキャラに合わせて観るせいか、ちーちゃんの声は意外にさっそうとした女の子っぽく聞こえるのが新鮮。
そのヒロインはハル。まあ、ごくごく平々凡々な女子高生で、好きな男の子はいるけど、彼には美人の彼女がいるし、それを突破するほどの気力もない。部活に燃えているというわけでもない(恐らく、帰宅部と思われる)。うーむ、かなり思い当たる感覚の女子高生である。そんな彼女がひょんなことから猫の世界に誘われて「猫になるのもいいかもね〜」なーんて思っちゃうのも、無理からぬと思えてしまうほどに。これが世の中意外にさ、甲子園で熱血しちゃっているとか、彼氏とラブラブだとか、とりあえず大学目指して塾通いとか、厚化粧してシブヤで盛り上がってるとかいう、そこそこにアツい高校生ばかりじゃないっていう訳なのよ。むしろハルのような、とりあえず無難だけど、本人としてはなーんか物足りない、っていうコの方が多いんじゃないのかなあ。だって、私だってそんな感じだったもんね。

ハルは幼い頃に、そして現在の時点で猫を助けたことで、トンでもない事件に巻き込まれることになる。直接の原因は後者。車に轢かれそうになった猫を助けたら、なーんとそれが猫の国の王子様だった(ちなみにその時“彼”が口にくわえていたプレゼントが、前者と関係しているっていう伏線が粋なのよね)。王子様の父親、つまり猫国の王(声は御大、丹波哲郎。いつもどおりのマイペースさが、素敵過ぎる〜)はいたく感激して、彼女にせいいっぱいのお礼をしようと試みるのだが、これが猫の価値に鑑みたマトはずれなことばかり。これにハルが迷惑していると知ると、ならば猫国に招待して、猫の王子様との祝宴、とそれ以上にブッとんだことを言い出してくる。

この、マトはずれのお礼の中でツボだったのは、庭中が猫じゃらしになる場面。猫じゃらし、というのは私の中ではポピュラーではなく(今は猫大好きだけど、小さい頃は猫と縁がなかったのだ)、普通にエノコログサと呼んでいたわけだけど、インドアな子供だった割には雑草大好きな私は、中でもこのエノコログサが大人になった現在に至るまで、本当に、だーいすきなのだ。エノコログサって、いっぱい摘み取って花瓶に飾りたいような繊細で可愛い草なのに、アスファルトの隙間からとかでも平気で生えるような実に実にたくましい“雑草”だっていうのが、なんかとっても不思議な感じなのよね。あ、ちーちゃんがネコヤナギみたいって言ったけど、ちーちゃんがネコヤナギなら、彼女が演じているヒロインのハルはそれこそこの猫じゃらし=エノコログサ、って感じかなあ。可憐さを持ちながらも、隠れたたくましさを持っている、っていうような……。

もうひとつ。この猫を助けるエピソードの中で、ハルの親友のヒロミが、自分のラクロスラケットを壊されちゃうんだけど、「ま、猫の命には替えられないか」と言うんだよね!この台詞の時点でかなりグッときちゃったけど、それから、ハルがこの猫を助けたためにトラブルに巻き込まれ、「猫なんか助けなきゃ良かったよ」と一時は言うんだけど、幼い頃エサをあげた女の子の子猫がキレイに成長して、猫の国の王子様と恋に落ちたと知ると、「やっぱり猫を助けて良かった、私のやったことは、間違ってなかった」と喜んだ時、ああ、何か、ささやかだけど、優しい気持ちを思いっきり肯定しているのが、凄く凄くイイなあ!と思っちゃった。

猫国の申し出に困り果てたハルが、不思議な天の声に従って、猫の事務所を訪ね当てる。途中の道案内に現われるチンピラ風!?デブ猫、ムタは実にナイスだが、何と言っても本作のヒーローでこの事務所の主人、バロンのカッコよさには参る!そう、このバロンこそ、「耳をすませば」でヒロインがアンティークショップのショウウィンドウの中に目を止めた猫人形であり、誇り高き男爵、フンベルト・フォン・ジッキンゲン(本名)というわけなのだ。このバロンの声を当てているのは袴田吉彦。正直、彼がこれだけスマートなキャラをしっくり当てちゃうのには驚いてしまった。実はちーちゃんの声のことばかり気になっていて、他の声に誰が起用されているかとか全然把握してなかったから、袴田氏だと知らずに、この声素敵ー、とか単純に思っていたのだ。ハルと同様に、クライマックスの頃には、すっかりバロンにメロメロ惚れちゃったもんね。猫相手に何言ってるんだって?種族の差なんて関係ないッ!!……なんて思わせちゃうのって、実際、凄いかもしれない。うー、すっかりしてやられたよー。

この猫の事務所がある一角は、まるで東武ワールドスクエアのような(ローカルマニアックすぎる?)ミニチュアドールハウスな世界。ハルは這いつくばってアンティークかゴチック調か、ってな上品な趣味のバロンの事務所に入り、小さな小さなティーカップで供された極上のブレンド・ティーを味わう。ああ!なんかさ、こういう感覚も、昔おにんぎょさん遊びをしていた時に夢見ていたこととか、あるいは懐かしきガリバー旅行記とか、そんな甘酸っぱい思いを思い起こさせない?女性って結構オトナになってもバービー人形とかにヨワい部分があると思うんだけど(私だけじゃないよねー?)なんかそういう年甲斐もないオトメゴコロをくすぐっちゃうんだなあ。しかもこのバロンはとびっきりのダンディだしさ、言うことないじゃん!

バロンに手助けしてもらうことが決まりながらも、そこから猫の国に連れ去られてしまうハル。猫の国が関与するどの場面にも必ず出てくるノーテンキなナトルが好きだなあ。声を当ててる濱田マリがまたバツグンで。ハル、バロン、ムタが逃げる塔をブッ壊すスイッチをそれこそノーテンキに差し出したりしちゃうのが、その絶妙の間といい、何とも言えずイイんだよね。それと対照的に王にひたすら従順なナトリには真逆な意味でホロリとしちゃったりもするんだけど。

クライマックス、塔へ続く迷路のシーンを見ながら、ああ、こういうの、たむらしげる氏の「ファンタスマゴリア」にあったなあ、なんて思いながら……迷路っていうのは、ファンタジーに不可欠な要素なのかもね。夢に落ちて抜けられないようなあの感覚に、確かによく似てるもの。焦れば焦るほどどんどん出られないんだけど、一方でそのぐるぐる感に不思議に夢心地になってるような……そしてナトルが「スペクタクル!」とこれまた能天気に評する爆破シーンをも乗り越えて(それこそそうした一種の夢幻想の趣だから、アリなのよね)、ジブリ印の飛行シーンではなく目もくらむ落下シーン!相変わらず上手い!と感心しつつも、え、でもただただ落ちていったら本当に墜落死じゃん!とハラハラしていたら、ちゃーんと鳥さんたちの大群衆が助けにきてくれました。鳥さんたちの背中の上を小川の飛び石を渡るように歩いていくハル。

別れ際、「バロンのことが好きになっちゃったみたい」と言うハルの頬に手を当てて「ハルのそういう素直なところが私も好きだよ」だなんて、こ、このっ!バロンてば、んもー、それ判ってて言っているんだろうなあ、キザだけどカッコいいよー!なんで、こんなまんま猫なのにやたらとカッコイイのお〜、もう、参っちゃう。このカッコよさは、この作品全体がそうなんだけど、絵柄といいなんといい、程よくシャープで硬質な感じが醸し出すカッコよさ。こういうシャープなカッコよさは、ひょっとしたら宮崎氏では出なかったのかもしれない。ハルにしても、ほんわりした女の子というよりは、やはりシャープな感じがするもんね。

ラスト、ヒロミとともに休日の町を私服で歩くハルは、何だか随分とオトナっぽく、ひょっとしたら女っぽくなったかもしれない?★★★★☆


猫夜
1992年 80分 日本 カラー
監督:山崎幹夫 脚本:
撮影:山崎幹夫 神岡猟 寺本恵子 寺本和正 杉浦茂 音楽:勝井祐二(ヴァイオリン)演奏:ヒゴヒロシ(ベース)カムラ(ボーカル)
出演:山崎幹夫 神岡猟 寺本恵子 寺本和正 杉浦茂

2002/1/8/火 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
本作の前提である「極星」という作品を観ていないのがいけないのか……。いや、それにしても、この映画はずいぶんと強いられる映画だ。しかし監督の解説で、この時間の過ぎ行く感じが監督にとっては気持ちよいものだと語っているのだから、これは単に個人的見解に過ぎないのかもしれない。ただ、私はこの“強いられる”感じに、何かもっと別の、語るべき何かを感じてしまった。それを観ている間中、“強いられ”ながら、ずっと考えていた。

何故、そんなにも、強いられるのか。それは、この映画が個人の日常をただ何とはなしに映した、いわゆるホームビデオ同様の映像で徹頭徹尾出来上がっているからである。しかも、3人の。3人の映像はそれぞれ全く違う視点から映されているものの、そこには物語性などあるわけもなく、何かの展開を期待できるものでもない。“ヤマザキ”は迷子になってしまう夜の街や、呑みつぶれた友達たちを映し、“リョウ”は自分の部屋の同居人や、雑然とした二人の部屋や、窓から見える風景を映し、そして“カーコ”はただひたすら一人息子のカズ君の成長を追っている。劇中で“ヤマザキ”から8ミリフィルムを渡されて、このように自らカメラを回すリョウとカーコ、そしてヤマザキ自身というスタイルは、ドキュメントタッチで、いや、本当にドキュメントなんだろうと思う一方で、“他人には全く興味のない、見知らぬ誰かの日常”という点が強調されているようにも感じる。

それは、カーコのフィルムに最も時間を割かれていることで、より強く感じられるのだが……他人の子供の成長をこんな風に見せられることほど、およそつまらないものはないのだから……と、思った時に、自分の冷たい心のうちに気づいてドキッとする。個人に対する、興味の喪失。この“強いられる”映画は、それを試されているような気がしたのだ。そして私は、完全に負けてしまった。この個人の記録の、時間のたゆたう感覚を気持ちよいと感じる監督をうらやましいと思った。彼は人間に興味と愛情を同等に注いでいるのだ。そこに物語がなくても、そんなこと何も関係がないのだ。

“見知らぬ誰かの日常”というのは、しかし結構興味がわく題材だと思っていたんだけれど、それはあくまで、そうした“物語性”を求める、何も起こらない日常を愛さない、本来の人生の美しさを忘れてしまった人間の行き着く到達点だったのか。何も起こらない日常が美しいと、つい最近確かに感じたことがあった。それもまた映画で、「夏至」を観た時に。でもあの作品の日常を美しいと感じたのは、物語がある故の、対比においてだったのかもしれない。そうでなければそれを感じることができないのなら、やはり感じる力の衰微を痛感せざるを得ない。そしてここで試されていることも。

最初のうちこそ、この映画にも割と起伏があった。それは「極星」を下敷きにしているという点で、上映旅行で札幌に行ったり、かつての撮影場所を再訪して、撮影シーンとダブらせて回想してみたり。そして最初で最後、監督の父親が彼の作品を観た思い出が語られたり。過去と現在が交差し、多重放送のような趣で、ちょっとした不協和音のように行ったりきたりするのが面白かった。しかしやはりそれは単純な映画的手法であるのかもしれず、それを自覚したかのように、監督は途中でその手法をアッサリ放棄する。ただただ現実の日常を見つめることを、気持ちよいと感じる……現在の、肯定。では私は、現在を否定してしまう人間なのだろうか……。

“時間だけがじわじわ流れる。物語が始まる以前の静けさで全編を統一したかった。”という監督の言葉に、共感する気持ちは大いに持ちながらも、その“静けさ”に溶け込めない自分が、哀しかった。あるいは、80分もの長さがある、と知らず、短編だと思って観はじめ、その“じわじわ流れる時間”があまりにも終わらなかったせいなのかもしれないが……。タイトルは「猫夜」。猫の感じる時間感覚、って気分、なのかもしれない。★★☆☆☆


トップに戻る