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「る」


2006年鑑賞作品

ルート225
2005年 101分 日本 カラー
監督:中村義洋 脚本:林民夫
撮影:小松高志 音楽:江藤直子
出演:多部未華子 岩田力 石原裕太 小南千明 枚田菜々子 市川春樹 小笠原翼 梅沢昌代 田中要次 崔洋一 嶋田久作 石田えり


2006/3/28/火 劇場(シアターN渋谷)
クレジットの解説読んでビックリしちゃった。「ローカルニュース」の監督さんなんだ!そうか、じゃあ監督作品観るの、すごい久しぶり……こないだの「ブース」は観てなかったし。
でも、ああ、そう言われれば、この、オフビートの静かなユーモラスって、そうだそうだと思い出す。台詞も半ひねりぐらい、控えめにひねってるあたりが、心の中で常にクスクスと笑っちゃうような感じが、独特のセンスの良さというか。
うーん、具体的に言うと、エリ子がうろたえて言葉を繰り返すダイゴに向かって、「何で二回言うんだよ」とつぶやくところとかね?判りづらいかなあー、こういうホント、微妙なところなんだけど。
「刑務所の中」の脚本を手がけていると知ってさらにビックリ。すごい納得!あの作品も半ひねりの台詞が光ってたもんなあ。

などと、鑑賞後にオフィシャルサイトをのぞきながらひとしきり、納得、納得、などと言っていたんだけれど。いや、このSFの設定ながらSFとは思えないひかえめさの魅力がどこから来るのかなあーと思ってたから。
これって、SF、だよね?設定としてはさ。だって、パラレルワールドに来るんだもん!でも、そう、パラレルワールドというのは、薄い壁一枚隔てた世界がどんどん重なっているようなもので、すぐ隣ならそれこそ靴下の色が違うぐらいの差しかなく、本当に、ほんのちょっと違うだけ。本作はそこをついてくるんだよね。
迷い込んだ姉弟二人には、ここが元の世界とは違う世界、と判っているんだけれど、周囲の人間たちはいつもと同じ二人だと思ってる。つまり、二人だけがこの世でたった二人の異邦人なのだ。

と、いうことを、景色も何も全く変えずに観客に納得させるために、一度、少しだけ遠くのパラレルワールドに二人を飛ばしちゃうのが、上手いこと効いてるんである。
帰りの遅い弟のダイゴを迎えに行ったエリ子、公園でしょんぼりブランコに乗っている弟を見つける。ダイゴはどうやら学校でイジめられていて、今日もワイシャツに「ダイオキシン8倍!」などとマジックで書かれちゃって、家に帰れずにいたのだ。
お母さんにはナイショにしておいてやるから、と二人連れ立って家に向かうんだけど、いつも犬が吠え掛かる家の角の向こうには、面しているはずの国道が見えず、海が広がっている。二人は呆然とする。「この辺に海なんてなかったよね?」

エリ子は、道に迷っただけだと、こういう時に別の世界に迷い込んだと言ったりするのは現実逃避だと、さっさか歩き出す。そんなエリ子にダイゴは、「お姉ちゃんの方が現実逃避だと思うけど……」とぼそりとつぶやく。この二人、終始こんな感じ。ザクッとぶっきらぼうな女の子(こういう女の子、大好き)であるエリ子と、なんかちょっと、ヘナチョコな弟であるダイゴ、という図式がね、この二人がずっとメインで進んでいくだけに、演技プランは重要なトコなんだけど、つかず離れず、カラリとして実に面白いんだよなあ。
姉と弟の関係って、特に思春期のこんな時期はベタベタ仲良くも出来ないけど、でも今、彼らはたった二人の姉弟なわけで、その関係性がそれこそ微妙に、しかし確実に絆が深まっていくのがちょっと、感動的なんである。

なんてところにいくまでには、まだまだ時間がかかる。だからね、最初に飛ばされたのが、ちょっと遠くのパラレルワールド、海があり、ダイゴが見つけた住所表示は、「関町」であるはずが、「関」の字の中にあるのがなんと「@」!
「どう思う!?どう思う!?なんて読むの!?」とうろたえまくりのダイゴに比して、エリ子は、つとめて冷静を装い、元の場所にいったん戻れば大丈夫だよ、とスタート地点の公園に戻り、家に電話をかけてみる。すると、「早く帰っていらっしゃい」というお母さんの声。
「ほらね」と、もう一度歩き出す、と、今度は海にもあたらずすんなり帰れた……んだけど、電話に出たはずのお母さんはいなくて、きっと私たちを探しに出たんだ、と思うも、いつまでたっても、いつも帰りが遅いお父さんさえ帰らない。

エリ子は、心のどこかで、戻ったはずのここもまたパラレルワールドだともう判っていたはず、なんだけど、ダイゴのようにそれを口に出しはしなかった。実は、このちょっとだけ違う世界、ダイゴ言うところの、元の世界がAならば、まず海のあるBに行ってしまって今度はAダッシュの世界に来たんだ、というここが、元のAの世界とは違うことを、ダイゴはもう判ってしまっていたんだ。
……というのは、彼が5年生の時に死んでしまったはずのクラスメイト、クマノイさんとBの世界で行き会ってしまって、その時からヤバイと、もう戻れないかもしれないと彼は感じていたから。
戻ってきたはずだったこのAダッシュの世界も、彼の大好きな高橋由伸が、野球中継の中でちょっとだけ……太ってて、やっぱりなんだかおかしい、と、ママもパパも帰ってこないし、と。

この、“高橋由伸がちょっとだけ太ってる”というのは、彼が元々なんとなく太りやすそうな顔をしていることを考えると、微妙に笑える部分であるのだが、後にパラレルワールドだと言うことを納得せざるを得なくなったエリ子が、「高橋由伸がちょっとだけ太ってる世界?微妙だね、微妙すぎるよ」と言うのには更に吹き出してしまう。それにまさしくこの微妙さ加減がこの映画の最大の魅力なんだもの。

学校に行ってみる……ちなみにエリ子とダイゴは別々の中学校に通っていて、ダイゴはお姉ちゃんと別行動をとることに非常におびえているんだけど、まだこの時点でパラレルワールドにいるということを納得しようとしないエリ子は、「学校から帰ったら、お母さんたちが帰ってるかもしれないし」と平静を装って出かけるんだよね。
でも、その前の晩の時点で、さしものエリ子もおかしいと思ってた。というのは、最近はなんとなく距離があった友人、大久保ちゃんからの手紙が教科書にはさまってて、「本当の気持ちを聞かせてくれてありがとう。嬉しかった」と書かれていたから。
そんなことした覚えはないエリ子は、首をかしげる。彼女が学校に行ってみたのはそれを確かめたい気持ちもあったのかも。

このね、最初は仲が良かったのになんとなく離れてしまった、というのが、決定的なケンカをしたわけじゃなく、でも今さら元のように親しく話しかけられもしない、そのことに対してエリ子が、そういうもんなんだろう、と思っているっていうのがね、このあたりも微妙、絶妙のさじ加減で、でもああ、判る判る……と思うんだよね。
あの頃の、思春期の、なんかちょっと一歩踏み出せない、中途半端な感じがよく出てるんだよなあ。
んで、学校に行ってみると、大久保ちゃんが親しげに、そう、仲良しだった頃と同じように、「今日、バッティングセンター行かない?」と誘ってくる。「いいけど……なんでバッティングセンター?」「エリ子が行きたいって言ったんじゃない」やっぱりエリ子には覚えがない。

しかも、小学校5年の時に死んだとダイゴが断言したクマノイさんとも、この学校で遭遇する。でもあの時(Bの世界ってことね)、道を聞いた時の彼女となんとなく感じが違う。
先輩、とこれまた親しげに呼びかけてくるエリ子に、面識がないはずのエリ子は困惑する。「クマノイさん……だよね?ワンコはどうしてる?」あの時、犬の散歩に出ようとした彼女に声をかけたのだ。「……私、犬なんて飼ってませんけど。まさかトゥインキーのことですか?ひどい!トゥインキーが死んだ時のこと、先輩だってよく知ってるくせに」
さすがのエリ子も、この世界が元の世界とは違うことを認めざるを得なかった。景色はまるで変わっていないのに、周囲の人間は誰一人、エリ子とダイゴが違う世界の住人だなんて思ってないのに。

そう、周囲はただたんに、二人の両親が失踪したと思っている、のだ。
フラワーアレンジメントをやっているお母さんが部屋の中に飾った花の色も違うし、死んだはずの子は生きてるし……二人はどうやったら元の、Aの世界にもどれるだろうと思案する。
あの時、ダイゴの持っている高橋選手のテレカで、お母さんにつながった。でもエリ子の持っているカードではつながらない。きっと、あのテレカが元の世界と通じる道なんだ。もう一度ママに電話をかけて相談してみようよ、とダイゴが提案する。半信半疑でかけてみるエリ子。
すると本当につながって、電話の向こうのお母さんは事情を説明しようにも、帰ってこない二人を心配して、取り乱して一方的にしゃべりまくってる。しかもこのテレカの度数があと2しかなくなって、焦ったエリ子は電話を切ってしまうのだ。

この、公衆電話でテレカ、というのが、今はねえ、テレホンカードを買うのだって苦労するような(ホント、困るのよ)、携帯全盛のご時世なわけだけど、二人は高校生になるまで、携帯電話を持たせてもらえない、と冒頭で言ってるんだよね。あの、ダイゴを探しに出たエリ子が、たまたま行き会った友達のマッチョに。
それだけ二人の周囲では、中学生ながら携帯電話は普通に行き渡ってるんだけど、この姉弟はまだ持ってない、というのをすんなりと説明するのもなかなか上手い。そして、この携帯がないという設定もまた、実に上手いんだよなあ。
だって、携帯電話を持ってたら、それでつながればいつまでも連絡取れちゃうし、つながらなければ、最初から何も起こらない、わけで、高橋由伸のテレカだけが通じるという状況が、だったらあと2の度数でどうしたらいいのか、その2の度数はどの時点で有効に使うのか、それまでにどうしたらいいのか、という状況を作り出し、しかも……この2の度数が、クライマックスで涙を誘うのよー。

と、いうまでには、まだまだ、まーだまだ山あり谷ありなんである。
エリ子は友達のマッチョに相談してみるのね。松本だからマッチョと呼ばれている、巨躯の持ち主である男の子。もちろん、この世界のマッチョであり、彼女の友達であるマッチョではないんだけど、彼に相談しようと思ったのは、この世界のマッチョも、きっと自分の友達で、判ってくれるんじゃないかと、エリ子も本能的にそう思ったんじゃないかと思うのね。
図らずもそれが大当たり。このマッチョがもう、なんつーか、イイヤツで、泣かせるのよ。
別にね、友情厚く「判った!オレが力になる!」みたいな感じじゃないのよ。いつものマッチョ。いつもの友達のマッチョ。エリ子の話を、ふーん、そうなんだ。なるほどねえ、とホント、いつものように聞いて納得しちゃう。エリ子は自分から相談したくせに、うろたえちゃうぐらい。
「何でこんな話信じるの?まさか、こっちの世界で、あんたとつきあってんの?」
「いや、友達だよ。あっちの世界でも同じような関係なんじゃないの」

マッチョは、こっちの世界とあっちの世界のエリ子の違いはよく判らないし、友達だから信じるんだ、と当然のように言うのよ。これが、もうなんか、じーんとしちゃうの。マッチョがいつもと同じ調子だってことが更に泣かせるんだよなあ!
うーん、と考えていたマッチョがふっと言う。「神社の階段から転げ落ちてみればいいんじゃない?」劇場の映画ファンたち、思わず爆笑!それじゃ「転校生」だって!男と女が入れ替わってどうすんの……と思ったところで、ダイゴの「なるほど」の台詞にハタと気づく。
そうか、「最初と同じことをすれば元に戻る」という意味だったんだ。エリ子は、まあこの年じゃ「転校生」も知らないんだろうし、?な顔をしているんだけど、なぜダイゴはその意味が即座に判っちゃうの!タダモノじゃないなあ。

元の状況を作り出す、にはひとつ問題があった。ダイゴがイジメッコにラクガキされたワイシャツを、捨ててしまったというのだ。
それも含めて、この目標に邁進することで、姉と弟の絆がぐっと近づくのがいいのよね。エリ子は実はまだ、及び腰だった。そのことを観客は気づかないし、彼女自身でさえそれに気づいていたかどうか……。
ダイゴがこんなことを言うのよ。「お姉ちゃんは本気で元の世界に戻ろうとしてないじゃない」ちょっと表現違ったかもしれないけど、そんなようなことを。
いつものヘナチョコ弟のダイゴなら、言うはずもない台詞で、この世界に来て彼は格段に成長した。高橋由伸のテレカだけが元の世界に通じると知った彼は、同じテレカを必死で探すし、……あのワイシャツを捨ててしまったことの責任を感じていたのかもしれない。

エリ子が大久保ちゃんたちとバッティングセンターに行って帰りが遅くなった時、バタバタと玄関に出迎えたダイゴは泣きべそをかいている。
「遅くなるんなら電話ぐらいしてよ!」
姉と弟、たった二人だけでこの異世界に来た、そのお姉ちゃんもどこかに行ってしまったら……その恐怖と、ダイゴはいつも戦っていた。エリ子はまだそのことを、今ひとつ実感してなかった。
それにしても、この台詞は実に切実で、そしてふとっちょのダイゴが泣きべそかいて言うっていうのがちょっと微笑ましく笑っちゃったりして、いいシーンなんだよね。
「死んだら、元の世界に戻れるかもしれない」そんなことを口走るダイゴに、エリ子は思わず首をしめにかかる。そしてふと気づいて手を離し……「冗談だよ。あんたがそんなこというから。」エリ子もまた、不安にかられていたのに、そんな気持ちから逃げていたのだ。

そんな具合で、お姉ちゃんは勝手にやればいい、僕は僕でやるから、と一度は大喧嘩になっちゃうんだけど、ふて寝したエリ子は夢を見るのね。家に帰ったら、ダイゴも、そしてママもいるんだけど、二人とも自分のことを知らないと言う。ダイゴを遊びに誘いに来たマッチョさえ(彼はエリ子の方の友達なのに!)、知らないと言う。そして家から追い出される夢。
泣きながらエリ子は目を覚ます。ダイゴの恐怖を、自分も持っていたことを、それを心の中に隠していただけだったことを、エリ子はようやく理解する。その恐怖に真正面から向き合おうとしていたダイゴの方が、へなちょこに見えながら、ずっと強かったのだ。

両親が失踪した、と周囲の皆は思っているから、いつまでたっても両親が帰ってこない状態の姉弟を放っておくわけにも行かず、彼らを親戚筋が引き取ることになる。釧路のおじさん(黒目が小刻みに動く崔監督が気持ち悪いー)と、富山のおばさんがやってくる。
二人は引き離されることに呆然とする。「ここでやっていけますから。私、ごはんも作れるし」そう抵抗しても、彼らはまだ中学生、大人たちはそのままにするわけにいかないのだ。「それなら、ダイゴと一緒にいさせてください!」そう食い下がっても、それぞれに子供を抱えるおじさんおばさんは、一人ずつが精一杯なのだ。
この時ね、「ダイゴと離れたくないんです!」と叫ぶエリ子に、「お姉ちゃん……」とダイゴが驚いた顔をするのが、凄く、ぎゅっとくる。そんなこと、このクールなお姉ちゃんは言うはずがなかった。いつだってこのトロい弟に向かって、「うるさい、バカ弟」と言い放ったり、部屋に入ってくるのを禁止したりしてたのに。
本当は、お互いが大好きなんだ。たった二人の姉弟なんだもの。

この事態で、エリ子はようやく本気になる。
“最初の状況を再現する”というのをね、一度はやってみたんだよね。エリ子がワイシャツに「ダイオキシン8倍!」と書いて。ダイオキシン、8倍だっけ、ダイオキ シン8倍だっけ、二行だったよね、なんて言いっぷりもなんとなーく可笑しく、このあたりの台詞の絶妙さは見事である。
でもその試みは失敗した。そしてダイゴとの大喧嘩と、二人別々になってしまう事態で、エリ子はようやく“本気”になることを決意する。絶対にもとの世界に帰るんだ。

そのことを決意するとね、ということは、この世界からの決別も意味するんだよね。
ダイゴは意を決してクマノイさんに謝る。どうやら元の世界のクマノイさんが事故にあった直前、ダイゴが「クマノイさんのことなんか好きじゃない」とクラスメイトの前で言ったらしいのだ。まあきっと、その頃もダイゴはからかわれてイジめられていたってことなんだろう。
この世界の、生きているクマノイさんがそんなこと知る由もないのに、でもダイゴにとってケジメだから、あの時はごめん!と謝る……だって、生きているクマノイさんにはもう会えない。その覚悟でいるんだから。
一方、エリ子は、この世界の自分が仲直りをしてくれた大久保ちゃんに、自分の気持ちを伝えるのだ。
「私、大久保ちゃんのこと、大事だよ」それを聞いた大久保ちゃん、いぶかしげな顔をして「それは、聞いたけど?」
そう、大事な友達って、言わなきゃいけなかったんだ。そして今までいたこっちのエリ子は、それをやりとげていたんだね。その自分に追いつかなきゃ、元の世界には戻れない。

そして極めつけ、カンペキに元の状態を再現するために、と、ダイゴのワイシャツに「ダイオキシン8倍!」と書いた張本人のいじめっこ、エビヅカに書いてもらおう、と嫌がるダイゴを引き連れて、エリ子はエビヅカの家である八百屋さんに乗り込むんである。
「いじめられているんじゃない。友達だけど、ちょっとふざけただけ」
と、ダイゴは言っていた。でもその台詞は、エビヅカ自身が言ってる台詞なんだろう。ダイゴはもちろん、いじめられていると思ってるんだけど、そう思ったら、もうおしまいだから、いじめられていても、友達だと言ってくれている人がいなくなってしまうから。その気持ち、なんか判っちゃうだけに、あまりに痛々しくて。
でも、全てに向き合わなきゃ、元の世界には戻れない。このあたりがね……思春期の、子供から大人への成長ってことなんだよね。その瞬間を、見せてくれるんだ。

エビヅカにくってかかるエリ子をとめようとするダイゴだけど、ヘラヘラ笑って逃げようとするエビヅカに、ついに彼もキレたか、決死の覚悟で、エビヅカに体当たりしようとしたら……気持ちが一瞬逃げたか、彼の父親を突き飛ばしちゃう(笑)。
「何、人の父親突き飛ばしてんだよ」と嘲笑気味のエビヅカの台詞で我に帰ったダイゴ、今度こそとエビヅカに向かっていく。二人取っ組み合いの大喧嘩、あっというまにヤジウマがとりまいて……カットが変わると、ボコボコに殴られた顔したダイゴが、戦利品の、「ダイオキシン8倍!」のシャツを持って、姉と二人、バスに乗っているのだ。

今度こそ帰れる、そう信じて、精一杯の努力をしよう。あの時と同じ時間差で、ダイゴを迎えに行くエリ子。あの時、お母さんに持っていくように言われた、ピンクのビニール傘もちゃんと持って。
公園についてほどなくすると、雨が降ってくるのね。あの時、雨なんて降らなかった。降る気配もないのに傘を持っていきなさい、とお母さんが言ったのがフシギだった。あの時お母さんが言っていたのはこの雨なのかもしれない。だとしたら、本当に帰れるかもしれない。
ダイゴと二人、電話ボックスで雨宿りをする。そして雨があがった。エリ子は決心した表情でドアを開ける。「帰るよ、ダイゴ」「うん」

帰り道の表情は、いつもと同じようで、前の世界と同じようで、だってほとんど変わりがないから。でもきっとこれが、元の世界だと信じて二人は歩いてゆく。
家に着く。明かりがついてる。お母さんがいるんだ、帰れたんだ!そう思ったのに、出てきたのは二人を引き取る話をしにきた富山のおばさんだった。
思わず顔を見合わせる二人。そして弾けたように笑い出す。
「だめじゃん」

もう、これで、決心がついたんだ。一生一度の覚悟で、精一杯臨んだんだもの。悔いはない。でも……。
あの、高橋由伸のテレホンカードの度数はあと2。ダイゴとエリ子はあの公園にいた。最後の電話をかけるために……。
このシーンは、二人のテンションが最高潮で、もう本当に、本気で泣いているから、こちらも涙を誘われずにいられない。
部屋の中で写真を撮ってみると、まるで心霊写真のようにぼんやりと両親が映っていた。それがどういうことなのか、本当はお母さんもお父さんもいるのに、お互いに見えていないだけなのか。いや、多分、それだけ近い、薄布一枚で隔てられているようなパラレルワールドということなんだろう。そんなに近いところにいるのに、帰るすべが見つからない。

電話をかける。お母さんが出る。もうその時点では、あっちの世界のお母さんも、信じがたいながらも何が起こったのか察知してたんだろう。何も言えずにいるエリ子に、静かに、「エリちゃんでしょ」と。
もう、ダメだ。お母さんの声を聞いただけで、泣きじゃくってしまうエリ子。「もうこれが、最後の電話なの。説明してる時間が惜しいの。こっちの家には私たちはいるけど、お母さんたちがいないの」
「こっちは、お母さんたちはいるけど、エリちゃんたちがいないのよ」
もう、すべてを了解している声だった。エリ子は最後のお願いをする。「明日の12時、ソファの右側に座って、お願い」もう、泣いて泣いて、声にならない。ダイゴに替わる。電話ボックスの外に出て泣きじゃくるエリ子。ボックスの中で、ダイゴがやはり泣きながら、「ダイちゃん?」という優しい声にうなづいている。

これってさ、親からの子供の旅立ちを示唆しているってこともあるのかなあ、と思う。義務教育を終了する15という季節。その二乗のルート225。昔ならば確かに、大人になることを要求された年だった。今ではまだまだ子供だけれど……でも彼らは大人にならなければならなかったんだ。
あんなに「ありえない」とイヤがってた、お母さん特製の牛乳のたーっぷり入ったシチューも、もう食べられないと思うと、子供のころのそんな記憶を懐かしく思い出すんだろうか。
元の世界の自分たちであるというサインを作ろう、とエリ子が考案した、彼女が頭の横をかき、ダイゴがあごをかく。でもダイゴは間違って、ほっぺたをかいているんだけど、東京駅で、二人お互いが見えなくなるまでサインを出し合って、ダイゴは最後まで間違ってほっぺたかいてて、でもそれが、二人が笑顔なだけに、凄く凄く切ない。

あの“最後のお願い”はね、その時間、エリとダイゴはソファの左側に座って、記念写真を撮ることだったのだ。その写真が、出てくる。ぼんやりとしてはいるけれど、まごうことなきお父さんとお母さんと一緒に映った写真。
もう、この家も恐らく売りに出されて、ソファは元の位置にはなくなるだろうし、家族と共に過ごした確かな証拠が、思い出が、ほしかったんだ。
ここで一緒に映ってはいるけれど、仕事で忙しいお父さんの影がひたすら薄いのがちょっと切ないなあ……。

そして、ラストシーン、エリ子は新しい土地の坂の上、自転車をさっそうとこいでいる。とてもふっきれた、さわやかな笑顔で。来たばかりの頃は東京が恋しかった。でもそれは、元の世界が恋しかったのだ。今では元の世界も今の世界も境界線がぼんやりとしている。生きていかなきゃ、いけないんだ。どこかにいるお母さんとお父さんのためにも。

でも、ということは、今までは両親も含め、姉弟もこっちの世界にまた一組いたわけだよね。
あっちの世界の二人がこっちに来て、その二人があっちの世界に行ったわけでもない。ということは、こっちの両親と姉弟もまた、消えているってことだ。同時にってことだよね。そうでなければ、タイムパラドックスならぬパラレルワールドパラドックス、ちょっと違ってはいても、同じ人物が同時に存在はしないわけだもん。
などと考え出すとなんか判らなくなってくるー。こっちの家族は一体どこに飛ばされちゃったの?どこのパラレルワールドに行っても、彼らが存在する世界じゃ、重複しちゃうもんなあ。★★★★☆


るにん
2004年 149分 日本 カラー
監督:奥田瑛二 脚本:成島出
撮影:石井浩一 音楽:三枝成彰
出演:松坂慶子 西島千博 小沢まゆ 麻里也 ひかる 島田雅彦 玄海竜二 金山一彦 なすび 濱本康輔 大久保鷹 片岡長次郎 根津甚八 奥田瑛二

2006/1/27/金 劇場(歌舞伎町シネマスクエアとうきゅう)
今から思えば、あの決死の監督第一作も、新人監督が選びそうな題材であったのかもしれないとさえ思う。それぐらい、ガラリと変えてきた。それだけ監督、奥田瑛二の、映画に対する気持ちが本気であることが感じられたんだ。だってこの題材は相当にまとめあげる力が必要だもの。
それにしてもこれだけの題材に、彼は一体どこで出会ったんだろう。流刑の地である八丈島。そこで実際にあった二つの抜け舟事件。事実の方がもっと単純で、劇中に実際描かれる年若い二人が手に手を取って逃げた。この物語のヒロインであるお豊は劇中のようにこの若い男と逃げたわけじゃない。恋愛の事実も多分、ない。しかしこの思いもかけぬフィクションが、何より胸を貫くのはどうしたことだろう。

そう、このお豊は、松坂慶子を本気にさせた役。彼女がここまで入れ込む役は近年なかったんじゃないかと思う。
親子ほども年の違う若い男と恋に落ち、彼の手引きで抜け舟をする、なんて。
島で身体を売って生活しているという設定、当然あられもない格好も披露する。スクリーンで見るのは久しぶりの松坂慶子のおっぱいだわ……などと感慨深げに見る。年相応の美しい胸。それまでの辛苦の人生を語っていながら、男たちが愛した爛熟と不思議な神聖を感じさせる。

島の崖から籠に入れられて突き落とされるというぶっころがしの刑を、お豊は島の実力者に胸をまさぐられながら痛々しい思いで眺めていた。
彼らを密告したのはお豊。御赦免を手にする唯一の手段だと自分に言い聞かせながら。
御赦免を手にすれば、この島から出られる。もう自分は何十年ここにいるんだろう。
何度密告しても、彼女に御赦免は出ない。だまされているのかもと思いながらも、この島から出たい一心で卑怯だと思ってもやめることが出来ない。
その一方で、お豊は島の男たちのただひとつの安らぎだった。
お豊と、彼女を姉と慕う光はそんな中、寄り添うように暮らしていた。
いつかこの島から出られる時を夢見ながら。

今日もまた、幾人かの流人たちがこの島に流されてきた。
女はいないかと、目を血走らせながら柵にしがみつく男たちの後ろから、お豊と光もまた見物にやってくる。
そこに喜三郎がいたのだ。
若く、たくましく、野性的な男。彼女の目は釘づけになった。
それまで島で相手にしてきた男たちは、御赦免を期待しながらも、どこかでこの島で一生を終える諦めがあった。
お豊が島の男たちに女を売ってはいても、それが恋人的な意味合いより、恐らくお袋さん的な意味合いを持っていたんだろう。彼女の腕に抱かれることで、本当の意味で“なぐさめられて”いたんだ。
でも彼のはじける肉体と鋭い目は、こんなところで終わるわけがないと、語ってた。それがこの島で死ぬなんて絶対にイヤだと思っている彼女の心に共鳴したと思うんだ。
言ってみれば、これまで彼女がなぐさめた男たちは、それこそなぐさめた、に過ぎない。この島での仲間ではあるけど、同志じゃない。
初めて同志になれるかもしれない男に出会ったんだ。

そう考えてみると、親子ほどの年の違いの二人が惹かれあったのも、そうそう不自然なことじゃないように思える。
かといって、年の違いを感じさせないということじゃない。松坂慶子にはこの島で苦労してきた女としての年月がにじみ出ている。それは醜さの方向じゃなくて、本当に、菩薩のような美しさとして。彼女がこの島でさえ犯してしまった罪を、その中に抱え込んで苦しんでいることも、その神聖の美しさに拍車をかける。そう、後にあの卑怯な実力者にボコボコにされた彼女が彼の元に倒れるように現われ、「こんな、汚れた身体でこの島で死にたくない!」と泣き叫ぶのを、「お前は、汚れてなんかない」と彼が抱きとめる場面なんてその象徴たるもの。
そうした年齢をきちんと感じさせた上での恋愛になっているから。人生も恋愛も決して美しいだけじゃないけれど、深い深い何かがあるのだ。

喜三郎を演じる西島千博は若きバレエダンサーなんだという。野性的で向こう見ずな風貌が、若き日の奥田監督を思わせる。甘ったるい美青年が横行する今の日本映画界の主役男優界に切り込む魅力。そりゃ決して台詞回しは上手くないけど、そればかりが演技じゃない。それを補ってあまりある肉体的存在感が、彼の演技そのものなんだもの。
松坂慶子とはこれだけの年の差だし、二人の間に親子的な意味合いを感じないわけにはいかない。でもそれが二人の絆をより強いものにしているんだ。
この喜三郎に恋する女郎、花鳥は両親に会えないで死ぬことを本当に哀しく思ってる。彼への恋よりも、それゆえのお豊への嫉妬よりも、その思いの方が強い。
でもお豊と彼の口から、両親はおろか、家族の存在を示す言葉さえ聞かれない。
だから二人は、そんな絆もお互いに求めているように思えるんだ。

この花鳥を演じるのは、クレジットではまだ苗字のあった(んだ)麻里也である。
彼女は音尾氏目当てに見ていたNHKドラマ「秘太刀 馬の骨」で見ていて、この映画が彼女のデビューであり、「馬の骨」はその後の抜擢だったという。
小沢まゆといい、少女女優を見出だすよなあ、奥田監督は。まるで大林監督みたい。
そういやあ、現場では、この花鳥と友達になるお千代を演じるその小沢まゆだけに奥田監督は厳しかったというのね。まあ自分が見出だした女優だし、育てなきゃというのがあったんだろうけど、でも麻里也の方が印象が強かったのは皮肉なのか。
と、プロフィールを見て仰天する。げっ、まゆちゃんより7つも下!まだいま19!撮影時は16!うっそおお、根性も演技も座ってる!座りすぎ!顔つきも色艶もイイ。奥田監督の慧眼は凄いなあ……。

だって、女郎なんだもの。しかも本当はこの島でまた女郎をやるなんてイヤだった。彼女をそういう目で見ている男たちから守ってくれたお千代ちゃんも、手に職をつけて立派に生きるんだ、と励ましてくれた。お千代はお豊を軽蔑していた。男たちの慰み者になって生きているだなんて、と。
でも、花鳥にとっては、お豊は伝説であり、憧れでもあった。15で火付けをしてこの島に流された花魁。女郎であった彼女はまるでその道筋を追うかのように火付けをし、この島に流された。でもそのことで両親がきっと辛い思いをしているだろうと後悔している。
飢饉が訪れ、それまで島民たちをアゴで使っていた成り金男がここぞとばかりに彼らにソデにされ、逆上し、花鳥とお豊を人質に立てこもる。完全にイッちゃってる彼に、島の代官たちも手出しが出来ない。しかもお千代は身重だというのに……。

そこに裏手からスッと入ってきたのがお豊だった。彼はお豊の客でもあったから。その時、花鳥は目を呆然と見開いたまま彼に犯されていた。お豊は彼に優しく声をかけ、自分の方を向かせ、抱いて、そして……短刀でグサリとあの世に送ってやる。
という、この成り金男を演じているのが奥田瑛二で、監督だからどんな役でも選べたんだろうけど、凋落してゆく成り金男、というキャラの強さで、しかも途中で出番が終わり、16の女の子とヤッちゃって、しかも松坂慶子のおっぱいさわれるなんて、いっちばんオイシイじゃないのお。
これ、いいともに出た時喋ってたんだよね。タモさんが「松坂慶子のおっぱいさわったの!」とうらやましそうに言うと、ニヤリと笑って「いいもんですよ」と。コラー!

お豊は花鳥を自宅に運んで介抱してやる。その時初めて花鳥は彼女に憧れていたことを語り、でも両親に会いたい、江戸であの花見をしたい、と涙ながらに彼女に語るのだ。
ところでこの時、花鳥役の麻里也は一糸まとわぬ裸身である。身体を拭かれているから当然なんだけど、そういやあお豊が花鳥とお千代を初めて見かける川でのシーンでは、トップレスの麻里也と小沢まゆがキャイキャイ言ってはしゃいでる。おいおいおいー、少女女優を脱がせるよなー、奥田監督は。というか小沢まゆに関してはもう脱がせないとか言ってたじゃんー。ま、濡れ場はもうやらせないという意味だったのかもしれんが。
まあここでは、お豊と対比して若い女の肉体を見せるという意味で必要なシーンだったわけだけど……でもどこだったか、ツナギのシーンで出てくる、お豊が全裸で滝に打たれて岩を抱いているシーンは、どーゆー意味だったのかよく判んないけどさ。あ、あれは抜け舟を決心する場面だったっけ……でも確かに鮮烈。

で、この時これだけ素直になった花鳥なんだけど、彼女が喜三郎に恋をしてしまったことで彼女の運命は大きく変わってしまう。いや、あれは本当に恋心だったかどうかも判らない。喜三郎が抜け舟の計画をしていたことを聞きつけて、自分も乗せてほしいという意味だけで彼に色仕掛けをしただけかもしれない。
小柄ながらコケティッシュな風貌の彼女が、この野性的な男に迫りまくるシーンはゾクゾクする。
でも喜三郎は陥落されない。「あんな年増のどこがいいの」(うっ、キツい言葉だ)と言う花鳥に「オレはお豊にホレているんだ」ときっぱりと言い放つのだ。
うーん、女の夢の最たる台詞だな……事実はそうじゃなかっただけに。映画は夢を叶えてくれる。

その時から花鳥はガラリと変わってしまう。お千代にならって真面目に働いていたのに、男たちに流し目をくれて、一度に何人もの男を相手にする。お豊とは全く違った方向で、本当に慰み者としての、彼女が親に売り飛ばされた女郎の仕事をここでも再開してしまうんだ。お豊さんに助けられて、伝説の存在の彼女に出会えて感激してたのに。なのに……。
この麻里也の変貌には本当に目を見張らされるのだ。ほつれた髪と乱れた着物の裾、その股に男の頭を押し込んで。「あたしが死ぬ時は一緒に死んでくれる?」時に怒号をあびせ、時に泣きを入れ、押したり引いたり、まさに女郎の手練手管で“一緒に死ぬ”男たちを募り、抜け舟を計画させてしまう。
でも、失敗する。あっさりと。そりゃそうだ。ここは流刑の地。黒瀬川と呼ばれる黒潮が隔てる絶海の孤島。花鳥は一緒に乗っていたお千代とその赤ん坊だけを逃がす。お千代は結婚を約束した島の男が江戸に向かう船が出る時、出産の真っ最中で置いてかれてしまったのだ。つまり、彼女だけは流人ではないからと。
そして花鳥は島に引き戻され、ぶっころがしの刑となる。

お豊は最後ぐらいキレイに死なせてあげたいと、黄八丈を手に役人に訴え出て、花鳥に言うのだ。
「あたしも、決意したよ。お千代ちゃんは責任を持ってゲンさんに会わせる。あんたのおとっさんとおっかさんにあんたのことも伝えるから、何か形見になるものはないかい」
花鳥は涙ながらに差していたかんざしを手渡し、「お豊さん、私怖い!」とむせび泣く……。
「大丈夫だよ。もう辛いことはこれで終わりだ」お豊は彼女を胸に抱きながらそうさとす。
清楚な黄八丈に身を包んだ花鳥は、まっさらの美しさに戻っていた。丸い籠の中で、「私は生まれ変わったら鳥になって、今度こそおとっさんとおっかさんに会いに行くんだ。そしてよく帰ってきたねと、ほめてもらうんだ」そう唱えて……崖から突き落とされる。
彼女は会いたい、会って元気だよと、ごめんなさいと伝えたい両親がいるだけで幸せで、……その両親がどういう人間か判らないまま死んでしまったのも、幸せだったのかもしれない。恋で苦しむより。
恋は、お互いに思いが通じてさえ、こんな風に苦しいだけだもの。

お豊の“妹分”光がとても印象的である。演じているのは……男性、だよね?劇中でもそういう意味合いなのかどうかはちょっと微妙なところなんだけど……でもやはり、そうかな。この島には男色というまでの男はいないのか、光が男たちに施すのはせいぜいフェラぐらいなんだけど、そんな自分でも必要としてくれる男たちがいるから、自分は慰み者になっているわけではない、と光は言うんである。
でも、彼女、視力を失ってしまう。ある日突然、「姉さん、嵐でも降るんでしょうか。急に暗くなってきましたね」という光の言葉に彼女の顔を覗き込んだお豊は仰天した。光の目から血の涙があふれていたのだ。
語られる感じだと、どうやら糖尿病らしいんである。この島にはまともな医者はいない。江戸で医者に見せればなんとかなるかもしれない。そんな光のためにも抜け舟をお豊は抜け舟を決意したんだろうと思うんだけど、光はここに残ると言うのね。
こんな私でも菩薩と崇めてくれる男たちがいる。お豊がいなくなって、自分で自分をなぐさめるのがどんなに寂しいことか判るから……。

お豊さんはこんなところで死にたくない、と言うけれど、土着の島民はいるわけだし、江戸がそんなにもいいところなんだろうか……などとも思う。出たとたんに追われて殺されるようなところが。
喜三郎に抜け舟のヒントを与える、学者崩れみたいな男、近藤富蔵(島田雅彦)は、島民に活かしてほしいと地図の研究をしたりして、この地での生活に満足しているようにも思えるし(ちょっと魅力的な男だ)。
でもやっぱり、人間として扱われていないってことなんだろうな。それにここの厳しい自然は彼らを何度となく苦しめた。江戸での優雅な花見どころじゃない。でもそれだけ、必死に岩にかじりついて生命を感じることも出来る場所。
でも、彼らはついに抜け舟を決行する。喜三郎は毎日毎日高い崖の上から海の潮目を眺めていた。今日、この日を待ち望んでいた。失敗するわけがない。
食料も周到に準備して、何日漂流したんだろう。ついに陸が見える。狂喜する彼ら。ゲンさんに会いに行くお千代と道の途中で別れ、お豊と喜三郎は花鳥の両親に彼女の形見を渡しにゆく。
でも彼らには悲劇の結末が待っていた。

お千代ちゃんに関しては、なんとなく予測もついてたんだけど……だって、出産中でおいてかれて、迎えに来るどころか、便りひとつよこさなかったんだもの。江戸に着いて彼を尋ねるも、彼は女房もらって勝手に幸せになってた、なんて、やっぱりな、って感じ。男なんてこんなもんよ。せめて「女房もらった、ゴメン」の便りぐらいよこすのが義理ってもんよね。お千代が来れるわけない、ぐらいに思ってたってことよね。バカヤローだよなー、ホントに。
でもお千代は自分が守るべき赤ん坊がいるだけでも、この後に光りはあるかもしれない。女は子供がいると強いっていうしさ。でもお豊と喜三郎は……。

もう、人相書きが出回っているのだ。喜三郎は、知り合いがいる下関(だったかな)に一旦身を寄せてほとぼりを冷まそうと言う。でもお豊は、そんなことをしたらもう江戸には出てこれない。それであんたと一緒になっても、私は真に幸せにはなれない。花鳥と約束したんだ。もうここで別れよう、と言うのね。喜三郎は判った、とうなづくも、彼女からは離れようとしない。一緒に花鳥の両親に会ったら、そして上手く逃げられたら、祝言をあげよう、そう彼女に言うのだ。
でも、花鳥の両親は、特におふくろさんは、後にお豊が「子供を売る親なわけだ」と吐き捨てるように言うような、人間だったのだ……つまり、花鳥の話を聞きたいなんてウソっぱちで、賞金首に目がくらんで、しかもそれが、「花鳥の最後の親孝行だ」なんて都合のいい解釈をして、彼らをハメるのだ。
しかも花鳥の死さえ、二人のせいにして。そもそもはあんたらが娘を売り飛ばしたんでしょうが!

囲まれたことに気づいた喜三郎は、お豊だけを逃がそうとする。焼け石に水だってことは判ってる。でも、彼は、「少しでもいいから、お前に自由を味わってもらいたいんだ!」そう叫んで。
でもお豊、「お前さんのいない自由なんて、いらないよ!」って……あれほど、あれほど八丈島にいた時、こんなところで死ぬのはいやだ、江戸に帰りたい、自由になりたいと言っていたのに。
自由、の意味を考えてしまう。一人きりでの自由は、自由じゃない。ただの孤独にしか過ぎないんだ。

ムチャなのに、ムリなのに。それでもたった一人で大人数と戦う喜三郎。鬼気迫る彼に、取り囲んだ手勢もひるみ気味である。ここはまさしくバレエダンサーの肉体が躍動する。でも、でも……やっぱりムリなのだ。鮮血がほとばしる。それを見たとたんに男たちがやった!とばかりに彼を追いつめる。さおの上に高々と召し上げられる、血で染まった美しい肉体。彼の名を泣き叫ぶお豊の声はオフになり、まるでスローモーションのような、そのひどく美しい場面に心が焦がれる。
だって、まるでそれは……まさしくそれは、磔にされたキリストそのもので、その足元にかしずき嘆き哀しむお豊はマリアそのもので。

しかもそれがラストシーンじゃない。ラストシーンは静かで、もっと美しい。まぶしいほどに純白のお白洲にしょっぴいてかれたお豊、彼女の首を落とそうとしている刀の前に、満足そうな、穏やかな笑顔を浮かべた彼女の顔がスクリーンいっぱいに映される。なんて美しい表情なんだろう。
「祝言をあげるのは、向こうの世界に行ってからだ!」そう喜三郎は彼女に言った。それが最後の言葉だった。
それが叶えられるから、だからこんな穏やかで幸福そうなんだ。

本当に、公開を待ち続けてたんだもの。東京国際映画祭に出品されてから、一年近く。でも奥田監督は公開時期も吟味に吟味を重ねたんだという。満を持して。
しかももう一作撮り終えているというんだから!外見はすっかり枯れた魅力で落ち着いちゃった奥田氏だけど、映画への情熱はたぎるばかりなのね。★★★★☆


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