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トイ・ストーリー2(日本語吹替版)/TOY STORY2
1999年 127分 アメリカ カラー
監督:ジョン・ラセター/リー・アンクリッチ/アッシュ・ブラノン 脚本:アンドリュー・スタントン/リタ・シャオ/ダグ・チャンバリン/クリス・ウェッブ
撮影:シャロン・カラハン 音楽:ランディ・ニューマン
声の出演:唐沢寿明 所ジョージ
アイデンティティを確立するためには、彼らの存在する理由、その生い立ちが必要になってくる……と思ったせいなのかどうか、今回はウッディの意外な過去?が明かされることとなる。かつて人気テレビ番組を持ち、キャラクターグッズもあふれんばかりだった、マリオネット人形のキャラクターとしてのウッディ。その中にはガールフレンドのジェシー(私はてっきり妹なのかと思ってた……)やガンコオヤジのプロスペクター(彼はウッディの何?ほんとにオヤジさんの設定なのかなあ)がおり、まさしく家族的な様相を呈している。彼にとって絶対だったご主人の少年、アンディを一度は捨てる決心をしたのも、彼らがいるからであり、こうしたつながった仲間がいると思わなければウッディはそんな決断を下そうなどとは思わなかっただろう。バズをはじめ、アンディのオモチャたちは確かに仲間であり親友だけれど、一つ一つはバラバラであり、彼らはそれぞれに孤独を抱えているのだ。たった一つつながりがあるとすれば、それはご主人のアンディだった。彼以外に“つながり”があろうなどとは考えもしなかったのだ。
一応この物語が語っているのは、遠からず必ず来てしまう、子供が成長してオモチャを手放す時についての葛藤であり、オモチャは子供たちに遊ばれてこそ幸福なのだと結んではいる。しかし、前作で映画に取り入れられなかった裏ストーリーとして、幼稚園に引き取られ、途切れることなく存在するそこの子供たちに遊んでもらうことで永遠の命を得るというシノプシスがあったのだという。しかしそれは採用されなかった。そして今回のこのストーリー。確かに今回ウッディやジェシーが引き取られようとしているのはガラスケースの中に陳列され、遊ばれることのない博物館な訳だけど(それにしてもその博物館が日本にあるとは……リアリティがあるから文句も言えない)、その理由よりも、ウッディがアンディを選んだのはやはり彼が“つながり”のあるご主人だからなのではないか、などと思ってしまうのだ。
ウッディを救出に行った先のトイ・ショップで、バズのキャラクター人形がその敵役の人形に「実は俺はお前の父親だ!」と言わせるという、まんま「スター・ウォーズ」のパロディ(容姿もソックリ!)があるが、それを言われたそのバズ人形は、お父さんがいるからここに残る、などと言うのである。笑えるシーンではあるけれど、これだって、その象徴のような気がする。自分と同じ形の人形がずらりと並ぶその中でこのバズ人形が存在する意義は、この悪役である父親によってなのだ。自分の存在意義は自分一人では得られないという皮肉な事実。主導権を握る他者によって自分が存在するという構図は、なんだかとても危険な気がする。
ま、そんなヘンな理論をコネクリまわす必要などないのだけれど。とにかく楽しませてくれるのだし。前作は字幕版で観たのだけれど、ウッディを演じるトム・ハンクスの声が予想より重くって、ウッディ&バズを唐沢寿明と所さんがやるんだったら、イメージだなあ、と思って今回は吹替版で鑑賞。吹替版の方がイイでしょう!だって、膨大なオモチャのキャラクターが一度に喋るシーンが結構あって、それじゃ字幕では絶対表しきれないし、このいちいちカワイイオモチャたちをじっくり観るのに(スクリーンいっぱいにあふれているのに!)字幕じゃキツいんだもの。それに、声優さんたちは、みないい人たちを揃えてて、ヘンなアニメ声でがっくりさせられることもないし。しかし、画面操作(例えば看板などが日本語で置き換えられている)までされているのはちょっと気になったけど。
ほんと、いちいちオモチャがカワイイんだよなあ。今回ハマッたのは、まず、のどを傷めたペンギンのウィージー。そのほこりをかぶって落ち込んだ顔と切なそうな咳が愛しくて仕方ないし、最後、全快してその丸いお腹を揺らしながら歌うさまがめちゃめちゃキュート!そしてもう一つ、ウッディを盗んだトイショップのオーナーの車にぶら下がっている、三つ目で三人くっついた宇宙人のマスコット。UFOキャッチャーに入ってそうなチープ感といい、そのいかにもな宇宙人声で彼らを助けたミスター・ポテトヘッドに「アナタニカンシャシマス」をしつこく連発するのが可笑しくてたまらない!華やかなバービー人形たちと、彼女らの一人であるトイ・ショップのツアーガイドも良かったなあ。
積み込まれそうになる飛行機からの脱出劇の、まるでシュワルツェネッガーかジャッキー・チェンかというスリリングなアクションがたまらない。あっ!ジャッキーといえば、ラストの(これは完全に作られた)NGシーン集は絶対ジャッキー映画のパロディでしょう!もうほんと、こういうの嬉しくてたまらない。しかもこれがうまく出来てるんだ……特に、ミセス・ポテトヘッドがウッディを救出に行く夫の背中に、これでもかといろんなものをつめ込んだり、ウッディに落書きされるバズのそれぞれの連続ワザはグーだ!
それと今回嬉しかったのは、ずっと観たかったラセター監督の噂の傑作短編「ルクソーJr」が併映されていたこと。ほんとにあの首を振る動作だけで、子供の電気スタンドのやんちゃに手を焼く親の様子が生き生きと描写されているのには脱帽!★★★★☆
まああの頃は、天知茂のことをごひいきにはしてなかったからなあ。それに当時の感想を読んでみると、今の方がずっとこの作品の良さを理解出来てる気がする。それに視聴覚ルームのあの小さなテレビ画面では、やっぱり、ね。まッ、ただ単に天知茂にポーッとなってるだけかもしれないけど!?天知茂、スタイルがいいんだよなあ、いわゆるかっぷくの良さで和服が似合うのではなく、背筋のまっすぐな首もとからくるぶしまで漂うすらりとした色気が和服に良く似合う。伏し目がちになった時の目の縁の黒いアイライン(?)がなんともはやそそられる。加えて彼は声がいいんだよなあ。非常にゾクゾクする声をしている。
物語についてはあまりにも有名な話なので割愛するけれど、ほとんどこいつがすべての原因ではないかと思われる、伊右衛門をけしかける直助の記憶が私にはなかった。伊右衛門はイメージよりずっとずっと心の弱い人間で、直助に持ち掛けられさえしなければ、こんなことにはならなかったんではないかと思ってしまう。彼は身持ちの悪いことを理由に恋仲のお岩さんとの結婚を認められず、彼女の父親を殺してしまうわけだけど、このとっさの気の短さも、“身持ちが悪い”ということも、彼のこらえ性のない子供っぽさ、未熟な弱さを感じさせるもの。設定上は彼はお岩さんから心が離れて偶然お近付きになったお嬢様、お梅との結婚と仕官の道を選ぶことになるわけだけど、直助に完全に手綱を握られている様や、最後の最後に「許してくれ……お岩」というその表情とセリフの感じが、彼はやっぱりお岩さんを愛していたんじゃないかと思いたいのだもの。
うーん、そう思うのは、'94年の「忠臣蔵外伝 四谷怪談」の影響かなあ。あれはどこかそういう趣があったからさ。でも天知茂の伊右衛門もいつもいつも逡巡しているし、やっぱりそうじゃないのかな。どっちにしろ彼の人間的弱さは、なにかとても哀れなんだよなあ。
一方お岩さんの方といえば、これがまったく罪なほどに弱々しい。しかし彼女はその弱さをよろいにして、かなりガンコ一徹なところありで、それが亡霊にまでなったゆえんだろうけど。お嬢様だった片鱗がうかがえるガンコさ。たとえば「お母様のかたみだから」と高価な櫛を離さなかったりといった……観てる時はそんな思わなかったんだけど、これって、かなりお嬢様な描写だよなあ。お嬢様ゆえの弱さが、逆説的に強さに転化するという……だから、伊右衛門より絶対お岩さんの方が強いんだよね。自分自身の誇りとか、そういうものを疑うことなく持ってるから。それが伊右衛門にはない。彼はより所がないというか、自分の核となるもの、信じられるものがなくて、不安定なのだ。ちょっと可哀相かもしれない。
ちょっと痛々しいくらい色がヌケてしまってセピア化してるんだけど、それが却って雰囲気を醸し出してる。公開当時の色鮮やかなカラーで観たい気もするけれど、これはこれで作品世界にピタリ。そうとは知らずに毒をあおったお岩さんが、自分の顔を恐る恐る手鏡で見る、そのちょっと見せの怖さ、戸板の裏表にはりつけにされたお岩さんと宅悦の死骸が亡霊として何度となく現れる様、お岩さんが妹のもとに亡霊となって現れる(そういえばこれと同じシチュエイション、「怪猫岡崎騒動」にもありましたな)、まるっきり生気のない(当たり前だ)様子、ところかまわず出てくる、死骸を捨てたよどんだ沼、否応なく血の色を連想させる、一瞬の赤一色の画面……あげ始めたらキリがない恐怖描写の秀逸さ。ああ、これがいわゆる“様式美”ってやつなんだなあ。
お岩さんの亡霊に惑わされてお梅さんとその父親、乳母(?)を殺してしまった伊右衛門が、ほとぼりがさめた頃、こもっていた寺から出てきて沼(死体を捨てた沼だぞ……よく平気で……)に釣り糸を垂れる、なんていう、何でもないシーンの天知茂の美しさに目を奪われてしまう。うー、でもこれは私が天知茂にホレた「座頭市物語」のワンシーンに酷似してるからかしらん。あー、でも、いままで天知茂のベストはその「座頭市物語」だと思ってたけど、本作と甲乙つけがたし!だなあ!★★★★☆
戦時中日本人に抑圧されつづけてきた反動で、戦後日本人と衝突を繰り返したと伝えられる三国人(中国、台湾、朝鮮)の組織が、ここでは、あからさまな悪玉として描かれている。同じ日にプログラムされていた「仁義の墓場」では、そうなるのも致し方ないこと、のような色合いがあったのだが、ここではもう、いかにもな中国系なまりで、法律の届かないのをいいことに非道の限りを尽くす悪辣な、血も涙もない人間といった描かれ方……この時代にはそうしたことも無邪気に出来たのだろうけど、そしてそういうことも気にしないあたりが作品のリズムを滞らせないとも言えるのだけど、今じゃ絶対出来ないよなあ。それに、やっぱり今の私たちが観ると、その描写にはイヤーな感じを受けずにいられない。いくらこれが、単なる悪玉の形としてその設定を借りてるだけと判っていても、うーん、やっぱり、やだなあ。大体、その三国人たちをワザとらしく演じているのがしっかり日本人だから、よけいにさ。
そうやってしっかり善玉、悪玉を分けているにもかかわらず、いまひとつカッと胸がすくような作品にもなってないし。せっかくの宍戸錠は、しかもせっかく黒づくめでカッコイイのに、状況判断できずに事態を悪くしてしまうバカだしさ。でも彼が渡氏を疑い、彼を詰問し、斬りかかりさえし、でも、真実が判るとあっさり誤解を謝って彼を受け入れる単純さが、そのあたりもバカ単純さなんだけど、なかなかカワイイものがある。その真実とは、渡氏がその男(戦死してしまった)の戦友であり、彼自身は天涯孤独、しかも戦争時に戸籍を抹消されてしまった、“名前のない男”であった、というもので、だからなんだというわけでもないけど、とにかく、彼の邪心の無さが組員たちにも判って、結束が確かなものになるわけだ。
三国人たちとの抗争が激しいものになって、連射銃をも使う血みどろの争いになってしまう。連射銃……うーむ、「五人の賞金稼ぎ」ですな。そんなそこまでやるかあ?殺しまくりじゃないか、戦争じゃないんだからさあ……。うー、この辺も、やだなあ。なんていうか、刀とかドスによる斬りあいならまだいいのさ。だって、一人一人相手(敵)を確認してるんだもの。でも、連射銃は、とにかくところかまわず、いや、相手かまわず(あれじゃ絶対仲間も巻き添えにしてるぞ!)、人形を倒す射的みたいにダダダダダ……と撃っていくのが……なんかとても、イヤだ!
命をねらわれる彼を心配して、秘めた気持ちを打ち明けるヒロイン、組のお嬢である松原智恵子。いやあ、愛くるしい美しさですね。最初に渡氏不発弾に接触する危機から救われる少年と、その少年の目の見えない妹のエピソードが、好きだなあ、美しい兄妹愛。敵に少年が殺されてしまって、そのことも渡氏の怒りに火をつけるわけだけど、彼が捕らえられている間に少女の目が見えるようになり、出所してきた彼が、無事出来たマーケットを遠くから眺めているのに松原智恵子は気づくんだけど、彼がいた時には目が見えなかったその少女は気づかない。そして彼はそっと立ち去ってしまう……哀切ですね。
先述のワザとらしい三国人の中にもなかなかなキャラはいたりして。思いっきり判りやすい悪玉ながらも、サングラスに黒いコートのいでたちの三国人組織のボスが、さながら大杉漣のような大柄なカッコよさで、その中国系なまりもまた三池監督作品のキャラっぽくてイケてます。★★☆☆☆
不思議なのは、このヒロインに思いを寄せる山川(池田政典)が、彼女に対する欲望が絶対あるはずなのに、なぜかその映像が現れないことなのだ。もちろん、だからこそ彼女は彼に対して心も体も許すわけだけど、私はこれが逆に不気味で、彼があの病院の男なんじゃないかと思ったくらいだった。彼女だってそれを不思議に思ってもいいと思うのに、思わない。物語上それが不自然だとはしていないようなのだ。うーん、私が考え過ぎなのかなあ、でも恋愛的感情と性的欲望って、切り離しては考えられないものなんじゃないのだろうか。小学生ぐらいだったらいざしらず……。それぐらい山川のピュアさを強調しているのか?でも彼は彼女とセックスするんだから、不能者って訳じゃないんだし、彼女に対する性欲はあるんだろうに。
まあここでは、その性的欲望が彼女を傷つけるナイフの象徴として描かれているわけだから……。でも、こういう設定、昔新井素子氏の小説であったよなあ。いわゆるテレパス(精神感応者)の美人の女の子が、初対面の男性や、電車の中で前に座っている男の子はほぼ全員、彼らの心の中で彼女の服を脱がせるんだって。そして彼らの想像の中で何度も何度もレイプされて、彼女は深く傷つきながら育ったという……。この劇中には同性愛の後輩の女の子がヒロインに向ける性的描写もあるけれど、彼女はこの先輩が好きなのだし、ま、普通は女の子は好きな人に対してならいざ知らず、だれかれかまわずこういう幻想は抱かないよね。いつものことだけど、こういう性差に関してはやっぱり考えちゃうよなあ。
ま、最近はそれは性欲的なものだけではなく、男性に生きるために根本的に備わっている征服欲なのかな、という気もしているのだけど。ならばなぜ、女性にはそれがないのか?うーむ、女性は相手を征服しなくても、独りで生きていけるからさ?
この病院の男は、具体的に誰というより、彼女の心の中に巣食っている“恐怖”を具現化したものといったような趣である。この男が身元不明なのも、そうした漠然とした不安を象徴している。彼女が日々さらされ続けている理不尽な心の暴力(でもそれは、彼女が言うように、知らずに心をさらけ出している相手もまた被害者だと言えるのだけど)が積み重なった“恐怖”。そしてそれをこうして判りやすい形で倒すことで、彼女は生きていくことが出来るのだ、と。
あ、でもこれが、倒すというよりそれこそ“征服する”ことなのならば、やっぱり女性も相手を征服することによって生き延びて行く世の中になったということなのかもしれない。相手に依存するのではなく、相手を征服して。そう考えればうーん、なかなか喜ばしいことかも?違うか。
彼女を見るみんながみんな性的欲望をかきたてられるようなヒロインには見えなかったことがちょっとツラかったけど。ちなみに、もっと大切なはずの山川の存在も影が薄い。とどのつまり彼は、彼女を癒すために彼女の要求どおりセックスをする、ただそれだけの相手のようにさえ感じられてしまう。まあ、こうして彼女は結構したたかにあらゆるものを糧にして生きていく、ということなのかもしれないが。★☆☆☆☆
男の美学を絵に描いたようなイーストウッドがこんな役を自分にふるのも面白いが、どこか自身を投影していなくもないのですな。いや、知りませんでした、イーストウッド御大がこれほどおさかんとは。劇中に出てくる7歳の娘は彼の実の娘だし、敏腕弁護士役に前妻であるフランシス・フィッシャー(前妻を出してくるあたりスゴイよなー、離婚しても仕事仲間としてちゃんと継続しているのは素晴らしい)、ウィルマ・フランシス役に現在の妻であるダイナ・イーストウッドを配している。この現在の妻、若くて美人。やるなあ、イーストウッド!
というわけで、“老”といいながらも、いわゆるセクハラおやじになるわけもなく、しっかり男のセクシーさをもった女たらしなもんだから、やっぱりイイんである。ま、それはさておき、突然死刑囚のインタビューを仰せつかったエベレット、ご自慢の“鼻”が不審なニオイを嗅ぎ付ける。おかしい、なにかおかしいぞ、この事件!と、もうほんとに直感だけで。そんなエベレットがボブはうさんくさくてしかたないのだが、編集長のアラン(わーい、ジェームズ・ウッズ!)はエベレットの記者としての有能さを知っているから危険な橋をすぐ渡ろうとする彼に「真実を暴こうなんてするな!」と牽制はするものの、エベレットが確信を持っていることを知ると、苦虫をかみつぶしたような顔をしながらも後押ししてくれる。このエベレットとアランの、そして茶々を入れるボブのかけあい漫才みたいな押し問答が可笑しい。特にジェームズ・ウッズの、やたらと言葉をこねくり回し、早口でエベレットの先回りをするヒネクレ小僧っぷりがいい。
かくして、エベレットは動き出す。たった12時間のうちに証人に話を聞き、記録に残されていない“目撃者”の少年の存在をつかみ、その少年の居所を、志し半ばにして死んでしまった女性記者のメモから探し出す。その間、彼のプライベートにも大きな変化があらわれる。いつもいつも仕事中毒(&女中毒)で娘との約束をすっぽかし続けていたエベレット、今日こそはと言う妻に根負けし、このめまぐるしい中、娘と超スピードで動物園を駆け抜けるのだが、やはり無茶、娘にケガをさせてしまう。そして妻から三行半をつきつけられてしまうのだ。
エベレットは確かに女たらしだが、本当にまったくの“浮気”であり、相手の女性もみな彼を本気で相手にはしていない。ボブの女房も旦那の気を引きたいがためにエベレットとの不倫を自らバラしたのだし、冒頭口説かれていた女性記者も、ラストに口説かれているおもちゃ店店員であるアジア系の若い女性も笑って彼を相手にしない。彼が本気でないことを知っているからだ。だからエベレットにとって本気だったのは妻だけだったろうに、コレである。本作での男性、女性のキャラクターは口説く男、口説かれる女、あるいは夫、妻という点で実にはっきり線引きされていて、ことするとステロタイプなそれと考えがちだが、結果的に反面教師になっているところがミソ。
このエベレットの奮闘と平行して描かれるのが、かの死刑囚、ビーチャム。エベレットの“動”と対照的にビーチャムは“静”。静かに執行の時を待っている。エセ牧師に神経を引っ掻き回され、愛する妻と娘の別れに慟哭するビーチャムを演じるアイザイア・ワシントンの緩急の効いた熱演が胸を打つ。
エベレットが確かな証拠を握ってくるまで、まさしく真実は薮の中。目撃者の証言とビーチャムの証言がそれぞれ再現フィルムにされるところなど、まさしく「羅生門」である。約束の時間に“死刑囚のインタビュー”にあらわれたエベレット、「俺には正義がどうこうなんて関係ない。自分の鼻が正しいかどうかだけだ」と言い放つ。そばにいたビーチャムの妻が「無実を信じてくれるのね!」というのに答えて「信じるとも!」と答えるエベレット。しかしもう時間はわずか。希望を持たせるのはあまりに残酷だと刑務所所長がいさめる。「どうしてもっと早く現れてくれなかったの、もっと早く味方が欲しかった!」と泣き叫ぶこの彼女が痛ましい。刑に服していたビーチャムをずっと見続けてきたこの所長もまた、彼が本当に罪を犯したのか不審に思っている一人。エベレットとも旧知の仲である。さすが名優、バーナード・ヒル、いい味出してます。
居所が見つかった、「記録に残されていない目撃者」である少年を訪ねるエベレットだが、彼が3年前にもはや死んでしまっていることに呆然とする。その少年の祖母だという女性が「あの子だって、なんの意味もなく殺された!それでも誰も調べにこなかった!」と泣き叫ぶ。いわゆる貧民街の犠牲者。エベレットは言葉を失ってしまう。
このエピソードはまったく救いようがないのだが、かのビーチャムもまた貧民街の出。彼もまた若い頃にはいろいろと悪さもしたが、妻との出逢いで敬謙なクリスチャンになり、見事に立ち直った。ちょっと甘い設定だが、アイザイア・ワシントンの熱演でいやみがない。その彼が冤罪にさらされている。救えなかった、とヤケ酒をあおるエベレットの目に飛び込んできたのは、殺人事件の被害者がしていた、盗まれたロケットペンダント。かの少年の祖母である女性がしていたのと同じものだったのだ。急いで飛び出していくエベレット。おーい、飲酒運転だぞお!くだんの老女性のもとにいくと、彼女もまた、事件当時の孫の様子を思い出してくれた様子で(ちょっと都合良すぎ?)彼に同行する。死刑執行まであと30分!
スピード違反でパトカーにマークされるエベレットのカーチェイスと、死刑執行の準備が刻々と進む場面とが交互に、狂ったようにカッティングされる。執行2〜3分前(!)にエベレットがたどりついたのは、え、普通の家?刑務所に向かってたんじゃなかったの??と思っているうちに、執行の準備はどんどこ進む。「君を見ながら死ぬよ」という言葉どおり、立会人の中に妻の姿を探し出し、彼女としっかり見つめ合うビーチャム。腕に注射器がさされ、三つの薬品のうち、一番目……昏睡状態に陥る薬品がすでに全部投与されてしまったではないか!意識を失うビーチャム。ええ、うっそお、絶対ギリギリ間に合うと思っていたのに。こんな皮肉なラストになるの!?あーもう、だめだあー!と思っているところに電話が!そう、エベレットが向かったのは知事の邸宅。知事からのダイレクトコールが執行中止を指示し、「手遅れですよ!」という所員の言葉を聞いた所長が急いで中に入り、ビーチャムの腕から注射器を抜き去る。心臓マッサージが施される。ガラス窓を叩いて泣き叫ぶビーチャム夫人……。
場面が変わり、時はクリスマス。エベレットが性懲りもなくオモチャ店の若い女の子を口説いている。えええ、ちょっとお、ビーチャムはどうなったのよ!とこっちはハラハラしているのに、なかなかそれを明らかにしてくれない。エベレットは事の顛末を本にまとめてベストセラーになったらしいが、それがどういう結末になったのか、台詞の端々からは見えてこない。ドキドキしながら注視していると、往来の向こうに目をやるエベレット。カメラがパンし、そこには妻と娘と連れ立ってクリスマスの買い物に来ているビーチャムの姿が!あああ、よかったあ、脅かすなよ、もう!そして二人はお互いに敬礼のように額に手をやり、距離も縮めず、言葉も交わさないまま別れていく。
イーストウッド監督作品はそれほど観ていないのだけど、何となく今回の作品は意外だった。物語の成立の仕方といい、スリルたっぷりの展開といい、ほっと安堵のハートウォーミングなハッピーエンドに落ち着くところまで王道中の王道で、え、イーストウッドって、こんなに定石どおりの映画を撮る人だったのか、と……。個性はぜんぜん違うけれど、どこかウディ・アレンのように、そうした定石に抗うタイプの人かと思っていたので。
それにしても、アメリカとはコワい国だ。物証がまったくないまま、しかも本人の自白もないまま、状況証拠と目撃者の証言だけで有罪に、しかも死刑にまでなってしまうなんて。フィクション(ですよね)とはいえ、そういうことが有り得るということでしょう?コワッ。それにアメリカの裁判って、12人の陪審員で結果的に判決が下されてしまう。一見民主主義のように見えて、玄人の弁護士に感情的に丸め込まれる素人の集団に過ぎないじゃない。いくらでも冤罪が生み出されちゃうじゃないか。
そうした社会に対する告発の意味ももちろんあるだろうが、なんといってもこの超時間限定サスペンス、ミステリアクションとでも言いたいドキハラと、大人の粋な、そしてちょっとマヌケたユーモラスさが素直に面白い。変なケレン味を排した職人技の良心作。★★★★☆
そして、ヘッセの「車輪の下」も。ギムナジウムであり、少年の死が美しく、慎ましやかに語られるところが。萩尾望都作品(特に「トーマの心臓」あたり)にしても、「車輪の下」にしても、そこに生活している少年たちが大人の男になるという想像は実にしにくい。少年は少年であるから美しく、ごくたまにすれ違う女の子達にそれなりに沸き立ちはするものの、仲間の中に“友情”という言葉だけでは説明しきれないような関係性を見つけてゆく。その耽美的な、そして儚い美しさは、やはり女性心をくすぐるものであるらしく……(ほんと、女はこういうやおいな世界が好きなのよ)オフィシャルHPの掲示板もずいぶんと熱く燃えていた。
主人公の男の子は二人。父親を亡くして(恐らく母親もその前からいないのであろう)このギムナジウムの独立学院に入学した道夫(伊藤淳史。ああ、「鉄塔武蔵野線」のあの子が!作品に恵まれる子だなあ。)。彼は吃音で、さっそく級友たちのからかいの標的になる。それを一人かばう、美しいボーイソプラノの持ち主、康夫(藤間宇宙)。彼はにきび面の道夫とは違って肌も美しく目も鼻もすっとしてて、まるで宇宙人のように?美しい。そう、道夫にしても、ほかの生徒たちにしても、よくぞまあ、これだけちょっと野暮ったいというか、70年代的な古風な顔の子供たちを見つけてきたものだ。今の子って、食べ物のせいなのか、みんな骨格が細くてひ弱な草食動物みたいな顔してる子ばっかりだと思ってたけど、こういう顔の子達もまだ残っていたのだ……。確かにこの物語にはこういう顔の子達でなければいけない。そうでないと、ウソになってしまう。
しかし、という訳で康夫役の藤間宇宙だけは一人すうっとしてるのである。そして、もはや14、15歳の(実際は16、17歳くらいの子たちなのだろうか?)子達だから、殆ど声変わりは済ましている中、彼だけがその天使のような歌声を響かせている。ウィーン少年合唱団入団が夢だという彼は、そこで歌っている少年たちが自分よりもうずっと年下になっていることに気付いていないのだろうか。当然のごとく合唱部に力を入れている彼は、しかしその中で一人だけのボーイソプラノで、なんだか滑稽で、異質で、言うまでもなく孤独である。
彼が声変わりした時、痛々しいほどに拒否反応し狼狽するのだけれど、でも、この時が、彼が(いい意味で)皆と同じになれるチャンスだったのだ。しかし、彼はそれを拒否した。彼にとってそれは自分自身を否定することに他ならなかったから。拒否は、つまり死である。声変わりをし、それでも合唱部顧問の教師は「自分の声で歌えばいいじゃないか!」と説得し、合唱のステージに立つ。その時には彼も納得したように見えたし、きっとこうやって大人になっていくんだな、なんて漠然と思っていたのだが……その感動的なはずのステージは見せず、いきなり季節は初冬になり、枯れ草の中で康夫は楽譜を焼いているのである。多分、彼は、無意識だったかもしれないけれど、自分の死のきっかけをずっと待っていた。髪ののびた彼は、なんだかずいぶんと大人っぽくなってて、少年だった面影はだんだんと薄らいでいるのだが、どこかうつろである。そして彼は、草むらの中に、ウィーン少年合唱団の半分焼けて熔けたレコードを見つける。それが彼の背中をふいと押してしまうのだ。
このレコードが語るエピソードは、壮絶だった。なぜ、70年代なのか。それは学生運動があったからだ。こんな人里離れた場所もそれに巻き込まれてしまうのは、合唱部顧問であり牧師である清野を頼って、かつての同志だという革命闘士、里美が現れるからである。レコードは彼女が康夫に持ってきたおみやげだった。この里美を演じるのは、ああ、本当にピッタリだ、滝沢涼子。彼女はホント、こういう孤高の女が良く似合う。失礼ながら毎度思うけど、その小さな胸も凛々しいのだ(今回もその凛々しい胸を、それどころか全身あらわに見せてくれる)。清野はそうした理想的な思想を掲げた政治運動が、結局は実を結ばないことに疲れて、この場所にやってきた。彼は彼女を邪険に追い払う。もう来るなという。……でも、あの時、二人っきりになって、彼女が服を脱いだ時、ひょっとしたら二人は寝たかもしれない。なんて、思ったのは、もう一度「どうしても行くところがない」と訪ねてきた里美が「メシを食ったら出ていってくれ」と言われ、言われたとおり足早に立ち去る時の、その彼女の表情が……。その時道夫は彼女と橋の上ですれ違う。一度面識がある道夫はふと目を向けるのだが、彼女は泣き出すのをこらえるような顔をしている。そして、やっぱり泣き出すのをこらえるようにやけに早足で去っていく。彼女は最後までその理想の革命を口にし、その中で自爆してしまったけれど、本当は、清野のように逃げ出したかったのではないか。……それに、彼女は清野のことが好きだったのではないか。でも、彼女はそのきっかけを失ってしまった。
というわけで、清野、そして道夫と康夫の目の前で、彼女は自ら作ったダイナマイトに火をつけて切れ切れに吹っ飛んでしまうのである。あの時の里美もまた、世界革命という、自分の美しいものを守り切るために、死んだのだ。康夫はその死に衝撃を受け、夏休み東京に行き、学生運動を目の当たりにし、にわかじたての言葉を拾って帰ってくる。彼にとって里美の死は、かつて来る自分の死であり、その理由は彼女と同じ、自分の美しいものを守り切るため、なのだ。この時、彼はすでに声変わりをしてその美しい声を失い、「声が出なくなった」とウソをついて筆談で道夫に覚えてきた思想を撒き散らす。でもそれは、ただの言葉に過ぎない。なんらの実体を持たないのだ。彼は合唱コンクールで優勝して東京に行き、革命に参加しようという。世界を変えるのだと。清野は、革命なんて起こらない、何も起こらないんだと叱咤する。……そうだ、彼だけが、何故だかそれを一足先に気付いてしまっていた。そして合唱の意味が……いや、何にも意味がないというところがイイんだという合唱の良さを懸命に判らせようとする。何も考えずに歌おう、お前の声でいいじゃないか、と。
しかしそんな清野の声は、結局は康夫には届かなかったのだ。映されることのなかったコンクールでの合唱のシーンは、康夫の死が暗示される場面の後、ラストもラストで披露されるのだ。この康夫の死……はっきりと死とは表さないけれど、彼は突然軽トラを暴走させ横転、しかしそこからはいだしフラフラと歩きはじめる。それを必死に押しとどめる道夫。康夫は目の焦点が合っていない。道夫は彼の死を察知したのだろう、「行くな、行くなよ!」と泣きながら絶叫し、彼を抱きしめるのだ。……この上なく美しいシーンだが、完全に目がイッている康夫の心はもうすでにここにはなく、その凄まじい顔が崩れ落ちる直前にカットアウトされ、その合唱シーンとなる。
そこでは、声変わりしたはずの康夫が、あの美しいボーイソプラノを響かせているのだ。彼の死を確信させもするし、まさしくそれは天上の響きなのだが、 なんという残酷さなのだ。だって、結局はそこにしか彼の存在意義はなかったということなのか。自分の美しいものを守るというのは、つまりは子供のわがままだったのか……里美にしても、康夫にしても。それを全うするには死ぬしかないのか。思えば、そうした美しいものを持たなかった道夫は、康夫が声を失った代わりのように、吃りが治り(その前から歌の時には吃ってなかったけれど)康夫の代わりの声となる。道夫が獲得したものが、大人になる過程としての努力の産物だとしたら、道夫や里美が大切にしていたのは自分が元々持っていたものや他人から与えられたもの(思えば自分の元々持っていた素質だって、親から与えられたものだ)であり、それによって他の人とは違うのだと、誇らしく思っていたものである。そうしたものは、実際はとてもモロいのだ。鍛えられてないから。無垢だから。「骨まで愛して」が歌えたり、女の子からアダモのコンサートに誘われたりする道夫を康夫はさげすむけれど、そうした歌や歌手は、まず世間、あるいは社会があるという前提の下に生み出されたものだから、しぶとく、強い。康夫にはそうした前提がないのだ。無視しているというより、存在に気付いていない。だから、それに触れたとたん、まるで酸化腐食するように崩れてしまう。
それに、それほどまでに康夫が誇りにしていた声の美しさが、合唱の交流に来た女の子達の声の美しさの洪水に飲み込まれ、康夫がまるで茫然自失したようになる場面もひどく痛々しい。そしてその場面で彼は「声変わり前のボーイソプラノが一番きれいなんですよね」などと言われて更にショックを受ける。……やっぱり、女の子の声の美しさ、それがハーモニーになった時の美しさは、いくら美しいボーイソプラノの持ち主の康夫といえどとてもとてもたちうちできないのだもの……これは、相当に残酷な場面。
それにしても、この時の合同コーラスといい、少年たちのすがすがしくもたくましいコーラスといい、もうほんとに鳥肌が立つ思いだった。そうだ、私も中学生の時、合唱なんぞをやっていたなあ、などと……。ほんと、好きだったもの。「大地讃賞」(ですよね)なんて久しぶりに聞いて、涙が出そうになってしまった。ああ、これ、歌った歌った!!って。
この二人の少年は勿論、自爆死してしまう里美役の滝沢涼子、そしてなんといっても牧師で教師である清野役の香川照之が素晴らしかった。一人誰に頼まれるでもなく材木の切れっぱしをもらって来て教会らしきものを建てている彼、なんだかちょっと変わり者のような、その心のうちは見えそうで見えなくて。ストイックなんだけど、フレンドリーで、生徒に対して優しさと厳しさを持って接してて。そして過去に戦い、疲れたその風情が色っぽくて。年を経るごとに彼は良くなってく。凄く、イイ役者。
雪解け水で充たされているので、夏でも冷たく、入ると死んでしまうという丸池のエピソードは、ほんと、「車輪の下」を思い起こさせた。少年の死は、冷たい水の中に小さく固く沈んでしまうことなのかな、それが一番清冽で、そして鮮烈で、美しいかもしれない。でも、康夫の死はその方法ではなかった。……なにか、もっと滑稽で、悲壮で、壮絶で、残酷だった……。★★★★★
名雪と関係を持つ度に、壁に止まった虫をつぶして殺し、虫の死骸のそばに日付を書き込んでいく拓海。時に、名前も知らないグロテスクにうごめく虫も躊躇なく殺す。甘やかな手つきと視線で拓海を愛撫していた名雪が苦々しい声と顔つきで「気持ち悪い」と言うのもいとわずに。名雪と拓海が関係を持つ度に、まるで彼に殺されるために現れるかのような虫たち。眉一つ動かさずそれを殺す拓海。彼は、多分、名雪とセックスする度に死んでしまうのだ。だから、身代わりになってくれる虫が現れる。何度も、何度も死んでしまう拓海。彼は名雪を愛しているからセックスしているのではないだろうし、名雪もまた、拓海を愛しているから寝ているとは思えない。愛していると思おうと強いているように感じる。それしか方法がないのだと。
しかし、それもまた妄想かもしれない。などと思うのは、この物語が、人間の妄想が作り出した世界を追っかけてってあばいてゆくような構造だからだ。名雪が少女の頃自分を犯した父親を、弟と共謀して殺し、壁に塗り込んだという彼女にとっての“現実”は、しかしその共犯者だったはずの弟によって妄想であったとあばかれる(まあ、確かに本当であったなら、たとえ壁の中でも腐ってゆく死体が悪臭を放ったに違いないだろうけれど)。この罪のために、それから逃げるように、あるいは罪を犯した自分たちを少しずつ殺していくために重ねていたようなセックスが、理由を、意味を持たなくなってしまう。彼らの間には何もなかったのかもしれない、と思うのは、だからであり、しかも、それですら終わりではない。そこで拓海、悠里ともみ合いになった名雪が、刃物が刺さり、死んでしまったはずなのに、ラストシーンでは、出版されなかったはずの本が広げられており、その後ろに、意味ありげな笑みをたたえた名雪がたたずんでいるのである。
よくある、“それはすべて物語の中の話なのでした”という、いわゆる禁じ手である結末とは違うように感じるのは、何故だろう。名雪と拓海は、それ以前から、どこかこの世界の人間ではないような、ある種の諦念に支配されていた。愛し合っているのではないけれど、お互いがお互いによって存在しているのだと思い込んでいるような、徹底的にネガティブな運命の絆。名雪はそれが時々たまらなくなるのか、原稿取りの編集者を誘惑したりもする。しかし、その、彼女の方だけが一生懸命になっているようなセックスは、辛い。あるいは、名雪は、拓海とのセックスにはいわゆる女としての喜びを感じていないのかもしれない。あくまで彼は繋ぎ止めておかなければならない運命の相手であり、恋人ではないのだ。
この、編集者、川上を演じるのが、永瀬正敏。どこかふわふわと頼りなげな登場人物たちの中で、彼だけが強烈に現実感がある。現実感、と言っていいのかどうか。こう言うと、語弊があるのだけど……ほんとに永瀬正敏、彼だけがいわゆる“演技らしい演技”をしていて、妙に浮き上がって見えるのだ。他の登場人物、名雪であり拓海であり、悠里は、その中に住んで、生きて、うごめいている人間たちで、永瀬正敏が持ち込んだ外からの“演技”に、風に揺れる葦のようにユラユラ揺れ動いている、そんな感じ。これは意図的なのかどうか……ただ、そんな風に見えてしまうことが、余計にこの三人の行き場の無さ、やりきれなさを象徴してもいて。永瀬の“演技”は換言すると生命力、なのかもしれないのだが。
しかし、悠里には、名雪と拓海にはない生命力はある。というか、彼女のそのひたむきな“生命力”によって、二人の姉弟の関係が叩き壊されるのである。彼女の純粋さは、しかし名雪にとっては邪悪そのものである。少女が武器にする純粋さは、少女ではなくなってしまった女にとって、一番忌まわしいものだからだ。そしてその少女、悠里を受け入れてしまう拓海も。悠里はバーを経営する母親によって、売春させられているが、しかし彼女は拓海とセックスするまでは、どうやら処女だったらしい。ややベタな表現だけれど、彼女がその後、出血した下着を脱ぎ捨てる場面があるからだ(それを、彼女にホレている落語好きの拓海の友人が拾い上げる。彼の可笑し哀しは、イイな)。冒頭も、売春の相手である男から逃げ回っているし、永瀬演じる川上からも逃げ回っているし(まあ、この時逃げてたのは、川上がこともあろうに彼女のパンツをはいていたからなのだが……それも服の上から)。このあたりも、川上を追い掛け回していた名雪とは対照的で。守られるべき少女と、守ってくれる人を切望するもはや少女ではない女の構図というのは、大人になってしまった女の目から見ると、確かに少女が苦々しく思えてしまうのだ。そして、守られるべきと思われている少女の方が、したたかで強いと感じてしまう。
悠里を演じる綾花嬢は、夏服の制服から伸びる頼りなげな白い首と無防備にさらされる素足がもう、ヤバいくらいに普遍的な“少女”。少女は不機嫌な季節、と私は思うのだが、それを久々に感じさせてくれる、不機嫌さがいい。「イノセントワールド」の竹内結子以来ではないだろうか。不機嫌なことで世界の全てに対抗しようとしているかのような、弱さと強さが拮抗しているバランスが。あ、思えば「イノセントワールド」はエンコウしている女子高校生が、自分の兄(感覚的には弟!)との愛を確かめ合う話だったではないか、関係ないけど、なんたる偶然!★★☆☆☆
富江はもっと、掘り下げるのに魅力的なキャラクターのはずなのだけど。今回富江に扮するのは、宝生舞。猫目が美しい彼女は確かにファム・ファタル的要素を持った女優で、富江にはピタリと思われたが、なぜだろう、ここでの彼女はその個性が殺されてしまっている。ハッキリと彼女の顔を捉えるショットが少ないせいなのか、あるいは彼女自身が、身体全体で発散するまでの魅力を持つまでにはいたっていないのか、彼女の印象は、ラスト山口紗弥加とのバトルだけに終始してしまっていて。前作で富江を演じた菅野美穂があまりに素晴らしかったので、どうしても比べてしまうし。この「富江」が今後シリーズ化されていくのなら、永遠に少女である富江は次々に違う女優が演ることになるわけだが、菅野美穂を超えられる富江が現れるのだろうか。
それに本作は、役者達の魅力というよりも、その特撮技術に重点が置かれているのが、かえって作品世界を小さくしている気がしてならない。少女の腹の中から富江の頭部が現れ出る冒頭から、その頭部が培養されている水槽、お岩さんさながらのオソロシメイクを施した富江など、思わずナルホドナア、などと場違いな感想をもらしてしまうような“見せる”恐怖がてんこもりである。永遠の美少女である富江にお岩メイクはないだろうと思うのだが……。富江は男達がその魔性にとり憑かれて、彼女を切り刻みたいと思うほどに愛する、そのまがまがしいほどの美しさを持っているからこそ怖いのであり、決して首だけで生き長らえているとか、妖怪の顔になるから怖いわけではないはず。車椅子で自由を奪われた由美が、この富江と病院の地下室でバトルを繰り広げるクライマックスは、車椅子を器用すぎるほど器用に扱う由美の動きがよすぎて、“自由を奪われた”状態とは程遠く、その点の怖さが希薄だし、首だけになった富江を火の中に放り投げて終わる結末は、前作にあった恐怖の余韻もない。妖怪バトルアクションに終始してしまっている。
父親と不倫をしていた姉のように慕っていた看護婦や、彼女と協力して富江を追いつめる文仁(窪塚洋介)、あるいは多忙でなかなか会えない母親との関係 など、本作でのストーリーの基盤となっている少女の成長譚も、え、それだけ?という状態のまま終わってしまった……。★★☆☆☆
それにしてもこの独特の感覚はどうだろう!ほかのMOVIE STORM作品が、ビデオ撮りのどこか安っぽい雰囲気があったのとはまるで違う。黄色とオレンジの光があふれ出るような、過剰にハレーション気味の、夢のような、あるいは本当にドラッグでトンだらこんな風なのだろうか、とでもいうような画面。どこかウォン・カーウァイを思わせなくもないが、それとも違う、もっと退廃的な夢の雰囲気。この画面だけで前衛芸術の様に心惹かれてしまう。そしてそこに出てくるのは毒のある華やかさを持ったドラァグ・クイーン達であり、やはり華を競うモデル達である。しかしなぜか彼らはコタツを囲み、その上には鍋が湯気を上げており、みんなで仲良く箸でつつきあったりするんである。
キャストはみんなそれぞれ自分自身を演じているんだという。だとしたらこのドラァグ・クイーン達もホンモノ、そして広田レオナはレオナだし、吹越満はフッキーだし、彼らの息子のマークはマークである。そしてこの物語は広田レオナ監督自身の体験をベースにしているのだと!一体どの辺が!?彼女がパニックディスオーダーの精神神経症を持っていたのだろうか?それとも“小さな頃から男性にもてあそばれ続けてきた”のだろうか?(幼い頃にイタズラされる描写と、中学生の頃にレイプされる場面はツラかった……)それともゲイの人たちと、あるいはドラァグ・クイーンと暮らしていたんだろうか?
何にしても彼女の中の性は喜びではない。それは痛みや辛さ、しかしそこから生まれてくる愛する家族、どちらかである。このギャップというべきか矛盾した感覚が彼女を必要以上に追いつめているように思う。この感覚、多かれ少なかれ女性が皆持っているものではないか。性に抱く思いはポジティブなものでは決してない。それは劣等感や、羞恥心であり、セックスのイメージとして最初に、あるいは一方で必ずあるのは陵辱や侮辱のそれである。これは男性には先天的に判らないんだろうな、と思う。広田監督がエロスというテーマから単純にセクシャルな映画を作らなかったのが、なんだかとても良く判るのだ。
しかし彼女は家族を愛している。そして彼女のお腹には新しい生命が宿る。これもまた真実。彼女の中で同じ要素から派生する二つの感覚を両立させるのは難しいかもしれない。でもそれもまた、女の本能的な制御感覚だろう。しかし彼女は先述の“P.D”を煩っていて、日常、大量のクスリを飲んでいる。出産するにはそれをやめなければならない。しかも彼女の夢だったパリでの仕事が決まったばかりで……レオナの親代わりとも言うべきドラァグ・クイーン達がケンケンガクガクと意見を戦わせる中、レオナは静かに考えている。フッキーもマークもそれを見守っている。そしてそんな中、一緒に住んでいたモデルのチルがヘロインの打ちすぎで死んでしまって……。
ダイコ、マーガレット、ホッシー、この三人のドラァグ・クイーン達の持つ強烈な自意識もまた、印象的。レオナのことや上手く行かない自分にイラだってカラんでくるチルに「そうよ、あたしはヘンタイよ。でも自分の力で、好きなことをやってんのよ。あんたは好きなことをやれるだけの力があるっていうの!?」と一喝する。唇を引き結んで駆け出してしまうチル。彼女は可哀相だったな、実際、言われなくたって判ってたんだろう。チルの中ではこのドラァグ・クイーン達の強さと個性へのうらやましさ、レオナへの憧れと嫉妬心がないまぜになってて、とにかく第一義では彼女らのことが大好きだから、余計に自分の劣等感が強まって追いつめられてしまったんだろう。そしてヘロインの量がピークに近づくのも気づかずに、頼り続けて、死んでしまう。
物語のラストはこのダイコたち三人の夢の舞台、ドラァグクイーンコンテストだ。結果は……ま、いいではないか!彼女たちはそれぞれに充分に美しくしたたかに強いのだから……。それにしても、あまたのドラァグクイーンたちが集結するこの場面は圧巻である。化粧と香水と衣装の羽でむせ返りそうな“華やかさ”。
と、ところでゲスト出演で、北村一輝と中嶋朋子が出ていた!?えー、どこに?全然気づかなかったんですケド……(寝てたかしら……)。
広田レオナの生きたフランス人形のような魅力は相変わらず。彼女はちょっとエロティックで、キュートで、繊細で、言葉では言い表せないチャームに満ち溢れている。今の日本の女優さんの中で一番に個性的でスリリングな存在だ。彼女ほどの人をなぜもっと使わないのか!?おなじよーな印象のおじょーさんてきな女優ばかり使ってんじゃないっつーの!★★★☆☆
壕外と呼ばれる町の悪の巣くつ、そしてその悪との癒着に腐れきった小藩をただすために、新しい町奉行が派遣される。それがどら平太と呼ばれる、豪放磊落、しかし知恵と腕っ節と正義感はやたら立つ凄腕の男。バクチに強く女にはやたらモテ、怖いもの知らずでどんな人もたちまち引き込んでしまう。口は達者だけれど、その過剰とも言える言をすべて実行してしまう男。男も女も、それぞれ別の意味で惚れずにいられない男。
“現代日本を代表する俳優”としてのイメージからか、ここ最近はちょっとおとなしめの重厚な役が続いていた感のある役所広司氏、しかし彼はこうした規格外の人物を演らせるとやたら上手いんである。「KAMIKAZE TAXI」しかり、「シャブ極道」しかり。そういう時、この人はほんと見かけによらず、ヘンなこだわりやメソッドにとらわれない人だよなあ、と思う。ここでのどら平太の魅力はクライマックスで見せる50人峰打ちや、悪党どもを屈服させるカッコ良さももちろんありだけれど、なんといってもその屈託のない笑顔で予想もつかないことを軽々としてしまう茶目っ気である。彼が最初に登場する挨拶で家老達がその態度に眉をひそめる場面や、三悪党に刑罰を言い渡した後、突然コロリとにこやかになって裃を脱ぎ捨て、三人の前にあぐらをかく場面、そしてラスト、城を辞する時、「あの(殿からの)推薦文は俺が書いたんだ」とにっこりと破り捨てる場面などなど……予測外のカルみと笑顔にことごとに打ちのめされちゃうんである。ほんと、こういう役を演ってる役所さん、好きなんだよなあ。しかも、すらりと背が高いスタイルの良さと、面長の顔が髷姿もシャープに映し、町奉行にはとても見えないさらりとした着流しみたいなスタイルと良く似合っていて、ときめいちゃうんである。
あまたいるキャストは皆それぞれに味わい深い。意外とお気に入りなのが、彼らだけすっかり世界の外に置かれている、町奉行所の書役の二人、うじきつよしと尾藤イサオ。任期の間中、一度も奉行所に出仕しないどら平太を無能でとんでもないやつなのだろうと噂し、“日記”には「今日も出仕せず」の言葉だけが並ぶ。そのまるで意味の無いようなトボけた雰囲気とそれが似合っているトボけた二人の風貌がなんともユーモラス。
藩の目付け役でどら平太の友であり、彼を女房の様に心配する安川に扮する片岡鶴太郎。この“女房の様に”というところがイイ。どら平太には、彼に惚れきって追いかけてきた腐れ縁のこせい(浅野ゆう子)がいる。彼女は威勢がよく、どら平太に負けず劣らず怖いもの知らずで、彼女に対してはどら平太も頭が上がらない。彼女がカカア天下な女房なら、安川は亭主関白などら平太の女房だ。彼の心配をよそに、危ないことばかりしでかすどら平太をハラハラしながら見守っている。それこそ死地に赴いたどら平太を危惧するあまり、藩のものは立ち入り禁止である壕外にたまらず足を踏み入れ、どら平太の無事な姿を見ると、泣き崩れてしがみつく……もうこの時の安川のユーモラスなカワユサといったらない。
一方で同じくどら平太の友人であり、彼の頼んだ下準備を抜かりなくやってくれる仙波(宇崎竜童)は表面心配する口ぶりをしながら、その物腰は妙に落ち着いている。実は彼は裏切り者だったというオチなのだが、彼のいつもどこか哀しそうな表情が、自ら切腹を選ぶ最期で、とても憎むべきキャラには出来なくしている。
家老達の中ではなんといってもダントツに目を奪われる大滝秀治が最高!彼はもう、クシャミをしただけで可笑しいんだから参ってしまう。そして三悪党は、ボスの菅原文太のさすがの重厚な存在感と、小ズルイくせに小心者の石橋蓮司&石倉三郎の石石コンビが笑える。この二人、いつでもボスの背後で微妙な表情の演技合戦してるんだからもう可笑しくって。
市川監督ならではの会話の良すぎるくらいのテンポの良さと、モノクロを想起させるような陰影深い画作りがやはりカッコイイ。週末にもかかわらずあまり人が入っていなかったのが気になったのだけど……(しかも一人で来ている人が多くて、余計少なさに拍車をかけてる)、こういう王道の面白さの作品が入らないと、ここ最近の時代劇映画の復活もうち止まりかなあ……。★★★☆☆
18年の刑務所暮らしから出所し、カタギになろうとするもヤクザ組織の私利私欲に巻き込まれてしまう男、宝来(松方弘樹)。彼と出所日が同じ縁で知り合うカズ(山口達也)と彼の周囲の面々として、昔ヤクザだったが留学生の外国人女性と恋に落ちたことで足を洗い屋台村を始めた拓ボン、スナックの歌姫で宝来に思いを寄せるようになるジェーン(田村英里子)といった人たち。大体男優は年を取ると若い女の子に思いを寄せられる(あるいはほんとに恋愛関係になる)設定が用意されるけど(女優の場合はただオバアチャンになるだけだ……)、この松方弘樹にホレるかねえ?ま、ヤクザ映画なんだからそうなんだけど、ほんとあのマンマの低いかすれたツクリ声で、この時代には違和感しか残らない、もんのすご典型的なジャパニーズヤクザで。しかも面白くないのが、彼が18年ぶりにシャバに出たというある種の疎外感やギャップをまるで彼自身が感じないまま、口でばっかりカタギになると言ってる白々しさ。「新唐獅子株式会社」のように笑っちゃうまで主人公のギャップ感を描けとは言わないけどさあ。
大体なんでそこまでカズがこの宝来を慕ってんだかも解せないし……おまえはジェーンに惚れてんだろうに、いいのかあ?そう言えばこのジェーンに扮する田村英里子のライブシーンが妙にたっぷりと挿入され、まるで彼女のプロモーションビデオのような趣も。彼女の特に私服時のファッションがどことなーく古臭く、80年代っぽいのが気になる……。カズの母親で高級旅館の女将として登場、短いシーンながらそのしなやかな存在感でさらってしまう多岐川裕美はうーむ、さすがである。出会ったその日の夜に宝来を自分の部屋で飲むように誘い、もしかしてそのままコトを行った?
宝来をジェーンがお父ちゃんと呼んで慕ったり(しかしこの場合の意味はひょっとして“パパ”とかそういうノリでのニュアンス?)カズの母親が殺されたり、宝来の敵対するかつての弟分、大木戸の娘カナが実は宝来の娘だったなどと、ミョーに親子関係の軋みをぐちゃぐちゃと描いてきて、しかもそれが心に響かない。結局ヤクザ映画の義理人情の世界などどこかにすっ飛ばされ、宝来はカナに泣つかれながらも大木戸を殺しちゃってエンドという、すっきりしない展開。うー、なんか今一つ。やっぱり時代にそぐわないせいなのかなあ……。拓ボンのもんどりうった死に方はさすがだったけど、ね。★★☆☆☆