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「み」


2004年鑑賞作品

三沢左吾平
1944年 74分 日本 モノクロ
監督:石田民三 脚本:三村伸太郎
撮影:友成達雄 音楽:栗原重一
出演:榎本健一 高峰秀子 黒川弥太郎 伊藤智子 横山運平 志村喬 清川荘司 尾上栄三郎


2004/3/4/木 東京国立近代美術館フィルムセンター
エノケン二本目鑑賞、である。ああもう、だって「エノケンの近藤勇」で惚れまくっちゃったんだもん!しかしここでのエノケンは、先のエノケンとはかなり印象が違う。“戦争末期の作品だけに比較的シリアス”との解説どおり、「喜劇王エノケン」なのに飛んだりはねたりして笑わせる彼はここではほとんど見られないのだ。その代わり、エノケンがいち役者としても一流だったことが垣間見られて、それはそれでオトクな感じ。エノケン演じる三沢左吾平は身の丈三尺三寸のチンチクリン。身長と同じ長さの長い刀を差してずるずる引きずって歩く、(後にその刀に車つけて歩く!)という、まるでエノケンに当て書きしたようなキャラクターなんだけれど、これは実在の人物なのね。そういえばこの刀に車つけてズルズルっていうの、もっと後年の映画で見たような気もするし……。お母さんとつつましく二人暮しの左吾平は、足軽の身から何とか出世を図って親孝行をしたいと考えている。彼はお人よしで頼まれたらイヤとは言えない性格で、そしてウラなんか読めやしない単純、純粋な男なのだ。そして伊達藩一の豪脚の持ち主で、三日で江戸につけるのが自慢。そんな左吾平の性格と能力が伊達藩のお家騒動に巻き込まれる原因となる。双方の大立者に見込まれた左吾平はホント、大変な目にあってしまうのだ。

えーっと、フクザツな人物関係にどうも弱い私は、この両陣営の人物入り乱れた駆け引きでかなり頭がごっちゃになるバカぶりなのだけど、左吾平が身分が違いながら“虫が好いて”お互い尊敬しあう伝兵衛さんとのエピソードはかなりぐっとくるものがある。伝兵衛さんはこのお家騒動をおさめるため、自らを散らす覚悟で向かう時、形見だといって左吾平に自分の印籠を残してゆく。左吾平はそのことを聞かれるままに敵陣営の手下に喋っちまって、そのことで伝兵衛さんが切腹したのだと後に聞かされるのだ。

……でもそれは左吾平のせいだったのか、だってもともと伝兵衛さんはもう自分は死ぬつもりでいたんだろうから。その時左吾平はお殿様へのお目通りが叶うはずだというので、ヒラメをお江戸に運ぶ大仕事を終えたばかりだった。ヒラメが途中で死んでしまって左吾平は意気消沈、三日でつくはずが大分遅れてしまったのだけれど、それをお殿様にとがめられることもなく、返ってねぎらいの言葉をかけられてすっかり有頂天になっていた。しかし実はヒラメと一緒に大事な手紙も託されていて、遅れてしまったためにそれも役に立たず、お家騒動はますます事態の悪化を招いたというのである。自分の出世のことばかり考えているあさましいヤツ、と叱咤され左吾平は大ショックを受ける。自分のせいでお世話になった人が死んでしまった。サムライとしての自分は何なのか……苦悩する左吾平。

ヒラメが死んでしまったことに気づく時、すっごく狼狽する顔を見せるエノケンに、オヤこの人はなかなか名演技をするじゃん、などと実に失礼なことを思ったんだけど(でもヒラメを三日間あの状態で生かすのは……難しいだろ)、そんなのは序の口で、幼いお殿様にねぎらわれる場面や、自分のせいで人が死んでしまったこと、自分ばかりが有頂天になっていたことに直面する場面などで見せる、抜群の表情にすっごく胸をつかれるんだなあ。そのおっきな目を見開いて、太い眉をふるふるいわせて、それでいて実に繊細な気持ちの揺れを見せてくれる。
ううううう、エノケン、上手いしカワイイッ!あー、やっぱりかわいいの、この人は。ときめいちゃう、もう。このチンチクリンのキャラが似合ってて、似合ってて。あの刀ズルズルにキュンときちゃうし。女性にオクテでまともに目も合わせられないというのもこの人だからわざとらしくなく可愛すぎるんだもん。

それにしても、このお殿様への執着というのは、“戦争末期”という時代柄も反映しているんだろうなあ、かなりせっぱつまったものがある。“お殿様じきじきにお手内を願いたい。そのお刀のさびになれたらどんなに光栄か”と自分の不始末を恥じて言うエノケン左吾平の表情は切羽詰ってて素晴らしいものではあるんだけれど、この感覚って、というかこういう風に言わせる時代の空気ってやっぱりあるよなあ、と思う。しかもその“お殿様”っていうのはまだ10になるかならないかっていう本当に幼いお上なんだもの。お上、神、なんだろうな彼にとって。そしてこの時代にとっての天皇を髣髴とさせずに入られない。この幼いお殿様、幼いながらも本当に天上の人という典雅な趣で、左吾平が平身低頭するのも判るぐらいオーラが漂っている。

かげながらひっそりと咲くような、そうあの伝兵衛さんのような家来の鏡になりたいと、左吾平は決心する。敵の陣営の策略にはまって左吾平はあわや殺されそうになるんだけれど、ひょんなことからその毒を作った医者を、彼を消そうとする追っ手から救い、動かぬ証拠を握るのだ。そして今度こそ、とお江戸までの三日をひた走る。もう早回しで、すたこらさーッと駆け抜けていくエノケン左吾平を、思いっきり引きのカメラで捕らえるそのユーモラスさ。勿論左吾平を阻む追っ手は何度となく彼の前に立ちはだかるのだけれど、それをシャラシャラン、とばかりに刀と共にくるくると回ると、まるでダンスのように追っ手達は倒れるという。これはこの引きのカメラのせいもあるし、エノケンの華麗でキュートな舞いのせいもあるし、全然、血なまぐさくなくって、可愛くて、本当にスラップスティックの面白さ。曲がりくねった山道をちょこまかたたーっと駆け抜けていくエノケンがもー、愛しくって。
間一髪、エノケン左吾平が事実を握ってはせ参じ、流血の対決は免れた。その書面を目にし、それで顔を覆って男泣きに泣く味方さん(ごめん、名前忘れた)は左吾平に何度もお礼を言う。ただただ頭を下げ続ける左吾平。うッ、何かちょっともらい泣きしそうないい場面。

ラストはすこうしだけエノケンのお家芸が見られる。桜満開の花吹雪の中、長い刀を持ったエノケン左吾平を中心にして、お殿様の前での舞が披露される。うーん、エノケンの素晴らしい立ち回り!そして左吾平は再度お殿様にお目通りが叶い、なんでも望むものをとらすとのお言葉をもらうんである。しかり左吾平は一生足軽でいたいと言い、ただひとつ欲したのは、お殿様の食べ残しの金平糖。ありがたいものだぞ、と子供たちに分け与えるその列に、しっかり者でおきゃんな左吾平のカノジョ、妙ちゃんも並んでいる。友人が自分の妹を左吾平に押し付けた形のその妙ちゃんはしかしとってもいい子。左吾平もテレながら二人ビミョウに距離を置きつつ目配せしあうのがとっても微笑ましいのね。

ラストシーン、はらはらと風に花びらを散らす満開の桜。いやー、穏やかなハッピーエンド!★★★☆☆


ミスティック・リバーMYSTIC RIVER
2003年 138分 アメリカ カラー
監督:クリント・イーストウッド 脚本:ブライアン・ヘルゲランド
撮影:トム・スターン 音楽:クリント・イーストウッド
出演:ショーン・ペン/ティム・ロビンス/ケビン・ベーコン/ローレンス・フィッシュバーン/マーシャ・ゲイ・ハーデン/ローラ・リニー/トーマス・ギーリー/エミー・ロッサム

2004/1/30/金 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
疲れている時に、救いのない映画は観るもんじゃない……と心底、思った。ただでさえ希薄なエネルギーを吸い取られてすっかりグッタリとなってしまうから。映画からは元気なパワーをもらいたいのに。
しかし、そう思わせるだけ、このイーストウッド監督の力は凄いのだ。やっぱり、凄い。この人は。これだけの救いようのない話をクールな視線で、タイトに、まるでブレずに作り上げてしまうのが。確かにエネルギーを吸い取られるはずだ。

原作モノ、なんだ。それにもちょっと、驚いた。原作があるものを、これだけ自分の方に引き寄せる力わざもまた尋常じゃない。
この物語は最後のオチ(という言い方もちょっとアレだけど)に驚かされる部分が大きいこともあって、原作ありきということはそのオチを知っている人も多いはず。ということは、そのオチには逆に頼れない。その他の、というか、作品そのものの力で引っ張っていかなければ、なあんだ、という結果に終わってしまう。
まるで作品のカラーは違うけれども、あの「リング」が成功したのも同じ理由だと思う。あれも謎解きとオチが最重要な物語だったけれど、そのオチに頼ることなく、最初から最後までとにかくきっちり物語を世界でおおって観客を連れて行ってくれた。そして本作もその点では原作モノを映画化する成功パターンをきっちりと踏んでいるのだ。
今回のアメリカの賞レースで賞を取りまくりのこの作品は、助演男優賞のライヴァルである渡辺謙氏を抑えてティム・ロビンスが持ってっちゃうわけだけど、確かにこれはしょうがない。演技のレヴェルは負けてないと思う。ただそれ以前に作品の持つパワーが圧倒的に違いすぎるのだもの。これは、もう、しょうがない。

三人の少年の忌まわしい過去と、25年後の再会のきっかけになる忌まわしい事件。そしてあまりにも悲惨なラスト。
あの日、一人の少年だけが連れ去られた。警官のフリをした男二人に。そして、四日間の監禁。何がそこで起こったのかは、誰もが想像できた。そしてあの日以来、少年の日は終わりを告げた。
そして25年後、彼らが再会したのは、その三人のうちの一人、ジミーの最愛の娘が殺害された事件でだった。あの日連れ去られたデイブはその容疑者の一人として、そしてもう一人はその事件の捜査をする刑事として、三人は運命の再会を果たした。果たしてしまった。

確かにあの日、デイブが連れ去られなければ、こんな結末は迎えなかったはずなのだ。三人は娘が殺されたジミーを友達として悼み、変わらぬ友情をあらたにしただろう。
あるいは、あのデイブの誘拐事件がなければ、三人は少年の友情を保ち続けて大人になっていたかもしれない。
結末は……デイブが容疑者として取調べを受けていたことを知ったジミーが、彼を犯人と思い込み、娘の仇をとるために、彼を、殺した。
だけれども、デイブは犯人じゃなかったのだ。そりゃそうだ。なぜ、友達の最愛の娘を殺す必要がある?
状況証拠は確かにデイブにとって不利だった。娘を殺されたジミーは平常心を失っていたし、裏の世界に生きてきた過去のある彼にとって、一人の人間を消すことなどそれほど躊躇することではなかったのだ。そしてあの夜の行動を、デイブはひた隠しに隠し続けた。全てが裏目に出てしまった。
もう一人の“少年”ショーンは、捜査する立場の刑事として、客観的な目を持ちながらも、デイブを殺してしまったジミーを、友達として見逃しにしてしまった。
これを救いのない話と言わずして、なんと言うのか。

復讐のために人を殺す。もちろんここではそれがネガとして描かれているわけだけれども、でもこれって……アメリカの根本的な部分として根強いものがあると思う。
復讐が即殺しで、それは正当、みたいな考えというか……それが戦争を正当化している大きな要因にも思える。ジミーは殺された娘、ケイティとつきあっているブレンダンの父親レイを裏切り者として昔、殺害した。でもそのレイは、確かにジミーを裏切ったけど、でも今回みたいに娘を殺したとかそんな切羽詰ったことじゃなかったのに。少なくとも、この事件ほどには殺すだけの理由とは、思えない。
レイを殺した後、ジミーはその家族にずっと仕送りを続けている。でもこれも何だかな、と思う。それってただの偽善者じゃないの、と。そのあたりも戦争後のアメリカっぽい気がして、イヤなのだ。

ケイティは、少なくともジミーが考えていたような、カワイイカワイイだけの娘じゃなかったということだ。
過去、自分がレイを殺したことで出来れば近づけたくないレイの息子とケイティが恋に落ちたのは、まさに運命のイタズラだろうが、その恋がジミーが考えていたよりもずっと本気で、二人は家出をしてラスベガスで結婚する約束をしていた。
その前夜、ケイティは銃弾に倒れる。それはブレンダンの口のきけない弟とその友達による犯行だった。
ここで見え隠れするホモセクシュアルの影は、無論デイブの過去とリンクさせるものではあるけれど、ものすごい否定モードでヤバイ気もする。
弟が兄に対して、あるいはこの友達との間にあったかもしれないホモセクシュアルの感覚は、でもそれは優しくて、そして弱いものだったんじゃないか。
ケイティを殺してしまったのは、偶然が重なって暴走してしまったゆえの悲劇だったのだ。勿論許されないことではあるのだけれど……父親が残していった拳銃がなければ、起きない事件でもあったのだ。

デイブがあの夜、血まみれで帰ってきたのは、最初彼が言っていたように、強盗に襲われたからではなかった。
最初はそう聞かされて本当にそう思っていたから、警察に尋問されるデイブがなぜそのことを言わないのかジリジリするばかりだった。その強盗を殺してしまったかもしれないにしても、友達の娘を殺した容疑者になるよりよっぽどマシじゃないかと当然、思ったから。
でも、そうではなかったのだ。デイブはあの夜、男が車に少年を引っ張り込んでナニしているのを見てしまった。その男を引きずり出し、少年を逃がし、正気をなくしたようにその男をいつまでもいつまでも殴り続けた。
デイブは本当に、あの夜の記憶を一時的になくしてしまったのかもしれない、とも思う。自分が逃げ込めるような記憶にすり替えてしまったのかもと。
それにしてもなぜ同じ夜に、二つの事件が起こってしまったのだろう。あんまりだ。

デイブは妻、セレステにも自分の過去を言えずにいた。だから、セレステはデイブの挙動不審にひどく不安になる。
本当は強盗の話はウソで、この人はケイティを殺してしまったのではないかと。
確かに強盗の話はウソだけれど、それにしてもダンナを信じられないなんて、哀しすぎる。
そりゃ、デイブが彼女に話せずにいたからなのだけれど、……そんな風に哀しい連鎖があの哀しい結末を掘り起こしてしまったのだ。
二度と思い出したくないトラウマが、デイブを凶行に向かわせた。
その二度と思い出したくないトラウマが、妻にも何も語らせずに彼女を不安にさせた。
その二度と思い出したくないトラウマは友達同士を疎遠にさせ、友達を信じられなくする遠因になってしまった。
すべてはあの日、あの誘拐事件が引き起こしたのだ。ジミーとショーンの二人は、もしあの時連れ去られたのが自分だったら、と述懐するけれども、もし他の二人が連れ去られていたとしても、何かが起こっていたように思えてならない。哀しい何かが。

当事者の二人にスポットが当てられがちだけれど、刑事のショーンも、印象的な人物。演じるケビン・ベーコンは、むしろ他の二人のテンパリ気味の演技よりも、滋味深さを印象付ける。彼にだけ、他の二人にはある暖かな家庭がない。妻は出ていき、時々彼女から無言電話がかかってくる。
彼一人だけ、少年時代住んでいた街から出て、大きな街に住んでいる。個人的な関わりを持っているのは、仕事上の相棒、ホワイティだけだ。
しかしこのホワイティはやり手なんだけどちょっと傲慢な人物というか……この悲劇の大きなきっかけを作ってしまった人物なのである。まあそれは後に置いておくとして。

職業といい暮らしといい、他の二人と比べていわゆる勝ち組でありながら、ショーンの孤独は深い。彼は妻からの無言電話を心待ちにしている。何も喋らない彼女に向かって近況を報告する。
描かれはしないけれど、多分それは今まで彼が彼女に対してやってこなかったことだろうことが想像できる。
こんな風に、言外の豊かな表現力で、彼ら三人の過去が、最小限のヒントを与えるだけでうまく観客の想像力を導かせているのも、この映画の大きな力だ。しかも25年もの長き過去が。それはこの実力ある演技者たちに全幅の信頼を寄せているということもあるのだろうけれど。昨今はちょっと煩わしいと思うぐらい、あるいは自信がないんじゃないのと思うぐらい説明過多の(ハリウッド)映画が多いから、余計にその余裕を強く感じる。

そのホワイティ。彼が最もお前なー、と感じてしまう。だって、だって、「30代で低収入で子供の頃に性的トラウマがある。これは絶対にムショに入る」だなんて自信タップリの決め付けが結局は完全なるマチガイで、それがデイブをジミーに殺させたのだから!!
ショーンは確かに友達への贔屓目があるという自覚があるから、この傲慢な相棒に今一歩強く出られない。でも、デイブがどんな人間かこのホワイティよりよく知っているのだから……。そうだ。ショーンが、そしてデイブが、ジミーが、あの少年の日を境に疎遠になってしまったことが、ショーンの及び腰を生んでしまったとも言えるのだ……やはり。ショーンは、デイブのことを、「友達じゃない」と言った。友達だったのは、あくまで子供の頃のことだと。そしてデイブも同じように言った。大学出のエリート刑事であるショーンといわゆる低所得者のデイブは明らかに違いがある。でも二人がそんな風に言ったのは、もう相手から友達だとは思われていないという引け目からではなかったのか。あるいはお互いの立場を悪くしないための“友情”だったのではないのか。

娘を殺されて意気消沈しているジミーの側に寄り添うことで、一時、デイブはジミーとの友情は、取り戻した。取り戻したかに見えた。
友達は何年経っても友達だと思っていたのに、そう思いたかったのに、この残酷な物語はそれをこんなに簡単にブチ壊してくれる。
いや、あるいは、デイブは殺されてしまったけれども、その死んだデイブも含めた三人の間には、友情は復活したのかもしれない。
でも、こんな風にしか復活しない友情なんて、イヤだ!!

ジミーの奥さん、アナベスもかなり複雑な人物。彼女にとってケイティは継子である。小さな頃から育てていたわけだから同様に子供として可愛いのはそうなんだけれど、ただダンナのジミーは、他のアナベスとの間の子供とは明らかに違う感情を持ってケイティに接しているのが判るから、彼女の複雑な心情は想像するにあまる。
だって、ケイティが殺されてからはなおさら、ケイティのみならずケイティの母親である亡き妻のことを強く思い出し、その愛をなぞっているわけで、それを横で見ているアナベスの心情は、さらに想像するにあまりあるのだ。
彼女が、誤った判断でデイブを殺してしまったダンナを冷静に迎えるシーンはちょっと、背筋がゾッとするものがあった。彼女は言う。あなたは王様だから、その行動はすべて正しいの、だなんて。自分のイトコのダンナを、しかもまるで見当違いに殺したというのに。

アナベスは、嫉妬していたのかもしれない。ジミーの愛がまず一番に注がれているケイティの母親と、二番目に注がれているケイティに。だって、そう数えたら、自分は三番目なのだから。
そして、実質上、今は生身の人間としては、彼女が一番に昇格したのだから。理解ある、愛情深い妻として。
うわ……何かホント、ゾッとする。

すべての発端だった、生乾きのコンクリートへのイタズラ書き。デイブの名前だけが途中までだった。
“一生残る”イタズラは、一生を決めてしまうイタズラだった。
運命って、確かにある、あるんだろう。どんなに未来は無限で光り輝いていると思っていても、子供の頃に全てが決定してしまっている運命が、確かに。★★★★☆


みなさん、さようならLES INVASIONS BARBARES
2003年 99分 カナダ=フランス カラー
監督:ドゥニ・アルカン 脚本:ドゥニ・アルカン
撮影:ギィ・デュフォ 音楽:ピエール・アヴィア
出演:レミ・ジラール/ステファン・ルソー/マリー=ジョゼ・クローズ/マリナ・ハンズ/ドロテ・ベリマン/ジョアンヌ=マリー・トランブレイ/ピエール・キュルジ/イヴ・ジャック/ルイーズ・ポルタル/ドミニック・ミシェル/ミツ・ジェリナ

2004/5/9/日 劇場(シネスイッチ銀座)
「たそがれ清兵衛」をおさえてアカデミー賞外国語映画賞を獲得した、人間の死の選択に関する映画である。
なーんて言うと、何だかやたらシリアスなような気がするのだけれど、これが意外にそうでもない。あけっぴろげだし、笑っちゃうし、感動もホロリ、っていう感じである。
でもそんな風に軽みにおさえているからこそ、何だかひどく身近に考えてしまうんである。
こんな風に、理想的な最期を迎えられる人なんて、限られているだろう。現状ではまず、病院のベッドの上での最期をなかなか避けられない。最後の最後の最後まで、もうムリだろってぐらいまで、虫の息まで命を引き伸ばされて、そんな疲弊したまま死んでしまったら、何だかちゃんと成仏しなさそう(ま、この作品はカナダだから成仏じゃあないけど)。

本作でその理想の最期を迎える愛すべき老人、レミは、友人や家族が集まったり、静かな湖畔をその場所に選んだりという以外に、もうすぐ来る死をただ待つのではなく、自ら迎えに行くことを選択する。徹底して受身ではなく、積極的に死を迎える。
それでもレミは死ぬのが怖い、と息子にもらす。あんなに豪快だった女たらしのジジイが、そう言うのだ。
確実に来る死の恐怖の境地は、本当に、誰にも、判らない。だってそれを迎えた人は、……死んでしまうのだもの。
だから、愛する人が死んでゆくとき、彼らはもうあらゆる想像力をフルに働かせる。そして幸せそうに最期を迎えた(ように見える)彼を見て、少しだけ、安心する。
死の選択の物語はもしかしたら、それを見守る人たちのそれの物語なのかもしれない。

それにしてもこのレミである。まあーったく、女たらしでガンコで、思いっきり享楽主義者。こんな死ぬ間際まで愛人をとっかえひっかえして、そりゃ息子のセバスチャンがこんな男にはなるまいと思うのもむべなるかな、である。
しかし困ったことに憎めない。病院のベッドにまで未練たらたらなエロエロ愛人が押しかけてきていても、何かもう、笑ってしまうんである。そりゃ奥さんはたまったもんじゃない。実際、別居中であり、レミの部屋には「パンティが落ちているかも」という怖さから、全く近寄らないぐらいである。
しかしこれまた困ったことに、奥さんはやっぱりこのレミを愛しているんである。彼女がレミの最期に耳元でささやく「最高の夫だった」という言葉が、その場限りの言葉ではないと確信できるように、物語は進行していく。だって、嫉妬してなきゃ、前述のような理由で部屋に行けないわけはないんだし、憎んでいたら「お父さんの思うとおりにしてあげて」と息子に頼んだりしないだろう。

レミが入院しているのは公立病院。廊下まで患者があふれて、満足な検査も出来やしない。
いやでも、下のフロアの病室はガラ空きなのである。セバスチャンが直接談判しに行くと、「政府の補助金が出なくなったから……」と理由をスラスラと暗誦する経営者でラチがあかない。しかもこの病院はヤクザまがいの男たちによる組合とやらで牛耳られていて、身動き取れやしない。しかしセバスチャンはイギリスでバリバリ働くスーパービジネスマンだから、あっさりカネで解決してしまう。
このセバスチャンのドライな行動力のスピードは凄い。父親を痛みで苦しませないよう、上質のヘロインを手に入れるために真っ先に警察におもむくという、トンでもない行動力の持ち主である。彼は父親を毛嫌いしているけれど、こういうしたたかなずぶとさは確かに父親譲り、なのよね。
実は女にモテる部分だって譲り受けていたりするんだけど……おっとっと、これは後述ね。

レミの最期に集まってくる古き良き友人たち。
男たちは悪友で、女たちはかつての愛人である。そしてこうして集まると、皆一様に古き良き友人たちなんである。
これは何だか……不思議な光景だ。
レミのナニをしゃぶったのよ、それは私も、なーんていう話をケラケラ笑いながらする中に奥さんもいて、最初は目を丸くしながらも、彼女もまた以前からの友人だったように笑いながら話しているんである。それはその場の話にあわせているんではなく、まさに同志として……共通の愛する人を失うという、同志として。ま、そのかつての愛人もまさしく“かつて”なわけだし、昔話をするだけに、シワクチャに年をとってるってことなんだけどね。
男にとってはこういう最期はまさに理想に違いない。愛する奥さんと子供たちと、男の友情を交わしたヤツどもと、かつて燃え上がった愛人たちとが和気あいあいと一同に会するなんて。本当は、本当はね、こんな図は、奥さんにしても愛人にしても冗談じゃない、って思うはずなのに、これが不思議と思わないのだ。

愛を、あるいは友情を独り占めしたがるのは、やはり若い証拠なのかもしれない。
こういう境地に至ることが出来たらいいなって思うのは、ここでは愛の共有がとても理想的な形でなされているから。
奥さんの立場としての愛。子供の立場としての愛。友達の立場としての愛。かつての愛人の立場としての愛。それはそれぞれに違っていて、対等とか愛の分量がどうとか、そういう問題ではないのだ。大切なのは、みんながレミを愛しているってこと。
最期に聞きたい言葉は、「愛している」という言葉。
なかなかそれを言えずにいたセバスチャンも、レミを抱きしめて、心から口にする。
極端なことを言えば、生きている間は一度も聞かなくったっていい。最期の最期、その一瞬に、誰か一人でもいいから、あるいはウソでもいいから「愛している」と言ってもらえたら……例えどんな寂しい人生を送っていたとしても、全てが帳消しになるんじゃないだろうか。

実際、こんな風に、自分の最期に集まってくれる友人がどれだけいるんだろう、なんて考えると暗澹とするものがあったりもする。
いやそれは、憎まれっ子云々……の要領で誰よりも長生きする気でいるというんじゃなくて(笑)。
レミの元に集まってくる知己たちは、セバスチャンに声をかけられたから来たんだけれども、声をかけられただけで来たとも言える。友達の死までの何日かを一緒に過ごそうとしてくれる友人って、本当に彼が愛されているってことでしょ。
やはり人間、どんな人生を送っても、その最期が重要なのだ。最期が悲惨だったら、彼にとっての人生は無意味なもの。終わりよければ全てよしとはよく言ったもんで。

レミに上質のヘロインを提供するのは、彼のかつての愛人の娘で、セバスチャンの幼なじみであるナタリーである。つまりは、彼女はジャンキー。
彼女自身が中毒でヘロヘロになって、レミが禁断症状に苦んでいるのに病院にくる約束をすっぽかしたりもするんだけど、間違いなくレミにとって最後のミューズである。
最後、ほんのちょっとだけ死を早めるために、ナタリーに致死量を注入してもらうレミ。出会えて良かった、とクシャクシャの顔になるナタリー。セバスチャンに手を握られながら、静かに息を引き取るレミ。

このナタリーは、セバスチャンにとってちょっとひっかかる相手なんである。
繰り返すけど、セバスチャンはレミのようにだけはなるまいと思っていた。だから堅実な婚約者を選び、結婚を間近に控えている。
しかし、この父親の一件でセバスチャンはひさしぶりにナタリーと再会し、父の死後、彼が生前使っていた部屋を提供する。その部屋を案内した時、ナタリーはセバスチャンにいきなり、キスをするのだ。
いきなり、だけれども、何だかそれは予期されたものではあった。驚きながらもそのキスに積極的に応えてしまうセバスチャン。しかしナタリーは唇を離したあとはグイとセバスチャンを押し戻し、……それ以上何も進展はしない。
しかしイギリスへと戻る飛行機の中、セバスチャンはフクザツしきりである。彼にもたれかかってくる婚約者にもうわの空で。

つまりはセバスチャンはやっぱりレミの息子であり、でもレミには遠く及ばない、まだまだ未熟者なんだということなのだ。
まずはね、セバスチャンはこの婚約者をキッチリ、愛さなければいけない。そうしないとスタートラインに立てない。そして愛人たちも同様に愛さなければいけない。あたた、これが女の言う台詞かよ(笑)。でも中途半端に結婚して中途半端に浮気することほどサイアクなことは、ないのよ。女にとってね。

自分の生きがいを見つけて、父親の死に際には駆けつけずに船上からビデオメールを送ってくる娘。そして、カナダでフランス語、が印象的だった。カナダ映画って括りだけでは収まらない、こうした部分も「たそがれ……」を抑えた強みかな、と思う。★★★☆☆


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