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「ゆ」


2002年鑑賞作品

夢なら醒めて……
2002年  分 日本 カラー
監督:サトウトシキ 脚本:小林政広 今岡信治
撮影:広中康人 音楽:山田勲生 豊田道倫
出演:前田綾花 大森南朋 戸田昌宏 渡辺真紀子 清水ゆみ 諏訪太郎 佐々木ユメカ 田中要次 根岸聖子 水橋研二 上野亜香菜 有賀佑貴 大田祐歌


2002/10/8/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
サトウトシキと大森南朋のコラボレーションと知れば、もうこれは観ないわけにはいかない。しかし最近公開作品の情報をあまりチェックできずにいるので、知らなくって、危うく観逃すところだった。大森南朋がサトウトシキと組む!これって思いつかなかったことが不思議に思われるぐらい、あまりにピッタリで、観る前からワクワクしてしまった。で、観終わった後はドキドキしてる。やっぱりあまりにピッタリで。サトウ監督の画の中の大森南朋、ひんやりとした透明なブルーの画面の中でひっそりと思いつめているような大森南朋、もう、あまりにピッタリで。

アイドルとストーカーの関係。……劇中の利彦の言葉のように、それはストーカーとはやはり呼びたくないのだが、とにかくこの関係を描いた原作は、あの傑作アニメーション「パーフェクトブルー」と同じものなのだという。同じ、というのはちょっと違うのかもしれない。「パーフェクトブルー」を含む3編が収められたうちの1篇、ということらしいから。でも、例え同じ原作でも、違っていても、同じ原作者の、基底に同じテーマのある話が、ここまで違うカラーになるかということに、改めて驚く。観ている時は、そう、同じテーマだと気がついても良かったはずなのに、本当に、全く、気づかなかった。それはやはり両監督、今監督とサトウ監督がそれだけ個性を両極にしており、その個性の差異を自ら充分に把握して表現しきっていることを物語っているように思う。

確かに、このテーマを実写で、というのは、原作や先のアニメ化を知っていたら、なかなか思いつかなかったことかもしれない、というのは後で想像することで、こうしてサトウ監督の手がけたものを観てみれば、もうこれはサトウ監督の世界観でしかないのだが。そして脚本を手がけている今岡信治監督の。脚本には名前が二人いて、もう一人は小林政広監督であり、どうやら小林氏の方がウエイトが重く、オフィシャルサイトでももっぱら脚本の話は小林氏にしか振られていないのだけれど、私はどうしても今岡監督の色を強く感じて仕方なかった。色、だなんて言えるほど観ていない、それどころか今岡監督の作品はたった一本観ているだけなんだけど、そのたった一本が印象強烈で、しかもこの作品の世界にとても近いものを感じさせたから。

それはテーマとなっているアイドルとアイドルオタクではなくて、死の匂いが色濃く感じられることと、死を介在させた自分というものへの視線、ことに自分と同じ自分、自分と違う自分、それが客観的に、それも夢のように見える部分に。夢、あるいは悪夢なのかもしれない。好きな人と同じ時間を刻みたい。死ぬまで、刻みたい。好きな人と死にたい。いや、好きな人となって、死にたい。アイドル予備軍、アイを思い続ける利彦は、アイのことなら何でも知っている。それは彼女のことをただ単に好きだというのではなく、ストーカーというのでもなく、アイ自身を生きているからなのだ、と彼は言う。それは確かに荒唐無稽な、思い込みとしか言えない言葉なのだが、そう言い切ってしまうにはさまざまなことが符合しすぎて、彼の言うことの方が本当に思えてしまう。愛することは、愛する人の時間を生きることなのだと。

愛とは奪うこと、などという言葉が、そういえば折々聞かれることを思い出す。反対に愛とは与えること、という言葉も。でも、最初からあったのは、やっぱり愛とは奪うこと、という言葉の方だという気がする。それに対抗する形で与えること、という言葉が出てきて、穏やかで優しいことの方にいつでも市民権を与えられる一般社会において、後者の軍配があがってしまった。しかし、利彦は、少なくとも利彦にとっては、真実は、前者の方。ただ、彼には奪うという自覚はない。実際、愛とは奪うこと、という意味をこんな風に解釈しているのは初めてで、驚く。彼はアイ自身を愛するがゆえに、彼女を奪ってゆく。本当に彼女自身になってしまうのである。

利彦の洗面道具がピンクのハブラシにピンクのカップであるという時点から、んん?と思っていたが、そういう展開だとは。加えて彼が毎朝シャワーを浴びるたびに排水口に吸い込まれていく無数の短い毛は、私は髪の毛が抜けているのかと思って、彼は何か病気なのかと思ったりしたのだが、腕の毛とか、そういう体毛が抜けているということだったのか……。

愛する人自身になり、その愛する人を苦しめる自分。それは、本当に愛することが出来るのは自分自身でしかないということなのか。あるいは、作りだされたもう一人の自分を発見し、憎むことなのか。自己愛と自己嫌悪、どちらにしても、あまり向き合いたくない感情。利彦のように愛する相手を生きるほど愛されるのが幸せなのか、それともマネージャーの誠のように自分の夢を託されることが、喜びなのか。でも二人とも彼女と、一人の男と一人の女として対峙するという目線はない。でもそうした男女の一般的な恋愛の対峙の仕方も、お互いを完全に客観視しているということで、それはそれで、何だか空しい気もする。利彦のように、自分に同化するほど愛されることが、幸せなのかもしれない。利彦は多分、本来のアイ自身の中にあった、隠していた葛藤や矛盾を、照らし出す闇の鏡になる。そして、その闇は死ぬ。殺されてしまう。それは思えば、アイが表舞台に出て行くために必要な儀式だったのだ。

アイを殺してしまうのは、アイのマネージャー、誠の妻。夫がアイに賭けている、と語り、肩入れしていくのをいつもじっと、じっと見つめている。時には二人をつけてまで。アイは実際、このマネージャーに思いを寄せているわけだが、仕事だけの関係だと突っぱねた誠も、もしかしたらアイのことをそれ以上に思っていたのかもしれない。妻は、それ以前にも誠の育てていたアイドルを殺した過去があるらしい。……この妻、演じるのは渡辺真紀子。彼女もまた哀しく思いつめていて、サトウ監督作品の顔をしている。

不倫の末自殺した親友の作った歌でデビューしようとしているアイ。その歌が、本当にアイに捧げられたものなのか、その女の子は本当に自殺したのか、もう一人のアイに変身してしまった利彦とアイ自身の間でそんな問答が繰り広げられる。そしてもう一人のアイはマネージャーの妻によって殺され、選択された“真実”はアイに託された歌、ということになったのだけれど、これが本当の本当に真実だったのかは、判らない。でも、アイになった利彦が死んで、アイがこの歌を歌えるようになったのは、闇のアイが死んでしまったからではなく、利彦によってあぶり出された闇のアイをアイ自身が吸収できたからかもしれない、とも思う。自覚していなかった闇のアイ。自覚していなければ、それを隠して生きていくことも出来ないから。誰でも抱えている闇を、隠していなければ生きていけないから。

それを隠して生きていけなかったのが、自殺してしまった親友の広美だったのか。そして闇そのものの歌をアイに託した。アイは、闇を隠すことが出来なかった広美に、哀しいほど美しく死んでいった広美に羨望のまなざしがあるいはあったのかもしれない。残された歌は、あまりに哀しくてあまりに美しくて、本当に、広美の死、そのものだった。耳に残る歌、人生につきまとう歌。死ぬまで。……だとしたら、それは死の歌なのだ、きっと。鎮魂歌であり、葬送曲。

このアイを演じる子は前田綾花。ピンのヒロインとして観るのは初めてだけれど、なるほど、「閉じる日」のあの女の子。あの時は苗字はなかったけれど……。「閉じる日」の時の、少女性を武器にした不機嫌さが好みで、よく覚えている。そして今回は、そうした少女性を残しながら、女の部分、そしてアイデンティティに揺れる心を映し出してゆく。冒頭の、口笛を吹くぽってりとした唇でまずハッと目が奪われてしまう。可憐でいながら、どこかふてぶてしいような独特の存在感がある。実はこれが一般映画として撮られているのを知らなかったので、この子がいつ脱ぐのか、なんて思わず期待しちゃったのだが……(笑)。そして脱がない佐々木ユメカ。これは初めてだったかもしれない。彼女は脱がないと姐御肌という感じのキャラクターで、ピンク映画とは全く違った魅力が見えてくる。それにさすがキャリア、安心して演技を見ていられる、という感じ。★★★☆☆


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