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「た」


2002年鑑賞作品

大幹部 無頼
1968年 97分 日本 カラー
監督:小沢啓一 脚本:池上金男 久保田圭司
撮影:高村倉太郎 音楽:伊部晴美
出演:渡哲也 松原智恵子 芦川いづみ 二谷英明 内田良平 田中邦衛


2002/4/4/木 劇場(新宿昭和館)
「無頼」シリーズに位置するのだから、「ふ」行に入れるべきなのかなあ、とかなり悩んでしまった。閉館が実に実に惜しまれる新宿昭和館で数多く出会った小沢啓一監督のデビュー作であるというのはかなり感慨深い。シリーズ二作目であり、つまりは第一作のヒットを受けてシリーズ化した最初の作品、ということで新人監督の舞台としてはかなり肩に力が入りそうなものだが、その力の入り方を若々しいエネルギッシュさと実験精神、冒険精神に満ちた躍動感で、特に目を見張らせるラストのクライマックスまで息切れすることもなく、軌道をはずしすぎることもなく、手際よくまとめているところも、その後の名匠ぶりを大いに物語るデビュー作。

第一作を受けて、ということで、冒頭はそのカットを使ったとおぼしきストップモーションの説明シーンから始まる。対立していた上野組のアタマをとった五郎(渡哲也)は、その時亡くした兄貴分の遺志もあり、惚れた女とともにカタギの道を歩むことを決心する。おりたったのは、その女、雪子(松原智恵子)が身を寄せている、兄貴分の奥さん、夢子姐さん(松尾嘉代)の住む青森の片田舎。こんな雪深い田舎町でなら、過去を忘れてやり直すことが出来る……はずが、五郎の中の血が呼び寄せてしまうのか、駅に降り立ってさっそく面倒に巻き込まれることになる。興行主が踊り子を騙し、売り飛ばされそうとする場面に遭遇、彼女たちを助けてやるのだが、何の因果かその陰謀の黒幕がかつてのヤクザ仲間が率いる木内組であり、この時助けた踊り子の一人と一緒に暮らしている(?)男が五郎が組長を殺した上野組の元組員だったのである。

自分とカタギの暮らしをするために、この青森の地に来てくれた五郎を雪子は涙を流して迎える。五郎もまた涙を流す。……というか、このシーンの前、夢子姐さんに会った時、既に五郎はもう涙をあふれさせており、この五郎を演じる渡哲也も雪子を演じる松原智恵子も、まあ随分とよく泣くんだな、これが。渡哲也がこんなに泣くとは……それも、こんな一匹狼の、伝説の人斬り五郎が割と泣き上戸だったりするっていうのが、意外とこのシリーズの人気のポイントなのかもしれない。本当に、感情が高まってその大きな瞳が(渡哲也ってこんなに瞳が大きかったっけ?)みるみる涙で浸ってしまうのに、女は母性本能を、男は男泣きの共感を覚えるのかなあ?この愛し合う二人の再会シーン、夢子姐さんが気をきかせて、あの夕焼けを見せてあげなさいよ、と二人を外に送り出す。真っ白な雪景色、青森特有の冬中薄墨に曇っている空の中に、つつましい、けぶった黄金色の太陽があたりを優しく照らしている中、五郎にりんごを手渡す雪子とそれを受け取りかぶりつく五郎の二人がだんだんとシルエットになってゆく、美しいシーン。

夢子姐さんは入院しなければならないような病を患っている。五郎も雪子も地道に、そして必死に働くが、いよいよ容態が悪くなってくる。決してヤクザには戻らないと決心した五郎だが、いくらでも用立てるという木内(内田良平)の誘いに乗ってしまう。横浜へと旅立つ五郎。あの時助けた踊り子の菊絵(芦川いづみ)、そしてかつて先輩だった男、浅見(二谷英明)との再会。浅見は木内組と対立する泉組の幹部になっていた。加えて、浅見の妹と木内組の純な若者、若林(岡崎二朗)は恋仲である。頼れる兄貴として若い者たちの信頼を得ていく五郎は、微妙な立場に立たされる。

微妙な立場は、五郎に斬りかかった上野組組員の男、根本(田中邦衛)との関係でもそうである。明らかに実力が上の五郎はあっさり身をかわし、殺せ!と叫ぶ根本を殺さずに、もうこんなことはやめよう、とその場を去る。次に根本と再会した時、五郎は瀕死の状態で、根本は絶好のチャンスが再来するわけだが、五郎を殺すことが出来ない。裏切り者の五郎を追って木内組組員が探しに来ても、自分が上野組の元組員だったことを明かし、自分こそ五郎を探しているのだと、お前らがかくまっているんじゃないのか、と切りかえして五郎を守るのである。この根本に扮する田中邦衛が、確かに若いんだけど、もはやそのまんま田中邦衛であり、しかし何だか妙にキザで、しかしなぜか?それが妙に似合う。彼は踊り子の菊絵のことが好きらしい。だからこそ、彼女が五郎に惚れていることも見抜いてしまう。彼女が重傷を負った五郎を部屋に運び込む。と、彼が雪子を呼んでくれ、と真っ先に言うのにショックを受け、そんな彼女を見て根本もまた悲しい顔を見せる。バーのカウンターに離れて座り、彼女に洋酒の入ったグラスをすべらせるなんて、今の田中邦衛からじゃ想像も出来ないけど、そのグラスは彼女の前で見事にピタリと止まり、同じ傷を負った二人が同じ酒をあおっているのを、背中越しに引きのショットで見せるシーンは、この血なまぐさいバイオレンスアクションの中で、一瞬の静謐を見せて、切ない。

青森で彼を待っていたはずの雪子がなぜ横浜にいるのかといえば、姐さんが死んでしまったからである。彼女が送った姐さん危篤の電報は、木内によって握りつぶされてしまっていた。姐さんの残した手紙を携え、姐さんの遺言である、五郎だけはカタギに戻してやってくれ、という言葉を胸に、雪子は横浜にやってくるのである。木内の仕打ちを知った五郎は、それでなくても金のためだけにやりたくもない、しかし血が呼んでしまうヤクザ稼業に戻っていたのだから、ますます木内から心が離れていく。しかも純情に敵方の女にホレていた若林までもが、事情もろくすっぽ聞かない虚勢っぱりの木内によって裏切り者の汚名を着せられ拷問された挙句、五郎の助けも空しく、野良犬のように殺されてしまう。

そして、妻と子供がいるから、何としてもカタギに戻りたいと言っていた浅見もまた……。彼にだけは、生き延びて欲しいと出来る限りの手を尽くし、ほとぼりが冷めるまで決して家族に会いに行くなと、あれほど釘を刺したのに、浅見は別れの前にとケーキを買い、自宅に向かってしまったのだ。待ち伏せしていたやつらにズタズタに刺され、子供が喜ぶ顔を観たかったはずの、そのケーキもメチャクチャに踏み荒らされ、その悲鳴すらも届かずに、彼もまた人間としての何の尊厳もなく、殺される。ぽつんと明かりがともった部屋で、妻が子供の服でも縫っているのか、ミシンを踏んでおり、針で指にケガをする。ふと顔をあげる妻……その時外では、愛する夫がその部屋の明かりを凝視しながら真っ暗な小さな公園で今にも絶命せんとはいずっているのだ……あのささやかな幸福にもうちょっと、もうちょっとで手が届くはずだったのに!

この浅見を演じる二谷英明が、ニヒルな風貌の下に見せる人好きのするイイ男っぷりで、かなり素敵。男臭いけれどどこか少年っぽいような渡哲也とはまた全く違う魅力で、ああ、でもこの人だからやっぱり家族のもとに行ってしまったし、そしてやっぱり殺されてしまうんだよなあ……と哀しい納得を覚えてしまう。五郎はそれを朝の新聞で知る。何も知らない雪子は、五郎のためにあたたかい朝食を作っている。雪子に背中を向けて、ベランダで涙を見せる五郎は、それを拭い、ちょっと出かけてくるから、と雪子に言う。案の定、すぐに察してしまう雪子だが、彼を止めることなど当然、出来ない。五郎は木内たちの車が通る道路に、板に釘を打ちつけたものをバラまいてパンクさせる(それにしても、そんなもの、どこで用意したんだ?)。出てきた組員たち、それも木内は本当に情けなく、ブザマに逃げ惑うが、覚悟を決めている人斬り五郎から逃げ切れるわけもない。道路から土手を転がり落ち、廃工場の様なところをもつれ合いながら通り抜けると、大きな下水?用水路?に落っこちる。まるで海のような激しい波が押し寄せるその汚水の中を、もみくちゃになりながら斬り合う男たち。その凄まじい殺し合いに挿入される白い半そでシャツと白いブルマーをまとった女学生たちのバレーボール。その楽しげに、未来に向かって前向きに生きているエネルギーが彼らの絶望的な闘いと並行される痛烈さ。

あの時。傷が癒えた五郎が菊絵の部屋から雪子とともに帰っていったとき、雪子が飛んできたボールを見事に女学生に打って返し、「上手いじゃねえか」と五郎が誉めると「少し、やっていたことがあるんです」と雪子が照れ笑いを浮かべた、あのつかの間の、ささやかな幸福の時間だった、あの運動場。死闘を繰り広げる五郎に、この女学生たちのはしゃいだ声は聞こえていたのだろうか……。小さな滝を転がり落ちながら、逃げ惑う情けない悪党、木内をついに討った五郎は、その傷だらけの体を引きずって、その生き生きとしたエネルギーに引き寄せられるようにして、運動場に入り込んでくる。後ずさりする女学生たち。五郎はネットに倒れかかり、手でつかんで何とか立とうとするが、もんどりうって倒れてしまう。遠巻きに見ている女学生たちの視線にさらされながら、声にならない叫びをその瀕死の身体そのもので叫ぶ五郎。衝撃的なカットアウト。

男は男らしく、女は女らしく、そんなことがもはや様々な意味で成立しなくなった現在では、このあまりにもはっきりとした男と女が、圧倒的な強さであるとともに、致命的な弱さでもあるのが、うらやましさにも似た魅力なのかもしれない。★★★★☆


タイムマシンTIME MACHINE
2002年 96分 アメリカ カラー
監督:サイモン・ウェルズ 脚本:ジョン・ローガン
撮影:ドナルド・M・マカルピン 音楽:クラウス・バデルト
出演:ガイ・ピアース/サマンサ・マンバ/ジェレミー・アイアンズ/オーランド・ジョーンズ/マーク・アディー/シエナ・ギロリー/フィリーダ・ロウ/オメーロ・マンバ

2002/8/6/火 劇場(渋谷東急)
こんな話だったかなあ……と思って、思わず子供の頃読んでいた文庫本を引っ張り出して読み返してしまった。小学生向けに優しく翻訳されたものだから多少はしょっている部分があるかもしれないけれど、それでもその原作の方がよほどカッコよかった。というか、読み返してみようと思ったのは映画化作品にうーん……と思ったせいだったわけで。ウェルズの「タイムマシン」といえば、SFエンタテインメントの全ての始祖であるわけなんだけれど、そのカッコよさの始祖でもあるのだ。数学的、科学的なクールさ、無機質ゆえの怖さの魅力。それがこうまであっさり捨て去られてしまうなんて!原作では名前すらも与えられず、“時間旅行者”としてクールな変わり者、いわば数学と科学のオタクであった主人公が、ハリウッド型愛こそ全ての男にすりかえられている。思えばこの原作はイギリスモノで、このクールさというのはいかにもイギリス的なものがあったのだけど、ハリウッドで映画化されると……あたッ、やっぱりこうなっちゃうのよね。大体舞台がイギリスじゃなくてアメリカになっちゃってること自体が気に入らない。ったくどこが“完全映画化”なんだっつーの。最初うっすらとあった数学バカ的な男の描き方も原作のクールさとはかけ離れた世間知らずのおぼっちゃま型だし、その後はひたすら死んだ恋人に会いたくて、の一心の恋愛バカ的な男。SFまでもが恋愛絡みじゃないと描けないっていうワケ?

とはいうものの、原作にも恋愛がないという訳じゃない。80万年後の未来に行って、クールな“時間旅行者”は純粋な愛の感情を知るわけである。しかしその感情を寄せてくれた、彼ら19世紀の人間の子孫にあたる未来の人間たちは、知的さを完全に失い、生きる野心もない、ただ穏やかで上品なだけの子供のような、異質な人間たち。それが、映画では風貌も何もかも、現代の人間とおんなじ??というか、“知的な19世紀人”に対して、原始的生活をしている未来人に、アジア系とかアフリカ系を当ててきているあたりが、無意識の差別意識を感じさせて、気分が悪い。言葉では生きる野心がないとか言われるけれど、それは主人公のアレクサンダーによって“説得”されちゃえば容易に直すことが出来るぐらいの薄さなのだ。80万年も経っててそりゃないでしょうと思うし、80万年後の人間さえも自分たちの価値観に引きずり込もうとするってあたりが、しかもそれを正義としてそうしちゃうってあたりがいかにもアメリカ的ねと思っちゃう。

ただただアキラメムードの彼ら、エロイたちに対してアレキサンダーが闘うべきだというのは確かに判るんだけど、それ以上にジェレミー・アイアンズ扮するその世界を牛耳るリーダーの、この世界に至るまでに築き上げてきたものがある、ってな台詞の方が、しつこいようだけれど何たって80万年後の世界なんだから、よっぽど説得力があるってもんである。それにさあ、これって“闘い”を正当化するってことになってない?アレキサンダーが闘えと言い出したあたりから何だかそんな風なイヤな予感はしていたんだけど、モーロック達を全滅させちゃうに当たってその思いが頂点に達してしまった。何で対照的な進化を遂げたエロイとモーロックという二つの人類が登場するのか。それはそのどちらもアレキサンダーたち過去の人間たちの子孫だからでしょ。いかにも造形的に親しみやすいエロイを救い、あからさまに悪役のモーロックを全滅させてメデタシメデタシなんて、そんな単純な話じゃないはずでしょ。だってこれじゃ、同じ人間同士が戦う現代の戦争と何にも変わらないじゃない。それこそが間違った価値の押し付けなんじゃないの?

原作でも“時間旅行者”は、エロイたちをモーロックの捕食から助けるべく奮闘はするんだけど、それが成功したかどうかまでは描かれていない。だって基本は三人称の話だからね。それにこんな言葉もある……“本能的に嫌いなモーロック”。私には、これがそのままの意味で書かれたとはどうしても思えない。だって原作では、エロイに対してもモーロックに対すると同様に距離を置いた描き方をしていて、決してどちらが悪でどちらが正としているわけじゃないんだもの。むしろ、明らかに愚かだけれど造形的には優美なエロイを助けたいと思ってしまうのも愚かだし、造形だけで本能的な憎悪をモーロックたちに対して感じてしまうのも愚かだというような、そういうシニカルな印象も残すのだ。だからこそ、そういう奥の深さがあるからこそ、あの原作は素晴らしかったんじゃないの?

というわけで、エロイが原作の愚かさより数段現代の人間に近い描かれ方をされる上に(対等に話が出来ないほどの人種になっているからこそ、ショックが大きいのに……80万年後の意味、ないじゃん)、モーロックは原作より更に更に醜悪な奴らとして描かれるハメになった。しかしそうしてしまったから、何だかモーロックの造形ときたらパニック映画のクリーチャーそのもので、クールなSFが単なるB級のパニック映画に貶められてしまっている。確かにCGやなんかは素晴らしいのかもしれない。こういう映画にありがちな、専門用語で自慢げに彩られた解説なんか読んだってちっとも判りゃしないけど。でもCGって使いすぎると画的に逆に安っぽく感じられちゃう。CGだって判っているから。何か印象は本当、B級なんだよなあ……。原始時代パニックムービー、みたいなさ。

ウェルズは階級社会への痛烈な批判を持って描いていた筈でしょ?つまりは、地下世界に生きるモーロックたちの方が、地上で何も努力せずに生きているエロイたちより生きる執念を持つ人間らしさを持っている筈。なのに外見的に見えている印象は……っていう。それが、なんで勧善懲悪になっちゃうわけ?エロイの姿の方が人間に近いから同情してしまう、というのを原作はそんな単純に是としていたんじゃないでしょ。むしろだからこそ皮肉的なんでしょ。だってそれじゃ、外見的に優勢である方というこの見方って、人種差別と同じことじゃない。ウェルズは逆説的にそのことにだって言及してたんじゃないの?この醜いワルモノ全滅!の方向性はまさしく戦争そのものじゃないかあ。もうやんなっちゃう。

おーい、監督さんはウェルズの曾孫なんでしょう?それで何でこうなっちゃうの?ハリウッドで映画を学ぶとこうなっちゃうってこと?つうかさ、これってネームバリューで監督選ばれたとしか思えないんだよねー。だって“ウェルズの末裔”が「タイムマシン」を監督するって、これ以上の御膳立てってないじゃない。何だか知らんけど、製作途中もんのすごいスピルバーグにお伺い立ててるらしいしさ。タイムマシンの造形は凝っただけに確かに美しかったけど……優雅でクラシックで、どっかワケわからんくて。あの透明な石をダイヤ状に繊細にカットしたものが乗っかっているキラキラした操作レバーとか好きだなあ。原作に出てくる石英で出来た……ってあたりの連想かしらん。んで、主役のガイ・ピアースなんだけど……彼ってもっとウツクシイ人じゃなかったっけ?「LAコンフィデンシャル」の時、あまりのカッコよさにホレこんだのがウソみたいに、「メメント」、そして本作でも何だかやたらとサル顔なんだけど……研究に没頭して無精ひげだらけの疲れた顔になる時とかはちょっと素敵だったけど、オシャレするとサル顔になるとはこれいかに?ううッ。

1959年に一度映画化されているという作品は未見。本作でもオマージュが捧げられているらしいし、結構評価が高いらしいから観てみたいんだけど……。★☆☆☆☆


たそがれ清兵衛
2002年 129分 日本 カラー
監督:山田洋次 脚本:山田洋次 朝間義隆
撮影:長沼六男 音楽プロデューサー:小野寺重之
出演:真田広之 宮沢りえ 小林稔侍 大杉漣 吹越満 深浦加奈子 神戸浩 伊藤未希 橋口恵莉奈 草村礼子 嵐圭史 中村梅雀 赤塚真人 佐藤正宏 桜井センリ 北山雅康 尾美としのり 中村信二郎 田中泯 岸惠子 丹波哲郎

2002/11/28/木 劇場(丸の内プラゼール)
山田監督初の時代劇、ということで注目された本作。これだけ多くの映画を量産してきた監督が、時代劇が初、というのは私も結構意外に思ったのだけど、観終わった後に思わず、なるほど、などと思ってしまった。と、いうのは、初の時代劇、というよりも、初の市井の人ではない人の映画、という感じがしたからだ……しかしそこもギリギリ、小役人まで下がってて、ほぼ市井の人と言ってもいいぐらいの距離、だというのは、山田監督らしいというか……ヒロインの朋江にしても、彼女は主人公の清兵衛よりも大きな家のいわばお嬢様なわけだけど、武士の家庭が生活していけるのは、米などを作ってくれている百姓の人たちのおかげだ、と町の祭りを観に行ったりする。このあたりも、ああ、山田監督らしいんだなあ、と思うのだ。町の生活、そしてその町の人たちの一年に一度の楽しみを活写しようとするのが……。

監督は、時代劇にはものすごく制約があったと感じたらしく、それは今まで現代劇を撮ってきた監督にしてみれば当然持つ印象だとも言えるのだけど、その点、山田監督は、言ってしまえば古いタイプの監督さんだったんだなあ、などとも思ってしまうのだ。今日本にいる映画監督たちの中で、彼ほど同じところで安定して映画を作り続けている人というのはおらず、いい意味でも悪い意味でもハズれがない。破綻がないのだ。物語とキャスト、あるいは美術やカメラ、そういったものが、パズルのピースがはまるようにきちんと収まっていて、確かにそれはいつもの安心して観ていられる山田節ではあるのだけれど、こちらとしては映画に対してそこからあふれるものというか、そういう感情的なものを欲する気持ちがあって……。時代劇、という制約は、逆にそういう山田節を打ち壊してくれるんじゃないかという期待もあったりしたんだけど、そうはならなかった。

実は、時代劇という制約は、だからこそ個性のために試される、アヴァンギャルドな制約ではないかと、思ったりもするのだ。黒澤明がそうだったように。で、山田監督は制約は制約として受け止めてしまった感じで、今までにない殺陣とか言っちゃうのも、そりゃ真田さんはじめ、鬼気迫る殺陣は素晴らしかったけど、そこまで断言するのもどうかというか、過去の映画に失礼じゃないのと思ったりもし、ついでに言えば私はあまりナレーションで語られる映画というのが得意ではなく……。いや、それは私がどっぷりはまってどわーっと泣きたいな、などという願望があったから、ナレーションって、どうしても冷静さに引き戻されちゃうし、だからそれは私のワガママだってことは、判ってるんだけどね……。この主人公武士、町の人からの距離がないところとか、平和主義だったりするところとか、「雨あがる」の主人公のたたずまいに似ているな、と思うところがあるんだけど、「雨あがる」には前述したようなあふれるもの、いい意味でのまとまりがはじける部分、があったんだよなあ。

清兵衛は妻に先立たれ、ボケはじめた母親と二人の娘を抱えていることから、仕事が終わるとまっすぐ家に帰るため、同僚から“たそがれ清兵衛”というあだ名を頂戴している小役人侍。身なりに気をつかう余裕もなく、すりきれた足袋に穴があいてほこりっぽい着物、果ては風呂に入るヒマもないらしく、臭ったりすることさえあり、お上が来た時いらん恥をかいちゃったり。それが一族の長の耳に入って、彼に後添えを世話しようとするんだけど、彼は断る。娘が成長していくのを見守る楽しみを、畑の作物に例えちゃうようなあたりののんびり詩人ぶりが清兵衛の人となりをよく現しており、そんな父親に「(母親がいなくても)寂しくね」とけなげに言う娘。そうそう、そういえば、これほど東北なまりのしっかりした映画も珍しいって気がする。そしてそれは、やはり現代にこうした地方の言葉がどんどん失われているんだなあ、ということも実感させる。そう、「せば」だなんて、久しぶりに聞いた。津軽弁にもあった言葉だ。懐かしい……。

このボケはじめの母親の描写もそうだし、あるいは清兵衛と切ない恋物語を展開する朋江が元夫から暴力を受けて離縁した、というのは今問題になっているDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)だし、あるいは、いまだに普遍的な問題である女子教育や女性の社会進出について。はたまた、ドザエモンが日常的であったという、死体だらけの江戸時代、というのは何かの本で読んだ記憶があり、それが映画で描かれているのは初めて、と思ったけど、これも現代社会の過労自殺とかに重ね合わせているんだろうし、山田監督はこういう時代劇にも現代に通じる要素を持ってくる。「学校」シリーズなどで現代の社会問題に斬りこむことにこだわりを見せる山田監督らしいとも言えるんだけど、私は、実は山田監督のそういう部分に一種の甘さを感じることがあり、例えば監督ではなく脚本だけ参加の「釣りバカ」にもそういうエピソードを持ってきたりするんだけど、それがテーマの作品ならまだしも、と思ってしまったことも事実で。判るんだけど、そう簡単に解決できる問題じゃないんだけどな、と当事者なら思ってしまうんじゃないかという危惧。ことに、ドキュメンタリーなどでそうした問題にものすごく真摯に取り組んでいる映画もあることを考えると……。でね、そんなに「現代に通じる」ってことにこだわらなくてもいいんじゃないかな、と思ったりしたのだ。まあ、これは原作のあることだし、どこまでそうした山田監督の考えが反映されているのか判らないんだけど、ただ予告編の段階で、そうした意識が強いんだな、というのは凄く見えていたし……それが「山田監督が時代劇を撮る」意味ということなのかなあ……逆だと思うんだけど。

で、清兵衛はそんな穏やかな生活を好み、昇進など望まないお人なんだけど、実はかなりの使い手で、それが朋江の元夫をやっつけちゃったことで広まり、ついには藩命で反対派の武士を討てとの命が下ってしまう。この段階になってようやく、清兵衛は朋江に積年の思いを告白するのだが……。ううむ、遅すぎだよ(では、なかったんだけど。でもこの時点ではそう誰もが思うのだ)、もう!しかしこのシーンの真田さんは、すっごく良かったな。彼女の目を見ることも出来ずに、それこそ少なくともこの場面では、あふれてた。気持ちが。

でも、でもね、私は思っちゃうのね。それって、あまりに死んだ細君に対してヒドいんじゃないのと。そんなこと言ったらラブ・ストーリーなんて成立しないということは判ってるんだけど、でもさ、子供の頃から、というのはまだいい、妻をめとってからも、朋江さんを嫁にする夢はゆるぎなかった、だなんて、そりゃあんまり、ヒドいじゃん!私は死んだ妻に思いっきり同情しちゃったよ。そりゃさ、彼女はこの貧しい暮らしに耐えられなくて、夫に対して昇進を望み、夫婦の意識はその部分ですれ違っちゃってたのかもしれないけど、でも、彼女はじゃあ、真の意味で彼から愛されることはなかったってことなの?

いや、ね、一番好きな人と結婚できるわけじゃないし、必ずしもそうすることで幸せになれるとかなれないとか決まるわけじゃないし、心の中に初恋の人を思い続けてたって別にいいんだけど、なんかね、基本的に清兵衛の中に、あるいは監督の中に(あるいは原作者の中に?)伴侶としての女、の考えに引っかかるものが、あるのよね。でさ、朋江とはめでたく結ばれるものの、その生活は清兵衛の死によって3年しか続かなかった、ってんでしょ?それって、清兵衛があの時語っていた、「もって3年」のあの言葉どおりじゃないのお。3年なんて、まだまだ新婚生活のうちで、夫婦生活が試される年月じゃない。勿論、彼女は夫亡き後も自分と血のつながらない娘を立派に育て上げた、と語られはするものの、それだって夫が生きていたらひょっとしてどうなったか判らなかったかもしれないっていうこと?なんか、釈然としないんだよなあ……。

ま、この大団円の前にはこの映画の最大の見せ場、クライマックスの殺陣が用意されている。朋江に決死の告白をしたものの、この時点では朋江はもう嫁ぎ先が決まってしまった、ということを知って、それでも彼女に身なりを整えてもらって(あの生えかけの剃りこみはこんな時でもそのままなのね。死ぬかもしれないってのに……ちゃんと、剃るべきじゃない?)斬りこみに出かける。清兵衛の持っているのは小太刀。素人目にはもちろん、いわゆる武士の持つ大刀に対して誰が見たって不利じゃないかと思う。しかし、それでいて、やっちゃうんだな、清兵衛は……。この小太刀、というのもストイック、平和主義を思わせるもの。でも、逆に間合いを詰めた実践、相手の懐に入る戦法、という意味で、お飾りではない、本当の武器と言うことも出来る。このあたりも、生活としての(つまりは、市井の人としての)侍である清兵衛の、ひいては山田監督らしさが見え隠れする。清兵衛の腕が広まった、朋江の元夫(大杉漣!)との決闘でも真田さんの身のこなしは素晴らしかったが(ことに、相手の刃を避けて、ぴょん、と相手を軽々飛び越えるところなんか。かっこい〜)あの場面が広々とした屋外であるのに対して、ここでは狭い屋内、それも雨戸も締め切られたような暗い中での決闘。双方合わせて清兵衛の、そして真田さんの力量が示される、とこういうわけなのね。

相手である余吾善衛門は最初のうち、清兵衛に対して逃がしてくれ、と乞い、彼の話を聞いているうちに清兵衛も彼にシンクロして、逃がしてあげようか、とも思うのだけど、この余吾に自分の身の上話をした清兵衛が「生活の苦しさのあまり、武士の命である刀を売ってしまった」と話すと、余吾の態度が一変する。貴様を斬る!とこうなってしまうのである。これはちょっと笑えちゃうもする場面なのだけれど、武士としてのプライドを持ち続けた余吾と、そんなものに価値を見出さない町人としての侍である清兵衛とのコントラストがくっきりとする場面で、それはとりもなおさず、このゆらいだ時代、武士世界が終りを告げる時代を象徴しているとも言える。最初から、余吾は武士というものなど終わりだ、と語っていたわけだし、噂に名高い清兵衛が来ることも予想していた。清兵衛がどんな人物かも、……自分と似た苦労をしたこととか、判っていた。彼は逃がしてくれ、と言ってはいたけれど、最初から、斬られるなら清兵衛に、あるいは、清兵衛になら斬られてもいい、と思っていたかもしれないな。清兵衛が余吾に打ち勝つ、というのは、百姓になってもいい、と語っていた清兵衛、つまりこれこそが武士の終わりを象徴するもので、市井人映画を作り続けている山田監督の武士映画への答えでもあるんじゃないのかな。

このシーンでかなりバッサリと立ち回りを削ってしまったという。オフィシャルサイトで読む「殺陣日記」では壮絶なシーンが数多くなくなってしまい、「二人の精神的対立を多くしたいとの監督の気持ちは判るのだが……」と残念がっているスタッフの文章が印象的で、実はこのシーン、確かにそういう物足りなさ……いわば、殺陣の壮絶さによって二人のギリギリのせめぎあい、葛藤、を感じさせるというものが、そのツメでやんわりと終わってしまった感じがしていたので、ここを読んで思わず納得してしまったりもした。精神的対立重視、というのは山田監督らしいけど、この判断は果たして成功だったのか、どうも私には首肯しかねる。だって、映画って、そういう物理的なものから見えないものをあぶりだしていく作業じゃないのかなあ、と思って……。最初にあったはずだったこれらのシーン、観てみたかったな……。

和服の宮沢りえはいい。実は和服の似合う女優というのは、これがいそうでなかなかいないのだ。特に現代では。その意味で、彼女は稀有な素材である。そして真田広之。彼は実はかなりインパクトのある顔であり、小役人だなんて似合わないはずなんだけど、そこは詩情あふれるおだやかな演技力で乗り切っている。で、これを書いている直前に、この映画が報知映画賞で三部門とっちゃって(これをUPする時点では、他の賞もとりまくってる、ねえ……)、ま、それは別にいいんだけど、オフィシャルサイトのBBSでね、肝心の真田さんだけが主演男優賞とってないのはおかしいとかなんとか、みんな言ってんのよね。で、じゃあ誰が主演男優賞とってるのかなあ、って検索してみたら、おお、田辺誠一じゃないかッ!私はすっごく喜んじゃったなあ。そりゃ、本作の真田さんに比べりゃ、「ハッシュ!」の彼の方がいいに決まってる(でもそれなら、ダブル主演で高橋和也にもあげたかったけど)。本作にホレ込んでいる人たちにとっては納得いかないのかもしれないけど、「ハッシュ!」を観てもないのに、そういうこと言うなって感じだよ。ていうか、賞は総なめすべきだなんて、おかしいと思うんだけど……。それに、実はりえ嬢が主演女優賞というのも(この報知賞だけで、あとは助演賞だけど)、私は正直、え?と思ったのだ。確かに彼女は好きだけど、まず、この役は主演ではない。これを主演にされてしまったら、それでなくても女性が主演の映画が少ないのに、ますます重きを置かれなくなってしまう。これは真田さんがピンの主演でしょ。主演女優賞、私は他に何人か思い浮かぶ人があったので、何で?と思ったのだった。りえ嬢だって、本当にピンの主演でとれるほうが、彼女のためだと思うんだけどなあ。★★★☆☆


谷ナオミ 縛る!
1977年 61分 日本 カラー
監督:渡辺護 脚本:高橋伴明
撮影:柳田友春 音楽:とべないアヒル
出演:谷ナオミ 鶴岡八郎 下元史郎 美川真弓 葉山英子

2002/11/10/日 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/PINK FILM CHRONICLE 1962〜2002/AN)
まあ、何たってウリは谷ナオミであり、彼女の十八番である緊縛がタイトルで高らかにうたい上げられているんだけど、彼女が、これが、なかなか脱がない、縛られない。脱いだ、と思っても、縛られるまでにいくにはかなりの時間がかかるんである。それでなくてもピンク映画は分数が60分前後と短いのに、おーい、谷ナオミ、まだかあ?と思わずスクリーンに向かって声をかけたくなり、しかもこっちは超睡眠不足と来ているので、彼女がようやく縛られ始めた頃には、半目状態。くっそう、どうしてくれる!って、そりゃ私が悪いんだけど……。そのかわりに、谷ナオミを食わんばかりに最初から脱ぎまくり、縛られまくりで熱っぽくあえいでいる女中役の女優の方がすごくて。上映前のトークショーで、谷ナオミは実は不感症だったんじゃないかなんていう爆弾発言を渡辺護監督がしていて、セックスシーンで感じまくった演技をするこういった女優とは対照的に、谷ナオミはいつでも、いかに自分がきれいに見えるかということを考えてあえいでみせ、プライベートでも彼氏にバストだけは絶対に触らせず大切にしていたと。それを念頭に置いて改めてスクリーンの中の谷ナオミを見ていると、それが実に良く判って、面白い。この女中役の女優とその点で本当に対照的だったから。

寺の奥さん、谷ナオミが和服の中にそのダイナマイトボディをしまいこんでいる前半の間、この寺の女中は彼女のダンナと不倫関係におち、彼の手管でさまざまな痴態を繰り広げる。緊縛も、谷ナオミを差し置いて彼女が先に披露される。ダンナの弟が面(おもて。能面のことじゃ)の彫刻師であり、その表情に喜怒哀楽全てを表現させなければいけないのに、お前は一つの表情しか刻み込めない、と言って、兄であるこのダンナ、本当の女の顔を見せてやる、とこの女中をギリギリ縛り上げ、彼女をさまざまなテクニックと彼の男自身で責め上げ、悶えさせまくるのだ。尻と前の穴に食い込ませた荒縄をぐいぐい引っ張り上げるという正統派(?)SMを肌に密着するクローズアップで近付き、その肌には汗が玉のようになって無数に浮かび上がる。その汗をしたたらせた尻は男の手管にブルブルと筋肉を震わせ、薄い乳房の上下に食い込ませた縄は、胸よりも腕に痛々しく食い込んでいる。彼女は汗で黒髪を顔にべったりとはりつかせ、そして振り乱しながら、激痛とも歓喜ともつかない叫びにも似たあえぎを展開するんである。生理的な超エロティック!

ダンナの不倫を障子を隔てて聞いている奥さんの谷ナオミは、もはやすっぱだかのシーンの方が多いこの女中と対照的に、寺のおかみさんらしい上品な和服を胸元もうなじもひかえめに着こなしているんだけど、彼女の顔や身体があんなふうにハデだから、それをそうやって押し込めている分、そして盗み聞きしている分、やはり返ってエロエロなのである。彼女とダンナの弟である彫刻師、この二人こそがお互いに思いを交しているのだけれど、二人とも頭首である兄には逆らえない。そうしてこの女中と弟は結婚させられてしまい、事態はますますややこしくなる。二人は禁を破ることなど出来ないし、少なくとも弟の方は肉体的な欲望のはけ口をこのかりそめの妻に放出することが出来るけれども、奥さんの方は女ざかりの身体の炎を抑えられず、ダンナが女中と絡み合っている中を入っていって、「お願い、あなた私を抱いて!」と屈辱の懇願をするのだ。超嗜虐的!

ようやく、谷ナオミが縛られる。まさに、まさに完璧なその裸体。この時代の女性としては奇跡的なほどに長い脚が、屈辱と恍惚に蜘蛛のようにダンナに絡みつき、そしてそのたわわな乳房は縛られることによって筆柿のような形にしぼり出され、男が吸うのを待っているかのようにフルフルとしている。そして彼女のあえぐ演技は、確かに見られることを意識している、つまりはこのマゾヒスティックな状態に実に似つかわしいもので、キレイにそろった真珠のような白い歯を朱紅に塗った唇から食いしばった形で悩ましくのぞかせて、目の下にきつく引いたアイラインがギュッとつぶって強調され、極細にした眉の眉頭がキレイな形にゆがめられ、まさに計算され尽くした喜怒哀楽の全てを飲み込んだ女の顔なのだ。弟が作っては壊し、作っては壊しした面は、この奥さんをいつでも頭に思い浮かべて描かれたもので、それまで女の情欲を押さえ込まれてきた彼女からはひとつの表情しか引き出せなかったのだ。しかし緊縛に喜びを得た彼女には、その表情の全てが宿っている……。思いは弟の方と通わせながらも、だなんて。皮肉のかもしだすエロ。

この辺でストッと寝入って数シーン見逃してしまったんだけど、どうやらこの奥さんと弟は二人で死ぬことを決心したようで、弟が奥さんを緊縛し、ということはやっているものの、彼らは男と女のちぎりをついに交さずにしまう。この弟は足を悪くしていて、そして一方で彼女の方は緊縛で身体の自由を失われ、でもその不自由同士というのは、これぞ嗜虐的なSMの危険な香りを漂わせてドキドキする。男女の仲は結ばずにいたことが彼らのけじめだったわけだが、この話を聞きだしているこの奥さんの娘は(谷ナオミ2役。つまりこれは回想されている物語)お母さんはおじさまと契りを交したかったのだ、と言い、自分でその思いを遂げさせるとでもいうように、あっというまに全裸になり、彼に抱いて欲しい、とせがむ。あまりに唐突で思わず笑ってしまいそうになるんだけど、何か画面の雰囲気があまりに真剣で、うっかり笑うのもいけないような気分になる。この時この娘はこの“おじさま”が作ったんであろう面をかぶったまま彼の下になる。その面は、いわゆるあの女の能面なのだが、下から舐めて撮ると目尻が下がり、唇の両端がめくれ上がっているように見え、ゾクッとするような女の歓喜の表情に映るのだ。その下に谷ナオミの顔は隠されているわけだが、まるで彼女の体に感じている恍惚をその面が読み取っているみたいで、どこか恐ろしいほど。

この弟=おじさまも2役なのだけど、こちらは年をとらせなきゃいけないわけで、あからさまに茶色の線で目尻と額にしわとか描いちゃって、コントみたいでどうにも可笑しい。笑っちゃいけないと思いつつも、現代の時間軸の彼、そのいでたちで静かに茶の湯を披露したりすると、ますます笑えてくるのは……ダメよね、私って。谷ナオミは娘役の時は真白い長めのワンピースで、深窓の令嬢の雰囲気。妖艶な和服の奥さんの方が似合うけど(多分、当時の年齢的にも)、そのワンピースに熟した身体をすっぽり隠しているのはやはり同じで、するりと脱ぎ捨てた時の完熟の身体にはまさに息を呑んでしまう。

団鬼六が谷ナオミを書いた話を読んでいるところだったので、それによると谷ナオミは決して不感症なんかじゃなかったと思うんだけど、つまりは彼女は自分のセックスを演技で再現するようなことは決してしない、演技の上でもプロだったということなんだよね。それだけ自分の肉体で見せる自信があったわけで。やっぱり女王だよなあ。★★★☆☆


多摩川少女戦争
2002年 103分 日本 カラー
監督:及川中 脚本:及川中
撮影:白尾一博 音楽:二見裕志
出演:小野麻亜矢 青山朱里 松坂紗良 福井裕佳梨 松重豊 山口あゆみ 柳明日香 石井苗子 金田美香 水橋研二 平岩紙 石丸謙二郎

2002/7/2/火 劇場(BOX東中野/レイト)
え?ちょ、ちょっとはしゃぎすぎな点数でしょうかね……自分でもそうは思うんだけど、何かすべてにおいて自分のツボにメチャクチャズドッときちゃったんだもん……。そうか、そうか、なぜ今まで気づかなかったのかホント不思議なんだけど、及川中監督ってば、少女映画の巨匠じゃないかあ。デビュー作の「オクトパス・アーミー」観ていないんだけど(というか、「日本製少年」がデビュー作だと思ってた)、「日本製少年」といい、「富江」といい(そう!このヒットシリーズは何たって及川監督が始めたもの。レイトショーだったのがここまでの美少女シリーズに成長したんだ!)、そして今回の“タマショー”。本作で、判った。及川監督は凛々しい少女を描くのに長けた人なんだ。

監督自ら少女映画決定版を作ろうと思った、という本作は、現代の少女を勢ぞろいさせているにもかかわらず、昨今ウヨウヨしている現代の少女ではないのだ。髪もほとんどがそのままの黒髪で、アクセサリーもあまりつけておらず、爪も長くもないし染めてもいない。あ、だって「世田谷ベルベッド団」に「川崎ライオネス会」だなんて名前の“不良少女グループ”なんだもん!ケンカするのにアクセや爪はジャマだってことなんだろうなあ(生々しいッ!)そんでもってベルベッドは黒服で、ライオネスは赤服で、橋の両方から大勢で走り寄って来て、多摩川の上でガンをとばしまくる。ガ、ガンを飛ばす、だなんて……何か80年代風不良少女の抗争って感じ?そんなどこか懐かしさを感じながらも、画面は徹底的にドライで、古臭さを感じさせず、それどころか何だかやたらとカッコいいの!もーう、びっくりしたよー。

ところどころに美少女は見受けられるが、全体的にははっきり言ってそうでもない。しかし、彼女たちの面構えのいいこと!最近は美女、美少女に関しては韓国にすっかり負けちゃってるけど、面構えの女優に関しては絶対、負けてない!特にベルベッド側の力石みたいな顔したサブの一人、ハッチって子がホント、凄い面構えなのよ。ベルベッドのリーダー、曜子(山口あゆみ)はかなりの美少女なのだが、このハッチが一緒に画面に出てくると、その強烈さにもう彼女にしか目がいかない(笑)。本当に女性かあ?(失礼!)と思っちゃうぐらいの強烈さ。力石だよ、ホント!んで、あんまり気になって調べてみたら、このハッチ役の播田美保って、私より年上じゃないかあ!少女映画になんか出ていいのか?

んで、その面構えと美しさを同時に持ち合わせるのが、主人公であるナオに扮する小野麻亜矢。いやー、彼女には参ったね。フィルモグラフィを見てみると、結構映画で折々見かけているはずなんだけど、ちっとも気づかなかった。きれいな長い黒髪をなびかせ、その髪に隠された表情は、いつも厳しく引き絞られている。何かさー、梶芽衣子ばりの美しさ&カッコよさなんだもの!面構え、だわ、まさしく。そしてそのスラリとした肢体!いやー、見とれちゃったよ。かつてこの一帯の少女たちを全て率い、不良少女を利用していたあくどいヤクザ、ベッチこと苫米地を刺して鑑別所行きになり、3年ぶりにシャバに戻ってきた彼女。冒頭、魚肉ソーセージをかじりながらパックの牛乳をすする彼女の姿に、もはやゾクゾク。この食べ物の取り合わせもちょっと、隠微じゃない?男を陥落させる暗喩みたいで、イイよね〜。孤児院育ちの彼女は(ってあたりの設定も嬉しくなっちゃうほどお約束だわ)、親代わりの園長先生に引きとめられるのを振り切って街へと出て行く。彼女が鑑別所に入っていた間に、いわば彼女の替わりとしてどんなことをされていたか判らない、同じ孤児院育ちの親友、ユカリを探して……しかし入ってくるのは悪い情報ばかり。そしてついに再会した彼女は……。

このユカリってコも凄い“面構え”なのだ。はっきしいって、美しくはない(再度、失礼!)肌荒れを隠すかのように白ファンデを塗りたくった風な時点でもはやブキミだが、その顔に鬼みたいな真っ赤な口紅、そこからこぼれるやや出っ歯気味の歯、黒目がちの小さな目(ってとこが、怖いのよ。黒目がちならもう少し大きな目じゃないと)はあきらめきっていて、歌うようなソプラノ系の高い声がこれまた怖いのだ。しかもマニッシュなナオと対照的にピンクハウスみたいなピラピラした格好をしているのもまたコワイ。しかしこの対照というのはさもありなんで、回想シーンで草むらに寝転びながらナオの上に乗りかかり、その美しい顔を覗き込みながら「私を殺して」と言うユカリがナオをそういう意味で好きだったんだろうことは想像に難くないし、ナオの方も、多分……。友情がスレスレのところで反転するかのようなこういう雰囲気も「女囚さそり」風なんだよなあ。

このナオを泊まらせ、助けてくれるのが、ヒロミ、トッポ、カオルの三人娘。この三人はベルベットにもライオネスにも属しておらず、エンコウを未遂で終わらせてオヤジから金を脅し取り、生活しているという一見お気楽な三人組。しかしこの子たちがなかなかいいのよ〜。ナオがあの伝説の少女だと知ってすっかりはしゃぎ、サインまでおねだりする三人。いや、サインをねだってたのはトッポ一人だったな。このトッポ役の子、福井裕佳梨が実にいいのよ(彼女も「守ってあげたい!」で見てるはずなんだけど……菅野美穂に気を取られてたのか、全然気づかなかったわ)。出演少女たちの中で、彼女が一番気に入ったな。セーラームーンみたいに頭の高いところに2つ長い髪の毛を結い、ミニのプリーツから出るバーンとしたなま足といい、ロリな雰囲気が実によく似合う童顔の彼女。そのキャラの雰囲気を伝えるクルクル変わる表情とマンガチックな喋りが、メリハリきいててわざとらしくなく、上手いんだな、これが。コインランドリーの場面で、ベルベットのコワモテコンビ、マンタ&ハッチに詰め寄られた時の、ひやあ、みたいな表情とか、もう、カワイイッ!

ユカリの消息をたどって、三人は河原のホームレス、レゲエお姉さんのエミリーさんのもとにナオを案内する。すると、ユカリはすでにおらず、かわりに大金を持ったナゾの少女、ケロッピがいた。彼女は青森から養父のヤクザとともに取引の金を運んできたらしいのだが、ずっと自分を犯し続けてきたこの父親をスキを見て撃ち殺し、この金を奪ってきたらしいのだ。あっ、青森ー!!たしかにこの養父もケロッピも、彼らの行方不明を受けてやってきた二人のヤクザも津軽弁喋ってるわ……発音キレイすぎるけど。加えて言えば彼らをもてなしてベッチが出す手作りの松前漬けはちょっとネバリが足りなすぎるやね。彼らが言うように、「美味い」ようには見えんぞお。

そう、ベッチがこの取引に絡んでいたのだ。不良少女たちを使ってケロッピを探させ、先述のコインランドリーの場面で見つかってしまう。ナオはこの宿命の相手とまた対峙しなければならなくなる。ケロッピが持っていた、金の入ったスーツケースを渡すから、彼女をこちらに渡すよう交渉するナオ。一人で来いというのにベッチが従うはずもなく、青森から来た二人のヤクザが背後からしのんできて、ナオは無謀にも拳銃をベッチに向かってぶっ放すが、双方から撃たれてしまう!倒れたナオに「惜しいな。男だったらいいヤクザになれたのに」(まさしく!)と語りかけるベッチにカッと目を見開いて、拳銃を撃ちこむナオ!下に防弾チョッキを着ていたのだ。とは予測はしてたけど、か、カッコいい〜ナオ!もうッ!この時ケロッピが撃たれてしまって、ほうほうのていでエミリーさんのもとに逃げ込むも、彼女は虫の息。その時ナオは何かを見つけて立ち枯れた葦の向こう側へと歩いていく……そこにはユカリが……。

ユカリが「ナオ、私を殺して」と言うのに対し、ナオは「一緒に行こうよ、どこでもいいから」とユカリに語りかける。そうして二人お互いに拳銃を向け合うショットは、えええ?それってそういうこと!?とビックリするも、双方の拳銃が火を噴きあった後、倒れたのはユカリだけだった。その時、ユカリの命をもらったかのように、ケロッピが息を吹き返す。そしてナオは一人、どこへとも知らず、去ってゆくのだ……ユカリとともに?

ケロッピ役の青山朱里も良かったね〜。ちょっと垢抜けない感じのロリ顔(またしても)で、ロリコンのベッチから「地獄を見た顔だな」と言われるんだけど、確かに。無邪気な笑顔と“地獄を見た”凄まじい表情が同居するアンバランスさがいい。ナオが撃った息も絶え絶えのベッチに、自分が彼にやられたようにその口元にハーモニカを持ってくところなんて、少女の生々しさと残酷さが共存していてゾクゾク。しかもその顔の感じに反して結構胸がデカイのもポイントだ。演技がヘタな子がいないんだよね、一人も。それって、凄いかもしれない。あるいは監督の演出がいいのかな。自らが少女の感覚に近いと分析する監督は、少女女優の力量を引き出すのがメチャクチャ上手いんだろう、きっと。

この季節に公開されるにはちとキツい冬の寒々した季節感。冬に観たかったな、実際。そうしたらきっともっと雰囲気満点だった。立ち枯れた背の高い葦の中をさまようしかない少女たちの寂しさ。大勢で群れていても、晴れることのないその心を映すかのような冬の曇り空。彼女たちの言葉には、その出生や、養父母のそれから、韓国語や中国語も飛び交う。日本人の仲間を信じず、同じ中国人じゃない、とすりよりながらも、その相手すらも信用していない少女の荒涼とした心。無国籍感がより一層一人一人のアウトロー感をさそう。

ラスト近くの、こんなシーンが印象深い。内部分裂でリーダー失脚の罠にはまった曜子とリン。少女たちの抗争に駆けつけた高野刑事は、川べりで怪我をして動けなくなっている曜子を見つける。網タイツに包まれたあらわな足がなまめかしい。「本当はあたしとヤリたかったんでしょ」とこの期に及んでも悪ぶく曜子に、高野刑事は「鑑別所でゆっくり休むんだな」と彼女の頭をくしゃくしゃっとやる。その描写ですでに、高野刑事の、まだまだ子供である彼女を慈しむ気持ちが伝わってきゅんとなるのに、「もう鑑別所には行かないよ。昨日、二十歳になったんだ。ちゃんと大人用の刑務所に入れてよね」と彼につぶやく曜子に、またひとつ、孤独の階段を上った彼女の心が痛くて、さらに胸がしめつけられる。連行される曜子は、やはり連れて行かれるライオネス団のリンとすれ違う。微かな微笑みを交す二人。もともとはナオの下での仲間だった二人なんだもの……。

これだけ少女をそろえていながら、今風のつぶれた発音の子が一人もいないというのも奇跡的。みんな実に美しい発音の持ち主なのだ。演技もみなしっかりしていて、若いながら訓練されているという感じ。ところで!及川監督の次作は吉田秋生の「ラヴァーズ・キス」!うー、なんてぴったりなんだ。ちくしょう、早く観たい!★★★★★


男子と妓生
1969年 85分 韓国 カラー
監督:沈雨燮 脚本:
撮影:音楽:
出演:具鳳書/許長江/金清子/都琴峰/楊薫/李嬪華

2002/12/15/日 京橋 東京国立近代美術館フィルムセンター(韓国映画―栄光の1960年代)
現代の韓国映画の元気の良さ、そのルーツを知ることが出来るかなと足を運んだフィルムセンターだったんだけど、選んだ作品が悪かったのか、大コケ。解説では“東宝の社長シリーズやそのスター・コメディアンたちを連想させる”だなんていうから大いに期待したのに、ヤメてよー、そんなん、一緒にしないで、冗談じゃないよ!というのが本音なところ。でも会場は結構笑っていたし、そうでもないのかなあ……しかし私はいっこも笑えないままだったけど。かなり、かなーりツラかったぞ、ホントにい。

お裁縫が得意なために、仕事中にその内職をしているのが社長に見つかってクビになった青年が次に得た職は、女装しての妓生。そこで彼(彼女)にご執心になったのがほかならぬ彼をクビにした社長であり、他の社長と取り合いになって、果てしないドタバタが繰り広げられる……。妓生というのは、日本で言えば何に置きかえられるのかな、つまりは料亭で呼ばれる女の子だから、芸妓さんとか……芸はしないけど、ホステスさんか。色鮮やかなチョゴリに身を包んだ彼女たちは、酒を呑みに来る男性客にお酌をしてお相手をして、指名されたりもして、チップをもらう。下品な客に怒った人気妓生が辞めてしまったことで、青年がその職を得るわけだが……。

この青年というのがね、何かこう、そう西田敏行みたいな感じで、最初っから女装をするには、絶対、コリャ無理だ、ってお人なの。だから当然、女装すると、もう目も当てられないことになっちゃう。まんま、男が女装してんだろ、ってまるわかりなのに、なぜかそれに誰も気づかないのね。その特異な風貌に失笑はするものの……。このキモチワルイ流し目を駆使する山月(彼の源氏名)、ここで笑えなきゃもうダメだと思うんだけど、で会場は結構ウケてるんだけど、私はダメ。はっきり言って造形だけで芸もないしさ。……そう、造形だけなのよね。この山月、社長に誘われてデートにも出かけ、彼のリクエストどおりにミニスカートまではいちゃって、あの顔のデカさでミニスカートなんてはくなー!と絶叫したくなるほどキモチワルイんだけど、どうにも笑えないのは一体ナゼ?うふふ、とばかりに手をひらひらと広げて駆けて行ったり、笑えるはずなのに、笑えない。

彼と同等のコメディリリーフになるのが、山月にご執心になる社長なわけだけど、これまたお寒い。この社長、恐妻家で、こういう浮気がバレるたびに、ヒステリックな奥さんから罰を受けるのに全然こりない。あるいはこういう奥さんがいることからの反動なのかもしれないけど……“初恋の人に似ている”と山月にご執心になる、どんな初恋の人だよ!とツッコミたくもなるが、彼だけではなく、山月はこの料亭で一番の人気妓生になってしまうのだ……うーむ、判らん。この社長が語っていたように、男どもはただ若いだけの妓生に飽き飽きしていたということなのかしらん。聴き上手で呑ませ上手、というあたりは判るけど山月の人気の出た理由はこのかなり腕っぷしの強さ?(苦笑)。どうもSM的な嗜好があるような気がするけど……。

なんとまあ、この社長、山月をホテルに連れ込もうとまでするんだから、このデカい顔と寝ようとしているのか……うう、寒い、かなり寒すぎるぞおー。結構アッサリ山月も社長について部屋に入っちゃうので、ま、まさか脱いだところでバラしちゃうなんて、そんなエグいことしないで!と思ったら、お風呂に入っている間に逃げる、というあまりにお約束な展開。山月は社長の服を(このケバい化粧したまま)着て逃げちゃったので、社長はミニスカート姿で帰るハメに。うーん、ここんとこは、ちょっとは笑えたかなあ?ご丁寧に彼、黒のアミアミの靴下まで履くんだもん。そこまでしなくていいのに……。

こんなことしている間に、この山月君、しっかり恋人をゲットしているんである。この料亭に入ってすぐ、その中で一番の若くてかわいい妓生に目をつけ「私は10年この花柳界に身を置いているの。私を姉さんと呼んで」と流し目。そんな姿でこれはナンパかい?で、信じられないことにそれで彼女はあっさり彼をベテランの姉さんとして慕っちゃうわけ。……あんなこと言われたら、ただ引くだけだと思うけどなあ……。いや、しかし他の妓生たちも姉さん、姉さんと言ってなついているし、どーも、判らんが。彼女には自分が男だということを早めにバラして、すぐラブラブになっちゃう。韓国女優はその昔からやっぱり美人で、この西田敏行にはどーみても、ぜーったい、もったいないのだが。そうそう、他の妓生たちも皆平均以上に美人なので、妓生たちの休憩所?でしどけなく雑魚寝状態で仮眠をとるところなんか、ちょっと蠱惑的な魅力。彼女らは気づいてないわけだけど、ハーレム状態になっているこの山月がうらやましくなっちゃう。

山月が妓生を辞め、それでも社長は彼女?を忘れられなくて、料亭に通いづめ。化粧品販売に転職した彼(ホントに彼)は料亭に赴き、かつての同僚たちに実は男だったことを明かす。お前ら、ほんとーに今まで気づいてなかったワケ!?というぐらい、どこか白々しく驚くあんたたちは何なんだ、ホントに。で、その時にこの社長とも再会し、全てを告白。ここで彼とも決着がついたかと思いきや、なーんと、これはホントに腕っぷしの強い、テコンドー初段の青年の妹がこの社長の息子とイイ仲にあり、身内同士の顔合わせで再会しちゃうんである。「何でこうもお前と会ってしまうんだ!」とこの社長、ご立腹かと思いきや、彼を会社に呼び戻し、しかも課長待遇、ということで、果ては、もうどこから見ても男の彼に吸いよせらるようにキスしようとする。ひょーっとして……ゲイ文化への目配せもあったのかな?

あ、でもそう考えるとこの作品のラストは、社長の失恋でオワリ、とも言えるんだわ。社長がね、屋上から降ってきた編物道具にナンダナンダ、と登ってみると、彼と妓生仲間の彼女が今まさにキスせんというラブラブシーンに遭遇するわけ。社長は毛糸が入っていたかごを頭にかぶり、これはお邪魔だった……ときびすを返すんだけど、その姿が妙に寂しそうなのよね(笑)。しっかしさあ、この社長が屋上まで馳せ参じる描写、コミカルにしているつもりなんだろうけど、ワザとらしい早回しや巻き戻しに、観てるこっちがハズかしくなっちゃう。古い時代というのもあるんだろうけど、そういう色んな部分で洗練されてないというか、あまりにヤボったいんだよなあ。

そう、このヤボったさがもう許せないぐらいのもんだったのよ。ヤボったさっていうのも時としていい作用を及ぼすこともあるんだけど、これは単に映画を語る技術の稚拙さとしか、思えない。道を譲り合って頭ごっつんこやるとか、社長同士のケンカにしてもそのショボさは確信犯的に、つまりギャグにしてるんだろうけど、そういうのがベタにすらなっていないヤボで、これでどーやって笑えというのよ、というのが本音なのよ。うーん、彼らは一応これで名の通った喜劇役者なのかなあ……。

アイディアは面白いだけに、残念度も倍増。この特集上映、何本か観るつもりだったんだけど……なーんとなく、気分が失せちゃったなあ……。★☆☆☆☆


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