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「よ」


2002年鑑賞作品

欲情する制服 (ねらわれた学園 制服を襲う)
1986年 59分 日本 カラー
監督:渡辺元嗣 脚本:平柳益実
撮影:倉本和人 音楽:芥川たかし
出演:橋口杏子 田口あゆみ 清川鮎 螢雪次朗 風見怜香 ジミー土田 渡辺正樹 池島ゆたか 藤冴子


2002/11/17/日 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/PINK FILM CHRONICLE 1962〜2002/AN)
紹介タイトルは「ねらわれた学園 制服を襲う」になっているのだけれど、フィルムに載せられているのは改題されたこのタイトルなのでこちらを採用。改題された理由はひょっとして、「ねらわれた学園」ではなく、「スケバン刑事」のパロディだから、ということなのかな?この日トークショーで登場した渡辺監督は、ピンク映画は女優アイドル映画と今も昔も思っているから、と語っており、本作は実にそれにのっとった作りと言えるわけだ。少女アイドルのテレビドラマをまんまパクッちゃった、いやもとい、パロッちゃったわけだから。

「スケバン刑事」の中でも南野陽子版を採用しているらしく、というのは最後に流れる主題歌が彼女のものだということで判るのだけれど(しかしこれもまた、無断借用なんだろうなあ……でもここまで頂戴したらバレバレだけど、ご本人は知っているのかなあ)、それだけではなく、劇中に採用されている効果音なども同じらしい。というのは、私の真後ろに座っていた男性がいちいち「音楽も同じなんだ」とかつぶやくんだもん。ヒロインがワザを決めるところとかで異様にウケてるし。果ては最後の主題歌一緒に歌っちゃうし……まあ確かに映画は自由に楽しむべきものではあるけど、ちょ、ちょっとヤメてくれよ、と思っちゃったよ。全然集中できないし、笑えないんだもん。困っちゃったよー。しかもそのお兄さん、その他の映画の時は全然シーンとしてて、眠ってるらしい雰囲気でさあ。もしかして「スケバン刑事」マニアで、それだけを目当てにきたわけじゃ、ないよねえ?

ま、とにかく。当時のスタンダードな冬服のセーラー服に身を包み、ちゃんとケン玉を武器に持って現われる麻宮未来である。サキではない。しかしそのケン玉は、中に大人のオモチャよろしくゴム製?のペニスが仕込んであり、敵(女に限る)に投げると、その穴(……)に命中して相手は快感にもだえるという、ナンダソリャな脱力凶器。ま、全編こんな感じで、彼女自身の武器は実はケン玉ではなく、“お父様”に強制的につけられた「三段締め養成ギブス」!何をって、つまりアレっすよ。もー、つまり、彼女は武器になるほどの名器ってわけ!(あー、恥ずかしい)それを証明する冒頭、やっと14歳になったばかりの彼女が、担任の先生とコトに及ぶのだけど(お前らなー……いいのか?)その名器で先生のアレをくわえ込んだままグキッとやってしまって、再起不能にしちまうんである。お父様大激怒。「お前、このギブスを外して男とヤッたな!」そのギブスときたら、真っ赤な金属の地に大仰なコイルがびよ〜んと二つもあり、ウルトラマンみたいな留め具がいっぱいついているという実にチープでキッチュな代物。こ、これは、真っ裸よりもかなり恥ずかしい姿……。そんでお父様、「そんなことをしているヒマがあったら、玉割り、バナナ斬りの練習をするんだ!」ううッ、こないだ読んだ団鬼六センセーの「紅薔薇夫人」の世界だわ。玉割り、バナナ斬り……ひえー。

なんでまたお父様は娘にそんなことをさせるのかというと、かつて性器の大きさで負けて寝取られた妻(彼の大きさが小指で示されてしまうという侮辱を受けるのだ(笑))とその寝取った男に親子で復讐するためなのである。彼らは私立女子高の経営陣。しかしその女子高は、上玉を特待生と称して寮に監禁し、さまざまなセックスに耐えうる身体にする修行を積ませ(……何か、本当に「紅薔薇夫人」ね)政治家のエラいさん方に売り飛ばして、政界に基盤を作ろうってんである。経営者夫妻の娘もそれに加担しており、メガネをかけていかにもマジメそうな少女なのだが、それもまた仮の姿。学園のそのいまわしい秘密を知って乗り込む未来にキバを向ける時は、突然黒いチェーンを巻きつけたセクシードレス姿に変身し(いつ着替えたんだよ……一瞬だったぞ)、ケバいメイクまでバッチリ(いつメイクしてんだよ……以下同文)。しかし彼女もゴムペニス仕込みのケン玉にやられて、しかもスパッツの上からやられているのに器用に服を全部脱いじゃって、全裸になってもだえまくる。一体どーゆー仕組みだよ、っつーの。

この麻宮未来に彼女の転校初日から目をつけている少女がいる。彼女の武器は赤いボールペン。びゅーんと飛んでくる(らしい)ボールペンの静止画が微笑ましくって、笑える。これはやはりビー玉のお京の役回り?この学校で番をはるのは自分だけの特権なんだ、とデキる転校生、未来に対決を仕掛けるのだが、例のケン玉に股間をやられ、しかし彼女の投げたボールペンも未来に刺さって仲良く?相討ち。真冬の撮影にセーラー服だから寒くて大変だった、とこの日来場していた主演の橋本杏子さんは語っていたが、確かに寒そうな冬枯れた中を、生足バンバン見せて、枯れ草の中をゴロゴロ転がりまくるセーラー服の二人の少女、という図はふむ、なかなかフェチ心をくすぐるかも?

このボールペン少女(ごめん、役名忘れた)が、自分の武器(赤いボールペンのみならず、筆記具全般?)を文房具店で万引きし、それを見つかって強引にエンコウさせられたオヤジが(しかし彼女、結構嬉しそうだったが……)その娼婦学校の教師であることを知る。あやうく自分もコールガール(というのは、彼女の言葉。うーん、さすがに使う言葉が違う?)にさせられそうになったところを助けられた未来に恩義を感じ、道行きに同行するわけだ。という場面は、真っ赤な番傘を差しかけて(晴れだっつーの)「お供させていただきます」だなんて、まるっきり「昭和残侠伝」だわ。

自分の母親を父親から寝取った男、つまりは学園長の部屋に乗り込む未来。その男は動かない小鳥(ツクリモノだッ!しかも時々色が変わってる。細かい……)を肩に乗せたキザい奴。こいつを押し倒し、その口ワザで勃たせ、そして三段締めの名器登場!この時点で未来は既に全裸で気合100%!?学園長が「凄い、凄い!」と感じまくっちゃって、カラフルなソックス(細かく笑わすなー)をはいた靴を不自然な方向にヒクヒクさせたところで、未来、見はからって悩ましく振っていた腰を突然グキリと回転!見事、学園長はアワを吹き、不能になっちまいましたとさ……可哀想に。

うーん、何か凄いものを観てしまったけど、こーゆー映画を観ている、という経験だけでも、自分の糧になる?ど、どうかなー。★★★☆☆


夜にチャチャチャ
1999年 14分 日本 カラー
監督:山崎幹夫 脚本:
撮影: 音楽:
出演:

2002/1/18/金 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
映画が映像と音で成り立っていること、しかしどうしても映像が主で音が従であることを打破することを狙った映画だという。8ミリでは唯一レンズを外すことのできるカメラを使って、途中、監督の手が近づいてレンズを外す。画面は像を結ばなくなり、光と色だけが対象物を認識している。そこにかぶさる言葉の印象が強くなる。

その像を結ばない映像に、何故だかエネルギーを感じる、という監督。確かにそうかもしれない。モノが形作られる前の、原始のエネルギー。フクザツなつくりの人間よりも、単純なつくりの昔から存在する動物や植物の方がずっと生命力が強いように。監督は生きることの様々をすら考える。猫はいいなあ、生きるも死ぬも簡単で。そうですにゃん、などという。なんだか可愛らしくて微笑んでしまう。

街をさまようカメラは、聞き覚えのある台詞と音楽を刻んでゆく。「夜霧よ今夜もありがとう」と「紅の流れ星」。前者は未見なので(おっと、私ったら、基本を抑えてないわな)後者で、あ、これって浅丘ルリ子と渡哲也の!と思い当たってドキドキ。彼女が彼を裏切るラストシーンの、けだるげでクールな大人の会話がたまらない。光と色だったカメラはいつのまにか、夜の風景をとらえはじめている。真夜中の街中、濡れたように点灯する様々な電光。「死ぬほど好きよ。だから、一緒に住むなんてたまらないの」という浅丘ルリ子のセリフにしびれながら、夜の街は過ぎ行く。

いつのまにか、その世界からも脱している。監督のつぶやきが繰り返される。いいなあ、猫は、生きるも死ぬも簡単で……そうですにゃん、にゃん……。最初に感じた可愛らしさとともに、何だかうずくような切ない哀しさの色合いが加わった。★★★☆☆


夜を賭けて
2002年 133分 日本 カラー
監督:金守珍 脚本:丸山昇一
撮影:崔汀友 音楽:朴保
出演:山本太郎 ユー・ヒョンギョン 山田純大 風吹ジュン 樹木希林 李麗仙 清川虹子 奥田瑛二 六平直政 大久保鷹 不破万作 山村美智 金ウンス 油井昌由樹 唐十郎 ERINN 田村泰二郎 渡会久美子 小松啓二 申相祐 ウ・チョンハン 石野慎一郎 近竜弐吉 近藤一平 近藤結宥花 宮本大誠 平岡延安 梶原ともみ 鳥山昌克 三浦伸子 青木雅大 ムンス 島野雅夫 原昇 平井健一 本城丸裕 大貫誉 大和なでしこ 堀田誠 三松明人 広嶋耕一郎 細田憲司 勝矢秀人 サイ・ホージン 堰守 広島桂 金太一 徐辰源 村尾英文 謝花喜天 張吉秀 福田浩久 右田隆 小檜山洋一 李秀子 吉本慎二 太田清伸 山崎崇史 桜井章 松田浩一 岩村和子 沖中咲子 松岡哲永 尹秀民 水上竜士 澤出和弘

2002/12/11/水 劇場(新宿武蔵野館)
ひとこと、もうメチャクチャ面白い。こういうエネルギッシュな映画を観るのは本当に久しぶりで、それは往年の東映アクション映画のごとき。監督は「くさくてもいい。思いっきりの演技」を役者に求めたというだけあり、その言動からは現代の日本映画の繊細さ(そこがいいんだけどね)に対する歯がゆさがあるらしく、とにかく、アタマからシッポまであいまいな演技が見られないのだ。

しかし、アクション映画、などとノンキに構えていられる映画でもない。その題材は戦後直後における在日コリアンたちの差別に揺れる激動の日々を活写しており、戦争の傷跡である鉄くずで命をつないでいるというのも皮肉である。しかし、警察の目を盗んでひたすら鉄くずをあさる彼らのパワーときたら、もう本当にワクワクしてしまう面白さで、ことにあの場面、希少価値のあるすずを手に入れた!と、小さな木舟にこりゃムリだろってぐらい何個も積み上げ、到着寸前に船が傾いて全部川底におっこっちゃうんだけど、それでもあきらめず、主人公の義夫は濁った川に何度も潜って見事すべてを奪還。しかし、買取人に「これはすずやない。ちんや」「ちん?」そしてみんなが彼らの周りをぐるりととりかこみ「ちん?」とすっとぼけて唱和する可笑しさときたら、ないのだ!こういうリズムの面白さは、さすが監督、舞台人だなという気がするし、あるいはそれだけではなく、観客を飽きさせない基本を知っている、という感じなのだ。

コリアン同士が集まっても彼らが話すのは関西弁で、しかしその中でただ一人、頑なに朝鮮語を話す青年が「国に帰って、金日成大学に入り、祖国統一に身を捧げる」と断固たる表情で言い放つ。……多分、現代にまで続く、コリアン、在日コリアンの揺れる部分を象徴している厳しさ。そんな息子に対して「家族がこれ以上、離れ離れになるのは許さん!」と、その手に抱きとめる父親の描写にハッとする。数ヶ月前、唐突に日本を揺るがした北朝鮮による拉致被害者のことを、思い出さずにはいられないではないか。在日となって祖国からも日本からも疎外され続けたコリアンたちにダブって見える。あるいは、韓国でもたくさんの人たちが北朝鮮に拉致されているというし……。

確かにここではコリアンたちの過酷な現実を描いてはいるものの、そこに見えているのは、きちんと個人個人の顔なのだ。あるいは、この頑なな青年は国家を象徴していて、彼には個人としての顔が見えない。それを父親は必死に押しとどめようとしている図、という風にも見える。国家というのは、結局は顔の見えない、意味のない、くだらないことだと、そこまで腹をくくれたらと、思うのだけど……。それに実際、日本国家の象徴として現れ、彼らを弾圧する警察権力(国家と権力はこの場合、同意義だ。同じように、くだらない。)もまた、個人としての顔が見えない。主人公の義夫を理不尽に暴力尋問する刑事も、個人としての彼ではなく、日本国家として警察権力として植えつけられた、くだらない思想にすぎないのだ。しかし、そう、こんな風に、顔の見えない国家や権力が、個人そのものとして起動し始めた時……そしてそれが全体を覆っていく時、戦争時、どんなにそれが理不尽だと思っても、その全体の中でいくら声をあげても届かなかったように、個人は簡単に埋没してしまう。自分自身が失われてしまうと危惧しているうちはまだいい。それが自分自身だと、この刑事のように思い込んでしまったら、もうおしまいだ。国家や権力は、くだらない。だから、日本だから韓国だから、北朝鮮だから、在日だから、なんて、無意味なことのはずなのだ。

その中で、コリアンたちは個人としての自分たちであがき続ける。「日本人の中にも根性のキレイな奴はいる。10万人に一人ぐらいやけどな」と義夫は言い、10万人に、一人かあ……と日本人のこちらとしては暗澹たる気持ちになるのは否めないんだけど、それは国家や権力に抗えるだけの自分自身の強さを持てる人が、10万人に一人ぐらいだ、と言っている気もして、あらためてその“くだらない”強大な力の恐ろしさに戦慄するのだ。刑事の私刑から義夫を救い出し、警察によるコリアンタウンの一斉手入れに彼らの助けとして現われる“10万人に一人”の男(奥田瑛二)は(観ている時は判らなかったんだけど)刑事の一人。この権力のまさしく真っ只中で抗えるからこそ、ホンモノなのだ。

この関西弁の雰囲気、有無を言わさぬエネルギーとコミカルさを持った響きを、日本語を解さない国などではどれだけ判ってもらえるのか、とは思うのだけど、それにしても、本当にこの関西弁がなければ、この話は成立しないのだ。恐らく日本の方言の中で最も攻撃的で最もポジティブ。今はそうでもないけど、割と最近まで、こと方言というと色々とネガなイメージの方が強かった中で、関西弁だけはその昔から、やりすぎなぐらいアイデンティティを主張する、憎たらしいほどポジティブな“言語”だったのだ。在日コリアンの人たちの多くが関西圏に住み、違和感なく関西弁を喋り、そして多分実際もそうだったんだろう、こうしてコリアン同士が集まっても朝鮮語ではなく関西弁を喋る、というのは、関西弁自体の持つ、そうした自我の強さ、攻撃性と無関係とは言えないだろう、と思う。

しかしこの在日の存在……韓国ではあまり知られていないのだという。なるほど、「祖国にも見捨てられ、日本では差別され……」とごちる在日コリアンたちのもどかしい思いも、当然なのだ。この映画が韓国でも公開されることで、少しでもそのことが打破できるといいのだけれど……でもそれこそこの日本でだって、在日の人たちの存在はまるで腫れものに触るような扱いで、普通に(ではまだまだないんだろうけど)語られだしたのはごく最近の話なのだ。その中で、個人として声をあげ続けた才人たちが、お互い手を取り合い、こうした形に結びつくことを、そう、主人公を演じていた山本太郎も言っていたけれど、そうしたエネルギーが生み出されることを、ぼんやりと過ごしている日本人である私たちは、何だかうらやましいと思ってしまうのだ。

それにしても山本太郎!彼の素晴らしさは本当、何としたことか!今の役者ではとんと見られなくなってしまったカリスマ性、スター性が彼には備わっている。あの唇の端を片方だけ上げて作る笑顔のカッコ良さときたら!この義夫役、自分以外にはいない、自分そのものだと感じて役を獲りにいっただけのことはある、まるで彼にアテ書きされたかのごとくのはまりよう。正義感あふれる熱血漢、ケンカに使う筋肉を鍛えているようなリアルなガタイの良さであったかいハートをぎこちなく隠しているようなナイスガイ(ちょっと死語だけど、まさしくそんな感じなのだ)。女とバコバコやりまくっているチンピラの健一や、この年でチョンガーだということを嘆いている精力絶倫タイプの金村(六平さん、似合いすぎ)などの男たちの中で、奇跡的なぐらい純真な男。男たちがみな夢中になる初子とお互い初対面で惹かれあっているのに、その気持ちを確かめ合うのは、最後の最後の最後、もうもしかしたら会えなくなるかもしれない、とせっぱつまった時に、それも初子の方から意を決して彼に抱いてほしい、と現われるんである。こういう時、やっぱり何もかもかなぐり捨てられるのは女の方なのかな。外では警察との攻防が激しく行われ、火が放たれている中で、初めて二人が身体を重ねるんだと思うと、何かひどく切ない気分に襲われてしまうのだ。セックスって、ただでさえ切ない行為なのに。そして、彼女を置いて「どうしても行かなきゃならんのや」と無謀にも外に飛び出していこうとする義夫に初子は朝鮮語で「愛している」と言う。お互いうるんだ目を合わせて、義夫はバタン!と初子を隠す板を閉じ「わしもじゃー!」……もう、泣いちゃう!

この山本太郎を食いそうな勢いで素晴らしくカッチョイイのが、肉親殺しの女たらし、健一役の山田純大なのである。義夫役を切望していた山本太郎も、それがムリなら一万歩譲って健一役でもいい、というぐらい、確かに役そのものがかなりのもうけ役で印象が強いのだけれど、それにしても山田純大、彼のことは知っていたけれど、こんな凄い目つきの、こんな存在感のある、こんな、いい役者だったっけ?というオドロキで、彼が登場してからは、山本太郎もそっちのけで(笑)彼にばかり目が行ってしまうのだ……自分の母親を羽交い絞めにして××××をぐっとつかみ「ここでオヤジとオメコやったんやろ。ここで兄貴を産んだんやろ」……彼は父親と兄を殺しており、それはまあいろいろと問題があったかららしいのだが、この台詞で、彼の母親に対するむきだしの愛憎があからさまに判ってしまう。愛憎、いや、違うな。彼はホント、この母親をそれこそ憎むほどに、愛しているんだ。だから彼女だけは殺せないのだ。女を連れ込み、母親の目の前でヤリまくるのも、母親とはヤレないからに違いないのだ。代償行為なのだ。……切ない甘ったれ。

義夫の盟友で何かというと彼にくっついてまわっている青年がいて、これが仁科貴なんだけど、彼はやっぱり得がたい役者。本当に父親ソックリの風貌で、そのヒューマニズムあふれる表情と演技の上手さは素晴らしく、ま、言ってしまえばこの中ではコメディリリーフに違いなく、例えば激昂した義夫をなだめるために、いきなり頓狂な歌と踊りを披露しだす、なんて、ほんと、観てるこっちがニッコニコになってしまうほどなんだけど、それがまた、独特の哀愁があって実にイイんだよね。キン×マにヒドい怪我して、世にも情けない顔で悲鳴を上げながら友人に治療してもらっている場面なんか、最高。彼をハズしては語れない作品のはずなのに、オフィシャルサイトでは徹底的に除かれ、キャスト表にも載せていない。確かにあんな事件を起こしたけれど、これ、あんまりヒドいんじゃない?彼は是非更生して復活してほしい役者だし、こんなのって、その道を阻んでいるみたいで、あんまりだよ。ホント、こういうところ、“日本国家”的だよね。……ちょっとガッカリ。

実は清川虹子と樹木希林の区別が時々つかなくなったりもしたんだけど(笑)、ともかくメインキャストのほかにも個性的なメンメンがゾロゾロで、いっつもウンコばっかししている男とか……(警察の手入れの時にもまだふんばってる)あ、あの人が好きだったなあ。あれはホームレス?傷痍軍人?やせこけた犬を連れてぺたりと座り込んでいる男。この犬がね、犬がねー、彼にピタリと寄り添ってて、もうホントにみすぼらしい犬なんだけど、微動だにしなくて、もうもう、可愛いの!何かこの犬見てるだけで涙が出ちゃいそうな感じで。あの牛乳みたいなお酒とか、気になったなあ。マッコリっていうんだって。初めて聞いた。どんな味、するんだろ。

“すず”を持ち帰るところとか、警察の手入れの場面とか、場面がドーンと盛り上がるところでこれ以上なくハマる朴保の音楽、血がたぎること!「「A」」でとても印象的だったけど、そういえば「A」にしたって、世間から見放されたアウトローたちの物語だったんだもんね。で、ここでは同じ血を持つ在日エンタメ人たちによるコラボレートなわけで、これはハマらないわけがないのだ。★★★★☆


歓びの喘ぎ 処女を襲う
1981年 62分 日本 カラー
監督:高橋伴明 脚本:高橋伴明
撮影: 音楽:
出演:下元史朗 山地美貴 忍海よしこ

2002/11/12/火 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/PINK FILM CHRONICLE 1962〜2002/レイト)
去年のP−1の時だったか、来場していた下元史朗氏をナマで目撃して、黒っぽいカジュアルなスーツでキメて色つきの眼鏡で、何かもう、もっのすごくカッコ良くてびっくりしてしまったのを強烈に覚えている。下元史朗氏はピンクはもちろん、一般映画でもしょっちゅう見かけるまさしくベテランの役者さんなんだけど、そんな、男前とかイイ男とかカッコいいとか(しつこい)思ったことはなかったのだ。でも不思議なもので、一度カッコいいと思うと、もうすっかりカッコよくしか見えなくなっちゃって、スクリーンでお見かけするたびドキドキしちゃうのだ。そして本作は下元史朗主演作であり、しかも20年前でメチャメチャ若く、しかもしかも唯我独尊、傲慢で、ワガママというのとも違う、もう今どき絶滅しているような“男”!で、引き締まった筋肉質の体形がいろんな怒りを体現していて、そのスリムさはどこか痛々しいぐらい。その怒りを行動に移せた70年代を引きずって、ナアナアな明るさの80年代に突入してしまった男のやり場のない思い。こ、これは……!下元史朗って、こういう男がこんな100%体現できちゃう人だったのか、だなんて失礼だよね。素晴らしい。これって代表作になるじゃない。でも、その内容のカゲキさでソフト化がされずにいたなんて。

というこの本作の監督は高橋伴明。なるほど、である。ピンクで活躍したというのは知っていたけど、その時代の作品を観るのは初めて。それにしても、ピンク時代からしっかり高橋伴明、だったんだというのが衝撃的。ちょっと盛り込みすぎじゃないのと思うぐらいに社会問題を盛り込む。工場の垂れ流した廃液で毒された魚、それを食べることによって知的障害を起こした少女、その頭の弱い女(=弱者)を力ずくで犯す男たち、それによって感情の伴わない快楽を教えられ、意味も判らず父親にも兄にもセックスをせがむその少女……。そこは主人公の男の田舎のある海辺の町で、男はずっとその田舎に帰っていなかった。彼の現状での生活は、女のヒモ。何かを変えたくて坊主頭にしたことでバーテンをクビになってしまった男。人間を外見で判断する世の中のくだらないプライド、でもその外見で何かを変えようとするちっぽけな自分。女に対して完全に主導権を握ったオレサマなセックスを強いるものの、彼女が赤ちゃんを身ごもったことで呆然とする。「お前の切り札はそれだったのか」と。

そういえば、坊主頭の下元氏なんて初めて観た。恐ろしく似合う。凄いセックスアピール。まったくもってドキドキしてしまう!男はある程度の年齢を過ぎて坊主になると、それこそ僧侶でもなけりゃ、なぜだかワルい経歴の持ち主に見えてしまうというのは、なぜなんだろう……。ことにこの下元氏ときたら、眼光鋭く、細く鋭角的な顔つきと身体、街宣車の前に立ちはだかったり(これ、すごい画だ……)その闊歩する姿も確かに怖い。怖いけれども……胸元を開けて着るシャツ、伊達な帽子、や、やばい。本当にイイ男だー、ヤバいッ。この下元氏になら何されたっていいなあ(って、何されようとしてんの、私……)。

セックスが男の、女の、そして親子の、兄妹の関係を、絆を変えていく。だから、最初っから最後まで下元氏はセックスしっぱなしである。一緒に暮らしている女に「ちゃんと気持ちよくさせろよ」とまず口淫させ、ヒワイな言葉を言わせて行為に及び、自分をクビにしたママ(割と巨乳。下元氏、揉みがいありそう?)には高いドレスを破かれたくないなら大人しくしろ、とレイプさながらに押し倒し、これまた脅し気味に自分のテクニックを褒め称える言葉を言わせて、バックから責めるのである。ここまでの彼は、確かに彼の主導のもと、女を制圧するセックスをしているように見えはするのだけれど、赤ちゃんが出来たと嬉しそうに言う女に敗北感を滲ませた表情を浮かべ、高い服を守るためとセックスを早く終わらせるためには男の喜ぶ言葉なんか平気で言うママにも、負けたと感じたのかもしれない。早く次の仕事を探そうとする彼に「しばらくゆっくりしたら」と女に言われ、「おれをヒモにする気なのか」と苛立つ。アルバイトニュースを買ってきてくれ、と渡す金を女は返す。その百円玉をかざす彼の表情は憮然そのもの。

でも。彼が次にするセックスは、あまりに哀しく悲哀に満ちたものなのだ。悲哀、いや慈愛、かもしれない。悲しい慈愛。彼は田舎から電報を受け取る。ずっと寄り付かなかった田舎。着いてみると父親は死に、毒魚のせいで頭が弱くなった妹は死んだ父親に絶え間なく「おとう、してくれよう、気持ちのいいことしてくれよう」と叫び続けていた。それまでにこの田舎での情景は折々差し挟まれている。漁師だった父親は、工場の廃液のせいで魚を漁ることが出来なくなってしまった。そして娘はその魚のせいで頭がイカれてしまった。そのことを体を張って訴えなければいけない、と父親は娘ともどもその海の魚を漁って食べ続けている。土地の人たちは、自分たちの海がそんな風にされたのに、「魚を食べなければ大丈夫」とばかりの態度だし、工場も、そして国も何の対策も講じてくれない。父親はあまりに無謀な、そして無力な抵抗を続けているのだ。しかしそんな中、娘が犯される。しかし頭がイカれてしまっているこの娘には、あまりに凄惨なことに、それがどれだけ屈辱的な悲劇かということが判らず、そのセックスの快感だけを植え付けられてしまうのである。二人の男に繰り返し犯されているのに、彼女は歓喜のよがり声を上げ、しかも、男のモノをしゃぶれば、もっと気持ちよくさせてもらえる、などという、犬の調教のようなことまで教え込まれるのだ。

毒の流される海には、誰も近寄らない。日本海と思しき寒々とした色と、絶望的な荒々しい波に彼女のあえぎはかき消される。岩場の間で「気持ちいいこと?風呂か?」と邪気なく言いながら素直に衣服を脱ぎ捨てて、二人の男に陵辱される彼女。哀しいことに、あまりに哀しいことに、その画はなぜだか美しいのだ。重くどんよりとした空気の中で、頭は幼女以下なのに、その身体は年頃の女性そのものに柔らかく官能的で、唇もふっくらと桜色で、そこからほとばしるあえぎは、彼女がその意味が判っていないだけにある意味完全に純粋で、苦しくなる。彼女は処女で、最初に男に突き刺される時には苦痛の悲鳴を上げる……それにしても、「すぐに気持ちよくなる」っつって彼女を力で押さえつけてピストン運動を続け、本当にすぐに彼女が快楽の声をあげるようになるんだけど、ちょ、ちょっと早すぎやしないー?だって、処女だったんでしょ?彼女……そう簡単に道が出来るのかなあ。一回目やってる最中でモハヤだなんて。いやまあ、人それぞれなのかもしれないけど(って、私、どんどん墓穴掘ってる気がする……)。まあ、ここはそれだけ彼女に、いわゆる一般的な感情の抵抗がなかったってことなのかなあ。こういうところで引っかかっちゃってたらピンク映画なんて見られないのかもしれないけど、それにしても……。

自分が寝ている隙に娘が犯され、それを目撃してしまった父親は、彼女の手を縛りつけて、手淫と外出ができないようにする。しかし彼女が何度も何度も父親にしてほしいとせがみ、ついには男たちに教えられたように父親にフェラを仕掛けるに至って、禁断の決断を下してしまう。男たちに犯されたり、手淫したり、果てはしたいがためにこんな人間のプライドを捨てることまでするなら自分の手で、いっそ……。この時、後から兄である主人公の男がつぶやくように、“いっそ、殺してやれば”良かったのかもしれない。でもそう思った兄も、結局は父親と同じ方法をとった。たとえ頭がイカれても、イカれた末に、セックスの虜になってしまっても、やっぱり可愛い娘であり、可愛い妹なのだ。殺せやしない。だって、彼女は何にも悪くないのだ。悪いのは廃液を流し続ける工場で、それを見過ごす国で、抗わない住民たちで、弱者を力で圧する人間で……。でも一番情けなく思っているのは、それに抵抗しようと抗えば抗うほど、無力ばかりを感じ、そして禁断の線を踏み越えるしかない自分たちなのだ。

父親は絶え間なくセックスをせがむ娘についに体力負けしてしまったのか、彼女の上で腹上死してしまった。そして田舎に帰った兄に、彼女はその矛先を向ける。彼女には父親が死んでしまったということも、帰ってきたのが兄だということも、判っていない、んだろう。人間には愛が必要だとか、感情が大切だとか、何かそういう理想論が粉々に砕け散る無力感に襲われる。本能のおもむくままに快楽を求め続けるしか出来ない彼女に。でも、やっぱりそんな彼女に対峙するには、愛と感情が必要なのだ。彼が妹を抱く、その様は、それまで女たちにしてきたセックスとは明らかに違う。そうだ、そういえば……同棲していた女に「抱いて」と言われた彼、「抱いて?どうして欲しいかハッキリ言えよ」だなんて感じだったんだけど、妹に対してはセックスというより抱いている、という方がしっくりくる気がする。服を脱がせるその手も優しい。抱く、抱きとめる。ここで自分がせきとめるしかない。彼は、この親子をいつも心配していた役所の青年に妹を抱くように言うのだけれど、その青年は、できない。セックスが、というのではなく、その重さを受け止めることが出来ないのだ。優しさだけじゃ、いい人間というだけじゃ、受け止められないことがあるのだ。……どうしよう、いい人間というだけでも、大変なのに。

ラストシーンは、父親がやっていたように、彼女と共にこの海の魚を食べる彼。そばには父親が乗っていたであろう漁船と、そこらじゅうに張り巡らされた大漁旗。20年経って、日本の海は生き返ったんだろうか、いや……。★★★★☆


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