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「あ」


2006年鑑賞作品

愛する (愛欲みだれ妻)
1999年 63分 日本 カラー
監督:今岡信治 脚本:今岡信治
撮影:鈴木一博 音楽:
出演:諏訪光代 田中要次 永井健 麻丘珠里 吉沢一子


2006/12/6/水 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE VOL.2 いまおかしんじ特集/レイト)
年末で、レイトで、頑張ったんだけど、かなーり眠かったので、記憶が正しいかどうかちょっと自信がない(汗)。しかしやっぱりねー、そういうリスクを犯してでも、今岡監督の未見作品を上映すると知れば、観に行かずにはいられないのだった。
作品の特異性からは想像出来ないほど、外見は頼りになる人事部長といった風情の今岡監督は、しかしその豊かに語る作品性からはやはり信じられないほどに口ベタなお人なのであった。この日も、舞台挨拶に来ていた。一緒に壇上に上がった伊藤猛氏も決して口上手?な方じゃないけど、その彼に心配されるほど、今岡監督は上手く話せなくて、思わず微笑ましい笑いが上がるほど。
本当に不思議な人だよなー。作品世界と、外見と、その人格にそれぞれギャップがありすぎる。

監督もその壇上で言っていたけれど、これは小さな話。それを目指したという。この日上映された二本ともヒロインは同じ女優で、子供がいない30代の夫婦、という設定も同じで、その夫婦のあり方を見つめる、という姿勢も同じである。
なんでもその前年の「デメキング」あたりの破天荒さに、ああいうのはヤメてくれ、普通の映画を撮ってくれと会社から言われたとか(笑)。今岡作品はいつでも大なり小なり不思議ワールドではあるけれど、確かに「デメキング」はそれが極端に破天荒に現われた作品だった。
そして一見、小さな物語の、今岡作品には珍しいささやかな夫婦の愛の物語に見えそうで、やはりそこには、ムリヤリねじ込んだようにも思われるほどの不思議ワールドはやっぱり入り込んでる。それも、最初に始まり、最後に締めちゃう。
それは、お尻の穴からガソリンを注入されるとパワーを取り戻す人造人間!思いっきり顔をシルバーに塗りたくり!

果たしてこの人造人間の存在が、まあ最後には奇蹟を起こすにしても、ここまでキテレツにする必要があったのかしらん、とちょっと悩んでしまうけど!?
でもインパクトは絶大。というか、ヒロインの登場の仕方もインパクトがある。自転車に乗りながら号泣している。彼女の泣き顔のアップを追って、カメラもフラフラと揺れる。
その彼女が行き倒れの人造人間さん(オカシイって、このシチュエイション)を発見し、ガソリンスタンドに連れて行ってお尻の注入口(アルミホイルで作ったような、すっごい手作り感!)からガソリンを注入してあげるんである、って何だよそれっ!
この人造人間さんは、その後ラストになるまで姿を見せないので、何の意味があるのかしらと思っていたのだが……この時、彼女に恩義を感じたらしいんだよな。

この彼女、治子が号泣していた理由は、生理が止まってついに妊娠かと思っていたのが、違ったこと。もう30代半ばと思われるこの夫婦、彼女の帰宅を待ち構えていた夫も、妻が精一杯明るく示したバッテンマークに、落胆の色を懸命に隠そうとする。
彼女は「子宮内膜症なんだって。早く治して、赤ちゃん作らなきゃね」と明るく言う。
ちょっとね……もしかして、と思う。彼女はここまでの台詞に留めていたけど、実際は赤ちゃんはムリだと言われたんじゃないのかなあ。あそこまでの号泣が、そこまで考えないとちょっとムリがある。そりゃ落胆はするだろうけど、号泣だもの。夫も楽しみにしてくれていたんだし。

この夫を演じているのが田中要次。今までもピンクでちょこちょこ顔を見ていたけど、ここまでガッツリメインでやっているのを見るのは初めて。顔は濃くてゴツイけど、どこか気弱で優しいダンナさんが似合っている。ガフガフの白のブリーフはカンベンしてほしいけど(笑)。
ところでね、この優しいダンナさん、だけど不倫してるのよ。25歳だというから、彼より10〜15ぐらい下だろうと思われる。でも25という年齢は女としては非常に複雑で微妙。相手に対して本気を迫るか、切れるかしないと、この後の女としての人生が設計できなくなるんだもん。
その点、女は早いとこ決断を迫られるんである。男は25やそこらじゃまだまだ人生設計の決断なんて迫られないでしょ。やり直しがきくとか思ってるでしょ。でも女はそうはいかない。それがヒロインに示されてる。そう、幸せな結婚に、ある程度つきものの、子供を授かることを考えれば。

でも、このダンナはそんなことぜっんぜん考えずに、ムジャキに不倫してる。一方で奥さんのこともちゃんと愛しているんだから、困ったモンなんである。愛人とセックスして帰ってきたって、奥さんにきっちり欲情するんだもん。それも、背中に湿布を貼ってやっているという、良き夫婦かなという図とはいえ、色っぽいとはいえない場面でさ。
あー……でもこの場面、負い目を感じてのムリヤリだったのかなあ。だって勃たなくて、「お願い、パクッとやって」とか治子に言ってんだもん。それも愛人とのプレイと同じ甘えた言い方でさあ。

おっそろしいことに、この愛人、あきこが訪ねてきた。ダンナのいない昼日中、奥さんに対して挑みかけるつもりだったのか、チャイムを鳴らしても出てこないと、そばにあった消火器をつかんでドアを蹴破ろうとする!って、オイー!
そこに買い物から帰ってきた治子、「あのー……うちに何か用ですか?」「いえあの……奥さん、当選しました、おめでとうございます!(パチパチ)」!?「(おっとりと嬉しそうに……って、おかしいと思えよ!)何が当選したんですか?」「はい!カラオケの無料券です!」

それで二人してカラオケに行って……って、その時点で文脈おかしいのに、意気投合しちゃう、っておかしいだろ!いや、意気投合したと思ったのは、治子の方だけだったのかもしれないけど……。
だって、あきこはこんな謎かけをするんだもん。「もう25ですよ。オバサンですよ」
それに対して何も知らない治子は言う。「そんなこと言ったら、私なんかどうするのよ」
治子が医者から言い渡されたことを思うと、こんな単純な言葉では済まされない。

あきこは、治子のダンナと不倫関係にあることを自らバラす。この腕相撲に勝ったら、私にダンナさんをください、なんて言って。動揺した治子は、両手であきこの腕をねじ伏せて、「私が勝ったもん!」と子供のように言い張る。
一方で、若い男の子、時男とつき合い出す治子。つき合う、といっても最初は、彼のサイフを拾った(というか、明らかにネコババしようとした)ことで出会う。とっさのゴマカシで「後ろに組んだ手を足でくぐりぬけられますか?」なんて、主婦のひまつぶしな話題を持ち出した時には、ホントに暇つぶしだったのかもしれないけど、まあ結局は、この彼と遊園地でたあいなく過ごすぐらいだった。
いや、その後調子よく酔いつぶれた治子をホテルに連れ込んだ彼は、ヤッちゃおうとしたんだけど、正気に戻った彼女はそれを拒否するんである。
そういう気持ちもどこかにあったはずだけど、なんかね、治子はダンナのことが本当に好きなんだな……。

そして、ダンナの浮気を知った治子は、どこかヤケ気味に時男を自宅に招いてすき焼きなんぞをご馳走し、「今夜はダンナはいないの。泊まってほしい」と色目を使うんだけど……多分コレはウソだよな……彼はあっさりと、「すみません、今日は彼女とデートなんで」と言いやがる。
絶句した治子はしかし、別れ際、時男を激しく引きとめ、恐怖を感じた彼は飛び出して行ってしまう。治子は追いかける。可愛い彼女と待ち合わせしているところも見届け、デートの先々にあとをつけていく。
尋常じゃない。でも……二人が質素なアパートの部屋に入っていった時、思い出したのはダンナとの思い出だった。

時男と彼女のセックスが、そのままダンナとの若き日のセックスと、そしてその後のプロポーズを思い起こさせる。
思えばこの時、治子は彼の靴下を繕ったのだった。妻のつくろった靴下、に嫉妬したあきこは、自分のプレゼントした赤い靴下を彼に履かせてバトルが勃発するわけだが、その最初の思い出を治子は思い出したのだ。
一方、ダンナはそのあきこにフラれていた。あきこは治子とどこか友達同士のようにつきあってしまったことで、治子がダンナを真実愛していることに気後れしたのかもしれない、なんても思ったり。
でも、「好きな人が出来た」とウソを言って颯爽と彼に背を向けたあきこが、冒頭の治子と同じように号泣するのが、グッとくるのよ。

治子は、あきこにフラれた直後のダンナを、自転車にまたがったまま、注視している。商店街の雑踏の中。ゲリラ撮影と思われるスリリングな画。
ダンナは妻に見られていることを気づいていない。ひょっとしたら治子も、ダンナがそういう状態だってことに気づいてないかもしれない。

いつだって自分の帰りを待っているはずの妻がいない、ダンナはフラフラとさまよい、つまづいて、頭を鉄柱にぶつけて倒れてしまう。ウソ……死んだの!?
一方治子は……これは……なんかね、全ての負い目やなんかを乗り越えて、自分の帰るべき場所、待っている人を知った、って感じなんだよね。ここらあたりはちょっとファンタジー味(なんたってあの人造人間がラストを握ってんだから)が足されてくるんだけど、でも生き返った夫が、電話ボックスの中で泣き崩れてる治子を“迎えに来る”シーンはジンとするんである。
そう、あの人造人間が、夫を生き返らせてくれるのだ。うーむ、このシーンは素敵に脱力でどうしようかと思ったけどね(笑)。

治子が、電話ボックスで、通じないだんなに電話をかけながら崩れ落ちる、それが、電話ボックスのガラスが雨粒に曇ってて、その内側の治子が、心細そうな、でもダンナを愛している、信じて待っている表情が透過されて、美しくてさ……。
電話ボックスの中の妻を見つけるダンナ、きい、とドアが開けられる。ウチじゃないのに、電話ボックスなのに、「おかえり」「ただいま」を交わす。
物理的な意味じゃなくて、僕のところへ、私のところへ帰ってきたね、戻ってきたよ、という、おかえり、ただいま、だよなあ。

何も人造人間なぞ出さなくても、十分ジンとくる物語だったのにー、などと思ったりして。そのあたりが今岡監督の今岡監督たるゆえんだけど、テレもあるのかなあ、などと思う。いやいや、人造人間、アホで面白かったけどね。

あ、ところで!これって元々、「愛する」じゃなくて、「恋する」なんだって??激しく意味が違うじゃん!
どっかで誰かが間違ってから、そのまま流布してしまったらしいが、監督もそれでもまあいいや、的だしさ。成人映画としての公開タイトルとは関係ないとはいえ、うーむ、い、いいのか?★★★☆☆


愛より強い旅EXILS
2004年 103分 フランス カラー
監督:トニー・ガトリフ 脚本:トニー・ガトリフ
撮影:セリーヌ・ボゾン 音楽:トニー・ガトリフ/デルフィーヌ・マントゥレ
出演:ロマン・デュリス/ルブナ・アザバル

2006/1/24/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
ふと気づくと追いかけてしまっているトニー・ガトリフ監督作品。かかってると、ついつい観に行ってしまう。特に執着しているわけではないんだけど、なんか心惹かれるものがある。本能的に。
カンヌ映画祭で監督賞受賞。ガトリフ監督も、ついに確固たる地位を築いたんだなあ、などと思う。確かにこの人は唯一無二の監督だ。この人の映画にはこの人の映画にしかない匂いがある。それが本能的に惹かれるゆえんなんだろうと思う。
物語とか、ストーリーとか映像とか、というより、もちろんそれもとても力強いんだけど、この人は、音楽そのものを映画にしてしまう、唯一の作り手なんだよね。もちろん自身で音楽も手がけてるし。今回はそれが本当に顕著。すべてのことが音楽の胎動から押し出されている。生命も、肉体も、セックスも、ルーツも、男も、女も、何もかも。ホント、強引なほど。しかしそれが納得できてしまうのだ。

ガトリフ監督作品の常連、主役、つまりは監督の分身を託せる唯一の俳優、ロマン・デュラス。ほかの映画でも折々見る彼だけれど、ガトリフ監督作品での彼は、その映画そのものの、匂い立つ存在感を見せる。
というか……あれっ、この人、こんなにセクシーでイイ男だったかな。うーん、やはり男は30過ぎてみないと判らないものだ(40過ぎるともっと判る。男って、イイな)。いつもかぶっている洒落た帽子も、そのぐしゃぐしゃのウェイビーな髪によく似合う。

冒頭、彼演じるザノの背中の接写から始まる。オオッ、と思う。それだけで濃ゆく立ち込める官能。
しかも最初からつんざくような音楽がもうリズムを刻んでいる。現代的な、脳を揺さぶる電子のトランス。カメラがゆっくりと引くと、彼は全裸の後ろ姿で(きゅっとしまったお尻がセクシーだわー)まるで睨みつけるように都会の忙しく走る環状線を見ている。くるりと振り返り、ラジカセ?のスイッチを切り、その音楽に頭を揺らしながらアイスをダラダラこぼして食べていた恋人、ナイマに突然言う。
「アルジェリアに行く」何をキッカケに思ったのか、決然と。
「アルジェリア!?」と高笑いしたナイマのそれは、まるでその時には嘲笑のように聞こえたけど、バッカじゃないの、みたいな。後々から考えると……彼女は自分のルーツでもあるそこに行くのを怖がってて、それを彼女の陽気さに紛らしていたのが判る。

アルジェリアはザノのルーツでもある。そして監督のルーツ。分身であるザノにこの映画の旅を託しているのだ。
ザノの祖父はアルジェリアで英雄だった。しかし独立運動のさなか、非業の死を遂げ、彼らの両親はかの地で交通事故死。幼かったザノはフランスに亡命し、すっかり都会人になってしまったけれど、あの時、車がひっくり返ってしまった記憶、自分だけ生き残ってしまった感覚を忘れてない。
それに見るからに異邦人である彼は、このパリでなにがしかの違和感を感じていたのかもしれない。
ナイマは問う。「音楽はどうするの?」「やめる」ザノは即答する。
音楽で生計を立てていたのかな。彼は旅の前、バイオリンを壁の中にコンクリで埋め込んでしまう。この時には彼がバイオリンで生計を立てていたのかと思ったんだけど、後に、「アルジェリアを発って以来、バイオリンは弾いていない」というからそういう訳でもないらしい……とにかく彼の中に引っかかっている故郷を訪ねないことには始まらないということを、彼は突然、気づいたらしいのだ。
そして二人は列車をタダ乗りし、基本は徒歩で、ルーツを探る旅に出るのだ。

ザノの登場もハダカだったし、ベッドでアイスクリームを食べていたナイマもすでにハダカで勝負!だった。この二人は、そして特にナイマは肉体、そしてセックスが生命そのものという直球のパワフルにあふれていて圧倒される。二人はセックスでつながっているといっていいほど、なにかってーとお互いを求めるんだけど、それがそんな言い方から喚起されるような浅はかさではなく、セックスが生命のエネルギーだってことを凄く感じさせて、二人の結びつきの強さを印象づけるのだ。
だって、ナイマが旅先の男と浮気して、彼は怒るんだけど、セックスで仲直りしちゃうんだもん。すげーって。

それは、旅先で出会った情熱のフラメンコ。セビリアの街。彼らの旅はパリから始まって、アンダルシア、モロッコ、そして目的地のアルジェリアと渡っていくんだけど、そこここで強烈な土着の音楽の洗礼を浴びる。彼らがウォークマンで聞いている以外の、最初に登場する音楽がこのフラメンコ。もちろんあの情熱的なダンスを、群衆が押しあいへしあいしている熱気あふれるバーで見物している。
ナイマはそこで一人の男に声をかけられ、ザノの目を盗んで……寝ちゃうわけ。ナイマが行きずりの男に身体を任せたのは……なぜだろう、などと考えてしまう。特に意味はなかったのかもしれない。彼女の中の奔放な資質が引き寄せただけなのかもしれないけど、彼女がセックスを振り絞って何かを振り切ろうとしているような気がしてならないから……まるで意地になって。
しかも、そんな彼女に当然怒るザノに逆ギレ気味だし。

ザノはナイマの浮気現場を見ちゃったのかなあ。ナイマを探して路地をゆく彼の場面がいきなりカットアウトし、夜明けの街を一人、散らばった酒瓶を蹴りながら、どこか悄然と歩くザノをあおるように追うキャメラが印象的である。
そしてまたいきなり次の場面、走る列車にがくりと座り込んだ彼しか映らないから、えっ、あのまま彼女に逃げられたの!?とか思ってると、まさか、そんなはずはない。
カメラが短くパンすると、そこに憮然とした表情の彼女がいて、二人はそこからしばらくの間、口げんかを繰り返すんだけど……。
果樹園でのバイト中になんか、そんな気分に二人ともなっちゃって、プラムをエロエロになめたり噛んだりお互いを挑発したりして、そん中でヤッちゃって仲直り。オーイ!
いやでも、凄いな。このあたり、いっそサッパリしてる。そしてここでもつんざく音楽が二人を鼓舞する。

二人は旅先で、彼らとは逆にアルジェリアからヨーロッパを目指している兄妹と出会う。「アルジェリアまで歩く」というザノとナイマに二人は笑ったけれども、彼らだってかなり危険な方法を冒している。つまり正規の旅のルート、パスポートとか検問とかをすっ飛ばしているらしいのだ。
彼らと再会したアルメリアは、そうした密入国者のバイトの斡旋が盛んらしくって、当局がことあるごとに目を光らせにやってくる。その目をかいくぐってこの兄妹はなんとトラックの荷台の下、タイヤの上にはさまって運ばれていくんである!当局の目をフランス人であるザノとナイマがひきつけている間に。そうでもしてでも、二人はヨーロッパを目指す。恐らくは……稼ぐために。「パリかアムステルダムじゃなければ」そう彼らは言っていた。そしてザノとナイマに家族に当てた手紙を託すのだ。
その頃、アルジェリアは大地震に見舞われていた。そうだ、そう言われればアルジェリア、大地震があった。それもこの撮影中にあったんだという!
監督の故郷が、あとかたもなく崩れてしまう地震が、奇しくもアルジェリアにルーツを探りに行く映画の撮影中に起こるなんて、なんということだろう。
恐らくこの出来事が映画の骨子を大きく、強く変化させるものになったに違いない。崩れゆく故郷により強い思いを馳せたに違いない。

ナイマ、という名前はアラブ風なんだという。彼女は行く先々で人々からそう言われる。「名前はアラブ風だけど、アラビア語は喋れないし、宗教も違う」とその度にナイマは繰り返す。何か、彼女の中でわだかまるものがあるんじゃないか……この頃からそんな気がしだしてくる。
お互いの身体を睦みあいながら、そこに残る傷の原因をお互いに聞いたことがあった。ザノの身体には、両親を亡くした時についたヤケドのあとがあった。ナイマの唇に残るアザは昔の恋人に殴られた跡だという。しかしそんなことまで言うのに、彼女は背中に残る傷については、「それは言えない」と口を閉ざす。ザノが明るく「僕の宗教は音楽だ」(いい台詞だ)と言うのに対し、彼女はそのこと自体についても触れたくないような雰囲気である。もうアラブ風とか言わないで、みたいな。
普段は本当にあっかるいのに。二人がひととき一緒に過ごしたジプシーたち、でも朝目覚めてみると誰もいなくて、ザノのブーツとその中のカネをとられた時も、その朝、ナイマは彼より早く目覚めてて、一人サッカーごっこに興じていて、目覚めたザノに「あんたが私の中に入ってくる感覚がほしい」なんて早々にパワフル全開だったりして。いろんな危機も、彼女のこのパワフルがあったから乗り越えられたと思ったのに。
ちなみに、この時代わりの靴を買うためにカタコトの現地語でダサい靴を買い求めるザノの必死さがちょっと笑える。

アルジェリア直行の船に乗ったと思ったらなんとモロッコ行きで、いきなり砂漠に降り立ち、一日一本しかないバスがしかも途中で止まってしまい、二人は地元の男の子の案内で国境越えを目指す。正規のルートでは国境は封鎖されていて、陸路からは行けないというのだ。なので、地元の手引き屋によって危ない橋を渡るわけ。この石だらけの砂漠の中でも当然、歩く歩く!
本当に、歩きどおしなんだもんなあ。路上の水道で身体や髪を洗ったり、ペットボトルやタンクに水を入れてかついでいったり、なつかしの電波少年並みの大変な旅。こんな旅を女性に強いるなんてそれだけで凄いけど、何よりこの旅を乗り越えていくのは、ナイマのふてぶてしいまでの強さにあったのに。

ついに目的地のアルジェリアについたのに、まるでその途端にナイマは今までの元気がなくなってしまうのだ。
逆にザノははしゃぎ気味である。特に、幼い頃住んでいた家を探し当て、しかもそこに、彼ら家族の後に引き続き住んでいた老姉妹は彼らのことを覚えていて、家具や写真もそのまま残ってて、ザノは若き父がバイオリンをたずさえている写真を目にしてたまらず嗚咽にむせび泣くんである。
この時確実に、彼の中では故郷に対してあった、のどもとのホネのようなものがこくん、と飲み下された。洗い流された。老婦人のたっぷりした胸に顔を押し当てて泣き続けるザノを、ナイマはどこかうつろに見ている。

旅先で出会ったあの姉妹から託された手紙を、彼らの家族に渡し、老母や兄弟姉妹、親類縁者たちが総集まりで、良かった、二人は無事だ、大丈夫、大丈夫と言い合っているのをザノとナイマは見守っているんだけど、ナイマはとにかく何か哀しそうな顔してて。「どこに行っても疎外感を感じるの」恋人のザノがどんなに彼女を抱き寄せてキスしても、彼と目を合わせようとさえしない。
この“どこに行っても”っていうのは、住んでいたパリも当然含んでいるんだろう。いろんなものがある都会でなら、そのことを忘れてもいられた。でもついにルーツに直面して、彼女は多分……ザノとは違って思い出したくないルーツに直面したに違いない。
あの明かされない背中の傷……。
ザノが自分のルーツを探し当てたのに対して、彼女はその傷が象徴する心の傷に、直面できないでいる。

この土地は、特に女性は肌を隠さなければならない。あらわな肩紐のワンピース姿の彼女は老婆から、「オマエのようなバチあたりがいるから、地震に見舞われたんだ!」なぞと攻撃されてしまう。
一度は地元の民族衣装に身を包むものの、息がつまる、とそれを脱ぎ捨ててしまう彼女。
とにかく、気分が晴れない。そんな彼女をザノはある場所につれてゆく。

もう、このシーンが凄い。このシーンだけでこの映画が語れてしまうくらい。
まず、皆座り込んで食事である。山と詰まれたスプーンから各々一人ずつ取り、同じ皿にスプーンを突っ込んで食べるんである。ナイマはどこか別室に呼ばれる。そこには巫女?占い師?彼女の目を覗き込んで、「私には判る」と、彼女の悩み苦しみを看破する。ナイマは涙をいっぱいためて、ほっといてよ、と言いながら、その目から逃れることが出来ない。

そして、絶え間ないアフリカン・ドラムと、この巫女のような女の歌声とも叫び声ともつかないワンカット・ワンシーンは、一体何分続いてるの。まるで30分くらい続いているような気分だったけど、10分くらいだったのか、とにかく、もう、永遠に終わりなく続くんじゃないかってくらい。
祈りのような歌い声と、まるで乱れないドラムのリズム、それに合わせて何かに憑かれたように、頭をぶんぶん振り、身体をぶんぶん振って踊りまくる女たち。いつしかナイマも、誰よりも激しく頭を振って、踊りだす。
踊り、なんだろうか、もはや踊りですらないような。もう、イッちゃってるんだもん。 そんなに振ったら頚椎がおかしくなっちゃうよ……。
もう、ダメだってくらい、倒れるまで。倒れちゃう。意識がもうろうとしてる。ずっとそんなナイマを気遣って支えてたザノもつられるように踊り出す。でもさあ、ナイマの踊りには到底叶わないの。それだけナイマの内面の辛さってのが凄まじかったんだなって……思い知らされるのだ。

途切れることのないリズムと、全てを遠心力のようにさらけだす彼ら、凄い、凄い、凄い。これぞ、本当の、ホンモノのトランス。
まさに、ここでは音楽が宗教になってる。ザノの言葉はそういう意味ではなかったとは思うけど、ここではそれがまさに真実。音楽の神様が、精霊を媒介してやってくる。
終わりはいつあるのかと、どうやって終わるのかと。いやこれは、きっと彼らの昔からずっとずっと続いてて、ここで発露して、そしてまた終わりなく続いていくんだ。きっと。
それは都会で彼らが聞いていた都会的な電子音楽の、トランス音楽と似ているようでまるで似てない。でも同じ音楽として、通じてる。あの血と肉を沸き立たせて洗練させたようなフラメンコを通って、この故郷の、原点の胎動のリズムに帰ってきた。

これでナイマは完全に、吹っ切れたようになるのね。
二人、歩いてゆく後ろ姿のバックに、タイトルのEXILSが真っ赤に重なる。
放浪者。きっと私たちはみんなみんな、そうなんだ。そしてこんな風に魂を洗い流す故郷のリズムを待っている。★★★☆☆


愛より強くHEAD−ON
2004年 121分 ドイツ カラー
監督:ファティ・アキン 脚本:ファティ・アキン
撮影:ライナー・クラウスマン 音楽:クラウス・メック
出演:ビロル・ユーネル/シベル・ケキリ/カトリン・シュトリーベック/グーヴェン・キラック/メルテム・クンブル/セム・アキン/アイゼル・イスカン/デミール・ゲクゲル/シュテファン・ガーベルホッフ/ヘルマン・ラウゼ/アダム・ボウスドウコス/ラルフ・ミスケ/メメット・カルトゥラス

2006/5/17/水 劇場(シアターN渋谷)
この邦題がどうしても気になって、前知識も何にもなく飛び込んだ。だって愛はいつだって最上のものとして語られるのに、そして「愛より強く」その先はなんなんだろ、って、気になって。
でも、観終わっても答えは出なかった。いやむしろ、彼女が愛より強くなれなかったんじゃないかな、なんても思った。
トルコ系ドイツ人の文化は当然まるで判らないから、戸惑う部分もある。物語の節目に挿入される、トルコの町並みをバックにしたトルコ音楽のステージ演奏も、監督曰くミュージカル的な役割だっていうんだけど、ピンとこないし。

ただ、音楽は映画全体を支配していた。うるさいぐらいに。主人公カップルの男性の方のジャイトはとにかくパンクを愛していて、家の中に貼られたポスターや、ファッションもそんな感じ。もしかしたら昔はパンクバンドをやっていたんじゃないかというような雰囲気もある。
女の方のシベルは、ことあるごとにクラブに踊りに行き、これまた爆音の音楽に身を揺らす。
彼女は23歳という若さには見えない、基本的にはノーブルで大人っぽい顔立ちなんだけど、その時ごとに驚くほど印象が変わる。すっぴんの時の清楚さと、外に遊びに行く時の、目の周りを黒々と塗ったメイクの彼女の色っぽさの差異はもちろんのこと、物語の後半、髪をベリーショートにバッサリと切って男の子のようなカッコをし、その上にメイクを施した時の、野性的なのに頼りなげで退廃的な妖艶さにシビれる。
この映画のために手垢のついていないヒロインが求められ、彼女はスカウトされて大抜擢された、奇跡的なシンデレラガールなんだけど、実はポルノ女優の経験があったというあたりも運命的である。それはホンバン(AV的)?それともナシ?(ピンク的)なのかしら。

ま、そんなことはどうでもいいか。だから、音楽の話。そんな現代的で攻撃的な音楽で武装している彼らなのに、のどかなはずの民俗音楽こそが二人を追いつめているように見える構成が上手いと思う。
そんなこと全然知らなかったけど、トルコの家族文化というのはとても厳密らしいのだ……この物語の中で語られるのを見ると。とにかく女性が封じ込められている。なんと、女性の水泳もダメなんだって!
文化=宗教、イスラムのそれを判ってないと、この物語を受け止めること自体、結構キビしいかも……いや判りやすいように上手く処理されてるとは思うけど、当地や、ヨーロッパではもっと切実に受け止められるんだろうな。

二人の出会いは、病院だった。ジャイトは酒におぼれて、生活に荒れて、酔っぱらったまま車に乗ってブレーキも踏まずに壁に突っ込んだ。シベルは手首を切って自殺未遂を図った。つまり、死にそこねた同士として出会ったのである。
シベルはジャイトがトルコ系であると知ると速攻で接触を図り、唐突に、私と結婚してほしい、と申し出た。ジャイトはイカれた女だ、とはねのけた。
その後、ジャイトはシベルが家族と話し合っているのを聞く。彼女もまたトルコ系で、家族文化にがんじがらめにされていた。そしてその後、彼女の誘いでバーで飲んだ時、また結婚の申し込みをされた。再度断わると、彼女はワインボトルをブチ割り、自分の手首にざっくりと突き刺した。クジラの潮吹きみたいに噴き出す血に騒然とする店内。

ここまでで既にそうなんだけど、とにかくシベルの激しさで、崖から岩が転げ落ちるかのようなスピードで展開していくんである。自由になれないなら死ぬしかない。そこまで思いつめてるシベルだけど、でも彼女にとっての自由というのは、家を出て、いろんな男とセックスするということなんである。
それもまたあまりに極端で、彼女がいかに女が押し込められる文化にトラウマ的に追いつめられていたかってことなんだけど……「とにかくセックス」というのがあまりに病的で、この後の展開における危機の予感をひしひしと感じるんである。

ジャイトが彼女との偽装結婚に承諾したのは、いくら彼女の激しさに押し切られた形とはいっても、彼もまた民族や家族のことで苦しんでいたんだろうと推測されるんである。一緒に住んでくれるだけでいい。セックスはしない、と懇願する彼女に負けてしまった。でも部屋をシェアっつったって、やけに縦長で狭いジャイトのアパートでは、顔をつき合わすしかない。

シベルが身の上を語りまくるのと対照的に、ジャイトのことはほとんど語られない。どうやら一度結婚の経験があり、その愛妻と死別し、それ以来彼の生活は荒れているらしい、んだけど、シベルの事情が饒舌なのと対照的に、彼はただただ孤独で荒れているということだけで、ホント、語られないのだ。
でも、そのはがゆさを補ってあまりある不思議なチャームを持っている。シベルとは劇中と同じく23もの年の差のある酔いどれのオッサンなんだけど、パンクへの愛と、シベルに「恋してしまった!」と友人に宣言するような純粋さと、何よりその大きな黒い瞳が、どんなに落ちても汚れても、純粋な湖をたたえているのだ。ま、ちょっとひげ濃いけどね。
パンクを愛しているというのも、だからこそ、年をとった彼が何だか哀れでもある。置いてかれているみたいで。しがみついているみたいで。やっぱりロックって、若者の音楽だからさあ。

かくして二人の新婚生活が始まる。シベルは部屋をキレイに片付けたり美味しい料理を作ったりと理想的な妻を演じつつ、でもジャイトとは絶対にセックスせず、外の男をあさりまくっている。しかも、彼の目の前でである。
そりゃ、彼女が家族から自由になるための偽装結婚ではあるけれど、まるで好色のように見えるシベルが、ジャイトに示した条件を生真面目に頑なに守っているのが、逆に奇妙なのだ。
二人が食卓を共にする場面は印象的だし、その後の展開や含みをいろいろ感じさせる。
「君と結婚して正解だった」「ママに習ったの。孫の顔を早く見せろってうるさいの」「じゃあ、子供作ろうか」「あなたが不能だって言うから大丈夫。離婚の理由にもなるし」
このシベルの言葉に、そういう前提のもとの、いわゆる契約関係だってこと了解済みだったはずなのに、だからありがたい言葉だったはずなのに、ショックを受けて、出て行ってしまうジャイト。訳も判らずに戸惑うシベル。

多分、ジャイトはその最初から、シベルを愛していた。シベルが他の男とヤッているであろう時間、クローゼットの彼女の服や、シーツの匂いを深く吸って、寂しげに身を丸めていた。
一方、シベルがいつからジャイトを愛するようになったのかは判らない。最初から運命を感じていたなんてロマンチックなタイプではないけど、でも、家族文化を嫌悪していた彼女が、偽装とはいえ夫婦の取り決めを交わした彼と「セックスしてしまったら夫婦になってしまう」(実際、彼とあわやという場面で、この台詞でもって思いとどまった)ことをこんなにも恐れていたのは、愛する彼と嫌悪すべき関係になりたくなかったからとしか思えない。

それを何となく思わせる場面がある。結婚半年目、親戚にも定期的に挨拶しておかないと、と二人はシベルの実家に帰り、男は男同士、女は女同士で雑談している。共に話題はセックスのこと。
シベルの兄はジャイトを娼婦宿に誘う。ジャイトはその話題自体に嫌悪感を募らせているように見える。だから断わる。「女房とファックしてろ」という言葉で。シベルの兄は「ファック」の部分にだけ怒って、妻に対して汚い言葉を使うなと彼に殴りかかろうとする。アホかって感じである。言葉どころか汚い行為をしてるあんた方こそがよっぽどゲスヤロウなのに。

なんか、このあたりに象徴されているように思えるんだ。言葉は文化の最も端的なもの。それを守っていれば後はどうでもいいと思ってる。あるいはそれを守っていれば、女を、そして家族を守っているんだと錯覚してる。セックスは愛とは別問題で、ファックと称したものは外の女といくらヤッたって何の問題もない、と。
別にトルコ文化に限らず、これってつまり、全世界的な男の文化じゃないのかって気もするけど。だからそれに寡黙に憤るジャイトにすっごく純粋さを感じること自体、あまりに病んでいるのかしらん。

そう、ジャイトは結局は純粋なんだよね。でも純粋さは強さ。一方、シベルは強く見えるけど強がってるだけ。それは、弱いからなんだ。ジャイトのことを愛していると気づいても、そして彼を待ち続けると本気で誓っても、そしてそのためにマトモな生活を送ろうと思っても、出来なかった。
ジャイトは、殺人犯になっちゃうのだ。でも本当に運が悪かったんだ。シベルが一度寝た男がジャイトに嫉妬して、しつっこく、ねちっこく絡んできたのよ。
そもそもシベルが、彼女の働く美容院の女主人、マレンがジャイトのセフレだって知ってスネて、この男に当たったことが原因だった。
そうそう、シベルは髪を切るのが得意で、だからジャイトがマレンの美容室を紹介したんだけど、資格を持ってるとか、働いてたとかいうんじゃなくて、ただたんに得意だっただけなのかしらん。

ジャイトは死に別れた妻にかなり心をもってかれてるらしい。それが彼の自殺未遂の原因だったのかもしれない。この夫婦双方の知り合いだったらしいマレン。
ジャイトとマレンのセックスシーンは執拗に出てくる上に、すっごく、濃い。汗まみれで前戯シーンさえなく、激しく性急に、まさしく獣のようにヤる。
シベルは自分こそヤリまくりなのに、ジャイトが他の女とヤッてると知ると、急にヘコむんである。
ま、そんなことはどーでもいいのだが……で、この絡んできた男にジャイトはギリギリまでガマンしてた。そして、もう黙れよ、ってぐらいの意味で灰皿を振りかぶって一発お見舞いしたのが、打ち所が悪くて死んでしまったのだ。あまりに運が悪過ぎる……灰皿はマズかったな。

で、その時にシベルはジャイトを愛していることを思い知って、あなたを待つ、と涙ながらに面会室で手を握る。
こんなことになっちゃあ、娘は家族の名誉を汚したとして、ヘタすると殺されかねないんだという(コワい伝統文化だ……)。でもそれは、そんなことを重視する男系の文化なんだよね。彼女もそれを判ってるから、烈火のごとく怒っているであろう父親が出かけたのを見計らって、母親にだけ会いに行き、言い切れない思いがたっぷり含まれている抱擁を交わす。女はいつだって男の愚かさで苦労してるんだ。

そして、イスタンブールへ渡ったシベル、ジャイトを待つ間みそぎをするかのように髪をバッサリ切り、男の子みたいになって、おばのセルマの紹介でホテルのベッドメイキングの職につく。
でも……あまりに挫折するのが早すぎるんだ。以前はセックスに溺れていた彼女が、今度はドラッグに溺れる。ドラッグを教えたのがジャイトだったというのは皮肉だけど、それにしても堕ちるのが早すぎる。
シベルはジャイトに当てた手紙に、あなたと同じく、私も監獄に入れられたようなものだとごちている。そして、職場と家の往復である叔母を、せっかく仕事を紹介してくれたのに、そんな風にののしるんである。……さすがにこのあたりは見てるこっちとしても胸が悪くなる。どんなトラウマがあるにしても、だったら一体あんたは何をしたいの?と。

そして彼女は心配する叔母を尻目にドラッグにハマり、男にバックからツッコまれ、ムチャなケンカを仕掛けてボコボコにされ……刺されてしまう。
なんかね、ここからが、現実味がないんだ。少なくとも私はそう感じたんだ。彼女がチンピラに殴られて顔中血まみれになり、更に彼らを挑発したもんだからナイフで刺されちゃって、もうこれは、死んじゃう!と思ったんだけれど。
そこからいきなり時間軸が飛ぶでしょ。何年経ってるのか……少なくとも5年以上は経過してるんじゃないかと思われる。だって殺人犯が出てくるまでの時間だもん。ひょっとしたら10年ぐらい経ってるのかも?
ジャイトが出所してくるのだ。迎えるのは、ジャイトがシベルと結婚する時、ニセの伯父役を引き受けてくれた友人のセレフ。
シベルに会いに行きたいと言うジャイトを、あの女のせいでこんな目にあったんだぞと一旦は諌めるものの、ジャイトのために貯めたという金を彼に渡して送り出してくれる。この事態を予測していたわけだよね。泣かせるんだよなあ……。「オレは伯父だからな」って。
思えば、ジャイトが殺人犯として捕まった時、家族から逃げてきたシベルを匿い、彼女の口からジャイトを愛しているんだという言葉を聞いたセレフ、今更調子いいことを言うなと言いつつも、一晩中泣き濡れた彼女に励ましの歌を歌ってくれた。彼もまた、ジャイトと同じく彼女を信じたかったのかもしれない。

そして、ジャイトはシベルがいるはずのイスタンブールに着く。叔母のセルマを訪ねると、シベルは恋人と娘と暮らしているから、あなたと会う必要はないと言う。
あんたに何が判るんだ、そんな捨て台詞を残してジャイトはセルマと別れる。その台詞は……シベルもまた使っていた台詞だった。
セルマがシベルに知らせてくれたんだろうな。ホテルにシベルからの電話が入る。そして二人は再会、ほんの二日間、でもまるまる二日間、二人は一緒にいて愛し合い、そして……。
あまりに時間軸が飛ぶから、シベル刺されちゃうし、ホントに死んじゃったのかと思った……。だからその後出てくる彼女の存在も、生きてそこにいるんだけど、なんだか幻みたいで。

だってホントに何年たったの?それに刺されたんだもん、そのお腹にキズとかあるはずで、セックスするんだからそんな会話もありそうだけど、全然ない。
そう、二人は二日間ずっとセックスして、それでオワリ。偽装結婚してた時、未遂はあったけど、結局寝なかった。なのに隔てられた後、セックスして、それが最後になってしまった。でも本当に、これはリアルなことだったの?
ジャイトは娘と一緒に自分の故郷に来てくれないかと言った。一緒にやり直そうと。でもそのバス停に、ついにシベルは来なかった。そしてエンド。予想はしてたけど……ハッピーエンドになるわけはないって。

でもね、シベルの娘というのも、セルマがそう語り、その後チラリと画面には出てくるけど、結局ジャイトは見てない。シベルの恋人の存在に至っては、ジャイトだけでなく観客である私たちも見てない。声だけで、画面にも出てこない扱いなのだ。
恋人であり、夫ではないあたりがひっかかる。つまりこの娘の父親じゃないということなの?ならば今の恋人としがらみはないはずだけど、それならなぜジャイトと一緒に行かなかったのか。

やっぱり、二人の時間が違ったからなのかな。閉じられたジャイトの時間と、あまりにヒドいとはいえ、開かれていたシベルの時間。
シベルはジャイトと一緒だった時、つまり彼を愛していることに気づいていなかった時に、彼と寝なかった。俗な考えだけど、これもある意味当たってるかもしれないと思う。
愛していると思った時に抱き合いたい。それを何年も後、その間に双方には別の時間が流れてて、じゃあ抱き合って取り戻しましょうなんて、それこそが、俗な考えだってことなのかもしれない。

カンペキなハッピーエンドなんて、現実にはそうそう存在しないんだ。★★★☆☆


あおげば尊し
2005年 82分 日本 カラー
監督:市川準 脚本:市川準
撮影:小林達比古 音楽:岩代太郎
出演:テリー伊藤 薬師丸ひろ子 入江雅人 絵沢萠子 大倉孝二 麻生美代子 加藤武

2006/2/9/木 劇場(シネスイッチ銀座)
「あおげば尊し」それだけでまるでパブロフの犬のように涙が出てしまうのに、このラストには、本当に本当にたくさんのものが、深くて大きくてあったかいものがつまっていて、こみ上げるなんてもんじゃなかった。
「嫌われてナンボだ」なんて思って指導してくれた先生が、私が教わった中にもいたのかもしれない。

主人公の小学校教師を演じるのはテリー伊藤。普段サングラスの奥に隠されている彼の目は、この映画で隠すことなく映される。
焦点の合わないその目のことを生徒たちから問われた彼は、「学生の時にケガしてな。でもこっちの目でお前を見て、こっちの目ではお前を見られる。便利なんだぞ」なんてイタズラ盛りの子供たちにざっくばらんに接してる。
意外なキャスティングだけど、テリー伊藤を起用したのは、もちろん彼の、この目のことがあったに違いない。世間一般に彼の目にそうした異常があることを認識しているから、まず身体の上で、誰もが人とは違うんだということを判りやすく示す。
そういえば昔、何の映画だったかな……忘れたけど、ある外国映画で、片目が大きく落ち窪んでいる男性がメインキャストに据えられてて、でも劇中では別に何の説明をされることもなく、普通に登場人物の一人であったんだけど、彼もまた自国では通常に認識されている人だったのかな。
当時の私は観ている間中彼が気になって仕方なくて、彼がこの役にキャスティングされたのは、作品に与える意味があるのかなとかずっと考えてたんだけど。

で、この教師には、もう末期の状態にある父親がいる。この父親もずっと教師だった。中学の、老練な、厳しい教師だった。
誰も見舞いに来ず、それどころかそれまでも結婚式にも呼ばれないし、同窓会もめったにない。息子は父親が嫌われ者だと思ってた。
そんな話を家族でしていた時、誰かがポツリと言った。「嫌われているんじゃない、忘れられちゃってるんだよ」
黙り込む家族。
嫌われるのと、忘れられるのは、どっちが苦しいだろうか。

彼の勤める小学校で、現代ならではのさまざまな問題が浮上している。
潔癖な若い女性教師は、礼儀を知らない子供に容赦ない。「先生に突き飛ばされた」「冷たく当たられた」と親から苦情が来ている、と上から言われると、「生徒を甘やかして、いい先生と言われるぐらいなら、私は嫌われてもかまいません」「冷たいって言い方って甘えてますよね。厳しいって言われた方がずっといい」と敢然と立ち向かう。
どちらかというと生徒と友達感覚で対峙している彼は、この教師に自分の父親の影を見る。
父親も、嫌われてもいいと言っていた。子供のうち嫌われたって、かまわないって。大人になってその教えを判ってくれればそれでいいと。
その話をすると女性教師は、「嫌われてもいいなんて、凄いですね」と驚くもんだから、彼は「でも今日の君も近いこと言っていたよ」と笑う。

もう一人の中堅の教師は、教師という職について悩んでいる。この教師は中学の時、主人公の父親に教えを受けていた。
飲み屋で教師の報われなさについてさんざんクダを巻いた彼は、ふとその老教師のことを言い出して、「でも、顔も思い出せない」そして、「お見舞いに行かなくてすいません」と、どこかヤケになったように絡む。さらに、「亡くなっても葬儀には行きませんよ」とまで。一緒にいたあの潔癖な女教師が「失礼よ」と咎めるのだけれど、主人公の彼は、いいんだよ、と彼女を制する。
本当に、彼は、覚えていなかったのだろうか。覚えていないなら、お見舞いに行かないとか、葬儀に行かないとか、こんなにヤケになって言うだろうか。
この教師を演じているのが入江雅人氏で、彼が市川作品で、こんないい位置に据えられているのが嬉しい。それに彼、やっぱり覚えていないなんてウソだったんだもん。ラスト、思い出しても涙が出る。

そして、主人公の彼が直面する問題。それは静かに死へと向かっている父親と不思議な縁でつながってゆく。
一人の男子児童が、パソコンの授業で死体サイトを閲覧していたことから、クラスの中に死体や死に対する興味がふくれあがってゆく。教師は戸惑い、禁止するんだけど、この児童から、「先生はなんにでも興味を持てって言ったじゃないですか」と反論され、言葉に詰まり、「……とにかくやめろ」としか言えない。
でも子供たちは、というかこの一人の男子児童は、どうしても死への興味を断ち切ることができない。一人、火葬場に出かけていって、遺族たちにまぎれて荼毘に伏される前の遺体を覗き込んだりするもんだから、再三、教師は火葬場から呼び出しを受ける。「命の重さをちゃんと教えていないんじゃないですか」と。

「それまでは、指導しやすいクラスだったのに……」などとごちる彼。この言葉が生徒たちを軽んじていることに、多分今の彼は気づいていない。だってそれってつまり、、一通り常識的なことを言ってりゃいいって、子供なんてラクなもんだと思っていたってことだもの。
死に興味を持つのは当たり前だ。やっとマトモになったってコトだよ。指導しやすいなんて、サイテーだよ、などと私は思わず心の中で憤る。子供たちのすべてが決定してしまう、柔らかなこの時に、面倒なことになったなんて思わないで、と。きっとそれが、今の世の子供たちの不安定さにつながっているんじゃないのと。

子供の頃、本当に死が怖くて怖くて、だから逆に引き込まれずにいられなかった。それは大人と比べて、死からあまりにも遠い位置にいるから、想像も出来なくて、輝かしいはずの未来のその最後の暗黒が、怖くて怖くて仕方なかったんだ。でも輝かしい未来の先にあるからこそ、妙に蠱惑的で。
そんな風に、死が怖いものだと直感的に判っている時に、そして彼らが勇気を持ってそれに恐る恐る近づいている時に、さえぎっちゃダメだ。
畏怖を持っているうちに判る方がいいに決まってる。そこをそんな風に目隠しして通り過ぎさせたら、死になんて意味がないんだよと言ってるのと同じだもの。そうやって命をゲームにおとしめられ、現代の悲劇が生まれるんだと思う。
子供は自分の責任と勇気の上で、それに近づいてゆく。それに気づいた大人は、自分で対処できる自信がなくて、ただ遠ざけようとする。
死というものを、自然と享受できない現代の環境、それを得ようと必死に努力している子供たちをメンドウだからと排除する権利なんて、ない。

などと一人心の中で焦りと憤りを感じていると、この教師だって多分そのことが判ってて……あるひとつのアイディアを思いつく。
死にゆく父親を子供たちに見てもらってはどうだろう、と。

父親は今や自力で動くことさえ出来ない。往診の医者が施せることもほとんどなくて、「医者なのに、ナメてんのか」と苛立つ彼に妻はポツリと、「もう、何にも出来ないの」と……泣き出しそうな声でそう言う。何も言えなくなる彼。
寝たきりで、言葉も少なく、彼が「会いたい人がいるなら言ってよ。絶対に連れてくるから」と言ってみても首を振るばかり。
しかしこの言葉もヒドい。だってあんまりミジメじゃない。義理でお見舞いに来られるのはイヤだからと、そういう手合いは断わってるぐらいなのに。

かつての生徒たちは、このガンコな先生のこと、忘れていたわけはないと思う。嫌っていた生徒もいただろうし、でもきっと、忘れられない先生だった。
弱っている先生を見るのがイヤだと思ったのかもしれないし、そしてお見舞いなんていう偽善的なことを、この気性の先生は嫌うだろうってこともきっと判ってたんだろう。
でもまあ確かに、忘れている生徒もいるだろう。というか、先生が生徒を忘れてる確率の方が格段に高いよね。何百人、何千人と教えているんだもの。
それを判ってはいても、自分が忘れられてたことにはショックだったけど。などと過去に一度だけ出たプチ同窓会のことを思い出したりする。そら忘れられるさ。クラス一影薄いキャラだったもんね、私。

先生も人間だもの。完璧ではいられない。大人になって、そう思えるようになった。
小学生の頃、先生は絶対者だった。少なくとも私にとって、この主人公の教師のような、友達感覚の先生はいなかった。私が引っ込み思案で、先生とそういう関係を結べなかったせいもあるのかもしれないけど、大抵、この老教師のような厳しさがあった。
でも不思議と、礼に儀に厳しい先生ほど覚えてるんだ。あたりの柔らかい先生よりも。好き嫌いじゃなくって。
この老教師が言っているのは、多分そういうことと結びつくんだと思う。

この年老いた夫と長年連れ添ってきた、やはり年老いた妻である彼の母親は、古い卒業アルバムを引っ張り出して、夫と一緒に写真を指差しながら思い出にふけっている。
それが、一生教師だった夫に出来る最後のこと。
孫が二階の窓から、古いテープをかける。それは老教師が一番のお気に入りの年の、卒業式での「あおげば尊し」だ。
ならば、息子であり、今教師である彼が出来ることは、なんだろう。彼はそう考えたのかもしれない。
教師であった、ことを確認して死ぬより、最後まで教師であることを、老いた父親に感じてもらえるのなら。

この「課外授業」ほとんどの子は、一度で脱落した。それはネットや写真で見る死とは違う、リアルなINGの死を感じたからに他ならない。つまり子供たちがイイカゲンだったというのではなく、逆である……彼らは死の重さを知ったということなのだ。
でも、死への興味をクラスに撒き散らした、あの男の子だけは違った。何度も通ってきた。しかもデジカメで病人の顔を撮るなんてことまでして、教師を怒らせた。
「お前それを、インターネットの掲示板にでも載せるつもりなのか。オヤジは死んでない。生きてるんだ」
男の子を追い返した彼は、父親の側にひざまずき、手を握り、「お父さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」と繰り返す。でも父親は、かまわない、と首を振る。そうだ、彼よりずっと老練な教師であるこの父親には、あの子の気持ちが判ってたんだ。

あの子は、死の恐怖を一度知って、あまりに怖かったから、それを心の奥深くに封じ込めていたのだ。
ということを教師は後に知ることになる。風邪で休んだこの男の子を見舞いに訪れた彼は、応対に出た母親から話を聞くのだ。
この母親を演じるのは、市川監督の常連、安部聡子。あの可愛らしい声はそのままに、夫と死に別れて再婚した若い母親を繊細に演じて胸に迫る。
そう、あの子は一度死を目の前にしていた。それもずっとずっと幼い頃に。
「あの子、父親が死んだ時のことを忘れているのを気にしているらしくて、どうだった、どうだったって、何度も聞くんです。今でも」言いながら、たまらなくなって、むせび泣く。何も言うことが出来ず、教師は黙って出されたお茶をすすってる。
この子は本当は覚えていたのに、心の目をそむけてしまっていたに違いない。きっと自分でもそれを感じてて、父親に悪いと思っていたに違いない。
だって、子供って、死は本当に怖いもの。死を軽んじているどころか、死のことがまるで想像つかないから、怖いから、近づいてみたくなる。

教師は今度は、自ら彼を呼んだ。風邪がまだ治りきらないこの子を病室に入れることに、「あなたの決めたことだから……でももしお義父さんに風邪がうつってどうしようもないことになったら、あなた一生後悔するんじゃない」と遠慮がちに言う妻に、彼は言う。「親父は一生教師なんだ」
そう、これは息子が父親に出来る、そして教師が生徒に出来る、最高の贈り物。
部屋から出て行く家族。教師の息子である中学生の孫が、そっとこの子に一瞥をくれる。この子がまた、寡黙なんだけど、いい役割を担ってるんだよね。彼自身、テレくさくて直球は出来なかったんだろうけど、おじいちゃんのこと、誰より判ってたのかもしれないなんて思う。おじいちゃんの一番のお気に入りの「あおげば尊し」をかけてみたり、礼服のセールに行こうとする母親に、「まだいいよ」と制するのも、おじいちゃんに対する思いやりにあふれてた。この子にくれた視線にも、心して挑めよ、みたいな指導的かつ心配げなものが感じられたりするんだもの。
別室で、心配しながら待つ家族だけど、ふと発せられたこの言葉にハッとする。「おとうさんの、最後の授業だね」

部屋の隅っこで、小さくなって、この子は先生にぽつりぽつりと話し出す。
「僕、思い出したんです。皆が、お父さんの手を握ってあげなさいって言うんだけど、握れなかった。怖かった。でもお父さんは、笑っていたんです」
ほっぺが桃みたいにふくふくで、産毛でやわらかそうで。いつもまっすぐに勇気を持って見つめる瞳が、今は不安げに揺れている。

「手を握ってみろ」そう教師はこの子にうながす。恐る恐る、ベッドから出された大きくてゴワゴワした老人の手を両手で支えるように握る彼。
「ずっと握っていていいんだ」と教師はさらに言う。この子はその言葉が耳に入っているんだかいないんだか、ただただじっと、こうべを垂れて、小さくて柔らかいその両手で、老人の手を祈るように握り続ける。
「……さようなら、お父さん」つぶやくように言った言葉に、じっと動かずにいた老教師の閉じられたまなじりから、ひと筋の涙があふれ、そしてこの子の柔らかな頬にもひとしずくの涙が静かに流れてゆく。
もちろん、この子が言ったのは、あの時手も握れず、サヨナラも言えなかった天国の父親に対してだろう、けれど、きっとこの時、その天国の父親が降りてきて、この老教師と生と死の境界線で一体になったんだ。

この老教師、息子の提案を穏やかに受け入れたけど、自分の死に際を子供たちに入れ替わり立ち替わり見せるなんて、すんごい勇気に違いない。
でも、その中の1パーセントでも、命の重さを考えてくれたら、最高のエンディングだ。
平均的に生きて看取られて死ぬ人間は大抵、看護の者が疲れきってしまう。あるいはだから、見限られてしまう。
最後だから、少しでも早く生きてほしいと思う、ということは、最後だから、なんだ。映画の冒頭で教師が、「早く解放されたいって思ってたのに、今は一日でも一秒でも長く生きてほしいって思う」と言った台詞に全てが集約されている。それだけ、疲れ果ててるんだ。つまり、本音は、死んでしまったらホッとするってこと、判ってるんだ。
何を残すことも期待されない、死ぬことを待たれる最晩年、次世代にこんな素晴らしい教えを、言葉に出来ないほどの素晴らしい教えを残せるなんて。自分の終末を想像すると……結局、どんな輝かしい人生を送ったとしたって、死ぬ間際がサイアクだったら、もうリアルにサイアクだもん。

そして、葬儀のシーンになる。あの男の子も小さな身体を喪服に包んで、母親とともに訪れている。
そして取り囲んだかつての教え子たち。見舞いを禁じられて、せめて葬儀にはと駆けつけずにはいられなかったんだろう彼ら。同じ年代が多いのは、老教師がお気に入りの年の「あおげば尊し」を歌った生徒だろうか。ひょっとしたらこの年の生徒たちが一番、この老教師を理解してくれていたのかもしれない、なんて思う。
その中に、「顔も覚えてない。葬儀には行かない」と言っていたあの、入江氏ふんする教師がいて、しかも彼は目を真っ赤に泣きはらして、一番最初に、「先生!」と呼びかけるんだもの。それでせきを切ったようにあちこちから「先生!」「先生!」と声がかかるんだもの。そしてそして、運ばれていく棺に「あおげば尊し」が歌われるんだもの。
泣くなという方がムリだ。もうダメ。もう……ホントにダメ。
「あおげば尊し」なんて美しい歌なんだろう。尊敬すべき先生を、その教えを請うた年月を、これ以上なく讃える歌。
今は、卒業式で歌われることはあまりないという。今の民主主義重視の時代には合わない表現が含まれているからだろうけど、こんな美しい歌が忘れられていくなんて、絶対、イヤだ。
市川監督が、こうして映画に撮ってくれたことで、少しでも残ってくれるかな……。

最近、母親役がベストの薬師丸ひろ子。と書いたのは何回目だろう……。テリー伊藤と薬師丸ひろ子じゃ、15,6近く違うよな……若いヨメさん。彼女が近年、母親役がドンピシャだからそれほどの違和感はないけど。
そして、なんだか続けざまに、“原作・重松清”を目にし、どうも気になってくる。原作ファンは厳しいものだけど、この映画との出会いは幸福だったんじゃないかと思わずにはいられない。まあ未読なんだけど……。
少なくとも私は、この映画に出会えて、良かった。★★★★★


アキハバラ@DEEP
2006年 119分 カラー
監督:源孝志 脚本:源孝志 成田はじめ
撮影:袴一喜 足立真仁 音楽:小西康陽
出演:成宮寛貴 山田優 忍成修吾 荒川良々 三浦春馬 佐々木蔵之介 寺島しのぶ 萩原聖人

2006/9/4/月 劇場(有楽町丸の内TOEI1)
ひょっとしたら今、国際的に最も有名なサブカル都市であるかもしれない秋葉原。そのアキバを舞台に、もとは引きこもりだったワカモンたち五人が気鋭のネット会社を設立、その才能を狙われて、巨大ビジネスの陰謀に飲み込まれるという物語。
小さな場所から、無限のネットの海へと展開するギャップもそうだし、面白いのは思いっきりインドアな彼らが、その能力を外に持ち出すと、とたんにアグレッシブにバトルモードになるというギャップなんである。
つまり、自分たちの血と汗が注ぎ込まれたデータを取り返すために、そのインドアな技術と知識を、敵のブロックをぶち破るために使うってわけ。で、その中に紅一点放り込まれる女の子が、ただ一人そうしたインドア技術ではなくて、格闘ファイターだというのも、またひとつギャップを生み出して面白い。
「電車男」が一般的なAボーイをそれほど裏切らない造形だとしたら、本作はそのイメージを逆手にとってギャップを次々に生み出すことで、アグレッシブな真にワカモンの物語を作り出すことに成功している。

タイトルとなる新会社を設立するために、顔合わせをするのは以下の5人。
ページ(成宮寛貴)はリーダーであり、凄腕ハッカーの経歴を持つ、吃音がひきこもっていた原因と思われる青年。
アキラ(山田優)はネットアイドルとしてこの会社の看板となり、アングラで有名なファイターでもある。
ボックス(忍成修吾)はグラフィックデザイナー、極度の潔癖症で、リアルな女の子に触れない。
タイコ(荒川良々)はメカニックならなんでもござれ。
イズム(三浦春馬)は若干16歳の天才プログラマー、しかし先天性の色素欠乏症で、日中は防護服がないと外に出られない。

というこの映画、実はパッケージでは興味を惹かれなかったんだけど、荒川良々が出ているとなると、やっぱり観に行っちゃう。うー、でも今回は、彼の面白さがすっかり封じ込められちゃってたな。残念。
まあ、あの彼の可笑しさを出しちゃうと、主人公はじめ、ほかの登場人物はかすんでしまう危険性は確かにあるけど……。
キャラはそれなりに個性的に設定されてはいるけれど、人気者二人、成宮と山田優を引き立てるためなのか、ちょっと薄めに抑えられている感。そしてこの二人は、それなりに破綻せずにこなしている感。悪くはないけど、強烈な感じはしない。

むしろ、ちょっとヤバイギリギリ感が魅力の忍成君が、ここでも危なげな青年をよく描出してる。潔癖症で、バーチャルかフィギュアの女の子でしか萌えられないボックス君。
この5人はすべてそういう危なげを中に持っているはずなんだけど、フツーにキレイな顔してる成宮君や、天才で病弱というキャラ設定を生かしきれていない少年、イズムを演じる三浦春馬君も、そういう面ではちょっと弱すぎるんだよね。
それにこのイズムのキャラ、太陽に当たると皮下組織が破壊するとか言いながら、その防護服、あっさり顔のところを開けちゃったりしてガードが甘すぎるしな。

彼らより、敵対する大人たちの方が、キャラとしては濃くて面白い。あ、そうか、これって子供対大人の対決って図式なんだ。
そして映画内としては、キャラ&演技の対決という図式としても見ることができる。荒川良々が子供かどうかはかなり疑問だが、だからこそ彼のキャラを封じ込めちゃったのは、もったいなかった。
あー、ダメよ。大人側が強力すぎる。佐々木蔵之介、寺島しのぶ、萩原聖人、みんなキョーレツで役をギッチリつかんでて、とてもこのコたち、太刀打ちできん。

例えば山田優なんかは、私今回、彼女の演技を初めて見るんだけど、彼女とハッキリ対決する位置に置かれる寺島しのぶが、コスプレとしてもビシッとキメてくるんだもん。
山田嬢のファイター姿っていうのは、言ってみればそんなに意外性がないのよね。でも社長の第二秘書であるという設定の寺島しのぶが、しかし過去は警察官というカタイ職業についていたのに、ミニスカートにロングブーツといういでたちで、タイコいわく「エロエロ〜」なカッコが実に萌え萌えなのよ。

しかしなんといっても、この5人を食い物にしようとする秋葉原の帝王、巨大ネットビジネスの頂点に君臨するデジタル・キャピタル社、通称デジキャピの中込社長を演じる佐々木蔵之介のイキイキとしたキモチワルさにはかなわない。
ヅラ疑惑が常につきまとう、子供のまま大人になってしまったようなこの怪物は、子供の残酷な欲求を、大人の理性を持たずに有り余るカネでかなえてしまう、その不気味さが圧巻なんである。
つまり彼は、大人としての冷血人間ではないのね。大人の部分は一個も持ってないの。彼の残忍さや思いやりのなさは、すべて自分の欲望に忠実な子供そのものなのよ。
ここもまた、子供対大人という図式に投げかけられる、入り組んだギャップのひとつで、面白いのよね。

元々はこの中込社長、5人のアイドルだった。ネット上の夢を次々に実現していく怪物社長。ネットの中にしか居場所のなかった彼らにとっては、この新会社設立に当たっても大いに触発された人物だったことは間違いない。

でも、そもそも5人が何で出会ったかっていうと「ユイのライフガード」という“ネット上の駆け込み寺”のサイトだったんである。
彼らはここで、本当に死の一歩手前をまぬがれた。みんながユイの親身の相談に救われ、癒された。
しかしユイ自身が自ら命を絶ってしまい、そのサイトの管理人だというイズムがヘビーユーザーの残り四人を葬儀?に呼んだのである。
そしてページたちがユイのアドバイスによって設立準備していたネット会社に、アキラや自分も入れてくれと言い出したことがコトの始まり。
ページたちはこのサイトの中に、ユイの信念を引き継ぎたいと思った。ユイに救われた自分たちが、今度は恩返しをする番だと。
彼女の考えを基にした人口知能を作成し、それまでのように無機質ではない、自分だけにカスタマイズできるサーチエンジンを作ろうと、5人は寝る間も惜しんで一致団結し、夢にまい進していく。

彼らはまず女の子ファイターのアキラを看板に、注目を集めさせる。それを考案したのはボックスだった。
彼は冒頭、メイドカフェに勤めるアキラに「ファンデーションの下には汗もかくし、匂いもするんだ。同じ八頭身でもフィギュアの方がよっぽどオナれる」と暴言を吐くぐらいの、現実拒否症候群なんである。その彼に、エッチな唇をいまいましげにチッと鳴らした山田優には私、ちょっと萌えた(笑)。メイドのカッコも似合ってたし。
で、彼女が自分が客寄せパンダになる、ヘアヌードでも何でもやるよ、と言うのに対して彼、「そんなのいらない」とまずはバッサリ拒否し、「新しい“萌えー”が欲しい。心がブルブルってくるような」と言って出してきたのが、アキラのファイター姿の映像だったわけ。

それにしてもアングラの格闘試合なんて、まるで「マッスルヒート」みたい。あ、でもこういうネタって他でも観たよなー。ホントにあったら楽しそう。
女の子のファイトに小汗かきながら熱狂している田口浩正なんて、いそうで可笑しい。
そして、このアキラの映像が中込社長のアンテナに引っかかり、「ガール・バトル・ファイト」というゲームのイメージキャラクターに採用されることに。
ポスターやキャッチコピーをページたちのアキハバラ@DEEPが考えることになり、デジキャピが彼らのサイトに500万の広告料を出資。
最初の関係は良好に見えたんだけど、中込はこの時点で、もうこの才能の買収を考えていたんだろうな。

買収だけなら、自由にやらせてもらえるなら、悪い話ではなかった。ただ、徐々に明らかになっていく中込の異常性に、彼らは違和感を感じ始めた。
だってさ!一週間契約で女の子をガラスケースの中で飼育してるんだよ!しかもその中で食事も排泄もやらせるという悪趣味っぷり。
確かにこういうの、“男の子”は夢想するんだろうと思う。そういうバーチャルゲームもあるんだろうと思う。でもそれを先述のように、子供の欲望をそのまま実践するのが中込の異常さなのだ。
「本当はもっと長いこと飼って、壊れていくのを観たいんだけど、一週間しかダメだって言うんだ」あまりの生々しさに思わず嘔吐してしまうボックス。

そして決定的だったのは、中込がページ達の信念であるネットの海の自由を、カネで所有しようとすることだった。
彼らはネットの自由さにこそ救われた。サーチエンジンも無料だからこそ意味がある。どんなにカネを積まれたって、心は動かないことを仲間内で確かめ合う。
タイコが、「年収300万で、充分幸せ」とニッコリし、みんな机を叩いて同意の意味を示す。そして中込の申し出を、ページがどもりながらもキッパリと断ったことで、戦いの火蓋は切って落とされたのだ。

そうそう、ページはね、本当にひどい吃音症なの。でも極端な個性を持つメンメンをまとめる普遍性を持っている彼がリーダーだから、長い説明をしたい時なんかは「窓を開けて」と言う。そうすると彼らはおのおのパソコンやモバイルを取り出して、ページの打ち込みを待つんだよね。
これはネット上で交流していた頃と、彼らの関係性は変わっていないことを示してもいるし、そしてとかくネット上では人格が破綻し、暴走するという見方へのアンチテーゼでもある。
彼らはネット上でも、そしてこうして顔をあわせている今も、変わらず正直に言い合ってきたのだ。

それにはこんなエピソードもあるの。ネット上では皆が対等の立場であったのが、会ってみたらイズムがすごい天才でマサチューセッツ工科大学を休学中なんていうもんだから、みんな一瞬ひるんじゃって、ボックスが思わず「お前、結構感じ悪いな」なんても言うのだ。でもやっぱり対等な関係性は変わらないんだよね。
この病気のせいで、外で誰かと食事をするなんてことも出来なかったイズムが、焼肉屋初体験で、しかもみんな一緒で、「皆と一緒に食べれて、嬉しいんです」という台詞が、ネットがすべての人を公平にしてくれた結果がここにあるっていうことみたいで、ちょっとジンとするのよね。

さて、話を戻す。中込はページ達の努力の結晶であるサーチエンジン「クルーク」を力づくで盗み出し、「スコップ」と名前を変えて、自分たちの会社から有料で売り出す準備を始めるんである。
中込が盗んだことは判っているのに、手も足も出ないページたちはただただ落ち込み、空中分解寸前。しかしどうしてもあきらめきれない。
アキラがページを叱咤し、なぜか、巣鴨のレコード屋で手に入れた藤圭子を聞かせる。んでもって二人で浅草?中劇に藤純子の「緋牡丹博徒」を観に行く。
???意味が判らん……なぜ緋牡丹博徒?寺島しのぶが出てるから?それとも悪に斬り込むという前振り?でも藤圭子は判らん……。
しかし、「緋牡丹博徒」は大好きさ。一番キレイな時の藤純子。劇中映画だけど、うっとりする。似てないと思ってたけど、こうして見ると、目の辺りのしっとり加減がやっぱり似ている。それにリングの上で山田優を倒す寺島しのぶは実に美しかったしな。

デジキャピにはダリットと呼ばれる、最下層の労働者たちがいるのね。一方的な労働条件で、すぐに切られる派遣社員たち。中込への反体制をむき出しにした活動をしている、黒ずくめのメンメンである。一見してまるで悪役だけど、こっちが正当なんである。
そしてそのリーダーである加藤が、脳挫傷の重傷を負わされた。無論、指示したのは中込。ひそかに彼の恋人であったデジキャピの有能な技術者である遠阪(萩原聖人)は、ハッキング仲間であったページに協力を申し出るんである。

完璧なセキュリティの牙城であるデジキャピ本社にもぐりこみ、「クリーク」を取り戻すこと。
最初、それをページはアキラと二人だけでやるつもりだった。あまりにも危険な賭けだから。
でも、それを知ったボックスたちが集まり、ページを責める。なぜだ、水臭いじゃないかと。
ボックスは「ふざけんなよ!一人にすんなよ」って、泣きそうなのをこらえるように絶叫するのね。忍成修吾クンのギリギリのバランスが胸を衝くんだよなあ。
そしてタイコも「そうだよ、ふざけんな」と彼をいわたるように援護し、イズムもまた「ふざけないでください」と後押し。
みんなで力を出し合えば、どんなに危険な賭けも成功率は高くなる。仲間なんだから!

彼らの不穏な動きをかぎつけたデジキャピ側は、それぞれを拉致して拷問、自白を強要したり、アキラはリング上で寺島しのぶ演じる第二秘書の渡会に倒されたり、遠阪も足を折られたりしちゃう。しかしページはどもりで自白剤打たれてもダメだし、タイコは光の明滅でフリーズしてしまう奇病の持ち主だったりして、何とかこの場を切り抜けるんである。
そして意識を取り戻した加藤、松葉杖をついた遠阪らダリットたちのデモをめくらましに使い、タイコ作成の完璧なバトルスーツと武器でデジキャピに突撃!
イズムは遠隔地から的確に指示を出し、タイコはエレベーターの配線をたくみに操り、アキラは先頭切って敵たちをバッタバッタと倒し、そしてページはかつてのハッキングの技能を生かして見事侵入に成功!そこには待ち構えていた中込がいた……。

あっと、その前に、最後の最後の場所に行くゲートに、渡会が待ち構えていたのよ。
でもね、彼女、もう自分は辞めたから関係ない。大人は報酬をもらっている間しか奉仕しないのよ、と彼らを通してくれるのね。
で、アキラが、なぜリングの上で戦った時、関節をはずすだけで骨を折らなかったのか、と聞くの。そうすると彼女、じっとアキラを見つめて、「あなたみたいなコ、嫌いじゃないから」
もしかしたら、若い頃の自分を思い出す気持ちだったのかなあ。正義のために働いていたはずの警察官だった自分。このデジキャピに来たのは、きっと高収入のためだろうと思うもん。
だから、この社長から離れる決心をしたのかもしれない。そして彼女、中込にとらわれている、あの一週間契約の少女の救出も頼む。彼女、クスリを飲んで吐いちゃって、ヤバい状態だったのだ。

社長との直接対決、しかし中込はもう諦め良く、ページに「クルーク」を返す。
しかし、なぜそんなにネットの自由にこだわるんだ、と問う。実際の海と同じように、人間の所有欲に合わせてネットの海も所有すればいいじゃないかと。するとページはどもりながらも、信念を持ってこう言うのだ。
「あなたは案外頭が古いんですね。ネットの海はみんなの頭の中にある。誰にも所有することなんて出来ない」
中込は驚いたような顔で笑いながら、「いいよ、持って行け。君は大石内蔵助なんだから」
「だったらあなたは吉良上野介です。吉良が最後、どうなったか知っていますか」
「僕の首をとろうっていうのか」
ページ、ニヤリと笑って……ええっ!

と、思ったらオチだった。成功を信じて待ち構えていた加藤、遠阪、ダリットのメンメン、ページは長年疑惑だった中込のヅラを高々と掲げる。そして仲間たちに振り返って満面の笑み!

ネットの世界を表現するためか、音楽もかなりガチャガチャしてて、最初のうちは台詞もすっごく聞き取りづらくてアレだったんだけど、最終的には結構満足してしまった。
やっぱ、忍成君が一番イイ。彼のこの危うさを、ダイレクトに表現出来る映画に出てほしいなあ。★★★☆☆


アザーライフ
2006年 107分 日本 カラー
監督:赤地義洋 脚本:赤地義洋
撮影:曽根剛 音楽:
出演:遠藤憲一 金田美香 笠原浩夫 木内晶子 松田悟志 岩ア大 清水ゆみ 徳澤直子 大内厚雄 山本芳樹 池田成志 岡田達也

2006/11/7/火 劇場(渋谷QーAXシネマ/レイト)
研究職につく現役のサラリーマンが撮ったということで推している作品だけど、そんなことは観る側としてはどーでもいい。映画は面白いかどうかで、全てが決まるからさ。
この監督さんがこのまま二足のわらじで行くっていうんなら感心もするけど、今が単なる足がかりで、ゆくゆくは映像業界に入るっていうんなら始まりがどうとかいうのは別に関係ないものなあ……などとぐちぐち思ったりする。まあ、随分勝手な言い草だけど。

確かに、構成もすっごく緻密で、「運命じゃない人」以来の上手さを感じたし、腰を落ち着けてじっくりと撮り、しかも緊迫した糸が途切れない演出の手腕は凄いと思ったんだけど……しかし!
これを上手い役者でやったら、さぞかし素晴らしい作品になっただろうなあ……もったいない!というのが正直な感想なのだった。
やっぱり映画は総合芸術だから、どんなに筋立てが巧妙に出来ていても、演出の手腕が冴えていても、サムい演技で全てが台無しになってしまうのよ。

うっ、それでいったら、「9/10」でも同じこと感じたなあ。しかもあの作品も構成はひどく緻密に作られていたのに、役者が……おんなじじゃないのお。
「運命じゃない人」の成功が、こういう作品を続出させているのかもしれんが、かの作品は役者もまた上手かったから、やはり違う。
本作は、全てが彼から始まるエンケンだけが、ちゃんと役者である。他キャストとのレベルの差がヒドすぎて、彼だけが違う世界から来てここで生きているみたい。

それぞれの場所の登場人物がまず別々に示され、少しずつ、その中の誰かが別の場所とリンクしてゆく。
そしてまた、関係がないように見えた事柄も、人と人がつながってゆくことで、次第にその鎖が明らかになってゆく。
結末を決めて、バラバラに解体して、パズルを組みなおすような手法。かなり登場人物が多いし、そのグループごとに細切れにカットが移動していくのに、判りづらくない。目の前でモザイクがクリアになっていくような、ジグソーパズルが完成されていくような、ドキドキ。
という、構成は本当に、非常に素晴らしい。

最初に現われる登場人物は、エンケン演じる社長、大杉とその秘書の友美。場所はもっぱら、社長専用車の中である。後にその運転手も加わってくる。
そして、これから仕事に出かけようとしている風俗嬢(デリヘルだろうな)のマキと、居候の直之。この直之はただのプータローな趣なんだけど、のちにその驚くべき素性が明らかになる。
飛び降り自殺をしようとしている美優と、それをまるで待っていたかのように止めに入る成本という男。恨んでいる相手を散々に苦しめて殺す計画に、協力してくれないかと彼女に持ちかける。そんなヤツは、苦しめてきた人間と同じ苦しみを味わってから、死ぬべきなのだと。
「私もそう思う。辛く、苦しい思いをして死ぬべきなのよ」この二人は物語の締めを担ってくる。

……と、ここらあたりまでは、一体彼らがどうつながってくるのか、場所もシチュエイションも会話も全然関連してないし、コンランしそうだなあ、などと思いながら見ているのだが、まるで絡まらずに、クモが糸を裁くように、段々と巣の網が形作られていくのは本当に見事。
社長の妻は、イケメンの友則と不倫関係に陥っている。ここでまず、社長とその妻の関係から、他の人間関係へのつながりが出来る。何かが始まる予感がする。
この友則を演じている役者は、ちょっとシゲちゃん風。つーか、私にとって、眉の整ったハンサム系の男は、総じてそーゆー風に見えるらしい。
そして、若く野心のあるヤクザの組長(解説には幹部としか書かれてないけど、組長って呼んでたような)、藤堂とねんごろになっているのが社長秘書の友美。またここでひとつの糸がつながれる。

ところで、この社長、ひどく意気消沈していて、覇気がない。「会社の近くのホテルをとっておいてくれ。あいつは今日も帰らないんだろう」という台詞から、夫婦仲が冷え切っているのだろうと思っていたら、それはそうなんだけど、それ以前に、彼の愛娘が死んで間もないことがその原因だった。
社長として多忙な日々を送る彼は、最期の時さえ一緒に過ごしてやれなかったことで、自責の念に駆られている。しかし、この娘の死にも恐ろしい陰謀が隠されていたのである。
彼が経営する会社は、未上場ながらかなりの規模を誇るらしい。それをあのヤクザが乗っ取ろうと狙って仕掛けたワナが、段々と明らかになるんである。娘の死も、大杉を心神喪失状態にして、消してしまうための前哨戦だった。

というのが明らかになるのは、まだまだ先。大杉は風俗嬢のマキと出会う。往来を仕事へ向かう彼女を、車の中から見つける。
彼女が娘にソックリだったから、そんな筈はないのについ必死に追いかけてしまったことから、全ては始まった。
マキは彼のこと、客がストーカーしているのかと思っていたのだけれど、こんな自分に心配する言葉をかけてくれたこと、そして陰のあるところがなんだか気になって……これは運命を感じた、というヤツだろうか。
二人は前後して、同じ占い師に気になるお互いのことを占ってもらう。全ては自分の意志、でも運命を変える相手であると告げられるんである。

マキはヤクザの藤堂のお気に入りで、客として彼女にたびたび呼び出しをかけてくる。「商売女に本気になっちまった」などとねっとりと口説いてくる。彼女が大杉とつながっていると知った彼は、その後、彼女をムリヤリ犯すなどという愚行に出て……その後はまた次の話。
この藤堂の下についているのが、社長の妻の葵と不倫関係に陥っている友則である。ここでほぼ全景が見えてくる。娘の死にはヤクザのみならず、この若い後妻も関係しているんである。
葵は計画の完全なる成功のために、自分にひそかに思いを寄せている運転手の内藤をたらしこむ。かなりベタな手法の色仕掛けだが、この内藤、完璧にハマって社長の前で挙動不審状態。

一方、大杉の元に、一人の青年が訪ねてくる。娘の家庭教師をしていたという中田。「お父さんが帰ってきたら、渡してほしいと頼まれていました。遅くなってすみません」と言って手紙を差し出す。
「帰ってきたら」それは、大杉が出張している間に娘が亡くなってしまった、あの時。彼女は自分へのビデオ日記を残していた。その中で、「お父さんの好きな人だからね」と、あの若い後妻を葵さんと呼んでいた。……その時点で、何か不穏な空気を感じる。
病床とはいえ、ビデオ日記の中の娘の顔色は、尋常ではなく悪くなってゆく。
そしてそのビデオの最後には、恐るべき秘密が生々しく残されていた。

「お父さん、私、判ったの。私、殺される!」そうビデオに向かって叫んだ直後、部屋に入ってくる妻、怯える娘を押さえつけて、暴力的に食事を食べさせる声がする。
テレビの前で顔面蒼白の大杉の後ろに、幽霊のように立ち尽くしている葵の気配。
「もう少しで上手く行くところだったのに!ムカつく、あのガキ!」
大杉に向かって包丁が振り下ろされる!
ここで助けてくれたのが、大杉を何かと心配していた娘の家庭教師の青年、中田だった。

しかしこの中田、大杉の妻の不倫相手こそが、にっくき友則であることを知っていたのかどうかがちょっと判然としない(後述)。でもここまで大杉を助けてくるんだから、全貌が見えているのだろうが……でもヤクザでも刑事でもないのになんで判るのかしらん。
しかもこの場面、傷を負った社長を助けるのが先決とはいえ、葵を逃がしちゃうのがアッサリしすぎだけど。
この中田がどう関わってくるのか、正直ちょっとコワかった。なかなか明らかにされないから、コイツも敵なんじゃないかって。

中田と成本がつながっているんである。ここだけちょっと判りづらかったけど、こういうことだよね……中田の妹が美優で、成本はかつての恋人が友則にたらしこまれて死に追い込まれた、ってことだよね?
あれ、違う?ここだけ一気に台詞で説明されちゃうからさあ……中田の恋人がたらしこまれたんだっけ?いやいや。
ともあれ、中田が成本に依頼する形で、妹の目の前でこの女たらしをぶっ殺した。美優はかなり呆然自失にはなっていたけれど……成本がシャバに戻ってくるのを待つ、と言った。
「妹、イイ女だな。出所したらアプローチしてみようかな」「お前が兄弟になるのはゴメンだな」なんて台詞を友人同士で交わして。

一方、大杉とつながっていたことで疑われ、嫉妬も絡んで藤堂にレイプされたマキ。居候の直之が、変貌する。この人だけは本当に関係ない、マキの癒しの存在ってだけかと思ってた。
しかし、藤堂の潜む部屋を訪れた直之、ドアを開けた藤堂の顔色が変わる。直之は秘密裏に動いている敏腕刑事だったのだ。
藤堂は大杉の会社の乗っ取りを計画していたけど、直之の方は、覚せい剤の方で動いていたということかな……藤堂お気に入りのマキとの接触はそのための、かなりの長期戦だったと思われる。

本当に、蜘蛛の巣が出来上がるかのようである。娘を亡くした喪失感と、陰謀に徐々に気づき始める緊迫感をひしひしと感じさせるエンケンは、文句なく素晴らしい。娘ソックリのマキとの擬似親子関係も、しっかりと見せる。
マキは孤児で、子供が両親に育てられるんだということさえ知らずに育ち、大杉の優しさに、親ってこういうものなのかという暖かさを感じるのね。心配してもらって、嬉しかった、と思わず涙を流す彼女をグッと抱きしめる大杉。
いやー、上手いよね、やっぱりエンケン一人だけがさ。色っぽい男だし、ちょっと間違えれば別の雰囲気にもなりかねないのに、当然、そうは感じさせない。上手いんだよなあ。

しかし、他の男たちはなあ……。あのね、このサムさの原因を担っている殆どは、スタジオライフのメンメンみたいよ。舞台は観たことないけど……そして舞台と映像は演技の仕方が違うってことだからかもしれないけど、大丈夫かあ?スタジオライフ!
特に、ヤクザ役の藤堂がヒドい……見てられない。キャラ自体もあまりにも型通りの“ヤクザ”だからかもしれないけど、あまりのカッコつけすぎに、これは本気でコントじゃないかと、何度も吹き出しそうになってしまう。
それとも、こういう演技指導を監督がつけてんだろうか……いやいや、ありえない!世界観ブチ壊しだもん!
加えて言えば、後ろに従えている子分たちが、また輪をかけてヒドい。特に、青白い顔をして一生懸命チンピラの顔を作ってるお人、斜に構えた風を表現してんだろうけど、顔が不自然なまでに傾きすぎで、ホラー映画に出てくるバケモノみたいだよ!

成本もかなりのサムさ。美優の自殺を止める登場シーンから、思わせぶりにスクリーンの中に練り歩いてくる(って感じなのよー)顔が、まず凄い入っちゃってるし。美優役の女の子が割と普通に芝居をするので、この男の似合わないキザさが不自然で、違和感で、耐えられない。
息も絶え絶えの友則の側で、カッコつけてタバコに火をつけるとことかさ……。
で、でも、この人、キャラメルボックスで上川隆也を継ぐ看板俳優なんだって!?
うそお……運転手の内藤役のキャラメルボックスさんは普通に上手かったけど……。スクリーンには向かないってことなのかなあ。

でも、直之も、実は刑事だったことが明らかになった瞬間、凍りつくほどサムいキザ男に変身するしさ。そもそも監督が作り出してるキャラ造形に問題アリか?
直之に関しては、せっかくここまで引っぱって、彼だけはどこともつながりのない、マキの癒しの存在なのかしら、などと思ってたところのどんでん返しだから、おお、と思わせるのにさ。
居候君だった時の、ノンビリ状態の方が似合ってんだもん。組長にもメンが割れてるような、過去を持ってるミステリアスな男になったとたん、サムくなる。だあってえ、コイツってば思いっきりキザに構えて、キメキメで台詞言ったりするんだもん。

あるいは、エンケンだけがそう感じさせないのは、やはり彼だけが上手いからなのかも……考えてみれば、結構キザな台詞あったもんな。いつも一緒に行動していた秘書に、「私との関係が誤解されてるんじゃないかと心配していたんだ」とかさ。
あるいは、マキを抱きしめるトコとかも、やっぱ芝居が出来る人じゃなきゃ、ちゃんと魅せられないしね。

このマキもねえ、娘と二役を演じてるんだけど、その娘の方、12歳の設定ってのはなあ。16、7って感じかと思った。さすがに見えないって……全然演じ分けてないって。やたらぬいぐるみを抱きしめていたのはそーゆーことか。うーむ。

ラスト、すべてが一件落着して、マキが大杉の腕に自分の腕をからませる。
「今日、私の誕生日なの」驚いた顔の大杉。
「そうか……やはり縁があるのかな。今日が娘の誕生日なんだ」
一方、先輩刑事にマキとの関係は惜しかったんじゃないのかとからかわれている直之は、ニヒルに受け流して(寒っ)こう返す。
「おごってくださいよ。今日、僕の誕生日なんです」
この二組、食事先で出会いそうだなあ……。

気になったのは、ヤクザから狙われるような社長宅にしては、ショボい。二流程度のサラリーマンが一生懸命建てた一軒家、って感じだったのがね。どーでもいいか。★★★☆☆


雨の町
2006年 95分 日本 カラー
監督:田中誠 脚本:田中誠
撮影:松本ヨシユキ 音楽:遠藤浩二
出演:和田聰宏 真木よう子 成海璃子 武重勉 長島弘宜 前橋聖丈 品川徹 光石研 安田顕 江口のりこ 内田春菊 桂亜沙美 菊地秀行 菊地成孔 上田耕一 絵沢萠子 草薙幸二郎

2006/4/4/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
デビュー作である前作、「タナカヒロシのすべて」がなんとも微妙だったから、この田中監督作品、というだけではひょっとしたら観に来なかったかもしれない……足を運んだのは、まあもちろん、ヤスケンが出ていたから。彼について最初に触れとこっと。

いわゆる、身内ではない作品に出ている彼は(映像作品では)初見なんだけど、外での方が彼の場合はいいかも。大泉先生の場合は身内の方が……というか、彼はどこに行っても周囲を身内のようにしてしまう力があって、そういうトコが彼の役者としての魅力なんだけど、ヤスケンの場合、完全に外での、バイプレーヤーとしての魅力の方が光る、気がする。主役である「マンホール」よりも、シリアスなキャラを与えられた「river」よりも、この外での彼がバツグンにイイんだもん。
内臓のない子供の死体を「ツクリモノですよ」と冷静を保ちつつ、しかし心中は明らかにおびえている検死医役。うっそうとしたヘアスタイルで、目元がくらーく影になっているような彼の暗さはホラーに合うし、地の底から響くような独特の美声もまたしかりである。私は非常に喜んじゃった。

さて。で、田中作品、ということなんだけど、ポップなんだけどツッコミきれず、流行りにのったようでのれなかった、みたいな前作と違って、ヒットメイカーの原作を得た今回は、非常に見えているものが明確だし、落ち着いた演出で観ているこっちも安心できる。彼、自分にはホラーは向いてないとか言ってたけど、あんな中途半端なアヴァンギャルドより、こっちの方が数段向いてるんじゃない?
まあでも、これはホラーという感じはそんなにないというか……結構怖がらせる部分はあるし、ビザール的な感覚の暗い美しさはあるけれど、どちらかといえば、切なさ、哀しさ、ほろ苦さ、の方が胸に残る。
過去から帰ってきた子供たち、というのが、怖さというよりはどことなく郷愁を誘うせいもあるのかもしれない。半ズボンにハイソックスの男の子、紺サージのボックススカートに白い靴下の女の子、そんな子供たちが湿度の高い森の中に立っている風情は、確かにゾッとさせながらも、何か胸がジンとくるような切なさをかきたてるのだ。

えーと、まず物語を追っていこう。
ルポライターの兼石荘太が、ボスに取材を命じられるところから始まる。山あいの小さな村で、内臓がまったくない子供の死体が見つかったという事件。悪趣味なデッチアゲ雑誌の記事を書くことに疲れてきていた荘太は今ひとつノリきれないのだが、ボスから強く言われてしぶしぶローカル電車に乗り込む。
このシュミの悪い雑誌が、「おかめ食堂」に置いてあるけど、読んだことがない、と行く先々でひたすら言われるのはちょっと笑った。
検死医から子供の死体を見せてもらう。特に変わった様子はない。こっそり携帯で写真を撮る荘太。

……ふと気づくとなんと子供の死体が、いや死んだはずの子供が、内臓のないはずの子供が、むくりと起き上がっている!腰を抜かす検死医。子供はたたた、と駈けていってしまう。荘太は慌てて後を追うが、見失ってしまった。
この子供が着ていた小学校の制服の名札から、役場で名前を照会してもらうと、それは35年前、小学生が30人以上集団失踪した事件の、そのうちの一人だった。この事件がすべてのかぎを握っている。荘太は役場の女性事務員、香坂文緒に手伝ってもらって、35年前の真相を探ってゆく……。

この、荘太を演じている和田聰宏氏、以前からなんとなく顔を見たことはありながら、それほど印象に残っていなかったんだけど、ついこの間の「県庁の星」で、「早く手をあらつて」と言った調理場の青年が非常に印象に残ってて、ああ、あの、オダギリジョーと大沢たかおを足して2.5ぐらいで割って、少々榊英雄をスパイスしたような顔の人ね、と思いながら、いまだに役者の名前を知らなかったのであった。
しかし彼、「BULLET BALLET」がデビューなのね!そういやあ、いたような……気もする。「ホテル・ハイビスカス」でフラッと沖縄に来たあんちゃんもいい味出してたけど、あれは映画自体が私の中であまり響かなかったので、すっかり忘れていた。
本作では、彼自身に子供の頃のトラウマがある青年を、風来坊的風貌の中で抑えて演じていて、なかなかイイんである。

この彼のトラウマが、35年間ひた隠しにされてきたこの事件を、あぶりだすことになってしまうのね。
彼は35年前の子供たちが戻ってきたと知っても、当初はそれほど気味悪がったりしなかった。あの子供の死体が起き上がった時だって、腰を抜かした検死医(ヤスケンの怖がり方は、さすがバラエティで鍛えられただけあって堂に入ってる)の隣で、何が起こったのかを冷静に判断しようとしている感じだった。
そして、明らかに35年前から来たと判る子供たちに遭遇しても、優しく手を差し伸べて、家に帰ろう、お兄ちゃんが連れて行ってあげる、と言う。もちろん、この子供たちが怪物に変貌することをまだ知らないからなんだけど、彼自身、親から捨てられた過去があるから、帰る家がない子供、というのが過去の自分に重なって見えたに違いないのだ。

この荘太の過去は、フラッシュバックで回想される。学校から帰ってくると、男とヨロシクやっている母親。この母親を演じているのは、ジョゼ虎「月とチェリー」の主演で強烈な印象を残した江口のりこだよね?キツネを思わせる冷たく、そして男好きのする風貌がなんとも酷薄さを滲み出していてゾクリとさせる。
そしてその後のシーンでは誰もいないガランとした部屋にうずくまって、借金取りの罵声を震えながら耐えている彼の姿である。窓からのぞいたその借金取りの男、「親に捨てられたのか」と大口を開けて笑う。

35年前から帰ってきた子供たちは、自分の家にも入れてもらえないし、あるいは親たちがとうに逃げ出してしまって、帰る家そのものがなかったりする。
帰る家そのものがないのは、絢子という小学五年生の女の子。この子が荘太に最もシンクロするのはだから、当然のことだったんだろうと思う。でね、この絢子を演じているのは成海璃子嬢なんだけど、ほおんとうに、彼女は凄いね、素晴らしいね。
残念ながらその鮮烈なデビュー作は見てなかったんだけど、ドラマは見ない私が珍しく見てた「1リットルの涙」「神はサイコロを振らない」と秀作ドラマで、手ごわいヒロインがいながらきっちり存在感をアピールしてて、「ウォーターズ」でまた違った明るい一面を見せて、こりゃトンでもない子が出てきたと思って……。
しかし小学生役はないよな、と思ったんだけど、思ったんだけど……それもおかしくないほど、本当にまだそんなに若いの!ええ!今13!ウソでしょ!なんと末恐ろしい……。演技は発展途上ではあるけど、この際そんなことは問題じゃない。ちょっと出てこない子だよ、この子は……大切に育ててほしい、ホントに。

最初はそんなに大きな役じゃなかったという彼女のキャラが、作品自体を左右するほどになったのはむべなるかなだもん。一応ヒロインは、荘太とともにこの事件の真相に迫る役場の女の子、真木よう子演じる文緒なんだろうけれど、正直誰がやったっていい役って感じだし、荘太を取り合う三角関係という様相を呈していても、璃子嬢の圧倒的存在感の前ではそんな様相も消し飛んでしまってんだもん。璃子嬢を語るための作品にさえ、なってしまっているほど。
最終的にこの絢子は“大好きなお兄ちゃん”を追って東京にまで姿を現わすけれど、彼の手によって倒される。しかし泣きながら荘太は絢子を抱き起こし、その腕の中で「お兄ちゃん、好き」と言って息耐える彼女……それを呆然と眺めている文緒、という図式は、もう完全に文緒、負けてるじゃん、負けてるどころかカヤの外じゃん、って感じなんだもん。いやー、末恐ろしいわ、ホント。

おっと、ちょっと話を急ぎすぎてしまった。でね、だから、荘太は村に残った数少ない子供たちの親に、話を聞きに行くわけよ。ホント、もう数えるほどしか残ってない。どんどん世帯数が減っている。それを文緒は、あんな事件があったんだから、そこにいたくないと思うんじゃないか、と言うんだけど、荘太は、いやそんなはずはない、親だったら子供が戻ってくるのをいつまでも待っているはずだ、と反論するのね。彼自身が親に捨てられたのにそんなことを言うのは……それはもちろん願望に違いない。そうであってほしいと、願っているからに違いない。
彼の言ったことは確かに半分は当たってた。世帯数が減っているのは、戻ってきた子供に殺されてしまった老親たちが数多くいるから。35年後の今、突然起こったことじゃなかったのだ。いつの頃からか、季節外れの通り雨が降る時、子供たちが帰って来るようになった。始めのうちは、単純に喜んでいたのかもしれない。でも子供たちが決して元のままではないことを知り、雨の季節を恐れるようになった。いつの頃からかこの村に存在するアマンジャクの伝説、あるいは、「季節外れの通り雨の時には外に出るな」子供たちに言い含められてきた伝統は、ここに端を発していた、らしい。

そしてこの真相を決して外部に漏らさなかったのは、村の恥と思ったこともあるのかもしれないけど、きっとそれだけじゃない。雨の季節を恐れながらも、きっと心のどこかで子供たちが戻ってくることを待っていたからだろうし、そして、子供の責任をとるのは、親である自分たちの義務だからということもあるんだろう。それってとても古い感覚だけれど、この老親たちの世代なら、確かにうなづける感覚である。
自分だけが殺されるなら、それでもいいのかもしれない。絵沢萠子が、殺そうと思って握りしめたはさみを取り落とし、我が子をたまらず抱き締めてしまったのはそういう意味だろう。

だから、最後の子供を自らの手でワナに誘い、「許してくれ、お父さんと一緒に死のう」と叫んで息子の頭に無数の樽を落とす老親の姿は、胸がつまる。
戻ってきた子供たち、はそれほど怖いとは思わなかったけど、このシーンの男の子だけは怖かったな……。それはそのモンスターの表情ではなくて、重傷を負って後ずさりする親をゆっくりゆっくり、首を傾げて、なおかつ斜めに押し出すようにしながら、ついてくるのよ。なんなの、その首の動きはなんなのっ!意味が判らないだけに、怖いよー!
本当、怖かったと思うのはそれぐらいで。あ、冒頭、戻ってきた子供が「お父さん、中に入れて」と言っていたら、頭から麻袋をかぶせられて連れ去られるシーンもちょっと怖かった。窓ガラスについた手がずるっと引きずられるあの一瞬。

そう、あの失踪事件の時、ただ一人引き返してきた子供がいて、成長した彼は、戻ってきて怪物となってしまったかつての同級生、あるいは先輩、後輩たちを、身体のおぼつかない老親たちに替わって始末するという、さながらゴーストバスターズの役目を担っているのだ。
そしてその中に、自分の兄もいた。それが、老親が責任をとって自らと共に始末した、あの最後の子供である。
「兄ちゃんが、お前は足手まといだから来るな、って言ったんだろ」と子供のままの兄に向かって恨みがましく言った彼に、ハッとする。
そのことがずっと心の傷だったのか、って。

そのすぐ後、「兄ちゃんのおかげで、生き延びられた」と言いはするけれど、自分だけが仲間から外されたんだもの。その痛みは誰にも判らない。
そして彼のその後の人生ときたら、戻ってくるかつての友達を始末するだけなのだ。ますますそんな彼の気持ちは、誰一人判らないじゃない。
だって、親たちは、戻ってくる子供たちを恐れながらも、だから、関心はその子供たちにしか向いてなかったじゃない。
戻ってきた子供たちを愛したいのに愛せない、退治するしかない。その役目を果たしてくれる彼を、100パーセントの感謝を持って迎えたとは思えない。そしてそんな状況下で、子供として愛されることが彼のその後の人生にあったとも思えない。
これって……ヒドイよね。彼にとって、あんまりヒドいと思う。

せめてお兄ちゃんによって殺されればよかったけれど、彼を倒したのは後ろから襲ってきた絢子だった。

ちょっと解せないのは、荘太が必死に逃げ惑いながら、そして迎えに来た文緒の車に助けられながら、なぜか現場に舞い戻って、わざわざあの老人と子供の死体を確認するところなんであるが。
あんなに必死にバケモノから逃げてたのに、なんでまた戻ってくるの……せめて朝になってからにしてよ。
当然、そこには一人残った絢子がいて、荘太にお兄ちゃん、と笑顔で話しかける。しかしもう、荘太は彼女に笑顔で返すことが出来ない。
「君のいる場所はここじゃない。帰ってくれ」
哀しそうな顔になる彼女。「私のこと、嫌い?」
まるで、恋人に対する台詞だ……と思う。いや、璃子嬢がこの年ながら不思議な色香があるから、小学生の制服を着ていながら、だからこそそのギャップで、実にゾクリと響く。
荘太は目に涙をためながら……「嫌いだ……」
この言葉を受けて、更に哀しそうな顔になった彼女は、静かに去ってゆく……だけで、よかったんじゃないの。何もあんな、般若メイクに髪の毛静電気爆発みたいにさせなくても。それだけのオーラぐらい、彼女自身にあるって。ちょっとここは、不満だったなあ。

東京に戻った荘太は、デッチアゲ記事ばかりのこの雑誌社を辞める。わっかんないのは、次のシーン、彼の部屋にいきなり文緒がいることなんである。
だって、駅で彼女、彼を見送ったじゃん。んで、また来てくださいね、来たくないだろうけど、って言ったじゃん。なんでいきなり一緒に住んでんのよ。東京に呼び寄せたの?いつ?唐突だなー。
まあ、それはいいや。で、その彼の前に、あの検死室からいなくなった子と、絢子が現われるんである。

そうそう、あの子が残ってるじゃない、って思ってたんだよね。絢子も消えただけだったし。やはり頭をつぶさないとダメらしい……ってまるでゾンビだな、あ、ゾンビか、まんま。内臓ないんだから。
でもここで荘太が殴り殺す(という言い方もヘンか、もともと死んでるんだから)のは絢子だけで、あの男の子は東京の街に放たれるんである。
東京の街に放たれた、怪物。
大いなる含みを持って、この物語は終わるわけだ。
この世界のあちこちに、もしかしたら今自分の隣にも、怪物がいるのかもしれないのだと。★★★☆☆


アンジェラANGEL−A
2005年 90分 フランス モノクロ
監督:リュック・ベッソン 脚本:リュック・ベッソン
撮影:ティエリー・アルボガスト 音楽:アンニャ・ガルバレク
出演:ジェメル・ドゥブーズ/リー・ラスムッセン/ジルベール・メルキ/セルジュ・リアブキネ/アキム・シール/ロイック・ポラ/ジェローム・ゲスドン

2006/5/28/日 劇場(新宿ジョイシネマ)
なんかプロデュース作品はいろいろあるけど、自分の演出では撮らないなあ、と思ってて、実に6年ぶりの監督作だというので、迷いつつも足を運んだのであった。迷いつつ、というのはそのプロデュース作品が、まあそんな観てるわけじゃないんだけどなんとなく……センスの悪さを感じてて、脚本も手がけてたりするし、この先に監督作品がくるとしたら、なんとなくマズい方向に行きそうだな……という感じがしてたから。
うーん、でも私、前作である「ジャンヌ・ダルク」は観てないんだよね。予告編でジャンヌが英語喋ってる時点でパスしてしまった。だから実に「フィフス・エレメント」以来に観るベッソン作品ということになるんだけど……。

腰が引けていた理由にはもうひとつある。本国フランスで酷評されているということ。なんかすっごい秘密主義で作られて一般公開されるまで全く情報が漏らされなかったらしいけど、先にマスコミに出してたらもっとこきおろされて観客に観てもらえなかったかもしれないよ、なんて思っちゃう。
酷評されたのは、決してそうやってマスコミをないがしろにしたせいじゃないと思うんだよなあ……。だって、なんか、予感が当たっちゃった感じがしたんだもん。センスの悪さの延長線上、っていう。
脚本に10年かかった作品とは思えないなあ……。というか10年間ほっぽって、取り出して書き直したプラス2週間が短すぎたか?日本での上映期間も短かったし……。打ち切りかしらん。
一応“復習”としてオフィシャルサイトには目を通すんだけど、ベッソン監督がアルファベット26字に託した言葉を記してたのよ。最初の方はまじめに読もうとしたけど、映画にウンザリしたこともあって、意味がない気がしてやめた。

映像は確かに訴える美しさがあるのかもしれない。早朝と夕方だけで撮ったというその自然光の手触りは、叙情性を感じさせる。モノクロが陥りやすいスタイリッシュな冷たさとは違う柔らかさは感じる。でも内容がねえ……テーマ自体はとても深遠。だからそれをシンプルに追ってほしかった。
というか、私テーマを取り違えてないよね?大丈夫かな?つまりはピュアラブはなんぞやということでしょ。
まず自分を愛してあげること。そして誰かを愛すること。そしてそして、それをちゃんと声に出して言ってあげること。
これだけ取り出してみればね、感動的な作品が出来そうなのよ。実際これを描くシーンはど真ん中に設置されていて、これが言いたいんだよ!というキモチはありありと感じる。
だけど、その前後が向かって行っていないから、観客は気持ちをここにだけ集中なんて出来やしないの。主人公が泣きながら、「愛してる」と自分と彼女に対して言っても、ちっとも泣けやしない。

あ、そうそう、この主人公がちっとも魅力的じゃないってことも原因のひとつかしらん。
というか、私にとってのベッソン礼賛はひとえに「グラン・ブルー」があるからなのよ。ジャン=マルク・バールよ!それ以降、ジャン・レノ、ナタリー・ポートマン、ミラ・ジョヴォヴィッチまでは確かにオーラを感じたけど、このアンドレ役のジェメル・ドゥブーズにはどーにも感じないんだよなあ……。いや、別にひげが濃いのがダメとかは言ってないけど(爆)でも今までのベッソン作品の住人に比しては弱すぎる。
ヒロインのリー・ラスムッセンはカンペキなモデル体形の長身美人。ジェメル・ドゥブーズとの身長差が、画としてコミカルを感じさせて面白いんだけど、ちょっと演技に難があるというか……でもそんなこと言うのは酷かもしれない。だって多分、脚本の問題だもん。
そしてこの二人に魅力を感じないのは、ベッソン監督が使いやすいようなコマにしか見えないからなのよ。役者がプラスして作用する何かを感じられない。これまでのベッソン作品から誕生したスターたちにはそれがあったと思う。だから(今から思えば)多少難アリのホンでも押し切る力があったのかもしれない。

借金まみれのアンドレが自暴自棄になって橋から飛び降りようとした時、同じように佇んでいたのが絶世の美女のアンジェラだった。それが二人の出会い。あまりにギリギリに刹那の、生と死のハザマだ。
飛び込んだ彼女を、死のうと思った自分のことを忘れて助けるアンドレ。なぜ死のうとしたのかと問い詰めると、「あなたと同じよ。醜くて、価値がないから」と言う。
「君のような美女が死ぬなんてもったいない」「内面が醜いの。あなたは内面が美しい」

泣き虫の天使というのは心惹かれる設定ではある。その天使が自らが選んだ衣装だと、娼婦のカッコをしてるというのもふるってる。そして彼女が最終的に人間として生きることを望んで……つまり“堕天使”となるということに直結していて上手いとは思う。
しかしね、このオチをね、ベッソン監督ったらラストの口止めしてんのよ。「シックス・センス」ばりに。
隠すほどのオチかなあ?これを知ったから面白さが半減するというほどのどんでん返しじゃない、むしろ予想できる範囲内じゃない?こういう仕掛けも解せないよね。宣伝展開のあざとさとしか思えなくてウンザリしちゃう。

この天使、アンジェラが、主人公、アンドレの前にこんな具合に突然現われ、困っている彼を助けるんである。で、先述したように最終的な目標は、彼に愛を教えることなのね。でも当面の問題はアンドレが悪いヤツに引っかかってこしらえた多額の借金にあるわけで、物語はこれを解消することに費やされるわけ。
アンドレがそういう、地に足のついていないチンピラもどきで、つまりそれは愛を知らないから浮わついているんだ、自分への愛さえ彼は知らないから、そして他人を愛する気持ちを知れば、そんな愚かな人生から抜け出せるんだ、ということなんだろう。
でもね、アンドレの借金解消と、彼の人格修正、が完全に分離して描かれちゃってるんだもん。

アンドレの借金を、アンジェラが知恵とカラダを使って次々と片付けていく。
カラダ、というのがソウイウ意味かと思ったら、もう暴力でぶちのめしていくだけだっつーのも脱力である。それじゃその後、アンドレに片付けなければいけない問題が残されるわけで、それを彼のために意図的に残してるならまだいいんだけど、そういう感じは一切ないんだもん。もの凄くいきあたりばったり。それって、絶対後で困るじゃん……。
だから、愛を語るメインテーマと離れてしまうんだよね。ブチのめして借金チャラにして、さあ愛を語りましょう、って言われたってさあ、困るよ。

「お前と一緒にいると、一目置かれる」そう言ってアンドレは妙に意気揚々である。自分の自身を取り戻したように見えて、彼はまだ自分を愛していない。皆が畏怖を示しているのは彼女にのみだけで、彼女の陰に隠れるようにしている彼は軽蔑されている。
そう考えると、アンドレへの愛は彼自身と、そしてアンジェラのみなんだというのが判ってちょっと胸が痛む。いや、そんなことゼイタクだ。それさえ得られない人間のなんと多いことか。

アンジェラは、ご法度であるはずの、自分が天使であるということをアンドレに明かしてしまう。後から考えればそれは彼にホレてしまったからなのかもしれない。
覚悟を決めて彼と別れを告げた時、アンジェラは泣きじゃくった。「別れには慣れてないの」という彼女は、天使という稼業自体に慣れてなかったのかもしれない。だって天使としてプロなら、自分の正体を明かしたりなんぞしないだろう。
アンドレは彼女に、執拗に以前の過去を聞くでしょ。天使という概念は最初からそれとして生まれたんじゃなくて、天使になる前の人間としての過去があるということなの?
そして彼女は堕天使になることを非常に恐れてるんだけど、最終的に彼女はそれを選ぶ……というか、彼がムリクリ引き戻したって感じだけど、でも堕天使になったことをとても喜んでいるよね。それは人間として生きることが出来る、つまり愛を得ることが出来るってことなのかしらん。よく判らんけど。

人間としての過去があって、それに失敗して天使となって人を幸福にする仕事についた、でも自分が幸せになれてなかったから、割り切れてなかった、みたいな?
堕天使になることは、人間の地点に戻って愛を得ることだったのね、多分。
そう考えるとちょっと感動的なのかも……それをきちんと感じさせてくれればね。オチの秘密!みたいにうわっと瞬間的に出されても、鳩が豆鉄砲食らったみたいに目が点になるばかりだもん。

アンドレに自身への、そして他者への愛を教えたアンジェラだけど、彼女自身こそが愛していると言われたことがないことをアンドレに見抜かれて、だから彼の「愛している」という言葉にうろたえてしまう。
愛している、たった一言、アイシテイル、たった六文字、だけどこれを言ってもらえる人間は世界で何割いるのかしら。言われてえな。誰か5000円くらいで言ってくんない?

しかし気になるのは、アンジェラが口にするアンドレの輝かしい未来である。起業した会社が成功して、運命の美女と出会い結婚する。どん底の後に用意された幸福。
それをアンジェラは知っていたのに、堕天使となって彼と生きる道を選んだ。……ビミョーだなー。彼を本当に愛してるなら、彼が幸せになると判っている未来を自分が彼を好きなために変えるって、するかな。
あ、これって日本的な考えかな、もしかして。そんな輝かしい未来に打ち勝つだけの自信がないことを、相手の幸せを思ってるんだっていう気持ちとすりかえてしまってるだけなのかな。
だからアンジェラの選択は正しいってこと?愛する彼が幸福になるかどうかのカギを自ら課すという意味は……つまり未来は自分の手で作り、つかみとるという意味なのかな。クサいけど。

なんかひたすら饒舌なのよね。そうなるとそこから残る言葉を選択しなくちゃいけなくて、ふるいにかけたら何も残らなかった、って感じ。★★☆☆☆


アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶HENRI CARTIER−BRESSON−BIOGRAPHIE D'UN REGARD
2003年 72分 スイス=フランス カラー
監督:ハインツ・バトラー 脚本:ハインツ・バトラー
撮影:音楽:
出演:アンリ・カルティエ=ブレッソン/アーサー・ミラー/エリオット・アーウィット/イザベル・ユペール

2006/5/30/火 劇場(渋谷ライズX)
少し、音楽が饒舌すぎるような気がしてて……ずっと軽快なピアノのクラシック曲がかかってるのね。ブレッソン自身が時々「いいね、このメロディ」とか言うから、インタビューを受けているまさにそこに流れてるものなのかもしれない、インタビューをノセるために流されているのかもしれないんだけど、でもなんかいらないなと思っちゃった。
それは彼の声を静寂の中で聴いていたいと思ったからでもあり、写真集をめくる音や、引き伸ばして無造作に置かれた写真の山の中から次々と取り出すその音も、素敵だったから。

そういえばアラーキーを描いたドキュメンタリーの「アラキメンタリ」ではうるさいくらいにポップな音楽がかかっていたけれど、気にならなかった。それはアラーキーのキャラがあり、映画はアラーキーの人生を絡めてそこに写真を点在させていくという手法だったからアリだったのね。
あ、でも本作もブレッソンの人生は語ってるんだよね。なんといってもこの作品は彼の死の前年に撮られた、まさに奇跡のタイミングで残されたものなんだから。
振り返ってみれば戦時中にドイツ軍の捕虜になりながらも脱走に成功したとか、波乱の人生を送っているんだけど、不思議とそうした彼の人生よりも、写真とそのめくる音が心にとん、とん、と残っていくんだよね。
それは多分、ブレッソン自身に語るに任せている構成だからだと思う。それもまた実に贅沢な趣向だ。ブレッソンの語りを作り手が軌道修正したり促したりする風がまったく感じられない。彼を語る写真家たちや作家や女優のインタビューも、無造作といえるほどポン、ポンと挟んでいく。

作り手が用意したのは、山と詰まれたブレッソンの写真と、これまで刊行された写真集のみだと思われる。いや、それだってブレッソン自身が自分が持っているものを引っ張り出してきたのかもしれない。
ブレッソンがワインを飲みながら(赤と白が交互になくなっているあたり、さすがフランス人)その中から次々と無造作に取り出しては眺め、思い出した当時のエピソードなどをまさに思いついたまま語ってゆく。
時代に沿って編集で順序を変えているのかもしれないけれど、見ている限り、本当に彼に語るのに任せている。人前に出るのを嫌ったという彼が、こんなにカメラの前でリラックスして喋っているというのも凄い。よほど信頼関係を築いた上で撮られたんだと思う。彼がゆったりと楽しそうに喋っているのを聞いているだけで、なんだか心地いい。

「決定的瞬間」という言葉は彼によって作り出された。マグナムフォトはキャパのことぐらいしか知らなかったから戦争写真のようなイメージがあったけれど、ブレッソンの写真を次々に見ていくと、戦争よりもっと広い、時代のうねりの節目に彼はちゃんといて、つまり歴史の決定的瞬間をおさえている。
それは、狙って行っているんじゃなくて、彼自身が世界を放浪し、たまたまガンジーが暗殺される前日に彼を撮影できたりしているというんだから凄い。
ドイツで拘束されるも見事脱走に成功した過去を持つ彼は、いまだに定住している感覚がなく、自分は放浪する人間なんだと言っていた。
彼はその瞬間を選ぶ楽しさを語っていたけれど、実際、その瞬間に神の手によって呼び寄せられているとしか思えない。

ことにこのガンジーのエピソードは最も鮮烈だった。彼に自分の写真を理解してもらうために、ブレッソンは自分の写真集を携えていったという。ガンジーはその中の、ある一枚の写真に目を止めた。そして「死、死、死……」とつぶやいた。
それは決して、死を喚起させるような写真じゃないのよ、素人目に見れば。でもガンジーはその中に自分に迫りくる運命を感じ、そこに遭遇したブレッソンもまた運命であり、こういうエピソードって本当に鳥肌が立つ。

ブレッソンは構図を完璧に抑える天才。写真は構図によって全てが決まる、感情はそこにおのずと現われるんだと語る。
彼を評する人たちは、構図と感情のバランスがよく、何が突出するわけでもない、政治的な意図がわざとらしく現われるわけでもない、そこが素晴らしいと賛辞する。螺旋階段や分かれ道や個性的な建造物、そうしたものを絶妙の位置にすえて、その中に生きる人間を切り取る構図の素晴らしさ。
ベルリンの壁がまだあったころ、その壁のすぐ目の前にドラム缶(だったかな)を置き、そこに三人の青年が立っている写真があった。そんな小さなスペースに三人がひしめき合って立っている図はなんだか可笑しいんだけど、でもそれが、壁の向こうのすぐそこのアパートに住んでいる母親の、窓からの合図を待っているんだと判ると、急に胸が締め付けられる。
壁が写真をまっすぐ横に切り裂いてて、手前に三人がひしめき合って立ってて、そしてその向こうに立つアパートの中には、見えないけど心の目でなら見える彼らの母親がいる。完璧な構図とそこにおのずと生まれる感情、というのはこういうことなんだろうという、お手本のような素晴らしい写真。

でも私が心惹かれたのは、そうした構図重視の写真芸術よりも、ブレッソンが難しいと言いながら実はこっちこそが好きだったんじゃないかと思われる、ポートレイトである。
そこには腰を抜かすほどの有名人がズラリと並んでいる。モンロー、カポーティ、サルトル、そしてアーサー・ミラー。
こんな人たちの私的な(というわけでもないんだろうけれど、そのリラックスした表情はとても仕事用とは思えない)ポートレイトが無造作に残されていることに、本当に驚嘆する。もちろんそこにも構図の美学はきちっと表現されているんだけれど、写真からはその人物の心があふれてくるんだもの。
上流階級の女性たちも数多く収められていて、それを見ながらライバルのカメラマンたちは、「こんなポーズは頼んだってとってくれない」と嘆息する。ベッドに仰向けに寝そべり、頭の下に手をやっているような無防備なポーズだもの、いったいブレッソンはどんな手練手管を使ったのやら!
キュリー夫人の娘(息子だったかな)夫妻を撮った写真も秀逸である。ノックしてドアを開けた彼らが挨拶する前にシャッターを切ったその写真は、相対する緊張感が、両手を胸の下に組んで生真面目に並んで立っている彼らの姿に上手く映し出されてて、しかもいきなりカシャッとやられた戸惑いも一緒に映り込んでて、なんだかちょっと、その時の彼らの気持ちが想像出来ちゃって思わず笑っちゃうのだ。
ブレッソンを語る一人、イザベル・ユペールがカポーティのとても若い時の写真を見て「天使みたい」と言う。本当に若々しい、青年の頃のカポーティ。攻撃的なまなざしを向けてはいるけれど、柔らかで傷つきやすそうな、そうだ、まるであの頃のリバー・フェニックスみたいだと思った。それぐらい美青年で、そしてセンシティブな写真でなんか心をグッとつかまれてしまう。

ことに素晴らしいというか、釘づけになった目が離せなくなったのは、モンローの写真である。このドキュメンタリーには彼女の最後の夫であるアーサー・ミラーがブレッソンを語る一人として出てくるけれど、モンローのポートレイトはミラーが原作、脚本を手がけた映画のクランクインの日に撮られたものだといい、ななめ少し上を見上げて、くちもとにはモナリザのようなかすかな笑みを浮かべ、何かを考えているスッピンに近いモンローが切り取られている。
映画の中のバッチリメイクのセクシーなモンローからは考えられないキュートな、そしてなんといっても知的で清楚で、「内省的な写真だ」というのもうなづける、本当に彼女自身の深い内面とでもいったものを感じさせる写真になっていて、一瞬の写真というものがこんなにも多くを物語るものなのかと驚嘆する。

映画が後半になってくると、ブレッソンが今没頭していることにシフトしていく。それは写真ではなく、画である。ラフスケッチを次々と取り出してみせ、これはいいだろうと自画自賛したりする。
言うだけあってかなりの腕前で、構図の天才である彼は、それをシャッターを切るように絵に再現することも出来るわけだと納得したりしてしまう。
そして、美術館に絵を観に行くブレッソンも追う。何百年もの時間を超えてそこに息づく絵画にため息をつく。
確かにそういう意味において写真という芸術のジャンルはまだまだ新参者で、一瞬を切り取るのに一瞬のシャッターチャンスである写真と対比し、その一瞬に長い時間を費やす絵画という芸術を、そしてそれが現代まで生き続けているひとつの奇跡を彼はそこに見ている。
この絵を描いた画家と同じように、彼は自分の写真が何百年も後に残っているのを見るわけにはいかないから。

モノクロの写真に人生を捧げたブレッソンが、絵の中に描かれた、ほんの少しこぼれた赤い糸を指し「じつに美しい赤だ」というシーンとか、実に興味深いんだよね。でも多分、カラーで撮られてたらあの決定的な感覚は出ないんだろうと思うんだけれど。
それにブレッソンは現像は信頼する職人に任せてて、その一瞬にシャッターを押した後は一切手を出さない。彼の演出はその瞬間を選びシャッターを切った直後にもう潔く終わってて、神に与えられた一瞬以外は手を出そうとしない。現像まで自分で手がけてしまったら、それこそバランスの崩れた演出過多の写真になってしまったかもしれない。
その心は画家の心境も共通するものがあるんだと思うんだけど、でもそのゾクゾクする一瞬にたっぷりと時間をかけられる画家がうらやましいのかもしれない、と思う。

そして一方でブレッソンは音楽も愛している。音楽は一瞬の芸術とは対照的な位置にいるように思われるけど、でも 空間の中に、流れる時間によってしか存在しえないという切なさは、対照的だからこそ表と裏のように似ているようにも思う。
流れる時間の断面を断ち切って二次元として見せる写真と、その流れを止めずに見せるから、その手にはつかまえられない音楽と。

そしてこの映画が完成した翌年、ブレッソンは亡くなった。そしてミラーもそのまた一年後に亡くなった。これはまさに、そうブレッソンのように奇跡の一瞬を神様から与えられた作品なんだね。★★★☆☆


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