home!

「に」


2005年鑑賞作品

ニライカナイからの手紙
2005年 113分 日本 カラー
監督:熊澤尚人 脚色:熊澤尚人
撮影:藤井昌之 音楽:中西長谷雄
出演:蒼井優 平良進 南果歩 金井勇太 かわい瞳 比嘉愛未 中村愛美 斎藤歩 前田吟


2005/6/9/木 劇場(東銀座 東劇)
この監督さんの名前、何か見た覚えがあって……いや、この間の「TOKYO NOIR」は観てないんだけど、それ以前に、どうにも見た覚えがあるなあ……と思ってたら、「HOBOS」の監督さんだったのね。あ、その後の「RAINBOW」は観てるや。あれはちょっと……。いやー、そーか、そーか。今はなき中野武蔵野ホールで観た「HOBOS」は、行ったら突然主人公のTSUNTA氏のミニライブがあったりして、映画自体もドキュドラマみたいなスリリングさが面白くてかなり印象に残っている。ざくっとした感覚が気持ちのいい映画だった。
それ以降は映画ではぜんぜん名前を聞かなかったけど、Vシネなどをやっていたのかあ……そーか、そーか。
でもこうして久しぶりにそのお名前を見て、東劇みたいなデカい劇場にかかって、しかも愛しの蒼井優嬢初主演映画で、沖縄の美しい島、竹富が舞台で、なんだか気になるタイトルだったりして、かなり期待を抱かせはしたんだけど……。

うーんとね、こんなことを言うとホントミもフタもないんだけど、私このオチがね、オチなんて言ったらもうそれこそ失礼なんだけど、でもオチだよな……このオチが、なあんか、あんまり好きになれなかったのね。
で、この映画はそりゃあ沖縄の、それも小さな、宝物のような島が舞台で、そこでの人々の優しさこそがこの物語のキモであるんだけど、でもやっぱりこのオチありきって部分があるから、そこでうーん……とか思ってしまうと、やっぱりキビしいのよね。
いや、このオチというのも、その人々の優しさという部分に含まれるのかもしれない。でもそういう解釈なのだとしたら私はますます、うーん……と考え込んでしまう。

もうここはオチバレサイトだから早々に言っちゃう。実に10年以上、何か事情があって東京から帰ってこれないと思っていたお母さんが、実は別れてすぐに亡くなっちゃってたってことなんである。お母さんはそれを一人娘の風希に知らせずに、毎年誕生日に一通、それはそれはあったかい手紙が届いてたんだけど、それは自分が死んでしまうと知った彼女が、娘の風希が二十歳になるまでの分を書き溜めて、毎年毎年送ってもらえるようにしていたのだ。
なぜそんなことをしたのかっていうと、このお母さん自体がやはり風希と同じぐらいの幼い時に母親を亡くしてて、自分が言ってほしかった母親の言葉を、風希に残したかった、そして何より、大人になるまで風希の中で生きて応援したかったんだと言うのね。
で、そこんところが当然泣かせどころで、劇中の蒼井嬢もひたすら涙を流すんだけど、私としては根本的に納得できないもんだから、ちょっと引いて見てしまう。

……だってさ、これってちょっと親のワガママじゃん。大人になるまで娘の中で生きていたいなんてさ。
全てを悟った風希が東京から急いで帰ってきて、バッと部屋に飛び込んだ時に見たのが、今まではお父さんの写真だけだった、その隣に同じようにモノクロのお母さんの写真(双方ともにモノクロだってのも、どうかしらん。当然カラーの写真、残ってるはずだと思うんだけど、こういうあたりの小道具の演出が白々しく思える)があるのを目にする。ちょっとね、あれはホラー並の怖さを感じちゃったよ。ああ、そうだったんだ、というよりは、うわッ!こえー!みたいな。
それはやっぱりそこに、私自身があまり納得できない理由を感じたからじゃないかなーと思うのね。

お父さんが先に死んでしまっていたということもあるんだろうけれど、親の死に立ち合わせずに、実は死んでいたなんて子供にとってはザンコクのような気がするし、幼い頃に死んでしまって忘れられるのが怖かったのかもしれないけど、お母さん自身だって自分の亡くなったお母さんのことを忘れたりなんてしなかっただろうし、自分がほしかった言葉を残したいんなら自分の死を隠さなくても、手紙だけを毎年届けるという方法だってあったと思うのね。
死んだことを隠している、というのが、そこんとこが、まあ重要なオチであるそこが、娘への思いというのをまるで感じられなかったんだもん。手紙はまあそりゃ……ね、思いを書き連ねてはいるんだけど。でもそれだって、自分の思いだけを届けてるだけで、娘からの問いかけには当然応じられないわけでしょ?娘は当然返事を描きたいと思っているはず、それでいて死を隠すってのはどうもなあ。

しかもそのオチをミステリもかくやって感じで隠しに隠し通して、こんな風に、どうだ!って感じで遺影を並べたりして、んでその後、これまで毎年届いていた手紙を読み返しながら、そしてその手紙を書いている母親をカットバックしたりなんぞしながら、子供の頃の風希の様子を回想したりしながら、蒼井嬢が夕暮れの海岸でぼたぼたと泣いているシーンがね、泣かせどころでありクライマックスだから判るんだけど、ものすごく、しつこい。
しつこく感じるのは、私がそんな風に疑問を持っちゃってるからだろうな……。
んでね、その前のシーンで、傷ついた彼女を察知して、彼女を勇気づけるために島の人たちがずらりと並んでそれぞれに贈り物を手にしてくるでしょ。これぞ竹富の、困った時は助け合う人々の優しさ、って感じで、その優しさに触れて風希も涙を流し続けるんだけど、これもね……だんだんプレゼントの山に囲まれた状態になっている風希っていうのがね、うーん、なんだろ、モノ攻撃かい!って思っちゃうというか、しかも劇中には全然出てこないような人たちが次々と訪れるでしょ。スタッフさんが並んでんのかなあとか思っちゃったりして、どうも気分がそがれるのだ。
それは多分、私が、こんな風に大勢の人からなぐさめられるということに、それってなぐさめられるもんかなあ、などと思っちゃうせいだろうと思う……これは私の人間的資質の問題だな。私はほっといてほしいタイプだからなあ。
この竹富の助け合いの精神というのは、一方で夢を追いかけたい風希を縛りつけていた時期もあり、そういう対照はなかなか上手いと思うんだけど、やっぱりそれがイイわね、っていう落しどころがこんな風な形で提示されると、納得しきれないものを感じちゃう。

風希は亡くなったお父さんがカメラマンだったこともあって、幼い頃からその遺品のカメラを手に写真を撮ってる(ほら、亡くなっちゃってても、親は子供の中で生き続けてるじゃない)。こういうのも血というものがあるのか、なかなかイイ写真をとって、レイラねえねえのビーチショップで観光客への売れ筋も上々である(でも、ポストカードにもなってないただの写真が一枚300円はちと高いと思うが……)。
東京に行って本格的に写真を学びたいと思う風希なんだけど、東京に行くということ自体が、お母さんを探しに行くのかと思われかねないし(それはきつく止められてる)、たった一人残されてしまうおじぃのことも心配で、それがなかなか言い出せない……というか、半ば諦めてしまっている。
おじぃはそんな彼女の気持ちを知ってか知らずか、風希の高校卒業後の進路を勝手に決めてしまっていて、彼女の、東京に行って写真を学びたい、っていう希望を何が何でもダメだ!とハネつけるのね。

この、青春期に、特に地方の若者なら誰もがぶつかる重要なシーンで、風希がその夢のことを押し通さずに、「おかぁのこと教えてよ!」と話がすりかわってしまうのが、あら?と思っちゃうのだ。
そりゃあ、この物語のテーマではあるけど、ここであんたが頑張って言おうとしてたのはその話じゃないだろう……大切なトコだったのに。
そう、大切なトコなのだ。彼女にとって写真への夢というのは。でもその描写が、このお母さんの謎解きにジャマされてどうも伝わってこない。亡くなったお父さんの血をついでいるわけだから、こっちだって彼女にとって親の思いをくんだ重要なことのはずだし、なんたって彼女自身の夢のはずなのに、なんか真摯に伝わってこない。
まあ、「恋愛寫眞」よりはマシだが……カメラを構える蒼井嬢はカワイイしね。

それを最も感じるのは、風希の東京での修行風景である。
レイラねえねえは東京でモデルをしていた関係で、風希に東京のカメラマンを紹介してくれるのね。んで、そこのスタジオで住み込みで働けるように話をつけてくれる。
そうして風希はこの竹富から旅立つ。みんなに見送られて、レイラねえねえからは「カンタンに帰ってきちゃダメだよ!」と言われて。
でも、東京に出て、こき使われて、くたびれはてる風希が弱音を吐くのが早いんだよな。あったかい島で平和に暮らしていたせいなのか、最初の頃の彼女には集中力がなく、仕事覚えも悪い。だからこのキビしい(ってほどでもないんだけどね、実際は)崎山から、「安里!いつになったら覚えんだよ!」と怒鳴られてばかり。でもこの調子じゃ崎山がキレるのも仕方ないよなーなどと思ったり。

19歳の誕生日に、彼女の幼なじみのカイジがお母さんの手紙を持ってきてくれる。那覇の大学に行ったカイジは、「そんなに行きたくもなかったし、牛のことも気になって……」と大学を辞めてしまったんだという。なんというイイカゲンナ……「だからって、風希にも竹富に帰ってこいって言ってるんじゃないぞ」そりゃー、そんなんで言えるかってーの。
「そんなに行きたくもなくて」大学に行った、っていう時点で私はなんとなく、そんな台詞を安易に言わせちゃうことにちょっとムッとしたんだけどさあ。
まあそのことはいいや。大切な誕生日も忘れていた風希は、「私も竹富に帰ろうかな。時間ばっかり過ぎていっちゃって、私ここで何やってんだろうと……」と言うんだよね。こんな弱音を吐くのは早すぎるし、そんな言うほどの状態を味わっているとも思えず、このあたりは甘すぎるなあと思っちゃう。
それに、彼女が優しさに触れるのが、竹富の人々オンリーだっていうのが……それは逆になんか甘えのように映っちゃうんだよね。東京での人々は、まあ軽く友達になる女の子(風希の前にアシスタントしていた)はいるけど、心の中を話し合えるほどの友人じゃないし、何より崎山がまったく彼女にメンタルな部分での指導や、話をしてないっていうのが、えー?こういう描き方ってないんじゃないのと思っちゃう。これじゃ、ただ住むところと仕事を提供しただけの、キツい人(ってほどじゃないんだけど、傍目には)だけって感じなんだもん。

彼女が優しさに触れるのは竹富に帰った時だけであるなんてのが甘いのよ。それが修行だってことなのかなあ、でもそれじゃかえって甘いって気がする。東京での人間関係を築けてこそ、写真家として成長できるんじゃないの?東京での人間関係がどうでもいいみたいに映るのが、どうも気になるんだよね。
まあ、渋谷の小さな郵便局の局長さんである前田吟はステキなんだけどさ。彼こそが、お母さんの手紙を送り続けてくれた人物。えーと、また話が飛ぶんだけど、風希がカンタンに会いにいけないところということもあって、例えば沖縄周辺とかじゃなくて東京という場所を選んだのだろうか。同じ郵便局員同士だけどどこで知り合ったのか、おじぃが彼に頼んだらしく、どうやら顔見知りなんである。
母親の名前だけが記されているその手紙を、消印の“渋谷第二”から郵便局を探り当てた風希。飛び込んできた彼女に、毎年送り続けてくれていた局長さんは即座に判ったんであろう、「風希さん?」と名を呼ぶんである。それは風希の二十歳の誕生日。14の誕生日の時に、二十歳になったら全てを話すと書いていた母親、19の誕生日の手紙に、次回の待ち合わせ場所を記していた。井の頭公園の弁天橋、と。でもそこで待っていたのは、おじぃだったんだよね。風希はそれで何かを察してしまったんだろう、何も言わないおじぃを置いて、この郵便局に飛び込み、真実を知ってしまうわけ。
んで、その後彼女は仕事をほっぽりだして急ぎ竹富に帰り、オチを知ってしまうわけであって……。

渋谷なんだけど、路地裏の、古い小さな郵便局、というのが、最初に風希が渋谷という消印だけで訪れた大きくてピカピカのでっかい、これぞ東京!ってな郵便局と違って、何か郷愁をそそるものがあるんである。竹富の、おじぃがやっている郵便局は民家の縁側みたいに思いっきり開放的でそれはそれで全然違うんだけど、この小さな郵便局から手紙が出し続けられていたっていうのは、そして局長さんが味わい深い前田吟というのは、なかなかに感慨深い。
風希は手紙を配達している自転車を見かけると(今時、しかも東京の渋谷で、自転車で配達もなかなかないだろうけど)ついつい見入ってしまう。おじぃを思い出していたんだろうな。
郵政公社が泣いて喜びそうな、郵便屋さんの美しい光景なんである。

話しを戻します。ほんっと、話が飛ぶなー私……でね、風希はあんなに毎日くたびれ果てて、自分の写真も撮ろうという気も起こんない状態で、そんな時間もないってな感じだったのに、その元アシスタントの女の子に、自分の写真も撮らなきゃダメだよ、と言われて、あっさりと撮り始めるのもあら?って感じである。あっさりと、イキイキと動き回り始めちゃうんである。……あんた、そんな時間も気力もなかったんじゃないんかい。
そんな感じなのに、写真誌に作品が入賞した時「この写真を撮れたのはおかぁのおかげ」などと言う。そう思ってんなら最初から自分で行動起こすんじゃないの……?
なんか、いろんなところで、いちいち引っかかっちゃうんだよなあ。それにね、この友人の女の子が言うじゃない。「何でそんなに頑張れるの?」って。……そんなに頑張ってるかなあ。

それにしても何で東京だったんだろう……お母さんが、東京の井の頭公園の桜の散る風景は、沖縄で憧れ続けていた雪のようで、風希にも見せてあげたかった、と記しているんだけど、お母さんがそれほど愛着を持っていた場所が東京にあるというのがよくわかんない。つまり東京に彼女は住んでいたことがあるの?死んじゃったカメラマンのダンナと住んでたのかなあ……風希は竹富で生まれ育っているし、そのあたりの感覚にどうも矛盾を感じたりする。
お母さんが入院していると思しき東京の病院の窓の外には雪が降っている。うーん、それともお母さんが入院していた時に行った場所ということなんだろうか……こんな病気であちこち歩きまわれるのかな。
砂浜で白い砂をさらさらと落としながら、雪みたいね、と言っていた幼い風希とお母さんのシーンから始まるから雪もまた大事なファクターに違いないんだけど、実際に風希は雪を目にすることはなく、雪に憧れて東京、というのもヘンな話のような気がするし、結局雪が桜にすりかわっちゃってるから、またしてもあらら?なんである。
まあ、砂→雪→桜、のつながりは美しいんだけどさ。

なんかあっちこっちに話が飛んじゃうんだけど、沖縄アクセントの蒼井優嬢はそらー、最高にカワイイんである。今まで聞いた中で一番可愛いウチナー口だな。特に連発する「ありがとうねぇ」の優しい響きは最高である。
それに、彼女の高校生時代として、こんな制服まだあんのと思うような、アナクロなセーラー服姿を披露してくれる。イヤー、イイネイイネ実に。雪のように白い肌と、薄紅色のふんわりした唇と、目の下のホクロと、結い上げても小さくまとまっちゃう細いサラ髪と、ああー、やはり最強の美少女女優である。たくましさのある宮崎あおい嬢なぞにはない(いや、あおいちゃん大好きだけどね)、この繊細さが作品世界にピッタリなんだよな。
母親は、自身の16歳の初恋を娘と重ねて手紙を書き、その頃彼女もまた初恋をしている。母親と同じようにその思いを相手に伝えられずに終わる。そのアナクロなセーラー服姿で校門に立ち尽くすとゆー、昔の少女マンガみたいな風景が彼女だと実に似合うんだな。

彼女のお得意でおじぃも大好きなニンニク漬けが実にウマそうで、あれはレシピをサイトあたりに改めて載せてほしいところだが。って、こんなことでシメかいな、私も……。★★☆☆☆


女人哀愁
1937年 74分 日本 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 脚本:成瀬巳喜男 田中千禾夫
撮影:三浦光雄 音楽:江口夜詩
出演:入江たか子 伊藤薫 堤真佐子 御橋公 初瀬浪子 佐伯秀男 北沢彪 清川玉枝 沢蘭子 大川平八郎 水上玲子 神田千鶴子

2005/9/30/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(成瀬巳喜男監督特集)
1937年って、何年前よ、というぐらい、まあ古い映画で、こないだ観た成瀬作品は54年だったりするから、この巨匠の息の長さと、そしてその内容の常に完成度の高さにはホントに驚かされる……やはり現代にまで語り継がれる人なんだよな、と。
そう、もう役者のメイクや、ファッションや、あの頃の日本人の顔、なんかはもう一見して、古い映画!なんだけど。そう、驚いたの。女性はそんなに思わないんだよね。昔っから女優は美人のお仕事みたいなところがあるから、今も昔も美女が跋扈してるわけだし。でも男性の顔の変わり様ときたら、おそらく美男子の定義も美女のそれより時代でかなり違うと思うし、ほおんと、昔の日本人の顔、なんだよね。
まあ、それはおいといて……。
だから、一見して確かに、ホントに古い映画なんだけど、もう、スリリングなの。ドキドキするし、ムカー!とするし、すっごく感情揺さぶられて、驚いちゃうの。
人の感情というものが、いかに普遍なものか、成瀬作品によって気づかされるんだよね。そして多分、それが出来ない作り手は、時代のせいとかに、しちゃうわけ。
時代なんて、ホントに、全然関係ない。こんなに感情を揺さぶられる作品、多くを共有しているはずの現代だって、そうそうないよ。そういうものを作れるかどうかなんて、時代なんてホントに、関係ないんだ。

とか言いつつ、この戦前の映画に、今もなくなることのない女性の結婚問題が、こうまでヴィヴィッドに描かれていることには本当に驚く。
やっぱりさ、現代に生きる私たちとしては、昭和の始め頃の女性なんて、もう家庭の中で立ち働くしかないってイメージなわけ。その頃の女性の仕事はダンナさんに対する内助の功であり、子供を産み育てることであり、ダンナさんの家庭に完全に入って、そっちの家族になってしまうことなわけ。
でね、そんなの、冗談じゃない!と。そんな錆びついた結婚制度は女性を人間扱いしてない!って女たちは怒って、努力して少しずつ、少しずつ、地位を改善していったわけじゃない。でもいまだにそれは完全にはなされておらず、結婚によって生じるこうしたデメリットはいまだに女性の側にしかないわけで。
でね、それをね、だから、こんな昭和の始め頃からしっかりと問題視された映画が作られていたことに、ビックリしたのよ。

ヒロインの広子は自らを古い女だと言う。仲の良い従兄弟の良介も彼女に対してそう言ってはばからない。広子は実は良介のことを好いているんだけど、この時代に好きな人と首尾よく結婚できるなんて思ってない。お母さんや弟を楽にさせるためにも、いいところにお嫁に行くのが自分の使命だと思ってる。そういうところを良介は古いタイプだと言うわけね。
この時点で、そういう女がすでに古いと言われていることに、ちょっと驚いたりもする。でもそうかもしれない。昭和なんだし、こういう三つ指ついて、みたいなタイプは明治、大正の女とか言われていたのかもしれない。ダンスも知らないんでしょ、と言われる広子が、それぐらい知ってる、と従妹のよし子と踊ってみせるシーンなど印象的である。そう、今や、若者がダンスに熱狂し、そこでボーイ・ミーツ・ガールがあるようなモダンな時代なのだ。それこそ、半ばナンパを目的にクラブやなんかに通う現代の若者と感覚的には変わらないでしょ。

広子は決して古いタイプなどではなかったのだ、結果的に言えば。だって彼女はつまりは古い時代のように女がモノとして扱われることに耐え切れずに、しかも自分の思いをダンナにぶつけて嫁ぎ先を出て行ってしまったのだから。そもそも彼女は家でお針仕事してるような箱入り娘だったわけじゃなくて、キャリアウーマンであったわけだし。
演じる入江たか子が、ほんっとにスリリングなの。彼女、お嫁入りした堀江の家では嫁=家政婦か女中か(と本人もイトコの良介にグチっている)って感じでただただいいように使われるだけで、しかもダンナは彼女をお飾りの人形か何かのように扱って、仕事だと言いながら外で遊び回ってるし。彼女がこの堀江の家で(特にナマイキな義妹の道子に)「きれいだけど冷たい感じ」と言われるのは、自身の感情を出すことさえ、暗黙のうちに禁じられているからなのだ。堀江の家での最初のシーンなんて、すんごい本格的に日本髪結ってて、ガチガチにきちんとした嫁という中に自分を閉じ込めている広子を痛切に感じるんだよね……だって彼女、堀江の家じゃないシーン、嫁入り前に勤務してるレコード屋で接客してるところなんか、レコード屋だもん!モダンでステキだし、良介には結婚してからも息抜きで会って、その時の彼女は堀江の家では絶対に見せないリラックスした笑顔で、全然違うんだよね……確かに堀江の家で冷たい感じ、といわれるのは当たっているのだ。だってそこでは彼女は一人の人間として扱われてないんだもの。

決して、虐げられているわけではない。でもそうじゃないだけに始末が悪い。彼女は結局、便利なんだよね。お茶ひとつ入れるのもいちいち呼ばれる。まあそれぐらいは当時の嫁の仕事かも、と観てて最初は思ったのよ。でもまだ高校生の義妹ですら、女中を呼ぶように平気でお茶入れを命じるんだよ?頼む、というより、あの当然のような口調は既に命じている、でしょう。それでいて彼女に向かって「義姉さんはこんな結婚生活で幸せなの?」と聞きやがる。てめえらがそうじゃなくしているのは判ってんでしょう!義妹たちは、義姉さんのような結婚生活はイヤだとあからさまに思ってるわけだし。

お茶入れから始まってこまごまとした仕事を、休む間もなく、家中のそこここから「広子さん」「広子」「お義姉さん」と呼ばれて、家中のふすまをスートンスートン開けながら、彼女は呼ばれるままに駆けつける。日本家屋の、平屋建ての、全ての部屋がふすまで仕切られている中を、開け閉め開け閉めして呼ばれるまま駆けつける様が、リズムのあるカッティングもあいまって、彼女がいかに瑣末な用事で呼びつけられているかを描写しているんだよね。ホント、バツグンなリズム感とカッティング。この家で唯一カワイイ義弟がいるんだけどさ、まだ小学校低学年ぐらいの無邪気な子で、彼に関しては広子に対する要望は純粋になついて、頼りにしているのが判るからイイんだよね。で、広子が女中そのものに使われているというのを、この義弟が宿題を見てほしいのを再三、もうしつこいくらい他の家族の呼びつけによってジャマされることでホント上手いこと描写しててさ、つまり彼は小さいし、立場が弱いから、広子にしてもこの義弟の用事は後回しにしちゃうわけ。それが実に秀逸なギャグになってて、「しょうゆが何リットルで……」と同じ問題を問い掛ける度に何度も何度もジャマされるのには、もう観てるこっちは吹き出しちゃうの。お決まりのギャグだけど、最近みょーに狙ったギャグを繰り出してスベりまくってる映画が結構あるのを思うと、こういう基本を踏んでよねと思っちゃうよなあ。
彼の用事なんて大したことない、といつも後回しにされる、そういう意味ではこの小さな義弟もまた、広子と共有するものを持っているわけで、そりゃ彼は子供でどうする能力も持ってないんだけど、広子がダンナと言い合いになってたりするのを、遊びに来ていた広子の弟に見せまいとしたりとか、何かちょっと泣かせる行動をとったりするのよね(それもまたマセてて、笑っちゃうんだけど)。

このなーんにも判ってないダンナがいっちばんムカつくの!本当に、ほんの少しの抵抗を見せる広子にイラついて、「別に僕は怒ってるわけじゃない。君が、自分が悪いと謝ってくれれば、許してやるんだ」なあんてさ!誰が、誰が悪いって!?自分が悪いなんて露ほども思ってないってわけ!コイツが怒ったことなんて、もう、子供じみたことなのよ。広子が買い物ついでに出た銀座で、息抜きにイトコの良介と一緒に歩いてたって、それだけよ。たまたまその場面を見たダンナの同僚に彼はからかわれて頭に血がのぼったってわけなの。普段全然家庭をかえりみてないくせに、経済的に安定させてて、たまに猫でもかわいがるようにチョッカイ出す程度で、「何ひとつ不自由させてないじゃないか」とか自信満々に言うわけ!で、ふたこと目には、「君が悪いと認めてくれれば許してやる」アホかー!!!
最初は、憂いを含んだ表情を見せる程度の広子が、こういう無神経なダンナの態度が回を重ねるごとに、次第に思いつめた厳しさの表情を加えてくるようになる、のがじっつにスリリングなのよねー。こういうダンナ、っていうか男って、今の現代でも、当たり前のよーに、いるよね。女は地位を確立しようと血の努力をしているのに、男は全く変わんないんだから!

ちょっとした、ドラマティックなエピソードもあったりするの。広子の境遇というのは言ってしまえばそれこそ古いメロドラマ的なものじゃない。その広子の立場をよりヴィヴィッドに感じさせる触媒みたいな役割をするのが、義妹の洋子の恋愛沙汰なんである。広子と平行して物語の冒頭からしっかりと語られているこの洋子の恋愛は、なんたってこの堀江の家はかなり裕福なわけで(だから広子も家族のために結婚を決意したんだから)洋子は恋人の益田がカイショないことに見切りをつけちゃうんだよね。カイショないって言っても、それほどじゃない、たんに洋子が浪費癖のあるお嬢様なだけでさ、益田は、一緒にいられるだけで幸せ、というまっとうな神経の持ち主なのよ。でも洋子は自身じゃ何の努力もせずに、彼に対してなんとかカネの算段をつけろ、ショボい生活はまっぴらごめんだ、愛だけじゃ生きていけない、とロコツなんだよね。

でも益田はそんな彼女でもやっぱり愛してて、見切りをつけられても、彼女のためにと会社の金を横領することまでしてしまう。益田の懸命さを見過ごせない広子が、世間体を気にするダンナや舅、姑を振り切ってまで、益田の居場所を彼らにバラさずに、彼への愛に今更ながら目覚めた洋子にだけ、教えてやる(あー、良かった。とりあえず理解者が一人増えた)。そのことで、世間体を気にした舅と姑、そして何よりダンナが怒りまくって、広子に出て行け!と言うわけ。そう言われたとたん、広子が涙目ながら、不敵とも思える、口の両端をキュッと上げた笑顔を見せるのがゾクッとするんだあ!なあんにも判ってないダンナ、なんで笑うんだ、なんて言ってさ。これでこの家を出て行けると広子が思ってるからに決まってんじゃん!洋子の事件が勃発する前、もう耐え切れなくなった広子は置き手紙を書きかけてたんだけど、これで大手を振って出て行けるってもんでさ。追い出されたって形でもかまわない。だって広子がどんなに理由を言ってみたところで、便利な女中が一人増えたぐらいにしか思ってない彼らに伝わるはずがないんだもの。
広子がダンナに控えめながらも叩きつける台詞がキョーレツだったな。「あなたが私を大事にしているというのは、飾り物のように大事にしているだけで、お義父さまやお義母さまが感謝しているというのは、ただ私が便利だからというだけですわ」と。このダンナね、父母がお前に感謝しているのをありがたく思うべきだとかふざけたこと言ったもんだからさ、広子はもうキレちゃったわけ。いや、キレても、こう述べるのはきっちりと、冷静に述べてるんだよ。まったくさあ、そのとおりだよね。使える奴隷が来て助かったわとか感謝されるなんて、こんな、屈辱ってない。幸せになるために結婚したのに。

このシーンが強烈に印象的、というか、ほんっとに、ムカついちゃったの。義妹二人と姑、そしてダンナがマージャンをしている。義姉さんはやらないのと義妹が聞くと、あいつはこういうことは苦手みたいだと、あいつは無趣味なんだよとしれっと言うわけ。いかにも、おにんぎょさんだと、バカにしたようにさ。あんた、自分の奥さんのどれだけを知ってるの。結婚前にレコード屋でイキイキ働いてたの知ってるの。ダンスだって踊れるの、知ってるの。でもこれって、彼女の実の母親も、娘はカタブツでダンスも踊れないんじゃないかと心配したりしててさあ……。
でね、その会話の中で姑が、そういう人間も必要だよ、私は助かってるよと言うのね。一見、感謝しているように見えて、いや、本人は感謝しているつもりなんだろうけど、カットバックされる広子の表情が全てを物語ってるのよ。必要、じゃなくて、便利、ってあんたは思ってんでしょう!って。感謝とか助かってるっていう言葉で、嫁を女中化してることを正当化してるんでしょ、って。

幸せになるために結婚するっていう定義自体、新しいものなんだろうなあ……んで、広子はこの劇中、古いタイプの女として定義されてて、でも広子もこんな仕打ちにガマン出来なくて嬉々として追い出されたわけで……でも、こういう結婚のイメージや感覚って、完全にはなくなっていないじゃない。だんなの家族と暮らさなきゃいけない事態とかさ、逆はあんまりないのに。やっぱり女ってソンだよな……と思う。70年も前の事態をいまだに完全に払拭できていない現代で、いまだに女性向上とか言っちゃってさ、もう絶望的な気分になるよね。少子化もそりゃ仕方ないよ。

閉じ込められた家と、外での開放感と、全く違う表情を見せる入江たか子の女優っぷりに驚く。彼女、ほおんとにキレイで、この頃のバッチリメイクがスゴいんだけど、それも映えるぐらいにほおんとに美女でさ、それは彼女の従妹の女学生が、セーラー服着ながらこの頃のメイクそのままでタヌキみたいになっちゃってて、初々しさもなにも崩壊状態でさ、かなり悲惨だったりするもんだから。ま、でもこの従妹クンのあっかるいキャラクターはかなり救いで、彼女はしょっちゅう広子の実家に入り浸っては、広子の弟とプロレスじみたはしゃぎあいしてて、なんかそれは、広子と良介もかつてこんな感じだったんじゃないかなー、なんていうほのかな思いを感じさせたりするんだよね。
結局良介は何をどうってわけでもないんだけど、でも広子が離縁したのにもまんざらでもない様子で、でもそういう男も都合がよすぎてムカつくー!!!……結局女は男に期待しすぎるのかなあ……そういう女の性にもこんな現代になっても自己嫌悪に陥ったりして……。

それにしても、バッチリメイクも麗しく映える入江たか子、美しかったなあ。それに、離縁して、良介と仲睦まじく喋ってるラストシーンは、未来への女性の希望を感じさせるしさ。「とりあえず、また働くわ」と輝く笑顔で言うのがイイ!
でも、この21世紀の日本でも、いまだに女は日本の女、の結婚制度の中にいるんだよなーと思わざるをえないのがキビしいんだけどさ。

うー、それにしても、成瀬巳喜男、すげえ!★★★★☆


トップに戻る