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「て」


2003年鑑賞作品

D.I.DIVINE INTERVENTION ― YADON ILAHEYYA
2002年 94分 フランス=パレスチナ カラー
監督:エリア・スレイマン 脚本:エリア・スレイマン
撮影:マルク=アンドレ・バティーニュ 音楽:
出演:エリア・スレイマン/マナル・ハーデル/ナーエフ・ダヘル/ナジーラ・スレイマン/ジョージ・イブラヒム/リアド・マサルウェ/ジャマル・ダヘル/アメル・ダヘル/ルーバ・ワイワール/ジョージ・クレイフィ/アレックス・ローレンス/メナシェ・ノーイ/アヴィ・クラインバーガー/ミシェル・ピコリ


2003/6/10/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
あ、あのッ!ねえねえ、私、これを観た人に、すっごく聞きたいんだけど……これ、判った?観るだけで判るもの?私、この作品に関しては予備知識入れておけば良かったって、すっごく後悔しちゃったんだけど……いや、それは自分の、世界情勢に対する無知さを露呈するってことは、重々承知で、本当にこうやって書くの、恥ずかしいんだけど……でも、そういうことに疎い人にも訴えるように、映画ってそうやって作るべきなんじゃないの?それって、求めすぎなの?判らないのは、私だけ?私、あんまりにも判らないものだから、アー!とか思って、でも何か色々そのあとに読んでると、すごーく、奥のふかーい、そういう映画みたいだし、そうなるともうなんか、何にも言えなくなっちゃって……でも、私、あの二人が恋人同士だっていうのは判ったけど、女性があの境界線を越えられないから検問所でデートするしかないとか、セクシーノリノリのウォーキングやアラファト議長の似顔絵の描かれた風船がその突破する方法だとか、そんなことさえ、そんな基本的なことさえ観てる時にはひたすら?マークで、ちっとも判らなかったんだもの。

とにかく寡黙も寡黙、もう、登場人物ひたすら喋らない。心臓発作を起こしたじいさんが主人公の青年の父親だったってことさえ、観てる時にはなんだかピンとこなかった。しかも、これはギャグだっていうことは判っているんだけど、隣人の敷地にゴミを投げ入れたり、来ないバスを待っていたり、屋上にビール瓶を運び込んだり、黙々と朝食を食べたり……という描写を、二度ならまだしも三度も、しかも淡々とやられると、それがちょっとずつちょっとずつ、本当にかすかに別の展開を見せて、なるほどとは確かに思うし笑わせられもするんだけど、でも、かなり、疲れる。上映時間、そんなに長くないはずなのに、もう何度も足を組みなおして、それって多分劇場内、私だけじゃなかったと思うけど……そんな風に、何となく身じろぎしてしまう疲れを感じてしまうのだ。で、だから、つまり語り口が、これは確かに、個性、だというのは判る。すべての映画が同じように、同じリズムで語られていたら、そんなのつまんないに決まってる、それは判るんだけど、やっぱり観客を最低限ひきつけておくための語り方ってあるんじゃないの、と言いたくなるほど、もう何か……疲れてしまう。それはまあ、私が単に万全の体調じゃなかったせいなのかなあ。

ただ、それだけ淡々とやられているので、突然のギャグ?場面には、かなりふいをつかれるのも事実。運転しながら食べていたびわ(!?だけど、あれはびわに見えたなあ……種も)の種をふいっと窓から捨てると、止めてあった戦車が大爆発したり、少年がリフティングしていたサッカーボールがへんくつジジイの家の屋上にあがっちゃって、このジジイが何も言わずにこのボールにナイフをぶッ刺したり(で、それを隣の家の屋上から観てる二人のジジイがいたり)、美女が歩くと検問所の兵士があっけにとられるだけではなく、監視のやぐらまでが倒壊し……。何よりアゼンなのは何といってもクライマックスのくの一?による、銃弾よけよけアクションで、これは射撃練習のアクションからして、かなりのフィクショナルで笑わせるのだけど、この銃弾を驚異のニンジャアクションでかわしまくる場面には、確かにここでも台詞は喋ってない、喋ってはいないんだけれど、それまでの、サイレント映画かと思うぐらいの寡黙さに比べて、このアクションの雄弁さに、そして奇抜さに大いにドギモを抜かれてしまうのだ……そしてここでも、ヘリコプター一台、大爆破しちゃうんだから。うーむ、これだけの寡黙な映画で、結構爆破だ倒壊だとかなりスゴいことになっているんだけど、ほんっと、それをこれだけ静かにやられちゃうとはねえ。確かにそういう点では説得力はあるのかもしれないけど……。

でも、レビューではとっても言われている、イスラエル国籍のパレスチナ人だの、民族間の軋轢だの、そういうことが、この淡々、淡々の積み重ねの中で、そんな言うほど迫ってくるものなのかな、と思う。あああああ、ごめんなさい、ただ単に私がちゃんと知らないだけですうう。国際レビューでは、その点絶賛だもんね。賞もとりまくってるし。それにそういう問題をよくあるシリアスモノにせず、こういうシニカルなコメディに仕立てたのも、確信犯的な才能だとは確かに思うのだけど、でもそうならば、余計に、万人に判るように、饒舌になってもいいから、するべきじゃなかったのかな?(……それとも、私ほど無知なのはやはり万人ではないのか……)語り過ぎない、主張をこれ見よがしにしない、それって本当に粋だし、カッコイイけど、それが伝わらなかったら、意味ないじゃない?(やっぱり……私だけ?しつこいか)メタファーもメタファー過ぎると、そうである意味をなくすんじゃないのかなあ……なんて。

ひろーい、広場の真ん中で、ゴミ?をかき集めて燃やす少女?の描写とかも、よく判んなかった。もう火を消したほうがいいんじゃないの、という母親の言葉にも従わず、ずーーーーっと圧力鍋を見守る青年、のラストも、判んない上に長すぎて、ツッコみたくなった。うー、誰か助けてくれえ。どうやって、楽しめばいいのか、教えてくれえ。でもでも、ロングランになってるんだよね。てことは、やっぱりみんな面白いとか、考えさせられるとか、思ってるんだ……凄いな。でもこれ……そういう深刻な問題を笑いで吹き飛ばす、そういう意図があるんだとは思う、確かに思うけど、そんなに笑え……たんだろうか。えっと、少なくとも、日本の観客は、どうだったんだろうか。私は公開からかなり後になってから観たし、観客も少なくなってたから、その回の観客がウケてなかったぐらいじゃ、そりゃ判断はしかねるのだけど……。映画って、訴えるものがあるから作って、その訴えることが、そりゃ受け手によって千差万別であっても、でも伝わらなきゃ、いけないわけでしょ?ことにこういうテーマの映画を、こんなメタファーだらけの中に埋没させちゃって、いいものなんだろうか……。

アラファト議長の顔のアップの赤い風船がゆらり、ゆらりと白壁の家々がギッシリと埋め尽くす古い街並を、それこそ国境など関係ナシに旅していくショットは、CGの、ある種キッチュなノリがいい感じに昇華されて、映画的な画になっていた。たかが風船、しかし敵の指導者であるアラファト議長の顔のプリントに戸惑う検問所の兵士たちのリアクションも、これだけはさすがに判って、かなり面白かったし。監督の、言いたいことは判る。この監督はとてもリベラルで、確かにパレスチナの側に属し、この映画の中で敵、味方という視線もどうしても存在はしているんだけど、結局はそんなことはどうでもいいんだと。平和に暮らせれば、民族の違いなんて瑣末なことなんだと、そう言いたいんだというのはとてもよく、判るんだ。ふたつ民族があって、何が問題があるんだ、外見の違いさえ、はっきりしないのに、って。この監督は多分それを、明確な言葉にして声高に言う手法は賢明ではないと思っているんだと思う。結局はどちらか一方に属している立場として、言葉で言ってもウソになるだけだと。コメディはすべてをまずはバカバカしくさせて平らかにし、そして次の高みへと持っていってくれる魔法の道具だ。シリアスは平らかにする作業を怠って、いきなり高みへ持っていこうとして、だから失敗する時は悲惨。コメディは、だから、難しいけれど、とても有効な手段ではあるのだ。そう、難しい……これ、その点で、ちゃんと成功したのだろうか?いや、別に心配せずとも、当事者である、かの地の人々にとっては、アホな日本人の私よりずっとダイレクトに受け取れるものがあったんだろう(ひがみ)。 あーあ。確かにこれ、絶賛できるような頭が欲しいわ。私。もう、これほど無知でアホな自分を恥じたことって、ないわ。★★☆☆☆


ディナーラッシュDINNER RUSH
2001年 99分 アメリカ カラー
監督:ボブ・ジラルディ 脚本:リック・ショーネシー/ブライアン・カラタ
撮影:ティム・アイヴス 音楽:アレクサンダー・ラサレンコ
出演:ダニー・アイエロ/エドアルド・バレリーニ/ヴィヴィアン・ウー/マイク・マッグローン/カーク・アセヴェド/サンドラ・バーンハード/ジョン・コルベット/ジェイミー・ハリス/サマー・フェニックス/ポリー・ドレイパー/テッサ・ガイリン/マーク・マーゴリス/ジョン・ロスマン/アレックス・コッラード/ウォルト・マクファーソン/アジェイ・ナイドゥ/マニー・ペレス/ジョー・ガッティ・ジュニア/フランク・ボンジョルノ/レキシー・スパードット/ザイナブ・ジャー/リチャード・ヘイネス/アンドレ・デレオン/アンニカ・ペーターソン/ホアン・ヘルナンデス/ソフィー・コメ/エレン・マッケルドフ/マリア・ストーロー=ミラー

2003/1/26/日 劇場(新宿文化シネマ)
ハリウッド映画はキライだけど、“ニューヨーク映画”は好き。ニューヨーク映画なんてカテゴリがあるかと言われそうだけど、私の中には厳然と存在する。そのトップがアレンで、「ファストフード・ファストウーマン」や「I SHOT ANDY WOHOL」などのニューヨークを舞台にしたヨーロッパの香りのする粋な映画たちは、おなじ“アメリカ映画”でもハリウッド映画とはまったく趣を異にしている。判りやすいところなら音楽のセンス、そして画面の色、手触り、漠然とした空気感までもがはっきりと違う。皮肉で、シャレてて、粋なんである。

この映画は最後のどんでん返しにかなり驚かされるものの(そうです。素直に驚いちゃった。私って、ぜえんぜん予測できないの、こういうの)基本的にはレストランの戦争状態の厨房とグルメのヤカマシ屋たちの集うフロアをカメラは自由自在に行き来し、そしてそのめまぐるしさの中でシニカルな人間模様が生き生きと映し出される。レストランを数多く経験しているという監督ならではの、スリリングな現場の活写、そこは実際に監督の経営するレストランで撮影が行われたというのだから、その臨場感も格別。こんな若々しい映画を撮る監督が、意外に年なのねと思いつつ、しかしこの若々しさもそうした経験からくる緻密な計算の上に成り立っていて、ここまでのギリギリのスリリングと粋は、そうした経験をつまないと出来ないものなのかもしれない。肩もぶつかる手狭な厨房で、スターシェフ、ウードは役に立たない人間はさっさかクビ切りし、オーナー(ウードの父親)お気に入りの副シェフ、ダンカンはバクチで首が回らず、仕事そっちのけで賭け試合を流しているラジオに没頭し、喧騒の中で次々と出来上がる料理が駆け足で運ばれていく。レストランにはダンカンからカネを取り立て、しかるのちにはこのレストランをのっとろうとしているヤクザが来ており、このヤクザに相棒を殺されたオーナーと接触。ダンカンは途中で仕事を抜け出し、恋人のウェイトレス、ニコールと屋上でファック。カウンターには豊富な知識でどんな質問にも答える名物バーテンダーがおり、フラリと入ってきた金融マンがリラックスして飲んでいる。突然の停電がある。そして突然の殺人!

なんてことが、一夜限りのレストランで繰り広げられる。冒頭だけちょっと昼間が出てくるけど、この一夜限り!なあんか「真夜中まで」みたいね。粋さも似てる感じ。この突然の殺人がオドロキのどんでん返しになるわけだけど、主題はこのオーナー、ルイと息子であるスターシェフ、ウードの父子の確執であると言える。ルイはかみさんの作るすてきな香りと滋養味のある料理が好きで、その味を守り庶民の店としてこのレストランを長年続けてきたのに、デキのいい息子は斬新な料理で客を呼ぶ、オシャレなスポットに変えてしまった。しかもこの息子、客より料理批評家にホメられることを一番の前提としており、ロブスターで揚げスパゲッティをはさんで香菜を散らす、なんていうルイから見れば奇妙キテレツな料理で彼女らのご機嫌をとっている。……彼女ら……そう、彼は女批評家と寝て、有利な記事を勝ち取っているのだ。そのおかげで確かに店は満員御礼。

しかし、この描写には、誰のためのレストランなのか、あるいは普通の客に味など判らないとでも思っているような傲慢態度がアリアリである。これは、築地なんていう食の業界に身をおいている私の周りでも似たような話は聞くので、なかなか複雑というか。築地にもこんな風にお客さんが満杯で、いつも行列を作っているような店があるけれど、そこよりもおいしい店はほかにあったりして、でもそういうところはメディアに出すと常連のお客さんが来なくなってしまうから、出さない。出すところと出さないところ、と役割がちゃんと分かれている。いつでもメディアに途切れなく出してお客さんが常に行列を作っているようなところは、あからさまにスープに味の素をどっさり入れていたりするのだ。それもお客さんの目の前で。実際スープを飲んでも、味の素で舌がしびれるぐらい。それでもメディアにいつでも出ているそのお店はいつでも行列、料理自慢の某芸能人など、一度ならず何度か食べに来ているのを目撃されているぐらいなのだ(一度食べりゃ判ると思うけどねえ……)。それだけ、メディアの力というのは強大で、そして人の判断意識を失わせる怖さを持っている。ウードはいい腕を持つシェフのはずなのに、客を獲得するために自分を貶めるようなことをやっていることに気づいているのか。

でも、父親は、この息子に店を譲ってしまうのだ。ずっと、悩んでいたようだったけれど。彼の心残りは、殺された相棒の復讐。あのリラックスして酒を飲んでいた金融マン、本当に金融マンなんだけど、でもこの一夜限りのヒットマンだったのだ!これがオドロキのどんでん返しで、彼のこと、全然マークしてなくて、それこそこの粋な物語の粋な脇役に過ぎないと思っていたのに(そのままで終わっても、充分印象に残る粋さだったから)そのリラックスした雰囲気のままで、トイレで待ち伏せしたヤクザ二人をサッと取り出だしたる拳銃で鮮やかに撃ち殺す。鮮やかに、だなんて本当は言いたくないけど、そうとしか言い様がないくらい、鮮やかに。そして父親は、「上手い料理と復讐はあとを引く、余韻も格別」とこれまた粋な名台詞を残して去っていくのだ。……くわあ。

しかし、この金融マンがリラックスして飲んでいるバーのカウンター、そしてそこのバーテンダーとの空間は、ホントステキだった。まるではらたいら並?の知識を持つバーテンダーが小金を賭けながら客の質問に次々と答えて勝ち取っていくんだけど、この金融マンだけが、バーテンダーに勝つ。ちょうどその時、店は突然の停電に見舞われて、ロマンチックなろうそくの灯りの中で、金融マンはこうバーテンダーに問うのだ。「灯りはいつつくんだ?」この質問にはさしものバーテンダーも答えられなくて、「君の勝ちだ」と賭け金を手渡すのだ。いいねえ、本当に粋!ニューヨークの粋さを感じる。

ウードと寝て彼の店をここまで流行らせた女記者というのが、なんか凄い形相の女で。私は初めて見る人(多分)なんだけど、なんかフランスあたりにこういう女優いそう、って感じの独特の個性の持ち主。彼女がこの見てくれ重視の“オシャレな”キテレツヌーヴェル料理を満足げに食べる様子は、……食べるという行為が、まさしく人間の最も下品で欲望を感じさせる姿だということを見せてくれる。彼女の連れの、彼女より美女である女がキュートなウードに色目を使うのを必至になって牽制し、大口をあけて感嘆のため息をつきながらこのグルメ料理をパクつく彼女は、……なんか、ウードとのセックスをついつい想像させるような、あからさまでセクシュアルな醜さをあらわにしている。人前でモノを食べることが、怖くなるくらい。この女批評家を演じるサンドラ・バーンハードが……えッ、マドンナの恋人だった!?で、でも彼女なら何かありそうな話で……うわ!

この店の常連である、という画廊商のガンコジジイ、フィッツジェラルドもクセのあるお客の一人。脇には新進気鋭のアーティスト達を携えて、25分も待たされた、とぐちぐち文句を言い、高級なワインを得意げに注文し、店にかかっている絵を描いたウェイトレスに才能なんてないと一刀両断し、その間苦虫を噛み潰したような表情を崩すことはないんである。このヤな客に、その絵を描いたウェイトレスは強気で噛みつく。連れのアーティスト達は、この人はカネになる芸術にしか興味がないから、と言う。彼らはそれを自分たちへの皮肉で言っているのか、カネになる芸術、というのがくだらない芸術、と聞こえてしまうのはうがちすぎなのか。そう割り切らないと、このニューヨークという街ではやっていけないよと、自分を信じているだけで生きていけるような甘い街じゃないんだよと、言っているようで。

ま、だからウードのやり方は、このニューヨークで生きていくためには必要な手段なのかもしれない。ルイにはそういうことは出来なくて、だから彼の好きな店ではなくなってしまって、息子に譲った。それなのに、彼が息子に、誇りに思っている、と言う場面は、不思議とシニカルな響きはなく(レストランをやりながら、胴元なんていうヤクザなことをやってきたことへの負い目もあるんだろう)、彼の美学を全うして、この一夜で全てにケリをつけて去っていく男のダンディズムがある。それにこのレストランには彼を唯一満足させてくれる“ソーセージとペッパーの料理”を作れるダンカンが、ウードの右腕として支えてくれているわけだし……ルイはダンカンがここを離れることがないように、と、彼が自分の相棒が殺された原因であるにも関わらず、逆にそれを利用して、恩を売っておくあたり、さすがは長年やってきたボスの貫禄である。

スターシェフ、ウードを演じるエドアルド・バレリーニは初めて見る役者さん。アメリカとイタリア二重国籍(ハーフではないのかな)ということで、流暢なイタリア語でイタリアンのシェフとやりとりし、ちょっとお顔がイチロー似?なんて感じの童顔でなかなかチャーミング。それでいてこの殺人的厨房をシビアにとりしきるのだから、そのギャップもなかなかステキなんである。そしてこのウードと副シェフのダンカンに取り合いされるのが、チーフウェイトレスのニコーレで、演じるのはヴィヴィアン・ウー。彼女って、いかにもアメリカ人の想像しそうなアジア人だよね。世界の美しい50人に選ばれたとかっていうけど、決して美人じゃないと思うんだけどなあ……何か女豹というか狐っぽいというか、アジア人にはもっと素晴らしい美人がいるわな。別に彼女がキライなわけじゃないんだけど(というか、可もなく不可もなし。美貌と演技力ならマギー・チャンだのミシェル・ヨーだのいろいろいるわけだしさ)。しかも彼女、ケバイメイクの化粧荒れなのかしらんけど、肌荒れてるよねー。アジア人はさ、肌のきれいさが自慢のひとつなんだから。ダメ、失格!

でもさー……私昔、つぼ八(笑)でバイトしてた時に、厨房に入りたかったんだよね。あの戦争状態の料理人にメチャ憧れたの。でも同じバイトでも、女はウェイトレスどまりで、基本的に厨房に入れないのだ。年下の男の子は厨房でバンバン料理してるのに。そりゃさ、私、キャベせんがラーメンみたいとか笑われるようなブキだけど、でも、うらやましかったなあ。ここでもやっぱりそう。女は厨房に入れず、男の仕事。でも、ルイの時代は、彼のかみさんの味を売りにしていたということは、その彼女が厨房に入っていたのかなあ。何ていうか、ウードは新しさをウリにしているようでいて、実は結構保守的。批評家に認められなきゃ、とかいうのもそうだし……。時代は結構、自分を守る方向に行っちゃってるのかなあ、それって、何だか怖い。

確かに、これは観たら即イタリアンが食べたくなる映画。私も思わず帰ってパスタを作ってしまった。今ひとつ味が決まらなかったけど……(やっぱ、ブキね)。★★★☆☆


テープTAPE
2001年 87分 アメリカ カラー
監督:リチャード・リンクレイター 脚本:ステファン・ベルバー
撮影:マリーズ・アルベルティ 音楽:
出演:イーサン・ホーク/ユマ・サーマン/ロバート・ショーン・レナード

2003/7/14/月 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
モーテルの一室、密室状態で、登場人物はたった三人の会話劇。即座に小劇場での舞台を思わせる……と思ったら、やはりオフ・オフ・ブロードウェイでの芝居にホレこんだイーサン・ホークによって持ち込まれた企画、だった。イーサン・ホークは初監督作であった「チェルシー・ホテル」でも感じたけれど、そうしたアンダー・グラウンドな匂いが好きらしい。「チェルシー……」はそれにこだわりすぎてカラ回りした感があったけれど。彼自身はアイドル俳優として出てきて、男くさいイイ役者になった今でも、やはりどこかメジャーキラキラ路線のイメージをついつい思い浮かべてしまうのだけれど、もしかしたら彼自身、無意識にそういうものを振り払いたい気分もあるのかもしれない。女房が、メジャーながらもアングラ&アートを感じさせるユマ・サーマンだというのもどことなくそんな気分。

監督はリチャード・リンクレイター。もう随分前になるけれど、「恋人までの距離(ディスタンス)」でホレこんだ監督さん。それ以降、作品は入ってきていたのに何故だかずっと観逃していて……というのも、その「恋人までの……」の会話づくしのキラメキのイメージがとても清新だったものだから、そうではない(なさそうな)リンクレイター作品に興味がいかなかったせいかもしれない。しかし今回は、その「恋人までの……」のイーサン・ホークと再びコンビを組み、そして再び会話劇を見せてくれるというので、かなり期待度が膨らんだんである。

結果的に言うと、「恋人までの……」の魅力には及ばない、というのが正直なところ。「恋人までの……」の良さは、本当に脚本があったんだろうかと思わせるほどの、会話のヴィヴィッドさとスリリングさにあって、しかも陽光の中での恋の始まりが非常にフレッシュで、そういう魅力とは本作はまず全く趣を異にしているのだから、比べる方が間違っているというのは判っている。ただ、やはり芝居が元になってるんだよな、と思わせる会話の構成が、スリリングではあるものの、どこか予測の範囲内であり、それぞれの言い分がそれぞれで説教くさいというか、相手を説得の下に圧しようという感じがアメリカのディスカッションっぽくて会話の魅力、というのにはちょっとキツい。この作品の核はつまり、事実はひとつでも真実はひとつではない、つまり三人それぞれの中に真実があり、それぞれの立場や感情で事実さえも変わってしまう、という点にある。で、これははっきりラショーモナイズであり、つまり新しい試みというまでには当たらない。それこそあの「羅生門」に関しては、誰かが故意にウソをついている筈、ということまで含んで、それが誰かは判らないということが更に追い討ちをかけ、三者の駆け引きはもっともっと人間のドロドロした部分にまで踏み込んでいたわけで、それを考えると本作の三人はかなりカワイイ段階でぐるぐるしている、と言わざるを得ない。こんな風にあまりにも優れた前提があるから、だから、物足りない。

今ひとつ芽の出ない映画作家であるジョン。彼は故郷で行われる映画祭に作品を出品するために来ている。マジメで常識的な感じである。ジョンの友人のヴィンス。その登場からぬるいビールをあおり、奇声を発する少々キレ気味の男。消防士をやっていると言いながら、実は裏でヤクの売人稼業をやっている。ヴィンス→ジョンと付き合ったエミリー。この故郷で地方検事をしているエリートの女。彼女は物語も中盤になって登場する。つまり、ここが起承転結でいう“転”。彼女によって事態がひっくり返される。

何が問題になっているのか。それは10年前の高校時代、ジョンとエミリーが酔った勢いでした“ラフな”セックスが、実はジョンによる無理強いのレイプだったんではないかということである。という問題に至るまでに、ジョンとヴィンスの間では、それぞれの価値観の違いに対する激しい言い争いがある。その時点では、落ち着きがなくやたらジョンに絡むヴィンスに対して、冷静に話をしようとするジョンの方に正論があるように見える。しかし、ヴィンスがエミリーとの件を持ち出したことで状況は一変する。レイプだったと言わせたいヴィンスとそうではないと繰り返すジョン、という図式がいつしか、ジョンが、そうだったかもしれない……という雰囲気になり、ついにはすっかり動揺したジョンから「腕を押さえつけてネジ込んだ」という発言を引き出すことになる。そしてその言葉は盗み録りしていた小さなテープに収められる。そこに当事者のひとり、エミリーが訪れる……。

ここで少し、引っかかるのは、本当にジョンがそれをレイプだと思っていたかどうかにある。実はそう思っていたわけではなく、本当にジョンは少々度が過ぎた程度のラフプレイだったと、最初に言っていたとおり思っていたんではないかと感じられるフシもある。エミリーによってひっくり返される、というのは、テープの存在にうろたえまくったジョンが、切羽詰まってエミリーに過去のあやまちを謝罪するのに対して、エミリーが、あれはレイプなどではなかった、私はあなたを愛していたから抱かれたんだ、と発言するからである。ここまでのジョンとヴィンスによる、どこか裁判における弁護士の弁舌競争のごとくに積み重ねられてきた議論で、確かにあれはレイプであったと確かめられたはずが、思いもかけず被害者がそれを否定した、という格好である。勇気を振り絞って罪をわびたジョンはますますうろたえ、謝りたいんだ、と繰り返す。そこで出されるエミリーの最大の武器はこの言葉。「私はあなたを愛していたから。あなたは私を愛していた?」

なぜジョンが自分の行為をヴィンスによってレイプだと思い込まされたか。それは、彼がその時エミリーを愛していなかったから。愛のないセックスがそのままレイプだというのも言いすぎかもしれないけれど、でもその方程式はある部分では間違いでもない。そしてジョンがヴィンスに問い詰められるまではそれがレイプだと思っていなかったかもしれない、という点についても、あまり考えたくない方程式がある。女、少なくともエミリーにとってのセックスは愛しているから、という条件がつくのに、男、少なくともジョンにとってのセックスはそれは必要条件ではないからである。セックスはセックス、ただそれだけ。

ここでひとりピエロになっている状態のヴィンスはかなりアワレというか。つまり彼は、自分とはセックスしようとしなかったエミリーが自分と別れてすぐにジョンとは寝た、ということに嫉妬しているのであり、この物語を引っかきまわす狂言回しに過ぎないから。で、あんまりカワイソウだから、こんなキレた(というかどこかギャグ的に笑える)キャラにしたのかも、などと思うが。でも、マジメで常識的に見えたジョンよりも、人間的にマトモなのは、だから実はヴィンスの方なのかもしれないんである。ヴィンスはエミリーにホレていた。だから彼女を抱きたかった。ジョンとは寝たエミリーに、あれはレイプだと言わせたかった。ホレていたから。彼にはエミリーと同じようにちゃんと必要条件があったのだ。

今語られている時間と、10年前の時間。二つの時間軸によって事実を、真実をあらわにしようという試み。10年前という時間はあまりに遠くて、しかもその時はまるで冷静ではないティーンの青春時代の揺れる感情の中にあって、事実も真実も、そんな社会の常識に照らし合わせたものは存在しなかったのかもしれない。ジョンもエミリーも、そのことは思い出したくないようである。いや、思い出したくなかったんではなくて、しまっておきたかったのかもしれない。蓋を開けて、思い出がこんな風に酸化してしまうのがイヤだったのかもしれない。特に、エミリーが。ヴィンスからの問い詰めやジョンからの謝罪をはぐらかすような彼女に、そんな印象を受ける。

ヴィンスに嬉々として扮するイーサン・ホークは、トランクスにランニングのよれよれ下着姿で、高い声に裏返るところが、いかにもイライラさせられるキャラで上手い。彼と仲良しのロバート・ショーン・レナードがその人間性をくるくると変えさせられるジョンに扮し、その軸が揺れ動く感じがいかにもハマっている。クライマックス、ウソの通報をして事態にピシャリと決着をつけるユマ・サーマンはちょっとズルい位のカッコイイ女。たとえ自分だけがジョンにホレていた、という弱い過去を見せても、彼女は今の時間に生きている自分だということを、一時も見失わない。そう、男二人は、この密室の中では完全に過去に引きずり込まれているのだ。

立場がどんどん変わっていくところや、カットを変えるのではなくカメラが二人の間を往復するめまいを起こす感じなどが、井坂聡監督の「【Focus】」を思い出させたりもした。つまりは、やっぱり新鮮だとは言い切れない作品なのだった……。★★☆☆☆


テハンノで売春していてバラバラ殺人にあった女子高生、まだテハンノにいる
2000年 60分 韓国 カラー
監督:ナム・ギウン 脚本:ナム・ギウン
撮影:ナム・ギウン 音楽:ナム・ギウン
出演:イ・ソユン/キム・デトン/ペ・スベク/キム・ホギョム/ヤン・ヒョクチュン/パク・トンヒョン/ユ・ジュンジャ/ファン・ピルス

2003/6/10/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
韓国映画一長いと言われるタイトルと、奇想天外な展開でかの国で熱狂的に支持されたという本作。海外の国際映画祭もかなり回っているという。すべての韓国映画が入ってきているわけじゃないから判らないけれど、昨今どんどん入ってきている韓国映画に感じる共通点は、実にきっちり丁寧に作られていて、破綻がないこと。で、あ、ようやく破綻のある、つまりは作家がやりたいようにメチャクチャやるような映画が来たか、と思って、こういうのが出てこないとやっぱり、映画界としてオモロくないよね、とワクワクしたんだけど……、これが、思ったよりずっと、破綻がなかった。監督の名前がその他のスタッフのところにもズラリと名前を連ねる作家主義は塚本映画みたいだけど、中身はそこまでは全く徹底していない。ヤバさや刺激の強さをメロウな音楽と露出の大きいカメラで、柔らかな光の中にボヤけさせる。確かにその見た目はかなりアーティスティックで個性的なのだけど、バラバラ殺人の場面も、女子高生のハダカもその光の中に完璧にボヤけてしまって、エグさやグロさははっきり、皆無。つまりは、こんな話でいながら下品になっていないのだ。うーむ、確かにある意味ではこれは凄いことではあるんだけど。

思えば、やっぱり奇想天外であった「クワイエット・ファミリー」も、その点は、似ていた。思ったよりも、予想していたよりも、ずっと丁寧で上品だという部分。で、リメイクした日本版の方が、何たって三池監督がヤっちゃったもんだから、とんでもなくぶっ飛ばせてしまっていたし。それに同じ女子高生エンコウものなら、恥知らず?の日本映画の数々……「援助交際撲滅運動」などのヤバさも思い出し、やっぱり韓国はその点、いくら話や描写がぶっ飛んでても、こんな風に表現で上品に抑えるのね、などと妙に勝った気になったりして……。ま、あのギシギシと死体を切る音は、さすがに鳥肌だったけど。でもまあ、このテの映画が、一般的な社会現象になるほどに支持される韓国が、ちょっとだけうらやましかったりも、するけど。日本じゃやっぱり、アンダーグラウンドの部分で盛り上がるのみ、だからなあ。ま、こういう映画が、結構ゾロゾロあるせいもあるだろうけど。

それにしてもホント、このメロウな軽めのジャズがソフトに全編にかぶせられているのは、かなり、意外ではあった。「知らないの?遅れてるぅ」と彼女の説明する“強姦コース”で男を誘い込んだ女子高生が、駅弁スタイルで男にしがみつき、この粋なジャズに彼女のリズミカルな喘ぎ声が重なる、というこれまた粋な?手法。韓国の制服も実際はブレザー型が多いらしいんだけど、このセーラー服に膝丈のスカート、そしてロリータっぽい肩までの真っ黒な髪、白いソックスをはいた足で男の腰をはさみこみ上下に動く彼女は、光の中に埋没しているとはいえ、うーむ、なかなかナイスな画なんである。思えばこんなひと昔前ぐらいの王道のセーラー服でエンコウする女子高生は、日本映画じゃお目にかかれなかったかもしれない。

しかし彼女がお仕事場所に選んだところが、担任教師の祖母の家の外。コワーい担任に彼女、現場を抑えられてしまうのである。しかしこの担任もまた、客。彼女は最高級コースで許してもらうことに。しかし彼女はこのエルム街顔の担任にホレていて、あなたの子を妊娠した、と嬉しそうに告げる。そして彼女は担任が雇った殺し屋三兄弟にあえなく殺され、あまつさえバラバラ状態にされてしまう。
売春とかいいつつ、この担任の先生にホレてるあたりが、湿っぽい韓国映画らしい。この彼女の独白場面はかなり湿度が高く、彼女の潤んだ、黒目がちの瞳がアップにされ、オペラ歌手がドラマティックに歌いまくる(というあたりはなかなかシュール)。それにしてもこの担任の先生は顔が怖すぎ。このエルム街顔、本当に地顔なの?凄い役者だなー。

で、このバラバラにされてしまった女子高生、どこからか現われた謎の男にそのバラバラ死体が回収され、おばーちゃんの足踏みミシンでカタカタカタ♪と縫われて(!)元通りの姿になり、見事サイボーグに蘇るのであーる。足踏みミシンで元通りっていうのは、かなり好き。しかしこのサイボーグとして蘇るシーンは、コードやチューブがその全裸に、ヤバい部分も含めてさしこまれ、エヴァンゲリオンっぽい緻密な画になっているのに、これまた光の中に埋没してボヤけて見えない。うー、これはいくらなんでももったいない、んでないかい?これだけ作りこんでおきながら……確かに上品なアプローチではあるんだけど、ここで上品にしたってしょうがないじゃんー。大体上品なテーマか?これ!やるときゃ、やろうよッ。

彼女は殺人マシーンとして蘇ったのだ!この謎の男に指示されて、新しいセーラー服に身を包み、銃をぶっ放す彼女。彼女は胸を貫かれても、黄色い(緑?)の血?が流れ、そのふくらんだ胸が破裂した中には黒焦げのマシンが埋まっているばかりで、まさに全身サイボーグになってしまったのだ。しかしこの銃弾でショートしてしまったのか、彼女は指示され動く殺人マシーンのはずなのに、自分の記憶が蘇り、手始めにあの三兄弟を銃弾の下にしとめてしまったのだ。まあ、この三兄弟というのがかなりオマヌケな奴らでこれはなかなか笑えたりもする。「俺達が殺したはずの女が立ってるよおー!」とうろたえまくるし。闇夜の中で三兄弟の車を待ち伏せし、ひらりと車に飛び上がってフロントガラスから銃弾を撃ち込む彼女はかなりカッコイイかも、この三兄弟が抵抗できなすぎなんだけどさ。

で、ここからがクラマックス。彼女はあの担任の元へ。すべての原因はコイツである。コイツが自分を殺させたのだから。しかし、なぜか、彼女は彼を撃てない。銃を向けても、引き金を引くことができない。おいおいおい、ここに至ってもメロドラマなの?と驚きつつ……そういうわけでもないらしい。担任は高笑いし、この私を撃てるはずがない。担任の私には抵抗できないようにインプットしてあるんだとか、そういうことを言うわけね。え??ということは、この担任はあの謎の男や、この殺人マシーンを使う地下組織と関係があるわけ?……あるんだろうな、だってバラバラ殺人の後、実にタイミングよくあの謎の男が現われたんだから。あー、私って、相変わらずアホね。とか思っていると、この担任の所帯じみた奥さんが駆け込んできて、あなた!来月から校長に昇進ですって!と抱きついて喜ぶんである。ピクリと表情をかすかに変える女子高生殺人マシーン。え、もしかして……。

そう!彼女は、担任ではなく校長先生なら、躊躇なく撃てるのである。お、オイオイ、なんとゆー、オチだよ!しかしこういうアホっぽさこそこのテの映画には必要なのよねー。で、出ました!股間装着マシンガンで、男の股間を狙い撃ち!股間の武器装着っていうのは、こういう現代爆裂カルト映画のお手本ともいうべき「鉄男」でもそうだし、最近出会ったハチャメチャパロディのピンク映画「欲情する制服」 もそうだし、もう一つ二つ、そんな描写の映画を見た記憶もあるような……とにかく、意外に?どこの国でも考えることは一緒なのよね。でもここでの特徴は、距離が離れていることと、女から男へ、“発射”されること。やっぱりこれは、何たって発射だしさ、女から男への、そういう意味での復讐、って感じだよなー(「欲情する……」も同義!)、いかにも。この股間装着マシンガンも、かなり緻密な作りになってるように見えるんだけど、やっぱり光の中で、よく見えない。あーん、もっとちゃんと見せてよお。紺サージのスカートをまくって、股間にこのマシンが現われる画、すっごくいいのに。

1時間ちょっとという中篇で、その中にピタリと収まっているのも、どことなく優等生なおもむき。割とそこここで披露されるオペラ舞台のオーヴァーラップが、独特の昂揚感。現代的、都会的な、つまりは泥臭さのない音楽といい、音楽とカメラ(照明)がこの映画の独自の美学、だわね。確信犯的なタイトルはあくまで観客をひきつけるための手段。★★★☆☆


デブラ・ウィンガーを探してSEARCHING FOR DEBRA WINGER
2002年 97分 アメリカ カラー
監督:ロザンナ・アークェット 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影: 音楽:
出演:パトリシア・アークェット/エマニュエル・ベアール/カトリン・カートリッジ/ローラ・ダーン/ジェーン・フォンダ/テリー・ガー/ウーピー・ゴールドバーグ/メラニー・グリフィス/ダリル・ハンナ/サルマ・ハエック/ホリー・ハンター/ダイアン・レイン/ケリー・リンチ/フランシス・マクドーマンド/ジュリアナ・マルグリーズ/キアラ・マストロヤンニ/サマンサ・マシス/キャサリン・オハラ/ジュリア・オーモンド/グウィネス・パルトロウ/マーサ・プリンプトン/シャーロット・ランプリング/ヴァネッサ・レッドグレーヴ/テレサ・ラッセル/メグ・ライアン/アリー・シーディ/エイドリーン・シェリー/ヒラリー・シェパード=ターナー/シャロン・ストーン/トレーシー・ウルマン/ジョベス・ウィリアムス/デブラ・ウィンガー/アルフレ・ウッダード/ロビン・ライト・ペン/ショーン・ペン/ロジャー・エバート/ロザンナ・アークェット/アンジェリカ・ヒューストン

2003/7/10/木 劇場(渋谷Bukamura ル・シネマ)
よく考えてみればわりと普遍的で、現代の世の女性たちが皆思っているようなことを、世界の誰もが知っているセレブのハリウッド女優たちの口から出ることが、驚きであり新鮮であり、ヴィヴィットな魅力になっているのだと思う。本作に登場するキラ星のごとくの女優たちは、実にさまざまなタイプの幅広さなのだけれど、でもやはりどこか、この映画の作り手であるロザンナ・アークェットに似ているような気がする。気質、というか、覚悟、というか、中に秘めているものが。それは意外なことにセクシー女優であるシャロン・ストーンやダイアン・レイン、または辛辣なブラック・コメディエンヌ、ウーピー・ゴールドバーグにしても、やはり共通の何かを感じるのだ。この映画に出演する、というんではなく、「ロザンナに会いにきたのよ」と言う女優もいたことからも判るように、ロザンナの女優仲間における信用はあつく、時にはアグラをかくようなリラックスで話を聞くロザンナに、彼女たちは実にフランクに語ってくれる。これは何にも勝る魅力である。

彼女達がこんな風に素で(ま、彼女たちは何たって女優だし、素のように見えてもどこかに演技が入っているのかもしれないけれど)喋ってくれると、イメージが覆され、そんな、共通の核が見えてくる。ロザンナは、自分の中に抱えている40代女優のモヤモヤとした歯がゆさを、こうした共通の内面を持つ女優たちを無意識にセレクトすることによって、彼女たちの話を積み重ね、自分の中のモヤモヤを凝縮させることに、成功しているのだと思う。そしてそのモヤモヤが、女性問題としてとても普遍的なことなのだ。

男優諸氏と違って、女優たちは結婚し、ましてや子供を持つと、極端にスクリーンでの露出が少なくなる。それを私たち受け手は、やはり女優は賞味期限が早いとか、若手がどんどん出てくるしね、とか、そんな無責任なとらえ方をしていたように思う。違うのだ。彼女たちだって、仕事をしたい。役者という運命の仕事をしたいのだ。でも、物理的に出来なくなる。子供が優先になる。子供は何よりも大切なもので、そのことに対して不満も後悔もないけれど、表現したいというストレスがたまって、仕事を辞めることは出来ない。せいぜい年に一回、そうしたペースに落としていく。チャンスを逃す。仕事をしている時、子供に寂しい思いをさせることに後ろめたく思う。エトセトラ、エトセトラ……。

結婚をし、子供を持つ。その条件は男性だって全く同じ筈なのに、どうして女性にだけこうしたハードルが生じるのだろうといつもいつも思う。妊娠期間など、しょうがない部分はあるけれども、“家庭を守る”という部分で、なぜ女性だけがそれを担わなくてはならないのだろうと。今よりも年若い時の方が、このことに対してもっともっと大きな憤りを持っていた。年を重ねてくると、男と女というものが、当然、生物学上からして同じものではないのだから、さまざまな違いが生じるのは当然のことだし、女性に課せられる母性というものが、誇るべきものだという考えにもなってきた。けれども、こんな映画を観ると若い頃の憤りがそのまま再燃する気分にかられる。結婚した女性が仕事を持つ、その夫に対しては“理解ある夫”などと言われるのに、その逆はなぜないのかとか、家庭か仕事かという悩みに男性が一切煩わせられない、つまりは、そうした女の煩悶が男には決して判らないであろうことへの歯がゆさや。そして、女が仕事を持つ、仕事を続けるという場合、それはこうした、女優のような芸術的な仕事や、“辞めるのはもったいない”と言われるようなキャリアウーマンならば世の中の理解はある程度得られるものの、そうではない場合、世間的には平凡な仕事と思われる場合には、きっともっと軽んじられるんだろうと思われることも。

と、思ったのは、女優である彼女達が、なぜ女優を続けるのか、という問いに対して、ふたつの答えに別れたから。家賃を払うために(つまりは生きていくためのお金を得るために)女優を続ける、という人と、自分を表現したいために女優を続ける、という人。前者は、結婚(再婚)をし、キミを養ってあげるよ、という人が現われれば辞めてしまえるのだろうか、と思う。彼女は生活費を稼ぐために、やりたくないようなテレビ映画の仕事もどんどん引き受けているのだ、と言う。そして一方で、自分を表現せずにはいられないんだ、という女優。彼女にとって、仕事は生活の糧ではないのである。だから、結婚しようと子供が出来ようと、仕事を辞めない。で、現代の女性たち、独身も既婚者も子持ちもそうでない人も、ここまできっかりと意識が別れているわけではないのでは、と思う。こういう芸術的な仕事についているならまだしも。この二つの意識の間で揺れ動いているのではないかと思う。結婚したら辞めればいいじゃないということに対して、何故自分が続けたいのかということに、彼女たちほどに明確に答えられないのじゃないかと。生活の糧として続けてきた仕事に、自らのアイデンティティもいつしか託してきた。それを、いきなり断ち切られることへの不安。だからこの女優たちに、自分たちの共通の悩みに親近感を感じながらも、やはりどこかにうらやましさを感じてしまう。

テレビ映画の仕事、というのが、アメリカでは映画に比してのそれとしてこれほど低い位置のものなのかとちょっとビックリする。ホストであるロザンナは何度も、嫌な仕事としてこのことを挙げている。でも、その一方で、テレビ映画が、普通の働く女性を演じられる貴重な場であり、役を取り合う映画よりチャンスがあると言う女優もいる。映画では女性の役柄は限られていると。この点については総ての女優たちが一致した意見であり、何回“主人公の彼女”を演じたことか、と声をそろえる。男優は、年を重ねるごとにその年齢に応じた映画が作られるのに、女優たちにはそれがないと。世の女性たちは自分たちと同年代の女性を演じた映画が観たいと思っているのに、と。

でもそれは、女性の製作者がいないことが、原因なのだ。そう語るベテラン女優もいる。それもそうだ。女性が観たい映画は、女性が作るべきなのだ。ロザンナがこの映画を作るキッカケになったデブラ・ウィンガーは、何か答えを欲しがっているロザンナに言う。あなたがこの映画を作ったことが、変化のきっかけになるんだと。デブラのニュアンスは、女は選択しなければならない時期があるのだと、それは家庭を選ぶということ、みたいなものがあったのだけれど、ロザンナにとっては、監督デビューとなったこの作品によって、よりクリエイティブなものに進んでいくことを願わずにはいられない。女優はあふれんばかりにいる。それこそ男優より数が多いのではないかと思う。しかし女優ありきの映画は、男優のそれに比べて少ない。思えば男優は俳優と呼ばれることがほとんどだけれど、女優は俳優とは呼ばれない。女優であり、女性映画であり、女流監督であり、というのは、オンナであることをウリにしなければその世界を生き抜けないからなのだ。今の状況では。

と、いうことが非常にイヤな例で示される。パトリシア・アークェットが脱ぐ現場で遭遇したセクハラ役員の身の毛もよだつサイテー行為のエピソードや、女優はお偉方とヤレることが条件であり、お歴々の会議では、いかにして女優とヤレるかが議題なんだという話。個性的な女優たちのディナーパーティーでのおしゃべりで、そんなことが暴露される。どこかフィクションとして漫画なんかでそんなことを聞いたことがあるけれども、本当なんだ、とゾッとする。それを語る彼女たちの表情もいかにもウゲッという感じで、またしても、なぜ女ばかりがそんな屈辱的で侮辱的なことにさらされなければならないのかと、怒りに震える。ここで吼えるマーサ・プリンプトンがイイ。女優はみな美人ばかりなのはおかしいと。男優はいい、ブ男でも性格俳優で生き残れるでしょ、と。正直、マーサはそう美人といえるわけではなく、彼女の良さはそれこそズバリ性格俳優だと思うんだけど(久しぶりに見たけど、ホント、思ったとおりになってるのが嬉しいわ)彼女の言うこと、本当に良く判る。そういえば、同じ場所にサマンサ・マシスもいて、リヴァー・フェニックスを介在する二人に感慨を覚え、意外にそういう同志的な感じで仲がいいのかな、と想像して勝手に喜び、そういやあ、サマンサもチャーミングではあるけれども、決して美人ってわけではないよな、などと思う。女優はイコール顔が命みたいな、それってつまりは役者としての資質をとても軽んじられているということじゃないかと。それは、女優という職業でなくても、“女の子”と呼ばれるような日本の職場でも、似たようなことが言えるのだと思う。若い女の子であることが重宝され、たった数年いただけでお局様と言われ、仕事が出来ないわけでもないのにあとがつかえているから早く辞めろという雰囲気になる、ような。

ロザンナがその演技に感激して手紙を書いた、「ピアノ・レッスン」のホリー・ハンター、有名女優から手紙をもらったのはあなただけだとホリーは嬉しそうに言う。ロザンナのこういうところが女優たちにナマの声を言わせるのだろうな、とこちらも嬉しくなる。ホリーは言う。「女はいつか仕事をやめると思われていた」と。確かにそうだ……でも、なんて最悪な意識。ホリーは続ける。「でも、私の演技への愛は永遠なの」その鮮やかな、カッコ良さにハッとする。またしても男性との比較問題でちょっと悔しくも思うけれども、つまり、女はここまで思いつめてなければ仕事を続けられないのかとかも思うけれど、でも、ここまで仕事を愛することが出来るホリーを心底カッコいいと思い、自分はそこまで思えるだろうかと思い、そう思いたいと、思う。そこまで思えれば、どんなことがあっても仕事を続けることに躊躇なんか感じっこないじゃない、と。

子供のことをかえりみず仕事を続けてきたジェーン・フォンダが、そうせずにはいられなかったけれど、でも子供には本当に悪いことをした、と語る。またしてもまたしても、男優ならこんなこと悩まないんだろうなと思いつつも、でも例えば彼女が子育てのために仕事をセーブして、子供が成長し、自分を育てるために偉大なる女優の仕事を妨げたと知ったら、どう思うんだろうな、とも思う。いい母親といい女優、それはそれほど両立できないものなんだろうか?だって、男親なら、今はそうでもないのかもしれないけれど、父親の背中、みたいな、仕事に打ち込む姿を見せてればいい、みたいに言われるじゃない?母親はそれではダメなの?どうしても?私はそんなことはないんじゃないかな、と思う。子供を愛することと、自分の人生を大切に生きることは、別問題だし、充分両立できると思う。というか、してほしいと思う。こういうトップ女優たちにそれを示してもらえれば、どんなにか心強いかと思う。

ロザンナが家庭に収まってしまったデブラ・ウィンガーに、なぜ辞めてしまったのか、戻る気はないのかと長時間に渡ってインタビューする。デブラはさまざまな言葉を駆使して語るけれども、正直、ロザンナにとってデブラの答えはどれも食い足りないというか、歯がゆかったのではないか、と思う。デブラは、女優にとっていいホンがないからよ、と言う。その言葉は彼女にとってついつい出た言葉なのかもしれないけれど、役者としてやりたいと思う仕事があるのなら、という気持ちはあるのだ、やはり。それがなかったから、だから彼女は家庭に入ってしまった。そういう条件下での選択だったのだ。彼女の時代に比べれば、少しはロザンナたち世代にはやりたいと思う仕事が用意されているのかもしれない。だから女優は残り、ロザンナはデブラに戻ってほしい、と願う。でもやっぱりまだまだ、道は険しい。そしてその道は、こうして監督に乗り出した女性たちの映画制作のエネルギーにかかっているのかもしれない。ただただ女優としての仕事がないと嘆くのではなく……それはそのまま一般社会にも、トップに女性が極端に少ない社会にも当てはまる話なのかもしれない。

名のある女優たちのざっくばらんな話が何より魅力的である本作。最も意外であり嬉しかったのは、女優たちが実に仲良さそうであったこと。これがそれこそ“演技”だったら、私ゃ人間不信になるぞ!?劇中で語られてもいるけれども、マスコミによって女優たちの熾烈なライバル意識のイメージが作り上げられているんだと。確かに、私もそう思っていたもんなあ……。でもあのディナーパーティーで和気あいあいと話が弾むところとか、あるいは一対一でもお互い姿勢を崩しまくって話し合う場面とか、ホント、イイ感じなんだよね。

他にも、キュートなイメージで売っているメグ・ライアンが、こうして素で喋ると意外にマニッシュな雰囲気なんだ、とか。あ、でもここに出てくる女優たちは、みんなそんな感じに受け取れたなあ。何でだろ。割とフェミニンな格好している人も多かったのに。やっぱり、皆戦ってるんだな。だから、そんな風に感じるんだ、きっと。メグ・ライアンはねー、ホントもったいないと思うんだ。彼女、ロマ・コメの女王みたいに言われて、そんな作品にばかり出ているけど、以前は時々野心的な作品に出て、その時のメグはかなり良かったんだよね。でも全然評価されなくって。彼女も見かけによらず、役者への情熱がアツい人だと思うからさ……。こらえて頑張ってほしいと思ってるんだけど。

それと、もう、本当にステキだったのが、フランシス・マクドーマンド。メグ以上に本当にマニッシュな魅力で、カメラの前でおどけるさまが実にチャーミング。で、彼女が語ったのが、若さを保つことへの痛烈な批判。これはまさしく女優ではなく役者、と言いたいリヴ・ウルマンもアツく語っていたことなんだけど、女優が陥る整形の無意味さ、とか。はー、やっぱりハリウッド女優って、整形とかフツウのことなんだね……想像はしてたけど、ちょっと、なんか、ショックだな。完璧美人とか信じられないぐらいカワイイとか思っていた女優さんたち、あの人も、あるいはあの人も、ひょっとしたら整形なのかもとか思うと……やっぱり。でね、マクドーマンドは言う訳。整形なんかせず、若作りなんかせず、ちゃんとこのまま老けていけば、54歳の役が必要になった時に独り占めよ!ってね。確かにこの日本でも、女優に対する評価って、とてもその実年齢に見えなくてキレイだとか、若いとか、でもそういう言葉って、その実年齢が重ねられていくほどに白々しいというか、むなしいというか。本当にその年齢に相応しい年のとり方をするってことが、それは本当に尊いことで、ステキなことなんだということを、マクドーマンドが言ってくれた気がして、嬉しかった。

今や大ブレイクの妹、パトリシア・アークェットに対してのアンビバレンツな思いを吐露するロザンナ。妹が素晴らしいのは判ってる。私は妹を愛しているし。でも私に妹のことばかり聞かないでよ。姉はコメディエンヌで妹は女優?私も女優よ、私にも仕事を頂戴!みたいな……うっわー、何か、すっごい、切実、だわ。確かに今はパトリシアがバーン!と出てるもんなあ。デブラ・ウィンガーにインタビューしたロザンナが、あなたには他の女優にはないもうひとつの試練があると、あんな風にバーン!と出てきた妹さんの存在だと言われてて。画面の中のロザンナには、役者として巧みに隠してはいるものの、やはりどこかにパトリシアに対する複雑な思いが見え隠れする。でもやっぱり第一義に姉妹だから、無条件に仲良くて、おそろいのストライプのパンツを見せ合いっこする様子とか、その仲良しぶりが本当に微笑ましいんだけど。でも、ロザンナは一歩先を行かれた妹に、監督作品を作り上げるということで、別の第一歩を踏み出した。うん、理想的な姉妹だよね。ラスト・クレジットでも「愛してるわ、パトリシア」と……実に素敵。

彼女たちが、自分たちのことをアクトレス、ではなく、アクター、と言う人が多かったのが印象的だった。フランス人であるエマニュエル・ベアールはアクトレス、と言っていたけど、ね。やはり英語圏じゃないせいかな。ちょっと気になったのが、そう……例えば宣伝ポスターなどで出演女優たちの写真が細かくいっぱい貼られていると本当に実感するんだけど、金髪の多さね。当然、白人の。ロザンナをはじめ、出ている女優さんたちは本当にみんなステキなんだけど、何かやっぱり、このあたりにハリウッド、あるいは全世界そのものの排他的な気分を感じざるを得ないな……なんて。★★★☆☆


デュラス 愛の最終章CET AMOUR―LA
2001年 100分 アメリカ カラー
監督:ジョゼ・ダヤン 脚本:ジョゼ・ダヤン
撮影:キャロリーヌ・シャンプティエ 音楽:
出演:ジャンヌ・モロー/エーメリック・ドゥマリニー/クリスティーヌ・ロラート/ソフィー・ミルロン/ジュスティーヌ・レヴィ/アドリアン・ギルベール/ディディエ・ルスール/タニア・ロペール

2003/1/9/木 劇場(渋谷Bunkamura ル・シネマ)
ひとりでいるのは好きだけど、ひとりで死ぬことだけは怖い。
そんなことを思い出してしまった。思い出してしまった、などと思うのは、実は常にそんなことを考えているからなのだ。そのためだけに、その最期の想像を絶する恐怖のためだけに、その瞬間のためだけに、誰かを、家族を欲してしまうのかもなどとも。愛の大女流作家、マルグリット・デュラスは、その人生の最後に38歳も年下の若い愛人、ヤン・アンドレアと16年の時を過ごした。しかし、その最期の一瞬、自分の死ぬところを、彼には見せなかった。「あと1時間したら来て。その間に私は死ぬの」……この人は、本物の愛に生きた人なんだ。最期の一瞬の恐怖のためだけに誰かにいて欲しいなどと思う弱い私とは違う。最期の一瞬は、誰だって、誰がそばにいたって一人。彼女はそのことを知っていたんだ。死の尊厳。木の下で一人死を待つライオンの話が出てきた「キス★キス★バン★バン」を思い出した。

38歳年下の愛人!というだけでものすごくのけぞってしまったが、デュラスの最晩年のこの彼の存在は、知られたものなのだという。フランスだからこういう年の差のある恋愛も違和感がないというか、アリな気がする。日本だとさぞかしヘンタイ扱いだろうな……と思いながら、恥ずかしながら、私はデュラスを演じるジャンヌ・モローの老いに引いてしまった。先日、東京国際女性映画祭の時に来日していた彼女は、あんなに颯爽とカッコよかったのに、劇中の彼女は思わず老醜、などと言ってしまいたくなるような隠しようのない老いに支配されていた。女性の密かな夢である若い愛人との日々、などという甘っちょろいことを考えていた私は打ちのめされた。そんな、イイカゲンな話ではないのだ。でなければその時のデュラスと年の近い(そう、もうモローも70歳を越えているのだ!)ジャンヌ・モローが演じるはずもない。いや、演じようとするはずもない。そばに美しい若い男がいるために一層顕著になる女の老いを判っていて、この大女優は自分のキャリアの糧になると確信して、この役に臨んだのだ。デュラスの親友でもあったという彼女でなければ、演じてはいけない役だった。とはいうものの、写真で観ているデュラスのイメージのせいか、デュラスにある可愛らしさがモローにはない気がして、ちょっとキツかったのだけれど……でもそれも、映画を観る直前に、モローの演技が重いとかなんとか、そういう評をロビーに展示されていた記事で読んでしまったせいの先入観かもしれない。そういうことがないように、映画を観る前は出来るだけ何も見ないようにしているのに、ついつい時間が余ってしまっていて……(自戒)。

で、その記事にもあったことなんだけど(結局影響されてる(笑))モローの相手を堂々務めたヤン・アンドレア役の彼、エーメリック・ドゥマリニーが素晴らしいのだ。まず、美しい。ちょっとヒゲのそり跡が濃くてアゴも割れてるけど(笑)、そのロバのようにバサバサのまつげにつぶらに輝く黒い瞳、細くしなやかなウェーブがかった黒髪。彼がデュラスとの邂逅の直後、泊まっていくようにうながされた(泊まるどころか、そのあとずっと彼は彼女が死ぬまでそばにいることになるのだが)時、彼女の目の前でまるで挑発するようにスルリと上着を脱いだ時に、あらわになった筋肉のない細い肢体にくぎづけになってしまった。その彼を避けるようにして部屋を出て行くデュラスの気持ちが、何だかありありと判ってしまった。老いた自分に対して、彼は美しすぎる……。筋肉のないことがこれほど美しく感じられる男性というのも、初めてな気がする。まるで文学そのもので出来ているかのような青年、詩情豊かな青年。そんな、不思議な雰囲気を持つ青年なのだ。いつもデュラスを、デュラスの目をじっと覗き込むように見つめてて……ああ、そうだ、彼は、デュラスの目を、そしてそこを窓にして彼女の中を見つめているのだ。だから、私のように老いの外見でうろたえることなんて、ないのだ。デュラスの文学に傾倒している彼は、外見の、例えばその活字のデザインがどうだとか、そんなことを気にするはずもないのだ。その文字があらわす、愛を見ている。

例えば、ずっと昔から自分が憧れ続けていた人ならば、その人がどんなに年をとっても自分にとってはアイドルだから、こういう恋愛も可能かななどと思ったのだけれど、そういう要素も含んでいるとは思うけれど、このヤンのデュラスに対する愛は、もっとずっと深く、スピリチュアルな部分に根差したものだという感じがする。彼はデュラスに5年間、毎日5通ずつ(!)手紙を書いた。そしてその手紙が途切れた時、デュラスから会いに来るようにと呼び出されたのだという。話では、むしろデュラスの方がヤンを独占して、電話をかけることさえ禁じたとかいう監禁状態(というのは言いすぎだけど)だったらしいんだけど、ヤンが書いたデュラスとの生活を書いた自伝を原作としている本作では、むしろ気まぐれなデュラスにヤンが翻弄されて、涙ぐむような場面まであって、それにヤンはずっとずっと、今でも、デュラスの呪縛から離れられないというし、その原作タイトル「デュラス、あなたは(本当に)僕を愛していたのですか」(いい台詞)を考えても、やはり彼の方こそがデュラスを愛していたんだと、思うのだ。などと思うのも、やはり願望が大きく作用しているのは否めないところなんだけど。だって、やっぱり、女なら誰だって、いいなあと思うんではなかろうか。しかもこのドゥマリニーのたたずまいがあまりに素敵だから、愛の言葉を発さなくても愛が信じられるから、もううらやましくてしょうがないのだ。

実際、彼は愛の言葉をどれほど発していたのだろうか、と思う。彼が彼女に書き続けていた手紙には、何が書いてあったんだろう。そして、なぜその手紙を書くのをやめたんだろう。彼はその頃、死にたいと、死のうと思いつめていたんだという。手紙が途切れた時、なぜデュラスは彼を呼び寄せたんだろう。彼が死んでしまうのかもしれないと思ったのか、彼をつなぎとめておきたいと思ったのか……そうして彼は自殺願望を抱えて彼女の元に来た。でも彼女に会って、愛し合うようになって、一緒に暮らし始めた。彼が彼女の死の三年後、一冊の本を著すまで、彼女に対してどれだけ愛の言葉を言ったのだろう……などと思ってしまうのは、この劇中でヤンの発する言葉が本当に少ないからなのだ。いつもデュラスが彼をヤン、と呼びかけるところから始まる。お嬢様のようにマシンガンのごとくワガママを言う。それに対して彼はふいと出て行ってしまったり、涙ぐんだり、反駁しようとしてもそれほど言葉は出てこない。それはまるで……そうだ、彼女の文学に、言葉に心酔する彼が、彼女の言葉を自分の言葉で邪魔しないようにしているかのようだ。あなたには才能なんてない。そんなことを言われて書かずにいたヤンが、しかしもう死も間近いデュラスに書いてみなさい、と言われる……そんなことを回想しながら彼が綴る物語。黙ってデュラスのそばで彼女の言葉をタイプする彼。抱き合ったりキスしあったりダンスしたりする場面より、もしかしたら最も、濃密な時間なのかもしれない、と思う。

むしろデュラスの方が……まるでヤンに喋らせないほどに自分ばかり喋りまくるデュラスの方が、この美しい愛人を本当につなぎとめておけるのか、恐れているように思える。執拗に彼にここから出て行って、と言うのも、そう言われても戻ってくる彼を(砂浜で夜を過ごし、仔犬のように砂だらけになって帰ってくるヤンの愛しさよ!)迎えることによって、その恐れを振り払っているように思えるのだ。それは、本当に去ってしまうかもしれない、と何も確信のない、危うい賭け。決して彼が戻ってくることを信じているわけではないんではないか。モローが言うように、デュラスはさまざまなヒロインを自分の作品の中で動かし、そして最後、彼女自身をヒロインにしたんではないかと思うのは、こんな風に彼女が理不尽なほどワガママになってヤンを困らせたり、あえて自分を窮地に陥らせたりしているからなのだ。それをヤンも感じていたからこそ、自分は本当に愛されていたんだろうか、などと彼は思ってしまったのか。デュラスは最後まで文学を愛し、文学を通して愛人たちを愛していたのではないか、と。

デュラスがハデなメイクをしてヤンを待っている場面がある。ヤンが外泊を重ねるようになった頃。ヤンはそんなこっけいなデュラスに対して「娼婦か!」と罵倒する。でもなぜか……デュラスはそれに対して笑い、そしてヤンも笑い出すのだ。まるで芝居のように。この年になってこんなハデな化粧をして若い愛人を待っているデュラスは、まさしく見るに耐えないんだけれど、先述のことを思い返すと、やはりデュラスが自分をコマにして演出をしているように思えてしまうのだ。そしてヤンもそれを判っててノッていると。でもそれこそが愛の本質的な部分なのかもしれないな……ただ一緒にいるだけでは愛は育たないのかもしれない。どんな方法でもいい。お互いに鼓舞しあって、理解と信頼を深めていくこと。彼女の演出こそが、文学者である彼女独特の愛情表現だったのかもしれない。

当然、ヤンはデュラスに愛されていた。デュラスは過去に多くの愛人を持っていたみたいだけど……例え結婚の経験があったり、過去に大恋愛していても、“最後”の愛人がやっぱり勝ち逃げなのだ。その記憶を持って彼女は永遠に旅立つのだから。最後に持っていく事の出来る記憶はひとつだけ。だなんて、「ワンダフルライフ」じゃないけど。でも、そう思う。そして愛する人の最後の人になれたヤンは、最高に幸せな人なのだ。彼女の呪縛に今もとらわれ続けているのも、それは愛という観点においては100パーセント幸福なのだ……辛いけれども。★★★☆☆


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