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「ふ」


2001年鑑賞作品

ファイナル・デスティネーションFINAL DESTINATION
2000年 98分 アメリカ カラー
監督:ジェームズ・ウォン 脚本:ジェームズ・ウォン
撮影:ロバート・マクラクラン 音楽:シャーリー・ウォーカー
出演:デヴォン・サワ/アリ・ラーター/ショーン・ウィリアム・スコット/カー・スミス/チャド・E・ネドラー/アマンダ・デッドマー/トニー・トッド


2001/2/2/金 劇場(みゆき座)
ちょっと、これはきちんとお勧めしておきたい。かつてホラー映画が大好きだった頃の血が騒いだ!ムチャクチャ面白く、ムチャクチャ怖くて、スピード感がある割には結構知的で、でもあんがいとオマヌケだったりして(笑)。完全なノースター(唯一のスターがトニー・トッドとか言われても、知らんわ)、テレビ界から来た演出家、飛行機パニックから始まるホラーもの、しかもタイトルが訳判んない、という、観に行こうとする映画の選択肢にどうあったって引っかからないような代物が、こんなにバカ当たりするとは!いや、私だってね、選択肢に引っかかってなんか、なかった。ただこの日、金曜日で、ダメだと判っているのにレディースデーのシネスイッチ銀座に足を運んで、やっぱりダメ(お立ち見〜)で、じゃあ、なににしようかと、この辺で、この時間帯で、う〜〜〜ん、つまんなそうだけど、これしかないかあ、てな感じで飛び込んだんだもの、こりゃあ、ほんとに思いがけない拾いモノだった。

全ての始まりは飛行機事故の悪夢、だから、ついこの間のニアミス事故が生々しくイメージされたりして、それもまた怖いんだよね。実際の飛行機事故はとおーくから描写されるだけなんだけど、この事故を予知した高校生、アレックスの見た悪夢が、ヤメテヤメテヤメテヤメテッ!!ってくらい、リアルでコワくて。突然の爆発、怒号と悲鳴。降ってくる酸素マスクに我先にと群がる乗客、壁に穴が空き、座席ごと飛び出してゆく友達、手をのべても、届かない。そうしているうちに、業火が襲ってくる。一瞬にして焼け爛れる人々……そして、アレックスは唐突に目を覚ます。

彼はその前からなんとなーくイヤな予兆をそこここに感じてて、それは飛行機事故で死んだ歌手の歌が空港に流れていたりだとか、ほんとに些細なことなんだけど、そうしたことを、まあクサイくらいにスローモーションをこれ見よがしに使って見せるのがね、いやんなるくらいに効いてるんだわ。前の座席の背についてるテーブルを止めておくネジが壊れてたりとか、そうしたことがね。そしてその悪夢でアレックスは事故を確信し、パニックを起こし、女性教師や親友、因縁のクラスメイトなんかを巻き込んで飛行機を下ろされてしまう。ただ一人、巻き込まれずにその様子を見て自ら降りたのが、アレックスをじっと見つめ続けていたクレア。

アレックスの悪夢が現実になったことで、皆が彼に疑いの目を向けるようになる。FBIがやってきて、根掘り葉掘り調査する。しかし、アレックスはただ感じただけ。何も出てくるはずはない。最終的にもこの事故に何らかの陰謀があるということはなく、燃料系統の故障だということが明らかになる。それでも周囲の猜疑心の目はやまない。ことにひどいのが女教師ロートンで、アレックスのおかげで助かったってのに、あからさまに彼を気味悪がり、怖がり、避けるのだ。えー、あんた、それでも教師かよ、と思うほどで、あんな気味悪い生徒どうでもいい、もう自分だけがカワイイって思ってるのがアリアリなのである。ちょっとこれにはガッカリしたなあ。

アレックスに巻き込まれて助かった彼を含めた7人は、しかしアレックスの親友、トッドが不慮の事故(自殺のように見える)を遂げてから次々と謎の死を遂げる。トッドやロートン教師はかなりじっくり描かれていて、……そう、このあまりの偶然が重なる事故死は、ほんと感心しちゃうくらいの出来。まるでドミノ倒しみたいに、逃げても逃げても逃げられないのだ。その一方、もう、ほっんとに一瞬のうちにバスにかき消されて血しぶきになっちまう女の子だの、電車が跳ね飛ばした鉄板で頭半分ふっ飛ばされちゃう男の子だのっていう、どっわああ、という描写もあったりして、もうこっちはぜいぜい言ってついていくって感じ。いささかゲーム感覚に過ぎるかなって感じも確かにあるんだけど、とにかく鮮烈なのだ。

親友、トッドの死も、アレックスは予兆を受け取っていて、彼はアホなことにトッドの家に駆けつけてしまうのである。この後も再三、アレックスは予兆にしたがって不用意な行動を繰り返し、ほんとアホやなー、疑えって言ってるようなもんじゃん、とかなりあきれるのだが、まあ、その辺はティーンエイジャーの純粋さということで、ご愛嬌である(演じてる役者は年増だけどね。高校生役だってのに、30越えてる奴もいるんだもん!)

そうこうしているうちに、アレックスはだんだんと、この謎の死に規則性があることに気付いてゆく。アレックス、バカな行動ばかり繰り返しているわりには、案外冷静で、案外頭がイイのよね(笑)。そして最初から彼を一人信じていたクレア(アリ・ラーター。この娘、ミステリアスでキュートで、イイわあー。でも24歳だけど(笑))とともに、その見えない敵に向かって、不可能ともいえる戦いを挑んでゆくわけだ。その時点で生き残っていた、アレックスと犬猿の仲のカーター(共に生き残っていた彼女も死んじゃってお気の毒)も交えて。その規則性というのは、生き残った7人が座っていたはずの座席の、爆発経路の順に従って、死んでいっているというもの。死ぬはずだった人間なのだから、必ず死ななければならない、というのだ。しかもその方法は、あくまで偶然の事故。不自然なまでに偶然の事故なのである。しかしその次の順序だったはずのカーターは、アレックスが“助かるのが見えた”ことで回避される。その予兆から逃げることが出来れば、助かるのだ!かくして次の順番であるアレックスは、見えない敵に向かって、完全武装で立ち向かうことになる……。

あくまで偶然、これが、スゴい。完全に、神の遺志なのである。怪しげな物影なんぞは、出てこないんである。この手があったか!とね。これがさ、昨今ヒットした「スクリーム」のようなところが、おふざけも含めて全然なくってね(いや、あーいう世界も好きだけどね)。風に吹かれてさびた釘が飛んできたり、落雷で切れた電線が暴れまわっていたり、とにかくそうした自然現象?を先に先に読まないと、逃げられないのだ。そんなことは知らないトッドなぞは、早々にそれにやられてしまったわけだけだが、でも彼のシーンでも、それを感じさせてとても怖かった。剃刀を頚動脈あたりに当ててひげを剃ったり、鋭くとがった小さなはさみで鼻毛を切ったり。もうここで、地震の一発もおきりゃ、頚動脈ぶった切りの、鼻腔ぶち抜きだああ!って。実際はもっとエグい死に方だったんだけどね……。目を真っ赤に染めて……うええええ。

アレックスはその規則性に落とし穴があることに気付き、次の順番は自分ではなくてクレアだと判って、猛然と彼女のもとへ向かう。当然ながら(笑)彼女は絶体絶命の真っ最中!彼は自分が死んでしまえばクレアが助かるのだと、彼女を捨て身で助けようとする。火花を散らす電線、車から出られず絶叫するクレア、そしてアレックスが死にものぐるで荒れ狂う電線を引っつかむ。爆発の寸前に飛び出るクレア。慌てて彼のもとに駆け寄る彼女、アレックス、息をしていない!

しかあーし、そこで時は半年後に飛ぶのだな。いやー、お約束だな、ほおーら、アレックスもちゃんと無事で、クレアとラブラブで、すっかり心を入れ替えたカーターとともに、あの時行けなかったフランスへと(修学旅行で行くはずの飛行機事故だったのよね)旅行に来ている。「この三人が生き残ったのって、単に危機を飛び越えただけで、まだ循環してるんじゃないのかな」などとマゾヒスティックなことを言うアレックスに、「この三人が生き残るっていう筋書きだったのよ」と前向きなクレア。「そんなこと言うなら、今度はお前の番なんだぞ」とからかうカーター。もう半年も経ってるんだし、クレアの言うとおりだよ、とあんのんと構えてたら、アレックスはまたしても不穏な空気を感じ始める。えー!?まったあ、それもまた、あー、思い過ごしでした、って、ハッピーエンドでしょお、って思ってたら、突然ニアミスするバス!ちょ、ちょっとまった!とパニックしてると、とっさのところでカーターがアレックスを助け「お前の番だって言っただろ!」ハッとアレックス気づいて「あ(自分の番が)飛び越えた!」その途端に、カーターの後頭部めがけて崩れ落ちる電光掲示板!そしてそこでブラックアウトお!?そおんなあ、じゃ、じゃあ、せっかくラブラブになった(って、そんな問題じゃないけど)アレックスとクレアも、やっぱり死んじゃう運命なの!?それとも死ぬまでこうした“偶然の事故”をいちいち察知して飛び越えて行かなきゃいけないの!?ジョーダンじゃないよお!!

というわけで、すっかりネタバレバレでした。スミマセン……でもね、とにかくホラーの定石である、観客を常に怖がらせるという点でほっんとに、これほど完璧なのは、特にアメリカ映画では久しぶりのような気がする。「スクリーム」は前述の通りだし、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」は登場人物ばかりが怖がってたしさ。日本映画では割とあったんだけどね。「リング」とか「呪怨」とかね。でも、そうした日本モノにはない、スピード感で怖さを畳み掛ける展開に、もうほんとにとにかく圧倒されっぱなしだった。あ、そうそう、全然触れなかったけど、生き残った中でいっちばんノーテンキで、いっちばんマンガチックに死んじゃう(頭半分吹っ飛ばされる)ビリーが面白かったなあ。他のキャストもそれぞれホラー&サスペンス&オカルト映画のスタッフ&キャストにちなんだ役名をもらってるんだけど、彼はなんといってもビリー・ヒッチコック!そのノーテンキさに反して、一番気合の入ってる役名なんだな(笑)。★★★★★


ファストフード・ファストウーマンFASTFOOD FASTWOMEN
2000年 98分 アメリカ=フランス=イタリア=ドイツ カラー
監督:アモス・コレック 脚本:アモス・コレック
撮影:ジャン=マルク・ファーブル 音楽:デヴィッド・カルボナラ
出演:アンナ・トムソン/ジェイミー・ハリス/ルイーズ・ラッサー/ロバート・モディカ/ロネット・マッキー/ヴィクター・アーゴ/アンジェリカ・トーン/オースティン・ベンドルトン

2001/3/19/月 劇場(シネマライズ)
始まって、主人公たちが英語を喋りだして、ええッ?と驚いてしまった。実は、フランスかどこか、とにかくヨーロッパの映画だと、思っていたから。それでも途中までいやいやいや、イギリス映画かもしれない、と思い続けたくらいなんだけど。それぐらい、アメリカ映画っぽくなかった(ま、アメリカが筆頭に来ているとはいえ、四カ国も入り乱れての合作だけど)。ふと、あ、違う違う、これはNY映画なんだ、と思ったら、途端にしっくり来た。全編を彩っているのはちょっとコミカルなタンゴなのだけど、アクセント的に、そして後半とクレジットにかかってくるのは身震いするほどクールな、これぞNYのジャズ!私、アメリカはどうも苦手だけど、ジャズを育んだという点に置いてだけは、本当に尊敬する。ところで、フランス映画だとばかり思っていたその理由は、予告編で見ていたアンナ・トムソンの印象のせい。真っ白の肌に、長い長いプラチナブロンド、露出度の多いスリップドレス。はっとするほど大きな胸ながら、手足がほっそいもんだから、いやらしい感じがしない。ホントにフレンチドールみたい。しかしたっぷりした唇や何かを訴えたそうなこぼれそうな瞳がアンバランスにセクシー。ほんとに、パリジェンヌみたいなんだよね。その理由は彼女の、驚くほどに波乱万丈な半生で、多感な時期にフランスに暮らしたせいなのか、それを考えれば、この、35歳という女の揺れ動く様も、そんな彼女自身の人生模様が作用しているようにも見え……。ま、そんなことは関係ないんだよね。彼女自身の女優としての魅力だろう。

最初こそ、ああ、女はここから歳をとるのよね……と思ってしまう彼女の首筋が気にならなくもない、んだけど、でもここでの彼女が35歳という年齢を、言うほどにネガティブに捕らえていないから、言ってみれば歳を重ねることをそのままに受け止めているから、ベラという、彼女そのものがすぐに好きになるのだ。キューピー人形みたいな顔した年とってんだかとってないんだか判んない様な男との不倫がダラダラと続き、キャリアウーマンにウンザリして始めた筈のダイナーのウェイトレスも「君にやめられたらこの店はおしまいだ」とありがたくも言われつつも、あまりに年季が入ってきて訳も判らずやめたくなり、母親からは「あなたは心配させる子なのよ」といまだに世話を焼かれる始末。ま、そのおかげでいい相手とめぐり会えるわけだけど。

彼女は勿論なのだが、彼女のダイナーに集まってくる老人男性三人、そのうち二人のドラマティックな展開も描かれていて、特に、そのうちの一人、ポールのエピソードがバツグンにイイのだ。ベラの物語と拮抗するくらい。それはこう。ポールは他の仲間にバカにされるんだけどまだまだ人生は新しく始まる可能性がある、と思っていて、新聞の広告に交際募集を出していた60歳の女性と出会うことになる。ホントは66歳なのをサバ読んでたことが明らかになるのだが……。写真の段階から、ポールはすでに一目ぼれ状態。実際に会った彼女は写真よりフケて見えるような気もするのだが(少なくとも私には)ポールはそれに気付いているんだかいないんだか。むしろ彼女のほうに「写真より、老けて見えるわ」と言われ「最近の写真がなかったんだ」と言う始末で。彼女、エミリーは緊張からか、ワインをぐっと飲んで目を白黒させたり、どうも行動がアヤしいんだけど、それもまたポールには愛しく映るらしく、うっとりと彼女を見つめている。この熟年どころか老年の出会いの二人の恋愛は、それこそ歳なんて全然関係なく恋愛って進行するんだと、思わず人生に希望を持ってしまう!?勿論お互いさまざまな人生模様を経験してきたから、それなりに慎重にはなるんだけど、でも恋のハートには抗えない。男性はまあ、わかるんだけど、女性でもこの歳でも、体が求めるものってあるのか……って、女性の私が言うこともないんだけど、でもそれもまた本当に純粋にドキドキしてしまう。ジャズに合わせて楽しげにダンスに興じる二人。お互い焦らないようにしようと言い合いながらも、それは翻って言えばお互いにそうした気持ちを持っていることの裏返しであり、ついには「久しぶりなんだ……!」と彼女を求めるポールに「ああ、素晴らしいわ!」と歓喜するエミリーという、今までの映画では見ることの出来なかった老年カップルのそんなシーンが、本当に素晴らしくって。いくつになっても恋は素敵だ!

この二人もハッピーエンドに至るまでには結構すれ違って、そのネジクレに関与してくるのが、ベラのお相手となるバツイチのブルーノ。というわけで彼は格段に若い、絶対に30代なのだけど、恋をしているとその辺のことも気にならなくなるのか?ポールはエミリーの部屋にいた彼を彼女の恋人だと思い込んでしまって……まあ、そう思われても仕方ない状況だったし、実はホントに彼らの間に何があったのか、判んないんだけど。ポールもヤケになったのか、路上でであった吃音気味の娼婦(実はベラの親友)を買ったりもするんだけど、抱けない。でもポールは最初から抱く気なんてなかったんだろう。ヤケになったわけではなく、このどこか痛々しい娼婦と話がしたかった、っていうか……。この娼婦、シェリー・リンは、ポールの部屋に入って来しな、部屋のすみに置かれた木の風合いそのままの小さなグランドピアノに目を止め、ポロンポロンと弾きだす。ちょっと、驚く。この読み書きも出来ない娼婦の彼女が、そんなことが出来るなんて……でも、なんだかちょっとナットクできる気もする。彼女、なかなか言葉は上手く伝えられないんだけど、でも感情は、凄く濃密で、深くて、多分ポールもそのあたりに気付いた部分があるんだろうし……。

仕事をこなそうとするシェリー・リンを、ポールは押しとどめる。「すまない、やはりダメだ。愛のないセックスは、出来ない」……!うわっと、何故だか涙が襲ってきてしまって、驚いた。別になんてことない、良く聞く台詞じゃないか、って、思うんだけど、いや、良く聞く台詞だっただろうか、男性の口から、それもこんな人生を積み重ねた男性の口から出てくる台詞としてはやっぱりなかなか聞けなかった気がするし、しかも、それがこんなにも、ウソじゃない、本当に本当の気持ちなんだと、感じさせるなんて……。なんだか、本当に、感動してしまった。感動してしまう自分に思わずうろたえもして。そういう、本物だと思える愛情を感じられたら、本当に、死んでもいい、って思えるのが、判る気がして。そして、この台詞に反応するシェリー・リンが、またイイのだ。「素敵だわ」と一言、心を込めて言って、ポールをかき抱いて、するとポール、「失礼だが……ドモリが直ったね」「緊張すると、出るみたいなの」シェリー・リン、ムチャクチャ、カワイイ女じゃないか!始終ガムをクチャクチャ噛んだりして、いかにもはすっぱなのに、ピアノをさらっと弾いたり、男の純真な気持ちを心から理解してあげられたり、ムチャクチャ、イイ女じゃないか!

んで、このブルーノというのは、ベラの母親が彼女に紹介した男で、生計はタクシードライバーで立てている、売れない小説家。浮気性の元妻の現夫である友人から、浮気旅行に出かけた彼女が置いていった子供の世話を押し付けられ、自分の娘プラス、その浮気相手のまだ赤ちゃんである息子を前に途方にくれる。この女の子が!もう最高なのだ。“自分たちを捨ててった”このパパに敵意むき出しで、それでいてクールで、「あたしは子供なのよ」と言いつつ、ブルーノより確実にしっかりしてて、ベラとの恋愛に悩む彼に適切なアドバイスさえ与えるのだから。まだ赤ちゃんぽさが残るぷっくりしたほっぺたに、真っ黒のおかっぱ頭が揺れるこの子の、最初はぶーたれてると思っていた表情が、人生の機微、酸いも甘いも噛み分けているようにさえ思えるのだから、スゴい!浮気旅行先の母親から電話があっても「話したくないわ」と切ってしまうあたりの、台詞回しときびすの返し方なんぞ、幼女じゃないぞ!

ベラはこんな先行きのない不倫をしつつも、結婚願望はある。というか、子供大好きだから、なのかも知れないけど。不倫相手のジョージからあと2,3年待ってくれ、と言われて「あたしはもう35なのよ。10年前なら2,3年なんて楽勝だったけど、もうムリだわ」ああッ!なんてなんて判りすぎる、身につまされすぎる言葉……(苦笑)。ベラは勿論結婚とか、それに伴って子供を持つこととかを前提にしてここでは言っているわけだけど、女の30前後において、この台詞はそれ以上の意味を持ってくる、もの。

まあ、このジョージもねー、イイカゲンなオッサンでねー。だって、ベラがこの部屋を出て行ったあと、多分彼女はジョージにそのことを告げないで出て行ったんだろうけど、だから彼、知らずにまたその部屋を訪ねて、その後に入った女の子とまたねんごろになったことが、ベラの母親が訪ねたシーンで判るんだもん。ったく。ま、この母親も、ベラの言うことを鼻から信用してなくて、この部屋を訪ねたんだが……というのも、ベラは突然降ってわいたような幸運に見舞われたのだ。バッグを暴漢に奪われた老女を助けようとして、逆にボコボコにやられ、しかしその老女はベラを命の恩人と感謝して、莫大な遺産を彼女に残したのだ(子供がいなかったのね)。んで、ベラは郊外に大きな家を買い、動物と一緒に暮らす、という夢を叶えるんである。しかしねー、やっぱり、大金をゲットするのが、ハッピーエンドだっていうのは、痛快だけど、ちと寂しい気もするんだけどね。いやいや、その後ブルーノともイイ感じになる暗示は出てるのよ。でも、やっぱりこのくだりがなきゃ、ベラの幸せの結末は語りきれないわけで……。その点、ポールとエミリーのエピソードはすんごくピュアで素敵なんだけど。やっぱりこれ位の人生経験を経ないと、真に純粋な幸せは得られないのかしらん?

ポールの向かいのアパートメントに住むセクシーな精神カウンセラー兼覗き部屋のストリッパーのヴィクタに惚れこんでしまうポールの友達のシーモアのエピソードも好きだったなあ(凄い形容詞の羅列……)。このヴィクタが、なーに考えてんだかわかんない、セクシーの遺伝子だけで構成されてるような女性で、これもまたツボなのよね。こんな風にホント、“お話”って感じで、ある一つのサークルの中にキレイに人間関係が循環してて、それがでもNYという、都会ゆえの広さが狭さになるような上手さ、なんだよなあ。

んで、“ファストフード・ファストウーマン”というのは、そこにいた時間帯で料金をとるという、ブルーノが考え出した新型ダイナーのネーミング。大成功をおさめるそのダイナーのオーナーにはベラが就任し、でも彼女は相変わらず古巣のダイナーでウェイトレスをしてる(あのシェリー・リンはオーナー代行をしている!)。まるで、いつもと変わらずに。ほんと、なんなんだろう、この不思議でキュートでチャーミングな人間関係のサークルは。洒落てるんだけど、なんだか情けなくて、でもそれが、凄くシンパシィを感じて。生きてく希望が湧いてくるような、そんな、都会のフェアリーテイル。★★★★☆


不確かなメロディー
2001年 93分 日本 カラー
監督:杉山太郎 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:斎藤幸一 音楽:
出演:忌野清志郎 藤井裕 上原“ユカリ”裕 ジョニー・フィンガーズ 武田真治 三浦友和(ナレーション)

2001/3/13/火 劇場(シネセゾン渋谷/レイト)
私は忌野清志郎ファンというわけではないのだけど、彼のドキュメンタリーというのは、見逃せない気がした。別に私の大好きな三浦友和がナレーターをつとめていることも、いつもは役者としてスクリーンで出会う武田真治がドキュメンタリーの映像の中にいることも知らずに、である。だからそのオマケは私をとてもワクワクとさせた。が、なんといってもワクワクとさせてくれるのは、モチのロン、忌野清志郎氏なのである。これだけの名声とカリスマでありながら、ライブハウスツアーをマイクロバスで敢行させてしまうという、しかしそれがこれほど似合って、これほど気負いがなく、これほど厭味にならない人もいないであろう。例えば古巣に戻ったなあ、とか、そんな感覚すら起こさせないのである。旅先で仲間とじゃれあい、当たり前みたいに歌って、また次の土地へと。バスの窓からはまばゆい景色が走っては消え、はしゃいだり、疲れて眠ったり、ビールを飲んだり、そこには旅と生活の普通さがあり、仲間が家族になる普通さがあり、こんなに普通じゃない人なのに、この人は、普通だから、自分の中の普通を外の世界に流されずに保っていられるから、凄いんだな、と思う。ココロの筋肉がある人なのだ。だから清志郎氏が武田真治を気に入ってメンバーに迎えたということが、なんだか凄く首肯されてしまうのだ。勿論、彼のミュージシャンとしての才能、ということは言うまでもないのだが(実際、噂には聞いていたけど……驚いた。ホントに凄いプロフェッショナルなんだ!)武田真治もそうした普通さを何も気負わずに保っていられる雰囲気のある人だから。似た者同士というか、類は友を呼ぶというか、武田氏が清志郎氏を語っているのを聞いていると、なんだかまるで彼が自分自身を語っているみたいでニヤニヤしてしまうくらい。

デビュー30周年に仲間や彼を慕うミュージシャンたちによって開催された武道館のイベントを満員にした清志郎氏は、「嬉しいんだけど、なんだか居心地が悪くってね」と言って、この旅に出た。信頼できるミュージシャン仲間でバンドを作っての、ライブハウス周り。それぞれの地で、チケットを取れた人は恐ろしく幸運な人たちだろう。目が回るほどの競争率だったのではないか、と思うのだけど、小さなライブハウスで歌う清志郎氏を見ていると、ああでも、この人って、どこにいて歌ってても、なんだかちっとも変わらない、って思う。その特異な発声とハデハデな衣装は確かに大ステージに映える力をも持っているんだけど、こういうところで歌ってても、全然、変わらないのだ。そしてお客さんの顔が本当に間近に見えることに「あそこの人は近いとはいえ、ホントに顔がデカいですね」なんていう清志郎氏は、なんだか凄くリラックスしてて、嬉しそうで。彼は普通でいることを保っていられる、というか、普通でしかいられないから、有名になればなるほど周りが普通でなくなっていくのがしんどくって、そう、どんどん遠くに感じてしまうというもっとも判りやすい意味で、お客さんとの距離を引き戻したかったのかな、と思う。

メンバーの一人に、アイルランドから来たギタリスト(ベースだったかな)、ジョニー・フィンガーズがいる。彼はかつては当地でナンバーワンのバンドにいて、ライブエイドにも参加し、ワールドツアーも回ったという猛者なのだが、その後そうしたショウビズの世界に嫌気がさし、建築会社に勤めていたという。だけどやっぱり音楽がやりたくって、いろんな縁を辿って日本へ、そして清志郎氏にたどりついた。なんかこれまたとてつもなく凄いエピソードだし、清志郎氏に行き着いて、日本語もカタコトに交えたりはするもののやっぱり判んないのに、それなのに、なぜこんなにもしっくりと来てしまうのだろう。それはミュージシャン同士の言葉など要らない部分なのかもしれないし、清志郎氏が、あるいはこのフィンガーズ氏が、あるいはあるいは二人同士がそうなのかもしれないし。彼は他のメンバーと本当に同列のところで、当然みたいにホノボノと一緒にいて、一緒に温泉に入って浴衣着て、長崎原爆公園歩いたりとか、……ああそうか、やっぱり彼も普通、なんだ。ココロの筋肉がある人。清志郎氏や、武田真治のみならず、メンバーみんな、そうで。彼らは穏やかで優しくて、そしてとてつもなく強い人。葦のように、風に吹かれても決して倒れない。

フィンガーズ氏が清志郎氏のことを語る「彼はステージではホントにカリスマ性があるし、ハデな衣装を着て、スゴいけど、普段は凄くシャイで、こんな感じ(とマネしてみせる)」と笑い、それがまったく不可分なのだ、と、どちらも同じ清志郎氏として溶け合っているのだと、言う。そのことは武田真治をはじめ他のメンバーも口をそろえて言う。ステージとオフステージではあれだけ違うのに、二面性とか使い分けじゃなくて、確かに同じ清志郎なのだ、というこの不思議。見ていると凄く納得するんだけど、でもほんと不思議だし、こここそが清志郎氏を解くカギなのだろうと思う。弱さを隠さない強さ。

警察はなにもしてくれなかった。僕は殺された。事件になった。今度こそ警察は動いてくれるだろうか。とか、ハードロックの君が代とか、社会派と言われるのも当然なシゲキテキな歌を、清志郎氏は歌うのだけど、彼の中にはちっとも気負ったものがなくて、普通に生きてたら、普通にこういうこと考えるでしょ、これ、面白いよなあ、っていうような感じなのだ。ああ、私たちは、こんな普通さを、どこか恐れているのかもしれない。普通にものを言うこと、普通に行動すること。ここで言う“普通”は、みんなと同じって意味じゃなくて、自分にとって、当然こう考えるでしょう、っていう普通。なぜ、その自分にとっての普通、つまりは自分の価値観に従えなくなってしまったのか。彼らは、それは当然だから、なにが難しいの、って感じなんだよなあ。そう、そうなんだ、そのはずなのに、意味のない世間というものに、そして他人の強さや弱さになぜか自分の方が怖気づいて、自分は自分でしかないのに……そんな当たり前のことを、どうして忘れていたんだろう、忘れていられたんだろう。

清志郎氏が、歩きながら話してて、空が青く晴れ渡ってて、画面の隅、大地の果てから小さな虹が空に向かって伸びていた。ドキュメンタリーなのに、なんて劇的な効果。その虹は、なんだかほんとに、清志郎氏みたい、だった。★★★★☆


BROTHER
2001年 114分 日本=イギリス カラー
監督:北野武 脚本:北野武
撮影:柳島克己 音楽:久石譲
出演:ビートたけし オマー・エプス 真木蔵人 寺島進 加藤雅也 ロイヤル・ワトキンズ ロンバルド・ボイヤー 大杉漣 石橋凌 渡哲也

2001/1/31/水 劇場(丸の内ピカデリー2)
ハリウッド進出、なんて言われてるけど、これって日=英合作であって、正確にはハリウッドとの合作ではないでしょ?ハリウッドシステムの下で作られたってだけで、今の時点ではアメリカでの公開もまだだし。それにやっぱり英国との共同作業っていうのがとてもよく出てる。バイオレンスとはいえ、キタノ映画はアメリカというよりヨーロッパ的だし。こうしてロサンゼルスを舞台にしていても、アメリカ人俳優が出ていても、驚くほどに北野武監督そのもののカラーになってる。最終編集権をとにかく譲らないこと、というのが成功しなければ、こうはいかない。それにしてもハリウッドシステムというところは異なところだ。つなげ方で映画のカラーそのものが変わってしまうのに。監督の持ち味は編集で完成するものでしょう!だからハリウッド映画は一見しただけでは誰の映画だか判らないし、外国での実績を認められてハリウッドに来た監督が個性を失ってつぶされてしまうのもそれが一因なのだ。

だから、本作を観始めて、本当にすぐに、あ、全然変わんない、この独特のそっけないくらいのカッティング、北野映画だあー、とそのことでまずとても嬉しかった。「菊次郎の夏」なんていう、突如毛色の変わったものを撮っても、そこだけは当たり前ながら変わらないから、ああ、北野映画だなあ、って判るのだ。そして本作はことにそうしたものと比べると、とっても判りやすい。例えば大好きなミラクル映画「HANA−BI」が恋愛映画としての性質のせいか(夫婦だから夫婦愛か)、少々テレが入っていたのと比べて、ここでは男同士の関係に終始しているから。その男同士の関係も殆ど恋愛に近いものがあるけれど、なんていうか、本能的な感情で、そうしたテレがない。でも北野監督が「HANA−BI」にしても「あの夏一番静かな海。」にしても、恋愛映画を撮ると、そうしたテレがとても上手く作用して、ひどく純粋な美しさを放つのだから、監督が(冗談で?)言うように本格的な恋愛映画も撮ってほしい。

というわけで、本作は、北野カラーのみをベースにした、とってもシンプルなお話。悪く言えば無難に、よく言えば手堅くまとめた印象だが、やはりまだまだ北野映画としての衝撃は健在である。逃げ場のなくなった男が、多分死に場所を求めてアメリカに渡り、そこでも逃げ場がなくなって、めでたく?死んでいけるという……。ヤクザとしてのぶざまさと美しさがこれまで以上に純粋に結実していて、それは異国の土地であるからこそさらに際立って見えるのかもしれないけれど。ビートたけし扮する山本が親分に対する、寺島進扮する加藤が山本に対する、石橋凌扮する手下が加藤雅也扮するボス、白瀬に対する、愚かなまでの、捨て身の姿勢は、こんなん今でもほんとにあるんかいなと思われるのだけど、ああ、でも、判る、と、もしかしたらそういう人がいたなら私だって、という、いや、そういう人がいるということがうらやましい、って思う気持ちが、これはやっぱり日本人としての血なのかな、って気がする。ことに、山本のために何の躊躇もなくあっさり自らのこめかみに拳銃をぶっ放す加藤は!そしてその精神が日本人である白瀬にはちゃんと伝わるというところも。

そうした日本人の男たちが、そうした血をまとっているからこそ余計に、ひどく美しくひどくカッコイイのだ。まさしく、いわゆる欧米役者の中に日本人俳優が混じって、これほどまでにカッコよかったことがあるだろうか。例えば今まではそうした場合、ある程度のタッパがなければとか、英語がしゃべれなければ、というような、間違ったコンプレックスがあったと思うのだけど、そんなもんなくったって、いやかえってない方が、こんなにもカッコイイのだという!それは北野映画にお約束の、ギャグを含んだ演技をさせても頑として変わらず、北野監督はこれこそが見せたくてこの映画を撮ったんじゃないか、って思ってしまう。ことにイイのは寺島進、そしてもちろんビートたけし、ちょっとナサケない真木蔵人もまた違った味わいでいいし、加藤雅也(彼はアメリカ映画に出ている時よりずっとカッコイイ!)、石橋凌、大杉漣、そしてちょっとオマケの渡哲也までもが文句なくカッコイイ。そのカッコよさは、例えばアメリカの俳優に感じるようなある種のセックスアピールが伴うそれではなくて、もちろん色気はあるんだけど、とにかくストイックなこと、精神的なこと、なのである。

彼らに絡むアメリカ人俳優の中で、山本と因縁の出会いから奇妙な親友関係をつむぎ、ラストには場面をかっさらってしまうデニー役のオマー・エプス。彼が黒人(という言い方は今はいけないのだそうだが)だというのが、説得力がある。アメリカ人であっても、こうしたはぐれもののヤクザの日本人の孤独の感情を、言葉を超えたところで判るのは同じ有色人種である彼らの方だと思うし、それに黒人って、日本人の精神世界を、より理解できるような気がするのだ。「ゴースト・ドッグ」の影響かもしれないけど。ちょっと話が違うけどキリスト教において、ジーザスが白人だということに全く疑問を感じずに無意識の優越感で信仰しているいわゆる白人と、もっと超人的な、世界としての神を信仰しているであろう黒人との差は、大きい。そしてこの感覚は、個人としての神というより空気感としての神を持つ日本人と近い気がしてしまう。

抗争の果てに組を失った山本が、弟ケン(真木蔵人)のいるロサンゼルスにたどり着く。ケンは麻薬の売人をやっており、そのいざこざを見かけた山本は、とっさに銃をぶっ放す。これ以降とにかく殺しまくりの連続で、殺らなければ、殺られる、という状況に自らをどんどん追い込んでゆく。その間に驚くほどあっという間に彼らはその地域での力を得るのだが(途中日本人街を取り仕切っている白瀬をも下につけて)、その方向は確実に自滅の道を辿っている。全く表情を変えず、時々ベタなギャグを繰り出す山本は、明らかに最初から死を向こうに見据えている。彼がそのカリスマ的魅力で周囲を惹き付けたとはいうものの、強引に巻き込み、全員破滅の道を辿るのは、そりゃあんまりだと思わなくもないのだけれど、でも耳をつんざく銃声と、飛び散り、流される血はショッキングながらもやっぱりひどく美しいのだ。……美しいと感じるのは、いけないのだろうか。

これこそが北野映画のハズすことの出来ない大切な部分である、なんとも言えないユーモア感覚。それが今までの中で一番しっくりと、作品世界になじんでいた気がする。全体にまんべんなく及んでいて。「ブスだかキレイなんだか判んねえな」と兄貴山本の女を評する加藤、イカサマ使ってサイコロ博打に興じる山本とデニー、敵との話し合いの場で、一体いつ仕込んだんだか「保険はうっとかなきゃな」とテーブルの下に山本が貼り付けた銃にボーゼンとしながらも一緒にぶっ放すケン、……この乾いたギャグ感覚が、バイオレンス映画としての美しさを全く邪魔せず、それどころかより効果的にしているのには感嘆する。

ただ一つ、久石譲の音楽があまりに甘美すぎるのがどうにもジャマだったのだが……。これが、それこそ甘美な世界の「HANA−BI」あたりの作品の時は、とってもハマるのだけど、本作だと、せっかくのカッコよさがぐずぐずになってしまう。冒頭のあたりはジャジーな感じでカッコよかったんだけど、だんだんクライマックスに来るに従って、音楽だけが泣かせに暴走してしまって、違うだろう!という……。盟友なのは判るけど、作品に応じて音楽家を選択してほしいなあ。あるいは久石さんも、もうちょっと考えてよ、と思っちゃう。でもこれで監督がOKを出してるんだから、これが正解なんだろうけど……。

ラスト、山本が血だらけになって倒れているところで終わっていたらカッコよかったけど、でもそれだと確かによくある映画のラストに過ぎなかった。デニーが兄貴山本へのどうしようもない恋情?を涙ながらに吐き出す場面をたっぷり見せてのカットアウトは、北野武のロマンチシズムが横溢していてどこか気恥ずかしくも、でも好きだなあ。★★★☆☆


ブラックボード 背負う人TAKHTESIAH/BLACKBOARDS
2000年 85分 イラン カラー
監督:サミラ・マフマルバフ 脚本:モフセン・マフマルバフ/サミラ・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ 音楽:モハマッド・レザ・ダルヴィシ
出演:サイード・モハマディ/バフマン・ゴバディ/ベヘナーズ・ジャファリ

2001/3/30/金 劇場(テアトル池袋)
「りんご」でその若い才能に驚嘆した、サミラ・マフマルバフの第二作は、カンヌ国際映画祭で最年少審査印象受賞という快挙を成し遂げた。んだけど、どうも私にはよく飲み込めなくて。もしかして、これが教師の映画だと思い込んでいたせいもあるのか、観終わって、いろいろな記事やオフィシャルサイトを見て、ああ、そうか、これは戦争(の爪あと)の映画だったのだと、今更ながら気づく始末。勿論それは、私があまりにそうした世界事情に疎いという、恥ずかしい事実もあるのだけれど、サミラ監督自身が、特定の地域や特定の戦争といった言及を避けていて、より普遍的なものにしようというネライがあるみたいなんだけど、それがかえって今ひとつ主張を判りにくくしているように思う。

爆撃によって学校を失った教師の一団が、黒板を背負って荒野にたたずんでいる。いきなりのこの画がかなり強烈な印象だが、その後、彼らはそれぞれの道を行き、最終的には二人の教師のおのおのの道行きが描かれることになる。その、“爆撃によって学校を失った”というくだりも、説明されていたっけ?……聞き落としたかなあ。なんか、それをきちんと認識していなかったせいか、彼らの行動がものすごーく場違いに見えてしまって。でもそれは計算のうちなんだろうけれど。闇物資を運ぶ子供たち、危険を冒して故郷に帰ろうとする老人たち(これも今ひとつ判りにくい)、彼らに向かって教育の必要性を説く教師。ことに子供たちに対してはそれは確かにそうだろうと思うのだけれど、どっちにしても恐ろしく説得力がない。実際、本当に必要だろうかとすら思ってしまう。それほどまでに彼らは今“それどころではない”というのが痛切に伝わってくる。それは真実の迫力である。

だから、執拗に付きまとう教師が、無神経に見えてしまうという皮肉。運び屋である子供たちにくっついて回るレブアルは、一人の子供が読み書きを習うことに興味を覚えるせいもあり、そしてその柔和な面立ちのおかげで、そうした印象も徐々に和らいでいくのだが、結局彼の生徒になりえたのはその子だけで、あとの子達は最後まで無関心だし。一方の、老人たちに国境までの案内をクルミ40個(50個だったかな)で買って出るサイードに至っては、ほとんど見ていてイライラしてくるほど。彼は子連れの未亡人でどこか精神的におかしくなっているハラレにホレて、彼の父親に許しを得て唐突に彼女と結婚するのだが、この“ホレて”という部分も、今ひとつ首肯しかねてしまう。でも多分それは、それこそ文化の違いかな、という気がするんだけど。こと恋愛の表現方法という点に置いて、その違いは最も顕著に出るものなのに、昨今の日本はアメリカ映画に悪しき影響を受けすぎてて、それを忘れてしまっていると思うから。

サイードは勉強を教えるフリをして、ハラレに愛の言葉を語らせようとする、いや、自分がハラレに愛の告白をしていると言った方がいいか。彼女は判っているんだかいないんだか、彼の方を見ようともせず、常に意味不明な言葉を発している。そのハラレが唐突に目覚めるのが、国境も間近になったあたり。いいかげん彼女の態度に疲れ果ててきびすを返そうとしたサイードを呼びとめ、詩の一説をスラスラと暗誦し、サイードのみならず観客をも驚かせるんである。その詩は、一体なんなのか。後からつらつら考えてみるに、もしかしたら彼女の死んでしまった夫に対する詩とか、あるいはその夫が好きだった詩とか、そういう類のものかな、という推測をしたりするのだけれど。なんにせよ、サイードに対する詩ではあるまい。唐突に正気に戻ったような彼女にビックリして、結局サイードは彼らと共に歩き始める。と、先を行っていた老人たちがいっせいに駆け戻ってくる。爆撃だ、と言うんである。ハラレは、故郷の町ハラブチェでの化学兵器攻撃を思い出して、怯え、老人たちと同様にはいつくばって進んでゆく。サイードの言葉など、耳に入らない。

一方でレブアルと共に行動していた子供たちも、兵士たちに見つかって、銃弾に倒れてゆく。手始めが、いきなりあのただ一人読み書きを習っていた子供が、吹っ飛ばされるというショッキングな場面で、逃げまどう子供たちが一人、また一人と倒れてゆく。羊の一団と共に穏やかにまどろんでいて、その羊を率いていた幼い女の子とひと時の平和を楽しんでいた、一瞬にして突き落とされる悲劇。

老人、子供、女性、成人男性(教師)と、世代も立場も異なる者たちを、教育という視点でくくろうとしながらも、それが今も残る戦争の恐怖であっさりと引き裂かれてしまう。……ということを監督は描きたかったのか、あるいは、教育の必要性を描きたかったのか、あるいはただたんに、戦争の悲惨さを描きたかったのか。どちらにしろ、ここでは教育というものがいかに無力であるかということが、それだけがはっきりと示されるというのは皮肉としか言いようがない。それこそ安穏と文化的生活を享受している、日本のような国に対する皮肉とも言える。

サイードはイランという国を捨てることが出来ず、ハラレの国、イラクとの国境で彼女と別れることになる。彼の愛の言葉が描かれた黒板を背負って、自分の国へと帰っていくハラレ。それだけが、教育と愛と、そして何より民族間の理解と平和を未来に託す、救いである。★★★☆☆


BLOOD:THE LAST VAMPIRE
2000年 48分 日本 カラー
監督:北久保弘之 脚本:神山健治
撮影:佐久間未希 音楽:池頼広
声の出演:工藤夕貴 中村佐恵美 JOE ROMERSA 

2001/1/9/火 劇場(シネセゾン渋谷/レイト)
ヒットコミックスやゲームではなく、テレビアニメの延長線でもなく、純粋に、ひとつのアニメ作品の企画として生まれた本作。押井守という稀代のアニメーション作家による“押井塾”という後進の才能を育てようという場から生まれた作品であり、マーケットを意識した商品としての魅力と、芸術としてのクオリティ共々非常に高いレベルにある。ヒットしている、というのがちゃんと感じ取れない、あまりにも普遍性を失ってしまった昨今のアニメ事情の中において、こうした試みは貴重である。

しかも、これは中篇である。48分という、劇場にかける“映画作品”としては非常に短い時間の中に、ひと時も停滞することなく駆け抜けてゆく。体全体で全力で受け止めなければ押しつぶされてしまいそうな、迫力の音響と映像。アニメならではの荒唐無稽な設定が、ダークなキャラと映像によって驚くほど生々しく、リアルな手触りになる。それはしかし決して日常世界のリアルさではなく、心の奥に潜んでいる闇、無意識に夢の中に出てくるような潜在意識の生々しさだ。これこそが、実写ではなし得ない部分。

1966年という時代設定、ベトナム戦争中の横田基地、そしてアメリカンスクール。冒頭、カラッポの電車の中で瞬く間に人を斬った少女、小夜(さよ、ではなく、さや)は、一体、何者なのだろうか。彼女を指令下においているはずの男たちも一歩引いてしまうような、剃刀のような少女。神を祈る言葉や十字架に激しい嫌悪感を示す彼女、モンスターと化したヴァンパイアを斬って捨てる彼女に対する「小夜だけがオリジナルだ」という言葉、そしてすべてが終わったあとに残された、謎の写真……それらはすべて、彼女こそがヴァンパイアだと告げるに充分なのだが(それも、多分組織によって作られた)、でも判らない、彼女が斬ったヴァンパイアに自らの血を分け与える場面、ヴァンパイアは人間の血を食らう生き物だ。そのヴァンパイアに対して分け与えたのだったら、彼女は人間なのか。いや、しかしあの時彼女の顔にのぼったなんとも形容のしがたい慈愛の表情(アニメの粋を超えてる!)……かつての仲間に対する、憐憫の情なのか。

小夜は、小柄な体と真っ黒い髪と瞳、ぽってりとした唇、とまるでアイドル歌手のようにかわいらしいのだが、かわいらしい、という言葉を発するのもはばかられるほど、彼女は触れれば切れそうな空気をまとって、じっと獲物を見据えている。花びらのような唇に笑みがのぼることもない。その小夜の声を担当するのが、工藤夕貴。もちろん、英語がしゃべれるというのもあるのだろうけれど(小夜はどうやらアメリカか何かの組織から送り込まれたらしい)、彼女の低めの声が非常にハマっている。そして、その携える日本刀。多くの血を吸ってきた、という点においては、日本刀はヴァンパイアに通じるのかもしれない。そして、日本刀の持つ、神的な力、それは、不思議なことに、古ければ古いほど、つまり、多くの血を吸っていれば吸っているほどに深くなる。そこに宿るのは心なのか。斬られた血の心か、それとも斬った側の悲しみの深さがその力を深めていくのか。そのどちらもか。そして、小夜はそんな日本刀そのものである。彼女もまたヴァンパイアなのだとしたら、彼女は多くの血を吸ってきたのだから。その血の哀しみと、吸わなければならない自分の哀しみを存分に味わってきたのだから。彼女がヴァンパイアに戦いを挑むのは、そんな自分を否定することなのだろうか。

ヴァンパイアが潜むアメリカンスクールに潜入した小夜は、“日本の女子学生の格好”ということで、セーラー服姿である。「なんだよ、この格好は」などと苦々しげな彼女だが、この、正装とも、喪服ともとれるいでたちはいかにも象徴的だ。もちろん、美少女にセーラー服という耽美的な要素も含みながら、そして血というのも多分に耽美的なのだけれど、それよりももっと、少女のセーラー服というのは、厳粛なものを感じさせるのである。昨今のブレザー型ではとうてい醸し出せない、紺サージの制服のもつそうした雰囲気は、ことに日本刀を懐にした小夜が着ると、まるで斬りこみに行く着流しの健さんといった趣にも通じる。

日本の正装は、だから西洋の正装の華やかなイメージとは違って、そうした血のにおいを感じさせることが多いのかもしれない。たとえば切腹する時、たとえば、戦場に出かける時、そしてその血は、精神へとつながってゆく。小夜は言う。あいつらは拳銃ではしとめられない、大量の血をいっぺんに出さないと死なないのだと。血は精神、そして魂。生命よりも重きもの。拳銃の弾一発でしとめられてしまう生命よりも、ずっと重くて、ねじれてしまうと厄介なもの。

そう考えると、小夜が自分の血を瀕死のそいつらに分け与えたのは、いまだ何とか保っている精神こそを注いだのかもしれない。“大量の血をいっぺんに出してしまった”、一度ゼロに戻ることができた彼らに対する、精一杯の愛情。

しかし、「人狼 JIN−ROH」にしても本作にしても、昨今の日本アニメ(ことに高評価を受ける作品)はどうしてこうも、暗い世界なのか。画面も、テーマも。私は実は最近のアニメでは「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」が出色の傑作だと思っているのだけれど、あの作品にあるような華やかさと同時に芸術性をも持ち得る様なアニメ作品にはほとんどお目にかかれないのが残念。華やかさもまたアニメの醍醐味。そうした意味でも、アニメーションが映画という“芸術”の分野でなし得る可能性は、実写よりもずっと大きいのだ。★★★★☆


ブリジット・ジョーンズの日記BRIDGET JONES’S DIARY
年 分 アメリカ カラー
監督:シャロン・マグワイア 脚本:ヘレン・フィールディング
撮影:スチュアート・ドライバーグ 音楽:パトリック・ドイル
出演:レニー・ゼルウィガー/ヒュー・グラント/コリン・ファース

2001/9/24/月 祝 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
30代シングルの女性のこもごもを、同じ立場の女性たちからの共感たっぷりに描くコメディ。コメディ……そう、こんなことをシリアスに描いたら、もうそれこそ救いようがないので……なんて、それにしても、こういう、こんな気持ち、他人には判らない!と思っていたことが、メジャーになってしまう現代って、ひょっとして……不毛!?なんて思いながら、ギリギリ20代シングルの私も、なんたって“ギリギリ20代”なので、やはり大いに共感するところが多々あるのである。全部とは言わないけど……正直言って、共感できないところの方が多いかもしれないんだけど。でもブリジット、ひいてはこの同じ立場に立たされている女性が持っている、基本的な感覚……周囲の無神経に対する腹立たしさとか、持つまいと思っても持ってしまう焦りとか、そういうのはやっぱり、そうそうそう!と思ってしまうからなー。何で結婚しない30代女性が多いのか?なんていう質問を無遠慮にブリジットに浴びせるカップルご一行様達に対して、「脱ぐと身体にウロコが生えているから」なんて冗談にならない冗談を言うブリジットにシンパシィを感じてしまうんだなあ。

こんな風に同性に好かれるタイプの、いくつになってもカワイイ(というほど年は行ってないけど、このままどこまで行ってもそうじゃないかな)女優さんは、メグ・ライアン以来じゃないかな、と思われるレニー・ゼルウィガーは本当に可愛い。しかし彼女がメグ・ライアンと違うところは、こういう自嘲気味の、ちょっと問題を抱えているような女性が良く似合うというところで(ホント、今までの出演作って、大体そうよね)、メグがいくつになっても普通の?恋愛映画が似合っているのと違うところがミソなのである。今回のブリジットのキャラクターに当たって、体重を6キロ増量したという彼女は、まあそれでも大して太っているわけではないのだが、かなりハズカシイ、バニーの衣装を着たり、腹を引き締めるデカパンをはいたり、消防署の鉄棒から滑り降りてくるミニスカの下から大写しになった“ブラジルサイズ”のお尻を見せたりと(まあ、これは吹き替えっぽかったけど)そのダイナマイトを武器にはしつつも、やっぱりちょっとトホホな部分を非常に可愛らしく見せてくれる。

でも、やっぱり、西欧女性というのは、胸から太るんだよねー、と思い……日本人女性が最も気にするような、そしてこの劇中でも一応は気にして見せているような下腹部や太ももは大したことなくて、太っている、と感じるとしたならば、そのボヨヨンとしたオッパイの方になんだもん。本来のレニーならばあまり気にはとめなかった部分だから、やっぱりこの増量で胸のサイズはかなりデカくなったんじゃないかしらん……。太る時は腹と太もも、やせる時は胸からっつー、なんでよ!という身にしてみれば、ちょっぴりうらやましい?

ストレス発散に酒に溺れ、♪私は一人ー!と絶唱する冒頭から、そのトホホ可愛さ全開のレニーがとにかくチャーミング。思わずこの場面には判るわー、と思ったりして!?まあ、住宅事情の関係で絶唱は出来ませんが(でも、したい)、酒の部分はね(私の酒のアテは納豆になめ茸混ぜたやつだけど……しかも酒はビールだ)。ダニエルとのデートにうきうきとオープンカーに乗り込むも、頭に巻いたストールが風で飛ばされて爆発頭になったり、運命の人、マークを慌てて追いかけるのに勝負パンツいっちょにカーディガンはおったままの姿で雪の町に飛び出したりと、こういうのをバカバカしくならずに、トホホ気分を残しながらもあくまで基本はカワユク見せてしまう女優さんは、確かにレニー以外には思い当たらない。

もともとはイギリスの新聞のコラムに連載されていた原作で、レニー以外はほぼ全員イギリス陣営、本来ならイギリスの女優が演じてしかるべきキャラクターで彼女のキャスティングは物議をかもしたらしいけど、イギリス女優の中でこういうキャラを、レニー以上に体現できる人がいるとも思われない。本当いうと、こういう、恋愛に過度に傾倒気味の、引いてはそれが最終ゴールだと思っている女性キャラは、一番苦手なんだけど、まあ、それもまた思い当たるからこその反発心であり、そうしたアマノジャクな私もスンナリ陥落させちゃう魅力があるんだよなあ。

今までちょっとナサケナイいい人を演じて、それがハマリ役だったとはもはや思えないほど、そうそう、この人って基本イイ男だし、そして基本タラシ顔だし(失礼)こういう、これ見よがしにセクハラ男で、これ見よがしにオレはモテるぞって態度で、悔しいけど確かに抗えないセクシーな魅力を持つ男がドンピシャすぎるぞ、ヒュー・グラント!っつーね。こんな奴と一緒になったら、ぜってえ不幸になると判っていつつも、あんまりイイ男だから、調子よくブリジットの元に戻ってきたダニエルに、でもやっぱりコイツの方がいいかも……なーんて思っちゃいそうなぐらい。

いやいや、でも、始終ムッツリ顔で、その実ブリジットのことを誠実に愛してくれるマークがイイに決まってるのよね。演じるコリン・ファースが、そんなムッツリ男をまさしく体現していて、ヒューに心奪われながらも、キメ台詞はしっかりキメてくれるこの人にドキドキしちゃう。だってさー、結局ダニエルはズルくて、まあこういうあたりがハンサムでたらしのキャラゆえなんだけど、女の方に夢中にさせて、愛の言葉も女からだけ言わせて、自分の方からは事態がハッキリするまで絶対言わないんだもん。まあ、言葉なんて結局は無力なものだし、向こうの人ってちょっと信じがたいくらい言葉にばかり頼ってるなって感じもするけど、やっぱり聞きたい言葉を言ってくれるマークに軍配が上がっちゃうよなー。ブリジットの友達たちまで(こいつらがまた、イイ奴らなんだ!)トロンとさせちゃったし。

トナカイのセーターやスノウマンのネクタイは確かにダサいけど、キュートに似合ってるマーク。ラスト、本当にブリジットの元から去ってしまったのかと焦らせながら、新しい日記帳を買いに行っていたというオチ。雪の中、あられもない格好のブリジットを長いコートでかばいながら抱きしめる、というので既にキャーキャーなのに、キスを交わしたブリジットから「おかたい人がこんなキスをするの?」なんて言われるのもキャーキャーなんである。やっぱり、周囲も認めるイイ男より、自分だけが知ってるイイ男の方がいいやねー。この辺の感覚は、ただ美男美女のレンアイモノにアコガレを持つ若い頃とは違うということなのかも?いやいや、違いがわかるお年頃なんですよ、なーんてね。

それにしてもブルー・スープは食べたくない……。結婚したらマークが料理作ってくれるのかなあ。いいのお。★★★☆☆


不倫願望 癒されたい
年 分 日本 カラー
監督:国沢実 脚本:樫原辰郎
撮影:長谷川卓也 音楽:黒澤祐一郎
出演:南あみ 奈賀毬子 佐々木ユメカ 持田修作 徳蔵寺崇 ネズミ男

2001/10/21/日 劇場(中野武蔵野ホール/P−1グランプリ)
上映終了後のトークバトルでも言っていたように、ガンに侵された山野と売れない歌手、梨菜との、あの場面でのセックスは、ちょっとムリがあるかも……。お互い惹かれあっているとはいっても、そういう惹かれあい方とは違うし、うーん、やっぱり何だかものすごーく不自然!?ピンク映画だといっても、やはりその辺は、意味のないセックス(意味のあるセックスがどういうものかと言われると困るけど……)というのはないような気がするんで、ことさらに不自然に見えたのかもしれない。それを隠すようにしているのか、この場面ではやたらにソフトフォーカスかけてて、ロマンティックなムードで、セックスシーンに感じる恥ずかしさとは違う、妙な恥ずかしさがあったりして?

いまどき流行らない、大きな黒ぶちのめがねをかけてご登場の山野は、最初っからどっか間抜けた雰囲気。お見合いだから、愛しているとかいう感覚もなく……でもこの人の可愛いところが……などという妻のナレーションで、こりゃあちょっとドタバタな話になるのかな、と思っていたら、そういうわけではなかった。セックスの最中、「ワンワンスタイルだね」などとオマヌケなことを言って励もうとするも、腰に激痛を感じてのたうつ山野。ありゃりゃ、こりゃあ、「団地妻 隣のあえぎ」の腰痛持ち夫と同じかあ?と思ったらそうではなく、医者に行って調べてみると、何とガンだというんである。

これは血筋だ、自分は死んでしまうんだと、すっかり意気消沈の夫に、妻は、今は技術も発達している、ちゃんと治療すれば大丈夫、と必死に励ます。お前に僕の気持ちが判るか!と激昂する山野に、判んないわよ、判るわけないでしょ!と目に涙をためて訴える妻。ふと、気がついたように、あ、今日、日曜日かあ、叙々苑に焼肉食いに行こう、と言う山野、話をそらされたことに怒る妻に、そうか、焼肉嫌いだっけ、などとピントの外れたことを言ってトボける山野は可笑しいが、哀れ。どうしても病院に行こうとしない山野と妻はもみ合いになって、山野が妻を突き飛ばし、彼女は頭を打って倒れてしまう。それを見てうろたえた山野は、そのまま家を飛び出してしまう。

その頃、一方では別の物語が進行中。歌が好きで、でもあんまり上手くなくて、もう25にもなって、歌手への夢を捨てきれない、泣かずとばずのアイドル、梨菜。もうこのへんであきらめて、一発脱いじゃえば先が開ける、とマネージャーに言われて現場に行くも、踏み切れない。そこには梨菜が憧れていた歌手、美鈴がいる。かつての自分を見るような気がした美鈴は、梨菜を逃がしてやる。歌が好きなんでしょ、と。美鈴はビーズ付きのビキニスタイルというあらわな格好にコートを羽織ってその場を逃げ出す。

一方、山野の妻が記憶喪失になったことを知った、山野の主治医(監督本人。トボけた味がいいわー)は、山野を探して街を歩いている最中、やはり梨菜を探していたマネージャーと出会い、一緒に行動……てあたりは、あまりにもご都合主義?梨菜はもう自殺しそうな気分って顔をしている山野と出会う。二人で自転車に乗り、街をさまよう。お互いの境遇を話し合い、はしゃぎ合う。彼のことをオジサン、と呼びかける梨菜だけど、彼女がフケて見えるのか、彼が若く見えるのか、その呼び方がいささか無理があるような気もする。どこかの体育館っぽいところに忍び込む二人。なぜか気分が盛り上がって(って、とこがねー……ちょっとムリがある?)お互いを求め合う。

トンカチをマイクに見立てて、アイドル歌手、梨菜の最後のステージと言って歌いだす梨菜。声援を送る山野(親衛隊風で、笑える)。その歌声を聞きつけて、マネージャーと主治医が入ってくる。梨菜の気持ちを汲んだかのように、マネージャーは「お前はクビだ。どこへでも行って好きなだけ歌え」と言って去ってゆく。主治医は山野に「奥さんが大変なことになっているんです」と告げる。慌てた山野が家に帰ると、彼の顔も判らなくなってしまっている妻。「何かを思い出すかもしれないから」と彼をベッドに誘う妻に、「僕を責めてるんだろ?僕が悪かった!だからカンベンしてくれ!」と土下座をして懇願しても、彼女はわけが判らないといった様子。しかしその夜、抱き合った二人は、何かを感じたのか……。

翌日、手をつなぎあって病院に行く二人。意を決したように入り口に向かう山野に、「逃げないでね」とニッコリ笑って送り出す妻。驚いて振り返る山野。ああ、やはり、彼女の記憶喪失は演技だったのか?判らない。しかし、そこでジ・エンド。この「逃げないでね」というのは、対戦相手の今岡信治監督が言うように、「説教くさい」か?うーん、そこまでの力も持ってない気がするけど。でもこの、逃げてるんだろ、とか、逃げてない、とか、逃げないで、という言葉はやたらと頻発されていて、人生から、生きることから、夢から逃げるなというのがこの作品の主張になってるんだろーなーとは思うんだけど、あまり直裁にそう言われちゃうと、返ってその言葉の力を失うというか……何か形骸化されちゃうのね。標語みたいな感じ。売れないアイドルとガンに冒された冴えない中年男の出会い、という設定からして、そういう形骸化された感覚はあるかもしれない。ちょっと……テレくさかった。

しかし、今岡監督にやり込められている国沢監督は、物理の先生みたいに白い上っ張り着て、浅香唯の曲で登場したりして、やり込められてもマイペースで説明したり、なぜか今岡監督に合コンをお願いして名刺渡したり……そのトボけた味わいが、めちゃくちゃツボだった。うーん、映画より面白かったかも?あのキャラクターは監督より俳優向きだったりして……かなり天然(と思わせる芝居か?)で面白いお方。好きだわあ。★★★☆☆


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