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「い」


2004年鑑賞作品

イズ・エー[is A.]
2004年 109分 日本 カラー
監督:藤原健一 脚本:藤原健一 江面貴亮
撮影:鍋島淳裕 音楽:遠藤浩二
出演:津田寛治 小栗旬 戸田菜穂 水川あさみ 姜暢雄 榊英雄 栗田梨子 山田辰夫 斎藤歩 伊藤かずえ 菅田俊 内藤剛志


2004/10/19/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
長編映画デビュー作だというのに、とんでもなく重いテーマを持ってきて、役者の渾身の演技を引き出して、緊張感みなぎるまま、最後まで突っ走ってしまった。初主演というのは意外なツダカンの、妻子を失ったあまりに痛々しい姿、そして息子が犯罪者となってしまった内藤剛志の、苦悩する姿。この二人の父親が、どちらがより可哀想とか哀しいとか比べられるものじゃなくって、どっちも同じぐらい、同じぐらいというレベルなんて計れないほど無限大に苦しくて哀しくて、その感情を受け止めるだけの容量がこっちになくって……何か緊張感に身体をずっとこわばらせながら、見ていた。
少年法。罪を犯した少年が、法によって裁かれるのではなく法によって守られてしまう。しまう、だなんて言わなけりゃいけない時代になってしまった。私は基本的に、少年法はありだと思いたい。それは性善説というものと、未来への可能性を信じたいから。年若き犯罪者には更生の余地と人権保護が必要と思いたい。
でも、今、少年法が疑問視されているのも仕方ない世間になってしまった。私たちには罪を犯す少年たちの心が判らないのだ。例えば、劇中に出てくるオッチャン、「俺も若い頃はずいぶんと悪さをして、人も殺してしまった」というようなのは想像できる。若気の至り、そして今は大人になって若い頃のムチャが判って、何とかマトモな人間になれた、そんな仁侠映画に出てくるようなヒトコマが、今の世の、罪を犯す少年たちに想像できなくなってしまった。
このオッチャンは言っていた。「捕まえたら、俺のところに連れてこいよ。ヤキいれてやっから」
そう、昔ならそれできっと、少年は泣いて悔いて、更生したんだろうけれど……。

被害者の父親と、加害者の父親。この二人の内面を深く掘り下げるために、当の加害者本人である少年自体は、深く追求することをしていない。何を考えているか判らず、ただ爆弾を仕掛ける、ある意味怪物。
追求しないというか、出来ないのだ。そんな風に、私たちには判らないから。少年の、特にこんな風な、無差別殺人者の気持ちがどうしても判らない。
ねたみ恨みや、目的や利害が絡んでいる方が判る。そしてそれなら更生もありえると思うのは、自分も弱い心になったらそんなことをしてしまうかもという想像が働くからだ。
でも、何の理由もなく無差別にたくさんの人を殺す人の気持ちを私たちは想像できない。だから、こんな風に怪物として描くしかないんだ。
そこに正直多少の物足りなさは感じても、でも、じゃあ彼が反省したり悔いたりしたり、あるいはこうしたことに対する嗜好があると描いた方がいいのかっていったら、それはやっぱり説得力がないんだもの。

でも、困ったことに、美しい。この怪物は。犯行声明に詩のような独特の世界観を持ち込み、「ホーリーナイト」と名乗って世間から持ち上げられた。ある意味、カリスマになってしまったという部分に、彼一人だけが特別なのではなく、全ての若き人々に私たちの手がまるで及ばないのではないかという恐怖を感じる。
演じる小栗旬が、困ったことに美しい。繊細な少年の顔立ち、白いシャツがはかなく似合い、黒く無造作な髪が、神秘的にさえ思える。遠い目をして……。

渋谷のファミリーレストランを襲った爆破事件。ツダカン演じる被害者の父、三村はあの日以来、この犯人の少年を憎み続けることを生きている支えにしてきた。妻子を失った、そのことさえ彼の中に一度に認めることが出来なくて、息子を失ってしまったのを夫婦で悼んでいるんだと、そのそばにはせめて愛する妻はいるんだという幻想の中生きていて……本当は妻も息子も死んでしまったのに。
四年の月日が経って、ホーリーナイトと名乗ったこの少年、勇也(名前は変えている)が社会復帰できることになる。あれだけの人を殺して、たった四年で出てこられる少年法の空しさに憤りを覚える三村。
「あいつは、更生なんかしていない!」そう、叫んでいた。
彼がそれを確かめられるわけじゃない。いや、誰にもそんなことは確かめられない。心の中は見えないから。その点では、勇也の父である海津の、「それはあいつの心の中でしか判らない」という言葉が的を得ているんだけれど。
でも、そうだ、ただただ、被害者家族は犯人に更生なんかしてほしくないんだ。ずっと憎み続けたいんだ。
ずっと、悪人でいてもらわなきゃ、心の整理なんてつかないじゃないか。例えば奇跡的にその人が善人に生まれ変わったら?……じゃあ自分の家族はなぜ死ななければいけなかったのか、答えがどこにも持っていけないじゃないか。
少年犯罪とは違うんだけど、神戸の小学校の事件の、あの最後まで一切謝罪せず死刑執行された犯人のことを思い出す。
そりゃ許すことなんて出来ないヤツだけど、その点だけは彼は判ってて、疑問なく憎むことが出来る存在に徹したまま死んだんじゃないかって、そう思ってしまったから。

でも、勇也は本当に全ての犯人だったんだろうか?
彼はとにかく寡黙で、悔恨の言葉も出ないと同時に、自分がやった犯罪のことも全く語らない。いつもいつも遠くを見ているような目をしている。
最初の爆破事件はそうだろうけれど、二番目も本当にそうだったのか。
そして、最初の爆破事件の犯人が勇也だと、警察に密告した友達とその家族を殺したのも本当に彼なんだろうか?
……私、やっぱり、この期に及んで性善説な話を期待しているんだろうか。
ただ、三村が、この友達と家族を殺した犯人を、何の証拠もないまま、出所したばかりの勇也がやったに違いないって、もう決め付けちゃってて、彼の元におしかけて拳銃グリグリやりながら責めたてるなんてことまでして、勇也の父、海津じゃなくったってそりゃあんまりだと思ったから……偏見満々じゃないのと思っていたから……でも、結局はやっぱりそうだったなんて結末、あんまりすぎる。でも、そうなのだろうか。

ただ……気になるのだ。少年院時代の友達で、今は一緒に働き、いつでも一緒にいる克次の存在が。
マリファナをやっていて、こらえ性がなくキレやすい克次。ただ淡々としている勇也とは対照的な男の子。彼が勇也の母親と娘が暮らす家に行って、暴れまくった(ひょっとして……ヤッちゃったの?)のは、彼一人の行動で、勇也は関係なかったんじゃないの?
克次はこの時、勇也に言われて来たと言い、勇也の描いた父親の似顔絵がグチャグチャになったものを持参したから、そのことを後から聞かされた海津も、息子に裏切られたと思ったわけだけど……。
ごめんと謝る克次に、「いいよ。あいつら、キライだったし」と言って彼を抱き寄せる勇也。美少年二人のそんな図は、やけに官能的で……美しいのだ。
そして、克次は再三勇也に、「ありがとう」と言うのだ。どうしても気になる。
なぜ、何の、「ありがとう」なの?

「私はあいつを信じていますから」
ただただそう言う海津。教職だった彼はいまやしがない清掃員である。そして妻と娘とは別居中。出所した勇也を何かにつけ気にして、昼ごはんを差し入れしたりしている。
だって、信じるしかない。いや、そう言うしかない。彼には憎まれる義務がある。三村から「父親から見て、たった四年で本当に更生したと思いますか。すべて彼の芝居かもしれない」などとひどい言葉を投げかけられ一瞬激昂しても、ただひたすら頭を垂れるしかない。
でも……。
昼ごはんを差し入れしても、食べない勇也。お腹がすいていないからと。海津には息子が何の食べ物が好きだったのかさえ、判らない。いや、それ以前に、食べ物を口にしない勇也はなんだか……やはり生きている実感がないような気がしてならない。

「生きたい?それとも生きたくない?」
そんな言葉を、他人に対して再三発していた勇也。でもそれは、自分に対しての言葉ではなかったのか。
彼には人を殺しているという実感も、自分が生きたいのか生きたくないのかも判らない。なんて哀しいの。
こんな事件を起こしてしまうことを、「今の子はゲーム感覚だから」という理由というのも、あまりに単純すぎるとは思うけれど、でも演じた小栗君は、「ゲームの中にいる男の子」として演じたという。
何をしてみても、そして友情めいたことも、ゲームの中だから実感がなくて、やってみるんだけど、やっぱりぼんやりと遠くから見てて……みたいな感じだろうか。 人の死の悲しみ、父親の苦しみが判らない彼がやはり一番、哀しいと思えて仕方がない。

親から期待され、立派な人間になること、いい成績を収めたり、いい学校に行ったり、スポーツクラブに入ったり……ふと思うとそんな要素さえ、ゲーム盤の上の言葉みたいに思えてくる。
そりゃ、育て方や躾が問題だったというのもあまりに単純に過ぎるし、そんなことで犯罪者が作れるとも思えないけれど。
でも、やはりこれも劇中で何度か言及される「普通に育てる」ということが、生きている実感をもった人間に育てる、生きている実感を自分で探せる人間に育てるってことなのかな、とも思う。
でも、普通って、どうやったらいいの。放任とも違うし……今のこの、複雑な世の中で子育てをするって、それこそどんな“ゲーム”よりあまりに難しくて。
きっと、私にはとても出来ない。

二度目の爆破事件を起こしてしまった勇也。その時刑事である三村は勇也が親子殺しの犯人と確信して、管轄外なのも無視して彼を追っていた。そしてその場に海津も鉢合わせする。……手に包丁を持って。
息子を、自分の手で殺すしかない。それは、三村が勇也を殺すつもりだということが判ったから。
他人の手で殺されるならいっそ……いやそれともちょっと違うような気がする。愛しているから、息子を殺したい。究極的に、そこまでの心境だったように思える。
愛していることを、忘れかけていたのかもしれない。問題はない頭のいい子だった勇也。手のかからない子だった。だから。

「私は、あいつのことが何にも判らないんだ。自分の息子なのに……!」
「あいつを殺すことが俺の生きがいになった」
お互いの思いをぶつけ合う二人の父親のシーン、穏やかに話しながらも知らず知らず涙があふれてくる内藤剛志と、顔も体もずっとこわばらせている渾身の演技のツダカン、凄い……こんな演技合戦を見せてもらっていいんだろうか。
いや、もう演技を超えている。入っているもの、二人とも、それぞれの父親になってて、そこに生きてて、だから全身からあまりにもやりきれなさや哀しさや苦しさが、そんな言葉に変換できないものがフレアのようにたちのぼっているんだもの。
三村には憎む権利がある。海津には憎まれる義務がある。どちらもほしくない権利や義務だけれど、憎まれる義務より、憎む権利の方がまだましのように思えるのは……ただまっすぐに憎める純粋さがあるからだろうか。
だって、海津はどこに怒りや憎しみを向けたらいいの。息子は生きている。愛している。だけど、その息子は世の中の全ての人からその存在を拒否されていて、それも仕方のないことだとのまなくちゃいけないのだ。
でも……被害者側の、他人を慈しむことが出来なくなってしまうんじゃないかというこの立場も、それは人間の根幹をなす部分だから、そんなこと、想像を絶してて、やっぱりヤだ。
ひとつの事件が、人間がただ生きていくことさえも、奪ってしまう。

最初に、勇也を見つけたのは海津だった。勇也が小さな頃お気に入りだった海辺。そんなところに来ているってこと自体……怪物でも何でもないじゃない。
そして既に、あの友達、克次も、勇也の手によって葬り去られていた。
「父さん、僕、どうすればいいの?」
そんな息子をただ抱き寄せる海津。その抱擁の延長線上のように、彼の首に手をかける。
見ていて辛すぎる砂浜での死闘。そして海に逃げ込む勇也。その息子を再三海中に沈めて……やめて、やめて!見てられないよ。本当は殺したくなんかないはずの二人が、親子なのに、息子なのに、父親なのに!
そして、でも、でも、……父親までも殺してしまうのだ、勇也。
どうして、彼だけがいつもいつも生き残ってしまうのだろう。
皮肉なぐらい、それこそが最も悲しい出来事のように思える。

結局、勇也の胸に銃弾を貫いたのは三村だった。
まさしく、彼は自分の生きがいを貫いたのだ。でも……それだけを心の支えにして生きてきた三村、一体このあとどうするのだろう。
そして、息子を殺したかったのに殺せなかった海津。
三村の銃口の前に、その身をさらけ出した時、父親を殺したばかりだというのに、勇也はやけに落ち着いていた。地球の、そして人類の誕生の話なぞ持ちかける。「この愚かな世界は人間が作ったんだよ」こんな時まで「ホーリーナイト」な哲学とは……それともこれもまた、ゲーム的な感覚なんだろうか。
でも確かに、彼は、愚かな世界を作り出した愚かな人間の、落とし子と言えるのかも知れない。
この人間社会に存在してはいけない、いや、存在を許されない落とし子。
彼が何を考えているのか、そう、彼だけは判っていたのかもしれないのだ。そしてそれは決して私たちには判らないこと。
三村の銃弾に貫かれた直前、何かを言い出そうとしていたその言葉、一体なんだったんだろう。

ずっと、考え続けていた。でも不思議と、ぽろぽろと出てくるのは意外なくらい単純な言葉ばかり。
ただ、家族を愛していきたい。他人に優しくなりたい。
単純さは、守るべき純粋さだと思う。だって、ただこれだけのことが出来なくなる世界って、おかしいもの。★★★★☆


IZO
2004年 128分 日本 カラー
監督:三池祟史 脚本:武知鎮典
撮影:深沢伸行 音楽:遠藤浩二
出演:中山一也 遠藤憲一 寺島進 友川かずき 松田龍平 高野八誠 夏山千景 美木良介 石橋蓮司 内田裕也 中山麻理 勝野洋 及川光博 山口仁 本宮泰風 菅田俊 TEAH 村上竜司 ミッキー・カーチス 石山雄大 長門裕之 高瀬春奈 ボブ・サップ ビートたけし 曽根晴美 岡田眞澄 片岡鶴太郎 篠田三郎 大橋吾郎 山本太郎 樹木希林 原田大二郎 加藤正人 塩田時敏 原田芳雄 大滝秀治 小林滋央 天手千聖 夏樹陽子 緒形拳 魔裟斗 秋野太作 桃井かおり 松田優 須藤雅宏 力也 原田龍二 ERIKU 山口祥行 古井榮一 ジョー山中 松方弘樹 武蔵拳 田島好人 内山仁

2004/9/14/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
こりゃエライことになってしまった……。フラフラと劇場を出た後に口をついて出たのはそんな言葉だった。これは、エライことになった。まずは、何だか、判んない。よく判んないじゃなくて、ある意味徹底的に判んない。というより、どことなく思考回路が拒絶反応示してる。でも、即否定できない。拒絶反応起こしつつ、もの凄く共鳴している気さえする。これは、エライことになった!!!
信じてきたもの、いや、信じさせられてきたものを、自分でもそうじゃないことを深層意識下で判っていたことを掘り起こされて、一度でそれを納得するなんて……時間が足りなすぎる。
武知脚本、三池監督のコンビの作品は、二度観ることが多い。続けざまに。一度じゃ私みたいな小さな器にはあふれかえっちゃって、受け止めきれないのだ。押し流されてしまう。あまりの濁流。それが悔しくてすぐにもう一度足を運ぶ。今度は何とか細い枝に必死に捕まって流されずにいられる。だけど、あふれかえるのを受け止めきれないのは同じ……。

でも、二度目に観た時には、一度目に難解だと思ったことが不思議なほどにそう思わなかった。難解だと思ったのは、“言葉”だった。それこそ、以蔵が言う、「ありもしないもの」だったのかもしれない。
それが、二度目には押し流された。以蔵がはむかう敵たちが口にする、もっともらしい、難解な言葉が、ただただ通り過ぎていった。まるで力なく。その言葉は、以蔵が持つ果てしない憎しみの前では、あまりにも「ありもしないもの」なのだ。
以蔵、彼は憎しみそのもの。強すぎる憎悪が彼の死後も怨念となって残り続ける。時空を越える。それを次元の支配者たちは“位相を乱す”と表現する。以蔵はボロボロの落ち武者みたいな格好で、時代を飛び続ける。支配者たちの差し向けた、彼の憎む“詐欺師”たちを斬りまくる。驚くべき奇想天外な画。高速道路でトラックがすり抜けながら、新撰組の隊士と斬り合い、町人たちが穏やかに暮らす町にSWATが現われ、新宿歌舞伎町でちょうちん持った同心たちに追いかけられ、すげ笠かぶった博徒の後には、ヤンキーたちが金属バット持って待ち構えている、だなんて!す、凄すぎる。そう、次元を超えるとか、位相を乱すとか、そういう観念的なSF志向っていうのは判るのよ、確かに。でもそれをここまで躊躇なく、徹底的に、刺激的な画で圧倒するって、本当に、本当に凄すぎる!

そういう意味で、やはり、三池監督は凄いんだ。彼は脚本を書かない。だから演出に徹底するんだ、とは脚本家の武知氏の言。それをまさに、理解した。この作品は真に観念的だし、かなり宗教的だし、そして一般的共感という妥協をまるで考えていない、危険な純粋さに貫かれている。そういう脚本を何の迷いもなく演出できてしまうのが、三池監督の凄まじさなんだ。だから、こんな、奇跡が生まれてしまうんだ。
そう、脚本を書かない監督だから、何でも撮っちゃう監督だから、そりゃ個人的にピンと来ない作品だってあった。でも映画っていうのは相性だから。ここで相性が合わなくても、でも次を観ずにはいられない、きっと衝撃が待っているから、っていう、そういう監督で……一時期、NAKA雅MURA氏の脚本とのコラボが最高だと思ってたけど、この武知脚本とのコンビはまさに奇跡。
でも、一体、この映画は、本当に、何なの!

いろんな、映像が、意味ありげに、挿入されるのだ。それは、人間の歴史を語るもの。ヒットラー、戦争でむごたらしく傷つく兵士、プロレス興行、米兵さん、グラマラスな女性たち、エトセトラエトセトラ……数え切れないほど、沢山の、アトランダムな、別に偏ってもいない歴史のモノクロ映像。
そもそもが、精子の顕微鏡映像から始まった。ちょっと悪ノリ気味に、精子の構造説明までしてみせた。そして胎児の映像の瞬間的な挿入は、悪夢のようなフラッシュバックを思わせ、何だか、どこか薄ら寒い悪寒を感じさせたんだ。
一体、以蔵はどこから来たの。憎しみだけでその身体を満杯にさせて。
一応、冒頭で、その始まりは明らかにされる。「人斬り以蔵」と恐れられ、磔にされ、処刑された稀代の殺人鬼。でもそれは、彼が従う支配者への忠義だったのだ。
そういう、彼の去来は最初から明らかにされてはいるんだけれど、彼が一人の確定された人間とはどうしても思えないのだ。
彼は容赦なく斬りまくる。次々と現われる敵を。

最初のうち、彼には明確な意志がある。支配者たちへのハッキリとした憎悪。それは彼のボス、武市半平太が自分を死に追いやったから。でも、彼の怨念が時空を飛び、その時空の支配者である貴族院が次々と送り込む様々な敵をただただ斬っていくうちに、彼の意志はだんだん薄れてくるように思えて仕方ないのだ。
敵は、支配者が送り込んでいる。だから、敵は支配者そのもの。だから、斬るのは当然。
道理は、かなっている。だけど、どこか、ねじれている。実際に相対する敵は、実際の、支配者ではないから。
彼は母親をも斬る。でもその時、胴体からまっぷたつになった(!)母親に、いや、斬ってしまう前から、うろたえまくる。そして、子供は斬れない。その母親たちは斬れるのに。意外とマトモな神経……とか思いながら、しかし彼が斬らなかった子供たちも、いずれは彼の憎む欺瞞に満ちた大人になるのだ。
これは、かなり、危険な描写。
しかし、あざといぐらいに描いてくる。授業中の子供たち。先生に指されてすらすらと答えを言う子供たちは……民主主義や愛や国家といった“言葉”を幻想だと言って斬って捨てる。
それは、以蔵が憎む、“ありもしないもの”と同じ意見だとは言える。なのに。
なのに、何でこんなに薄ら寒いの。
以蔵は子供がこういうことを言うとは思わなかったからこの時、斬らなかったんじゃないの。なのに。

以蔵は、どんどん斬っていく。刀での成敗、半分時代劇の様相を呈していながらも、むごたらしく、生々しい、殺戮。血なまぐさい。最初こそ支配者への憎悪という意志があったはずの以蔵がどんどん、変わってゆく。
何のために殺しているのか判らなくなる、そんな感じ、なのだ。途中、人類の母なる女に出会ってまぐわったりもする。マトモな現代人に見えながらも歯をむく鬼を斬ったりもする。血にぬれた彼の形相はどんどん“人”からかけはなれてゆく。
憎悪が、そのまま人の輪郭をなしている。以蔵……。

以蔵の魂のかたわれ、だと言って現われる女がいる。桃井かおりが演じる。彼女、ベストと言っていいんじゃないだろうか、今回のこれ。桃井かおりが素直にカワイイというのはそれだけで収穫モノだと思うんだけど、ふっと笑わせる部分もあったりして……いかにも時代劇のカッコの彼女が、現代のオフィスにまぎれこんでさりげなーくパソコンのキーボード打ったり、電話をとったりするのがさ(笑)。まあそれはちょっとしたスパイスに過ぎないんだけど……とにかく、ずっとずっと、時代を超えて、位相を超えて、運命の赤い糸の相手である以蔵が、こんな風に憎しみの魂でさまようようになっちゃって、彼女は、どこからともなく、ついてきたんだ。運命の相手なのに、あなたと出会えなかった、そう言って……過去の女を「陰戸が臭い」と言って(ひっどー)地獄に突き落とし、母親をも斬り殺した以蔵が、なぜか、なぜかこの女を排除できなかった。傷ついた以蔵を優しく包み込む母性。
ああ、そうだ、確かに母性だったんだ。彼女は……。

あのね、いきなりラストに話が飛んじゃうんだけど、神様に吹き飛ばされてDNAのメビウスの中をさまよった以蔵を、彼女=サヤは産むのだ。以蔵はきっとようやく、いわゆる、“成仏”出来たんだろう。精子の群れの中のメビウスの輪にさまよいこんで、本能的に、自分の果てしない憎悪の輪廻だと思ったのか……それを断ち切って、そして、彼女からもう一度、産まれる。愛する男を産み落とす。たった一人の運命の相手を子宮に宿し、この世に送り出す。これは、女の、究極の愛の夢、じゃないか。母親が息子を溺愛するのは、こんな子宮の記憶があるからなのかもしれない、なんて思う。
果てしない憎悪が、憎悪なんだと自身で認識することさえ出来なくなって、記号としての憎悪で人を殺しまくる以蔵が、現代の、いや……いつの時代からか判らないくらい昔から連綿と続いてきた不条理な何か、一言でいってしまえば争い、を、実に皮肉に象徴しているんじゃないかって、気がしたんだ。憎悪を憎悪として感じているうちは、人間らしいと言えるのかもしれない。でもいつしか憎悪は単純化され、ルーティン化され、何をどう憎んでいるのか判らずに、どこか義務的に“憎んで”、そして……すべての哀しみが、起こる気がするんだ。

もう一度、彼女から産まれた、彼。彼女はマリア的に孕み(官能的に開いた股に光が差し込むシーンの強烈なエロティックさと神聖さが、スゴイ!)、そして産み落とした。彼女は問うた。

「ねえ、あなた。どんな風に生きて、何を見たの?」

人間が、進化するとしたら、前世に、どんな風に生きて、何を見て、そして……喜びよりも人生に残ってしまう憎悪を乗り越えたからこそ、記憶はなくても、それがあの精子の氾濫の中に宿るDNAの中に刻まれたからこそ、進化できるんだって思う。
このラストシーンは三池監督自身のオリジナル。脚本家、武知氏は、それを面白がった。多分彼には書けないことだと思うから、だろう。
三池監督は、ああ見えて結構、ポジティブな思考の持ち主なんだ。
脚本を書く人なら、案外すっごい明るい、照らし渡すような物語を作っちゃうかもしれない。

以蔵は、“位相の絶対者”やんごとなきお方である、“殿下”に、“ふっ”と、実にかすかに吹き飛ばされて(というか、本当にただ息を吹きかけられて)転落してゆく……本当の、異界へと。
あの時の以蔵、もはやこの時点では人といえず、サヤの愛の言葉さえ届かない一人の“鬼”になってしまっていたのに、あの時だけは、なぜか、焦がれるような目をしてた。
以蔵は不死身である。どんなに矢で射抜かれても、刃に刺し貫かれても、死なない。毎回死んでしまうほどの、痛さ、苦痛、なのに、死ねない、死ぬほど、痛くて苦しいのに、死ねない。ふてぶてしいのは外見から見えるだけで、彼自身が恐怖だと見えるそれは……すべての人に不死身のバケモノだと思われ続けることは……とてつもない、孤独、ではないのか。
こんなシーンが強烈に印象に残っている。それまでの血なまぐさい殺戮シーンがウソのように思えるような、一面の、柔らかく吹き渡る緑の中の、色鮮やかなコスモス。
そのコスモスの中を呆然と泳いでゆく以蔵。そして、コスモスたちは笑いながらひそやかに囁きあうのだ。
「問い掛けたら、答えてくれると思っているなんて。私たちみたいに楽しく咲いているだけにすればいいのに」

問い掛けたら、答えてくれると、人間ならそりゃ思う。でも、それは人間だけが思う傲慢で、それが満たされない時人間は孤独になり、そして答えてくれない誰かを、憎むのか。
思えば、彼がそんな、絶望的な孤独に苛まれる前兆があったあたりから、サヤが現われたのだ。彼女は彼の孤独をギリギリで救っていたのかもしれない。
でも、でも……以蔵が求めていた本当のものは何だったのだろう。
彼は支配者によって死に追いやられて、だから支配者をこの上なく憎み、憎悪そのもののカオスになりながら、それなのに、究極の支配者を追い求めていたのではなかったか。
彼は、矛盾、理不尽、不条理に反発した。だけど、死ねない彼こそが、その体現者なのに。
どんなに死ぬほどの苦しみを負っても、それは自分であり、他人を斬ることであり……でも、死ねない。永久の苦しみを彼一人が背負う。
あの時、十字にはりつけられ、槍に突かれた以蔵はまさしくキリストの様相だった。沢山の人々を容赦なく斬り殺した罪人のはずなのに。モジャモジャの髪とひげ面、半裸の姿、……この世のすべての罪を背負って死にゆく、磔のキリスト。
だけど、以蔵はそこで憎悪に満ち満ち、憎悪のまま次元を駆け巡り、そして戻ってきて、元凶である半平太を替わりに磔にした。そして……神の元へゆく。
神、究極の支配者へと向かう。
こんな風に……現代の行き詰まりと同時に恒久的な宗教観を全く無理なく同時進行させるのが、凄すぎる。

“殿下”はまさに、神である。貴族院の鼻持ちならない男たちに、頭をたれて迎えられる人物。演じる松田龍平の、この世のものとは思えない、その言葉が大げさではないぐらいの……まさに異形の美しさに圧倒される。この世のものとは思えない、まがまがしい美しさ。ねじれた、美しさ。この人は、凄いよ。お父さんにはない、100パーセントない凄さがある。神そのものと思わせるような青年の年頃の役者、なんて、一体他に誰がいるっていうの。
そう、この松田龍平だから、実に説得力があるのだ。このやんごとなきお方に、触れたい思いがあるのか、フラフラになって振り回す腕は“殿下”にかすりもしない。“殿下”の従者に以蔵は矢やら小刀やらでさし貫かれる。なのに、彼は不死身だから……そう、こんなことでも死なないのに、この殿下のひと吹き“ふっ”で、まっさかさま。
“殿下”を求めるかのように、まるで恋焦がれるような、熱っぽい、追い求める目をしていた、以蔵……支配者を憎みながら、“民主主義”のウソッパチを糾弾しながら、何を、求めてたの。
“悪しき”民主主義のアキレス腱が、ここにあるのかもしれない。
多数の意見に、個が押しつぶされる民主主義。そして、国家も、確かに幻想かもしれない。
でも、美しい誰かに、手を引いてもらいたいと、弱い人間は、思ってしまうんだ、きっと。
きっと……。

主人公、以蔵を演じる中山一也が、え?一体何者!?という凄まじさ。ごめんなさい。今までもいろんな映画で見てたはずの彼、でも全然把握してなかった。そして今回の主役大抜擢。竹内力を少し甘めに、ペシミスティックにしたような感じの彼、かなり過去がヤバすぎるんだけど……それだけの重みを十二分に感じさせて、演じて……凄かった。
でも、実はそんな凄さをまで食ってしまうのが、折々のシーンに現われてギターをかき鳴らし、しわがれ声でシャウトする、友川かずき、なのである。
彼もまた、え!?誰!?なんだけど……全然こんな人、知らなかった。ビックリした。イトウタキオかと思った(笑)。悲しみの秋田訛りで、人間の悲哀や憎悪をみなぎらせ、ナイフの切っ先のようなギターをギリギリとかき鳴らすこのオジサンが、本当に、本当に、凄いのだ。
その東北訛りの歌が、何だか寺山修司の映画を思わせたりして……そう、寺山修司を極限まで暴力的にしたような。観念的、刺激的という点ではテラヤマと不思議と似ている気がするこの作品世界。
食いまくる。素晴らしすぎる。彼だけは、そりゃ以蔵も斬れない。
いや、というより、そういう存在じゃないんだな、彼は。以蔵の行く先々に現われて、コップ酒を呑みながら、ギターを哀しく爪弾き、暴力的にかき鳴らし、時には彼一人のドアップでフルコーラス歌わせたり。そして、その秋田訛りで以蔵に「てんちゅううッ!」と号令を出す。
凄い!!

ベネツィアでの上映はかなりの途中退席者が出て、あまり芳しくなかったみたいだけど……そりゃあ、これ、そういう場所でスタオベ受けるような映画ではないだろう、確かに。でもでも、捨て置ける三流の映画であるはずもない。
いわば斬られまくるだけ、に、唖然とするほど大勢の豪華なスター勢を揃えたのも、そうでなければこれだけの強い確信に満ちた世界を支えきれないから。
それをバッサバッサとさばききる三池監督の豪腕。だってだって、例えばさ、今やすっかりホノボノタレントになってしまったボブ・サップを、ここまでキレ味素晴らしく使える監督はほかにはいないんじゃないの。
芸術の中で、映画だけが、受け手(観客)のことを気にしすぎるくらい気にしてる。いわゆる、マーケティングというやつ。それを、この映画は打ち破った。このスター総出演は確かにマーケティングだけれど、それさえはるかに凌駕するほど、作品自体が打ち破ってる。
ピカソのファンと、ルノワールのファンが分かれるように、もっともっと、映画のあり方は作り手の自由であるべきなんだ。
そもそも、観客のためにだけ作っている映画を、観客が観たいと思っているわけではないから。★★★★★


犬と歩けば チロリとタムラ
2004年 105分 日本 カラー
監督:篠崎誠 脚本:七里圭
撮影:米田実 音楽:長嶌寛幸
出演:田中直樹 りょう チロリ ピース 藤田陽子 天光眞弓 芹川藍 桜むつ子 青木富夫 嶋田久作 矢沢心 渡辺哲 洞口依子 寺島進 はなわ スネオヘアー  吉村由美 片桐仁 唯野未歩子 大木トオル

2004/5/10/月 劇場(銀座シネパトス)
犬と人間っていうのは、確かに不思議な運命で結ばれているのかもしれない。猫好きの私も、それは思う。ここに出てくる犬たちは実際に活躍しているセラピードッグたちで、いわゆるタレント犬とはまた違った、クレバーで慎ましやかなチャームに満ちている。ボケ気味のおじいちゃんや、ひきこもりの女の子が、表情を取り戻していくのが説得力があるのは、実際のセラピードッグだからに違いない。

かなり生真面目なテーマ、である。セラピードッグのことを居酒屋に集まった人たちで偶然ぽく説明するくだりなんてちょっとムリがあるというか、そのあたりからして何となく文化映画的で、正直息がつまる部分もある。ま、半分は文化映画でもあると思えばそれもまた大して気にはならないんだけど。それこそ生真面目そうな篠崎監督に似合っているテーマ。

それにセラピードッグという存在は初めて知った。人間に捨てられた犬たちが中心になって訓練を行い、お年寄りや心の病を抱えた人たちの癒しの存在になっているということも無論、知らなかった。捨てられた犬たちはそのことによって深い傷を負っている。だから訓練にもとても時間がかかる。ならばなぜ捨てられた犬たちを使うのか……それはこの作品を観れば判る。だからこそ彼らは、癒されることが必要な人たちと、共感を持って深く心を通わせることが出来るのだ。
ここに出てくる犬たちは、人間が大好きで、信頼していたからこそ、捨てられた時の心の傷が大きかった。立ち直るには時間がかかるものの、その基があるから優れたセラピードッグにもなれる。

主人公のセラピードッグ、タムラ(もちろん、この犬こそが主人公だろう)が捨てられるところから話は始まる。捨てる女性は矢沢心。ものすごく短い登場場面ではあるけれど、彼女の、ごめんね、と言いたげな哀しい表情は、よんどころない事情があってやむなくそうした、という気持ちがよく出ている。矢沢心、なかなか上手いんである。
でもこういうところ、篠崎監督の良心というか、優しさが出ているな、と思う。実際にはもっと無責任に捨ててしまう人たちの方が多いんじゃないかと思うのに(というのも偏見だけど)。
そしてこの捨て犬と出会うのが岡村靖幸(って、何でこの名前なのよ!)。彼は一緒に住んでいた恋人の美和が、末期ガンの母と引きこもりの妹の世話をするために故郷に帰ってしまったため、宿無しになってしまう。靖幸がエサをあげたことによってタムラ(と彼が名付けた)はどこまでも彼を追いかけていき、かくて捨てられた男と捨てられた犬は共にあてどなくフラフラ歩くばかりである。

靖幸を演じるのは、田中直樹。彼はこういうコミカルな哀しさがハマる。「みんなのいえ」の時にはそれがよりコミカルな方に傾いていて、今回はシリアスな方に傾いている。でも基本は一緒。基本が一緒というキャラが役者としての彼の強みだと思う。
彼が宿無しになるいきさつは、いくらなんでももうちょっと何とかなったろうと思いそうなもんなんだけど、そんな彼のキャラだから何となく納得してしまうのよね。彼の情けないけど心優しいたたずまいは、セラピードッグの訓練所の先生に住み込みでタムラを訓練してみないかと言われるのも、自然な流れに思えてしまう。それだって結構ムリがあると思うんだけどね。
それに彼は、犬とのツーショットの画がイイのだ。つまり、彼はどこか犬みたい。彼がエサをあげただけでどこまでもタムラがついていったのも、彼に対して同じ匂いを感じたせいなんじゃないかなー、などと思ってしまうようなクスリとさせる部分が、あるのだ。

一方、美和を演じるりょうはもう、シリアス一辺倒でかなりの痛々しさである。そりゃそうだ、この設定でコミカルさが入り込む余地はない。死の縁にいる母親もそうだけど、なんといっても彼女を悩ますのは引きこもりの妹である。まったくとりつくしまのないこの妹の気持ちが理解できなくて、疲弊しきってしまう。
しかしドア一枚隔ててこの妹と泣きながら話をした時、何かの糸口がつかめた気がする……。
と、この妹の描写は、この映画の一エピソードに過ぎないから割かれる時間も短いんだけど、かなり的確に描写されていると思う。少なくとも「釣りバカ」のそれよりはね!(私もこの話よくする……しつこいやね)
「私だって、外に出たいんだよ。友達とか作りたいんだよ」その心の叫びにはそんなシンプルな台詞が選ばれていて、そんなことがいかに大変なことかというのがひしひしと伝わってくる。でも“そんなこと”だからこそ、タムラがこの家に来ただけで彼女を割とアッサリ外に連れ出すことが出来るのだ。
いや、実際タムラのあのたたずまいには、だれだって糸がつながっているかのように、ついつい引き寄せられてしまうに違いない。タムラにはそんな才能が確かに備わっているのだ。

セラピードッグとしてタムラを、そして訓練士として自身を訓練している靖幸は、セラピードッグを必要としているお年寄りたちに多く出会う。その中のひとりのおじいちゃんがとてもタムラを気に入ってくれる。しかし後日、彼の娘さん(だよね?)が訪ねてきて、おじいちゃんは亡くなってしまったことを告げる。
おじいちゃんはタムラの絵を描いて、タムラさんは今度いつ来るかねえ、と楽しみにしていた。その絵を手渡され、じっと沈み込んでしまう靖幸。
先生はそんな靖幸に、「関わっていた人が亡くなることは、何度経験しても慣れない」と声をかける。そして「君を見ているとチロリ(この訓練所のリーダードッグ)と出会った頃の私を思い出すよ」と。
このおじいちゃんの描いたタムラの絵が、ぎこちないながらも優しさに満ちていて、何だかホロリときてしまうんである。ボケがすすんで表情が上手く作れなくなっていたおじいちゃんが、タムラを何度も何度もなでていたおじいちゃんが描いたんだと思うと……言いようもなく、心に来てしまう。
このおじいちゃんを演じた青木富夫は、篠崎監督の作品に連投だったけれど、これが遺作となってしまった。

話を戻すと……タムラが美和の家に来たのは、セラピードッグとしてタムラを訓練していた靖幸が、彼女の役に立つんじゃないかと思い、妹婿に車で送ってもらって、はるばる訪ねて来たからである。……実は靖幸はとうの昔に美和にフラレているんである。でもキレイに傷つかずに別れようとした美和のその真意に彼は気づいておらず、この場面で決定的にフラれることになる。彼の、そんな気持ちの押しつけがずっとずっと重荷だったと彼女はぶちまけるのだ。
それを聞いていた妹婿がたまらず口を挟む。自分の事情を押しつけているのはあなたも同じじゃないかと。義兄さんがどんな気持ちでここまで来たと思っているのか、と。
確かに自分の事情、自分の気持ちを押しつけあうのが人間なんだろうと思う。それがお互い優しさに思えている時には上手くいくけれど……いや、確かに優しさのはずなんだけれど。
タムラは最終的にこの一家に多大な功績をもたらし、美和は靖幸に深く感謝することになるのだけれど、実はこれも諸刃の剣で、犬嫌いの一家だったら美和は「だからあの人は……」とまたしても怒り心頭に思うところだろう。
でもこうしてお互いによき理解者となっても、二人の仲が戻ることはない……。それがちょっと切ない。

しっかしこの妹婿を演じるラーメンズの片桐仁はじっつにイイ味、である。オフビートなオタク味で、ドライなのに義兄さんの情に共感するあたりがカワイイ。ガマガエルみたいなシュールな装飾が施された携帯電話はそのためにやけにデッカクて、もはや携帯するにはジャマそう(笑)。彫刻家として活躍する片桐氏自身の作品が劇中に多く登場しているんだという……この携帯もそうなのかな。
もうひとり、イイ脇役はやはり唯野未歩子。訓練士仲間である彼女は、靖幸を控えめに心配し、控えめにサポートする。ああ、相変わらずこの人はほっそりとしたボーイッシュな風貌なのにも関わらず、この控えめなカワイさがいいんだよなあ。

最後は、タムラの命名の元となった、ぼけーっとした小学生時代の友達に靖幸が再会するシーンである。学校の先生をやっているというその田村君に靖幸は、似合わねー、なんだそのジャージ!(えんじと茶の間みたいな、スゴイ色なの)とかからかっていると、あの唯野未歩子ちゃんがね、お兄ちゃん、と呼びかけるのだ。何とビックリ、この田村君の妹だったのだ。
幕切れは、靖幸が田村とタムラに双方を紹介するところで終わる。コミカルでさわやかな、いい幕切れ。

それにしてもやはりスゴイのはこの訓練所の先生の大木トオルである。キャラ全開の彼が、実際に日本でのセラピードッグの推進者であるとはオドロキ。怪しげな宗教家みたいなのに(ゴメン!)……でもついつい耳を傾けてしまうあたりは確かに宗教家と共通しているのかも、なあんて。
エンディングの歌まで歌っちゃう!と思ったら、あ、もともとそっち(ブルースシンガー)が本業だったんですか。失礼しました!★★★☆☆


いま、会いにゆきます
2004年 119分 日本 カラー
監督:藤原健一 脚本:藤原健一 江面貴亮
撮影:鍋島淳裕 音楽:遠藤浩二
出演:竹内結子 中村獅童 武井証 平岡祐太 大塚ちひろ 中村嘉葎雄 市川実日子 YOU 松尾スズキ 小日向文世

2004/11/11/木 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
いやあ……実はこの日はハシゴで、「父と暮らせば」であまりに涙を振り絞りまくってしまったもんだから、この映画に対峙する時は、ちょっと冷静になってしまった。うーん、これは、別々の日に観ればよかったと少し後悔。こういうこともあるから、普段はあまりハシゴをしないように気をつけているんだけれど……。作品が違えば、感動や出る涙の種類は全然違うのに、立て続けに観ると(特に一本目が良かった場合)余韻が残っちゃって、なかなか頭の切り替えが上手く行かないんだもの。
きっと、これだけを単独で観てたら、本当にボロ泣き出来てたんだろうなと……号泣大好きの私は少々残念に思ったりする。

それでも、充分に泣いてましたけどね。ええ、そりゃもう、涙腺のネジがすっかり弱くなってるから。だって、竹内結子嬢の泣きのテンションは相変わらず、上手いんだもん。いきなりその場面を言っちゃうけど、あの、夫と息子をよろしくと彼女扮する澪が市川実日子嬢扮する永瀬さんに言った場面、ね。冷静にいようとつとめていたのに、突然感情があふれ出てしまって、「あの人が他の人を愛するなんて、イヤ」と本音が出てしまったあの場面。当然もらい泣きしながらも、そうか……なんぞとも思ってしまったりする。
頭のどこかで冷静なせいなのか、ここで描かれる“愛の形”というものを、観ながらも色々と考えちゃって。
多分、もっともっと年若い頃ならば、この“純愛”にもろ手をあげて大賛成し、ああ、こんな愛があったならば。こんな風に愛し合う夫婦になりたいとか、ストレートに思ったかもしれない。

今だって思わないわけじゃないんだけど……でも私は、相手が先立ってしまった場合、割と、再婚推進派だからさ(おそらく「めぞん一刻」あたりの影響だな)。女性が先立ってしまった場合は特にそう。男性が一人でいるのって、女性が一人でいるよりも、キビしいと思う。
もちろん、彼、巧は彼女の思い出と、彼女が残していってくれたいっぱいの愛、そして頼れる息子によって幸せに生きてきたんだろうけれど、そういうのは次に愛する、信頼する別の奥さんを持っていても、両立できることだと思うんだもの……それこそ、彼を心配して、多分愛していたであろう永瀬さんなら、その役が出来たんじゃないかな。
澪だって多分そう思ったからこそ、永瀬さんに“引継ぎ”を頼みにいったんじゃないかと思ったり。でも、永瀬さん、彼が奥さんのことをずーーっと、愛しているのを知っているし、その奥さんが一度死んだのに蘇ってきてまで、彼が他の人を愛することを思って泣いちゃうから「大丈夫です。巧さん、私を女として愛することなんてない。あなた以外の人を愛することなんてないですよ」と言ってあげるのだけれど……それは永瀬さんも可哀想だし、同時にある意味、やっぱり巧も可哀想だと思っちゃうのは、いや、“純愛”に異議を唱えるつもりはないんだけれど……。
息子の佑司に、自分がいなくなった後も困らないように家事を教え込んでいくあたりも、“他の女性”を排除しているような気がして……なんて。でもそれは勿論、この永瀬さんの言葉があったからなんだけどさ。

この時の澪は、20歳だった。28歳で死んでしまった彼女だけれど、20歳の時、交通事故で意識が飛んでいる間、彼女は時空を越えて、未来の夫と息子に会った。その時に全てを知ったのだ。その時点で29歳になっているはずの自分はいない。もう死んでしまっているのだ。そして夫と息子に会った自分は全ての記憶を失っていた。雨の季節、あの交通事故にあった格好のまま、森の中にぼんやりと座り込んでいるところを二人に発見される。
「澪?本当に澪なの?」
そう、声をかける巧をぼんやりと見上げながら……。
という、ある意味謎解きは、謎解きだから、映画の最後になって明かされる。澪が何もかも知っていたこと。自分が死んでしまうことも、その一年後、雨の季節に雨の季節の間だけ戻ってくることも。その20歳の時、巧と澪は危機的状況にあった。巧が心身の異常を覚えたこの頃……人ごみの中にいられず、普段の生活も今ひとつスムーズに運べない。そんな自分にすっかり自信を失い、彼女にはふさわしくないと思い込み、彼女を遠ざけた巧……まだ、たった一回のデートしかしていないのに。だけれど、膨大な手紙の山が、二人の愛を育んでいた。
ある日、彼女は決然と彼の元にやってくる。彼の弱気を打ち砕くように、圧倒的な自信で。……でもどこか、その自信を自分に言い聞かせるように。
「だって、僕は君にふさわしくないから」
「そんなことない。ばかね。私とあなたは大丈夫なの。」

彼女は、他の人を選んだらこんなに若くして死ななかったかもしれない、という可能性を振り払って彼の元に行った。それでも彼と一緒にいたいと思ったから。彼を愛しているから。
多分、ここんところが、“純愛”なんだろうと思う。
でも……つまりは、自分が先立って、彼が一人になってしまうことは、判ってたんだよね。
君を幸せにしてあげられなかったと泣く巧に、「ばかね。私はあなたと一緒にいるだけで幸せだったの。」と言う彼女、彼の方だってそうだったにちがいないし……ということはつまり、ここから先、彼女は彼にそうしてあげられないわけで。
途中で死んでしまう奥さんじゃなかったら、一生彼のそばにいて、彼を愛してくれたかもしれない。
いやいや、いくらなんでもここまで言うのはちょっとイジワルにすぎるな。だって、彼との間にもうける愛する一人息子、佑司の存在があるわけだし、……その子供は彼と一緒にならなければこの世に生まれない、言ってしまえば巧以上に誰にも替えがたい存在なのだもの。

いや、勿論、巧だって勿論、たった一人の、誰にも替えがたい存在なのよ!でもやっぱり、自ら孕む女性は、こういう母性本能というのはあるような気がして。
それもこれも全部、彼女が事故の時見た、言ってしまえばただの夢である。その夢をここまで信じられた根拠だって、つまりはないのだ。もしかしたら、本当にただの夢だったのかもしれないのに。
でも、それこそ、自分が死んで、彼と子供をおいていってしまうことを、ただの夢だったらと彼女は願ったのかもしれない、と思う。
もしかしたら、二人とずっと一緒にいられるかもしれないと、一縷の望みもどこかで抱いていたんじゃないだろうかと思う……。

雨の季節に戻ってきて、雨の季節が終わると去ってゆく……まさに、涙雨、である。
大好きなママが帰ってくるように、そして帰ってきたらどうか少しでも長くいてもらえるようにと、けなげな息子、佑司君が作るさかさのてるてる坊主。その数はだんだんと増えてゆく。
それにしても巧と佑司のまわりにいる人間たちは、いい人ばっかり。だから余計に涙を誘うんだとも思う……。巧に、この病気とゆっくり付き合っていけばいいんだと穏やかな笑顔で言ってくれた主治医、巧の仕事をサポートしてくれる同僚の永瀬さん、さかさのてるてる坊主を「カワイイじゃん」、ママが帰ってきたことをナイショだという佑司に「いいな。ヒミツがあるって、素敵なことだよ」と言ってくれたりする担任の先生、そして12年分のバースデーケーキの予約配送を全うしてくれたケーキ屋さん……。
みんな、優しくて、涙が出るほどイイ人ばっかりだ。ちょっとイジワルな見方になっちゃうぐらい、期待を裏切る人がだあれも、いない。

そうそう、あのケナゲでカワイイ佑司君が、どうしてもママが帰ってきたヒミツを誰かに話したくって、仲良しの女の子だけにそっと耳打ちするんだけど、私はこの時ちょっと、ヒヤッとしちゃったのだ。だって……子供ってそんな秘密を守れないじゃない、きっと誰かにこの話がもれてしまう、って。
でも、それこそ、私は子供を見くびっていたのだ。反省します……そうだ、子供って、ちゃんとけなげに、約束、守るんだ。この女の子、大好きな佑司君の大事なヒミツを口外なんて、しなかった。雨の季節が終わった証拠の雲の切れ間をいち早く見つけたこの女の子、「ゆうじくん!」と叫んで窓の外を指差す。そして佑司君の早退を先生にうながしてくれるんだ。
この女の子の存在は実に、良かった。

そう、最後は謎解きの雰囲気、なのだよね。巧は、自分だけの片思いだって思ってた。高校時代、ずっと隣の席だった澪。眼鏡をかけた優等生タイプ。恋愛に興味がないように見えた彼女。そんなところも好きだった。
でも、隣の席だったのはクラス委員(だっけ?)の彼女が意図的にそうしたのだし、旅行の写真に彼が写っているものを選んだりする行為は、彼とまんま同じだったし、蘇ってきた澪と同じく、くつひもがほどけているのを指摘して、自転車を倒してしまう巧に思わずクスリと笑って恋が始まったのだ。巧が打ち込んでいた陸上も、彼女はそばでずっと見守っていた。そう、ずっとずっと、二人は両思いだったのだ。
その全てが彼女のしたためた日記に記されていた。それは息子、佑司とともに埋めたタイムカプセルに入れられていた。あの時、20歳の彼女が見た夢に、この時タイムカプセルが掘り出されることまで、入っていただろうか。……なんて思っちゃうのは、この事実が明かされるのは、巧がもっとずっと、年をとってからでも良かったような気がしたから。
だって、蘇った澪がいなくなった直後じゃ、本当に縛られちゃうじゃん……(うー、私もしつこい。この考えから抜けられない)。
もちろん、ここが号泣ポイントだということは判っているんだけれど、それこそ謎解きを、そうだったのかー、みたいな雰囲気で見ちゃった自分にどーにも嫌気がさしちゃう。

でもね、二人の前に再び現れた澪が、全ての記憶を失っていて、でもそれでもやっぱり澪だから、巧を愛するようになるし、佑司を愛するようになる、というのこそが、良かったんだよね。
彼女は、彼にもう一度恋した。そして、彼もまた……。
でもこの時がはじまりでもあった。だって多分、彼と結ばれたのはこの20歳の時の澪が、初めてだったんだよね?「ちょっと怖いけど」と言っていた澪だもの。
運命の輪、輪廻、などということを思ったりもする。

竹内結子、すっごくキレイ。彼女はイヤミのない美しさ、なんだよね。愛くるしい美しさというか。これまでの中で、最も美しいんじゃないだろうか……今まではどちらかといえば可愛さ、の方が先にたっていたけれど、やはりミセスの役だからかな。雨の季節に現れ出る彼女の、水を黒髪にしっとりと含んだ美しさ。
一方の夫役、中村獅童、彼はやっぱりなんだかヘンな顔だよね(笑)。今までトンだ役ばっかりだったからあまり気にならなかったけど、こうして普通の男の役をやってると、判っちゃう。キレイな竹内結子の隣だから、余計判っちゃう。でも竹内結子も、高校生の頃の回想からいくと、一応はイケてなかった女の子、という設定らしいんだけど……でもあのメガネに膝丈セーラーの女の子はソソるのよー。竹内結子の過去があーいう感じ、というのはちょっと、イイよねっ。★★★☆☆


イン・アメリカ 三つの小さな願いごと/IN AMERICA
2002年 106分 アイルランド=イギリス カラー
監督:ジム・シェリダン 脚本:ジム・シェリダン/ナオミ・シェリダン/カーステン・シェリダン
撮影:デクラン・クイン 音楽:ギャヴィン・フライデー/モウリス・シーザー
出演:サマンサ・モートン/パディ・コンシダイン/ジャイモン・フンスー/サラ・ボルジャー/エマ・ボルジャー/キアラン・クローニン

2004/1/15/木 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
雪に包まれたニューヨークが、一番暖かく美しく見えた。都会の喧騒、ブルジョワな人たちの移民への冷たい視線、そしてこの猥雑なアパート……そんなニューヨークの、大都会の寒々しさの中で、一番暖かく美しく見えるのが、この雪景色だなんて。一面純白の世界は全てのものを覆ってくれる。浄化してくれる。その中で子犬のように転がりまくって遊ぶ少女たち。雪の白につややかな褐色の肌を持つマテオが彼女たちと同じ子供のように戯れる。ひと時の幸福。彼が大きな息をついて座り込むまでは……。
都会の中だから、こんなに沢山の人がいる中だから、余計に命の愛しさ美しさを感じるのかもしれない。余命いくばくもないマテオがこの都会の雑踏の中に身を潜めて、最後の命の輝きをカンヴァスに描き殴りたいと思った気持ちが、少し、判る気がした。
ただ一人、肌の色の違うマテオが、この物語の扇の要のようである。脇役だし、話の主筋とも違うんだけれども、彼のまるで神のような慈悲のまなざしが、全てを見守っている、見通していると感じるのだ。

一家は、アイルランドからやってきた。まるで逃げるようにして。カナダを経由し、観光だとウソをついて、夢の国、アメリカはニューヨークにやってきた。父親のジョニーは役者を目指して。このニューヨークでなら、かないそうな気がする夢。
でも、違うのだ、本当は。彼らは逃げられない過去から逃げてきた。小さな、可哀想なフランキー。階段から落ちて、脳腫瘍になって死んでしまった愛する息子。その記憶がどこまでも追いかけてくる。苦しむ両親を、二人の愛らしい姉妹は無邪気にふるまうように見せかけながら、じっと見守っていた。
そう、この娘たちは全てを判っていたのだ。両親は、自分たちだけが哀しんでいると思っていた。そして、娘たちのためにも、その哀しむ姿を見せまいとしてきた。それが親としてのつとめなのだと。でもそれは親の、大人の傲慢だったのだ。
死んだフランキーの悲しみにとらわれ、そして“残された子供たちのために”とそれを気取られないようにしていること、その両方が、残された二人の娘に向けられる愛情を少なくしている。 子供を亡くした悲しみは親にしか判らないと思い込んでいる。
親が思うより、子供はずっとずっと大人なのだ。いや、あるいは両親が子供に気持ちを向ける余裕がなくなって、子供は大人にならざるを得なくなった。

そう、娘たちもまた、哀しんでいた。彼女たちにとってもたった一人の弟だったフランキー。哀しむ気持ちは同じだった。子供であったって。いや、子供だからこそ、死という大きな悲しみと恐怖に大人以上にさらされていたともいえるのだ。
でも、彼女たちは、お父さんとお母さんが哀しんでいるのが判るから、じっと、だまって、明るい娘に徹していた。
と、いうことは、クライマックスになるまで判らない。結局は私たちもまた、バカな大人だから。そのことが、長女のクリスティの口から語られる時、本当にハッとなるのだ。ああ、大人って、なんて子供なんだろう、そして、子供って、なんて大人なんだろうと、矛盾するようなことを。
それに、やっぱり女の子は大人になるのが早い。いや、早いどころか、最初からきちんと大人だとさえいえる。長女のクリスティはもちろんだけれど、妹のアリエルも、そんな風に頑張っているお姉ちゃんをちゃんと見てあげている。そのことにも気づいて、もう、もう、バカな大人たちは涙が止まらなくなってしまうのだ。

と、いうところまでいくにはまだまだ時間がある。大人は過去の傷をじくじくと広げ続けている。
父親のオーディションはことごとく落ちるし、エアコンのない部屋はうだるように暑いし、アパートの住人や近隣の人々は皆が皆アヤシイ人たちばっかりである。
繰り返し思い出してしまう息子のフランキーのこと。妻のサラは、階段から落ちたフランキーを自分が抱きとめられなかったことを悔やみ、私を責めているんでしょ、と夫のジョニーに言う。夫は否定するけれど、どこか目は泳いでいる。
一時気持ちが高まって愛し合うけれども、夫の目に亡きフランキーを見てしまうサラは、体をこわばらせてしまう。
皮肉なことに、その時彼女は新しい赤ちゃんをその身に宿したのだ。
しかし、状態が良くなく、あきらめるように医者に言われても、頑として産もうとする彼女は、明らかにその新しい赤ちゃんをフランキーに見立てているのだ。

娘たちは、本当にいい子。まず第一に両親のこと、両親が仲良くすることを考えてる。「パパとママが遊んでいる」間になじみの店に先に行ったりするようなおませな気配りまで出来ている。両親が頑張って入れてくれたカトリックの学校で、手作りのハロウィンの衣装がブルジョワな子供たちの中で浮いてしまって恥ずかしい思いをしたりもして、これって子供にとっては本当にキツいことだろうと思うのだけれど、めげない。この格好でアパート中を“トリック・オア・トリート”で回って、ただ一人開けてくれたのがマテオとの出会いだった。

ドアには“入るな!”の文字。時々獣のような雄たけびが聞こえるこのマテオは、住人の中でも最も謎の人物だったのだけれど、姉妹を部屋に招きいれ、フランキーの話を聞いたとたんボロボロと涙を落とす彼にふいをつかれる。そしてマテオは姉妹にぎっしりつまった貯金箱をくれる。彼にどこか優しいものを感じたサラは食事に招待し、彼の言葉に癒される。
ジョニーはしかしマテオを気味悪がり、サラがマテオを気に入っていることでさらに気分を害し、「妻に恋しているんだろ」とカラむのだけれど、マテオから返ってきた返事は「君を愛しているんだ」!?「子供たちを、奥さんを、命あるもの全てを愛している」な、なんだ、びっくりした……。そう、つまり、マテオは不治の病に冒されているのだ。そうして、命をいっぱい持っているクリスティとアリエルの小さな姉妹に出会い、小さいうちに消えてしまったフランキーの話を聞いた。マテオの胸に去来したものの大きさ、深さは想像に難くない。
この家族の、悲しさを心に隠しながら、必死にお互いを慈しみあおうとしている姿に、マテオは心をうたれたのだ。
新しい赤ちゃんはフランキーの生まれ変わりではなく、マテオの生まれ変わり、あるいは、マテオが命を注いだと言えるのだ、きっと。だって……。

サラの赤ちゃんは何とか生まれた。しかし危険な状態で、しかもサラも錯乱状態。まず、フランキーのことを口にする。そばにつくジョニーに、なぜあんな越えられるような柵を作ったの、と責める。階段から落ちたフランキーを抱きとめられなかったことを自ら責めていたはずが……そして赤ちゃんが死んだら私も死ぬ、と叫ぶ。
自分が責められていると感じることで、フランキーの死の責任をとろう、始末をつけよう、と思う一方で、それでは自分をとてもとても支えきれずに、心の奥底で相手を責める要素を隠し持っている。それはサラもジョニーも同じで、お互いが同じ思いでいたことに、ずっとずっと気付かないでいたということが、それこそが、悲劇だったのだ。夫婦なのだから、愛し合って結ばれた夫婦なのだから、全てをさらけ出すべきだったのに。子供はその愛の結晶なのに、その子供が死んでしまったことで、そんな悲しいすれ違いが生まれてしまった。
でも、新しい赤ちゃんは、女の子。フランキーの生まれ変わりなどでは、ないのだ。
そして、その赤ちゃんを助けることが出来たのは、父親のジョニーでも、母親のサラでもなく、お姉ちゃんのクリスティだった。
輸血が必要だというこの赤ちゃんの血液型に合致するのが、クリスティだけだったのだ。落ち着いた表情で合意するクリスティ。
いい子だ、と彼女の頭に手をやろうとするジョニーに彼女はそれを避けて言う。子供扱いしないで、と。
その後の、その後のクリスティの台詞ときたら!!!

「フランキーが死んだ後、私が一家を支えてきたのよ。私だって、悲しかった。たった一人の弟が死んだのだもの。毎晩、毎晩、お祈りしながら泣いていたのよ」
一筋、ひかえめな涙を流しながらそう言うクリスティ、そしてそのそばで、その通りだと、毎晩私はそれを見ていたから、とうなづく小さなアリエル。
もう、もう!もう!!もう!!!なんて、なんっていい子たちなの!!!!
子供って、そして女の子って、本当に、奇跡だ。本当に、そう思う。

クリスティのおかげで、赤ちゃんは助かった。いや、クリスティのおかげだけじゃない。やっぱりマテオもまた、命を与えてくれたのだ。赤ちゃんが無事元気な泣き声をあげた一方で、マテオは永遠の静かな眠りについた……。
出産費用が払えずにいたジョニーに、マテオが全額払った事実が告げられる。ちょっとよくある話っぽいけど、やっぱり、泣ける。そして、赤ちゃんには、(女の子だから)ミドルネームにマテオの名がつけられた。
ここまででも、充分に感動的な話なんだけど、もうひとつ、もう号泣のシークエンスがある。
さよならを言わずに逝ってしまったマテオに、ちょっと沈んでいる妹のアリエル。彼女が大好きな「E.T.」のクライマックスシーンのように、満月にマテオが手を振っているよ、とジョニーがアリエルに促す。ほら、手を振って、さよならしなくちゃね、と。
そのジョニーに、パパに、クリスティは大人びた顔でこう言うのだ。「パパも、フランキーにさよならをして」
思わずクリスティをまじまじと見つめ、じっと真剣な表情で見つめ返すクリスティに、みるみる涙がたまるジョニー。彼は、フランキーが死んだ時、あれほど神様に祈ったのに息子を救ってくれなかったことを恨んで、それ以来涙を流すことを自らに禁じていた。そのジョニーが、“禁断の”涙を流したのだ。
クリスティって、子供って、女の子って、本当に、凄い。
ジョニーと一緒に手放しで涙を流しながら、思う。
ジョニーは妻のサラをベランダに呼び、静かに抱き寄せ、二人で満月を眺める。娘から、ちゃんと前を向いて生きて、と言われたのだ。進むべき道は、他にないだろう。

クリスティがずっと大事にしているビデオカメラには、死に際のフランキーが、優しい微笑をたたえた弟が映っている。
この映像を、お姉ちゃんのクリスティはやっと、消すことが出来る。もう、それは忘れようと努力していた悲しみの記憶ではなく、いつだって呼び出せる、幸せな記憶に変わったから。

シェリダン監督自身の経験に基づいたこの物語、監督もまた、この映画を作ることによって乗り越えられたのかな、なんて思う。
ベリーショートがめちゃくちゃセクシー&キュートなサマンサ・モートンに、とっぽい感じがぐっとくるパディ・コンシダインのサラ&ジョニーの夫婦、命そのものを思わせるマテオ役のジャイモン・フンスーは勿論のことながら、このクリスティ&アリエルの姉妹、サラ&エマ・ボルジャー姉妹の何とファンタスティックなこと!こんなに可愛くて感動的なんて、ルール違反だよ!!★★★★☆


飲尿白書
2003年 13分 日本 カラー
監督:本間由人 脚本:本間由人
撮影:山岸周作 音楽:
出演:小舟統久 金田藍 蛭田正継

2004/10/15/金 下北沢短編映画館トリウッド
男の子が女の子にヒミツにしていること。それがバレたら嫌われるかもしれない。うん、ここまでは恋愛映画の王道である。ヒミツの内容よりも、ヒミツにされていたことを女の子が怒るっていうのも、実に王道である。しかあし!問題はそのヒミツが、“飲尿健康法”だとしたら、どーだ!思いつくかッ!そんなこと!

素晴らしい。この着眼点が素晴らしい。だって、それだけで王道がオンリーワンのオリジナリティになってしまうんだもん。しかもこの男の子のメガネがダサい。それはメガネの訪問販売をやっている幼なじみのえっちゃんからずっと買っているんだという。やけに沢山持っている。専用空気ポンプで丁寧にみがく。しかも5万円である。嬉しそうに「5万円!」と言うのである。……おかしいだろ。

このえっちゃん、というのがこの彼の哀しいヒミツを彼女にバラしてしまうのだが、この日観た本間作品全てに出ている(しかも本作以外は主役である)本間作品のジャン・ピエール・レオとでも言うべき蛭田正嗣である。この彼のアヤしさ加減が実にいい。ヘラヘラバラしたえっちゃんに怒った男の子はその場でコップに放尿し、えっちゃんに飲ませてしまうんである。くくく。

何でヒミツにしてたの、と彼女は責める。「だって、君、おしっこ嫌いだろ」!!!彼女が返す言葉同様、そーゆう問題じゃないだろッ!ああ、脱力する……好きだわあ、こういうトコ。そして、彼女はショックを受けて、家を出て行ってしまう。いや、正確に言うとヒミツにされていたことにショックを受けて。……エラいなあ。このヒミツだと、やっぱヒミツ自体にそーとーショックだと思うぞ私は……。しかも凄いことに朝まで川ッぺりで悩み続けているんである。君はエラい。
可笑しいのは、彼女を対岸に見つけた男の子が、小屋に偶然立てかけてあったショボいビニールボートを漕いで彼女の元に向かうことなんである。なんで、なんでここにボートがあるんだ、しかも、なんでそれに乗って行こうとするんだ!橋を渡れよ、橋を!

「ごめん!飲尿のこと黙ってたこと!」「聞こえないよ!」「いんにょうのこと!」……頼むからさあ……川の真ん中で、飲尿、飲尿って叫ばないでくれる。しかも、女の子が悩んでたことが自分に対する気持ちからだと判って、愛の言葉までをも大声で……あーもう、ハズカシイ!それにしても、エライよ、彼女。何がえらいって、数日後、のクレジットの後に、彼女も小さなコップで飲尿にトライ!「あ、私意外と飲めるかも」と二人顔を見合わせてニッコリ。……愛だねえ。
バカバカしさが、普遍なるラブストーリーになってしまう。ああっ、目からぼとぼとウロコ!★★★☆☆


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