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「と」


2006年鑑賞作品

東京ゾンビ
2005年 103分 日本 カラー
監督:佐藤佐吉 脚本:佐藤佐吉
撮影:石井勲 音楽:二見裕
出演:浅野忠信 哀川翔 奥田恵梨華 松岡日菜 古田新太 中村靖日 高樹マリア 谷村美月 楳図かずお 花くまゆうさく 森下能幸 橋本さとし 三浦誠己 曽根晴美


2006/1/10/火 劇場(シネセゾン渋谷)
自分にとってのつまんない映画って、ねえ、もう3秒で判っちゃうの、ホントに。だからそっからラストクレジットまでの時間がしんどくてたまんない。今出て行こうか、今出て行こうかと思っちゃう。はああ、それにしても、いわゆる“脱力系”と称される昨今の映画にはパーフェクトに当たらないなあ。だからこれもそうだと知ってたら最初から観に来なかったかもしれない……きっと私と相性が悪いんだな。

傑作だという話の「牛頭」は観てないんでなんなんだけど、「殺し屋1」の脚本家であるという、今回監督デビューのこの監督さん、うーん、うーん、でも「殺し屋1」も私はかなり首をひねった方だったからなあ……。本作ね、登場人物たちの、会話上での言葉がすごい気になったのだ。違和感っていうか、会話っぽいリアルさが時々ふっと失われることがあって……ごめん、あんまり覚えてないんだけど(汗)、文章上ではまあ普通に使っても、会話上ではまず使わないだろうと思われる熟語とかが紛れてきたり、あるいはやたら説明的に喋ってたり、って時に、ああ、きっと字面ではなんとも思わないんだけど、役者の口から発せられると途端にリアルを失って、引いちゃうんだな、って。そういう瞬間が何度もあった。だから直感的なつまんない、をガマンしながら見ていても、ああ、やっぱり、ダメだ、ダメだ……と思わざるを得なかったのだ。

あー、具体的にはどう示せばいいんだろ。あ、こういうのがあった。主人公のフジオが第二部ともいうべき後半戦、セレブたちの前でゾンビとリアルファイトをする。彼の技は地味で、だけど威力満点で、あっという間に終わっちゃうから、タイクツなセレブのオバハンたちは満足できず、「なんなのよ、この結末は!」と言うのね。
「結末」って言葉って、こういう会話の中で、あんまり出ないよね。普通の言葉ではあるけど、会話上で選択する言葉とは思えない。オチ、とか、終わり方、とか、そういう柔らかい言い方をすると思う。そういうのが浮いてるっていうか……そう感じた時に、引いちゃうんだよなー。私の言ってること、判りにくい?でもこういう細かく気になる部分がすんごくたくさんあるんだもん。

話自体はもしかしたら、すっごく社会派なのかもしれない。多分これは近未来で、東京のど真ん中に粗大ゴミだの、時には死体だのが放置される、まさしく無法地帯の、「黒富士」と呼ばれるゴミの山がある。劇中、フジオがイラつく上司を殺したり、人を轢いてしまって一瞬焦るものの逃げ去ったりする場面もあるし、何よりこの黒富士に死体を埋めに来る人々、あるいはそこで生き埋めにした姑の頭をヨメが蹴飛ばしてもぎっちゃったりなんていうブラックユーモアな場面が次々と出てくる。この時代には彼らは人を殺すことに対して驚きや罪悪感や、嫌悪感すら持っていないらしいんだよね。

だから、その中でゾンビが出てきても、まあなんたってゾンビだからねえ、日本古来の恨みつらみの幽霊じゃないし、そうした重さは当然ない。ま、それはいいのさ。ゾンビなんだから。ホラー映画でゾンビが登場して以来、ゾンビに人間の魂なんか期待してない。ゾンビはただただうっとうしいような気持ち悪い恐怖で、彼らをいかに倒し、いかに逃げるかという、言ってしまえばゲーム的な感覚の部分が面白いわけで。あれ、あれえ?……うーん、やはりここにも違和感が。だからかな、なんかしっくりこなかったのは。中途半端なんだもん、この辺の感覚も。ゾンビに対してただのモンスターとしてとらえているのかと思いきや、後半はゾンビになってしまったミツオがフジオとリアルファイトの場面で対峙するわけで。そこで一瞬正気に戻ったミツオに、フジオは早く元に戻ってよとか言って、ゾンビになっちゃったらそんなのムリなのにさあ。かといってその方法がなにか判ってるとかいうのかというとそうでもなく、ゾンビをひとくくりに「あんなやつら」呼ばわりしてる割に、そんな具合に中途半端にその中に魂を見出だそうとしているのが、なあんか、ね。
まあ、結局はフジオはゾンビになってなかった(そう思い込んでいただけ)だからいいのかもしれないけど……それも、中途半端の逃げ道作ってるみたいだしなあ。

そういやあ、原作者は「中学生のときの中途半端な気持ちを」などと多少卑下した言い方でこの作品の愛着を語ってるけど、その中途半端とはやっぱり違う気がするのよ……。あ、原作者のコメントにもちょっと含みを感じたんだよね。無難には言ってるけど、「自分ならこうするというのは当然ありますが」とか、「そしてマンガの方も読んでくれたら」とかいう部分に、納得いかないなあ……みたいな雰囲気を感じるのだ。
まっ、ただ単に私と相性が合わないだけでそこまでカンぐるのもアレなんだけど……。
ゾンビが脱力系、っていうのは、すんごいドンピシャだと思うのよ。未読だけど、コミックスの雰囲気もなんか想像できる。最近のリメイクではすっごいスピードのゾンビが登場したりして震え上がったもんだけど、クラシックなゾンビはこっちが逃げる隙アリアリの、実にスローモーなところがユーモラスだったりして、でも逆にそのスローモーが不気味な怖さも滲み出させていて、そう考えるとゾンビっていうのはなかなかに奥深いモンスターだったのね。それを脱力系に落とし込むというのは、それだけ聞くとすっごく興味を感じるんだけど……でもね、どうしてもスター二人が主演という形になると、ゾンビのそうしたユーモラスな造形よりも、二人の物語に目がいってしまうからさあ。

それはそれでいいんだろうと思うんだけど、この二人の物語もうーん、どうもねえ……と思うところがあって。まず、アフロとハゲぐらいなら、まんまトライしてほしかった、って言ったら怒る?ヅラじゃねえ……何か入り込めないわ。まっ、こんな作品にそんな命かけることもないと思うけど(笑)。浅野忠信と哀川翔という、現代日本映画の主役を張る二人がほぼ両主演という形で顔を合わせるのは、そりゃあ興味あるわ。それに二人とも出る映画にしても役者のキャラにしてもホント対照的だしね……その対照的、がこれまた中途半端に処理されてしまったような気がしてならないのよねえ。浅野忠信と哀川翔の決定的な違いって、多分演技に対するアプローチの違いだと思う。哀川翔はもうまんま哀川翔のまま、その強烈なアニキキャラクターをなんのてらいもなくぶつけてくる人。浅野忠信も作りこみはしないけど、彼自身に記号となるようなキャラはなく、特に台詞の流れなんかに顕著だけど、とにかくナチュラルでいること、に重点を置いているタイプだと思うのね。

それがねえ、……このミツオとフジオを演じる二人は、そのどちらでもないんだよね。それがいい作用ならいいんだけど、ホント中途半端なんだよね。二人のそれぞれの良さを殺してしまっているような気がしてならない。どうせやるならもっと徹底的に変えてきてほしかったくらいなんだけど……哀川翔のアニキ気質にしても、浅野忠信の弟分にしても、まあこの辺、というレベルに感じるのは、あのヅラのせいかしらん(笑)。
ただひとつ、みどころといっていいんじゃないかと思うのは、二人の柔術。原作者である花くま氏が自ら指導を買って出たという熱の入れようは、地味な格闘技だと繰り返し自嘲気味に言うのに反して、ストイックで複雑で奥深い柔術のカッコよさを存分に描いているんである。もうどうなってるのかよく判らんもんね、よーく見てても。どんなに不利な体勢になっても、まるでパズルみたいに逆転させちゃう奥義に目を見張る。
ミツオは黒富士のふもとのさびれた工場で、つまりは左遷されてヒマだからなんだろうな、フジオに対して柔術を教えている。それというのも柔術を愛するミツオは自分の余命がいくばくもないことで、後継者を育てたいと思っているわけで。
この、“余命いくばくもない”というのもミツオの思い込みなんだけど……ストレス性の胃炎を胃がんだと思い込んで、医者を脅しつけてまでそう言わせたりして。それにしてもそんなキャラのミツオが“ストレス性の胃炎”にかかったりするもんかしらんとちょっと思うけど。

で、そんな日々を送っていた頃、訪ねてきたイヤミたっぷりの上司をフジオがキレて殺しちゃって、それを“黒富士”に埋めに行くと、この上司を含めそこら中からゾンビが大量発生してきたわけ。テレビでは楳図かずお扮するヘンな研究者みたいな人が、日本にもホンモノのゾンビがついに現われた!とかやけに嬉しそうに言ってる。
二人のいる工場にも次々とゾンビが襲ってくる。なので、二人はここから逃げ出すことにする……というくだりで、車のキーがないだの、実はさしっぱなしにしてあっただの、いざ出発してみたら二人ともサイフを忘れていただのというジャブは……ここで笑えないとキビしいんだろうなあ。二人は北を目指す。それもロシア。格闘技の強い国にいって、ホンモノの男になるのだと。ゾンビから逃げてるのに、急に夢とか語るのかいっ。別にいいけど。しかし北に向かっていたはずが、道路標識が示す方向には熱海と沖縄が(……このギャグはどうなんですかね)。
途中、廃校みたいなトコで、ミツオはフジオに自分の気持ちを初めて話す。不治の病だってことも。すこうし、冗談めかして、歌にごまかしながら。感動的……になりたいシーンなんだけど、ここで監督はワンシーン・ワンカットなんぞにこだわるもんだから、画が動かなくてやけにウダってしまう。ヘンなコダワリでリズムを崩さないでほしいわ。

翌日。二人はゾンビが群がるコンビニで食料その他を調達しようとし、そこでやはりコンビニを狙ってやってきたヨウコと出会う。彼女をゾンビの群れから救出したミツオは、ゾンビの一人に噛まれてしまう。自分の運命を悟ったミツオ、車から川へとダイブしてしまう。
驚いたフジオが車を止めて川を覗き込むも、「あ、そうだ、俺泳げないんだ」……こういう時に、こういう説明的台詞はヤメてほしい。いやこれは説明的っていうんじゃなくって、多分脱力系台詞なんだろうけど、ただの説明的にしか聞こえなくて普通に引いちゃう。こういう部分できちんと観客を脱力させてくれないと厳しいって。まあとにかく、そこで車もどこぞの大男にとられちゃうし(カルピス原液で飲む男。でもこれも今ひとつウケない)、ヨウコとやりあっているうちにフジオまで川に落ちちゃうし、襲ってくるゾンビに押される形でヨウコも川に落ちて、もうどうなることかと思ってると、いきなり「それから5年後」のクレジット。

こういう時間経過をクレジットで示すのも、私あんまり好きじゃないんだよなー。ま、好き嫌いの問題じゃないけど。でも無粋というか、すんごい気持ちを分断されちゃうじゃない?で、前半のテイストや展開がなんだったのと思うくらいまるで違う話が展開されてくる。フジオはゾンビたちから隔絶された、金持ちの人間たちが住む壁のこちら側で、ファイトマネーで生計を立てている。その地味な柔術は、ザンコクなショーを期待するセレブなオバハンにウケが悪く、彼女たちはフジオをやっつけるゾンビファイターを心待ちにしているんである。ここではビンボー人たちは金持ち達に奴隷同然に働かされていて……というのをまたいきなりのアニメーションと少女の声のナレーションで延々説明されて、かなりゲンナリする。映画の中で状況説明されるほどやんなるもんはないよ。でもまあこれは仕方ないかと観ていると、フジオはあのヨウコと一緒に暮らしてて、女の子も一人、もうけているのだ。しかしヨウコはあの時と全く変わらぬ、始終キレっぱなしのような女で、そんなサツバツとした家庭のせいか、一人娘もひとことも口をきかない。

このヨウコに対しての方が、まだ感情移入ができるのがフシギである。彼女が、自分に対する愛情が感じられないフジオに対して寂しい思いを抱いているっていうのが、キレッパナシの中でも判るのだ。いまだにミツオの写真に毎日手を合わせている彼にいらだったり、ケンカしたあと座り込んだ彼女に娘がそっとハンカチを差し出し、「まだ泣いてねえよ、バーカ」と強がったりする場面で案外と絶妙に感じさせるのね。ただ彼女の思いが最終的にホントに報いられているのかなっていうのは疑問なんだけど……。フジオの、ヨウコや娘に対する思いや、その過程は全然伝わってこないんだもん。ミツオとのファイト後、テロリスト?の攻撃でこの“天国”は破壊され、フジオはバイクにまたがり、サイドカーに妻子を乗せて今度こそ北のロシアへと突っ走るわけだが、その時、多分決死の思いでヨウコが「私のこと好き?」と聞いたのに大してフジオは、「好きだよ。娘は100倍好きだ」ってのはイイ台詞だけど、イイのは台詞だけで、彼の思いはやっぱり百%ミツオに向けられているとしか思えないんだもん。

5年前にさかのぼり、実はミツオを噛んだゾンビは入れ歯だったことが明かされ、つまりミツオはゾンビになってなかったわけで。ってことは彼のあのなりきりっぷりは、“想像ゾンビ”??ラスト、フジオ一家のオートバイを全速力で追いかけるミツオ、の画はあんまり面白くないけどなあ。

フジオに肩入れするプロモーター、古田新太のラブラブ光線がちょっと面白かった。★☆☆☆☆


時をかける少女
2006年 100分 日本 カラー
監督:細田守 脚本:奥寺佐渡子
撮影:音楽:吉田潔
声の出演:仲里依紗 石田卓也 板倉光隆 谷村美月 垣内彩未 関戸優希 原沙知絵

2006/9/17/日 劇場(テアトル新宿/モーニング)
ずっと話題になってて、信頼筋の友人も絶賛してたもんだからようやく観に行く。やっぱり私は大林教の信者だから、このリメイクに正直二の足を踏んでいたのだな。
かつての原田知世版でハッキリ覚えているのは、ラベンダーの香りというのと、彼女が遅刻しそうになる朝、「忘れてるわよ!」と日めくりをめくって飛び出していくシーン。そしてぎこちなく初々しく歌っていた主題歌。
そういやあ10年ほど前、モノクロで一度リメイクされたなーと思い出した。でも忘れてたぐらい、印象に残らなかったリメイク。昔のメモを見たら、「やめてくれよ、なんとタイクツなこと!」とまで書いてる。怒りのあまり忘却のかなたに押しやってたんだな。角川春樹が監督してもダメよね。だから今回も無意識に更に二の足を踏んじゃったんだな。

でも、違った。リメイクとは言いつつ、違うのだ。これってつまり、アナザーストーリーというか、原作とは違う、オリジナルの「時をかける少女」。言ってみれば、原作にオマージュを捧げたとか、リスペクトした上での全く新しい「時かけ」なのだ。そうか、そうだったのか。ああ、私がバカだった。
確かに理科実験室でその能力を得るとか、男の子二人、女の子一人の構成とか、そして彼が未来人だという核の部分まで、基本的な部分は踏襲しているんだけど、違うの。
それはヒロイン、真琴の叔母として登場する「芳山和子」の名前にアッ、と思って……もう既に心震える。

博物館で絵画修繕の仕事をしている、30代後半だが未婚のこの叔母。真琴は何かと相談をもちかける信頼する相手ながらも、魔女おばさんと呼ぶほど、どこか浮き世離れした不思議な存在。この、芳山和子という、あまりにもあまりにも聞き覚えのある名前。
そう、原作であり、当然、大林映画でもヒロインと同じ名前だ。つまり彼女が語っている、自分にも覚えのあるタイム・リープの経験はソレであって、「いつか会いに来るのをずっと待っていたら、こんな年になっちゃった」というその相手とは、未来に帰っていった深町一夫なのだ!!!ああー、もう泣きそう。
なんて嬉しい、心憎い設定なのだ。そして彼女の研究室には、あの頃の写真が飾られてる。彼女と一夫と吾朗の三人で映したんであろう写真……感涙。

こうした形でリメイクを遂げた本作が、あまりにも完成度が高かったので、その原作が今更ながら気になって読み返す。
思ったより短篇でビックリする。映画化の際にムリがないためには、こういう短篇を原作にした方が、やはりイイよなあ。
普通の女の子でありたいと願った和子がこの能力をとてもイヤがっていたのに対し、本作の真琴は「やめらんないっすよー!ガッハッハ」とムチャクチャ楽しんで使いまくっているのが何より対照的で、それが本作のカラーを決定付けているのよね。
お小遣い日に何度も戻ったり、昨日食べて美味しかった鉄板焼きの日にまた戻ったり。
それも、ジャンプしてダイブして、障子突き破って、床をゴロゴロゴロッ!と転がって、スタッと着地して!実にアグレッシブで、まさに文字通りの「時間の跳躍」。躊躇することのない真琴を、ダイレクトに見せててスカッと気持ちいい。

和子が子供っぽい男の子たちを、どこか母性的本能で見ていたのに対し、真琴は、男も女もなくムジャキに遊んでいたのに、男の子たちが恋を覚えて離れていくことに、動揺を見せる。
和子の造形は、学習雑誌に連載されていたこともあってか非常に道徳的で、実際の女の子自身の感覚からはちょっと違和感を感じるものだった。
まあ、時代もあるだろうし、中学生の設定のせいもあるだろうと思う。だからこそ、97年の角川版リメイクの際には、その処理に手薄になったことが、失敗の要因でもあった。だって吾朗なんて、和子に変態ストーカー的につきまとう造形にされちゃってたりしたんだもん。

その点、真琴の女の子版ピーターパンシンドロームみたいな感覚は、凄くよく判る。女の子だからって、シンデレラシンドロームではなくってね。どんなに成熟した文化を持つ今の女の子たちだって、こっちの感覚の方がリアルじゃないかと思う……というのは願望だろうか。
真琴のようなムジャキでピュアな女子高生、現代にいるのかな……。それこそ大人たちの願望なだけって気もするけど。劇場に観に来てたの、オタク入った大人が多かったような気がするしなあ(当然、自分含む)。

とにかく、青春の疾走感が素晴らしい。ブレーキの壊れた自転車というアイテムも、それを後押しする。
それが立ち止まった時、走っている時には気づかずにいた思いが湧き出てくるのだ。
そして、この夏の感覚。
全てが照らし渡される、子供の頃の無邪気さを思い出すような真夏。真っ白い太陽の光、現実とは思えないほどの真っ青な空。
でも周囲は、もうそうではない感情を身につけ始めている。同級生の女の子や、後輩の女の子でさえ。

原作発表当時は、SFのワクワク感の方が強かったように思う。当時の読者の、特に男の子は、そっちに胸を躍らせたんじゃないかと思う。架空の薬品名や理論なんか、今読んだってワクワクするもの。
でもきっと、女の子の読者は、記憶からも消されてしまう初恋の人に運命を感じ、恋の物語として受け止めたに違いない。それを少女の感覚を持った大林監督が映画化したからこそ、SFというより時間に隔てられた胸キュンの純愛物語として、受け継がれてきたのだ。
当然、タイムリープなんて、現代でも可能なわけない。だからこそ、飛べるのは女の子。男の子ではない。理論なんかなくたって、信じられる女の子こそが、飛べるのだ。

比較論はいいかげんにしとく。この物語はオリジナルとして、十分な輝きを放っているのだから。
ヒロインの紺野真琴は17歳(うーむ、まるでこんこんとまこっちゃんを合わせた名前だな……とモーヲタの私は思ったり)。成績は中の下。勉強はキライだけど、カンがいいからそんなにバカだというわけではない、運もいい……と彼女自身が語るものの、その冒頭で示されるのは、抜き打ちのテストに惨敗したり、プロレス技で投げられた男の子が飛んできたり、調理実習で危うく火事を起こしかけたり、「例外」ばかりなんである。
しかしある朝、自転車のブレーキが効かなくなったことから、あわや踏み切りで電車に激突!? 真琴はその瞬間、時間を飛び越えた。
和子叔母さんから、「女の子にはよくあること。コツを覚えればまた飛べるんじゃない?」と言われた真琴は半信半疑ながらも、土手から駆け下りて川にジャンプしてみると……、
「あのおねえちゃん、今すっごく飛んだよな」 「それに一瞬、消えた!」

障子を蹴破って、誰もいない昼間の家に転がり込んだ真琴は、大事にとっておいたのに妹に食べられてしまったプリンも取り返すことが出来た。
そもそもこんなことを気にしているあたり、真琴にはやはりどこか幼い感覚が残る。冷蔵庫を開けてプリンを確認する、繰り返されるこの描写、「ターン」のスライスチーズみたいだなー、などと思う。
果たしてタイムリープを会得した真琴、早起きして遅刻をまぬがれ、抜き打ちテストは百点満点、調理実習での惨劇は、グループを変わることでまぬがれる。それ以降真琴は、何かあるとすぐにタイムリープを繰り返し、すっかりその能力にホクホク。
でもそんな真琴に、和子叔母さんはニコニコしながらもこんな言葉を投げかける。
「その陰で、傷ついている人がいるんじゃないの?」

真琴には、いつもつるんでいる男子二人がいた。勉強がよく出来る功介と、ちょっとカルい感じの千昭。女の子っぽいことがニガテな真琴は、この二人とサッパリとした友情を交わしているのが性に合ってた。放課後になると、グラウンドで三角形のキャッチボールするのが日課だった。
季節はまぶしいほどの真夏。もうそろそろ進路も決めなきゃいけない頃。
つまり、今の楽しさは永遠に続かないし、青春期の気持ちはだんだんに移ろっていく。真琴だってそうだったハズだけど、認めたくなかった。
同級生の友梨が、千昭のことをそれとなく真琴に聞いてくる。「どうして千昭が?」「ううん……」
真琴、多分判ってたのに。でも千昭を恋という、違う世界に渡したくなかった。友梨が千昭が好きなのは気づいているはずなのに、はぐらかす。
「だって、真琴、千昭君と仲いいじゃない」「仲良くなんかないよ」

そして功介は、下級生の果穂から告白されるけど、断わってしまう。その事実は真琴を軽く戸惑わせる。
「ずーっと、このまんま、三人でいられたらいいのに」夕方の土手、自転車の二人乗り、真琴を後ろに乗せて自転車をこぎながら千昭、ふと思いついたように言う。「真琴、俺と付き合わねえ?」
真琴、タイムリープ!だって、そんなのイヤだ。この関係が壊れるのが。何度時間を飛び、何度話をそらしても、千昭はこの台詞を言う。「俺と付き合わねえ?」「だから、なんでそうなるの!」
何度も何度もタイムリープ!もうどうしようもなくなって、真琴は三叉路で送っていくという千昭を無視し、一人スタスタと帰ってしまう。

その話を聞いた和子叔母さんは、嘆息する。「そうか……なかったことにしちゃったんだ。せっかく勇気を出して言ったのに、千昭君かわいそう……でも、そのことに、彼は気づいてさえいないのか……」
その叔母さんの言葉に、どこかハッとしたようになる真琴。でも、だって、どうしたらいいの。

そうこうしてるうちに、友梨が千昭とイイ感じになってしまう。
というのも、そのそも真琴が調理実習の失敗を、タイムリープによって他の男子に転嫁しちゃったことがことの発端。それ以降、イジメにあっていた彼はキレて、真琴に向かって消化器をブン投げる!その間に割って入った千昭を助けるため、真琴はとっさにタイムリープして千昭を突き飛ばすと、行き場を失ったその消化器は、友梨に当たってしまうのだ。
ケガにすすり泣く友梨に、「キズが残ったりしたら、私が絶対、何とかする」と言う真琴。時間を戻せばカンタンと、この時の真琴は思っていたんだろうけど、自分の代わりにケガをした、と友梨を気にかける千昭を呆然と見送るしかない。
結果、千昭と友梨は急接近してしまう。自分が好きだと言ったくせに、と真琴は思うけど、その事実をなかったことにしたのは、他ならぬ自分なのだもの。

一方で、功介がなぜ後輩の果穂からの告白を断わったかというと、「バカなヤツが俺よりいい点数とったから、うかうかしてらんない」ことが理由だったと、果穂の友人たちから真琴は聞かされるんである。
あの、“二度目”の抜き打ち小テストで真琴が満点をとったことに他ならない。
「私のせい?」うろたえる真琴。こんなところにも、「陰で傷ついている人」が……。
でも功介も真琴のこと、好きだったんじゃないの……となんとなく思っちゃうよね。でも彼には、千昭の真琴に対する気持ちが見えてたからさあ……ヘンに大人だから、功介は。
いや、友達の気持ちを優先するなんて、逆にまだまだ子供かも。大人はもっとズルいもんだもん。でもいいよね、自分が好きなコより、自分のことを本当に好きな女の子の存在、それが大事な時だってあるんだもん。

んでもって、真琴は大事な友達、功介のために、タイムリープを繰り返すんである。
階段を駆け上がり、何度も何度も走る!そして転がり込む!
「お前、何してんだよ」と驚く功介と千昭に、
「転んだの!」とニッコリ笑って立ち上がる真琴、が繰り返されるのには、思わず笑いを誘われる。
そうこの疾走感、未来に向かって走る感覚こそ、青春を決定付けているのだっ。まさに真の意味で、「時をかける少女」
しまいには、高飛び込みの台からまで!青い空に飛び出していく少女の姿がまぶしい。

でも一方で、真琴は取り返しのつかないことをしてしまった、その重い意味をだんだんと受け止めることとなる。
確かに功介と果穂は上手くいった。でも真琴の壊れた自転車を借りた功介と二人乗りした果穂は……。
何とか止めようと、必死に二人を追いかける真琴。腕に刻まれた数字が、タイムリープできる回数を示しているんだとうすうす気づいていた真琴、しかし途中、電話がかかってきた千昭から「お前、タイムリープしてねえ?」と言われて動揺し、その最後の一回を使ってしまう。

なぜ、千昭が……。
その最後の一回を使ってしまったことで、踏み切りを突っ込む二人を止めることが出来ない。必死に、必死に、走って、転んで、顔中体中血だらけ、アザだらけになって、「止まってー!!!」絶望の表情で泣き叫ぶ真琴。その緊迫と悲壮感に、見守るこっちも涙が吹き出る。
でも、その時、時が止まった。現われたのは千昭。

千昭は未来人だった。タイムリープのエネルギーをチャージするクルミ状の機械を無くしてしまった彼、それを探しているうちに、夏になってしまった。
いや、それは半ば言い訳。彼は功介や真琴と過ごす時間が楽しくて、つい長居をしてしまったのだ。
いや、多分、それも言い訳。真琴のことが好きだから、きっと帰りたくなかった。
真琴がタイムリープをチャージしてしまったから、千昭はこの最後の一回を未来に帰るために使わなければいけなかったのに。
「どうして使っちゃったのよ!使いどころってもんがあるでしょ!」
「使いどころだったんだよ。功介とあの子、一度は死んだんだぜ。お前は責任感じて泣き叫ぶし、こうするしかなかった」
真琴が好きだから、そんなの耐えられなかったんだ……。
そして千昭は、去るしかないのだ。未来から来たことを知られた以上、ここにいるわけにはいかないから。
千昭がいなくなってしまうという事実に、この期に及んで本当にようやく、真琴は自分の気持ちを自覚したんだろう。「行かないで!」と叫ぶ真琴の泣き顔は、自責の念だけだというには、あまりに切な過ぎるんだもん。
そして、自分のせいで、千昭は未来に帰ることも出来ずに、皆の前から不名誉な形で姿を消した。ヤクザに追いかけられてるとか、年上の女と逃げたとか、好き放題言われて。

あの、千昭の告白を思い出す。叔母さんの前で膝を抱き抱えている真琴「真剣に気持ちを伝えようとしていたのに、ないことにしちゃった……」深く落ち込み、うわーん、と号泣する真琴に、思わずもらい泣きをしてしまう。
そのことで、今までの関係が壊れるのが怖かった。
大人になったんだよ。今までは、今、自分が楽しければ良かった。何度もタイムリープを繰り返したのだって、何度でもリセットできるから、ラッキーぐらいにしか思わなかった。でもそのことで人に責任転嫁をし、人を傷つけ、大事な人を失って、ようやく気づいたんだ。
遅かった?いや神様はもう一度チャンスをくれた。千昭が時間を巻き戻したせいで、真琴が使った最後の一回が未使用になって戻ってきたのだ。

真琴は再び、時をかける!
すべてが始まった理科実験室。真琴が知らずにチャージしてしまったクルミ型のマシンを拾い上げる。そこに友梨がいる。千昭のことを話し出そうとする友梨に、「私、千昭が好き。……ゴメン」
「そっか……そうだと思った」友梨は友達だから、判ってたから、そこをハッキリとさせて正々堂々としたかったから、真琴の気持ちを探ってたんだと思う。だからこの潔さもまた青春で、グッと来ちゃうんだよなあ。

そして真琴は、千昭を追いかける。その途中で、全てが元に戻ってしまった功介に、果穂たちをキャッチボールに誘うよう言い含め、千昭の元へと走る!
そうだ、いつだって真琴は走っていたんだよな……。
グラウンドで待っている千昭にクルミを手渡した時、本当に驚いた顔をした。
だって、まだ何もかもが始まる前だったから。
でも、未来から来た、すべての仕組みを知っている千昭は、真琴の説明にたちまち了解する。
「何で俺、喋っちまったんだよ……」そう頭を抱えながらも、これで千昭は未来へ帰ることが出来るのだ。

この時点での千昭は、まだ真琴に気持ちも伝えていないのに、でもそれを真琴は知ってるから、
「お前、危ないんだから、前見て歩けよ」って千昭の別れの言葉にグッと詰まって、泣きそうになるのをこらえて、
「最後の最後に、それかよ!」と懸命に返す。
「ばーか。心配してやってんだろ」
だって、知ってるんだもん。千昭は知らないけど、真琴は千昭から気持ちを伝えられたから、彼の気持ちを知ってるんだもの。
それって、恋の時間がまだ存在しないのに、それを判ってるのって、なんだか切ないっていうか、もったいないっていうか、時間って刹那だけど、本当に大切なものなんだよなあ。

千昭との別れで泣くのは二度目。でも一度目は、後悔の涙だった。今度の涙は、未来に帰ってゆく彼との永遠の別れ……だと思ってたんだけど、
天を仰いで泣きじゃくっている真琴の背後から、千昭が戻ってくる。振り向く真琴の頭をかき抱き、耳元で(キャー!)「未来で待ってる」
「うん、行く。絶対行く。走って行く」涙のまま、笑顔で振り仰いで。そうだ、真琴はいつだって走っていたんだから。
これは、ハッピーエンドなんだよね!?この時点で真琴はリセットされているから、まだタイム・リープ出来る回数が残されているんだよね。さすが、そういう凝った部分は、中学生向けの原作というシバリがあったオリジナルよりレベル高い。
ねえ、だから、会いに行けるんだよね。ハッピーエンドなんだよね!
和子おばさんは遂げられなかった思いを……。

でもね、私、千昭こそが帰ってきた深町一夫なのかと思っていたの。和子叔母さんの修復している絵画を見るために未来からやってきた千昭、という図式も運命的な気がしたし。
でも違ったんだな。和子叔母さんはそれでも心のどこかで一夫を待ち続けているんだろうか。

和子叔母さんがいまだに三人の写真を持っていて、愛しの人、深町一夫を覚えているように、真琴も功介も突然去ってしまった千昭を覚えている。
そこにはタイムトラベルモノに不可欠な、タイムパラドックスを防ぐための記憶の操作が全くなされていないので、古いSFのアタマがある私としてはなんとなく気になる部分ではあるんだけど、記憶を失うことによって切なさを得たのが原作と、それを描いた大林映画だったとしたら、本作はアナザーストーリーとして、恋の根本的な部分での切なさを追及したゆえということなんだろうな。

真琴には、実際に16歳のコの声を起用。全てが完璧じゃなく、ぎこちない時もあるんだけど、リアルな16歳の声は、まさに今走っていて、完成度の高い声優には出せない臨場感がある。
光が大きな窓からいっぱいに入ってくる教室、それだけにちょっと暗いと妙に怖い使われていない部屋、しんとした中に響くピアノ、校庭の砂ぼこり、黒板に書かれた進路指導の文字。
何もかもがたあいなくも、二度と取り返せない10代の頃は、こんなにも大事な時間だったのだ。★★★★☆


トリノ、24時からの恋人たちDOPO MEZZANOTTE/AFTER MIDNIGHT
2004年 93分 イタリア カラー
監督:ダヴィデ・フェラーリオ 脚本:ダヴィデ・フェラーリオ
撮影:ダンテ・チェッキン 音楽:バンダ・イオニカ/ダニエレ・セーペ/ファビオ・バロヴェーロ
出演:ジョルジョ・パゾッティ/フランチェスカ・イナウディ/ファビオ・トロイアーノ/フランチェスカ・ピコッツァ/シルビオ・オルランド/ピエトロ・エアンディ/アンドレア・ロメロ/ジャンピエロ・ペローネ

2006/9/5/火 劇場(渋谷Bukamura ル・シネマ)
トリノはこないだの冬季オリンピックで初めて知ったぐらいの都市で、イタリアの中でどういう位置にあるのかとか、何が有名とか全然知らなかったのはひょっとして映画ファンとして失格だったりするかしらん。
なんとトリノはイタリア映画発祥の地であり、しかもフランスのシネマテーク(これはさすがに知ってる)と並び称されるぐらいの国立シネマ・ミュージアムがあるんだという。いやー、全然知らなかった。
ついでに言うとチョコレートはトリノの代名詞でもあり、その味はイタリア最高峰なんだって。へー。だから荒川さんがお土産に買って帰ったんだ(とんねるずの「食わず嫌い」のお土産ね(笑))

このモーレ・アントネッリアーナと呼ばれるトリノ国立シネマ・ミュージアムが、本作の重要な舞台になる。
尺的にはその外での展開も半分ぐらいはあるんだけど、この博物館の中に入ってしまうととたんにピタリと世界が閉じられる。夢の中の世界に変わる。それが本作の大きな魅力なのだ。
ここがメインの舞台になっているだけあって、本作は名作映画へのオマージュのオンパレードである。そしてあの伝説の映画、「突然炎のごとく」が最も重要な下敷きにされている。

本当はね、オマージュとか何かの下敷きとか、名作映画への目配せとかはあんまり好きじゃない。だって、その時点で、相手にする観客をふるいにかけちゃうから。
映画を思う時、私はいつだって、初めて出会った作品のことを思い出すのだ。
それは世界的な名画ではない。自分の中だけに残る、ささやかな映画なのだ。
本作に出てくる“名作”とそれとはカブらない。知らない映画がいっぱいある。もうその時点で、この映画に入り込むのをさえぎられてしまう感じがちょっとしてしまうのは正直なところ。

でもやっぱり、心惹かれてしまうんだよなあ。だって!映画ファンにとって映画ミュージアムにヒミツに住み込むなんて、夢じゃない。古今東西の映画を、いくらでも自由に、浴びるほど観られるんだもの。
ヒミツに住み込んでいる、っていうのがイイのよ。マルティーノはあくまでこのミュージアムの夜間警備の職についているだけだ。しかしこの古い館内をくまなく知っている彼は、誰にも知られないようなトコにこっそりと住んでいる。客室まである。そしてそれらは彼の愛する古い映画の舞台そのままに、フィクショナルでオモチャのような楽しい仕掛けが、いっぱい用意されている。

まるで、映画そのままなんだよなあ。光のもとでは消えてしまう、まぼろしのような存在。だって誰も、彼がここに住んでいるなんて思わない。つまり彼の居場所は誰にも判らない。さらにつまり、彼は存在しないも同じ。
でもある一本の映画が、誰かにとってとても大切なものとして確かにあるように、彼もまた確かにそこにいるのだ。
闇の中にしか存在できないのに、光そのものの映画のように、あたたかく、チャーミングにそこにいるのだ。

「突然炎のごとく」が下敷きになっているぐらいだから、無論メインの登場人物は男二人、女一人の三人なんだけど、その中でもこのミュージアムの住人、マルティーノがチャーミングで、どうにも気になってしまうんである。
しかも彼を演じるジョルジョ・パゾッティのプロフィールがまた面白いのだ。「北京体育大学卒業後、香港のカンフー映画などにも出演」どーゆー経歴なの!あんなに内省的なのに、信じられない!
北京体育大学って、あの「シックス・ストリング・サムライ」ジェフリー・ファルコンも確かそうだったよなあ……。なにが彼らを惹きつけるのだろう。ああ、気になる!
まあ、そんなことはどうでもいいんだけど……。もともと彼の恋の視線で物語は回っていたのかもしれないんだよね。いつも決まった時間に行くハンバーガーショップ。いつもの、で通じるぐらい、買うものも同じ。その店員、アマンダに彼は恋をしていた。

と、いうのが明かされるのはずっとずっと、後である。正直、それが明かされた時にはビックリする。この閉じられた夢の空間で、映画だけを愛しているのかと思ってたんだもの。
でも映画を愛しているだけに、無限の世界を彼は知っているのだ。映画が人生の全て。人生の全てが映画につまっているから。
それに彼は昨今の、登場人物や物語の展開に重きを置く、芝居としての映画にあまり興味がない。映画といえばリュミエール兄弟、なのである。自身回しているフィルムも、そうした作り方である。事実をありのままに撮る、そのことに強いこだわりがある。
彼女が好きでも、その物語の中に入り込んでいこうとはせずに、彼女のありのままをフィルムにおさめようとしたのも、そのせいなのかもしれない。
でも、アマンダの方が彼の物語に飛び込んできた。モダンな映画そのもののように。

一方で、マルティーノは恋愛観というならば、バスター・キートンなんだという。キートンの映画の断片が繰り返し提示される。そして彼はキートン映画そのままに部屋の仕掛けを作ったりしてるほど、心酔しているんである。
「波瀾万丈の末に愛する女性と結ばれる」という、キートン流の恋愛観を彼は支持しているらしい。でもそれは、リュミエール的な映画志向とは逆の方向にあるのが興味深い。それは彼の中に矛盾なく存在している。
なんだかそれが、ひどく純情なことに思える。だって、そんな物語的な恋愛が、「ありのままの事実」だとしているように思えるんだもん。

彼は、自分は決してオクテではない、と言う。でも通常のアプローチはしない。どっちかっつーとストーカー的である。だって、彼が撮り続けたフィルムは、アマンダがここに飛び込んでくる前から彼女を追いかけ続けてきたんだもの。
そしてその映画の作りは確かに……リュミエール的なんである。いわゆる古典の記録映画オタクであるマルティーノは、そのパロディとして撮っている。今の素材で、かつての記録映画とまったく同じ画が出来上がる。
それは、今も昔も人はちっとも変わっていないってこと、進歩がないとも言えるけど、信じている核が揺るぎないとも言える。純真なものを信じている。そしてその中にアマンダがありのままに存在している。彼にとって純真で揺るぎないものとして。
リュミエール。光を思わせる名前。光は映画の命。でもそれは闇がなければ存在し得ないもの。夢は闇の中にこそある。夢は、光だから。

アマンダがなぜ、マルティーノの世界に飛び込んできたかというと……彼女の方の物語は、ずっと現実的で、先が見えなくて、不安に満ちているんである。
ハンバーガーショップの店員と、チラシ配りのバイトという落ち着かない生活。しかも恋人のアンジェロは車泥棒を“職業”にしていて、深夜に仕事が終わる彼女とは、ほんのひと時ベッドを温めるだけの関係である。
しかしアンジェロが、その仕事のためだけにアマンダとの時間を作れないのかどうかも、アヤシイところである。このアンジェロ、女たらしだし、街ではちょっと顔を知られた、ヤクザ的な男なんである。なんか、印象としてはジャイアンみたい。子分を従えてふんぞり返っているみたいな。

それにしても、このアマンダを演じるフランチェスカ・イナウディは素晴らしく美人である。さらりとヌードになる、そのおっぱいの形も実に美しい。
ジーン・セバーグを思わせるベリーショートが、またたまらなくキュート、長いまつ毛に縁取られた大きな目は吸い込まれそうで、しなやかな肢体はシャム猫みたい。
モダンダンスの舞台などをやっているという。その軽々とした身のこなしは、マルティーノのミュージアムに飛び込んでくるといちだんと躍動する。外の世界は灰色で彼女をがんじがらめにしていたのに、この閉じられた空間でこそ彼女がイキイキと魅力的に映るのは、どうしたことだろう。

さて、なぜ彼女がこのミュージアムに飛び込むことになったかというと……もともと折り合いの悪かったハンバーガーショップのマネージャーとその日も口論になり、カッとなった彼女は片づけていた揚げ油をコイツの足にぶっかけてしまったのだった。
おいおいおい!カッとなってもやることが過激すぎるよ!しかしマネージャー、無表情のまま淡々と警察に電話してんだもんなあ……熱いだろ、だって!
かくしてアマンダ、身を隠すためにとっさにミュージアムに飛び込むんである。驚いて目を見張るマルティーノ。
とにかく一晩、泊まらせてくれないか、とアマンダ。一晩のはずが、ほとぼりが冷めるまでと、長逗留になっていくうちに、アマンダはこの寡黙な青年の不思議な魅力に惹きつけられていく。

最初はね、あまりにもマルティーノが喋らないから、アマンダは戸惑っちゃうのね。マルティーノは今まで会話の必要のない人生だった。アマンダは、でも今は私がいるんだから少しは喋ってほしいと思うのだ。一人でいるとたまらなく寂しい。そしてここには、たった一人しか会話の相手がいないんだもん。
寂しいから、と夜の見回りにも彼女はついていく。数々の映画のアイテムを興味深げに眺めている彼女を、マルティーノは見守る。「プレイボーイ」誌を飾ったマリリン・モンローの有名なヌード・ピンナップなんてのもある。へー、と私の方が興味深くスクリーンを見入ったりして。初めて見た。肉感的だけどカラッと明るく、魅力的なヌード。

おっと話がそれてしまった。でね、無声映画のコミカルな舞台装置が彼女の与えられた“客室”にあって、引き出し式のベッドやキッチン、天井から降りてくるハンガーかけなんかはとてもコミカルなんだけど、でも彼女はそこで一人でいるのがたまらなく寂しいのね。
トリノの街を一望に見渡せる階上に、一人佇むマルティーノに声をかけるアマンダ。そして彼の替わりにと頼まれ、屋根掃除の友達にコーヒーを渡す。
このシーンも、とても印象的なんだよね。そこはこの閉じられた空間が外界と唯一接している場所なんだけど、無声映画のコメディアンさながらにするすると命綱一本で降りてくるこの友達にコーヒーを差し出す、なんてさ。女の子からコーヒーを渡されるなんて嬉しいね、と彼は言う。
この場所がマルティーノはきっと、好きだった。閉じられたミュージアムが彼のお気に入りの住居だったけど、やっぱり外への本能的渇望があったんじゃないかと思う。

アンジェロが店主に脅しをかけて告訴をとりさげさせ、アマンダは家に戻れることになった。でもこの数日の間に、アマンダの心は確実に変わっていた。実際、マルティーノとひとつになってしまった。
それは、マルティーノが自分のフィルムで「告白」した後。マルティーノが操作する回転する台座(あれはなんだろう……)から手をのばし、アマンダは彼を引き入れたのだ。
この数日間、携帯電話の電池が切れそうだからと言って、アンジェロとは事務的で冷ややかな会話しかしていなかった。そしてアンジェロの方も、アマンダのルームメイトのバルバラとねんごろになってしまった。
この数日間のことは、お互いに干渉しないこと。でもその前提をわざわざ作ってしまうからこそ、お互いに何かがあったことを認めているようなものなのだ。当然、ぎくしゃくしてしまう二人。

ついにバルバラが黙っていられなくなり、「私、彼と寝たの」と打ち明ける。でもアマンダは友人とケンアクにはならなかった。それどころか二人、笑い出した。バルバラは、博物館の彼はどうなの、とアマンダに聞く。つまり、アマンダがマルティーノを忘れられないのを友達として察知していたのだ。
一方、こちらもアマンダを忘れられないマルティーノ、無謀にもアンジェロを呼び出して彼女への気持ちを叩きつけるも、腕っ節の強いアンジェロにボコボコにされてしまう。
果たしてアマンダの出した結論はというと……「どちらも選ばない」だった。誰も傷つけたくないから、双方と関係を続ける、と。
えー!?なんでよ!ぜえったい、マルティーノに決まってんじゃん!とすっかりこのチャーミングな映画青年にマイっちゃってるこちらとしては思うのだが、彼はあまりに現実的じゃないからなのかな。
それにアンジェロは確かにどーしよーもない男だけど、憎みきれないところがある。どこかムジャキでヤンチャな、子供のまま大人になったような男。アマンダにとっては情も移っているし、そう簡単に切れない相手だということなのかもしれない。

でもね、やっぱりマルティーノに軍配が上がったのは、やはり彼の中にある映画が作用しているからなのだ。
映画が彼のすべてだったから、何だか世界が闇=夜だった。だからネガティブに見えそうにもなるけど、映画に夢見ごこちを信じられた時代を彼は見ているから、不思議に明るいのだ。
そしてアマンダに恋して、現実の彼女に触れてしまったマルティーノは、ここから出ることを決意する。アマンダと一緒に暮らしたいと。
マルティーノは、ここが現実ではないことを知っている。だからここから出ることによって、彼は世界を変えることが出来るのだ。
でも、アンジェロは最初から現実の中に生きている。いや、この現実のほかに知らない。自分はこの映画ヤローより苦労して人生を生きていると思っている。
でも、そうだろうか。それはひょっとしたらウヌボレというやつだったかもしれない。自分自身でただ満足していただけかもしれない。
このトリノという都会に地方からやってきた彼らは多分、ここでどうにか暮らしていること自体に、満足してしまっているのだ。
その気持ちはちょっと判る。多分私もそうだから。

それにしたって何も殺さんでもいいと思うけど……アンジェロは突然、死んでしまうのよ。いや、殺されてしまう。しかも彼がなぜ撃たれたのか、判らない。
それはもう、冒頭に既に記されていた。腹を撃たれ、血で染まったアンジェロは、朝日を待ちながら、自分の死も静かに待っていた。
アンジェロは、こんなこと言っていたんだ。
「俺たちみたいな男二人、女一人の三人組が出てくる映画を見た」
「結末は?」
「最悪」
そう、あの、「突然炎のごとく」だ。でも彼だけが死んでしまった。
しかも、彼が死んで、涙を流すのはあのバルバラだけなんである。アマンダは表情は硬いけれど、涙は流さなかった。ただアンジェロの遺灰を持ってじっと佇んでいた。
バルバラは本当に、アンジェロのことが好きだったんだなあ。

アンジェロの灰を街に向かって撒いてあげるはずが、マルティーノったら落っことしちゃって、それはミュージアム全体を満たす光を反射して舞い上がるホコリみたいに、あたりに撒き散らされる。
コミカルな幕切れだけど、映画の光の中にアンジェロが行ってしまったような余韻も残る。
そして残されたマルティーノとアマンダは二人、確かにある現実の未来へと歩み出すのだ。だって、
『フィルムは終わっても映画は続く』から。

瞳孔の絞りのように閉じていくアイリス・アウトのクラシカルな手法が、映画のマジカルを象徴的に示してて、それだけで夢の世界へ誘われる。
そしてこれもとても印象的だったのが、フィボナッチ数列。1 1 2 3 5 8 13 21...と先行する二つの数の和が続いていく数列で、黄金比1.618を導き出すんだという。この数列が、街の塔の壁面に赤く輝いているのだ。実に、哲学的に。
全ての森羅万象は最初から決まっていたと、アンジェロの死も、二人の出会いも、映画の誕生も何もかも、そう語っているようで。
あまり饒舌じゃない登場人物たちに替わって語るナレーションも、また哲学的で耳に残る。★★★☆☆


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