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「よ」


2006年鑑賞作品

欲情ヒッチハイク 求めた人妻
2005年 分 日本 カラー
監督:竹洞哲也 脚本:小松公典
撮影:創優和 音楽:與語一平
出演:夏目今日子 華沢レモン 葉月螢 那波隆史 松浦祐也 石川雄也 竹本泰志


2006/4/16/日 劇場(池袋新文芸座/第十八回ピンク大賞AN)
軸は大人の再会ラブストーリーになってて、それに若いカップルが絡んでくる、しかもヒッチハイクで、なんぞというところに、なあんとなく「幸福の黄色いハンカチ」を思い出したりしてしまった。
あの作品と違って大人の再会は初恋が甘酸っぱく破れさり、しかしそれでも別れたそれぞれはこのふんぎりをいいキッカケと思い出に、新たな仕切り直しで歩んでゆく、という力強さがあるんだけど。でも、若い二人に自分たちには出来なかった青いままの希望を育てていくことを託すあたりは、「もし、ならば」を出来るならば、というほろ苦さを感じる。

この再三出てくる「もし、ならば」ホント、印象的なんだよね。もし、はないよ、と再会した初恋のカレは言う。二人の別れはあまりにもお定まりの、どちらかが東京に行ってしまって、それについていくだけの勇気がなかったってヤツ。でもこれが、夢を求めて東京に行ったのが女の方だというのは当世風かしらん。
ダンサーを目指していたんだという。ヒッチハイクで拾ってくれた女の子がダンスが得意だと言ったことに、昔の自分を重ね合わせる。何が踊れるの?と問われて「ランバダ」と答えたのは、キョトンとされたから冗談にごまかされたけどちょっとホントだったりして。
なんにせよ、相手がいなければ出来ないダンス、つまりはソシアル系のダンサーを目指していたらしい。
しかし多分、夢破れ、その時に出会った相手なんだか、とにかく結婚して今は人妻、夫に浮気されたという至極まっとうな理由で家出をした彼女、冒頭ピンクのお約束に、拾ってくれたヤローと一発カラみ(ここはトラック野郎でいってほしかったなあ)、その次に拾ってくれた方向音痴の女の子の行き先が長野だというのが、運命のいたずらだったのだ。

っつーわけで、ヒロインはアダルティーな人妻で、誘惑してるわよといわんばかりの、純白のミニスカワンピースに、華奢なヒール、お帽子にスーツケースというエロセレブないでたちである。人妻を意識してか、メイクの濃さというか粉っぽさがミョーに気になり、アップがちょっとキツいなあ。
まあ、これも脂粉のあでやかさというヤツなんですかね……ちょっと私はニガテだが。

あのね。同じく人妻として出てくる……つーか、これはカラミの数こなしで妄想シーンで出てくるだけなんだけど、もうすっかり妖艶になった葉月螢がね、そういう意味では実にこなれているからさあ。
妄想の中だから思いっきりフィクショナルで、真っ赤な肌襦袢に腰まで届くストレートヘアーを振り乱し、旅館のご主人(ヒロインの元カレね)とねんごろになる。このシーンは本編とはなんら関係ない、ホントカラミの数こなしとしか思えないんだけど、欲求不満の未亡人、という萌え萌えの設定の彼女、位牌で愛撫を強要するのも笑えるけど、その位牌に許してねと拝んで、しかも見ないように??反対側に向けて、しかし、許して、許して、といいながらヤッちゃうのがもー、爆笑なのよ。
この作品、全体的にコミカルな雰囲気はかもし出すも、本当に笑えたのはさすがベテラン、葉月螢の出ているこの一場面、しかも本編には何ら関係なく、なくてもオッケーなこの場面だけというのが、なんか皮肉だったりするんだなあ。

あれ?で、何が言いたかったんだっけ……あ、だから、葉月螢は人妻(つーか未亡人だけど)役でも、そんな粉っぽい人妻メイクのわざとらしさがなかったんだよね……やはりこのあたりはベテランの差かなあ。
このヒロインの夏目今日子さんという人、ピンクにしてはもういい年ながら今回新人女優賞とってたし、どういう経歴たどったのかちょっと興味あるけど、とにかく新人さん、なんだよね。
ちょっとね……やたら語尾を長くまわす台詞回しが気になるんだよね……。それも、地というより、このキャラに演技でつけているみたい。まあつまり、昔の自分たちを見るような若いカップルを見て、もう若くない、ちょっと悟ったような感じ、をイメージしているっぽいんだけど、これがなあんか……とってつけたような演技くさくて、どーにも気に触るんだよなあ。

ま、それは単に私の好みの問題だけどさ。そういう点でいけば、ヘンな小細工しないでチャキチャキと小気味良かった、若いカップルの方の女の子、華沢レモン嬢の方がずっと感じが良かった。
これが不思議なことにね、この日受賞式に現われた彼女、つまり素の彼女は、「それで〜、だから〜」みたいに今のワカモン風に気に障る語尾の延ばし方の喋りっぷりで、あー、私ダメだこの子、とか思ったのに、映画の中ではそういうのもなくって凄く感じがいいんだよね。
小細工してないように見えながら、自然体の女の子に見えるようにきっちり計算してるなっていうのが、ああ、こういうのが女優っつーことなのよね、つまり、などと思うんである。

あー、なんか小難しくツマンナイことを言っちゃったな。先行こう。
あのね、面白いのは、このヒロインがこんな事態……家出してヒッチハイクなんてことになった原因であるダンナは、全然出てこないの。あ、ラストに迎えに来た姿はちらりと現われるけど、携帯メールの絵文字使った文面や(「絵文字かよ!」と舌打ち気味に彼女が言うのが可笑しいのだ)、彼女が話す様子からも、この事態を理解しているとは思いがたい、どうにもノンキなダンナらしくて、浮気を、しかも何度もしたらしいのは確かに女として許せないんだけど、なんか見てる(聞いてる?)限りではあんまり憎めないんだよね。
つまり、ヒロインは自分の中にちゃんと消化しきれていない過去があって、それは彼女自身で気付いていないだけで、いや見ないふりをしてて、ダンナの浮気を理由である家出は、単にそれが発露した形だったのかも、長野に行く女の子に出会ったのもその延長線上にあった運命だったのかな、と思う。

ヒロインは故郷に着いても、実家には帰らない。向かったのは元カレが後をついだ小さな旅館である。元カノの突然の来訪にいまだに初々しく戸惑う元カレを「テレ屋なとこも、優しいとこも、全然変わらない」と懐かしげに、そして愛おしげに見やる彼女。
そして、彼女をヒッチハイクで拾ってくれた女の子が、遠距離恋愛中だったという、この地に住む恋人とともにこの宿にやってくる。どうやら、ワケアリらしい。いやワケアリってほどじゃない。まあよくある話。二人の仲を、彼の両親が反対してるらしいのだ。
この若いカップルはもどかしくて、どうやら勢いだけで駆け落ちっぽく出てきちゃったらしく、その勢いが早くも下降気味なのを、女の子の方は気にしているのね。

でも、彼女が心配していることと、彼の悩みはちょっと違ったのだ。むしろ、彼女の心配は、大人が考えるような俗っぽいそれで、彼はそんなとこまでまだ到達してなくて、彼女のこと好きだから、好き過ぎるから、悩んでるんである。
彼は、絵が好きで、絵描きになりたいと思ってる。彼女もそれを応援してくれてる。でも今は、隣に寝ている彼女の方が気になって仕方なくて、そんなこと知られたらこの先の未来が……っつーか、そんなの表面上の理由で、つまりは彼女に嫌われるかもとか思ってるんでしょ。
カワイイよねー。男の子にそんな葛藤があることぐらい、同じ年の女の子は先刻承知なのにさ。
でも、その表面上の理由をヒロインの元カレはちゃんと判ってくれて、いくつもある未来の可能性をいくら考えても仕方ない、今出来ることを手探りで進むしかないんじゃないか、とアドヴァイス、目からウロコの男の子、彼に頭を下げ彼女の元に走り、絵での初々しいプロポーズ、そしてそして、尽きることない情熱のセックス!

何度となくきしむ二階の様子を聞きながら、俺たちもこんなだったかなあ、なんて酒を酌み交わしながら話す二人。きっとあの頃は酒なんて呑めなかったのにね。もしあの時別れていなかったら……マジな視線を絡めてる彼女に、俺もずっとそう考えていたと彼も言うけれど……出来ないんだと。結婚が決まったんだと。
それを言ったら彼女だって人妻なんだし、それを押して言ってるんだからむしろ可能性はあるのに、彼がそう言うことで、現実に引き戻されちゃう。結局は、あの過去は甘い夢。当時の関係を続けることが出来ずに今こうして再会しているんだから、その時点に戻ることを考えるのはあまりに冒険なのだ。

もし、はないんだって、彼はずっと言っていた。大人は、今の条件と天秤に図ることを常にするの。そして0.1パーセントでもムリだと思ったら、踏み出せない。
だから、若い頃の思いをあきらめずにそのまま続けていたら、と夢見る。少しでも離れてしまったら、だからもう、ほぼ、ダメなの。もう一度冒険が出来ないのは大人が弱いんじゃない。いや、弱いんだけど、若い頃と比べて弱いのは、理由があるのだ。若い時は、それが一番最初の体験だったから、その前がないから、もし、がないから、強いんだよね。

たった一晩の未来もないの?と彼女は食い下がり、たった一晩の未来、つまり最後の思い出をやりなおして、二人は終わる。それは、二階で軋んでいた若いカップルのように、何度も出来るもんじゃない、この先の人生の糧にするぐらいのことしかできないような、湿度の高い、一回きりのセックス。
そして、彼女は、若いカップルを送り出した後に、風の赴くままに、と歩き出す。しかしバス停にダンナが迎えに来てる。風とともに去りぬ、みたいな女の強さを感じた直後だったからちょっと拍子抜けだけど、こんな、判ってないノンキな、でもきっと単純なダンナだからいいんだろう思う。これから先も、浮気したらこんな風にプチ家出をしちゃえばいいのよ。そして、きっと、お互いに新鮮な気持ちを思い出すんだから。

「ここ、日本?」ともらすような、地平線がのぞめるような山間風景や、ヒロインが元カレとデートしたという、牛の放牧場ののどかな景観に癒される魅力も捨てがたい一品。★★★★☆


ヨコハマメリー
2005年 92分 日本 カラー
監督:中村高寛 脚本:――(ドキュメンタリー)
撮影:中澤健介 山本直史 音楽:Since(コモエスタ八重樫/福原まり)
出演:永登元次郎 五大路子 杉山義法 清水節子 広岡敬一 団鬼六 山崎洋子 大野慶人 福寿祁久雄 松葉好市 木元よしこ 五木田京子 福寿恵美子 三浦八重子 山崎正直 山崎きみこ 湯田タツ

2006/5/9/火 劇場(テアトル新宿/レイト)
ありえないくらい顔を真っ白に塗り、濃いアイメイクに真っ赤な唇、そしてフリフリのドレスという姿で横浜の町に立ち続けたメリーさんを追うドキュメンタリー。一見してオバケかとギョッとしてしまうような異様な風体の彼女は、当地では有名で、そしてこの街にずっとい続けた伝説の人。でも今はここにいない。数年前のある日、突然、姿を消してしまった。彼女を知る人たちのインタビューを中心に、彼女を通して戦後日本をあぶり出す。

最初のうちは、メリーさんが今生きているかどうかも判らない、という地点で語っていく。彼女には本当にナゾが多い。どこの出身なのか、本名は何なのか、いくらなんでも娼婦としては機能しない年齢になっても、なぜ横浜の街角に立ち続けたのか、そして……彼女自身はこの人生をどう思っていたのか。
最後の問いに関しては、本当に判らない。メリーさんを知る人たちに話を聞いている時点では当然、彼女は写真で点描されるだけで言葉は発しないし。ラストに現在のメリーさんは出てくるけれど、一言か二言、喋ったくらいかなあ?
なんだかそれが、とても潔いことに思える。彼女が横浜にい続けた理由も、恋人だったアメリカの将校さんが帰国してしまって、いつか帰ってくるかもしれない、と待ち続けたからだと言われるんだけど、あくまで周囲の人の推測で、彼女自身の言葉はない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

メリーさんが横浜にいた頃って、私も横浜に住んでたはずなのに、知らなかったなあ。有名だったみたいだけど……でも、伊勢崎町にはほとんど行ったことなかったし。
監督自身は、映画館でよく彼女を見かけたという。そして当時の海外公演のプロモーターさんの談話が出てくるんだけど、会場に彼女の姿があれば成功を確信したんだという。もちろん彼女は自分が興味を持ったものを、自らチケットを買って見るのだ。
このハイカラな街、横浜で、最後の最後までプライドの高い娼婦として街に立ち続けた彼女は、やはりそんなところからして違うのだ。

監督自身はメリーさんの映画を撮ろうと思ったわけではないという。横浜で彼女と親しい人に出会って話を聞く機会があり、興味を持った。
戦後からずっと街に立ち続けたメリーさんを追えば、そこには自然と日本の戦後史が見えてくる。実際そういう方向での興味深いドキュメンタリーとして高い完成度で成立しているんだけれど、でもやっぱりこの映画が素晴らしいのは、彼女に関わる人たちを通して人の心が見えてくることだ。いわば人の心の戦後史とでもいった趣。
その中でも、彼女が横浜にいた最後の何年かを支え続けた、永登元次郎というシャンソン歌手がもっとも心を打つ。

私、彼も知らなかった。この人も当地では有名らしいんだけど。
彼は、ゲイである。メリーさんほどではないけどメイクにはこだわる。普段のスッピン姿も、どこかフェミニンである。
メイクってやっぱり、女であることに、こだわるってことなのかなあ……メリーさんも、元次郎さんも。そしてそうした女であることは一種の仮面でもある、と思う。女であることなんて、本当はしんどいのだ。でも女を捨てたら、自分の価値がなくなってしまうかもしれない。特に母にもなれない女は、女自身であることにこだわるしかないのだ。

この元次郎さん、彼が主人公かと思うぐらいである。彼は末期のガンに冒されてる。実際、この映画が完成して、こうして公開されるようになった今、彼はもう、いない。スクリーンの中の彼は末期ガンにはとても見えないふくよかさで、それがなんだか返って、彼が今いないから、痛々しいのだ。
彼の歌う「マイ・ウェイ」にはとても……心打たれる。
「マイ・ウェイ」って、こんなのカラオケで歌うな、みたいなさ、本当に人生の辛酸を舐めた、ベテランの歌手が歌うべきだって、言うじゃない。
まさにその通りだし、今まで何人かの歌手が「マイ・ウェイ」を歌うのを聞いたことがあったけど、本当にこの曲に心打たれたのは初めてだった。
彼の歌うマイ・ウェイは無論、ガンに冒されてる自分を含んでもいるけど、自分の晩年に関わることが出来たメリーさんの存在があるから、もう、ムチャクチャグッときちゃうのだ。

彼は若き日、男娼の経験もあった。彼にとっては辛い経験だったんだろうけれど、メリーさんの人生の苦しみを、少しでも判ってあげられる、魂を分かち合える、そういう意味で、彼はその経験に感謝したかもしれない。
なんかこういうのって、ホントに、魂の部分での同志って感じがする。
元次郎さんは、メリーさんのためにいろいろと奔走した。「自分の部屋がほしい」メリーさんがぽつりとそうつぶやいたから、元次郎さんは彼女のために奔走した。
メリーさんは住民登録をしていないから、それはとても困難なことだったんだという。
プライドの高いメリーさんが、そんな弱音を口に出すなんて、よっぽどのことに違いない。

メリーさんは、施しが大嫌い。ただ生活を援助すると言っても、絶対に首を縦に振らない。さすがにこの年で娼婦稼業はムリだけど、満員のエレベーターに乗るのに背中を押してあげるとかして、チップを受け取ったんだという。
というか、メリーさんが何十年も人生のほとんどをこの横浜で過ごしていたにも関わらず、定住の場所がなく、ビルの廊下で寝て、クリーニング屋さんの更衣室で着替えて、みたいな生活を続けていたというのが、凄すぎて、信じられなくて。
いつもいつも人目にさらされて、哀れみや同情や、蔑みの目線だってあったに違いないじゃない。そんなの、耐えられない。
信じられないほど、強い。誇り高く生きてきたんだ。でも……やっぱり、疲れてた。それを元次郎さんには言えたんだ。

横浜の、そして日本の戦後の喧騒の時代、メリーさんを通しつつ、その時代を懐かしく恋しく思い出すおっちゃんたちがイイ味出してるんである。「根岸家」という伝説の料理屋は当時24時間営業、アメリカ人の兵隊や船乗り、日本人のヤクザやごろつき、そして彼らにたかる娼婦たちが出入りする、つまりは一般人からはかけ離れている場所であり、そこで青春時代を過ごした人に話を聞くんだから、マトモな人なわけがないんである。
ここでインタビューに応じる人々は、いまだに思いっきり不良“中年”である。元愚連隊(って、肩書きがまず凄い)のオッチャンなんて、元じゃなくて、今もじゃないの?というヨコハマッ!なカッコが似合い過ぎるロックな老人だし、他にも、若い頃何やってたんだよ!てな感じで今の姿はいかにもコワモテ……つーかまんまヤクザなおじさまがたが、実に懐かしそうに、今は駐車場となってしまった根岸家跡地で、当時の間取りまで丁寧に解説するんである。「24時間やっていたから、行けば誰か知っている人に会えた」と。

この中で興味深いのは、ただ娼婦といっても専門分野があるということである。
黒人相手、白人相手、口の聞けないおしの娼婦なんていうジャンルまであった。
男性は敗戦で元気がなくなった。でも女性は元気だった。そして、戦っていた。まさに、体を張って。
メリーさんは、その中でエリート相手の高級娼婦だった。いつもつんと済ましていて、だからあたし、メリーとケンカしたことあんのよ、と語る、きっぷのいい芸者さんが印象的である。彼女もまた生涯現役芸者って感じのカッコよさで、若い頃はさぞかし小股の切れ上がったイイ女だっただろうと推測される。
そういやあ劇中、彼女がステージで三味線を聞かせるという、当時の芸を守ろう会みたいな催しが描かれたりもする。
メリーさんはもちろん、彼女たちがいわば青春時代を過ごしたそうした“芸”ってのは、当時はそうしたごく一部に必要とされていたいわばアウトローであり、それを充分自覚した上で、一般的にはアウトローである彼女たちは、だからこそ誇り高く生きてきた。時代を経て、それこそがカッコイイ、残していこうじゃないかと言われる今の時代は、それはとてもステキなことなんだけど、なんだかでも、本当に判ってるのか、当時の彼女たちの真剣さ必死さを、ただカルチャーとして押し込めてしまっているんじゃないかって、そしてそれは、この時代の私たちの、重いものがなんにもないってことなんじゃないかって、なんか……思ってしまう。

エイズの恐怖が世間に突如として出てきて、動揺や偏見が急速に広がったのは、まだ記憶に新しい。理解が深まったはずの今でさえ、偏見はまだまだぬぐいされない。だから当時のそれがいかにひどかったか。
つまり、娼婦(であった)メリーさんは、あらゆるところで差別を受けるのだ。
例えば行きつけの美容室、彼女に使ったクシやなんかを使われるのはイヤだと、そしてあの人が来るなら私は来ないとまで言う客のために、メリーさんを断わらざるを得なくなってしまった。
でもメリーさんはいつも来てくれて、一度だけプライベートな話もしてくれたのだ。多分、かつての恋人からもらったのであろう指輪をなくしてしまって意気消沈し、でもその後、見つかったのよ、と嬉しそうにに話していたメリーさん。
ここの女店主にインタビューをしていた時には確かに美容室だった、でもその後、どのくらい時が立ったのか判らないけど、撮影期間中に、おかみさんは美容室を閉め、別の場所でスナックの経営を始めた。メリーさんを断わってからいくばくかの時は過ぎてるけど……きっとそのことが残念で、悔しかったんじゃないかって、思っちゃう。

そしてもうひとつ。メリーさんが行きつけの喫茶店でも、同じようなクレームがあった。そこではメリーさん専用の高級なカップを用意することで切り抜ける。メリーさんはそれを気に入ってくれたらしく、「私のカップでコーヒーちょうだい」とわざわざ言うくらいだったという。
……でもこんなことが、ちょっとイイエピソードになってしまうぐらいに、エイズへの偏見があった当時の病んだ世相を考えると、やりきれないものを感じずにはいられない。確かにあの時、エイズが流行語みたいにさえなって、ちょっと触っただけでエイズがうつるとか、ふざけ半分でそんなこと話してたよね……なんか、哀しいな。

しかし、そういう風に考えると、ホントメリーさんをたどって行くと、日本の現代史がうかびあがるんだよね。
ちなみに、メリーさんをドキュメンタリー映画にするというの、もう随分と前に企画され、途中まで撮影されていた作品があった。しかしトラブルがあって、監督がヤル気無くして頓挫。映画はことほど作用に完成までが難しいんだろうけど、でもこのセックスカウンセラーだという監督(どーゆー肩書きだ)、どんないきさつがあったのかは判らないからなんとも言いがたいけど、印象としてなんか投げるのが早いというか、イイカゲンというかさあ。一人の人間のドキュメンタリーを撮ろうと、メリーさんだって相応の覚悟をもって承諾したんだろうに。いまや途中まで撮影したフィルムの所在も判らないなんて。
その中でメリーさんはどんな姿を見せてくれていたんだろうって、凄く気になるのに。
でもおかげでこんな傑作ドキュメンタリーが出来たわけだけどさ。

メリーさんの人生を舞台で演じているのが、五大路子である。
ひょっとしたらこの映画が成立したのは、この舞台の存在も関係しているかもしれない。
芝居の最後で彼女がハケる時には、会場からメリー!メリーさん!と声がかかるというし、彼女自身もメリーさんの生涯を演じることに意欲を燃やしているわけだけど、彼女がメリーさんを語る言葉は……直接相対していないんだから当然といえば当然なんだけど……訴える力がないんだよね。確かにソツはない。女優だし、感動的に話すんだけど、すごく、ワクに収まった感じなの。
やっぱり、人間っていうのは、混沌としてて、ワクに収まらないものなんだよね。

戦後の横浜に、何百体と捨てられた赤ちゃんがいたという。作家の山崎洋子氏はそれになぞらえて、メリーさんをこの子供たちのお母さんだと言った。
メリーさんはもちろん結婚したこともないし、子供を産んだこともないだろうと思う……いや後者に関しては判んないけど。
メリーさんはこの横浜に生涯のほとんどをずっといたのに、住民登録もしなかった。つまりはこの街では存在しなかった、とある一方からの見方では言えるかもしれない。
そして、戦後の混乱期、事件にさえならずにひっそりと外国人墓地に埋葬された子供たちは……無論そこの管理人なり神父さんが痛ましく思ってくれて葬ってくれたわけだけど、でも訪れる人もなく荒れるに任せた戦後、無数にささってた十字架も引っこ抜かれちゃって、つまり彼ら個々の存在の記録はもちろん、知っている人も誰もいないのだ。
彼らを産んだ母親たちだけが知っていた赤ちゃんの存在は、その母親たちももういない今、ただ語りつがれているだけで、まるで夢のような存在なんだ。

そしてその子供たちを産んだのが、メリーさんのように、この街での存在さえ認められていない女性たちだったら?
そりゃ、街の人たちは誰もがメリーさんのこと、知ってる。有名人だった。でもビルの廊下に寝泊まりして、どこという場所を持たなかった、持てなかったメリーさんがふっと街から姿を消した時、本当にメリーさんがそこにいたんだと、誰が証明出来るの。
写真に残されているメリーさんは、白塗りにレースのドレスという、言ってしまえば異様な姿で、そう、まるでコスプレみたいで、実在した人物のようには見えないぐらいなんだもの。
彼女と親交があったわけじゃないけれど、横浜の町で邂逅した団鬼六センセの語る彼女の姿も、ふるっている。
まるで、幽霊みたいだったと。いや死神か。普通娼婦なら明るく話しかけて気を引くものなのに、メリーさんは何も言わずにすーっとついてきたんだという。ゾーッとしたね、と実に忌憚なく述懐するんである。そんな言い方をしてもまるでイヤミのないのが団センセの素晴らしいところなんだけど。
それにそんなことを聞くとますます、メリーさんがただ娼婦っていうんじゃなくて、団センセについていったのもそういう意味じゃなくて、芸術が好きだった彼女の嗅覚が引き寄せられたんじゃないか、なんてことも思ったりして……不思議な人なのだ、とにかく。

メリーさんがいつからあんな白塗りだったのかは定かではない。でも彼女にこの白粉を勧めたという人物が出てくる。行きつけの薬局のおかみさんだ。資生堂の練り白粉という商品。ああやって取り出すってことは、今でもあるのかな……あんな石膏みたいな真っ白な色の白粉が。舞妓さんとかが使うのかもしれない。
水でさーっと落ちるから便利ヨ、と勧めたという。あぶらっけのない、本当に石膏みたいな白粉。メリーさんがある時、それと知らずに私服警官に声をかけてしまい、警官は彼女の存在は知っていたけどもう仕方なくて、留置所に連れていったことがあると言う。だからその白粉も朝にははげてしまって、あれは見られたもんじゃなかったね、などと当時の刑事が述懐した。
いつもビルの廊下に置かれた椅子で寝ていたメリーさんだから、ひょっとしたらその留置所での一晩は、いつもより安楽にぐっすりと眠れたかもしれませんね、などと、メリーさんをよく知る女性が、言った。

メリーさんを述懐する中に、一人のダンサーもいる。大野慶人だ。
こういう人を見ると、ダンサーではなく、舞踏家という言い方がしっくりくる、と思う。ダンスではなく、舞う、舞台を踏みしめて、舞台こそが彼の人生、年齢による体力の限界なんてない。今の自分をその体で表現することなのだから、というスタンスを、彼の言葉だけでなく、その姿かたちのそこここからひしひしと感じる。
彼の奥さんがやっていた店に飾られていた香水のショーケースを、メリーさんが愛しげに眺めていた姿が、彼の脳裏に焼きついているんだという。
彼にオフィーリア役の話が来た時、メリーさんのその誇り高き美しい姿が、彼に後押しをした。

そしてある日、メリーさんは突然姿を消し、そのことは色んな風聞をもたらした。
もう三年前ぐらいに死んでしまったんだよとかいうウワサまで飛び出した。
冒頭で、そんな噂話が飛び交っていて、今のメリーさんが出てこない中で周囲の人たちだけで語られていくメリーさんは、戦後日本を彼女に投影させている幻のような存在に思えたところで、ふいに現実のメリーさんが現われるんである。
メリーさんは、故郷に帰っていた。年老いて安住の地がない彼女を心配したお友達の一人が、メリーさんの故郷と連絡をとり、家をついだ弟さんの了承を得て、切符の手配まで全部して、メリーさんを送り出した。
今まで自分のことを何一つ話さなかったメリーさんがある時、そんな故郷の話をぽつりぽつりとしだしたもんだから、彼女はとても驚いたという。本当に驚きました、と何度も言うから……メリーさんはほんっとに孤高の人で、誰にも何にも喋らないで、だからこの作品を観て私が思ったように、ふっとどこからかこの街に舞い降りたような、後も先もないような夢のような人だと思われていたのかもしれない。

メリーさんが、本当にふと、そんな身の上話をする気になったのは、なぜだろう。
そういえばね、このくだりとは関係ないんだけど、そしてこの世話をしてくれた彼女でもなかったかなと思うんだけど、ある日メリーさんをデパートで見かけた女性が、あまりにメリーさんが寂しそうにぽつんといるから声をかけて、お茶でもどうですか、と言ったんだって。でもメリーさんは手を振り、しまいには追い払うような仕草も見せて、行ってしまったという。
そのことに、メリーさんたらやっぱりプライドの高い、冷たい人なのね、と彼女は思ったんだけど、彼女の夫が、違うだろうと。自分とお茶なんかしてたら、お前もメリーさんと同じ娼婦だと周りに思われる、それをメリーさんは気遣ってくれたんじゃないかと、言ったんだという。
確かになるほどで……そういう意味で、メリーさんは外では友達とお茶も飲めない寂しい人で、だからこそ元次郎さんは数少ない、一緒にいてもオッケーな人だったんだね。

で、メリーさんは、最後まで白塗りのまま、故郷に帰っていったという。そのメリーさんを、元次郎さんが訪ねる旅が、この映画という旅の最終章で、ひどく心を打つ。
元次郎さんは自宅でネコを飼ってて、豊かに太って元次郎さんにべったりなついているネコに、「私がいなくなったら、あなたはどうするんでしょうねえ」なんてたっぷりスキンシップしてから、旅に出るのだ。
それまでに、メリーさんと同時に元次郎さんも追いかけている趣の本作は、見た目は健康そうに見えるけれども、ついには入院生活になってしまった彼の今も映し出す。歌も歌えず、一日中病室にいなければならない、死よりも、死んだような生活。そして元次郎さんは、メリーさんを訪ねる旅に出る。

メリーさんが生活している介護施設で、元次郎さんが慰問コンサートを行うのだ。
歌う元次郎さんからカメラが客席にパンする。ここにメリーさんがいるんだ……あの白塗りで出てくるかと思ってドキドキしたら、彼女はほんのりの薄化粧だった。ビックリした。だって、キレイなの!上品ですっとしてて、周りのほかのおばあさんたちと比べて、レベルが違う。あんな白塗りなんか、何でしてたのとか思うぐらいキレイなの。
彼の「マイウェイ」をじっと、薄く笑みをたたえて聞いているメリーさんは、本当に、本当に、キレイなの。
彼女が本当に、恋人の将校さんを何十年も待ち続けたのかどうかは判らない。けれど……今恋をしていたって全然おかしくないぐらいシャンとキレイなメリーさんを見てると、一生恋する女の潔さを感じる。母になるとか家族を作るとか、そんなの考えない。恋して一人、生きるだけ。それが彼女の人生、マイ・ウェイだと。

メリーさんの人生を、そして元次郎さんの人生をなぞるような歌詞で歌われる「マイ・ウェイ」には、本当に、……泣いてしまう。
写真で振り返られるメリーさんは、背中を曲げて歩いてたのね。なのに不思議なのだ。ここで、最後に出てくるメリーさんは、しゃんと背中をまっすぐにしてさかさか歩いてるんだもの。
そして元次郎さんに寄り添うようにカメラに収まったメリーさん。元次郎さんは、お互い100まで生きようね、と言った。でもその元次郎さんも、今はいない。2004年、亡くなってしまったという。
劇中で、彼女の話や当時の思い出をしてくれる中で、元次郎さんを含め、三人もの人たちが亡くなってしまった。
メリーさんは今も生きているんだろう。今も、戦後日本を体現し続けながら。今やもう、彼女は幻の存在ではない。

確かに、オンリーワン、だったんだ。白塗りのメリーさんはいかにも異様だったけど、その写真の周囲に映っている人たちは、誰と入れ替えたって気づかない、つまりその共通のお約束に安心して生きてきた人間たち。住民登録とか、そういう紙切れの記録によって、自分の存在を定義づけて安心してた。でも、そう、誰と入れ替えたって、気づかないのだ。写真の中でメリーさんだけが、彼女であると、ハッキリ自分を証明してた。
自分を自分としてこの時に刻み付けて生きるということの意味や重要さを、思わずにはいられない。
役所の紙切れに記録を残して死んだって、一体何になるのかと。
でもそれは、彼女が自分自身の、本当の孤独を知っていたからこそ、その覚悟があったからこその生き様だった。
私たちに一体、その覚悟があるだろうか。大好きな人たちを見送りながら生き続けていく覚悟が。★★★★☆


夜のピクニック
2006年 117分 日本 カラー
監督:長澤雅彦 脚本:三澤慶子 長澤雅彦
撮影:小林基己 音楽:伊東宏晃
出演:多部未華子 石田卓也 郭智博 西原亜希 貫地谷しほり 松田まどか 高部あい 池松壮亮 加藤ローサ 柄本佑 嶋田久作 田山涼成 南果歩

2006/10/10/火 劇場(有楽町丸の内ピカデリー1)
この作品は、こんな大劇場には似合わない気がした。そりゃ本屋大賞をとった原作だし、大規模な学校行事が舞台となっているけれど。そこに描かれているのは、たった一晩、いやその一晩を費やさなければ言えなかった言葉、言えなかった気持ち、そして等身大の少年少女たちは、決してきらびやかなスターじゃないし、本当に身の丈の演技を慎ましく演じているのだもの。

正直、この監督さんに関しては、「ココニイルコト」「卒業」以降観てない、イマイチピンとこない監督さんだった。ま、この二作のヒロインがイマイチだったからかな、と思う。
だってこのヒロイン、多部未華子嬢は注目株には違いない。かなり映画に出てるのに、私が認識しているのは「ルート225」のみである。
でも、それだけで充分だった。正直、凄く演技が上手いんでもないし、素晴らしい美少女というわけでもないのだけれど、なんか、気になるのだ。目に止まるのだ。

まるで奈良美智の女の子をそのまま実写体にしたような不機嫌そうに見える瞳は、実は不安や悩みでいっぱいに溢れてて、そして何を言うことも出来ずにただじっと見つめているしか出来ない。こんな不自然な自然さっていうのが、少女期には確かにあった。
そしてそれを受け止める側である男の子の、まさしくこの年頃の不器用さもいとおしい。私の時代の記憶と、ちっとも違わない。世の中はそんな言うほどススんでいるわけじゃないと思いたい気持ちを受け止めてくれるような、男の子である。
少しでも横道にそれたことを、世の中はそんなもんさと受け止めることが出来ない。でもそのことを否定するには、厳然と事実が横たわりすぎている。そんな現実にうろたえてる。どうしていいか判らない。不安そうに目の前に立つ女の子を、ただ知らない振りして通り過ぎるしかない。

二人は異母兄妹。そして舞台は鍛錬歩行祭。前者については、学校の誰もが知らない……とこの時点で二人は思っている。そして鍛錬歩行祭という、耳慣れない学校行事が、二人の距離を縮める大きな役割を果たす。
夜目にも目立つ白ジャージを着て、一昼夜かけて80キロの道のりをただただ歩く、ただそれだけ。定期的な休憩がとられ、ポイントポイントに保護者ボランティアの炊き出しがいる。そして夜の仮眠を2時間とって、ラストスパート!聞いただけでめまいがするような過酷な行事。
劇中の女の子がもらすように、まるで無意味でアナクロのようにも思えるけれど、皆きっちり参加しているのは、やはりこれが、「ただ歩くだけなのに、どうしてこんなに特別なんだろ」という思いがあるから。

スタートシーンの、校庭に集まった生徒たちの間を練り歩くようにカメラが動き、それぞれにお守りを手渡したり、写真を撮り合ったりと、100人100様の様子を刻々と捉えていくワンシーンワンカットは圧巻!
涙が出るほどキレイな夕日の中を、そぞろ歩いている生徒たちのシルエットや、思い思いに書かれた路面の落書きが夜のしじまに浮かび上がり、ああ、この時だけだ、この一瞬だけなんだなあ、と思う。

確かに特別な時間。学校生活三年間、その間にいくらでも時間はあったはずなのに、今まで出来なかったことが出来る。そう、青春期の一代イベント、告白タイムってヤツ。
甲田貴子と西脇融も、そんな風に周囲から見られていた。明らかにお互いを意識しているのがバレバレだったし、西脇君のことを恋愛体質100パーセントの女の子、内堀さんがネラっているのも、周囲の興味を盛り上がらせた。
「貴子、西脇君に告白しないの?」「西脇君とは本当に何でもないの?」繰り返される周囲の声に、そんなんじゃないよ、もう呪文みたいだよ、と貴子は言いながらも、西脇君を目で追ってた。彼もそれを意識して、露骨に貴子を避けるもんだから、彼の友人の戸田君がそれはないだろ、とたしなめたり。
実はこの戸田君は貴子のこと好きっぽくて、でも貴子が西脇君のことが好きだと思っているからお膳立てなんかしちゃったりして、ちょっとケイハクそうな外見なのに、泣かせるのよね。

実際、貴子と西脇君は恋心で結ばれているんじゃなくて、もっともっと複雑な、いわゆるオトナの事情ってヤツにホンロウされていたんだけれど、でもそれは確かに、恋に似ていたのかもしれない。
貴子と西脇君はね、双方ともに、そうした経験未満、って感じなの。それこそ今の時代では、かなりオクテの方かもしれない。内堀さんみたいに彼氏をとっかえひっかえ、なんてコも描かれるしね。でも、彼らの中で抱える問題があまりに重いから、正直そっちにまで気が回らない、という感じなのだ。

だって、順序が違うんだもん。純粋な恋を知る前に、ドロドロの関係の上に自分たちの存在が成り立っている。詳しくは語られないけど、「本当は私が感じるべき罪の意識をあの子は持ってる」と言う貴子の母親の言葉と、「うちの恥だから。父親が浮気して出来たのがアイツだから」という西脇君の言葉が全てを物語ってる。そして二人の恐らく初めての邂逅が、西脇君のお父さん、つまり双方の父親のお葬式だったのだ。
この時、泣き崩れる西脇君のお母さんと、静かに焼香を済ませただけで立ち去る貴子のお母さんは一度も目を合わせることはない。だから余計に双方の子供が重く、気まずい思いをしたんだろうけれど、この場に貴子母子がいるってことは西脇君のお母さんがお葬式を知らせてくれたってことだし、子供たちがいまだに重くとらえる問題ではないのかもしれない。
でも、同じ高校に入ってから三年間、二人はお互いを強く意識しながら、話すことが出来なかった。
お互いを、自分のことを嫌っていると思ってるから、声をかけることが出来なかった。
ハタから見て判るほどに、意識しているのが、つまり絆が通っているのが判るのに。

そんな回想シーンが、そこここに効果的に挿入されはするものの、基本的には一昼夜かけた歩行祭こそがメインなんである。
それにしても、この行事は凄い!特別だっていうのも判る気がする。文化祭とか体育祭とか、そういうハデで判りやすい行事よりも、というか、比較できないほどの独特なものがある。文化祭とか体育祭って、活躍できる人が限られているじゃない?それこそ学校で人気者の晴れ舞台か、意を決して人気者になろうとするコたちの晴れ舞台か。
でもこの歩行祭は、全ての生徒が同条件の元にある。この上なく過酷だけど、一応マイペースが基本だし。ただ歩いているタイクツは友達と喋ることでしか解消できず、ついには「疲れすぎて笑うの止めらんない」という事態になるほどに、日がな一日おしゃべりをして歩くっていうのは、喋っても喋ってもネタがつきないティーンエイジャーにとって、理想かもしれない。

ホント、そうだよなあ。私なんて、昼休みとか放課後とか、そういう隙間の時間が凄く強烈に記憶に残ってるもの。正直、その他の時間はただただ眠かっただけだもの。そういう隙間時間になるとムックリと起き上がって、ホントたあいない話題なんだけど、異様に盛り上がっていた記憶がある。
あるいは芸術鑑賞とか、インターハイの応援の移動とかの行き帰り。決してその行事そのものじゃなくて、行き帰りのトークの異常な盛り上がりよ。あれは、通常の学校生活の中ではなぜか出来ないものだった。特別な行事における隙間時間。それもポッと投げ出された長時間だからこそ、それまで出来なかった話、くだらなく聞こえるけど、20年たっても覚えているような話が出来るんだよね。
でも、私はこんな恋バナはしなかったけど……ていうか、多分、他のコたちはしてたんだろうなあ……私だけが取り残されていたんだろうなあ……寂しい(泣)。

周囲の友人たちが、そんな恋バナに貴子の話題で持っていこうとしても、貴子は違うから、でも西脇君との関係は言えないし、この気持ちをどう説明していいかも判らないし……とにかくフクザツなのだ。
そう、「せっかく夜までこの話をとっといたのにー」と貴子のクラスメイトは至極残念そうに言うのよね。
やっぱ、こういうヒミツの話は夜。でも歩き続けでスッカリ疲れちゃって、昼間のテンションはどこへやらになっちゃうのよ。
そうそう、この貴子と一緒に歩いている女の子二人が対照的で可愛くてさ!一人はかなりキャラのハッキリした梨香。どこかマンガチックなノリで、休憩時間に「紅天女!月影先生!」とか言ってオンステージで皆を笑わせるのに、疲れるのも早くて、スイッチが早々に切れちゃう。
一方で、貴子が西脇君を好きだと信じて疑わず、恋バナをひたすら聞きたがるのが千秋。スレンダーに背が高くてゆれるボブショートが可愛くて、彼女自身が恋をしているからこそ、貴子の話を聞きたがっているのがアリアリなのよね、実は。

貴子には前年度まで一緒のクラスでの、みわりんこと美和子と仲が良く、基本的には行動を共にしたがっている。歩いている時はある程度クラス単位だけど、休憩時間になると、みわりんを探しに行く。こういうのも高校生ならではの風景。どことなく友情の切なさや複雑さを感じたりもする。
去年までは、貴子とみわりんと、もう一人、杏奈がいた。杏奈は今、両親の転勤なのか、NYにいる。でも、弟は日本に残ってるんだよね。この辺の家庭の事情はよく判んないんだけど。
杏奈がNYから送ってきたはがきに書かれてた、「今度の歩行祭、私も一緒に歩いてるよ。貴子の悩みが解決して、ゴールできるよう、おまじないをかけといた」というマジカルな文面が、この歩行祭を通じてずっと謎なんだよね。正確に言うと、貴子にとっては全てが謎だったけど、みわりんは半分は判ってた。貴子の悩みっていうのを、貴子の家に遊びに行った時、彼女は杏奈とともに貴子の母親から聞かされていたから。「貴子と西脇君、異母兄妹なの」と。

そう、もうずっと前から知ってた。貴子の母親が二人に告げたのは、貴子が友人にも決して言わないことを判ってたから。一人で背負いこんでしまう娘を心配して、この友人たちなら、と見込んだから。
「え?どういうこと?イボって何?」とパニックになる二人はカワイイ。貴子が帰ってくるとそ知らぬ顔してさ!
そのことを、貴子はラストスパートの前の、2時間の仮眠をとるためにたどり着いた体育館で聞くのだ。
「だって貴子と西脇君、兄妹じゃん」みわりん、改まった顔で向き直ってそう言う。
その顔には、どこか決意があった。この歩行祭の間に、恐らく明かさなきゃいけないだろうと覚悟していた顔だった。
でもそれは、あと1時間かそこらで起きなきゃいけない仮眠の時で、どこか朦朧とした記憶のまま、朝になる。
あれは夢じゃなかったよな……みたいな感覚なんだけど、しらじらと夜が明けてくるラストスパートの間に、それまでのモヤモヤがどんどん解決されていくのだ。

それまではクラス単位で速さもある程度決められていたのが、仮眠を2時間取った後はそれぞれのペースにまかせられる。最後のスタートラインに集まった生徒たちは、押すな押すなの異様なハイテンション。合図とともに、ラストスパートへと飛び出していく。
西脇君と戸田君、貴子とみわりんも最初は走っていたんだけど、西脇君が足をひねって止まり、貴子も走れなくなって立ち止まり、二組はある地点で合流する。
それでもまだ、二人はなかなか話せない。そこへ杏奈の弟が飛び出してきて、「杏奈の友達に兄弟はいない?ヒミツの兄弟もいない?」なんてことを言って、皆を凍りつかせるんである。
正確に言うと、戸田君だけがどういうことか判ってなくて??ってカンジだったんだけど。
マズイことを言ってしまった雰囲気を察して、杏奈の弟は決まり悪げに退散する。戸田君は特にかなりショックを受けたようで、「俺、そうとは知らずに甲田さんに心無いこと言っちまった……」

一方、みわりんは「ステキじゃない。西脇君と兄妹だなんて。私、貴子に嫉妬しちゃった」と言う。
思いもよらない言葉に絶句する貴子。
貴子にはみわりん、西脇君には戸田君が、それぞれの友達のこと、ホントに心配してるのよ。
みわりん、西脇君と並んで歩きながら言う。もう歩行祭も、三年生も終わり。さしでがましいとか気にしてなんていられない。あのガンコな友達は、自分からは何も言いはしないんだから!
「貴子は辛いこと、全部自分で背負っちゃうの。でもそういうのって、友達として寂しいよね」
一方、戸田君も、全く同じようなこと、言ってるし!
「俺が悔しいのは、それを杏奈の弟の口から聞いたことだ」

杏奈から送られてきた絵葉書のナゾが、この弟だったのだ。絵葉書の絵は、弟のかぶっているキャップ、そして杏奈が(恐らく)意図的に残したメッセージが、弟の好奇心をかきたてていたんだ。
この弟君、前年も勝手に歩行祭に紛れ込んで写真に収まり、「こんな子、どのクラスにもいない、これは幽霊!?」という騒ぎを起こしていた。
離れて暮らすお姉ちゃんの好きな人を探るために。彼は今年もまた歩行祭に暗躍したわけだが、その好きな人=西脇君というのも、貴子の為の伏線だったという気がしないでもない。
まあでも、みわりんも西脇君を好ましく思ってたみたいだし、西脇君、かなりモテモテみたいだから、ホントに杏奈は彼を好きだったのかもしれないけどね。

印象的だったのは、戸田君である。
貴子の好きな人が西脇君だと信じて疑わず、西脇君の態度がどうもヘンであることに何が事情があると察して、奔走してくれる。なんかね、やけに大人びた言動をするのよね。
足をケガした西脇君の隣に腰を下ろして、「こんなアングルでこんな景色見ること、もう一生ないんだろうな」なあんて、いちいちクサイこと言うのよ。
こういう台詞って、小説の地文でならアリだけど、実際に声に出されて言われると、かなり引いてしまう。
まあこれが青春というヤツなんだろうが……ホント、戸田君はイイ奴なのよ。

そもそも西脇君が、「父親の浮気の果てにアイツが生まれた、だから恥」だと考えているのが、この年の潔癖さならしょうがないんだけど、キツいんだよね。同じ年頃だからこそ、貴子も同じ程度の価値観を持っているわけだから、西脇君よりもっともっと、苦しい思いをしているんだもの。
母親は、貴子の気持ちをちゃんと判ってる。そう、先述した「罪の意識」。もっと言っちゃえば、私がいなければ、全てが上手くいったのに。でももしそう思っているなら、それは「マチガイを犯した」彼女の母親の決断こそが、全ての要因であるはず。
貴子がここに存在しているということは、彼女の母親が相手を、つまり貴子と西脇君の父親になる男を、本気で好きだったということなのだ。ただそれだけ。悩むのは当然。悩まなければ人間としておかしい。でも、それだけのことなんだよ。悩む必要なんかないんだよ。
それで、納得がいかないと言うなら、今はもういない、その男が悪いだけだって、言えばいい。

日付けが変わると西脇君の誕生日だった。この時とばかりにネラっていた内堀さんは西脇君にすり寄り、彼は大弱り。
クラスには柄本佑演じる高見というお調子者がいて、このキャラはかなりキツイものがあるんだけど……なんかね、常にロックしてて、感情の波が激しくて、んでもって一人だけ白ジャージ着てない。だからといって反抗しているという風でもなく、友情に厚く、かといって誰も彼に対して特に友情を感じているわけでもなく。
高見もまた、貴子と西脇君はくっつくべきだ!とか思ってて、内堀さんが西脇君にまとわりついているのを、「俺に任せろ!」と出張っていって、強引に引き離しちゃう。
ま、これで西脇君は「ありがとう!!」とやけに高見に感謝しているわけだから、友情は芽生えたのかもしれんが(笑)。
しかももう一度、最後の最後に高見は同じように内堀さんを西脇君から引き離すんだけど、結果高見君と内堀さんはロックの話題で話が合い、なぜかクレイジーキャッツはロック!とか盛り上がっちゃって。全然イケメンじゃない高見君に対して(失礼!)、こんなところに運命の相手がいた!って感じなの(笑)。

最後の最後、朝になって本当にようやく、西脇君と貴子は話すことが出来る。
心配そうに後ろを振り返りつつ、距離をとって先に歩いていくみわりんと戸田君。
「私、自分の中だけで、賭けをしていたんだ。ずっと無視され続けていたけど、今度の歩行祭で話が出来たら、って」
「俺、お前たち親子がうらやましかった。凛としてて」
「またいつか歩こうよ」「80キロ?」「まさか!」「そうだな……いつかな」
「俺、もっと青春しておけば良かった」「今、してんじゃん」「異母兄妹で?スゲードロドロ」「青春じゃん」
やっと話せた二人は、今までのぎこちなさがウソみたいに、なんか、なんかイイ感じじゃーん!
笑顔で話してる二人を、戸田君とみわりんも振り返りながら嬉しそうに眺めてる。こっちもイイ感じかも。
そしてゴールが近づいてくる。

杏奈の弟が再度、待っている。すまなそうな顔をして。でも今や彼のおかげで、いや杏奈のおかげで解決したようなもの。そして絵葉書の絵に弟君のキャップが描かれていることに気づいたみわりんと貴子大ハシャギ。「杏奈には全部見えていたんだね」
それまでは、「お前らってホントソックリ」と戸田君が言うように、共に素直になれない二人だったんだけど、最後の坂道、「行っちゃいましょうか」と二人して声を揃え、「何、この気の合った兄妹」と戸田君がそれを踏まえてからかうのもイイんだよなー。
そしていよいよ、目の前に待ち焦がれていたゴールゲート。杏奈の弟も一緒に、皆で、手をつないでせーのでゴール!
それをゲートのこちら側から見上げると、一日前にここをくぐった、スタートの文字があるのね。
でも、一日前とはまるで違う。たった一日で、それまで三年間出来なかったことが、ゴールした。そして、これからの人生のスタートとなるんだ。

そんな成長を遂げた生徒たちを、暖かな笑顔で迎えるハゲ頭の校長先生に(田山さん、ゴメン!)私はちょっと泣けた(笑)。
ゴールを潜り抜けた直後、貴子は急にこみあげるものがあって、目を真っ赤にしながら「ありがとう」って、みわりんに言うのね。なあんかこっちも、今までノンキに眺めてたのに、急にキちゃうのよね。
なあんだろ、これ。正直それまではちょっと中だるみする感もあったのに。長い長い一日を皆一緒にいろんな思いをぶつけながら終えて、それが急にグッとくる感じなんだ。

炊き出しの場所で、ボランティア参加している八百屋さんと思しき徳井さん。山積みのバナナはちっとも人気がなくて、誰も取っていかない。私だったらバナナ持ってくけどなあ。ところで徳井さんは何か関係あったのだろーか。なんかね、意味ありげに心配そうに貴子達を見てるからさ、ちょっと気になる。
メインのエピソードのほかにも、梨香や千秋、あるいは歩行の誘導などをしてる実行委員にも、青春がほの淡く描かれているのも良かった。この実行委員たちが特にね、最後のチェックポイントで女の子が、「もうすぐ終わりだね」とニコッと男の子に笑いかけると、男の子がドギマギしたりして!彼らがこの歩行祭で一番大変だったし、青春だったのかもしれないなあ。★★★☆☆


歓びを歌にのせて/SA SOM I HIMMELEN/AS IT IS IN HEAVEN
2004年 132分 スウェーデン カラー
監督:ケイ・ポラック 脚本:ケイ・ポラック
撮影:ハラル・ゴナ・パールガー 音楽:ステファン・ニルソン
出演:ミカエル・ニュクビスト/フリーダ・ハルグレン/ヘレン・ヒョホルム/レナート・ヤーケル/ニコラス・ファルク/インゲラ・オールソン/ペア・モアベア/アクセル・アクセル

2006/2/27/月 劇場(渋谷Bukamura ル・シネマ)
合唱モノ、聖歌隊モノって、その歌声、彼らが歌っているさまを見るだけ、聞くだけでもう涙がボロボロ出てしまうのは、完全に条件反射なんだけど、(しっかし、涙腺条件、めっきり弱くなったなー)ああ、確かに神様っている、天使っているかもと、そこに確かにある奇跡に心震わされずにいられない。

高名な指揮者であったダニエルは、7歳まで住んでいた故郷に降り立っていた。
音楽に没頭した人生、でも満たされていなかった。音楽で誰かを幸せにしたいと願っていたのに、自分さえも幸せになれなかった。
スケジュールばかりがいっぱいで、心がまるで満たされない。
どんなに絶賛されても、自分が生み出す音楽がカラッポに思えた。
ある日、いつものように舞台の上で一心に指揮棒を振っていた彼、自分でも気づかないまま、鼻血をダラダラ流してぶっ倒れてしまう。ボロボロの心臓はもうもたない状態になっていた。
そして彼のスケジュールは初めて真っ白になる。それと呼応するように、真っ白な、彼の“故郷”に降り立ったのだ。
この地に、なぜ来ようと思ったのか……バイオリンばかり弾いている彼は友達もいなくて、いじめられまくってた。見かねた母親が引っ越しを決めてくれた。だから、いい思い出なんてなかったはずなのに。

でも確かに、あの時は幸せだったのかもしれない。純粋な気持ちでバイオリンと向き合えた。黄金色に揺れる草原の中で、バイオリンを弾いていたあの頃。大好きな母親と静かに暮らしていたあの頃。
転居し、バイオリンが認められるようになって、いざコンクールにと思った時、母親が交通事故で死んでしまった。
いつの頃からか、なぜバイオリンが、音楽が好きだったのか忘れてしまった。そして彼はバイオリンから離れ指揮棒を手にするようになり、ただただ一心に音楽に向かってきたけれど、音楽の歓びはどこかに置き去りにされてしまった。

廃校となってしまった母校の小学校を彼は買い取り、生活を始める。
真白い雪に裸足で踊り出てはしゃいだりする彼。厳しい顔で楽団員たちにゲキを飛ばしていた彼とは、まるで別人のようだ。
そして、彼は雑貨屋で一人の女性と出会う。
彼女は、嗚咽をあげながら泣いていた。その横顔に、彼は目が離せなくなる。
あの瞬間、彼はもう恋に落ちていたんだ。
今まで聞こえなかった音楽が、きっと聞こえていたんだ。

ダニエルが彼女、レナと再会したのは、聖歌隊の練習でだった。
高名な音楽家であるダニエルが、この小さな村に現われたことを喜んだ自転車屋の店主、アーンが、とにかく見に来るだけでいいから、と執拗に彼を誘ったのだ。
人付き合いをする気のなかったダニエルなんだけど、集会所からもれ聞こえてくる歌声に足をとめてしまう。
決して上手いとは言えなかった。だけど、彼が心打たれたのは、きっと思い出したからだ。
自分が、人を幸せにするような音楽を奏でたいと思ったことを。
そして、そこにはあの天使、レナがいた。まっすぐに彼を見つめる彼女を、ダニエルは正視できなかった。
そしてダニエルは自分から申し出て、この小さな聖歌隊を指導することになる。

人生の終末にはこんな風に天使が現われるのかな。
レナは、まさに、天使。そして天使の歌声。聖歌隊だもの。
でも天使は、こんなにも生のエネルギーを持っているのか。
触れずにはいられない、なめらかで弾んだ肌、こちらが微笑まずにはいられない笑顔。
おっぱいもそうだけど、二の腕も足も、いい感じの太さで、官能的な健康美なんである。
あの時、もうダニエルは、余命とか言い渡されていたのかな、と思う。
彼女と恋に落ちたことを自覚していながら、あんなにも恐れるんだもん。
レナもまた、それをどこかで察知していたのか。滋味に溢れた顔で、「怖がらないで」と彼に言う。
それは無邪気な天使というよりも、彼を救ってくれる菩薩マリアのようだ。

そう、彼女と恋に落ちたこと、お互いに判ってるのに。練習でもそうだけど、これは多分偶然ではない、レナは彼に会える場所に出かけてゆき、自転車の練習につき合ったり、練習時間より早く来て、教わってもいいですか、と提案して二人きりになったりする。
この、二人きりの練習の時間は、もうドッキドキなんである。
もこもこしたセーターを着ていた彼女に、それでは声を出すのにジャマになるから脱ぎなさい、とそう言った時は他意はなかったのかもしれないけど、言ったとたん、ハッとするダニエル。
臆せず笑顔でセーターを脱ぎさる彼女。キャミソールに包まれた、若く弾ける女性の肉体に観客のこっちまでドキドキしてくる。
「喉を開くんだ」そう言って、のどより少し下のところにそっと手を当てる彼は、明らかにドギマギしてる。
それをこっそり覗き見していた、聖歌隊のメンバーがいた。

かなり、波風が立つんだよね。いや波風どころじゃない。もう大波、大嵐が寄せては返す。だって聖歌隊のメンバーたち、決してイイ人ばかりじゃないんだもの。それぞれは結構ムカつくヤツらだったり、ホント千差万別なのが面白い。イイ人たちのイイ物語ではないってことだ。
まず、ダニエルを引き入れたアーンなんて、練習中しょっちゅう携帯電話が鳴って、集中したいダニエルをイライラさせる。
しかもその時、ヤカンが沸いて、コーヒーの時間だ、なんて皆が言うもんだから、もうキレちゃうんである。
そこをなだめたのもレナだった。みんなまだ、慣れてないの。それにコーヒーは大事よ、と。
本当の音楽を生み出そうと思って始めたことなのに、以前の考え方に戻っていることに気づいて彼はハッとする。
彼はこの聖歌隊を、そして村を変えていくけれど、彼自身も、この千差万別の人々によって変わってくるのだ。

もう一人キーパーソンが、暴力夫のコニーにおびえているガブリエラである。そのコニーというのは、ダニエルの(多分彼をいじめてた)小学校の同級生なのだ。
あの頃の暴力性がいまだに変わらないのか。人間はそんなカンタンに変わるわけではないのか。
ダニエルはガブリエラに、ソロで歌わせようとする。でも、この聖歌隊に来ていること自体反対して、それだけで暴力をふるう夫におびえている彼女は、おびえまくって、歌えない……と泣く。
その時、ちょっと事件が起きるのね。泣き崩れる彼女に椅子をすすめたちょっとオデブの男性を、アーンが揶揄するの。オデブなのにやるなあ、みたいに言って。
アーンはね、確かに行動力があって、皆を引っ張ってく人なんだけど……ダニエルに声をかけたのも彼だし、聖歌隊のコンサートを開こうとか、コンクールに応募したりとかね、でも、無意識に人を傷つける言動を容易にしてしまう人なんだよね。
で、そのオデブの男性、突然キレる。それまではただただ歯を食いしばってガマンするだけだったんだろう。でも彼も、ダニエルによって変わりはじめた一人だった。
「35年間、ずっとガマンしてきたんだ!」と泣き叫びながらアーンに反逆する。アーンはアゼンとする。そんなこと、気づかなかった、みたいな、叱られた子供みたいな顔になる。結局、単純で、純粋な人だったんだよね。
その決死の反逆が事態を変えたことを見つめていたガブリエラ、涙に濡れた顔を笑顔に染める。自分もやってみようと。

彼女がソロを披露する聖歌隊のコンサートは、圧巻である。
それは、ダニエルが彼女のために用意した歌。自分ひとりの力で生きていくんだと、高らかに歌った彼女に、会場総立ちの大拍手。ダニエルが歌わせようとしただけあって、ガブリエラの歌声は素晴らしいんである。
それを会場の一番後ろで、雷に打たれたような顔をして見ているコニー。これで何かが変わったと、変わったんじゃないかと思った。けれど……。
彼は更なる暴力をガブリエラに課すんである。
そしてついに、ガブリエラは彼の元を去る決心をする。

ダニエルは、ここで自分への音楽を呼び覚ますことがしたくて、指導者に電話でアドヴァイスをあおぎつつ、(彼がコンクール会場で再会する、恐らく彼のお師匠さんなんだろう)村民たちを教える。
ただ歌わせるのではなく、自分の中の声のトーンや芯を見つけさせるために、自由に声を出させたり、手をつないで心を見つめあったり、奇妙な体操をしたり。
今まではただただ歌うだけだった彼らは戸惑いながらも、すんごく楽しくて、もういつでも笑いながら、歌うことへのエネルギーを高めていくんだよね。
つまりはこれは、基礎練習だったんだろう、今や彼らは自分たちのトーンをシッカリ出すことだけで、素晴らしいハーモニーを出すことが出来る。
堅苦しい聖歌隊がどんどん柔らかくなって、メンバーも増えて、みんな彼の指導に夢中になるのだ。

でも、二人だけ、それを苦々しく思っている人物がいた。
この村の牧師と、メンバーの一人の、やたら保守的な中年女性である。
後者の女性はともかくとして、牧師はもうここまでいくとなんか……気の毒なのね。だって彼、ただ嫉妬してるだけなんだもん。
ダニエルが来てから、皆が変わりはじめた。そりゃそうだ。彼自身が、音楽を決死の覚悟で捕まえたいと思っていたんだから。
軽い知能障害があると思われるトーレが参加した場面も、感動的である。
いつも天をあおいで楽しげに笑っているような彼が参加したいと言っても、アーンはそんなの絶対ムリだというんだけど、一定の声が出せるトーレを、ダニエルは出来ると踏んで引き入れるんだよね。
仲間が紛糾した時、不安に駆られてもらしてしまったトーレに、ウンザリした言葉をあびせかけるアーンを睨みつけ、世話するのはレナ。
その様子をダニエルは物陰から聞いている。
優しくトーレの頬に顔を寄せるレナに、トーレはあの言葉を言ってくれ、と言う。レナは笑顔で応じる。
「愛してるわ」

高名な指揮者がこの村に来たと、最初こそ喜色満面だった牧師は(彼はダニエルをそういう目でしか見てなかった)、しかし村人たちがどんどん変わってゆくことに恐怖を感じる。それまでは自分だけを皆が尊敬してた。その地位が危うい、と。彼を指導者の座から引きずりおろしてしまうのだ。
それに反発した住民たちは、教会に行かなくなる。皆、彼の住む小さな小学校に集まってしまう。つまり今や、村民みんなが聖歌隊ってな状態になってしまうのだ。
そもそもこんな事態を引き起こしたのは、牧師の妻、インゲがダニエルに入れ込んでいるのを嫉妬し、げすの勘繰りをしたからだった。
でもね、インゲは本当に夫を愛していたんだよ。彼が聖職者という仮面にこだわって、自分に愛情表現をしようとしないことにずっと悩んでた。

インゲは貞淑な牧師の妻という自分の殻を、この聖歌隊で脱ぎ捨てていく。皆で開いたパーティーで胸元をはだけて踊ったりする、というのを、多分あの中年女性がスパイよろしく牧師に進言したんだろう、インゲに問いただすも、彼女、逆ギレする。
私が何も知らないとでも思ってるの、と、戸棚の奥からエロ本を出して叩きつける。私とセックスする前に読んでるでしょ、って。ちょっと、笑っちゃったけど、インゲの表情は真剣そのものである。その乱れた姿で、彼に、私はあなたを愛しているのに、とゆっくりと彼のボタンを外しにかかる。たまらずインゲを抱きしめる牧師。
ようやく、夫に愛してもらったと思ったのに、こともあろうに彼、その事実はなかったことにしようとか言うの。今までのセックスも、牧師はそんなことしない、みたいなスタンスだったんだろうか。そりゃ奥さん、キレるよ。
ダニエルを解雇したことで激怒したこともあいまって、インゲ、ついに家を出てしまうんである。

牧師が、ダニエルは村の女たちをたぶらかしている、と中傷したのも、彼のこの魅力じゃムリない。実際、こんなヘンピな村の聖歌隊に情熱を傾ける彼に、女はメロメロだもん。
もういい年のオッサンなのに、なんかステキなんだよね。彼もまた、“高名な音楽家”という風情でこの村に降り立ったけど、どんどん、ラフになってく。軽いシャツの胸元を開けて、ジーンズにスニーカーをはくようになる。そうなるとね、もうなんか、どんどんステキになるの。
それはやっぱり、レナの存在が大きいと思うんだ。
もう、この頃にはお互いの気持ち、絶対判ってるはずなのよ。レナがふいにキスしたりして、それに応えてたまらず彼も彼女の顔を挟んで熱く口づけたりするけれど、それ以上にいけない。おびえたように、身を離してしまう。
レナったら、川辺で突然、泳ぐ!って全裸になっちゃうし!でも彼は愛する人の肉体が一糸まとわずにそこにあっても、何も出来ない、逃げ出しちゃうの。
それは、二人に親子ほどの年の差があるとか(実際、二人の役者にそれほどの年の差はないんだけど、レナ役の彼女が若く見えるせいか、それぐらい離れて見える)、指導者としての立場とか、そういうんじゃなくて、やっぱり彼の中に余命が短いことへの負い目がきっとあったんだ。
だって、彼、彼女に恋人がいても、しかも次々に恋人を変えていっても、そのことにはまるで頓着しない。ただ彼女を愛していることに幸せな気持ちになってる。彼女と気持ちを分かち合おうなんて、してない。この気持ちを共有して彼女を巻き込むことに、恐れがあったんだ。

そうこうしているうちに、コンクールの日が近づいてくる。
そんな中、牧師は完全にウツに入っちゃって、酒をくらい、髪を振り乱して、ダニエルを呼び出す。彼を殺して自分も死のうとする。しかし過呼吸を起こして倒れてしまう。
ダニエルは、この牧師を憎みきれないものがあったと思うんだよね。ひとつの価値観に縛られている姿は、あの頃の自分と似たようなものがあったかもしれないんだもん。
そして、コンクールに出発する日、牧師はインゲに旅の荷物を届けに来る。
もはやインゲはカタい牧師の妻どころじゃなく、髪はフワフワにおろして、ノースリーブでしかもノーブラ!おい!
一方、牧師ももはや牧師ないでたちではなく、メガネもかけず、真っ赤なシャツに乱れ髪。でもやつれてはいるけど、そんな彼の方が数段カッコいいよ。
恐る恐る、彼は聞く。「また一緒に暮らせるだろうか」
インゲは彼を見つめて言う。「まだ、判らないわ」

そして一行はコンクールへと向かうんである。
会場では、あの高名なダニエルが聖歌隊の指揮をするということで、マスコミが大勢集まり、ダニエルはかつての仲間たち、まあつまりはセレブと再会を喜び合う。それを見ていたレナ、嫉妬したのか、ふいときびすを返して部屋にこもってしまう。
ダニエルは群衆の中からフッと見上げる。階段の所に小さな姿、それは恐らく、聖歌隊を指導するに当たって電話でアドヴァイスを請うていた、彼のお師匠さんだろう。駆け上がるダニエル。
優しく穏やかな笑顔でダニエルを見つめるお師匠さん。人を幸せにする音楽は見つかったかい?その時、ふいにダニエルは思い出すのだ。大切なことを。
この気持ちを、ちゃんと伝えなければいけない。

ダニエルは走る。レナの部屋のドアをせわしなげに叩く。むくれたレナは、今話したくないって言うんだけど、ダニエル、君の聞きたがっていた話をしたい、と。
レナは聞いていたのだ。好きな人ってどうやって判るの?と。会いたくて、一緒にいて楽しくて、一緒にいて幸せ。その続きが、彼女は聞きたかったのだ。
ダニエル、彼女と一緒にいるのが楽しい、と。彼女っていうのはつまり君、レナを愛している、ようやく、そのひと言が聞けて、弾ける笑顔になるレナ。
最初から、恋に落ちる幸せが、すんごくビビッドにそこにあって、ドキドキしてたけど、それがようやくここで結実されて、こっちまで幸せいっぱいになる。
急くように二人衣服を脱ぎ捨て、一つになる。
でも彼を連れて行ってしまうもう一人の天使が、すぐそこまで来てたんだ。

でも、レナ、恐れないで、と彼に言った時、こうも言ったの。私は両親が死んだ時、判ったの。死は存在しない、って。だから恐れないで、と。
レナはいつ、ダニエルの余命が短いこと、知ったんだろう。だってこの台詞、そういうことだよね?
死が存在しない、つまり、愛する人だから、肉体としての死が訪れても、彼女の中にはその愛する人は生き続けるということなんだろう。
ダニエルは、舞台に現われないのだ。
何をはしゃいじゃったのか、ダニエル、ウィーンの街中を自転車で走ってて、正時を知らせる鐘の音に慌てて引き返す。
でも発作を起こして、フラフラになって階段を上がりながら……舞台にたどり着けず、トイレで倒れてしまうのだ。
その時、天井のスピーカーから天使の歌声が降ってくる……。

指揮者をじりじりと待っている舞台で、不安に駆られたトーレの発した“歌声”、それにまずガブリエルが合わせた。そして舞台上の皆が次々と自分のトーンを出して、ハーモニーを奏でてゆく。それに合わせて、会場にいる、コンクール参加者や観衆までもが次々に立ち上がって、会場全体が、天に届けとばかりに歌いだすのだ。
いや、これはもはや歌、なのだろうか。だって、歌詞なんてない。ただ皆、ここで感じる声を、魂の奥から楽しげに発している。それがこの広い会場に充満して……これ以上のハーモニーがあるだろうか。
なんという、一体感。舞台上のメンバーもみんな、泣いてる。観てる、いや聞いてるこっちも涙が吹き出す。そしてこれが、死にゆく彼の頭上、つまり天から降ってくるのだ。天使の歌声が、彼を連れに来た。
倒れた拍子にぶつかった額から血をどくどく流しながら、でも彼はこんな幸福はない、って顔で、本当に嬉しそうに、幸せそうに、目をつぶって……多分、天使が彼を天上へと連れて行ってしまった。

あの小学校には、レナの祖父が描いた天使の絵があった。レナが小学校にあがった時、小さな天使を一人、描き足してくれたという。レナは、あなたも描いてもらうわ、と笑顔だったのに。
その小学校に彼は住み着いてた。彼を見守り続けていた天使が、ここに降り立って、彼を静かに連れていったような気がした。

年末年始に公開された映画をぜんぜん観に行けてなくて、これも結構ロングランだった、その上映終了直前につかまえたっ!ああ良かった、ホントにもう。★★★★☆


46億年の恋
2005年 84分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:NAKA雅MURA
撮影:金子正人 音楽:遠藤浩二
出演:松田龍平 安藤政信 窪塚俊介 渋川清彦 遠藤憲一 金森穣 石橋蓮司 石橋凌

2006/9/20/水 劇場(六本木シネマート)
いやー、久々にワケ判らんなーと思って、原作を読もうとしても、絶版中である。どうしようと思いつつオフィシャルサイトを見ると、フツーのストーリーと解説の仕方しかしてないのね。
あれれ?じゃあ、タイトルから起因されるような、壮大なイメージを焼きつけるようなあの描写は?と思って監督のコメントを読むと、「宇宙と人類の仕組みもなんとなくわかったような気にさせてくれる素敵な映画」(自分で素敵な映画とか言うんだもんなー(笑))などと語ってる。
そ、そーか。監督自身「なんとなく」イメージづけをしてるだけで、そう深く考えているわけでもないんだな……しかしそのチャメッ気で、あまりに強烈なイメージづけをしてくるもんだから、観てる側はすっごく深い意味を探っちゃうのよ。

でもまあ、主人公、有吉淳のトラウマを様々に想像させるには十分過ぎるほど、冒頭のビジュアルはインパクトがある。いや、あれは香月史郎の方の記憶なのだろうか。そのあたりも判然としない。
血の様に真っ赤に染まった背景、上半身裸の少年が、老人に指南を受けている。これから始まる、男になる儀式。老人は少年に聞く。お前はどのような男になりたいのだと。少年は少し恥ずかしそうに老人に耳打ちをする。頷く老人。
「これからお前は、その男の元に行くのだ」老人は言う。「お前の顔に向かって男が精を放つ」
はっ?今、何て言った?
意を決したような少年の顔。その裸の肩に手を置く老人。真っ赤な背景のまま、そこへ強烈に踊りまくるダンサー投入。なに、ナンなの、一体これは……。

ひどく隠微なイメージからガツンとぶつけてくる。古い因習のようにも聞こえるけれど、目に刺すような赤と、どこか淫を含んだ老人、少年の肩に置かれた手がゾッとするほど妖しく男色の世界を既に示唆している。
そして少年が男になるというのが、そんな勇ましいイメージでは決してなく、男によって陵辱されるということを想像させて、もうハラハラしてくるんである。
でもね、このどこか時間も空間も超越したような摩訶不思議なビジュアルイメージは、その後、核となるストーリーにさしたる影響を及ぼすわけではないのだ。どう因果関係があるかも正直、不明である。でも、冒頭とラストを飾るこのイメージがあまりに強烈で、それが作品世界をもう決定せしめてしまう。
監督のチャメッ気の「なんとなく」が、世界の果てから運命付けられている二人を、宇宙的なイメージにまで昇華してしまった。

んでもって、男しか出てこないこのストーリー自体は、それほど難解なものではない。
同日に監獄に投獄された青年二人が、本能的に惹かれ合いながら、しかし運命のイタズラで、獄中の殺人事件の加害者と被害者になってしまう。その事件にもカラクリがあって、二人の愛は一人が置き去りにされたことで更に高みへと増す、どこかミステリーにも似たラブストーリー。
この二人が松田龍平と安藤政信とゆー、タイプは違えど美しい男二人だからさ、私としては濃厚なラブシーンを期待したところなんだが、そんなヤボな期待を三池監督は叶えてくれず、これが意外なほどにストイックに展開されていくのね。

ストイックといえど、この監獄内は異様にすさんでいる。ボロボロの囚人服はしかし、元のデザインはインドの修行僧のようで、監獄内の造形もどこかヒンズー教的禁欲の美学を思わせる。
しかし、男ばかりの僧侶の世界に禁断の匂いをかぎつけるように、ここでもまたそんな退廃の世界が繰り広げられるのだ。
世間と隔絶されているという点は僧侶と同じでも、自制するつもりもない欲望を強制的に押さえつけられているのだから、それが発露するのは当然の帰結なのである。
でもね、それもまるで、ラショーモナイズのようにそうではないか、ああではないかと言われるだけなんだけどね。
模範囚の土屋に身体を売っているしたたかな少年、雪村(拗ねたような少年ぽさが、実に美しい窪塚俊介)だって、その行為が物語の中に織り込まれるわけではなく、ただ彼の口からそうだと申告されるだけなんだもの。

ハッキリと示されるのは、エネルギーをもてあますように暴れまくる、香月の暴力行為のみ。彼の強さは獄内ではピカイチで、このアウトローにいまいましい思いを持つ者は多いけれど、誰も彼にかなうものはいない。
でも、香月はただむやみに暴れているわけではなかった。華奢で色白の美少年である新入りの有吉が、何かにつけて目をつけられるのをかばう形で、ケンカを売るんである。
獄内でまことしやかに囁かれる男同士の睦みごとが、ただただ口伝えの推測の域を出ないのと対照的に、自分の身体を張って有吉を守る香月は、ダイレクトに彼への愛を示している。
愛する彼には暴力的な肉体を決して向けず、しかしその躍動する肉体を彼の前にさらす、完璧に禁欲的なのに、完璧にエロチックなのは、だからなのだ。

でもねー、やっぱりねー、二人のラブシーン、見たかったけどねー、としつこい私。ひたすらひたすら、二人は精神世界に降りていくんだよね。それは確かにゾクゾクとするほど素敵なのだけれど……そして二人が触れ合うのが、有吉が愛する香月を殺した時……のはずが、そうだったら良かったのに、その権利すら、香月は有吉に渡さなかった。
監獄の外には、ピラミッドとロケットが見えている。???それもスゴイシチュエイションだなあ……これは有吉の脳内イメージってわけでは、ないよね?
二人は黙ってそぞろ歩いている。「どうしていつも僕をかばってくれるの」有吉のこの質問は、僕のことを好きでいてくれるから?と聞きたい気持ちがあふれ出ている。
黙っている香月に、有吉は別の質問をしてみる。「天国と宇宙、どっちに行く?」
「宇宙かな。天国より人がいなさそう」と香月。
「天国を信じてるんだ」
「どっちかって言うからだろ。お前は?」
「僕も宇宙」
「お前は天国にしとけよ」

この香月の言葉もまた、有吉への愛を感じさせるのには充分だったけれど、それは彼自身と共に成就されるものではないことを、完全に突き放す形で示してしまっているのだ。
香月の寂しさを、有吉は感じ取っていたのに。

この監獄に、新しく来た所長に石橋凌が扮している。端正な顔の彼が、闇の中に半分顔を沈ませて、唇の端を釣り上げて作る笑顔がたまらなくブキミである。
怖いもの知らずの香月なんだけど、彼にだけは異様におびえている。所長の肩越しに、女の亡霊さえ見る。
実は、香月が最初に投獄されたのは、この所長の妻をレイプした罪であった。その後、この妻は自殺してしまった。
だから、所長が香月を憎んでいないはずはない。しかし所長は、それを肯定しながらも、仕事は別だからと、香月を前にしてもまるで知らない風に笑っているのだ。

実はね、もう冒頭で、ラショーモナイズ的な展開は始まっているのだよね。ぴくりとも動かない香月に馬乗りになって首を締めている有吉。聞かれもしないのに念を押すように、「僕がやりました!」と叫びながら引っ立てられていく。
一見、わざわざそんなに念を押さなくたってと思う程、明らかな状況に見えたんだけど、実際は既に香月の首はひも状のもので締められた跡があって、それによって絶命したんであり、有吉はその後手で締める格好をしていただけで、その因果関係は不明なのだ。
凶器のひもは見つからない。いくら有吉が自分がやったと繰り返しても、その証拠が出てこない。

その捜査の過程で、有吉と香月がこの監獄に来るまでが描かれる。ゲイバーで働いていた有吉は、彼をホテルに連れ込んでセクハラした客をメッタ殺しにした。しかも死んだ後も、執拗に損傷し続け、見るも無残な死体を作り上げた。
刑事達はだから、今回の事件も同じ理由だろうかと疑うのだが、他の囚人たちに聞いても二人の関係の親密さばかりが語られるばかりで、どうもそうとは思われない。
一方、香月は劣悪な環境に育った子供だった。例え同じ環境でまっとうに育つ人間がいるとしても、彼がこうなってしまったことを誰も責められないような、ヒドい環境に。
すさんだ心の彼は、殺人を犯して二度目の監獄へとやってきた。
でもそこで出会った有吉と、魂を響き合わせたはずなのだ。

→聞き込みをしても、誰の口からも「誰も香月にはかなわない。彼を殺せる奴なんていない」というコトバが聞かれるばかりである。
香月は不特定多数の男と寝ていたという。しかもそれが誰かも突き止められない。模範囚、土屋と寝ていた雪村は、「土屋が嫉妬して、香月とねたんだろうってしつこく聞くから、ついそう言っただけで、でもやっていない」と言う。
香月がどうして男と寝るのかを、ある日有吉は聞いたことがある。香月は「しないとイライラするから」と言った。
そう聞いた有吉は、なぜ自分は相手にならないのか、という聞きたかったはずの質問を、そこで飲み込んだに違いない。
たとえ、抱かれたいと思っても、それをしないのは、自分への愛だとそこで気づいたからだろうと思う。
でも、香月がだれかれとなく相手にする、というのも、結局は言葉で語られるだけで、これもやはり実体性を持たないんだよね。
危ないニオイはプンプンするのに、それは一切見えなくて、だからひどく禁欲的なんである。
だって香月が暴れ回るのも、まるでそれを発散させているようにも見えるんだもの。有吉にその肉体を見せつけながら。

香月は、死にたかったのか。それとも、愛する人の純粋な視線に耐えられなかったのか。
「僕も一緒に(宇宙に)行っちゃ、いけないかな」有吉がそう言った時の、香月の泣き出しそうな表情が、目に焼きついている。
どうしてそんな目をしたのだ。
そして、どうして有吉のそんな愛の告白同然の言葉に、うなづくことが出来なかったんだ。
あの時、香月は三連の虹を見た。
有吉はそれを回想する。
でもその、奇跡が、彼にどんな影響を与えたのだろう。

香月は結局、雪村の言葉を真に受けた土屋の嫉妬心によって、絞め殺された。
いや、それは正確ではない。確かに土屋は課月の首を紐で絞めたけれども、本当に殺すつもりなんてなかったし、香月は土屋程度の男はなんなくねじ伏せられるはずだったのだ。
なんら抵抗もせず、薄目を開けた香月は良くやってくれた、とでもいうように親指と人差し指でマルを作り、そしておびえる土屋の手の上から握って、自ら紐を左右に引いた。驚き、叫ぶ土屋など、無視して、強く強く、引き続けた。
自殺だったのだ。でも、自殺だなんて弱さを自らに着せるわけには行かなかったのだ。
でも、有吉は見ていた。ひょっとしたら、香月にとっては誤算だったかもしれない。

呆然と、ひざまずき、叫ぶ有吉。
「そんなに死にたかったんなら、なぜ僕にやらせてくれなかったんだ。なんでそんなことまで他のヤツにやらせるんだ」
愛する人の望みどおり逝かせてやるなんて、これ以上の喜びはないのに、それさえも、クダラナイ奴に奪われてしまった。
そして、愛する人が死んでからしか、こうして触れることが出来ない。まるで情事をなぞるように。

……という、実はまっとうな話だったのか。でもやっぱりトラウマを思わせる少年や、ピラミッドやロケット、強烈な血のイメージに惑わされてしまう。
女の要素が出てきたのは、所長のレイプされた妻、という台詞と、「絶対に女の子がいい」と語る囚人たちの会話のみ。そこには陵辱される女が肉体を出さずに描写されているだけに、少年たちの神聖がより深化している感じがする。★★★☆☆


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