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「う」


2004年鑑賞作品

ヴァンダの部屋NO QUARTO DA VANDA
2000年 178分 ポルトガル=ドイツ=フランス カラー
監督:ペドロ・コスタ 脚本:ペドロ・コスタ
撮影:ペドロ・コスタ 音楽:
出演:ヴァンダ・ドゥアルテ/ジータ・ドゥアルテ/レナ・ドゥアルテ/アントニオ・セメド・モレノ/パウロ・ヌネス


2004/4/9/金 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
久々拷問系……完璧、全くスキのない拷問系である。つまりはそれだけ純度、完成度が高いんだろうとは思うけれど、私にとっては全き拷問系。全然、意味が判らない、何を言いたいのか、何を表したいのか、全く判らなくて、椅子に荒縄で縛りつけられて観せられているような拷問である。あちゃー、マズい。こりゃ、芸術系の作家さんなのね、私のようなバカなエンタメ系にはホント、辛くて、前知識得ときゃよかったと後悔しても後の祭り。

でもねえ……前知識を前提にしている映画なんてそりゃないと思うんだけど……と思いつつ、しかしあまりに絶賛の嵐なので困り果て、必死に自分の中の感慨を掘り起こそうとするんだけれど、かなり難しい作業である。青山真治が推薦しているという時点で気づけばよかったかもしれない。彼、基本的に苦手なんだもの。
それに、このペドロ・コスタ監督が小津の影響を再三、しつこいくらいに口にしているのも、先に知っとけばよかったかもしれない。今でこそラクに観られるようになったけど、その体験の最初は、私小津もかなり苦手だった。……やっぱりバカなエンタメ系なのだ。

この作品の前に、この地で撮られた「骨」という作品があって、本作はその続編の趣なんだという。これまたあちゃー、という感じである。ますます前知識必要じゃん、みたいな。本作を観ている時には、この街がどういう状況にあるのかさっぱり判らないので、ホント拷問なんである。私もしつこいけど。
破壊されゆく街、その中でなすすべもなくただただ麻薬中毒に溺れている住民たち。野菜を売ったりする描写も出てくるけれど、全然やる気などなく、ベッドに座ったきりドラッグやりっきりで、吐くような咳を何度もして、実際に吐いたりもして、家族間で気の悪いケンカを繰り返し……彼らにとってはそれが日常で、しかし追いつめられてて、後がない。

もの凄く、確信をもった長回しである。長回しアレルギーの私はここでもううっと思う。私はバカなので、よっぽど説得力のある長回しじゃなきゃ、ダメなんである。例えばその一貫したリズムに打たれた「ヴェルクマイスター・ハーモニー」のような……。そういやかの作品も画的にも実に芸術系だったとは思うけど、何だろなあ、違いは……観客に観せている意識がもっとずっと強かった気がする。そういう意味では芸術系に見えながら、意外にエンタメ系だったのかもしれない。

本作は、その点憎たらしいくらいにまっすぐに作家的視点に貫かれている。彼が映画祭で熱狂的に支持された監督というのはさもありなんというか……映画祭はイコール作家的と言ってもいいから。劇場公開を待望されていたというけれど、劇場公開にはそれなりの前準備が必要だったんじゃないかしらん(バカな私だけか……)。作家的な監督、役者に重きをおかない発言もそのせいだと思われる。だから、こういうドキュに行き着くのかもしれない。でも作家的であることは、ドキュメンタリーに対して、はたしていいことなんだろうかという疑問もつい沸いてしまう。作家の映像が、真実をねじ伏せることになってしまいはしないかと、ちょっと思いもする。まあいいのかな……作家の映画として成立しているのなら、別にそんな余計な心配をしなくても。

彼の、長回しは回しっぱなしである。こっちがヘキエキするぐらい回してくる。何たって三時間の上映時間なんだから、時間はタップリあるんだというぐらいのもんである。これが2年間の軌跡だというんだからそれでも苦しんで刻んだんだろうけれども、こっちとしては、そんなダラダラ見せられても、というのが正直な思い。リズムを殺しているだけなんじゃないのとかついつい思ってしまう。これは意外なんだけど、長ければ長いほど何だか逆に、状況をつかんでゆくのが難しいのだ。

だって、この街の状況が判ったのは、オフィシャルサイトを読んでようやくだったんだもの……それでもシノプシスを読む前、監督の言葉の時点ではやっぱりさっぱり判らなかった。天才の言葉は難しい……。

ポルトガルの移民の問題が、この街の落ちぶれ状況に色濃く影を落としているんだという。そのあたりも映画を観ている時にはぜっんぜん判んないんだけど……そのために街の再開発が入り、只今取り壊しの真っ最中だということである。彼らはそれに抵抗するというわけでもなく、しかしギリギリまで移動せずに麻薬づけの日々を相変わらず送っている。

完全なるドキュメンタリーというわけではない。フィクションと入り混じっているんだという。しかしそこに映っているのはそのほとんどが実際の街の人々である。つまり、麻薬を打ちまくっているのも、クダをまきまくっているのも、ヘドを吐きまくっているのも、彼ら自身である。それは確かに強烈な印象であるには違いないのだけれど……共感を許さないのも、この映画の非常に厳しい姿勢である。だって、あんなこっちが気持ち悪くなってしまうような咳を繰り返すぐらいなら、それ吸うの止めれば、なんて思っちゃったら……おしまいでしょ。まだ年若い女の子(なのか……でも麻薬のせいかえらく老けて見える)がねとーっとした白いヘドをベッドの上に吐き、しかしそれもウヤムヤにまた吸い出すに至っては、うーん……勝手にやってろと思いたくなるのは、もちろんそういう状況が思いもつかないぬるま湯の人生を送っているからなんだけれど。

その意味では、かなりイジワルなんだろう。監督は彼らを立ち直らせようとか手を差し伸べようとか思っているわけではなくて、今ここにいる、今だけ存在する時間と空間を、つまりは“軌跡”と同時に“奇跡”をも収めようと思っているのだろうから。再開発をして彼らを救おうなんていう偽善的なものを映画のBGMにしながら、ただ彼らのより良き隣人として、見つめているだけなのだ。

破壊は確かに、映画にとってのペシミズムとカタルシスを同時に持ちえるものなんだろう。それは判るけれども……同じような戸惑いを「壊音」の時にも感じたことを思い出す。そのペシミズムとカタルシスは、しかしその意味が判らなければ、その感慨に到達するのは難しい。なぜここで破壊が行われているのか、観ている時には正直ちっとも判らなかったから。
その後の再開発が劇中で語られていただろうか……私、眠ってたのかな。でも、語られていても語られていなくても、それが前提にあるのならば、その先の再生の光が見えても良さそうなものだけれど、ここにそれを見つけることは出来ない。壊れゆく街と、それによって様々に形作られる、どこかゆがんだ光と影である。それはメタではなくて、実際的な。
ガリガリと崩されて、そして光が差し込んでくる。あるいは、ギリギリまで閉じこもっている密閉された空間には全く光が差さなかったり。それをドキュとしてとらえるカメラが延々と映し出すと、時に人の姿が全く見えなくなる。一見美しそうに点されているロウソクも、やはりここでも麻薬を打つために何とか点された、いわゆる下世話なものに過ぎない。この死ぬような長回しではなくリズムがあれば、美しく思えるのかもと思う方が……下世話なのかもしれないんだけど。

ここにはドキュ・ドラマがどこまで成立しているのだろうか。例えば「ワンダフルライフ」で成立していたような見事な融合が、どこまで見られるのだろうか。ドキュメンタリーの中のフィクションというのは、往々にして手助けの部分である。でも、ここにはそんな親切は微塵も見られない。イヤになるほどナマな現実ばかりである。いや、ナマな現実がここまで立ってくるのは、確かにフィクションの手助けによるものなのかもしれない。あの破壊は確かに実際でありながら、人間社会のフィクションとも言えるものだとも思える。日常には必要のない破壊、その劇場性は確かにフィクショナル。彼らは日常を“演じて”いるんじゃないかと思えるぐらい、確かにその時間は嫌悪を思わせるほどに……どこか濃密だから。

正直何を訴えたいのかは、やっぱり判らない。何も訴えたくないのかもしれないとさえ、思う。悲惨さを訴えたいのか、こういう日常があることを言いたいのか。
だって彼らには、仲間意識は微妙にあるけど、微妙なだけで、感動するまでのものは、ないんだもの。それは麻薬で薄れてしまっている。
ただ、この圧倒的な画を見せたいだけなのだろうか……芸術家というのは難しい……。
この人は、凄く評価されているというんだけど、その評価のされ方をまるで知らずに観に行ったのがまずかったのかなあ……とついには悩んでしまう。バカだから(完全にひがみ)。
でも、映画にはある程度の親切はやっぱり、必要だと思う。小説のように、文章で語るものではないから。
そう思ってしまうのは……うーん……やっぱり判らないひがみだろうか。★★☆☆☆


ヴィタール
2004年 86分 日本 カラー
監督:塚本晋也 脚本:塚本晋也
撮影:塚本晋也 音楽:石川忠
出演:浅野忠信 柄本奈美 KIKI 岸部一徳 國村隼 串田和美 りりィ 木野花 利重剛 原昇 康すおん 鈴木一功 川島宏知 中島陽典 村松利史 綾田俊樹

2004/12/17/金 劇場(新宿K’cinema)
塚本晋也の映画にはガッカリさせられるということがない。
彼はストーリーテラーというわけでは決してない。どんでん返しなどでビックリさせられるとか、会話の妙とかがあるわけじゃない。なのに、そうじゃないのに、そこには人間の強い思いが言葉以上にごつごつと現われていて、その、隠しようもない人間の心というものをわしづかみに描写してゆく。
繊細に描写する、と言われる作家はいる。でもそれは実際に、ではどれだけ描写しているのだろう、などと、塚本映画を観ると思ってしまう。
あんなに、ニコニコと映画を語る人が、こんなに映画を撮るだけで血が流れているんじゃないかと思うような作品を残していくことに、毎回、身震いがする。

医学生が、記憶喪失になって、死んだ恋人の遺体を解剖することになる。このアイディアを思いついた時点で今回は勝利だったかもしれない。
でも、医療関係の話って、専門家からつつかれる恐れがあると思うんだけど、しかも、解剖が主軸になっているなんて、それこそちょっと間違えば重箱の隅つつきがいっぱい現われそうって感じなんだけど、塚本作品にはそんなこと絶対にさせない圧倒的な力がある。
関係ないんだけれど、……何か、手塚治虫を思い出したりして。
医学を修めたかの天才は、医学に、どこか冷たい恐ろしいものがあることを重々承知の上で、でもそれは人間の体を隅々まで知り尽くす学問だから、その上に医学では届かない心が宿るんだということを、より強く感じていたんだろうと思う。だから、あの傑作群が生まれたんだろうと思う。
そして時代をたがえたこちらの天才が、その医療の分野に挑戦した時、そういう、核の部分で、共通するものがあったような気がするのだ。勿論分野から作風から何もかもが違うんだけれど、天才同士に通じる何か、そんなものが、あったような、気がする。

冒頭、いきなり記憶を無くして登場する主人公、博史。演じるのは浅野忠信。それまではどんな映画に出ても浅野忠信だった。それはいい意味で。彼はいい意味で役につかるタイプではなかった。役に没頭することが役者だという意識をいい意味でもっていない人だった。そう、今までは全てがいい意味で機能していた。まず、浅野忠信。カメレオン役者というわけではなかった。
でも、ここでの彼は、たとえいい意味であっても、ある種バリアであったものが、塚本映画によって取り除かれてる。そりゃ、浅野忠信なんだけど、“まず、浅野忠信”という感じが払拭されている。やっぱり、塚本晋也は、凄い。
目の下にくまを作って、彼女の遺体の解剖にのめりこんでいく彼は、“まず、浅野忠信”なんて空気は微塵もない。
そして、そうなっている彼は、彼自身は、なんだか幸福そうに見えた。
役者のある段階を、登ったように見えた。

そして、ヒロインたち。
博史と共に交通事故にあい、死んでしまった涼子。そして、記憶が取り戻せないまま博史が通う医大の同級生、郁美。
この二人ともが素晴らしい。そのダンスで森羅万象を感じさせ、同時に空気を震わせ気持ちを伝える、肉体そのものがヒロインの涼子。そして、意志の強い風貌が頑なさと共に、頑なであればあるほど、愛されないと知った時の自暴自棄にも似た脆さが、脆いのにはっとするほどの芯の強い美しさを感じさせる郁美。
塚本映画に登場するヒロインは奇蹟になる。残念なことに、その後塚本映画以上に輝くことが今のところないんだけど……それだけ、塚本映画のヒロインは、とてつもない。

博史は、結局最後まで記憶そのものを思い出したわけではなかったのかもしれない。というよりまず、彼の過去が判らない。どんな人物だったのかが。
それはまるで、彼が本当に過去に存在していたかどうかさえ危うくさせる。
衝撃の後の目覚め。そして、キミは記憶をなくしてしまったんだよと言われて、それを信じるしかない。そういう状況で、実は今生まれたばかりなんだ、とか、これは夢の世界で、記憶も何も関係ないんだ、とかいうことが、言えないわけがどうしてあるだろうか。
こういうことって、よく考える。夢で見ている世界の時間の方が、起きて現実の時間より長くなったら、夢の世界が本当なんじゃないかって。どんどん夢の世界の方が長くなって、いつか完全に夢の世界の住人になってしまうんじゃないかって。
第三者が、それは記憶をとりもどしつつあるんだよと、それを夢で見ているんだよ、という現象は、博史にとってはそうではない。明らかに、他人の言う現実の世界と同時進行なのだ。だって、過去の記憶のはずなら、そこでの博史が今の姿のわけはない。しかも彼は自分の意志で行動し、言葉を発しているのだ。だから博史は頑として否定する。それは過去の記憶ではなく、そこに自分がいる世界なのだと。

それでも最初のうちは確かに、過去の記憶のフラッシュバックのような感じではあった。事故の時、隣りにいたものうい顔をした彼女。二人は未来の展望などないような表情をしていた。その事故さえ、二人が、いや、涼子が望んだもののように思えたぐらい。
二人は博史の部屋にいる。そこは確かに、今の、現在進行形の博史が暮らしている部屋である。でも、その出来事は、過去にあったことに違いない。涼子と博史はお互いの首をしめあう。容赦なくしめあう。その……もの凄さ。
彼女はこっちを向いてくれない彼に苛立っていたのかもしれないし、そしてこれが二人の愛の描写だったのかもしれないし。
後に博史が訪ねる、涼子の父親が言っていた。彼女は高校生になって、急に瞳の力を失ってしまったようになってしまったんだと。
この時の彼女は20はこえているように思えるから、そんな中、出会ったのが博史だったのかもしれない。

そんな描写が続く中、博史は解剖実習で担当の遺体に目を奪われる。その腕に描かれたタトゥーは……夢で見た彼女に確かにあったものだったから。
いや、それ以前に、記憶も何もかも失った博史が、しかし何かに導かれるようにしまいこんでいた医大の勉強道具を見つけ(記憶を無くす以前の彼は、医者になることに難色を示していたらしい)全ての記憶が失われていたはずが、その勉強の記憶だけは覚えていて、見事首位で医大にパスするのである。
そう、確かに全てが導かれていたのだ……たぶん。
彼女の遺体が彼の前に現われたのも。

涼子と出会う場所は、次第に穏やかな、楽園のような、極彩色の色合いに変わっていった。それは、現実だといわれる世界の陰鬱さとあまりに違って、博史が、どっちが現実なのかを苦悶するのも当然かもしれない。どちらかを生きる場所として選べるというんだったら、絶対にこの楽園を選ぶもの。
彼女と二人。二人並んで座っているだけで、穏やかで、幸福だ。
なぜ、自分はここを去らなければいけないのか。
「またすぐ戻ってくるよ」
そう言う博史。それは自分自身でそう言わなければいけないと思っての、言葉なのか。
その間、彼女は一人。たった一人……。

最初、その遺体が涼子だと気づかないうちは、博史は天才っぷりを発揮して、戸惑う同級生たちを尻目に、ザクザクと解剖を進めていった。学年トップを博史から奪い取った郁美はそのグロテスクさに、とてもその場にいられなかった。
でも、“あっちの世界”で涼子と会って、その遺体がどうやら彼女のものらしいということが判って……博史はほかのメンバーを圧力で退け、アシスタントに郁美だけつけるものの、彼女にはなんら手出しをさせず、ひとつひとつの臓器を、筋肉を、細胞を……いつくしむようにひとつずつ取り出し、異様なぐらいの詳細なスケッチに描き止める。そしてそうすればするほど……“あっちの世界”の涼子は鮮明に、生き生きと、美しくなってくる。

博史は、涼子の両親を訪ねる。コイツに娘を殺されたんだと思っている彼ら、特に父親は、更に彼が彼女の遺体を切り刻んでいると知って激昂する。飛び出し、雨の中号泣する……たまらない、たまらないよ、判ってしまうだけに……國村隼が。
しかも、この男は記憶を失っているんだというんだから。一体娘は何のために死んだのか。そう思うのが、そりゃ当然。
でも、そのにっくき男が話し出すのは、自分たちの知らない娘の姿。夢の世界の話に過ぎない……と聞き逃せないのは、その男自身に、それは夢ではないという確信があったから。
そりゃ、娘は死んでしまったのだ。それは覆しようのない事実なのだ。現に、この許せない男が娘の遺体を切り刻んでいるんだという。しかしこの男、そう言う一方で、娘と、夢ではない、この自分と、“あっちの世界”で会っているんだと言う。
許せない、許せないと思いながらも、このお父さんがどこか、なぜか、惹かれてしまうのが、不思議な説得力を持って描かれるのだ。

彼がそんな風にして彼女のお父さんのもとを折々訪れている間に、話を聞いているお父さんを映すカメラがぐるりと回って、涼子の写真の隣りに、さっきのカットまでこのお父さんの隣りでオロオロと悲しそうにしていたお母さんの写真が並んでいることに驚く。いつの間に、お母さんも死んでしまったのだ。心痛だったのだろうか……一人になってしまったこのお父さんがあまりに哀れで、そしてそれは余計にこのお父さんと博史の距離を縮めているように思える。
このお父さんが、もう、来なくていいよ、と博史に言ったのは、博史があまりに生気を吸い取られていることに、気づいたからだろう。
でも、博史は目の下にくまを作った顔でニッコリと笑って言う。何を言ってるんですか、これからですよ、と。これからって、どういう意味?博史は一体、どこに行こうとしてるの?

克明に描写する、彼女の体の中、その臓器の数々。それはホラーになりそうで、不思議とまるでならない。気持ち悪いという表現を意識的に遠ざけている。そこには死への哀しさと、生の尊さ、そんな清い世界しかない。
学生の悪ふざけっぽく遺体を扱うシーンも出したりするけれど、博史の一喝によって激しくそれが拒否される。
実際、博史が最初こそ無慈悲に遺体を“解体”って感じで切り開いていったのが、それが涼子だと知るや否や他の学生に絶対に触らせずに、大事に大事にその身体を隅々までいとおしむように解剖していくという描写は、献体の遺族の気持ちを納得させる描写だと思う。
「骨まで愛して」なんて歌があったけど、本当に、冗談じゃなく、彼はその臓器、細胞の一つ一つ、眼球の中のきらめく水晶体までも、愛して、いくのだ。
切ない、なんてそんな弱々しい言葉じゃ追いつかない。

だから博史は、自分のエネルギーが吸い取られる。まるで亡霊のようになる。
彼は記憶を失っているからか、自分自身やその生活に頓着することがないせいなのかもしれない。ただ徐々に思い出してくるのは彼女との断片的な思い出。いやそれは、思い出しているのではなく、今の自分が彼女と共に今いるんだという。それははたから見れば思い出しているんだってことになるんだけど、彼にとっては違う。いや、確かに彼の言う通りかもしれない。だって彼は自分自身の過去を思い出しているわけじゃない。両親のことも思い出していない。父親との関係はゼロから作り出して、映画の最後にはようやく父と息子らしくくだけた口調になってるけど、だからといって思い出したわけじゃない。
涼子との関係もゼロから作り出したように見えて、でも涼子の細胞の中に彼への愛が残っているように、彼の細胞の中にも涼子への愛は、残っていたんだと思う。
それをお互いに共鳴させるために、涼子は博史によって切り刻まれた。彼女の体にぎっしりと詰め込まれている、細胞の隅々まで行き渡っている彼への愛を判ってもらうために。
彼女は、生きているときよりも、もっともっと彼に愛されたかったし、実際それが叶った。

死ぬ間際、父親に強く強く、献体を望んだ彼女。医学生になった博史、解剖実習に差し出された遺体は彼女だったなんて……ありえない偶然だ。だけど。
「すべてが君の思い通りになって、怖い」
涼子の解剖にのめりこんでゆく博史を心配して、彼の父親はそうつぶやく。博史の父の友人に大学教授がおり、博史を教えている。つまりはこの友人に“ありえない偶然”を頼んだのか……しかし友人である教授は、そんなことは自分にはできない。そんな規範は犯せないと言ったけれども……でも。
そうとしか、思えない。あるいはじゃあそうでないなら、彼女の意思が戸惑っていたそうした人たちの心に無意識に働きかけたとしか思えない。
人の心はいつまで、どこまで機能しているんだろう。生きている、それだけが条件だと言えるのか、って思うことがある。それは生きていたって、心にパワーがない人だっているし、ならば逆に、死んでしまったって……ある人もいるんじゃないかってこと。

彼女の身体は切り刻まれる。ギシギシと。まるで工事現場みたいに。
でもそうなればそうなるほど、“あっちの世界”の彼女は世界と共に色を備えて美しく舞う。そして、そうなればなるほど、彼が去ることを、とても、哀しむのだ。
私は、じきに行かなければならなくなる。そうなったら一人、本当に一人。寂しい。不安だ、どうしていいか判らない。そんな気持ちをぶつける彼女。
彼女は死んでいる。でも、死んでいない。荼毘に伏されるまで……というのは確かに日本的な考え方だけど、でも、肉体が肉体として愛する人に愛されているうちは、やはり死んでいないのかもしれない。彼女は愛する彼に解剖されている。その身体の本当に隅々まで、ミクロまで見られ、それと同時に心もようやく判ってもらえて、今までで一番、愛されている時間。今までで一番、生きている時間。

人間は、生きているうちは、本当に、皮膚の、皮の、表面しか、見て、愛してもらえていないんだ。
そう考えると、急に不安になる。
きっと、親は夫婦としての相手より子供をより愛する。それは、“中から出てきた”という、細胞感覚があるからだと思う。そして母親がその感覚をより強く持つのは、そういう意味で当然。
なんだか寂しい、寂しい、し……、涼子と博史がうらやましいような気もする(のは危ないよな……)し、そしてだからこそ、二人に叶わない嫉妬をする郁美の気持ちが判ってしまう。
でも本当に嫉妬しているのは涼子に対してではなく、そんな肉体を超えた細胞までもの愛を知ってしまったこの二人に対してなのかもしれない。
愛しているから殺してほしいとか、愛しているから殺したいとか、いうのが、メロドラマな意味ではなくって、きっとあるんだ……と思える。
殺したくても殺せない(死んだ彼女ほど愛していない)、殺されたくても殺されない(死んだ彼女ほど、愛されない)、郁美の、絶望的な愛の寂しさ。

博史は、ついに荼毘に伏される彼女に、その棺に、吸い寄せられるようにすがりつく。
まるであの時の博史、魂がないみたいだった。何で立っていられるのか判らないぐらいだった。解剖実習が終わった時、遺体の名前が初めて明かされて、勿論知っていたはずなのに、涼子の名前を渡された時、博史に何かどこか、ほんの少しだけど躊躇があったように見えたのは、判ってはいたけれど、これを受け取ってしまったら、涼子は“あっちの世界”よりもっと遠い、もっと届かない世界に行ってしまうと、思ったからなのか。
でもその前に、この儀式の前に、博史が、この“あっちの世界”にとどまることを決意した時、あんなにも涼子は喜んでいたのに、なのに、涼子は“あっちの世界”から姿を消してしまうのだ。
死ぬって、死ぬってことに納得するのって、凄く凄く……信じられないぐらい、寂しいことなんだね、きっと。
博史が涼子に、ここに残るよって、言った瞬間が、彼女の愛が試される時だったんだね、きっと。
愛する人を、“あっちの世界”に来させないことが、きっと本当の愛なんだと。
未来永劫の、絶望的な寂しい世界に行くかもしれないと思っても、それが愛なんだと。
宗教的に考えすぎかもしれないけど……何か、思っちゃった、そんな風に。

自分の、今こうして心に思い、キーボードに打ち込んでいる気持ちというものは、こうした臓器や細胞の、どこから出てくるんだろう……そんなことを、この文をつづりながら思う。
塚本監督は本作に関して、ダヴィンチをずっとイメージしていたんだという。宇宙と、医学(死)。
そうだ。子供の頃って、宇宙の果てや、死ぬことを、すっごく考えてた。
宇宙の果て、いや、宇宙の果てがないことを考えることは怖かったけど、それ以上に、死ぬことは本当に、怖かった。
その怖さを忘れていないのが、天才、なのかもしれない。ダヴィンチ、手塚治虫、塚本晋也。
ダヴィンチに医学世界からアプローチしてるのが手塚で、美術世界から(日芸の“美術科”出身って、今更ながら初めて知ったわ。映画科だとばかり思ってた)のそれが塚本監督ってことなんじゃないかと思う、ホントに。
塚本監督は美術的に肉体の内部に美しさと感情を見出だしていたんだろう。そして肉体を使って表現するということでダンスが出てくるのは至極自然な流れなのね。このダンス、H・アール・カオス!まさに、肉体に入り込むダンス、全てが完璧に結集している、これこそ奇蹟に同時代で立ち会えることを本当に嬉しく思う。

そしてこの、塚本監督が自ら指示する、音響、塚本映画には欠かせないこの轟音が、映画館で観なければ、意味がないのだということをキッチリと感じさせてくれて嬉しくなる。映画が映画として成り立つ、意外にクラシックな意味での“映画監督”なのだよね、塚本監督!★★★★☆


歌え!ジャニス・ジョプリンのようにJANIS ET JOHN
2003年 104分 フランス=スペイン カラー
監督:サミュエル・ベンシェトリ 脚本:サミュエル・ベンシェトリ/ガボール・ラソフ
撮影:ピエール・アイム 音楽:ジャン=フランソワ・ロック/アメリー・ドゥ・シャセイ
出演:セルジ・ロペス/マリー・トランティニャン/フランソワ・クリュゼ/クリストフ・ランベール/ジャン=ルイ・トランティニャン/アンパロ・ソレル・レアル

2004/8/20/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
この映画の情報が入ってきた時、驚いたのが、主演マリー・トランティニャンの遺作だということだった。私、知らなかったのだ、このニュース。もう1年も前の話だっていうのに。この人の作品、なぜだか私には縁がなくて、避けてたわけではなくて、観たいと思っていたのもずいぶんとあったのに、出会えていなかった。最初に観たのが、遺作だなんて。しかも、彼女の死というのが、恋人のロックミュージシャンに殴打されての死だなんて!
そりゃあ、詳しいことは判らない。単にケンカの行き着いた先の、打ち所が悪かったのかもしれない。でも、でも、でも……まさにロックミュージシャンの魂が降りてきた、ジャニス・ジョプリンをその身体の中に宿した本作が遺作となった彼女が、ロックミュージシャンに(言ってしまえば)殺されてしまったなんて、なんて、あんまりなの。
お父さんである、ジャン・ルイ・トランティニャンとの最後の共演で、彼女が扮したジャニスの相手となるジョン・レノン役のフランソワ・クリュゼも彼女との間に子供をもうけた間柄で、そしてそしてこれが長編デビューのベンシェトリ監督は元夫で(11歳下!)。なんか、あまりにこれは……。しかもこの監督、彼女の死後は自分も含めた父親違いの子供四人を全て引き取っただなんて、そんな“ちょっとイイ話”もツラすぎるよ。ああー、ワイドショーじゃないけど、映画には関係なくても、こういう知ってしまって衝撃的、な事実は書かずにはいられない。

と、思うほど、マリー・トランティニャン、素晴らしかったんだもの。映画自体ははっきり言ってしまえばコメディ。ブラックな味も満載の、大人をニヤリとさせてくれるシャレたコメディだ。でも、まさにジャニスが乗り移ったシャウトを見せるラストのマリー・トランティニャン、黒いレースのストッキング、黒のミニのワンピースからすらりと出た太ももを震わせてシャウトするマリーの、なんとエロティックでパワフルなこと!ああ、何で彼女が死んでしまわなければならなかったの!!

というところまでいくには、当然、いくつかの道のりがあるわけだけれど……そもそもなあんでこんなことになったのか。大体、ジャニス・ジョプリンにしたって、ジョン・レノンにしたって(そう、邦題ではすっかりジャニス一辺倒になってるけど(ムリもないが)、原題はジャニスとジョン、なわけだもんね)アメリカ人であり、イギリス人であり、こんなフランス語しか喋るもんかっていうようなフランス人にそれが振られるのは、おかしいわけなのよ。でも、でもね、本当に、ジャニス・ジョプリンに、ジョン・レノンなの。もう、そうとしか言いようがない!それはドラッグで頭がぶっ飛んじゃったレオンじゃなくったって、観客であるこっちだって、そうだ、そうだと拍手喝采したくなるほど。

おっと、だからどうしてそうなったのかっていうのを、興奮してまたしてもすっ飛ばしちゃった(笑)。えっと、保険外交員のパブロが、横領をしちゃうのね。高級車を大事に大事に車庫にしまいっぱなしの顧客、キャノン氏が、それでも保険をかけたいっていうのを利用して、そう、車庫に入れっぱなしで事故になんかあうわけないんだからと、掛け金をそっくりネコババしてたわけ。でも、なぜかなぜか、キャノン氏の車、大暴走して木に激突!50万フランもの保険金を支払わなければならなくなる。ホントのことを言えばもちろんパブロは刑務所行きだ。そこで彼は一計を案じるわけ。折りよく飛び込んできたニュース、長いこと会っていなかったいとこのレオンの両親が死んで、100万フランもの大金を相続したっていうのを聞いて、そのカネを50万フラン、せしめてやろうと思ったわけ。何たってレオンは元ヒッピーで、30年も前からドラッグで違う世界にぶっ飛んじゃっているんだから……。

レオンはその30年前にトイレでジャニス・ジョプリンとジョン・レノンに会った(と思い込んでいる)。んで、その二人が、いつか戻ってくると言ったのを信じて、ジャニスとジョンのレコードやコレクションだけをおいたショップを経営しながら待ち続けているのだ。……これは皮肉じゃなくて、幸せな人。好きなミュージシャンのレコードだけをおいたレコード屋さんなんて、ファンの究極の夢ではないか。そしていくらドラッグでの妄想とはいえ、本人たちに会い、また会おうと言われ、そして本当に(……と言っていいものかどうかはムズカシイところだけど)その二人が30年の時を経て、彼の前に現われたのだから!

いや、本当に、と言っていいと思うよ。だって、ジャニスに扮するブリジットも、ジョンに扮するワルテルも、本当に、魂が降りてきていたもの。そりゃあ、ハタから見たらコスプレのアブナイ奴ら、ってとこかもしれないけれども……いや!ジャニスに関して言えば、堂々とジャニスファッションで街を闊歩するブリジットが受け入れられて、ふと気づけば街中にジャニスたちをそこここに見るようになった、ってところまで行ったんだから、本当に、ホンモノになったと言っていいよ。何たって、あのラストのシャウトがあるんだから!

あっとっと、またしても興奮して、途中すっ飛ばしちゃった(笑)。だからね、レオンがこんな風にジャニスとジョンを本気で待ち続けているのを利用して、パブロは妻ブリジットにジャニスを、そして顧客の中で唯一の役者であるワルテルにジョンを振って、感激したレオンから金を奪おう、とそういう作戦なのね。パブロに言わせれば、ジャニスとジョンのためならいくらだって金を出す。それが彼の幸せなんだから、ということで。この部分だけ聞いていれば、パブロってば、自業自得でこういうことになったのに、レオンをバカにしくさってほおんと自分勝手な奴なんだけど、後者の部分は確かに当たってはいるわけで……このレコードショップのレアものレコードや、ちょっとヤバめも入ってるコレクションの数々(ジョンを撃った銃のレプリカとか。それにしてもだとしたら、ジョンが撃たれたってことは知っているはずなのにねえ?)を、相当な金をつぎ込んで買い漁っているレオン。だとしたらレオンが“ホンモノ”の二人に会って、どういう行動に出るかぐらい、判りそうなものだったんだけどねえ?

まあ、確かに予測できたことだったのかもしれない。誤算は、この二人が予想外に役にのめりこんでしまったこと。先にその兆候が強く出たジョン役のワルテルは、そのためにパブロと大喧嘩して(というか、パブロがジャニスとジョンとして仲良くしている二人にヤキモチ焼いたってことなんだけど)、早々に戦線離脱してしまう。ならば妻のブリジットに孤軍奮闘してもらおう、早く金の話をしてこい、とこうなるんだけど、彼女もまた既にジャニスである自分を否定できなくなっていたのだ。というわけで、衣装もふわふわの髪飾りもアクセサリーも靴も、ジャニス風にどんどんバリエーションが増え続けて、マリファナはのむし、で、レオンのところで新曲のレコーディングだといって毎日深夜のご帰宅である。ご丁寧なことに、下着まで星条旗である!

そうなの、レオンってばね、ちゃんとミュージシャン呼んで、スタジオのセッティングまでして、ジャニスに新しくレコードを吹き込んでもらおうとしたのね。というのもジャニスがこの世に現われた理由っていうのが、愛と平和のために、歌を歌いに来た、ってことだったから。
おっと、先述の、フランス人のナゾも解明しとこう。そりゃね、ブリジットもワルテルもそこんとこの矛盾は突いたわよ。で、英語の挨拶とかやろうとしたんだけど、パブロはそれを却下するわけ。そのまま英語で通せるのか?って奥さんに言うと、黙っちゃうのね。あー、何かこういうのはちょっと嬉しかったりして。英語が出来ない日本人としては(笑)。ま、フランス人の場合は、自国大好き、フランス語大好きだから、英語なんか喋るか!ってな趣の方が強いけどさ……。

でも、ここまでジャニスとジョンにホレこんでいるレオンが、いくらドラッグで頭がぶっ飛んでいるからといって、二人がホンモノと信じ込んじゃうというのは、しかもフランス人なのに、というのは、やはり不思議ではあるんだけど、でも、ホントに似ちゃうんだから、更に不思議。ワルテルを起用した時は、電話の時から「ジョンに似ているか?」と直球攻撃だったけど、それだってやっぱりジョンかと言われれば激しく首をふるでしょ、みんな。ブリジットに関しては、ゴム手袋でゴシゴシお掃除、掃除機ガーガーやってるのが似合いの、モノクロ状態のじっみーな主婦だったんだから。でも、まずはファッションで固めて、サングラスや帽子で上手に隠しつつ、そして、私はジャニス!俺はジョン!と信じ込むと……あら不思議、本当にソックリなんだもん!で、パブロ言うところによると、「死んでいるんだから、どこの言葉でも喋れるんだ」って言って……そんなリクツってあるかしら。でもまあ、日本風に言えばホトケになるわけだから、つまり神様になるわけだから、何語でも喋れていいのかなあ……。

この辺のアホなやりとりはかなり好き。んで、第一回目のレオンとの遭遇は滞りなくすみ……しかしそこでパブロが二人の仲の良さに嫉妬したことで、ジョンが役者としての自分を否定されたと(っていうか、ジョンであることを否定されたことに)激怒、レストラン中の注目を浴びる中、大乱闘を繰り広げ(これが不思議に笑える)、「俺はジョン・レノンだ!」と連呼して店を出て行ってしまう。で、戦線離脱するわけ。
パブロの誤算は、この場所にあの顧客、キャノン氏がいたことなのだ。ということを、パブロはずっとずっと後になってから知る。というのも、キャノン氏は、だまされていたことを知ってもすぐにパブロを追求しなかったから。それどころか……。

こんなことが起こる前は、パブロは実に穏やかな生活を送っていた。いや、穏やかな生活、というのは正しくない、きっと。確かに今のパブロはジャニスになりきってしまった妻が主婦業を放棄してしまったことで、日常生活はメチャクチャである。でも、以前の、60分が一時間になり、24時間が一日になるのを待つ、平凡な、……平凡が首を真綿で締めあげていくような毎日と比べてどっちが彼にとって良かっただろう。ジャニスになった妻は、夫の目から見ても、明らかに魅力的になった。だからこそ、役者として雇ったワルテルと楽しげにしているだけで嫉妬した。以前の、地味な妻だったら、予想も出来なかったこと。
ブリジットにとって、ジャニスは、今や自分の一部、いや自分自身なのだ。自分さえ気づかなかった、なりたかった自分。それは無論、外見だけの話じゃなくて、クラくて引っ込み思案で、姑とも上手くいってなかった彼女が、開放的になり、知らない人とも自由に喋り、嫌い合っていた(と思っていた)姑との仲まで回復してしまう!
地味なオバサンになっても、輝けるチャンスってあるんだなあ。……っていうのって、最近の映画でよく思うことかも。これはまさに現代のテーマなんじゃないかなあ?

戦線離脱したはずのジョン役のワルテルも、ジョンを戦線離脱したわけじゃなかったのよ。いや、それどころか、彼はもう自分がワルテルだってことさえ、忘れてしまってたかもしれない(笑)。ビートルズならぬケトラーズというバンドを作り、ヨノ・オーコ(笑)という恋人を作り、ジョンの新曲まで作っちゃって、再びレオンの前に現われる。でもレオンはジャニス(ブリジット)から、あのジョンはニセモノだったと聞かされていたから……しかもレオンはこの再降臨したジャニスにすっかり入れ込んでしまっていたから……このジョンをあのレプリカの銃で撃ち抜いてしまうわけ!
……んん?レプリカの銃……?
銃のレプリカって、撃てるもんなの?いや、撃てるのかな、判んないけど。でも撃たれたはずのジョン(一応、ね)が死ななかったのは……目覚めたのは……やっぱり“レプリカの銃”だったからなのかな。
あれ?でも血ぃ出てたけど……ま、いいか。

こんなことがあって、妻はパブロの元を息子連れて去ってしまうし、レオンはジャニスに金をつぎ込んじゃっててお金なんて残ってないし……もうパブロは万事休す、である。ガランとした家で呆然となっているパブロの元に、あのもともとの始まりであったキャノン氏がやってくるんである。
そう、キャノン氏はだまされてたこと、知ってた。でも何にも言わなかった。あの事故はホントは……まるで泥棒に入られたかのようにされていた暴走事故は、キャノン氏自身が起こしたことだったのだ。車ばかりに執着している自分が突然イヤになってしまった彼が、衝動的に起こした事故。
キャノン氏のことを、車フェチ呼ばわりしてバカにしていたパブロだったけれど、案外似た者同士だったんではなかったのか。本当に腹をわって話せる友人がいない孤独な男。パブロには妻と子供がいたけれども……まともな会話なんて、なかった。そして妻を愛していること、家族が大事なことに気づいた時、それは彼の手を離れて行ってしまったのだ。

キャノン氏が、あのレストランで全てを知った時、嬉しかったと、これであなたと同じ立場になれる、理解しあえるって思った、って……キャノン氏がどれだけの、絶望的な孤独を抱いて暮らしてきたか、判ってしまう。いや、キャノン氏はそれを自覚していたからまだよかった。家族がいることでそんなこと思いもよらず、その孤独に気づいてすらいなかったパブロの方が、キャノン氏に救われたのだ、きっと。
だから、気づいたのだ。パブロ、そう、ジャニスを、いや、ブリジットを、そして息子を、その手を放しちゃいけないんだって。
パブロが乗り込むバス。ジャニスそのままの格好をした女性二人に導かれるようにしてたどり着くバー。そこで……あの、マリー・トランティニャンの、魂のステージが繰り広げられるのだ。

その昔、ロックといえばコレだった。今は多様化して……結構サワヤカだったりオシャレだったりお行儀よくなっちゃったりしたけど、ロックといえば、まさに、コレだったのだ。魂の叫び。シャウト。自分自身の存在全てをぶつける、命の音楽。
この映画を最後に死んでしまったマリーが、夭折のロックスター、ジャニスを演じるなんて何だか……運命的。最初からこの運命が決まっていたよう。笑えるコメディなのに、そう思うと胸が締めつけられてしまう。★★★☆☆


美しい夏キリシマ
2002年 118分 日本 カラー
監督:黒木和雄 脚本:松田正隆 黒木和雄
撮影:田村正毅 音楽:松村禎三
出演:柄本佑 原田芳雄 左時枝 牧瀬里穂 宮下順子 平岩紙 石田えり 小田エリカ 倉貫匡弘 中島ひろ子 寺島進 入江若葉 香川照之 山口このみ 中村たつ 甲本雅弘 眞島秀和

2004/1/13/火 劇場(神保町岩波ホール)
これからの戦争映画は、こういう風になっていくのかな、と思った。いわゆる「戦争映画」も転換期に来ているのかなと。この映画が某映画賞でベストワンになったと知って、ちょっと、えっ、と思ったのは、物足りないといったらヘンなんだけれど、戦争映画を評価しなければ、とか、こういう良心的な映画を評価しなければ、とか、どこかそういう意識がうかがえるような気がした“物足りなさ”だったのかもしれない。もっと日本映画そのものの新しい流れや新しい才能を評価してほしいと思った“物足りなさ”だったのかもしれない。
ただ、確かに戦争映画は変化していかざるを得ないのだ。

私などは勿論、いわゆる戦争を知らない世代で、それこそ記憶に引っかかりもしていない。現代にも世界各地に戦争はあるけれど、情報化社会のそれは、人の死さえ、情報の要素として捕らえられてしまうところがある……例えばそういう画がなきゃダメとか。
かつての戦争映画は、それに関わった人たちの記憶に頼った部分があった。こういう悲惨な戦いがあった。こういう悲惨な生活があった。大切な人を失って、こんな風に哀しかった。悔しかった、苦しかった……。
そして人々のそうした思いを喚起させるものが戦争映画にはあった。戦争が身の回りからなくなってしまった時、戦闘シーンや飢餓状況をつぶさに見せる戦争映画は、そこからそうした記憶を掘り起こし、そして後の世代にそれを通じて伝えていくことが出来た。

でも今は、また新たな戦争が起こってきた。起こってきてしまった。悲惨な戦争シーンや戦地の苦しい生活の状況は、テレビを通じて見ることが出来る時代になって“しまった”。
お茶の間で見ることの出来るそれ、あえて見ようと思わなくても、ガチャガチャとチャンネルを変えていれば見ることが出来るそれは、かつての戦争映画のような効果は得られなくなってしまったのだ。むしろ、逆。
そして、だからこそ、戦争映画は変化していかざるを得なくなってしまった。
戦争を経験した人たちがいるのに、もう戦争はたくさんだと思っていたはずなのに、こうしてあらたな戦争が世界に起こり、そして戦争からずっと離れていた日本もまた、それに関わらざるを得なくなってしまった今、今だからこそ。

終戦間際の霧島である。南の、本当に穏やかな土地。すぐ隣の沖縄での悲惨な戦禍や、広島に落とされたという“新型爆弾”の話などがほそぼそと伝えられはするものの、テレビがあるわけではなく、ラジオから流されるのは戦意高揚の放送ばかりで、今ひとつ戦争の差し迫った状況はここで感じられるわけではない。
……などというアプローチは、今までの戦争映画でかつてなかったことだった。だって、まず、画が美しすぎる。緑まぶしい霧島。遠くには活火山を有するなだらかな山の稜線が広がる。そこを横切る戦闘機の群れが、呑気なトンボの群れかと錯覚するぐらいなのだ。
ここで軍事訓練をしている兵隊や土地の人たちがいる。竹やりでヤアとばかりにくくりつけられたわらを突き刺す。敵はすぐそこまで来ている。そうすれば決戦だと士気をあげようとしている。
でも、敵は見えない。すぐそこに来ているというのは本当なのか。こんなに静かで美しい土地でそれを切実に感じることは難しい。見えない敵を殺そうと、殺したいと憎むことも難しい。

むしろここで、苦しめられる戦争の傷は違うところにある。戦争そのものを憎む気持ちは、この時下ではとても無理なことだけれど、敵を憎むことも、具体的には難しい。ならば何か。それは、戦争から落ちこぼれてしまった人たちの傷なのだ。
主人公の少年、康夫は虚弱な体を理由に、仲間たちの通う軍需工場から外されて療養生活を送っている。そして康夫が住む祖父母の屋敷でお手伝いさんとして勤めているはる(中島ひろ子)が嫁ぐ、戦地から足を負傷して帰ってきた義足の男、秀行(寺島進。泣かせる)の存在もまた象徴的である。
彼らのような存在に、見えない敵に対するよりもずっと具体的に、憎しみまでは行かずとも軽蔑のまなざしがむけられるのだ。そしてそれこそが、見えない敵にイライラしている彼らの結束を固くするのだ。
康夫を小突き、殴り倒す憲兵。彼の目には康夫はこの土地でノンビリと過ごしているようにしか見えない。「貴様は仲間たちに対して恥ずかしいとは思わないのか!」と怒鳴り散らし、何度も何度も康夫を殴る。彼にとってはこれは正義なのだろう、哀しいことに。
康夫の後輩の少年たちでさえ、そんなありさまを冷たい目で見ている。

確かに、戦争そのものを憎むということは、実際には難しいことだ。それは高尚に見えはするけれど、一方でひどくあいまいなこと。誰かが始めた戦争。その誰かを憎む方がよっぽど簡単だ。でも事態の収拾がつかなくなればなるほど、その誰かを憎むだけでは済まなくなってしまう。だからといって、この理不尽な憲兵を憎めばいいのかといえばそれも違う。彼もまたこの戦争によって心を侵食された被害者だからだ。
康夫はこの憲兵に必死に抗う。いや、態度ではなく。彼の言葉は「判りません」と答えるだけ。この戦争の力になれないのが悔しいとか不遜に思うとか、康夫はそんなことは一言も言わない。でも、だからといって明確な答えを出せるわけではない。ただ正直な気持ちは「判らない」ことなのだ。

この戦争の最中に彼らが交わしている言葉は非常に印象的である。死が高潔なものとして、しかもごく日常的に語られる。天皇陛下が神であるということに対してかすかな疑問を感じながらも、それもまたやはり高潔なものとして、ごく日常的に語られる。
この矛盾は、しかし美しい矛盾である。しかし、空しい矛盾でもある。
ここでの彼らの会話に、実は自我はないから。戦争が前提となった、そしてその戦争が天皇陛下のための聖なる戦いだということが前提となった、この時代だけに発達した、この時代共通の、ひとつの“言語”に過ぎないからだ。
でもそのことに彼らは気付いていない。彼ら個人から出た、自我の言葉だと思っている。そしてそんな風に真剣になればなるほど、この“言語”もまた、果てしなく発達してゆく。だから、美しく、空しい矛盾なのだ。
しかし、戦場に行ったことがなく、敵が見えなく、しかも軍需工場から外されてしまった康夫には、その矛盾が少しずつ見えてきていたんだろうと思う。しかも彼らにはまだ判らなかったけれども、終戦は刻々と迫っている。私たちはそれを知って見ているから、もう少しで終わってしまうんだよ、という気持ちを抱いてハラハラするけれども、康夫もやはりどこかそんな空気に気付いていたような気がするのだ。
康夫はだから、一方では友人とそんな会話もするけれど、ここで必死に抗うのだ。「判らない」と。
でも、それが精一杯。個人はここでは必要がないから……。

康夫の目の前で死んでしまった石嶺という友人がいる。康夫は彼を助けてやれなかったこと、そしてその悲惨な死に様にずっと打ちのめされていた。その石嶺の妹、波がこの土地の遠い親戚に引き取られていると知り、彼は会いにゆく。心を閉ざし続ける波。しかしようやく口を開いた彼女が口にした言葉は「ならば、兄の仇をとってください」だった……。
そんなこと、無理に決まっている。石嶺を殺した空襲、それを放ったのが敵の米軍のうちの誰なのかだなんて。あるいは、アメリカそのものを相手にするとしたら、更に無理に決まっている。
でも、戦争ということ、その敵がまったく漠としたものであった康夫と対照的に、波の中には明確に憎むそれがいるのだ。
あるいは康夫が彼女のもとに通い続けていたのは、一種の憧れもあったのかもしれない。憎むべき敵がいる彼女に。

波の言葉を受けて、康夫は行動する。穴を掘ってその中に潜み、竹やりの練習をする。いつか討つ敵のために。
そんな彼を、お手伝いのなつ(小田エリカ)は泣いて押しとどめる。そんなことをして何になるんだと。康夫は言う。自分が死んだら何か奇跡が起こるような気がすると。彼女は責める。康夫君一人死んだって、何にも起こらない。泣きながら、責める。
そうなんだ、哀しいけれど。人が一人死んだって、何にも起こらないんだ。もし奇跡が起こるなら、そうと判っているなら、死に意味を感じることもできるかもしれない。それこそ死ぬ気で、死ぬこともできるかも知れない。
でも、人が一人死んだって、ただ死ぬだけなのだ……。
見えない敵を憎むことが出来ずに苦しんでいた康夫、友の石嶺が残した美しいキリスト殉死の絵、やっと見つけたと思った敵は他人からの借りものであり、戦争が終わって陽気に霧島を訪れる米兵たちは、もはや“鬼畜米兵”ではなかった。
それでもその米兵たちに雄たけびをあげて突っ込んでゆく康夫。簡単に投げ倒され、威嚇に空へ発砲される。呆然と立ち尽くす康夫。
結末は、こんなものなのか。戦争の、結末は。
こんなものなのだ。

小作人のイネ(石田えり)のもとに、肉体関係を持ちに通ってくる兵隊、豊島(香川照之)。彼もまた口に出しては言わないけれど、この戦争を冷ややかな目で見ている。それこそ敵に対して死ぬ思いで必死になっていれば、こんな関係は持てないに違いない。それが証拠に玉音放送を聞く彼の顔はどこか白けたようにサッパリとしている。あーこれで終わった、てな感じに。
一方のイネは、戦地に行ったきり帰ってこない夫、というのが彼女にとっての戦争の全てである。彼女は別に豊島を愛しているわけではない。ただ体が欲しているだけだ。
こういう女性を戦争映画の中に描くというのも、珍しいのではないかと思う。それこそ、戦地に行って生死も不明な夫をけなげに待ち続ける、とかいうのが今までの定石だった。
でもイネはちゃんと、戦地に行った夫をこそ一番に愛しているのだ。ただ、一方であきらめてもいる。だから他の男に身をまかせてしまう。

だから夫からの手紙が戦地から届いた時、彼女はうろたえる。隊から逃げ出した豊島の手を逆に引っ張って川の中に入って死のうとする。驚く豊島は逃げ出してしまう。彼女一人でどんどん川の中に入ってゆく。
イネはもう、夫が死んだと思った時点で自分も死んでいたんだろうと思う。だから夫が生きていると知ってうろたえたのだ。
彼女を助け出した息子にイネは言う。お父さんはお母さんを許してくれるかな……と。口ごもる息子。だまっていたら判らないんじゃないかな、と言うのがせいいっぱいである。
この母のイネが兵隊と浮気をしていると知った時、たまらず娘は出て行った。しかし息子はそれを悲しく思いながらも、母の側に留まった。この娘としての立場と、息子としての立場、判る。娘だって母親のこと、愛してはいるのだ。許せないと思いながらも、心から、心配している。でも同じ女として、彼女はその選択をとらざるを得なかった。
母が父を愛していることを知っているから。これもまた子供としての愛の形なんだと思う。言っとくけど、男(息子)は甘いだけなのだ。

手足の長い子供たちはいかにも現代風で、当時を再現できているとは言いがたいけど、康夫を演じる、お父さんソックリの柄本佑は、そう、お父さんソックリだから、いい意味で古い顔立ちをしている。あの頃きっとこんな子供がいたという感じの。
撮影当時から時間が経った現在の彼の顔を見ていると、さらにお父さんにソックリの不敵さをたたえていて、この康夫の、複雑な少年時代を柔らかく表現していた彼とは別人に思えるほど。
亡くなった姉の替わりに後妻に収まった祖母のしげ(左時枝)もまた相当に複雑である。そしてこちらは複雑であり、したたかなまでに強い。女中のはるに色目を使いそうな夫、重徳(原田芳雄)を先んじて戒めるような。
他にも奔放な陽気さの中に、戦地に向かう恋人への哀しさを押し込める、夢のように美しい牧瀬里穂、おませな康夫のいとこに扮する相変わらず強烈な存在感の平岩紙など、出てくる人たち皆が皆個性的で印象的で困るぐらい。それでも焦点は康夫に絞られているから散漫になることはないのだけれど、本当にもったいないぐらい。そして、判りづらいほどに完璧なお国言葉がまた、胸かきむしられるほどに切なく、美しいのだ。

とにかくこれは、“新しい戦争映画”である。確かにあの戦争、昭和20年に玉音放送で終わった戦争は、過去になってしまった。でもだからこそ、いまだに起こり続ける戦争に警鐘を鳴らし続けることが出来るのだ。その警鐘が休息をとることが出来るように、みんな一生懸命に生きていかなければいけない。★★★☆☆


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