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「し」


2002年鑑賞作品

じーっとみてるとさわりたくなっちゃうよね
年 27分 日本 カラー
監督:山崎敬司 脚本:山崎敬司
撮影:北口直樹 音楽:山口優
出演:樋口浩二 石井麻由 三田直弥 三城晃子 山崎銀之助 永松恵子 及川美枝 船津一弘 本間滋 冴木尚人 秋葉靖子 斉田知奈津 鈴木たけし


2002/1/24/木 下北沢トリウッド
アニエス・bは美しい映画が好きなそうだけど、わたしは断然優しい映画が好きだ。こんな優しい映画が好きだ!「クリスマスにプレゼントを選ぶこともなく」でたまらなく優しく幸せな気持ちにさせてくれた山崎敬司監督の新作、今回は短編だというので初めて短編専門映画館、トリウッドに足を運ぶ。

一組の恋人の、30分弱のささやかな物語。一人暮らしの男性らしい?散乱した部屋に暮らす、酒好きで合コン好きなサラリーマン、コウイチと、そのカノジョで“じーっとみてるとさわりたくなっちゃう”クセのある強気な女の子、チカ。会社の健康診断で胃がんの再検査を受けてしまったコウイチはヘコみ、口では、ばあーか、なんていつも軽くののしりあっているチカも心配になる。結局、結果はただの胃壁の荒れだったということが判明、心配して損した、とばかりにまるで泣き出しそうな気持ちを隠すかのようにコウイチにキックをかますチカと逃げ回るコウイチ。そしてラストカットでチカが“じーっとみてるとさわりたくなっちゃ”ったものは……。

雰囲気とか、空気とか。そういうものだけで出来た映画を観たいといつも思っていた。それって、実はとてもむずかしいことなんだろうけれど、この人はさらっとやっちゃうんだ。最近遅まきながら出会った山田勇男監督作品にもそんなことを思ったけど、それともまた全く違う。人と人との関係が、ここでは「クリプレ」よりももっと最小限度の、二人の恋人の距離感なんだけど、お互いがお互いを思う、はっきりとは見えないんだけど、積み上げてきた時間がかもし出すような、優しい時間が見えるような気がするんだ。この人の映画って、優しい空気を作ろうとしているっていう感じじゃない。やってくるのだ。スクリーンの後ろから優しい空気が、風が。

口げんかばっかりしているんだけど、それも本気であって本気じゃないというか、ばあか、って言いあっていても、それは好きだよって言葉にすり替えられるほどに、何だか優しいんだ。何なんだろう、その空気感は……。ばあかって言葉って、優しいよね。関西の人は、関東の人の使う“ばか”って言葉はキツい、と言ったりするけれど、そんなことない。こんなふうに、すごく優しい。パール兄弟じゃないけれど?「バカやろうは愛の言葉」なんてね。

チカは“じーっとみてるとさわりたくなっちゃう”女の子。タイトルにも使われている、彼女のちょっと変わった、でもとても可愛いクセ。冒頭、彼女はコウイチを待っている小さなレストランの前に出されているツクリモノのオムライスをじーっと見ている。そしてそっとそのケチャップの部分に触り、つつつと指でなでまわす。「なーに、やってんだよ」と遅れてきたコウイチが背後から声をかける。「うん、こういうの、じーっとみてるとさわりたくなっちゃうんだよね。でも、これ、さわってみるとかたいんだよ」なんて言いながら。その時彼女にならってそのオムライスにさわり、さっそく軽くののしりあい、彼女の頭突きを受けたりするコウイチ。もうこの冒頭の一くさりだけで、二人の優しい関係が見えてしまう。レストランに入ってお互いの好き嫌いをからかいあうのも、それでついつい大声になってしまって慌てて声をひそめたりとか、そういうのも、なあんかもう、たまらなくかわいいんだ。カップルに感じるかわいさなんて、付き合いはじめたばかりの二人の初々しさぐらいかと思っていたら、こういうカップルのかわいさを切り取ることが出来るっていうのが、なあんかもう、すごくいいなって思っちゃうんだ。

お互い、しっかりとした社会人同士。コウイチはもう職場では部下もそれなりに出来て、それなりの位置に来たけれど、やはりそれなりの仕事の悩みも抱えている。酒好きも合コンも、仕事のストレスを紛らす意味も大いに含まれている。一方のチカは慣れた感じで仕事をこなしてはいるものの、そうしたしがらみを感じるまでには至っていない様子。彼女が自分の会社?の名前を電話の相手に説明する時、はひふへほのは、では通じなくて、はげのはです、と言うのに彼女のはげ気味の上司がかすかに反応する場面なんてすごく可笑しいんだけど、図らずもそんな彼女の仕事や仕事場での位置関係を示しているようにも思える。そんなコウイチとチカのバランスが、これがイイんだよね。お互いに同じような位置や立場にいたら、同じような悩みを抱えあって、きっともっと息が詰まってしまうに違いない。もちろん互いの立場を理解しあいつつ、でもそれがある程度離れているのが、彼らの距離に感じる優しさの一つのように思える。

彼女がさわりたくなるものはいろいろある。カプチーノの泡に触りたくなったことをどうしても言いたくてコウイチに電話すると彼は合コン真っ最中でケンカしちゃったりなんていうほほえましい場面も印象深い。そしてタイトルを聞いたときにちょっと頭をかすめちゃったエッチなものも含めて。それを聞いた彼氏がやたらとアセってうろたえまくるのもイイ。もうあーんなことやそーんなこともやっちゃった二人に違いないのに、彼氏は彼女がそんなこともさらっと言っちゃうことにアセるんである。

そう言えば、この映画、彼女が彼氏の部屋に当然のようにしょっちゅう泊まる描写がある割には、そうした場面は出てこない。しかも、(短編とはいえ)これまた自然に当然のように出てこないんである。この当然のように、となるあたりがまたこの監督のすごいところで、確かにこの二人はあーんなことやそーんなこともヤッてるに違いないとは思うのに、でも二人仲良く寝相の悪さまで似ている、まるで兄妹のようにぐーぐー寝ているさまが、ほんっと、信頼しあった親友のような恋愛関係で、イイなあ、と思わせるんだよね。それに、双方共に同じことが気になって眠れない夜、コウイチが胃がんの再検査を受けることになって不安になり、チカも強がって言葉には出さないけどやっぱりちょっと不安になってて、不安がっているコウイチをことさらからかうように「ついていってあげよか」なんて言う。それに対してコウイチ、最初こそあしらうものの、一瞬の後、「……ついてくる?」と言うのも、この年の男性から出てくるリアクションとして意外なところをついてくるから、思わずきゅっときちゃうし、それに答えてチカが更にからかいに紛らすようにどーんと寝ているコウイチの上にタックルするのも、どんな言葉よりあたたかくて、涙が出そう。

コウイチが一人で検査を受けている間、チカは職場での無遠慮な上司たちの話題で、ちょっとだけの不安だったのが、本当の不安に増幅する。彼女はコウイチの帰りを駅でたちんぼで待っている。何かを作ってあげようと思っているらしく、買い物袋からはねぎがのぞいていて、それがなんともはやケナゲでかわいいんだよなあ!そこにノーテンキにコウイチがやってきて、心配がる彼女をヨソに、胃壁が荒れてるんだってさ、酒禁止されちゃったよ、でもそう言われると逆に呑みたくなるんだよな、などと言い、心配が安堵に、安堵がテレ隠しの様な子供っぽいイカリになったチカは、コウイチをキック!キック!商店街の真ん中でチカのキックにすっかり参っちゃうコウイチ。うー、それぞれの態度と裏腹な気持ちが手に取る様に感じてしまえるから、きゅうっときちゃうんだなあ!

そしてラストがイイんだ。そのキックから救うようにコウイチにケイタイがかかってくる。彼が電話を受けている間、冒頭に待ち合わせしていたレストランのところで待っているチカは、また店の前にサンプルのカレーライスが出ているのを見つけ、じーっと見つめる。触りたくなって触ったら、あらららら、今度はツクリモノじゃなくて、本物のカレーにむにょっと指を突っ込んじゃった!アセったチカはその指を慌てて口にくわえる。そして、ジ・エンド。もうー、カワイイッ!

じーっとみてるとさわりたくなっちゃう、っていうのって、何かその対象に対する自然体で純粋な愛情を感じてしまう。チカはツクリモノのオムライスにも、カプチーノの泡にも、コウイチの××××にも同じように愛情を注いでいて、そしてコウイチのことはそれがずうっとクレッシェンドされてだーい好きなんだな。彼女のそうしたネジレのない愛情の比例グラフがすごく素直に響く。コウイチも、もちろん。彼の場合は男の子らしい(この年にするとやや子供っぽいあたりが、ある意味正直なのもヨイ)ヒネクレ加減が逆に判りやすくて、チカが大好きだっていうのがね、やっぱり素直に響くんだよね。

近頃、ブルーの冷たい画面の映画ばかり観ているような気がして、だから山崎監督の、このあったかいイエローかオレンジか、って感じの画面もすごくホッとする。かわいらしいピアノの音楽も、ピッタリ。結構人間ニガテな私でも、人間っていいな(って、「日本むかしばなし」のエンディングテーマじゃないけどさ)なんて、思っちゃえるんだよなあ。★★★★☆


自殺サークル
2001年 99分 日本 カラー
監督:園子温 脚本:園子温
撮影:佐藤和人 音楽:長谷川智樹
出演:石橋凌 永瀬正敏 さとう珠緒 野村貴志 室生舞 ROLLY 嘉門洋子 萩原明 余貴美子 迫英雄 磨赤兒

2002/3/17/日 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
どうしても好きになれないんだけど、どうしても気になってチェックしてしまう監督というのは、この園子温監督たった一人。“現代の寺山修司”だと思っていたのは、私だけではなかったらしい。と言いつつ、私は彼の詩を読んだことは実はないのだが……その映画作品を通じて、彼の“現代詩人”なるものに触れてきた。彼だけはいわゆる商業映画というものに手を出さないと漠然と思っていたので、この新作にメジャーな名前をズラズラと見るにつけ随分と不思議な気がした。

冒頭、新宿駅のプラットホームから54人の女子高生が手をつないで(お祈りつなぎで!)いっせーの、せ!と明るく拍子をつけて飛び込む。制服もそれぞれ違い、お互いに見知っているわけでもないらしい彼女たちが三々五々ホームの黄色い線の“外側”に並び始め、その列をさまざまなアングルで捕え、長蛇の列の彼女たちが次々とフォーカス・イン、フォーカス・アウトされてゆく。それは確かにスリリングで、まさかまさか……の気持ちをドキドキとかき立てるのだが、これまたやはり不思議な気がする。こういう技術的な上手さというか、ネラったやり方を今までの園子温監督作品に感じたことがなかったからだ。そこから続くスプラッタアクションも、実にカッティングが巧みで、本当にその場で起こっているかのような臨場感。観ているこっちも思わず身を引くぐらいなのだけど、やっぱり心のどこかで不思議がっているのだ。これが園子温監督なの?と。

なんて考えていると、一体自分が園子温監督に対して何を求めているのかどうもわからなくなってくる。その後の展開も妙に上手い。しんしんとしたホラーの見せ方……電気の消えた暗い部屋に何の疑いもなく入っていく宝生舞や、べたべたと手形のついた出窓、といった冒頭から続く場面からはじまって、やたらと咳払いする子供の声での電話、石橋凌の後ろに立つ血まみれの娘、とコワがらせる描写は近年のボケ気味のホラーものと比べれば研ぎ澄まされ、充分に合格点で、観ている間、緊張感が途切れることはない。ただ、そういう上手さは、いわば職人的な上手さというか……実に上手いこと展開されていくこの物語に、何でこれが園子温なんだろう、園子温である必要があるんだろう……と考え込んでしまう。正直、こういうホラーものの上手さであるなら、鶴田法男監督とか、清水崇監督とか、もっと上手い“代わり”は何人でも上げることが出来るのだ。私は何を園子温に求めているのだろう、と再び考え込んでしまう。

その思いはROLLYが出てくるあたりになって頂点に達する。なぜ自殺するのか、まるでノリのように軽く屋上から飛び降りちゃったりする“集団自殺ブーム”とでもおぼしき空気が、ネットを通じた意識操作である、というナゾ解きがなされて、その首謀者であると、本名鈴木宗男(笑)の彼が登場する。死んだ人間の数を表すマルが事前に増える、という不気味なサイトを発見したあたりはまだコワかったが、ネットにカギがある、と嗅ぎつけた二人の美女がナゾ解きをしていくあたりからだんだんテンションが下がっていってしまって、俺が犯人だよーん、とばかりにハデにROLLYが登場し、ほとんどギャグじゃないかとばかりに歌まで歌ったりするにいたって、テンションはぎゅーんと急降下である。ヘンな言い方だけど、ナゾ解きなんて園子温には似合わない、などと思ってしまう。

しかし。そんなこっちの気持ちを見透かすかのように、ここから強引に園子温監督の世界にねじ伏せていく。ドトウのような、暗号と言葉と思想の嵐。ナゾ解きどころか、ナゾをふり撒きまくる。恋人が自殺した一人の女の子が、この自殺サークルの核にアクセスする。そのカギは意味ありげにずっと挿入されていたガキンチョ娘によるアイドルグループ、デザート。死んだ恋人の部屋に貼られていたポスターの、メンバーたちのユニホーム風の衣裳につけられたナンバーと指のポーズから携帯電話のメールの手法でスペルを綴ってゆく。あらわれた言葉は“SUICIDE”ここから園子温監督の真骨頂がブチかまされる。

オフィシャルサイトのBBSなどを覗くと、ここからの展開がワケわかんなくて、ナゾが解けないとかいって、否定的になっている人も多いようだったけれど、私はここでようやく安堵してしまった。ああ、良かった。このまま終わったら、私は何のために園子温監督作品を観に来たのか判らない、って。ここに至って、私が何を園子温監督に求めていたのかがわかる。それはこのワケの判らなさ。私の中にはない言葉、展開、思想。こんな風に脳みそん中かき回されて、わっかんないけど、何かスゲエ!と思わせる。それはそこに至るまでに妙に上手かった映像の、カッティングのそれではなくて、園子温の言葉、展開、思想なのだ。最近、世の中は判りやすすぎるんだもん。まるでバカにされているみたいに。多分、園子温監督の中ではこの言葉、展開、思想は充分に咀嚼された、彼の中の真実なのだろうと思う。だから、判らないことが、気持ちがいい。共感できることばかりが、いいことだなんて、思わない。だから、“どうしても好きになれないけど、どうしても気になって仕方がない”のだ。

後半は、とにかく子供である。自殺サークルは子供組織によるものだったらしい……というこの辺の展開も園子温流でワケわかんないところはあるのだが、子供がまるで詩でも朗読するみたいにコワい哲学をブち、それに憤然と応えた女の子にバカにしたような感動モードで拍手をする、というのが、そのワケわかんなさの恐さのピークだった。メインで言っている子供がやけに流れるような喋りが上手いのも恐かった。アナタトコイビトハアナタガシンデモカンケイアリマス。ソレデハアナタハアナタトカンケイアリマスカ。アナタガシンデモ……。などと思わずカタカナで記したくなるような、頭の痛くなる問答。これに石橋凌扮する刑事は答えられなかった。しかし心の深いところをかき乱されたように涙(と鼻水)を落とした。しかしこの女の子は、「あたしはあたしと関係のあるあたしだよ!」と言い放つ。それが子供たちによる乾いた拍手に迎えられ、バカにしたように緞帳が下りる。そして待っているのは、暗号のための皮はぎの拷問……。女の子の言葉に、ああ、これこそが自己認識だと、アイデンティティだと喜んだのもつかの間、それを真っ向から否定するかのようなこの拍手と緞帳にアゼンとし、さらなる悲劇を予感させ、何一つ解決を見ないまま終わってしまう。

何が恐いって、みんなで手ぇつないで線路に飛び込む場面よりも、一緒に首にひもかけて台座を蹴飛ばす場面よりも、こんなふうに白けた断定で自己を、存在を否定されてしまう、このくだりが一番、コワいのかもしれない。園子温という人は、昨今の現代詩人……ドリアン助川だの三代目魚武濱田成夫だのといった、対象物として社会とかコミュニケーションを設定する人たち、そういう自信満々のタイプとは違って、案外今までの日本詩人の流れをくむ、内面から爆発していくタイプの人で……でもそれって翻って考えてみれば、自分の内面をさらけだす自信のある人、とも言え……逆にこれほど“自信満々”なことってないって気もするんだよね。そういやあ彼がPFFに入選したってのが「俺は園子温だ!!」ってタイトルだったわけだし(未見なのよねー、観たいなあ)。そんな風に対象物がなくて、自分の中のものを出してくる、というのは客観性なんかクソくらえで、他人に判んなくてもこれがオレだよ!みたいな有無を言わさぬ力があって、私は園子温監督のそういうところが“気になって仕方がない”のかもしれない。しかもそれが、私にはどうにも操りきれない“言葉”をワケわかんないながらも、そのパワーだけは確実に感じるものとして提示してくるから……やっぱりこの人はスゴいな、と思うのだ。

だからね、BBSとかで、判んない、とか果ては駄作扱いしているような発言が出ていても、園子温監督はニヤニヤしながら、してやったり、って思っているような気がどうしてもしちゃうんだ。それにさあ、あのアイドルグループの“デザート”の白々しさ!あれって、昨今のガキンチョばっかで群れてるアイドルと、それに熱狂する人たちまで含んですっごく痛烈な皮肉に思えちゃう。そんなこと言ったら私も結構イタイんだけどさ(笑)。しかも、こういう大人に金を貢がせているようなガキンチョに園子温監督の言葉を託しちゃうってのも、すっごいシニカルだよね。ホント、やっぱり相当自信がなきゃ、できないよ。

それにしても、やっぱりエグさと緊張感で観てる間中、口の中が粘ついてくっついちゃうぐらいになっちゃって……。その上、さすがに帰り、ここは新宿なわけだからさ、コワかったよう!だって何というバッド・タイミング!中央線快速に人身事故が出てて運転見合わせてたんだもん!!!もうー、参ったよ。それに、ホームに下りる女子高生たちが、“デザート”の着メロで次々と携帯にかかってくる、って場面があったじゃない。あれも異様にコワくて、私、やっぱり絶対に携帯電話なんて持たないもんね!と思ったよ。いいもん。文明に取り残されたって。……なーんて言って、ネットはしっかりやってるくせに、そんで、こんな風に最近ネットはネガティブに描かれてばっかり、なんて言うのはやあっぱ、ズルい、よね……。

ところで、これ映画と前後して小説とかコミックが出てるんだけど……結局のもともとの原作ってのは、園子温監督なの?なんかさ、BBSでは漫画は面白かったけど、とか、小説はよかったけど、みたいな言われかたしてるんだけど、もしもともとから園子温監督の案だったなら、そんなこと言われる筋合いねーって感じじゃない?はて、どうなんだろう……。

それにしても、淡いピンクのナース姿のさとう珠緒ちゅあん、カワいかったよー! ★★★☆☆


JAZZ SEEN/カメラが聴いたジャズJAZZ SEEN
2001年 80分 ドイツ カラー
監督:ジュリアン・ベネディクト 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:マシュー・J.クラーク 音楽:ティル・ブレナー
出演:ウィリアム・クラクストン/ペギー・モフィット/チコ・ハミルトン/ジョン・フランケンハイマー/ヴィダル・サッスーン /デニス・ホッパー/ベネディクト・タッシェン/ベン・ハーパー/バート・バカラック/ジャッキー・テラソン/カサンドラ・ウィルソン

2002/3/12/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ/レイト)
音楽は芸術の中で最も高いレヴェルのものだという。それは、音楽は形ではないから。これだと指し示せないから。平面の二次元でもなく、立体の三次元でもない。時間という四次元に属する、ただ一つの芸術。一見平面の二次元に見える写真という芸術も、実はその時間、一瞬を切り取る、という意味で、この四次元の芸術の仲間入りをしているといえる。ましてや、その時間が音楽となれば、なおさらである。

ウィリアム・クラクストンという、写真家のドキュメントである。名だたるジャズミュージシャンの優れた写真を次々と撮っている伝説のカメラマン。彼の領域はファッション写真、その演出にまでと幅が広い。
しかし、何といっても彼の名を残しているのはジャズミュージシャンの写真である。意表をついた演出が施されたジャケ写も興味深いが、目を見張らされるのは、その演奏写真。
これほどまでに、音楽を感じさせる写真があるだろうか。
あるいは、こう言い換えてもいい。「これほど四次元を感じさせる二次元の芸術があるだろうか」
彼の写真を語る人たちは、一瞬のうちに判断する構図の完璧さなどをも誉めたたえるが、確かにそれも彼の写真のシャレた魅力の一端を担ってはいるものの、やはり驚くのは、そこに時間が、音楽が流れていることなのだ。

しかし、不思議なことに、それはミュージシャン自身の魅力、俗っぽく言えばカッコよさとでもいったものに代弁されている。いわば、最初に見た時、私たちはその写真に映っている彼or彼女のカッコよさに気をとられる。つまりは、二次元の、時間のないモノに魅力を感じている。
しかし。彼or彼女は、その写真のためにポーズをとっているのではない。つまりは静止していない。写真のために時間(音楽)を殺していないのである。その写真の一瞬前、そして一瞬後、音楽は流れ続けている。
ミュージシャンが一番カッコよく見える瞬間を本能的に察知して、彼らの時間(音楽)の一瞬をかすめとっているのである。いわばクラクストンは、キザな言い回しになるけれども、稀代の大泥棒とでも名づけたくなる人。

時間は一瞬の積み重ね、瞬間の連鎖で出来ている。永遠のように思える時間も、写真のシャッターになぞらえる“一瞬”の天文学的数字の積み重ねだ。
だから、写真は、最高芸術である音楽と同等である。例え一瞬でも、写真には確かに時間が流れているから。
ひょっとしたら、同じように時間を刻んでいる“映像”よりも高等かもしれない。と思うのは、博物館学などを学んだ昔を思い出したからだ。色が劣化する恐れのあるカラーの写真や、映し手の主観(先入観)が写真よりも入りやすいビデオの映像よりも、モノクロの写真が記録として優先される、と私のホレていた考古学の教授が授業で教えてくれたこと。
クラクストンの写す(ジャケ写ではない)演奏写真は、そのほとんどがモノクロ写真だ。光と影、陰影の効果を狙うということもあるのだろうし、彼自身がどう考えているのかは判らないけれども、そこには記録としての誠実性と、芸術としての洗練がある。
彼が子供の頃、図鑑に収められたモノクロの遺跡の写真に魅せられたというのは、そういう観点でかなり興味深い。
そこには明らかに、そういった誠実性と洗練があらわれているからだ。
それこそがクラクストンの原点に違いない。

言葉をつくすしかない私には、音楽がうらやましい。
言葉にはいつも誤解がつきまとう。ワンクッション置いた間接性が、送り手の思い通りに相手に伝わらないからだ。
もちろん、それこそが面白いのだとも言える。言葉の要素を含んだ演劇や映画もまた、同じことが言えるだろうと思う。
音楽も、楽譜という形(記号)に置き換えると、実は同じ問題が生じてくる。
その楽譜からイメージする演奏は各人によって違う。イメージできないという人もいるだろう。
だから「ジャズには名曲はない。名演奏があるだけだ」という某氏(誰だか知っている人がいたら、教えてください)の言葉は実に重要である。これを正解と取ると、高等な芸術の音楽の中でも、ジャズが最も最高の芸術である、と言うことすら出来るかもしれない。

クラクストンの写真の手法も、またジャズ的に“名演奏”だ。
演奏中のミュージシャンの一瞬をかすめ取る腕もそうだが、その彼に引きずられるように、名演奏を途絶えることなく、クラクストンのカメラの為に最高の一瞬を用意してしまうミュージシャン。
クラクストン自身は、そうしたミュージシャン自身の演出力を称えているが、“そうさせている”のは、クラクストン自身だ、ということは、間違いない。
若い男女のミュージシャンを共に撮る場面で、彼らを一瞬、テレさせることで表情を引き出す、などという判りやすい例を示さなくとも、そのことは充分に判る。でも確かにこのくだりはいいexampleだったが。

小さな頃から音楽ファンだったというクラクストン。そして医者の見立て違いで、長くは生きられないと宣告された彼。そうして体が弱いと思い込まされた彼にいいんじゃないかと与えられたカメラ。彼の人生が回り始める。
先の時間がないといわれた彼が、長生きし、なおかつ時間を封じ込める写真芸術の道に進んだ、というのはあまりに完璧すぎるエピソードかもしれない。
だからこそ強調しようと思ったのか、ドキュメンタリーであるはずの本作に、それを再現する役者による芝居が挿入されてしまう。
正直、これはテンションが下がる。
クラクストンというホンモノの前では、その語られたエピソードがホンモノであっても、作られた映像は所詮ツクリモノに過ぎないからである。クラクストンがそれを語るだけで充分だ。

ところで……最近の出来事も大いに影響して、もともとの嫌米、反米体質に拍車がかかっている昨今なのだが、ことジャズということに関しては、やはりアメリカにはひれ伏せざるをえない。そしてこんな素晴らしいジャズがあるのだから、最終的にはアメリカは何とか踏みとどまる国だとも信じたい。
しかし、このドキュメンタリーはドイツ製だというのは……。やはりジャズの傑作ドキュメンタリーだった「BLUE NOTE ハート・オブ・モダン・ジャズ」の監督作品だというのには実に納得なのだが。そういえば「BLUE NOTE……」でもジャズを撮り続けた名写真家がクローズアップされていた。ベネディクト監督の専門領域ということなのだろう。

私は言葉を音楽のように奏でられたら……といつも思っている。
それは、歌の歌詞という意味ではなく、言葉自体が音楽のように五感に直接訴えることができないのか、旋律のように奏でられないか、という憧れであり、理想であり、願望だ。
音楽は、永遠に私の憧れ、理想、願望……恋しても恋しても届かない。
この音楽と幸せな関係を築けているクラクストンを、心底うらやましいと思う。

彼を語るためにインタビューに答えるのが、ジャズマガジンの編集者などこちらが知らない人も多いが、ヴィダル・サッスーンだの、デニス・ホッパーだのといったかなり興味深い人たちも登場する。ことにホッパーなど、「実際にジャズクラブの演奏を聴きに行くより、クラクストンの写真を眺めているほうが興奮した」というぐらいのホレこみようである。そして後半になって登場するファッショナブルな奥様とそのPV風の映像は鮮烈で、一瞬彼女の映画に摩り替わったかと思うほどである。ツイッギーなどと同じ時代に活躍したという彼女は、今なお変わらぬ新鮮さをたたえ、全く変わらずに颯爽としている。彼女を見ていると時間の経過の不思議さを感じる。彼女が駆け抜ける世界は“時代”という時間の最も先鋭的な部分に属しているし、彼女自身もそれを鋭敏に感じさせるのには間違いないのに、その彼女の中での時間は、まるでクラクストンの写真のように新鮮なまま封じ込められたままなのだ。

だから、クラクストンの伴侶が彼女だというのは、それこそ完璧に過ぎるほど納得してしまう。いまだに新婚のように仲むつまじく一緒にメリー・ゴー・ラウンドなどに乗ってはしゃぐのすら。幸せな伴侶がいての名カメラマン、という図式は、このクラクストンを見たとたんにその年恰好などからもパッと思いが行ってしまった森山大道とは随分と対照的である。男性的なチャーミングさを持っているところは共通しているのだが……。

それにしても、やはりジャズのドキュメンタリーにはハズれがない。前述の「BLUE NOTE……」にしても、「真夏の夜のジャズ」にしても、ウディ・アレンのツアーを追ったドキュメンタリー「ワイルドマン・ブルース」にしても。
本作の一瞬の時間、「真夏の夜のジャズ」の一夜の時間、そしてアレンのツアーの累々と流れる時間、不思議なことに、ジャズにはやはりことごとく時間の概念が共通してつきまとう。それは“名曲ではなく名演奏”の、二度と繰り返せない、音楽としてのジャズのコアな部分を非常に秀逸に物語る。いいところを切り張りして使うような現代の音楽事情とはあまりにも違う。そしてどちらが後世に残っていくものなのかといったら……言うまでもない。

そしてそれは一瞬の時間の積み重ねの最も究極的な“時間”、永遠にまで結びつくのだ。★★★★☆


十七歳
2002年 分 日本 カラー
監督:今関あきよし 脚本:いしかわ彰
撮影:山神俊二 音楽:千住明
出演:滝裕可里 忍成修吾 伊崎右典 内田さやか 中場千景 三根麻由 米山真央 永倉大輔 和田周 小倉一郎 丹古母鬼馬二  山口果林 秋吉久美子

2002/9/29/日 劇場(シアター・イメージフォーラム/モーニング)
意図せず舞台挨拶に重なってしまって、アイドル系ユニットの男の子がヒロインの兄役で(でも回想シーンのみで特別出演っぽい)出ていたせいで彼目当てに集まったローティーン中心の女の子の激しいキャーキャーにいささか腰が引ける私(ちょっとヒロインの女の子がかわいそうだったけどね……でもキャーキャーは凄かったけど、満席にはなってなかったなあ。彼らはどの程度の人気なのやら?)。若いってイイわあ、などと老人臭いことをゴチながら、今観たばかりの映画は、決してそんな若さの単純さばかりを描いた映画ではなかったことを思い起こした。いや、というより、やはり若さの単純さなのかもしれない。まだまだ単純、未熟なゆえに傷つく。「ルールも守れない人間に、自由だの個性だの言う資格はない」などとムカつくことを言う女教師や学校に、「自由や個性」を守るために頑なにそれを拒否できる単純で未熟な若さのうらやましさ。

確かにこの女教師、もう吐き気がするほどヤなヤツで、ヒロインの路望が唯一心癒される要と一緒にいることに対して「あなたたち、どういうお付き合いなの?」などと勝手にイヤラシイことを想像しているに違いない目つきで言ったり、クラスメイトで足の悪い博子が、自分の身をいじめから守るためエンコウして友達に貢ぐ金を稼いでいたことがバレて、彼女をかばう路望に向かって「やっぱり、あなたもそうなのね」なんて言ったり。こ、こいつ、本当にコロしてやろうかと思うぐらい、ヤなヤツなんだけど、一方でどこかそのヤな感じが、大人になってしまった今、自己嫌悪感のような気分に思われてしまうのだ。

彼女は路望のクラスの副担任なわけだけど、担任の男教師もこの女教師がいないところでは路望に向かってカッコいいことを言っちゃって「生徒の前だと金八先生になっちゃうヤツ、こういうの、嫌い」と路望に心の中でつぶやかれたりする。口ばかりで何の役にも立たない臆病者というのも、大人の自分にはグサリとくる。まあ、そりゃ、若いからといってそれだけで行動力があるとかいう訳ではないんだけど、大人が自分をガードするやり方って、確かにこんな風に卑怯で臆病で、大人たちにとってルールこそが自分を守るものだから、そうなっちゃったんだ、ってことに気づくのだ。「自由や個性」が武器になる子供たちがうらやましいと思い、苦々しいと思い、ルールに守られていくうちにその武器を失ってしまった自分たちに気づく。

「大人になってからいくらでも好きなことをすればいい」と言われることほど、年若い時に頭に来る台詞はないわけだけど、でも今の年になるとそういう大人の気持ちの方が判ってしまって、何だかフクザツな気分は否めないんである。でも、それもまた勘違いかもしれない。大人になってから出来る“好きなこと”は、一生を左右するようなものではもはやない場合が多い。でも子供の彼らにとっては、一生を左右したり、人格を形成したりする上で非常に重要なことなのだということを、大人の論理で考える大人たちはスッカリ忘れてしまっているのだ。自分たちが押さえ込まれてしまうと子供たちが感じているルール、大人になればそのルールをコントロールしつつ、自分を守るものにもして「自由や個性」を発揮できるんだと、大人は考える。ある一方では確かにそうなのだけれど……その時大人に与えられた「自由や個性」は、彼らの余暇や趣味に過ぎなくなっていることも少なくないことを忘れてしまっているのだ。

このイヤな女教師が、生来の赤毛の路望に向かってしつこく髪を黒く染めるように言う。彼女より、制服のシャツの胸元を開けて着てる、路望をイジメている子達の方がずっとミットモないのに、教師にとっては、イジメられっこの方を同化させる方がカンタンだから、ということなのか。「何で黒く出来ないのかなあ」だなんて、そのヤーな言い方ときたら、本気で吐き気がするんだけど、どうやらこの女教師は、路望のためを思って言っていると自分で信じているらしい。路望の母親が精神的なことからか倒れてしまった時、家まで見舞いにきて、娘がイジめられていることをどこか得意げにスッパ抜いた挙句、「そのためには髪を黒くするのが一番いいと思うんです。いじめられる要素を少しでも少なくして……」と、あぜんとするようなことを言うんである。でも、この言いようって……確かにほっんとーにムカつくんだけど、でも、でも、こういうことって、大人は正当な考えだと思っちゃう時って確かにある、って思ってゾッとしてしまうのだ。いじめられる方にも原因があるとか、いじめられる原因を取り除くとか。それは一見、いじめられている子を守るかのような考えや発言なんだけど、とんでもないことなんだよね。だってそれって、そう、路望が言うように、自分自身でなくなれってこと、自分を捨てろってこと。それも、いじめっ子のためにだ。そして教師は子供たちに向かって、皆と同じになって目立たなくなって、闘うな、世話をかけるなと言っていることと同じなのだ。

先生って、一番難しい職業だと私は思う。先生でなければ、そんなことを忘れて生きていったってちっともかまわないし、忙しい中で余暇や趣味の「自由や個性」を楽しみにするようなささやかな人生だってそれもまたヨシなわけだけど、若い彼らにそんな価値観を押し付けるわけにはいかないからだ。何をしたいのか判らなくたって、無限の可能性を持っている子供たちを、そうしたささやかな人生に落ち着いてしまった大人が指導するなんて、なんていう難しさ。

何ていうか……かつては少女映画って、イイ人しか出てこないような感じで、そんな優しさがまかり通っちゃって、そんなイイ人映画が大好きだったんだけど、今はもうそんなわけにはいかないんだなあ。路望の気持ちが判る大人はいるけれど、ま、それは母親なわけだけど、この母親もまた、路望と同じように仲間たちの中で孤立して、自分のことだけでせいいっぱいで、最もお互いの気持ちが判るはずなのに、娘の路望と心がスレ違ってしまう。あるいは、かつての映画が大人に対してあまりに過度の評価や期待をしすぎていたのかもしれないな。大人だって、昔っから皆こんな風に弱くて、頼りない存在だったのかもしれない。それとも現代の大人だから?……それって悲しすぎる。

この路望の母親を演じているのが秋吉久美子。この人って、こういうの上手い。「死びとの恋わずらい」の母親役も上手かったけど、またそれとは趣が違う。美人で女っぽくて、だから男にはモテるけど、女の中では孤立してしまう。でもそんな華やかな外見とは裏腹に、疲れてて、やつれてて、精神的にどんどん追いつめられてしまう哀れな女性。路望も始めのうちはこの母親も大人の中の一人、という範疇に入っていたのか、結構冷たかったりしたんだけど、自分が苦しみを客観的に見られるようになって、母親の苦しみがだんだん見えてくる。そして母親のために、この街を離れることを決意するのだ。

路望の心をラクにしてくれた要は、途中、彼自身がヘコんでしまって、彼女の前から姿を消してしまうんだけど、路望はヘコたれない。つかまってしまった博子をかばい、自分をいじめていた女の子たちを含むクラスメイトを味方につけて、学校側がうやうやしく準備していた開校30周年記念式典などというクソッタレな行事に痛快なイタズラをする。学校中から運び出した机で、校庭いっぱいにこう書くのだ。“みんな、バカばっか!”

この舞台が都会ではなく、港町だっていうのが、いいのかもしれない。もはや都会の高校生たちは、校則はあってもなきがごとしで、むしろ大人側の方が子供に気を使って彼らのためにわざわざルールを取り払っているような感じで、「自由や個性」を発揮しているつもりなんだか、ようワカランおこちゃまたちが自信満々に闊歩している、という感じなんだもの。しかし、この港町。のどかな風景は心なごませるけれど、大人たちはある意味昔かたぎのカタい頭で子供たちを押さえ込み、子供たちは押さえ込まれるからこそ、自由への渇望を高めていく。

だからある意味、この子たちは恵まれているのかもしれないな。押さえ込まれることによって、「自由や個性」の大切さをはっきりと認識することが出来るのだもの。これって、言葉で言うのはカンタンだけど、実感するのって難しい。大人が子供のために「自由や個性」を守ってしまったら、あるいは子供はそれを自分自身で育てていくことは出来ないのかもしれない。大人が子供に出来ることって、実は殆どないんじゃないのか?こんな風に反面教師であることぐらいしかないかもしれない。でもいつかは彼らだってその大人たちの気持ちが判る日がくるんだから、キラワレモノになるぐらい、大人はガマンしなくちゃいけないのかもしれない。

主人公の女の子、滝裕可里は、ナレーションの声の高さと不器用な台詞回しがちょっと気になるけれど、それもまた少女映画らしく、初々しい。それより、台詞がないときの佇まいがなかなかいい。彼女を上手にサポートしているのが忍成修吾。彼はやはり上手い。「リリイ・シュシュのすべて」で中学生だったのよりは実年齢に近付いた?しかし同い年の設定の彼女とは6つも違うんだもんなあ……別にちゃんと年相応に見える青年なのに、なんでまたこんな若い役ばかりくるんだろうね。こういうセンシティブを演じられる男の子がなかなかいないんだろうか。彼とヒロインを取り合いになる漁師の息子の男の子がコメディリリーフ。この子もどうやらアイドル系らしい……。自分からしかけたケンカですら一人で空回りしてかなり可笑しいんだけど、「漁師の息子をナメるな!」とタンカを切るのはちょっと、お、いいねー、などと、カワユクも、なかなか頼もしい。

これもまた最近元気な地方発信映画のひとつなわけだ。悪い噂があっという間に広まっちゃったりするような田舎のネガも恐れず描き、観光の目線ではない、生活の場所としての渋い美しさがいい。一方でヒロインの隠れ場所は観光マップに載っている灯台で、地元の人は誰も来ないからと言うのは、逆に地元の人へのアピールもあるのかも。★★★☆☆


修羅雪姫
2001年 92分 日本 カラー
監督:佐藤信介 脚本:佐藤信介 国井桂
撮影:河津太郎 音楽:川井憲次
出演:伊藤英明 釈由美子 佐野史郎 真木よう子 長曾我部蓉子 六平直政 松重豊 園岡新太郎 塚本高史 雅子 城戸裕次 渕野俊太 博通哲平 下原浩二 奥原邦彦 木村慶太 佐々木共輔 松原末成 鈴木英一郎 沼田曜一 嶋田久作

2002/1/7/月 劇場(テアトル新宿)
新年一発目はスカッと、考えなくっていいようなエンタテインメントがいいわ、それにやっぱり日本映画から始めなくちゃ、というに至って本作を選んだんだけど、考えなくっていい、ハズが考えてしまった。何でつまんないんだろう、って?「LOVE SONG」の佐藤信介監督、という予備知識もなかったのだが、ああ、だから伊藤英明なわけ、ふむ、なるほど。予告編で見た限りではスカッと考えなくてもいい、感じだったんだけど、実際は、ああなるほど、「LOVE SONG」の監督さんなワケだわ、と思う。ドラマ部分に“妙に”時間を割いている、という……。思わずカッコつきで“妙に”などと言ってしまったけれど、このドラマ部分が、力が入っているというよりは時間を割いている、という感じで、エンタテインメント、アクション、がすっかりジャマされていて、中間にたらたらたらたら、と見せられるこのドラマ部分で、ふあああ、とあくびしたくなってしまう。

このドラマ、つまりは“感情”が感情のままで独立してしまって、アクションもまたアクションだけで独立していて。切り離されてて、別のモノが二つ進行しているみたい。それじゃあアクションエンタテインメントの中にドラマを盛り込む意味がない、と思う。やっぱり、感情がアクションに転化されるからこそ、見ているこっちが溜飲を下げたり、哀しさに心を痛くしたりする、わけだからさあ……。まあ、設定やストーリー上、ドラマ部分で説明すべきことがいろいろとあるせいなのかもしれない。しかし説明のためのドラマほど面白くないものはないわけで……。

“その国”では、500年にも及ぶ鎖国政策が今も続けられていた。隣国で古来より近衛兵としてミカドに仕えてきた建御雷(たけみかづち)家は、帝政の崩壊とともに祖国を追われて“その国”に辿り着き、やがて誰をも殺す暗殺集団となっていた……。

などと、すでに冒頭でいきなりズラズラズラッと舞台説明された時からなあんかイヤな予感はしたんだあ。伊藤英明なんか、最初から最後まで解説者よろしくセリフが説明ばっかり。クライマックスの佐野史郎との対決でも、誰々はこうこうして死んだ、誰々は……それというのも、みんなあなたを信じていたからだ、とか何とか、それで彼は佐野史郎演じる城所に対して怒りをあらわにするわけだけど、口頭の説明だけで彼の感情にシンパシイを感じるってのは、さすがにねえ。相手の佐野史郎もクッチャクッチャガムをかみながら、というこづらにくい敵役をやろうとしているのは判るけど、組織とか理想とか、これまた解説者状態。大体彼一人でそうした巨大な組織を背負って動いている、という感じが全然しなくって、伊藤英明とだけそんなおしゃべりをしているみたい。

しっかし、こういうのが“抑制された繊細な演出”っていうのかねえ……。何か解説読むと、このたらたら流されるドラマ部分で、釈由美子演じるヒロインの雪が感情を取り戻すとか、伊藤英明演じる隆と次第に心惹かれあうようになる、とか言うんだけど、そしてそう見せようとしているのは確かに判らなくもなかったんだけど、ハテ?そうした心の動きは見えた?私には見えなかったなあ……“抑制され”過ぎてて“繊細”すぎて、それに応えるだけの演技力を持つ役者じゃない、ということを忘れていた、トカ?伊藤英明、このあいだの「陰陽師」は良かったけど、それ以外のでは今ひとつパッとしないのは、「陰陽師」の滝田監督の演出と、監督との相性が良かったんだね、きっと。

建御雷家の娘、雪はある日、自分の母親が自分たちのボスによって殺されていたことを知り、その組織を逃亡する。敵を目の前にすると体が勝手に動くほど、骨の髄まで殺し屋に育て上げられてきた彼女が、唯一心のよりどころにしていた母親が殺されたという事実に、初めて感情というものを揺さぶられる。逃亡者は死。それは彼女自身が最もよく知るところ。追っ手と死闘を繰り広げながら、逃亡先で反政府組織の活動家である青年、隆と、過去の凄惨な記憶で声と感情を失った彼の妹と出会う彼女。しかし二人は……。

このヒロイン、雪の釈由美子がねえ、彼女が……。私はかなり期待していたわけよ。私は一般世間の芸能事情に疎いので、彼女の名前は折々見るけれども、彼女がどういう感じの女の子で、どういう活躍をしているのか、今ひとつ知らなかったわけ。で、予告編で結構サマになるアクション見せてて、お、なかなか見目麗しい女の子じゃん、と思って、こっりゃあ、新しい美少女映画の誕生かしら、わくわく、と思ってたわけよ。でもさあ、……ああ、新鮮味が、何かないッ!何で?例えば「ふたり」の石田ひかり、例えば「20世紀ノスタルジア」の広末涼子、例えば「大阪物語」の池脇千鶴、に感じたような新鮮な驚きときらめきが感じられないのよおお!先ほど言ったように、私はこの釈ちゃんに対して見慣れているという感じはまったくなく、ほとんど初見に近いような形だったので、そういう意味での新鮮さが失われていたとは思えない。多分、やっぱりスクリーン型の女優とそうでない人というのは確実にあって、彼女がそうじゃない、というのかなあ……。何かこの違いって、うまく言えないんだけど、悪い意味で画的にこなれすぎているというのか、キレイすぎているというのか……。やはり、そうして一般的に売れている、というのも空気感としてあるのかもしれないし。

それに……うん。こういう本格アクション、水野美紀にやらせたかったな……。まあ、こういう宿命を背負ったヒロイン、というには水野美紀じゃ肩幅と身長と年齢がありすぎるかもしれないけど?でも、でも、彼女ならきっと全部、全編“顔の見えるアクション”を見せてくれたことだろう。こういうアクションモノをやると、判で押したように“「できる限り自分でやりたい」という彼女の希望もあって、アクションの大半を本人が演じることになった”というエピソードが出てくるんだけど、大半ってあたりがアヤしいんだよなあ。だって、彼女の顔、全然見えてないじゃん!カメラが引くと、彼女の髪型のせいもあって、ふりみだされる髪ですっかり顔が隠されてしまう。それも痛そうなカットでは必ずと言っていいほど。そんでそのあとパッとカットを切り替えて彼女のアップになる、っていうのがそれこそ“大半”を占めていたじゃないかあ!もし本当に彼女自身が“大半”をやった、っていうのなら、それが判るような撮り方をしてあげなくちゃ可哀想だし、意味がないよ。でもあれは、ぜっったい、スタントだってば。最初に見せる開脚キックにはオオ、と思わされたけど、そのあとは、ううむ、剣さばき程度、なのかあ?

ううう、それにさあ、それにさあ……クライマックスの泣きのシーンで涙も流せないようじゃ、ダメだよお、釈ちゃん!怒号のような“泣き声”だけ聞かされても、涙はおろか、ああ、表情が、表情がついていってないいいー。まあ、こんな説明過多の映画では、感情移入しようっていうのも難しいかもしれない、けどもさあ。でもここはさ、今まで表情というものを持たずに来た彼女が、やっと笑うことを知ったのに、その笑うことを教えてくれた、信頼し始めていた兄妹が無残に殺された場面に遭遇して、皮肉にも次に知ったのは深い悲哀と慟哭だった、というわけで、やっぱりここは、顔面涙と鼻水でぐちゃぐちゃになるぐらいになってほしいんだなあー。ホントに声だけじゃん……。

黒一色の衣装とか、アクションと殺戮、とか。「マトリックス」だの「VERSUS」だの、思い出されちゃうんだよなー。スタイリッシュにするには一番手っ取り早いのだろうし、確かに見た目にクールではあるけれど、すでにこの時点でどこかで見たような……という気分はアリアリ。それにこのブルーの画面も同様で……北野武やフルーツ・チャンはそれを自分のものとして定着させちゃっているから、それがあってこその彼らの映画、と思うのだけど、そうでないと、やはりどこかで見たような……なのだよね。斬新、新鮮な味を持たせるために散々使われてきたことによって、そうではなくなってしまった、というのはなんとも皮肉なわけだけど。

一目見た途端、どうしても「地獄」を思い出しちゃう、存在感バツグンの沼田曜一が、あっという間に死んじゃうのって、思いっきりゲスト扱いかよ!ところで、この同じ原作で、既に過去に藤田敏八監督&梶芽衣子主演、のコンビで、それも二作も作られているとは、不覚ながら知らなかった。それって、凄く、見たい!★★☆☆☆


順子わななく
1978年 75分 日本 カラー
監督:武田一成 脚本:いどあきお
撮影:姫田真佐久 音楽:坂田晃一
出演:宮下順子 殿山泰司 絵沢萠子 遠藤征慈 桐谷夏子 江角英明 田中小実昌

2002/4/29/月 ビデオ(井田祥子氏提供)
商店街を抜けるヒロイン、宮下順子に、まばらに差し込む昼の白々とした光。不連続な影がそのうりざね顔に、白いうなじに落ちる。既にどこか不安げな揺らぎを感じさせるオープニングから実に玄人っぽさを感じさせる。それは彼女がその目に誰かをとらえ、まさかまさか、という表情になり、ふと後ろを振り返る、そのストップモーションにタイトルクレジットが重なるという、冒頭で既に小さくクレシェンドの波が起こる手腕で確信させられる。彼女の歩みに合わせるカメラが、まるで彼女の心情に寄り添っているようで。

このストップモーションでも、そして再三にわたって、彼女のうなじは画面にさらされる。私は、こんな美しいうなじを初めて見た。燗酒を注がれる時、彼女のうなじからなめるように下り、その白い指先がおちょこを支えるのをとらえるショット、男との事後、襟元と後れ毛を整える彼女の手が触れるうなじ、他人の情事をのぞき見る時のうなじ……まるでそれそのものが生きもののように生々しく息づいている様にただただ見とれる。まさしく語っているのだ、彼女の情念を。

和服を仕立てる仕事をしているのだろうか。生地を仕入れ、家路につく彼女。駄菓子屋の二階に間借りしている。子供たちがつどってどんど焼き(?)など食べているということは、時刻はそろそろ夕刻なのだろうか。その不思議な青の夕暮れ。気のいい女主人に、コレ(親指を立てる)が来てるよ、と言われ、二階に上がる彼女。渡り廊下から外をながめる……その視線の先には、一人の男。驚愕する彼女。彼女の視線に捕えられる男と彼女との高低差、距離感の遠近処理が、その青の夕暮れと紗のかかったガラスで描かれる。運命を感じさせるほどに完璧な構図の美しさ。実際、運命のカギを握る男なのだ。かつての恋人。たった1ヶ月だけ愛し合ったにもかかわらず、“狂ったように愛してくれた”ことでどうしても忘れられない男。彼女の現在の男は、魚河岸に勤める妻帯者。演じるは何と殿山泰司。

それにしても殿山泰司、魚河岸の仲買の社長が似合いすぎ!ぜっんぜん違和感ない!この作品は築地の魚河岸が出てくるんだけど、その他の情景は確かに今ではないあの頃、昔を思わせるのに、河岸はまるで変わらない。このままあの中に私が入っていって帳場やってたって全然平気なぐらい、今とおんなじなのには驚いた。海幸橋はついこの間なくなっちゃったけど、そのたもとにあるかつおぶし屋、松村さんもそのまんまだし。ホント、あまりにも変わらないので嬉しくなってしまった。だって、黒電話とかもいまだに置いているお店、結構あるし。実はセリを見たことはいまだにないのでそのへんは判らないんだけど、荷車とかターレとかそのまんまなんだもん!ま、それだけ河岸がいまだにアナクロだってことなんだろうけど……。でも、まぐろをやってるところは大抵まぐろ専門だから、劇中のように殿山泰司がまぐろを見ていて、店には近海物を中心においているっていうのはちょっと違うかな、って気はしたけど。台詞でも、「お前さんみたいに活きのいいマグロを抱えて……」ってあったけど、マグロって殆どが冷凍物なんだよね……あ、でもその頃は生の方が多かったのかなあ。

それに、殿山泰司みたいな仲買やってるオッチャンって、いるんだよね。ああ、こういう社長、いるいる!みたいな。それに河岸で働いている男性で、女をかこっている人の話も、冗談かホントかわかんないんだけど、結構聞くし。あるいは外国人女性と偽装結婚しているとか!?だからこの設定も何だか妙に生々しいリアリティがあって。しかも、宮下順子ってすっごい愛人体質って感じ。この人は正妻にはならないだろう、っていう……。彼女の体に溺れて、仕事にも出なくなった、っていうエピソードが語られるところがあるんだけど、ホント、そういうところを匂わせるあたりが。

彼女はセックスの時に、いつも違う男の名前を呼ぶのだという。彼女自身、それに対して自覚がない。そのためにその運命の人、タツキチは離れていった。現在のダンナ、殿山泰司は、トミチャンだのキタミのオジサンだのと言われるたびに、今度はキタミのオジサンか……などと嘆息する。この辺りはさすがに年の功で、この包容力がラストにつながっていく。しかし、キタミのオジサンと彼女が呼んだ時点で、さすがに観ている方もあれ?と思うのである。過去の恋人の名前にしては、何だかヘンだな、と。

彼女が呼んでいたのは、幼い頃の思い出の人々。まつげの長い幼友達や、祭り太鼓の上手かった町のおじさん。くるくると走馬灯のように思い出される彼女の遠い過去は、そうしてセックスの時に口に出されているというのに、彼女自身、半ば忘れかけていた記憶なのだ。なぜそんな名前を、よりにもよってセックスの時に口にしてしまうのか……。彼女には父親の記憶が殆どない。それはその父親が面倒見が良かったせいである、と女主人は言う。ひょっとしたらそのことが原因で、ファザーコンプレックスがその面倒を見られた他人に対する嫉妬もブレンドしてねじまがり、彼女が最もそれを欲した幼い頃の男性の名前がどこかトラウマ的に刷り込まれてしまったのだろうか。

彼女が正妻タイプではないこと、“キチガイみたいに愛してくれた”彼に対して執着心を持っていることは、そんな風に愛してくれる男、去ってしまう男に対しての、そうしたトラウマ感情を思い起こさせるからなのだろうか。彼女の気持ちに呼応するかのように、カラミシーンは後半になるに従って間を詰めてきて、畳み掛けるように入れられてくる。ことに、最後のカラミはその運命の人、タツキチと彼女の愛、過去、人生をかけたセックスで、執拗に、体位を変え、長く長く繰り広げられる。浅草寺の喧騒の中、奇跡的なまでにひっそりとした二階の部屋で、白いシーツに身悶えた黒髪をこすりつけながら、まるでレイプのような体位でタツキチと交わる彼女。蜘蛛のように絡みつく足。執拗な、執拗なセックス。彼女のあえぐ声が次第に倦怠的に糸を引くように長くなる。幼き頃の回想ショットの挿入。まるで細い細い悲鳴のように糸を引く彼女の声。まるで何かを思い出そうとしているかのように。そして、ようやくタツキチの名前までたどりつき、彼女はあえぎ声の中にその名前を、その一瞬だけに閉じ込めてつぶやく。

完成された。ここで完成されてしまった。過去に完成されなかった二人の関係が。だからこの長い長いセックスで、二人は終わり。タツキチは彼を愛してくれる女の元に去り、彼女もまた、愛人、殿山泰司の元に戻って行く。浅草寺の境内をフラフラ歩く彼女を見つけ出し、肩を叩いて言う殿山泰司が、イイんだ。「お前さんの中の男とはもうなじみだよ。お前さんとつきあうことは、お前さんの中の男とつきあうことだ」って、そう言うのだ。ううー、カッコいいではないか、殿山泰司!めっちゃ、いい役よねー。でも奥さんももうちょっと大事にしてあげないと。若い男と寝るのにウキウキさせてるようじゃ、イケナイよう(でも、あのシーン、笑えたけど……)。

境内にまかれる福豆を一生懸命につかもうとするヒロインの笑顔と飛び跳ねる躍動感で終わるラストは、その福豆=幸せをつかもうとしているのが感じられて……女一匹、頑張れ!★★★★☆


少林サッカー少林足球
2001年 112分 中国 カラー
監督:チャウ・シンチー/リー・リクチー 脚本:チャウ・シンチー/ツァン・カンチョング
撮影: 音楽:ティル・ブレナー
出演:チャウ・シンチー/ウォン・ヤッフェイ/モー・メイリン/ティン・カイマン/チェン・グォクン/リン・ヅーソォン/ヴィッキー・チャオ/ン・マンタ/ブー・イエドン/パトリック・ツェー/ジャン・ミンミン/スー・ヅーユン/カレン・モク/セリシア・チャン/ビンセント・コク 

2002/6/8/土 劇場(東銀座 東劇)
なんつったって、チャウ・シンチーがこんな大劇場の、大スクリーンの、全国展開にかけられているのが嬉しい。あのキネカ大森御用達だった彼がねえ……、と思わず感涙?などと言いつつ、私も彼に陥落したのは「食神」からだから決して早いって訳じゃない。ゴメンナサイ。ジャッキー心酔者だった私にとって、香港ではジャッキーを抜いて大人気であるというチャウ・シンチーに対してちょっと嫉妬めいた気持ちを持っていたんだけれども、「食神」ですっかりヤラれ、今は素直に嬉しいと思える。うーん、私も成長したなあ??

いつもはすいている曜日、時間帯を基準に観に行くんだけど、こればかりはとにかく早く観たくて、時間が空いた土曜日の午後に飛び込んだ。無論、満員御礼で、でも本作に関しちゃ、込んでれば込んでるほどイイでしょう!まさしくサッカー観戦な盛り上がった気分と、ギャグにみんな一斉にゴウッとばかりに笑うこの快感。観終わった後、「映画館で観る映画ってこういうことなんだよなーと思った」と私の後ろからそんな男の子の声が聞こえてきて、私はウンウンと嬉しくうなづいてしまったのであった。

それにしても、タイミングバッチリ。W杯、しかもアジア開催初のW杯に合わせて公開された本作は、しかしW杯よりも面白いかもしれない!?なーんて、W杯もロクに見ていない私が言える義理じゃないけど。でもそう言ってしまいたいぐらい、実際のサッカーの試合じゃあ、なかなか入らない点が、超絶少林シュートによりバカスカ入り、その痛快さにゃあ、ホンモノもかなわない!?中国はさぞかしこの少林チームをW杯に送り込みたかっただろうに??

40―0って、オイオイ、何の試合だよ!っていう、ディフェンスする前にあっという間にシュートが入っちゃう、最初の試合の可笑しさときたらない。あのね、サッカーってね、元々カッコいいスポーツなわけよ。これがね、一般的にショボいと思われているスポーツのイメージをカッコよく変えるのはさして難しくないかもしれない。でもね、カッコいいイメージのスポーツを一度ダサくおとしめて、そして違う価値観でカッコよく見せるっていうのは、何もそんな回りくどいことしなくても……と思っちゃいけない(笑)、難しいことだと思うんだなあ。

脚本も監督も手がけちゃうチャウ・シンチーの、そのあたりの才能にも感嘆してしまう。いやね、ジャッキーだって、そうした一人何役もこなした人ではあるけれど(それを分担してから、テンション下がってきちゃった……)、そしてジャッキーの手がけた映画はどれも文句なく面白いけど、正直どれも似たような話で、どれがどういう映画だったかなーと言われると困るという(笑)。そこがジャッキーファンの禁区ゾーンなんだけど、うー、チャウ・シンチー、くっそう、しっかりクリアしてるじゃないか!「食神」の食のワールド、「喜劇王」のコメディアン(と風俗)ワールド、と、毎回大衆に身近な位置のジャンルを、バツグンなナンセンス・センス(?)に仕立て上げ、そして今度はサッカーだ!し、しかも少林拳&サッカーの融合だとは!

でも、少林寺、といえば、「食神」で主人公のカリスマ料理人が精神を鍛錬するために入ったのが少林寺であり、クライマックスの料理対決では、まさしく少林拳と料理の融合だったわけで、チャウ・シンチーは少林寺オタクなのかあ?「食神」からイメージされるものはまだまだあり、結構賛否両論あるらしいザンコクな暴力描写もそうだったりするし(でも、そんなの、オフィシャルサイトのBBSを読むまで全然気にならなかった……ヤバいかも)、突然ミュージカル(爆笑!)も、チャウ・シンチーがホレる(というのを初めのうち彼は自覚していないのだけど)少女が太極拳使って饅頭を作っているっていうのも、「食神」のカレン・モクがやはり、拳法で鍛えた強靭な手首で屋台のアネゴとして君臨していたし、やはりいろいろと彼のエッセンスが詰まっていたわけね。

予告編で驚嘆した、サッカー場面のスゴさはホント、いわずもがな。CGとそれとワイヤー・アクションなども使っているんだろうけど、こういう特撮ワザを使いこなせるというところもチャウ・シンチーの強みなんだよね。しかも、普通こうしたCGといえば、スペクタクルとか、あるいは逆に気づかない場面で画面を調整するとか、そういう使われ方なわけだけれども、このCGをとにかくコミカルさに転用しているところがスゴいんだよなあ。殆ど冗談だろ!っていうスピードとタメすぎだよ!っていう間がたまらない。CGの持つ面白味をシンチー自身がしっかりつかんでるのがよーく判る。実際の動きがCG並のスピードであったジャッキーも確かに凄いんだけど。あ、でもシンチーってば、カンフー(おっと、少林拳法か)できるとは知らなかった……と思ったら、何でも1年かけて鍛えたらしい。じっつにイイ身体にホレボレ。てことは、あのサッカー技術も?CGは別にしてサマになってるじゃん、スゴい!ま、玉子でリフティングは出来ないだろうけど……(笑)。

でもでも、結局そういうCGというのは、チャウ・シンチー自身の本来の面白さに付加されたものに過ぎず、先述したような、ナンセンス・センスなギャグの数々がとにかく面白くてたまらない。街の荒くれどもとのケンカで、シンチー扮するシンの強さにタジタジとなりながらも、最後の一人が何とか拳法で対抗しようと構えるところに、シンが「小銭あるか」「あ、ハイ」とたちまち応じてしまう、あの緩急の素晴らしいオカしさ。最初の練習シーンで、蹴り上げたボールがあまりの強さになかなか下りて来ず、その間にピクニックさながらに寝転がりながらゲームやったり何だりダラダラしてるって、んなバカな!食いしんぼキング弟が、自分の持ってきた玉子を取られて突進してきて、兄弟子の口の中の玉子に……うう、レロレロ!つけヒゲした女子選手チーム(おお、セシリア・チャン!)、という意味のワカラン相手チームの宙を飛ぶ超絶ワザに「ワイヤー・アクション!?」って、実際の設定でか!?おいおい、どこにワイヤー張るって言うんだよッ!サッカー界の実力者、ハンの白い靴をキレイにしようと、チームメイトよってたかってワイワイガラスドアの外まで持ってっちゃうのにもハラ抱えたー!こうしたツボなシーンはもう数え切れない。

でもやっぱり白眉は、饅頭屋の少女、ムイの変身ぶりかなあ。顔中の吹き出物に悩んで下を向いてばかりのムイに、シンが君は美人なんだから、と言いつづけ、シンに心惹かれた彼女はキレイになりたい、とアヤシげな美容整形?のドアをくぐる。しかしそこで出来上がってきたのは……饅頭屋をチームメイトみんなで訪れたシンが、彼女に声をかけ、振り向いたその顔は……ギョギョッ!オイオイオイ、イタリアの女優かあ(って、ワケわからん!)マジックで描いたような長方形の黒々眉毛に、ドきつい頬紅やシャドウ、しかもその服装ときたら“板を二枚入れている”巨大な肩パットに、超ギリギリのホットパンツ、しかもその組み合わせはド紫とド黄色!ぐわッ。

この強烈さに、冗談にしてはキツいからかいを浴びせるチームメイトたちほどには楽観的に見られなくて、ただただ引いてしまう悲しき観客(笑)。しかしムイがシンに勇気をふりしぼって愛の告白をするも、友達だと言われて涙を落とす彼女にふと心をつかまれて……。例え別人のようにスゴいケバメイクでも、カメラが寄ってみると涙を落とすその顔は、あのうつむいていた可憐なムイそのものであり、その後の、ムイの涙によって塩辛くなってしまった饅頭、というエピソードにも素直にキュンとさせられるんである。しかも!彼女は期待通り、決勝で彼らがピンチの場面に現われてくれて、その時には頭ツルツルでスッピンで、うーん、いつその肌を治したんだろうとちょっと思ったけど(笑)とにかくとってもキレイでカワユくて、目が釘付けなんだよね。

そんな彼女に、「どうしたんだその頭、火星人かと思った」と言うシンにまず笑ったけど、「火星に帰れ!地球は危険だ」にはもう大爆笑!しかし彼女はその優雅で強力な太極拳によって見事なゴールキーパーぶりを披露、彼女にチャンスパスを与えられたシンは、これまでで最高なスーパーシュートをキメる!その凄まじさは、鉄壁の敵のゴールキーパーをエネルギーが生み出したつむじ風でウェアを吹き飛ばして全裸にし(笑)、敵の選手数名とゴールごと吹き飛ばし(大笑)、“戦死”した敵選手がバタバタ倒れ、全裸のゴールキーパーが看板?にうつむきに引っかかっているという(大爆笑!)、ああもう、可笑しすぎッ!

チャウ・シンチーにはこの人、の名コンビ、コーチ役のン・マンタ、彼の顔を見ると何とはなしにホッとしてしまう。彼が固めてくれさえいれば安心、みたいな感じかなあ、シンチーが思う存分ハジけられるのも。それにしても、今回でカンペキ、チャウ・シンチーにはホレた。今まではすっごく面白いけれども、顔の印象がどうも薄いというか、やっぱり心のどこかでジャッキーと比べちゃってたところがあったような気がするんだけど、今回は本人が言うとおり、超個性的なツラ構えをまわりに従えているためか、二割増ぐらいカッコよく見える??しっかし、いつまでも若いあんちゃんだと思っていたのに、シンチーももう40なのね!びっくり。

ウッチャンもこの映画にハマったと知って嬉しくって。ウッチャンがパロディかコントかでやるとしたら、やっぱりブルース・リーソックリさんのゴールキーパーかなあ(笑)。あ、ところで少林チームに新しい靴を提供する場面で根こそぎ取っていく彼らは笑えるんだけど、その前でボーゼンとしているその靴の提供者が大杉漣ソックリに見えちゃったのは、私だけかなあ??★★★★★


女高生 天使のはらわた
1978年 79分 日本 カラー
監督:曾根中生 脚本:深水龍作 池田敏春
撮影:水野尾信正 音楽:大野真澄
出演:大谷麻知子 深水三章 川島めぐ 河西健司 樋口達馬

2002/9/24/火 劇場(銀座シネパトス/レイト)
結構久方ぶりに成人映画を観たから、強姦シーンですでに引いちゃって、おっと、いかんいかん、ここで引いたら観られなくなっちゃうわ、と思いつつも、うーん、やはり映画とはいえ強姦はヤだなー。ことに輪姦は最悪。見てるのがあまりに辛い。映画だ映画だと判っていても、レイプで女が感じるのなんて、絶対にありえないんだからね!と今更なことを心の中でごちつつ、この冒頭シーンは強烈。主人公が率いる不良少年(というにはかなりフケ顔)の三人がブルジョワ風カップルの車をバイクで追いまわし、男を引きずり出してボコボコにし、女を追いかけて、犯す。

この犯す場面が……女は真白い、いかにもお嬢様風なワンピースを着ていて、必死に逃げる彼女はお約束どおり砂地でこけ、すそがあらわにめくれ上がる。男にのしかかられ、白いワンピースがあっという間に砂だらけに、褐色に汚れる。陵辱、というのが、そのワンピースが汚れていくさまで示されているようで見るに耐えない。この時代の女優は妙にふっくらと身体つきが官能的で、下着を引きちぎられた下からのぞく裸体は、ただあらわにされただけで彼女が感じているみたいに見えるななまめかしさ。……だんだんと彼女の腰の動きが柔らかく、生々しくなるのが見ていられなくて。何だか女であることがフクザツな感情に襲われる。

この後出てくる、このシリーズのヒロインである名美が襲われるシーンも、どしゃぶりの雨の中、彼女は泥だらけになる。ついでに、主人公の男、川島の妹が襲われそうになって逃げ出した先には、やはりどしゃぶりの雨で、彼女はすっかりぬれねずみである。やはりこのへんが石井隆の美学なのかな。これはまだシリーズ第一作で彼は原作提供のみだけど、彼の監督作品を色々思い返してみると、こんな風にどしゃぶりに女がさらされる場面がよくある気がする。惨めさと、弱さと、そしてセックスの匂いが濃厚な色香。女からすれば、かなり侮蔑的に感じなくもない、というのは正直なところだけど……。女が雨に濡れたり砂に汚れたりすると、男ではそう感じないのに、それだけでこんな風にセックスの匂いを感じてしまう。やはりこれは陵辱と、そして“濡れる”感じ、のせいか。

ところで、この名美は意外とこのシリーズ第一作では出番が少ない。主人公である川島が振り回される描写が主で、彼女はその要素の一つに過ぎない。彼女、女子高生だけれど、顔つきとか妙に色っぽくて、この不良少年のうちの一人、はっきり言ってサイアクな男、カジに目をつけられてしまう。その場に妹がいたせいなのか、あるいはこの名美にひとめ惚れしたのか、川島はこの名美を助け出す。しかし仲間にそそのかされて、結局川島自ら彼女をその手に堕としてしまう……。

このくだりは男のプライドなんだかよーしらんが、早口の台詞が上手く聞き取れないせいもあって、何でまたそんな展開になっちゃうのか皆目理解できないけど。彼らに追いかけられて、まるでホラー映画のお約束みたいに、人通りの少ないところにどんどん逃げてっちゃう彼女もよーわからん。で、使われていない列車が止まっているところ、その狭間で彼女は、堕ちる。折しもどしゃぶりの雨。紺サージのプリーツスカートがずっしりと重くなるのと対照的に、夏服の白いセーラーの上着は弱々しく濡れ、それもあっという間に剥ぎ取られてしまう。彼女を追いつめる川島の目は、何でだか切なげ。でも、仕方なく、仲間の前で彼女を犯す。雨に濡れながら、苦しげに。

犯された後、その雨で泥に汚れた身体を洗い流す名美。犯された直後、チェックに入ったカジが(ほんっとーにサイアクな男だな)、「純生じゃなかったのかよ、こいつもまたズベ公かよ!女はみんな、クソ袋だ。クソのつまったはらわたがつまってるだけなんだ!」(それで“天使のはらわた”かあ……クソ袋はヤメてほしいが)と勝手なことを叫ぶのにも反応せずに。でも彼女が“純生”じゃなかったのは、どうやら父親と関係があったかららしい、というのが、無言のフラッシュバックで描かれる。彼女の理屈抜きの妙な色っぽさはその辺から来ているのか。どこか哀しいような、なまめかしさは。

あるいはこれ、家族がテーマになっているのかもしれない。あのサイアク男、カジに手ごめにされそうになる川島の妹は中学生なんだけど(ほんっとーに、鬼畜な男だな)、もうふっくらと胸もふくらみ、女っぽい身体つきになってきている。それでも彼女はそのことにちっとも自覚的じゃなくて、親代わりのお兄ちゃんの前で平気で着替えるし、ハダカになるし(でも、いくら親代わりだからって、この年頃の女の子がお兄ちゃんの前でそんなことはせんと思うが)、お兄ちゃんの友達だからと、不用意にカジのバイクに乗っちゃって、こんな憂き目に遭うのである。

どしゃぶりの雨に(またしても)濡れた彼女が途中お兄ちゃんに拾われ、部屋に戻ると彼女の下着が赤く染まっている。え、え、?ちょっと待って挿入はされてなかったよね!?(うッ……こういうこと言いたくないー)と思ったらどうやら生理だったようで、妹がもう初潮を迎えていたとは知らなかった川島はうろたえ「お前、ひょっとして初めてか」(この台詞を聞いた時、最初処女かって意味かと思っちゃって、大事に育ててきた中学生の妹に対してなんつーこと言うのかと思ったのよ)と問うと、妹は「あたし、そんな子供じゃないよ」と返す(しつこいようだけど、この台詞も最初はね……)。「急に来たから買ってなかっただけだよ」と言う妹に「何を買ってくればいいんだ。お兄ちゃんに教えてくれよ」としおしおと言う川島が何だか切ない。そもそも彼はこの妹が女の子らしい体になったことに気づいた時から、傍若無人ないつもの彼ではなくなってしまっていたのだ。名美に対する態度が他の二人と違ったのも、あるいは……。

同じ女でも妹である女と、それ以外の女。犯されるなんて、あるいはそれ以前に生理のことでさえ妹に対して考えもしなかった川島。自分が犯してきた女たち。そして哀しい目を、哀しい体をしていた名美。川島の核がグラつくのが、判る。はっきりとは説明されなかったけど、どうやら彼ら兄妹の親が残した借金を彼が払っているらしく、働くだけでは足りなくて強盗(のついでの強姦)を繰り返していたわけだけれど、それも自分のためというよりは、妹のためだったのだ。妹も女なのだと気づき、そしてカジにやられてしまった妹。自分が犯してきた女たちを、名美を思い起こし、彼がグラついていくのが、判る。

それにしても、ほんっとーにこのカジは最悪。まず、喋り方が生理的にダメ。なんなの、あの舌をベロベロさせる喋り方は……。自分の女とセックスする時ですら、何か王様状態のやり方に胸が悪くなってしまう。しかもそれを友人に見せつけ、セックスしながら川島を挑発するようなことを言う。あーあー、ホントに最悪な男じゃ。そしてもう一人、これは性格がよくつかめないサダ。どうやら彼は女とヤレないらしいんだけど、それが何故なのか、これまた台詞が早口で聞き取れなかった。彼は川島に対し兄貴として心酔しているんだけど、ただ影響されやすい性格なのか、結構カジの言うことに左右されちゃって、ワケ判らず拒絶したり抵抗したり、何か子供っぽい感じ。一度は(これまた一人勝手に)川島に絶縁状を叩きつけるんだけど、川島がケンカを売った酔客との争いをほっておけなくて、間に入って、何とこの酔客を彼が殺してしまう!!お、お前ー、ほっんとにコドモだなー、もう……。そのあとパニクりまくるのもまあ、サダらしいといえば、らしいけど……結局川島はサダの罪をかぶって自らが捕まっちゃうんだけど、でも、でもそれじゃ、妹はどうなるの?

冒頭から折々差し挟まれる逆光気味の白黒シーン。時々川島自身の悪夢だったりして、現実との境がつかなくなり、頭がクラクラする。川島の夢想で、カジに襲われた彼が流す墨汁のような血が強烈。あの酔客とのケンカ、どうしてそうなるかなあと思ったりしたんだけど、もう彼は……あるいは彼らは最初から破滅に向かって突っ走っていたと、そういうことなのかもしれないな。そうするしか方法がなかった。そんな感じかな……。破滅が美学になるのって、70年代って感じね。バブリーな80年代じゃありえない。90年代もちょっとキツい。でも今なら……破滅の美学がもう一度再現できそうな気がする。★★★☆☆


女囚701号 さそり
1972年 87分 日本 カラー
監督:伊藤俊也 脚本:神波史男 松田寛夫
撮影:仲沢半次郎 音楽:菊池俊輔
出演:梶芽衣子 横山リエ 夏八木勲 渡辺文雄 扇ひろ子 渡辺やよい 三原葉子 根岸明美 国景子 片山由美子 城恵美 三戸部スエ 小林千枝 由貴リエ 室田日出男 伊達三郎 堀田真三 沼田曜一 織田英子 谷本小夜子 山本緑 園かおる 日尾孝司

2002/4/8/月 劇場(新宿昭和館)
この女囚さそりシリーズは同じ年の第二作「第41雑居房」しか観たことがなくて、その時はさしたる感慨もなかったんだけど、シリーズ一作目である本作の、……何と素晴らしいこと!もー、梶芽衣子、ちょーかっけぇーよ!!と握りこぶしを作りたくなってしまう。“梶芽衣子以外のさそりはさそりではない”というどなたかの言葉が、確かにその通りだと思える。一瞬たりとも笑顔を見せることのないさそり=ナミの、恨みだけを糧に生きているナミの、ふてぶてしいまでの強さと絶句するほどの美しさ、そしてカッコよさよ!そりゃ、“男に騙された”ことを、そしてその復讐を生きがいにして生き長らえている、なんていう設定だけ聞けば、うわあ、一番イヤなタイプの女だ、と思ってしまいそうになるんだけど、こ、この梶芽衣子の圧倒的な意志の瞳の強さはどうだ!男も女も彼女にひれ伏したくなるのは、当然ではないか。

冒頭の、脱走シーンから目を見張るものがある。これまた女囚の一人である、なぜ刑務所などに入れられたのかこれはちょっとわからないようなお嬢様タイプの由起子(渡辺やよい)という女とともに手と手を携えて脱走を試みるナミ。途中、足の間から血を流す由起子に「いつものアレだよ。中にいる間にはずっとなかったのにね」と気遣うナミ。刑務所に入れられたストレスで生理が止まるような女を、自分が逃げるのとともに逃がそうとするナミのキャラクターの一端が指し示されるこのシークエンスは、彼女が同性愛的な感覚を女にもたらせるという重要な伏線をも張ってくる。勿論、この由起子は物語の最後まで重要な役割を果たし、ついにはナミのために死んでしまう……。

ナミはヤクザと裏取引をしている悪徳刑事である杉見(夏八木勲)の出世の道具にされ、その体を汚された。……といういわばナミの回想シーンで説明されるこのくだりは、犯される彼女の後ろで杉見と黒幕の取引が行われていたりといった、照明も凝りまくった回り舞台風のかなり特異で思い切った演出で、瞠目させられる。当時は新人監督だったという伊藤監督は、このシーンを皮切りに、全編に渡って実写映画の常識にとらわれない、様々な手法を実験精神で取り入れ、それは今なお衝撃的な斬新さを放つ。しかもそれが、この美しいメス豹、ナミ=梶芽衣子の肢体と過不足なくリンクする。彼女が、この特異な演出に疑問や躊躇を全く見せない役のワールドに入り込んだ演技を見せることが、この斬新さを最大限に生かす重要なファクターになっている。

彼を心底愛していた“普通の女”だったナミはその時から復讐の鬼と化す。襲われたままのボロボロの下着姿にコートをはおったままの姿で刃物を手に握り、杉見を襲った時は、彼に致命傷を負わせることが出来ず、ナミは刑務所の中の女囚となる。女子高でももちろんこうはいかないであろうと思われる、あられもない姿も恥じない女刑務所の女罪人たちの中で、ナミ一人だけはストイックで孤高の美しさを放っている。そんな彼女をうとましがって、所内の実権を握る女囚たちによって再三の嫌がらせを受けても、かすかに顔をゆがめるだけで、いとも簡単に彼女たちに痛烈な仕返しを浴びせるナミの何というしたたかさよ!脱走した咎で懲罰房に入れられたナミに熱い味噌汁をわざとらしく顔にこぼす女に対し、自分にかけてある毛布(これもまたイヤガラセで濡れた毛布をかけさせられたのだ)を口にくわえて引き寄せ、みごとに転ばせて頭から熱味噌汁をバケツごと浴びさせるとか、懲罰で穴を掘り続けるナミをあざ笑いながら土をかぶせる女の足元にスコップをつっこみ、土くれとともに転げ落ちさせるとか。

その他枚挙に暇がないぐらいなんだけど、どんなに不利な状況でいじめ倒されても、そのことでどんなに体力が奪われても、冷たい視線で相手を引き摺り下ろすナミのクールさといったらなく、そんな彼女に一目おく女囚も出てくる。いわば、所内で実権を握っているような女たちは所詮虚勢を張ってばかりで大した女たちではなく、この女囚がナミにさりげなく手助けすることによって、簡単に陥落してしまうのもかなり溜飲が下がるものがある。イカサマ賭博を見破ったり(この時、パンツ丸見えであぐらをかきながらつぼを振る女囚のあられもないカッコ!)、入浴時、しこまれたピンを入れ替えるヒントを与えたりとか。ああ、このシーンが凄いんだ。ナミを陥れようとして逆に陥れられてしまったこの女囚が、手にハサミ(だったかな)を持ち、シャワー室の中をすっぱだかでナミを追いかけるシーン。次第に照明が舞台風になり、怒った女の顔は歌舞伎風のくまどりがなされ……そのかなりトンでもない様式美には開けっ放しの口でアゼン!

再三騒ぎを起こしたことで、またしても独居房に放り込まれるナミ……というのには実はウラがあって、麻薬取引の秘密を知る彼女に対する、警察権力による魔の手が伸びてきていたのだ。その独居房には彼女を陥れるための女性特別捜査官が投入されるのだが、彼女はナミに簡単に陥落させられてしまう……というシーンが凄くて、つまりは彼女はナミの愛撫に溺れて、すっかり骨抜きにさせられてしまうという!恐らくナミはこの女がキナくさいということを感づいての行動だったんだろうが、一体どうやってそれに気づいたのか、それはさておくとしても、ナミの女を落としてしまうその恐るべきテクニックをじっくりと見せる、倒錯的なほどに官能的な女同士の×××シーンは圧巻!実際、ナミは、確かに長い黒髪も美しく、恨み節の表情もいかにもオンナって感じではある一方で、不思議にマニッシュな魅力もあり(それはクライマックスの黒づくめのナミに顕著!)、その彼女に×××をいじくられ、ナメられ、唇を吸われちゃあ、私だってもうダメって感じ!?うわあ!

こうなったら彼女を消すしかない、と警察権力が手を回したのは、ナミと同じ所内の女囚に仮釈を条件に殺させること。またしてもナミが引き金となって、看守たちを怒らせ、彼らは思わず引き金に手をかけ(ここで由起子はナミをかばって死んでしまう)、女囚たちの暴動が起こる。こうなった原因はナミだろう、と、看守と対立して立てこもりながら、彼女をSMチックにいたぶりまくる女囚たち。勿論そういう方向に導いたのは、ナミを消そうとしている女囚。その女の陰謀を見破ったのは、ナミに一目置く、真の実力者である件の女囚。一転、いけにえはその女に取って代わり、ついに看守たちによる突入、そしてナミの手によって巻かれた石油に火が放たれ、この女はあわれ火あぶりに……!助けを請いながら壮絶に火だるまになってゆく女をじっと見据えるナミの恐ろしさ!そしてナミはこの混乱に乗じてついに脱走に成功する。

刑務所の中のナミも充分に魅力的だったが、念願の復讐を遂げるために脱出し、つばの大きな帽子も含めて全身黒づくめのドレッシーなパンツスタイルで現われ出でる彼女のマニッシュなセクシーさには息をのむ。自分をこんな目に合わせた敵を全員倒すことは勿論、それも一番狙っているのは自分の身も心も手中に収めて騙した男であり、その女としての脇目のふらない復讐心が、それは充分にストイックな決意であるにもかかわらず、なぜそれと色っぽさが同居することができるんだろう!自分を陥れた警察やヤクザの輩のもとへ、怨霊のようにふらりと目の前や背後に現れ、瞬きするまもなく鮮やかに急所を刺し貫いていく。刑務所に入る前、あの時は確かに稚拙で性急だった殺しのテクニックが、一体いつ、どうやって磨いたのだと不思議になるほど、まさしくプロフェッショナルな手腕なのだ。復讐心とは、こんな技術まで彼女にもたらすのか。ナミが自分に近付いてくるのを感じ取る杉見。彼は彼女が自分に惚れているからと、小面憎いことを言って、ナミでなくともこっちがシメ殺してやりたくなるくらいなのだが、それは確かにその通りで、ナミは彼を、未だぶっ殺してやりたくなるほど愛していて、そして愛しているからこそ、殺すのは自分の手でなければいけないのだ。他人の手に彼の死をゆだねることはできない。

自分の安全の基地である、と信じて逃げ込んだ警察署には、既にナミが入り込んでいた。自分たちのプライドのために脱走したナミを追いかけてきた看守たちは、その彼女の見据えた“怨”のまなざしにたじろぐ。何も知らずにエレベーターに乗り込んだ杉見。その死角に黒づくめのナミが佇んでいるのが見えると、思わず知らず、観客であるこちらは息を呑む。彼女に気づく杉見。他の奴らのようには、彼を鮮やかに殺せないのは、やはり心が残っているからなのか……。彼女を取り押さえ、また俺に手柄をくれるのか、ナミ。などと、これまたうぬぼれたことを言う杉見。しかし何とかその危機を脱し、勝負はもつれて屋上に持ち越される。形勢逆転し、ナミに追いつめられる形になる杉見。スクリーンの左右に彼と彼女が配置され、運命の対決のかわいた空気を醸し出すこの一瞬のカットの、何というカッコよさよ!ついにナミにやられて、杉見の銃は、掲揚されている日の丸の旗が風にはためくのをバックに空高く舞い上がる。警察権力、国家権力を痛烈に断罪する小気味よさ。

ナミを演じる梶芽衣子は勿論、出てくる女囚たちがすっぱだかのみならず、かなり恥ずかしいカッコをどこか楽しげに演っているのが、このクラい物語の中の不思議な爽快感。ことに、人質にとった看守たちを押さえつけてヤッちゃう場面は、現実はもちろん、映画の中で何度となく犯され続けてきた女が一番溜飲を下げるところかも!?★★★★★


白い船
2002年 108分 日本 カラー
監督:錦織良成 脚本:錦織良成
撮影:柳田裕男 音楽:角松敏生
出演:中村麻美 濱田岳 大滝秀治 中村嘉葎雄 尾美としのり 竜雷太 白石美帆

2002/8/5/月 劇場(有楽町シネ・ラ・セット)
“悪い人が一人も出てこない”大林監督風味の超良心的ローカルムービー。「守ってあげたい!」でボロ泣きさせてくれた錦織監督の地元での映画撮影の夢が実現したという。しかも実話。こんな映画的題材が実話として地元にあるだなんて、地元で映画を撮りたい映画監督にとってまさに奇跡的なことではないだろうか。そして奇跡的といえばこのロケーション。監督自身、このようなところで育ったというのが死ぬほどうらやましくなるほどの。イナカモノの私でさえ、こんなミラクルなロケーションは望めなかった。触れられるほどに緑がはっきりと迫るまろやかな山々。学校自体が海に浮かんでいるのではないかと錯覚するぐらいに背後に迫る真っ青な海原。全くこんなドラマチックな環境があっていいのだろうか!ほとんど冗談ではないかと思われるほどに。20人足らずしか生徒のいない、その小さな小学校、校庭は砂浜みたいに美しく真っ白に輝き、男の子たちの基地のあるうっそうと茂った森に覆われた山の中は、遊んでも遊んでも遊びきれない無限の遊園地。これを見た現代の都会っ子たちが、もし彼らをうらやましいと思わないのだったら、未来は絶望的だ。

物語はこの塩津小学校の生徒の最年長、六年生の好平が窓の外に見える海の彼方に白い船を見つけたところから始まる。二日に一回、二時間目の授業の時に必ず通ることが判る。すっかりこの白い船に心奪われたのは、好平だけではなかった。全校中の生徒のみならず先生までもこの船に夢中になる。その正体は新潟の直江津から博多まで2泊3日で運行する豪華フェリーだと判明。

好平とともに主人公のもう一方を担うのは、この小さな学校に赴任してきた新人女性教師、静香先生。生徒数が少ないからって生徒の心をつかめるわけじゃない……同僚の若い女性教師は授業そっちのけで子供たちとワイワイ遊んだりするけれど、来年中学に行く好平のことを考えると、どうしてもつめこみ授業をしなければと思ってしまう。しかしその当の好平は窓の外をぼんやりと見つめてばかり……。悩んだ静香先生はかつての同僚にグチをこぼして酔っぱらい、その時教師批判をしていた青年にカラんじゃったりする。しかしその青年は実は塩津小学校を折々取材しに来る地元新聞の記者。教育の現場も知らず、偽善的な記事を書くんだわ、と子供たちと仲の良いこの青年に半ば嫉妬するような気持ちでそう思う静香先生なのだが……。

この“酔っぱらって青年にカラむ”シーンはもっと大胆にバーンとやってほしいところだったけれど。ここに限らず、もっと思い切ったコミカル味がほしいな、と思ったりして。静香先生を演じる中村麻美はそのキャラのマジメさを反映しているせいもあるのだけれど、どうも大人しくて、その大人しさは静香先生の心情を見えにくくもしている感じ。それを補うかのように時々モノローグが入るのだけれど、モノローグは出来るだけ最後の最後の手段にしてほしい。これがクライマックスにまで使われるんだから(後述)ちょっとガクッとくるものは否めないんである。役者が演じているんだから、ねえ。

ところでやはりここで言及しなければいけないのは、今話題のゆとり教育についての問題。天気が良ければ生徒たちを外に連れて行って、“課外授業”と称して遊んじゃう先生に対して、同僚の先生たちは批判的どころか思いっきり好意的、というよりうらやまし的である。「私もああいう風に出来ればって思うんだけど、勉強が遅れたらってついつい思っちゃって……」と苦笑気味に言う中堅どころの先生。そりゃ先生だしここは学校なんだからそう思うに決まってるし、今の一般的な風潮ならばそっちの方が当然と思われそうなものだが、見ている私たちも、ああいう先生だったらな、ああいう小学校時代だったら……と思ってしまうのだ。特に小学校時代なんて、勉強以外にこそ学ぶことが沢山ある、人間形成の時期なのだから。

しかもである。それこそ今ケンケンガクガクされている、そのゆとり教育のために学力が下がってしまう、という点についても「これであの先生のクラスの子たち、結構デキるんですよ」とアッサリ解決である。いささか楽観的過ぎる気もするが、一方で、でもそれってアリかもしれない、とも思う。晴耕雨読じゃないけれど、晴れている時には遊びに切り替えたりする柔軟な姿勢を持って、その遊びに集中できるからこそ勉強にも集中できるのかもしれないし、あるいは勉強も遊びと同じく、楽しいものとして出来るようになるのかもしれない。実際、勉強って本来苦しいことではないはずなんだよね。知識を身につけていくのって、ものすごく面白くて楽しいこと。それが自分の好きな分野なら尚更で、小さいうちは多くの興味分野を与えられ、大きくなるに従ってその中から自分の好きなものを絞り込んでいく、っていうのが本来の姿のはずなのに、今は大学に入るまでの苦学でしかない。だから、自分の好きなことだけを勉強できる楽しみの場所であるはずの大学が、解放と自由の場でしかなくなっているというおかしな状態になってしまうのだ。

ここの先生たちの関係もちょっとイイんだよね。先述の課外授業先生に対する好意的な見方もそうなんだけど、お茶入れ専門の先生がいて、いつも率先して皆にお茶を入れてくれている。静香先生が、自分が一番若手だから最初は慌てて替わろうとするんだけど、いいのいいの、とほがらかに制して、その先生はいつも楽しそうにお茶を入れてくれるんだよなあ。ついには静香先生もそれを自然に受け入れるようになって。校長先生に気軽に相談出来たりとかしちゃう雰囲気もいいし。

好平があの白い船を見つけてから、静香先生のクラスも授業どころ(笑)ではなくなる。でも好きなことを“勉強”できる彼らはとっても生き生きしていて、目を見張る詳細な運行路の地図や、船長さんに送るための手紙の書き方など、さまざまなことを目を輝かせながら学ぶ。ほどなくして船長さんから返事と生徒全員分のキーホルダーが送られてくる。自分たちの思いが届いたことに有頂天になる子供たち、そして彼らに負けず劣らず喜ぶ先生たち。そのフェリー、「れいんぼうらぶ」と生徒たちの交流は続き、船長さんは学校からもっとハッキリ見えるように航路を変更することまでしてくれる。学校の窓から見える大きくて立派な船の姿に狂喜する皆。手を旗をちぎれんばかりに振る。「れいんぼうらぶに乗りたい」彼らの思いはつのる。

当然、先生たちは何とか子供たちを「れいんぼうらぶ」に乗せてあげたい、と思う。しかしなかなか上手くいかないまま、思いが臨界点に達した好平たち三人の男の子たち(こういう三人組に必ずいる、臆病なメガネの男の子がカワイイ)は朝の漁が終わった自分の家の漁船をこっそり駆りだして海原へと出て行く。れいんぼうらぶを近くで見たい、その一心で。しかしおりしも激烈な台風が迫ってきていた。れいんぼうらぶの船体を近くで見ることは出来たものの(あまりに近すぎて全貌が見渡せないぐらい!)、帰る方向を見失ってしまう三人。ヘタに動かない方がいい。きっと助けに来てくれる。そのあたりの判断はさすが漁師の子である。その通り、その頃島中の漁船が彼らを探して港を出港していた。

ここが最初の涙腺ポイント。ベタだと判っちゃいるが、涙ぽろり(どこかで聞いたような……)なのである。かつて、やはり漁師であった自分の父親を荒れ狂う海で亡くした好平のひいじいちゃん(大滝秀治)は祈るような気持ちで朗報を待っている。じいちゃんとお父さんは二人して船に乗って声をからして好平を探し、ついに彼らを発見!じいちゃん(中村嘉葎雄)はざんぶと海に飛び込んで好平のもとに泳ぎつく。「頑張った、よく頑張ったなあ!」いよいよ台風が近付いてきて、どしゃぶりの中ズブ濡れになって港に戻ると、ひいじいちゃんが駆けつけてきて好平をひしと抱きしめ号泣しながら「良かった、良かった!」と繰り返す。好平も泣きながらひいじいちゃんに抱きつく……。他の二人の子たちに対してもそうなんだけど、決して叱らない。頑張った、って褒めてあげて、無事で良かった、って喜んであげて……ホント、単純なんだけどじーんときちゃうんだなあ!特に大滝秀治の渾身の感情のほとばしりが素晴らしくて、ホント泣けちゃう。

それにこの男の子ならではの冒険、確かに危険で無謀だけれど、今ではなかなか実行できなくなったこんなことが出来ちゃうのが、ちょっとうらやましくもあるよね。この事件の前、ひいじいちゃんは白い船に憧れ続ける好平に「海が好きか?」と尋ね、うなづく好平に「そうかそうか!」と凄く嬉しそうなんだよね。父親を海で亡くしたといっても、やはり漁師であるひいじいちゃんにとって海は絶対の存在で、そしてこの冒険を終えた好平にもう一度聞くのだ。「こんな怖い目にあって、海が嫌いになったか?」好平は首を横に振る。これまたひいじいちゃんはすっごくすっごく嬉しそうな顔をしてて。

こういうエピソード、手塚治虫の「ブラックジャック」にもあったなあ。やっぱり漁師の子供が、大きな二枚貝に足をはさまれちゃってそのまま潮がだんだんと満ちてきて、危うく溺れ死にそうな目に会うんだけど、生還した後、海が嫌いになったか、と父親に問われて、やはり首を横に振るのだ。これって壮絶な体験学習だよね、本当に。命が何たるものなのか、自然が何たるものなのか、身をもって知る、という……。それこそ現代はそれが出来てこなかった人間がうようよしているから、ヘンな事件が多発しているんじゃないのかなあ。

いよいよ子供たちの夢叶って「れいんぼうらぶ」に乗り込むことになるクライマックス。ずっと手紙でやりとりしていた船長さんを実際に目の前にしたり、船内に塩津小学校コーナーが設けてあったりと嬉しいことは目白押しだが、何と言っても圧巻なのは翌朝のスペシャルショー!デッキに出た子供たちは、近づいてくる自分たちの住む島と、そして何と島中の漁船の並走を目の当たりにするのだ。しかも島中の皆が自分たちに向かって手や旗を振っている。見えるとはとても思えないような遠くからも、バスから降りたり、家の窓から身を乗り出したりして一心に手を振っている!興奮し、感激して手を振り続ける船上のみんな。それにしても……のぼりや旗を大きくはためかせてれいんぼうらぶを追っかける漁船の群れの何と素晴らしいこと!キラキラ輝く水面(みなも)に白い波を躍らせて……まさしくこれは、スクリーンで観るための画だ。

この時、静香先生は手を振りながらなぜだか涙が出てしまう。これは観客も同じ気持ちで、不思議と涙が出てしまうのだから、その心情は言葉でなんか説明してくれなくったって充分判るんである。なのになのに、「ただ船の上で手を振っているだけなのに、どうして涙が出るんだろう」だなんてヤボなモノローグはいらないんだよう!もう、これじゃあ、この映画が描いていることとか、あるいは演者が自信ないみたいじゃないかあ。

あの台風の時、好平たちが助かったこととか、あるいはみんなの夢が叶って、れいんぼうらぶに乗ることが出来たとか、勿論それは彼らの努力があったからなんだけど、このロケーションと何たってやっぱり島根だから、ああ、神様のいる土地だ、森羅万象の神様が見守っていてくれているんだなあ、なんて普段は思わないことをついつい思ってしまう。全然宗教くさい意味ではなく、本当に、自分たちが生かしてもらっていること全てに感謝するような気持ちで。この神様のいる国で生活する海の男たちがまた実にいいんだなあ。力が抜けているのに、みなぎる時はバリッとみなぎっててカッコいい。実はね、私は水産にたずさわる男たちは一番カッコいいと思ってるんだあ。もちろん自分の仕事場のひいき目も手伝ってるけど(笑)。自然の怖さを一番判ってて、それを畏怖する気持ちと闘う気持ちを同時に持っているのは彼らだもの。この漁師さんたちに自分の仕事がつながっているのが誇りに思えちゃうのだ!★★★☆☆


真珠のように輝いた太陽
2001年 15分 日本 カラー
監督:山田勇男 脚本:
撮影: 音楽:
出演:

2002/1/18/金 劇場(BOX東中野/山崎幹夫&山田勇男特集/レイト)
「僕はずっと続けて夢を見ている」の印象と、やたらと似ている。スタイルが似ているせいだろうか。畳み掛けるカットと畳み掛ける言葉、三人称的な影を映したりだとか。でもこちらは特に夢を見ているとか、それと日常や現実との対比とか、そういうものではなくて、純粋に旅のスケッチ。それも日本ではない。ブザンソンという街だという。映画の始祖、リュミエールが生まれたところ。いわば、映画における生地であり、聖地。その旅の中で感じる空気や、雨が路地を濡らしている感じや、曇り空をうっすらと照らす太陽や、そうした肌合いを、まさにカメラの肌に感じさせて撮っているという感じである。

猫、猫を見かけると、本当についつい撮ってしまうのね。これはハッキリ、山崎監督との共通の感覚。こんなに作風が対照的な二人なのに、その点だけは本当に、妙に似ている。この街の猫は、やたら堂々としている。堂々と路地を横切る。さっと隠れたりしない。建物は一見威圧的に高いけれど、そのことによって路地が谷のように深く、その深い感覚が何故だか安堵の空気をもたらす。猫よりも、人間の方が隠れたくなる、のかもしれない。

でもやっぱり、“真珠のように輝いた太陽”を雲の隙間から見つけると、それが何より待ち遠しいものだったことに気づくのね。優しくて柔らかく肌を包んで。映画は影と光と音。その中でも光。それも柔らかい光が特に心にきゅんとくるのは、まるで山田作品そのものみたい。ホント。★★★☆☆


新・仁義の墓場
2002年 131分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:武知鎮典
撮影:山本英夫 音楽:遠藤浩二
出演:岸谷五朗 美木良介 有森也実 大沢樹生 山下真司 大地義行 本宮泰風 山口祥行 曽根晴美 隆大介 石橋蓮司 菅田俊 井上晴美 力也 本田博太郎 山城新伍 丹波哲郎

2002/7/5/金 劇場(新宿ジョイシネマ3/レイト)
こういう映画をレイトショーなんかに閉じ込めちゃうから、今の日本映画が元気ないとか、見当違いのことを言われちゃうんだよ、もうッ!「荒ぶる魂たち」の余韻もさめやらぬ中(「荒ぶる……」と同じ脚本家さんなんだもんね。NAKA雅MURA以来の名コンビかもしれない)、ああ、三池監督、戻ってきてくれたなあ、という感じ。というよりは、どんなジャンルも縦横無尽に撮れる才能のある監督だけれども、似合っている、というか私の好みの三池作品というのは、やはりこういうもの。アウトローで、寒々とした美しさがあって、どこかに人情もあって、でもそれがあだになってしまうような……。しかも今回は深作欣二監督が入魂の作品を残している「仁義の墓場」が前提にあり、それは「カタクリ家の幸福」のリメイクなんかとは比べ物にならないぐらい比べられちゃう(?)訳で、それが、こんな、こんな、こんな……凄いよ!!

何が凄いって、まず、岸谷五朗が凄い。つい最近、舞台の宣伝記事で彼を見かけた時、あんまりゲッソリと痩せていたんでガンにでもなったんじゃないのと思ったぐらいだったんだけど、この役作りのせいだったんだなあ。ついでパンチパーマで眉にソリ入れて、そんなコワい風貌が似合うというのも意外だったのに、そのお決まりのいでたちも吹っ飛んじゃうぐらいの狂気の演技で、完全に目がイッちゃってる。……びっくりしたよ。この人って、どこかトボけたお人よし、みたいな、つまりは劇団SETの流れを汲むようなイメージしかなかったんだもん。凄かった。最初から最後まで。レイトショー公開で不利なんだろうけど、もう今年度、彼以外の男優賞は考えられないというぐらいに。

そして有森也実。お嬢さん女優のイメージがずっとあった彼女が、息を飲むほどの凄い演技。実際、彼女はこのイメージにずっと苦しめられてきたのかもしれない。顔立ちがやっぱりおっとりしたお嬢さん風なだけに、こんな運命に翻弄される女性をやると、本当に衝撃。岸谷五朗ふんする石松にバカスカ脱がされバカスカ犯されバカスカクスリを打たれまくって、哀しく狂って死んでゆく……実は深作版の地恵子(本作では智恵子)では、なぜ彼女が石川力夫(本作での石松陸夫)にホレてしまうのか、どうしても理解できなかった部分があって、それは深作版の地恵子が少女だったからなのかもしれないのだけれど、本作の智恵子には……理性的な理解はやっぱりできないけれど、どうしようもなく彼に引きずられてしまう彼女、決して幸せじゃないけれど逃げることなど考えられない彼女を、本能的に理解できるような気がして。それは脚本や演出の力も勿論あるんだろうけれど、この有森也実のせっぱつまった演技によるところが大きい。カラオケボックスで初めて石松に犯された時、石松が血のついた手を部屋から出て行きしな壁の張り紙になすりつけるところがあるけれど……あれって彼女が処女だったってことなの?深作版では少女だったからそれも判るけれど……本作でももしそうなら、彼女の人生ってある意味、凄い。必死に抵抗する彼女のふくらはぎの発達した筋肉が、なぜだか年を重ねた女のわびしさを感じてしまう。

そして美木良介。「荒ぶる魂たち」からの続投になる彼には、今回も唸った。彼がこういう役にハマれるということを見抜いただけでも三池監督を尊敬してしまう。頼りがいのある、カリスマ性すら感じる、苦みばしったイイ男の兄貴分。刑務所で知り合って石松のきっぷにホレて兄弟分となり、彼のために身を挺してかばい続けるものの、ついにはその石松自身に誤解されて撃ち殺されてしまう。……でもさ、石松は多分このあたりに至っては、それが誤解だということは判っていたんだと思うんだよね。最初、本当に最初だけ、親分が歯の痛みに耐えかねて歯医者に行った、あの2時間の誤解だけで、それによって決定的な過ちを犯してしまった石松が、もう止まれなくて、いわば自分の心の表面にまでウソをついて、そう思い込んでいるんだと思い込ませて、自分を追いつめて追いつめて……そして死んでしまう。深作版の力夫は史上最低最悪の男だと思うにとどまっていたんだけれど、本作の石松は史上最悪のバカな男、という哀しさを感じたのは、まさにその部分。

だから……女は彼とともに堕ちるしかなかったんだ。今までの三池作品では女はどうにもジャマなことが多かったんだけど、今回は深作版の女が納得いかなかったせいもあってか、本当に素晴らしいと思った。助けるとか、立ち直させるとか、自分がかばうとか、そういうことがぜっっったいにムリなこういう男が相手の場合、というかむしろ、そういう一般的良識はこういう男のためにはならないのだ。一緒に奈落の底まで堕ちることこそが、彼への最大の愛であり、思いやりなのだ。でもそんなことができる女は、つまりは石松のような男を誰より愛することができるような女は、宇宙全部探したってこの智恵子ぐらい。まさしく奇跡の相手だったのだ。岸谷五朗が分析するように、確かに究極のラブ・ストーリー。そう感じさせるのって、こんな話じゃ凄く難しいはずだけど、有森也実の熱演の功績が大きい。

うん、だから深作版、観ていて良かった(今はなき昭和館に感謝!)。それを観ていたからこそ、いろいろと感慨深い部分がいっぱいある。深作版で石川力夫を何くれと心配する兄貴分のうちの一人であった山城新伍が本作では石松を見込んでそれがあだとなってしまう親分を演じている、というのもうわあ、と思っちゃうし。深作版の渡哲也は触れれば斬れそうな凄みがあって強烈だったから、とかくヤワな現代役者がそれに拮抗できるのかあ?と思っていたらとんでもない、もしかしたら岸谷五朗の方が数段凄いのではないかというぐらいだったんだから、何かもう震えがきてしまった。

ところで、本作の石松は、体に墨入れていないんだよね。深作版ではどうだったか覚えていないんだけど、あっちではもともとヤクザ一家に生まれ育った、という設定だったのと違って、本作ではその素質を親分に見出されて盃を受けた、という展開だから、墨を入れる間もなく突っ走り、堕ちていった、という感じが強い。それだけに、クライマックス、警察との銃撃戦で、パンツいっちょになった石松のからだは真っ白けで、何かそれがヤクザらしくなくてちょっと哀しくて……そして弾もなくなっていったん引き返した石松、そこにすっかりヤク中になって訳も判らず自分の髪を切り刻んで不思議な笑みを浮かべている智恵子に遭遇し、ひょっとしたら初めて見るような……彼の笑顔がそこにあるのだ。一瞬、ドキッとして、あっという間に石松は捕獲、連行されてしまうのだけれど、あの一瞬に、まさしく“究極のラブストーリー”のひとつの収束した形が見えたような気がした。

そして刑務所に入れられた石松は、看守を欺いて屋上まで出てゆき、身を翻して宙空にダイブする。冒頭にすでにこのシーンが示されており、彼の行く末は観る者にあらかじめ示唆されているんだけれど、そのダイブした後の描写が凄かった。一度下の屋根に高くバウンドした彼、まるで滝のように大量の血しぶきがざんぶと波打つ!三池監督らしい、どこかブラックユーモアな味も感じるけれども、でもその大量の血はやっぱり、石松が殺してきたたくさんの人たちの血のようにどうしても思えてしまう。許されることなんてありえないけど、でもこれが贖罪の血なんじゃないかって。それに、奇跡の相手、智恵子が死んでしまった直後だし……。有名な辞世の句「大笑い三十年のバカ騒ぎ」がおどけたように画面いっぱい大書されたラスト、胸をつかまれる。

ちょっとずつ、ちょっとずつ、ユーモラスな場面が入れられてくる。三池監督の体質だね、こりゃ。何たって力也さんが刑事だってのがまずスゴい。どう見たって同業のヤクザにしか見えない(笑)。ついでその刑事の力也さんが石松を尋問する場面で、あまりにお約束にカツ丼をとってやっているのが妙に笑える。そしてこれはあまりにもグロで笑う気も起こらなくなる、腐った牛乳飲んで上から下からビチビチになる石松……ぎゃー、やめてくれええ、もう牛乳飲めなくなるじゃないかあああ。

ドライで寒々しい画面の色合い、その秀逸さは「荒ぶる魂たち」からつながるもの。つながるといえば「荒ぶる……」でそのピアソラばりのタンゴに驚かされた遠藤浩二は、本作ではJAZZ!一体何者なんだ、この音楽家はァ!それにしてもついに、ついに三池監督のジャズだよ……もうそれだけで鳥肌。このどうしようもない、救いようのない仁義なきヤクザの物語に、なんでこうもジャズが似合っちゃうの……ヤバいよ!★★★★★


新・雪国
2001年 109分 日本 カラー
監督:後藤幸一 脚本:笹倉明 後藤幸一 門馬隆司
撮影:羽方義昌 音楽:マリオ鈴木
出演:奥田瑛二 笛木夕子 南野陽子 あき竹城 内海桂子 結城しのぶ 不破万作 鶴田忍 高橋明 村田真 比企しのぶ 尾崎祐二 渡会久美子 三浦伸子 小林かずえ 岡村洋一 吉行和子 坂上二郎

2002/1/29/火 劇場(銀座シネパトス)
かの川端康成の小説をモチーフに、現代に舞台を移して書かれた同名小説が原作。ところでひょっとしてこれは映画化を前提として書かれている?川端康成の生誕100周年を記念して書かれたというのがたった1年前の話で、しかも原作者が脚本に名を連ね、坂本冬美の歌う主題化の作詞まで手がけているというのだから、そうなんじゃないのかと思ったんだけど。この監督の名前、聞いたことないんだよなあ。あ、「不良少年」なら知ってる、と思ったのだけど、私が観たのは羽仁進監督の同タイトルのそれだった。吉行和子、あき竹城、南野陽子、と微妙に野暮ったさのあるキャストのコラボレーションが、この成り立ち自体から微妙に野暮ったさのある作品世界に合っている気もする。しかし肝心のテーマ……現代において、芸者で過去のある女で、親子ほどの年の離れた男との運命の恋で、というと、これはかなり説得力が必要というか……何か、現代である、という部分がどれだけ意味のあるものになってるだろう?という気がしたのだけど……。

一人の中年の男が、雪の降りしきる温泉町の駅に降り立つ。祖父の代から続く小さな会社を潰してしまった50を数える男、芝野。あっと、ところでこの登場シーンからして、まあその、現代なんだから当たり前なんだけど、駅も近代的でぴかぴかで、何だか興をそそられない。途中、出発する列車の中の芝野も描かれるが、これまたぴかぴかの新幹線とおぼしき感じで、どちらにしても人生に絶望した男には似つかわしくないんだよなあ。とにかく、彼はその駅にふらりと降り立ち、寒そうにコートの襟を立て、雪の町をそぞろ歩く。観光の町なんだろうけれど、それにしてはどこか中途半端な、町にもイナカにもなりきれないようなこういうところは、えてして温泉街にありがちで、なかなかリアルなものがある。ふと入った蕎麦屋で、彼は女と出会う。まだ年若い芸者の萌子。私の紹介した旅館にうまく泊まれたら、座敷に呼んでね、と彼女は言って、これまたぴかぴかの青い車で走り去る。いや、いいんだけどね。でも“少しだけど借金がある”彼女にこんなぴかぴかの車に乗られると……まあ、そりゃ、車が必要なんだろうとは思うんだけど、ちょっとムードがなあ。

萌子は芸者仲間内の問題児。プライドが高くて客にバカにされたりセクハラ(と言うのだろうか……こういう場合も)されたりすると、すぐに腹を立てて客に灰皿を投げつけたりしちゃう。その夜も、舞を客に途中で止められて、憤然と座敷を後にしたばかりであった。芸者をやめる、と言い放ち、芝野の座敷に来た萌子は、なんだか知らんけど最初っから芝野にやたら積極的。程なくして二人は恋に落ちるのだけど、きっかけとなるこの萌子の積極ぶりがよく理解できない。まあ、同じ匂いを感じたとか、最初っから惹かれてたとか、いうのかもしれないけど、それもまた後から台詞やなんかでそう推察できなくはないものの、やはりどうも不自然……。芝野の方はわかるんだけどね。この年若い芸者に迫られ、ウロタエながらも彼女が明るいだけの女の子じゃないと知るに至って、だんだんと興味と魅力を感じていくっていうのが……。ということは、単にこれは新人の笛木夕子とベテランの奥田瑛二氏の演技力の違いなのだろうか。

笛木夕子、確かに見た目は悪くない。確かに、一目見てどこか陰のありそうな、過去のありそうな、いい意味での不幸顔をしている。どこか恨みがましそうな一重のキツネ目が、キツそうに凛と上がった細い眉と連動して印象的だし、白いもち肌や、これまた幸薄そうなささやかなふくらみの胸といい。写真で見いだされて、一度の面接で萌子役に抜擢されたというのは判る気がする。彼女も一糸まとわぬ姿までさらして熱演しているのだが、ううむ、今時脱ぐぐらいでは熱演とは言わんのだよ。ま、最初っから唐突でその後の経過もなあなあで、どうも彼女が芝野に恋していくのを感じられないというのは脚本上のミスなのかもしれないが……。だって、最後の方になって妙に説明的に「こんなキスが出来るようになったのは、あんたを本当に好きになった証拠」とか訳判らんこと言うしさ。あ、ついでに言うと、「あんた、って呼ぶことにする」ってのもやたら唐突で訳判らんし。何であんたなの?時代劇や演歌じゃあるまいし。最後までこの呼び名がどうも不自然たまらんのだよなあ……。

萌子の過去とは、恋人を亡くしたこと。この月岡の町に住む旅館の息子だった彼。萌子が彼に会いに来た時、彼女の目の前で彼はトラックにはねられた。東京で酒に溺れる日々。月岡の、彼がかつてよく連れてきてくれたスキー場で死ぬことも考える。しかし夢枕に彼が立ち、それも叶わなかった。そうして堕ちるところまで堕ちた彼女は、月岡の町で、生きるために芸者になる。じゃじゃ馬の彼女はあちこちの旅館を出入り禁止になるが、生来の気質なのか、彼女を預かる先輩芸者たちにかわいがられている。そして、芝野と出会った。

彼女をフォローする三人の芸者達がなかなかいい。おっしょさん役の内海桂子のたたずまいと存在の説得力はいわずもがな。母親がわりに彼女の面倒を見るあき竹城は、彼女の特徴であるなまりとおおらかな体格が、それまでの苦労と面倒見のよさをうかがわせる。そして 姉さん格の南野陽子。彼女がなかなかの拾い物だった。彼女は物語の中盤出てくる、おそらく本当に地元の芸者さんたちが集った芸者の芸を披露する発表会で、一人はっきりと洗練された美人で、先述した笛木夕子の“見た目”とは実に対照的な、一般的な、言ってしまえば平凡なる美しさをもっているのだが、その“一般的な美しさ”がこの場面では特にはきだめに鶴、とでも言いたいぐらいに、それ以上の存在感を持って訴えるものがある。

だから“見た目”のインパクトでは笛木夕子のほうが得な顔立ちをしているはずなのだが、この中では笛木夕子が完璧に埋もれているのを見るにつけても、やはり長年見られつづけていた人は違うもんだ、と妙に感心する。それに彼女、その唇の下のほくろがことさらに色っぽく感じる年齢になったんだなあ、と……。しなやかに舞う舞もなかなかどうに入ってるし、未婚の母として頑張っている様子も、ほんのちょっとだけ示されるに過ぎないんだけれども、ちゃんとその気丈夫さが出ているし。それに萌子ちゃん、萌子ちゃんと、彼女を何かと気にかけ、芝野との仲も理解しようとつとめ、心配しかわいがっている姉さんらしさがイイんだよねー。何か彼女って、アイドルだった頃の頭がこちらにあるせいか、そうした“お姉さん気質”があまりイメージになかったんだけど、それがすごく似合っているのだよ。実は意外にイイ女優なんじゃないか?いやいやその前に、意外にイイ女じゃないか!などとホレボレしてしまった。

芝野は最後の全財産、200万円を携えて一人この温泉宿に投宿する。つまり、この200万円を使い果たしたら、死ぬつもりなのである。萌子にその200万円を預け、どう使ってもいいから、それまで自分のそばにいてくれないか、と頼み込む。自分にも覚えのある彼女はすぐに彼の死の覚悟に気づくのだが、それならばその200万円を使うまでに、何とか立ち直ってもらおうと彼の申し出を受ける。雪の中でのたわいないデート、体を重ねる回数……そんなことで、二人の気持ちはだんだんと熟してくる(というのは何か表面的な描写って感じだったけど……)。それぞれにぽつぽつと語られるお互いの過去。芝野のつぶした自分の会社は、ボタンを作っていたところらしく、そのボタンに埋もれて息が詰まりそうになる夢なぞを見るのだが、ボタンというのが妙にわびしくて……(などと言ったら、ボタンを作っている人に怒られそうだが)。

萌子の死んでしまった恋人の母親、吉行和子は、ちょーっと演技、作り過ぎだよねえ?まあ、もともとこういう感じで演技を作ってくる人ではあるけれど……。何か一人だけ別の映画に出ているみたいに、浮いてるんだもん。それともこれは監督のネラいなのだろうか?それを言ったら坂上二郎もしかりだけどね。吉行さんほどではないけど、ことさらワザとらしくおどけてみたりする登場シーンで、ああ、どうしよう……と思ってしまったよー。

芝野がまだ死ぬつもりなら、あるいは東京に戻ってそのまま自分の元に帰ってこないのなら、私も死ぬ、と彼に迫りまくる。孔雀柄が織り込まれた裏地のすそをめくっていわゆる昔のスカートめくりのチューリップ型にし(表現が悪かったかしら……)、目を奪われた芝野は、しかし愛でたのはそこからチラリズムしていた彼女の尻!?そして最後の情事をねっとりと取り交わした二人。こりゃあ、もしかして二人で悲惨な最期かしらん!?とワクワク?してたら、なんのことはない、翌日姿を消した彼女を探してスキー場にそぐわないコート姿でリフトに乗っていったらそこにスキーウエア姿の彼女。「あんたが戻ってくるのを半年だけ待ってるわ」と言い、「追いかけてもムダや」と彼女曰く“雪を掘る”見事な滑走ですべり行く彼女。萌子の後を雪に足をとられながらブザマに追いかけて、なんとも言えない表情の芝野のアップでカットアウト。この“なんとも言えない”ってあたりがもしかしたらの意味を含んでいるのかな……と思ったのは、それぐらいの含みがないとなあんか中途半端な作品なんだもん……。

劇中でまず萌子役の笛木夕子が歌うテーマソング、「雪の花」で締めくくられるラストクレジット。歌うは大好きな坂本冬美。そう、冬美さんは好きだし、そのつややかな歌声に酔ったから、まあいいんだけどね……。★★☆☆☆


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