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「こ」


2002年鑑賞作品

仔犬ダンの物語
2002年 分 日本 カラー
監督:澤井信一郎 脚本:
撮影: 音楽:つんく
出演:嗣永桃子 清水佐紀 安倍なつみ 原田美枝子 榎木孝明 斉藤慶子 杉田二郎 柄本明 奥村公延 大島さと子 石川梨華 後藤真希 保田圭 飯田圭織 吉澤ひとみ 紺野あさ美 新垣里沙 小川麻琴 ばんばひろふみ 兵頭ゆき 田中亜依 斎藤佳奈 辻本玲那 西沢まどか 綾田瞳 石村舞波 熊井友理奈 向井千聖 中島早貴


2002/12/21/土 劇場(丸の内東映)
ちょっと、ちょっとおー、これって、全然「モーニング娘。の映画」じゃないじゃん、ハロプロキッズの映画じゃん!モーニング娘。の方が子供たちの共演、じゃないかあ。もう、だまされたよー!しかも、この子供たちの演技の壊滅的なことときたら、どうよ。おまえら、「ごめん」でも見て出直してこいっつーの!ホント、子役映画に失礼だよ。なんか、だんだんつんく氏が判んなくなるなあ、この子たちはどーゆー基準で選んでるわけ?だってさ、今回のキッズオーディションは最初から映画出演が第一の目的だったわけでしょ?それで何なのこの学芸会は。そう、まさしく学芸会なの。もう、観てられない。それこそ本当に学芸会で自分たちの子供が出てるとかいうんなら、ああ、頑張ってるわ、とかって感動できるのかもしれないけど、いくら彼女らが一生懸命やっているんだろうなと思ったって、感動なんかできっこないって。全編、教科書読んでるみたいなんだもん。

大体泣きのシーンでいちいち目をこするなっての。主人公の女の子、真生が父親から来た手紙を読んで、でそれは縁側での彼女の後姿の引きのシーンで、っていうような余韻ただよう場面でもそれをやらせると、もー、後姿だけで語らせるぐらい、しろよ!と思っちゃうじゃない。果ては大人役者にまで連動してそれをやらせるんだもん。素人子供のレベルに合わせてどーすんのよ。それこそ、ベテラン大人役者の場面だけがいきなり普通の映画になってるって感じなんだけど、団地の住民たちのばんばさんとかゆき姉とかにいたると、子供たちの低レベルに引きずり降ろされてる感じでさあ……。孫に甘いお祖父ちゃんの奥村公延なんかは、別れのシーンのワザとらしさとか顕著に、もうヤケクソって気さえしちゃう。

いくら話が良くっても、やっぱ映画は役者がなってないとダメって実感したよ。しかもメインになる子供たちがね、なってなくちゃさ。これじゃ実話が泣くよなー。まあ、確かにわんこは可愛かったが……ムクムクの、わんこ。映画中の彼?は本当に目が見えないのかなあ。河原でこの仔犬、ダンを拾った少女、千香。彼女は団地に住んでいるから家の中では飼えず、彼女に協力する主人公の真生も、叔父夫婦の家で少々肩身の狭い思いをしているから飼えない。……という、真生は現代の象徴のような、家族の犠牲になってしまった女の子なんだけど、こーゆー複雑な役をやらせるにはあまりにもあまりにも力量不足。彼女は母親か父親かどっちかを選ぶなんて出来ない!と群馬のおじいちゃんの家(つまり叔父夫婦の家ね)に行くことを自ら選択し、最初のうち転校したこの学校でもめちゃめちゃ孤立してしまうんだけど、この千香やダンとの触れ合いで彼女はだんだんと成長していき、最後には一人ぼっちである父親には自分が必要だ、という決断が出来るまでに大人になる、わけだが……。

あのさあ、モーニング娘。が超多忙でこんな風に看板だおれで出番が少ないのは、まあいいよ。でもまがりなりにも「映画」を作るんだから、せめてこの子供たちにもうちょっと、この映画の中で役柄とともに実際に成長させるぐらいの余裕を見せても良かったんじゃないの?真生に会いに来たお母さんに彼女、私、これからもお母さんの娘でいていい?とかそんなことを言って(台詞のヘタさに聞いてられなかったから、もう忘れちゃったよ)母親である原田美枝子が「当たり前じゃない、真生はいつまでもお母さんの娘よ。お母さんの娘でいてくれる?」と言う場面、本来なら大感動の場面なのにさ、真生役の子が劇中内でも演技的にもちーっとも成長してないもんだから引きに引きまくる、んだもん。相変わらず教科書読みで。感動的なのは原田美枝子だけで、彼女がこんなところ?でも、きちんとした演技を披露しているのがもったいないって気がするぐらい。それこそお祖父ちゃん役の奥村公延のヤケクソの気持ちの方が判るんだもんね。

それに、いくら子供たちやモーニング娘。ら、若い女の子たちがメインになってるったって、ベテラン女優が出ているんだからもちょっとカメラやライティングに気を使ってほしい。だ、だって、原田美枝子の肌が、肌がああー。あ、いくらキレイでかっこよくっても、やっぱり彼女もいい年なんだ、だなんて……彼女に対してそんなことを思ったことなかったから、ちょっとショック。ダメだよお。女優は顔が命なんだから。映す方が気ぃつかわなきゃ!

何か途中から思いっきり話が飛んじゃったけど(笑)。ダンを団地の中で飼おうとしたんだけど、自治会長のおっちゃん(柄本明)が絶対ダメ、保健所で始末してもらうから、と聞く耳を持たないため、彼女らは里親探しに奔走する。それに協力するんで出てくるのが千香の弟が通う保育園の保母さん役、圭ちゃんと彼女の友達で女子サッカーチームのコーチであるかおりんとよっすぃー。こーんなダイナマイトなボディの保母さんなんて、なんかAVとかでありそうだが(ごめん、圭ちゃん)彼女は保母さんが夢だったというんだから……「ピンチランナー」の病弱な女子高生よりはよっぽど似合ってる。女子サッカーのコーチの二人は、ねえ……よっすぃーは確かにそんな感じ、でハマってるんだけど、かおりんほどの絶世の美女にこんな役しかなかったのかなあ、もったいない……。何か誰も言わないんだけど、いつの間にやらかおりんは驚くほどきれいになっているのに、何か彼女をないがしろにしすぎちゃう?モー娘。の発端は色んな年齢や個性の集まり、ってのが魅力だったのに、いつの頃からかジャリタレばかりを持ち上げるようになっちゃってさあ。このお子ちゃま映画だってその流れでしょ?圭ちゃんの放出だって……(涙)。

あっ、あっ、それと!ちょっと、ちょっと、何なの、あさ美ちゃんのこの出番の少なさはあ!メンバーの中で、一番出番が少ないじゃないのよお。里親のもとに行ってしまったダンが恋しくて会いに行った千香を探しに、隣の栃木県まで来て迷ってしまった真生を助けてくれる女子中学生役なのだが(ややこしいな)……街路板を見上げて途方にくれている真生の肩をぽんと叩いて「どした?」ってな表情で彼女の顔を覗き込むあさ美ちゃん。うっ、やっぱ可愛い……。ほおんと、彼女はいちご大福みたいよ。ふくふくしてて甘酸っぱい感じ。あー、もう、連れて帰りたいッ!この濡れたような黒目がちの瞳がまた、イイんだよなあ。それこそ仔犬みたい。烏の濡れ羽色、なんて古いことを言いたくなるぐらい真っ黒の髪もチャームポイントなんだから、彼女には先輩メンバーみたいに髪を染めたりは絶対にしてほしくないんである。し、しかし……もっとマトモに見たかったよ……これだけなんて、そりゃないって……。

メンバーの中で最も出番が多いのは、モーニング娘。の顔であるなっち。なっちのみならずメンバーたちは「ピンチランナー」の頃より演技がこなれている感じで、やっぱり表舞台に出ている人たちだよな、という感じがするんだけど、中でもなっちは最も慣れてる感じ。この頑固オヤジの自治会長の娘で、アネゴ肌の彼女は少女たちの良き相談相手。意外にもこんなアネゴ肌も器用にこなすんだけど、ただね……彼女、優等生演技って感じで、ここから抜け出していけないような気も、するんだよね。破綻がなさすぎるというか。器用だし、決してヘタというわけではないんだけど、小さく完成されちゃってて、ちょっと惜しい気がする。そして、どうやらモー娘。の中ではなっちより人気があるらしい(理解に苦しむ)チャーミーは真生の従姉妹(つまり叔父夫婦の娘)。叔母が真生のことをやっかい者発言したのを聞いてしまった真生に「お母さんの言うことなんて、気にすることないよ。何でも私に言って」と、一見、いいお姉さんぶりなのだが、しかしお前、そんなこと言うよりも、自分の母親たしなめた方がいいんちゃう?

心の中でさまざまツッコミを入れながら、何とかガマンして観続けていたものの、つ、辛い。役者の演技のヘタさで辛くなるなんて、こんなんありかよお。最後の最後の最後まで、何かオッと思わせるもの、ないのかなあ、と待ち続けてたんだけど、あ、でも一瞬だけ、あった。お父さんの元に行くことを決意して、友達と別れるその日、バスに乗った彼女を河原から友達たちが見送る……この場面、皆して泣いてるんだけど、もう明らかに目薬状態でさ、それぐらいならまだ目こすってるだけの方がマシだったなあ、とゲンナリしている中、この真生が友達に手を振り続けて、そしてふっと気の抜けたように目を伏せる表情が一瞬、あったのね。それが何かリアルでオッと思った。だけど、これは彼女もそして演出も別に意図はしてないんだろうなとは思うけど、あまりに教科書読みのガチガチ演技を見せられていたからこんな表情が妙に生々しく思えちゃうのよね。

イジメッ子の友達との確執とか、その子の「うちの犬は血統つきで……」なんていうのも、もうダメなの。ただ言ってる、ただやってる、それだけって感じ。子供の頃、友達と上手くいかなかったり、イジメたりイジメられたりっていうの、ものすごく切実なコトのはずなのに、こーんなライトに見せられちゃあ、やってらんないよ。いや、脚本の上ではもっと切実なんだろうけど、この子たちにやらせると……あー、もう、ホント、見てらんない。実話を世に送り出した子供たちもホント、情けなくて泣くぜ、もう。★☆☆☆☆


この素晴らしき世界MUSIMe SI POMAHAT
2000年 123分 チェコ カラー
監督:ヤン・フジェベイク 脚本:ペトル・ヤルホフスキー
撮影: 音楽:アレシュ・ブジェズィナ
出演:ボレスラフ・ポローフカ/アンナ・シィシェコヴァー/ヤロスラフ・ドゥシェク/チョンゴル・カッシャイ/シモナ・スタショヴァー/イジー・ペハ/イジー・コデット/マルチン・フバ/ヴラジミール・マレック/リハルト・テサジーク

2002/9/9/月 劇場(岩波ホール)
滅多に観る機会のないチェコからやってきた映画は、戦争という重く深刻なテーマを扱いながらも、不思議なチャームに満ちた、そして未来への明るさを素直に感じさせてくれる映画だった。ふと、この彼らから望まれた未来が、つまり現代の私たちが、ちゃんと彼らの希望に応えているんだろうかとふりかえってみたくなるような。今まで戦争映画はいつでも重すぎて、そりゃ戦争をテーマにしているんだからふざけるわけには当然いかないんだけど、それだけにどこか別世界のこと、過去のこと、として遠ざけられているような感は少なからずあった。でも戦争の時代にも当然日常があり、緊張と不安の生活の中にも明るさがあり楽しさがあり、友達や夫婦や恋人の交歓があるのだ。この映画の中で、私たちをクスクスと笑わせてしまうこと、その多くは必ずしもそうしたものの範疇にすら含まれない、起こっていること事態はとても深刻で重いのだけれど、それが日常の生活の中に組み込まれている彼らにとって、決して特別なものではない。逆にそれが特別なものではなかったことが重要なんだ。ついついクスリと笑わされてしまうけれども、深刻にならないけれども、こんな時代を二度と繰り返してはいけないんだという、強い意志がある。

第二次世界大戦下のチェコの小さな町。ナチスの嵐が吹き荒れ、ユダヤ人が迫害され、人々はそれに心では反発しながらも、ただただ従うしかない。水面下ではレジスタンスの活動が機をうかがっている緊張の時局。ヨゼフとマリエの夫婦は、収容所から逃げ出してきた知人のユダヤ人青年、ダヴィートをかくまうことになる。見つかれば勿論、彼を追い出しても、かくまっていたことがバレて命が危ない。マリエに横恋慕しているのが、ホルスト。彼はナチスに協力していい目を見ているチャッカリ者。ナチスに反発しながらもハッキリした行動が起こせないヨゼフを自分の仕事に引き入れ、ヨゼフは街の人たちから白い目で見られる羽目に。それでなくてもダヴィートをかくまっていることで精神の磨り減る日々なのに……ついつい影でダヴィートのグチを言いまくるヨゼフ。見つかることを恐れて、かくまっているとはいえ殆ど軟禁状態に彼を閉じ込めるヨゼフにマリエは反発する。実はヨゼフとマリエの溝はそれだけが原因ではなかった。二人は子宝に恵まれない。マリエはそれに負い目を感じていたのだが、実は子種がないのはヨゼフの方だったのだ。

一見して悪人のホルスト。確かにクライマックス直前までは悪役に違いない。でも、明らかに悪役キャラである中盤あたりでも、このホルストはなぜだか憎めなくって困るのだ。彼ってば妻子がいるのにレイプ同然にマリエに迫ろうとするし、二人がダヴィートをかくまっているのをかぎつけてスパイみたいな行動に出て脅すし、呼ばれもしないのに勝手に押しかけて、しかもヨゼフはかつての上司だというのに態度デカいし、ホント、憎まなきゃいけない?ヤツだというのに、なぜだか憎めない。時局が劇的に変化し、レジスタンスがナチスとナチス協力者を、まるでナチスのユダヤ人狩りと同じように(ってところが、実にシニカル)ひっ捕え、ホルストもその例にもれず、捕まってしまうんだけど、産気づいたマリエの医者を探してレジスタンス本部へ駆けつけたヨゼフがホルストを見つけ、彼を救い出す。本当なら、あんな悪どいヤツを助けることなんてないと思うところなのに、やっぱりヨゼフが助けてくれたことにホッとするし、医者と偽って助けたホルストがまさしく医者となり、彼自身の経験を生かしてマリエの子供を無事取り上げるシーンに実に素直に感動してしまう。

ヨゼフがホルストを助け出すシーンでは「暗い日曜日」を思い出してしまった。「暗い日曜日」では、親友のはずだったラズロを収容人らの中に見つけたナチス将校のハンスは、彼を助け出さず、彼の役に立つ老研究者だけを助け出してしまう。本作ではまさに逆で、医者なんかでも何でもない、レジスタンスたちにとっては敵のナチスシンパのホルストを救い出す。でも医者ではないはずのホルストが、マリエの赤ちゃんを見事に取り上げ、ちゃんと本物の医者の役目を全うするんだから、素晴らしい。そういえば……「暗い日曜日」はハンガリーだし、これはチェコ映画だし、ナチスに容赦ない厳しい視線が辛いといえば辛いけど、これに関してはドイツ人自身も自己嫌悪の感情が強烈であるほどに、歴史の暗部であるし……でも結局は、ヒトラーという一人の人物の狂信的な行動が引き起こしたことなんだよね……たった一人の。人間って、やっぱり怖いなあ……つまりは善・悪、どちらにも転べる、ってことなんだけど。でもヒットラーと匹敵するほど、逆の方、つまり善の方に転べる人って、いただろうか?(ガンジーとか?うーん……)

当たり前なんだけど、人間って、全てが善、全てが悪、な訳じゃないじゃない?あるいは誰かから見た悪、誰かから見た善、ってだけで、単純に見えている事象だけで図れるわけじゃないじゃない?ホルストって、小ずるくてヤなヤツだけど、彼だって子だくさんの家族を抱えて稼がなきゃいけない事情だってあっただろうし、マリエへの横恋慕も、ある意味凄く正直だよな、なんて思うし。だから……一般的、客観的にホルストがヤなヤツ、と見えている筈の時点でも、ちゃんと彼がどこか憎めなくてチャーミングだっていうのが、凄いと思うのね。そう見えるように描けるのが。これが、大逆転、みたいに、悪人に見えても、人間いろんな面があるんだよ、なんて観客を反省させるみたいな感じだったら、やっぱりちょっと、説得力も後味も良くないと思うんだ。喜劇が悲劇より難しいっていうのはこのあたりで、ヤなヤツをヤなヤツとしてだけでなく見せるっていうのって、とても難しいことを、さらっとクリアしているのが、凄いんだよなあ。

こんな風にドラマチックをチャーミングにコミカルに描けるのって、このチェコという国が、実に近年まで凄い劇的!だっていうのが大きいんだと思う。本当に、ざっと歴史を紐解いてみると、ほんの数年前まで、そして現在でもものすごくドラマティックなんだもん!思えば、ついこないだまで、チェコスロバキアだったんだもんね。それが別々になって……ドラマティックなわけだ。平和ボケしている日本や、平和でいられるはずでも戦争やりたがるアメリカでは描けない味だね。戦争が時間の感覚的に遠すぎる日本と、基本的に戦争が好きなアメリカでは、やっぱり重くなっちゃうんだもん。何かね、何でスピルバーグの戦争映画とかが腹立つのか判ったような気がしたんだ。「プライベート・ライアン」とか「シンドラーのリスト」とかね。戦争の残酷なリアルさを見せなければ伝わらないとでも思っているっていう“戦争好き”がミエミエだったからなんだ。戦争の悲劇って、そうした肉体的な生々しさよりも、ずっとずっと心に残る気持ちの傷の方でしょ?そうした生々しさも、見てしまったという精神的ショックの方がより重要なんでしょ?このチェコの戦争映画は、その当たり前のことが実によく判っている気がしたんだなあ。クスクス笑えても、それだけ身近にあるからこそ、戦争の怖さが、愚かさがちゃんと判っている、っていうのが。

かくまったデヴィートが見つかりそうになって、酔ったフリして奇妙な踊りを踊りだしたり、子種の有無を検査するために訪れた病院で看護婦に「一滴でいいですから」と言われて憮然としたり、レジスタンスたちに証明するためにデヴィートを必死に探してやっと見つけて彼を頬に抱き寄せて泣きじゃくったり。ことコミカルな場面では、ヨゼフが圧倒的にスッテキ!である。キャラとしては小ズルいホルストが好みだけど、やっぱり母性本能をくすぐられるのはヨゼフだよなあ。ことに、自分たちの身を守るために愛するマリエを妊娠させるべくデヴィートにまかせる場面では、泣きつくマリエを突き放して二人を残して部屋を出るヨゼフが切なくて。でも、生まれた子供が皆に祝福されて、皆の、未来の希望の子供、って感じになったのには、ああ、良かった、本当に良かったあ。

ヨゼフ、マリエ、ダヴィート、と一見してキリスト教を彷彿とさせる名前が総揃い。中でもマリエはその名前の意味を充分に発揮する。前述の通り、彼女の夫、ヨゼフは子種がない。つまりは彼女は妊娠することはありえない。しかし、してしまうのだ。実際は妊娠したとのとっさのウソがばれないようにウソを本当にするため、ダヴィートに協力してもらっての妊娠だが、ここで生まれてきた子供は、やはり奇跡の子供に違いない。クライマックス。ホルストに取り上げられて皆に覗き込まれる彼は、皆の子供であり、未来の子供なのだ。そしてマリエはいつも聖母マリアを心の支えにしていた。しかも美しい女性だ。戦火の過ぎ去った街を、幸せそうに“我が子”を抱きかかえるヨゼフに(でもボトムも着せてあげてほしい(笑))、地球規模の、世界の、人間の幸福を感じてしまうんだなあ。★★★★☆


ごめん
2002年 103分 日本 カラー
監督:冨樫森 脚本:山田耕大
撮影:上野彰吾 音楽:大友良英
出演:久野雅弘 櫻谷由貴花 佐藤翔一 栗原卓也 國村隼 河合美智子 斎藤歩 三田篤子 小牧芽美

2002/10/15/火 劇場(テアトル新宿)
予告編を観て、これは一発で秀作だって、判った。こ、こ、この、ゴマフアザラシ君のようなセイの「オシッコとちゃうやん!」と天を仰いで言う表情を見た時からッ!「非・バランス」でめちゃめちゃ心をかきむしってくれた富樫森監督は、新たなお気に入りの監督さんになったのだ。あー、もう、めっちゃイイ!ハジけていながら、語るところはせつせつと語る腰の落ち着きと、映画中に気持ちが、感情がいっぱいいっぱいに充満しているこの感じ。この監督が素晴らしいのは、子供の心を描けること、そして児童文学を映画原作にするという道を確立しつつあることだ。「非・バランス」も児童文学だったし、本作も、そう。

本作は、富樫監督が敬愛し、以前助監督としてついていた相米慎二監督の「お引越し」と同じ原作者だという。それにしても、児童文学というのは実は映画に最も適したメディアではないんだろうか。普通の小説やコミックスなどと違って、物語の尺が映画とピタリとはまるので、原作ファンが物足りなさや歯がゆさを感じることもないし、脚本化する時に無理もない。あるいは逆にキャラクターや物語を膨らませることだって出来る。起承転結ハッキリし、ハラハラドキドキ、社会問題だって織り込んで。その割に児童文学って、評価が低いんだよね。でも、本好きの子供時代をすごした人だったら、絶対に夢中になって読んだはずじゃない?それに、それを忘れてもいないよね。それをこうして優れた映画にすることによって再評価させる、それが富樫監督なのだ!

し、か、も。富樫監督は、非・関西の人である。こおんな、カワユイ“ナニワの恋のメロディー”を描いちゃうのが、非・関西の人なんである。でも、非・関西の才能が描く関西って、こんな風にサワヤカで切ない絶妙の味をかもし出すんだよね。ベタ過ぎなくて、柔らかくて。思えば市川準監督や犬童一心監督だってそうだもんなあ。あー、でも、ホント、“ナニワの恋のメロディー”だよね!だって、制服なんだもん。小学生で。私、小学生から制服って何かスカした感じがするって気がして、あんまり好きじゃなかったんだけどさあ、これで一発で陥落しちゃったよ。ていうかさ、セイたち小学校六年生ぐらいになると、それこそこの映画のテーマでもある二次性徴の兆しが見えはじめて、子供特有の色っぽさみたいなものが現れてくるじゃない?それって、私服だとなかなか見えてこないんだよねー。セイなんてさ、こんな草食動物系のホノボノ顔をしているのに、結構足とかスラッと長かったりして、そして好きな女の子を追っかけて額に汗して走り回ったりすると、その額に汗で濡れた髪がくっついたりすると、何だろうなあ、妙に色っぽいの!セイには惚れるよ、ショタコンってことじゃなくてね。

実際、劇中でのセイの成長ぶりときたら、かなり目を見張るものがある。最初からこの子はナニがおっきくなって発射しちゃう、なんていう時の表情がぜっつみょう中の絶妙で、こ、こんな子がどこにいたの!?と驚いちゃう上手さなんだけど(うーむ、こういう時にはさすがにテレビドラマを見ていないことをちょっと後悔しちゃう)もともと上手いその子が、この劇中でどんどんたくましくなって、どんどん男っぽくなって、どんどんカッコよくなってくのが判るのだ。気のせいか、声もちょっとだけ低くなったような気がしたりして。特にあのクラマックス、剣道着のまま自転車に飛び乗って、大阪から京都まで爆走する、あの場面!偶然見かけたこの孫の姿に「凛々しかったわあ」と嬉しそうに言う祖母の言を待つまでもなく、全くもってセイの凛々しさ、カッコよさときたら、たまらないのだ!

この祖父母夫婦も、そしてセイの両親も、実に明るく、そしてラブラブなのが、またイイんだよねー。最初にこの祖父母が登場する時、セイにお汁が出た(つまり初めて射精したってことね。それにしてもなんつー言い方……)報告を受けていた二人は、セイを祝福し、その時祖母が描いているのが、裸婦が股をガッとこちらに広げている絵だってんだから……(笑)。このセイが先述のように自転車で駆け抜けていくのを見送りながら、チュッと祖母が祖父にやるのよ。きゃあああ、もお!で、驚くおじいちゃんに「いいじゃない」とニッコリ。こ、このおじいちゃんが、あの数学教授の森毅!これが実に似合ってるんだあ。

そしてセイの両親。あっけらかんと明るい母親は、登場、セイの部屋を掃除しながら「ハッとしてgood」なんかを口ずさんでるから、その世代が判る(私の年も判るな……)、若々しくて可愛いお母さん、河合美智子。お父さんは、そのお母さんとちょっと年が離れている感じの國村隼。「この子、お汁が出たんよ」とカラッとダンナに報告しちゃう上に、「これで大人になったということや。おかあちゃん、嬉しいえ!」とどこまでも明るいお母さんに、「お前にはデリカシーちゅうもんがないんか」といさめるお父さん。その間でうろたえながら右往左往し、何だかおたがい似ている柴犬と向き合ったりしているセイがもうなんともいえずカワユクて。お汁が出てからというもの、彼は自分の性の目覚めに戸惑いを隠せない。体育の準備体操で、体にピッタリでおへそが出るようなチビTを着た女性教師の腰のグラインドに釘付けになったりする(笑)。ただ見つめてる、あの適度に力の抜けた表情といい、うーむ、この子は天才かもしれない。

セイは京都に住んでいる祖父母の元を訪ねた時に、偶然出会った二つ年上の女の子にひとめ惚れする。聞きかじった名前を頼りに、電話帳を繰りながら“捜索大作戦”を繰り広げるセイ。いいやねー。ストーカーは愛の行為よ、まさしく!?でもさ、やっぱり小学生の時の恋が、一番真剣で一番ドキドキだったじゃない?相手を見るだけで心臓バクバクしちゃって、上手く喋れなくて。でも、見たくて、会いたくて、目はいつでもその子のことを探してて、みたいな。それがさ、いつの間にやらそういう恋の感情に慣れちゃうというか……ここまで、死にそうなぐらい、恋によって気持ちが揺さぶられることって、なぜだかだんだんなくなってきちゃうから、懐かしくて、そしてうらやましくて、そしてあの頃のその感情を思い出して、セイと一緒に心臓バクバクしちゃうのだ。

正直、セイの、そしてセイのクラスメイトたちの猪突猛進の恋の猛撃アタックには、い、いまの小学生って、好きな相手に対してこんなに積極的なん?とちょっとうらやましいようなオドロキなんだけど、でもそのドキドキ感はやっぱメチャメチャ伝わっちゃうんだよなあ。だってね、セイが初めてこの女の子、ナオをその目に止めた時のその顔!その表情が絶妙なのはもういわずもがななんだけどそれだけじゃなくって、顔が薔薇色に上気していくのが本当に判るんだもん。耳まで赤くなるのが。こ、この子って、ほんとーに何者なんだあ!かつてもてはやされたアダチユミなんかより数十段上手いわ、こら!吉岡秀隆の再来?末恐ろしわー。

で、セイはこの場面でナオにひとめ惚れするわけだけれど、後半、ナオのお父さんに言う台詞が、もうおねーさん、腰抜けちゃうのよ、良過ぎて。「初めて会ってひとめ惚れで、次に会ってふた目惚れして、会うたびどんどん好きになる」って言うのよー、この子ったら!!もう、こんなこと言われてみたいよ。っつーか、セイに言われたいよ、本当に!何でこんな台詞が出ちゃうかなあ、くそう、もう参っちゃうよ!
実はねえ、子供というのは地方で育つべきみたいな気持ちが私にはあって、それは私が地方育ちで上京した時のカルチャーショックが大人への通過儀礼だという思いがあるからなんだけど、まあ、それもちょっとしたひがみもあったんだろうな。だって、都会の子供もいいもんじゃん、なんて思っちゃったんだもん。やっぱり育ち方によるのかな。彼らは都会の雑踏の中で、大人の中にまぎれて、その中で自分の位置や尺度を常に図りながら、成長していくんだね。時々先走って大人ぶった方向にも行くけど、それもまたこんな風にすごく素敵なんだもん。

セイはもちろんだけど、セイをとりまく同級生たちが、実にいいんだ。セイはいつも仲良し三人組で行動していて、耳年増なことばっかりいうおませなニャンコと、好きな女の子に一途で正義感の強いキンタといつも一緒。見た目で言えばキンタが一番普通にイケてる感じがするんだけど、そうそう、小学生の頃って、なぜだかニャンコみたいなタイプが意外にモテちゃったりするんだよねー、などと思ったりする。キンタが一途に思っているのは美少女のユーミ。この子は本当に美少女ね。ジュニアアイドルなんだそうで、サラサラで長い髪が実に正統派のロリータ。でもユーミはニャンコのことが好きで、でもニャンコはワイ談は詳しいくせに、女の子には興味がないという、典型的な悪ガキ小学生。

そしてセイのことが好きな福俵さん。苗字にさんづけされて呼ばれちゃうタイプ。身に覚えがあるわ……。その名のとおり、福俵!って体現している感じの女の子で、彼女がケガしたセイを介抱する場面がもうバツグンなのだ。その豊満な体をピッタリセイにくっつけて、肩に手をまわして顔の傷を消毒する(笑)。んもう、見てるだけでテレちゃうわ。 彼女は、自分もクラスで一番早く生理が来て、胸も膨らんできて……と同じ悩みを抱える同志だとセイに語りかけるのだが、それはとりもなおさず、彼女の女としてのアピールに他ならない。「私とラブラブになってくれへん?」(す、すごい台詞。これ、使ってみたいわあ)と決死の告白をするも、セイから拒絶されて、思わず彼を池に突き落とす(笑)。いやあ、こんな若い頃から、ソーゼツな愛憎関係のもつれとは、今の子は大変だあ?しかしさ、いわゆる顔の造作とかスタイルとかいうのを別にして(って、凄い失礼か!)この福俵さんが、女の子として一番かわいいと思うんだよなあ。

ナオは、家庭に複雑な問題を抱えている。ただでさえこの年頃には女の子の方が大人っぽいし、穏やかな家庭環境にほのぼのと暮らしているセイは、彼女になかなか追いつけない。しかしそれも徐々に判っていって、おチンチンだけじゃなく、気持ちも成長していって、ナオもセイに対して、「好きかもしれない」という段階にまでこぎつけるわけだが。しかしナオ、最も気持ちが揺れ動くこの中学生という年代の時に、両親の離婚、そして再婚、父親の店の閉鎖、と次々と難題が続く。彼女はダメな父親の側につくことを最初から最後まで貫き通すわけだけれど、そういう部分に彼女の女としての本能が目覚めている感じがして、セイのかわゆい成長譚とは全く違う。外見的にも彼女、セイとデート?する時と、母親と久しぶりに会う時と、ファッションも表情もまるで違っていて、別人のよう。

このナオの父親っていうのが、カネにならない喫茶店にこだわって、妻にも出ていかれ、その店も潰す羽目になるんだけど、負け男の美学というか、ダメ男の悲哀というか、とにかく、どうしてもほっとけないような色っぽさがあって。それは当然、セイたちとは違う、大人の色気なんだけど、負けの色気、ダメ男の色気、なんだよね。これってねー、ただの男のセクシーなんかとは比べ物にならないぐらい、女の心にはグッときちゃうのよ、実際。もうこんなんなったら、娘も元妻に持ってかれても仕方ない、って感じでもはやヤケになって、人のものになってしまった店で彼があおる酒が、あれはバーボン?そんなところまで、なあんかもう、色っぽいんだよなあ。別れた妻だって、彼のこういうほっとけないところに、ホレちゃったに違いないんだけど、彼女は現実を見据えて、この男を捨てた。そして娘は、しっかりとこの母親の血を引いちゃったんだよね。もしかしたら、もっと色濃く。彼女はこのダメ父親についていくことを決意する。中学生の女の子って、世間的に思われているよりずっとずっと大人で、ずっとずっと女なんだよなあ。それでいて少女の思い切りの良さと繊細さを併せ持っている。そうでなければ、こんなロマンティックな決断は、出来ない。

そのことをセイに告げる場面で、自分一人で生きていけるようになるまで、恋はお預け!と宣言し、そんなあ、と泣きそうなセイにキスのプレゼント。「口が当たっただけや」と言って、ふと涙ぐむナオ。いいなあ、いいなあ、何かもう……ちょっとだけ大人の女になったナオとちょっとだけ大人の男になったセイの、今はこれがせいいっぱいの気持ちの交換が。こんな初恋がしたかったなあ。

ナオが同級生の女の子にムリヤリ男の子を紹介される場面がある。制服姿の男の子と女の子というのは、背も釣り合っているし、普通に画になっている。一方、ナオがセイといる時には、特に出会った頃は見た目はまんま姉と弟って感じでとてもカップルには見えないんだけど、でもこれがどんどんセイがカッコよく、たくましくなっていくじゃない?そうするとね、何だか不思議と背までがちょっとだけ伸びたような気がして、ナオと同じぐらいに見えたりして、最後には、剣道着姿の凛々しさで、ナオが同年代の男の子といた時より、ずっとずっとお似合いのカップルに見えるんだ、これが。

初恋のアイテムは、相手のぬくもりが残ったマフラー。ナオに巻いてもらったピンクのマフラーも違和感なく似合ってしまうセイがもおおお、たまらなく可愛くて仕方がないのだ。★★★★★


殺し屋1
2001年 128分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:佐藤佐吉
撮影:山本英夫 音楽:KARERA MUSICATION(山本精一・yoshimi P−we・ATR・HILAH)
出演:浅野忠信 大森南朋 塚本晋也 Alien Sun 寺島進 菅田俊 手塚とおる 有薗芳記 KEE 新妻聰 松尾スズキ 國村隼 SABU

2002/1/18/金 劇場(新宿ジョイシネマ3)
目を覆う残酷描写の数々と、やたらとキャラ立ちしまくっている登場人物たち。三池監督自身が望んだという、主人公の浅野忠信。……確かに三池監督の到達点の一つなのかもしれない。しかし何故だか……巷で熱狂しているほど、熱狂できなくなっているのは、何故だろう?かつてこそ、三池監督こそが今の日本映画の一番だ!と息巻いていたというのに……。原作漫画は未読だけれど、映画化が三池監督なら、映画と原作の対比など、それほど意味のない作業のように思える。ここには三池監督による「殺し屋1」しかないだろうから。

原作者(それにしても……カメラマンと同姓同名なのは!)は映画化の話があったとき、三池監督の劇場用デビュー作、「新宿黒社会 チャイナマフィア戦争」のファンで、さらに試写で「日本黒社会 LEY LINES」を観るに至って三池監督なら、と即決したという。そしてこの映画が出来上がって、原作者は本当に満足だっただろうか?というのも、私もこの黒社会三部作の熱狂的な信奉者であり、だからこそ三池監督に狂ったわけだけど、時を経るごとに、そして黒社会シリーズから離れるごとに、三池監督は急速に別の世界へと行ってしまった。もちろん、それに対して異議を唱えているのではない。それは三池監督が一つのパターンにおさまらない、成長し、増幅し、どこに行くのか判らない監督であるという点で、やはりバケモノ監督だということを指し示すことに他ならないのだから。それに、黒社会シリーズのほかにも三池監督作品でひれ伏したくなる作品はいくらもあるのだから。

でも、……そうだ、ことにメジャーに近付くにつれ、どうもツマラナくなってしまうんではないか、と思うのは、……うがった見方なのだろうか?判りやすいところでは「アンドロメディア」と「サラリーマン金太郎」はやっぱりさすがに……だったし、キャストも話もトンガッてはいたものの、思いっきり全国展開してしまった「漂流街」もそうだった。本作は決してメジャーというのではない。公開館数はもちろん、集結した個性的キャストも微妙なトコである。ただ、主人公が浅野忠信だということ……もちろん彼もインディーズ(とまでは行かないのかもしれないが)映画を好んで選んできた人だけれど、逆にその世界ではメジャーになってしまった人。そしてどうやら相当な人気があるらしい漫画が原作だということ、がかすかにメジャーな香りを漂わせる。メジャーに近付くと、狂い切れなくなる。……というのは、対比として「ビジターQ」あたりを想像しているわけだが……。例えば残酷描写で言えば、本作と「ビジターQ」は似たり寄ったり、あるいは「ビジターQ」の方がヒドいとも言える。そして同様に拒否反応を起こしながらも、「ビジターQ」に関しては否定しきれないものを感じるのは、監督が冷静な中にも狂っている、狂いながら冷静に演出している、と感じられるからかもしれない。

本作は、この描写と反比例するように、語り口はやけに静かである。この描写にしたって、用意したモノをうまく並べているという感じがする。それはキャストに関してもそうで、これほど役者たちがベストアクトを繰り広げている映画もないだろうという感じがするのだけれど、これもまた素材の配置や順番に腐心しているように思える。物語もキャストもちゃんと“狂って”いるのに、監督の頭だけが冷静で……それは必要なことのはずなのに、でもここでは監督にもちゃんと“狂って”ほしかったと思うのは、勝手な物言いだと判ってはいるのだけれど。

それにしても、今さら正視できないほどの残酷描写に拒否反応を示すほどヤワじゃないと思っていたし、映画表現としてのそれには大いに賛同する方だと思っていたのに、どうも今回のはダメである。自らの舌をナイフで切り裂くのを真正面からとらえ(それにしても、舌を噛み切って自殺とかよく聞くのに、舌を切っても大丈夫なものなの?)、女の乳首を引っ張ってかっ斬り、背中を無数のかぎで吊り下げて(……というのは、そのまんま「ザ・セル」なんだけど……これって残酷手口でよくあるものなの?それともどちらかのパクり?漫画にもあったのかなあ)その上に先ほどまでエビのてんぷらを揚げていた(ってあたりは、ウケたが)高熱の揚げ油をそそぎ、全身切り刻んで内臓がデロデロと部屋中に散乱し……。ああ、だから、監督のまなざしもまた狂っていたら、それこそこの描写にはまり込んで、観客のこちらも狂えていたかもしれないのに。

主人公はサドでありマゾである口裂け男の垣原。そしてそんな彼らしく「久しぶりに絶望してえよ、マジで」とその邂逅をひたすら夢見る運命の相手の殺し屋1。そりゃあ、残酷描写も必然であり、残酷であればあるほど、この世界をより忠実に再現するというものであろう。しかし垣原が、暴力が相手への最高の愛情だと信じることで、自分のみならず相手を傷つけることに対しても絶望的なほどの信頼を向ける男である一方、その相手のイチは記憶操作されているというものの、自分をいじめた相手を切り裂き、そのことによる陶酔感と矛盾する形での自己嫌悪で泣きながら射精する男だ。そんな彼らを冷静に見つめるべきだったのだろうか?監督の心は一体どこにあるのか?どこかに、誰かにシンクロする部分があったのか……?彼らがこれほどに、狂うまでに必死に生きているのに、それがまるで点景と見えるほどに、挟み将棋でもやっているみたいに淡々としていることにガッカリしてしまうのは、間違っているのだろうか?それとも、いつも複数の作品を抱え、驚異的な数をこなす三池監督にとっては何か一つ、誰か一人に肩入れする余裕などないというのだろうか?

結局これは、確かに好みの問題なのかもしれない。ただ、私はこの映画になら狂ってみたいと思った。この上ないキャスト、そして彼らの演技。どの映画に出ても果たして浅野忠信でしかなく、それが最もイイ形であらわれたナチュラル狂気、垣原の素晴らしさ。らせん状の階段の手すりから落っこち、「うわあ、ナンダコリャ、すげえよー!」とか言いながら落ちていく最期は特に鮮烈だった。今最も気になる役者、大森南朋演じるタイトルロール(なのだよ!いわば彼もまた、彼こそが主人公とも言えるのに、ちまたは浅野忠信ばかり言いやがって!)のイチ、これまた絶品で、平素からその訴えるようなまなざしに釘付けではあったけれど、それが最も似合う表情……泣き顔となり、しかもかなりオマヌケな甲羅スーツをまとって、目もさめる踵落としで殺戮を繰り返す彼に心から絶賛。そんなイチに育て上げたジジイ、塚本晋也のウラギリモノフェイスも、イチの怒りとオルガズムを誘う、フーゾク女のヒモの木下ほうかの暴力男も、サドっぷりを競い合う双子の松尾スズキの気味悪さも、垣原とは反対に真っ当な理由で親分に心酔している鉄砲玉、金子のSABUの哀しさも、そして彼の息子で父親を愛し、イチに憧れを抱き、ついには双方の手によって(と言っていいだろう)無残にも死んでしまう子役に至るまで、キャストたちはみなその役にそれこそ狂うほどに入れ込んだベストアクト。だから、本当にこの映画になら狂ってみたかった。もしかしたら、「漂流街」「天国から来た男たち」の時にも同じことを思っていたかもしれない。

今回は原作があるからではあるけど、でも三池監督って実はやはり、精液ネタが好きなのかな……。イチの射精の描写は仕方ないにしても、その白いネバ液の中からタイトルが出てくるなんて……うう、悪趣味。★★★☆☆


コンセント
2001年 113分 日本 カラー
監督:中原俊 脚本:佐藤佐吉
撮影:上野彰吾 音楽:大友良英 (メインテーマ)アディエマス
出演:市川実和子 村上淳 つみきみほ 木下ほうか 小市慢太郎 斎藤歩 不破万作 りりイ 梅沢昌代 芥正彦 二木てるみ 夏八木勲

2002/2/21/木 劇場(テアトル新宿)
アディエマスによるテーマ音楽が耳について離れない。叫びのように。でもその叫びは地底から響くように、天から降るように、そしてヒロインであるユキにしか聞こえない、生きている人間の肉声ではないようなイメージである。ユキは見えないものが見えてしまう、人が感じないものを感じてしまう、感応性の強い、いわば巫女的資質を持つ女性。自分を制御できない兄を世話していたが、彼が彼女から離れて一人、部屋の中で餓死し、その死体は“腐ってドロドロ”になってしまった。兄が残したメッセージ。「世界残酷物語」の中で見たはずの、しかし実際には映画の中には存在しなかったコンセントにつながれた男の話。彼が残した掃除機のコンセント。兄の死の理由を知りたくて自ら意識の深層世界に切り込んでいく彼女は次第に自分の巫女的能力に目覚めてゆく。

コンセントからイメージされるのは、もちろん、性的なイメージ。劇中でユキのかつての思い人、心理学の教授もそう言及するし、ユキ自身、自らを「誰とでもセックスするすごく男にだらしない女」と自嘲する。しかし、彼女が寝る男たちは、いや、彼女がセックスしたいと嗅ぎわける男たちは、彼女に“治療”されるべき男たち。というのは、結果的にユキがセックスセラピストのような行為をする、というラストに安易につながることもそうなのだが、彼女が見えないものを見、感じないものを感じる、といういわば感性をセックスにつなげて考えると実にスッキリする。最も敏感で、感じられる部分によって感じ取る巫女。それは硬い表皮に包まれた頭に神様が降りてくるとかいうのよりもよほど説得力がある。“女は子宮で考える”なんて言ったのは誰だったか、なるほどなかなか真をついているけれど、でもそれは少しだけ間違っているのだ。子宮のもっと手前、世界中で最も繊細で敏感な部分で感じ取り、吸い込み、子宮の中でそれを慈しみ、治癒し、育む。巫女は絶対的に女性、だというのも、そんな部分で妙に納得できるのである。

セックスがセラピーになるとか、いわゆるレンアイの愛ではない愛、という描かれ方は、「純愛譜」で粟田麗が演じたリエを思い出させる。ユキは世間的には尻軽女に見えるような部分を残しているところがちょっと俗っぽいかな、という気がするのだが、それこそリエはそうしたものもすっかり突き抜けた、セックスに対する考えを新たにさせるキャラクターだった。セックスといえば愛が生み出すものなのか、欲望だけなのか、それは男と女ではやはり違うのかとか、そういう部分がどうしても言いたくなるものだけれど、ちょうど私は寺山修司を読んでいて、彼が“セックスは言葉であり、愛について語ることは愛することである。それならば、セックスは愛である”といった趣旨のことを言っているのに対して、ああ、これほど上手く説明できるものはないなあ、と、ちょうど「コンセント」を観た時と重なったものだから、積年のナヤミがまたしてもむしかえされたところに、それが解決したような思いがした。セックスは言葉であり、言葉は愛である。それぞれがイコールでつながってゆき、無理に飛び越えて語ることではないのだと。

“いわゆるレンアイの愛ではない愛”などと言ってしまったが、そうした分け方さえもヤボなのかもしれない。それこそ寺山修司は、相手が誰であろうと愛することが出来るし、10秒の愛も、10年の愛もある、と言っていた。セックスが愛だとして、ユキやリエのような女にそれを当てはめて考えるのならば、レンアイの愛に限らず、セックスは全ての愛に通じるのだと。しかしまた、愛というのもかなり相対的というか……もっと言ってしまえば、私は愛というものは存在などしないのではないか、と思うことがある。例えばこれを指さして、これが愛だ、などということは出来ない。人の心の中の気持ちの波を、それぞれが独自に判断して、これが恋ではないか、これこそが愛ではないかと思うだけであって、その基準など目に見える形で決められるものではないし、愛という言葉だけが宙空にあって、人びとがそれぞれその言葉に対して照射させているのは、もしかしたらおのおの全く違うものなのかもしれない、という気がするのだ。

恋とか愛ではなくて、好きだという単純な感情ならばそれこそ単純に規定できる気がする。ユキが出会う(正確に言うと再会する)律子は、「私も(ダンナの)山岸も、ユキのことが好きだよ」と言う。ユキがうろたえるほどに、こともなげに。律子は“好き”だという理由の元に、ユキを手助けするために自分のダンナがユキとセックスしても、一向に平気である。山岸はそんな律子を、興味ある人間をいじり倒す女、と罵倒し、そのことによってかつて律子の友人が自殺したこともある、などと喝破する。ユキは最初こそうろたえたものの、“見えてしまう”彼女には、律子の“好き”が本当に純粋の“好き”であり、友人の自殺も、律子が原因ではないことをきちっと感じ取り、彼女自身で立ち直れるのだ、と律子の背中を押す。ここに存在しているのは、ユキと律子の間につながっている、純粋な“好き”だという感情であり、それはもう、子供の時から、赤ちゃんの時から、様々なものに対する唯一の判定基準だった感情であり、この感情だけで生きてゆけたらどんなに幸せだろうと思うのだ。

ユキは兄に対して、自分の女の部分を武器にして、いわば誘い込むようにして兄を自分の管理下に置いた、と国貞教授に吐露した。彼の恋人のようにふるまった、と。しかし兄とはもちろん、実際に恋人であった国貞とも一線は越えなかった。国貞はユキに対してマザーコンプレックスのようなトラウマを感じていたからだが、ユキの兄に対する感情は、兄であるからという道徳心というよりも、“好き”が恋や愛(と世間が規定したがるもの)に変わっていくことの恐れがあったような気がするのだ。あるいは国貞とも、彼の方にそんな気持ちがあったかもしれない。更に言うと、兄の方がユキに対してそんな気持ちがさらさら無い、“コンセントを抜き差しできる人間”としての優越感の方が勝っていたことに対する、嫉妬のような感情があったのかもしれない。そんな彼女の深層意識下をあぶり出すように、彼女はやたらと奇妙な夢を見るようになる。実習旅行?先で国貞との関係がバレそうになった時、彼がしらばくれるとか、兄が自分の拒絶に絶望したかのように、煙のように消えていくとか……。

形状だけではなく、通電するという意味でもセックスを想起させるコンセント。兄の残した掃除機のコンセントの先端を、バッグの中にお守りのようにして大切に持ち歩くユキは、……そうだ、さながら阿部定のよう。とすると、それを切り取ってくれた、ユキほどではないにしても何かを感じ取ることが出来るらしい、特殊清掃屋のお兄ちゃんはナニモノ?でも、でも多分、あのコンセントは……多分通電することなく終わったんじゃないかって気もする。何もゴミのたまっていない、未使用状態の掃除機だったから。じゃああれは、兄の思い残したことのたっぷりある、切ない抜けがら……?形見、って、その人が大事にしていたものを、その人と一緒に過ごした時間をはらんだものを、っていう含みがあるけれど、このコンセントはそういう意味では、託せなかった思いと時間が、通り過ぎて行ったのを見送った、っていうような空しさを感じさせる。兄は、“腐ってドロドロ”になって死んだ。でもその死に方は、餓死であり、それは体の中の毒をキレイに取り去って、なおかつ“ドロドロ”という人間という形のこだわりを失わせる死に方で、それは原始的な、神聖な儀式めいたことすら感じさせる。無に戻ろうとする神聖さを。

この清掃屋のお兄ちゃんを演じる斎藤歩という役者、初めて見ると思ったら、北海道の演劇を引っ張っているお人なのだとか。ああ、やっぱりそういうのって可能なんだ。何でもかんでも東京に出なきゃダメとかいう意識がどうしてもある元来イナカモノ気質の私は、こういう人に出くわすと、何だか小さくなってしまうなあ。そうしてこうやって中央の作品にも出たりして。……尊敬してしまう。無論、彼だけではなく、ユキを取り巻く登場人物たちは皆一様に魅力的だ。劇中、ユキの最初の相手で、危なっかしいユキをほっとけなくて、結婚しようとする木村役の村上淳は演技力もセンスも存在感も、出演作を重ねるごとに倍速で成長している。やっぱりお父さん、だからなのかな。このかすかに感じる独特の包容力は……。それにこのキャラ、ユキが「唯一の友達」(その友達の定義は、酔っぱらって電話をかけられる人、なんていうものなのだが、でもそれって、ステキよね)と言い、彼もまたユキのことを友達として大事に思っており、ああ、うらやましいなあと思うのだ。唯一の友達でも、その友達がこんな風だったらな、などと……。ユキの運命のカギを握るシャーマニズムを研究する律子のつみきみほ、「桜の園」が忘れられない中原俊監督の決定玉。映画では久しく見なかったけど、いい女、いい女優になっちゃって嬉しい限り。この役って風変わりだし、ユキと同様かなりむずかしいと思うんだけど、さすがキャリアを積んできただけあって、しっかり説得力がある。

そして律子のダンナ、山岸役の小市慢太郎のステキなこと!えー、こんな人、初めて見るよ、と思ってフィルモグラフィをチェックしたら、そんなことはない、見てるはずなんである。「ココニイルコト」とか……えー、でも、覚えてない……。彼は登場してきた時からその優しげな存在感に釘づけで、関西弁も優しくて、演技もすごくしっかり踏んでいる感じ。顔立ちはちょっとうじきさん風?うわー、この人ステキだよー、とすっかり見惚れる。いやあ、あとの残りの男性キャストがね、国貞教授役の芥政彦のあまりに確信犯的なクサさとか、兄役の、キレそうな自分を抑え抑え、そして死んでからも亡霊(というより、ユキが心の中に住まわせている)となってあらわれる様も異常にハマり過ぎて心配になる木下ほうかも、そういう感じで、イイ男とは程遠いからさあ、専門的な領域からユキにヒントを与えて救おうとするこの彼がやたらとステキに感じられるのよ。

そして何といってもヒロイン、市川実和子!こっ、これは……。すでに「リリイ・シュシュのすべて」で見ている筈なのに、彼女の異形とでも言いたい唯一絶対のオンナ像にはひれ伏せんばかりに、脱帽。異常に大きく立体的な瞳と、エッチっぽい唇と、スラリと(ホント、実にサッパリと脱ぐのよねー。一般映画の女優さんとは思えんほどに)脱ぐと形のいい胸やお尻と、激しいセックスシーンがどこかアッケラカンと、しかし濃厚に官能的なのと、その時に絡みつくように乱れる長い長い黒髪と……。かなり口をポカンとあけて彼女に見入ってしまう。この顔と、アソコのみならず全身が敏感に感じやすそうなあたりが、全身ユキ、という感じである。主演デビュー作にしてすでに代表作を得てしまったかのような危険性をすら感じてしまう。奇妙な酒をハダカのままちびりちびりとやる様もミステリアスでエロティック。広田レオナをほうふつとさせるような、エロスのカリスマ的力量をもたたえており、こんな女に捕まったら、一生狂わされそうな凄みがある。広田レオナ型だなんて、本人以外に出てくるわけないと思っていたのに、嬉しい誤算!

全身ユキ、などと言いつつ、私は原作を読んでいないし、どうやら作者も、そしてBBSをちらりとのぞいた限りでも、わりと原作からは離れている部分の方が大きいらしいのだが。確かにどこかアッケラカンとした部分はあったかもしれない。それはヒロインを演じた市川実和子によるところも大きいような気がするが、原作との違いも映画の醍醐味であるしね。CG処理はおおむね違和感は無かったが、空を飛ぶユキだけはちょっと、ね。しかし思わずナルホドと思ったのは、一般の私たちが20%の脳しか使っていなくて、ユキの兄のような人たちは100%、全てで受け取ってしまうから、そのままではパンクしてしまう。だから彼らは“コンセントを抜く”必要があるのだと。そしてそれを一般社会では精神病とかいうカテゴリーで彼らを囲ってしまうのだという話。よく天才とナントカは……などというけれど、冗談じゃなく、本当にそれって真実なんだ。でもそういうのって、確かにそう感じることはよくある。知的障害者たちのドキュメンタリーとか見ていると、彼らの方が真の天才なんじゃないかって、本当に思うもの。……何か考えちゃうというか……落ちこみに近いような感情に襲われてしまう。★★★☆☆


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