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「き」


2002年鑑賞作品

記憶の音楽―Gb―
2001年 120分 日本 カラー
監督:川村ケンスケ 脚本:木田紀生
撮影:宝輪弘行 音楽:(テーマ音楽)森岡賢
出演:松岡充 黒澤優 寺泉憲 矢島健一 笠原紳司 中村元則 伊倉慎之介 宮田和弥 MariMari 森岡賢 本郷弦 永野哲志 中村朱實 東海林龍 山田伊久磨 森本訓央 上野裕馬 小松和重 岩井景 鈴木まひる 栗林慎吾 貝陣詩乃 千葉周二  金井史更 春山謙也 東郷晋也 増田佐枝子 辻聡子 清水景子 李栄華 青島舞友 近藤龍哉 杉森貞夫 横山芳弘 林浩子 大江千里 余貴美子 本郷功次郎


2002/6/27/木 劇場(シネ・リーブル池袋)
タイトルの不可思議さと、そして何より予告編がとても素晴らしくて、一発で観に来る気になった。音、音楽、聴覚、いわばそうしたものが主人公の映画。形而上学、哲学、そんなものを映像にしたら、映像に出来たら、映像で見られたら。……ということは、最も究極的な欲望なのかもしれないと漠然と思っていた。それは、音楽というものが、芸術上唯一その手につかまえることが出来ないという点で、最もはかなく、最も美しく、最も手の届かない特異なものだから。意欲的な作品。音楽を映像で奏でようと試みている。物語を語りだす中盤から、ちょっとツマラナクなってしまうウラミはあるけれど。またしてもミュージック・クリップ界からの参入。でもこれはとても納得。まさしくミュージック・クリップでつちかった感性が生かされた映画になった。こういうタイプの映画を観ると、映画ではなくて画だけが美しいただの映像作品だなあ、と思うことが折々あるのだけれど、本作は映画の新しい断片を切り開いた、美しい映画だと思った。

主人公のサイは耳が聞こえない。途中失聴者ではあるけれど、ごくごく小さな頃に聴覚を失ったので、音という記憶も彼にははっきりとはない。しかしある日彼は、夜の草原の中に置かれたピアノを狂ったように弾き続ける(というか叩きのめしているみたい)男と出逢い、そのピアノに触れ、何かが頭の中でスパークする。思いつくままにキーに触れる。そのメロディーに気づいてふと立ち止まる少女、ハツネ。将来を嘱望されている若きピアニストの彼女は、思うような音が出せないことに悩んでいた。どこか懐かしいそのメロディが心に引っ掛かって離れない。一方のサイは自分の弾いたメロディが引き金となって頭の中にフラッシュバックのようにさまざまな映像の衝撃が走り、気を失ってしまう。その彼を助けるハツネ。

“夜の草原の中に置かれたピアノ”!こういうものをアッサリ提示できてしまうあたりは、さすがミュージック・クリップ出身、という気がする。サイの頭の中に再三あらわれる、水(海?)の中に落ち込む映像も。そうした鮮烈な映像が、映像としての美しさだけではなく、映画としての美しさとしてちゃんと昇華されている。“夜の草原の中に置かれたピアノ”は、中の留め具が真珠のように鈍く光っていて、明るい照明のもとでは黒光りしているそのボディもつや消しのように闇の中に沈みこんでいて、そして鳴らされる音は、さえぎる壁の何もない、その一面の草原の中に無限に広がっていく。こんなにも美しい“生き物”であったかと思う。

サイには彼自身にも知らない秘密があって、彼の聴覚が失われたのは、教えられていたように小さな頃出した高熱のせいなどではなく、研究者であった両親によって、原始に近い音を生み出すため、故意に聴覚を奪われたためだった。そうした被験者の首筋にはGb、の文字が刻印されている。殺人事件が起こる。死んだ人間の首筋のGbの文字。脳から採取された細胞からは、音が溢れ出した。それは彼らが頭の中で聴いていた音なのか。それが人間の求める、原始の、理想の、音なのか。しかしそれを聴いたら、こんな凄惨なことを起こしてしまうような、精神状態になってしまうのか?

……という、どこか推理めいた物語を語るようになってくると、先述のようにちょっとつまらなくなってしまい、私などついつい居眠ってしまうような失礼を犯してしまったのだが。しかしそれを補ってあまりある、音と映像の幸せな関係。ハツネの通う音大で彼女のピアノの指導者であり、音楽学の教授でもある先生(大江千里)が、音が人の記憶に残す独自性について語る冒頭から惹きつけられる。明らかに他の何物とも違う、音の記憶のどこか孤独な永続性は、その存在が聴いた本人でしか、いやその本人ですら定かに出来ないという非常に形而上学的なはかなさを持つ。本作中、サイの見る夢について友人のハンタがフロイトの夢の哲学を持ち出して語る場面があるが、この映画で語ろうとしているのは、いわば音楽の哲学だ。フロイトというよりは、音楽の哲学者、サティ。サイの聴く音楽と、ハツネの語るナレーションがコラボレーションとなり、音の哲学を奏でていく。時間の中にしか存在しない音、音楽。それは過ぎ去った過去でしかないかもしれないし、これから始まる未来なのかもしれない……そうハツネは書きとめていく。彼女はサイと出逢い、そのメロディを耳にして、彼女の中の音を見つけ出していく。

サイの友人のハンタは路上でギターを弾いているが、そのハンタのギターとハツネのピアノというのは、“原始の音”を追い求めるという展開において、実に興味深い対照である。ギターというと、即コードがイメージされる。勿論単音も出せるけれども、すでに5本の弦がある時点で、それが組み合わさったコードが指揮していく音楽世界である。ピアノがギターより、より原始に近いと感じさせるのは、まず単音がそのイメージに浮かぶからである。……それこそサイがおぼつかなげに頭に浮かんだ音をキーに落としたように。そして“声”はピアノよりももっと単音のイメージ。やはり音楽の「基」は声なのだ。ピアノが人間のささやきや、時に叫びのように聞こえるのは、決して偶然ではない。

サイは声を発せない。手話も使わない。彼は相手の唇を読むことができ(騒音のひどい渋谷の雑踏の中で、しかも道路の両側にいて車にさえぎられながらもハンタの話を聞くことができる)、自分は筆談で相手に意志を伝える。サイの主治医や父親は、彼は音を聴くことができないのだからと、ハツネを遠ざけようとするが、サイには自分にも聴こえないなりに聴こえている音があるのではないかと思っており、そしてサイがあのメロディを弾いたのを聴いたハツネもそう感じている。……というのは、勿論聴覚者が持つおとぎ話めいた幻想に過ぎないのかもしれないが、音、と規定しなくても、聴覚のない人が感じている音のような感覚、というのはあるのではないかとは思っている。実際、本作の中に提示される、サイの“聴く”静謐の世界には、何もない、のではなく、何かが確かに流れている。始終騒音の途切れることのない渋谷の街が静寂に包まれるサイの感じている世界は、それだけで何かが存在すると感じさせる不思議な力がある。ハンタが「しん、としている音っていうか……」とそうした静寂の話をするまでもなく、静寂の音というのは確かにあるのだ。

北国にいたその昔は、そうした“静寂の音”に出会う機会は容易にあった。繁華街を徒歩20分も離れてしまえば、あっという間にあたりは寂しくなって、たちまち降りしきる雪の静寂の中に取り残されてしまう。しんしんと降る雪の音が聞こえてきそうな、いや感じられるような気がして、よく好んでそんな場所を夕暮れに歩いていた気がする。時折ウォークマンでピアノを聴いていたことも……そういう場所で聴いていると、音が本当にクリアに頭の中に響き渡るのだ。何物からも隔絶されて、世界中でたった一人になったような気がして、その孤独が心地よかった。夜の草原のピアノ、音のない音を聴くサイに、そんなことを思い出した。

いわゆる聾者であるサイが、手話ではなく筆談でコミュニケーションしているというのは、不当に健聴者よりの描写と思われるかもしれない。でも多分、ここでは言葉の存在、もっと言ってしまえば言霊というものを目に見える形で示す効果が、音楽を映像にする、という試みにおける絶妙な触媒として美しい映像の響きを放つ。文字にするまでに心の中を充分に通過していく言葉は、自然淘汰され、美しいセンテンスだけを抽出する。サイ、というのが何から来た名前なのか判らないけれども、sigh……ふともらされたため息のように、ささやかに、だけれども感情のこめられた、言葉。

サイには病院に入院している親友の小さな男の子がいる。彼もまた耳が聞こえない、というのはのちのちになって明らかになるのだが、サイとこの男の子が会話を交わす場面は、ブルーに満たされたがらんとした病室で、二人はブルーの小さなスケッチブックを使って、“会話”していく。彼らの抽出された書かれた美しい言葉は、発せられたとたんに空気の中に散逸してしまう声の言葉とは違い、そこここに貼られ、思いを積み重ねていく。先述したように、声が音楽の「基」であるならば、物質とは違った音楽が残す記憶の特殊性を考えると、発せられる声と書かれる言葉が同じ会話として表現されていることに、特別な感慨を抱く。ブルーの病室は、ハツネがサイに言った「それからずっと海の底なんだ」という言葉を思い起こさせる。サイが、耳は聞こえなくても、そのからだの中で感じる音を持っていることを知ったハツネは、彼を海に連れて行く。「海の音を見に行こう」と。そして巻貝を拾い、サイの耳に当てさせる。少々ベタではあるけれど、何といっても海は全ての源だから。

黒澤優はやはりサラブレッド。独特の暗さを持つ彼女は、今まではその方向ばかりを打ち出している感じだったのが、今回の彼女は、そうしたものを残しながら、思慮深く、感性鋭く、そしてやわらかな女の子らしさも発露する成長を見せた。デビュー時の硬さがこれだけのふところの深さを見せるまでになるその柔軟さに、最初から上手い子よりも期待が膨らむ逸材。発音がいかにも現代っ子なのが気になるところだが……。主人公の松岡充は……うーん、あまり興味なし。慎重に演じていたようには思うが。

ところで教授役の大江千里、いや千ちゃんは、まあ恥ずかしながら20年近く前、いわゆるレコード時代の最晩年期に熱中した、私の一番最初のアイドルとでも言うべきお人なのだが、しかしこの人も昔っからホントに印象の変わらない人。ミュージシャンにはピアノ型とギター型と大まかに分けられると思うんだけど、そしてピアノ型のメロディーとギター型のそれ、というのがあって(どう違うのかと言われると困るのだけど……やはりピアノで作った曲とギターで作った曲って、そう分けられる程に違うって気がする)、やはり私の好みとしては、ピアノ型のメロディーに心惹かれるのだ。千ちゃんはいかにもピアノ型の旋律を奏でるミュージシャンで、しかもいつまでも学生とか学校とか、そういう匂いがするというか、だからこの役どころはさもありなんという感じだった。しかし万年大学生みたいだった彼も、もう40を超え、教授役なんてやっちゃうんだもんねえ。

最後は昼の草原に置かれたピアノをハツネが奏でる。月の光から太陽の光のもとに現われ出たピアノは、神秘的な輝きから、海と並んでこれまた全ての源である太陽の光の中で、母性的な存在感を静かに放っている。それはサイからハツネに弾き手が移ったこと、そこにはサイの親友だったあの男の子がいること、そして彼女がずっとつかめずに悩んでいた自分の音、というのが、太陽や母性的や、そうしたここにある全ての要素の中に見出したように思われるラストは、最初にあった映像と音のコラボレーションの美しさに戻っていく。こうなると、やはり中盤、物語を語ることに急に腐心しだしたのがやはりもったいない気がしてしまう。音楽と映像の形而上学。これだけのストイックさが良かったな。しかし、イヤミのないインテリジェンスの美しさを堪能させてくれるという稀有な作品。こういう映画を、待っていたのだ。★★★☆☆


ギブリーズ エピソード2
2002年 25分 日本 カラー
監督:百瀬義行 脚本:百瀬義行
デジタル撮影:籔田順二 高橋わたる 田村淳 音楽:渡野辺マント
声の出演:西村雅彦 鈴木京香 古田新太 斉藤暁 篠原ともえ 今田耕司 小林薫 香月弥生 徳丸伸二 高橋耕次郎 清水明彦 村治学 沢田冬樹 渡辺裕樹 石原巧也 吉野奨基 豊坂茜紀 丸橋望 永井杏

2002/9/1/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
「猫の恩返し」のオマケ的な短編と思っていたら、実際かなりの力作でちょっと驚いてしまった。声優陣も本気モードを揃えてるし。ふむ。確かに「二本立て」とハッキリ断言しているだけ、あるんだよなあ。ちゃんと本作と「猫の恩返し」の間には幕と休憩も入る徹底ぶりだもんね。実際、アニメでも実写でも、こういう短編、中編作品はどんどん出てきていいと思う。ピクサーやアードマンアニメーションのように、充分勝算はあるんだもの。ひょっとしたら、その辺のことを考えての布石なのかもしれない。

激辛カレーで地球の果てまでぶっ飛ぶという痛快エピソードから始まる連作集は、それぞれが違った画のタッチで描かれているという芸の細かさ。第一、第二作は、アニメの技法としては非常に画期的なものに挑戦していた「ホーホケキョ となりの山田くん」のパステル画調をさらに完成されたものにしている(実際、「となりの山田くん」の原作者、いしいひさいち氏がキャラ設定に参加)。「となりの山田くん」は興行的には失敗してしまったけれど、そこで得たものをそんなことで潰すことなく、さらに将来につなげていることには感動的なものがあった。しかも、あのホノボノとした技法を、こんなアヴァンギャルドなエピソードに使ってしまうなんて!このホノボノ技法、第二作目の初恋のエピソードには確かにイメージピタリなんだけど、それを最初(メイン)に持ってこずに、この第一作目でドギモを抜かせてしまうというのが凄い。

しかも、第一作と第二作目の間にある、これはアヴァンギャルドどころではない、どこかドラッグ中毒的な妄想狂映像がまた凄い。第一作の出演キャラ三人が、どこか60年代〜70年代的クレイジーさの中で次々とスタイルを変えながら踊りまくる。ツナギだと思って見ているととんでもないパンチをくらわせる、堂々たる“超短編”である。

それに続く三作目。一、二作目のパステル調の色合いとまた違う、落書きタッチのドライな画調がまた個性的。ギブリーズな彼らの日常?、その帰り道のちょっとホッとするような感じをナナメに見つめた、たそがれの風景。鳥みたいなカッコして宙に浮きながら早めの帰宅の途につく(でも時々普通の足が出る)何だかフシギなスチャラカ社員が、雨上がりの路地を歩いていく。途中上司に会ってヒヤッとしたり、知り合いに会釈されたり、歩き慣れた商店街をふわりふわりと帰っていく彼。ヘタウマな画調ながら、消えては現われ、現われては消える描線アニメのレヴェルの高さはやはり驚異的。凄いことをちっとも凄くなさそうにやるのって、最高にカッコイイ。

ジブリ(ギブリ)の強さはこうした実験的な精神を育てているところかも。ビッグネームを得たからこそ、そこに安住するんじゃなくて、冒険する。安全なヒットではなく、新しい才能を注入する。うーん、素晴らしいねッ。★★★★☆


兄弟仁義 逆縁の盃
1968年 90分 日本 カラー
監督:鈴木則文 脚本:笠原和夫 梅林貴久生
撮影:吉田貞次 音楽:菊池俊輔
出演:北島三郎 大木実 若山富三郎 三益愛子 菅原文太

2002/4/26/金 劇場(新宿昭和館)
あ、ごめえん……これがシリーズもののひとつであるなんて、ぜっんぜん知らなかった。北島三郎主演という時点で驚いてちゃいけなかったんだわ……。というわけで、初見であるこの兄弟仁義シリーズ。北島三郎のヒット曲にあやかって作られた第一作がヒットしたためにシリーズ化したという、本作はその七作目。歌の上手い一匹狼の渡世人という役どころのサブちゃんは、そりゃあ、歌は上手かろう……ちゃーんと劇中、その自慢のノドを披露する場面もあり。故郷の追分をろうろうと披露し、そのことがまぶたの母を発見することにも至るわけ。彼の歌にフンフンと感心する、北島サブちゃんよりも若山富三郎よりも菅原文太兄ぃよりも存在感のある、巨体で呑んべえの、こ汚い科学者がもんのすごい印象強烈なんだけど、彼は誰?確かに何度も観た覚えのあるお人ではあるんだけど……。

おっかさんを探しに流れ流れてきた渡世人の松男(北島三郎)は、その旅の船上、売られたけんかを買いそうになる場面で、その場を収めてくれた寅次郎(若山富三郎。しかし寅次郎とはね!)と出会う。この場面で、そのけんかの原因である“学生”ってのがまたスゴい強烈で、ひげもじゃの巨体で、こ、これで学生か、って……確かに学帽かぶって学生の風体しているんだけど、どうみても、お前の方がヤクザだろ!って感じなの。こいつってば、船に乗り合わせたちょっとカワユイ女の子に、お酌しろ、って迫りまくって、挙句の果てには彼女を横抱きに抱えてビールを彼女の口にムリヤリ流し込むっていう……その場面、ホントに手抜きナシで、ビール瓶をくわえさせられ、流し込まれるビールにガボガボになってるセーラー服の女の子って図がスゴくて、これはフェティシズムのマニア受けしそうな場面!?いやー、びっくりしたわ。

その学生相手にドスを抜こうとする我らがサブちゃんは、もう見るからにまだまだ青二才で、確かに顔はそのまんまなんだけど、若いというのは、かくも可愛らしいもんなのか!と、もうビックリ。きゃしゃで背も低いし、その真っ黒で澄んだ瞳がまあキラキラ輝いちゃって、うっそお、と思うくらいかわいいの。実際、ビックリした。で、そのサブちゃん、もとい松男を助ける若山富三郎は、当然こちらはもはやカンロクで、この松男がホレこむのも間違いナシの男気の持ち主。松男が対等に口をきき、しまいにゃ彼をいさめるのが、違和感というよりは、それを黙って聞いている小寅(寅次郎の呼び名)=若山富三郎という図で、何か若いもんの言うことも筋が通っとるわい、みたいな、一種のほほえましさを感じるんだよねえ。

舞台は、工場の廃液を垂れ流し続けていることで、その利権をむさぼろうとしている岩井組と、その土地に根付き、漁生活で生計を営んでいる人たちを守ろうとする巽組との対立が激化している四日市市。その廃液によって、貝も海苔もすっかりダメになり、この工場から何とか保証金と、そして浄化装置を取り付けてもらうことを交渉しようとする巽組だが、岩井組長の義兄弟である小寅を使って巽組組長が殺されてしまう。小寅はただただ兄貴分に対する忠誠心からやっただけで、そんな事情になっているとは知らなかったわけで……。この殺されてしまう巽組組長の大木実が非常に男っぷりがよく、つまりは彼は、住人から恐れられるヤクザな渡世人であることから脱却したいと願い、この役目を買って出ていたわけで、そんな彼の思いをムダにしたくない、と復讐に切り込もうとする組員たちを収める未亡人となった彼の妻が、実に凛と美しいのだ。二代目となるのは菅原文太であり、彼はまだまだ若くて敵の挑発に乗りそうになるんだけど、この未亡人の説得で、亡き組長の遺志をつごう、と頑張る。これまたすっごい若い、「仁義なき戦い」の若さよりも、さらに青年の純粋な青臭さを感じるほどに若い菅原文太が清冽な印象。

巽組から依頼を受けて、海水の水質調査をしているのが、先述の巨体で呑んべえでこ汚い(失礼)科学者。フラスコの中に入っているのは焼酎だったり、アルコールランプでスルメをあぶってたりするのがかなりツボで、この焼酎を口にしたサブちゃんがブー!とふき出すのはお約束なんだけど、可笑しい。サブちゃんってば、この場面でもそうだけど、リアクションの仕方が実に素直というかなんというか、例えば小寅から、巽組組長の殺しはオレだと聞かされ時の、かぱっと口を開けた横顔で「えー!?」とすっとんきょうなトーンの明るい声を出すあたりなんか、そのシリアスさとのギャップに思わず吹き出しちゃうし、なんかもう、思いっきりキャラそのままというか……御大となった今でも北島三郎ってそのあたりのまっすぐさって変わらない気がするんだけど、ほんと、そのままなんだよなあ。

ところで北島サブちゃんといえば、北国とかおっかさんとか、歌からくるイメージがそのキャラ形成にも影響を与えているわけで、ここでも函館の追分を歌うし、小さい頃、よんどころない事情で捨てられたおっかさんへの思慕がテーマになっている。しかしやっと見つけたおっかさんはなんと、ワルモノである岩井組組長(ここはやはりの、金子信雄)の後妻であり、彼女は松男を確かに自分の息子だと確信するものの、その立場ゆえに、彼を拒絶するしかない。そんな母親の思いからくるつれない態度を、若さゆえに理解できない松男は、母親のために貯めた貯金通帳を叩きつけて、その場を出て行く。その通帳は母親のかつての源氏名の名義で、彼女は思わず涙を流す……。

小寅は正義と兄弟仁義の狭間となって苦しみ、岩井組組長に工場利権の一件から手を引くように進言するが聞き入れられず、結局岩井組の手によって殺されてしまう。古いタイプの渡世人である小寅が重んじた仁義は、現代的資本主義の悪弊に汚された岩井によっていとも簡単に踏みにじられてしまう。……何という、やりきれなさ!小寅にホレ込み、巽組に対してウソを言ってまでかばった松男は激怒、巽組二代目とともに岩井組に乗り込み、組長と対決する。しかし!松男と岩井との間に立ちふさがり、岩井の銃弾を撃ち込まれたのは、松男のおっかさん。すかさず岩井にとどめをさし、虫の息の母親を抱きかかえる松男に、彼女、確かに彼が自分の息子であること、それを言えなかったことを告白し、息絶える。そんな二人を哀しく見つめている巽組二代目、菅原文太のショットも印象的で、死ぬな、死ぬな!と絶叫し、号泣する松男、という画で完、の文字が出るとは、何という哀しさ、やりきれなさ!

このシリーズはもっと観てみたかったなあ……本当に、昭和館閉館は実に残念。★★★★☆


虚港
1996年 80分 日本 カラー(一部モノクロ)
監督:山崎幹夫 脚本:山崎幹夫
撮影:山崎幹夫 音楽:山崎幹夫
出演:山崎幹夫 伊東香穂里

2002/1/15/火 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
お、面白い……。とんでもなく面白くて、うろたえた。かの山形ドキュメンタリー映画祭で特別賞を受賞したという本作は、しかし果たして本当にドキュメンタリーなのか?などという問いかけこそがヤボだということを、この映画によって証明したということも言えるし、この作品をドキュメンタリー映画祭が受賞させたことも(何たって、特別賞、ってところがミソね)同じことが言えるのだろうと思う。

とはいうものの、本作は一応ドキュメンタリーであること、の体裁にこだわろうとしている。というより、こだわろうとしていることをわざとらしく装っている。このわざとらしく、という部分が、わざとらしくだ、と観客にはっきりと判るように示している。ほとんどコメディがごときに。物語の冒頭、監督はいきなり、貯金と親の遺産を受け継いだという全財産をおろしてきたと、ヨレた紙袋から次々と札束を出して見せる。900万円。撮影用のダミーじゃない、と、わざわざ札束全部をパラパラとめくって見せて、本物のお金であることを観客に提示する。それを披露しているのが、雑然とモノの置かれた、コタツのある部屋で、そこで無造作に900万というのが何だか絶妙にナマナマしくて、思わず笑ってしまう。思わず……いや、もはやここから本当に確信犯的なのだ。ここはハッキリと笑いの場面。監督はこの900万で何をしようか、と考える。16ミリの映画を一本作れるぐらいの金だが、それでは平凡すぎる、と。テロでもしようか。テロは面白いけれども、エロの方がもっと面白い、と、シャレなんだか何なんだか、それで本当にエロに行ってしまうのである(!)。

場所はテレクラ。目的は援助交際。そうだ、そんなことが出始めた年だ。監督は出会った女子高生たちにサングラスをかけさせ、服を脱がせ、コトを8ミリに収めてゆく。今の女子高生なら確かにそんなことも躊躇せずにやりそうで、“ドキュメンタリー風”の境がますますもって判らなくなる。監督はその中で結構ナマナマしいこともやったりするので、劇場の後ろで自ら8ミリを映写している監督のことを考えると、ドギマギしたりもしてしまう。そんな中、監督は“ミニー”と出会う。彼が学童クラブの指導員をしていた頃に在籍していたという女性に、その頃のあだ名“ミッキー”で突然呼ばれたのだ。彼は身の上、名前をすら言いたがらないその彼女を“ミニー”として映画を作ろうと決意する。世界一有名なカップル、ミッキーマウスとミニーマウス。ディズニーランドを追放されたミッキーマウスを追ってミニーもまたディズニーランドを出てくる……“ドキュメンタリー風”の中に入ってきた非・ドキュメンタリー。しかしその物語を作り上げる過程を描写する、という点で、今だ“ドキュメンタリー風”を保っている。

女はミニーに入り込む。必要以上に入り込む。自らをミニーだと言ってはばからず、監督が考えていた“ミッキーとミニーによる幸福な恋愛と冒険の物語”は、彼女によって、ぬくぬくと暮らす生活をあえて捨てたことにより、人生の意味を見つめ直し、新しい世界を切り拓いていくミニーマウス、といった風に変わっていってしまう。彼女がミニーに入り込むこと、それによって生まれる新たな物語、に監督は興味を覚えるものの、個人的興味を持つ彼女がミニーでしかあり続けないことにいらだちを感じる……いや、このじらされる感覚にすら興奮を覚える。撮影を離れて、援助交際の相手としてホテルに入った彼女がいまだにミニーのまま、涙をためて“ミッキー”である彼を非難することに性的欲望を感じたりして……。しかしそれはミニーが見ている、自分ではない、“本物のミッキーマウス”に対する嫉妬?彼女が泣き出すことで彼は8ミリをおろすのだが、ちゃっかり別の隠しビデオカメラをセットして彼女との情事を撮っている。あくまでこれはドキュメンタリー、という姿勢を崩さずにいるが、あまりにも崩さないのが逆説的な確信犯、と当然感じさせる。彼女に見られる“女優演技”が、ミニーに入り込んでいるためなのか、あるいはフィクションとして突き放しているからなのか、悩み始めた途端に、こんな風にさらにかき回してくる。

彼は彼女の連絡先すら聞き出せない。尾行しても彼女は気づいているんだかいないんだか、とにかくいつも見失ってしまう。そんなある日、ついに二人は衝突する。女は強し、で彼は彼女に8ミリも車も取られてしまう。別の8ミリもあるし、彼女だけが被写体ではないはず、なのに、彼はあっという間に自堕落な生活に逆戻りしてしまう。彼女からの連絡を待つだけの日々、ひたすらファミコンばかりやっている日々……を別の8ミリがある、とは確かに言ったものの、こんな風に外側から見つめている描写には、またしても非・ドキュメンタリーな感覚が及んでくる。最終的にはこの物語はドキュメンタリー風とかドキュメンタリーを模した、というより、“ドキュメンタリー映画を作る映画”とでもいうようなスタンスを感じるので、ドキュメンタリー対フィクション、というよりは、ドキュメンタリー対非・ドキュメンタリーといった感じなのだ。あ、今唐突に、それとそっくりなものを思い出した。設定や登場人物は確かに自分自身だし、実際にあったことや感じたこともふんだんに盛り込んでいるけれど、でも決してそれが自伝とか真実とかではない、いまだに読者をそうして騙して、自身にホレさせている太宰治の作品群。あれにとてもよく似ている。その作品の中で自分自身を虚構的に演じているところとか……似ている!

やっと、2カ月ぶりに彼女からの連絡。その間に待ちきれなくなっていた監督は、彼女が交通事故で死んだ、なんていう、それこそ“フィクション”を撮ったりもしている。彼女は彼から奪った8ミリで撮った映像を携えてやってくる。彼の部屋に遊びに来ていたカズ(「猫夜」で成長を撮り続けられていた、あの子だ!ううう、中学生になってる!)とファミコンで遊び、また帰ってゆく。彼女が撮ったフィルムを現像する監督。そこには彼女がどこに住んでいるかの手がかりがかすかに残されていた。地番の標識。“6の6”の文字。彼は東京中の6の6番地、百何十ヶ所もあるそれを、彼女と出あった池袋の周辺からひとつひとつ、しらみつぶしに探し始める!ナントカ町6の6、ナントカ町6の6……そしてついにフィルムに映された路地を発見したのは、10何か所かの後だったか……この描写だけでもかなりの口アングリだが、そこを探し当てたところに彼女が腕を組んで怒ったように立っているというのも……「ウソだ、これはフィクションだ」という監督のナレーション。また、騙された!

このナレーションは後半になってことあるごとに入ってくる。彼女が何者であるかをいろんな仕事場に彼女を立たせて撮らせ、「ウソだ、フィクションだ」と斬って捨てる。最初こそなかなかリアリティがあったのが、その職種や、そこでもっともらしく働く彼女の様子もだんだんと“演技”の様相を呈してくる。カットとカットの間に挟まれる、赤いフィルムは、これぞまさしく“真っ赤なウソ”?果てに披露されるのは何とインド風ミュージカル!?それもかなりしんねりと!後半になって出てくる、アヤしげな解説者ともども、“ウソフィクション”の色合いはどんどんどんどん濃くなってくる。この解説者!彼女の言う、3/8(!)ロシア人、というナゾを解明するあたりの、ヘンにニコニコとした解説っぷりは、「援助交際撲滅運動」のエンケンと双璧?しかし、この3/8ロシア人、……この解説に思わずナルホドとひざを打ってしまうだなんて一体……。

ねえ、まだ終わらないの、と問い掛ける彼女に、あともうひとつ、君の役目がある。それがこのインドミュージカルだ!ここからなぜかモノクローム。一曲フルコーラス、何とご丁寧にラクダもしっかりご出演(鳥取砂丘だったりして?)、妙にロケハンがきっちりした、東映のロゴもかくやというような断崖絶壁で歌い踊り、廃屋で歌い踊り、解説者の運転するハデなシクロ?に乗って歌い……そしてチャップリンのように長い長い道の果てに彼女が消えて行くと今度は手前に現れるのはミッキーとミニーのぬいぐるみ。モノクロームのままで。何故だかそれはヘンにノスタルジックをかきたてる。監督と彼女の裏声が当てられたぬいぐるみアニメーション。もう戻れないディズニーランド、二人は新しい世界を進んで行くことを再確認する。

絶対のアメリカが壊れる象徴や、最初の構想にあったのがテロだったことや、インド=アジアの台頭が、しかしモノクロームという、世界ではまだまだ後進的に見られているそこはかとない暗示や……大きな目線で見た時に感じる、これらのとんがった、そして見事に数年後の今をもドンピシャにシュートするテーマはもちろん、様々な、もとい全ての映画的手法を投入した細部までもがやたらと面白い。メチャクチャ面白い。上映終了後、観客から自然に拍手が起きる体験だなんてずいぶんと久しぶりである。★★★★★


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