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「え」


2006年鑑賞作品

エコール/INNOCENCE
2004年 121分 ベルギー=フランス=イギリス カラー
監督:ルシール・アザリロヴィック 脚本:ルシール・アザリロヴィック
撮影:ブノア・デビエ 音楽:レオス・ヤナーチェク/セルゲイ・プロコヴュー/ピエトロ・ガリ/リチャード・クーケ
出演:ゾエ・オークレール/ベランジェール・オーブルージュ/リア・ブライダロリ/マリオン・コティヤール/エレーヌ・ドゥ・フジュロール


2006/11/25/土 劇場(渋谷シネマライズ)
うわー、これはヤベぇ!素晴らしい耽美!
縄跳び、新体操のリボン、天使のような貝殻骨に、丸見えのパンツ(全然気にしてない!最年長の少女までもが気にしないのはヤバすぎ!)、ブランコ(そこから落下して倒れ、無防備に開く足をあおるショット!)、ハダカの少女を白い野の花でくすぐる遊びって、もー、ことごとく、ヤバすぎるでしょ!こんなことに喜んでたら、マズイかなあ、でも!
まったく、驚いてしまうよ。少女の世界から想像しうる、これほど完璧な世界が目の前にあるなんて!
少女の禁断のクラシカルがびっしりと詰まっている。まるで奇をてらっていないけれど、たまらなく魅せられるのは、それはいつの時代も少女を愛する人なら夢見ていることだからなのだ。
きっと何十年後の少女を愛する人がこの作品を見ても、同じように心を躍らせるだろう。ひとつの古典として受け継がれるんじゃないかと思うほど。

そしてこの作品を作り上げたのは女性だってんだから。でも、それもやはりと思わせる。少女の禁断を皮膚感覚で判っているのはやはり女性なのだもの!
んで、「ミミ」の監督さんだと知ってさらに喝采を送りたくなる。むべなるかな、むべなるかな!ここにたどり着くのが当然の帰結だ。そしてギャスパー・ノエの公私に渡るパートナーだというのも(知らんかった)、またもうひとつのむベなるかななのだ。なんとゆー完璧なカップルなのだろう!
しっかし、出演した少女たちは、この作品の意図を判ってる?心配だなー。判ってたら親がまず止めそう……。
いやいや、これはフランスだからな!

小さな棺桶が、ひっそりと運び込まれてくる。深い深い森の中の、閉ざされた学校に。その中には素裸の幼い少女が横たわっている。
棺桶って!観客は思わず息を呑むけれど、それを取り囲む少女たちは平然としている。そう、それは毎年のことだと後に判るのだ。森の中に5棟あるこの学校に、1棟に一人ずつ、6歳の子が毎年送られてくるのだ。
三々五々集まってくるのは、無防備にむき出しの足に白いソックス、かっちりとしたブーツが印象的な様々な年齢の少女たち。

この、足だけが映っているショットはその後も多用されているんだけれど、これがたまらなく胸がざわめく。
すぐに判明することなんだけど、この森の中に佇む学校、いやこの森自体には少女たちと教師もメイドも女性で、男がいないのだ。女のむき出しの足が、異性としての男にセクシュアルな意味でさらされているのを思うと、この禁断の無防備がたまらない。
そりゃこんな幼い少女たちは、普通に異性のいる社会でもそんなことは考えずにむき出しの足で走り回っているんだけれど、それが今や欲望を抑えられない男たちの犯罪を引き出す時代なんだもの。

少女の魅力は様々にある。あどけない顔立ちは勿論、ほっそりとしたうなじ、ふくらみかけた胸、幼さの残る下腹の出っ張りさえも。それらが実に丁寧に活写されている。
しかしこの足が、やはり一番物語っているのだ。6つから12、3までの少女たちが暮らすこの場所で、最年長の子たちになると、その足が、ただ無邪気なだけではなくなっているのは明らかである。彼女たちを吟味する校長先生が、あの子の足なら外に出ても売り物になる、なんていう台詞も用意されている。
しかも、その少女が、初めて外の世界の男を間接的にも感じた時、自らの足をなでさするシーンの衝撃のセクシャリティときたら!少女の無防備な足こそが、この世界の全てを物語っているのだ。

5棟ある中の、あるひとつの棟の少女たちを中心に話が展開される。ここに運び込まれてきた最年少のイリス。実はこの子も象徴的な造形をしているのね。
というのは、イリスはこの美しい少女たちの中に送り込まれるには(総じて、美しいのよ)、あまりに平凡なアジアの女の子で、鼻ペチャだし、眉毛薄いし。
でも、だからこそ、凄く客観的に見えている気がするんだな。彼女自身が自分が美しい少女だなんて、無意識にも思わないだけに。
でもそれって女の子に対しては、ザンコクだけど。
でもね、このグループの中で特に青リボンのアリスなんて、自分が美しい女の子だってこと、凄く自覚してるんだよね。だからそれを最大限利用して、一刻も早くこの監獄を出たいと思ってる。

あ、リボンの色によって、年齢分けをしてるのよ。最年少は赤、最年長は紫。そして着ているものは白一色。白い半そでに、ミニのプリーツスカートは古いタイプのテニスウェアのよう。寒くなると上に羽織るジャケットも白。ダンスレッスンを受ける時のレオタードも白。
まだ若年層の少女たちならいいんだけど、最年長の少女たちは12か13かという感じだから、白のレオタード、大丈夫だろうか……などといらぬ心配をする。
いやいや、最年少のコたちだって、あまりに無防備なために、微かなくい込みのシワが……ってドコ見てんだ、私!でもハダカよりヤバイ!

だって、彼女たちは透けようが素裸だろうが、気にしないんだもの!泳ぎを覚えると言って、上半身をさっさと脱ぎ捨てて無邪気にはしゃぎまくって。
この学校に送り込まれる、棺桶から出てくる時、既に素裸だったんだものね。
まだ全然胸のふくらみもない少女だけど、だからその無防備にドキドキする。
そしてその少女に、年上とはいえやはりまだまだ少女の彼女たちがよってたかって服を着せたり髪を結ってやったりするのが、たまらなく胸騒ぎを起こさせるのだ。
役者じゃないよなー、って感じ。本当に普通の子供みたいにダンス授業とか落ち着きないし。
凄い重要なこと言われてるのに、絶対判ってないっていうのもリアル。

あ、んでね、話飛んだけど、ちょうど真ん中の年の青リボンの女の子たちには、一足早くこの学校を出られるチャンスがあるのだ。
一年に一度、校長先生が視察にやってきて、青リボンの女の子たちの中から一人だけを選んで外へと連れて行く。
ダンスの出来栄えを見ているようなんだけど、うなじや手の美しさも吟味しているから、ダンサーの卵として連れて行くってわけではない……だろうな。
なんか絶対、ヤバイ理由で連れて行くとしか、思えない!!
アリスはでも、この学校から出て行きたくて、絶対に一番に選ばれるんだと、ダンスの練習に専念するんである。
でもね、基本的には、ここに送り込まれてきたことに、少女たちはそれほどの疑念を抱いていない。
アリスがその焦燥を膨らませるのは、真ん中の年頃だからなのかもしれない。送り込まれて考える間もない最初でもなく、もう1年か2年経てば卒業して出られるというのでもなく。

しかし、少女たちが外に出たいと思ってはいても、そんなに切実ではない。ここにずっと閉じ込められるんじゃないかという少々の不安、っていう程度である。
これって、アレを思い出させるような、つまりは拉致じゃん!と思うのに、当然起こるべきホームシックっていうのが排除されているのね。
何がなんだか判らないままに送り込まれたイリスは、最初のうちこそ、弟が心配している、弟がきっと捜しに来る、とは言うんだけど、両親のことは口にしない。ここには女の子しか入れない、誰も会いに来ない、と言われると、ちょっと不安そうな顔を見せるものの、最年長のビアンカを慕いだしてからは、彼女のことばかり気にするようになる。
女の子のしたたかさともいえるけれど、恋しがるべき親のことを言わないのが、凄く気になる。
親としての機能がなされないっていうのは、特に今の日本にとって、凄く痛く響くんだもの。
時代設定もきちんとなされていないし、つまりこれは、近未来的な話なのかもしれない。もはや子供を養育する立場としての親は存在せず、子供は無防備に社会にさらされるままだから、彼女たちはここに送り込まれるのかもしれない。
そして少年も、同じように送り込まれているのかもしれない。そしてラスト、ああやって少年と少女は出会っているのかもしれない。

アリスは選ばれなかった。うなじのきれいな、ダンスもあからさまに上手いコが、一人連れて行かれた。
このシーンね、選ばれることになるコは明らかに他の子よりダンスが上手くて、尺も長く思いっきりアピールしてて、他の子がちょっと痛々しいぐらいなの。
有望な女の子に目を細めて、「よく育ててくれましたね」と先生を褒める校長先生。……ちょっと待て。だって、それって、何のために!?美しくその未熟な肢体をアピールする少女を育てるのは何のためなの!?
それでもこのコと共に最後の候補に残ったアリスは諦めきれず、「私も連れて行って!」とすがりつく。
だって、ダンスの先生は、きっと選ばれると言ってくれた。でも……自然科学の先生は、あなたは選ばれないと思う、と突き放した。
この二人の先生の関係も、かなり複雑そうなんだけどね。

アリスは思い余って、脱走を試み、死んでしまう!
あれは、あれは、殺されたんじゃないの?だって、壁をよじ登って外へと降り立ち、歩いていく彼女のバックに聞こえていたのは銃声じゃないの?
それに、その前、イリスと仲良くなった他の棟の同級のローラも、川伝いにボートで逃げようとして溺れ死んだ。嵐も来ていたし、事故だと思っていたけれど……違ったのかもしれない。
あのシーン、見るからに非力な少女が大きなボートをこいでいくのが、絶対に逃げ切れるわけない、って、その時にもう、判っちゃって、痛々しくて。
先生たちは、死んだ子は、忘れなさいと言う。ここに来たのと同じ棺桶に入れられて、火をつけられる。忘れなさいなんて、ムリだよ。なんという残酷なトラウマ!

そもそも、この学校は何の目的で建てられているのだろう。
6、7年ぐらい閉じ込められるのだろうと思われる。ちょうど小学校の期間だね。少女にしてみればとてつもなく長い年月だけど、でもその期間を我慢すれば確実にここを出て行ける。でもまるで、一生閉じ込められるような恐怖を覚える。
この学校に勤めているメイドや先生は元々ここの生徒で、禁を破ったからこの学校に閉じ込められているんだと、まことしやかにウワサされたりしているから。
実際、足の悪い自然科学の先生、エディスと、ダンスの先生、エヴァ(おっぱい大きくて、尻がはみ出してるウィノナ・ライダー似の美人!)は、何かフクザツな事情がありそうである。
頑張るアリスを励ますエヴァを、エディスはとがめ、「なぜ、アリスをあおるの。私たちのようになってもいいっていうの」と言う。……その台詞って、どういう意味?私たちのようにって、ナニよ!

エヴァは新年のカウントダウンに何を思ったか突然泣き出したり、何かを抱えて情緒不安定な趣がある。
だからというわけでもないけど、エディスの方がウワテというか、ちょっとしたたかな雰囲気。獲ってきた蝶を標本にするべく、ひとつひとつ丁寧にピンで止めるシーンなど、ドキリとする。
そもそもこの学校で、生物、自然科学とダンスしか教えていない、というのが、やけに生々しいのだ。男にアピールする術を教える一方で、生殖動物としての女を教え込んでいる、みたいなさあ……。
この二人の教師、どことなく同性愛的な雰囲気がある。そして彼女たちは早かれ遅かれ外の世界に生徒たちを放つのを、罪悪とでも思っているような雰囲気がある。
彼女たちが憂えている外の世界、というのがラストの、いわばオチとなるわけだけど、それが……いわば思いもしない結末なのだ。

アリスの話が終わると、次は最年長、ビアンカの話に移る。学校での年数を全うし、全てを見てきたビアンカは、迫る卒業に不安を覚えている。
最年長の女の子だけが、夜の9時になると夜の森に出かけてゆく。
そこで何がなされるのかを、その下の女の子たちは誰も知らない。知っているフリをしながらも、誰も知らない。
ビアンカになついているイリスは、「男の子と会うの?」とちょっと嫉妬気味に言ったりする。この発想は、まだ外の世界から来て間もないからこそ出るんだろうと思う。ここに来てある程度たてば、女の子だけの世界が当然になってしまうから。
でも、ある意味イリスは真実をついていたのだ。外の世界から来て間もないから、見える部分があるのだ。ビアンカはそれを否定するし、実際、自身もそうは思っていないんだけれど。
さらに聞きたそうなイリスに、「シーッ!」と人差し指を唇に当てるビアンカの、いたずらっぽい笑みのアップの一瞬のコケティッシュ!
こんなひそやかなやりとりがそこここにあって、もー、胸がざわめきすぎて、死んじゃいそう。

ビアンカら、紫のリボンの女の子たちがじきに「卒業」することになり、その下の緑のリボンの女の子たちが引き継ぎを行う。
夜9時からの外出は、秘密のステージだった。少女たちが白く透き通る羽とチュチュを身にまとって舞い踊る様を、「喜んで観に来ている」客が連日ワンサと押し寄せているのだ。
ステージの彼女たちからは、観客は暗くて見えない。
ビアンカの下の、緑のリボンのナディアは最初、その異様さに尻込みして、もう来たくないと言う。ビアンカは彼女をなだめる。「大丈夫、慣れるわ。次には楽になる」と。
楽になるって、どーゆーことよ!
ま、まるでそれって、初めての××××は痛いけど……みたいな言い方じゃん!
ビアンカ自身はそんなこと思ってないだろうけど、そういう暗喩は絶対含まれてるよね。大体、暗い観客席の男たち、というのが初めての閨(ねや)での恐怖をダイレクトに暗示してるもん。

でもそれを、心のどこかで心待ちにするようになる。緑のリボンからたった一年たっただけで。
ビアンカの最後のステージで、暗いステージから彼女に向かって赤いバラが投げ込まれた。「ブラボー!君はきれいだ!」と叫んで。
見えない観客に向かって、ニッコリ微笑むビアンカ。
観客席には手袋が残されていた。それをこっそり持ち帰ってはめ、自分の太ももをなでさするビアンカ!!おいー!!!

ビアンカはこの少し前に、エヴァ先生から生理用ナプキンを手渡されていた。それは彼女たちのいでたち同様に真っ白く清潔だったけれど、これが真っ赤な血に染まることが、即座に連想された。
そして彼女に投げられた、深紅のバラ。顔の見えない未知の男という存在に対して、それまで思いもしなかった感情が湧き上がるビアンカのとった自慰行動に、強い衝撃を受ける。いや、まあそこまでは描いてなくて、太ももをなでさすった後、いつのまにか朝になってた、なんて描写だったけど、あれはそーゆーことでしょ!
だってさ、その後、その手袋を、汚らわしいものを厭うように冷たい川に投げ捨てるシーンが用意されているから。自分の中にあるそういう部分が許せない、少女の潔癖さを示してるじゃない。

ビアンカは加藤ローサとベッキーを足して二で割った上に、憂いを含ませた美少女である。
バスタブにつかっている彼女が、自らのカラダを鏡に映す場面。他の少女たちと違って、わずかなふくらみが……。ちょっと幼児体形気味にお腹は出てるけど、うっすらと膨らんでいる胸に、いいの!?こんなん、映しちゃって!とうろたえる。
この、本当に初期の変化をスクリーンにとらえることが出来るのは、奇跡的である(あっ……でも、宮アあおい嬢が……)。それ以前なら羞恥心さえもないし、もう仕事として出来上がったモノをバーン!と出すというのとも違うじゃない。一番、見せたくない時だと思うのに。
でも、彼女のその勇気が、ああついに、女に変化していくんだ。っていう奇蹟の瞬間を刻印してくれた。

ビアンカたちが外へと出る時が来る。ビアンカは、恐れている。ここで過ごした6年間に慣れきってしまっているからか、いくら年少の子達の面倒を見ていても、自分ひとりで放り出される不安は隠しきれなくて。
ビアンカを慕っていたイリスは彼女をぎゅうっと抱き締め、「私のことを忘れないでね」と請う。
「絶対、忘れないわ。外の世界で会いましょう」とビアンカは応える。
でもきっと、ビアンカは忘れるんだろうな……と思うのは、ビアンカが、この学校で知らず知らずのうちに教え込まれた“女”を、外へと出た途端に発揮するのを目の当たりにしてしまうから。
外の世界を知らないビアンカは、先生に問うていた。
「ここを出たら、どうなるんですか?」
先生は、具体的には応えずに、ただひとこと、こう言った。
「私たちのことは、すぐに忘れるわ」
それは、恐ろしいことが待っているという意味だと思っていたのに……。

この壁の外にどんな怖いことが待ち構えているのかと思ったら、何もないのだ。
ただ解放があるだけ。
地下を走っていく電車に乗って、地上に降り立ち、まばゆい外の世界に足を踏み入れる。見たこともない、近代的な明るく解放的なビルディング。その広大な中庭に放たれ、見事な噴水に心躍らせる彼女たち。
自分がセクシャルな魅力のある少女だということの自覚もなく、白いブラウスが透けるのも厭わずに噴水と戯れるビアンカ、まぶしげに見つめる少年が、吸い寄せられるように彼女に近づいてくる。
彼女はまったく自覚なく、彼にとっては流し目としか思えない視線を送る。
激しく吹き出す太い噴水を抱え込むようにしてびしょぬれになっている彼女は、あまりにもエロティック!
白く、太く、吹き出す噴水を抱えてびしょぬれ、だなんて!まんまじゃん!

ただ解放、と見えることに、でも拍子抜けはしない。
逆に、これこそが恐ろしいことなのだと本気で思っているんであろう先生たちの気持ちに、衝撃を受ける。
ビアンカを慕うイリスに、「服従こそが女の幸福なのよ」とエヴァ先生は満足げに彼女の頭をなでた。イリスは目をクルクルさせながら頷いたけど、その言葉の意味は絶対に、判っていない。
この時には、いずれ女が男に服従することを言っているのかと、オイオイと思ったのだけど、でも先生は、この花園の中こそ幸福だと思ってるんだよね。
年上のお姉さまを慕う、この少女たちの従属こそが。

紫リボンのビアンカが去った、ということは、一年が経ったのだ。またひとつ、小さな棺桶が送り込まれる。何も知らずにここに入ってきたイリスも二年目を迎え、初めての後輩を余裕の笑みを持って迎える。入ったばかりの頃は、親指をしゃぶりながら眠りについていたぐらい幼かったのに、今はすっかり落ち着いて見える。
イリスが入って来た時、彼女のひとつ上の子は、今まで紫のリボンをつけていた子とビアンカが交替したことに激昂した。イリスのように、その子のことを深く慕っていたんだろう。
こうして、少女の従属の鎖は続いてゆく。
この何も知らずにいられる、幸福かもしれない一年間が始まる。

ビアンカら紫のリボンの女の子たちが外に出るまで、本当に女の子、女性だけの映画。これって、案外珍しいかも。
男だけが出てくる映画ってのは、あるんだよね。戦争とかヤクザとか、男くさい映画。女が出てきても、それはセックスとしての女か、けなげに待ち耐える女かのどちらかで、つまんないことこの上ないの。
女はそんな、単純なモンじゃないのさあ!

ええっ!?これって、「サスペリア」の原作と同じ!?うそお!
ぜっんぜん、違うじゃん!凄い超訳ってこと!?
でも少女の物語は、一歩間違えればホラーになってしまうということなのかなあ。
判る気はするけど!★★★★☆


エミリー・ローズTHE EXORCISM OF EMILY ROSE
2005年 120分 アメリカ カラー
監督:スコット・デリクソン 脚本:スコット・デリクソン/ポール・ハリス・ボードマン
撮影:トム・スターン 音楽:クリストファー・ヤング
出演:ローラ・リニー/トム・ウィルキンソン/キャンベル・スコット/ジェニファー・カーペンター/コルム・フィオール/ジョシュア・クローズ/ケン・ウェルシュ/ダンカン・フレイザー/JR・ボーン/メアリー・ベス・ハート/ヘンリー・ツェーニー/ショーレ・アグダシュルー

2006/4/6/木 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
実際にあった、悪魔祓い裁判を映画化した作品。悪魔にとりつかれ、悪魔祓いの甲斐もなく死んでしまった、とされる女子大生エミリー・ローズは、果たして本当に悪魔にとりつかれていたのだろうか?医学的治療をやめさせて、悪魔祓いを施した神父による殺人なのではないか?

実はホラー映画などではない、裁判映画なんだよ、というのは教えてもらっていて、ああ、そうなんだと思いつつ観るんだけど、悪魔を肯定するか否か、ってところに焦点が置かれているとね、どういう目線で観ていいのか、なんだか困っちゃう。いくら監督が、悪魔が実際いるかいないかが問題じゃなくて、観た人がそれぞれ考えてくれればいいんだと語ってても、その“それぞれ考える”は、結局いるかいないかって部分で考えちゃうじゃない。

これは実話で、でも実話というのはそういう裁判があったという部分で、悪魔がいるいないという部分では勿論、ない。でも裁判はそれをテーマに進行しており、当事者は……死んでしまった女の子も、彼女を救おうとした神父も悪魔は確かにいる、いたんだと信じてる。
しかし、それを弁護する弁護士もまたそうかというと……彼女は、懐疑的なんだよね。この件に携わるようになってから、いろんな不思議な体験をして、最後の方には何となくそっち方向に傾く感じもあるんだけど、でも最初は本当に無神論者で、悪魔なんか信じていない。
だから彼女はひたすら、原告側の論理、悪魔憑きなどではなく病気だったんだという主張を突き崩すことに専念していて、悪魔の存在に関しては、最後の最後に「あくまでそういう可能性もある」という地点に至るのが精一杯。だから、ああ、一体どのラインで観てればいいの!とどうにもむずがゆい気分でいたんだけど。

でも、更に監督のこの言葉を聞いて妙に納得する。これは、ラショーモナイズなのだと。監督は「羅生門」が大好きで、それぞれの視点で真実は変わる、ということに主題をおいている。そう聞かされれば確かになるほど、なんだよね。
でもそう考えると、はあ、やっぱり「羅生門」は偉大だったんだなあ、と思うのだ。こんな風に戸惑うことは、なかったんだもの。次々に視点を変えた“真実”を見せられて、私たち観客は翻弄され、圧倒され、押さえつけられた。そこにつけいる隙はなかったんだもん。

確かに、「可能性」という言葉は、とても重要な意味を持っているんだとは思う。
私たちは真実を求めることに必死になっている。でも「羅生門」がそうだったように、真実はそれぞれの心の中に各々異なって存在するものなのだ。
神父を糾弾する側にとっての真実は、悪魔などいるはずがない、エミリーは病気で、医学的に救えたんだということ。でも神父も、そして死んでしまったエミリーも、悪魔がいることこそが、真実だった。だからそこで頭をつき合わせて論じても何の意味もない。神父の弁護を引き受けたエリン・ブルナー弁護士の言うように、数少ない「事実」から「可能性」を導き出さなければいけない。

で、エリンが「事実」としたのが、神父のエミリーへの愛情と、そしてエミリーの信仰心だったんだよね。
結局ね、この映画自体が、エミリーと神父の側から描いているからさ。そしてエミリー役のジェニファー・カーペンターの迫真の演技と、神父のトム・ウィルキンソンの真摯なキャラがあって観客に共感させることが出来るけど、本当に、客観的に見てたら、原告側であるトマス検事の言うことの方に信憑性を感じたかもなあ、と思う。
だって、エミリーと神父の信じることや施したことって、一歩間違えると妄信や洗脳って感じるには充分なんだもの。第三者の目から見れば。
それこそ、あの“証拠品”のテープがなければ、負けはしたけど勝利と同等の決着は得られなかったと思う、様な気がする。

このテープが全ての真実を物語ってる。エミリーの悪魔祓いを録音していたテープである。これを聞くまで、エリンは全ての真実を知ってはいなかった。
このテープを持っていたのはその場に立ち会っていた医者のカートライト。エリンは神父に、立ち会いの医者がいたのならなぜ教えてくれなかったのかと激しく責める。これまでトマス検事によって医学的見地で理詰めに責められ、こっちにはそうした科学的検証を律する立場の人間がいなかったもんだから、窮地に立たされていたのだ。
ところで、ドクター・カートライトが直前になって出廷を躊躇したのは、悪魔からの脅しをかけられたからなの?裁判所に現われなかったカートライトに会いに行ったエリンの目の前で、彼は車にはねられて死んだ。

でも、悪魔はいつも気配、なんだよね。エミリーは身体的な苦痛を伴ったけど、実際に悪魔そのものが見えたわけじゃなかった。他人が悪魔に変わっていく姿を見ることはあったけど、それって彼女が悪魔に憑かれているから、っていう理由にしてはちょっとおかしいような気もするしさ。悪魔が中に入ったら仲間同士が見えることはあっても、悪魔ではない人を悪魔みたいに見せる必要はないんじゃないの?
エリンも、決まって三時に目を覚ましたりはしたけど、気味悪い感覚はあったにしても、具体的な姿を見たわけじゃない。
だから、今ひとつ信じられない状態で裁判に臨むしかなかったのだ。
それに、午前三時って、私にとっては全然怖くないんだよなあ……起きる時間なんだもん。丑三つ時は二時だし(これも諸説あるらしいけど)12時とかの方が怖いな。ま、それは関係ないけどね。

そんな中でもアカデミックな人物を法廷に呼んだりはしていたんだけどね。悪魔憑き、悪魔祓いなど、信仰や伝承から発生することを、科学的方向からとらえる研究をしている人類学者。とにかく学術的な方向からの後ろ盾がないと、とそうした著書のある学者筋を当たって来てもらったのだ。
「悪魔祓いは、そういう精神状態にある人をショックによって引き戻すことであって合理的。その時、薬によって脳が陶酔していたから失敗したのだ。だから医学的治療こそが彼女を死に至らしめたのだ」とその学者さんは証言してくれる。

確かになるほど、と思う。人間の存在と同時ぐらいに古くから存在するそうした伝承を、新しく合理的な科学だけで断じてしまうことに私たちは抵抗を感じるから、科学的根拠を適度に織り交ぜたこの学者の説は、だからなかなか上手いんだよね。
でもそれを説明するのが、ケバい化粧とアクセジャラジャラの女性学者だというのが、説得力に欠くんだよなあ……なんかこのあたり、アカデミックの女性差別を安易に示しているような気がして。いや女性差別を示しているならまだいいんだけど、それにさえ気づいているのかな、って気がして、ただ単にケバい女を出しとけば説得力ないだろ、みたいな感覚な気がして、ヤバいんだよなあ。

でね、だからエリンは何も知らなかったんだよね。神父がガンコに、私がエミリー自身のことを話す、と言ったっきり口を閉ざしていたせいもあるんだけど、エミリーの家族を訪ねていたりもしたのに、実際悪魔に憑かれたエミリーや、その悪魔祓いがどういうものだったのかということを、さっぱり把握しないまま裁判に臨むのがどうにも解せないんだよなあ。
それは、エリン自身がこの弁護に懐疑的であったこと、悪魔なんているはずがない、だったらこの裁判に勝つためにはどうしたらいいのか、という部分でだけ考えていたからかもしれないんだけど、それにしたってあまりに当事者の資料がなさ過ぎる状態じゃない?

まあそれは、知らない状態、信じてない状態から、じりじり、じりじりと巻き込まれていく過程を見せるためなのかもしれないけど、これじゃ負けそうになるのも当たり前だよなあ、と思っちゃう。
トマス検事は敬虔なメソジスト教徒だけど、自分の信じる信念や常識、良心はきちんと持ち合わせてる。大抵の裁判ドラマは、相手の弁護側が憎たらしく思っちゃうんだけど、彼に関してはそれはほとんどなくて、むしろ彼の準備万端できちんとした信念を持った弁護の方が有効のように思っちゃうんだよね。
それじゃマズいとばかりに後半はやけに彼に暴言を吐かせたりして、憎まれ役に方向転換させようとしてるけど、最初から全てを準備していたのは彼の方だからさあ。

エリンがエミリーの家族から話を聞こうと彼女の家に行った時、11匹もの猫が家の中をウロウロしていた。捨て猫を見捨てられないエミリーによって、飼われていた猫たちだった。
猫って、確か悪魔とか、魔界とつながりがあるんだよねえ。日本も割とそういう捉え方あるけど。これって、つまり、エミリーが悪魔にとり憑かれた伏線なの?なんかちょっと……お伽噺的だけど。
でもね、悪魔か精神疾患か、っていうだけなの?……今の目から見れば、エミリーが悪魔に憑かれていたんじゃないとすれば、精神疾患というよりは、多重人格症(解離性同一性障害)って言ったほうがシックリくるよね。まあそれも精神疾患の中に入らなくはないけど、やっぱり基本的に大きく違うし、ここで出てくるような薬で治るはずもない。
ドクター・カートライトはエミリーが、自分の中に違うモノが入っていることを自覚していたから、狂ってはいない、狂っているならばそれさえ判らないはずだ、だから精神疾患じゃない、と言うけれど、多重人格症ならそれも当たらないじゃない。自分の中にある人格が客観的に見えている多重人格の症例はあるわけだし。

私は、もう、見たとたんから、多重人格症にしか見えなかったんだよなあ。知らないはずの外国語を喋る、とかいうのも、多重人格症ならあるらしいって聞いたことあるような(気がする……)。
周囲の人間までもが悪魔の気配を感じたりしたのは、そんな状態のエミリーに接することによって置かれた心理状態からくるものって感じがしたし。
まあ、悪魔が本当にいるかどうか、エミリーが本当に悪魔に憑かれていたかどうかは、先述のように、ここではあまり関係のないことではあるんだろう。エミリーが神を信じ、その神託によって医学的治療も悪魔祓いも拒否した「事実」が大事なんであって。

それは、悪魔祓いが失敗して昏睡状態に陥ったエミリーがマリア様に、それはあなたの受け入れるべき運命なんだと、それによって、悪魔が本当にいるんだと世間に判ってもらえる使命なんだと言われるんである。エミリーは感激の面持ちで、このままでいます、とマリア様に言う。つまり、このまま悪魔に侵食されたまま苦しみ、死を迎えようっていうんである。
でもさあ、これって、そんな納得して感激できる神託なのかしらん。ずいぶんとヒドい神様だとしか思えないけど。悪魔の存在を人間に知らしめて、で、どうしようっていうの。人間に退治させようってわけ?それともそれによって神への信仰をより篤くさせようとか?まるでそれって宗教団体が信者を増やすための手口みたいじゃん。

まあそれでも、裁判自体はどっちに非があるというわけでもなく、どちらも真摯に真実を追い求めている、という進行の仕方で、それは今までの裁判ドラマと違ってなかなかにスリリングではあったんだけどね。
そして結果は、陪審員たちはさすがに、悪魔の存在を信じ切るところまではいかなくて、神父に有罪判決が下るんだけど、それも陪審員たちによる、この裁判当日までを神父の刑期としてはどうか、という提案が通ってしまった。“可能性”という言葉で押したエリンの言葉が揺り動かした、実質上は勝利に近い有罪判決。

ジェニファー・カーペンターがエミリー役に抜擢されたのが、全てのポーズを決められたから、って何かで聞いたんだけど、ホントかなあ。もしそうだとすれば、相当の身体の柔らかさ。まあ、顔ちょっとイカツいし、フツーにヒロインとしては怖い……怖いのもホラー向きだけどさ(あ、結局ホラー?)。
テレビスポットの予告編で話題になった「悪魔のイナバウアー」、イナバウアーなんてカンタンに言ってくれるな、と荒川選手ラブの私は思ったけど、あら、確かにイナバウアーだわ(笑)。
「エクソシスト」のヒロイン、リンダ・ブレアが、その後役者として大して突出しなかったことを考えると、彼女はどうなのかなあ……。もんのすごい気合いで悪魔憑き演じてて、おお、ねーちゃん気合い入ってるなあ、って感じではあったけど。っていうか、叫び声がうるさい(笑)。

悪魔に憑かれた凄い形相の中から、ふっと正気を取り戻したエミリーに、「私を見捨てないで」と言われ、悪魔の存在におののきながらも、彼女を支え続けた恋人の青年がちょっと、泣かせたな。

で、悪魔が現われる時は、焦げ臭い匂いがするの?元栓、元栓。★★★☆☆


エリ・エリ・レマ・サバクタニ
2005年 107分 日本 カラー
監督:青山真治 脚本:青山真治
撮影:たむらまさき 音楽:長嶌寛幸
出演:浅野忠信 宮崎あおい 中原昌也 筒井康隆 戸田昌宏 鶴見辰吾 エリカ 内田春菊 眞野裕子 杉山彦々 古賀俊輔 斉藤陽一郎 川津祐介 岡田茉莉子

2006/2/20/月 劇場(テアトル新宿)
正直私は青山作品はニガテだし、本作も、予告編の段階から、あ、最もニガテなタイプの青山作品だ、と感じてかなり二の足を踏んでいたのは事実。
ニガテモードなんで、故意にいくつか作品観のがしてるぐらいだもん。
そもそも私は判りやすい映画が好きだからさ。
そんでもって観てみて、ああやっぱり青山監督らしい、ワケわっかんない世界だなと思いつつ、以前ほどには戸惑いが不思議となかったのは、免疫が出来たせいなのかな。
ワケ判んなさを隣に置いといて、映画的な美しい構図をほれぼれと眺めることが出来る。それを美しいと思うのも奇妙な、ほこりっぽい画なんだけど、確かに美しい。
映画の魅力って、確かにこういうことなんだろうと思う。ストーリーやそんなこと、時としてどうでも良くなる。その構図にだけほれぼれと見とれていられる。そしてそこには確かに何かがあって、何かが美しくて、なぜそれが美しいんだろう、美しいと思うんだろうと、後からつらつら考えていると、自分の中の何かがどんどん湧き上がってくるの。

ノイジーな音楽を、彼女のためだけに聞かせる青年。そこは目に染みるような緑の草原がどこまでも続いていて、空も青くて、そしてぽつんと自転車が置かれている。
彼女は目隠しをされて、彼の音楽に対峙している。その地響きのようなノイズに揺れながら。
何が美しいのか、何が心打たれるのか、でも確かに忘れられないクライマックスシーンだ。

青山作品には、その劇場用デビュー作、「Helpless」にまず圧倒的な戸惑いを感じた。巷で絶賛されているだけに、自分には判らないということがなんか悔しいというか、それが反発となって、こんなん判らんわ!と逆ギレに近いような感情でいたような。
そして、そんな気持ちをずっと引きずりながら青山作品をそれでも観てて……陥落したのが「ユリイカ」だった。青山作品らしいコアな部分と、未来を予言したかのような社会性が、それこそ奇妙な美しさに融合されていて圧倒的だった。
そして、その二作品に息づいていた二人。浅野忠信と宮崎あおいは、それぞれの作品の二人がよみがえったように、全く同じ匂いを発しているのには驚く。だってそれぞれ、かなりの年数がたっている……あおいちゃんに関してはほんの数年前でも、女の子がもっとも変わる数年間であり、何より彼女はあの作品で名を売ったのだから。

実際、監督の世界を体現出来る、最上の二人なんだろう、浅野忠信と宮崎あおいは。「Helpless」の主演であり、その時点で青山ワールドを何の迷いもなく体現していた浅野忠信。青山作品を世界に押し上げ、コアな映画ファンからより広いフィールドへ押し出した「ユリイカ」で、主演の役所広司よりその作品世界を、ひと言も喋らずに焼きつけた宮崎あおい。
特に、やはりあおい嬢はスクリーンの女優だ。彼女の微細な表情をテレビの画面で評価するのは難しい。なぜカメラの前で、こんなにミリ単位の表情が出来るのだろう。まるでカメラがそこにないみたいに。

そしてこれは、音楽そのものを映画に焼きつけようとしている意欲作としての前提が、まず重要な作品である。
その同じ野心を見事成功させた映画を、ついこの間、観た。トニー・ガトリフ監督の「愛より強い旅」
あの映画は、主人公たちを実際の旅の中に放り出して、音楽をスクリーンに焼きつけてゆく。一方本作は、心の旅の中でそれを掘り下げてゆく。
期せずして、共に音楽にも携わっている映画監督が、音楽そのものを映画という方法でつかまえようとしている作品が前後して現われたことに、強い興味を感じる。

本作で、それが成功したかどうかは、正直私には判らない。
音楽は、芸術の中で最上。なぜってそれは、絵画や写真や小説のように、確かに存在するものだと証明できないから。あおい嬢が劇中で語っていたように、まぼろしなのだ。
でも、時間の中にしか存在できない人間も、まぼろしかもしれない。最上の芸術に憧れ続けて、その高みに上りたくて、死の淵から踏みとどまるのだ。
総合芸術である映画は、でも音楽を超えられない。音楽そのものをこうして映画にしようという野心も、そのまぼろしをとらえようとする映像が、殺してしまう。映像が魅力的になることで、殺してしまう。

音楽は世界を、地球を、人間を救えるか?
そうだとしたら、それはどんな音楽なのか?
判りやすい、映画でいえばストーリー性を持ったような歌謡曲的な音楽は、あまりに決まりきっていて、自分をそこにシンクロはできないのかもしれない。
でも、このノイジーが共感できるかって言ったらそれは紙一重で。
本能に働きかける音が、人間だからみんな一緒ってワケじゃないと思う。そんなに単純じゃないと思う。
彼は彼女のために演奏した。それは彼女に届いた。でもそれは彼のかつての恋人には届かなかった。

時は2015年。この微妙な近未来、世界には原因不明の感染症が蔓延しているのだという。
レミング病と呼ばれるその病気は、自分の意志に関係なく死にたくなり、自殺してしまう病気。この病により、日本だけでも300万人の死者が出ていた。
これは神の怒りなのか、このまま人類は絶滅してしまうんではないかという絶望感に世界は包まれていた。
そんなニュースが雑音だらけのラジオを通じて流れる中、ガスマスクをつけた二人の青年が、音を拾って歩いている。
風の強い、枯れた陸には、無造作にビニールでぐるぐるまきにしたいくつもの掘っ立て小屋が建っていて、暖かい食事を用意しながら、その一方で命を断っている人を彼らは発見する。
そんな光景は見慣れているのだろう、特に驚くこともなく、青年たちは次の場所に移動する。

波の音が雷鳴のような響きを聞かせている海岸。相変わらず風が強い。ちっともさわやかさがなくて、絶望的な気分に満ちたこの強風が、死の気分を撒き散らしているみたいだ。
彼らは、廃物なども好んで使う。排水ホースをぶん回すとうなる、繊細な管楽器のような音を様々な長さにホースを切って作り出し、自在な和音を作ったりする。
無数にぶら下げたホタテの貝殻や、野菜をつぶした時に発する音、本当になんでもかんでも。それをマイクで拾い、パソコンで加工し、ノイジーなギターをかぶせ、独特な音楽を作り上げる。
音楽、なのだろうか。少なくとも音楽には聞こえない。素材素材は心弾かれる音でも、ひたすらノイジーに処理されるその音は、返って絶望的にさえ、聞こえる。
この映画のタイトル、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」は、キリストが十字架に磔にされながら、最期に残した言葉だという。
「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」そう、彼は天をあおぎながら、言ったのだろうか。
きっと彼にも天上の音楽が聞こえていたことだろう。
それは意外に、こんな絶望にも聞こえるようなノイズだったのかもしれない。

そんな彼らの元に、レミング病にかかった少女を伴った男たちがやってくる。
男の一人は探偵。レミング病を抑える唯一の方法を持っている、この二人の青年を探し当てた。
そしてもう一人は、彼女の祖父。由緒正しき家柄の後継者である彼女を、死なせるわけには行かないと、一縷の望みをつないでやってきた。
でも、他の家族は全員、レミング病を発症して自殺してしまったのに。彼女が自嘲気味に、「私だけが生き残って、後継者でも意味ないじゃん」というのは、確かに言えている。
それは、人類滅亡の恐怖にさらされた人間の、叫びのようにも聞こえる。

この探偵の存在は、ちょっと気になるんである。この二人の青年を捜し当てるだけの役割なら、何もこんなところにまでついてくる必要はない。まあ、表向きは少女の監視役といった役目をおおせつかっているようにも見えるんだけれど、……彼が結局最後には自殺してしまうのを目にして、思うのだ。
彼もまた、死にたくなくて、やってきたんじゃないかって。
レミング病を抑える唯一の方法、二人の青年の作り出す音を聞くこと。彼女のために奏でられる演奏、その場に彼もいたし、一緒に聞いてもいた。なのになぜ、彼は死んでしまったのか。

死にたくなる気分に押される形で、崖の上まで走って行った少女を彼は追いかけた。でも彼女は崖の上で足がすくんでしまった。苛立ち気味に振り返って言う。「私だって死にたくないに決まってるじゃん。病気なんだから仕方ないじゃん」
探偵さんは、そんな言葉も意に介さないように、「さ、帰るぞ、お嬢さん」ときびすを返した。でもその後、この探偵さんが帽子をかぶったままお風呂の中、ぶくぶくと沈んでゆく後ろ姿のシーンがあって……なんだか私は、そうやって死にたくないと口に出せる、真正直に死に抗っている少女に、自分は勝てないと彼が思ったような気がして……。
探偵さん、あのあまりにもノイジーな音に耳をふさいでた。そして浅野忠信扮するミズイは、治す気があるかどうかが問題なんじゃないかと言っていた。
でも、私はなんだか違うような気がする。ミズイが、彼女のためだけに演奏したからじゃないの。だから彼女は死の淵から生還した。でも探偵さんは、きっと孤独で、孤独を思い知らされてしまったんじゃないの。

その前に、ミズイの相棒で、共にこの救済の音楽を奏でていたアスハラは死んでしまうし。
アスハラもまた、レミング病持ちだった。彼もまた死にたくなくて、自分のために音楽を奏でていたのだろうか。
自分たちの音楽は、病気を治すんじゃない。病原菌のエサになるだけだ。そう少女たちに言い捨てて、彼は出て行った。そして……その先で自殺してしまった。なぜ、死んでしまったの。結局は治るわけじゃない、先への絶望を感じてしまったからなの?
そう、治るわけじゃない。自殺する気をそうやってそらしているだけ、特効薬じゃなくて、抑制薬のようなものなのだろう。一時持ち直した少女は、この最果てのペンションに一人、とどまることになり、ミズイは、生きたいなら、いつでもくればいい、と彼女にメッセージを残す。

ミズイには恋人がいた。やはりレミング病だったのだろう。少女に対してしたのと同じように、彼女に黒い目隠しをさせて、彼女のためだけに演奏する。なのに、なのに……その恋人はベランダから身を投げて死んでしまった。
ミズイには、彼女を救えなかったという思いがあったのではないだろうか。いくらライヴの演奏でたくさんの人を救っても、たった一人の愛する人を救えなかったという思いが。彼の躊躇にはそんな理由があったんではないのか。
しかも、たった一人の相棒も、救えなかった。
海岸で、組んだやぐらにアスハラの遺体を乗せ、火をつけて荼毘に付す。その炎を見ながら、彼は少女の祖父に、演奏する決意を伝える。
それでも、いざとなると、やはり彼には迷いが出てしまう。
祖父は、演奏してくれると言ったじゃないかとつめよる。しかしミズイは迷う心をもてあますように、草原に身を投げ出すばかりだ。
この祖父を演じるのが筒井康隆で、なんか、昔の角川映画を思わせるような筒井氏の過剰演技が、この繊細と大胆がモザイク状になっているような映画の中で、不思議と息がつける。

ミズイ、ふと起き上がる。そして少女の後ろに回って、黒い布で目隠しをする。そして彼女の手をとって歩き出す。「見えなくても、場所は判るはずだ」
彼は演奏を始める。少女は何かに導かれるように歩き出し、演奏をしているミズイの目の前で立ち止まる。そしてそのノイジーな音楽を全身に浴びる。
演奏する彼と、目隠しして聴いている彼女。黒で目隠しした、黒づくめの少女はそれだけでひどく画になってしまう。
彼の恋人とフラッシュバックする。黒づくめの華奢な身体の少女、宮崎あおいと、大人の女の湿度を漂わせた美女、エリカの対照的なフラッシュバックは、めまいがするような耽美を感じる。
彼が演奏している時、多分、彼だけに見えているんだろうと思うけど、死んだアスハラがスピーカーの隣に座ってたりするのが、かなりコワい。一瞬、スクリーンを横切る時に、微笑みを浮かべたアスハラが映ってるのには心底ドキッとする。
そういう意図ではないんだろうけど……当然。

ただ一人残された少女に、いつまでもいていいんだと言うペンションのおかみさんは、とっても美味しいスープが出来たのよ、と朝起きてきた少女を笑顔で迎える。
「あなたが生まれるずっと前からキッチンに立っているのに、美味しいスープの作り方が今ごろやっと判ったなんてね」
最初はこの小さなペンションに、お嬢様育ちである彼女は、「こんな汚いトコ」なんてグチっていたのに、今はなんだかやけに居心地よく、美味しいスープをすすって笑顔を見せる。
生きるって、生きる気力って、こんなささやかなことなんだろうと思う、きっと。美味しいスープの作り方が判った喜び。その美味しいスープを人に食べさせることが出来る喜び。その美味しさを分かち合う喜び。その美味しさに心が満たされる喜び。

こんなやけに近い近未来に設定しても、ファンタジーのような美しさと共に、間近な未来としての圧迫感もあって、不思議な感じである。
たった10年後に、こんなファンタジーに満ちた、絶望の地獄のような未来がやってくるかもしれない、というのが、リアルとアンリアルのはざまにあるような。
前衛絵画を音楽に置き換えて映画にしたら、こんな風になるんじゃないかというこの作品、で、この前衛的な、本能に訴えかけるような音楽こそが主人公の、その音楽担当者のプロフィールを見て驚く。だって、主な代表作としていきなり、「銀のエンゼル」!ビックリ!全然違う!ミスターは彼とどうやって出会ったんだろう。★★★☆☆


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