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ラスト サムライ/THE LAST SAMURAI
2003年 分 アメリカ=日本 カラー
監督:エドワード・ズウィック 脚本:エドワード・ズウィック/マーシャル・ハースコビッツ/ジョン・ローガン
撮影:ジョン・トール 音楽:ハンス・ジマー
出演:トム・クルーズ/渡辺謙/真田広之/小雪/ティモシー・スポール/ビリー・コノリー/トニー・ゴールドウィン/中村七之助/菅田俊/福本清三/原田眞人/小山田シン
これはパーフェクトに普遍的な、日本を描いた映画。武士道や、武士道でなくても人々の美しい生活を非常に純度の高い視点から描いた映画。日本映画の枠組みでそれをやることは出来ない、ということも無論あると思う。日本映画、という立場では、もうそれは前提にあることになっているから。その先に行かなければならないから。そりゃあ、日本人として、日本映画でこういうことはやりたいけれども、それを日本映画の立場でやってしまったら、やはりそれは手前味噌というか、ただの自己讃美になってしまう。やはりハリウッド映画であり、異文化との対照という立場で描くからこそ、出来る題材。その中で、日本人俳優は200パーセント自分の仕事をやり切った。
真田広之は、長い間日本の時代劇に出てきた経験を生かし、かなりアドバイザーに徹したのだという。そういう話を聞くと嬉しくなってしまう。くしくも同じ日本へのオマージュ映画である(これほど対照的なそれが同時に出てくるというのも珍しいけれど)「キル・ビル」で、彼のお師匠さんである千葉真一がやはり同じ立場にいたことを考えると、かなり感慨深いものがあるのだ。
日本を舞台にした時代劇、と言いつつ、そこには今まで見たことのない画があった。確かに私たちは見慣れている。時代劇に出てくる武士たちや、村人たち、商人たち、あるいはあの時代入り込んできた外国人たちでさえ、時代劇の中で折々見かける。だけれどやはりそれは、ちゃんとハリウッド映画の中でのそれなのだ。合戦シーンなども、そう。スローモーションの手法やクローズアップを多用したカッティングの合戦シーン、日本の時代劇ではなかなか見ることが出来ないし、いやもっと基本的な部分で、血なまぐささや砂ぼこりのほこりっぽさも、あまり見ることがない。武士だけではなく村人たちの生活も、その生活のリアルさ、というか生々しさは面白いことに日本の時代劇よりもより強く感じることが出来る。これは、本当に面白いと思う。日本の時代劇は、お約束というか、ひとつの作り事だという前提というか、そういう感覚が強くあり、色合いなども非常にキッチリとしているし、キメどころもストイックなまでに決まっている。あるいはそういうイメージが強く刷り込まれている。それをやろうと思っているわけではないのかもしれない時代劇においても、そこからなかなか抜け出せない。ほこりっぽい武士やくたくたに着倒した着物を着た村人たちを描けなくなっている。
本作の、その画を観た時、でも即座に思い出したのは「七人の侍」だった。あの黒澤映画には、そういうお約束時代劇のイメージから軽々と飛び越えたほこりっぽさや生々しさがちゃんとあった。ズウィック監督は「七人の侍」に衝撃を受け、これまでに25回も観たという。こういう画を作れるのもまさしく、不思議はないのだった。
最後のサムライとして描かれる、明治維新に命をかけて抵抗する勝元役である渡辺謙、そして彼に従う武士の一人であり、更にガチガチのサムライで剣術の達人である氏尾役の真田広之。二人は日本人俳優の中では割とハッキリとした、ハデな顔つきだと思うのだけれど、ハリウッド映画の中では、まさしくサムライそのものの、日本人そのものの顔になっているというのも興味深いと思う。
それにしても渡辺謙!彼は映画で見かけるたびに、こんな風に男くさくてカッコいい人なのに、結構出てくる役柄の意外さとハマリぶりに驚かされていたものだけれど、もうこれは、それこそズルイくらいに文句ない役。寺で般若心経を唱えるシーンがあるせいもあるけれど、動の激しさと対照的に置かれた静の美しさは、まさに諦念とストイックをまとった僧のたたずまいを強く感じさせる。武士道を描き、甲冑姿での激しい戦闘シーンがある一方で、サムライとしての彼をそういう面からも描いてくれることに嬉しさを感じる。
真田広之は、この人はもっと素敵なのにな、とちょっと思わなくもないけれど、でも冴え渡る剣術に没頭するその姿だけで、寡黙な彼のサムライ精神がきっちりと伝わるのはさすが。長年やってきただけのことはあるんだよな……と思う。違うもの、やはり。今度は真田広之をメインに、ハリウッドでサムライ映画作ってくれないかなー!?なんて思ったりして。
ま、主演はトム・クルーズなわけだけど……私は最近この人に関してはなーんとなく苦々しい思いがあるので……。でも、でもまあ、こういう映画を作ってくれたんだから、それもこんな素晴らしい理解力で作ってくれたんだから、もうそんな文句は言えないんだけどさ……でも、でもこのネイサン役はやっぱりちょっと、ちょーっと酔っている部分はある……って思う。それこそハリウッド式に。いや、トム・クルーズ式に?
ネイサンは、戦争で理不尽な殺しをしたことに傷ついている。無抵抗の、戦闘とはまるで関係のない村人たちを、敵だといって次々に殺してしまった過去。一体戦争とはなんなのか、戦うことの意味とはなんなのか、命とはなんなのか……。
まあ、ここまではいい。それも百歩譲って、という感じだけど。こういうことで苦悩する人物というのは本当はそれだけで、ちょっとケッという気もするけれど、それでもここまでだったらいいんだけど、その彼と対比する形で、しかもその苦悩の原因を100パーセント押し付ける形で冷酷非情な上司を持ってくるというのは、そりゃズルイってもんじゃない?
こういう部分、いかにもハリウッド的単純な判りやすさだと思い、それと、深遠な武士道が同時に描かれているというのは何となくちょっとな、という気がするのだけれど……。
しかし素晴らしいことには、武士道に関しては、日本人が理解する以上に非常に真摯に描いている。武士道とはこれこれこういうことだ、と言っていないところから、それが最も判る。それこそ、そんな風に説明できるものではないんだろうと思う。
日本人の中に何となく、本当に漠然とだけれど存在している、その武士道というものを、そう、こういうものなのだよね、とつぶさに見せられている感じ。そして、“漠然とだけれど存在している”ことに自分自身で気付いてちょっと驚くような感じ。
簡単なところで言えば、まげや刀に対する気持ちって、それこそ今の私たちでは判るわけもないんだけれども、それこそ時代劇のイメージの刷り込みもあるんだろうけれども、そこに秘められた精神性、託された命が、ああ、やっぱり日本人だから、判る判る、なんて思うのだ。
それをハリウッド映画で見せられてしまう悔しさもあるんだけれど……で、これをアメリカ人が見て、そうか、判ってくれるのかなあ、とか。
武士道とはちょっと違うのかもしれないけれども、最も印象に残った日本的な美しさに、縁、というものがあった。勝元は敵を知るために、と日本政府軍に雇われているアメリカ人軍人、ネイサンを捕虜にとるわけだけれど、彼に対して非常に親しく接する。そしてそれを疑問に思い、なぜ自分がここにいるのか、と問うネイサンに勝元は、私にも判らない、と答える。それは縁ではないか、と。
形としては、先述したように、ネイサンは敵を知るための捕虜、である。でも勝元はこの時点でそのことはまるで忘れ去っているように見える。既に人間が人間に出会ったことの、縁の不思議としてとらえている。二人の立場はまるで対等なのだ。縁なのだから。
勝元が妹のたかにネイサンを世話させるのも縁の不思議さ。たかにとってネイサンは夫を殺したにっくき敵である。それを知ったネイサンも、非常に衝撃を受ける。しかし気持ちを押し殺してネイサンの世話をするたか、そして無邪気に彼とたわむれる子供たち、そして村人たちの、生活を全うすることに全てを捧げる美しさに感銘を受ける。剣を習い、子供たちと遊び、日本語を学び、この“捕虜の生活”に安らぎを覚えてゆく。
これぞまさしく、縁、以外の何ものでもない。日本の最も美しい言葉、そして世界観の一つであるかもしれない。
廃刀令がしかれた明治維新の日本は、もはやサムライは過去の遺物である。政府軍側に安穏としている軍人たちは、勝元たちを蔑み、まげを斬ってしまったりと傍若無人なふるまいをする。
勝元は実力者であるし、若き明治天皇との面識も深いので、軍人たちもそうむげにはできないのだけれど、それでも、彼が命としている刀を冷笑を浮かべながら取り上げようとする。もうそんな野蛮な時代ではないのだと。
しかし、野蛮なのはどちらなのか。それはそのすぐ後の戦闘で判ることになる。
結果は、判っていた。かなうはずがない。近代式の、銃には。そりゃ作戦は効を奏した。少人数でも、プロの戦士である彼らと、銃を持たされただけの素人である政府軍側とは、最初のうちネイサンも含めた勝元側が見事な戦いぶりを示した。けれども、あの吐き気のするような連射式銃が、誇り高き最後のサムライたちを次々に撃ち抜いてゆく。
ここが、違うのだ。同じ、人を殺す道具でも、銃と刀じゃ、全然、違うのだ。
刀は自分の命だと、武士道の象徴のそれを、手放すことを断固として拒否した勝元。自分の力を渾身こめて預ける、まさに自分そのものの刀と、機械的に発射される銃は違うのだ。命を預けている、命そのものなのだもの。
廃刀令はだから、そういう根本的なところを理解していない令。もしかしたらここから日本人の心は失われていったのかもしれない……。
あの忌まわしき連射式銃は、まさしく今の戦争に対するアンチテーゼそのものである。
自分の力もこめずに、人を殺してゆく。人を見ないでも殺せる。その手にかけているという罪悪感や、自分の命もかけているという自負と自責はまるで、ない。
立派に死んでゆく最後のサムライ、勝元に、知らず知らず膝まづいて頭を垂れる政府軍側の彼らの気持ちが痛いほど判る。ここは、ここばかりは涙がこぼれる。勿論、目を真っ赤にして、ネイサンの手助けで死んでゆく勝元にも泣かされるのだけれど、何よりその勝元に、自らの中の武士道を目覚めさせられた敵側の描写が、痛いほどなのだ。だって、だって日本人なんだもん!本当は、助けを借りずに一人で死ぬことが、というか一人で死なせてあげたいと少し思ったりもしたけれど……。
この画というのは、ちょっと、というかかなり危ないとも思う……それこそ日本を誤解されかねない画じゃないかって。でも、だから、この画に日本としての誇りを感じさせてくれるのは、凄いと思う。そしてこの精神こそが、本当にアメリカ人や、世界中に判ってもらえたら本当に凄いと思うのだ。
たか役の小雪さんのメイク(苗字がないとついさんづけしちゃう)、特にアイメイクがキツすぎるのが、残念だったなあ。彼女はほやんとした雰囲気がいいのに。そんなに、目鼻立ちハッキリさせないとダメなのかなあ。そういえば、ハリウッド映画のハリウッド女優って、こういうアイメイクだよなとは思うんだけど、でも日本女性の美しさ、だからこそ彼女がキャスティングされたんじゃないのかなあ、ちょっと、惜しい。
それに、彼女演じるたかと、トム・クルーズ演じるネイサン、二人が気持ちを通じ合わせているのは判るけど、でもキスはやっぱりしないと思う。いくらあの程度のキスでも。それまで日本的奥ゆかしさを充分に表現していたから、あ、キスしちゃうの??なんて思って……考えすぎかなあ?
明治天皇役の中村七之助がピッタリで見とれた。高雅って、こういうことなのよね。これはやっぱり血筋かしらん。★★★☆☆
とか言いつつ、ストーリーにひとっつだけ、どーもよく判らないところが。もういきなり話の説明も何もナシにオチバレだけど、金(随風)は何の必要があって飛刀門側におびきよせられたのかなあ。という段に判るまでは、そう、金と同じく朝廷側の人間だと思っていた劉が、飛刀門の前頭目の娘が牡丹坊(娼婦館)の売れっ子の踊り子、小妹だと突き止め、金に彼女を逃がすフリをして飛刀門の拠点を追求しろっていうのは、なるほど、と納得出来たんだけど、劉が飛刀門側の人間だという事実が出てくると、え?じゃあ金をこそここにおびき出したというわけで、それって何で?とどうもよく判らないのね。金は朝廷側の人間とはいえそうそう重要ポストにいるとは思えないし(このことで手柄をあげようと思っていたぐらいだし)、彼を人質にしてどうこうという話も出てこないで、ただヒミツを知ったから殺せ、だし。金と小妹が逃避行を続けていた時再三襲ってきた敵は、確かに朝廷側の人間だったのかもしれないけど(私は飛刀門側の人間かと思った)、何たって敵は朝廷なんだから、これらの追っ手を皆殺しにするぐらいで朝廷の力が弱まるともとても思えないし……飛刀門の拠点がバレる可能性が高まるだけの話じゃないのかなあ?
まあ、この点については、頭のいい方がいずれ教えてくれるであろう。あ、これ、冒頭「アニタ・ムイに捧ぐ」ってなってて、私全然知らなかったもんだから、彼女が主演の一翼を担うはずだったんだね。彼女の死で、そのキャラそのものが削除されたんだという……ということは、主演の一人だったわけだから、つまりこのチャン・ツィイーと並ぶぐらいのキャラだったってことで、だからかな、このキャラを削除したことでひょっとしたら、多少なりとも物語にひずみが生じてしまったのかなあ、って。私の持ったストーリー上の疑問ももしかしたらアニタ・ムイの欠如によるところだったりして?なんて考えてしまうのね。
結果、たった一人のヒロインとなったチャン・ツィイーは妖艶な魅力をふりまきまくる。ホント、不思議なのよ。彼女は最初、可憐な美少女で出てきて、その顔立ちは今だって変わらずに可憐に小作りで、なのに、まさに妖艶な美女になってしまったのね。ちょっと、コン・リーを思い出したりする。いや、彼女とは全然違うんだけど、なんかこういう……決してハデなタイプの美女じゃないのに、男を(女もかも!)惑わす不思議な色香を持っているようなところ、コン・リーとよく似ているから。イーモウ監督、好きそうだよな……こういうタイプ。毒牙にかからなければいいんだけど!?
登場、チャン・ツィイーは盲目の踊り子として出てくる。本当は盲目じゃないんだけど。でもそれもちょっとバレバレな気もするな。だっていくら気配を察知するからって言ったって、木々が生い茂る林の中を、全速力で走るのはやっぱりちょっとムリがあると思うもん。まあ、それはのちのちのシーンだからおいといて。この牡丹坊のシーンはまさに目もくらむ美しさ。最初金城武扮する金が潜入するんだけど、きらびやかにさらさらと引きずる女たちの衣装の、そして女たちの美しいこと!彼女たちに囲まれてデレデレとする金城武はまんざら演技でもなさそうに思うぐらい。ああ、あの輪の中にうずもれたい!
そして登場するチャン・ツィイーは、その中でもひときわ、ぬきんでたオーラを持つ。小作りな顔に真っ赤な口紅をひいたはっとするような美しさ。そして、長い袖を自在に、そして優雅に躍らせる舞の素晴らしさ!
私、彼女ははバレエをやっていたのかしらんと思ったのだけれど(180度開脚で止めるポーズとかに、そう思ったの)、中国舞踊のプロフェッショナルなのだという。うう、やはり中国はスゴい。四千年の歴史!
アンディ・ラウ扮する劉が、この小妹と仲間なのだとこの時点で判っていれば、ここで対峙する二人のシーンはもっと面白く見られただろうな、と思う。ちょっと見返してみたい気もする。
しかしこのシーンはちょおっと、あまりにもCG過多、なのよね。もちろん確信犯的に使っているし、チャンの舞の素晴らしさが損なわれるなんていうことは無論、ないんだけど、劉が飛ばして太鼓に当てる木の実の動きのCGは、何かCMっぽいわざとらしさで、ここまでやられるとちょっと引いちゃう。やっぱり、いくら映画はフィクションであり、エンタテインメントであると判ってても、それを真っ向から否定されるような描写をされると、これはコメディじゃなくて男女の愛を描いた作品なんだし、ちょっと、ないよなあ、と思っちゃうんである。
しかし、アレだね。コメディ、で思い出したけど、やっぱり金城武はコメディ・リリーフがよく似合うね。ま、ここではそこまでコメディ色を打ち出しているというわけじゃないけど、アンディ・ラウと並んだら、やっぱりそういうオチャメさ加減は金城武に振られるもん。チャン扮する小妹は長い間アンディ・ラウ扮する劉と恋人同士だったわけだし、金城武扮する金も、飛刀門の拠点を探り当てるという使命のために小妹を逃がす演技をしているわけだし、つまりはお互い、相手を陥れているんだと、敵なんだと、最初から判っている筈なんだけど、でもそれでも恋に落ちてしまうのは、やあっぱり、金城武のこの人好きのするオチャメなキャラ、金城武本来のキャラが大いにモノを言っていると思うなあ。だってこれ、逆じゃ絶対、ムリだもん。金城武とだから、三日間で恋に落ちちゃうんでしょ。アンディ・ラウとの三年(四年だったかな)の恋人期間をカンタンに打ち破るぐらい。
でも、そのあたりは小妹、どことなーくどっちつかずである。確かにこの三日間で随風(金の偽名)と恋に落ちたのは本当なんだけど、なんといっても彼女は大命のために動いているのだし、ずっと恋人だった劉をたった三日で思い切れないのも事実。
だけど、前者はともかく、後者の理由はやっぱりもう……なかったんじゃないかな。
そりゃ劉は、小妹がたった三日で他の男に心を移したなんて信じられなくて(ずっと監視してたから嫉妬心はありありだったけど)、他の男に取られるぐらいなら、と心臓ひと突き!しちゃうんだけど……つまり彼がそうするほど、ずっと見ていた彼にはそう思い当たるフシは充分にあったってことなんだよね。
と、ゆーわけで、劉と金は対決と相成るんである。
もともと、小妹は金を殺すはずだった。でも愛している相手を殺せなかった。一緒に行こうと金は言う。彼が小妹に名乗っていた偽名……随風、風の赴くままに、俺と逃げよう、と。でも大義のために仕えていた小妹にはその時には決心がつかなかった。
この時、一緒に逃げていれば、あるいは……いや……。
哀しそうなあきらめの目をして金が去った後、長い長い間、小妹はそのままじっと立ち尽くしている。どれほどの時が経ったのか……思い立ったように馬に乗り、金の去った方向に馬を走らせる。しかしそこに劉の放った刃が!
あのね、何かね、小妹がなかなか死なないのよ。いや、別に死んでほしいってわけじゃないんだけど(汗)。でも、この時にもうダメだと思うじゃない。で、一度去っていった金が戻ってくるのね、やっぱり、彼女を思い切れなくて。そして彼女を刺した(というか、この時点では既に殺した、と思ってる)劉と対決するわけよ、当然。
何かね、雪が降ってくるのよ、いや、降ってくるっつーか、吹雪の中、もうすっごい積もってんのよ!彼女が倒れてた場面から明らかに季節が変わっているようにしか見えないのよ!このあたりの事情はオフィシャルサイトを見ればまあ判るし、確かに画的にはすっごいドラマティックで最高のビジュアルだし、文句なんか言うべきじゃないとは判ってるんだけど、彼女が刺されてから決闘始まって、一体何日、いや、何ヶ月経ってんだよ!とついつい突っ込みたくなるのよ。
しかも、こんな激しい季節、いや天気の変化の中でも小妹はなんとまあ、まだ死んでおらんのだ。男たちが決闘しているのは、彼女が死んでしまったからではないの?胸に刺さった刃を抜こうとして、それを抜いたら一気に血が噴出して死んでしまう!と金が必死に止めて、でもこの場面は、イイのね。劉がちょっと、芝居カマすのよ。それにひっかかって小妹は刃を抜いて、血が噴出して、死んでしまう。そのことによって、小妹の気持ちが金にあることが明らかになって、劉は完全に敗北するわけで……でも、倒れた小妹に駆け寄って抱き上げた金に、またしても小妹はうっすらと目をあけ……お前、何度死んだと思わせるんだよ!まあ、これが最後ではあるけど……ギリギリ、ヘタしたらギャグだぞ、これ。危ない、危ない。
ていうか、ここまで生き長らえているんなら、決闘なんかせずに彼女を運んでたら助かったかもしれないのに?
「グリーン・デスティニー」の時には透けた乳首まであらわだったチャンだけど、今回は金城武とのイイシーンがありながらも、ちっとも見せない。やっぱりスターになっちゃったからかしらね。
度重なる敵との攻防戦はどれも素晴らしく、特に竹林でのアクションシーンは美しさとスピード感があいまって実に秀逸。小妹がホンモノの野の花だとはしゃぐ一面の可憐な、小さな白い花の群生は、本当に慎ましやかな花で、しかしその場面でも血で血を洗う戦いが繰り広げられる。
小妹はスパイとして牡丹坊に潜入していたんだし、だからあの時の、花の名前をつけてもそれはホンモノじゃないとかいう台詞は別に本気じゃなかったと思っていたんだけど、この時の、はしゃぐ小妹は、あの言葉だけは本心だったんじゃないかって気がして……。飛刀門に身を捧げることを第一としていた小妹が出会った、その考えを覆したいと思った男、随風=金。
死を賭した逃避行は、たとえ芝居でも、芝居と自分に言い聞かせても、抗えないものがきっと、あったのだ。
アンディ・ラウは完全に負けてしまったわけね。それにしても彼、老けたな……。★★★☆☆
殺し屋である葉山田と、少女観幸が出会う。既に二人のいる世界は青い……哀しみの、青。
葉山田には両親がいない。そして、親のように尊敬する丸山によって殺し屋に育て上げられた。その丸山に、今は追われている。
観幸は、両親が死んでしまったばかり。それも、母を殺した父がその死体と共に車で焼身自殺をとげるという、衝撃的な事件だった。
しかし、一見して観幸は妙に落ち着いて見える。怖いほど冷静。女一人生きていくために働かなきゃ、なんて言ってる。
彼女の落ち着きは、憎むべき人が一人、明確にいるからなのだった。
父親の愛人である。
実は、似ているように見えてこの二人、そこが違ったのかもしれない。憎むべき人がいることによって何とか均衡を保っている少女と、憎むべき人が愛する人でもあるということに薄々気づいてしまって生きる場所を見失ってしまった殺し屋。
でも、少女にも何となく判ってはいたのだ。あんな台詞を言うぐらいだもの。
彼女は、少なくともお母さんは、お父さんに殺されて幸せだったと思う、と言った。お母さんはお父さんのことを本当に愛していたから、と。
殺し屋に、このにっくき愛人を殺すように依頼して、おびき出した愛人にお前が死ね!と吐き捨てるように言った彼女、でも、この愛人に向けられる銃を必死にはらいのけてしまう。
だってそれは、この愛人もまた、哀しい人だということが判ったからじゃないのか。
愛する人に殺されなかった。それはこの愛人も娘も、等しく同じ立場なのだから。
葉山田は、アキラと呼ぶ銃を肌身離さず大事に持っている。鈍い赤色に光る、長い銃身の、見とれてしまうほど美しい銃。弾が抜かれていても、これがなければまっすぐに歩けないと言って大事に持ち歩いている。
銃が、本当に神聖で美しくて、うろたえてしまう。
こういう感じ、「チャカ2」でもあったけど、銃の中に全ての真理が閉じ込められているかのような、美しさ。どこかサムライが刀に対するそれのようにも感じられて、これは日本人ならではの武士道に貫かれた哲学なんじゃないかと思ってしまうほどだ。
何たって葉山田は殺し屋なんだし、彼を育てた丸山との過去の“仕事”もマンガチックに描かれたりする。ホント、マンガチック。だって浴衣をはしょって着て、カキ氷を食べながらのバトルなんだもの。丸山が「まるで、マンガだな」というのも、ホント、そのとおり。
そんな風に、殺し屋としての本来をどこか茶化して描きながら、実際の、今、現在進行形の彼らは、確かに銃を向ける人間を追い、追われしているのだけれど、本質的に、違うのだ。
愛する人を殺し、愛する人に殺されることしか、考えていないから。
丸山は、自分が葉山田の親を殺してしまったことを、生涯の傷として抱えて生きてきた。そこにどんな理由があったのかは明確にはされないのだが……葉山田の父親(田辺誠一。美しい!)はそのことをどこか予期していたような顔をしていた。
だから、丸山は、葉山田になら殺されてもいいと思っている。というか、殺されるなら葉山田しかいないと。
でも、一方で、ならば、そうなったならば、誰が葉山田を殺すのだとも言う。俺しかいないのに、俺を撃ってしまったら、葉山田はどうするんだと。
私……こんな、凄い、愛の言葉を聞いたこと、なかった。
俺が殺さなければ、誰が殺してやるんだ、だなんて。
丸山とともに葉山田を探し出す旅に出ているチンピラの種田。演じるのは新井浩文で……彼が凄く、イイのね。なるほど、この作品が転換期になったというのもうなづけるほど。
ホント、笑っちゃうぐらいの単純な鉄砲玉、まっ黄っ黄の髪にハデなシャツ、手練手管の丸山に再三いましめられ、殴られた鼻にギプス?して鼻の穴に綿つめっぱなしなんだけど、そのギャグないでたちが最後には全然気にならなくなるほど、彼の成長ぶりときたら、凄いのだもの。
最後には、葉山田に、あの赤い銃、アキラを手渡される。あんたになら、この銃を預けられるって。これ以上ない、重い、そして光栄な褒め言葉。
丸山も、種田の中に潜む、優しい、あったかい、人間性みたいなものを見込んで、彼をしごいたんだと思うから。確かに殺し屋にあったかい人間性なんておかしな話なんだけど……この劇中ではそれを素直にそうだと感じられる。
殺し屋たちの間に伝説として語られる赤い銃弾というのがあって。そもそも銃弾はその撃つ時の感情によって色を変えるというのが前提。哀しみの青、憎しみの黒、怯えの黄……というように。
いきがってばかりいる種田が撃ち出すのが黄色と黒のまじった色だということで、丸山はまだまだだと突き放す。丸山は葉山田がいつでも黒の銃弾しか撃ち出さなかったことを、アイツは凄いヤツだ、天才だ、と彼に話して聞かせる。
葉山田は、殺す時には、憎しみを持って殺さなければいけないという、殺し屋としての自負があったのだ。そうでなければ、殺した相手に対して、失礼だと。
アキラには銃弾が込められていない。銃が銃であるだけで充分なのだ。葉山田は、アキラがそのふところにいるだけで安心する。必要な時は、子供の時飲み込んだ銃弾を苦しみながら吐き出して装填する……。
人を撃つということは、それだけの覚悟がいるということも、示唆しているんだ。
殺すには、それだけの覚悟がなければいけない。そしてそれは、葉山田の親を殺してしまった丸山にとって、痛い言葉だったに違いない。
でも、葉山田は観幸に出会って、好きな人に殺されたいという言葉を聞いた。そして、うたれた。きっとこの時……葉山田の中で変化する何かがあったのだ。
丸山が、葉山田になら殺されても仕方ないと思ったのは、葉山田が、黒い銃弾をしか放たない天才だったから。でも葉山田を殺すなら、自分しかいないと思ったのは……彼が葉山田を本当に愛しているから。
赤い銃弾は、愛の銃弾なのだ。それは丸山が葉山田を撃ち抜いた時に、明かされる。
観幸の両親が無理心中を図った森の中、焼け焦げて放置された車、その横で二人の哀しいさだめの殺し屋が向き合う。
丸山の銃弾が、葉山田を撃ちぬいた。相対していたはずなのに、まるで葉山田はそれを待っているように、見えた。
赤い銃弾、だったのだ、それは。それを受けた葉山田は……おっちゃんのように、あったかい銃弾だ……と言いながら、苦しんでいるはずなのに、幸せそうな顔で、倒れる。
あったかい銃弾、なんて、そんなの、そんなのありなの!?と思いながら……でもこの透明で美しい世界を見守り続けてきた観客は、そうだ、それはきっとあるんだと、思いなおしてしまう。
持病の心臓発作で、倒れた葉山田の上に折り重なるように倒れこんでしまった丸山。彼に請われて苦しげに丸山を撃つ種田。そして……アキラを受け継ぐ。
こんな時、うらましいと思う、男を。殺し屋になりたいとは思わないけど、こういう世界ってやっぱり男じゃなきゃありえないじゃない?って。殺し屋の、男の生き方を受け継ぐ、なんて。
いや、少女もまたしかりなのだ。葉山田の覚悟を感じとりながら、また絶対会おうねと約束した観幸。原付愛車、ボビーでいざ走らんとすると、彼女の手を押し留める男がいる。
それは、かつて、葉山田と出会った時と同じ……。
振り仰ぐと、そこには葉山田の着ていたジャケットをはおった種田がいる。観幸の胸元に突きつけられているのは、アキラ。
でも、種田は、これは丸山且士という名前の銃だという。自分の尊敬する殺し屋二人の名前からとったのだと。
葉山田と出会った時と同じように、まったく物怖じしない観幸。そして種田と二人乗りして、高々と、あの赤い銃を天空へと差し上げる。
彼女も、受け継いでいるのだ。この神聖な愛の系譜を。愛する人だけを赤い銃弾で撃ち抜く、誇りを。
葉山田が、丸山に撃たれる直前、彼はこんなことを言っていたのだ。生まれ変われるとしたら、何になりたい?って。
突然そんなことをふられて戸惑った丸山は考えたこともない、と返すのだけど、葉山田はこう言うのだ。俺はぶどうの木になりたい。大きくて甘い実をつける、ぶどうの木になりたいって。
葉山田が観幸に初めて会った時、彼は凛とした観幸に気圧されて、その場に倒れこんで、観幸の持っていたぶどうをむさぼり食った。
それは本当に鮮烈な場面。銃を突きつけられても、撃ってもいいと泰然としている観幸に、葉山田がうろたえて……確かにこの時の観幸には、それだけの諦念があったとは思うけど、多分それ以上に……運命の人と、そして運命の銃に出会ったという無意識の意識があったんだと思う。
本当に、呆然としてしまうのだ。奇跡の画、だと思う。こういう画を撮る、そして撮られるなんて、作り手としても役者としても、本当に幸福なことに違いない。
少女、観幸を病的な愛情で追いかける医師、野村宏伸に少々、ショックを受ける。彼女を縛り上げて嘗め回して……うう、「花と蛇」で驚いてたくらいじゃ、いけなかったのか……何かこの人にはある種の……清廉潔白みたいなイメージがあったもんだから……でもやっぱり役者は脱皮していかなきゃ、ってことなのね、多分。
このシーンで、アキラを追って観幸を訪ねて来た葉山田が、まるで分身のように描写されるのが印象的なんだけど……それはこのどこか哲学的な物語の中で不思議と、不思議に思わなくて。
映画も序盤のこのシーンで既に、こういう世界に連れて行ってしまえる監督が、凄いと思う。
暗い色彩に、人間の沈んだ部分の、でもだからこそ濃い深い心情がスパークしていて、たまらなかった。
この監督もまた、えらく若い人なのよね、やんなっちゃう。若い才能というヤツは、全くうらやましくも、腹立たしい!なんてね。
デビュー作「プープーの物語」のアッケラカンとした御伽噺な雰囲気も、すっごい好きだった。若いとはいえ、ちょっとそのスパンが長い……もっと撮ってほしいと思う。
ラストシーン、死んだはずの丸山と葉山田、そして種田と観幸が、自由な雰囲気で日本海を思わせる荒々しい海岸の絶壁を歩いてるシーンに……ズドンと撃ち抜かれた!何でだか……もう、そう、悔しいな、酔わされちゃった!★★★★☆