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「は」


2005年鑑賞作品

8月のクリスマス
2005年 104分 日本 カラー
監督:長崎俊一 脚本:長崎俊一
撮影:長田勇市 音楽:山崎まさよし
出演:山崎まさよし 関めぐみ 井川比佐志 西田尚美 戸田菜穂 大倉孝二 大寳智子


2005/10/3/月 劇場(シネスイッチ銀座)
私にとっての現代韓国映画のブレイクは「シュリ」じゃなくてこのオリジナル作品から始まったんだよなあ。思えばこのサイトを始めた頃だ。そんなになるのか……しみじみ。なので、この作品のリメイクには他のそれよりもずうっと感慨深いものがあって……。この作品てさ、その後のいわゆる現代韓国映画として注目されているようなエンタメ性とか判りやすい完成度とは違って、昔からの日本映画のテイストに似たような、すごく禁欲的で静かな趣があって、それがとても良かったんだよね。だから日本映画でのリメイクの話には、ああそれはいいなと思えたのだ。

山崎まさよしはでも、“おじさん”って感じじゃ、ないんだけどね。いや当時のハン・ソッキュだって若かったろうし、この“おじさん”という呼びかけはヒロインが恋に落ちるのを恐れるようにそう言っているような感覚はあったんだけど、でもやっぱりその距離感が、年の離れた妹を慈しむような主人公の感じが、結構重要だったりしたから。山崎まさよしと関めぐみでは、割とフツーに恋人同士に見えてしまうことに、あ、ちょっと……などと思ってしまうのは、あー、でもなー、オリジナルに思い入れがあるせいなんだよね。困った、困った。
で、オリジナルの何が良かったって、もう始終ハン・ソッキュがニコニコしてて、それはとても優しいニコニコで、彼が死んでしまう運命にあることと、だからこそヒロインに思いを伝えないことがそのニコニコとあいまって、もうどうにもこうにも切なく胸をしめつけるんだけど、これに関しては山崎氏も、そのニコニコ感がなかなか出せませんでした、と語ってて、苦労したらしいの。本作でも「おじさん、いつも私を見るとき笑ってる」と台詞では言われてるんだけど、それほど笑顔にハッとはさせられなくて。

まあ、そんなことを比べて云々してもしょうがないよな。それに、この作品をリメイクする重要性は物語の展開や、キャストの印象うんぬんにあるんではなくって、このちょっと間違えればベタなメロドラマになるお話を、主人公の死をドラマチックに見せないところであり、そこはきちんと受け継いでるのがとてもいいの。今まで生きてきた、通常の生活の先に避けようのない死があって、ことさらに闘病生活とか描かず、時間の流れもさらさらと今までどおりの中で、ふっとかき消すように彼はいなくなってしまう……そういう感覚。象徴的なのは、彼が自分で遺影用の写真を撮る場面。それは「お葬式用なの」と一人写真館を訪れたあのおばあちゃんの流れであり、彼が自分でシャッターを押すセルフポートレイトがそのまま遺影になる流れは、オリジナルと同じで、それこそが日常の延長線上で、重要なところなのね。
草村礼子扮するこのおばあちゃんに、「めがね外してみましょうか」「とてもおきれいですよ」「ああ、とてもいい」なんて声をかけ、嬉しそうに笑うおばあちゃん、ああ、いいな、この場面、とても好き。草村礼子は本当に、この年齢だからこその美しさをパーフェクトに表現しているから。

そうそう、こんな風に何たってオリジナルがあるから、ついつい比較方向にいっちゃうんだよなー。あ、でもそれは否定方向じゃなくて。それもまたオリジナルとリメイクをそれぞれに観ることが出来たから可能になる楽しい作業でもある。でも山崎まさよしは、良かった。山崎まさよしで、良かった。他に誰がいいかとか考えようとしても、この彼を見ちゃうと、ちょっともう他の人が思い浮かばないんだよね。8年前の彼の映画デビューで主演作「月とキャベツ」がね、またもうほんっとに大好きも大好き、何度再上映の度に足を運んだか判らないぐらいなんだから、久々に彼の主演作で、でこのリメイクだと知った時には嬉しかったなあ。「月キャベ」では自身の役を投影するようなミュージシャン役だったでしょ、で、8年たってギターをつまびく場面はちょこっとあるけど、ここでは一人の、普通の、静かな、町の写真館の青年で、その普通っぽさがとてもよく似合ってるんだよなあ。

それに、「月キャベ」と同じように今回も彼が音楽を担当している。それこそ「月キャベ」から私にとっての山崎氏が始まっているから、最初ピアノのイメージの人だったのだ。でも、基本的に彼はギターの人で、「月キャベ」でも本作でも音楽はギターを中心に奏でており、またそのシンプルなギターサウンドがね、暖かくて、懐かしくて、切なくって、もう目頭が熱くなっちゃうんだ。
だって、そのぽろん、ぽろんと奏でられる不思議にノスタルジックな旋律が、この静かな商店街や、高台から一望できる、音もなく降り積もる雪に包まれた真っ白な街、なんかをふんわりと包み込んでなんかもう、それだけで涙が出ちゃうんだもん。
で、エンディングテーマも勿論彼自身の歌声で、こっちはピアノの弾き語りである。ああ、ピアノ、降り積もる雪のように、ね、ああ、なんか嬉しいなあ、あの「月キャベ」のクライマックスの「ワン・モア・タイム,ワン・モア・チャンス」にひたすら涙した時のことを思い出しながら、ここでも私は泣いてしまったんだ。

ヒロインは、オリジナルよりこの関めぐみ嬢の方が、私としては好感度高し。「恋は五・七・五!」では作品自体がアレッて感じだったから初見の彼女に対して今ひとつ強い印象を持てずにいたし、だからこそ本作のヒロイン抜擢は正直ちょっと期待薄だったんだけど、ここでの彼女は絶対、シム・ウナよりずっといいと思う。っつーのも、オリジナルでシム・ウナに今ひとつピンとこなかったのは、ハン・ソッキュが素敵過ぎたからなんだけど(笑)。めぐみ嬢のすらりとした体躯は、でもスタイルがいいというよりは若木のようなしなやかさで、のびやかで、これからの未来の人って感じを思わせる。それこそがこのヒロインに重要な要素。そのすっぴんっぽさや、彼女の写真を撮ってあげる彼から言われる、「口紅なんて持ってないよね」という雰囲気をそのままに醸し出してる、嫌味のないウブな若さ。

二人の出会いのシーン、彼女のキャラクターがいきなりハッキリしてて、良かった。
急ぎの写真を持ってくる彼女、その時彼は友人のお葬式から帰ってきたところで、自身の病気のことも重ね合わせてブルーになってて、後にしてくれないかとか、ちょっと邪険に扱っちゃうのね。でも彼女、負けずに、超特急って書いてあるじゃないですか、急いでるんです、困るんです、と彼にフィルムを押しつけ、店の外で待ってる。真夏で、暑くて、彼は現像のセッティングをしたあと、スポーツ飲料を二つ買って、外に行き、彼女に差し出す。
「まだ怒ってる?ごめん。朝からいろいろあったから……」
何も言わずに受け取って、ごくごくとスポーツ飲料を飲む彼女に思わず笑う彼。「いや、凄い飲みっぷりだと思って」
もう、最初から彼女は生命力にあふれてるんだよね。彼はもはや、一気にスポーツ飲料を飲むことさえ出来ないんだもの。

彼女は小学校の臨時教員をしている。ここも、婦警さんだったオリジナルと変えてきたところ。この設定の変化もイイ。わんぱくざかりの子供たちとクレームをつけてくる親たちにマジメな彼女は悩んでて、でも本採用の教師になりたくて頑張ってる。ほら、オリジナルでもこのリメイク版でも、小学生の男の子三人組が、好きな女の子の写真を現像しにくるシーンがあるから、そこに“リンジ”である彼女が行き合う、というのもこの設定の変化が効いているんだよね。
で、彼女はバスケットが得意である。学校に写真を届けにいった“おじさん”は付き合わされてヘトヘトになる。
「よく眠ると思ったら体育会系なんだ」
写真館に来て、疲れたと言っては居眠りして、先輩教師の車の助手席でも眠りこけてて、本当に、無防備に人前で寝ちゃうところが、“体育会系”の純粋さって感じで、彼が彼女を慈しむように愛していくのが、じんわり胸にしみるのだ。
よく眠る、眠れるっていうのは、それだけ体力があるってこと。躊躇なく身体を動かして、スイッチが切れたように寝て、スイッチが入ったように起きる。それは生命力そのもの。
その生命力は、もう彼にはないんだもの。
そうそう、この車の助手席で眠りこけているシーン、運転席の先輩教師がフィルムの現像を届けに来るんだけど、眠っているはずの彼女、どこで気づいたんだか、走り去る車の後ろ姿を見送る彼に向かって、窓から手だけを出して振るんだよね。そういう、ささやかなシーンがなんかちょっと、好きだったなあ。

彼女にせがまれて写真を撮ってあげる彼。口紅なんて持ってない彼女に、唇をなめさせて、ああ良くなった、と彼はニッコリしてシャッターを切る。でその後のシーンで彼女、口紅を買いに行く。ホント、恐る恐る、って感じで。
お化粧して、自分なりにオシャレして写真館を訪れる彼女、おおおお!ってなミニスカートである。かなり不器用に彼をデートに誘う。「友達が遊園地に勤めててタダ券くれるから、行かなきゃいけないんだけど……」
そういやあね、オリジナルでは手もつながないし、肩も抱かない(だったような気がする……)。あいあい傘と、スクーターに二人乗りぐらいなんだけど、本作ではそのあたりもっと接触感がある。あいあい傘のシーンでは、小さな傘で彼女の肩が濡れているもんだから、彼は遠慮がちに彼女の腰をそっと引き寄せるし、この遊園地デートの帰りには、それはまるで妹がお兄ちゃんにジャレつくようにではあるものの、彼女は彼の腕を組んで歩いているんだもの。
そのあたり、お互いの気持ちがより引き寄せられていく感じを、ストイックだったオリジナルより鮮やかに見せていて、結構満足度が高いんである。
あのとっておきの場所、高台に、彼は彼女を連れてゆく。
冬になるともっといいんだよ、と言う。雪が降り積もり、音も何にもしなくなる、と。
「じゃあ、冬にまた来ようよ」という彼女。
「ダメだよ、もう来れない」と返す彼。
もうおじさんはこの階段を登る体力がないから、なんてごまかしながら。

特に、このあいあい傘のシーンで腰を引き寄せられた彼女、この腰っていうのがねー!それは肩を抱く、ということが軽薄っぽく思えたのか、腰のあたりをなんとなく引き寄せた彼の遠慮がちな感じが出てはいるんだけど、なんかそれだけに、妙に生々しくて。
本当は、傘に入れてあげたお礼にお酒おごって!とか言ってた彼女なんだけど、その約束をすっぽかしてしまう。で、後日現われた彼女は、「……なんだか怖くなって」と言うのだ。
このあたり、実に二人の感情がヴィヴィッドに伝わってきてドキドキしてしまう。
だってね、彼は、もう死んでしまうこと、自分で判ってるからさ、もう人を好きになることはないと思ってて、でも彼女に惹かれて、でもなんたって死んでしまうんだからその気持ちを彼女に伝える気もないし、彼女の方が自分を恋愛対象としては見てないって、思ってたわけでしょ。でもこの一件と、この彼女の台詞が、ふと琴線が触れ合うように響いてしまったのを感じて……。
「おじさんは好みがうるさいんだから、心配することなかったのに」
そんな風にはぐらかす彼だけど、でも確かにこの時、二人の気持ちが同じ方向に向かって交差しているのが、判ってしまったのだ。

差し入れのアイスクリームが大きなカップのレディボーデンで、一緒のスプーンで食べようと言ったり、デートのオシャレがバクハツポニーテイルにデニムのミニスカだったり、なんかホントにまだまだ女の子、で彼女を見守る彼の視線の優しさが判るんだよなあ。彼が彼女に当てた最後の手紙、「君は神様が最後にくれた最高のプレゼントでした。君のことが本当に好きでした」と書かれてて、それは前半部分に、よりウェイトが置かれている気がするんだよね、やっぱり。ただ静々と終わりの日に向かっていた彼に当てられた暖かでまばゆい光、それはこんな風に、慈しむように愛する存在だったから。

ところでこの最後の手紙、オリジナルでは彼女に届いた様子もないし、それどころか彼の死さえひょっとしたら知らされていないんじゃないかと思わせるフシがあるんだけど、本作では彼がひっそりと箱の中に隠しておいた手紙が妹によって発見されて、彼女の勤務する小学校に届けられ、誰もいない暗い教室で彼女はその手紙を読んで、ひっそりと泣き、うずくまるシーンが用意されている。これはね、ちょっと、嬉しかった。一緒に泣きながら、嬉しかった。だってね、オリジナルのストイックさは、もちろんそれこそが良くて、泣ける要因ではあったんだけど、そこまでストイックにしなくてもいいじゃん!手紙ぐらい投函しなよ!っていう、気持ちがあったからさ……あの手紙は、彼女に届けてほしいと、観客みんなが思ってたに違いないんだもん。その思いをここで叶えてくれた、って気がしたから。それもやっぱり、ことさらにドラマチックにせずに、静かに。で、このシーンがあると、冬になり、彼女が写真館を訪ねるラストシーンはよりはっきりとした意味を持ってくれるから。彼女が自分の写真をそのウィンドウに発見するのも、彼の思いをよりはっきりと現わしてくれるから。それにオリジナルではこのラストシーンで、彼女がすっかり化粧慣れして大人びて見えたのがすこうし寂しかったりしたんだけど、本作では彼女はのびやかでしなやかな印象はそのままで、でも背筋がぴんと伸びてて、それは彼女が彼に言った台詞、「おじさんといると背筋を伸ばしていてもいいんだって気持ちになる」というのとリンクして、少しだけ彼女が大人になったのかなっていうぐらいの感覚が、いいんだよね。

彼が友達と過ごすシーンが印象的。親友の大倉孝二は、多分彼の死期が近いこと、知っていたんだよね。オリジナルでは気づいていない感じだけど。だからこそ彼のために、かつての同級生を集めてバーベキューパーティーなんかやったりしたんだよね。
この親友と居酒屋に飲みに行く。ほんのささやかな、それだけのこと。普通のことなんだけど、それがひとつひとつ最後になる。おなかの底から笑ったりハメをはずしたりするのも、もうこれから何度あるのだろうと、思う。
親友に対して酔った勢いの冗談って感じで、「俺、死ぬから」なんていうシーンは、この親友が多分判っているんだろうと思うと、凄く、切ない。
しかもその後、彼は酔った勢いが更に高じて暴れちゃって、警察に連れてかれてしまう。ケンカのシーンは出ないけど、この親友も一緒に暴れちゃった感じであり、それが“多分判っている”のを更に感じさせてグッときてしまうのだ。

年老いた父親が、一人残されて困らないようにひとつひとつ書き残していく彼。 時には苛立ってしまう。こんなことも出来ないで、(自分がいなくなったあと)どうするのか、と。
この父親を演じる井川比佐志が、苦しむ息子を見て自分も苦しんで、じっと、静かに見守っている感じが、日常の親子の寡黙な間柄とあいまって胸に迫る。
最初の方に、親子で台所に立っているシーンがあって、下ごしらえを彼が手伝い、調理は父親が担当し、早くに母親を亡くしたこの家庭では、料理に関してはこの父親に一日の長があるらしい。
でもそれ以外、機械関係はヨワいし、すっかりデジタル化された写真の手はずも、今の父親はノータッチらしい。ので、彼は機械の写真をポラにとり、ひとつひとつ、丁寧に説明をつけていく。
本作ではオリジナルよりも、この父親もそうだけど、訪ねてくる妹とのやりとりとか、より家族の関係が鮮明に打ち出されているように感じる。しかも日本的なこの寡黙な親父さんが、寡黙なだけに苦しんでいるのが伝わってくるんだよね。
世話焼きで心配性の、でもあっかるい妹もイイ。西田尚美がそんなちょっとフクザツな内面性をさすがの上手さで演じている。彼女は彼の元恋人の同級生という設定で、冒頭、出戻ってきたらしいこの恋人のことを兄と会話するシーンもこの設定が効いているんである。

「たくさん恋愛をして、素敵な教師になってください」
手紙をしめくくるこの言葉が、涙腺を決壊させたなあ……。★★★☆☆


ハッカビーズI ♥ HUCKABEES
2004年 107分 アメリカ カラー
監督:デヴィッド・O・ラッセル 脚本:デヴィッド・O・ラッセル/ジェフ・バエナ
撮影:ディック・ポープ 音楽:アンドリュー・ディクソン
出演:ジュード・ロウ/ナオミ・ワッツ/ダスティン・ホフマン/リリー・トムリン/マーク・ウォールバーグ/イザベル・ユペール/ジェイソン・シュワルツマン/ティッピ・ヘドレン

2005/9/23/金・祝 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
……ちょっとアタマ抱えてます。
今目の前の焦げたギョウザに……じゃなくて(ああ、焦げちゃった)。
なんつーか、久々にワケわかんないエーガ観たなー、って感じ。
しかもハリウッド映画でだ。いやこれはハリウッド映画なのか?
出てるメンツはめっちゃハリウッド映画だけど、このインテリなワケわかんなさはアメリカンインディペンデントか、フランス映画みたいだ。

いや、まあ、私のアタマが悪いだけなんだろうけど。
でもさ、この映画のオフィシャルサイトのプロダクションノートかなんかにさ、“で、これって結局どういう映画?”ってまず書いてたじゃない。そーゆーことだと思うのよ。これをまず、100パー理解して共感できる人ってどれぐらいいるのかしらん。
……いや、ひがみか。
この監督さんの映画を一本も知らんといきなり観ちゃったのも勉強不足だったのかなー。
最近とみに外国映画を観とらんからなー。

哲学探偵だって、いうんだもん。
なんじゃ、そりゃ。
いや、定義はなんとなく面白いかも。
つまり、なんだっけ、精神的、実存的理由で、依頼者の、自分の中の疑問を追及していくという、とかそんなんだっけ?何かただのセラピストじゃねえかと思わなくもないけど、依頼者の目に見えるところでヘイキで尾行しちゃって、(見つけた依頼者に窓の外から手を振ったりすな!)仕事場にもヘイキで入り込んじゃって、疑問を解決するどころか余計に悩ませちゃうような、困った哲学者たちなんである。

そうだよなー、哲学者ってそもそも、他人を救うとか、サービス業的なこととは一番遠く離れてるもんね。哲学って、それを追及、研究する人間自身が納得するためのものだって気がする。それに共感する人がいれば共感すればいいし、正直こんな風にセラビー的なことからはホント遠く離れてるよね。
勿論、そのギャップが面白いんだけど。主人公、アルバートが訪ねるこの哲学探偵の夫婦、ダスティン・ホフマンとリリー・トムリンのコンビがアヤしく可笑しいから。ダスティン・ホフマンはま、基本的にはスターだし名優だし、だからウッカリ忘れちゃいそうになるんだけど、この人ってちょっと、ヘンな感じするもんね。それを彼自身がリスペクトしているとゆー、ヘンさにかけては100パーセント誰もが認めるであろうリリー・トムリンとタッグを組むと、もう誰が見たって、ヘン。とても一般社会で生きていけるとは思えない。

おいそりゃ、死体袋だろ!っていう黒い袋の中にアルバートを入れて、瞑想をしろという。しかしアルバートは瞑想で心穏やかになるどころか、彼を悩ます妄想が次々に現われて困っちゃう。
こういうキッチュな映像がこの映画のひとつの見所なんだろうけれど……彼の妄想の中で、イヤミな男の首をオノで斬りまくったり、そらぞらしい森がカキワリみたいに現われたり、あるいはダスティン・ホフマン演じるベルナードが唱える“量子理論”だっけ?ボクの鼻の先は空気に溶け込んでる……とか言い出して、バラバラと画面が細かく分割されて、ボロボロと落ちたりさ(こう書いてみてもワケ判らんな)。そういう、精神解析っぽい、インテリくずれみたいな表現がね、全編押しまくるんなら逆にまだスリリングもあるってなもんだけど、基本的にはフツーに語ってくから、こういう遊んだ表現がなんか中途半端に映っちゃう。

何か、書いててもホントどんな話なんだかさっぱり判んないよなあ。そりゃ仕方ない。書いてる私が判んないんだから。そもそも私、この映画の主人公はジュード・ロウなのかと思ってたのよ。いや別に彼を目当てに観に行ったわけじゃないけど!(まあ……それほど強く否定することもないんだけどさ)、予告編ではキャストの誰もを等分に描いていたから……それは多分、アルバートに扮するジェイソン・シュワルツマンが主演っていうウリじゃ日本ではキビしかったからなのかなあ。なんかダマされたような気もするが。まあ主演といっても彼を軸に語っていくという感じで、確かに予告編の印象のように、それぞれが割と等分に語られている感じはするんだけどね。
ただ、タイトルもそうだし、予告編の印象もそうだったんだけど、私、このハッカビーズというスーパーマーケットこそをフューチャリングした物語なんだと思ったのよ。ハッカビーズのキャンペーンモデルであるドーン(ナオミ・ワッツ)が見せる、ベタでキッチュなCMの感覚が、予告編でも何度も挿入されていてイイ感じだったし(私、ほんっとに予告編に影響されるよなー)。でも実際のメインは哲学探偵、なんだよね。あるいは哲学、なのかな。さらにあるいは、そのある種のバカバカしさと、更に裏の裏を返した不思議な崇高さ、とでもいったものなのかもしれないなあ。主人公はアルバートだけど、彼は哲学探偵にホンロウされ、ハッカビーズのエリート社員、ブラッドやドーンもそれに巻き込まれていくという……ホフマン&トムリンの他にも彼らの愛弟子という設定で、世間に売れている、何か印象としてはカリスマ主婦みたいなイザベル・ユペール扮するカテリンというフランス熟女まで出てきて、アルバートや彼の“分身”の純粋なるファイヤーマン、トミーを引っ掻き回しまくる。

トミーが一番ヤッカイな、もといオイシイキャラだったかもしれん。“石油にとりつかれた男”と揶揄される彼は、石油が環境を破壊する問題に必要以上に熱心で、それについていけなくなった家族に逃げられる始末なわけ。そりゃー、口ばっかりの理想論をまくしたてられるばかりじゃ、家族も逃げたくなるわさ……。その点については、哲学探偵たちに彼を“分身”として紹介されたアルバートも同様である。そもそも彼は偶然を解明してもらいたくて哲学探偵の門を叩いたのだ。なぜか三度も出会ってしまったアフリカ人のナゾを解くために。実際はそれはナゾでもなんでもなくて本当にただの偶然であり、反対にそこで暴かれてしまったのは、そのアフリカ人と出会った古い写真を売っている店でアルバートは自分の写真を紛れ込ませ、そのついでに若き日のジェシカ・ラングのビキニ写真を凝視したりし(!)、そのアフリカ人と近づきになって、相変わらずの空回りしたアツい論を展開させて(ま、ここでの暴走はトミーの方がヒドかったけど)、追ん出されちゃうのさ。魂は確かにアツい。環境問題は確かに大事な問題だし、このまま何の努力もしないでいったら地球が壊れてしまうのは明白。でも、彼らがうっとうしいのは、それが具体的な方法論や行動を伴なっていない点なのね。いやそりゃあさ、それどころかなあんにもしない私たちに比べりゃエラいのかもしれないけど、とかくなあんにもしない一般人というのは、そういう理想主義者に反発する向きがあるからさあ。アルバートに関しては自分の論を皆に知ってもらい、自然破壊を止めさせるという運動を展開してはいるんだけど、結局はそれ止まりで、そこからどうするっていう現実問題が欠如しているわけ。言ってしまえばじゃあそれでどうやって食ってくのか、ってこと。そこをハッカビーズのエリート社員、ブラッドは突いてくる。アルバートのやり方じゃ何も変わらない。正しいやり方は、ビジネスとして自然環境を買い取ることだ、と。

この、アルバートの天敵、ブラッドを演じるジュード・ロウが結構キョーレツでね。いや、アルバートも充分キョーレツだったけど……というか、彼の場合、首まで生えてる胸毛やら、ゴワゴワの腕毛やらのありえない毛深さと、その長くて濃すぎる眉が!いや、じゃなくて、ゴメンなさい、そんなことは関係ないよね……いやだから、ジュード・ロウがね。彼って絵に描いたような美形じゃない。ヤラしいぐらいの、イヤミなぐらいのさ。それを充分に飲み込んで、よりワザとらしくしたようなキャラだから、なんつーか……確信犯的にサブイボものなの(笑)。その、唇の端をくいっと上げた作り笑いといい、周囲が異様にウケてあげる彼の語る笑い話といい、もう寒いの、思いっきり。
この笑い話というのは、環境問題に熱心な歌手、シャナイア(本人役の実際の歌手なんだってさー)を今回アルバートが組織する環境団体と協力する形でイメージガールに起用してて、そのスター、シャナイアといかに親密であるかを示すような、まあくだらないエピソードなんだけど、彼はその話をあらゆるところで、何度も何度も繰り返しているのよ。自分のセレブっぷりを誇示するために。つまり、彼は一見して話題の豊富な、明るいエリートビジネスマンのように見えて、それは全て仮面だったわけ。

彼のような完璧美形だから、その作り笑いも、固めまくったイメージも、そうなるとやけに寒々しく、生々しいんだよね。もう、とてつもなく哀れで、気の毒に思えちゃうんだよね。彼は何かとウルサい理想主義者、アルバートを陥れるためにかの哲学探偵を雇っていたというわけ。アルバートが最もうっとーしーのは自分の作った詩を運動に必要だとゴリ押しするとこ。詩の内容はともかく(少なくともドーンは心打たれてたみたいだし)そういう自身の文学的素養を強要するところがウットーしーんだよね。で、彼を排除するために哲学探偵を雇ったブラッドなんだけど、皮肉なことに自身のそうした内面の秘密を彼らに暴かれちゃって、しかも恋人でハッカビーズのキャンペーンモデルであるドーンはどっぷりこの哲学探偵の論にハマッちゃってるしさ、って状態なのよ。
もともとハッカビーズの中のイチ社員に過ぎなかった彼女をガールフレンドにしたブラッドが彼女をハッカビーズのキャンペーンモデルに抜擢したわけで、彼女はだからどことなく自分に自信がないようなところがあったのね。演じるナオミ・ワッツは確かにゴージャスな美女というわけではないし。ドーンは哲学に目覚めて内面の美しさを追及しようとダサダサのオーバーオールにノーメイクになって社内をコンワクさせ、彼女の替わりにいかにもなブロンドゴージャスが雇われたりしちゃう。彼女の苦悩も言うこともよく判るんだけどそれもまた極端でさ、だってCMのモデルが内面の美を追求してこんなダサダサになっちゃ、仕事にならないわけだし。しかも彼女の恋人のブラッドは自分の存在を守るために、こんな具合に思いっきり仮面武装しているヤツだから、その呪縛が解けない限り、彼女の気持ちは判りっこないわけ。

その彼女の気持ちを解いたのは、この家が放火されて現場にかけつけたトミーであった。彼は“分身”であるアルバートとともにあのフランス熟女哲学者、カトリンの指導を受けていたんだけど、このカトリンはアルバートを誘惑しちゃって(泥水セックス!)彼は孤独にさいなまれていたのだ。しっかしこの家への放火はこのカトリンのしわざだったっていうんだから、ワケわからんし!でもそれによって、これまで仮面をかぶり続けてきたブラッドのカラが完全にとりのぞかれ……家が全焼して動揺しまくって泣き出し、しかも恋人のドーンは消防士に奪われるし。ボロボロのカッコで自分が企画したパーティーに出席しようとするブラッドの前に、このドーンが現われて言うのさ。「私のことが好き?」って。ブラッド「そう思うよ」(卑怯な言い方だなー)「この帽子は?」内面重視に目覚めたドーンがオーバーオールと共に愛用しているダサダサの帽子よ。「……」ブラッドは黙り込んじゃう。「終わりね。彼は私のこの帽子も好きだと言ってくれたわ」そう言って、トミーと共に笑顔で去っていってしまうんである。
ブラッドはパーティーの出席を同僚たちから拒否され、追って来た宿敵、アルバートとエレベーターに乗り合わせる。上がったり下がったりするエレベーターの中で、それまでの確執を一気にさらけだす。取っ組み合い、物騒な単語を出し、乗り合わせた乗客は目を白黒させ、止まったフロアのシャナイアや組織のメンバーがケンケンガクガクと参加したりして……なんともシュールなエレベーターの場面なんである。アルバートはブラッドの家が火事になったのを放火したカトリンと共に覗き見してて、ブラッドが泣きべそかいているのを目撃し、途端に彼と心が通じ合った気がして、ブラッドと手を交差して組んで、アハハハ、とばかりにくるくると回ってる妄想を見たりしてるんだよね。アルバートらしいけど……つまり宿敵と思っていた相手が、実はトミー以上の分身だったんじゃないかってこと。

ブラッドが最終的に実行した“環境問題”の解決はね、森を半分だけ残して、沼はそのまま守る、というものだったんだけど、この“森を半分だけ残す”といういわば折衷案が、半分焼き払っちゃったことで沼の水温が上昇して結果的に沼を破壊することになって、自然を愛するシャナイアやアルバートの作った環境団体メンバーを、約束が違う!と激怒させることになってしまう。でもまあ……環境問題との共存って、今の消費一辺倒の社会とそうそう折り合いがつくわけじゃないんだよね、という皮肉を実にウマいこと露呈しており、これは本当、かなりシニカルな幕切れだと思うんだけど。

ゴムボールで殴りあって無の境地になったり、毛布を使って全ての事柄は同じことなんだという論を展開したり、一歩間違えればヤバい宗教である哲学のお時間。哲学ってさ、もっとちゃんと時間がないとかみしめられないものだから、こんなポンポン言われても正直困るんだよなあ……。★★☆☆☆


パッチギ!
2004年 119分 日本 カラー
監督:井筒和幸 脚本:井筒和幸 羽原大介
撮影:山本英夫 音楽:加藤和彦
出演:塩谷瞬 高岡蒼佑 沢尻エリカ 楊原京子 尾上寛之 真木よう子 小出恵介 波岡一喜 オダギリジョー 光石研

2005/2/16/水 劇場(錦糸町楽天地)
ハイティーンのケンカ映画を撮らせたら右に出る者はいないであろう井筒監督が、しかもそれにラブストーリーを絡め、民族問題を絡め、だというのに大エンターテインメントに仕立て上げるアラワザでねじ伏せてきた。ホントにこの人って、もうキャラそのまんまに、ねじ伏せてくる、って感じで。“ハイティーンのケンカ映画”の点に関してはね、帰ってきたー!ともう嬉しくなっちゃったわけ。やっぱそのあたりは久々の映画だった「ゲロッパ!」は(感嘆符続きだわね。気合い、入ってる)うーん、違う、オジサンの話を撮る人じゃないのよおー、と思っていたから。いつまでもいつまでも、この人はヤバいヤンチャさを持つ男の子なんだもん。私としては、だから、ケンカ映画を撮ってくれればそれで満足だった。ケンカ映画のカタルシス、それを見せてくれるだけで、そう、なぜだか不思議と、若さのやるせなさを醸し出させるから、この人は。

いやー、まっさか、ロミジュリを正面きって持ってくるとは思わなかったもの。ビックリしたもの。
ロミジュリというよりは、さらにそれを下敷きにして作られた「ウエストサイドストーリー」に近いものがあるかな、この躍動感は。いやでも、それらが悲劇のラストが大前提であることを考えれば、やっぱり全く違う。ハッピーエンドのロミジュリやウエストサイドなんてありえないでしょ。それらは、敵味方の家や組織にそれぞれ属する恋人が、その力に勝てず、いわば屈してしまう物語だった。悲恋とはつまり、恋の力がそれに及ばない悲劇だったのだ。でもここでは違う。驚いたことに井筒監督ってば、恋はすべてを打ち破る、と高らかにうたいあげてる。彼らは引き裂かれたりもしないし、二人の思いで未来への可能性を勝ち取ってる。民族問題という、ロミジュリよりもウエストサイドよりももっともっと過酷な障壁を打ち破って。

時代は1968年。いきなりのオックスの熱狂コンサートから幕をあげる。スゴいナルシスティックな衣装に身を包んでナルシスティックに歌うオックスボーカルに扮した加瀬亮に仰天し、もう既に胸ぐらつかまれて引き込まれてしまう感じ。この後、この映画のキーとなるフォーククルセイダーズや大学闘争、そして何より在日朝鮮・韓国人の人たちと日本人との関係性が時代性豊かに描かれるんだけど、それは「69」のようにただただそれを記号的に出してきて、物語の因果関係と全くリンクしないなんてことは全くなく、こだわりの臨場感が実に、イイのよね。
だって、まずあのオックスだもの。ドギモ抜かれちゃった。話には聞いていたけれど……観客の女の子が熱狂の末次々失神し、舞台上のメンバーまでもが失神し……この冒頭は確かに重要。これだけの熱が当時の若い人たちにはあったわけで、同じ物語を多分、現代に置き換えては絶対に不可能なのは、哀しいけどこれだけの熱が今はないからなんだよね。
日本と韓国は近く親しい関係になり、日本と北朝鮮は近づいたとたんに一触即発な最悪な関係になり、同じ民族の国のこの両国と、今こんなギャップが出来てて、在日の人たちは今までも当然そうだっただろうけれど、それ以上に複雑な状態にさらされている。
そして、今現在のことだってほとんど、そして今までのことなんて、まるで、私たちは知らないまま過ごしてきてしまったのだ。
この“知らない”というキーワードが、民族の違い以上に、この恋人二人の間に深く横たわる。知らないということは、故意ではないだけに、余計に罪なのだと。

恋人、と言っちゃったけど、そこまで到達してるわけでは正直、ないんである。京都の平凡な高校生、康介が、先生に言われて、朝鮮高校に恐る恐る親善サッカーの申し込みに行く。そこで出会ったキョンジャにひと目惚れしちゃうんだけど、彼女はその朝高の番長、アンソンの妹であり、絶対ムリムリな相手。でも、とにかくホレちゃった康介はあきらめるなんてことはせず、恐れるなんてこともせず、ピュアな心でアタック、アタックなんである。で、キョンジャはそんな康介に好感は抱くものの最後まで恋人らしいことをするわけでもないんだよね(ラストの、時間が飛んだところでは二人は恋人同士としてドライブデートしてるけど)。
でも、それこそが素晴らしいんである。確かに康介は、最初そんなムズカシイ問題なんか、何にも判ってない。彼女が朝鮮籍であること、お兄さんが番長であることに少々戸惑うものの、彼は彼女に近づきたくて朝鮮語辞典を買い、朝鮮民謡「イムジン河」をマスターし、彼女の家族たち、そしてその周囲の人たちと仲良くなってゆく。すべては彼女が好きだという一点が、彼にすべての壁を越えさせるのだ。
確かに単純なことではあるんだけど、これこそがとても大事なことで。そう、人と人との壁は、こんな風に長く悲惨な歴史に分断された国や民族同士の問題でも、誰かを好きになるという一点で越えられる。その単純明快かつピュアで強い思いを、これだけ正面切って描いてしまう強さにこそ、瞠目させられてしまうのだ。

「イムジン河」が劇中、非常に大きな意味を持って登場する。フォーククルセイダーズの幻の名曲。私、知らなかった、彼らがこんな曲を歌っているの。もともとは朝鮮民族の曲であり、南北分断の悲劇を歌った曲をフォークル(なんていう略し方も初めて知ったわ)が日本語に訳詩して歌ったんだけど、発売禁止になったという伝説の曲だという。
フォークという音楽のジャンルの、こんな強いメッセージ性も今更ながら初めて知った気がする。時代を駆け抜けるロックに駆逐されて、いまや廃れてしまったといってもいいフォークというジャンルは、それが時代というものに支持されたからなのだ。それが必要な時代があった。そして今必要じゃないということは、それは平和になったのだと単純に考えていいのだろうか……。

ロックはあの激しいパフォーマンスの割には、その内容は内向的であり、ラブやマイセルフが基本である。それに対してフォークは外へ、外へと開かれている。それを歌う個人は、彼自身を個人として歌うのではなく、世界の中の自分として歌っている。この世界の不条理を、世界の目で見ようよと、歌っている。
そんなに、強いものだったんだ、フォークって。自分の中のイメージと全然違った。ちょっと……オドロキである。
この気骨あるフォークルや、世界のことを主人公の康介に教えてくれるのが、酒屋(&立ち呑みスペース)の若主人、坂崎である。坂崎、あのアルフィーの坂崎さんがモデルなんだって。素敵!演じるオダギリジョーも、もの凄くイイ。康介とは、彼が「イムジン河」を演奏したいとギターを買いに訪れた楽器店で出会う。このイムジン河の成り立ちや意味を教えてくれ、ギターも指導してくれ、そしてその目で世界を見たいとあちこち放浪するかッ飛びボンボンなんである。甘いマスクながら思いっきりざっくばらん、次に会った時にはフリーセックスの国、スウェーデン?からの帰りでドレッドヘアにサングラスといういでたちで仰天させる。康介の方向性を決定付けた自由人であり、フォークの社会性とロックの個人主義をナイスなバランスで持っているあたり、確かに坂崎さんのキャラクターをほうふつとさせるんである。

康介が一世一代の勇気を振り絞ってキョンジャをフォークルのコンサートに誘うも、彼女は自分のコンサートがあるから、と言い、なんなら来たら?と彼を誘う。
このコンサート、というのは、公園で催された兄のアンソンの送別会である。彼は次に来る帰国船で祖国に帰る決意を固めていた。彼にとってはまだ見たことがない祖国である。
この時代には、情報操作によって、北朝鮮は夢の国とうたわれていた。アンソンはそこに帰ってワールドカップの選手になることを夢見るんである。もちろん、北朝鮮は夢の国などではない。その時点で彼にはそのことは判っていない。
アンソンには桃子という恋人がおり、恋人と言いつつ、なんか始終セックスしているようなそんな間柄であり、だからこそ桃子は出来てしまった赤ちゃんのことをアンソンに言い出せずに別れを切り出し、シングルマザーになる決心をするのだけど……。

おっとっと、なんかどんどん話が飛んでっちゃったけど。実は康介とキョンジャの恋物語と同時進行しているのが、このアンソンと桃子の(というより桃子の苦悩の)話であり、そしてアンソン率いる朝高と府立東高の、つまりは朝鮮民族と日本人との戦いなんである。この三つの話をメインに、さらに民族や人間の問題が、そのすべてを支配する大きなテーマとなっているのね。
実は、中盤、いや後半に至るまで、ちょっと盛り込みすぎな気がしてたのね。康介とキョンジャのラブストーリーだけでいいのに、と思ってた。そして坂崎酒店での会話を主にする、朝鮮民族、日本、そして世界の歴史の云々は、やけに説明的だな、とも思った。ワキの登場人物たちの口を借りて、なんか教科書っぽく説明しちゃってるわ、みたいな。
でも、そう、確かに私たちが知らないことだったのだ。こんな風に、教科書っぽく、単純に事実を羅列していることさえ、知らない。そう思えば、この“教科書っぽい”説明が、日本人に対しての、やけに皮肉に聞こえもする。
“知らない”ことが、そう、この映画のキーワードである。
康介は、このアンソンの送別会に参加して、キョンジャのフルートでセッションして「イムジン河」を披露し、彼女の親戚や仲間たちに受け入れられる。でも、この時点で康介はまだまだ何も“知らない”。彼が受け入れられたのはキョンジャの相手としてではなく、自分たちの民族の歌を披露してくれた、つまり自分たちを判っているんだ、ということなのに、この時の康介はまだ何も“知らない”のだ。そしてそれは観客である、この時代から30年以上も後の私たちも同じ……。

康介はここで多くの友達も得る。アンソンに傾倒している弟分のチェドキもその一人。彼は康介にギターを教えてくれと言い、じゃあ一緒にバンドやりたいなあ、と康介と意気投合する。
でも、このチェドキ、死んじゃうのだ。実際に死んでしまった理由はかなりアホなものではあるんだけど……アンソンのガクランを着て悦に入っちゃって、すっかりイイ気分になったチェドキ、敵対する東高とその援軍の連中にボコボコにされちゃって、フラフラになったところを通りがかったトラックに積んだ鉄材が彼を直撃して、死んじゃう。
このチェドキの死は、康介が直面する“何も知らない日本人”の現実を描写するためのようなもので、ある意味そんな捨て駒の彼のキャラはちょっと気の毒ではあるんだけど、でも彼の台詞で忘れられないものがあるのね。

通りがかる相手と目があっただけでケンカをふっかけるチェドキ。いかにもケンカ大好き、と見えながらも、彼は康介に言うのね。本当は怖いんだと。角を曲がったら100人の敵がいる夢を何度も見るんだと。
じゃあ、どうしてそんなにケンカをしかけるんだ、というと……それに対して明確な答えが得られるわけではないんだけど、ただ彼の、そうせずにはいられない、せっぱつまった気持ちっていうのが、時代と、この若さと、そして在日だということと、全てがリンクして避けられない運命、そんなたまらない切なさに思えて。
負けるわけにはいかない。何に?誰に?何にも、誰にも。日本人はその全ての象徴であり、尊敬するアンソンはその全てを突破してきた。だから自分も、と。でも怖いんだと。それは彼自身が明確にその敵意に対して答えを出せていないからだろうと思う。アンソンは康介を受け入れながらも、どうもいけすかない、という態度を崩さずにいた(というアンソンにそれなりに受け入れられる康介がスゴイわけだけど)。チェドキはまだ追随しているだけ。でもそんなあいまいさは迷える若さゆえの柔軟さだし、だからこそ康介とも仲良くなれた。チェドキが死んでしまったことに、康介は深い哀しみを覚える。一緒にバンドやりたかったな、と。

アンソンは、自分の子供を産んだ桃子と、北朝鮮に渡ってしまうでしょ。彼は民族意識がチェドキよりも強かった。だから祖国に帰りたいと思ったし、家族ができたことで祖国に帰ることはやめた、と言うんだけど、桃子はついていくから、とそんな彼を帰還へとうながしちゃうわけで。
そうして、北朝鮮に桃子と子供ともども帰ってしまったであろうアンソンのことを、アンソン家族の今を、思ったりしてしまうんだよね。民族意識が個人の意識より強かったアンソン。日本人はそういう部分、天皇の絶対的存在が崩壊した第二次大戦終結以来、希薄だからさ、やっぱり判らないよ。そのことが、こんなアンソンを思えばそんな日本人は幸せかもと思うし、でも一方で、日本人であることさえ判ってなくて、だから世界のことはおろか、隣国のこと、隣国におよぼしたことさえ判っていない日本人は、やっぱり哀れなのかなと思うんだ。それが人間であることの希薄さにもつながっているような気がして。

チェドキの葬儀で、康介は罵倒される。日本人に、ここにいてほしくないと。お前たちニッポンのガキが何を知ってるんだと。今までの在日の歴史、人間として扱われない数十年を知らないだろうと。
確かに何も知らなかった康介は、何も言えない。いてほしくない、出て行けと言われて、何にも言えないこの哀しさったら、この悔しさったら、この歯がゆさったら、この不条理さったら、ないのね!
一人の日本人に、個人の一人に、日本という国そのものを負わす。だからといってその日本にヒドい目に合わされた自分(たち)を国として語っているわけではなく、そこはやはり一人の人間としての個人的な恨みがある。
でも個人としての一人の日本人はイコール日本であり、ヒドい目に合わされたことはもちろん、それを日本人が知らないでいること、知らないでいるから罪じゃないと思っている日本人が許せないと、彼らは思ってる。
ここにはこんな風に国家や民族と、個人とのそれがごっちゃになって矛盾している部分があるんだけど、それはこれだけ重い問題なものだから、それに対して康介は何も言えないのね。

個人の思いが、歴史に勝てない、そのちっぽけな自分が悔しくてどうしようもない。
彼女のことは本当に好きなのに。それは自信があるのに、そのことだけでは何も出来ない。
チェドキとは、親友になれるんじゃないかっていう予感もあったぐらい、心をさらけだしてくれた相手だった。だから純粋に康介はこの葬儀に心をこめて参加していたんだけど、そんな風に言われてしまう。
康介はなすすべもなく飛び出し、橋の上で大切なギターを欄干にぶつけにぶつけてぶっ壊し、言葉にならない叫び声をあげ、崩れ落ちる。
やりきれない、なんて言葉じゃ言い切れないのね。だって康介はただただキョンジャが好きだってところから始まっていた。確かに何も知らなかったけど、何の打算もなかった。キョンジャと、キョンジャに関係するものは、全てを知りたいと思ったし、その仲間になりたかった。
でも、“何も知らない”ということが、彼のそんな気持ちをさえぎってしまう。気持ちだけでは、突破できないものがあるのか。彼の悲痛な心の叫びが、このシーンにとてつもなく凝縮されてて、たまらない。
キョンジャはもう康介のこと、好きになってるに違いないんだけど、でもこの深い歴史の溝に、ただ黙って泣いているしかないのね。立ち去る康介を引き止めることが出来ない。ある意味、彼女もリアルタイムでは知らない歴史。今の時点で在日であることで色々とイヤな思いはしていても、そんな悲惨な歴史を実際に体験しているわけではないから、何も言えないのね。
でも、次のシーンが、もう最高に心をうつんだなあ!

あの、アンソンの送別会で披露した康介の弾き語りに、偶然その場にいたラジオ局のディレクターが目をとめ、番組の勝ち抜き合戦に誘う。このチェドキの葬儀の日、その勝ち抜き合戦の本番の日だった。フラフラとラジオ局に到着した康介だけど、ギターがない。かわりのギターを用意するんだけど、プロデューサーが康介の歌おうとしている「イムジン河」にナンクセをつける。発禁、放送禁止になっているこの歌を流すわけにはいかない、と。
ここで、この映画随一の名台詞が響き渡るんだよなあ!「歌っちゃいけない歌なんて、あるわけないんじゃ!」
さっいこう、最高だよ、大友康平ッ!
このディレクターに、中途採用のくせにエラそうに言うなとプロデューサーがののしると、そっちはコネ入社のくせにと言い返し、コイツをスタジオの外に引きずりだし、どうやらボコボコにし、戻ってきたディレクターがニカッと笑った口は血だらけで、大丈夫、さ、いこか、と康介をうながすのには笑ってしまう。大友康平だよ!うー、反骨精神あふれるみちのくロッカーそのものッ!

康介、「イムジン河」を歌う。ラジオからその歌声が流れる。キョンジャが聞いている。ハッとなって、そのラジオを抱えて葬儀会場に走る。あの時、キョンジャ、何も言えなかった。自分を思ってくれてる康介を、擁護できなかった。彼女、康介の歌声が流れるラジオを毅然とした顔で皆に差し出す。泣き顔で、クシャクシャな顔で。
康介も、泣いてる。歌いながら。朝鮮半島を分断した歌。彼がその歌を歌って泣くだけのバックボーンがあるわけはない。確かにない。だけど、彼にはキョンジャに対する思いがあるし、初めて知ってしまった重い歴史があるし、でもそれでもキョンジャのことが好きだってことを、きっと再確認しながら、歌っていたんだと思う。ただ漠然と、“いい歌”だと言っていたことを、飛び越えて。
歴史も、民族も、その重みがつきつけられても、キョンジャのこと、大好きだってこと、変わらない。
そんな重い要素を通過しながらも、一人の人間としての、個人としての、結局はその一点に康介の思いが貫かれているのが、素敵だと思う。
きっと、それが、それこそが、この世の中を変えてくれるんだと思うから。
人の思いってバカに出来ないでしょって。だから、泣いてしまうんでしょお!

その一方で、アンソンは宿敵の東高、というか日本人相手にチェドキの弔い合戦ともいえる合戦に挑む。
これは、康介が日本人というよりは、一人の人間としてキョンジャへの思いを武器に一人戦ったのと対照的に、民族というものこそをアイデンティティにしているわけだけど、これから厳しい祖国での生活が待っている(ということを、アンソン自身が観客の私たちのようには判っていないわけだけど)彼にとって避けられない通過儀礼であるわけだよね。
でも、その戦いのさなか、桃子に子供が生まれて、アンソンは戦いを放棄して病院へ向かう。
自分のジュニアが生まれたことに涙を流すアンソン。そこには民族だの祖国だのという垣根は全くないわけ。実際、祖国に帰ることは延期する、と即座に彼は言うわけだし。
でも、桃子が、私たちはついていくからと。当たり前でしょと言い、それは撤回されてしまうんだけど。
アンソンのこの結末は、個人と民族のせめぎあいがあいまってて、現状のあの国のことを考えると、かなり複雑なものがあり……。

康介は、天真爛漫にキョンジャに自分の思いをぶつけた。それは限りなく個人的な恋心。でもキョンジャに言われる。「もし、私たちが結婚するなんてことになったら、朝鮮人になれる?」
その時点での康介は答えることが出来ない。そんなこと、考えたこともなかったから。
でも、キョンジャは、そういうことを考えざるを得ない環境でずっと暮らしてきた。そして、自分が日本人になることは難しいから、そういう台詞が出る。日本人を憎んでいるこの民族意識の中だから、自分が日本人になるということは、仲間を、家族を、捨てること。
母親はキョンジャに、自分にできなかったことをかけているという。頑なな民族意識から祖国に帰る決意をしている息子ではなく、何かを変える力を持っているかもしれない、同じ女である娘に。でもこの台詞を言っている時点で、キョンジャはまだまだ民族意識に知らず知らず縛られている。
それは彼女が、祖国も日本もどちらも彼女自身の中で消化されていないせいかもしれないし、康介に出会うまで、本当の恋というものを知らなかったからかもしれない。
この台詞を言った彼女と、康介の歌声を聞いて、決意の、そしてクシャクシャの泣き顔で仲間たちに聞かせた彼女とは、多分、全然違うんだと思う。
勿論、康介もね。

とにかくケンカ、ケンカの激しさが、民族問題とラブストーリーという、重くなりがちなテーマの本作を、停滞させず、躍動させている。ケンカはそりゃあ、ネガなものだけど、思いっきり向き合っているという点で、思いっきりポジなんだよね。今は、これだけ正々堂々と、向き合ってないから。
ハングルと京都弁の融合のヴィヴィッドさもワクワクさせるし、何より主演の二人のみずみずしい美しさが大正解なわけで。康介の塩谷瞬、整った顔が上手くボケにハマってて、オックスばりのマッシュルームカットになる冒頭なんてオトボケで笑っちゃうんだけど、何たって整っているから、その美青年っぷりに見とれるし、美青年がピュアに突き進むから、ただただ惚れ惚れするばかり。そしてキョンジャを演じる沢尻エリカの可憐なカワイさは、もう言うことなしで、これがあの、「問題のない私たち」の小悪魔っぷりが恐ろしいくらいハマってた彼女なの!?と驚いてしまう。いやー、女優とは恐ろしいものです。やはり彼女は要注意女優であったわけだね!★★★★☆


バッド・エデュケーションLA MALA EDUCATION/BAD EDUCATION
2004年 105分 スペイン カラー
監督:ペドロ・アルモドバル 脚本:ペドロ・アルモドバル
撮影:ホセ・ルイス・アルカイネ 音楽:アルベルト・イグレシアス
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル/フェレ・マルチネス/ハビエル・カマラ/レオノール・ワトリング/ダニエル・ヒメネス・カチョ/ルイス・ホーマー/ぺトラ・マルチネ/ナチョ・ペレス/ラウル・ガルシア・フォルネイロ

2005/4/14/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
今、最も新作を待ち続けているアルモドバル監督。前作二作があまりにも完璧な世界の構築を成していたから、本作は少々世界が狭まった感じがしないでもなかった。でもだからこそ、監督の気負いのなさを感じたし、何より本作が10年も前から温められていた、極めてパーソナルな題材であるということで、いわばテーマ性で世界に訴えかけた前作二作よりも、監督自身の思いが濃厚に匂い立っている様に思えた。
自伝的な作品であるというのは、少々ショックな気もしないでもないけど……一体どこまでが?などと考えてしまったりして……友人から聞いたエピソードとは言っていたし、つまりはその時代的なものや、土地の雰囲気、そうしたものなのだろうとは思うのだけれど。

完全寄宿制のカトリックスクール。厳格で神聖で優しく信頼できる“筈”の神父たち。男の子同士の純粋である“筈”の友情。ここで神への敬虔な信仰心や、大人への尊敬心が形成される“筈”だった。それが、ことごとに、打ち砕かれる。
こういう、ヨーロッパの、カトリック系寄宿学校の少年たち、というのは、どうしてこうも、ヤバいくらい美しいのだろう。しかもそれが、ヨーロッパの中でも情熱的なスペインという国においては、もう既に少年たちもほのかな色気を漂わせて、それをお互いに気づいている。だから少年同士の興味と信頼の延長線上にある“初恋”も自然な形で発生するし、そうした性的嗜好が醸成するのも、不思議はない。
ここで、初恋の相手同士として出会ったイグナシオとエンリケ。初恋の相手同士であり、大人になってからも、少なくともイグナシオにとってのエンリケは生涯、思い続けた相手である。
と、いうのも、イグナシオはエンリケが大人になってその存在をもう一度思い出した時(いや、エンリケだってずっと思っていたに違いないから、再確認した時、と言った方がいいかもしれない)、もう、既に、死んでしまっていたから。
エンリケをずっと愛していたという、その思いを託して。

エンリケは大人になって、映画監督となった。若き才能を嘱望されている彼のもとに、そのかつての親友であり初恋の相手であるイグナシオだと名乗って、ひとりの美青年が訪ねてくる。エンリケは突然の再会に驚きながらもその相手に対してどこか、ぎこちない。
おそらく、そのイグナシオが本当に、イグナシオ本人だったなら、エンリケはきっともっとうち解けて、長年の空白はあっという間に埋まっていたんじゃないかと思う……そんな風に考えてしまうのは、きっとエンリケもイグナシオのことをずっと忘れられずにいたに違いないと思うから。
イグナシオがイグナシオ本人ではないということを、その最初から直感的に判っていたような気がしてならないのは……そうでなければ、イグナシオが可哀想すぎると思うからだろうか。
自分のことをイグナシオという名前で呼ぶな。今は芸名のアンヘルという名前で俳優をしている、と言うその“イグナシオ”は、本当は弟であるフアンである。この時点でイグナシオはもう、死んでいる。フアンは兄の書いた、少年時代のイグナシオとエンリケをモティーフにしたシナリオを持ってきている。これを映画化できないかと。
かくして、イグナシオとエンリケの少年時代、そしてこのシナリオが実際に映画化されるその映像がその後のように描かれてかわるがわる挿入され、そしてエンリケとこのフアン、そこからあぶり出される真実が描かれていくんである。

少年同士の恋が自然な形であるのだから、そんな少年を慈しむ神父、というのもまた避けられないものであったんだろうと思う。まさに天使の声を持つ少年時代のイグナシオは少年愛嗜好を持つ大人の男性にはたまらないものがあるんではなかろうかと推測される、無垢でありながら同時にヤバいほどの色香を放つ男の子である。
彼を心底愛したマノロ神父は、それが神に罰せられる行為だとは思わなかったのだろうか。
それともそれこそが、神にも認められる神聖な愛だと思っていたんだろうか。
皆でピクニックに来た川辺、茂みの中でイタズラされそうになる場面や、マノロ神父の誕生日に歌わされるイグナシオを「一人、泣きそうな顔で見ている」彼というのは、そのことを本気で信じてそうで、恐ろしくなる。

一方で、イグナシオとエンリケは少年同士としてはかなりマセたところまで思いと関係を深めていく。二人きりでの映画館でのデートでお互いを探り合う。その夜「眠れないんだ」「僕もさ」と話す少年同士の危険な美しさ!
しかし、そこに、寝込みを襲おうとでも思ったのか!?マノロ神父がイグナシオの寝床を確かめにきて、彼がいないことに気づき、ドアをバタン!バタン!と確かめていく恐ろしさときたら、もうどんなホラー映画よりも恐ろしい……そしてその絶対権力者に震えおののいて、トイレに隠れて抱き合っているイグナシオとエンリケのあまりにいたいけな姿ときたら、まさに食われるのを待っている羊そのものなのだ。
イグナシオを全身で守ろうとしたエンリケは、まさしくイグナシオを全身で愛していたに違いない。
そして、そんなエンリケの退学を阻止しようと「この時、初めて身体を売った」イグナシオもまた、エンリケを全身で愛していたに違いない。
でも、その思いはむくわれなかった。マノロ神父は大人であり、子供の思いなど、ひねり潰すことが出来る権力を持っていた。
なぜ、大人は、かつて子供だったはずなのに、子供の時の思いや出来事が、大人になっても決して忘れることはないということを、忘れてしまうのだろう。

かつてのマノロ神父、今は実業家となったベレングエルがイグナシオと再会する。この物語はいわば、そこから始まったとも言える。
イグナシオはあの時、神への信仰をなくした。天国を信じないから、地獄も怖くなくなった。「この時、初めて身体を売った」イグナシオの、その行為が、まるで無意味なものになってしまったのだから、当然だろう。そして今は心身ともに女性となったイグナシオが、その行為がまるで無意味なものだと、何よりも愛する人のためにした行為だったからこそ強烈にそう思っていて……恐らくはそれで身を持ち崩しているだろうことも。
イグナシオはヤク中になっていて、この最悪の状況から抜け出すために、更生施設に入りたいんだという。体からヤクを抜け切り、完璧な女の身体となりたいんだと。
……そうして、エンリケに会いたかったんじゃないの?イグナシオ。
イグナシオが死する直前に残した書きかけの手紙。「これでやっと……」そこで途切れていた手紙。それは、これで、やっと、あなたに会える。そう書きたかったんじゃないかと、思えてならない。

でも、イグナシオは死んでしまった。このかつてのマノロ神父であるベレングエルと、そして実の弟であるフアンとの共謀によって殺されてしまった。
このフアンこそが、自分がイグナシオであると言ってエンリケと会った青年である。エンリケが不自然を感じつつもこの青年に興味を持ったのは、彼が持ってきたイグナシオとの少年時代を記録したシナリオが、まさにあの頃のことを克明に記録していたから。それは、本物だったから。
イグナシオの弟のフアン。芸名をアンヘル。更に言うと、劇中映画として作られるこの「訪れ」といい、その映画がクランクアップした直後に訪ねてきたベレングエルの明かした本当のイグナシオ、フアンとの物語といい、かなり重層的に作られていて、そしてその中で抜群の光りを放っているのは、そのどの場面にもそれぞれの立場で登場するガエル・ガルシア・ベルナルなんである。

まずは、エンリケをかつての親友のイグナシオとして訪ねてくる彼である。本当は弟なんだということを隠すためなのか、ヒゲヅラであるが、エンリケに似合わないと言われて次にはキレイにそりあげてあらわれる。いきなり美青年なんだけれど、演じたいサハラ役にはたくましすぎるとエンリケに言われる。それはエンリケに、あの頃のイグナシオのはかない華奢さが焼きついているせいもあるとは思うけれど、やはり兄とは違う生命力のあるフアンに、無意識ながらも既に違和感を感じていたんだろう。
そんなフアンとしての若々しい肉体的魅力のある彼は、ベレングエルの回想として現われる。イグナシオに呼び出されて脅しつけられるベレングエルなのだけれど、彼と同居しているこの弟、フアンにひと目で恋に落ちてしまう。……しょーがないな、このオッサンは。かつては少年嗜好だったくせに、年をとったら美青年に恋しちゃうわけえ!?

フアンがバイなのかゲイなのかは判然としないところなんだけど(でも、エンリケに色目を使われて、「……ホモめ」とつぶやく場面などあるから、バイか、意外にストレートだったりして)とにかくフアンはこのオッサンの思いに応じてしまう。でもそれは、決してこのオッサンが好きだったわけではないんじゃないだろうか。この時の彼には、自分の兄に対する恥の意識の方が強かったように感じられるから。ヤクに溺れ続け、しかもこんなナリの兄に。全ての事実がエンリケに知られてしまったフアンが、「こんな田舎であんな兄がいるということがどんなに恥ずかしいことなのか……」などともらす場面は哀しくて、そんな、そんな理由でお兄ちゃんを殺しちゃったの!?と思うんだけど、でも、フアンを責めきれないのは、何よりも彼のその後の行動なのだ。
すっかりフアンにホレこんでしまったベレングエルは、彼にそそのかされる形でイグナシオを殺してしまった。まあ、それは、事実なんだろう。でもその後、フアンは約束を違えて、ベレングエルとの関係を、会うことさえ拒絶する。

あの時フアンは、兄のすべてのものを焼いてしまった。証拠隠滅のために。そのはずだった。でもフアンがエンリケに持ち込んだあのシナリオだけは、焼かなかったんだよね。これはイグナシオがひそかにエンリケに送ろうとして、でも居所が判然としなかったから戻ってきてしまっていた手紙と共に同封されていたものだった。それをフアンが読んだのか、コピーで置かれていたものを読んだのか、それは判らないけれど、この犯罪がバレないためには全てを焼き尽くさなければならなかったはずが、こんな一番ヤバいものだけをフアンはとっておいたんだよね。
それは当然、彼が、ここに書かれている事実を知らなくって、兄を殺してしまった後でそれを知って、あのベレングエルが兄を少年時代にレイプした男だと知り、そんな男と共謀して兄を殺してしまったことを知って……激しい自責の念に駆られたんだと、思うんだ。
甘いかな、私……でも、そう思わずにはいられない。だからこそ彼はサハラ役をやることにこだわった。サハラとは、美しきドラァグクイーンとなった彼女が、かつて自分をレイプした神父をゆするという、つまりはイグナシオそのものの役である。フアンはエンリケに、君はたくましすぎるし、劇中のエンリケ自身を演じるのが適任だと言われ、それだってすっごい大役に違いないのに、拒絶する。役のためにいくらでも減量するから、どうしてもサハラ役をやりたい。それが出来ないのなら、シナリオの提供はしないとまで言い、“オーディションをしてくれ”と言って、エンリケと寝ることまで、するんである。

エンリケの大豪邸に行き、広大なプールで泳ごうという時、フアン(この時はイグナシオと思ってる)がパンツを脱ぐのをずっと注視しているエンリケはうう、ヤバイねー。しかもフアンがはいてるゆるゆるの白のブリーフはちょっとキッツイなあ……それにしてもフアンを演じるガエルは、「ブエノスアイレスの夜」といい、もうヘア丸出しがアタリマエな俳優だよな……ヘアだけは見えるようにGパンずり下げるんだもん。別にいいけどさ(いや、そんなん見たいわけじゃじゃないんだけど!)。
結局はフアンがこのサハラ役を演じることになるのは、この時既に同時進行している(というのは、後半、実際の撮影現場が描かれることで明かされる)映像で判るんだけれど、エンリケにたくましすぎる、と言われた彼が、そのたくましさも残しながら、妖艶なドラァグクイーンになりきっているのは、かなりのインパクト。
多分、彼、ガエルにとってこのサハラ役こそが、最も重要なんだと思う。
だって、フアンは兄への贖罪の気持ちがあったからこそ、どうしてもこの役をやりたいと思ったに違いないんだもの。

フアンはイグナシオとしてエンリケに会いにいった。最終的に見れば、役を欲しいために行ったと思われても仕方がないかもしれない。でも、役としては同じようにオイシイと思われるエンリケ役ではなく、どうしてもサハラ役をやりたかったのは、兄の気持ちも知らずに殺してしまった自分ができることは、エンリケを最後まで愛していた兄自身となって、世界に思いを伝えることだったんじゃないかと思う。だから、エンリケにも最後まで自分が弟のフアンだということを言わなかった。バレてるんじゃないかとは思っていたけれど、兄のイグナシオとしてエンリケに愛されることで、罪滅ぼしができるんじゃないかって、思っていたんじゃないかと感じて仕方がない。
フアンはあまり頭がいい方のようには思えないし、エンリケに対する申し開きの言葉も、今ひとつウマく出来ないんだけど、でも、本当に最後まで兄に成り代わりたかったのかもしれないとさえ思う。兄の思いをとげさせてあげたかった。そして、エンリケにも兄を愛してほしかった。そしてもしかして自分も……と思うのは、「……ホモめ!」とつぶやいたあの台詞があるからそこまで思いにくい部分もあるんだけど、ただ……自分には芸名のアンヘルがある。イグナシオと呼ぶな、と執拗に言っていたことが、フアンが役者であることにこだわっているからなんだということは判るんだけど、でも、やっぱり、どこか、兄とシンクロしてエンリケに対する思いがあったような、気がして。

エンリケは、シナリオとは違う悲劇的なラストに作り変えた。それは彼がイグナシオの死を知ったからに他ならないだろうけれど、それに対して、フアンはハッピーエンドがいいんじゃないか、と抵抗した。
フアンがそう言ったのは、兄の思いを遂げさせてやりたかったからなんじゃないかと、やはり思ってしまう。
でも、イグナシオがかつてのマノロ神父に殺されてしまったのは、本当なのだ。この時には知らなかったはずのエンリケがそのラストを用意したのは、あの少年の日、既にあの時イグナシオは殺されてしまっていたんだと思っていたからなんだろうけれど、フアンにとっては、自分が兄を殺したという現実に直面したに違いなくて。
兄に成り代わってエンリケを愛そうとしていた彼にとって、つまりそうやって逃げようとしていたことは否めない彼にとって、それは本当に辛いことに違いなくて。
マノロ神父に殺される場面が終わったあと、フアンは泣きむせぶ。ただひたすら。もう本当に、止まることなく……。後悔と、贖罪、終わったんだという気持ち。それまでは思いもしなかったかもしれない兄への愛情、兄の思いを背負ってのエンリケへの思い……本作の中で様々な顔を見せているだけに、この時の、彼の止まらない涙は、とても深いものを感じさせた。

あの時、所詮子供だからと思っていたに違いないマノロ神父、実際、子供だから抵抗など出来なかったイグナシオ、だから大人になったイグナシオは復讐しようとしたんだけれど、またしても敗れてしまう。そして、それを青年のフアンが兄に成り代わって遂げることとなる。
美しい少年だったイグナシオを思い描いていたベレングエルが、ヤク中でキョーレツなドラァグクイーンになった“彼女”を見て失望したんだろうなと思い、そんなベレングエルにとって、あの頃のイグナシオと同じように、今の“彼女”もあの頃の子供の彼と同じように弱い立場だったに違いないのだ。
それに比してフアンは、見るからに生命力あふれる若者である。ベレングエルがひと目で恋に落ちてしまうのもムリないほど、いやらしいほどの色気に、しかも本人が自覚していない無防備な色気を発散しまくっている若者。
挑む前から、ベレングエルが降参してしまっているのが、判る。図らずも、フアンはその時点で既に、兄の復讐を遂げているとも言えるのだ。
兄には最後まで出来なかった復讐を……。
弱い人間と強い人間が、この世の中に厳然と存在してしまうことを、痛烈に、思う。それは、こんな風に性的嗜好で仕分けされてしまうことも確実にある。濃厚なドラァグクイーンとなりながら、それが強がりであることを露呈するかのようにはかなく死んでいったイグナシオ=サハラを思い、その弱さをこの天才的芸術家としての能力で、決死の思いで世に知らしめようとしているアルモドバル監督自身を思う。
そう、それこそが、このエンリケそのものなのだ。
その後として描かれるエンリケ、熱意あふれる映画監督として、活躍を続けている旨がクレジットで示される。ちなみにフアンはこの映画でスターとなり、ちょっと落ち目になって以降はテレビで活躍、ベレングレルはその後もフアンにつきまとい、結局はフアンの車によってひき殺されてしまう……このあたり、それぞれに対するアルモドバルの厳しい視線が感じられて、コワい気もする。

ガエル・ガルシア・ベルナルが、イヤラしいぐらいの美青年ぶりを発揮し、同じく相当の美青年のエンリケ役のフェレ・マルチネスとハードなセックスシーンを演じてたりして、かなり鼻血モノなんだけど、しかしガエル君、……足短いのね、かなり。筋肉質な身体を作ってるから余計にそう思うのかもしれないけど。★★★☆☆


花井さちこの華麗な生涯 (発情家庭教師 先生の愛汁)
2004年 90分 日本 カラー
監督:女池充 脚本:中野貴雄
撮影:伊藤寛 音楽:岸岡太郎
出演:黒田エミ 螢雪次朗 松江哲明 伊藤猛 速水今日子 水原香菜恵 川瀬陽太 小林節彦 アグサイ・レザ 本多菊次朗 松原正隆 野上正義 久保新二 元井ゆうじ 吉岡睦雄 葉月螢 絹田良美 石川裕一

2005/11/27/日 劇場(ポレポレ東中野)
本編前に流された本作の予告編でかなりウケた。だって、女池監督ったら、自民党広報部に電話をかけて、小泉首相にこの作品をぜひ見てもらいたいなんて言うんだもん。あ、でもJ民党で、K泉ってピー入ってたけどさ(笑)。「ブッシュ大統領も出てくるし、内容といえば風俗嬢が北朝鮮と中近東のスパイの密会に出くわして撃たれるんだけどなぜか死ななくてっていう、ピンク映画のコメディなんですけど……」なんてしれっと言うんだもん!いや、きっと本当はすんごく緊張しながら言っていたんじゃないかと思うんだけど、それにこの予告編のための行動だろうけど、呆然と口ごもる電話の向こうのJ民党広報部が可笑しくて!

いやー、でも、シュールっつーか、かなり意味不明なんだけど、そんな風に見ちゃって良かったのかな?女池監督ー。ま、これをヘンにマジメにとると、面白くなくなっちゃうだろうな、と思い、フツーに笑いながら見る。んー、でも90分はちょっと長かったかも。通常ピンクは60分、今回はインターナショナルバージョンとして(!国際映画祭にバンバン出されてるんだってっ!)30分長くなってて、希望としては60分の通常版を見たかった気も。ヒロインの花井さちこが哲学的な、難しいことをひたすらしゃべくりながらセックスする、っていう場面が何度も出てくるでしょ。その何度もが、ちょっとクドかったような。それだけの追加ってわけでもないだろうけど、セックスシーンとしては毎回同じ趣だからクドく感じちゃうんだよね。あ、いや、色んなバージョンのセックス見せろって言ってるわけじゃないんだけど(汗)いや、言ってるわけなのかな……自爆!

うーむ。それにしてもなんなんだこれは(笑)。冒頭は、家庭教師のコスチュームの彼女が、アホな授業を展開する場面。「アメリカの首都はどこですか」「ニューヨーク」「正解」「じゃあ、先生、ニューヨークの首都は?」「んー、ワシントン?」バカまるだし……。
まっ。こんな具合で本当の家庭教師のわけはなく、これは無論、その後急に頭が良くなっちゃう展開に対する痛快な伏線であるわけだけど。
「先生、自分、我慢できないっす!」と生徒が押し倒す。「まあ、いつもこんなこと考えてたの?いけない子ね」「イクっす、自分、イクっす!」おいっ(笑)。「ごめん……先生ホンバンやっちゃった」壁にはホンバン禁止の張り紙が。ここでようやくここがイメクラであることが判る。いや、その前にこんなアホな授業で、ガランとした部屋に机とベッドしかない時点で判るか(笑)。

で、だからヒロインの花井さちこはイメクラ嬢。仕事後、ふと入った閑散とした喫茶店で、もう一組いた男二人の客が、北朝鮮と中近東のスパイだった、らしい。そんなの、女池監督の予告編の解説聞かなきゃ判んなかったけどっ。あ、そうそう、物語に最後までかんでくるこの北朝鮮のスパイってのも、字幕では(なんたってインターナショナルバージョンだから、英語字幕がつくのだっ!)ノースコリアって出るんだけど、会話では「あなたの国」としか言ってないでしょ。このあたりのビミョーさ加減がイイのよね。
んで。二人は突如仲間割れし、北朝鮮スパイが中近東スパイを撃ち殺す。そしてその場に居合わせた花井さちこの額のど真ん中にも銃弾がっ!しかし喫茶店のマスターに抱き起こされた彼女、ぱっちりと目をあけ(爆笑!)「救急車を呼ぼうか?」というマスターの言葉もどこへやらで、ふらふらとそのまま外に出て行ってしまう。
ここで、床に落ちていた銀色の小さな筒が、彼女の落とし物かと思ってマスターがバッグに入れてしまった、ことがマズかったのだ。

そっ、それにしても、額に銃弾を撃ち込まれ、しかもその銃弾をアイペンシルで押し込んだら脳の中心に到達しちゃって(!!それを図解アニメーションするのがショーゲキッ!)それ以来いきなり難しいことに理解と興味を覚えだすというヒロインの造形には……なんというか、何か意味深なものがあるようにも思えるけれど、単純に可笑しい。
だって、ミニスカの奥のぱんつまるみえで、道端で売ってる哲学書(なんで道端で哲学書売るかな……)を読みまくったりするんだもん。おねえさん、ホントまるみえですって。
んで、その著者の大学教授を訪ねた彼女、論争を挑んで「机上の論理より実践」てなわけで、哲学論争をあえぎながら唱えつつ、セックスに及ぶわけである。で、この教授とのセックスの合い言葉は、哲学者のノース・チョモスキー。うーむ訳判らん(笑)。

その頃、北朝鮮スパイは彼女のアパートを探り当てて乗り込んでるんだけど、花井さちこはそのまま教授の家に、息子の家庭教師として住み込むことになったもんだから、彼女は待てど暮らせど帰ってこないわけ。あまりの乱雑な部屋に呆れた北朝鮮スパイ、部屋を片付けだし、洗濯までし、ま、ついでに洗濯前のパンティをポケットにしまったりして(笑)……スパイがそんなことすなー!しかもそれをひょろりと手足の長い伊藤猛が、狭い部屋の中をウロウロとしながら家事をやるもんだから余計に可笑しい。
でも極めつけは、アレね。宅配便がやってくる。拳銃を無造作に持ちながらサインをするもんだから、向けられた拳銃にビビりまくる宅配員のお兄ちゃん。あわれ宅配員のお兄ちゃんは撃ち殺され(何も殺さんでも……)バスルームに二つ折りに放り込まれる(目をむいてバスタブに二つ折りのお兄ちゃんが笑えるのは……いいんだろうか……)。届けられた箱を開けてみると彼女の実家からのままかりと米。スパイ、ご飯を炊き、茶碗にてんこもりにし、ままかりを頬張り「……旨い」ごはんを猛然と食べ出す。あの、あの、あのねー!どこの世界に忍び込んだ家でままかりとごはんを正座して食べてる北朝鮮スパイがいるのよ!ってここにいるか……いやいや!

花井さちこは味覚がかなり鈍感になっている。甘さも辛さも感じないんだけど、後で急にそれが襲ってきたりもする。頭の中にさまざまにフラッシュバックする映像。そしてその中で彼女に話し掛けてくるのはブッシュ大統領!?実は彼女のバッグに入れられた巨大な口紅みたいな筒は、キュルキュルと回してみると、ブッシュ大統領の指、のレプリカ、が出てくるというものだったのだ。真っ赤に塗られて爪に星条旗がほどこしてあるという指、真っ赤、なのは口紅に模しているからかもしれんけど、ひょっとしたら彼の決断で様々に血に染まったことを暗喩しているのかも……いや、そこまでマジメに考えることはない?しかしさー、このブッシュ大統領ってーのがさ。ま、当然といえば当然、常にお面状態で喋らせてて、そのずっと無表情なのがとても可笑しいんだけど、それもまたマジメに考えるとシニカルにも思えてくるのよね。そう、何も考えていない男だと。何も考えずに、世界をオモチャにしている男だと。

ブッシュ大統領の指のレプリカ、つまり指紋まで精巧にコピーされた、ということは、その指紋でなければアクセスできないものがあるから、北朝鮮と中近東のスパイはこれを必死に手に入れようとしていたのだ。最終的にはそれによって世界を破滅させる核ボタンを押すところまでいってしまうのはいかにもブッシュや世界を牛耳るアメリカに対するアンチテーゼだけど、それさえもラストにはシュールなギャグに落ち込ませてしまうんだから!
いやさ、まだ話は途中だった。この指のレプリカが思いっきり糸でつられて操作されているのも笑ったけど、この指にいざなわれてとあるビルの屋上に行った花井さちこの目の前に、ザザザッとばかりに登場するブッシュ大統領の映ったテレビは、おーい!思いっきり支柱にロープつけて下から引っ張ってるじゃないの!こ、これには虚を突かれて大爆笑。こーゆー確信犯っぷりがなんともイイんだよなあ!
ブッシュ大統領の指は、花井さちこの“中”に入り込んで、彼女をもだえさせまくる。テレビの中のブッシュ大統領が見守る中、殺風景な屋上で太ももあらわな彼女がもだえまくる画は、す、すごいシュールだわ。こんな画は見たことないっつーか……いいのか!?ブッシュ大統領が見たら(っていう仮定も凄いけど)驚くだろうなあ(笑)。

でもさ、ここでブッシュの指が入り込むのも“穴”なら、彼女の額にあいたのも“穴”であり、で、女の“穴”てーのはやはり……ついつい意味を感じちゃうよなあ。
劇中、(今度はホントの)家庭教師として教授の息子に「すべてはこの穴から始まったのよ」と世界の始まりの穴を指ししめす場面もあるし。ホントの家庭教師になっても、最終的にヤッてることは同じってトコが花井さちこが花井さちこたるゆえんだが……。
ま、この息子がやたらと政治や軍事に興味があって詳しい、のはいいんだけど、頭でっかちになってしまって、つまりは親と同じ、机上の論理であり、今ここにある、リアルを彼女は教え込むわけで。
この図式は極端ではあるけど、でも男と女の方向性を案外的確に示しているよーな気もし。
本能的なものは強くあるのに、それを机上の論理に隠して虚勢を張る男と、本能的、感覚的なところで勝負しなければ世の中渡っていけない女と。
彼女の“穴”はまさしく世界の全て。額の穴をのぞいてみると、様々なものが見えるのだ。世界の、残酷だったり理不尽だったりするもの全てが。

でね、ついに花井さちこの居場所をつきとめた北朝鮮スパイ、でも彼もまた別の追っ手に追われ……二人して行き着いたのが、ブッシュ大統領の指によって、全ての世界に核爆弾を発射できる装置が隠されている場所。“ノースコリア”が喉から手が出るほど欲しいもの。
花井さちこにはある情景が頭にチラついている。それは願望の夢なのか、それともこれから先の幸福な未来なのか……「サランヘヨ」と言い合う彼女とこの北朝鮮スパイ、の情景。
でも、彼女は世界を爆破させるボタンを押してしまうの。
次のシーン、海岸を歩いている彼女。もうすっかり元の、ちょっとバカな風俗嬢の頭に戻ったらしい。男に声をかけられる。ついていく。その海岸の向こうに落ちてゆく三つの白い筋。

ドカーン!と宇宙空間に放り出される彼女が、その額の穴に埋め込むのが地球!?シュールだなあ……っていうか、ワケ判らん!いや全編ワケ判らんけど(笑)。いやー、何だったんだろう。凄い世界だったなあ……。

本作の後にはまたしても彼女をヒロインとしての次回作の予告編が流れたんだけど、そこでもブッシュ大統領はこんな具合にエロエロなのよね。あ、でもその予告編では花井さちこの操る腹話術人形だったけど(笑)。この彼女の一人芝居が最高に面白く、花井さちこを演じる黒田エミはプロ格闘家でもあるというんだけど、このコメディエンヌっぷりは結構ヤラれちゃうんである。だってさ、「さちこ君、君をファーストレディにしてあげるよ」「やめてください、大統領!」とか延々一人でやってるんだもん。腹話術人形にせまられちゃって(笑)。しかも、拒絶する彼女に業を煮やした大統領が差し向けた女殺し屋?と屋上(またか……)でキャットファイト。でも戦う二人ともこらえきれないのか半笑いなのも可笑しいし。そして最後、ブッシュは屋上から落ちてしまい、哀れバラバラに。「大統領ー!!!」と駆け寄る花井さちこ、よくやるよ!★★★☆☆


馬場と四人の盗人
2005年 20分 日本 カラー
監督:中屋F実奈子 脚本:中屋F実奈子
撮影:音楽:
出演:金子和弘 長谷川雅也 磯村将友 丸山力臣 本間由人

2005/4/29/金 劇場(下北沢トリウッド/新映画党上映会)
短篇だっていうのに、これだけの“間”をまるで恐れずに入れてくるのが凄い。短篇だっていうのに、これだけの静けさで貫き通すのが凄い。短篇だっていうのに、結構じんとするテーマ性を持っているのが凄い。
いや……つーか、私、短篇に対して偏見持ちすぎか?
でも、怖いと思うんだよね、普通。短篇っていうと、そこで語りきらなきゃいけないっていう怖さがあると思うから、勢いと饒舌の作品が多い気がするし。あるいはそうでなければ、それほどのストーリー性を持たないものにするとか。でもこれ、ストーリー性も十分あり、人間関係も十分語り、そしてニヤリとさせるオチまでつけてしまう。それでこの間とこの静けさである。これって、すんごい、度胸がいることだと思うの。

アパートとも言えないボロ屋。五人の男どもの共同生活。押し入れで寝たりするヤツもいて、ちょっとオタクオネエ入っている男がいつもみんなの食事を作ってくれる。不思議に安らぐ場所。でもそこで、主人公馬場の、親から仕送りしてもらった現金がなくなってしまうんである。

冒頭、この馬場が金がなくなったことを皆に告げて、「こんな僕からカネをとらなくてもいいじゃないですか……」と訴える場面から始まる。短篇なのに入れ子構造なんである(私もしつこいけど)。そして場面が戻り、このボロアパートでの日常生活が淡々と活写される。手乗りインコを大事に育てている男が、どうやらそれが苦手らしい馬場にそれでちょっかいを出している。エレキギターをひたすら弾いているヤツがいる。そしてあのオタクオネエが「ごはん出来たよー」と皆を召集する……。

馬場は最初、カネがなくなったことを皆に言えなくて、こっそりみんなの荷物を調べちゃったりする。新しいバイトでも始める気なのか、雑貨屋で履歴書を買おうとするんだけど、そんな小銭すらなくて、すごすご引き下がってきたりする。もともと馬場はこの東京に何かを探しにやってきた。父親からは、「人に盗まれないものを身につけろ」と常々言われていた。それが何かも判らずに、そうしてカネを盗まれちゃって、馬場は今呆然とたたずんでいる。そしてどこかヤケ気味に、ここにいる誰かがとったんだろうと訴えるんである。「どうして俺たちの誰かがとったんだというの」そうオタクオネエはこの平安を乱した馬場を責めるように言う。馬場は黙り込み、ごめんなさいと頭を床にこすりつけ、そうして出て行く決心をする……。

夢を見つけるために東京に出てきたという理由からして東京という場所に依存していてズルいように思うし、しかもいまだに親から金を送ってもらっている、そんな甘さを彼は指摘されてしまったのかもしれない。この静けさ、この間が、そんな厳しさを伝えてくるように思う。田舎へ帰る用意をしている馬場に、オタクオネエが「これ、少ないけど」と餞別をくれる。「出て行かなくてもいいんだよ!」と声をかける。馬場は東京駅で新幹線の切符を買おうとあの餞別の封筒を開けると……そこには金ではなく、あやしげな金券と、そして部屋のカギが入っているんである。馬場は思わず笑みを浮かべ、くるりときびすを返す。「人に盗まれないもの、それは僕の意志です」そう言ってあのアパートへと帰る雑踏にまぎれてゆく……。

こんな風にちょっとジンとさせながら、ラストのオチ、あの手乗りインコのかごの下から、盗まれた現金書留の封筒が取り出されるアップで終わるというのはなかなかにブラックが効いていて、ニヤリとさせてくれる。優しい住人たちとの人間関係を描いていそうで、いやいや、社会はそんなに甘くはないんだよと言っているようでね。それにしてもこの作品世界の静けさはイイ。市川準の映画みたいにさえ、感じさせる。それでいて、どっか小市民的なおかしさがあって。凄く、世界感が完成されているんだよなあ。★★★☆☆


孕み-HARAMI-白い恐怖
2005年 76分 日本 カラー
監督:田尻裕司 脚本:佐藤有記
撮影:飯岡聖英 音楽:奥慶一
出演:前田亜季 矢口壹琅 高瀬アラタ 中山玲 磯貝誠 はやしだみき 今井悠貴 絵沢萠子

2005/11/29/火 劇場(渋谷シネ・ラ・セット)
なんか、シャイニングとか連想してしまった。冬の、外界から閉ざされた潔癖な空気、悲鳴をあげて逃げ惑う女、どこまでもタフに追いかけてくる不気味な男……みたいな。
でも、ここでは、ヒロインの前田亜季は悲鳴ひとつあげない。シャイニングばりの悲鳴をあげるのは彼女のおばであり、……あ、そうか、このやたらとパワフルに(キャラもパワフルだし)悲鳴をあげまくるおばさんのせいで、シャイニングっぽく思うのかあ。
ホラーだけど、正直怖くはない。全然。恐怖、はおバケ方面ではなく、は人間だったのね。人間がバケモノに変わる恐怖。でもそれも、この白い世界で展開されるせいか、美しく思える。
特に、最後、純白の雪と、返り血で顔が赤く縞模様になる前田亜季とのコントラストは、ちょっと見とれてしまうほど美しい。
私はね、おなかの中の赤ちゃんがバケモノに変わる怖さなのかと思ったの。彼女が妊婦である必要はどこにあったのかなあ。再三、おなかの中の鼓動やその中で息づく胎児を連想させる映像は出てくるんだけど、何か……あんまり関係なかった感じがする。

予告編では、彼女がなぜ妊娠したのか、っていうくだりも解説されてたけど、本編ではそれも全然語られない。ただ、唐突におなかの大きい彼女が、両親と連れ立って妹夫婦のいるこの雪山に訪れるところから始まるんである。
そう、唐突に……彼女の若い両親でさえ、娘が今突然、おなかが大きくなったように戸惑っている感じがする。それは観客の感覚と一致するのだ。
一番戸惑っているはずの、妊娠している少女、ゆいが一番落ち着いている。前田亜季のこの落ち着きっぷりが、本作のトーンを決定づける。それにしても、前田亜季、なのね。最近の彼女の活躍には驚く。姉の前田愛が先に出てきたけど、残ったのは彼女だったのね。

妊婦の割にはさっさか歩いたりと、ベタな妊婦演技をしていないのがいいし、意識しないほどの、ぼんやりとした不安、といったものを感じさせる彼女の表情は素晴らしい。
彼女が一番最初に、車の中からあの奇妙な男を発見する。雪の、吹雪の中を猛然と走ってくる盲目でぐしゃぐしゃの頭で、無精ひげの、何枚も重ね着をした、黒い男を。その様はとてもブキミで、でも彼を見た時も、彼女はかすかに眉をひそめる程度の表情の変化しかない。
それは最後まで実に一貫していて……周囲の人間たちがどんどん恐怖にとらわれていくなかで、彼女はそれほど怖がっていないのだ。
それこそが周囲の人間を不安にさせる。

それにしてもゆいの父親は、なぜこの妹夫婦のペンションを手伝おうと来たんだろう。
会話では、母親が「勝手に仕事を辞めて……」みたいに言っている。で、父親は黙ったままである。この父親を演じるのが高瀬アラタで、うわ、嬉しい!でも、見てる時には実は気づいてなかった……だって私の大好きな彼の笑顔を見せないんだもの。
何かぼんやりと、さしたるやる気も感じられないまま、娘の出産を理由に来てしまった、そんな感じである。
それに、この雪山の中のペンション、彼の妹(つまりゆいのおば)が言うように、オフシーズンには客もいないし、この二家族を養えるほどの稼ぎがあるとは思えない場所なんだよね。
今の、雪に閉ざされた状態では、オンシーズンの情景さえ、目に浮かばない。

だもんだから、母親がヒスを起こすんである。
「こんなところで暮らせない!」と。
蛇口は出しっぱなしにしていないとすぐ凍ってしまうし、日がな一日除雪していないと埋もれてしまうし、隣り近所との連絡が取れないとあっという間に孤立して、家ごと遭難しかけるようなところ。
しまいには、「(こんなところに来たのは)あんたのせいよ!」とお腹の大きい娘につかみかかる、なんてことまでしてしまう。

しかしどうも……この母親が一番、あの盲目の大男をブキミに思っていたらしいんだよね。
それは、ある意味、察知していた、ということだったのかもしれない。
娘のゆいは、不思議とこの男を怖がらず、それどころか興味を覚えて自ら近づく。最初こそ、この男、おば夫婦がご近所さんとして仲良くしているだけあって、危険人物というわけじゃなかった。沢山の鳥とともに暮らしている、静かな男。
しかし、彼は心を閉ざしているらしい。というのも、何ヶ月か前から一緒に暮らしていた母親が行方不明になってしまったから。
なぜか、こともあろうに、ゆいがその死体を見つけてしまうんである。
母親はイラだっているし、居場所のないゆいがいたたまれなくなって、雪山をさまよっていた時、突如真っ白な雪の中から出てきた絵沢萌子の顔!!
なんだかでもそれは……不思議にファンタジックで、怖いというより……妊婦の前田亜季と、真っ白い無言の世界と、死体、というのが。

この真白い世界、吹きすさぶ風景は、確かに現実味が感じられない。
田尻監督は、北海道の人なんだ。知らなかった。その彼が雪の風景を描きたいと思ったのは道理なんだけど、私の中では雪の風景には、北海道の開放性と、青森の閉じ込められる感じが対照的に存在してて、ここではそれが絶妙にミックスされてる感じがするのだ。
青森の冬、その雪の世界は閉じ込められてても、それがどこか心地いいのだ。部屋の中にいるみたいで。
北海道の雪原はすがすがしく、開放性はあるけれど、果てしなくて、放りっ放しで、怖い。
その二つの、ネガな部分がここに集約されてる感じがする。閉じ込められているのに、果てしなくて、巨大な密室に閉じ込められているような、怖さ。外なのに中みたい。外界から閉ざされる感覚。

「こんなところで暮らせるわけないじゃない」とヒスを起こした母親だったけど、その後のシーンで、ゆいに料理を教えたりしている。
「カレーを教えておくわ。あんた好きでしょ」
教えておくわ?ちょっとひっかかるような……。まあ、ゆいが母親になるということで、教えておこうという意味なのかもしれないけど……何か、彼女がこの後、あの大男、坂田に殺されることを、どこかで予期させるような台詞である。

坂田はどの時点で狂気に陥ったんだろう。
母親が行方不明になった時点から、心は閉ざしていたから、その死体が発見されて、閉ざされていたものが一気に噴出したのか。
あるいは、もう既に心の中でふつふつと狂っていたのか。
盲目の彼は妄想にとりつかれる。目の前に現われる、雪で真っ白に凍った母親。バケモノのように襲い掛かってくる。
彼はその母親を必死に締め上げる。でも彼に母親と見えていたのは、ゆいのおばだったりして……仲良くしていた隣人が突然恐怖の殺人者となり、おばは金切り声を上げて逃げ出すのだ。
盲目、のはずなのに目の前の人間が死んだ母親に見えて、相手をしめあげる、というのもちょっとおかしいな……と思わなくもないけど、そういうツッコミは無粋かな。
これをキッカケに彼はこの家の住人に次々に襲い掛かるんである。

しっかし、この坂田は、もう見たまんま、オウムの麻原をほうふつとさせるものがある。いや、見た目だけなんだけどね。別に宙に浮いたりはしないけど。でも……似てるよね。雪の中にふっと現われる麻原、は確かにコワいな。
あ、もしかしたら彼がぷつっとキレた原因は、この家の男の子、つまりゆいにとってはイトコにあたるおば夫婦の息子のせいだったのかもしれない。
この男の子は登場シーンから、ひょっとしたら坂田よりもブキミである。テーブルの下に、ヘビを持って隠れてて、足元からゆいを見上げるんである。でもそんなことされても、ゆいはやはり眉をひそめるぐらいで驚くどころか動じもしないんだけど。
彼はこの盲目の大男にはしゃいで雪ダマをぶつけて、キャッキャッとはしゃいだりするんである。ヤバいな……一番やっちゃいけないことを……。
雪ダマの飛んできた方向から察知したのか、坂田はこの男の子に向かって猛然と走ってくる。
その姿に、恐怖を覚えたのはゆいの母親。この男の子のお母さんであるおばは「じゃれてただけでしょ」と笑い飛ばすんである。ノンキな……。
実はこれがラストシーンの衝撃と、しっかりと符合する大事な伏線のシーンになっているのだ。

皆殺しにされて、ゆいとこの男の子だけが残ってしまう。闇の中、雪の白さだけがふわりとほの明るく、道を閉ざされて外との連絡もつかず、今ある食料だけで何とかしのがなければならないという状況で、彼はやってくる。姿の見えない母親を探しに出ると、赤い水たまりが出来ている。腰を抜かさんばかりに驚くおば。「指が!指がああ!」
それまではぼんやりと、雪かきを手伝うぐらいだったゆいの父親は、使えもしない銃を持って猛然と外に出る。
そして取り残された三人、ゆいとおばと男の子、そこにシャイニングよろしく坂田がやってくるんである。
キャーキャーと叫び、逃げ回るおばが、事態をよりシャイニングにしていてそれはどこかふっと可笑しくなる雰囲気さえあるんだけど……坂田に対抗するべく武器を探していたゆいがハサミを見つけて、ドアに映る影にガチャリとあけてブッ刺すと、それがこのおばさんだしさ!あ、でもゆいが殺したわけではないのよ、もちろん。その後このおばは坂田に追いつかれ、断末魔の叫びをあげて、二人の目の前で惨殺されるんである。

ゆいは男の子を守って逃げに逃げる。でもその逃げっぷりも、何かどこか落ち着いている。ゆいは、今ここにお腹を大きくしていることに現実味を感じていない感覚が、全編通してあるのだ。雪の積もった屋根の上を、目をつぶって歩いていたり、していた。それを父親が見つけて、彼女の頬を殴ったりしたんだけど……でも父親もそうしながらもどこかうつろだったんだよな……。
あ、ごめんごめん、何かここで急に思い出したから話が戻っちゃったんだけど。おばによると、ゆいの両親も彼女と同じぐらいの若さでゆいをもうけたんだという。そうだよね。高瀬アラタなんてまだ若いもの。
その割に、娘がこの年でこんなことになったことにもてあまし気味なのは、あの頃の自分たちをどう扱っていいのか判らないような感じだったのかな……。
自分たちの責めを、またここに繰り返して突きつけられた、みたいな。

話を戻そう。で、ゆい、一度は坂田に追いつかれて、絶体絶命になるものの、とにかく男の子を逃がして、必死に彼に抗い、立場逆転、倒れた坂田を返り血を浴びるまで、何度も何度も何度も殴りつける。
正当防衛、だと思う。けれど……ただこの時点で、倒れた坂田は、それまでの狂気の男がどこかに行ってしまったように、観念したように、あるいは元の静かな男に戻ったように、ゆいを見上げていたのに。
あの、鳥をそっと手の中で温めるように慈しんでいた坂田。
坂田を無言でただただ殴りつけるゆいを男の子がじっと見つめている。坂田が動かなくなり、ゆいは血だらけの顔をふとふりむかせる。男の子が、あの時坂田に向かって投げたように、雪ダマを彼女にぶつける。ただ、あの時坂田にぶつけた時は、無邪気に、笑いながら、だった。この時、男の子ははっきりと、嫌悪感をむきだしにして、彼女に雪ダマをぶつけ、こう言うのだ。
「バケモノ!」

これが、ラストシーン。確かに、血まみれで、呆然と振り返る前田亜季は……バケモノ、だったかもしれない。ずっとこの男の子を坂田から守ってきたのに、守ってきたはずだったのに、最後は、自分の恐怖を取り払うために坂田を打った。
人間がバケモノになるって、そういうことかもしれない。
でも、雪の白の中、鮮やかな血にまみれた前田亜季は、やけにキレイだった。

本当のラストシーン、クレジット後に、あの時ケガをしていた黄色いインコが雪の中、バタバタと飛び立とうとしている。真っ白の雪にレモンイエローがまぶしく映える。坂田がともに暮らしていた鳥たち……鳥って可憐だけど、ちょっとコワいよね。
ひょっとしたら、この最後の最後のラストシーンが、なぜか不思議と、最も怖かったかもしれない。★★★☆☆


春眠り世田谷
2001年 80分 日本 カラー
監督:山田英治 脚本:山田英治
撮影:郡司掛雅之 音楽:
出演:大森南朋 今井あずさ 紀伊修平 川屋せっちん 永井英里

2005/3/14/水 劇場(渋谷ユーロスペース/大森南朋特集/レイト)
いやーそれにしても驚いた。上映15分くらい前についたら異様なほどの人だかりで、もう立ち見だっていうんだもん。若いオンナノコが、多い、多い。大森南朋ったら、一体いつからこんなモテモテになったのおー!?いや、そんなん、以前からなんだろうけれど、こういう風に形として遭遇すると、ホントビックリする。彼って正直美形ってワケじゃないし、スタイリッシュというわけでもないし、でも、イイんだよなという、日本の女性は結構見る目があるんじゃないのと(と、私自身を誇ってみたりもする(笑))。それとももしかしたら今回の上映作品は特にそういう意味で客を呼んだのかもしれない。私は知らない作品だったんだけど、ちょっと検索したら大森南朋ファンの間では観てみたい作品としてトップクラスにあげられているみたいだし、それがなぜかというと、これが本当にたまらないほどに、母性本能くすぐりまくりの大森南朋、だからなのだ。大森南朋を女から見た男性的魅力の役者として語るなら、やはりこの点だろうと思うもの。結構さまざまな役をやっているけれど、そのさまざまな役の中でも、彼がふっとみせる、弱気の、泣き出しそうにさえ見えるあの目に、女はコロッとやられるのよねー。で、本作はそれが大全開。立ち見、ならぬ通路に座り見でお尻が痛くても、その目にとろけて、ああイイわあ、と思えちゃうわけ。

とか言いつつ、結構切実、身につまされるというか、いやそんなこと言ったら少々サバ読んでることになっちゃうな。こういう感覚を懐かしく感じてしまってるのね、きっと私。男も女も、30前のああ、どうしよ、っていう気持ちをね。何かを変える最後のチャンスなのかなっていうね。まあ、私はこの大森南朋演じるコウタの彼女みたいにバリバリキャリアウーマンというわけではないし、コウタ自身のように漠然としてでも何か夢を持っているというわけでもない。結婚や出産に対する願望や焦りがあったわけでもない……あら、そう考えたら、別に何を共感するわけでもないんだけれど(汗)なんかでも、あるよね。30手前ってさ、具体的なことがなくても、こういう焦りみたいなモノが。ああ、そう考えれば、もしかしたら、そこでもうちょっと悩んで焦っておけば良かったのかなあと、もはやなーんも考えなくなってしまった私は思ったりする。そんな彼らが今やもはやうらやましく思ったり(ほんのちょっと前のことなのにね……年をとるのは早いのよ)。

でも男性ってさ、そういう漠然とした焦りに後押しされて行動に出られる可能性が、女性より大きいような気がする。このコウタのように。今の世のトップランナーの男性たちが、大抵これぐらいの年に転機を迎えているのも偶然じゃない気がする。そこで成功する人と、失敗する人がいるんじゃないのかな、という感じ。
コウタはずっと勤めていた会社を辞めて、映画を撮ろうと決意する。冒頭は、そのことを怒ってるの?と同棲している彼女に問いかけるシーンである。台詞を言う人物にカメラがいちいち振れるのが少々うっとうしく感じながらも、このうっとうしさが、実はコウタ自身を象徴しているのかもな、と後から思ったりする。
彼は映画を撮ろうとか言ってる割にはそういう人脈があるって感じでもないし、手段があまりにも見えなくて、シナリオ執筆しようとしてはいるものの、そういう才能があるのかどうかさえ判らないまま手前で頓挫してしまっている。
ひょっとして、ただフツーに映画ファンなだけで、仕事に疲れて、自分は好きなことをやるべきだ!とか思っちゃって、こんなザマになっちゃったような気さえする。

でも、彼、“アイディアは出てくるんだけど、書けない”ことで、何が自身の存在意義なんだろう、みたいなところまで思いつめちゃうんである。映画を作ることに意味はあるのか、そんなこと人間に必要なのか、一体自分に生きてる価値はあるのか、人間が生きてる価値はあるのか、……そんなことを、つらつら考えちゃって、一日中ぼーっとマンガ読んでみたり、川エビ獲ってみたり、家の中のこともなーんにもせずに、彼女が仕事から帰ってきても、うたた寝からぼーっと起きて迎えるだけ。デキた彼女もさすがに堪忍袋の緒が切れるわけ。
でもなんかね、彼女、言い負かされちゃうというか、言いくるめられちゃうというか、この頼りない、ナサケナイ、ヒモ状態の彼が、なんかすっかり弱々しく、自分って何なんだろ?なんて自問しちゃってるもんだから、ついついそんな彼に怒りきれず、受け止めちゃう、んだよね。
うーん、デキがいいなあ。この辺はちょっと男性の理想入っているというか、いやむしろ、男性の女性に対する視線の優しさかもしれない。実際、こんなヒモ男にはここまで来たらフツーにキレると思うよ、女はね。

コウタは、友人の彼女に子供が出来て、その妊婦の姿をリアルに見たりなんかして、何か色々考えちゃうわけ。あ、でもこういうあたりはちょっと新鮮な気がしたなあ。妊娠できるというのは確かに女だけ。する、しない、出来る、出来ない、なんてことで女は色々と悩んで大変なんだけど、それとは全く逆の立場でのこういう、男の自己問答というのは考えたこともなかったし、思わず、へえー……なあんて、思ったりして。
仕事をしている時には目標が設定されていたから、それに向かって突っ走ることが出来た。でもそれが何もなくなってしまったら、じゃあ自分は何のために生きているんだと、自分が生きている価値はあるのかと。
あー懐かしい(笑)。バイトクビになって就職浪人してた時、そんなこと考えていたよーな気がするよ。

でも、自分が存在した証しとして、自分の子孫を残したいって気持ちも、判るな。
多分、こんな風に、女が必ずしも妻となり母となる時代じゃないから、今の女性たちにもこのコウタの気持ちはしんしんと、判るような気がするのだ。
殊にね、血を残していく使命を負わされている女という立場だと、余計に判る気がする。コウタのそんな姿を見ながら、あんたなんて男だから甘い甘い、私たちの方がそういうナヤミにさいなまれているわよ、とか思ったり。
コウタは、自分の子孫を残したいという思いから、彼女に子供作ろう、と持ちかける。その前にすることがあるでしょ、と彼女につっぱねられ、結婚?じゃ、結婚しよう!と言う。
……不毛な私にだっていくらなんでも判っちゃう。これはヒドいよね、なんぼなんでもさ。
彼女はコウタをさらに拒絶する。そうしたら彼ってば、コンドームに針で穴を開けたのを用意して、判った、じゃあとりあえずエッチしよ、と言い、あっち行け!と決定的に彼女に拒絶されちまうんである。
ほんっとにね、母性本能刺激されるだけに、このコウタ、引いては男ってヤツはどーしよーもないやね。
“とりあえずエッチしよ”って……とりあえずって言葉が、どれだけ女を傷つけると思ってんのかね。

それでも自分が傷ついたような顔をして、彼は出て行くんである。精子バンクに登録しようっていうんである。ええ?またいきなりの展開!何かもう、思い込むといっきなりの方向に行っちゃうんだな!夜の街をタクシーでその病院に向かいながら彼はそんな、自分の存在のこととか、血のこととか、いろいろいろいろ考えて。でもね、結局、病院で精子をコップに受け止めながらも、「アーメン、ザーメン」と(こんなオヤジギャグは劇中、そこここに見られ、どれもこんな風にサムいんだけど、それを自分で喜んで笑ってる彼がなんともカワイイんである)トイレに流してしまう。そして海の中に入っていき(またいきなりだな!でも、いきなりフィルム風の手触りの映像が、彼の中のロマンティシズムというか少年性を切なく表現しているみたいで)海中に漂い、そしてすごすごと彼女の元に帰ってくるんである。

ちょっと泣かせるのはね、彼がいなくなって、あんな仕事好きだった彼女が心配のあまり仕事を休んじゃって、ちゃんとしたカッコすることも出来ないって感じでスリップ姿のまま、彼の帰りをずっと待ってるのね。で、帰ってくるじゃない。海の中に入っていたから髪の毛とかびしょぬれで、「溺れちゃった」と彼は言い(あーーー!なんとゆー、ボセーホンノーをくすぐる様なんだ!)、彼女はゴシゴシとタオルで髪の毛をぬぐってやる。ふと抱きつこうとした彼に、甘えないでよ!と突っぱねた彼女、……私だって甘えたいんだから!とぽつりと言って、で、コウタはそんな彼女の思いもしなかった台詞に戸惑って、でも嬉しそうな顔で、彼女を、こう、自分から抱きしめにいこうとする、その直前でカットアウト。ああっ!なんというココロニクイカットアウト!

ほおんとに、大森南朋の母性本能くすぐりが大爆発なのよ。起きてる時も寝てる時も、いっつもスウェットの上下のだらしない格好でダラダラしてるんだけど、その姿のままなんか人生について悩んだりして、遠い目をしたりしちゃうでしょ、もお、それがたまんなくぬいぐるみみたいにぎゅうっと抱きしめたくなっちゃうんだもん!ズルいよねー、そのあたり。彼、仕事を辞めた後、ベッドに横たわったまま出勤する彼女を送り出すでしょ。「今幸せ?」そんな風に彼女に問う彼。「……うーん、こうしてキミのそばにいられるからとりあえず、幸せかな」そんな風に返す彼女。ふかふかしたベッドに仰向けに、彼女は彼をぎゅっと抱きしめてそんなことを言うその冒頭から、もうふっかふかしたクマのぬいぐるみを抱きしめているような幸福感を彼女を通して味わっちゃうのよ。「グッバイ、オッパイ」なんてオヤジギャグかまして、彼女のおっぱいをまさぐって笑い合うシーンなんか、もお、もお、可愛くってほんわかしてて、うらやましさ大爆発だよ!

彼女、彼のことこんな風にキミ、なんて言うでしょ。実際、彼女は彼のことをコウタ、とかコウちゃん、とか言うんだけど、彼は彼女のこと、名前にさんづけで呼んだりするのね(ゴメン、彼女の名前、忘れちゃったんだけどさ)。しかも時々、ですます調にさえなる(笑)。でもそれは、尻に敷かれているというより、この頼りがいのある彼女に甘えきっちゃっているって感じでさ。このコウタが元カノに会うというエピソード(それも、貸していたマンガを返してほしいという理由で!)、その元カノはコウタより年下なんだけど(現カノは同い年)、「だからコウタはダメなんだよ」と久しぶりに会ったかつての恋人に言うんである。だから、というのは、別れ際「あ、何かスイッチ入っちゃった」とコウタがこの元カノを思わず抱きしめた時に言われる台詞である(でもこの台詞とこの抱擁には、結構キャー!ものだったけどね)。「勝手にスイッチ入って、勝手にスイッチ切っちゃうんだもん」……うッ、結構この台詞、生々しいかも……それってこのコウタのような男が、という限定じゃなくて、男性自体としてそうだよね、っていう……いや、細かいことはピーだから言いませんけど。

この元カノって、でもそういうことを女として許せないって思う境界線のあちら側にいて、現カノはこちら側にいるって感じがするんだよね。一見そんなに変わらないようにも思えるんだけど……この元カノだって“結婚しても仕事は続ける”と言う現代の女だし。でもこのコウタと現カノは最後まで結婚の匂いはまだまだないし、現カノは結婚の願望はあるものの、それは昔から思ってたとかいうんじゃなくて、コウタとなら、ということであって、彼女がこういうコウタを元カノとは違ってコウタとして受け入れることが出来るんだとしたら、“こちら側”、なのかな、なんて思って。まあ、彼女が突然子供を欲しがるコウタを突っぱねたのは、“あちら側”の理由だとは思ったけど、でも何か、こういう微妙な差異が、今の、まさに現代の時代の、女の境界線のように思えて仕方がない。それがこの世の中にとっていいのかどうかは判んないけど……。

元カノと会うシーンで、窓外に見えるカップルに、勝手に“男の浮気がバレてのケンカ”を設定してオフレコするシーンとか、そんな遊び心あふれる仕掛けが効いてて、好きだったなあ。彼女に“三千円でいいから”とお金借りといて、“今日はオレがおごるから”と太っ腹になっちゃうとことかさ。この監督が言うように、“僕の映画の大森君はずいぶんとリラックスしています”と言うの、ホントその通りかも。この彼をそうさせることが出来ること、世の大森南朋ファンは、すんごくうらやましく思うんじゃないかしらん。★★★★☆


晩菊
1954年 101分 日本 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 脚本:田中澄江 井手俊郎
撮影:玉井正夫 音楽:斎藤一郎
出演:杉村春子 沢村貞子 細川ちか子 望月優子 上原謙 小泉博 有馬稲子 見明凡太郎 沢村宗之助 加東大介 鏑木ハルナ 坪内美子 出雲八枝子 馬野都留子  中野俊子 熊谷二良 河辺昌義 谷晃

2005/9/22/木 東京国立近代美術館フィルムセンター(成瀬巳喜男監督特集)
名匠というイメージでなんか敷居が高い気がしていて、ついつい避けていたこの成瀬巳喜男監督を今回遅まきながら恐る恐る手を出して、もう早くもすげえー!とひれ伏しそうになっているんである。なんだろ、なんだろ、この凄さっていうのは思っていたような敷居の高い凄さじゃなくって、筋立ては割とメロドラマだったりするのに、その中にこんなに人間の気持ちというか感情というか、そんな言葉さえおっつかないほどに生々しくそして繊細なものがあふれ出んばかりに、どうしてこんなに感じられるのかっていうのが、なんかもう、恐ろしいぐらいなの。それは役者の力量というのも無論あるんだろうけど、でもやっぱり、違う。心が心臓に宿っているなら、その心臓をぐいっと引っつかんで引き出しちゃうような強烈な力は、やっぱり監督の豪腕なんだもん。

かつては売れっ子の芸者だったおきんさん、今は金貸しや土地の売買でバリバリ稼いでいる。昔馴染みの女友達にも金を融通し、利息をバリバリ取り立てる。そのかつての昔馴染みの女たちは今じゃすっかり落ちぶれて、見るも無残な生活をしているというのに、おきんさんはお手伝いの女の子を一人使ってこぎれいな家に住み、昔の粋な面影を残すように着物もいつもきちんと着こなして、さっそうとしている。金遣いのだらしないとみは「ただの金貸しのババアじゃないのさ」と陰口を叩き、他の女友達もそこまで口には出さないものの、顔を見ればカネカネというおきんさんに決していい印象は持っていない様子。そんな折り、おきんさんの昔の男たちが訪ねてくるんである……。

なーんていう筋書きからは、主人公ながらこのおきんさん、まるでベニスの商人のシャイロック?かと思うようなさ、血も涙もない非情な女に見えるじゃない。彼女だけは結婚もせず子供もなく女一人で暮らしていて、そういうところにも女友達たちは情のなさを感じているんだけど、でも、これが、ホントに不思議というか、驚嘆なんだけど、おきんさんに100パーセント共感しちゃうのよ。友達だからとズルズル金を借りて、パチンコやら競馬やらに使っちゃうとみさんが「あの人は溜め込んでるんだから少しはこっちに回しゃいいのよ」なんて言う筋合いないよなー、とおきんさんの気持ちになって思っちゃうし、息子ベッタリのたまえはその息子ベッタリっていうのは自分の世話をしてくれるのを当て込んでいたっていう意味も含まれてて、「あの子がちゃんと就職して私を助けてくれればいいんだけどねえ」などと嘆息し、果ては夫に先立たれたことまでグチっぽくなるのには、おきんさんじゃなくたって、自分ひとりでなんとかしろよとか思っちゃう。

あ、そうそう、子供をアテにしているのはとみさんの方がヒドいのよ。彼女はおきんさんがバリバリ取り立てるのを知っているから、とりあえず今は彼女から借りてはいないの。でも仕事先の若い学生から借りて、催促されても「いいじゃないのよお、もう少し」とキモチワルイ笑顔でごまかす一方、今はひとり立ちしている娘の元に足しげく通っては、「なんとか都合してくれよお」と泣きつき、「母さんは顔を見ればカネカネばかりなんだから」とこの娘から言われる始末なのだ。これって、皮肉だよね。とみさんだっておきんさんに対して「人の顔を見ればカネカネしか言わない」と陰口叩いているのに、意味は違えどおんなじこと言われてるんだもん。意味は違えど、ってトコが大事なのよ。とみさんはお金は誰かがなんとかしてくれるものと思ってる。特に子供はゆくゆくは自分を助けてくれるからと思っているところがあって……物語の最後、共に子供に去られたとみさんとたまえさんがヤケ酒を酌み交わしながら、でも子供を産んで良かったんだと言い合う場面は、なんかそう自分に言いきかせているみたいな皮肉に聞こえちゃってね……。それは私が子供を持っていない、つまりはおきんさん的な目線から見ているからってこともあるんだろうけど。

このとみさんを演じる望月優子が最高に憎たらしくて、でも最高のコメディエンヌで、主役の杉村春子を食う勢いなのさ。この人はスゴかったなー。私多分何度か見ているんだけど、唯一思い出せるのはやはり強烈な印象を残した「喜劇 陽気な未亡人」ぐらい。まずね、のんだくれの場面がサイコーね。おきんさんのことを、(心中未遂相手が)あの時に殺してくれりゃ良かったのよ、などとしれっと言うのには吹き出しちゃう。おきんさんに会いに言って、彼女の前では作り笑いをしながらも、ちょっと振り向くとものすごい仏頂面になる切り替えのシャープさ、あるいは娘の幸子と会った時、ラーメン屋で鏡を見ながら鼻毛を抜いて(!)ラーメンに向かって大仰にくしゃみをかましたりとかさ、いやー、やってくれるよ!ってなキョーレツさなのよ、うんうん。

そう、おきんさんに共感しちゃうのよ。だってつまりはみんなお金にだらしないだけなんだもん。うーん、なんていうの、私もセコい?でも人間やっている以上、これは大事な要素だと思うのよ。寛大なのとだらしないのとは違うんだもん。それなのに寛大とまではさすがに言わないまでも、自分の方が普通の感覚なのだと言ってはばからず、自分は苦労しているんだとばかりにグチばかり言って、金貸しだという理由でおきんさんを薄情呼ばわりするのって、ホント映画の中のことながら、ムカついちゃうんだよね。
「金貸しのババア」にずるずると共感させちゃうなんて!それがこの名匠、成瀬監督のスゴいところなのかッ!?いやでも我ながら驚いちゃった……こんなキャラに共感するなんて。

おきんさんはさ、苦労してるんだよね。特に男に。今は女一人生きていくのが気楽だって言っているけれど、そういう境地に至るだけの経験があったのだ。今は男っ気なんてまるでない、バリバリ金を稼いでるって感じだけど、その過去には大恋愛が何度もあった。そのうちの一人、関という男が彼女を訪ねて街にやってきている。
殺人未遂の罪で、長いこと刑務所に入っていたその男、実情はおきんさんとの心中だと皆に思われてて、彼自身もそう言うんだけれど、おきんさんに言わせれば、死にたくないと言ったのに一緒に死のうと首を刺されたんだという。男も、世間も、都合のいいように解釈するもんである(すっかりおきんさん側に立ってる……)。
しかもその関、そんな大恋愛をした(と彼は思っている)おきんさんに会いたくてこの街に戻ってきたと思いきや、当座のカネに困って彼女に金を無心にきたんである。冷淡に追い払うおきんさん。

次に現われたのは、手紙が来た時からおきんさんが少女のようにはしゃいで、その来訪を心待ちにしていた田部という男。演じるのは上原謙だからさあ、そりゃ色男は必至なの。若い頃のおきんさんが、広島に従軍した彼に会いに何度も飛んでいったというのも判るような色男の面影を残しているの。それこそ、無精ひげでずんぐりむっくりの関とはえらい違いよ。でも、色男の面影は、面影、だけだったんだなあ。彼を迎える時、他の客とは全然違って、「女の仕度は時間がかかるのよ」なんて言って顔を氷で抑えたり、髪を整えたりと、本当に、恋する少女のようでさ。しなを作って彼にお酌をするんだけど、もうその酒の席の最初から、彼もまた他の誰もと同じように、生活や仕事のぐちから始まるのだ。おきんさんは最初は「そんなこと言うの、田部さんらしくないわよ」と言うんだけど、次第に、「あなた、変わったわね」と冷ややかに突き放すようになる。最初は彼と共に気持ちよく酔うつもりだったんだろうけれど、もうすっかり冷めちゃって、なんかしらん、クスリなんかこっそり飲んじゃって、酔っ払うわけにはいかない、ともうシャキッと姿勢を正して飲んじゃって、モノローグで、「もう、この人との間には何の感情もない」と語るのだ……。

最初は、本当にステキだったのよ、上原謙。関と違って、おきんさんが心待ちにするのも判るってぐらい。色男でさ。だけどしょっぱなから所帯くさい女房のグチを言っておきんさんを興醒めさせる。「あなたもグチを言うの」と。「いいじゃない、若くてきれいな奥さんもらって。私だってたまに逢う男だから、楽しみなのよ」この台詞の時点で、おきんさんの気持ちが冷めてるのが判ろうってもんである。まあリクツはそりゃそうなんだけど、そんなこと考えずにおきんさんは楽しみにしていたわけだからさあ……。
しかも、こともあろうに、この男までおきんさんにカネの無心をするんだもん。美男子なのに、だらしなくヘベレケになっちゃって。しかも関の言ってた金額なんてもんじゃないのよ。関は1万だったけど、田部はなんと40万のカネを都合出来ないかというの!40万なんて、貨幣価値の違う現代の私だってひえっと思うわよ(貧乏すぎ……)。ひょっとしたら今のおきんさんならそれも可能だったかもしれない。でも酒の力を借りて、へべれけになって哀れっぽく頼み込む田部ってば、情けないったらないの。ただただ昔の思いを懐かしんで楽しい時を過ごそうと思っていたであろうおきんさんはもうすっかり冷め切っちゃって、冷たく突き放すばかりなのだ。

会えばグチばかり言う仲間たちにおきんさんがイライラするの、判るな。まあ私も反面教師だけど……。それはおきんさん一人が成功してるからっていうんじゃなくて、おきんさんはグチを言わずに誰にも頼らず一人頑張ってここまで来たんだし、それを彼女ほどの努力もせずに、自分をカワイソがって、世間のせいにして、誰かが助けてくれると思って、それが当然だと思っているような輩がおきんさんは大嫌いなんだよなっていうのが、もう痛切に判るの。だから傍目から見ればおきんさんはすんごく冷たい女に見えるだろうし……実際ラストなんて、関さんがお金を都合出来なかったことで警察にしょっぴかれたんだっていう話を、息せき切ってその報告をしにきた別の女友達から聞いても、眉ひとつ動かさず、そんなこと私には関係ないって……。実際、そうだよね。だからどうしろっていうの。まるでこの女友達は(知ってたかどうかは知らないけど)関さんが彼女にカネを無心に来たのを追い払ったせいだとでも言ってるみたいでさ。ほんっと、ジョーダンじゃないよ、って話なんだよね。

そりゃあね、そりゃあ、友達も、昔の知り合いも大事だけど、人間としてケジメをつける一線ってのはあるわけでさ、っていう……。それがね、爽快なぐらいにハッキリしてて、日本人の大好きな、お涙ちょうだいとか、慈悲の心とか、親子の情愛とか、男女の機微とか、そういうものが一切廃されているのがイイんだよなあ。だってそういうのって、確かに美しいと思うけど、美しいからというよっかかりで、馴れ合いやら頼りあいになっている見苦しさも確かに厳然として存在するんだもん。おきんさんには一人のわびしさなんて微塵もない。逆に、子供に自分の存在意義をなげうっちゃって、先行き頼りっぱなしで、まるでそのために子供を育ててきたんだと言わんばかりの母親たちの方に、たまらないわびしさを感じるのだ。だってそれって自分自身の、そのものの、存在がないみたいじゃない。

母親が失敗した結婚を、自分は成功させるんだといわんばかりに、母親の忠告などに耳を貸さず、チャキチャキと出て行ったとみの娘、幸子(演じる有馬稲子のチャキチャキカワイイこと!)、お妾さんのツバメになって小遣いを稼ぎ、それも母親が気に入らないとなると、北海道の炭鉱の仕事を決めてくるたまえの息子、清。双方、母親が言うほど子供じゃなく、それどころか母親たちよりよほどしっかりしていて、未来にはばたける息吹きだ。

おきんさんを一番理解しているのは、常にもうけ話を持ってくる不動産屋の男なんじゃないかと思ったりして。あるいは、「うるさくないから」とか「よけいなことを聞かないから」と言いつつ、「案外役に立つのよ」と言って使っている聾唖のお手伝いさん、静子ぐらいかなあ。こんなお手伝いさんがいるテイストって不思議なんだけど、他のキャストはとにかくしゃべりまくるから、彼女の静寂がすんごく印象的だった。★★★★☆


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