home!

「け」


2003年鑑賞作品

刑務所の中
2002年 93分 日本 カラー
監督:崔洋一 脚本:崔洋一 鄭義信 中村義洋
撮影:浜田毅 音楽プロデューサー:佐々木次彦
出演:山崎努 香川照之 田口トモロヲ 松重豊 村松利史 大杉漣 伊藤洋三郎 遠藤憲一 浅見小四郎 粟田茂 恩田括 小木茂光 椎名桔平 窪塚洋介 木下ほうか 長江英和 榎戸耕史 戸田昌宏 山中聡 斎藤征義 森下能幸 黒沼弘巳 草薙良一 斎藤歩 大橋一三 田村上連 中村義洋 林海象 本田徳樹 宮川宏司 本間盛行 三原康可 飯島大介 田邊年秋 小形雄二 辰巳浩三 旭洋一 井上利則 本間典勝 小野光哉 斎藤祐也 大隈雅幸 石原純 大石遼 岩瀬洋一郎 宮崎総士 吉田裕 坂口順 安藤亮 沖本敦子 清水豊 中村諭 梅村将太 福田孝志 松田泰弥 池上均 原田都雷 浜本敏幸 上島信彦 菊地聖志 関口優 安藤哲也 佐藤英雄 網走ウイーズ


2003/1/26/日 劇場(渋谷シネクイント)
あー、なんだろ、このすっとぼけた面白さは!実はね、崔監督はあんまり得意じゃないのだ。だからこの映画を観るのも先延ばし、先延ばしにしていたんだけど、いやー、びっくりしちゃった。もともとはコミックが原作だという。しかも、主人公は原作者の名前で、これは実録モノ。コミックのト書きそのままに主人公のナレーションで進行していく静かさと絶妙な間が、もともと崔監督の個性であるドライなユーモアとこれまた絶妙にマッチして、シャレている……じゃない、うーん、違うな、とぎすまされた、洗練された、大人のユーモアだなあ!っていう気持ちよさなのだ。バラエティ番組のような、笑わせよう、笑わせようとしているうるさいユーモアじゃなくて。思いっきりストイックにならなきゃ、この面白さは出ない。いいね、いいね、こういうのこそ、世界に出したいよ。こういう大人のユーモアをね!

冒頭のシーンは、この主人公、花輪さんがなぜ刑務所に入ることになってしまったかを結構丁寧に描いていく。彼はいわゆるミリタリーオタクで、ガンマニア。仲間たちと改造銃を見せ合い、ミリタリールックに身を包んで「あー、最高、ベトナムみたい」とミリタリームービーを作って楽しむのが何よりの幸せ。別に人を殺したとかそういうんじゃなく、本当に純粋に?そういう世界を愛していただけで、確かに実弾も使ったけど、それは水の入ったペットボトルの中に発射し「あー、幸せ」とやるだけだったのだ(この時の山崎努の至福の表情!それ以降も、彼のこの表情に何度も笑わせられることになる)。でもそれで彼は「銃砲刀剣類等不法所持、火薬類取締法違反で懲役3年」の刑をくらってしまい、「へえー……うっそみたい」と感想をもらして(また、この言い方の感心したような響きがたまんない)日高刑務所に入所することになるのだ。実際、あ、銃と実弾持ってるだけで、ヤクザでもないのにこんなに厳しい刑が下るんだ……とちょっと驚いたくらいだったんだけど。

刑務所モノといえば、どうしても思い出してしまうのは、やっぱり誰もが「網走番外地」だろう。しかも本作の刑務所も日高刑務所で、受刑者の中には「なまら……」なんていう北海道弁もちらっと出てくる、ということは、北海道近辺の罪びとたちの集まりなのかもしれない。しかし、「網走番外地」で描かれていたようなことはぜっんぜん、まったくの皆無で、入所している人たちは罪を犯しているのは確かにそうなんだけど、「網走番外地」でもあったような罪状の告白とかもなくもないんだけど、「網走……」であったような、所内での反発や暴力や脱獄など一切なく、みんな規律にしっかり従って三度三度の食事を心待ちにし、まるで毎日が修学旅行みたいに同じ房の人たちとじゃれあったりして、何だかやたらと楽しそうなのだ。

花輪さんが心の中で「まあ、忘れもせずきちんと三度のメシをくれるもんだ。罪を犯した人たちなのに」と思ってしまうように、ここでは確かに規律は厳しいし、全ての行動がバカバカしいほどきっちりしてて、いちいち願い出なきゃ何も出来ないけれど、少なくとも彼らの人権は基本的に守られている。この規律の厳しさが、例えばクロスワードパズルに書き込んだだけで懲罰房行きとか(泣き崩れる受刑者が可笑しい)一見何だソリャなんだけど、それは他人のものだからダメなんであって写して書けば良かったとか、そういう妙に理にかなっているのも可笑しい。この辺が「網走……」とは違うところで、そういえば最近、刑務所内での刑務官による受刑者への暴行が問題になったりしたけど、それこそそういうことも「網走番外地」ならありそうな感じで、そう、こういうのが“問題になる”ぐらい、いまや受刑者への人権は重視されてて、理不尽な扱いを受けたりはしないのだ(しかし、あの事件はヒドかったね)。つまり、二日に一度は(一回15分とはいえ)お風呂に入れるし、テレビもあるし、雑誌など、あるいはごわごわした配給パンツがイヤなら、そういったものも自分用のものを買うことができる。土日祝日は免業日で仕事をしなくていいし、昼寝が許されている日や、映画鑑賞の日さえある。そして映画鑑賞の日にはアルフォート(と商品名で言っているところが、いいやね。チョコレートつきビスケットだな)とコーラが出て、「キッズ・リターン」を観たりするんである。ちょっとビックリ。これって、刑務所の中に入っていない、シャバの人だって、もっと恵まれない生活をしている人はいくらでもいるではないか、という感じなのだ。

彼らはそんな風に自由な時よりも制限されてはいるものの、そうしてきっちり与えられている“人権”を、制限されているからこそ、その幸せに気づき、かみしめることになる。罪は悔い改めないんだけど(笑)。そ、罪は悔い改めないんだよねー。ここが可笑しいところで。人を一人殺して七年なら安いもんだよな、だなんて言ったり(ケケケと笑い飛ばすほうかさん、ハマりすぎで、こわいよ!)、クスリをやったらどんなに気持ちいいか、ということを幸せそうな顔で再現してみせるヤツは、「お前、本当に(クスリを)やめる気、あんのか?」と仲間に突っ込まれたりする。彼らの楽しみはなんといっても食事で、月に数回出るパン食を心待ちにして油ギットギトのマーガリンに至福の表情を浮かべ、なぜか過去、パンを食べてた青春の場面(夕焼けの中、自転車に乗りながらかぶりついてたりとか)を思い出したりする(笑)。そういう過去の記憶のどんな時より、数百倍このパンの方が美味いというのだ。日々の食事は、そのお味噌汁の具の中まできちんきちんと紹介され(この完璧なきちんとぶりは、刑務所の規律のせいか、花輪さん自身の性格なのか)そして来るお正月に出る豪華な食事のことを、過去の例を次々に披露して夢想する場面なんか、まるで感動的なほど。羊羹一本の半分、袋菓子、パインジュース、ヤクルトミルミルE、とかってそういう言い回しが微妙に可笑しくて、でも彼らは本当に幸せそうなんだよね。

確かに、想像する刑務所の食事(よく、クサイ飯、なんて言われる……)よりも全然良くて、フツウの食事が出てる、って印象。でもあくまでフツウの食事であって、私達が苦もなく食べられるものなんだけど、彼らにとっては……だから、この刑務所でもっとも学ぶことは、困ったことに罪を悔い改めることじゃなくて(笑)、食事のありがたさとか、ささやかな生活のありがたさとか、そういうものなのだ。しかしそうした食べ物を夢想する……映画鑑賞に行った人にアルフォートとコーラが出たと聞かされて、心底うらやましがったり、テレビCMの和菓子や「白い恋人」にも「食べたすぎて、気持ち悪くなる」(笑)だなんてつぶやいたり……彼らは、なんかやたらと楽しそうでね。楽しいことを想像したり心待ちにすることって、それが映画鑑賞会に行けるまでの数週間や数ヶ月先、あるいは出所できるまでの何年も先のことでも、そうやって楽しみにしている時間こそが、最も楽しいんじゃないかと。まるでクリスマスよりクリスマスイブが楽しかったり、お正月より大晦日が楽しかったり、日曜日より土曜日の方が楽しかったりするような……だから、彼らはもしかして、毎日がそういう楽しみの前日で、だからこんなにいつでも嬉々として厳しい規律さえもものともせずやっていけるのかなと思うと……ちょっとうらやましい?(いやいや!)でもこの、ささやかな幸せにじみーに感動して、その感動を仲間たちと分かち合って、今出来ないことをいろいろ想像して待ち焦がれることを楽しんでいる、っていうのは、むしろ昔には確かにあったに違いない境地で、それが出来なくなっている全てに恵まれている現代の私たちは、むしろ不幸なのかもしれなくて、原点に戻された彼は、やっぱりうらやむべき対象なのかもしれないのだ。

しかし、花輪さんは、食事なんかよりも、この日々のきちんとした生活に幸せを感じているようなんである。いや、花輪さんだけではないのかもしれない。パジャマを四角にきちんと折りたたむことや、房の掃除は毎日トイレの便器(当然和式)までピカピカに磨き上げることや……そうした“義務”を彼らは嬉々としてやってのけ、点呼の時間にはささっと正座で並び、号令に従って手と足を振り上げて歩き、体操をし……、とこれは楽しまなきゃやってらんないのかも?刑務官たちは命令口調でかっきりと指示を出すし、ちょっと手がゆるんでいただけでビシッと注意をするんだけど、「怒られた……」と花輪さんが嘆息するように「怒られる」だけで、殴られたりなんだり、ということは一切ない。なんたって人権は守られちゃっているんだから。ま、せいぜいテレビを一ヵ月取り上げられるとか、最悪で懲罰房で一人きりになり、薬の袋作りをやらされるぐらいである。

花輪さんたちの房は、他のところは知らないけれどもなんだか妙に仲が良くて、いい大麻の自生場所を知っている、というおぼっちゃん受刑者、伊笠(香川照之)の話にみんなして盛り上がっちゃって、じゃあ、出所したらみんなで行こう、お弁当持って(笑)とまったくもってぜえんぜん懲りてないんである。しかしその住所を探偵映画よろしくボールペンのキャップの中に巻いて隠したりしちゃったのがバレて(なんかカワイイやね)、懲罰房行きになっちゃうのである。しかし花輪さん、懲罰房に一足入ったとたん「なかなか軽やかでいいじゃないの」軽やかって……オイッ!(笑)もともとこの刑務所でのきちんとした生活に、マジメなガンマニアで銃の手入れが大好きな彼らしく、むしろ充足を感じていたくらいだから、この懲罰房に静かにひとりきりになり、静かに単純作業をこなし、その中でも「一日二百枚」の最高記録を自分に科して頑張り、ギリギリまでガマンして「用便願います!」と申し出て排尿する時には「ああ、最高に充実している……」と恍惚の表情(爆笑!)。懲罰房に入っていると、風呂も一番風呂で一人きりなもんだから、むしろこの点だけでもいい思いをしているとも言え「温泉みたいー……」と実に幸せそう、見張られながら(笑)。借りた爪切りのながーい紐の先についている「爪切」と書かれた垢光りした木札に「凄いな……50年は使い込まなきゃ、こうはならないだろ」とヘンなところで感心したりするのも可笑しいし(なんか、こういう細かなところを見つけてなめつくすように楽しんでるのがいい)配膳係がお茶を持ってきてくれて一服する時には(ホントに至れり尽せりね)、何か禅僧のような雰囲気さえ感じるんだから。

そうそう、この「願います!」。この刑務所の中では何がなくともこの「願います!」がなければ始まらない。刑務作業中、たとえば落ちた消しゴムを拾うのさえ、これをやらなきゃいけないんだから。あちこちから手が上がって「願います!」というのをビシッと反動をつけて指差す刑務官もやたら可笑しい。刑務官のこの言葉づかいも、彼らは徹底して教え込まれたんだろうなと思うんだけど、この、まあ言ってしまえば威圧的な言い方も、行動(つまり、過去の映画にあったような暴力とかね)が伴うわけじゃないから、場面によってはやたらと可笑しいのだ。あそこが大好きだったなー。医官が彼らの健康を定期的に診にきてくれるんだけど、彼もまた刑務官だから、「はい、水虫」「はい、入浴禁止」「はい、健康」と断定していくのがやたら可笑しいの。あの、体温計を見て即座に「はい、健康」は本当、笑ったよ。それもあのイイ男のキッペイちゃんなんだもん!

花輪さんが「悪いことをしたのに……」と心の中でつぶやくように、確かに殺人や暴力を犯してここに入っても、ここでは受刑者に対して彼の犯した罪と同等の罰などない。殺人に対してはもちろん同等の罰など出来ないし、最近はことにやかましいからいわゆる体罰も皆無。この作品のすっとぼけた可笑しさの中に、そのどこかにノドにひっかかるトゲのようなものを感じるのはそこらへんなんだろうと思う。罪を犯して入る場所がこんなもんかなんて思うなんて……それこそ被害者の側から思えば、悔しいし、哀しい。でも、ただ私はこの描写に、この生活を楽しんでしまう彼らに、何か性善説、みたいなことを信じたくなっちゃったんだなあ。もともと私は性善説を言いたがる、どうも甘い人間なんだけど、この映画を見ると、更にそんな思いを強くしてしまう。ホント、甘いんだけどね。

いつもマジメさを泣きそうな顔で刑務官にアピールしてみんなに疎ましがられてるヤツとか(でもつまはじきにはしないんだよね……ほんと、みんな信じがたいぐらい、穏やかな関係なんだ)そいつに、チ○ポの先にティッシュがついていたことを刑務官にチクられ(そんなことまで言うか……)ティッシュマンというあだ名を頂戴してしまった哀れな男(大杉漣!)などの脇キャラが効いてて、うーん、こんなメンツの中じゃ、さすがの窪塚君もまだまだ弱いよねー。おぼっちゃま受刑者を演じる香川照之が好きだったなあ。花輪さんに「(それだけ育ちがいいおぼっちゃまで)受刑者なんだから、もう怖いものないよね」と言われる彼。おぼっちゃまだから(?)小指を立てて石鹸を持ち、エッチな本を読んでる仲間に「どうなんだよ〜!!」とはしゃいでじゃれて刑務官に叱られ、上質な靴マニアで、ガンマニアの花輪さんを「こんな世界があるなんて、知らなかった……」と感服させる彼。やあっぱ、香川照之は素晴らしいよね。こういうカルさ、初めて見たけど、そういうのもひょいと演じちゃうのが。もちろん主人公の山崎努の素晴らしさは言わずもがなで。超ベテランになってこういう先鋭的な役を軽々と演じられるのが、彼の本当に素晴らしいところ。正月前に出所することで意気消沈しているでっかい受刑者に「こういう暗い人、好き」とか、同じしょう油ごはん好き仲間に向かっての「原島さん、えらいぞ!」とか、このひそやかなモノローグの響きがなんともはやたまらないのよね。それに合わせる表情がまた絶品中の絶品で、もう腹を抱えずにはいられない。

この彼らの友情物語はホントにいいのだ。世代を超えた同士関係っていうのはまるで職業訓練校とか夜間学校とか、そういうノリで。私ね、思わず夢想してしまったのだ、この映画が、劇中で描かれてたように、受刑者の映画鑑賞会で上映されないかって!★★★★☆


g@me
2003年 105分 日本 カラー
監督:井坂聡 脚本:尾崎将也
撮影:佐々木原保志 音楽:松原憲
出演:藤木直人 仲間由紀恵 石橋凌 宇崎竜童 IZAM

2003/11/27/木 劇場(有楽町日劇)
原作を全く知らない状態っていうのは、こういう映画の場合、ホント良かったなと思う。そして映画を観て、あー、面白かった、となると、原作もまた読みたくなるし。いやー、びっくり、びっくり。素直に驚いちゃったよ、私単純だから。二転三転のどんでん返しに口が開きっぱなしで、え!?なんでなんで?とうろたえているうちにぐいぐい連れて行かれる感じ。正直ここ最近の井坂監督にはちょっとあれれ、と思っていて……「ミスター・ルーキー」は悪くはないけど何か思いっきり凡庸って感じだったし、「ダブルス」でガクッとエアポケットに陥り、更に「マナに抱かれて」でブラックホールに陥っちゃった、みたいな。「マナに……」で何だよー、もう観るのやめようかなあ、と思ったぐらいだったのでこのかっ飛ばし痛快作は嬉しい。ミステリーとしての原作がきっちり固まっているのが良かったのかもしれない。「破線のマリス」もこんな風にドキドキで痛快だったもんなあ。世界観はその後でついてくるから。

原作のウリである“犯人側からの視点のみで描かれる”というのが一体どういうことなのか、さっぱり見当がつかなかったんだけど、なるほどこういうことなのか。彼らが夢想するガッツ石松だの椎名桔平だのの刑事のキャスティング、刑事ドラマさながらの、刑事たちがいっせいに出て行く足音とか、あるいはそういうフィクショナルな部分ではなくても、警官やパトカーから身を隠したりする部分も、それは一切が“犯人の視点”っていうだけで、つまりは警察は動いてなんかいなかったという衝撃の事実。彼らは狂言誘拐を仕掛けたんだけど、その狂言誘拐自体が相棒である被害者側の仕組んだワナだった。おお、いきなりネタばらしですかって、やるよお、ネタバレどんどんと(笑)。でもこれは第一段階のどんでんでしかない。この場面は冒頭で既に示されており、そこがエンドかと思いきやそうではなく、ひとつの通過点に過ぎないのだ。これからもっともっとどんでんどんでんしちゃうんである。ひえッ。

それにしてもこんな美男美女が偶然出会うなんてあり得ないよねー。ま、“偶然”ってほど完璧に偶然ではないけれど。
主人公の佐久間は今まで負け知らずの自信満々のエリートサラリーマン。しかし取引先のやり手副社長、葛城にすっかりやり込められて意気消沈。ふらふらと行き着いた先がその副社長の家の前で、彼は女の子がその家の塀を乗り越えてくるのに遭遇するんである。どうやら家出らしい。女一人ではホテルにも拒否され、ウロウロしている彼女をつかまえる。
彼女の名は樹理。副社長の愛人の子で、母親が死んだため本家に引き取られたのだという。と、いうこの基本キャラは後で覆されてしまう。もうバラしちゃうのって、バラすよお、どんどんと(笑)。本当は彼女は千春というこの家の次女。長女の樹理はこの時点でもう死んでしまっている。クスリでラリッて千春ともみあいになり、誤って千春が彼女の胸に刃物をつきたててしまったのだ。しかしこの時点では佐久間には勿論、観客にもその事実は知らされない……。

狂言誘拐を持ちかけたのは樹理(ま、一応この時点での名前はね)の方。勿論そんな荒唐無稽な話、佐久間は断るんだけれど、あの葛城副社長によってビッグプロジェクトから外されてしまい、しかも彼から「ゲームはいささか得意でね」だなんていう、佐久間こそが言いたい台詞を言われて発奮してしまう。樹理の狂言誘拐に、乗る。ここからはさすが頭のいい佐久間の緻密な計算によって、うわ、これ真似られて狂言誘拐出来ちゃうんちゃうのと思っちゃうぐらいまさに“ゲーム”な展開のスリリングさによって、大金が彼らのもとへと運ばれてくる。大量の携帯電話、フリーメール、アンティークドールサイトのBBS、望遠鏡、ボイスチェンジャー……古今のあらゆるアイテムを使って神によって操られるがごとくまさに見事に展開する身代金の受け渡しに大興奮。特に、ダンボールに入れられた金が何も知らない運び屋によって会議室に運び込まれようとする部分とか、もう手に汗握ったなあ!

ゲームを先導していたと思っていた佐久間はしかし、彼の能力を見込まれた葛城によって先導されていたに過ぎなかったのだ。この誘拐劇の間に互いの間に恋愛感情が生まれた佐久間と樹理だけれど、二度と会ってはいけないのだと、泣く泣く別れる……しかし樹理は家に帰ってはおらず、新聞にも何の記事も載らず、数日後、樹理は遺体で発見されるのだ。いや、それは樹理ではない。少なくとも佐久間の知る樹理ではない。ニュースで映し出された顔は全くの別人!
いやー、私、バカだからさあ、一体これが何を意味しているのか全然判んなくて。あのBBSに樹理が帰っていない、という意味の書き込みが連続しているシーンでもう心臓バクバクだったんだけど、このニュース映像には本気で愕然としてしまった。えー!?何で!どうして!?って(我ながら素直だな……)。で、“彼にとっての樹理”が再び現れ、全てを告げる。彼に渡したワインはクスリ入り。嫣然と微笑む彼女が見下ろす中、彼は崩れ落ちる……うっそお、あの二人の気持ちの高まりさえ、ウソだったのお!?

などと、実に素直に反応していたら、彼は生きていた。え?あれれ?なんで?またしても判らないよー、と思っていたら、葛城に呼び出される。佐久間が“眠って”いる間に全ての証拠は消され、見事完全犯罪が葛城によって成り立たされていた。この時にはただただ呆然とするだけの佐久間だったんだけれど、やられっぱなしで終わる彼ではなかったのだ。佐久間もまた「ゲームにはいささか自信がある」のだから。
でもさあ、この時には佐久間がそんなこと考えているなんて思いもよらないからさあ、彼が千春に電話をかけた時、ああ良かった普通にハッピーエンドじゃん、なんて単純に喜んでいたわけよ。でもその電話の場面は淡いグリーンの中二人が合成で重なり合う、などというなんだかヒヤヒヤもののラブロマンス風だったもんだから、うっわ、とか思ったんだけど、それもまた確信犯、伏線だったのだ。佐久間は葛城にひとあわ吹かせる作戦を決行するため、千春に電話したんである。電話を切った後、すっごい冷たい顔でパソコンを打つ佐久間に心底ゾウッとした!うっそ、うっそ、うっそおー。だってこの二人好きあっているんだし、何もそんな……とかまたまた単純にうろたえていたら、実は気持ちの部分では騙していなかったという二重どんでん。この作戦は千春を巻き込むつもりはなかったし、彼女と共にちゃんと“駆け落ち”するつもりでいた。そのことが判って一転、涙で顔をクシャクシャにして佐久間に抱きつく千春。うーん、イイねえ。この図。

例えば、「好きになったなんて言っていない」と言いながら、そういう関係に陥ってしまう二人の、この台詞こそが、最初のどんでん返しの時にはああ、これが伏線だったのかと思ったのよ。芝居だったのだと、私の方が恋の勝者だと勝ち誇ったように笑う千春にゾゾッとして。でも今やミステリーはひとつのどんでんだけじゃすまなくなってくるのね。追い討ちが更に更にで驚きっぱなしよ、もう。

しっかしこの二人は美しいわ。仲間由紀恵はホントに美女。彼女はテレビで見かける時も、テレビっぽいベタッとした感じがしない。美女、なのよ、本当。この役さあ、だから……実はちょっとキツイのよね。「LOVE SONG」の時もこんなウブな女子高生はキツいな、と思ったけど、今回もこの世間知らずな女子大生はキツい。もともとの年ももっといっているし、その上大人っぽい顔立ちだから余計に。舌足らずな感じとか幼さとか、キャラ的に言えば決してハマリ役ではないんだけど、まあ美女だから許さざるを得ない?
彼女が藤木氏のことをオヤジなどというの、凄く違和感。だって二人、年恰好も思いっきりお似合いのカップルなんだもん。
しっかしこのほっそい美脚は一体なんなのって感じ。あのヒラヒラミニ丈ドレスにはホント参っちゃった。ヤバイよねー、あの足は!それに彼女沖縄出身って感じが全然しない。美人だけどそんなに顔濃いわけじゃないし、肌真っ白だし。
でもね、演技は普通なんだけどね……うん、普通だな……。

対しての藤木直人は人気があるのもむべなるかなの、確かにすっごい美形なんだけど、スクリーンに大映しにされると、生気のない瞳がちょっと気になる。あまりにもくっきり二重、のせいだろうか。
でも、暗い光を宿している、とも言えるのかもしれない。そのあたり、西島秀俊とちょっと似てる感じ。西島氏は美形じゃないけど(失礼だよなー、でも大好きよ)そういう、いい意味での暗さを持つ雰囲気が。 美形でネガさがあるっていうのは意外に貴重かもしれんよなあ。
でも、この藤木氏より、石橋凌の方がカッコいいんだよなあ。
正直、最初っから藤木氏は石橋氏に食われっぱなし。おいおい、石橋さん、ベテラン俳優なんだからもちょっと手加減してよ、なんてね。
存在感も段違い……これは、藤木氏主役としてはちとキツいかも。ま、葛城役はもうけ役だし、仕方ないのかな。

この二人のラブシーン、というかキスシーンはそりゃもうこの美男美女だし、結構情熱的にやってくれちゃって、おおお、とは思うんだけど、あ、何か唇乾いてる……なんて思っちゃうのって、ヘンなとこ見てるかなあ?“情熱的なキス”の見せ方としては二人とも凄く上手いんだけれど、乾いてくっついている感じが、ああ、やっぱりスターさん同士だからま、キスシーンはこの程度になっちゃうかなあ、っていうか……。つまりはこれはどこでラインをひいているかっていうのは、ま、エグイから言わないけど(笑)。うーん、出し入れがないってこと?充分言ってるっちゅーの。

“稼いだ分は使う主義”である佐久間が住んでいる高層マンションってのが、ホント凄いの。上から下まで、右から左までいっぱいの窓からふりそそぐような夜景が見える、という……でも、CG処理なのね!ふえー。本当にそういう場所なのかと思った。うらやましいとか思っちゃったぐらい。CGの技術って今や全然気付かないぐらいになってるんだ。凄いな。
しっかし何でIZAMなんか使うかね、またも。こんなキーマンになるイイ役にさ。この人のどこがいいの?しかもあの緊張感のない身体でハダカになんかならんでほしい、もう。
佐久間の同僚役の入江雅人氏は結構イイ役。彼は最近映画で折々見かけるので嬉しい。

死んでしまった方の、本当の樹理は確かに可哀想な女の子なのだよね……。愛人の子だっていうのが本当だったかどうかは判らないんだけど(あれは千春のでまかせではないの?)悪い男に引っかかってクスリに溺れて、死んでしまっても親はそれを悲しむよりも隠蔽する方を優先する……すっごく、可哀想。
だから、佐久間とハッピーエンドを迎えられる筈の小春が、樹理を思い、罪を償うためにと彼のもとを去る気持ちが、判る。切ない幕切れだけれど、またも塀を乗り越え、今度は一人、しっかりとした足取りで歩いてゆく彼女に頑張れ、と言いたくなる。
千春の決心と彼女との別れ。それを知って薄く笑みを浮かべ「ゲームオーヴァー、か」とつぶやく佐久間。それがエンド。彼の笑みは何だかシニカルで、でも笑み、ってあたりが佐久間らしい。葛城からは勝ちを奪い返したけれど、千春には負けたな、という苦笑い、かな。★★★☆☆


月曜日に乾杯!LUNDI MATIN
2002年 127分 フランス=イタリア カラー
監督:オタール・イオセリアーニ 脚本:オタール・イオセリアーニ
撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー 音楽:ニコラ・ズラビシュヴィリ
出演:ジャック・ビドウ/アンヌ・クラヴズ=タルナヴスキ/ナルダ・ブランシェ/オタール・イオセリアーニ/アリーゴ・モッツォ

2003/10/15/水 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
藤村俊二氏のナレーションによる予告編の、そしてノンシャランという惹句になんとも心惹かれて足を運んだ。運んだら……あれ??抱いていた感じと全然ちがうぅー。つまり、そういうのほほんとした、ハッピーな雰囲気だと思っていたんだけど、何か結構シビアというか。確かに切れ目なく差し挟まれる控えめなギャグはセンスが良く、クスクス笑いはたえないんだけど、何というか、意外に現実的?
主人公であるくたびれたオヤジ、ヴァンサンを演じるジャック・ビドゥは今回が役者初挑戦、もともとは映画やテレビのプロデューサーである人なのだそうで、いい意味でそのまんまというか、そこにいてそこに生きているぼーっとした感じ、演技をやろうとかそういうんじゃなくて、生活してみて、旅してみて、出会った人と酒を飲んでみて、みたいなそのまんまストレートってな感じが、それがこの作品のカラーでもあるんだけど、でもやっぱり役者であるその他の人たちはその中にも笑わせようだとかそういう演技の匂いを感じもするものの、この人のこのぼーっとした感じは妙にリアルで。

彼はつまりは哀しいお父さん。毎日毎日家族のために単調な仕事に惰性のように出かけ、しかし家に帰れば子供たちはろくに口もきいてくれないし、奥さんからは雑用ごとばかり言いつけられて、趣味の絵をゆっくり描く時間も気持ちも余裕がない。そう!絵が上手いの、このお父ちゃん。その点は子供たちもそれなりに敬意を払っているようではある。長男の方はその才能を受け継いでもいるし。でも、やっぱり隅っこ。はしご段を上ったせまっ苦しいスペースが彼のアトリエ。彼が突然出勤途中に立ち止まり、そしてベニスに行こうなどと思ったのは、やっぱり広い空間で、のびのびと美しい景色を実際に見て(あの部屋の中では空想でしか描けないよなー)描きたかったに違いない。

実際に、それを勧めたのは彼の父親。瀕死の父親を親戚のおばちゃん三人が“死ぬのを待っている”状態のところに会社を欠勤したヴァンサンが訪ね、「あの人たちは父さんの死を待っている。僕が来たから頑張って」と囁き、酒を飲ませると、何とお父ちゃんあっさり復活(笑)。あやとりなんぞして死ぬのを待っているおばちゃんたちもシュールだが、“虫の息”だったはずのお父ちゃんがむっくり“生き返る”のもかなりシュール。復活した父親は、ヴァンサンに虎の子の金を手渡す。お前はもっと見聞を広めた方がいい、と様々な観光地の名前を口にする。その中のひとつが、ベニスだったのだ。

……と、しかしすんなりと展開するわけでもないのだった。このおっちゃんの現実からの逃避旅行がこの映画そのものだと思っていたもんだから、旅に出る、という決心をしてから実際にかの地につくまで、他の描写にえらい時間をとるので、面食らってしまった。彼が残してきた家族や、ご近所さんたちが、彼が帰ってこないと判るまでの間、つまり日常の生活をどう送っているか、というのを淡々と、しかしこと細かに描いてくれちゃうのである。コミカルさは秀逸だし、決して退屈するわけじゃないんだけど、ヴァンサンの旅が気になっているこっちとしては、何だかちょっと、焦る。ヴァンサンがこの状態を見たら、やっぱりちょっと焦るような気持ちになるのかもしれないな、と思う。つまり、ヴァンサンがこの家族と一緒にすごしたり、ご近所づきあいする時間というのは一日のうちでほんのわずかで、ヴァンサンが仕事に汗を流している間、家族たちは恐らくヴァンサンのことなど頭の片隅にもない状態で、それぞれの日常を過ごしているに違いないということなのだ。

“彼がいない間、家族にはそれぞれの生活があって、そこに彼はほとんど関わっていない”と指摘する監督の狙いはドンピシャリで、まさしくこれぞ悲しき父親の普遍的な姿である。それほど面白そうだとも思えない工場での溶接の仕事をしているヴァンサンの方はきっと、家族のためなんだからと言い聞かせながら働いているんだろうとか思うと、やっぱり悲哀を感じてしまう。彼が、いや彼のみならず、彼と同じように固まって出勤する男たちが、ひっきりなしにタバコを吸い……それこそバスから降りるといっせいにタバコに火をつけ……そこから吸えなくなるところまでは1分とかからないというのに……というあたりの、ああ、いかにもストレス親父たちばっかりだなーとか思うとホント、可哀想。タバコは単なる嗜好品ではあるけれど、ここでの彼らの吸い方は、ストレス以外には考えられないんだもの。

と、いうわけでヴァンサンはベニスに向かうのである。水の都。ホント、水の都である。家々は水の中に建ち並んでいて、目的地に行くのにはゴンドラかヨット。しかしまあ、ツバだのタバコの吸殻だの、絵筆を洗ったりもされるその水はお世辞にもきれいとは言いがたいけど……。でもヴァンサンの目にはそののんびりとした情景が平和に映ったに違いない。笑顔こそ見せないものの、彼はのんびりと歩く。サイフをすられたのも気づかずに。しかもこれ、実に次の日の朝まで気づかない……いやそれどころか何日か経っているかも?しかもしかも同じスリに狙われ「今日はないよ。一文なしだ」とポケットをひっくり返して見せるのだから、そののんびりぶりには笑ってしまう。大道芸を見、写生をし、のーんびりと過ごす。列車で出会った気のいい現地の男と再会し、仲良くなり、彼の家に寄せてもらう。大いに飲み、歌を歌い、盛り上がる。すっかり酔っ払ったところを奥さんと娘さんたちに実に冷静に、有無を言わさずベッドに放り出される。二日酔いの翌朝は迎え酒で乾杯。た、楽しそう……。そしてベッドからにょっきり足を出して寝ている娘さんたち(いいカット)を起こさないように仕事に出かける。

しかし、ヴァンサンが仕事に行く彼を見送りがてら一緒についていくと、つかの間を惜しんでタバコを吸い、仕事場へと出かけていく彼の後姿は、いつもの自分にソックリなのだ。そして彼を通じて知り合った別の男がブラブラ歩いているヴァンサンを拾うのだけれど、連れて行った貨客船で手伝わされるのは、彼がいつもやっている溶接の仕事。こんなに美しくてのんびりとしていて、仕事の悩みなんて存在してなさそうに見えるここベニスでも、やっぱり男たちの悲哀は同じなのだ。でも、違うのはそれを含めた人生を楽しんでいるということ。酒の飲み方一つにしてもフランスでは失われている文化が残されている、とヴァンサンは感心する。フランスでは今や酒は料理の一部にしかなっていない、と、仲間たちと楽しく語らい、歌う彼らをうらやましそうに眺める。でも、仲良くなっても、彼らには仕事があり、旅人のヴァンサンとはここにいる意味が違う。ヴァンサンの居場所はここではないのだ。

旅の間、得意の絵を描いて、家に絵葉書を送っていたヴァンサン。妻はそれを見もせずに破って捨てるけれども、子供たちやおばあちゃんなんかは、上手く描けているのにもったいない、と、ヴァンサンのこの行動を痛快に思っているようである。実際、ヴァンサンがハデな服を着て(それまでは正直、ドブネズミ色だったもんなあ)帰ってくると、それまでは冷たかった子供たちが、まあそんなにくるりと態度が変わるわけではないんだけど、でも明らかに今までとは違う、冒険を経験してきた父親に心を開いて接しているのが判るのだ。

ぶーたれていたように見えていた奥さんも、意外にも文句ひとつ言わず(ま、黙っているところが怖いんだけど)次の日の朝には、ただでさえ汚かった車がほっとかれてすっかり土ぼこりだらけになっていたのを、キレイに洗ってくれているのだ。今までは見送りに出ることさえなかったというのに、ヴァンサンときちんとスキンシップをして彼を見送る。いつもサンダル履きを脱いで車に乗り、そのサンダルは置き去りなんだけど、それをどうするのかなーと今まで気になってた。だって、そう、奥さんは見送りなんて全然しなかったんだもの。今までは本当にそのまま置き去りだったのかもしれない。でもきっとこれからは奥さんがちゃんとしまっといてくれるよね。置き去りにされているサンダルって……いてもいなくても誰も気にしてない今までのヴァンサンを思わせて寂しかったけど、お互い存在している意味を確認できた今は、きっと違うんだろうから。そして彼を見送った奥さんは、お隣のお色気ムンムンの奥様がダンナとケンカをするにしてもいちゃいちゃするにしてもとにかくベッタリなのに対抗するかのように、むん、と彼女に向かって胸を突き出して仁王立ちするのが可笑しいんだなー。

日々の、ささやかで穏やかな生活の描写の中での、どこかアイロニックにも映る数々の控えめなギャグ描写が一番の魅力である。人間たちの、完全には善人ではないけれど、でも憎めないささやかさがとても好きだ。
無骨な男が代筆を頼んで恋人に当てた手紙をこっそり開封する郵便夫は、仕事場にそのための蒸気とアイロン(また封するためのね)を備えている。
階上の窓から双眼鏡で覗きをし、ワインを瓶ごと口飲みする司祭は口も悪い。
子供が友達に貸した自転車をなんとショベルカーで取り返す父親。
道端の大きくて重い石を進路のジャマだと、どかす男……道は広いんだからただよければ済むことなのに、このシュールさ。
歯磨きがキライな子供は、歯ブラシをぬらしてごまかす。大胆にも歯をむき出して見せもしてまんまと成功。
突然意味もなく出てくる大ワニ。のたのた歩く姿からもう可笑しいけど、それをへーぜんと抱きかかえる女の子も可笑しい。
ヴァンサンがバーで介抱されたオバサンは、なんと古い友人。ブラジャーまで装着した年季の入った女装男で、太ったネズミをペットにしてる。可愛いだろって、うう、そのしっぽが許せないけど確かに可愛い……かも。いやでも……で、この人、なんとまあ、美術監督なんだって!確かに自分をも美術にしているわなー(笑)

その中でなんつっても最高なのは、監督自ら演じる侯爵。ベニスに住んでいる、ヴァンサンの父親の古い友人であるというこの侯爵を訪ねてみると、来客が来たと判ったとたん、執事とともに忙しく部屋に肖像画だのなんだの置きまくり(しかしこの肖像画は街で絵師が描いてる超カンタンなヤツ)しかもスピーカーを窓の外に設置するから何だ何だと思っていたら、なんとまあ、テープレコーダーでピアノの演奏と拍手を演出!弾いてもいないのに、ヴァンサンが部屋に入ってきた瞬間だけラストをジャーン!と押さえて、拍手の音に、いもしない聴衆に向かって、窓の外に挨拶に出るという……な、何かここまでくると哀れを超えて、お見事!って感じだわ。でね、ケチなの。酒飲みのヴァンサンはウィスキーを所望するんだけど、ちらっと、ほんのちょっとしか注がなくて。で、話すこともないので(!)ヴァンサンが辞すると、侯爵の奥さん、あんた酒を飲んだでしょう!とすっごい言い争いが始まる。あ、そうか……ケチなのは奥さんの方だったのね。もうすっごいケンカで、外にいるヴァンサンとその仲間たちにまで聞こえて、上品な生活をしているはずの侯爵なのに、化けの皮がはがれるのもあっという間。ホント、哀れやら可笑しいやら。

なんつうか、長ったらしいのよね。あ、いやホメてるのよ。だって思いっきりマイペースなんだもん。気分のいい、長ったらしさ。説明ナシ!って感じが。極めて穏やかで平凡そうで、何一つ変わらないように見えながらも、その変わらない中に面白いこと、楽しいこと、幸せなことがこんなにもある、そういうことなんだよなあ。★★★☆☆


ケミカル51FORMULA51
2002年 92分 アメリカ=イギリス=カナダ カラー
監督:ロニー・ユー 脚本:ステル・パブロー/サイモン・デイビス・バリー/マーク・アルドリッジ
撮影:プーン・ハン=サン 音楽:
出演:サミュエル・L・ジャクソン/ロバート・カーライル/エミリー・モーティマー/リス・エヴァンス/リッキー・トムリンソン/ショーン・パートウィー/ミート・ローフ

2003/1/23/木 試写会
こういうハリウッド映画が、一番観たくないのよ。最近ことにハリウッド映画をついつい避けちゃうんだけど、まさしく、こういうのが一番ダメで。友人に試写会の券を頂いて行ったものなので、こういうことを言うのはホント、気が引けるのだけど……。ロバート・カーライルが出ているから、と思ったんだけど、それも凄くガッカリ。彼だけは、こういうのには出ないと思ってたのに。あ、でもそうでもないか……「ザ・ビーチ」とか「007」とかハリウッドのメジャーものにも結構呼ばれてるんだ、彼(でも、「ザ・ビーチ」は監督と盟友関係にあったわけだしさ)。でもハリウッドでメインを張るのは(ま、2番手ではあるけど)初めてじゃなかったっけ?

彼が出演していることにも引っ掛けているんだろうけど「パルプフィクション」「トレインスポッティング」(←こっちね)を超えた!だなんて惹句、何寝言いってんの!って感じよ。ま、そりゃ、私は特に「パルプ……」や「トレスポ」のファンって訳じゃないけど、この品のなさで何言ってんの!って叫びたくなるんだもん、ホント。そ、ひと言で言えば、下品。品性がない。物語の主役となるクスリまでもが真っ青な着色マーブルチョコ状態(マーブルチョコだって、もうちょっと品性があるわ)で、もうそれだけで、ぶ、無粋−と叫んでしまいたくなるほど。だいたい、ドラッグものは、嫌い。世界は麻薬撲滅の方向に行っているんじゃなかったの?そりゃね、このなんたら51というクスリは、世界のどこでも引っかからない、合法な素材しか使っていない、つまりは合法ドラッグということなんだけど、合法ならこんなにガンガン作ってガンガン流通させちゃって、ガンガントリップさせちゃっても、いいわけ?なんかさー、ドラッグカルチャーなんてことを、大手を振って言いたい姿勢がアリアリなんだよね。それこそ劇中で主人公が麻薬所持で捕まった若い時、警官がもう60年代は終わったよ、と言う様に、もういいかげんそんなアホなこと言うの、よしたら?

主演のサミュエル・L・ジャクソンは、プロデューサーみたいなトコにも名前を連ねているんだけどさあ、そんなにまでしてこの映画を作りたかったの?合法ドラッグを広めるような映画を?それともこれが国際交流とでも思ってんのかなあ……つまりはイギリスからロバート・カーライルを呼んで、監督は香港のロニー・ユーで。でもイギリスとアメリカの異文化コミュニケーションも、アメリカのジャンクフード、フィッシュ&チップスを路上にほっぽり投げちゃうわ(こーゆーところとかが、品性がないのよ。道路を汚すな)、イギリスの豚の血の入ったソーセージにうえっという顔をしたり、サッカーに燃えるイギリス人たちを冷めた目で見たりと、何かお互いを尊重しているんだかなんだかよく判らない。この監督、ねー……「夜半歌聲 逢いたくて逢えなくて」の監督さんね。レスリー・チャンをちょうちんパンツの王子様にしちゃったあの映画も品性、なかったよ、そういえば……。こういう人が、“才能がある”っつって、ハリウッドに呼ばれるの?判らんなー。でもハリウッド型娯楽を指揮する才能はあるのかもしれないけど。

だって、もう見飽きたよ、っていうビルの爆破にカーアクション、なんだもんな。もうさ、こういうのも、出しても何にもならないじゃない。こういうのはいまだに男の子は好きなわけ?こういう場面を連ねた予告編とか(これに関しては、見てないけど)が全部おんなじ映画に見えちゃうのは、私が女だからなの?100発100中の非情な女殺し屋とか確かに魅力的だけど、百万べん見たって気がする。そういう強い女にヨワくて何度も騙されちゃって、彼女のレベルまで上がれずにせいぜいチンピラどまりで、ギャラはカネじゃなくてサッカーのチケットでいいっていう男にロバート・カーライルはハマっているけど、いかんせん、役自体に深みはない。というか、彼が普段、もちょっとマシな映画で演じている役はいつもとっても深く深く深いので、こんな浅い彼は見たくないです、正直。

主演のサミュエル・L・ジャクソンはナントカとナントカの51倍の威力を持ってて、もう天国にトリップしちゃうような合法ドラッグを作り出した、凄腕の薬剤師。“凄腕の薬剤師”ってのもミョーで、そういうところは結構好きなんだけど、あー、でもこれも、私の中の薬剤師のクールでオタクっぽいステキさを見事にブチ壊してくれちゃって!全編、なぜかスカートはきっぱなしのサミュエル、民族衣装(って……あのバグパイプとかの時に着るやつ?ただのスカートにしか見えんが)なんだか知らないけど、ま、一応ラストにそのナゾが解明?されることになるんだけど……え?つまりは彼はあの古城の後継ぎだったってことなの?……でもさ、そのことがこの物語とどう関係してるわけ?……判らんなー。大体、オフィシャルサイト見ると、何かやたらとキャラクターの裏設定が細かいんだけど、そんなの観ててもぜえんぜん判んないし、生かされてないし、こんなところでそんなもん公開したって仕方ないじゃん。

天才調合師、マケルロイ(サミュエル・L・ジャクソン)が作ったこのカネの鳴る木である合法ドラッグをめぐって、闇社会で猛烈な争奪戦が繰り広げられる。ロバート・カーライル扮するフィーリクスはその取引をする下っ端中の下っ端で、しかし彼自身はカネよりサッカーに興味があるから、どうも集中力がなくっていろいろとヘマしまくり、そうこうしているうちに彼の昔の彼女で殺し屋であるダコタを雇った組織も絡んできて、そのゴタゴタのなかでフィーリクスとダコタはよりを戻すんだけど、それもまた一瞬で……。大爆破とカーアクションと皆殺しの銃撃戦とドラッグでトリップして踊りまくる人々、というベタベタなハリウッド描写をくぐりぬけ、到達したとこっていうのは、体の中から吹っ飛ばされて部屋中ぐちょぐちょというサイテーなクライマックス。……ま、ね、それこそ監督さんの本場の香港映画でこれをやったら、もっとドライな感じで気にならなかったのかもしれないんだけど。ここでもそれは狙っているんだろうけどさ……飛び散る肉片(うげげ)をよけるために傘を差したりして……でも、笑えないんだよう。他にもいろいろ小ネタは用意されてるのよ。痔主の親分さんのために彼が座るタイミングを計ってドーナツクッションを置く男の描写とか。でもさ、何かヤボなのだ。笑えないのはそういうこと。こーゆーのが品性がないってことなのよ。判るう?

なにげにリス・エバンスは好き。銃や麻薬の売買をひそかにやっているナイトクラブの経営者。テンションが高くて、そんな自分を律するためにヨガをやるんだけど(そういう理由だったのか、気づかなかったわ。彼のテンションが高すぎて)自分の思うとおりにできないからそれもまったくダメ。彼はね、出世作「ノッティングヒルの恋人」とかの他の作品でもそうなんだけど(あー「ヒューマンネイチュア」観てないんだ、失敗した……)、ライトに開き直った演技で、そうは一見、見えないんだけど結構このあたりはプロ根性じゃないかなと思う。この開き直った感じのある一定に保った演技が、ホッとさせてくれるのだ。ロバート・カーライルなんかはヘタに上手いだけに、こういう中で彼を見るのはツラいというか、何か可哀想な気がする。貧弱な身体に、サポーターならではの赤いユニホーム着て、それがさらに貧弱さを助長するという……しかも隣にいるのがバカでかいサミュエルだからさ、余計に。

あ、だからこの、国籍も身体もデコボコな彼らだから醸し出せる可笑しさ、というのがあったはずで、このキャスティングもそれを狙ったに違いないんだけど、ここに至ってようやくそれに気づくほどに、まるでそのノリがない、というのはホント困ったもんだよね。結局そういうギャップの可笑しさが、ギャンギャンうるさいクラッシュだトリップだっていう描写にすっかり殺されちゃってるのよ。……まったく、彼を呼んだ意味ないじゃん。

ただ一つ。アメリカをクソ呼ばわりし、恋人(ダコタ)が突然アメリカに行ってすごおく恋しくても、どうしてもどうしてもアメリカだけには行けないフィーリクスには深く共感したわ。このへんはカーライルさんも真実味を持って演じてたんじゃない?(笑)。★☆☆☆☆


ゲロッパ!
2003年 112分 日本 カラー
監督:井筒和幸 脚本:井筒和幸 羽原大介
撮影:音楽:高宮永徹
出演:西田敏行 常盤貴子 山本太郎 岸部一徳 益岡徹

2003/8/22/金 劇場(有楽町シネ・ラ・セット)
新作を撮らずにいる三年もの間に、何だかやたらとテレビに出まくりになった井筒監督に、しかもその中で世の映画をバッサ、バッサと否定的に斬りまくっている姿を、正直ハラハラしながら眺めていた。大丈夫なんだろうかと。と思ったのは、この前作の「ビッグ・ショー! ハワイに唄えば」が……ええ?と思うような作品で、それを境にそんな状況になったもんだから、ちょっと待って、違うんじゃないのと感じずにはいられなかったのだ。そして本作はまさしく、オールスター映画。そして大娯楽映画。やっぱり井筒監督自体が、そういう意味でのメジャーなエンタメの中で活躍する人物になってしまったせいなのかなあ、などと……。それまでは映画出演に慎重だった藤山直美が決心を持って「顔」に出演したというのに、ここではなんだかアッサリと出ていたりするのに対してうーーーん……などと思ってしまうのはそりゃくだらないこだわりに過ぎないことぐらい、判っているんだけど。

でも、常盤貴子の一瞬だけの恋人役にトータス松本を持ってきたり、「岸和田少年愚連隊」での盟友であるとはいえ、あんなチョイ役にナイナイの岡本君を持ってきたりするあたりまで、コテコテにベタベタなオールスター映画であることが、逆に何か、つまんないなあ、などと思ってしまったりする、のは、それこそ「岸和田少年愚連隊」で、ナイナイが主演だったとはいえ、ドライな毒味、クールな切なさ、といったものが凄くて、熱狂したことが忘れられないからなのだ。もちろん、井筒監督は数多くの映画を撮ってきていて、そんな風にひとつのカテゴリに納めるのこそくだらないことではあるんだけれども、あの魅力は他のどの映画でも見られないものだったから。例えそのあと、「のど自慢」のストレートなエンタメに素直にやられたとしても、やっぱりどうしても、あのひとつの到達点が忘れられないのだ。

でも、「のど自慢」から「ビッグ・ショー! ハワイに唄えば」ときて、本作の流れは、当然過ぎるほどに当然なものだ、というのは並べてみれば判りすぎるほどに判る。歌、大衆、そしてモノマネ文化というものが、本作に向かって少しずつ、少しずつ濃いものになっている。モノマネ文化、という点で100パーセントの作品に到達した本作で、つまりは“モノマネの本物”を目指した本作で、オールスター映画になるのは、当然の成りゆき、なのだろうとは思う。ミスター・エンタテインメントと呼びたい西田敏行のパフォーマンスは素晴らしいし、日本のモノマネ文化を揶揄せずにまっすぐに肯定し、泣き笑いの娯楽映画に仕立てた手腕は手慣れていて、さすがと思う。

でも、その手慣れている、というのが、やっぱりつまんないなあ、と思ってしまうのは、アマノジャクだということぐらい判ってはいるんだけど……。ただ少なくとも「のど自慢」の時までには確かにあった、映画の奇跡、予期せぬ何かがここでは何ひとつ見られないのは、何だかちょっと、やっぱり残念なような気がしてしまう。クライマックスは突然ステージに出ることになってしまった親分、西田敏行によるパフォーマンスで、前述のように確かに素晴らしいんだけれど、「のど自慢」の室井滋や伊藤歩、あるいは審査員役の坂本冬美が見せてくれたような、映画の幸福な奇跡がここでは見られない。それはそれだけ西田敏行がプロだということで、まさしくミスター・パーフェクトであり、彼に関しては他の映画でもそうだからこそプロの役者であるということなのだけれど……。でもそういうパーフェクトな映画(演技において、ということ)はそういうタイプの映画は役割として存在していて、井筒監督はそうじゃないから素晴らしいと思っていたから、彼もまたそういう意味で巨匠に近付いているのかなあ、などと勝手にガッカリしたりもしてしまった。

西田敏行の娘役である常盤貴子も、そういう“幸福な奇跡”を期待できない女優である。こと映画作品に関しては、今までのものがメタクソだったので、本作はそれに比べればいいとは思うけれど、やっぱり揺れが全くなくって、きっちりと範囲内で収まった演技をしている。それは多分、彼女の気真面目な性格ゆえで、いいところなんだろうけれども……ともかく、本作においては、それは確かに求められている方法で、好感が持てるのは事実。彼女、とりあえず感じはいいし、父親との和解の抱擁シーンではなかなか気持ちもこもっていて、思わず知らずこっちも涙が……ちょっとチクショーと思ったけどね(笑)。それに、こういう陽気な映画だから、彼女でオーケーなんだよな。ラストクレジットで弾けるアフロも可愛いし。ちょっと残念なのは、彼女が関西弁を喋らないこと。だって彼女、小さい頃関西に住んでたっていうし、喋れるんでしょ?サバサバした雰囲気が関西弁に似合っていると思うから、聞きたかったのになあ。

物語は、数日後に服役を控えた親分のために、子分達が来日中のジェームス・ブラウンを誘拐しようとくわだてるという、かなり奇想天外な話。もちろん、ホンモノが引っかかるわけもなく、ひっかかってくるのは蒲郡なんていう聞いたこともないイナカでモノマネショーを控えていたJBのソックリさん。で、このプロモーターをしていたのが、この親分さんの実の娘で、というあたりは素敵な映画的ご都合主義。親分さんは、何たって親分さんなわけだから、まあ色々あって娘と生き別れ、25年もの長き間、娘と、そして愛する妻とも会えずに過ごしてきてしまった。それは本当によんどころない事情だったわけだけれど、娘は当然そんな父親を恨んでいるし、父親もそれを重々承知している。しかし父親は娘と再会できるチャンスをつかんだ。しかし5日後には服役の身……JB誘拐の陰謀やらソックリさんやら、果てはなぜか内閣調査室やらが絡んで、何だかもう、しっちゃかめっちゃかなロードムービーに。

娘、かおりはソックリさんショーのプロモーターなわけで、真打の西田敏行が登場するまでにも、美空ひばりやら森進一やらのソックリさんのステージがぞろぞろ出てくる。うーむ、正直、どれもこれもかなりのお粗末。もちろん、真打を控えているからこそなんだけれど、いわばモノマネ文化の大肯定である趣旨に、どれだけこれは応えているんだろうか??などとも思う。西田敏行よりも物語を引っ掻き回しているともいえる、JBのソックリさんが結構イケてたからいいのかなあ……藤山直美も嬉しそうに「イケてる、笑えるやん」と言っていたし。でも、やっぱり、笑える、ってあたりなのが微妙。しっかしこの嬉しそうな藤山直美は可愛いんだよね。それこそ「顔」の時は、もう全身全霊込めている、って感じの気迫の熱演だったのが、ここではホント、力を抜いて楽しんでいるのが伝わってくる。舞台人だから、さっすがダンスもビシッと決めちゃってカッコイイの何の。ホント、この人はチャーミングで大好き。

で、さっき、パーフェクトと言っちゃったりもしたけれど、真打の西田敏行のパフォーマンスは本当は正直……少し重い気もする。先入観もあるとは思うけど、何だかやっぱり病気の顔してるし。ただ彼はさすが顔芸がね、このパフォーマンスシーンじゃなくって、笑わせの場面、特に娘と勘違いして留守番の佐藤さんに抱きつくシーンの、顔がなだれ起こしている可笑しさはさすが。佐藤さん役の根岸季衣の目を白黒させてる表情が、また絶妙すぎの可笑しすぎだから余計にツボなのよね。でもね……とか言いつつ、本当にワッと正直に笑えたのはここぐらいかなあとも思う。

監督も言っていたけれど、コメディ、笑わせるのって本当に難しい。かなり計算された脚本だし、役者たちも皆達者なんだけど、それこそ計算されすぎている感じがして、フッと落ちて笑える感じが薄い。監督は、かなりの会話を切ったというんだけど、こっちとしてはもっと聞かせてほしかった。皆関西弁のノリでワーッとくるものの、もうちょっと、というところで切られている感じがして、何だか中途半端。音楽の映画、いや、音楽のリズムの映画であり、関西弁はまさしくそのリズムそのものなんだから、もっともっと押せ押せで聞かせてくれてもいいのに。それこそ無駄な部分まで、徹底的に。物語、あるいは物語をスムースに進ませることを優先させて、その面白さが立ち消えになっているような気が、どうしてもしてしまう。

常盤貴子の娘役、つまり西田敏行の孫役にあたる女の子は、ミョーに上手いあたりが憎たらしい。しかも王道に可愛いところも憎たらしい。やだなあ、私ってば、かわいこちゃんは好きなはずなのに、何でこんな風に思うんだろ……でもこの子もまた妙に完璧で、フッと落ちる感じがまるでない、からなんだろうなあ、つまらなく感じるのは。それに上手いのは、あるいは上手く見えるのは、一緒にいる西田敏行の醸し出す間があるせいだとも思う。常盤貴子といる時よりも、西田敏行といる時の方がこの子、面白いんだもの。やっぱりそういうのって、出るよなあ。

監獄に入る、というのはJB自身の経験を彷彿とさせるわけだけど、でも親分さん、助け出されちゃう。内閣調査室が動いていたのは、総理大臣のスキャンダルを映したフィルムが介在していたためで、これを上手く利用した親分さんの親友(岸部一徳)によって見事、無罪放免となるわけ!お、おおー……何か嬉しいようで、嬉しくない??ま、そりゃここまでの展開を見れば、こういうハッピーエンドは大アリではあるんだけど。ひえー、ホントに暗い影が全然ないのね。ウェットなシーンも基本はハッピーにあるんだもん。あー、何でこういうのを素直に喜べないのかしらん。何かいつもの私らしくないなあー。★★★☆☆


KEN PARKKEN PARK
2002年 96分 アメリカ=オランダ=フランス カラー
監督:ラリー・クラーク/エド・ラックマン 脚本:ハーモニー・コリン
撮影:ラリー・クラーク/エド・ラックマン 音楽:ハワード・パール(監修)/マット・クラーク(コンサルタント)
出演:ジェームズ・ランソン/ティファニー・ライモス/スティーヴン・ジャッソ/ジェームズ・ブーラード/マイク・アパレティーグ/アダム・チューバック/ウェイド・アンドリュー・ウィリアムズ/アマンダ・プラマー/メーヴ・クインラン

2003/10/27/月 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
なぜ、ケン・パークなのだろうと、ずっと考えていた。この物語のタイトルが。白人特有のしみだらけの顔がとっても気になる、冒頭で自殺した男の子。本当に、いきなり。いつものように(というのは推測だけれど、そんな感じで)スケートパークにやってきて、慣れた手つきでビデオカメラをセットし、おもむろに拳銃を取り出したかと思ったら、少し笑ってもいるような顔で、まるで流れるような動作の中でこめかみに拳銃をつきつけ、引き金をひく。まるで、いきなりの出来事。導入部の、ほんの数分である。
「からかっていたから、気が引ける」とナレーションが入るものの、その後、彼が物語に登場するどころか、話に出てくることすらほとんどなく、物語はそれ以外の少年少女の、そしてその親たちの展開なのだ。そのなんともいえない後味の悪いエピソードの数々に、考え込みながら見入っていると、最後にもう一度、ケン・パークが出てくる。死ぬ前の彼である。軽食屋でバイトを始める彼、彼女から妊娠を告げられる彼。そのことに戸惑っているのかどうかさえ判らない表情で、そしてあの冒頭に戻るのかと考えたら……なぜケン・パークなのか、判ったような気がした。

正直、この映画が何を訴えようとしているのか、それが見えなくて少し戸惑っていたのだ。子供たちは、子供たちである。あくまでも。彼らは子供ゆえの浅はかさはあるにしても、やはりそれは子供だからという理由が見つけられる部分がある。決してホメられた子はいないにしても、ホメられるどころか完全に犯罪者になってしまう子もいるにしても、でも、彼らの中にこれからの可能性や光は何とか見つけることが出来る。何とか。そしてこの少年少女たちの生活に比べれば、ほんのちょっと描かれるだけにしてもケン・パークのそれはもっとずっと健全である。もっとずっと、いわゆる“普通”なのだ。しかし、ケン・パークの普通さ、というのは自殺を選ぶことだったのか。
ケン・パークは親になることを拒否したのではないかと、思ったのだ。彼の親は出てこないし、どういう家庭環境で育ったのかは判らない。でも、彼のエピソードで冒頭とラストを締めくくられると、ふとそんなひとつの答えが見えてくるような気がしたのだ。それは、この現代社会で選ばざるを得ない“普通の”価値観だったのかもしれないと。

ラリー・クラークだから、いつものように少年少女たちの話かと思ってみたら、それだけではなかった。いや、それだけではないというよりは、これは親の話。大人の話。大人気ない、大人の話なのだ。脚本はハーモニー・コリン。「キッズ」以来のラリー・クラークの盟友で、若き天才。「キッズ」以前に存在していたというこの企画が形になるのに数年がかかった。今回はラリー・クラークの単独ではなくて、エド・ラックマンとの共同監督という形。この二人で途中かなりの衝突をしながらも、この映画の実現にこぎつけたのだという。
現代の子供たちを生々しく描くのなら、それこそラリー・クラークは独壇場だ。それは「キッズ」「ブリー」で、そしてその前身となる彼の写真作品でその証明は充分。その子供たちに影響を及ぼしている存在として親や大人の問題に行き着いたのは、当然といえば当然だったのかもしれない。
むしろ、純粋に子供だけが存在していたら、この世の中は天使に満ち溢れていたのかもしれない。
そんなことを思う。

そう、ハーモニー・コリンが、彼にしてはまともなことを言うなあ、と思う箇所があったのだ。まともというか、普遍的なことを言うなあと。それは父親を亡くしたある少年の言葉。この物語で描かれる四人の少年少女たちには含まれない、いわゆるワキであるそのニキビ面の少年はこう言うのだ。「どんな親でもいないよりは、いた方がマシ」だと。ありがちな感動映画によく使われそうなセリフ。ハーモニー・コリンがこんな言葉を書くなんて、もの凄く意外だった。
しかしこれはきっちりと伏線だったのだ。実にシニカルで逆説的な伏線。つまり、こんな親ならいらないだろと。
だからケン・パークは、“こんな親”になることを拒否したのかも、そういうことなのかも、と思ったのだ。

スケートボードのメッカとして有名なヴァイセリアという街。スケートボードに熱中している少年たちにとって、ただのローカルタウンであるということ以上に、閉ざされた街だ。仲間たちがいるというのも、その閉塞感を更に際立たせる。彼らはどんなに親がヒドいヤツでも、閉塞感に息が詰まっても、仲間がいるからこの街を出ていこうなどとは思わないのだ。出るにしても家だけで、仲間のもとへと行くのがせいぜい。
ショーン、テート、クロード。以上が少年三人。そして紅一点の少女ピーチズ。お互い幼なじみ同士の三人がそれぞれの家庭環境を含めて描かれてゆく。一人一人、別の誰かが友達を紹介するノリのナレーションがその最初に短く付け加えられるのだけれど、しかしその紹介のスウィートさとはまるで彼らはそぐわないのだ。

まず描かれるのはショーンである。色白で、見るからになまっちろい身体をした彼。彼が紹介されるナレーションは、しっかり者だということ。しかしいきなり示されるのは、彼が小さな弟を押さえつけて、自分を褒め称える言葉をムリヤリ言わせている場面なのだ。
そして彼は出かけてゆく。ある家に入ってゆく。そこには小さな女の子がいて、ハイレグのおねーさんが出てくるテレビを無邪気に眺めながら、お人形遊びをしている。「パパは仕事。ママは上にいる」と言う。ショーンは階段を上がってゆく。洗濯物をたたんでいるこの家の主婦がいる。「しようよ」と言うショーン。丁寧に、とでも言いたぐらいにその展開をカメラがじっと見つめるセックスが繰り広げられる。
ショーンはこの家の長女と同級生で、恋人同士。つまり母と娘を同時に相手している。彼にとって、どちらをより愛しているのか判らない。母親の方に「二人は(セックスで)求めることもソックリ。でも感度は君の方が上だ」などと言い、彼女の夫に嫉妬するそぶりも見せるのだが……。
ショーンの家はいわゆる放任主義だ。その意味では後で描かれるほかの子達の親よりはマトモかもしれないと思いつつも、彼の愛の方向、いやこれが愛でさえないということが判らないまま育っているということに、やはり戸惑いを覚える。

物語もずっと後になって、ひとりは殺人でつかまって、残された少年二人と少女一人が3Pにふけっている場面が出てくる。ふけっている、というのはちょっと正しい表現じゃないかもしれない。彼らは幼なじみで仲が良く、その3Pは確かにセックスに違いないんだけれど、前戯というよりジャレあいから始まるそれは、何だかやたら楽しそうなのだ。
彼らにとって、まだセックスは愛の行為ではないのだ。まだ、というよりは、もともと、本来違うものとしてとらえているとしか思えない。完全に友達同士の遊びのひとつとしてのセックス。
そのうちの一人、クロードがセックスだけが存在するユートピアの話をする。
この三人のうち、彼にだけはステディな相手がいない。それだけに、彼にとってのセックスは愛などというものが絡むよりも、言ってみればもっと純粋なものなのかもしれない、と思う。
あんな目にあえば、そうも思いたくなるかもしれない。

クロードは、この中でも最もスケボーに熱中している男の子である。マジメに練習したりなんかもする。ズボンずり下げてパンツ見せているのはいかにも今風だけれど、そんなに悪い子にも思えない。
しかし、彼の父親にとっては、このクロードは許しがたい存在らしいのだ。
いつも筋肉を鍛えていて、自らの肉体美を自慢する父親。それを息子にも強要しようとする。女とちゃんとヤレない息子を、あからさまに軽蔑した顔で情けない呼ばわりする。スケボーをただのオモチャだと言って、踏み割ってしまう。そして、アル中である。
彼の言うことは、どこか父親らしさを感じられなくもないというか、そのあたりがヤバいのだけれど、つまり、家父長としての威厳に憧れているようなフシがあって、だから威厳と理不尽を踏み違えてしまっているのだ。

筋肉好きだと言うことと、母親似のクロードをその点だけにやたら執着した物言いをするのでよもやと思っていたら、案の定である。夜の街に女漁りに行ったはずが、ただ酒飲みドライブをしただけで戻ってきて、ハダカで寝ている息子に欲情し、息子のムスコをしゃぶりだすのである。
少なくとも、彼は奥さんを愛している。只今臨月と思しき奥さん。常にベタベタ、ラブラブであった。しかし、この奥さんは息子のクロードを、これは純粋に息子としてだけれど、溺愛している。やんわりとした物言いではあるものの、ダンナより息子を尊重している感じがある。でも、それは母親が息子に対してならよくあることだ。むしろ、子供に対しての親にさえなれていないのが、この父親。あまりにも、大人気ない孤独感。
でも、大人気ないだけに、身につまされる思いもするのは事実。当然ながら愛撫を強烈に拒絶されて突き飛ばされた哀れな父親は、その孤独感をよれよれになりながら吐露するのだ。
しかし、子供はそのはけ口になるしかないのか。
親の支配欲。それを満たすための存在でしかないのか。
親は乗り越える壁、環境に過ぎない、のか?
そうは思いたくないけど、そう思わざるを得ないような事件もまた、多すぎる。 子が親をないがしろにすることはよく言われるけれど、親が子をないがしろにすることは、親(大人)によって隠蔽されているのだろうか……。

親の支配欲をまた違った形で感じさせるのが、紅一点のピーチズの家である。
ここは、どこが問題あるのか?といった風情が最初は、ある。妻に先立たれた夫は、一人娘のピーチズを男手ひとつで大事に育ててきた。そしてとても敬虔な彼。
だんだん妻に似てくる娘を可愛がり、彼女が連れてくるボーイフレンドにも理解を示し、まあ、皮肉のひとつも言うのはご愛嬌で、この彼にも家族のアルバムを見せたりして、いかにもマイホーム・パパなのである。
しかし、このピーチズは見かけによらず奔放な女の子で、父親がその亡くなった母親の墓参りをしている間に、このボーイフレンドと自室でセックスにふける。それも、この男の子の両手をベッドにしばりつけてのセックスがお気に入りなのだ。
父親が帰って来たのにも気づかないぐらい熱中していた彼らは、その場面を目撃し、激怒した父親に殴り飛ばされる。

そこまではいい。仕方ない話だ。しかしここからがいけない。
ボーイフレンドを帰らせ、下着姿で泣きじゃくる娘に向かって、聖書では淫婦がどういう目にあったと書かれているか、と暴力的な調子でこんこんと諭すのだ。
ここまではそれでも仕方ないと言えるかもしれない。その言い方にかなりの高圧的なものが含まれているとしても。
しかしその後、この父親は娘に「母さんは処女の花嫁だった」と言い、その亡くなった母親のウエディングドレスを娘に着させ、自分も白い花婿姿になり、結婚の儀式を執り行い、ピタリと身体をくっつけて、ダンスするのだ。
うわ、ヤバい、と思う。この父親の方がクロードの父親よりもっとヤバいかもしれない、と。
支配欲より、ここでは所有欲なのだ。そしてこの父親はそれが親と子の関係としてなんら問題を感じていないのだ。
描かれはしないものの、この儀式のあとで何が行われたのかと想像すると、身震いがする。
確かにピーチズは浅はかだったけれど、それは若者が一度は通り過ぎる道なのだ。親には対処の方法が他にあったはずなのだ。親なのだから。
この父親は、それでもこれが親としての行為だと思っているのだろうか。自分の思い通りにいかなかった苛立ちだということに、気づいていないのだろうか。

大人気ないとか、親として大人として未熟だというのは、必ずしもこの子供たちの親の世代だけではない。
それが描かれるのが、殺人者となってしまったテートの家庭である。
テートに両親の影はない。祖父母と一緒に暮らしているようである。
頭はいいけれど、精神的に成長していない感じのテート。吠える犬にキレ(三本足の犬は、まさかテートが一本折ってしまったのだろうか……)、ノックせずに入ってくる祖母にキレ、ゲームでズルをする(とテートは主張する)祖父にキレる。
確かに、このじいさんばあさんも大人気ないのだ。彼らもまた、孫のテートを自分たちの暇つぶしに使っている趣。孫だから、しつけの責任がない、みたいな部分も見え隠れする。しかしテートはこの祖父母のもとで暮らしているのだから、彼に対しての監督責任はあるはずなのだ。
あるいはこの祖父母から流れる家系に、責任のあるしつけだの人間的指導なんてものはないのかもしれない。そんなところに生まれてしまったことこそが悲劇。他人を尊重することを教えてもらえない環境。

テレビで女子テニス選手の気合声を聞きながら(見ながら)ドアノブにガウンのベルトをひっかけ、自らの首を締めながらマスをかくのが好きなテート。この描写にはいささかギョッとするが、この文化(文化!)「愛のコリーダ」がきっかけになっていると知って、さらにうわー、と思ってしまう。
しかしこの描写は、性的欲望がそれこそ愛なんていう部分にはカスリもせずに、仲間とも共有せず、自分自身の中だけで完結し、しかも死や、あるいは生活の腐った感覚と隣りあわせなのだ。
テートはこの祖父母を殺してしまう。冷蔵庫のケーキを食べたついでみたいに、その切り分けたナイフで、寝ている祖父母をグサリとやる。返り血を浴びた彼は、しかし全裸である。衣服が汚れるのがイヤだったから、ということは、やはり確信犯だったのか。
祖母の最後の言葉は、「愛しているわ、テート。かわいい孫」だった……。

ボカシの嵐は相変わらずのラリー・クラーク作品。いや、これは相変わらずの映倫、と言うべきか。最近はユルくなってきていると感じていたけれど、少年少女のセックスものにはやはり厳しいらしい。ま、ナマのマスターベーションからの射精とか、フェラとかばっちり映っているらしいんだから、ムリもないけれど。
しかしこのあまりの生々しさからか、公開が延期になってしまった本国アメリカより先に、日本での公開。どんな映画でも何でもアリで公開できるのが、日本の素晴らしいところではある。
ボカシはヤボだけど。それだけですむのならいいのかも。

しかしこれは青春映画……なのか?
青春映画というのはどういうことをいうのだろうか。今の時代はこれが青春映画なのか。青春のさわやかさや素晴らしさをエンタメ風に描いた映画を指した時代はもう過ぎ去ってしまった。★★★☆☆


トップに戻る