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「ゆ」


2003年鑑賞作品

夕映えの道RUE DU RETRAIT
2001年 90分 フランス カラー
監督:ルネ・フェレ 脚本:ルネ・フェレ
撮影:フランソワ・ラーティング 音楽:バンジャマン・ラファエリ
出演:ドミニク・マルカス/マリオン・エルド/ジュリアン・フェレ/サシャ・ロラン/ベアトリス・ラルティグ/アンジーラ・スアーレス/パスカル・ベロー/ルネ・フェレ/サラ=ジャンヌ・ドゥリロー/フレデリック・ユルネ/ポイ・シム/アリス・サルファティ/ジャン=ルイ・アルメイエ/ピエール・ギユモ


2003/10/21/火 劇場(神保町岩波ホール)
テーマとしてはものすごく地味だし、確かにこれじゃマーケット的にキツいだろうというのは容易に想像できる。でも、どうしてもフェレ監督はこれを撮りたかった。そしてとった方法というのは、デジタルカメラ、スタッフ・キャストとも自分の隣人や仲間たち、そして撮影場所も自分の近隣、というとてもとても親密な、手作りの映画となった。繰り返される哀愁たっぷりのギターのテーマ曲も、“私のすぐ下に住んでいて、私の良き友人でもあるバンジャマン・ラファエリ”だというんだから。手作りだからこそ、生活感も生々しいし、遠慮えしゃくなくカメラが切り取るのが切実、である。遠慮えしゃくなく、というのは少し違うかもしれない……カメラはずっと他人の目を持って見続けている。登場人物の誰か一人の目線になったりしない。客観的、というよりは、他人の目である。それはしょせんは他人事と思って見ているこちら側を逆説的に糾弾しているようでもある。冷たくはないけれど常に冷静な視線。確かにこれは街のひとつの風景なのだ。イザベルが偶然マドに出会わなければ、マドは街によくいる頑固者のおばあさん、ただそれだけ。イザベルがマドに出会ってからも外での見え方は基本的には変わらない。でも、内面は確実に変わってゆく。マドも、そしてイザベルも。

マドは一人暮らしている老女。マドが薬局で店員相手にゴネている場面にイザベルは遭遇し、彼女を送ってやる。そのことがきっかけでイザベルはマドを放っておけなくなり、足しげく彼女のもとに通い、話を聞き、何かと世話してやるようになる。
イザベルは小さな会社を経営するやり手の女性。とてもカッコいい。
ベリーショートにスラリと長身で、それほどメイクもせずパンツスタイルが多い彼女は、時々本当に男性に見えるほどである。そのカッコよさには、女が肩肘張って生きていくなどという気負いさえもない。かつては結婚していたけれど別れ、今はかなり年下と思しき可愛い恋人がいる。その彼は“通い”だし、結婚などという話も出てそうにない。現状には満足している。
つまり、老いて一人になることなど、今のイザベルには考えられないことだったのだ。
でもイザベルは確かにバリバリ働いている女性ではあるけれど、決して若くはない。意外にしわも多く、時々ドキッとするほど老けて見える。
そのしわはカッコよくもあるのだけれど、でも恋人が若いだけに老いに向かっていることも確実に感じさせてしまうのだ。

子供を持たないのは、必要と感じないから、と言うイザベル。そうか、こういう言い方があったのねと思うし、彼女ほどのキャリアウーマンには到底なれないながらも、共感する部分はとても多い。もちろん子供の意味はそんなことだけじゃ括れないけれど、欲しい、と思う最初の動機ってそういうところにあるのかなとも思うし。
でも子供を持つ必要性、という点で相手ともし価値観が一緒じゃなかったら、とも思う。イザベルの恋人は今とても若いからまだそんなことを考えていないのかもしれないけれど将来的に、とか、あるいはもはや子供を生むのは無理な年齢であるイザベルを、その理由から見限ってしまうのかもしれないと思うと怖くなる。
それに、イザベルが出会ったマドが、たった一人で寂しく暮らし、身の回りのことも満足に出来ずに薄汚れているのを目の当たりにするとさすがにふと考えてしまう。
一人が楽しい、一人が気楽。そんなことも許されなくなってしまうのか、と。
それにマドに関しては決して一人が好きなわけではない。彼女は昔結婚していたこと、引き離された息子のことをイザベルに話し、でも息子のことに関しては、それ以上には決して話そうとしない。何か哀しい事情があるようなのだ。
イザベルの生き方に共感しながらも、マドのこの強烈な家族への思いに、親に産み育ててもらった恩をあだで返すような後ろめたさをやはり感じてしまう。
人間としての最低限の義務を果たしていない後ろめたさ。

でも、こんなふうに、他人同士が信頼して寄り添えるのなら。
イザベルがなぜマドを放っておけないと思ったのか。イザベルは言う。「抱きしめたくもなるし、突き放したくもなるの」と。話を聞くうちに、マドは昔、腕のいい帽子職人だったことを知る。女だからどんなに腕が良くても薄給のままだった。時代が時代なら、マドだってイザベルのようにキャリアウーマンとして立派に一人でやっていけたかもしれないのだ。
そして今ひとりになってしまっているマドに、遠からず来る老いた自分の姿を重ね合わせたのかもしれない。

マドは忙しくしているイザベルに言う。
「今の女は男みたいに仕事をするのね」
マドは否定的に言っているのではない。いやむしろ賞賛している。女だって家を持つことができるし、と。時代が違ったら自分にも出来たはずだと思っているのかもしれない。
でも、こうも言う。
「昔は(女は)のんびりしていて良かった」
その言葉にも、いいようのない実感がこもっている。
女がひとりでも生きていける今の時代がいいとは思いながらも、このマドの台詞にはああ、そうだよな、ちょっとうらやましいかも、などとも思うのだ。
女は幸せを守る役目をおおせつかっていたのだから。それこそが、大事な仕事だった。
ある意味、女はその役目を、資格を、奪われてしまったのかもしれないのだ。
女がひとりでも生きていける時代、というのは、女がそういう意味で降格してしまったとも言えるのかも……などと。

イザベルとマドは夫と別れた同士。ラブラブだった昔の恋人の話をし、その彼とは結婚できなかったマド。彼女は言う。「夫を選び間違えたのよ」
自分も離婚したとイザベルが告げるとマドは、あなたも夫を間違えたのね、と言うのだけれど、それに答えてイザベルはこう返す。
「(私の場合は)向こうが間違えたのよ」
そんな風に考えたことはなかった、とマドは笑う。イザベルも笑う。
人生でたった一人の伴侶を見つけること。見極めることの難しさ。
でも例えそれを見つけることが出来ても、それにマドは夫と別れても息子はもうけたのに、こんな風にたった一人で誰も訪ねても来ずひとりで暮らしているのだ。
男より長生きだから、たいてい一人残されてしまう女。
家族が面倒を見てくれるとは限らない現代。
イザベルのように子供を作らない女性にとっては、マドの問題はそれ以上に切実なのだ。

ひとり暮らすマドに、周囲はふたことめには「施設に入れば(入れれば)」と言う。
その言葉には心底ゾッとする。
マドの立場で考えてしまうから。つまり、自分だったら、と。そこにいるのが老いた自分自身だったら、この台詞は耐えられないから。
好きな家から離れたくない。ここで暮らしてここで死んでいきたい、と思うマドの気持ちが痛いほど判るのだ。
でも年老いて、体力もなくなって、身の回りのことも満足に出来なくなり、かといって家政婦や看護士などの他人が入ってくるのもわずらわしいマドに、周囲の人間がそう言ってしまうというのも確かに判るのだ……でも。
年をとったらもうそれしかないのか、自分の好きな生活をすることさえ許されないのか、そんなのって、ない!
人間なのだから。ひとりの人間なのだから。そのことをもうちょっと考えてよ、と思う。
それはこんな風に、あるひとりのケースを見守り続けていないとやはり判らないことなのだとも思う。

マドは思いを貫き通した。
それをイザベルも尊重し、(表面上は)嫌がるマドを強引に押して部屋の掃除を敢行、気持ちよく住める、施設に行けなどと言わせない住まいへと変えてゆく。
それに、マドはイザベルと出会って、どんどんきれいになっていくのだ。
最初はいかにもガンコな薄汚れたおばあさんという感じだった。表情も乏しく、落ちくぼんだ目のまわりが骸骨を思い出させた。
でも赤や薄いピンクのキレイな服を着、笑顔を見せると、とてもチャーミングなのだ。ちょっと、驚く。
年をとっても、いや年をとったらなおさら、そういうことに気をつけなきゃいけないんだな、と思う。いや、年をとっていなくたって、身の回りをかまわず、いつも仏頂面を……していないだろうか?私は。
他人のためではなく、自分のために、そういう努力を怠ってはいけないんだということが、とても説得力があって。

お風呂もロクに入れないマドは、イザベルに身体をふいてもらうため、脱ぐ。
他人に身体をふいてもらう、これって、本当に勇気がいるというか、よっぽど信頼している人じゃないと本当に抵抗があると思う。マドを見ているとそういうことがひとつひとつ判る。老人だから羞恥心などあるわけがないとか、世間的には、あるいは私も知らず知らずそう思っていたのではないかと思う。今なら家政婦や看護士を強硬に否定した彼女の気持ちがとてもよく判るのだ。
あるいは親切にされる、というのも、ありがたいというより、恥ずかしく思う、あるいは惨めに思うんだということが、判ってくるのだ。

結局はでも、気持ちなのだ。イザベルがマドを思う気持ちをくじけずに、時間をかけて判ってもらえたからこそ、マドはイザベルにこうしてすべてをゆだねることが出来たのだ。
ひとつひとつ、脱いでイザベルに渡していく。汚れた衣服に戸惑いの色を隠せないイザベル。そしてマドの下着姿にドキリとしてしまう。服を着ている段階から判ってはいたけれど、実はマドは、おばあさんなのに凄い巨乳だったりするんだもの。
そしてカメラから見切れる。女なんだよなあ……などと思う。
恋の話を嬉しそうにしていた時から、老女であるというより、何より女なんだということを痛烈に感じていた。

でもマドがこんな風に女である記憶、いや、女であることをやっと思い出したかのように饒舌になったり、こんな風に身体を清潔にしてキレイな服を身につけたりしたのは……まるで思い出が走馬灯のように、という、そういう前触れだったのかもと思う。
マドはガンに侵されていたのだ。
医者は、「頭のいい人だから、うすうす気づいていると思う。話を合わせてやってください。」とイザベルに言う。
人間としての尊厳を保ったまま、そして信頼している人に見守られて、最後の時を過ごすマド。
「信じて。あなたの幸せが私の喜びなのよ」そう語りかけるイザベルに、涙を流すマド。
たとえそれまでの人生がどんなに過酷であっても、その最後が優しく穏やかなものであったならば、それは幸せな人生だったと言えるのではないだろうか。

私は、こんな風に隣人に信頼される、そして隣人を信頼できる人間になれるだろうか。
少し、考え込んでしまった。★★★☆☆


許されざる者
2003年 149分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:武知鎮典
撮影:田中一成 音楽:遠藤浩二
出演:加藤雅也 北村一輝 美木良介 石橋蓮司 相田翔子 勝野洋 遠藤憲一 野村将希 有森也美 夏山千景 秋本奈緒美 本宮泰風 津川雅彦 神山繁 根津甚八 近藤正臣 長門裕之 平田満 松方弘樹 藤竜也

2003/4/14/月 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
何かボンヤリとした状態で観始めてしまって、しかもカメラは揺れるし、何だかずっと夜だし、輪郭ボケてて、ヤクザ映画特有に、たくさんの登場人物乱れうちだし、台詞聞き取りづらいし、参ったなあ、とか思ってたんだけど、どんどん引きずり込まれ、動悸が激しくなり、口は開けっ放しになり、放心し、そんなぼけっとしていた自分を思いっきり後悔することになって、これはもう一度観なきゃダメだ!と、上映終了間際になって再度足を運んだのであった。もう一度アタマから観ると登場人物の関係性もよーく判って、こと家系図、組織図関係にヨワい私には良いのだ……なんてことは、どうでもいい。これは、尋常じゃない。とてつもない。何で、どうして、三池監督はこんなにもさらっと、ホンモノの映画を作ってしまうのだろう!多作、早撮りで知られる三池監督の新作は、私のチェックが甘かったせいもあるけれども、いつのまにか公開されてて、気づいた時にはもう終わりそうで焦って観に行ったんだけど、これがこんな傑作なんである。というか、何でもう、ビデオジャケットが出来てんの?これって、ビデオ化を前提にした、劇場公開はオマケの例のやり方?このクオリティで?冗談じゃない!
色々なジャンルを撮ることで知名度を上げた感じだけど、やっぱり三池監督は、こういう世界に円熟味を感じるようになった。色々なジャンルは腕試しというか、試行錯誤だった気さえするのだ。こんなに多作なのに、一時期は天才扱いされた寡作のK監督より、ホンモノ度を高めていく!

「荒ぶる魂たち」から続いて、原案、脚本の武知鎮典、そして主人公の加藤雅也と再度組んだ本作は、確かに「荒ぶる……」と同じテイストだと言えるのかもしれない。しかし、そんなことはもはや気にならないほどのクオリティで撮ってしまう。いまだに、早撮りなんだろうか。逆に早撮りという手法が、一つの世界観からズレる余裕を与えることなくガツッとつかみきる秘訣なんだろうか。そうだとしたら、その早撮りで、この世界にそしてこの役に、頭からどっぷりはまっている加藤雅也の凄さもまた、尋常ではない。彼は一体何だって、こんなにもホンモノの役者になっちまったんだろう!それとも、三池監督との相性がよほどいいんだろうか。というか、三池監督自身が、役者の彼にホレきっている、そんな感覚さえ起こさせる。こんな、こんな境地は、あの哀川翔だって、エンケンだって、北村一輝だって、なし得なかった境地なのだ。ヤバい。

加藤雅也が演じるのは、復讐の二文字しか頭にない、それで突っ走るしかない鉄砲玉、守部梓。ほとんど表情を変えることなく、無論笑顔など全く見せることなく最初から最後まで走り抜けるのに、その表情の微細な変化が、ズドンとはまり、決まるのだ。この人は、凄い。特に、中盤から、愛妻を敵に捕らえられてからが、バツグンになる。髪が乱れて、服装が乱れて、ぐんぐん絵になっていく。表情も、たたずまいも。それまでは、やはりどこかには、役のキャラを意識している感じが、それ以降に比べれば少しはあったかも、とも思うのだけれど、そこからは、まさしく、全身が入っているのだ。
前回は美木良介に、そして今回は藤竜也にさらわれた感じもするけれど、その中できっちりと、馬鹿なほどに一本気で、だからこそあまりにもカッコよすぎる加藤雅也にひたすら見惚れる。

彼は最初から最後まで、白づくめのスーツ姿。回想場面も、そして銃のホルダーも白、と徹底している。ホコリや血しぶきで結構汚れるはずで、一体何着持っているんだとか、いらぬツッコミを普段の私ならしたくもなるんだけれど、ここまで彼が染まっていると、そんな気にもなれない。モデル体形の彼が、こんなキザな格好が似合うのはまあ当然とも言えるのだけれど、それをヤクザの鉄砲玉、という熾烈なキャラに染め上げるというのは、それをマンガチックにもさせずに、そうさせてしまうのは、やはり凄いとしか言いようがない。まさにその白装束は命をも辞さない、決死の覚悟の死に装束。

最初は、単なる組長殺しに対する、この梓の復讐の展開に過ぎなかった。そのはずが、この組長殺しを成し遂げたヒットマンは雇われ者で、しかもその依頼者の上にはさらに依頼者がおり、さらに……という複雑な入れ子構造で、最後にあぶり出される真の黒幕は、政治家の大物。梓は最終的に、自分の組から絶縁を申し渡されてもひるまず臆せず、この真の悪玉をぶっ殺して、兄貴たちに「あいつ、きちんと、スジを通しやがった……一匹狼の奴の方が、組織に守られている俺たちより……」と呆然とされる。今はもはや、絶滅状態にあるのかもしれない、真の任侠道を持った男なのだ。……などというのだけでも、まだ終わらない。この梓が心から慕ってやまなかった組長を殺したヒットマン、芹田は梓の義理の兄。しかも、芹田は父親をぶっ殺し、そのあとも殺しに殺しを重ねた根っからの殺人鬼なのである。

この芹田を演じるのが、藤竜也。まるで意味もなく、まるでそれが自然体だとでも言うようにマシンガンをぶっ放す、この驚くべき殺人鬼を、「アカルイミライ」の時の穏やかさとさして変わらないままで演じる彼に、驚く。黒の長いコートとサングラス、そしてトレードマークの口ひげで、まだまだ若くて青い、血気盛んな加藤雅也と対照的に落ち着きはらって人を撃ちまくる彼に、真の怖さを感じる。正直どこか怪しげな津軽弁も、そして余裕たっぷりにケケケとばかりに高笑いするその声も、何もかもが、凄い。

芹田の相棒として出てくる石橋蓮司も、相変わらずの怪演を見せてくれる。シャブ中で、殺しの請負人で、裏切り者の奥さんをバック攻めにしたりしても、どこかおっとぼけで、梓に奥さんを大切にしろよ、とか言ったり、何か憎めない。死に方も、ふるってる。撃たれても撃たれても、おい、何だよ、痛えよ、なんて言ってるすっとぼけで、最後の一発でようやくぶっ倒れる。こういうテイストは石橋蓮司ならでは、だよなあ。
梓が助っ人としてホストクラブから連れ出してくる水谷に北村一輝。彼がホスト、というのは、まさしくさもありなん。しかし、駆り出された彼、「俺、もうカタギっすよ」と言うけれど、うーむ、ホストはカタギ、かあ。まあ、ヤクザに比べればね。

今回も美木良介は凄い。彼は梓の兄弟分の渡。「荒ぶる……」よりも、どこか血の気の多い感じのヤクザで、最初はこの梓と流血の大乱闘になったりもする。しかし、公安のコネを梓のいちずな復讐心(というのも、おかしな言い方だけど)のために使ってやる義侠心の強い男で、妻子を愛する優しい男。そう言えば、「奥さん、無事だったのか、良かったな!」と喜んでくれたのも、彼だったのだ。しかし梓のために探りまわったツケが回ってきて、彼は公安に消されてしまう。娘に、「今度の休み、ディズニー・シーに……」と言いかけたところで、バン!と撃たれ、娘にその返り血がバシャッ!と浴びせられる衝撃のラストに呆然とする。その時までしぶとく生き残っている梓。全ての復讐が終わったはずの彼だけど、渡のために、また復讐の戦争を始めるのかもしれない。

義兄に父を殺された過去を持つ梓。しかしこの兄に、世の中を渡っていく術を教えられる彼。梓、という名前はどこか可愛らしくて、渡世の親の復讐のためにと奔走する、そして父の仇なのに、この義兄を憎んでいるはずなのに、兄弟として情愛を捨てきれない彼を体現しているような、気がする。この義兄、芹田は確かにめっぽう強くって、まだまだ未熟者の梓には、歯が立たないのかもしれない。でも、いつもなら、これはムリだろ、っていうような場面でもバカみたいに無鉄砲な梓が、この芹田には銃口を向けられないのだ。向けても、ものすっごく逡巡して、片頬がピクピクするほどで(凄いよ、この時の加藤雅也の頬のピクピクは)。最終的に、彼が芹田に銃弾を撃ちこむのは……最後の最後。本当の黒幕を殺して、芹田が「そろそろ決着をつけようじゃないか」と自分との対決をうながした時に、彼らを追ってきていた殺し屋が、芹田を撃つ。首に矢が突き刺さって、もう息も絶え絶えで、自分で自分のこめかみにピストルを当てて引き金を引くんだけど、弾が切れてて、死に切れない。芹田は梓に、自分を撃ってくれ、楽にしてくれ、と合図する。梓はその合図が何度も何度もなされても、ずっと出来なくて、憎んできたはずなのに、殺したい相手のはずなのに、出来なくて、でも、苦しんでいるこの義兄に、ようやく、ようやく、銃弾を撃ちこむのだ。その時の、加藤雅也の、表情ときたら!なんて、なんて顔するのよ!真正面からのアップではなく、あおり加減に、控えめに映し出す彼の顔は、でも、私……こんなに、哀しさが複雑さを持ってたたえられた顔、見たことないよ。

水谷を、そして芹田をしとめたのは、大物政治家がからむこの事件を闇から闇へ葬りたいがために敵が差し向けた、引退したヒットマン、朝倉。これが平田満で、つれている“引きこもり”の相棒が村上淳。この二人はどこかゲイの雰囲気があって、平田満ってば髪を青く染めてるし、もう、見たことない彼で、あんぐり、口を開けてしまった。仲間を皆失って呆然とする梓の姿に、背後から忍び寄った朝倉は、「……きれいだ」とひと言。その言葉にうわわ、と鳥肌が立つ。ハッとした梓、この男を追って走り出す。森の中に逃げ込む朝倉は、今までびっこをひいていたはずなのに、走っているうちにいつの間にか治って(!こういう映画どっかで観たぞ)そのままダダダッ!と木をジャッキー・チェンみたいに駆け上がる(!!)森の中、朝倉を見失った梓、周りを見渡しても、梢を吹き渡る風と鳥の声が聞こえるばかり。そこにドッ!と梓めがけて飛び降り、彼を組伏す朝倉。

この時の、加藤雅也の、何と呆然とする美しさよ。それまでは、徹底したダンディズムに目を奪われていた、んだけど。彼をきれいだ、と言った朝倉に組み敷かれて、銃を突きつけられて、この死に装束の白いスーツをホコリと血に染めて、襟もすっかり乱れ開いて、髪も乱れて、もう死を覚悟した、しかしあきらめの表情ではない、退廃的な、耽美的な、その湿度のある表情ときたら、エロティシズムさえ漂う色気で、ゾクッとしてしまう。もう、本当に、凄い。まるで、まるで彼の美しさに撃たれたかのように、彼に突きつけていた銃を突然自分の口にくわえて、後頭部をぶっ放し死んでしまう朝倉の鮮烈さ。痙攣する朝倉の足を腹にのせて、梓は生き残ってしまった自分の体を木漏れ日の射す森の大地に横たえて、天を仰ぎ見る。

梓の愛する妻、洋子は、弟分の水谷の姉で、彼らは幼なじみ。この洋子を演じるのが相田翔子。三池監督に起用される貴重な女優たちはラッキーだ。「新・仁義の墓場」、そして本作にもゲスト出演の有森也実は、彼女本来の才能を久しぶりに開花させた。本作の相田翔子はちょっと意外だったけれど、猫っ毛のふわふわした髪の毛に、色とりどりの毛糸のアミアミをぶらさげて、ふわっとしたオトメチックな服を着て、そんな、ふっくらとした、ヤクザの世界とは対照的な可愛らしさが彼女にドンピシャで、余計にこの物語の切なさをかきたてる。まともな台詞はほとんどなく、女キャラを使うのが苦手っぽい三池監督らしいけれど、でも、このカンペキなまでの男の世界で、数少ない女で、しかも台詞が殆どないような役だからこそ、強い印象を残す。そう、今までは三池監督の女優の使い方には割と不満があって、まあでも、これだけカンペキなまでに男の世界を描いているから仕方ないのかも、と思っていたんだけど、ここ最近の三池作品は、違う。少ない女優陣、少ない登場場面、少ない台詞、そんな中で、強さと弱さを兼ね備えた女を、ハッキリと印象づけるのだ。そして、梓と彼女、二人は、きっと一緒にいる時間はとても少ないのに、とても愛し合っているのが判る。なぜなんだろう……。

ことに、あの場面は、もう、胸がかきむしられる、なんてもんじゃなかった。復讐のために組んだチームの仲間が一人残らず殺されて、たった一人生き残った梓が、フラフラと、洋子が切り盛りする路地裏の小さなお好み焼き屋に戻ってくる。次のシーン、死んだように眠る彼の横顔の、乱れた髪を、そっとかきわける彼女の指。白いスーツは血で汚れて、その手も真っ赤に血で染まって、横たわった彼は、その頭を彼女のひざに乗せていて。厨房の中、外からは見えないところで、二人だけの静かな時間をつむぎ出すその場面は、その戦士のつかの間の休息の画は、あまりにもあまりにも、刹那で美しく、呆然とするほどだった。

これは現代のヤクザ映画なわけだけれど、黄金期のヤクザ映画をひっぱってきたベテランたちが、さすがの余裕でこの作品にすっかりと収まっている。梓がその命をかけて復讐を遂げる、殺されてしまった組長に、津川雅彦。冒頭で早々に死んでしまうのだけれど、主人公、梓の行動の全ての理由として、回想シーン、幻想シーンと切れ目なく現われ、得な役。濃いめのイメージの彼が、押えた演技で、唸らせる貫禄。そういえばこの作品、音が抑え目で、この組長が喋るシーンとかとても穏やかで、その静寂にしんしんと響き渡る彼らの言葉に思わず耳をすませてしまう。梓は、この親愛なる“親父”のことを、幻想さながらに折々思い出す。すぐ走りたがりやがって、もういいかげん、暴力沙汰は卒業しろ、だなんて、およそヤクザの親分らしからぬことを言って、たけりやすい梓を優しく見守ってきた渡世の親父。それを思い出しているんだけど、確かに思い出しているんだけど、でも梓は死んでしまった親父のために、走らずにはいられないのだ。命を賭しても。

そして最大の黒幕、大物政治家に、津川さんと兄弟そろって出演の、長門裕之。クレジット的には津川さんの方が上だけど、こういう老獪な役をやらせると、本当に上手すぎる、とこれも唸る。政治家特有のどつきたくなるような、「ここはひとつ」てなパフォーマンスを、絶妙につめたカッティングで見せて、彼の上手さを際立たせる。しかも、彼の最大の見せ場は、この敵を追ってきた梓に縄をかけられ、首つり状態で疾走する車に引きずりまわされる!この時の加藤雅也のカッコよさは頂点で、長門裕之の哀れな情けなさも頂点で、残酷さとものすごいスピード感とで、またしても口がふさがらない。

カネで情報を渡す、公安の松方弘樹も凄い。松方弘樹はあんまり好きな役者さんじゃないけど、三池監督にかかると、彼の臭みが、まさしく魔法にかかったように、ものすごいスパイスになる。このヤラしい喋り方と、不敵さ。おいしいところだけをつまんで、用がなくなったら、自分に不都合な奴は、さっさと消し去る。これが、先述の衝撃のラスト。悔しいけど、最後にさらったのはこの松方弘樹。くそう。

ところどころの、三池流の絶妙なギャグが、この美学にあふれた作品のいい息抜きになる。強引に自分の手助けをするように連れてこられた水谷が、梓の話に呆然としてハンドルを切り忘れ、前の車に追突してしまうこの絶妙な間には笑ってしまうし、どう考えてもこれはこっちが悪いのに「どこ見てやがんだー!」と車から走り出て、相手をボコボコにしてしまう水谷を、助手席に残って泰然と眺めている梓、という図も、笑ってしまうのだ。
三池監督の画的なセンスも、何かもう、モノ凄いものがある。グラグラ揺れている手持ち?カメラはいつも何かを探しているようで、風に舞い上がる路上の枯葉、森の中の蜘蛛、ふと咲いている可憐な花などがパッと印象的に映されたりする、のは意外なリリシズムなのだけど、もっと狙っている、確信犯的な画が、凄いのだ。狙った悪玉は入院していて、コイツは白の着流しに、軍服の上着をひっかけ、かたわらにはご丁寧にも制帽まで置いてある。後ろの壁にはなぜか日の丸が張っており、それをバックに刀をたずさえているというのは、訳わからんながら、すげえ図なのだ。どっかギャグなまでに。この病室に床をすべりこんできてぶっ放す梓(カッコよすぎ)の銃弾に彼は倒れるのだが、この日の丸に血が吹き飛び、ダラダラと流れ、女の、絹を引き裂くような叫び声がオーヴァーラップする。この強烈なまでにシニカルな画!あるいは先述した控えめな音。戦闘シーンの中にあって、ふっと静寂が訪れ、ついさっきまでの激しい戦闘を想像させるように天井から長く吊り下げられた豪奢な電燈がキィ、キィ……とかすかな音を立てたりする、クールな緊張感に唸る。こんなさらりと粋な描写をする人だっただろうか?

いつもいつも鳥肌のたつ音楽を聞かせてくれる、三池作品での遠藤浩二。今回は、今回は、もう、素敵過ぎて……。実際に音楽が流れる場面はほんのわずか。でも、そこで低く低く流れる、哀愁のボサ風ヴォーカルは、この刹那の、耽美の、美学をこれ以上なく完璧にフォローアップする。何も言うことはない。全てに酔いしれる。完璧!★★★★★


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