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「く」


2004年鑑賞作品

グシャノビンヅメ
2003年 96分 日本 カラー
監督:山口洋輝 脚本:山口洋輝
撮影:安田光 音楽:
出演:藤崎ルキノ 辻岡正人 小柴亮介 税所伊久麿


2004/3/2/火 劇場(シアター・イメージフォーラム/レイト)
この映画の製作時には22歳の現役大学生だったという山口監督。凄いというよりは、思わずナルホドと思ってしまった。それぐらい、いわゆる“大学生の男の子の作った映画”っぽかったから。とんがったセンスあふれるタイトルには才気を感じたけれど、やたらとこだわる構成云々にはそういう大学生っぽさが逆にジャマに感じられた。評判はあまりに絶賛なのでちょっと言いづらいというか……それに低予算でもの凄く過酷な撮影状況だったというのが面々とつづられているのを見ると更にひるむんだけど、いいじゃない、私一人ぐらいそういうこと言う人いても……つまり私にとっては、えー、悪いけど、つまんない、というのがかなり正直な感想。というか、冷や汗が出た。怖いとかそういうんじゃなくて、あまりにも、“大学生の男の子”っぽくて。独自の世界観というよりは、この設定といい言葉といい展開といい、あまりにもあまりにも、どこかで見た記憶、聞いた記憶がありすぎる。SF漫画の世界そのものなのだもの。潜在能力とか、監視局とか、殺人ウィルスとか、精神感応とか、そんな言葉が出てくるたびに、その感覚にさらされて冷や汗が出る。テレパシーで意思の疎通なんて、その最たるもの。キャラ名もいかにもで何かサムい。ヒロインの女の子の造形にしても、ミニのセーラー服姿でルーズソックスで、だなんて、まさにSF少女アニメのヒロインそのもので、そのヤな方向性のオタクっぽさに、またしても冷や汗が出てしまう。

作りこんだ設定や物語や展開に気をとられすぎて、本来あったかもしれないパワーが失われてしまうのが、つまらなさの一番の要因だった。確かに脚本は練られているかもしれない。ただその展開自体が先述の様な、どこかで見た世界であり、しかも印象的なショットや世界観でどんどん進んでいきたいなら、その作りこみは逆に映画的なものを失わせる結果になってしまった気がする。映画は時間が限られているから、どうしたって小説や何かにストーリーテリングは負けてしまう。映画が映画で、あるいは映画的にあるのは他に武器があるからこそ。同じショッキング映画で出てきた熊切監督や、あるいはその道の開拓者である塚本監督には、そういう映画の位置というものが判っていたのだ。そういえばこの山口監督は北村龍平監督の出た「インディーズムービー・フェスティバル」の第二回受賞者だということなんだけれど……実は北村監督に関しても、どこか似た種のつまらなさを感じていて、それはサブカルチャーの洗礼を浴びるほど豊かな環境で育ってきた監督が、逆に陥ってしまう領域のようにも思えた。この山口監督は、北村監督より更に、映画は勿論その他のこの手のサブカルチャーには相当詳しいに違いない。映画研究会の部長だったっていうんだからそりゃそうだろうと思う。どうもそういう知識が、そして彼の頭の良さが、逆に足を引っ張っている気がしてならない。

舞台は、いつ、どこともしれない、荒れ果てて光のささない“居住区”。何百階層にも渡って連なっているその中を網羅している、巨大なエレベーター、“異動機筒”に、藤崎ルキノは乗り込んだ。彼女は精神病院に入院していて、久しぶりに学校に行こうとしていたのだ。さまざまな階層から乗り込んでくる様々な人たち。例えば同じ髪型、同じスーツに同じ携帯電話を持って同時にチャッ!と電話をかけるビジネスマンがどっと乗り込んできたり、脳ミソのつまった奇妙なロボットペットを引き連れた女の子と老婦人が乗ってきたり。美貌と色香を放つ冷静なエレベーターガールが、鮮やかな手さばきでそれぞれの階層を紹介していく。貧民と精神病院の街「コロバザジップ」(ルキノはここに住んでいる)、化学実験と研究者の街「アベトジェクシ」、企業社宅と独身寮の街「ネクズロク」……それぞれの階層から乗っては降りていく乗客たち。そしてエレベーターの中が、ルキノ、研究者、音楽を聞き続ける青年、主婦、エレベーターガール、の五人になった時、監視局からの緊急要請で、99階層の囚人と監獄の街「ピタガスコイン」から、護送する囚人と警官二人を乗せることになる……。

舞台はもっぱら、この閉じられた空間、移動機筒の中である。つまりは密室で追い詰められていく人間がパニックに陥る話。色々と凝った要素をちりばめてはいるけれど、つまるところはそういう話である。それでいうならこれはかなりの定番。でも、定番だけに、その凝った要素がどうもジャマに感じられる。
この切羽詰った状況で人間性がむき出しにされていく、本能が呼び覚まされるというのはよく判るんだけれど、カネ、飲み物、食べ物で翻弄されていがみ合い、狂ってゆくというのは拍子抜けするぐらい当たり前の展開。人間性そのものというよりは、ここもまた要素や展開を踏まえることの方に気をとられている気がする。
密室状況の映画というと、それこそこの状況そのまま、エレベーターでの話も数多くあるんだけれど、エレベーターの話ではないものの、私の中では即座に出てくる非常に強い印象の映画に「クローゼット・ランド」がある。まるでカラーの違う話だからここに持ってくるのもアレなんだけれど、密室映画の理想があの作品には詰まっていて、二人の人物設定と密室しかそこにはなく、人間が次第に凶暴に狂っていくさまをつぶさに見せられていく衝撃と、そこにはなぜだか美しさもまた、存在していた。本作に関しては密室映画と同時進行で舞台としてのSFチックな構成があり、過去のトラウマがあり、するもんだから、どうしても印象が散漫になるのは否めないのだ。

なぜ密室状況になってしまったかというと、ルキノがこの移動機筒に乗る前に吸っていた煙草の火が引火して大火災になってしまったから。閉じ込められた中で囚人は暴れ出して警官を殺害、この凶暴な囚人二人との対決から、飢餓状況、事実の隠蔽工作と、事態はどんどん深刻になってゆく。
実は、最も引いてしまったのがこの囚人の造形だった。特に、小さい方。小うるさい、自己顕示欲の強いスキンヘッドのこのキャラは、あーこういうの見たことあるような気がしてならないッ!と思えて思えて、冷や汗ダラダラ。嬉々としてやっているのが更に追い討ちをかける。“個性豊かなキャラクター”っていうよりは、大げさなそれであって、それと個性的とは違うと思うんだけどなあ。大きい方の囚人も、ノイズめいた異次元語?を喋るあたりいかにもそれっぽい。もう、二人とも頼むからとっとと死んでくれよ、と思ったのは彼らが“国宝級の”囚人だからじゃなくて……そういうこと。

しかしやはり、ヒロインである。このルキノは父親の男手ひとつで育てられたらしいのだけれど、その父親からの暴力がトラウマになっているらしい。この追い詰められた状況の中で、彼女のそのトラウマの過去がフラッシュバックの映像で何度もカットインされる。彼女はその度に武器を手にもち、半狂乱になって敵を倒すのだ。
しかし、それ以外は無表情といっていいほど冷静である。つまりはそのトラウマによって、感情を表現する能力が失われてしまった、ということなのかもしれないけれど、冷静、半狂乱、冷静、半狂乱、の繰り返しで、さすがにそれが4度、5度となってくると、お前、いい加減にしろよ、と言いたくなる。インパクトも薄れる。ここにも要素と展開に凝ったゆえの散漫が見られる。次第に追い詰められていくというよりは、単なる繰り返しにしか映らず、不自然ささえ感じる。

ルキノのトラウマは父からの暴力、というだけだったのだろうか。それとも性的虐待も?ここまで狂うわりにはその部分に対する突っ込みも甘いような気がする。というよりルキノのトラウマはそれこそ“展開”に必要なコマとしての“要素”に過ぎなくて、それはフラッシュバックというカットで細切れにされて、彼女が狂うだけの理由もまた、細切れにされる。白い部屋での医者とのやり取りや、コインロッカーから出てくるルキノ、という印象的な“カット”はあるけれど、やはりそれは“カット”そのものに過ぎないのだ。

実はこの展開すべてが回想で、この事実関係を、その場にいた人物や関係者から聞き取り調査をしている、という趣である。タイピストがガンガン打っているのに画面が流れていかないのが気になって仕方がない。それともあの画面とタイプは関係ないのか?そしてルキノは連れて行かれる。この階層の外の世界の果てへと。……というあたり、私は……すみませんウトウト状態だったのでいまひとつ判りませんでしたが、ラストカットにハッと目を覚ますとあれは……東京タワー?東京の夜景?何となく「猿の惑星」チックな感じもしたりして。★★☆☆☆


グッバイ、レーニン!GOOD BYE, LENIN!
2003年 121分 ドイツ カラー
監督:ヴォルフガング・ベッカー 脚本:ヴォルフガング・ベッカー/ベルント・リヒテンベルク
撮影:マルティン・ククラ 音楽:ヤン・ティルセン
出演:ダニエル・ブリュール/カトリーン・ザース/チュルパン・ハマートヴァ/マリア・シモン/フロリアン・ルーカス/アレクサンダー・ベイヤー/ブルクハルト・クラウスナー/フランツィスカ・トレグナー

2004/3/9/火 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
この映画を観た動機は何たって、チュルパン・ハマートヴァ嬢に会いたかったからに他ならないんだけど。ああでも……彼女大人になっちゃったのね。当たり前だけど。いや、チュルパン嬢を初めて観た時から既に実はイイ年だったんだけど、もうその時の彼女は最上の美少女で、「ツバル」の彼女なんて世界一の奇跡的美少女だと思ったもんだったんだけど……。本作、あ、普通のカワイイ女性になっちゃった……かな?いやいや、やっぱり無論スッゴク可愛らしいんだけど、やっぱりあの時は“少女の時”だったんだなあ……なーんてシミジミしちゃったりして。間がちょっと、あいちゃったからな。彼女の出演作品はもっと観たいんだけど。

なんてことをしみじみ思っているようなバヤイではなかったのだった。これ、そんな腰抜けの態度で観ちゃいかん映画だったのよ。東西ドイツの壁が崩れた、あの時から15年、ようやくようやく、こんな風にコミカルにも描くことが出来るようになった。ドイツがたった一つの国になってから、“ニュージャーマンシネマ”と呼ばれるような、痛快エンタメの傑作が幾つかみられたけれども、それはどこか、ハリウッド風な薄味な気もしていた。でも、この映画は、まさしく真の意味での“ニュージャーマンシネマ”の到来を予感させるアイデンティティに満ちている。どこを切っても、自らの国に誇りを持っているドイツそのもの。

そう、悩みつつも、迷いつつも、焦りながらも、自分の国を誇りに思っているドイツの姿がここにある。そんな風に思った。
社会主義と資本主義の国がいきなりひとつになるんだもの。そう簡単にいくわけはない。今までは資本主義側ばかりから描かれていたような気がする。資本主義にとって社会主義は誤解を恐れずに言えばイコール悪と言ってもいいぐらいのもの。そんな感覚。じゃあ逆に社会主義から見る資本主義はどうかというと……これがものすごく複雑な対象なのだというのが本作を観るとよく判るのだ。
資本主義の豊かさや自由は、憧れ。でも一方でその容赦ない競争社会に嫌悪感を感じている。

実際、資本主義バンザイ的な今の世界情勢は、時々どこかおかしいような気もしている。独裁者が制圧するような社会主義は無論ノーサンキューだけれど、社会主義というものが成立するだけの理由も確かにあったのだ。
医療や教育にお金がかからない、それってなるほどもっともだもの。こんなことにお金がかかる資本主義の世界の方がおかしいんじゃないかって、思っちゃう。労働者数という、数字の上でもキッチリ男女平等が実現しているのもうらやましい。国が託児所やなんかをしっかり整備しているからだという。スバラシイ。注文して15年経たなきゃ車が手に入らないというのはちょっとヤだけど……。
社会主義国にはホームレスなんていないだろうし、貧富の差で差別意識が生まれることもないのだとしたら……それは確かに理想的に成熟した国家だ。
でもその主義を究極的におし進めていくと……やはりおかしなことになってしまう。だから今、世界中でどんどん消滅していっている。
でもそれは資本主義も当てはまるんじゃないか、と本作は言っているように思えるのだ。資本主義も今究極的におし進められておかしなことになっている状態じゃないかって。

本作の主人公、アレックスは、壁の崩壊やら東西ドイツの統一やら資本主義国家になったことやらが、母親が昏睡状態の時に怒涛のごとく押し寄せてしまって、何一つ知らずに目覚めた彼女からその事実を隠すために、ひたすら奔走する。母親にとって社会主義は生きる全て、命そのものだったから。それは……ダンナが西側に女を作って帰ってこなくなったことが大きかった。いや実はそれは真実ではなかったのだけれど。
しかし実はアレックス自身が社会主義に、いや東ドイツという自分のアイデンティティに固執していたのだということが、ラストに判るのだ。
東西統一といいつつ、資本主義国家一色に染め上げられてしまった新生ドイツは、全てが旧西ドイツになったようなものだった。西側のモノや文化がなだれ込み、東ドイツのそれらは押し流されて、消えていくしかなかった。母親がこつこつためたヘソクリの東ドイツ紙幣は新国家の横暴で紙くずと化してしまう。
そのことを、アレックスは母親が目覚めたらショックを受けるだろうと思って隠し続けたのだけれど、本当は彼自身が最もショックを受けていたのではないか。

だって、母親のクリスティアーネは本当のことを知っても、別にショック死なんてしなかったんだから。
“本当のことを知った”ことを、アレックスは知らない。茶番劇を続けるアレックスに業を煮やしたアレックスの恋人のララ(看護婦さん)が、クリスティアーネに本当のことを言っていた、なんて。
クリスティアーネはヘリで運ばれるレーニン像を見ていた。巨大な胸像。こちらに手を差し伸べるレーニンに、目を見開いたまま、彼女は動けなかった。
凄いシーンだ、ここ……どこかユーモラスさを感じさせながら、ゾッと鳥肌が立つような。
彼女が子供たち……アレックスとその姉のアリアーネに真実を告白したのは、その後。夫は浮気をして西側に行ったきり帰ってこなかったんじゃなかったのだ。家族みんなで西に亡命しようと、夫婦は決めていた。そして夫が先に行き、妻子三人を待っていた。しかしクリスティアーネは行けなかった。子供二人を抱えて亡命するという危険をついに彼女はおかせなかったのだ。夫からは何度も手紙が来た。彼女は放心状態になって、何も喋らなくなった。そして元の彼女に戻った時、夫の話題は一切消えた。彼は西に女を作ったことになっていた。そう信じて子供たちは育ってきた。アレックスとアリアーネにとって、西は、敵だったのだ。
いや、アレックスにとってだけだった。アリアーネがあっけらかんとバーガーキングに就職したのをアレックスは苦々しく思っていたのだから。
やっぱり、こういうのって、息子と母親の関係だなって、思う。男の子にとってなぜこうも、母親というのは特別なんだろう。色んな映画で見せつけられるたびに、何だか……ジェラシーのような、何ともいえない気分に陥る。
東ドイツこそ自分の居場所だと信じて信じて、目覚めた母親にもそれを押し付けてしまった……のだろうか、アレックスは。

東側のものを必死に揃えて、母親から真実を遠ざけ続けていたアレックス。でも、母親が最後に望んだのは、西に渡った夫ともう一度会いたい、ということだった。嫌う理由なんかどこにもない。彼女にとって最後まで愛し続けたのはこの夫なのだ。
アレックスは父親に会いにゆく……。
わりかしサラリと描かれる親子再会の場面。それは多分……今のアレックスにとって彼が父親ということよりも、母親が会いたがっている相手、ということの方が大きいからなんだろうと思う。
姉のアリアーネはそれ以前にバーガーキングのドライブスルーに来た父親を目撃していて、この二度目の再会の時もくるりと背を向け、ひどく動揺している。
息子と母親の関係とはまた違って、娘と父親というのもどこか……何か……複雑なものがあるのだ。

アレックスが母親からひたすら資本主義の情報を隠し続ける描写というのは、もうこれ、かなり可笑しい。衛星テレビの営業をしている彼は職場の利を生かして、ニセのニュース番組まで撮ってしまう。協力してくれる相棒のデニスが映画オタクの愛すべき人物。自らキャスター役をかって出てくれて、しかしカメラに映っていないテーブルの下はぱんついっちょ(笑)。クリスティアーネが見てしまったコカコーラの広告をイイワケするために、コカコーラは東ドイツの発明だったとかいうニュースをでっちあげる。いいんかいな。
でもそうしてアレックスが捏造してゆく東ドイツの姿というのは……彼が理想とする東ドイツ、いやドイツの姿だったのだ。
競争ばかりにあくせくする資本主義ではなく、しかし資本主義の自由は獲得しつつ、社会主義の、人間の尊厳を守る国家。100パーセント旧西ドイツの今の状態ではなく、過半数の65パーセント東ドイツが入ってる、みたいな。
アレックスの気持ち、判る気がする。自分が育った国を否定したくない。でも自由の国への憧れはある。いいとこどりがなぜいけないの、って。今の世界はあまりに偏り過ぎだって。自由という名のもとに、人間を切り捨て過ぎだって。

何か、シリアスに書いちゃったけど、実は全編、本当にユーモラスなのだ。ほのぼの、クスクス、みたいな。
でもやはりその根底の、厳しい部分に目を向けずにはいられない。親子愛、それだけで語ることも出来るほどのクオリティを持ちつつも、やはりそこには、人間がこの地球で暮らしてゆく難しさが描かれているのだから。
どこかケイト・ブランシェットのような雰囲気を持つ、母親のクリスティオーネを演じるカトリーン・ザースが良かったなあ。控えめな演技なんだけど、たまらなく惹きつけるものがあって。東ドイツ風の厳しさを持ちつつも、やわらかな美人でもあるんだもの。なるほど、息子が母親を大事に思うわけよね。★★★☆☆


雲のむこう、約束の場所
2004年 91分 日本 カラー
監督:新海誠 脚本:新海誠
撮影: 音楽:天門
声の出演:吉岡秀隆 萩原聖人 南里侑香 石塚運昇 井上和彦 水野理紗

2004/12/2/木 劇場(渋谷シネマライズ)
またしても新しい才能出現。若い。またしても若い才能。私は全然知らんかった……既に前作の短編「ほしのこえ」で下北のトリウッドを騒がせたんだそうである。しかもその作品はたったひとりで。さすがデジタル世代の申し子。本作はさすがに数多くのスタッフが関わっているものの、でもそれでも、脚本監督はもちろん、美術や撮影班のトップに名を連ねるこの人の真の才能には舌を巻いた。凄い。いわゆるスタジオアニメーションとは明らかに違うのは、その一人の作家性に貫かれた、冷たい暖かさ、とでもいった世界の、透明な美しさだからか。
いわゆる、アニメスタジオの作品とは明らかに違う。 光が凄い。奇跡的なまでに。列車の中を明滅する光。夕陽。まぶしい光も、ほのかな光も、しかもとりどりに色彩が違う。これほど光が緻密に、繊細に描かれている映画を(アニメを、ではなく)私は知らない。
ということはつまり、逆に、影がすっごく計算されているということなんだよね。影との対象の光が、心震わせるほどに、美しく輝く。
そして、光と影が最も美しく映えるブルーが、これほどブルーという色が様々にあるということに驚嘆する。
その点だけでも、この作品を観るべき価値はあると思うぐらい。ここには……おおげさかな、でも……天国がある、そんな気がした。

お話自体はどことなく、今のコミックやゲームの世界のそれを思い起こさせるものもある。いや、それより前にどこかエヴァンゲリオンを思い出すのは、凝ったSFな世界をベースにして、しかし語りたいのは少年少女の、青春の思いだったり、気持ちの感応が話の核になっていたり、だということ。
正直、このSFな部分はなんだかちょっと難しくってなあ、という気がしたりもする。専門用語(それも作られたものだけど)がいってしまえば……これみよがしに出てくるし。 ただ、SFというより、静謐な物理化学風。そのあたりがエヴァより好みかも、とも思う。そうとにかく静か。なんでこんなに静かなんだろう?……そう思うほど。

そして、いや、SFだけれど、架空の設定だけれど、ちょっとドキッとするのは、“南北分断された日本”という世界である。南北分断……その悲劇にいま日本も様々な形で影響を受けているかの国々のことを思う。
その、北と南の境界線で、静かな北の町で、始まる物語。二人の少年、一人の少女。高く高くそびえる塔は、空をも突かんばかりである。この境界線から南は日本が軍統治している。そして塔より北は、ユニオン占領下である。ユニオンは、日本よりもずっとずっと技術が発達しているらしい。その象徴が、何なのかさえ謎な、この塔。
美しい眺め。青い青い空に、雲よりもずっと高く突き抜けて、塔はその優美なラインを見せている。二人の少年、一人の少女はその向こうの世界を夢見る。かつて北海道と呼ばれた”蝦夷”は南の人間にとって、神秘の、憧れの場所……。

懐かしい青森の地名。彼らが使う小さなホームの電光掲示板には、蟹田と三厩の文字が見える。蟹田出身なだけで“蟹田”と名前のように呼ばれていた同級生や、三厩出身のちょっと好きだった先輩のことなんかを思い出す。でもその先のかつての北海道は今は蝦夷と呼ばれている。南北分断された日本。
北海道がこんな形で出てくることにいささかのとまどいを覚えなくもないんだけど。
だって(いきなりオチバレしちゃうけど)最後、塔の崩壊と共に、この美しい北海道(劇中では地図としての形としか描かれないけど)は爆発の渦の中になってしまうんだもの。

あの日、あの夏の日、彼らにとってはまさに永遠の夏の日だった。中学生の二人の少年、ヒロキとタクヤは塔の向こうに憧れて、自分たちで飛行機を製作していた。パーツ代は一緒に軍事工場でバイトして。……その時点からどことなく、なんとなく、キナくさい要素が見え隠れてしているのに、二人の少年には、いやこの世界そのものに、そんなことがあることさえ、ウソみたいだった。
二人がともに憧れている少女、サユリもまた、この二人の夢を共有する。私も塔の向こうに行ってみたい。連れて行ってくれるの?約束ね、と。
技術の天才であるこの二人の少年が友達同士で、共に飛行機を作ろうとしたのも運命なら、二人共にこのサユリに淡い思いを抱き、そしてそのサユリこそがこの世界の全てのカギを握る少女だというのも運命なのだ。
サユリはこの時から、フラッシュバックのように、夢の世界に入り込んでは、現実に引き戻される、という現象がおきていた。
サユリは塔に感応している……そのことは、ずっと後になって判る。この時の彼女は、この塔とそんな深い関係があることさえ、知らなかった。
「何かを失いそうで怖い」それは彼女の、本能的な恐れ。

その約束をした直後、彼女は姿を消した。ヒロキとタクヤは、二人だけの夢から始まったはずなのにそのことにショックを受け、飛行機作りは頓挫してしまった。
サユリのいないショックから逃れるようにして、ヒロキは東京の高校に進学する。ここなら塔も見えないはずと思ったのに、空気が済んだ日には、うっすらと塔が見える。
生きているのに、生きていないような、3年間……。
タクヤの方はといえば、青森の高校に進学し、その天才ぶりを発揮して最年少でアーミーカレッジにて塔の研究に没頭する。それがサユリとつながるということを、彼はまだ知らない……。

サユリは塔と感応する少女。いつしか眠りの時間が覚醒の時間より長くなってしまった少女。でもその中でずっと夢を見続けている。たったひとり、孤独で。完璧な孤独、だ。これ以上の孤独なんて、思いつかない。
夢の中でたったひとり、目覚めることが出来なかったら、こんな絶望的な孤独はない。
ちょっと、「ターン」みたいだな、と思う。現実世界では目覚めることのない彼女が、いわば夢の中の、時間が止まった中で生きていて、その孤独にあえいでいる、その描写が。
それ以上の、孤独である。だって彼女がいるのは本当に夢の世界。「ターン」みたいに現実のかけらさえも、そこにはないから。
でも彼女は夢の中で見覚えのある飛行機を空に見、そして大好きな人と再会する。それは……現実世界の彼が、彼女の気配を感じて「そこにいるのか」と言ってくれたから。

大好きな人、それはクールなタクヤとは対照的に純な少年、ヒロキである。ヒロキはバイオリンを弾いていた彼女のことを思い、自分もバイオリンを手にするようになっていた。後にサユリを救い出すため再会したタクヤは、「お前って、ホントいちずだよな」とからかい気味に、しかし感心する。
タクヤはアーミーカレッジでの先輩の女性に信頼も交えた愛情を抱くようになるから、ヒロキとサユリはジャマも入らず(笑)、晴れて両思いの二人ってわけだったんだけど。……三年の間、彼らは、あまりにも遠く離れていた。
距離的にはとても、近い場所にいたんだけど……。
サユリの今の状態を知り、ヒロキはいちもくさんに彼女の病室へ急ぐ。転院した、という、そこにはサユリはいなかったけれど、彼は彼女の気配を感じたのだ。
そして、彼女の夢の中へと入ってゆく。そして……あの日と同じ約束を、もう一度交わすのだ。
あの約束の場所へ、と。

この、バイオリンが奏でるテーマ音楽のメロディが、心震えるほどに美しくて。繰り返し、繰り返し、その類まれなる美しいメロディで、いざなわれる。
少年二人、少女一人。思春期。片一方の男の子にはナイショの話。永遠のようなひだまり。空の気高さ、雲の包容力、風が優しく彼らをなでてゆく。そこに戦争があるなんて、想像も出来ない。
でも、サユリはその時からずっとずっと恐れてて……昼でも夜でもところかまわず見る夢に恐れてて。「何かをなくしてしまいそうで……」それは、目覚めた時、ヒロキへの思いを失っているんではないかいう恐れだったのだ。
南北分断や、塔が発する平行世界と呼ばれる次元のゆがみ、そして戦争……SFの世界をふんだんに盛り込みながらも、そこに貫かれるただ一点の、曇りのない、大好きな人への気持ちが、この映画を何にも変えがたいものにしているんだ。
気持ちが、あふれてる。しかも、そのあふれる気持ちは、ただ一人の人へまっすぐに向けられている。
タクヤがヒロキにこう言うのだ。「サユリを救うのか、それとも世界を救うのか」と。
サユリは塔に感応している。彼女が眠っているから、塔もまた眠っている。夢の世界にある。彼女が目覚めてしまったら、この秩序を守ってきた塔は爆発し……一体何人の人が、死ぬのか。

あの手作りの飛行機を完成させてサユリを乗せ、塔に近づくヒロキ。夢の中のサユリは目覚めが近いことを悟る。嬉しいはずなのに、不安におびえる彼女。目が覚めた自分は、こんなにも会いたい人への思いを忘れてしまっているんじゃないか、って。
お願い、たった一瞬だけでもいいから、この気持ちを彼に伝えたいんだと、必死に彼女は念じてる。彼女の目にはあの懐かしい、美しい飛行機が見えている。優美なフォルムのプロベラがゆっくりと回りながらまさに夢のように飛んでいるあの飛行機が。
目が覚める。サユリの瞳にはその気持ちがそのまま涙になってしまったかのように、溢れ出す。ヒロキを苗字で呼ぶ「私、あなたにもっと言わなきゃいけないことがあるのに……」と。
具体的なことは、忘れてしまったのかもしれない。ヒロキとタクヤとの、あの夏の記憶とか。判らないけど……でも、彼女の中に、この人をずっとずっと待ち続けたことは、きっと消しようもなかったに違いないんだ。
これは、気持ちの、感情の映画なんだ。SFアニメに見えながら、大好きな人を思う、ただそれだけを言いたいんだということに、打たれた。
ゆっくりと回るプロペラ。その背後でゆっくりとみじんに崩れる塔。空気を震わすかのようにしんとした世界……。

宇宙が、夢を見ているんだという。その夢が人間の予知能力やなんかに関係しているかもしれないという。その設定は、心惹かれた。宇宙も大きな大きな生き物で、その大きな掌で私たちは生かされてる。だから見る夢も、いや気持ちさえ、それが前提の上で、とってもちっぽけで、でもその掌は大きくてあったかくて、みんなここで生きていることを幸福に思ってる。
大好きな人に出会う。それも、宇宙の夢の中のことかもしれない。
現実だと思っていることが夢で、夢だと思っていることが現実かもしれないというSFチックな恐怖というのはあったけど、現実だと思っていることが宇宙の夢なんだとしたら、それはとても素敵。そんな夢ならいつまでも見ていてほしい。

ヒロキの吉岡秀隆とタクヤの萩原聖人。男の子二人の繊細な声のキャスティングが素晴らしいだけに、ヒロインのいかにも萌え萌えアニメチックな声がオタクワールドを引き寄せているみたいでちょっと残念(客層も少々……ね。そりゃ私も入るんかな)。少女の動きも何かそれっぽい……内股で、グーを作った腕を胸元でブリブリ振りながら走る、みたいな。キャラは、特に女の子においては、今の萌え系コミックそのもので。男の子は割と昔からこんな感じだけど。
青森でも津軽弁じゃないのは……この世界でばかりは目をつむるべきかな。★★★☆☆


くりいむレモン
2004年 75分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:向井康介 下敦弘
撮影:近藤龍人 音楽:赤犬
出演:村石千春 水橋研二 根岸季衣 大鷹明良 勝俣幸子 三浦哲郁 細江祐子 山本剛史 山本浩司 小沢和義 岩波藍 岡田亜矢 小川仁美 今泉力也 柴田晃良 奥野正明 浜田貴也 岩見洋志 前田かおり 高瀬尚也 村社淳 小野川愛 奈良田憲子 藤井麻穂子 那須千里 涌井克行

2004/10/8/金 劇場(テアトル新宿/レイト)
山下監督が「くりいむレモン」の映画化の監督!という話を聞いたのは、「プッシーキャット大作戦」のトークで本間監督の応援に来ていたご本人の口からはじめて知ったのだけど、かなーり、驚愕だった!だって!「くりいむレモン」といえば、オンタイムではないものの(それにいちおー、私女やし)言わずと知れた、美少女アダルトアニメの草分けじゃないのッ!あるいはいまだ唯一の、一般的な認知度があるそうしたジャンルものであるかもしれない。「くりいむレモン」というタイトルを口にしただけで、もうエッチなもんだっていうのがみーんな判ってたあの、あのッ!
オフビートで貧乏くさいユーモラス、の山下監督が「くりいむレモン」……ダメだ、どうしても想像できない。あのトークの時、撮影はもう終わっていたはずなのに、どことなーく監督自身も不安げだった感じが、期待というより監督の風情と同じく不安を抱かせ、おそるおそるという感じで観に行っちゃったんだケド……。

山下監督じゃないのッ!まさしく!

ああ、杞憂とはまさにこのことなのね。これは「くりいむレモン」であって、「くりいむレモン」ではない。いや、「くりいむレモン」には違いないんだけど、山下監督が描く、切ない恋愛映画であって……って、私はそのホンモノの「くりいむレモン」を観たことがあるわけじゃないんだけど、でも、この実写映画化作品は本家本元にとっても幸せなことだったに違いないよ。

妹モノ、元祖萌え萌えモノである。うーむ。あまりこういうことは言いたくないが。でも、この「くりいむレモン」がドンピシャだったのが今40代以降の男性と考えると、ちょっと、うわッと思わなくもない。そういうヒトがエンコウとかしちゃってるのかもしれないと思いっきり偏見で考えちゃう。
でも、本作を観て、ホントにそれこそ偏見なんだろうなあと思ってしまった。ここで感じたのはそうしたアダルトチックさよりも、どちらかというと、懐かしき黄金期の少女マンガ的世界、なんだもの。血のつながらないお兄ちゃんへのほのかな恋心。どことなく頼りないお兄ちゃんは、お兄ちゃんなのにほっとけない気分を起こさせる、少女の中に母性本能を芽生えさせる存在。思春期を迎え、同級生の男の子に告白されたりもするけれど、まだまだ少女の感覚がぬぐえない女の子にとって、他人の男の子とのそれは自分の想像の範疇にない。ずっとずっとそばにいてじゃれあっていたお兄ちゃんは、異性の汚さを感じさせない存在。
……まあ、昔の少女漫画なら、ここで終わるか、あるいはいきなりトンでケッコンとかいう結末に持っていっちゃうか(っていうマンガ昔確かにあったけど、血つながってなくても兄妹だと結婚は出来ないのか?ヤハリ)であるけど、ここはまあ、原作がアダルトアニメだから、当然、セックス、という方向にいってしまう。それに原作のあった80年代ならいざ知らず、今の時代だったら少女漫画だってそういう方向にいっちゃうんだろうな、きっと。

冒頭の、村石千春嬢のドアップのカット、その半開きの唇が実に生めかしくキてるんである。うーん、何か、上手そうとか(何が?)。「プッシー……」でカワイイと思ってこのヒロインの抜擢だったという山下監督は実に正解だったのである。この冒頭のワンカットで既に確信する。
そこは保健室で、彼女、亜美は体育の時間に持病の喘息が出て倒れてしまったらしい(このあたりも、少女漫画的王道さ。私みたいな健康体は、保健室のベッドに横になったことさえないよ)。
そこで早くも披露されちゃう、可憐な体育着に既にそそられてしまう。そして着替える制服姿の華奢さも。彼女が家に帰ると、大学にも行かず寝っぱなしのお兄ちゃんがいる。そっと頬をつついてみる亜美。

この、“頬をつついてみる”という、愛しげな行為は、後にこのお兄ちゃん、ヒロシによって亜美に対しても行われるのだが……そこには兄妹と恋愛の境界線をゆらゆらと行き来するような、切ない曖昧さがある。
いやー、だって、千春嬢は無論素晴らしいんだけど(ま、あとでじっくり)、水橋研二がね、もうドンピシャなのよ。
「月光の囁き」以来の、ハマリっぷりじゃないのかなあ。彼、実際はもうイイ年よ。29で、千春嬢とは9つも違う。なのに2つしか違わないお兄ちゃんで、何か頼りない、怠け者の大学生で、……ていうのが、ピッタリなのは、いいのかしらん。彼は非常に繊細な演技をするんだな。千春嬢も彼にシンクロする形で、非常に微細な演技を引き出されてる。二人は芝居に関してかなりのディスカッションと試行錯誤を繰り返したというから、この微妙な距離感が実現したんだと思うけれど、ベテランの水橋研二にこんな風に引き出された部分はかなりあると思うのよ。
彼は、近づいた時の皮膚感覚、みたいなのがバツグンなんだなあ。くっついてなくてもいいのよ。微妙に離れている、寄り添っている感じの、体温とか湿度をほのかに感じさせるその空気感。ヒロシが亜美に近づいただけでドッキドキなんだもん。

亜美の友達の、どう見ても亜美よりイケてない女の子でもしっかり彼氏はいるし、「ヤルだけヤって、さっさと帰っちゃうの」なんていうキワどい悩みを亜美にぶつけたりする。亜美はカワイイのに、そんな影がまるでない。
「お兄ちゃんと仲いいって、いいよねえ。私もお兄ちゃん欲しかったなあ」なんて言うその友達に、亜美は何気なさそうに、「うん、でも血はつながってないんだけどね」と返す。
この友達、どこかアセったように謝り、「でも、血のつながっていないお兄さんっていいよねえ。なんか、良くない?」と、やはりアセったように繰り返すのだ。
……まあ、この友達にどこまでの意識があったかはビミョウだけど、それが亜美の中の封印していた気持ちを揺さぶったのは、間違いない。
その言葉を、亜美は当の兄にもぶつけてみる。自分のその気持ちが自分だけのものだと、あるいは確信したかったのかもしれないし、その逆かもしれないし……。
どことなくうろたえ気味の兄に、「何意識してんの」のからかうように言った亜美。もうここからは時間の問題だったのかもしれない。

両親が、海外出張で家をあけた。母はどこか心配そうに、「大丈夫よね?」と声をかける。ヒロシは何気なさそうに「何が?」と応える……母親はどこか、何か、子供たちのそうした空気を感じとっていたのかも、しれない。
両親がいないため、進路相談の三者面談にヒロシが出席した。無礼な教師にキレる彼は、教師にお茶をこぼし、スリッパで頭を殴ってしまう。
次のシーンでは、頬を腫らせたヒロシに亜美がジュースを持ってきている。「殴るとは思わなかった」「俺も、殴られるとは思わなかった」
だって、彼、どうしたって保護者には見えない。兄と言っても、こういうことを相談できるような頼りになる身内には見えない。
教師はだから横柄な態度を知らず知らずとったわけだし……。 それはこの二人の末路をどことなく感じさせも、するのだ。

兄妹であることを確認するように、「俺、亜美好きだよ」「私もお兄ちゃん好きだよ」と言い合う二人は、むしろ墓穴を掘りあっているとしか思えない。
テレビをともに見ながら黙ってヨーグルト?を食べている二人は、テレビなど目に入っていない様子に、どうしても見えてしまう。
亜美は、ヒロシの部屋に「ここで勉強させて」と入ってくる。何気なく妹の勉強を背後から見つめるヒロシ。パジャマ姿同士の二人。ギリギリの距離感。「……何?」と牽制する亜美。
この距離感に既にヤバいと思う。もう触れたくなるもの。触れずにはいられないもの。だって、だって、だって……。
そして、亜美が熱を出して学校を休んでしまう。その時が、来てしまった。

妹につきっきりで看病をする兄。口元までおかゆを運んであげる。兄が妹にする行為としては既にギリギリ。いや、超えているとも言える。お兄ちゃんは妹にここまで、するだろうか……。
何か、モヤモヤをまぎらわすように、夏の暑さのせいにするように、缶ビールをあける兄。そしてそのままうたたねしてしまって……彼もまた、熱を出してしまった。
毛布をひっかけて、フラフラと、寝ている妹のベッドに近寄る彼。
「……俺のこと、どういう風に好きなの」
ヒロシが熱を出したのは、確信犯だったのかもしれない。
熱でも出さなければ、この言葉を口にすることさえ、出来なかった。
つまりは、結果的にこういう関係になっちゃうけど、そしてこういうアダルトアニメシリーズが元ではあるけど、最初から禁断のセックスにノリノリっていうんじゃなくて、常識はあって、だから妹への思いに苦しんでたんだ。
バスルームの妹に声をかけて、ドアを開けられなかった、ていうようなシーンもあった。
でも、その時「入っていいよ」と言った亜美の、その姿は……多分。
女の子の方が、先に覚悟が決まってたり、するのだ。
ベッドに横たわりながら、こちらを向いた亜美は、兄のTシャツの胸元をつかんで引き寄せた。
もう、止まらない。ベッドにもぐりこむヒロシ。最初は仰向けで天井を見上げてる。横を向くと、妹もこちらを向いている。吸い寄せられるように求め合うキス。もう、止まらない……。

もう、そうなると、本当に止まらない。大学をサボりっぱなしのヒロシは亜美が学校から帰るのを待ちわびている。帰るなり、全裸(!)で出迎え、「おかえりー!」と……玄関のドアを開けっ放しにして、居間に連れ込んでのセックス、週末は沢山のジャンクフードを買い込んで、ラブラブに過ごす。
しかし、そんな風に二人がイチャイチャしているところに、両親が帰ってきてしまった。
あられもない姿で抱き合っている二人を最初に見つけてしまった母親。
時が止まったようになったそのシーンから、いきなり場面は飛び、二人は逃避行へと出かけている……。

全裸で玄関まで走り出るなんていうシーンもありつつ、セックスシーンは総じて、いい感じに上品に切ってる。 家でのそれも、逃避行先の旅館でも、画面から半開きに開けられた部屋からのぞくチラリズムはドキドキさせつつも、決して生々しくない。
千春嬢はバックショットは結構ダイタンながらも、まあ、正直露出はそれほどない(お約束の部分はしっかり隠れてる)んだけど、だからと言ってワザとらしい隠し方じゃないし、そのことに欲求不満(?)もたまらない、実に上手いカッティングなのだ。
でもそう感じるのはあくまで本作が、「くりいむレモン」としてのアダルトチックなものではなく、兄と妹の気持ちのせめぎあい、という部分に主眼を置いている胸キュンものだから、というのを観客に既に納得させているから、なのよね、ヤハリ。

逃避行に出てから、そこは温泉街だったりするんだけど、当然旅行を楽しむ、なんて雰囲気じゃなくて、ただただ、何か惰性に、逃げるという積極的意思もなく、何となく車を走らせている、という雰囲気である。
その逃避行の最初の晩、亜美は兄からの求めをやんわりと拒絶した。
「俺が出て行くよ」そう言って夜の温泉街を飛び出した彼だけれど、何を決めるとも出来ずにいた。
その後、黙って車を走らせる二人。
怪しげな秘宝館もどきに寄ってみたり。でも、気は晴れないし、何の目的があるわけでもない。
……彼が、ひとり立ちしている社会人だったりしたら、まだ良かったのかもしれない。大学生、まだまだ親のスネをかじっている身分、しかもその大学だってロクに行っていない。家を出ると言ったって、その身分のままじゃ、何を説得できるというわけでもない。何より……妹である亜美に対して、ただ好きだという気持ちが、彼女を守る力があるものなのか。
亜美は女の子だから、不安な感情の方が男であるヒロシより先に立って、あの時、拒絶したんだと思う。こんな状態でエッチなんて出来るの?エッチしたいだけなんじゃないの?……そんな気持ちが、彼女自身がどこまで感じていたか判らないけど、なんだか聞こえてくるような気がしていた。
ただただ走り続けるだけの逃避行、突然亜美が何の脈絡もなく泣いてしまったのも、そんな思いを感じてしまうのだ。

ポーカーフェイスで、セックスでの表情だってなんだか淡々としてて、笑うことさえ殆どなかった亜美が、この時突然見せた泣き顔は、急に生々しい少女を感じさせてドキリとする。
それこそセックスの時よりも、お兄ちゃんとのこの先を、お兄ちゃんへの思いを、彼女が急に一気に受け止めてしまったような、そんな気がして。
お互いの気持ちを確かめ合ってからは、もうただただ求め合っていた。
それまでの10数年間の重荷がせきを切ったように……。
でも、それは、やってしまっていいことだったんだろうか?
お兄ちゃんは、私ほど私のことが好きなんだろうか?
この先、どうなってしまうんだろうか?どうしたらいいんだろうか?お兄ちゃんは、どうするつもりなの?それを考えているのだろうか?
その中に、私は入っているんだろうか?
「俺が出て行くよ」その言葉の中には……?

ヒロシはそこまでは考えていなかったとは思うけど。考えることさえ出来なかったとは思うけど。男なんてまあ、特にこのぐらいの年じゃ、そんなもんである。
どこかオマヌケで、かすかな笑いをもたらすようなラストシーンには、この物語に対する監督の照れも感じさせるけど、それ以上に……やはり二人の決定的なすれ違いを感じさせずにはいられない。
いつか、お互いに愛する人を見つけて結婚して、そしてあの時の、許されないことをしてしまった日々のことを、不思議に甘酸っぱく思い出す……そんな、気がどうしても、してしまう。
どこか不思議にノスタルジックな空気を感じてしまう。思えば、最初から。

いやあ、実に吸いたくなる唇の村石千春嬢である。題材のわりには、あまり見せてくれなかったのは残念だったけどね……いや、「プッシー……」のむっちり太ももと合わせて、充分これからの期待を抱かせるんじゃない?
それにしても、「くりいむレモン」がこれだけの切ない物語になってしまうとはね!★★★★☆


クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ
2004年 分 日本 カラー
監督:水島努 脚本:水島努
撮影:音楽:
出演: 矢島晶子 ならはしみき 藤原啓治 こおろぎさとみ

2004/4/28/水 劇場(有楽町日劇)
毎年恒例の春の劇場用新作、今回はかなり、逡巡。去年、いきなりスクリーンのクレジットで原監督から水島監督にバトンタッチをしたことを知った衝撃、そして、やはり奇跡の原監督のあとはツラかったという事実が……。どうしようかなあ、と思ったのだ、だから今年。だって、そういう意味では、私は原監督のファンで観に行ってたのかもしれないと、思ったのだもの……正直、テレビアニメの方は観ていないし。でも水島監督だって、その傑作を数々生み出した原監督時代にずっとついていた人なわけだしなあ……と思って足を運んだ。

クレしんは大体、錦糸町でコミコミの時に観てたんだけど、有楽町のせいだったのか、平日のせいだったのか、えっらくまあ、客がいなくて……何かそれだけで寂しくなってしまった。でもやっぱり、落ちてきているのかなあ、10年を突破して、アニメはどんどん新しい劇場用新作を投入してきていて、何よりクレしんはもともと大人向けコミックスから出発したものだからなあ……などと。その点でいうと、あの傑作「オトナ帝国」と次の年の「戦国大合戦」でいわゆる一般的な認知度を獲得していろいろ受賞なんかもして、で、春日部市の市民登録までされちゃって、何ていうか、そういう最初のシニカルなイメージがかなり払拭されたところで原監督から水島監督にバトンタッチされたもんだから、ものすごく一般的目線というか、子供目線というか、そういうものになってしまった感が前作、あったのだ。

でもそれはもしかしたら、原監督はこういう題材を与えられながら実に作家的才能を発揮して“しまった”監督であり、水島監督はそれに追随しなかったということなのかもしれないけど……ただ、残らない感じ、はどうしてもしてしまう。
前作では共同脚本で参加していた原監督の名前も消え去り、今回は本当に純粋に水島監督の脚本、監督となった。そういう意味では、水島監督の正念場ということだったのかもしれない。
印象としては、前作よりは楽しめた。ただそれは……前作は、原監督じゃない!というショックの状態で観てしまっていたから……公平なジャッジとは言えないかもしれないけど。

映画である、ということ、そういう要素をめいっぱい使う。そういう映画へのオマージュは原監督の時に折々見られ、それがクレしん劇場版のキーワードみたいになったこともあったけれど、今回はそのものずばり、映画に入り込んでしまうんだから!これは何か「カイロの紫のバラ」とか(あ、あれは逆か)、そういう映画ファンなら一度は夢見る題材であり、しかも入り込んだのは西部劇。なぜかいるのは全員日本人なんだけど(笑)。しかも新しく入り込んでくるのは全員春日部市民(笑)。そのあたりは実にクレしん的。

最初にしんのすけたちが遊んでいるのは「リアル鬼ごっこ」オトナの世界の設定をたくみにモノマネしながら追いかけっこするそれは、そうそう、こういう大人社会をおちょくりまくるのがクレしんなのよね、と嬉しくなる。
だけどそれはホントにちょっとで、その後はひたすら正義のエンタテインメントなのだが……。
でも、しんのすけたち春日部防衛隊と、しんのすけの家族たちが西部劇の中に入り込むこととなる、路地の裏にあるつぶれてしまった映画館、というのはかなりグッとくるものがあった。
誰もいないのに、そのスクリーンに延々と映し出されている荒涼とした砂漠……。
確かに、思わず引き込まれて見てしまう。そして彼らはスクリーンの中へと吸い込まれてしまったのだ。

どんどんなくなっていってしまう古きよき映画館と、古きよき映画。
完結されないまま放置されたその映画を流し続ける放置された映画館は、寂しくて寂しくて、誰かに来てほしくて、来てくれた人たちをみんな捕まえてしまう切ない幽霊のようで……このあたりはやっぱりオトナに訴えかけるものが、あるのね。でもそれは後から考えればなんだけど。
だってさ、まあ、基本的には春日部防衛隊としんのすけ家族の活躍物語なわけじゃない。それなのに、それなのにさ、何でその中にシロがいないのよ!
シロを外すなんて、ヒドいよ。シロだって野原家の一員じゃない。市民登録にだって備考にだけどちゃんとされてたし、今までだってちゃんとお供して活躍してたのに!!
もう、この時点で私の気持ちは40パーセントは減じてしまったのよ。シロおー。

去年の作品に落胆(ごめんなさい)してから、ずっとずっと考えていた。何でだろう、どこなんだろう、違うのは、って。アニメでしか出来ない破天荒な設定やスペクタクル、大人が思わずクスリとなる場面も、前作にだってなくはなかった。でもやっぱり原監督時代とは明らかに、違ったのだ。
残るものがあるかないか、じゃあ、その残るものって、何だったんだろう、って。
それはあいまいな問題だし、ひと言では言えるものじゃないけれど、その中のひとつとしてあげられるものがあるとすれば、言葉、なのかなと思う。
「オトナ帝国」での「懐かしいってどういうことだろ」とか「大人になりたいから」という台詞、「戦国大合戦」の「お互いが好きでいればいいんだよ」、あるいはこんなしんみりしたものではなくても、「温泉わくわく大決戦」で、「ああ、12億円の戦車が……」と自衛隊員たちがボーゼンとしたり、「ブタのヒヅメ大作戦」で、ぶりぶりざえもんが尻をなめろと言ったのに対して「……キスでいいか」と返したり。こういう、頭にこびりついて離れない台詞が、本作、前作と、なかったんだよね……面白く出来てはいるんだけど、まあまあ面白かったな……で終わってしまうのはそのせいだったのかもしれない。

しんのすけがこのスクリーンの中で出会う、つばきという少女がいる。自分は臆病なんだとその子は言って、確かに控えめな子ではあるんだけど、困っていた野原一家を助けてくれるし、最後の最後には勇気を振り絞ってボスに反抗し、春日部市民たちをこの世界からふるさとの春日部に帰してあげることに尽力してくれる。
と、書いただけでもはやネタバレだけど、このつばきはしんのすけたちのような、この世界に取り込まれてしまったわけじゃなくて、もともとこの世界の住人だったのだ。

そのことをこの子自身が最初から知っていたのかは判らない。知っていたのかもしれないし、最初は本当にただ自分が春日部市民だということを忘れてしまっていると思い込んでいただけだったのかもしれない。でも、クライマックスの時には絶対、彼女はそのことを判っていた。自分にホレこんでくれるしんのすけが、確かにコイツはマセガキだけど、でも生身の人間として好きになってくれたことが、きっと嬉しくてたまらなかったに違いないのだ。
彼女の行為は、だから、自分の存在を完結させてしまう、エンドマークをうってしまう、つまりは……自ら死を選んだに他ならない、んだよね。
それでもかまわないぐらい、彼女はしんのすけが自分を好きになってくれたことが嬉しかったんだし、だから最後……しんのすけが、帰ってきた春日部の世界につばきがいないことに取り乱して、つまりはらしくないしめっぽさで終わるのも、何だか切なく許容できてしまうのだ。

しんのすけより一足早くこの世界に取り込まれてしまった春日部防衛隊の四人の中で、たった一人だけ、春日部のことを覚えていようと努力しているのがボーちゃんであるというのは、やはり、という感じである。ボーちゃんはやっぱ一番イイよなー。彼は何というか……言ってしまえば哲学者ね。常に今の状態を凄く冷静に分析している。しんのすけが「さすが、ボーちゃん!」と尊敬する存在なのが、彼なのであり、しんのすけが尊敬しているのって本当にこのボーちゃんだけだよね?彼だけがこの世界でも誰にも頼らずに、荒野の果てにテントを張って唯我独尊で暮らしているのは実に判るんだよなあ。
そういう意味では長いものにまかれてしまった風間君や、ネネちゃんの尻にしかれているマサオくんといい、実に皆キャラが出ている。それって何か……彼らの将来の姿も透けて見えたりして……。

この世界で春日部に帰ろうとあがいている“映画オタク”のでぶりんおっちゃんが、イタい。「自分で言うのはいいけど、他人からオタクと言われるのはイヤなんです」と言い、何か妙にタフでへこたれなくて、で自分だけでどんどん行っちゃって……とこう書くと、それほどネガティブに描かれているわけでもないんだけど、ヨメさんがいるつもりがただ忘れていただけで独身だったり、解説ばっかしててぜっんぜん役立たずだったりと……イタいんだよね。この造形もさあ、でぶりんでいつも小汗をかいているような感じって、いかにもじゃない?映画ファンとして(ぜったい、オタクなんて言わない!)、観ててツライのよ、彼は……。

ツライのは、でも、最もツラかったのは、みさえだったかもしれない。彼女は前作ですでにツラかった。前作も本作もやたら自分の女性的魅力をアピールするキャラになってるのね。今まではそんなことなくて、いかにもうでっぷし母さんで、それをとっさにゴマかす、って程度だったのに、ムリなお色気で周りを寒くさせるキャラになっちゃってるのね、ここ二作で。それがホントに寒くて寒くて、同じ色気ナシ女としてはこれもツラいんだよなあ……観てて。

スーパーヒーローになれるパンツを身につけて、悪玉ボスのあやつる巨大ロボットとの死闘を繰り広げる春日部防衛隊。このロボットの出現は……うーむ、連綿と続くSFアニメの影響を感じるなあ。あるいはこの巨大ロボットに再三つかまって、その手に握りしめられるつばき、という画はいかにもそのまま「キングコング」であったりもするのよね。

そして特別出演の、ウッチャン率いる「NO PLAN」。しんのすけに「ナンチャン!」と言われてキレるウッチャンをアニメで見られるなんて、嬉しいけど、嬉しいけど、エンディングテーマの歌が……ヘタなんだよお!あーん、「オトナ帝国」で小林幸子の歌に涙したことを思うと……これまたツラい!!★★★☆☆


黒部峡谷探検
2004年 24分 日本 モノクロ
監督: 脚本:
撮影:白井茂 音楽:
出演:

2004/2/13/金 東京国立近代美術館フィルムセンター
“山岳映画”とか、“山岳撮影の分野”っていうカテゴリが今の時代じゃピンとこないけど、いわゆる記録映画のさきがけとしてこれだけの圧倒的作品を残しているというのはやはり驚異的。撮影者の名前しか残されていないということは、このカメラマンの白井茂が実質的に監督の役割を担っていたわけで。そういう意味で、この仕事は白井カメラマンの功績を残す意味合いが大きい。

黒地に白線で描かれた地図に、進路を書き線で示したりする手法も、無声映画の時代だもの、かなり、先進的だったに違いないし、実際、サイレントだけにとてもシャープな印象。そして登山パーティーと一緒に踏破していくカメラは常に冷静に苛酷な自然環境と、そこを淡々とゆくパーティ−を映し出している。ホント、やけに冷静に!だって、この場所って、ちょっと凄いよ。まあ、激しい水の流れとかはね、映し出してもよくある画ではあるんだけど、その中を棒っきれにしか見えない枝を渡しただけで(しっかり水没してるっちゅーの)渡っちゃったり、切り立った崖をロープだけを頼りに、それにぶら下がるようにして渡ったり。ここにはそこここに温泉がわいているんだけど、いくら温泉だからって、あの急流をすぐ横にしてノンビリ湯につかってるバアイなのかあ?案外平気で流れの早い川の中を歩いたりして、お、お前ら、流されるっちゅーの!見ているこっちがハラハラしちゃう。む、昔の人って、ワイルド……。

そして、水の流れとか温泉とかで安心?してたら、今度は雪景色よ。しかもそこでも彼らはなんとムチャなことに!川(だか池だか判んないけど)に浮かんだ氷に乗って、向こう岸に行くのよ!!おいおい!氷が水の上に浮かんでいるってことは、それって、溶けかけてんだろが!あ、危ないなー、それを冷静に映してるカメラもどうよ!す、凄すぎ……。

……って、記録映画がどうの、カメラがどうのというよりも、このパーティーのムチャさ加減を見せられているって感じだけど……。でも、どっちにしろ、凄い画には違いない。確かにカメラの力を感じる。ほとんど暴力的なぐらい。★★★☆☆


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