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レックス・ザ・ラント/REX THE RUNT
年 20分 イギリス カラー
監督: 脚本:
撮影:音楽:
声の出演:
今回の特集には「バンドでひと儲け」「カルボナーラ」の二本が出てくるんだけど、よりその特質の面白さが生かされているのは後者の方。なんたって間違ってミンチ機に入ったレックスが(間違うあたり……)スパゲティ状になって出てきて、元に戻そうと必至になって、仲間に間違って食べられそうになったり、果ては生ゴミと間違われてゴミ収集車に入れられちゃって、しかし最終的にはドアをバタン!と開けられた、ドアと壁の間にいたレックスがその圧力でもとの姿に戻るってんだから(笑)。しかも身体にはスパゲティのあとが脳みそのキザミのように残っているという芸の細かさ(大笑)。タイトルも上手いよね。だってカルボナーラって、そういう生ゴミっぽいぐちゃぐちゃを感じさせるじゃん(うわ、もう食べられなくなる(笑))。しかし、あのうす紫色じゃ、どう見たってスパゲティには見えないけどさ。
なぜ仲間なのか理解に苦しむほど、凶暴で何でもかんでも食べちゃうようなチビ犬に皆がおびえてたり(歯っかけで妙にチンピラ風?)、ただ一人の女の子が一番強い権限を持ってて、気に入らないことがあると姉の家に逃げ出してひと瓶呑んだくれちゃうとか(顔を出さないお姉さんはもう慣れてて、妹を呑ませて掃除機かけちゃったりしてる)、妙に“人間臭い”キャラが笑える。人間の大きな手で郵便が届いたりするから、人間社会の中で暮らしているらしいのに、犬のサイズでごみ収集車が来たりするんだよね……そういうところが不条理でキュート。★★★☆☆
しかし、自分の中にそうした先入観があったせいなのかもしれないけど、やっぱり……という気分を拭えない後味になってしまった。なぜなんだろう?前半までは結構、いい感じだった。まず冒頭、あの松竹のロゴをいじる(くるりと逆さま)なんて、ティム・バートンかバズ・ラーマンみたいなシャレたことやるじゃん、などとも思ったし。写真、カメラという、独特の距離感をおいて対峙する彼、誠人と、彼女、静流の歯がゆさとすがすがしさ。私生児であるという、ちょっと陳腐にも思える静流の過去も、何かを抱え込んでいるという雰囲気たっぷりの涼子ちゃんによって、リアルすぎることなく、絶妙な甘さによってとらえられているのが良かった。彼によってシャッターが切られる彼女の写真はどれもこれも清新な魅力に満ちていて、今更ながら女優、広末涼子のフォトジェニックな魅力に感じ入ったし、カメラを構える松田龍平の、カリスマ的なオーラを持つ色っぽさは格別なものがあった。松田龍平はその若さと美しさからくる危うさ、もろさが魅力だったのだけれど、少々の試行錯誤はあったものの、彼本来の、生(き)の魅力とでもいったものが最近徐々に現われ始めて、本作ではそれがすっかり安定した存在感になっているのも良かったし。
涼子ちゃんに関しては、宣伝写真や予告編の段階から感じていたんだけれど、スクリーンデビューであった、「20世紀ノスタルジア」の頃のあのときめきが戻ってきているように感じる。彼女はあの頃からちっとも変わらない、いい意味で。彼女の独特な表情の作り方と喋り方に嫌悪を持つ人もいるようだけど、これは彼女の地。デビューの時からその独特さでスクリーンに清冽な魅力を刻み付けてきたのだ。ツクリモノではないこういう“独特”を持つ人は、後々強い、と思っている。ことに彼女のスクリーン映えは、同じ年頃の女優たちの中でも群を抜いているんじゃないかって。何たって、これだけ強烈なオーラの松田龍平と、この対照的な方向性のオーラでタイを張るぐらいなのだから。
ただ、涼子ちゃんのこうした良さが、この監督のもとで100パーセント花開いたのかと言えば、やはりそこはちょっと素直にウンとは言えないものがある。彼女、静流は後半は、殆ど出てこない。出てくるのは回想と幻想のみに限定されている。つまり、彼女は死んでしまったのである。なので後半はまともな形では彼女は殆ど出てこないものの、その存在は常に物語の隅々にまで横溢している。そうしたところは涼子ちゃん自身の存在感、あるいは演出の成功と言っていいのかもしれないけれど、実はこの後半からがこの映画が怪しくなってくるところなので、ウンと言い切れないのだ。前半の良さは、余計なところへの目配りがなかったところにあったのかもしれない。彼と彼女の位置や感情や、そして写真で切り取られる彼女そのものにまっすぐに焦点が当てられている清新さがあったせいなのかもしれない。その次々に提示される写真の良さも、大きかった。しかし、彼女が死んだと聞いて誠人がニューヨークに渡る後半から、どうもジリジリとカラーが変わってくるのだ。それは、私があの「溺れる魚」でイライラした、あのテイストがじりじりと、入ってくるせいなのである。
この堤監督というのは、何だか自信満々だな、と感じる。「溺れる魚」でも無意識下でイヤだなと思ったのは、この妙な自信にあったように思える。こういうのがイヤだと感じるのは北村龍平監督などもそうで、このあたりは私自身の幼稚な拒絶反応に少々自己嫌悪を感じたりもするのだけれど。堤監督は、テレビ界でつちかってきた成功神話を、そのまま映画に持ち込んでいるような感じがして、それが何よりイヤなのだ。テレビという、それぞれのシークエンスは短く区切られていて、そしてそれを長く積み重ねることが出来る場で成功することとは、やっぱり違うと思うのだ。例えばジョークやギャグ的な描写がことごとに映画ではスベリまくる感覚も、世界観を時間をかけて積み重ねることができるテレビと、その2時間が勝負の映画との違いなのだと思うのだ。それに、なんだって誠人にずっと英語でナレーションさせる必要性があるのだろう?普段でも誠人は英語を多用するけれど、それもさしたる理由もなく、無意味である。しかも龍平君には悪いけど……彼の英語は英語が判らない素人の耳にも決して上手いとは思われない。この英語による進行と、ニューヨークに舞台を構えることは、海外展開への目線なのだろうか?でもそれもまた……かなりお寒いのだ。
誠人の才能を追い越してしまった静流は、単身ニューヨークへと渡り、チャンスをつかんだところで、彼女の才能をねたんだ女友達によって殺されてしまう。それを彼、誠人は一年以上経ってから知り、しかしその時に彼の元に静流からの手紙が来ており、彼は彼女の死が信じられなくて、ひとりニューヨークへと向かう。静流の見た、そしてシャッターで切り取ったニューヨークを、誠人もまた、彼女の足跡をたどるように、見、シャッターを切る。静流と同じ空気を吸い、そして静流へと、なっていく。回想の形で語られるこの物語、今、誠人は静流となっている。静流と自分がシンクロした写真に、世の注目が集まった。誠人は一生静流と共に生きていこうと、静流の名でこのニューヨークでカメラマンとして生きていくことを決意したのだ。
……という、ストーリー、あるいはテーマはなかなか魅力的だったのに、どうしてこうつまらなくなっちゃうのだろう?大きな目線で、映画ならではのもの、見えない雰囲気とか、そういうものをきちんとすくい取ってほしかった。堤監督には、どうもそういうのが感じられないのだ。いつでもまるで焦っているみたいに、今現在何が受けるのかとか、そういうのを入れてくるからどうにもイヤなんである。ジャームッシュとかバスキアとか、ポスターも「バッファロー’66」とかだったりするのが、わざとらしく感じるのだ。「溺れる魚」でハヤリのモーニング娘。にこだわったのと同じような嫌悪感である。どうしてそういうアイテムや言い回しにこだわるのだろう?そんなこと、時間が経てば何の意味もないのに。しかも、この作品自体に何の深みも与えないのに。
あるいはニューヨークも、そうである。日本人(あるいはニューヨーク人ではない外国人)の目からとらえるニューヨークや、ニューヨークを舞台にした物語というのは、やはりよっぽどでなければ、それをリアルなものにするのは難しいと思う。あるいは、あくまで舞台としてニューヨークがあるだけで、人物たちの内面に深く切り込んでいけるのなら、逆にニューヨークという都市が人物を通して生々しく浮かび上がってもいくのだろうと思う。そういう映画はいくつか、思いつくことが出来る。でもそうしないのなら、あくまでニューヨークという都市が、外からの、憧れの目線からの、少々漫画的なカラーに染まることになる。別にそれが悪いとも思わない。そういう世界、ちょっとご都合主義の、フィクショナルな世界も、それはそれで魅力的なものがあるものだ。でもそれは、はっきりとそういう自覚があって描く場合であり、ひょっとして本気でこれで海外を相手にしていると思っているようなこの作品のような語り口には、ちょっと恥ずかしさを覚えてしまう。日本テイストが好きなニューヨーカーアーティストだの、“私だって、ニューヨークに住むアジアンのはしくれだもの”というような台詞、クスリでイっちゃってる描写の挿入などなどは、ニューヨークをリサーチしたんだぞ、てな趣だけれど、そのニューヨークにすっかり振り回されている感じがどうしてもしてしまうのだ。
つまりは、それまでの語り口の良さっていうのは、内面的なものと、それをシャッターで切り取る外見的なものとの、コラボレーションの妙味であって、それがこの作品の大前提でもあったのではないかと思う。そしてここに出てくるニューヨークというのは、それをリアルに描くとかそういうんじゃなくって、そこで彼女は死んでしまったという、どこかファンタジックなものを描き出すための、フィクショナルな舞台に過ぎないのだと思う。それは決して否定的な意味じゃなくって、ここではニューヨークが大事なんではなく、ニューヨークというここではないどこかの、そんな舞台が必要だったのだ。それこそ、思いっきりマンガチックで良かったと思う。それが何か変に……ニューヨークならではのドラマチックに仕立て上げてしまって、前半の良さがすっかり、壊されてしまった。つまりは、ドラマチックにしようとするのがヤボだというのだ。彼女は本当に死んだのか、死んだのだとすれば誰に殺されたのか、そうした部分をハデに盛り上げて、しかしその割にはクライマックスの一対一の銃撃戦はお粗末だけど、クスリをあおってガリガリやる小池栄子のあまりのわざとらしさにはさすがに呆然とした。いや、彼女が悪いんじゃなく、こんな描写を入れてくるのが、悪いんである。別にこんな描写を入れなくったって、静流に嫉妬して正気を失ったアヤの狂気ぐらい、彼女になら表現できたと思う。それに、クスリをやっていたから、正気を失ったわけじゃないでしょ。役者を信頼してないのか、それともクスリというところにニューヨークを表現しようと思ったのか。だとしたら更にヤボだけど。
殺された静流のカメラを、誠人が世話になるアーティスト、カシアスが拾っていたというご都合主義も、それまでが上手く語られているのなら気にならなかったかもしれないけれど、そうじゃないからやはり気になる。あるいは、アヤが詐欺を働くために、静流の知り合いに片っ端から出した手紙というのも、素人であるアヤがそうそう筆跡を真似られるとも思えないし、アヤがクスリをあおっている描写を見ても、ますますそれは無理なんじゃないかと思え……やっぱりご都合主義だよなー、と思わざるをえない。二回出てくる誠人と静流のキスシーンがかなり軽いのもちょっと、不満だった。うーーーーん、これは人気者の二人(特にまだまだアイドルの涼子ちゃん)だから仕方ないのかなあ。でも、このおしゃれっぽい映画の中で、日本的な素朴なぽわっとしたみかんがアイテムになっているのは好感度高い。タイトルシーンで宙を舞うみかんは、最後の最後まで、その“存在感”を発揮する。ひとつの酸っぱいみかんを共有し、そのあとで交わされるキスは、軽いといえども、やっぱりちょっと、エロティックだったのかもしれないな。「みかんがなくなるまで、いろよ」なんて言って誠人と静流が同棲することになるくだりもそうだし。しかも箱いっぱいのみかんがなくなったら、本当に二人の別れの時がくるんだものね……ちょっと粋、だったかも。そして再会するのは、すでに静流が死んでからで、顔を撃たれた静流の遺体(あれは冷凍保存かなんか?だって1年たってるんだよね……うげげ)を彼女と確信するのが、彼女のクセであった、手の甲に書いたメモ、かすれたみかんという文字。ここだけは少し、好きだった。
撮影日誌を見ると、やっぱりテレビ界で忙しい堤氏のスケジュールの間を縫って、という感じ。物語の成り立ちはイイと思った、そのもともとの企画は堤氏サイドから出たものではなく、プロデューサーが温めていた企画を、堤氏にラブストーリーを撮らせてみたい、と出発したものだそうだし、でもそれは、本当にこの監督の手になるべき作品だったのだろうか。片手間とは思いたくないけど……。★★☆☆☆