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ライフ・イズ・ミラクル/ZIBOT JE CUDE/LIFE IS A MIRACLE
2004年 154分 フランス・セルビア=モンテネグロ カラー
監督:エミール・クストリッツァ 脚本:エミール・クストリッツァ
撮影:ミシェル・アマテュー 音楽:エミール・クストリッツァ/ノー・スモーキング・オーケストラ
出演:スラヴコ・スティマチ/ナターシャ・ソラック/ヴク・コスティッチ/ヴェスナ・トリヴァリッチ/アレクサンダー・ベルチェク/ストリボール・クストリッツァ
ああ、なんか上手く言えない。でもね、強烈に印象的なの。ルカが自国の戦争をテレビの中に見てて、そのテレビの中の女性レポーターはもっともらしい顔をしてこの戦争の悲劇を伝えているんだけど、ルカはケッというような顔をして、苦々しげに、お前たちに何が判ってるんだって顔をして、呑気に鉄道模型なぞ作ったりしてるし。あるいは息子が兵役にとられた時、やはり知ったような顔をしているテレビレポーターにムカついて、窓からテレビを放り投げてしまう。その時もやっぱり、お前たちに何が判ってるんだっていう、でもその意味は大きく違う方向からのそれなんだけど。
やっぱり、自分の身に降りかからなければ判らないことなんだ。戦争というものは。
とても、印象的な台詞がある。ルカの先輩である兵士。ルカが息子の替わりに軍に入ろうとする。彼はそれを冷徹に止める。個人でなどどうすることも出来ない。「自分たちの戦争ではないんだ」いつだって、戦争は誰かのもの。自分たちのために戦っているわけじゃない。
ちょっと、ガツンときた。
今までの戦争映画なり、戦争を語る時、それは自分たちのために戦う、みたいな意識があったじゃない?もう半世紀もたってしまった、あの大戦もそうだった。敵国を倒せば、わが国に明るい未来が来る、そのために戦うんだみたいな意識があった。でもそんなこと、何の確証もないし、そもそも、そんなわけがないのだ。戦争はいつだって、一握りの人たちの大きな見栄や欲望が介在して、避けられないうねりになって、起こっている、って気がする。……それこそ、国際情勢に詳しくない私がテキトーなことを言っているのかもしれないけど、でもあながち外れてなくもないじゃない?民衆が自分の利を勝ち取るための戦争が、本当の意味でどれだけあるのか。あるいはそういう理由の元に発生した戦争だとしても、すべての民衆がそれをちゃんと判ってて、戦争に参加しているのか。
戦争を扱う映画は、登場人物もすべて、真摯に戦いに挑まなければいけないとか、あるいは戦争の悲惨さにさらされる民衆をひたすら描かなければいけないとか、なんだかそういう意識があったような気がしてて、それをこの映画ってば見事に打ち破ってくれちゃうんだもん。
勿論、戦争の悲劇はある。すぐそこで起こっている爆撃。そしてこの物語のキモである、敵国の捕虜に恋してしまうという物語はなんと実話なんだっていうんだから。それは叶うはずのない恋であり、戦争の悲劇を語るには格好のテーマだ。
でもね、この恋、結局成就したんだよね??
いや、実を言うとそのあたりはちょっと微妙。恋して恋して、果ては自殺しようとまでしたルカが見た幻想だったのかもしれない……失恋したロバ君が同じように絶望しているルカを導いてくれた幸福な夢だったのかもしれない。でも、運命の恋人と再会して、二人、寄り添ってトンネルを抜けていく姿をストップモーションでラストクレジットにのせるのは、もう、こっちの涙をふりしぼるじゃない。もう、夢でも幻想でも妄想でもなんでもいいよ!って思っちゃう。
なんだか、思いっきり話を先急ぎしちゃったけど……(いつものことだ)そう、これは恋の素晴らしさ、そして人生の素晴らしさの物語なんである。
いや、生活の素晴らしさ、かな。私、生活が美しいっていうの、好きなのよ。人生というほど大仰じゃなくっていいの。一日、一日過ごしていく生活が、美しかったり、楽しかったり、その積み重ねがかけがえのない人生ってやつなんじゃないのかなって。
そういやあさ、この映画のタイトルに良く似た映画がかつてあったけど……あれはやっぱり、過去の、大昔の戦争を、どこか感傷的にながめていたものだった。だからそこには思い出の悲しさや美しさはあったけど、現実の、今生きているそれはなかったのだ。ここでの彼らは生きている。舞台は15年ほど前のボスニア紛争だけれど、それは現代にまでずっと続いているものだし。
爆撃がすぐ側で起こってても、怖がりながらもチェスをしつこくやろうとしたり(駒をノリで盤に貼ってまで!)、「怖いから、一緒に寝てもいい?」なんて甘えたことを言ってみたり、まるで、カミナリか何かぐらいのノリなんである。確かに戦争があることは悲しいし、恐ろしいし、死と隣り合わせ、なんだけど、でもその中で彼らは確実に人生というものを送っているし、それは明日死ぬんだ、みたいにせっぱつまっているものじゃなくて、やはり日常に他ならないのだ。
クストリッツア監督作品はそれほど観ている訳ではないんだけど、「黒猫・白猫」でも強烈だった、突拍子もなく明るいジプシー音楽が、それを象徴していると思う。しかも本作はそれに乗せて人々がヤリ過ぎなぐらいノリノリなんだもん。どっかに突っ込んじゃったり、どっかにひっくり返ったり(もはや、どっかがどこだかってことすら、忘れた(笑))、熊に襲われちゃうし、何だかもう、ワケが判らない!?
何かね、前半はゴチャゴチャして正直よう判らんの。まあ、後半への布石や伏線もあるんだけど、なんか、印象としてはとにかくハチャメチャなの。ルカは電車技師なんだけど、その一方で仲間とブラスバンドを組んでて、熊に人が襲われて死んじゃった!なんて話を聞いても、ニコニコとブースカ吹きまくるばかりなんである。このブラスの強烈な、何もかもを吹き飛ばしちゃうような力強さは、彼らの生命力、いやそんな堅苦しいもんじゃなくて、この生活を楽しんじゃおう、いやそれも堅苦しいな、この生活が楽しいんだ!っていう思いをストレートに伝えてくる。そしてそれは、ヒロインのサバーハに最もストレートに感じるのだ。
とはいっても、ルカたちはセルビア人で、サバーハはムスリム人である。なんて言っても、無知な私には今ひとつその違いが判然としない。いや劇中でもそれほど判然とするわけではない。だって言葉はフツーに通じるし(同じでしょ?)ルカはサバーハと一度会ったことがあるのだから……というのもかなりエキセントリックなシチュエイションでなんだけど。ま、この作品自体、すべてがエキセントリックなんだけどさ。ヒステリック気味の妻を精神科のお医者に連れて行った時、その病院にいた看護婦さんがサバーハだったのだ。で、ネズミが現われて看護婦さんたちがギャーとか言って、ストレッチャーを突き飛ばしたかなんかして、とにかく、サバーハとルカが暴走するストレッチャーに乗り合わせてめくるめくアドベンチャーを!?うーむ、観た時もなんだそりゃと思ったけど、ホントにハチャメチャだなー。二人の運命の出会いってわけだけど、この思いっきりのハチャメチャはスゲエよ!
この妻はオペラ歌手で、つまり、芸術家だから感受性が強いのか、どうも癇が強いっていうか……一人息子を溺愛しててね、いやそれはルカもそうなんだけど、でもこの妻は尋常じゃないの。息子のサッカーの試合にグラウンドに乗り込んでって、監督に自慢のノドを聞かせちゃうんだもん!霧で真っ白になったサッカー試合場で、オペラの歌声が響き渡っているなんて、かなりのシュールさよ!霧で真っ白って時点でシュールだけど……全編に渡ってそうだけど、どうやったらそんなの思いつくの!っていうようなシュールな展開や場面が目白押しなんだよね。このサッカーの試合でも、ゴールキーパーにおしっこふっかけるっていう妨害をする輩がいるんだけど、高い椅子に座って、自分のモノに長い竿状の筒を仕込んで、釣竿みたいにぶっかけるんだもん。何でそこまでやる必要が!?で、息子の決勝点で試合に勝つも何が何だか大乱闘、ルカはサッカーゴールの枠をぶち切っちゃって、敵選手を殴りまくるし、なんだそりゃだよー。
なんだろうな、でも、でもね。サバーハが運命的にルカと再会してからは、そのシュールさも、すべて、楽しくって、美しくって、胸がキュンとするんだよね。この妻は、息子が兵役にとられたことで何かもう、半狂乱になっちゃって、アヤしげなハンガリー人と駆け落ちしちゃった。で、ルカは息子も行ってしまったし、呆然と、たった一人。そんな中、息子が捕虜になってしまったという連絡が。呆然とし、取り乱し、軍隊に乗り込んだりもするルカだけど、当然、一介の鉄道技師になにが出来るというわけもない。そんな中、息子のちょっとイカれた友達が、「交換するための捕虜」だと言って、さらってきたのがサバーハだった。彼はサバーハを、資産家の娘だから息子と交換してもお釣りが来る、と言うんだけれど……。
ルカが彼女を軟禁などせず、普通の同居のように、紳士的に扱ったこともあるけれど、サバーハは悲嘆にくれた様など全然見せずに、散らかった部屋を嬉々として磨き上げたりなんぞするんである。親子ほど年の違うサバーハ、それだけに、その若い女の子の輝きがまぶしくって……彼女がルカの用意した朝食のトーストを食べようとすると、横から猫が食いついたりするトコとか、もー、めっちゃカワイイんだよね。女の子と猫って、最高に似合うんだもん。
そうそう、なんだってこんなに動物たちが表情豊かなんだろう!奇蹟だよ、これは!ルカの家で飼われている犬君と猫君、犬と猫だから当然相性は悪いんだけど、普段はそ知らぬ顔して二匹とも同居してるのね。でもひとたび至近距離で顔を合わすと、一瞬にしてミギャー!とばかりにケンカになるのが何でこんなに可笑しいのかッ!それにしてもこの犬君は最高にカワイイ。ルカに抱かれて一緒にぐーぐー寝てたりするのがたまんない。映画では色んなカワイイ犬君がいたけど、その中でも1、2を争うカワイさだよー。もお、たまんない。
猫君のカワイさはそれとは対照的なんだけど、これもまた最高にイイんだッ!もともと私は猫キチだからさあー。白黒の、ふあふあとした毛並みのこの気まぐれ猫に、もー、もー、メロメロッ!気まぐれに人様のものを一緒に食って、気まぐれにすり寄って、抱かれるとイヤそうな顔で身じろぎしたりするのが、あー、もう、たまんない。ますますギューとしたくなっちゃうんだもん!
この物語はルカとこの息子が引き離されるエピソードがメインになってたりするから、それを象徴するかのようにカモの親子が、親がヒナを守るように、横に並ぶヒナたちを気遣うようなそぶりを見せてたりするのもビビッと効いてるしさあ。しっかしこれもそうだし、犬君や猫君もそうだし、彼らに襲われる鳩さんたちや、何より何より、最大のキーパーソン(?)である、失恋したロバ君とか、どうやって演技をつけてるの!?つーか、これって演技なの!?いや、演出には違いないよなあー。そうじゃなきゃ、このまさしくミラクルな物語は成立しないもの。うー、でもホントに驚異的じゃ!
そう、失恋したロバ君が、すべてのはじまりと言っていいかもしれない。線路の真ん中で、涙を流しながらじっとしているロバ君。ルカのお父さんが、「失恋して、絶望して、自殺しようとしてるんだ」と言うのね。失恋して、絶望して、自殺しようとしているロバ、なんて、そりゃフツーに考えたらありえないんだけど、ああ、このロバ君が、涙を流して線路から動こうとしないロバ君が、胸を、胸をかきむしるのよー!もお、なんて目をしてるの、本当に失恋しているみたいな、おっきな、濡れた目にヤラれる。だってこの彼(彼女?)の目が、この物語を通していろんなことを語りかけてくるんだもん!
あのラストが妄想だったとしたら、恋は負けなのかもしれないとも思うけど、恋は勝ちなのだと思いたい。いやそれも……実はちょっとフクザツに思うところもあるんだけどさ。ルカとサバーハの恋は、そりゃあもうトキメキものだった。ルカはなんたって妻子がいるんだし、でも息子は捕虜にとられちゃって、妻はハンガリー人と駆け落ちよ。息子と交換とはいえ、この刹那の捕虜が、こんなイイ子だったら、恋に落ちたって仕方ないじゃない。ルカはね、紳士的だったのよ。サバーハがちょっと調子に乗ってルカの妻が残していった服を着たりなぞしたら激怒して。でもその後で義姉の服を持ってきてくれる。理性や道理に従わなきゃって意識がすんごくあるんだよね。でもこの義姉の服ってのがすんごいセクシー衣装なんだけど(笑)。それを無邪気に、ファッションショー状態で次々に着て見せるサバーハが、ホントカワイイんだよなあ。実際ホレちゃうよね、こんな状況じゃなくってもさ。
とっても自然な形で二人は惹かれあうんだけど、それでもシリアスに別れちゃうんじゃないかって時も、あるのだ。それは、サバーハが実は、資産家の娘なんかじゃないってことをルカに告白する時。価値ある捕虜だからこそ、息子と交換することが出来ると思っていたルカ、でもそれでも、「別れるのが辛い。君が愛しい」と言った直後の、サバーハの告白だったからさあ……このあたりから、家族に対する愛と、恋人に対する恋心のせめぎあいがはじまってくる。普通はね、いわゆる一般世界だったら、恋より愛が勝つと思うよ。そりゃ、仕方ないよ。一般常識として、恋は一過性のもの、愛は永続するものという定義が出来ちゃってるんだもん。あるいは、一過性の恋も、永続の愛へと昇華出来る可能性がある、とかね。つまりはいつだって恋は下の立場に置かれているんだ。
ルカとサバーハは離れられなかった。サバーハの告白にショックを受けて、一度はサバーハを突き放した(彼女があんなにも泣き叫んでいるのに!)ルカだけど、やっぱり離れがたくて、一枚一枚点々と衣服を脱いで(青い鳥ですかあ?またシュールなお伽噺だな……)サバーハを自分の父親の家に招きいれた。ハダカで抱き合って、草原をぐるんぐるんと降りてみたり、激しい川の流れの中で一糸まとわぬ姿で抱き合ってみたり、恋のまぶしさをこれでもかと私たちに見せ付けてくれる。でもまぶしいだけに、刹那的であるとどうしても感じざるを得なかったんだけど……。
ルカは、家族の大切さを充分すぎるほど判ってるから。まあ、妻が思いがけず帰ってきた時には、サバーハを罵倒する妻を縛り上げて(悪いけど、最高!(笑))走り去ったサバーハを追いかけるのね。愛より恋を選んだ、というより、この時には既に、自分本位な妻に愛情はなかったからなあ……ただ、家族、っていう絆はあるんだよね。絆と愛は違うのかもしれないなあ……だからヤッカイなんだなあ、と思ってしまった。
だから今のルカにとっては、サバーハが一番大切なの。捕虜だから、引き離される運命なんだけど、ルカはサバーハをつれて逃げ出しちゃう。でも、サバーハ、撃たれてしまって……ルカはそれでも、大丈夫、逃げられる、一緒にオーストラリアに行こうって、言うの……こんな時の、厳しい冬の真白い世界でのそんな台詞が、夢見ごこちではあれ、いかに説得力がないか……でも、夢見ごこちではあるのだ。サバーハはルカにおぶわれ、ソリに乗せられ、撃たれた足から止まらない出血を純白の雪に点々と落としながら……意識を失ってしまう。
ルカは、軍隊に助けを求めるしかなくなって。それまでの道行きは、サバーハが死んでしまうかもしれないという刹那的な情景がたまらなく美しかった。でもここでは、本当に、本当にサバーハが死んでしまうかもしれないって……でも、ルカがね、自分の血を分け与えるのだ。大好きなサバーハに死んでほしくない、でも生き延びても、彼女とは永遠の別れが待っているだけなのに。
というのがね、切ない切ない……息子との捕虜交換のシーンであり、ルカは彼女にコートを返さなければ、などと言いつくろいつつ、でも交換の息子が向こうから歩いてきたら……彼を抱きしめるしか、ないの。サバーハはルカの名を、泣きながら呼び続けている。判ってるんだけど、ルカも同じ気持ちなんだけど、息子を抱きしめるしか、ないのだ。
そうして、一見、元の生活に戻ったルカ。でもあの、奇蹟とも、願望とも、妄想ともつかないラストが用意されてるんだけど。でも、判らない……実際のところは。私は、あのラストクレジットのストップモーションが、リアルだったと信じてる。信じたい。だからこそ、「ライフ・イズ・ミラクル」なんだもの。いつでも恋より愛が崇高であり、勝ってしまうというのを、それはまっとうなんだけど、でも、恋が勝つのが見たいと思うのが、本当は、本当の、人間の思いなんじゃないかと思うんだ。で、……こんな言い方不謹慎だって判ってるけど、戦時下という、非常時になら、それが許されるのかなって。愛に安住しているのは、戦争を知らない私たちが、切実な生を感じていないからなんじゃないかって。
でもね、だったらどっちが幸せなの、って思っちゃうのは……どうしてもあるんだけど。でも、なんていうのかな……二者択一とか、どっちかが絶対とかじゃなくて、っていうのはあると思うんだ。それはルカのように、日常の平和と、戦争の脅威とを共に感じた人でなければ実感できないのかもしれないし、そのことが幸せかどうかっていうと……それはすっごく難しい問題なんだけど……。
その前に、爆撃で家の中もなんもメチャクチャになってしまったトコに家族で帰って、でも奥さん、「ヒロシマじゃないのよ!」って言うシーンがある。で、ルカも、「ヒロシマじゃないんだ」ってつぶやくのだ。ヒロシマ、というのが、これほど世界共通の言葉になっているんだということに、当の日本人である私が知らなかったことを恥じながら、そう、ヒロシマじゃないんだ、ヒロシマはそれほどまでに絶望と同義語であるほどの出来事であり(でもそこから復興したのが当然素晴らしいんだけど)、戦争という出来事を、ヒロシマを最悪レベルとして語ることが、勿論あってはならないことではあったんだけど、それだけの意義をもたらしてるんだ、って思わずにはいられない。
あのね、基本的には、本当に幸福で、可愛くって、楽しくて、そんな映画だったのよ。なのに、なんでこんなに考え込んでしまうだろう?★★★★☆
まあ、そんなことはおいといて。今回、興味を惹かれたのはおじさんがサーフィンをビギナーから始める、ってとこと、それが定年後の第二の人生だっていう部分、だよな、やはり。現代は仕事に人生のすべてを捧げるという時代じゃなくなっていて、まあそれが逆に問題にもなってたりもするし、さらに逆に、人生を賭けられるような仕事に出会いたいと渇望する向きもあったり、まあ色々難しいんだけど。今定年を迎えるぐらいの人、特に大黒柱と言われるダンナ様方は、そんなことさえ考えずに、考えられずに、一度ついた仕事はそれをまっとうするのが男の義務だみたいに、がむしゃらに働いてきたわけで。
で、冒頭、主人公の一雄の退職シーンから始まる。周りはいつものように忙しく働いている。彼だけは時計を見ながらもうとっくに用意が出来ている身の回りの整理を改めてよそよそしく見直したりしている。終業の鐘がなり、部下たちがいかにも用意されたように花束を渡し、拍手で送り出す。一雄の挨拶など聞く気もなく、ただただ段取りどおりに。
その後、荷物と花束を持って会社を辞する一雄に、同僚が声をかけるのもいかにもカルく、言ってしまえば下卑た感じである。一雄は55歳での早期退職だったから、まだ会社に残っている同僚たちも多く、彼らは普通に退職したあとも、どこか子会社に雇ってもらうぐらいのことしか考えてないのだ。早期退職を決めた一雄をまるで負け組みたいに送り出すんである。
その周囲の姿って、本当にあさましいというか、哀しいというか。いやでもね、一雄だって会社を辞めてからしばらくは、どう時間をつぶしていいか判らずに家でぼんやりとするばかりなんだよね。でもね、仕事を辞めたらまるで人間じゃないみたいな、どこか軽蔑のまなざしで送り出すあの会社の人間たちの態度は、もう……ないよね。それって哀しい。だって結局は彼らは、そして私たちの多くも、雇われて働かされているに過ぎないじゃない。こうして辞めたって誰も困らないし、そういう時、自分は何のために生きてるんだろ、って思う。……でも、そんなことに気づかないでいられる方が、多分幸せなのだ。
一雄は、そうハッキリとではないにしても、それに気づいてしまったんだろうと思う。そのきっかけは愛妻を三年前に病で亡くしたことだった。
映画の冒頭、定年退職して家に帰ってきた一雄に対して、一緒に暮らしている次女の優は就職活動を理由に、現代の親子事情そのものって感じで、冷たく、白けてる。でも後に明かされるんだけど、次女がそんな風に父親に冷たいのは、単に現代的な白けた親子関係ってわけじゃなくて、母親の最後に父親が駆けつけなかったことが原因だったらしいのね。
まあ、そのあたりが、実際は“現代的な白けた家庭”が横行している昨今、かなり浪花節なトコではあるんだけど……。
一雄は妻を愛していたからこそ、彼女がいなくなってしまうのが怖くって、最期に立ち会えなかった。夫婦の場面は、何度か挿入される。妻が病気になってしまってからの二人の場面、かいがいしく看病にいそしむ一雄、残される寂しさに、彼女の前であからさまに泣いてしまったこともあった。ちょっとアテられちゃうぐらいのラブラブっぷりだった。
優は、こういう二人を見ていたから、最期に駆けつけなかった父親に絶望したのかもしれない。だとしたら、この親子関係はこの現代の中でもかなりゼイタクっつーか、恵まれている。
ついつい、少々の物足りなさを感じるのは、そのせいかもしれない。だってね、一雄が種子島にサーフィンをしに、第二の人生を求めて旅立つまでは、二人の間にはいかにもイマドキの疎遠な親子の空気しか流れてないんだもん。親も子もお互いに無関心、みたいなさ。実際は全然そんなことなかったのに。私は勝手に、そんな無関心な親子がどうやって関係を回復していくかというのを描くんだと思っていたからさあ……。
でもだから、こういう事情だから、物語は和夫自身の第二の人生、スローライフだけに集中してスポットが当てられるわけで。いや、それこそが本当だから別にいいんだけどね。
そもそも一雄が第二の人生になぜサーフィンをやろうと思ったかというと、これもまた愛妻の言葉がキッカケだったのだ。付き合い始めた時、一雄が突然サーフィンを始めて、でも一発目でもういきなり溺れたりとかしてそれきりやめちゃったんだけど、彼女は彼との海岸の散歩でふとそんなことを思い出して、「でもあの時のあなた、かっこよかったな」と言うんである。
実家の荷物を探してみたら、その昔一回だけ使ったっきりのロングボードがちゃんととってあって。一雄は第二の人生を、その時妻に、いつか連れて行ってやると言っていた種子島でのサーフィンにささげようと思い立つわけ。
彼が出かける時の格好ったら、ないの。ポロシャツにスーツのズボンにリュックサック背負って、みたいなさ。いかに今までカジュアルな格好というものをしてこなかったサラリーマンのオジサンそのもので。
そうして彼はボードを抱えて(めちゃくちゃ通行にジャマになってる……縦に立てなさいよ)種子島に降り立つんである。
種子島がサーフィンの聖地だなんて、知らなかった。それこそ鉄砲伝来ぐらいしか知らなかった。でも一雄がその海岸をひと目見たとたん、「凄い……」と感嘆の声を漏らすように、素人目にも美しい波に自在に乗っているサーファーたちは、本当に、惚れ惚れしてしまうの。
船を降りて、ボードを抱えてタクシーに乗れず、困り果てている一雄を助けてくれたのが、バーレストランの娘であり、この子が一雄にこの島の伝説のサーファー、銀次を紹介してくれるのね。銀次を演じるのは勝野洋。サーファーショップと旅館を経営している彼は一見いかにもガンコ一徹って感じなんだけど、東京から来たビギナーである一雄の指導を引き受けてくれるんである。その指導は、海への畏敬の念から始まって、毎日腹筋、背筋、スクワット、腕立てを各50回やれ、なんて厳しいことも課するんだけど、それをマジメにクリアしていく一雄に対して、辛さも喜びも共にしながらつきっきりで付き合ってくれるこの銀次さん、凄くね、ステキなんだよね。
伝説のサーファーが東京から来たビギナーの、それもオジサンにこんな親身になってることを地元の若者たち(もちろん、銀次さんをリスペクトしてる)は驚いたりするんだけど、一雄が予想外に根性あるもんだから、彼らも同じサーファー仲間として打ち解けてゆく。しかも一雄は最初に訪れたサーファーショップのみならず、地元の仕事を積極的に手伝うもんだから、この地で生活しながらその生活、そして人生の延長線上としてのサーフィンを楽しんでいる彼らに受け入れられていくわけ。
この辺の描写こそが、作家さんの言いたいことなんじゃないのかなあ、と思う。ただ第二の人生何にしようか、何して遊んで暮らそうか、っていうことじゃなくて、第二の“人生”なんだから、そういう関わり方は当然あるわけで、自分の暇つぶしだけで考えていたら、人間とのつきあいという部分が抜け落ちてしまって、……そうなったら、人間って、おしまいだもん。どんなに自分のやりたいことがやれても、自分だけでそれが完結してしまっていたら、それって今の時代問題になっているニートみたいなもんで、そこから産まれる共有関係や人間関係がなければ意味がないし、やりたいこと、それ自体が、自分だけで生み出したものではないんだから。
ちょっと、考えさせられちゃうんだよなあ。今は仕事をしなきゃ生活できない若輩者の立場で、映画観たりとかいう、自分の息抜きの、大事にしている部分では、自分ひとりの世界に閉じこもってるんだよね。もうそこでは人間関係とかイラナイ、とか思って、ジャマされたくなくて。でも自分が好きな映画の世界はたくさんの人が関わって、作り上げてきた世界で、それを自分ひとりのカラの中だけで楽しんでて、今はそれでいいけど、例えば私がこんな風に第二の人生で、そんな世界に閉じこもっちゃったら、きっとそのことを今以上に思い知らされて、打ちのめされちゃうと、思うんだよね。だから……一雄の地元との関わり方というのは、結構考えさせられてしまうものが、あったんだ……。
そんな風に、サーフィンも徐々に上達して、地元の人間たちとの関係も築きつつある一雄の元に、娘の優が訪ねてくる。就職活動がうまく行かず、なかば逃げるような形で。
彼女は大学卒業しての就職浪人みたいな形なのかなあ。面接を受けまくるも上手くいかなくて、父親と同じ食品関係の会社の面接に行くと、やはりお父さんの影響などあるんですかとか言われてキレちゃったりして、自分を採用してくれと面接官につかみかかったり、もう焦っているのがアリアリなわけ。
この描写はちょっとヤリすぎではあるけど、こういう気持ちは痛いほど判る……あまり思い出したくない記憶だな。
でも、この気持ちって、なんとか仕事を得ている今でもまだ消えていない。自分に何が出来るのか、そもそも自分は何がやりたいのか判らなくて、それ以上に、どこにも必要とされない自分にこの年になって気づいて愕然としているのが。それまで、自分の存在意義なんて、考えたことなかった。当然のように堂々と生きていたことに、気づかされた。それなりにあった青春時代の悩みなんか急にちっぽけに思えて、凄く落ち込んだことを思い出す。
でも、人間は循環するものでさ、“それなりにあった青春時代の悩み”こそが人間の人間たる悩みであり、就職できないことに対する悩みなんて、結局は他人に使われることになるか否かってだけのことなんだもんね。
勿論それは真摯な悩みであり、この種子島でこのまま父親と共に暮らすことをちらと考えた優も、“自分の力を試したい”と東京に帰ってしまうんだけど……。
でも、ホント、考えちゃうな。それなりに生きていけるなら、結局は他人に使われるだけでしがみついてる都会の生活って、そんなにステイタスなんだろうかって。
いやいや、本作に登場する若者たちだって、銀次の経営するサーフショップに勤めてたりするわけだから使われているんだけど、でも、いい波が来ると「サーフィン中です」なんてヘイキで店閉めたり、店やってる間もいい波がくる天気情報を常にチェックしてたりして、仕事が第一前提じゃないんだもん。
なんかでも、どっちが是か非かなんて、定義できなくて。
一雄の側から見れば、もうスローライフを選択した彼だから、答えはそりゃまあ、決まってるんだけど、人生のある時点ごとでそれは変わってしまうのかな、って……。
一雄の父親が、一雄が退職して訪ねてきた時に、「お前が定年退職……オレはいくつだ?」とどこか呆然として、で、施設に入ることを決意する場面が印象的なんだよね。このおじいちゃんはハッキリした第二の人生を決めずに暮らしてきて、でもそれもまたきっとそれなりに有意義だったと思うんだけど、でも息子に、「俺の年まで生きたってあと30年だ……人生は長いぞ」という台詞はすんごく説得力があるんだよね。……もしかしたら彼はこれまでの“第二の人生”にすこうし……後悔があったのかもしれない。施設に入ることを決めたのも、彼にとっての本当の意味での“第二の人生”を思ったのかもしれない。
だってさ、施設でこのおじいちゃんてば、おばあちゃんたちをいっぱいはべらせちゃって、この第二の人生を送る息子を自慢しまくってるんだもん。息子をダシに、華やかにモテモテなわけ。
娘の優は、この種子島で何を得たんだろう。ずっとわだかまっていた、父親が本当に母親を思っていたのか、を確かめたのもあったけど、そんなことはちょっとした言い訳で、彼女は自分の存在意義を、定義しかねていたわけで。
サーフィン仲間の若者の一人が彼女に懸想する。ちょっと美人なものだから、一雄に「ホントに親子?」なんて失礼なこと聞いたりして。
この青年を演じているのが小栗旬で、何人かいるワカモンの中でもメインで、いかにも現代のワカモンって感じなんだけど、サーフィンを愛してて、伝説のサーファー、銀次に憧れてて、伝説の大波、ポセイドンに憧れてて、ポセイドンに挑んで危うく命を落としかけたりもしちゃって。ラスト前シーン、もう人生からは逃げないと、まだまだ未熟ながらポセイドンに 身を投じる一雄に銀次とともに付き合う彼はなかなかカッコよくってさ。
正直、このクライマックスシーンは、一雄、死んじまうかと思っちゃって……だってようやくボードの上に立てたぐらいのレヴェルだったんだもん。大杉漣のサーファードキュメントであるような本作で、初めてボードの上に立てた場面は砂浜で拍手喝采する仲間たちともあいまって随分と感動的ではあったんだけどさ。だからこそ、まだまだ、まだまだまだ、ムリなわけじゃない。どんなリクツ言ったって。
それなのに、挑んじゃうんだもん。
そのシーンでフェイドアウトして、次のシーンはしばらく後、って感じである。優は東京で仕事を見つけてイキイキと仕事してて、一雄は、すっかりこの土地になじんで、のばした髪を後ろでひとまとめにして(!)持ってなかった車の免許もとったらしく、誰よりも早くさっそうと海に向かってるんである。
……髪をのばしてひとまとめにして、南国らしい、かりゆしっぽいファッションの大杉漣、っていうラストシーンはあまリにベタベタで、うっわ、どうしよ……とか思っちゃって。こういうベタベタなシーンはそこここにあって、そのたびに身もだえしちゃうんだよねー。うーん。
一雄は学生時代買った古いボードをそのまま使ってて、伝説のサーファーと呼ばれる銀次もキズだらけの古いボードをそのまま使ってるんだよね。デザインも古くさいし、一見カッコワリーって感じなんだけど、これが不思議と……小栗旬はワカモンだし、新しい、イケてるデザインのボードを持ってるんだけど、逆にそれがダサく感じられるというか、古いボードをメンテしながら使ってるのがステイタスなんだよね。そういうのがすっごい、イイんだよなあ!
種子島は何でも受け入れてきた。黒船も鉄砲も。だからカズちゃんも受け入れるんだよ、とほろ酔い気分で銀次が言う。
その言葉に必要以上にヨソモンの感覚をフクザツに感じてしまうのは、私が常にヨソモンで生きてきたからなのかな……一雄はスナオに嬉しそうな顔してたし。
実はいっちばん気になっちゃってたのは、一雄を最初に助けてくれた地元っ子の、レストランバーの娘さんで、ウェットスーツを脱いだらビキニ姿で、その豊かなバストがビキニからはみだしちゃったりして、すんごいぷるぷるのおっぱいなんだもん!って、私興奮するトコ間違ってる??いやー!メインのエピソードの優なんか問題にならないぐらい、このコのイキイキとした魅力とおっぱい(オイ!)は魅力的だったわあー。
あ、そういやあ、一雄の長女役で出てた西村知美、あの赤ちゃんはまんま自分の娘の咲々ちゃんでしょう!★★★☆☆
安藤希はね、何か固いのよ。演技もそうだけど、表情や、特に笑顔が。
硬質な美貌といえばそうなのかもしれないし、その点で三人の男の愛人、A、B、Cに、どこか何となくといった感じでなってしまう女子高生というのがハマるのかもしれないけれど、それならそれで、彼女の一年間に渡る変化がじりじりと判らなければ意味ないんじゃないのと思ってしまう。彼女、最後まで同じなんだよね。全然、変わらない。一応Cに「お前、大人になったな。女になったのかな」なんて言われはするけど、台詞だけって感じ。
彼女は一体何に絶望してるの。そんなハッキリした形のものじゃないんだろうけど、あいまいなものさえ、まるで見えてこない。
そういう点で、こういう繊細なマンガの原作というのは、確かに難しいんだろうと思う。
解説に、こんなくだりがあった。“でも繋がったカラダから、彼らの悲しみが少しずつわたしの中に流れ込んできて、わたしを満たした”これは多分、マンガの中の言葉なんだろう。そういうことが、この彼女じゃ全然感じられない。このハナコという少女は、そう、何かに絶望しているんだろう。それはこの少女という美しい時期が、その美しさが無意味なまま、あとはただただ壊れていくからと思っているのかもしれないし、その美しさの中で自分の中のものが冷たく空虚であるからなのかもしれないし。そしてそれをこんな風に、孤独な男の悲しみで満たしてみたいと思ったのかもしれないし。
と、いうことを、この安藤希でどうやって感じとれというのだ。
だからこそそれを体現するような、繊細な女優を持ってきてほしいと思う。
ああ、ホントに村石千春だったら、どうなってただろう!(勝手に妄想)。
この原作はちょっと読んでみたい気がするんだけど、何でも原作の設定では15(14?)の女のコなんだって。それは確かに衝撃。映画じゃ確かに難しいのかもしれない、それは。でもだから17にして、しかも23の女優で、で安藤希で、アイドル脱ぎじゃあ、その衝撃がどんどん薄れるばかりでしょおー。
彼女は声もあまりよくないので……まあ、こういうぶっきらぼうな声はキャラに合っているのかもしれないけど、結構多い説明的ナレーションもじんわりきてくれないのもツラいところで。
あ、それにもう一つ。安藤嬢、あの鼻すするだけの聖子泣きは特に許せません。
泣くシーンぐらいリリカルに表現してくれ。
すいません……ちょっと言いすぎですかねー。でもとりあえず頭に浮かんだことをだだだッと書いたら、彼女への不満ばかりがつい出ちゃって……美少女女優にはちとうるさいのですよー、私はねー。少女映画は、いつでもいいものであってほしいのだ。
まあこれは……少女映画じゃなくて、やはり、三人の男たちの物語なのかもしれない。
三人の男たちはハナコを買った。それは四人目の男による依頼によって。四人目の男は、病院のベッドから窓越しに見える高校の、ベランダでいつもつまらなそうにしているハナコを見初めた。「あのコを自分から股を開くような女に育てたいんだ」
でも、彼女は、実は、彼の娘にソックリなのだ。どうやらずっと会っていないらしい娘に。
会えない娘への愛が妄想的に彼の中でふくらんだのだろうか。三人の男たちとは一緒に映画を作った仲らしい。もう一度やりましょうよとはげまされるのだけれど、この四人目の男はもう長くはない。
という、プロローグは冒頭ではなく、物語がある程度進んだあたりで挿入される。
ハナコという名は、彼女が自分の本名が気に入らないからと男たちにつけさせた呼び名であり、そして四人目の男の実の娘の名前である。ハナコは男たちをA、B、Cと呼んだ。そこにはあくまで契約上の愛人であり、深いところまでかかわらないといったクールな態度が見え隠れする。
ハナコがなぜ三人の求めに応じたのか、ハッキリとした動機は明かされない。ただ彼女の今までの毎日が、彼女を満たすものではなかったことは確か。いつもいつも学校のベランダでつまらなそうに外を見ていた彼女。家に帰っての母親との会話は、弾んでいるとはとても思えない空虚なもの。
なんかねえ……と思う。最近こういう女の子の設定、ちょっと多すぎない、と。こんな女の子ばっかり、みたいな。そんなに今の世の女子高生は毎日が空虚で絶望してて家庭では会話がなくて、みたいな感じなわけ?
逆の描写を見たことないってぐらい。飽きちゃうぐらい。
そんなに今の日本の家庭はお寒いのかなあ。うーん、そりゃ確かに危機的状況だわ。
それともそういう家庭で、そして学校でつまらなそうにしている女子高生を愛人として囲うのが、イイってことなんだろうか。……それはさらにヤだな。日本的ロリコンで。
でも、その日本的ロリコンだったら、良かったんだわ、きっと。原作どおり14、5の女の子であったなら。14、5歳って確かにそういう、閉じこもっちゃう時期ではあると思う。反抗期だし、自信があるのに自信がなくて、自分の中の複雑さを持て余しているような。
でもね、17となったら、もうそんなのはええかげんにせえよ、って時期なわけよ。自分の中の複雑さや弱さを、生きていく前向きの力に出していける年なの。
それにあの四人目の男の台詞、「あのコを自分から股を開くような女に育てたいんだ」だって、今の女子高生に対してじゃ、もう遅いよって感じがあるじゃない、そういう意味で育てるのは。……まあ、そんな時代になっちゃったのもヤだけどさ。
やっぱり、原作の年齢には意味があったんだと思うなあ。
でも、彼女とクラスメイトの涼子のエピソードは女子高生の秘めたものを感じさせて、好きである。
ティーンの女の子に少なからずある、レズビアン的な感情、それは単にトモダチとして無邪気に発露されるものから、こんな風に思いつめてしまうものまで、振幅の幅は広く、そしてそれを実行に移しちゃおうというのは、やはり中学生ではちょっと難しいから。
涼子を演じる前田綾花嬢がイイんだよね。彼女ここんとこ久々にイイ感じである。彼女のぽってりとした唇がちょっとファニーなアンバランスさで、硬質な美しさである安藤希よりもよりヴィヴィッドに少女を感じさせる。
涼子はハナコに対して、憧れのようなまなざしがある。首筋にキスマークをつけて学校に来る彼女に、焦りにも似たような憧憬を抱く。
ハナコは誰とも話したがらないから、涼子が話し掛けたり電話をしたりしても、冷たくあしらうのだけれど、ある時根負けした形で映画の誘いにのるんである。
でも、涼子が「良さそうな映画を見つけた」というのは中原康レトロスペクティブであり、平日であり、映画館はガラガラ。……この辺の映画の選定は映画通っぽすぎて、見え透いている感じがしてアレだったんだけど……他の場面でも「さよなら夏のリセ」なんて映画のタイトルを別に必要もないのにわざわざ出してくるところとか、何でだか、引いちゃうんだよな……まあいいけど。
涼子はハナコの膝に手を伸ばす。それをハナコは払いのける。ホットドリンクをこぼしてしまう。ハナコは涼子を振り払って一人お手洗いに行く。通路の椅子に座っていた男が彼女の後をつける……。
涼子は、お手洗いに行ったまま帰ってこないハナコを探しに行こうとしないんだよね。映画が始まっても帰ってこないハナコ。哀しそうにスクリーンをまっすぐに見つめたままの涼子。
同行した涼子の弟の行人が探しにいってみると……半開きの個室から、下着をまとわりつかせた生足がのぞいていた。行人は駆け寄り、抱き上げる。なぜか彼の方が泣き出しそうに、彼女を抱きしめ、そっと唇を押し当てる。
彼とのヒミツの共有は、この出来事だけのはずだったのに。
ハナコは妊娠してしまった。三人の男は無精子症だから、あのレイプ犯がその相手。ハナコは、あの時だけの秘密の共有者だったこの行人にそのことを告げてしまう。
なぜ言ってしまったんだろう、そんな風に後悔するハナコは、心配してくれる行人に、「あんたに何が出来るの」とはねつける。でもこの彼、よくよく考えたんだろう。三人(じゃないや。この時点ではCはもういなかったんだっけ?)の男たちに、自分が父親だから、彼女に付き添って病院に行ってやってくれと頼むのだ。
彼の目の前で、男たちの命に従って服を脱ぎ捨てるハナコに、行人は泣きながら、ヤメてくれと、請う。
この彼の存在っていうのは、もう自分自身を他人のものとして投げ出してしまっているハナコとも、自分の気持ちというか欲望に振り回されてしまって相手を振り向かせられない涼子とも、仲間意識からハナコを買う、ハナコ自身に気持ちが向けられているわけではない三人の男たちとも違って、もしかしたら今だけかもしれない男の子の真の純粋さに貫かれていて、ハッとさせられるものがある。
でも、だからといって、今のハナコにそれが必要だというわけでもなくて。
今のハナコには、三人の男たちのような、まっすぐに向けられているわけではない愛情、の方が心地いいのだ。大事にはされてる。でもそれは自分を好きだからじゃない。だからといって、キライなわけでもない……。
まさしく、この三人の男たちは、自分の大事な友達の娘に対するような愛情で、ハナコを扱っている。Aがこんなことを言う。「君は僕たちが子どもの時からずっと欲しかったもの。僕たちにとってのラジコンヒコーキで、10段変速の自転車なんだよ」と。父親の娘に対する愛情って、案外こんな気持ちの延長線上にあるんじゃないかな、なんて思ったりする。ずっと欲しくて、大人になってから手に入れたら嬉しくて、ずっとずっと手の内で大事に大事に慈しむもの。
……ちょっと話を蒸し返すけど、やっぱりそういう慈しむもの、ということに対して、真に彼女がハダカで向き合ってくれないと、いまひとつ感じが出ないのよね。
Cは、何か事情を抱えていたようなフシがある。一番乱暴にハナコを抱くのはCだったけど、ハナコはそれに対して別に傷つくような風でもなかった。ただちょっと苦手、ぐらいに思っていただけ。でもその乱暴さは少年のダダッこの発露だったのかもしれない、と気づくのは、彼が一度、姿を消した時。
補習でどこにも行けない夏休み。涼子からもらった蝉を部屋の中で無邪気に追いまわすハナコに(でもこのシーンは、だから17のコがやるのはちょっとサムいんだってば)「どっかに連れてってやるか」と男たちは花火大会へと連れてゆく。
四人で花火を見上げている。そしたらふいに、なんだか泣きそうな顔をして、ハナコを車の中に連れ込んだCは荒々しく彼女を抱いた後、姿を消すのだ。
そして戻ってきた時、彼は腹に刃物をつきたてて、倒れこんでくる。
その間にハナコはあの妊娠事件があって、Cは四人目の男が入院していた病室に入り、四人して窓からハナコの高校を望むのだ。
まだ出来ないよ、と言うハナコに、どうせ俺も出来ねえよ、とうながして服を脱がさせたC。ハナコの背中、肩甲骨のあたりに、まだ描きかけの羽根の刺青がある。どこか頼りなさげに見える羽根……。
頼りなさげに見えるのが、大人になったことなのかもしれない。彼女が最初、三人の前で見せたその羽根は、少女の痛々しさを、どこか誇らしげに見せつけているようにも見えたから。
やっぱりCの印象が強い。どこか少年の弱さを抱えているオジサン、というのがハマる大杉漣。Aのトモロヲさんはどこかイタズラっぽい少年さ。ハナコに対しても試着室でエッチなイタズラしたりして。で、Bのムラジュンは一人、ハナコに手を出さない。どうやらインポテンツであるらしいんだけど、でも彼は見守る感じ。確かにハナコの言うようにお兄さんといった風情。
そしてまたたくまに一年が過ぎる。契約期間の一年(しかしこの一年の季節の移り変わりも、一応夏休みとか入れてはきてるけど、何かいまひとつ感じられないんだよなー)。
男たちは四人目の男の墓にハナコを連れていく。そしてお別れである。ハナコはAに買ってもらった大人っぽいワインカラーのワンピースを着ている。でもあのワンピースにあんなかかとのない長靴みたいに見えるブーツはないと思うんだけど。いくらブーツ流行りでも、あれはおかしくないかー?パンプスでしょ、普通。“大人になった”んならさ。
おっと、脱線してしまった。で、ここが切ない別れであるはずなんだけど。
三人の男たちの表情は実にグッとくるものがあるんだけど……困ったねー。やはり安藤希。うーーーーん、そんな鼻をひくつかせるだけの泣き演技はありえないよー。大事なトコなのに。
照りが抑えられた独特の色身。黒が深く冴えて、とてもスタイリッシュ。だから三人の男たちは抜群に映える。この画だけはそれこそフランス映画みたい。
ハナコが買われる古い洋館やその内部のデザインといい、それはとっても素敵なんだけれど……。★★★☆☆