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the EYE【アイ】/THE EYE
2001年 99分 香港=タイ カラー
監督:オキサイド・パン/ダニー・パン 脚本:オキサイド・パン/ダニー・パン
撮影: 音楽:オレンジ・ミュージック
出演:アンジェリカ・リー/ローレンス・チョウ/チャッチャー・ルチナーレン/キャンディ・ロー/エドムンド・チェン/ワン・スーユエン/コウ・インペン/ソー・ヤッライ/フォン・ジンファッ
新しい才能。そう、この双子のパン兄弟、私は初見。デビューで前作の「レイン」は観逃がしてしまった。ちょっと、後悔。それにしても最近兄弟監督が多い上に、兄弟監督って、こんな、独特の世界感を作り出すことが多い気がする。それも双子監督となると、即座に思い出されたのは、「ツイン・フォールズ・アイダホ」のポーリッシュ兄弟なんだけど、そういう不可思議さが更に顕著に感じられる。これって、双子の経験のない当方としては失礼な言い方ながら、不思議な不気味さがあるというか、興味がある。ポーリッシュ兄弟、あるいは兄弟監督の代表であるコーエン兄弟などもそうなんだけど、監督、脚本とそれぞれで役割分担があるのに対して、このパン兄弟は、脚本も演出も完全に共同で当たっているわけで、つまりは分け合わずに、ヒロインのアンジェリカ・リーが言うように「二つの体に一つの魂」でやっているんだとしたら、これは本当に不思議な、どこか神がかった感じがするのだ。しかも、その一つの魂で作り上げるのが、こんな世界だなんて。
もとネタは、角膜移植の一週間後に自殺してしまった16歳の女の子の新聞記事にあるらしいんだけど、この実際の女の子の自殺の動機が何だったのかは判らない。ので、この映画で描かれる物語は、もちろんそこから発展したフィクション。でも、この「角膜移植一週間後に自殺」というのは、確かに、どうして?とちょっとブルッとくる、想像力をかきたてるものが大いにある。それまで彼女の中になかった視覚という世界が、彼女に自殺させてしまうまでの、それも一週間という短期間にそれを決意させてしまうまでのものがあったということ。そこから、角膜移植を受けた女の子が、そのアイドナーである死んでしまった女の子の見たもの、というか、その能力を受け継いでしまうことによって起こる恐怖、という物語が生まれた。しかしこのアイディア、「ブラック・ジャック」におんなじのがあったよなあ?あれは幽霊を見るっていうんじゃなくて、そのアイドナーの心に強く残ってしまった映像、ぶっちゃけ彼女を殺した男が見えてしまう、というやつだったけど。こういう発想って、結構偶然同じものが出てきてしまうものなのだろうか?それとも……。
とにかく予告編が非常に怖くて。あの、目の部分がすっかりボヤけてなくなってしまっている顔の恐怖ときたら、ノッペラボーより怖いものなのね!その顔を一瞬見せする予告編は、もう、すごおく怖くて、全編この怖さで押し切られるんだとしたら、これは、スゴい映画になる!とワクワクした。しかし、この顔のショットは……予告編ではそれが鏡に映る形になっていたと思うんだけど、本編では、なかったような。オープニングにその顔がショッキングにバッとアップで出てくるのはあったけど。
正直、怖いのはその顔だけ。それ以外の幽霊さんたちは割と予想の範囲内だし、彼女が見てしまうその幽霊たちは、死んだ直後の人間、という説明のなされ方で、不条理な怖さがない分冷静に見られる。ホラー映画の怖さというのは、この説明のつかない怖さである部分が多いので、それが最初からはっきりしていると意外に怖くなかったりするのだ。だから恐怖譚では、大抵幽霊さんがどうして出たのかとかいう解説は後回しにされるわけで。でもここでは、何で見てしまうのかという解説は後回しだけど、この幽霊さんたちの出自はおのおのはっきりしちゃっているから、それほど怖くなくなってしまうのだ。
どちらかというと、死神と思しき黒い影の方が怖かったりして……これもまた、顔がはっきりしない恐怖ね。あるいは、その存在も、幽霊さんたちよりははっきりしない。だから怖い。
というより、数々出てくる幽霊さんたちは、幽霊の恐怖というより、どっかホラーエンタテインメントのキャラ的なものが多い気がする。最も顕著なのは、子供を連れて紫の舌をべろべろとやっている女。これは心的な怖さというよりはほとんどクリーチャーなキャラクターで、添えられた、ダンナを待ち続ける母子、という情緒的なものからは程遠いものがある(こういう風に、地縛霊みたいになっている幽霊さんたちにさえ、出自がはっきり与えられているんである)。あるいは、エレベーターに出てくるおじいさんの幽霊。エレベーターという限定された中で、もうこれは幽霊が絶対出てくるだろうというのは予測の範囲内で(例え、最初のエレベーターに幽霊を見つけたヒロインが一台やりすごしたとしても)しかも出てくる幽霊さんは、足が地面から少しだけ浮いているおじいさんで、で、片目がなくて。こうなると、シチュエイションの凝った幽霊キャラという感じで、やっぱりそれほど怖くなくなってしまう。上映後、階下に降りるエレベーターの中で、隅っこに乗った男の子にその友達と思しき子が、ちょうどお前の位置で逆の方向向いてた、と言ったのには彼らとともについつい笑っちゃったけど、そんな風に笑えてしまう、それもやはり同じ理由だと思う。
最初にヒロインのマンが見た、通信簿を探し回っている男の子の幽霊。階段の踊り場にある窓から身を投げてしまうんだけど、マンがエレベーターのおじいさん幽霊から走って逃げてきて、階段の踊り場をくるりと曲がる、その一瞬に彼女の視界の片隅にこの男の子が見えるあのショットは、鶴田法男監督の「ほんとにあった怖い話」の一エピソードにソックリなんだよね……これもまた偶然なのかなあ。
だから、こういうハッキリとした幽霊より、視力がおぼつかない中で見てしまうぼんやりとした影、が最も怖いのだ。角膜移植をしたマンが、しばらくの間光の強さもあってなかなかその視界に慣れない。0.04ほどの視力、輪郭がはっきりとつかめない視界の中で、正体のつかめない何かが動いているのが見える……。0.04って私の裸眼に近いし、このぼんやりとした感じ、確かに慣れ親しんだものだから、こういうのを恐怖として見せられると、めがねを外して周りを見るのが怖くなっちゃうんだよー!マンがふと何かに気がついたような顔をして目をあげたり、ハッとしたりすると、何、何が見えたの!とブルブル。これから何かが見えるかもしれない、彼女には見えているのかもしれない、気配が感じられているのかも、とそう想像してしまう、身構えてしまう時が一番、怖かった。だからマンがこの視力に慣れ、ハッキリと輪郭のつかめる幽霊を見るようになると、もはやあまり怖くなくなってしまうのだ。そしてこの幽霊を見る、というのが一種の、予知能力も秘めており、マンは病院で仲良しだった脳腫瘍をわずらっている少女、インインの死をも知ってしまい、悲しみに打ちひしがれるわけで、ここからはもうはっきりとドラマ性を帯びて、恐怖映画ではなくなってしまう。
この予知能力は、無論アイ・ドナーの持っていた力。最初は信じていなかった心療士のローもインインの出来事でマンを信じるようになる。そして力になってやりたい、と。ま、その最初からこの二人には医師と患者以上のものを感じさせる信頼関係があったからさ。多忙な彼女の姉が、妹を送ってやって、と彼に託したその時から……。それまで目が見えなかったマンに目で物事を認識していく手助けをしようと言った彼、つまりは彼女は視覚による価値観を持っていないわけで、美男子がどういう顔なのかとかも判んないわけでしょ?マンは最初からこの心療士に好感を持ったように見えたのは、やはり視界ではなく、彼女がそれまでつちかってきた感覚によって、彼をこころよく思ったのかな。いや、別に彼が美男子じゃないとか言ってるわけじゃなくて、そりゃ美男子ではないけど(笑)、カワイイタイプの、感じのいい青年よね。でも、やっぱりひとめ惚れするタイプではないじゃない?
こういう部分でも感じるんだけど。視力がない人には、視力のある人にはない世界があるということ。視力があることの方が幸せというのではなく、視力がない世界の、独自の感覚や世界があるのだということ。別の世界だということを。
これが、あの、「角膜移植一週間後に自殺した」女の子の話から発想することなのだ。ほとんど生まれた頃から視力を持たなかった人が、目が見えるようになって、それに恐怖を感じること。感じたんじゃないかということ。心霊現象とかそういった、ある意味原因がはっきり判っていることではなくて、彼女の世界を失ってしまったこと、それに対する失望に似たものではなかったんじゃないかということ。最初から視力のある人は、視力を得ることの方が当然いいと思ってしまうけれど、そんな単純なものではないんではないかということ。
マンが自分の分身のようにして、大切にしているヴァイオリン。憑かれたように弾くそのヴァイオリンに、彼女の、そうした世界があるように思う。目が見えるようになったから、と盲人楽団から外されてしまうマンは、大きな失望感を味わう。視力を得ることによって失われていく、それまで大事に育ててきた自分の世界。
マンはある日、鏡に映った自分の顔と、皆が認識している顔が違うことに気づいてしまう。その時、彼女の視界で現される鏡に映された女の子の顔は、別人。これは、怖かった。でも、怖いのは、ここが最後。アイドナーを訪ねる旅とクライマックス、そしてラストは、ホラーというよりは、スペクタクルエンタテインメントと、自分探しの旅で収束してゆく。小さな頃から死ぬ人を予知できてしまったアイドナーのリン。村人からはバケモノ扱いされて、忌み嫌われていた。ある日村全部を襲った大火事の翌日、首をつってしまう。彼女にはこの大火事も無論、予知できていたのだ。必死に皆に逃げるように呼びかけるけれども、誰も聞く耳を持たず、結局多くの人が死んでしまう。彼女は悲嘆し、首をつってしまった。娘が自分をおいて逝ってしまった、と、頑なに心を閉ざすリンの母親に、あの日から何度も何度も自殺を繰り返しては死にきれず、地縛霊となっているリンを憑依させて会わせてあげるマン。これでやっとリンも成仏し、マンがリンから受け継いだ能力もなくなるだろうと思ったのだが……。
仏を成仏させることによって解決を図ろうとするのも、まんま「リング」と一緒、って気もするが、まあいい。とりあえず、この能力はなくならないのだ。マンは最後の最後、ものすごいクライマックスでこの能力がまだ残っていることを知ってしまう。それは大渋滞の道路を一気に襲う大火災。あの時のリンと同じように、事態を悟ったマンは必死に一台一台のドライバーに呼びかけるのだけれど、当然そんな話を真に受ける人はいない。そして、一気に炎がなめつくし、一瞬のうちに無数の人たちが焼け爛れた死体になってしまう……ここまでくると、リンの能力はやはり単なる予知能力というより、そういう場に引き寄せられる能力、と言った方が正しいかも、と思う。残酷だけど、彼女がバケモノと恐れられたのは、あながちはずれてなくもなかったのかな、なんて。でも彼女は優しい人だったから、皆をそんな目にあわせたくなかった。それが悲劇だったのだ。
このクライマックスはなかなか凄い。でも凄いだけに、結局はこの場が見せ場のスペクタクル系エンタメになっちゃった気もして、ちょっと残念。むしろこのあたりがトム・クルーズのリメイク心を喚起させたのかも、だなんて思っちゃう。
このスペクタクル、な場面で、マンは結局、またしても視力を失ってしまう。でもそれこそが、彼女の世界。そして、今までの彼女とは違うのだ。短い間、目が見えたマン、「世界が素晴らしいものだと、判った」と、あのインインちゃんの言葉を繰り返す。ほんの短い間……リンの件が片付いて、あの大事故が起こるまで、マンがバスの窓から見ていた、人々の、ささやかながら幸福な、活気のある、いきいきとした生活。それを見ていた彼女の、穏やかでハッピーな顔。インイン、あなたが見せたかったのは、こういう世界だったのね、今、ようやく見ることが出来た、とそう彼女は思っていたんじゃないかな……。そしてまた視力を失うけれども、マンの中にその風景は生き続け、何といっても愛する彼を得て、再び生きはじめる。でもね、でもね、本当は……ホラーが、サワヤカな後味を残しちゃ失格よッ!怖い記憶が遠くに行っちゃうんだもん。ホラー映画は最後の最後まで怖くなくっちゃ。……まあ、でも、幸せで、何より。
ちなみに、このヒロイン、マンを演じるアンジェリカ・リーはなかなかカワユイ。フツウの感じのかわゆさが、いい。肩までの真っ黒サラ髪に、目力のある真っ黒な瞳が印象的。どこかロリータな魅力も漂う。その彼女が憑依されちゃう、アイドナーの持ち主のリンは、対照的な、まさに巫女さんタイプのセクシー系。役のせいで、笑顔が一度も見られなかったのが残念。
最後に。充分驚いちゃったけど、本当は音の大きさで驚かせるのは少々ルール違反。こういうことを考えるのもルール違反だけど、だってね、ビデオになった時、音なんて絞っちゃうから意味ないんだもん。あるいは音響設備の悪い劇場とか。期待してた映像での恐怖が意外に単純だったから、余計にちょっとうーん、と思っちゃったなあ。★★★☆☆
「blue」といえば、である。女の子同士の友情話が出てくればもう即座に、ちょいレズに考えてしまう私が、本作では全く考えなかったのに、ヒロイン、モン・クーロウが、チャン・シーハオに付き合えない理由として、親友の女の子、リン・ユエチェンが好きなんだと告げたもんだから、かなりビックリした。……でも、何でそのことを考えなかったんだろうと思い、本当にモンはリンのことを好きなのだろうかとも疑い……これが彼女の秘密、だとしてオフィシャルサイトでもこの部分は伏せているから本当にそうなんだろうとも思うけれども、やっぱりチャンが言うように、親友を裏切れないためのウソなんではないかとも思い……ぐるぐるした。でも、そんな風にハッキリと線引きできるものではないのかもしれない。それこそ今という時代だったら、この年で堂々と恋愛関係を発展させていくことが出来るんだろうと思う。でもちょっと懐かしさを感じるこの世界、女の子には仲良しの女の子にちょいレズを感じるような季節が確かにあり、それはハッキリとした同性愛というんではなくて、異性愛さえまだ未熟な彼女たちには自分がどちらの側にいるのかさえはっきりしていなくて、だから揺れ動く。でも、今だってやっぱりそうなのかもしれない。この年頃はまだまだ恋に対して未熟なのかもしれない。こういう季節をちゃんと通り過ぎないから、今の子達は過ちをおかしたりするのかもしれない。
モンは最初、チャンに対しては、それまでは自分の世界の総てであった大の仲良しのリンの好きな人、として興味を持って近付いた。それはリンの世界を共有したいという思いだったかもしれないし、やっぱりちょっとした嫉妬も働いていたかもしれない。あるいはちょっとカッコいいコだ、ぐらいは思っていたかもしれない。夢見るような目つきで片思いの相手、チャンのことを語るリン。“拾った”と称してチャンの後をつけまわしてボールだの飲み終わった後のペットボトルだの靴だの日記だのをゲットしているリンは、おいおい、お前それはストーカーだろとも言いたくなるんだけど、恋の基本というのは確かにストーカーに他ならないのだ……こんな具体的な行為でなくったって、ついつい目で追ってしまうというのも。いつも姿を探してしまうというのも。リンは結構美少女。それに対してモンは素朴な感じの、言ってみればリンよりは幼く見えるコ。つまりはモンはリンのような恋の感情をまだ知らなかった。だから、チャンに臆せず近づけたし、近付いてしまったから、……好きになってしまった。
モンの戸惑いは、彼女がリンのことを好きだと、自分は女の子が好きなんだと本当に思い込んでいたせいなのかもしれない。異性に対する恋、という感情がどういうものなのか、チャンに対するドキドキがそれなのか、判断できなくて戸惑うモンは、付き合おうと言ったチャンとデートしてみたり、彼に「私にキスしたい?」と聞いてみたりする。そしてその同じ台詞を、たまたま夜の自転車散歩で遭遇した、ジョギングしていた体育教師にも投げかけたりして、危うくこの体育教師を誘惑しそうになってしまう。自分のこの気持ちが、単なる異性に対する、どの異性にも同じように感じる気持ちなのかどうかと確かめるために。彼女のこうした少女期の危うさがたまらない。あまりにも無防備でハラハラしてしまう。友達に対しても、好きかも知れない男の子に対しても、大人に対しても、あまりに素直で正直すぎて、……いつの頃からか、ウソばかりで自分を防御するようになるから。
だから、恋の感情を、少々幼稚なそれとはいえ先に覚えたリンの方が、そんな防御線もそなえてて、哀しい大人なのだ。そう、確かに彼女の恋の感情は幼稚だし、臆病で、あまりに身勝手。親友に何もかもを託して、しかしそれも怖くて、ラブレターの差出人を親友の名前にしてしまったりといった、不可解な行動にさえ出てしまう。つまりはすべてが自分のせいなのに、勝手にヤキモチを焼いてモンの机に落書きしたり(他の子のせいにしたけど、やっぱり彼女なんでしょ?)あからさまにシカトしたり。それに対してモンはこれまた実に素直に憤りを表したりもしつつ、結局何だかウヤムヤに仲直りしてしまう。仲直りはウラギリがなかったことが絶対条件。モンはチャンに対してあきらかに恋の感情を持ち始めていたのに、彼に別れを告げなくてはならなくなる……。
夜の学校、体育館。ああ、もうこのシチュエイションだけでドキドキ。モンはチャンにもう付き合えない、と告げる。椅子の並んだ中で力いっぱい押し合う二人に切なさとドキドキで心臓が爆発しそうになる。男の子とはいえ、10代特有の着やせする感じの華奢なチャンと、もちろんそれ以上に細くて無力な女の子のモンが椅子をガタガタ蹴散らかしながら押し合うこのシーンはホント、たまらないのだ。夜の青のぬめり、この色は、彼らが二人っきりで初めて出会う、夜のプールでも印象的。守衛さんの目を盗んで夜の学校のプールでこっそり練習している彼を見に、リンにつきあわされて来たモン。臆病なリンは先に帰ってしまって、モンはチャンと二人きりになってしまう。この最初から、リンはモンとチャンのチャンスを作ってしまったわけで……。半裸でずぶぬれの男の子と、ラフな私服の女の子が、守衛さんから隠れて二人並んで息を潜めて秘密を共有しているシーンの何というひそやかさ。彼が泳ぐとプールの青く揺れる水面がまっすぐに流れてゆく。しなやかな鍛えられた体。それをプールサイドで見守る彼女。このせめぎあいがなんともいえず、胸をかきむしられる。
リンの恋は結局はかなわない。だってチャンはモンが好きなんだもの。彼の気持ちは揺れ動くモンよりずっとまっすぐではっきりしていて、まぶしいぐらい。リンの恋は手紙とかおまじないとか、かなり幼くて今だと既に小学生レヴェルかも。恋に恋する、みたいな。でも確かにふた昔前ぐらいまでは、こういうのも高校生の世界だったのかな……少女漫画チックな。エンコウが横行している今じゃ、ウソみたいな話。リンは失恋しても今までと同じように、恋のかなうおまじないを続ける。チャンの名前を書き続ける。しかしふと、それをやめて、“木村拓哉”と何度も書き綴ってゆく……のには、ちょっとビックリ。SMAP、やはりアジアではもはやスターなのね、って、いまさらか。だけどこの映画、欧米に渡ったりしているんだろうな、とか思うとナカナカ……。しかし、結局リンの恋はスターへの憧れ程度のものだったのかな。ううん、彼女の涙は、とてもそんなことでごまかされないっていう涙。そんな風にスターの名前を書いて、自分の気持ちを静めようとしてもどうしても抑えきれない涙。幼いけれど、本当の恋だったんだよね。モンより少しだけ、ほんの少しだけ先に大人になったリン。
夏の暑さをさわやかな風に変えてゆく、自転車の軽やかさが好き。女の子もママチャリじゃないところが颯爽としている。自転車に乗るたび、小さな事件が起こる。男の子と女の子はお互い気になるのを隠しながら、そ知らぬ顔して追いかけ追い越しを繰り返す。どんどん、気持ちが変化していく。高まり、渦巻き、自分でもどうしようもなく、手におえなくなる気持ちになる。モンがリンとともに夜のプールにチャンを見に行くのは、女の子同士の二人乗り。チャンはモンの母親が家の前でやっている屋台の餃子を毎日のように食べに来て、「帰るからな!」と叫んで走り去る。それも自転車。モンが無意識に体育教師を誘惑するのも、夜の自転車。
そしてラストシーンのチャンとモンの競争には、何だか泣きそうになる。「一年後か、三年後か、男を好きになったら、最初に知らせろよ。」と言うチャン。思わず微笑むモンに、「笑うなよ、マジだぜ」と。なんか、なぜだか、泣けてしまうのだ!!
お互いに、本当に両思いだったならば、リンのことがあっても、もう少し進展というか、ハッピーエンドみたいな雰囲気があったのかもしれない。でもこのラストシーンに感じる雰囲気は、確かにチャンの言うように、ちゃんと異性を好きになるまでには至らなかったモンの、少女期になら許される特有の残酷さや身勝手さを含めた、揺れる思いだった。でもそこにはなぜか、もう異性を好きになる気持ちを知っているチャンやリンにさえない、不思議な大人の女の駆け引きのような艶があった。演じるグイ・ルンメイはほっんとに、フツーの女の子。それはある意味、奇跡的なぐらいにフツーだから、今やフツーにはいない女の子であり、そここそがポイントなのだ。素直なショートヘアが可愛い。素直な制服が似合う。ああッ、もう、ツボすぎてたまらんのである。
そしてチャンを演じるチェン・ボーリン。ちょっと昔系のジャニーズっぽい、いかにもカッコいい男の子。こんなアイドル系の男の子がこういうリリカルな映画にハマるとは、ちょっとオドロキである。日本じゃあり得るのかな、などと考えたりして。でも彼は、学校時代に皆の憧れだった男の子、をまさしく体現しており、彼のはにかむような笑顔を見ただけで、妙な甘酸っぱさを感じて、決してタイプなわけじゃないのに、ドキドキしちゃうのだ。やっぱり、あの頃、みたいなことを思い出すのかなあ。ハズかしいけど。
体育教師とのやりとりに出てくる、これもまた嬉し恥ずかしな懐かしさである“間接キス”なる行為は、しかしかなり切ない描写として収斂されていく。確かにやっぱり、恋の感情を持っていたんであろうリンに対して、モンがチャンとしたキスを“間接キス”で返すようにリンに唐突に唇をぶつけてするキスは、モンのリンに対しての、友達と恋愛の気持ちの間で揺れる言いようのない複雑さを察して余りある。でもやっぱり、これは恋愛ではない。失いたくないほどの大切な友情は、恋愛に比するほどの比重を持っているということなのだ。
リンがモンの名前で出したラヴレターが全校中に知られるところになり、学校中の注目を浴びながらイタズラで貼られたこのラブレターを二人して蹴りまくる。英語の勉強をしながらリンに呼び出されて夜中自転車に飛び乗る。夫に先立たれたお母さんに、どうやって立ち直ったのか、とお母さんの布団にもぐりこんで聞くモン。チャンの水泳の試合を見に行かなかったモンの残したノートが教室の窓からの風にあおられて次々とめくられている。代々使い込まれてキズだらけの木製の机や椅子。……そんなちょっとした描写やモノたちがなんともいえない情緒をかきたててくれる。壁への落書きのシーンもいい。ラストシーンまで何が書かれているか明かされないのだけれど、それを一心不乱に書き続けるモンの、真摯な瞳。そしてその壁に何をするでもなくよりかかっているシンプルなコントラスト、大きな壁が画面の中央を縦に、華奢なモンがその壁に寄り添っているその絵は不思議と美しかったりする。夏の暑さが髪の毛を汗で軽く湿らせ、自転車で感じる夜風が心地いい。そこには、とてもナチュラルな生活の美しさが息づいている。
ちょっと懐かしげなメロディアスさ、アジアンな発音のポップスとかとてもイイ感じ。そしてやっぱりピアノ、これはティーン映画には欠かせない。実際ティーンである彼らにはあまり縁がないというか、好んで聴くようなものではないのかもしれないけど、やっぱりティーンの(特に女の子の)切なさを表現するには、ピアノのリリカルさは欠かせないのだ。きっと彼らだって、大人になったら判るはずなんである。……判るかな?★★★★☆
忍足亜希子が演じるのは、ろう者初の義肢装具士を目指すいずみ。中沢ブレイスという義肢装具製作会社に自らを売り込んで飛び込み、日々奮闘中である。本当に、今回はろう者ということが彼女の1つの個性みたいな捕らえられ方しかしていない、しかもそれがまるで違和感がないのが凄いと思う。このシリーズも三作目になってヒロインとしての彼女が定着したこともあるだろうけれど、その間に忍足さん自身の女優としての成長もモノをいっていると思う。
いずみはそれまでさまざまな仕事にトライしてきたんだけれども、自分の友達が足を失って苦労しているのを見て、最終的に義肢装具士を目指すことを決意した。こんなキャラ設定も今までになかったことである。第一作も二作も、やはりもっと、あるいはそれなりにろう者であることで苦労することがまず前提にあり、その中でもがきつつ成長していくヒロイン、という部分があった。今回はまずそれをいきなり飛び越えている。それはもはや当たり前の、彼女自身の個性みたいなもので、彼女はそんなことをまるで気にせず(という風に見えるのがイイ)、一人の人間として自分の道を掴みとっている。この監督でずっとヒロインとしてやってきている忍足さんに、ちょっとこの監督だけに縛られすぎててカラーがついちゃうというか、もったいない気が少ししていたんだけれど、やはりシリーズを続けるだけの意味はあったのだ。
今までの二作もヒロインはろう者で、特別に努力している立派な人間みたいなヤボな風には描いていなかったけれど、今回のヒロインはまた更にフツーというかフツー以上?ズボラで遅刻はしょっちゅうするし。もう三作目になるとそういう描写も怖くなくなっているというか、彼女の実に堂に入った存在で見せちゃうところも凄い。ろう者なんてことを全然脇において、個性あるヒロインとしてきっちり成立しているのは、この三作目が一番じゃないかと思う。こんなつるつるお肌の美人なのに、時々ズルッとくるようなコミカルな表情も見せ、実にアクティブないずみがキュート。ろう者であるから彼女の気付かないところでアブないジョークを言われていたりする、なんてろう者に対してはギリギリのギャグなんだけれど、これもやっぱりシリーズを続けてきた彼女の強みであっさりと笑わせてしまうんだから凄い。トボけた表情がなかなか似合うんだよなあ、忍足さん。
そのいずみが義肢装具士としてアフガン行きを抜擢される。文化の違いで、女性の患者には男性医師が触れることが出来ないため、女性アシスタントが必要になったのだ。親友がNGO活動をしている関係で何度かアフガンを訪れている先輩技師、久保(林泰文)が、最終的に判断していずみを選んだ。会社側は、いなくなっても一番困らないのはいずみだから、みたいな放り出し方だったけれど、久保はもっと根本的な部分でいずみを評価して抜擢したのだ。そりゃ、まだまだぺーぺーで不器用ないずみより優秀な女性技術者はいる。実際、久保に思いを寄せている女性技師(三船美佳。目つきがコワイよ〜)は、いずみに敵対心を持っていることもあり、自らアフガン行きを志願していた。しかし、実際に技術力があって仕事が出来る健常者より、いずみに出来ること、いずみにしか出来ないことがあると、久保は踏んだのだ。もちろん障害者としての立場もあるけれども、彼女自身のこういうずぶとさや強さ、適応力こそが、アフガンのような土地でやっていくには必要だから。
そして、いずみはアフガンへと向かう。
それこそ今までこれほどまでに、ろう者であるということ自体がポジティブにとらえられたことはないと思う。
異国の土地に行くというのに、彼女にはまるで臆することがない。まず言葉が通じない、という部分でも彼女はそういう壁を最初から持たないから。
むしろ日本にいた時には、コミュニケーションを取れる人が限られていた。いわゆる手話が出来る人。そういう意味で中沢ブレイスの中でいずみは少々孤立している部分もあった。大まかな意志は身振り手振りで伝えられるから、彼女はそれを必要以上に気にすることなく、仕事にまい進していたけれども、確かに少なからずそれはあった。
しかしこのアフガンに着いた時、いずみがろう者で手話でしか話せないことを知ってもNGOの五十嵐は顔色ひとつ変えずこう言う。ここでは言葉は必要ない、と。
宍戸開演じるこの五十嵐がかなりざっくばらんというか、強引な人物で、彼も手話は扱えないながらも、その大きなキャラクターでいずみとらくらくとコミュニケーションをとれてしまうのも大きいと思うけれども、彼のこの言葉がいずみに大きな意味と役割を与えるのだ。
実際、いずみはここでアフガンの人たちと言葉が交わせるわけではないし、彼らの中に手話が判る人などいない。
しかし、アフガンの言葉が使えない健常者より、あるいは使える健常者よりももっと、彼らと意志を伝え合うことが出来るのだ。それは画面を通して一目瞭然に判る。それが凄い。
手話は確かにボディランゲージのようなところがあるからとは思うけれども、そのことをいずみが今まで以上に意識して手話を基本に体全体で伝えようとしているから。そしてこれは、普段言葉でモノが通じると思っている私たちには一朝一夕ではおいそれと出来ないことなのだ。
“言葉なんか通じなくても通じ合える”というのが、字面だけじゃなく、本当の、真実味をもって納得させられるというのは、まさにいずみだから、そして忍足さんだからこそなのだ。その素晴らしさ。
そして、ここではろう者であることは悲劇でも何でもないのだ。それはこうしたいずみのポジティブさがそう思わせる部分もありはするものの、無論、ここが長い長い間、戦禍にさらされてきた土地だから。
生まれつきのろう者であることと、自分の手足どころか、同時に目の前で親兄弟を失ってしまった人々の悲劇。
そう、本当にこのシリーズを続けていなければ、そんないきなりの描写はヤバかった。この健常者上位の世界でろう者として生きていくことがどれだけ大変かということがまず大前提にしないとというのが当然、あったから。でもまさしく続けることには意味があるのだ。もうそんな部分を飛び越える強さが忍足亜希子という女優にはある。だからこの危険な比較も、健常者とのそれより説得力を持って感じとることが出来る。
例えばこんなシーンがある。いずみが子供たちに折り紙を教えている。自分で折って見せて、さ、手を出してみて、と促す。
その少女が手を出すと……いや、手はないのだ。半分になった腕が無残にもさらされる。
いずみは目を見張り、ごめんね、と手振りで伝える。その瞳にはみるみる涙がたまる。
言葉が発せられないから、静かだから、余計になんかもう、ものすごく伝わる部分があって、たまらず落涙してしまう。
ほんの一例に過ぎないけれども、とにかくこんな具合に説得力が違うのだ。言葉に気を取られないから、などということを初めて感じる。
キーはやはりこの少女、パリザット。実際に足を失っていて、実際にアフガンの少女で、スクリーン映えする美少女。きちんと演技が出来るこの少女を探し出せたことが大きい。
「生まれた時からこの国は戦争をしていたから、平和がどんなものか判りません。でも自由に歩けるのが平和なら、私は平和を愛します」
戦争で親兄弟を、そして地雷で足を失ったパリザットのこの言葉は、例えようもなく、重い。
この国にはこんな風に足や腕を失った人たちが沢山、沢山いる。そしていまだに地雷はいやになるほどの数が埋められたままである。戦争が終わったというのに、この悲劇はほとんど半永久的に続くのだ。
なかなか復興が進まないこの国では、義足や義手もままならない。サイズの合わない古い義肢を無理して使って、それでもそれがあるだけ幸せだというような状況。
その義足が壊れてしまったパリザットは、心を閉じ、引きこもってしまう。
彼女にとっては歩けないということより、足がない姿を人に見られることが辛いのだ。
思わず、ハッとする。そんなこと思ってもみなかった。いや、なぜ思ってもみなかったのだろう。そんなことさえ想像できなかったなんて。
大人ならまだしも、こんな年頃の女の子にとってそれは本当に辛いことに違いないのだ。ちょっと想像してみれば判ることだったのに。
パリザットはいずみには心を開いてくれるものの、切断された自分の足を見られるのが辛いのか、新しい義足を作ることを拒絶する。そうしたまま、いずみの帰国の日が来てしまう。
日本に帰ったいずみの前に、来日したパリザットが現われた。
復興支援活動の一環として五十嵐が彼女を伴ってきたのだけれど、「足がない方がインパクトがあるから」と言って、義足をムリヤリ外してパリザットを公衆の面前に出そうとし、パリザットはまたかたくなに心を閉ざしてしまう。
あーあー、もう。この五十嵐、決して悪い人じゃないんだけど、こういう女の子の機微は判んないんだよね。結局中沢ブレイスのトップも怒らせてしまって。かの地では傍若無人ながら一生懸命に活動していたから何だかかわいそう。
そんな中、パリザットは地元の子供たちの間で引っ張りだこの人気者。その中でもメガネの男の子が彼女にホレ込んで、それを嫉妬する女の子といざこざがあったりするのが可愛い。
この男の子がパリザットを連れ出し、地元の観光名所を案内する。しかしそこでパリザットは足を滑らせ、転んでケガをしてしまう。打ちひしがれるこの男の子、なのだけれども、このことがパリザットが新しい義足で歩こう、というきっかけになったのだ。
杖なしで歩くためには義足だけではダメである。筋肉をつけるため、厳しいリハビリに耐えなくてはいけない。
必死にパリザットに杖を捨てて歩くよう指導するいずみだけれど、パリザットは恐怖から杖を捨てることは出来ない。ついには「いずみなんか大嫌い!」とケンカになってしまう。
結局、日本ではパリザットは杖なしで歩くことは出来ないままだったのだけれど、この進まないリハビリに疲れきったいずみがふと思い出したことがあったのだ。
かの地、アフガンで地雷源に知らずに近づいてしまったいずみに、大声を出し、しまいには杖を放り出して駆け寄ってきてくれたパリザットのことを。
そしてここで必死に頑張っているパリザットのこと。
医師もここまで頑張ったのだから大丈夫、と太鼓判を押してくれる。
パリザットがアフガンに帰る日、つきそっていくはずだったいずみは、パリザットに伝える。
私は生まれつき耳が聞こえない。それでも一人で生きてきた。あなたも一人で生きていくの。私はあなたと一緒には行かない。あなたならできるはず、と。
大きな手話と身振りで、必死な表情で、言葉にならない声で、いずみがパリザットに訴えかけるこのシーンは圧巻だ。泣きそうな表情でいずみの意志を受け取ろうとするパリザットにもグッとくる。
パリザットは一人、しっかりとした足取りで五十嵐の迎える車に乗り込むのだ。
そして一年後、再びいずみがアフガンを訪れた時、パリザットはすっかり大人びた風情で、そしてしかも、杖なしで、違和感のない足取りでいずみと感動の再会を果たすのだ。
こういう仕事があるんだ、と思った義肢装具の会社、中沢ブレイスは、実際の会社がモデルになっていて、人工乳房やリアルな足先なども作っている。なるほど、こういう優れた技術で日本は本当に役に立つ国際貢献が出来るんだ。そういうの、もっと政府として後押ししてほしい、と思ってしまう。
この会社があり、いずみが住む、世界遺産候補の石見銀山も初めて知った。緑豊かで、空気と時間が穏やかに流れるようなこの土地だからこそ、パリザットは来ることが出来たのだ。東京だったら……やっぱりムリよね。
久保役の林泰文が実にいい。この人はホント余計な色がつかないまま大人になって、印象はまるで変わらないのに、宍戸開みたいなワイルドな男とタイ張るような頼りがいが感じられるのが意外。美女、忍足さんと結ばれるのがお似合いなのもちょっと意外。
そして宍戸開は、ほんっとこの人は憎めないというかなんというか(笑)。結構イイ男なのに不思議とイイ男になりきれない、こういう豪放な明るいキャラクターがすっごい似合うのよねー。二言目にはカネ、カネ言うんだけど、確かにこんな活動をしていたらいくらお金があっても足りないわけで。そのあたりはNGO活動の必要性が叫ばれながらも、実際はこんなに厳しいものなのだということを示唆しているんだけれど、それもまた深刻にならずに強い心臓で生きていっているのが実にたくましく、ホント、彼ならアフガンでこんな風にいそう、と思わせる。忍足さんのコメディエンヌぶりもなかなかだけど、彼のキャラクターでこの重いテーマが救われている部分がものすごくあるのだ。
で、そろそろ……忍足さん、別の監督で輝く彼女を見てみたいんだな。他の映画でも見かけることはあるにしても、この監督の色で、という彼女はまだ、見たことがないから。それを楽しみにしているんだけど。★★★☆☆
それにしてもこの映画はなぜサイトが作られていないんだろう?あるいは、このどこか中途半端な公開形態は何なんだろう?サイトを探し回って、原作、貴志裕介氏のサイトに迷い込み、そこに映画版を語る掲示板があったので読んでみたんだけど……そこは、まあ、いいと思った人が書き込むせいか随分と絶賛の嵐で面食らってしまった。それもどこかヘンに排他的というか……ちょっと否定的な意見を書くと、「中傷、誹謗」として一気に糾弾されていたりして。3回観て3回号泣したとか、二宮君の演技が凄いとか、……なんか私には意外なことだらけで、今ひとつピンとこなかった自分にだんだん自信がなくなってしまった……こういうところが私のホント、悪いところなんだけど。でも正直、今までの日本映画の中で一番良かったとか簡単に言われると、困惑してしまう。言いたかないけど、それまでどれだけ日本映画を観ているのか、かなり疑ってしまう。
正直、私はこのニノくんが(こういうアイドルの愛称って、書いてみるとちょっと恥ずかしいやね)そんな絶賛するほどいいかな、という気がしたんである。蜷川監督がどういう経緯でこのアイドル系の子をキャスティングしたのかは知らないけれども、彼は確かに一生懸命さ、誠実な演技、という印象はあるものの、役者としての凄さを感じるまでには至らない。この、家族のために殺人を犯してしまう少年、という役どころは、実はもっともっと微妙なところで、琴線が震えるようなところで難しい役なんじゃないかという気がし、ひたすら頑張ってやっている彼に、その、あまりの隙間のなさに、本来の揺れ動くキャラクターが押さえ込まれてしまっている感じがする。私は、この少年の役にどこか……行間が欲しかった。本能からくる、説明しようのないもどかしさが欲しかった。一種のカリスマ性が欲しかった。若い頃の武田真治なんかだったら、良かったかもしれない。あるいは今なら松田龍平。そういう、説明のつかないどこかまがまがしさが、欲しかった。でも、これは普通の男の子が……家族思いの普通の男の子が起こす事件だからこそ恐ろしいというのは、それは確かに判っているんだけれど。
役者たちの演技、特に若い役者たちの演技には、監督の指示がかなりハッキリと見てとれる。判りやすいところで言うと、松浦亜弥に「1ミリ笑って」と言ったところがどこだったのかとか、判ってしまう。教室での描写とか、二宮君演じる櫛森にじゃれあう男の子たちはかなりハッキリとした演技をしていて、何か本当に舞台での芝居を見ているよう。別にそれが悪いというんじゃないんだけど、何かこういう演技を映画で見るのは久しぶりというか、そりゃ私は、現実の今の高校生が教室でどういう感じで喋っているとか判るわけはないんだけれど、何か、どこか作りこまれた懐かしさみたいな感じに違和感があった。そういえばこの制服なんかも……男の子の学ランはもはや珍しいし(でも男の子は学ランが一番だと、確かに思うけれど)女の子の赤いスカーフのセーラーなぞ、本当にこんな制服がいまだにあるのかと(いや、あるんだろうな……でもこんなの久しぶりに見た)、その造形はどこかファンタジックなぐらい。
そのセーラー服をまとったヒロインの女の子は相手の男の子、櫛森君を君、と呼ぶ。これがかなり新鮮だった。どこか、透明な響き。女の子が男の子を君、と呼ぶ、そして少年のような口のききようは、これもまた不思議にファンタジックなものを感じさせる。それは……かなりひんやりとした、ファンタジーなのだけれど。演じる松浦亜弥に関しては、実は結構期待するところがあった。というのも、彼女はアイドルやっている時も、はた目にも判るぐらいアイドルとしてのあややを作りこんでいる印象で、それはどこか痛々しいほどで、だから彼女が女優として演技をした時、どう作りこんでくれるのか、というのがかなり興味があった。で、結構良かったと思う。少なくとも、二宮君よりは役者としての面白さを感じた。彼ほどに一生懸命さが丸見えではなく(勿論彼女も必死だったと思うけど)、頭でっかちにならずに、ナチュラルにこなし、すっとした透明感がある。指示されている、と感じる部分も多いのだけれど、それ以前に彼女の内面的なところが見え隠れしていて。彼女が彼から殺人犯なのだと聞いた時……駅の改札の人ごみの中、彼の肩にそっとその小さな頭を乗せるところとか、少女の華奢な美しさが光っていた。
突然現われ、住みついてしまった、母親のかつての再婚相手。一日何をするでもなく、酒を呑んだくれて、寝ているだけ。生活力のなさと、妻、義理の息子への暴力によって離婚したこの男の突然の出現にとまどい、おびえる家族たち。息子である櫛森君は、なぜあんな男、すぐにでも追い出さないのかと憤る。母親は、もう少し待って、と息子をなだめる。そっと彼の部屋に来て母親は秘密を告白する。妹はあの男の連れ子だった。出て行けと言えばそのことを持ち出すに決まっている。まだ14歳の彼女に里子になるという意志決定権はない。だから彼女が15になるまで、もう少し辛抱してくれ、と。
息子が義理の父親を殺したいとまで憎む時、セラピストが一緒に殺す方法を考えることで何とかその頑なな気持ちをやわらげようとする、という描写が萩尾望都の傑作「残酷な神が支配する」にあった。結局はその少年、ジェルミもこの父親を殺してしまうのだけれど、殺す方法を考えているだけで、確かに心が落ち着くものがあるんだと思う。あるいはこの櫛森君に関しては、そうして何とか自分の心をなだめて妹が15になるのを待てたのかもしれない。彼の我慢の糸を切ってしまったのは、ドア越しから聞こえたその男と母親のあえぎ声だった。ドアを開けることなど当然出来ず、ただただうろたえ、自分の部屋(ガレージ)に逃げ帰り、頭を抱える彼。
男の子にとっては、これが一番こたえるんだろうと思う。それにこの母親というのがきれいなお母さんだから、余計に。秋吉久美子は最近、こうした問題を抱えるティーンエイジャーの母親役が続いており、どこかキャラクター的に似た印象を与えているけれど、今までは女の子の母親役だった、ずっと。それが息子を持つ母親になって、一見似たキャラには見えながらも、その意味はそれまでと大きく違う。つつましい膝丈のフレアスカートからすんなりと伸びた足が、息子の部屋で膝を抱える時チラリズムするその美しさに、彼女の演じる女の部分を色濃く残した母親、というものの痛ましさを感じてしまう。息子はこの母親に対する単純な思慕の念だけではなく、やはりもっと超えたものがあったのだと思う。押しかけてくる男は自分とは血のつながりのない義理の父親。ライバルとしての気持ちも大きかったにちがいない。彼がどこまでそれに自分自身で気づいていたのかは、判らない。でも、それこそ血のつながっている母親を、彼は抱けない。抱いてやることなど、できるわけもない。あのドア越しのあえぎを聞いてしまった時の、そして即座にあの男を殺そうと決断した彼の悲壮な決意は、どこかそんな要素を含んでいるように思える。あの時……今から思えば、自分の娘に対する独占欲にも似た愛情から、妹が好きなんだろうと揶揄した男に激昂した彼の描写にも、通じるところがあるように思う。
義理の父親は、癌だった。ほっといたって、死んでいた。しかもこの男は、死ぬ前に自分の娘に会いたいがために、押しかけてきた。娘にだけそれを告げ、別れた女と義理の息子には言わずにいた。あんな風に櫛森君に対して妹に気があるんだろうと言ったのも、彼の母親を抱いたのも、娘に対してはそれが出来ないもどかしさなのか、などと感じる。ここにもまた、ねじれた愛情がある。演じる山本寛斎が凄い。いつもニコニコしている彼からはとても想像できない。
そういう思いをくんでやることなど思いつきもしなかった櫛森君は、やはりまだ子供だったのだ。あるいは、過去、この男から受けた暴力が、それはその記憶を彼自身が心から追い出してしまったほどのトラウマになっていて、それがそうした冷静な判断を奪ってしまったのかもしれない。もしかしたらこの母親はそうした部分に気づいていたのかも、とも思う。そしてもしかしたらまだこの男に……それは、判らない。でもあの時、息子から、「まさかあんな男とやり直そうと考えているんじゃないよね」と詰め寄られた時に見せたあの表情は、正直、どちらにもとれるような気がした。でもそれってあまりにも……残酷だけれど。
彼はその後、その父親殺しの秘密がバレてしまった友人までをも殺害してしまう。この秘密をネタに金をゆすられたのだけれど、そんな描写の中にもどこか明るさのある友情の雰囲気があったのに。というのも確かにおかしな話なのだけれど……でも、このゆすった友人は、櫛森君から鬱屈のガス抜きの方法を伝授してもらっていて、でもその伝授した櫛森君の方がそれが出来ずに実際に殺してしまったというのも随分と皮肉で。とにかく二人は似た悩みを抱えた同士だったはずで、だからこんな風に金をゆすったりしても、どこか心が通じるようなところがあったのに。それは友人である彼の方が、ゆすった金で家を出ようと心に決めていて、だから多分、このゆすりも最初で最後だろうと思わせる部分があって、それを櫛森君にだったら判ってもらえるだろうという彼のどこか楽天的な気持ちがこちらにも通じていただけに……。櫛森君は最初からそんな友人の気持ちなど汲んでやるつもりもなかったというのか。自分がバイトするコンビニを襲わせる、と計画を持ちかけた時点から、彼をも殺すつもりだったのか。それは、ひょっとして櫛森君の中に殺しへのカタルシスが生まれてしまっていたせいなのか。自分が全てを把握していて、誰でもそこに誘い込むことができる、という、危険な、しかし確かにどこか甘やかなナルシシズム。
そういえば、彼が愛する、ロードレーサー。風そのものになって駆け抜けるあのスマートなマシンにも、そんなナルシシズムは見え隠れする。自転車、と言われるのを彼は異様に嫌っていた。このいまわしい事件で出会った刑事は、「君のことが知りたいと思って」と言って自らロードレーサーを購入し、砂浜でブザマな練習風景を繰り広げる。それを冷めた目線で見下ろしている彼に、やはりそんなナルシシズムが匂う。そして、殺してしまった友人が櫛森君に言っていた、家族の問題で本当に切羽詰った酸欠状態にあった彼をどこか真似るようにして、カラッポの大きな水槽にうづくまるさまにも。上半身裸、というのも判りやすいナルシシズムの象徴だ。魚のいない水槽の中。水のない水槽の中。彼はその妄想にも似たナルシスの空気に、沈んでいく。後戻りできないほどに。
こんな風に、この殺人を犯してしまった少年の中に、惹句にあるような切なさとか、どうしようもなかったんだとか、そうした単純な感覚を超えたものがあるんじゃないかと、それこそが魅力(なんていう言い方は、おかしいのかもしれないけれど)なんじゃないかと思えるから、だから演じる二宮君の一生懸命な、誠実な、隙間のない演技が、それだけではな……などと思ってしまうゆえんなのだ。その残酷なナルシシズムも、あくまでキャラクターとして感じるだけで、彼自身がそれを意識して、あるいは意識していなくてもにじみ出ているようには、思われない。それは無論、蜷川監督の考えがあってのことなのだけれど。結局ラスト、彼は愛する女の子と最後の言葉を交し、彼女の言うとおり好きなものをテープに列挙して、そしてトラックの前に踊り出て、死んでしまう、んでしょう?(あのカットアウトはそういう暗示だよね?)その避け様のなかった自死への、これもどこか甘美な誘いもまた、そうした感覚を強くさせるから。などと考えてしまうこと自体が、確かに間違っているのかもしれない。原作を読んだら、そんなこと思わないのかもしれないのだけれど。
その好きなものを言い残したテープというのが、何か、かなり小洒落たことを言っていて、思わず、うーん、二宮君がクストリッツァの映画、ねえ、ホントに観てるのかしらん、などとルール違反なことを承知でついつい思ってしまう。それはいくらなんでも少し、イジワルかな。
意外に?東儀氏の音楽が良かった。欲張らず、テーマだけを繰り返しているのが印象的に耳に残る。★★★☆☆
まずは、主人公である生島役、大西滝次郎が私には今ひとつ訴えてこなかった。最初のうちは、彼の、いかにも一人称の小説っぽいナレーションが耳についたが、次第に他の登場人物にどんどん食われていく形になる。この役者さん、初めて聞く名前。この役に執念を燃やして獲得したのだという。確かに執念は感じるんだけど……なんだろう。彼はアップのカットがとても多くて、でもそれがどれもこれも能面のよう。そういう役だっていうのは判るんだけど。つまり、ついつい比較してしまうのは良くないんだけれど、同じように魂を亡くした役、「蒸発旅日記」の銀座吟八との違いを思ってしまう。自分を殺してない、素の顔の印象がそのまま出てしまっている感じがする。確かに演じた彼の言うとおり、普段の大西氏とは全く違う人間になっているのだろうとは思うけれども、でも普段の彼のことを全く知らないこっちとしては、そこまで感じ取ることが出来ない。で、彼は笑顔をごくたまに見せるのだけれど、そのごくたまの笑顔に今ひとつ魅力がないのもキツいのだ。
原作では、年齢があと10は上の役柄だと知って、かなりなるほどと思ったのだけれど、この境遇、この落ちぶれ、くるところまできてしまった感じが、彼の若さと妙に色男なところからは感じ取れないのかもしれない。このハキダメのような尼崎の裏町の、臭気が漂ってきそうな生々しさの中で、彼にピンとこないのは。もちろん、生島はこの中では完全にヨソ者で、浮いているからこそいいんだけれども、ただここにいる理由が言葉で説明されないからこそ、身体全体で説明するだけのヨレが、なくて。
この役の感じ、落ちて落ちて、そこで生々しく生きている女にすがるこの感じって、「新・雪国」の奥田氏あたりに似てるな、と思い、それこそ奥田氏ほどの年齢の男だったらこういう落ちぶれがピンとくるんだよなあとも思う。
で、ヒロインは寺島しのぶ。彼女を映画で見るのは初めて。というか、舞台を見ない私は、あまり彼女を見ている印象がない。大西氏よりは役を生きているとは思うものの、これまた私にはこの彼女がピンときてくれない。ここまでくると、これは役者さんのせいにするのは違うのかも……と思うのだけれど、寺島しのぶという女優を見慣れていないせいなのだろうか?彼女もまたこの役を長年やりたくてやりたくて、希望がかなった、ということらしいんだけれど、観ているこっちとしては、これまたこの役に似合いそうな色んな女優を思い浮かべてしまうのだ。
白い肌、背中に彫られた迦陵頻伽、清楚なデザインのワンピースはしかし華やかで、即座に彼女の職業が判ってしまう。誘うような赤い唇。生島の目を見据えたままワンピースの下から脱ぎ捨てる下着……。
決して、決して、寺島しのぶが役にそぐわないというんじゃないんだけど。このファム・ファタル、この鮮烈な印象に、彼女がイコールなのか、あるいはイコールどころか凌駕しているのか、やはりちょっと……考えてしまう。
これは、確かに強烈なファム・ファタルだから。生島は今までの彼の境遇から言えば、もう充分に落ちぶれている。しかし女の目から見れば、彼はこんなところで生きていける人間ではない。つまりまだまだ、お上品なのだ。その彼を、もっともっと落ちるところまで手を引いて連れて行くのが彼女。彼をその身体で落として。しかしその形は純愛をかたどっているのだから。
確かに、彼女の見せる背中一面の見事な刺青や、生島の若い肉体を誘い込み、激しく絡み合うシーンは凄いと思いつつ、そして彼女の哀しさや、せっぱつまりが判るとは思いつつ、ああ、なんだろ、それこそ一番コアになるところ、この綾の台詞の通り、「あなたはこんなところでは生きていけん人や」というならば、その対象としての彼女が、こんなところで生きていく女、に今ひとつ感じられないというところなのだろうか。
確かに、その点でこの綾はとても難しい。意外に年はいっているものの、ハキダメにツルの美女であり、男に身を売ってはいるけれど、どこかに純粋な可憐さを残し、いつも清楚なワンピースを着ていながら、その中は欲望に身を焦がし、どす黒い人生がつまりにつまっている、だなんて。朝鮮の女、というのも、最近はついつい、またか……などと思ってしまう。それだけでは、キャラクターに道を歩ませるのは今や難しい。で、ここではまさに、それだけ、なのだ。いいとこ、彼女が最後の最後、自分の本名を言うだけ、それだけ。
あるいは、彼女以外の、この土地に住んでいる人たちが、外見とその生き様が正直にリンクしているから、彼女の存在は難しいのかもしれないと思う。生島を雇い入れた、もとパン助だったという勢子ねえさん役の大楠道代も、いかにも邪道を歩んできた感じの彫師、彫眉役の内田裕也も、思いっきり外見から入っているから。で、外見から入って内面までドップリだから。余計に、綾はとても難しい。
実を言うと、この作品世界にも時々違和感を感じることがある。違和感というか……夢を見させ続けてくれないというか。つまり、尼崎のこの裏町の、世界から取り残されたこの感じと、彼らが時々外に出て、電車に乗ったりなんだりする時のベタな現実感とが、あまりに乖離しすぎていて。
しかもこれが、意図的にやっているのかどうかが、ちょっと疑わしいというか……登場人物たちが跋扈しているこのボロアパートやボロ街には心血注いで作りこんでいるものの、その他のロケーションでは普通にそのまんまロケーションしてしまっているという感じが、違和感、なのだ。
外の、現実の世界が、ベタな光にベタな色で、作りこんでくれている世界に入り込んでいたこちらの気持ちをガクリと落としてしまう。うーん……でもだからこそいいのかな。そのギャップがいいのかなとも思うんだけど、そこまで計算している感じも正直、しないのだ。
果たして生島は、どこまでの覚悟があったのだろうか。どうやら才能のあるもの書きだったらしい彼は、しかし挫折してこの町に流れ着いた。いいとこの大学の出だというのに、などと言われながら彼が得た仕事は、一日中狭い一間の部屋の中で、臓物に串を刺す作業。
ただ黙々と、作業にせいをだす生島。そのボロアパートには奇っ怪な住人たちが跋扈している。
その中で一人、美しい女がいる。綾。彼女は彫眉と呼ばれる彫師の所に出入りしている。どうやら娼婦らしい。
彫眉は生島に言う。「あいつのオメコさすってやってくれんか。兄さんに触られとうて、マメがうずうずしとる」
ある日、この綾の兄だという男が現れる。出所してきたばかりだというこの男が現れて後のある夜、綾が生島の部屋を突然訪ねる。何も言わずに下着を脱ぎ捨てる。激しく交わる二人。
そして、綾は生島を呼び出す。あの世まで自分と一緒に逃げてくれないかと。兄が借金の代わりに自分を売り飛ばすつもりなのだという。赤目四十八瀧に向かう二人……。
インテリ男が堕ちた先は、女との逃避行。しかし彼は途中で迷いが生じる。逃避行のはずが、その逃避行からも逃げてしまいたい衝動に駆られる。生島を駅のコインロッカーのところで待たせた綾は、そんな生島の心の変化を見て取って、試したに違いない。確かにその時、生島はコインロッカーのところでまだ、待っていた。でもあといくらか時間が経っていたら、彼はその場から逃げ出したかもしれないというぐらいの瀬戸際。彼を見つけた綾は「待っててくれて嬉しい」と本当に嬉しそうに言う。でもこの時にはもう既に、彼ら二人の間の違いは決定的だったのだ。
生島の言う言葉にボキャブラリーはあるけれど、この尼崎に生々しく息づいている人たちには響かない。いや観客にさえも響かない。彼はここでは生きていないから。確かに綾の言う「あんたはここでは生きていけん人や」という言葉は真をついていたのだ
生島が大事に抱えてきた、付箋がいっぱいついた辞書、彼にとっての命もその程度のものなのだ。
東京は命がなくても生きていけるところだから。
尼崎は、必死に生きていく意思のある人間しかいられない。どっちが上か。
生島の居場所を探し当てて、友人が訪ねてくる。生島のことを、「こんなところでこんなことやっている人間ではない」と。勢子ねえさんは彼を笑い飛ばす。「ずいぶんと、失礼やないか」と。
たしかに生島は、「こんなところでこんなことやっている人間ではない」のだろう。いや、もっとありていに言えば、それだけの価値もない男。
だって、女と死ねもしないのだから。
男は、死を決意した女についていくことしかできない。
しかもその女に、死ぬには値しない男だと捨てられるのだ。
二人は、ずっと、赤目四十八瀧の山道を登っていく。華奢なパンプスにワンピースの綾と、書生くずれのような格好の生島。この現実感のなさ。
待っていてくれて、ここまできてくれて本当に嬉しかった、と綾は言う。嬉しいと言う言葉は、決定的な別れの言葉なのだ。
ふと、綾の入れていた刺青のことを思い出す。
この四十八瀧に幻想のように現れる尼崎の人々。バーコードのタトゥーを入れている臓物運びの犀に彫眉は言う。痛くないタトゥーなんか刺青じゃないと。刺青の痛さに泣き言をいうのは男の方だという。女の方が強い。特に一言も泣きを入れなかったのが綾だったのだと。
心中は未遂に終わった。最後に愛し合い、もうあの瀧の上で二人の別れは訪れていたのに、生島は行くところもなく、ただただ女について山を降りる。綾は電車が駅を滑り出す直前に飛び降りる。こうでもしないと、行く先を決められない男といつまでたっても別れられないから。
そうして、綾は生きていくのだろうと思う。売り飛ばされながらも、その先でしたたかに。
はたして、生島は、男は?
綾と別れた生島がコインロッカーの中に見たものは、生島が新聞紙にくるんでとっておいた綾の残した下着と、あの辞書。
“その程度のもの”でも彼はこれを命として、この先を生きていくんだろう。
真夏で、ギラギラと照りつける太陽の光が、現実感を失わせる。文楽の心中物みたいな、そんなおとぎばなしめいた現実感のなさは、心象風景の、心の道行きだからだろうか。オモチャみたいな日食も、それにいざなう儀式のよう。
その中で、音がうるさすぎるのがどうにも気になる。生の印象を残そうとしているのかもしれないけれど、食べる音とかあざとくて。しかも、ひぐらしの音までもうるさい。ひぐらしがうるさいなんて……もっとひそやかでいいんじゃないの、などと思う。なんというか……こういうところに至るまでひとつひとつの選択肢が何か違うという気がしてしまう。
原作にもあるんだろうけれど、少年のマネキンを携えている老夫婦など、とってつけたみたいだし。このマネキン、まるで「オー!マイキー!」みたいとか思っちゃうと、もうおしまい。この老夫婦の意味は、本当はもっと深くあるんだろうけれど、何を感じとればいいのか、悩んでしまう。
あるいは、白い腹を見せて死んでしまったガマガエルとかも……。
毎朝、生島にビニール袋いっぱいの臓物を届ける犀役の新井浩文がいい。勢子ねえさんに従順に見えながら、途中、何があったのかいきなりいなくなってしまう彼。無口でとらえどころがないんだけど、でも鋭く、攻撃的。そのネイティブ津軽弁に嬉しくなる。津軽弁の世間的なイメージは朴訥としているとか、あるいはコミカルにとらえられるけれど、実際はまさしくこうなのだ。暴力的でさえあるほどの自我の強さ、そしてクールさを持つこの唯一絶対の言語。それを表現してくれる津軽人は意外に今までいなかった気がする。生島と相対するシーンが多い彼は、完全に生島を食っていて頼もしい。
ポレポレ東中野となってから足を運ぶのは初めて。入り口の巨大な盛り塩にびっくりしつつ……一度は閉館しながら、復活した気骨のある映画館に再び足を運べることを嬉しく思う。★★★☆☆
この作品に寄せる監督のコメントを読むと凄く納得できる。映画よりも共感できる。でも映画を観た人たちがあんな風に肯定的にBBSで語っていることと、この監督の語ることの間に非常に大きな乖離があるような気がしてならない。これは、どういうことなのだろう?もちろん、映画は受け手それぞれのものであって、これが正しい答えだ、なんていうものはない。でも私は自分にとってのそれさえ見えなくて、だから戸惑ってしまったんだろうか?あるいは、監督の言うこと、とてもよく判る、でもその監督がその思いを映画に託した時、判らなくなってしまうことが……そここそに何かの意味があるような気がしてしまう戸惑いなのだろうか。
キレやすい雄二と、彼をなだめるように一緒にいるクールな守。雄二より守のほうがいくつか年上で、雄二は守を尊敬し、頼っているのがよく判る。そうと口にしなくても。あまりやりがいを感じてやっているようには思えない流れ作業の仕事を共にこなし、そして雄二は守の部屋にまるで一緒に住んでいるかのように入り浸っている。特に会話はないけれど、そこにはまるで恋人のような親密な空気が流れている。キレやすい、というのはある意味感情のありかが判りやすいことでもあって、雄二に関しては割と安心して(というのも少し妙なのだが)見ていられるのだけれど、守はその冷静な分別が時々なぜか恐ろしく思える。そしてその予感は当たり、彼はまるで意味もなく、ついやっちゃった、とでもいうように殺人を犯してしまう。いや、意味もなくではない。意味はあったのだ。守の中には全てが……自分が命を断つそのことにも、最後まで緻密な意味があったのだ。
でもそんな風に、人生を完璧にコントロールすることなんて出来ない。雄二のように、どうしていいか判らなくなって間違った行動を犯してしまうことの方が普通なのだ。守は、ある意味自分がそんな風に異常なのを知っていた気がする。だから、彼を尊敬し、彼を待っていると言った雄二に、絶交だと言った。そう言われた雄二は「ワケわかんねえよ」と戸惑うのだけれど、守についていくことが「GO」ではないんだと、そう守は言いたかったのかもしれない。誰かを尊敬し、好きになり、その人の言いなりになるなんて、クソだと。それは友情とか恋愛とか親子関係とか、そうしたものにウツクシク溺れる時にしばしば勘違いしてしまうことで、そしてそれによってその友情とか恋愛とか親子関係が、そう思っていたことが、いとも簡単に崩れ去ってしまうことを、守は知っていたんだと思う。彼は一人きり、誰にも本心を明かさなかった。雄二にも。それは雄二に友情を感じていなかったのではなくて、むしろ逆。一人一人、誰にも邪魔されることがあってはならないと、それを彼は友情の全てをかけて指し示した、そんな気がする。死を賭して、守に「GO」のサインを出した。自分がいなくなったんだから、いいかげんもう判れと。自分で行くしかないんだと。でも雄二はしばらくの間、その意味に気づかない。
半分は気づいていたのだけれど……。確かに雄二が言うように、守はキレた雄二がとる行動を先回りして、社長夫婦を殺した、んだと思う。だから守を待つ、いつまでも待つ、と言った雄二に怒ったのかもしれない。何のためか、お前、全然判ってねえな、と。確かに彼らは、恋人のような友情を育んでいたのかもしれない。だって、これって、想像を絶する凄い友情だもの。正直、理解できないほどに強い……友情の意味さえ覆ってしまうほどの。
彼らがアルバイトとして働いていた工場の社長が、二人を正社員として採りたい、と言ったところから、始まっていた。これも、普通ならば喜ぶべき状況で、ぼんやりと、はあ、はあ、と応対している二人に何だか妙な感じを覚えるんだけれど、でも確かに、この社長、彼ら一人一人を見て正社員として欲しいと思ったというより、単に力とか頭数として見ているような、どうも熱意があるのかないのか判らないところがあるのだ。後からつけたしのように、君のことを知りたいからCDを貸してとか、守の部屋に押しかけて二人と話し、果ては自分の趣味を披露したりするのも、心の交流どころか空虚で冷たい空気ばかりが充満している。社長の家にお呼ばれしたりもするのだけれど、家族からの信頼も得ているようには思われない。まるでカラッポの家族関係。
社長が守の部屋を訪れた時、守が飼っていた毒クラゲを触ろうとした社長を、彼は止めなかった。雄二が触ろうとすると決まって「死にたいのか」と焦って止めていたのに。こんな風に社長を事故を装って殺そうとした守は、雄二の気持ちを“先回りして”代弁していたのだろうか?社長にこのことを問い詰められて会社をアッサリ辞めたのも、雄二にもこんなところにいるべきじゃないと、例を示したのだろうか?この時点では、雄二はひたすら守の言うとおりにしていたのだから。そして自ら雄二に「GO」を示して死ぬことによって、いままでは「待て」で守ってやれたけど、これからは出来ない。「GO」で自分で行くしかないんだと、言いたかったのだろうか。
守の死後、彼の父親真一郎と雄二は出会う。そして真一郎のもとに雄二は身を寄せることになる。でも、真一郎のもとにいることは、「待て」にほかならないのだ。でもそのことに雄二はまだ気づかない。守の大切にしていたクラゲを飼い続け、増やすことも、雄二の中でまだ「待て」が続いている証拠のような気がする。雄二と真一郎。守を亡くした二人は、親子のように親密になってゆく。でもそれは、守を共通項にした、やはりどこか危うい関係だったのかもしれない。
守が事件を起こした時、真一郎はもう一人の息子と会う。随分と昔に離婚したらしく、守は勿論、この息子ともずいぶんと久しぶりらしい。守の事件で動揺した真一郎はこの息子に、力になるから何でも相談してくれ、などと言う。それに対して、「2千万貸してよ。マンションの頭金にするんだ」などとぬかし、それはちょっと、とためらう真一郎に「何でも相談しろって言ったじゃん。出来ないなら、言わないでよ」と白ける。なんて息子だ、とは思うものの、ずっと子供と関わってこなかったこの父親の力のなさなのだ、これが。守はどんな人間だったんだろう、と問い掛ける真一郎にこの息子は吐き捨てるように言う。「少しは自分で考えなよ」
雄二と出会って、息子を介していわば同志のような親密さを感じる彼なのだけれど……結局、親子ごっこまでしか行けなかったのか。それは親と子の関係のように、一緒にい続けることは出来ない、しちゃいけないということのような。いや、そもそもが、やはり親子関係ということこそが、人間をひとりでいられなくする呪いのような「待て」なのだ。
許して、と泣く雄二を、「君達を許す」と抱きしめる真一郎。それはとても感動的だった。でも、そんなシーンで感動してしまうのは、黒沢映画においてやはり違和感を覚え、その感覚はやはり当たっていた。それこそが守の最も憂慮していたことだったのではないか、と。許す、その言葉は、守の「GO」の指示に従わないよう、雄二を縛り付けることになっていたのだ。自分の元にいれば安心だと。それが養子縁組をしようとする行動であり、それは逆に、後々は自分を看取ってほしい、守ってほしいということだったのではないか。親と子供は縁を切ることができないという。一生、お互いに扶養義務がついてまわるのだと。でもやはり親のミライは、子供のミライではないのだ。
まさに、守はあのクラゲを自分の分身のように大事にしていた。雄二に託したのは、雄二のことをもとても大事に思っていたからに他ならない。自ら発光して自分はここにいるんだと主張するクラゲ。しかし、そうして引き寄せて、自らの毒によって相手を傷つける。あるいは、守はいつか自分を殺すために、そのクラゲを飼っていたのかもしれない、と思うふしもある。そして一方で、そのクラゲによって誰かを助けられる日を、待っていたとも。
クラゲ。柔らかく、さまざまな形態に変化し、もともと海にいたのにこのクラゲは淡水にも順応してしまう。ナマコのように、原点の神聖さとしぶとさを持っている。人間は……海に突き落とされても川に流されても死んでしまうだろう。だから、自ら生きられる場所を探して、自ら行かなければならないのだ。
守役の浅野忠信は、出演シーンはほぼ半分ととても少ないのに、全編に渡っての圧倒的存在感。これは役者冥利に尽きる役だ。黒沢映画が初、というのは意外。いろんな監督と組んでいる彼が、最も水が合いそうな黒沢監督と組んでいなかったというのが。私には判らない黒沢監督の観念が、浅野忠信には本能的に判っている感じが非常にする。
そして、ほぼピンの主役と言ってもいいオダギリジョー。ドラマを見ない私は彼のことを初めて見る。多分、彼はこの黒沢清の現場で相当鍛えられたのでは、と思う。そういう必死さが感じられて、そのことがこの映画に大きな意味を与えている。
藤竜也は、男くさい色気のある人だったのが、年を経るにつけ、なんだか守ってあげたいような可愛らしい大人の男になった。そういえば随分前になるけれど、「ACRI」(あ、ここで浅野忠信とは組んでたんだ)でも、牛乳をブーと噴き出すところがやたら可愛くて、それ以来、今までのイメージとは違って見えてきたんだっけ。本作では、「言い過ぎちゃったよー」とうろたえて雄二を追いかける彼が愛しくて仕方がない。
社長役の笹野高史がまた実に絶妙。覇気がなくて、でも思い通りにならないと大人気なくイラ立つ。こんな笹野高史は初めて見るし、まさか黒沢作品に出るとは想像できなかった。でも上手い。やっぱり上手い人はどこに出ても、上手いものだ。
雄二とつるんでイケナイ遊びをした少年たち。彼らが着ていたTシャツの絵柄は、チェ・ゲバラだったのか。これはやけに刺激的な暗示のように思えもするけれど、どうなんだろう……彼らは革命を起こせるの?それとも革命は自分の中だけのもの?ただ革命に憧れているだけ?あるいは、こんな風に、Tシャツの絵柄になるだけの、ただのシンボルにしかなっていない、革命など、内なる革命さえ、もう起こらないということなのか?判らない。彼らが、何か面白いことねえかなー、などと無責任なことを言って通りを歩いていき、段々とその目線が前方にしっかと固定され、何かを目指すように歩いていくショットで終わるのは、希望に満ちているようにも思えるし、全く逆にひどく希望的観測の強い描写のように思える。あまり、すんなりとアカルイミライ、とは私には思えない。
カラーなのにモノクロみたいなこの画。色があるのに、ない。黒が漆黒で、白がサラサラに乾いている。昔の西部劇みたいなこの乾燥した画に、クラゲだけがやけに湿度を持ってユラユラとゆく。自らの中に毒を持って、まるでその力を及ぼさないように、とでもいう様子で、彼らはゆく。海へと。★★★☆☆
最近の森田監督のイヤさは、一言、あざとさ。ちょっとあいまいな言い方かもしれないけれども、例えば本作においては三女滝子の相手である興信所の調査員、勝又あたりにその感じが残っている。今回はその向田邦子という作家性がまずあったのと、話の性質自体のせいか、そのイヤな感じはその程度に終わってはいるんだけれど。ただ、やたらと首を傾げる木村佳乃(何で好んで使うのか判らない……大根なのに)とかにもかなりザワザワきてしまった。しかも黒木瞳と相対すると顔がデカいし。この監督のこーいうヘンなワザとらしさが好きじゃないのよ。あるいはすき焼きから続くクライマックスの生玉子のアップとか(っていきなり話飛ぶけど)。上手いだろー!みたいな感じが。ああ、でもこれは苦手だと思っているからこういうどーでもいいところが気になるんだろうとは思うんだけど、でもやっぱりどうも苦手。
男と女の愛情の違いから来るぶつかり合いの物語、とでも言えばいいのかな。阿修羅、というのは女が隠している自分の醜い心の内。嫉妬なんておよそしそうにもない、いやその前に夫の浮気なんて疑うことすら知らなそうなお母さんの八千草薫までもが。彼女はまさに切り札。まさか八千草薫が、と心底驚く。
だって、生玉子持ってたんだよ!?と。あの穏やかな笑顔に隠された心中を思うとゾウッとしてしまう。
だからこそ、八千草薫でなければいけなかったんだ。
今までこの穏やかさをこんな風に逆手にとったことって、なかった。思いつきもしなかったというか、禁じ手だと無意識に思っていたのだ。
女優って、いつイメージを破るか判らないなあ。
と、感心したのはまあこの辺までで。いわゆる男の浮気性に悩まされる女の姿、というのはよくある話というか、あるいは単に森田監督の女への想像力がその程度なのかな、という気もする。何となく、歯がゆい。何が、どこが、と言われると……うーん、そうだな、端的に言えばこういう部分。四姉妹の父親(仲代達矢)が浮気していたことを母親(八千草薫)は知っていた。その事実が発覚したあと、母親は倒れてしまう。意識の戻らない母親の病床で、姉妹たちは涙ながらに父親を激しくなじる、というシーン。
何か薄ら寒いというか、共感しづらいのはなぜなのか。同じ女なのに、なぜかここでは身勝手な意見の筈の次女の夫(小林薫)の方に共感してしまうのだ。
何ていうか、彼女らは本当に母親を不憫に思っているというよりは、それに自己投影した女の自分を不憫に思っている、と感じてしまうせいなのかなと思う。
女って、そういうところがある。同情心は、自分に置き換えられる“身につまされる”感覚があるかどうかで決まるところがあるというか。
まあ、だからこそ阿修羅だってことなんだろうけれど、ここを阿修羅だと思って描いたかどうかはかなり疑問。期せずして監督の内にある、女のそういう部分というイメージがただ単に出てしまっただけのような気もする。
だってやっぱり、ここで女性に共感させることが出来ないのは致命的なような気がするんだもの。
うがちすぎかなあ……やっぱり。
これが昭和50年代を舞台にしているせいでもないのかもしれないけれども、女が男を、あるいは男が女をこんな風にカテゴライズするような純真な時代はもはや過ぎ去った。男と女はそれぞれに、愛情の持ち方が違うことをもう判っているんじゃないかって。
つまりは、男は複数の女を同時に愛することが出来る、ということなのだ。
器用だからとか、それぞれの愛情が浅いからだとかいうんじゃなくて、それはそれぞれの愛情の種類が違うからなんじゃないかと思う。浮気、とは言いつつ、その言葉どおりのことではないというか。
そしてそのうちの一つが保険なのだ。これは人間の、いや男の自己防衛本能のようなもので仕方ないのだ。
でも、女の愛情は一種類だから、基本的にひとりの人しか愛せない。
思い出は沢山持っているし、心の中の“浮気”はあるけれども(でもこっちの方がむしろ残酷かも)だから、男を理解できないし、許せない、と思う。
自身が愛人である長女は、そのことが何となく判っていたのではないか。
でも、夫に浮気されている次女や、まだウブさが残る三女、四女には絶対に父親が許せないのだ。
でもやっぱり、不倫は結局は奥さんに負けるのだ。
奥さんという所有権。あるいは保険は絶対で、やっぱりこれには勝てない。
愛人に保障は何にもない。
友子(紺野美沙子)と恒太郎(仲代達也)の不倫関係はとても美しいし、嫉妬なんてしそうにない奥さんが嫉妬するのも判るけれど、でもやっぱり愛人は哀しいだけなのだ。いいとこどりのように見えて、心だけを引きむしられてまたひとりになるだけ。
それが判っていたから友子はそうなる前に自ら身を引いた。
一番目の愛情より二番目の幸せを選んだのだ。
そういうしたたかさが女にはある。いやしたたかさというよりはやはり哀しさかな。
この紺野美沙子は本当に美しい。哀しいけれど、身を引く愛人が良く似合うのだ。
子供もいたし(しかもこの子供は二人の子じゃないし)、週に二度会っていたとはいえ、子供も交えていたわけで、擬似家族を形成していたんだろう。長女の綱子とはそこらあたり事情が違う。
こういうのを見ると、確かに男(恒太郎)は違う愛情で、彼女のことを本当に愛していたに違いない、と思えるのだ。“違う愛情”に納得というか、共感してしまって焦る。男が違う愛情を持てるというのがこういう場合、本当にやっかいだ。
なるほど、世界には一夫多妻制があるわけよね、なんてことまで思ってしまう。
こればっかりはしょうがないのかもしれないな……などと思う自分に更に焦る。
長女の綱子だって、そのことは判っているはずなのに、愛人とのズルズル関係から逃れられない。
演じる大竹しのぶがいかにも女女しているから、そして可愛らしさがあるから更に、そのズルズル関係がやたら生々しい。
でも彼女が、不倫しているその男の奥さんが押しかけてきたという修羅場で、男が自分をかばってくれなかったこと……オモチャの鉄砲だったわけだが……がどうしても許せなかったことが、“そのことは判っている”ことを如実に感じさせて、痛い。
結局は自分はその程度の相手なのだと。
皆からチヤホヤされて育ったのが想像できる四女、咲子役には深田恭子。こういう役のイメージとしては確かにピッタリだけど、実年齢よりも上の役にも関わらずいつもの若い深キョンで、ちょっと違和感を感じてしまう。
まあ、末っ子の幼さが出ていると言えばそれまでだけど……。
どうもこの子が上手いと思えないんだよなあ。姉たち三人プラス母親の女優陣が皆達者な人たちばかりだから、余計そう思ってしまうのかもしれないけれども。
この子の役柄と展開に今ひとつかなー?と思うせいもあるのかも。
というか、ある場面でいきなり引いちゃったのだ。それは、売れないボクサーと同棲していたこの子が、彼が浮気をしたんで飛び出しちゃうんだけど、でも妊娠が判ってそれを彼に告げたとたん、彼は嬉しそうな顔を見せて即座に仲直り、というところ。
え?この場面に引くのって、おかしいかな。それこそこういうメロドラマ的展開って、今じゃすっごくリアリティがないように感じちゃって。
……まあ、それこそこういうところこそが、男が妻にする女に求める保険なのかなって気もするんだけど。
このボクサーの陣内、一時は花形選手になって夫婦は華やかな生活を享受する。それでなくても以前からケンカばかりしていた咲子と三女の滝子なんだけど、この滝子の、内々だけで済ます慎ましやかな結婚式にも二人は華やかに登場し、キレた滝子と咲子はハデなケンカをし、ますますその仲は疎遠になってしまう。
しかし、ある日突然陣内が倒れてしまう。そしてそのまま意識が戻らなってしまう。
彼の世話を必死で続け、その疲れからか無意識に万引きをしてしまった咲子。そのことをネタに彼女は脅されてしまう。次女の巻子に助けを求めてかけてきた電話をとったのは滝子。
滝子は咲子のもとにかけつける。「私じゃダメなの?」と。そして恐怖を押しながら必死にこのストーカーを撃退するのだ。
彼女を助ける存在としてついている勝又(中村獅童 )もここは良かったし、ちょい泣けた。ふかはふかでも深津ちゃんが良いのよね。
この三女、滝子は父親にずっと愛されていないと思ってきた。
四姉妹で三女あたりだとそう思ってしまうところがあるのかもしれない。三姉妹なら真ん中とか。
でも結局彼女が家に残る。和服姿で卓をふいている後姿に、父親がこうもらすのだ。
「母さんにソックリだ」と。
これ以上はなく嬉しそうな笑顔を見せる滝子に良かったね、と心から思いつつ、ふと思い当たることがある。
あ、これが、これこそが男が家庭に戻ってくる“保険”なのかもしれないな、と。
自分を愛してくれる、という系譜。しかも、その愛してくれる、の上に“無条件に”がつく子供たち。
確かに人間は一人では生きていけないのだ。
父親の浮気を喝破した新聞投稿の主は、母親だった。この事実が明るみに出るのがラスト。次女の巻子のフリして書いたこの文章、同じく夫に浮気された巻子に共感していたのかもしれない。
……と色々考え、書いてみてもやっぱり、森田芳光監督に女心が真に判っているとは言えないって気がするなあ、と往生際悪く思う。原作に助けられてはいるけれど、納得はし切れない……のは、あまりにも森田監督苦手、の先入観にジャマされすぎだろうか。
チョイ出の長澤まさみちゃん、その役名が里見洋子、サトミヨウコ!なことにミョーに喜んだりして……。★★★☆☆
しかも、本作は何だかやたらと長い。疲れるほど、飽きるほど、言っちゃえばダレるほどに長いのだ。「VERSUS」はまだ、起承転結、と言えなくもなかった……まあ、正直、A+B+C+D、という感じだったけど(しかも設定が寒かったけど)。本作は、起承承承転転結、といった趣。いや、本作に関しても、やっぱり素材を並べている感は、強い。アクションがあって、ドラマがあって、アクションがあって……というサンドイッチ構造で、その素材同士に観客を引っ張っていくだけの吸引力が弱いし、エピソードを盛り込んでいるのに、密度が蓄積されないのだ。
しかも、最もマズいことには、そのアクションである。この作品は、監督自らが語っていたように、“チャンバラ時代劇”であるがゆえに、そのアクションで魅せることが最重要課題。しかし、これが……。今はもはや、昔のように、アクション映画や時代劇映画のために育てられた役者によって映画が作られる、などという幸福な時代ではないので、あるいは、そのために鍛錬を積んでいる役者はいても、役のイメージとやらで彼らが活躍する場もなく、とするとアクションに関してはズブの素人がイチからトレーニングをしなければならないわけで、今回はそのアラが最も出てしまった、気がする。しかも、ヒロインに。そりゃ、もちろん、ヒロインである上戸彩ちゃんは死ぬほど頑張ったんだろうとは思うんだけど、映画というものがその後に残っていく作品だということを考えれば、“頑張った”ぐらいでそれを許容するわけには、いかないのだ。
でも、アクション俳優としてのトレーニングを積んでいなくたって、現代においても素晴らしい殺陣シーンの時代劇はちゃんと作られている。真田広之などはもともとそっち方面の専門だから上手いのは当然だけれど、そうでなくたって。と思ってしまったのは、本作を観た後、「壬生義士伝」を観て、ああ、やっぱり違う、全然違う、と思ってしまったからなのであった。「壬生義士伝」は、私が歴史にヨワいのでついつい観逃してしまっていた作品で、このたびタダ券をもらったので遅まきながら上映会に出かけたのだけれど、ここで繰り広げられる殺陣は正直言って本作と雲泥の差の見事さ。彼らだって決してアクション俳優なわけじゃない。この作品のためにトレーニングをしたに違いないのだ。ならば何が違うのか。
殺陣の素人でも役者としてベテランだと、その演技力でカバーできる点もあるのではないかと思う。で、本作の彩ちゃんはじめとした若いメンメンは、正直そこまでのレベルには到達していない。男の子役者たちは、役者として注目しているコは、全くとは言わないけど、正直ほとんどいなくて、ちゃんと上手い男の子役者、色々いるのになあ、とか思ってしまう。でもここで問われるのは演技力もそうだけど、言ってしまえば人生経験とかそれから発するオーラとかいうものになるので、ある程度は仕方のないことなのだけれど。あるいは殺陣そのものでも、受け太刀をしたり、構えたりするタメ部分で、クッとした踏ん張りがきいていないので、時々バットを振っているようにさえ見えるほどに緊張感が薄い。殺陣の画として非常に弱いのだ。過去の時代劇映画とその点だけを見比べてみても、いかに違うかが判る。スタントなしにやるこだわりは、こうした点を完璧にクリアしてからにしてほしい。スタントはやたら使うのは問題だけれど、作品のクオリティを高めるためには、確かに有効な手段なのだから。
しかし正直、私は本作でそうした、王道の殺陣のスタイルをとるとは意外だった。劇中の冒頭で語られているように、あずみは力ではなくスピード(とテクニックやカンも含まれるだろうと思う)でたぐい稀なる強さを発揮しているわけで、そうでなければ非力な女である彼女が(非力、だというのは、劇中で男たちに襲われる場面で、彼女が羽交い絞めにされた男を振りほどけないのでも判る)ここまで強い剣士になれるわけは、ないのだ。で、そうやってあずみの強さの秘密を解説しているにも関わらず、なぜか殺陣は従来の力任せのそれなんである。受け太刀もするし、あの人数相手にジリジリ待って構えたりもする(後ろから斬られちゃうよ)。力ではムリでも天性のしなやかなセンスとスピードで鮮やかな剣さばきを見せてくれるとばかり思っていたこちらとしては、それは確かに勝手な期待だったわけだけど……ガッカリしてしまう。しかも彼女のアップを撮るためなのか、かなりアクションは細切れ状態なのだけれど、細切れ状態であって、緊張感のないアクションになってしまっちゃどうしようもないではないか。
私は原作は読んでいないけれど、確かに彩ちゃんはあずみのイメージにピッタリなんだろうとは、思う。で、彼女が世間的には演技派女優と言われていたので、その点についても期待する部分はあった。しかし……これはもしかしたら彼女が殺陣だけに集中してしまったせいなのかもしれないけれど、表情の覇気のなさにちょっと驚いてしまう。前述した、アクションシーンでの待ちの場面の多用は、つまりはキメのポーズでヒロインのアップを撮りまくるためなのかなと思えるほど、ハラリとかかる髪から覗くお顔は文句なく美しいし(ちょっと出っ歯が気になるけど)、フォトジェニックな、非常に画になる子であるんだけど、そのフォトジェニックは、写真の方のそれだったかもしれない。人を殺すために育てられてきて、好きな人も、本当は悪い人じゃないかもしれない人も斬らなければならない運命に苦悩し、葛藤するヒロインの表情を見せてくれているとは、言いがたいのだ。
いくらこれがチャンバラ娯楽映画であって、ドラマティックとか感動とかいう部分はわざわざ言うほどのことではない要素だったとしても、あずみの成立要素としてここは絶対にハズせないはず。あずみは、ものすごく複雑な、その内面性を演じるのがとても難しいキャラクターなのだと思う。確かにアクションありきではあるけれど、それを除いた、あずみのキャラクターだけをとって演じるだけでも、相当の技量を必要とするほどの重層的なキャラクター。確かに彼女はその場面場面に際して、呆然としてみたり、無邪気に笑ったり、あるいは泣きじゃくったり、キリッとした表情を見せたりはするけれど、それらは非常に分断されていて、あずみとしての常に流れている、彼女自身にもつかみきれないモヤモヤしたものが、感じられないのだ。でもそれは……前述した、映画そのものの成立の仕方のせいなのかもしれない。ただ、彼女、クライマックス前後からは少し良くなるので……順撮りではないのかもしれないけれど、何といっても主役を任せられるだけの女優なのだから、溺れずに頑張ってほしい、とは思う。しかし……関係ないけどあずみはなぜ茶髪なの??
そういえばこれはオフィシャルサイトのBBSなどでも言われていたことなんだけれど、アクションを演じる役者たち、特にあずみが、なんだけど、全く汚れないことも、痛みを感じられないことも、アクションのリアリティの希薄さに大きく影響していると思う。それこそ「壬生義士伝」では汗やほこりにまみれて、髪の毛はボサボサになって、破滅への美学が強烈だったから。流血は、確かにすさまじい。そういえば汗やほこりがアクションにまとってくるのは割と最近の話で、往年の時代劇などでは、流血だけだった。でも、ヒロインであるあずみが傷ひとつないのは、やっぱりその点に照らしても、違和感。まるでマネキン人形みたいに、最後までつるんとキレイ。彼女の内面の葛藤を感じられないのは、この外見のあまりの傷つかなさによるのかもしれない。何かこの点だけ、スルッと忘れられているような気がする。確かに昨今の日本映画には珍しく、気持ちいいほどにカネをかけているだけ、大がかりな美術は素晴らしいし、演じられる舞台としては申し分ないんだけど、だからこそ、スキが見えやすくなってしまうのも事実。
冒頭シーンでいきなり、仲間同士で斬りあわなければならなくなる、という場面が出てくる。ここはこれ以降の彼らに共感するための大事なシーンで、子供である彼らの悶絶するほどの葛藤が予期されて、設定を聞くだけで涙が出てきそうな壮絶なシーンのはずなのだが、ここからすでに思いっきり遠くから眺めている感覚になってしまったのが、いけなかった。「VERSUS」の監督の作品かあ、と先入観を抱いていたせいもあったのかもしれないとは思う。だけど、そう……この要素っていうのは、思えば「バトル・ロワイアル」だってまんまおんなじなわけだけど、その切羽詰まり感は、何倍も、何十倍も「バトル……」の方に軍配が上がる。正直、本作でのこのシーンが稚拙に思われてしまうほど。ここでの彩ちゃんは、ただ立ち尽くし呆然としているわけだが……演技としては別に間違いではないんだろうけれど、「バトル……」が徹頭徹尾、その必死さを全身でアピールしていたことを考えると、やはり弱いと言わざるを得ない。彩ちゃんは殺陣の動き以外はこの姿勢を貫いて、顔の表情は場面ごとで作っても、体の表情を作るまでには到底至っていないのだ。違う映画なんだからと思っても、そこには明らかに力の差が見てとれてしまう。
脇役は、かなり魅力的。特にメジャー映画でしっかり気を吐いてくれたエンケンの、ナンパな兄ちゃんをそのまま時代劇に持ち込んだカルさは最高に可笑しい。「かわいい〜」「年いくつ?」「やられちゃったよお」と、ほとんどエンボク兄ちゃんそのまんまだもんね。只今売れっ子驀進中のオダギリジョーが、まあ、これはどこかで似たようなキャラを見たことがあるような気はしないでもないものの、ナルシスティックな、赤いバラ持った女言葉のサディストを実に嬉しそうに演じていてヨイ。彼は「アカルイミライ」でかなり鍛えられた感じがしたし、しかも彼が出てきてからは彩ちゃんを完璧に食うほどの存在感なので、やはりなかなか買いの役者なのだなあ。
CGはなるだけ使わないように、とか言いつつ、使っている部分がかなりヤボなのも、気になる。いきなり、冒頭シーンの林の中のアクションで、既にCG臭いんだもん……確かに、林の中で実際のアクションをするのは難しいんだろうけどさあ。爺役の原田芳雄の戦場を回想するシーンで、バックが思いっきり合成なのも、いくら回想でも、あんまりすぎて気をそがれる。気を使ってると言いつつ、実は雑な感覚としか思えない。
ヤエ役の岡本綾は、可愛かった。彼女はちょっと、良かったな。殺陣がないせいか?微細な表情も出ていた気がする。ヤエはあずみにとってつかの間の安らぎ。許されるなら、こんな女の子になりたい、という、あずみの中の(彼女自身は気づいていないかもしれないけど)理想の存在なのだろうな。そんなヤエに女の子の着物と化粧をしてもらって、「あずみは女の子だよ」と言われるシーンは、女の子同士のセンチメンタルが横溢していて、なかなかお気に入り。
海外からオファーが殺到しているというんだけど……正直あんまり、海外に出してほしくない。確かに予告編ぐらいの短さや編集では、とても魅力的に見えはするんだけど、それだけに……。そういえば北村監督、“ハリウッドが目をつけた”いうのも、「VERSUS」のかなり短いフィルムでだったんでしょ?確かにそれなら判るんだけど、という気がどうしても、してしまう。深作欣二監督が亡き今、確かに純粋にアクション映画を撮れる監督はいないけれども、それを北村監督が埋められる、のかなあ……。★★☆☆☆
濡れ落ち葉、なんてことが、アメリカにもあったなんて。主人公、ウォーレン・シュミットを演じるジャック・ニコルソンは全身これ、濡れ落ち葉。そのことに最も、驚く。強烈な個性を発揮し続けてきた彼が、誰からもかえりみられない、平凡な、くたびれきった男になってしまうとは。身体もすっかりゆるみきっていて、会社に行かなくていいとなると髪もボサボサ、普段着というものを持っていなかったから、リタイアしても外出にはトレンチコートを着てしまう。やっと用意した普段着は、ドブネズミ色の老人色。日本の同じ立場のリタイアマンと、何ひとつ変わらないではないか。ニコルソンといえば、ハリウッドスター、どんなに年をとっても今までは美女を脇にはべらせていたのに、自分と同じ年頃の、長年連れ添った妻の尻にしかれ、それをうっとうしがっていたはずがこの妻が突然死んでしまうと、自分一人では何も出来なくなる。本当にこれがジャック・ニコルソンだなんて。
思いっきり現実を辛辣に描き、かなり悲惨な展開を見せるこの作品なのに、なぜか常に絶妙のユーモアが流れている。最後の最後に泣かされる以外は、コメディ映画と言ってもいいぐらいである。実に、シニカルな。ジャック・ニコルソンは本当に驚くべき演技を見せる。その演技は案外寡黙で、彼からイメージするようなオーヴァーアクトはないのだけれど、何だか、常に、明らかに、やたらと、可笑しいのだ。悲惨なはずなのに、彼を見ているだけで、ついつい笑ってしまう。特に、最高級ウォーターベッドに寝るのに苦心惨憺するところから、そのベッドのせいで首を痛めてからの彼はまさに抱腹絶倒。もう、コメディアンではないかと思ってしまうぐらい、その身体芸が素晴らしいんだもの。ベッドから起き上がれず床にカエルのようにはいずり、ネクタイを首に回すことも出来なくて何度も前から後ろへと放ってみせるこわばった後姿にもう爆笑。娘婿の母親から強力な鎮痛剤をもらったものの、あまりに効きすぎてヤバい目つきになっちゃうあたりとか、もう上手すぎて、上手すぎて。お、お腹がよじれるー!
彼と拮抗する強烈さを放つのが、この期限切れの鎮痛剤を差し出した娘婿の母親を演じるキャシー・ベイツ。ある意味、ジャック・ニコルソンとは正反対のアプローチで、人生自分中心に楽しく回っているオバチャンをポジティブに演じる。別れたダンナには若い奥さんがもういるというのに、いまだに自分にホレてると思い込んでるし、あんな見るからにバカな息子を、愛情深くてハンサムな世界最高の息子だと臆面もなく賛美するし。あ、でもこのあたりの親バカぶりは、シュミットと意外に似た者同志かもしれない……プラスとマイナス、両極が似ているみたいに。挙句の果てには“男やもめと離婚した女”などと言ってシュミットに色目を使い出す始末。す、凄いの、驚いちゃった。何が驚いたって、キャシー・ベイツの素っ裸ッ!彼女ときたら、シュミットの入っているお風呂に入ってきちゃうのよッ!お、おっぱいが、見事に、たれてます……いやー……まさかキャシー・ベイツのオールヌードを見る羽目になるとは……。あの時のシュミットの、いやさ、ジャック・ニコルソンの、口にこそ出さないけれど、オイ、ヤメロー!と言いたげな、目ぇひんむいたあの表情ときたら……。
リタイアして何ひとつすることがなくなったシュミットが見つけた“暇つぶし”それは、チャイルド・リーチという組織に登録して、貧しい国のンドゥグという子供のスポンサーになることだった。月に22ドルと、そしてこの子に当てて手紙を書くのが条件。シュミットは自分のことを書き始める。書き始めるうちに、周囲の人間のグチだらけになってくる。妻のことを、ここに寝ているこのばあさんは誰だ?と思うことがある……と始まり、体臭がガマンならないとか(シワだらけのワキの下がどアップ!)、座り方が気に入らないとか(画面に向かって巨大なお尻がドスン!)、駐車してある車のはるか後方からキーを取り出すのがイライラするとか(うッ、これ車じゃないけど、家のカギとか私もやってるかも……)、なんか判るんだけど、実に瑣末なことをイライラと書き綴る。しかしその手紙を投函して帰ると、何と妻が脳溢血で突然死んでいるのだ。この死に方も……ガーガーとうるさい掃除機をかけっぱなしにして、中年太りの身体をだらけたピンクの部屋着に包み、大きなお尻をこっちに向けてぶっ倒れているという、およそ今までのハリウッド映画の家庭の主婦としては考えられない図である。これもまさに……日本のオバチャンを思いっきり想像してしまうのだ。
で、シュミットはひとり、取り残される。駆けつけてくれた一人娘、ジーニーは、しかし結婚を控えていて、仕事もあるし、いつまでもシュミットのそばにいることは出来ない。しかしこのジーニーの婚約者というのがバカまる出しの男で、シュミットは自分の大切な娘がこんな男と結婚すること自体がどうにもガマンできず再三抵抗するのだけれど、そのたびごとに娘の心は自分からどんどん離れていく。ジーニーは言う。「ママはパパにあんなに尽くしたのに」そして、「パパも一人で暮らすことに慣れなきゃ」……娘って、やっぱりどうしても、母親がわについてしまう、のかな。しかもこのシュミットは典型的な会社人間で、この結婚問題にしても、そして今までも多分ずうっと、娘は母親に何でも相談し、全面的な信頼を置いていたに、違いないのだ。シュミットにとってもこの一人娘はかけがえのない存在なのに、娘にとっては、そうじゃない。会社をリタイアして、さあ、子供たちと判りあおうとした時には、もうあまりにも遅いのだ。子供たちはみんな巣立ってしまって、そして自分たちよりも大切な存在を見つけ、新しい家族を築こうとしている。これもまた、日本でもあまりに思い当たる問題なのだ。
でも、シュミットが抱えていた問題を、この娘のジーニーもまた持っていることに彼が気づけば。シュミットは会社をリタイアして、若い者に引継ぎをしたものの、その引継ぎをした男が自分とは全くやり方が違っていて、シュミットから見れば頭でっかちで何でもスマートにやってのけると思い込んでいる勘違いヤローであるコイツが、カンに触って仕方がないのである。で、シュミットは、会社にいた頃は、目も回るほどの忙しさの中で、自分がいないと会社が機能しない、ぐらいに思っていたんだろう。だから自分がいないところで、しかも自分のやり方とは違う若造が大きな顔してふんぞり返っているのが、自分の力はもはや及ばないし、まさしくおよびでないのに、なのに、我慢ならない。ジーニーもまた、このナマイキな若造と似たりよったり、あるいは会社にいた頃のシュミットと更にソックリなのだ。妻を亡くして意気消沈し、もう少しいてくれないかと請うシュミットに、あるいは、自分1人ではどうにもできなくて、そして寂しくて、娘の元を訪ねようとした彼に、仕事が忙しくてどうしても抜けられない、と言い放つジーニー。かつて、シュミットもそう思っていたはず。でも、ただ定年がきて、退職した、それだけで自分の存在価値はこうも簡単にゼロになってしまったことを思い知らされる。仕事なんて、結局それだけのことだったのだと。仕事をしている時は、みんな自分がそれなりに役に立っていると、思っている。社会の一員だと。そして、こんな風に、こっけいなまでに傲慢になってしまう。そしてそこから離れた時、こんな風に愕然としてしまうのかもしれない。自分は誰の役にも立っていない。生きている資格があるのか?と。
でも誰かの役に立ちたいなんて、それこそが傲慢なんじゃないんだろうか?
だって、人は生きることでせいいっぱいだもの。
ということが、提示されたのが、あの、シンプルだけど湧き出る涙が止められないラストシーンにあるのだと、思う。
ジーニーから拒否されて、もうキャンピングカーで家を出て来てしまったシュミットは、引き返すのも腹立たしく、しかたなく少し旅をすることにする。生まれた土地から始まって、通っていた大学などを巡る、観光をかねた自分探しの旅だ。今まで会社関係の人間以外では、他人と全く触れたことのなかったであろうシュミットが、ある時は積極的に、ある時は受動的に他人と関わる、初めての旅。まあ、その中でちょっと勘違いしてヒドイ目にあったりもするのだけれど……。でもあの場面、キャンプ場で知り合った夫婦は、確かにすぐに他人と仲良くなれる人なつっこい人たちなのかもしれないけれど、あの時勘違いヤローだったのは、意外とシュミットではなく、この夫婦(特に妻の方)だったのかもしれない。つまり、シュミットはこの奥さんから優しくされて、ウッカリ甘えて迫ってキスしようとするんだけど(めっちゃ、セクハラね)当然この奥さんはそれまでの優しい態度を豹変させて、「出てって!」と目をつり上げる。そりゃ、確かにシュミットは愚かだった……ある意味、これもまた、他人と関わってこなかったために、一般的な境界線を判ずる能力に欠けていたということ、なんだろう。でも、この「私にはあなたの気持ちが判る」てな態度で、シュミットの相談に、半ば強引にのるこの奥さんは、ただ単に自己満足。人の悩みは他人が解決は出来ないし、それを無理くり聞き出して判ったようなことを言って、心を許した相手にこんな態度をとるのは、やはり人間の傲慢さとしか言い様がないのだ……でも、難しい。ならば人はどんな風に人と接していけば、いいのだろう?悩んでいる人を助けたいし、人には心を許したい。でも、人間一人に何が出来る?結局は自分という強固な壁が、総てを阻んでしまうのではないか?
でも、シュミットは、この旅で大きなものを得たのだと思う。何より大きいのは、一人を楽しむことを覚えたこと。アンティーク人形の美しさに気づき、キャンピングカーの上で満天の星空を眺め、そして時々はいき違いもあるけれども、他人と関わることの、楽しさを。でも、娘、ジーニーに対してはまだまだ親バカである。どうにかあの男との結婚を引き止めたい、とギリギリまで抵抗する。でも、シュミットにとってはいつまでたっても幼い娘でも、彼女ももういい年をした大人の女であり、ここを逃せばはっきり言ってオールドミスだし、それに確かにかなりくだらなそうな男で、この結婚は失敗なのかもしれないけれども、でもたとえそうだとしてもそれが判って離婚するまでは、大人であるジーニーの責任なのだ。
言っちゃえば、シュミットはこの娘を過剰評価しすぎ。でもそれを、ジーニー自身が気づいてくれればいいのに、とも思う。それだけ、父親に愛されていることを、彼女が気づいてくれたら。
やっと観念したシュミットが娘の結婚式で聞かせるスピーチは、感動的である。何が感動的って、彼が娘をたてるために、せいいっぱいガマンして一世一代の芝居を打ったスピーチだから。シュミットは婿がわの家族をひとりひとり丁寧に褒め称えるんだけど、最も笑えたのはあんなバカ面さらした(ゴメン……でもそのバカ面が最高に可笑しいのよ)男が思慮深いだなんて乗り切るところ。本気で言っているとは思えないし、心の中では今でも、お願いだからこの結婚、ヤメにしてくれと、思っているに違いない、と思う。でも忙しい仕事の合間に、結婚の準備にきりきりまいしていた娘を目の前にして、彼女が、かつての自分のように自分ひとりでせいいっぱい頑張っていることが判ったから、彼女にとってはすべてが必死で、たった一つの選択なのだと悟ったから、愛している娘に、もうこれ以上のことを言えなくなった、んだろうな……。結局、やっぱり、親子なのだ。ジーニーはシュミットに、ソックリ。だから、きっと彼女もいつか父親の気持ちが判る時がくる。その時、もうシュミットはいないかもしれないけれど……。
結婚式が終わり、シュミットは一人、寂しい家へと帰る。チャイルド・リーチから手紙がきていて、シュミットがいつも周囲のグチばかりを書き送っていたンドゥグが、この子はまだ読み書きが出来ないので、絵を描いて送ってきた、とある。ンドゥグは、いつもあなたのことを心配している、と。同封されている絵は……なんていうか、本当にもう、シンプルで、それはこの子の貧しい状況を思いっきり想像させるものなんだけど、でもその単純線で描かれた二人の人物はニコニコ笑ってて、黄色い太陽が輝いていて……シュミットは、自分のために描いてくれたその絵を見て、たまらず涙してしまうのだ。ずっとずっと、何かの役に立ちたいと思っていた。でも役に立ちたいと思って役に立つのはとっても難しい。役に立とうとするのではなく、こんな風に誰かをシンプルに心配して、思って、描いたたった一枚の絵が、これ以上なくシュミットの役に立つ……彼自身の中にあったすべてのわだかまりを幸福の涙で洗い流してしまうほどの力を持つのだ。役に立ちたいというのが傲慢であることを、人が人を愛し、心配し、思う、それが一番大事なんだということを、このたった一枚の絵が、教えてくれるのだ。
こんなに静かで幸福なラストシーンが、まさかアメリカ映画で見られるとは思ってもみなかった。黒澤明の「生きる」を思い浮かべて脚本を書いたというこの新鋭監督、これからのハリウッドを変えていく力になってほしい、と思う。★★★★☆