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「こ」


2001年鑑賞作品

恋の骨折り損LOVES LABOUR’S LOST
1999年 93分 イギリス=アメリカ カラー
監督:ケネス・ブラナー 脚本:ケネス・ブラナー
撮影:アレックス・トムスン 音楽:パトリック・ドイル
出演:ケネス・ブラナー/アレッサンドロ・ニヴォラ/アリシア・シルヴァーストーン/ナターシャ・マケルホーン/カルメン・イジョゴ/マシュー・リラード/エミリー・モーティマー/エイドリアン・レスター/ネイサン・レイン/ティモシー・スポール


2001/1/11/木 劇場(シネスイッチ銀座)
出世作「ヘンリー5世」と満を持した「ハムレット」(やっぱり四時間はキツいのよ)を見逃している私にとって、ケネス・ブラナーのシェイクスピアといえば「から騒ぎ」であり「世にも憂鬱なハムレットたち」だから、軽くて華やかで陽気で、っていう印象。だから、今回のミュージカル映画は予想はしてなかったけど、予感していたような、ケネス・ブラナーのシェイクスピアだ!っともう嬉しくて嬉しくて。最近変り種のミュージカル映画はおりおり見られたけれど、こんな風に本当に正当な、と思える、まさしくハリウッドの黄金期にタイムスリップしたようなミュージカルなんだもの!93分というおさまりのいい上映時間もいいし。男はタキシード、女はイブニング、なんと華やかでうっとりとしてしまう!まぁ、いわゆるミュージカル俳優というのがいない現在だから、フレッド・アステアやジーン・ケリーに対してのように目をまんまるくしてときめく、というわけにはいかないけれど(でも、エイドリアン・レスターはすごい上手い!)全編ニッコニコのハッピーに包まれている。ほんと、嬉しくなってしまう!

シェイクスピアにはもともと疎いけれど、この作品も初めて聞いた。相変わらずケネス・ブラナーはシェイクスピアオタクなんである。ほんっとに、シェイクスピアが好きなんだなあ、この人は。シェイクスピア俳優と呼ばれることに対するプライドとかじゃなくって、ほんとにシェイクスピアの魅力に参ってて、その作品を作りたくてしょうがないってのが、特に今回はとってもよく感じられるのだ。気がつけばもう40のケネス・ブラナーが恋して歌い踊る男性を演じるんだもの、ミュージカル映画に対する愛もまた相当なもの。でも四人の中で一番年くってるけど、でもなぜだか一番、なあんか、可愛いんだよなあ。

学問に専念するため厳しい生活条件を課した三年間を誓う王とその従者三人。まだまだ子供っぽくて、そしてこんな突飛なことを突然思いつく王が、この従者三人は大好きなんだろうというのがとってもよく感じられる。でも、三年間女性に近づくべからずというのはこりゃムリだ!と……(その他の条件も、週に一度断食しろとか、睡眠は三時間だとか、ムチャクチャだ)まずは惚れっぽそうなビローン(ケネス・ブラナー)が異議を申し立てる。そんな中、彼らの決意を砕く、フランスからの王女ご一行が到着!美女の従者三人を携えて……たちまち恋に落ちてしまう四人×四人!んなバカな!とは思っちゃうけど、んなバカな!と思っちゃうから、ミュージカルに良く似合うんだなー!ほんとに、ミュージカルのために作られたようなお話だけど、これがシェイクスピアなんだもんなあ。

この四人のほかにも愛をささやいている恋人たちはいて。王の情熱的な従者である軍人、アーマードが陽気な田舎娘のジャケネッタに恋するさまが圧巻!いかにもギャグな口ひげとビヤ樽のような体型をくねらせて恋の病を歌い上げるアーマードが愛しいんだなあ。しっかしこれが、「クロコダイルの涙」でマジメ一徹な警官を演じたティモシー・スポール、同一人物とは思えない転換ぶり!このアーマードの彼なんて、ほんとにもともとコメディアンみたいに見えるのに。

文字の読めないジャケネッタがアーマードからの手紙を(実際は取り違えたビローン→ロザラインへの手紙)家庭教師ホロファニアと牧師のナサニエルに読んでもらうように手渡す。ビローンのほとばしる熱情が美しい詩のしらべとなって書き綴られており、お堅いホロファニアがうきうきと歌いだすのに、皆も合わせて歌い踊る!この場面が、一番みなさん踊りが目も当てられないのだが(笑)一番かわいらしいかもしれない。何といってももはや白髪のホロファニアとナサニエルが、若い頃の恋心を取り戻すというおまけつきなんだもの。それも、牧師のナサニエルが、教養のあるホロファニアにすっかり参ってしまうという図式もイイじゃないの。

それにしても驚いたのは、この若きナヴァール王を演じるのが、アレッサンドロ・ニヴォラ、うーん、聞いたことあるようなないような……と思っていたら、なあんと、「アイ ウォント ユー」のストーカー男(!?)だった彼ではないか!びっっくりした、あの彼が、こんな人好きのする若々しくて可愛らしい王様になっちゃうなんてねえ!彼に対するフランス王女役のアリシア・シルヴァーストーンは、うーん、ちょっと太ったかな?でもそのおっとり加減も、彼女のギスギスしたイメージを取っ払ってくれる。世間知らずで、まだ恋を知らない少女。従者たちがそろって恋に落ちているのをからかい気味に眺めながら、その実、王をひと目見たとたん、彼からの熱情が移ってしまったかのように恋に迷いだす。正直言ってこの時点では彼女の、いやこの四人×四人の恋はまだホンモノじゃない。フランス王が死に、王女一行が戻らなくてはならなくなった時、彼女が提案する一年間の冷却期間。原作ではここで終わっているらしいのだが、映画では戦争を挟んで四人がドラマチックに再会するハッピーエンドを用意している。ここでのドキュメンタリー風ニュース映像は、このファンタジックな物語の中でいかにも浮いているのがちょっと気になる。

水中レビュウとでもいうのか?恋に浮かされた女性陣四人&プラスアルファ&プラスアルファの一群がゴールドのワンピース水着とやはりゴールドの華やかなスイムキャップをかぶって水の中、楽しげに歌い踊る場面や、唯一現代的な、ほんとにドキドキするほど官能的な、マスクをかぶっての恋の駆け引きダンス(かつて流行ったランバダみたいだ)、既成曲の名曲オンパレードの中でも一番ワクワクの「ショウほど素敵な商売はない」をメインにした余興舞台、ああ、ミュージカルだ、ミュージカルだ、ミュージカルだ!と心躍りっぱなし!

もちろん、ミュージカルの醍醐味である、普通の会話場面が歌い踊り……になる(苦手な人にとってのネックでもあるけど)というのもふんだんで、ことに男性陣四人がこのキビしい規則をいかんとすべきか、と話し合う場面での、カジュアルなシャツでのコミカルなダンスなど、キュートとカッコよさが一体になっててステキである。いきなり素に戻るのも、いかにもミュージカルらしい可笑しさでね。それにしても、ロマンチックな心持のデュメーン役、エイドリアン・レスターの見事なミュージカルパフォーマンスにはトキめいたなあ。四人の中で一人だけ、ハッキリ上手いんだもん。机とかひょいと飛び越える身のこなしの軽さで、一番体は大きいのに、体が刻んでいるリズムが全然違う!いや、まあほかの三人のいかにも楽しげなダンスもカワユイのだけど。

チラシや予告の“ハッピー・ミュージカル”な楽しさを少しも裏切ることがなかった。こういう何のてらいもない幸せな映画が、現代でももっと普通に作られたらいいのに。★★★★☆


GO
2001年 分 日本 カラー
監督:行定勲 脚本:宮藤官九郎
撮影:柳島克巳 音楽:めいなCo.
出演:窪塚洋介 柴咲コウ 山崎努 大竹しのぶ 山本太郎 新井浩文 村田充 細山田隆人 キム・ミン ミョン・ケナム 大杉漣 塩見三省 萩原聖人

2001/11/1/木 劇場(丸の内東映)
こんな風に、在日朝鮮、韓国人の人たちの物語を普通に、エンタテインメントに、メジャーにのせて語れる時代がようやく来たんだなあ、と思う。遅すぎた気もする。相当の比率で存在している彼らを、それこそ腫れ物にでも触るかのような感じで、いや、もっとひどい、存在すらしていないかのような扱いをしていたのが、正直今までの日本の姿だった。最近の韓国との急速な和平ムードが後押ししたか。本当にこの数年、それも2、3年ではないだろうか、日本と韓国の少なくとも文化レベルにおいての友好ムードの急速な進展は。なんだかんだ言いながらも、それにはずっと過去の、そしてそれを引き継いだ親の意識を背に受けてきた世代が君臨しているうちにはなしえなかったことで、やはりこれも若い世代との世代交代があったからこそ出来たことなのだろう。本当に、今の若い世代にはわだかまりがないんだろうと思えて嬉しくなる。

実際、恥ずかしいけれども、私たちの世代までは、そうしたわだかまりはいまだ存在していたように思う。それは何一つ教えられず、何一つ知ろうとせず、無知の中で何となく持ち続けていた差別意識だったから、なお始末に悪い。相手の姿が見えないから、見ようとしないから、どんどん増幅されていた意識。今にして思えば信じられないし、本当に恥ずかしい、恥ずかしくて仕方がないんだけれど、私の中にも桜井の父親の持っているような部分が確かにあったかもしれない、と思う。でも、私、映画ファンでよかった。色々な側面での韓国との交流は進んでいるけれど、映画の面でが一番早く、一番その力が強い気がするから。

実際にコリアンジャパニーズである著者が、自らの体験をもとに書いた直木賞受賞の小説が原作。最も多感な時期である10代の彼らを通して、日本における在日、韓国人、日本人、そして普遍的な恋愛、友情の姿を浮き彫りにする。「溺れる魚」は作品自体に拒否反応だったので、ようやくまともに窪塚洋介氏の演技が見られる。傷つきやすそうに線が細いけれど、意外なまでにタフな、若々しくてみずみずしい青年像に好感が持てる。ただ、彼は集約的なキャラというか……彼をとりまくサブたちが皆魅力的なもんで。やはりその中でも元来お気に入りの細山田隆人がイイんである。窪塚氏演じる杉原の民族学校時代の親友、ジョンイル役。それにしても窪塚氏と同級の役だなんて……6歳(!)も違うのに。うー、まだこの子、そんなに若いのか……でも最初に見た時より、ずいぶんと落ち着いた印象を受ける。あ、でもそれは役柄のせいか。ならばやはり、ますます注目してしまうなあ。

杉原が、民族学校を出て行くことで世界を見ようとしたのと反して、ジョンイルはそこに留まることで世界を変えようとしている。涼やかで、おとなしそうな彼が、しかしいざというときには驚くほどの勇気を持ち、それが杉原の尊敬を得ているのだが、皮肉なことにそれがあだになってしまう……。落語や、シェイクスピア、その国を色濃く反映するような文化を、しかし魅力のあるものは、力のあるものは、どこの誰でも国境を越えて楽しむことが出来るのだと主張するかのように愛していたジョンイル。「バラはその名を変えても、そのかぐわしい香は変わらない」という台詞に傍線をひっぱり、「めちゃくちゃカッコいいから」と杉原に貸したシェイクスピア。閑散とした寄席でそれを見ながら涙を落とす杉原……たまらなく、哀しい。

名が人を縛ってしまうというのは、ずいぶんと最近、そんなことを聞いたなあ、と思ったら、「陰陽師」でだった。そのことを充分理解した上で、それにこだわらないからこそ安倍晴明と源博雅は生涯の親友となることが出来た。本作では劇中、杉原が恋に落ちた桜井に自分がコリアンジャパニーズであることを告白し、自分の韓国名を告げる場面がある。日本人っぽさや、ベタなことが大嫌いなはずの桜井が隠しようもなく彼に見せてしまう偏見に満ちた拒否反応は、現代では返って、もうあまり存在しないかもしれない。10年前にこの世代だった、私たちの世代には確かにあったと思う。それは国や人を表す名に対する、与えられた意識。もしそうした“名”がなかったら?人を、国を定義するものがなかったら?たった何文字かのそれが、縛り、縛られ、関係をねじらせ、断ち切ってしまう。シェイクスピアが言うように、名が変わっても、その中身は変わることはないはずなのに。

もちろん問題はそれだけではない。国と国との関係の複雑さは……。しかし明らかに日本が恥じ、考えなければならない側だというのに、まるで逆みたいにふるまっていた、この戦後から現代にかけての時間は一体何だったんだろう?それに確かに名を変えようとどうしようと、その人間は変わらないはず、だけれども、それもまたきれいごと過ぎるかもしれない。杉原は、その韓国名を含めて彼自身なのであり、名を変えようと、杉原という名前だけで通そうと、彼自身というその中に、もうその名前は含まれているのだから。それを否定すればするほど、変わらないはずの中身までが変わってしまう。それこそが理不尽な憎しみを生んできたのではないのか。通称名を強要するような日本の社会が、人間同士のふれあいを奪ってきたのではないのか。

私たち日本人の目からは、在日の人たちが通っている民族学校とか、あるとはうっすら知っていながらも、知らないと同様なぐらいに、まるで見えていない。不思議なほどに、その目から閉ざされているんである。でもそれもようやく変わっていくことが出来るんだろう。本当に、本当に遅すぎたけれど。あまりにも意識に格差がありすぎる……相手はこっちのことを知りすぎるほどに知っているのに、こっちは相手のことを知らなさ過ぎるほどに知らないという日本と韓国の関係。そのあまりのギャップの間に落とされた在日の人たちの意識は想像を絶するものがあり、しかしそうした彼らこそが、その縛られた名を解き放てる力を持っているのではないかと思う。杉原や、ジョンイルのように。

コリアンジャパニーズだということを強烈に意識し、あいまいな国籍に翻弄され続けてきた、メチャクチャ強い元ボクサーの父親、秀吉に山崎努。杉原はこの父親に連戦連敗、どうしても勝てないけど、でも父親以外の相手には連戦連勝。この父親の手ほどきがあったからだ。愛妻家で、逆説的に子煩悩で、家族のためにムリヤリに困難な状況をこじ開けちゃうみたいな、ムチャクチャさが愛しい。そして夫を、息子をこれまたメチャクチャな強さで支えるかあちゃんに大竹しのぶ。彼女はいつまでも可愛くて、そして強い。お母さん役を演じるような年になってからの方が、その魅力が発揮されていると思う。泣き出すとちょっとクシャッという顔になるのが、普段の完璧美少女の顔とのギャップで愛らしい柴咲コウ。大人っぽい風貌だから気づかなかったけど、そのしっかりムチっとした太ももで、彼女もまだ相当に若いんだわ、ということを改めて認識する。ラブシーンも初々しくぎこちなくって、可愛い。「バトル・ロワイアル」のコワさがウソのようである。

ストップモーションや反復を駆使し、飛びハネているんだけれど、しっかりとおさまっている感じのシーン運びに、今までの作風からはこの抜擢は意外だった行定監督らしさが見え隠れしているように思う。女性心理の方に興味があるような、しっとり作品のイメージだったからなあ。昨今の高校生映画が彼らの視点に合わせ、一様に突き抜けた感覚を多用している中で、若さの爆発力が内側でくすぶっているのを一生懸命に外側に放出しようとしている、ナイーブさとパワフルさをより精神世界において見つめているようなオトナ感覚に共感&好感。★★★☆☆


ゴーストワールドGHOST WORLD
2001年 111分 アメリカ カラー
監督:テリー・ツワイゴフ 脚色:テリー・ツワイゴフ
撮影:アフォンソ・ベアト 音楽:
出演:ソーラ・バーチ/スカーレット・ヨハンスン/スティーブ・ブシェミ/ブラッド・レンフロ/ボブ・バラバン/イリーナ・ダグラス

2001/8/31/金 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
“二人の女の子の物語”と言いつつ、実際は、イーニドに全面的に寄り添っている映画。ぶっきらぼうで無表情で、社会をハスに見てて、一見タフでしたたかに見えるイーニドは、実際は生きていくのに不器用で、純粋なことを信じている女の子であり、彼女の親友であるレベッカは、最初はイーニドと似たもの同士のように見えて、すべての面で正反対のシッカリモノの現実主義者であることが判ってくる。学校を卒業して、一緒に暮らす約束をしていた二人が、お互いのそうした違いに今更ながら気づき始める。そしてその違いが、人生を分けるほどの決定的なものだと判る。人間は一人で生きていくものなのだということを気づかされてしまう、切ない季節をキュートに活写していく。

この監督、「クラム」の監督さんだったとは、驚いた!シニカルなコミック作家の、ギリギリの一線を踏み外しそうになっているロバート・クラムを描いた傑作ドキュメンタリーは、その年(1997年)に見た映画の中でナンバーワンに入れたいほどの素晴らしさだった。もともとは、ドキュメンタリー作家であり、今回が初のフィクションの映画なのだという。コミックに造詣が深く、コミックが持つシニカルさや、人生の弱い部分を見つめているようなところをとても良く判っていて、いわゆるアメコミという言葉で連想されるような、単純明快なコミックの味わいとは全く違う。

イーニドが出会い、惹かれていくレコードコレクターのシーモアは物語のカギを握るキャラクターだが、何と原作に登場しない人物なのだという。彼にはどこかロバート・クラムの匂いがするような気がする。何かに一心に執着することによって、世間からはじき出されてしまった、もう、いい大人の彼。彼は自分が周りからどう見られているのかも良く判っていて、あきらめといらだちが混在した、見るからに冴えない、でもとても切ない中年男。本来ならイーニドのようなティーンの女の子など接点がないはずなのだが、同じようにモノに執着するタイプのイーニドは、彼のいい部分がどんどん見えてきてしまう。これがレベッカのようなタイプだったり、あるいはイーニドがもう少し大人になってしまっていたら、彼の情けなさばかりがクローズアップされて、世間と同じように彼を視界から外してしまっていたように思う。でもイーニドが彼を判ってしまうというのは、同じように彼女も世間に上手く入っていけない女の子だから、だから彼女も相当に切ない。

シーモアもイーニドも、お互い惹かれているのは判っているのに、そして世間から外されている二人なのに世間的なこと(年の差とか)が気になって、友情の形を保ち続ける。どうして僕の恋人の心配ばかりするのかというシーモアに、イーニドは、あなたのような人がモテない世の中が許せないの、と言う。それは愛の言葉に他ならないのに……。最初の出会いは、新聞の出会い系広告にイーニドがイタズラでかけたことから始まった。だまされてダイナーに訪れたシーモアはいかにもダサくてサエない中年男。でもこんなふうにイーニドがシーモアに惹かれはじめると、彼女の目から彼がとらえられてくると、どんどん素敵に見えてくる。シーモアを演っているのはスティーヴ・ブシェミなのに(!?)すごく素敵に見えてきてしまう。いや、多分、本当にそんなふうにシーモアは変わってきているのだろう。新聞で探していた本物の女性、ダナがあらわれると、奇跡のように彼女と上手くいってしまうのも、イーニドがシーモアの素敵な部分を引き出していたからであり……。

シーモアにのめりこむようになって、そしてなかなか仕事が見つからないイーニドに対し、しっかり自立の道を歩んでいるレベッカ。二人の気持ちも距離も段々離れていってしまう。そして特別な友達だったシーモアも、ダナと出会ったことでイーニドと距離を置くようになってしまう。さらに、父親にはかつての恋人が戻ってきて家に一緒に住むというし、美術の補習で絶賛され、奨学金で美術学校に行けるはずだったのも、いわゆる世間の圧力というやつで断たれてしまった。誰からも拒絶され、一人になってしまったイーニドが胎児のように丸くなってむせび泣く様が心に痛い。ミニスカートからばーんとなま足を出して、しかめっ面で、肩で風切って歩いていた彼女だから、そしてそれはまさしく自分を支えるための武装だったから、それが崩れるのは簡単で、彼女の実はとてもか弱い女の子である様が切なくてしょうがない。

泣きながらシーモアのもとを訪れて、ここに越して来たいと言うイーニド。本当はお互いに惹かれあっていたのを今更ながらに認識し、二人は初めての夜を過ごす。でも何故なのか、この時以来、イーニドはシーモアから距離を置いてしまう。イーニドが越してくることを心待ちにしているシーモアは、彼女が電話にすら出ないことでレベッカを訪ねるのだが、そこでなぜイーニドが自分と出会ったかを初めて知ってしまう。イーニドがいつもからかっている男の子、ジョシュの働くコンビニで暴れまくるシーモア。病院で目覚めると、そこにはイーニドがいた。自分でも自分の気持が判らないの、と言う彼女に、シーモアはあきらめたような弱々しい笑顔で、レベッカから見せてもらった、イーニドのスケッチブック、そこに描かれた、ダイナーで待ちぼうけを食わされている自分のイラストを指し示し、もう聞いたからいいんだよ、と言う。イーニドは笑って、バカね、最後まで見たの?と彼からスケッチブックを取り上げ、その後のページをめくっていくと、シーモアとイーニドが過ごした日々や、シーモアの肖像画が、愛情たっぷりに描かれていた。あなたは私のヒーローよ、とささやくイーニド。このスケッチブックのキュートなイラストといい、切なくて可愛くて、涙が出る!

結局、イーニドとシーモアは一緒に暮らすこともなく、シーモアはおせっかいな母親の勧めでカウンセリングを受けたりしている。イーニドはどうなったかって……。廃止になったバス路線の停留所で、いつもいつも来ないバスを待ち続けている老人が、来るはずのないバスが来て、それに乗り込むのをイーニドは見てしまう。もうバスは来ないのよ、というイーニドに、君は知らないんだよ、と言っていた老人。イーニドは、荷造りをしてそのバス停のベンチに座って待つ。バスが滑り込んでくる。来ると信じている人にそのバスはやってくるのか……イーニドはバスに乗り込み、彼女だけを乗せたバスは夜の街をすべるように走り抜けていく。このバスがどこに行くのか、一体このバスはなんなのか、何一つ説明されることなく、とてつもない切なさを残したまま、物語の幕が閉じる。

めまぐるしく変わるイーニドとレベッカのファッションや、節操ないほどに様々に入り乱れる音楽といい、見た目はまさしくティーンの、そしてコミックのポップさを全面に打ち出した作りなのに、終わってみると何故こんなにも切ないのか。それにしてもソーラ・バーチのイーニドはバツグンだ。「アメリカン・ビューティー」でも確かに魅力的だった記憶はあるが、あんなのより段違いにイイ。多分相当に上手い女優なのだとも思うのだが、それより以前に私はこういう、黒髪でぶっきらぼうな女の子にメチャ弱いのだ(例:「プープーの物語」の松尾れい子とか、「イノセントワールド」の竹内結子とか)。しかもこのムチムチ系の太ももと、目を見張る巨乳がッ!ああー、たまらんもう。劇中ではイーニドよりモテタイプである、レベッカのスカーレット・ヨハンスンなんか、全然問題にならん!アダルトショップではしゃぎまくったり、マニュアルどおりの接客ができなくて、客にシニカルでナイスな暴言を吐く様なんかもう最高なんである。シーモアのレアものに対するコレクション気質とはまた違う、モノに執着する彼女。彼女のそれは、モノにはすべて大なり小なりの思い出がこびりついてて、お金を作るために売ろうとしても、初体験の時に着てた服だから、とか言って、ことごとく非売品になってしまうというあたりが、もう可愛くて仕方がない。

それにしても、これがあのブラッド・レンフロなのか……サエない男の子のジョシュ。「ゴールデンボーイ」なんかで美しい少年を演じていた彼とは思えないなあ。なんか太ったんじゃない?メチャダサ。それはイーニドが言うような、ダサいを通り越して逆にクールになる(つまり、シーモアのようにね)というんではなくて、もう最後までダサダサ。これもまた、演技力のうちの一つなのかなあ!?しかしそれにしてもシーモアのスティーブ・ブシェミである。私は彼が素敵に見えるのなんて、本当に初めて。それはまるで、松岡錠司監督作品の時だけ急に素敵になる田口トモロヲ氏のような新鮮な感動だったりする。事後、イーニドと二人ベッドにいるシーンで、彼女を後ろから抱きすくめる形の彼なんか、ドキドキするほど素敵なんだよなあ。思わず、男って顔じゃないのね、などと型どおりのことを、妙に切実に感じてしまった。

パッケージとしてのカラフルでドライな現代っぽい面白さと相反する、こうしたドキドキとウェットがツボにドカンとはまってしまった。イーニド、そのバスに乗って、どこに行ってしまうの?★★★★☆


呼吸
1982年 3分 日本 カラー
監督:山崎幹夫 脚本:
撮影: 音楽:
出演:

2001/12/24/月 劇場(BOX東中野/山崎幹夫山田勇男特集/レイト)
たった三分間の、小さな空間への愛着。部屋の中をフェイドイン、フェイドアウトをくりかえして撮ったという、というのは後から知った。観ている印象としては、一見して何だか判らないけれど手触りの良さそうなものが触れそうになって離れ、また触れそうになって離れる。キメまで寄り添ってカメラの目にさらされるものが、優しく目の前の空気を揺らす。この時、この瞬間にだけ存在する空気。そんな心地よい感じ。8ミリフィルムのカラカラという軽やかで優しい音と、真四角な画面がとても良く似合う小、掌品。★★★☆☆
極道三国志2 総長への道
1998年 90分 日本 カラー
監督:澤田幸弘 脚本:井上鉄男
撮影:稲田久夫 音楽:
出演:清水宏次朗 石橋保 沢向要士 濱田のり子 大和武士 清水健太郎 安岡力也 大和田伸也 室田日出男

2001/3/12/月 劇場(新宿昭和館)
結構このシリーズは作られているみたいなのだけど、私は初見。「修羅がゆく」シリーズをほうふつとさせるような、いや、あれよりも、現代なのに物凄く任侠道にのっとっていることにちょっと驚いてしまう。勿論、汚い手を使う敵がいてこその、義の心なのだけど。さらに驚いたのは、多分Vシネを中心に活躍しているがゆえに、私はずいぶんと久しぶりに見ることになった清水宏次朗の男の色気と風格。この日、第一作の「極道の妻たち」を見たので、その時の、おそらく出はじめの、恐ろしく若い彼を同時に見たものだから、さらにオドロキは増すのである。こ、これが、いくら年がたっているとはいえ、同じ清水宏次朗とは!昔は全く彼には興味がわかなかったんだけど、こんなにステキになっているとは……。なんというか、VシネっぽいB級の匂いも、全然ないのだ。実にスクリーンに凛として映え、表情も涼やかに色っぽい。そばに立つ石橋保が対照的に鈍重な風体だからかもしれないけれど。

「修羅がゆく」の萩原流行に値するここでの敵は、なんとびっくり、大和田伸也。私彼が悪役やってるの、初めて見た……でも、こうやって見ると、これが意外に悪役顔なのね、なんて。清水宏次朗、石橋保の二人が扮する龍二と一平の二人は、かつていた親分にはむかって、はぐれ者となった流れ者。お互いを兄弟(きょうでい、と発音しているみたい。キャー「昭和残侠伝」ねッ!)と呼び合い、いつか全国の極道を一つにまとめるという夢を抱いている。……そんなことしてどうすんのか、とも思わなくもないが……つまりは争いをなくすということなのか?ヤクザなのに、平和主義なのね。この二人を慕っている健という若造、若いということからか、彼はある組に属することとなり、二人の立会いで杯をかわす。この組の親分というのが、室田日出男。現代の俳優の中で、この人ほど人望のある極道の親分に似つかわしい人もいるまい。親分に似つかわしいけど人望があるかどうかは判らない安岡力也なんかとは、そのへんがちょっと、違うのである。彼は健ばかりか、龍二と一平も身内同然に面倒を見てくれ、しかもひょんなことから巻き込まれてきた、組をつぶされた(ちなみに大和田伸也の組に)復讐心に燃える剛のことにも心を砕く。もう、ほっんとに、心優しき組長なのよー。敵の組にはむざむざやられはしない、とか言いつつ、それよりも何よりも、そのことによって血気盛んな組員が危ない目にあうことをとても心配していて。

龍二と一平が、新宿の“ぴるて”、という静かな家庭風呑み屋で二人並んで飲んでいる。ラストのクレジットを見ると、この店はホントに実在するらしい!行ってみたい、と思わせる店。そこに飛び込んでくるのが、そこで働く板前(特別出演の大和武士だ!)の友人である、剛なのである。剛を奥にかくまい、一平は後ろを固めるために一旦外に出て、龍二は何事も起こっていないような風で酒を呑み続ける。そこに飛び込んでくる大和田組(じゃなくて……だって組の名前、忘れちゃったんだもん)のチンピラの面々。彼らの脅しにもちーとも動じず、静かに酒を呑み続ける清水宏次朗が、メチャメチャ男前!これがさ、同じヤクザ役でも、哀川翔の、静から動へ瞬時に変貌するようなカッコよさとはまた違って、彼はなんというのか……そう、常に穏やかな笑みを浮かべているようなカッコよさなのだ。それは不敵な笑みというのとは違って、なに、どうしたの、とでもいうような、独特に穏やかな笑みで。……ほんと、清水宏次朗がこうなるとは、予想外だったなあ。

大和田組(だから、違うっつーの)のやり方はますます悪辣になってきて、龍二に、そして組長にヒットマンを差し向けてくる。しかし、この「今までタダ飯を食わせていたが、そろそろ働いてもらう」と登場したこのヒットマンは、そうしたモノイリな割にはなんだかあんまり腕が良くなくって、二人とも結局決定的にしとめられないんである。黒づくめにサングラスという、いかにもないでたちで自信満々の彼が、しかし失敗してモロにうなだれたりするんだから、かなり爆笑モノ。しかしこの時受けた銃創で昏睡状態となってしまった龍二、その間に一平と健と剛は大和田組を壊滅することを決意する。一平は龍二にドスを握らせて、健と剛と共に敵陣に乗り込むんだけど、その戦いのさなかに、まるでそれを察知したように龍二がいきなりパチリと目を覚まし、点滴を引っこ抜いて、ドスを携え駆けつけようとするのには、いや、悪いけど、ちょっと笑ってしまった。勿論体力が消耗している彼は、そのまま倒れちゃって元通り床の上の人(笑)。ムリしちゃいかんよ。

この斬り込みの時にね、あれはなんでなの?“ペンキ塗り立て”の張り紙とともに、ビニールが建物前面に張り巡らされてるのって……あれってもしかして実際の建物を借りてて、血のりで汚さないようにっていう処置とか……まさか、そんなオマヌケな……。でもだって、なんの必然性もないじゃない。ま、それはいいとして、無事この悪辣組を壊滅した三人は、まだ龍二が床から起きられない状態のまま、これからの結束と野望を誓う。オイオイー、清水宏次朗が主人公なハズなのに、この絵の中に彼がいないというのは……ちょっとヒドいよー。

それにしても石橋保氏は、清水宏次朗と対照的にアツい演技を繰り広げるお方で、龍二に対しても剛に対してもあわやキスせんばかりの至近距離なもんだから、なんだかハラハラ?してしまったわ。★★★☆☆


極道の妻(おんな)たち
1986年 120分 日本 カラー
監督:五社英雄 脚本:高田宏治
撮影:森田富士郎 音楽:佐藤勝
出演:岩下志麻 かたせ梨乃 世良公則 成田三樹夫 佳那晃子 佐藤慶 岩尾正隆 清水宏次朗

2001/3/12/月 劇場(新宿昭和館)
シリーズも後半のものは何本か観ているのだけど、意外や意外、記念すべき第一作は初めて鑑賞。後半になるとほとんどキャラクターと化してしまい、しわを飛ばすためにハレーション気味になっている岩下志麻も、さすがに第一作あたりはある程度の年輪を重ねてはいるものの、まだまだ艶っぽい姐さんが良く似合っている。それに、はああ、この第一作は五社英雄監督だったのね。もう、匂いたつような、今じゃなかなか実現できない華やかな女の世界で、極道の妻、というよりは、そうした女そのものの色合いが濃くって。ああ、それにそれに、成田三樹夫!そうか、この時にはまだ……私が本格的に映画を観始める直前くらいに彼は死んでしまっているから、こうして最近まで続けられていたシリーズの最初の頃は出ていたんだなあ、と思うとなんだか哀しいような切ないような。スマートでカッコよくて、でも女たちに押されっぱなしのちょっとナサケナイヤクザものを余裕で演じてて、やっぱり素敵。ああ、何故こんなにも早く彼は死んでしまったのか!それにかたせ梨乃。たった15年位前で、こんなに若い!?ウブなお嬢さん役で、びっくりしてしまう。しかし15年経ってもそのナイスバディはまったくそのまま維持しているのを再確認して、さらに驚く。

“懲役寡婦の会”と称する、夫たちが刑務所に服役している極道者の妻たちが岩下志麻演じる姐御、環をボスに歌えや踊れの大宴会に興じている。もう、この場面から、そのハデなそれぞれの格好と化粧やアクセサリー、ちょっとエッチな会話に圧倒される。夫がいないことの寂しさを訴えながら、その実結構したたかに生きている女たち。その一方で環の妹の真琴は、しがない鉄工職人の父親と二人暮し、借金取りの来襲に耐えながら慣れないスナックで働いている。そこで彼女に目をつける、自称芸能プロダクションの社長、杉田。これが世良公則。彼は実はヤクザ者で、成田三樹夫扮する組を分裂した幹部である小磯という男に、元の組長を消すよう命じられる鉄砲玉となるのだが、そうした刹那的な、結局は虫けらのように殺される、したたかになりきれなかった男の哀切さと色気が登場からガンガン発散されている。ほんとに、色っぽい。その厚めの唇といい……そう、この厚めの唇が、巨乳のかたせ梨乃と対峙する時、鉄壁のエロティシズムを発散するのだ。二人の絡みは、もう肉と肉とのぶつかり合い!って感じの、ほとんど格闘技にも近いくらいの力強さを持つ官能。圧倒的。

自分ではそんなつもりはなくても、結局姉と同様ヤクザ者を好きになって極道の妻となってしまう真琴。妹にはそんな苦労は味合わせたくない、とエリートとの見合いをさせる環は、真琴が極道者を好きになったことを知ると、こりゃもう、おっそろしい勢いで彼女を押しとどめようとする。この時の女二人の喧嘩っつーか、対決っつーか、なんかもう、ほんとにスゴい、としか言いようがない。岩下志麻は和服でかたせ梨乃は洋服で、それぞれを引きちぎらんばかりにひっつかみあい、ゴロゴロ転がり、特にかたせ梨乃のキャーともギャーともつかない叫び声はとめどなく続き、スクリーンに向かって、えーい、うるさいわい!とツッコミたくなる凄まじさ。結局環はあんたがそこまで真剣なんだったら、と根負けする。うーん、こういうのが真剣というんだろうか。ほとんど意地になってるだけじゃないかとも思うが……。

杉田と、彼のボスである小磯、結局双方とも自分だけの力じゃ成り上がれない小物どうし。しかし女たちは、結果がどうあれ、そうした男たちを好きになることによって、自らを光り輝かせる。怪我をし、追われる身となった杉田の元へ真琴は先ほどの環との攻防を制して駆けつける。お互いを求め合っているところに、追手が現れる。殺られる。ついさっきまで激しく愛撫されていた大きな胸をしどけなくあらわにし、その胸に倒れた男の血を浴びて、西日の射す中呆然と窓際に寄りかかる真琴。その凄惨かつ耽美的な美しさ。

一方の環は、仮出所する夫を出迎えるのを心待ちにしている。仮出所が決まった時からウキウキとしている。跡目争いに何とか出所した夫を加わらせたくて、上の姐さんに頭を下げ、しかし叱咤される環。それはそのことによって自分もまたのし上がりたいというよりは、ほんとうにホレた男のために、と感じさせるあたりが凄い。それが女の強さになる、という、一般的にはちょっと考えられないようなことを逆説的に、見事に表現するのである。それが凄い。

ラストシーンが印象的。この仮出所する夫は佐藤慶。彼のために真っ白のスーツと洒落た帽子を用意し、それを身にまとった夫が船のタラップから下りてくるのを感慨深げに、そして少しドキドキとした面持ちで出迎える環。と、鉄砲玉が踊り出てきて、一発、二発。慌てて支える組員の腕の中に仰向けにがくがくと倒れこむ佐藤慶、騒然とする周囲、その中一人呆然と夫を見つめる環。そしてラストクレジットもなにもなく、その環の顔のアップでカットアウト。凄い、強烈。

若いことで驚いた人がもう一人。この日「極道三国志2 総長への道」でえらくカッコよくなっちゃったことでも驚いた清水宏次朗、彼は真琴と彼女の父親のもとに、借金取りからの命令で二人が夜逃げしないように見張りにきてて、そのうちこの父親と仲良くなっちゃうという、気のいいアンちゃんの役なのだが、ほんと、後年こんなに風格が出るとは予想もつかないカルいアンちゃんが良く似合う、ほんとにほんとに若い!ついでに杉田の組員の一人として出ている竹内力も華奢で(!)若い!おっどろいたなー。★★★☆☆


ココニイルコト
2001年 115分 日本 カラー
監督:長澤雅彦 脚本:長澤雅彦 三澤慶子
撮影:藤澤順一 音楽:REMEDIOS
出演:真中瞳 堺雅人 中村育二 小市慢太郎 黒坂真美 原田夏希 阿南健治 不破万作 近藤芳正 久保京子 俵木藤汰 臼井静 井之上チャル 稲盛誠 重松収 島木譲二 笑福亭鶴瓶

2001/6/26/火 劇場(シネスイッチ銀座)
不倫の相手との終焉。一人になる寂しさ。その中で出会う人々との優しい時間。穏やかな幸せ。というような要素が、私にとってとびきりのヒットだった「クリスマスにプレゼントを選ぶこともなく」と重なって見えた。安易に新しい恋を見つけるところまで行かないところも何だか似ている。本作での前野君はちょっとそんな感じになりそうだったけど、でもあくまでそうではないからこそ心に染みるのだし、永遠となるのだ。……そう、まさか彼が死んでしまうなんて思いもしなかったけど。でもヒロインの志乃と同じく星が好きだった前野君は、まさしく星になっちゃったのだ。

不倫相手の奥さんから手切れ金を渡され、大阪に飛ばされた相葉志乃。それも自分が自信を持ち始めたクリエイティブ局をはずされ、なんと営業に配属されてしまう。中途採用で同時に入ってきた前野悦郎は根っからの楽天的な大阪人。思い悩む志乃を何くれと引き回す。異様にカンが鋭くて、志乃の不倫とその別れさえも言い当ててしまう不思議な人。彼女のバースデイプレゼントにとプラネタリウムのチケットを贈る。そこには彼自身も星を見上げながら涙を流していて。きょうは阪急ブレーブスの命日なのだという。でも、違うのだ。彼自身が心臓を患っていて、九死に一生を得た、自分が一度死んで生まれ変わったその日が過去の自分の命日で、その日から彼は別の生を生き続けていたのだ。

と、知ることになるのは、ずっとずっと後で。もしかしたら彼はその日から自分が本当に死んでしまう日が見えていたのかもしれない、とすら思ってしまう。彼に備わった能力は、カンというには鋭すぎて、そして優しすぎる。志乃のプロフィールだって、社内報で知ったのではないかもしれない。なんて思うのは、何だか彼の笑顔やどこか浮世離れしたところ、あるいは恋愛や性的な匂いを感じさせないところが、まるで天使みたいだと思ってしまうからだ。……それってかなりベタなキャラ設定だとは思うけど、でも堺雅人だからこそそう思うし、彼の、地上でのそんな“活動”を応援している骨董屋「大門」のご主人もまるでお仲間みたい(笑福亭鶴瓶、絶妙!)。星を見て涙を流しているのも、まるで故郷を思って泣いているみたい。

志乃は手切れ金の50万円をすべて使い終わったら東京に戻ろうと思っている。だから豪華なホテルに滞在し、それでも待ちきれなくて一気にスッてやろうと競艇の一番人気のない選手にかけたら大穴を当ててしまった。その大金をホテルの一泊代で割って、あとまだこんなにいなくちゃいけない、とばかりにため息をつく。その金はしかしその後前野君の手術代として提供されることになるのだが、でも彼の提示された条件のもとにつくられた金ではなかった。それを見透かしたように彼はその金で手術を受けることなく、その前に天に召されてしまう。

志乃が前野君のおかげで得たおもちゃ屋のCMの仕事は、前野君と出会ったことで思い出した、ずっと思い出したくないと思って心にしまっていた、大好きな父親との思い出を題材にしたものだった。父親が治ることをお星様に願って、それが聞き入れられなかったあの時から、願うことなど無駄だと何もかもあきらめてしまっていた自分をも見直す志乃。そんな彼女に、願えるというそのこと自体が幸せなことなのではないかという前野君。前野君は、願うことすらできないのか、やっぱり天使だから?でもこんなくだりを聞いていると、それよりもっと踏み込んで、前野君自身がこの志乃の死んだお父さんが姿を変えて彼女の前にあらわれている、そんな気すらしてくる。あのとき前野君は一度死んでしまって、そして志乃のために生まれ変わってきたような……なんてね。あるいは、死が見えている人にはどこか人間性を超越した部分があって、こんな風に切ないほどの優しさを与えられるのかもしれない。ニコニコと笑ったまま、その印象のまま死んでいってしまうというのは、「八月のクリスマス」のハン・ソッキュなんかを思い出してしまう。

志乃が、彼女自身は知らなかったけど、前野君が提供した、この季節でも雪が降る山の中にCMの撮影に出かけ、そこで前野君の声を聞いたのは、やっぱり彼が天上の人だったからではないのか。それにこのとき志乃はお父さんとの思い出を再現していた。雪の中でかつての、子供のころの自分を演じた女の子とたわむれていた。彼女が上司との別れを信じたくなかったのも、自分には寄りかかれる人がいなければ生きていけないと思い込んでいたせいなのかもしれなくて、でもそんな自分と本当の意味で決別したことを象徴するこの場面で届いた声は、だからやっぱり前野君であると同時に志乃のお父さんだったのではないか。きっとこの場所は天上に一番近い場所で、雪は彼(どちら?)が降らせてくれたのだ。

演じる2人、志乃役の真中瞳は彼女こそ根っからの明るい大阪人で、東京のクリエイティブ局にこだわっていて沈み込んでいるこの役をやらせるにはかわいそうな気がするほどなのだが、彼女には不思議な色気があって(あのあごのほくろが特に!)なかなかハマっている。正直演技的にはまだまだカタい感じはあるのだけど、着実に実力をつけていってほしい。そして一方の前野役の堺雅人は、もうこの人はねー!「火星のわが家」ですっごく良かったから、とても楽しみにしていた。それこそ「火星の……」でも心に傷を負った女性を、彼女に対して何をするというのではないんだけど、その肩の力が抜けた独特の包容力で楽にしてしまう。彼こそ根っからの大阪人ではなく、しかしだからこそ、その彼の要素もあいまって、実にまろやかな包容力をかもし出しているのだ。全く参ってしまう、あの「ま、ええんとちゃいますか」には!それだけで、自分が肩の力が入っていたことに気づいて、ふうっとその緊張がほぐれてしまう。優しくて優しくて優しくてたまらない。堺雅人、素晴らしい!その笑顔の無邪気さはどこか林泰文に似ていたりするけれど、無邪気で童顔のその笑顔自体に包容力が備わっているというのは、素敵すぎる!

「クリスマス・イヴ」では作品のせいでかただただつまらない印象しかなかった黒坂真美も、ここでは志乃と同じ傷を持つことで彼女の友達になる大阪っ子を無理なく演じていてなかなかよかった。いやいやそれ以上に前野君の妹で自分の年とダブルスコアのダーリンとラブラブ新婚生活を営んでいるという原田夏希ちゃんがかわゆくてねー!いやはやふいに飛び込んできた美少女に嬉しいのなんの。しかも彼女、劇中では19歳ってことになってたけど、実際はまだ16歳、その可愛らしい口調が実にツボなんだわなあ。

remediosの音楽のせいなのか、その雪降る中でヒロインが自分を取り戻すという展開のせいなのか、あるいはかかっている劇場がシネスイッチ銀座であるせいなのか、「Love Letter」をふと思い出した。優しい映画だった。★★★☆☆


ゴッド アンド モンスターGODS AND MONSTERS
1998年 106分 アメリカ カラー
監督:ビル・コンドン 脚本:ビル・コンドン
撮影:スティーヴン・カッツ 音楽:カーター・バーウェル
出演:イアン・マッケラン/ブレンダン・フレイザー/リン・レッドブレイヴ/ロリータ・ダヴィドヴィッチ/ケヴィン・J・オコナー/マーティン・フェレロ/ジャック・ベイツ/デイヴィッド・ヂュークス/ブランドン・クレイラ/パメラ・セーラム/マイケル・オハガン/ジャック・プロートニク/サラ・アン・モリス/マーク・キーリー/デイヴィッド・ミルバーン/ロザリンド・エアーズ/マット・マッケンジー/コーネリア・ヘイズ・オハーリー/アーサー・ディグナム/ジェシー・ジェイムズ

2001/1/16/火 劇場(銀座テアトルシネマ/レイト)
98年度のアカデミー賞をはじめとする賞レースで、数々の受賞&ノミネートに輝きながらも、そのカルトな内容とスター俳優の出演がないせいか、日本未公開の憂き目にあっていた作品。そう、去年の2月頃、この作品の上映運動が起こってて、印刷のつぶれた手製のチラシで“一日だけの有料試写会”を呼びかけていたのを覚えている。それほどまでに幻の傑作なのかと興味はあったけれど、行けなかった。「ゴッド アンド モンスター」などというタイトルからは、どんな内容なのかすら判然としない中、そしてまた一年近くたった今、そのファンの熱意が動かしたという鳴り物入りで、レイトショー公開。……私が行った日は、あまりにも人がいなかったが(4、5人くらい)。

フランケンシュタインという、恐怖映画の教科書的存在の作品で人気を得た、ハリウッド黄金期の監督、ジェームズ・ホエールの引退後、そして謎の死を、“こうだったのではないか”という、あくまで推測ながら、その内面にまで深く入り込んで描いた作品。このジェームズ・ホエールという人は、この時代ながらゲイであることをカミングアウトしていた人物で、これをやはり同じ立場のイアン・マッケランが演じている。「ゴールデンボーイ」といい、そのせいでイアン・マッケランには似たような役が続いてしまうと思わなくもないのだが、彼が「生涯の当たり役」とほれ込むのも判るほどの、静かながら鬼気迫る熱演。そして、彼の最後の情熱の相手になる粗野な庭師、ブーンを演じるのが、どこかホエールの作ったフランケンシュタインばりの大きな体と平たい頭まで似ているブレンダン・フレイザー。コメディ&冒険活劇作品で見せる、チャーミングな彼とは大違いのシリアス演技、この作品選定と、彼が尊敬しているというイアン・マッケランという最高の共演者を得て、彼もまた負けず劣らずの熱演である。

ブーンの見事な肉体に、確かにホエールは並々ならぬ興味を示すものの、二人の間に流れているのは、というか、結果的に昇華するのは、人間対人間の、真摯な尊敬と親愛である。どこかいいかげんな生活を送っていたブーンは、自分の雇い主がかつてのヒット監督だったと知って、その作品を再見し、そこに描かれる怪物にホエール自身と、そしておそらく自分をも見たのだと思う。だからこそホエールの自分に対する視線に反発しながらも、彼に対する尊敬も交えた近しい感情を抑えきれない。それは、ホエールが死ぬ前日、取り乱した彼からほとんどレイプのような目にあわされても、である。

ホエールには戦争体験に対する強烈な罪の意識があり、加えてその戦争で恋人を失っている。しかも目の前にその彼の死体をぶら下げたまま幾日も過ごさなければならなかったという異様な体験が、過去の記憶がフラッシュバックされることを止められない老いた現在、彼を途方もなく苦しめている。ホエールはブーンに、というよりブーンの後ろにその恋人を見ていて、もしかしたら最後までブーン自身を見つめていることはなかったのかもしれない。自らがスケッチしたフランケンシュタインの似顔絵の裏に、ブーンに対して感謝の念を書き残すのは、彼の人生をずっと覆ってきたその恋人の記憶の苦しみを、彼が(もちろんそうと意識はしてなかったけれど)取り除いてくれたから。ブーンは同性愛者としてのホエールの視線に戸惑いながらも、それとは違った意味で彼に惹かれているのは明らかだったのに、ホエールは実際にはブーン自身を心にとめていたとは言いがたかったわけで、ちょっとこの辺が面白いのだが、これはつまり意外にもブーン側の片思いだったかも?なんて思ったりするのだ。

恐怖映画の監督とだけ言われるのに不満をもらしながらも、彼が自分を投影できたのは、怪物に対する形でしかなかった。彼が生涯苦しめられた戦争の記憶を映画化して成功できなかったのは、もちろん時代が故のズタズタな改ざんにもよるのだろうけれど、彼が本当に苦しんでいたのは戦争というマスの記憶ではなく、その中で苦しんでいた自分という個の存在だから。その極限状況だからこそ生涯唯一の純粋な愛を紡げた場所だったからだ。彼は自分がゲイだということを隠さなかったし、それを恥じてもいなかったけれど、周囲もそうだったとは思い難い。実際それを象徴しているのがホエールを世話しているメイドのハンナの言動で、彼女はホエールがゲイだということ、ただそれだけで罪深く、地獄に落ちると思っている(かつて露骨なゲイパーティーをしたという記憶のせいもあるみたいだけど)。でもそんな彼女もまた、そうしてホエールのことを尊敬はしないと言いながらも、そして笑っちゃうほどに屈折しているんだけど、でも確かにまごうことなき愛情を注ぎ、……言っちゃえば、彼を愛していたと思う。演じるリン・レッドグレイヴがもう絶品で、いかにも口やかましいガンコ一徹な老女なのだけど、そうした優しさや愛情がたまらずあふれてる。

ホエールはだから、自分での認識以上に人に愛された人間だったのかもしれない。若い男をハダカにさせたがったり、ガスマスクをつけさせて後ろから愛撫に襲い掛かったりと、かなりとんでもないオジイチャンなのだけど、本来はインテリでエレガントな人物。それが不思議と矛盾することなく、むしろそうした人間の二面性が可笑しいような哀しさに満ちていて、このあたりはさすがイアン・マッケランである。彼がきちっと正装してキリストさながらに両手を大きく広げてプールに浮かんでいる姿は、厳粛で荘厳なものさえ感じさせる。その第一発見者であるブーンがざんぶとばかりに飛び込んで引き上げる場面、ブーン=ブレンダン・フレイザーがやたらとカッコいいのが印象的だ。彼はその完璧すぎるギリシャ彫刻のような肉体が、逆に不完全な、未熟な青年の内面を露呈していて、ホエールならずともそのあたりのアンバランスな魅力にクラクラさせられる。そして彼のその後がチラッと描かれ、彼は立派に家庭を持ち、息子にフランケンシュタインの映画を見せて、パパはこの監督と友達だったんだよ、と誇らしげに言う。その時のブレンダン・フレイザーは、これまた驚くのだが、それまでのブーンとはまるで別人のようにちゃんと大人で、どっしりと落ち着いた頼れるパパなのである。

「フランケンシュタインの花嫁」の撮影風景を再現したり、“隠れゲイ”のジョージ・キューカー(!!)のパーティーでフランケンシュタイン役のボリス・カーロフらと再会する場面があったりと、その道のファンにはたまらないであろう挿話を挿入しながらも、カルト映画にとどまることなく、テーマはあくまで人間の存在と尊厳にかかわるもの。しかしこうしたエピソードの挿入が不思議なテイストをかもし出していて、どこか“普通の映画”ではない、と思わせる。怪物を作り出した、神たるホエールが、でも本当の神に愛されないと思い込んでいる。監督と製作者は偶然か二人とも哲学科の出身で、このあたりの描き方は多分に哲学的で面白い。★★★☆☆


小人の饗宴AUCH ZWERGE HABEN KLEIN ANGEFANGEN
1970年 96分 (西)ドイツ カラー
監督:ヴェルナー・ヘルツォーク 脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
撮影:トーマス・マオホ 音楽:ヴェルナー・ヘルツォーク/フロリアン・フリッケ
出演:ヘルムート・デーリング/パウル・グラウアー/ギーゼラ・ヘルトビヒ

2001/1/15/月 劇場(BOX東中野)
さまざまな映画を観て、どんな映画でも自分なりに理解できるなどと奢った気持ちを持ってくると、唐突にこういう作品に襲われてしまう。自分の理解の範疇のものだけを肯定し、満足していた気持ちを容赦なくガツンと打ち砕く。……自分でも持て余してしまうほどの、理由のない生理的嫌悪感。いや、理由がない、のだろうか。私が嫌悪感を感じるのは、彼らが小人の姿を借りて、私たち愚かな人間を体現しているからなのか。いや、それならばまだ良い。彼らが小人だからという、ただそれだけの理由でそう感じている気すらしてくる、そしてそう感じることに戦慄する。もしそうだとしたら、私は私をこの上なく軽蔑してしまう。……自己嫌悪などという気持ちすら甘ったるくなるほど。

正直、何が起こっているのかもわからない。荒野の中ぽつんと建つ、あまりにも普通な建物。想像される、荒れ果てた、とか閉ざされた、とかいう感じがないのが、逆に妙な不安を掻き立てる。そしてその外で暴走し、狂乱する十数人。彼らの口から出る“施設”という言葉。出てくるのは文字通り小人ばかり。大人であり、時には老いてすらいるのに、体の成長が止まってしまった人たちである。施設というからには管理する普通の人間がいていいはずなのに、それも出てこない。偶然通りかかる人ですら、小人である。建物の内部には彼らの暴挙に対抗するすべのないやはり小人の男がおり、なぜか椅子に縛り付けられているやはり小人の青年がおり、最初のうちこそ、この青年(ペペ、と言っていた気がする)の処遇について内と外とで問答しているのだが、どうしてそうなったのか判らないうちに、彼らはワゴンを旋回させ、木を焼き払い、物を壊しまくる。不満から出たはず(それも推測に過ぎないのだが)の暴挙が、タイトルどおり、狂乱の饗宴へとのぼりつめてゆく。

この饗宴に加わらない、というか、彼らの饗宴のエサにされてしまっている盲目の(双子の?)小人が、彼らによって感覚を混乱させられ、めくらめっぽうに正体の判らない相手に向かって棒を振り回す不気味さ。彼らの、無表情の下に隠された不安が、こちらに容赦なく伝染してくる。そしてペペと、外にいる小人の中で一番小さな男(頭から、もうちっちゃい。誤解を恐れず言うなら……オモチャみたいだ)が、絶えず奇怪な笑い声をたてている。ペペがなぜ笑っているのか判らないのも気味が悪いし、もう一人の、この極小男がたてる笑い声ときたら、本当に悪魔の笑い声のようで、人間のものとも思えない。ヘルツォーク監督は、この男の笑い声が生理的嫌悪感を引き起こすのを判っているに違いなく、それが証拠に、何一つ実を結ばないラストシーン、立ち上がれないラクダの前で(これもまた、意味が判らず、そして気味が悪い)、彼は延々と延々と延々と、笑い続けるのだ。もう、本当にやめて、お願いだからやめて、と、うるさい虫をひねりつぶしたい気持ちにも似た、殺意のような気分すら抱かせ、その気持ちにまたしても愕然とし、結局最後にはこの小人たちに対する嫌悪感ではなく、自分に対する嫌悪感で心が真っ黒に塗りつぶされてしまう。……何ということ!

彼らに対する描写は、特にセクシャルな部分でどこか寓話的なところも数多く見られ、例えば、ベッドルームに男と女を押し込めて笑いさざめいたり、エロ雑誌を見て喜んだりもする。その部分の描写だけが、暴れまくるその他の部分と奇妙に分け隔てている。しかしそれはその部分での純粋さというよりは、そうしたセクシャリティに対する嘲笑のようにも思える。極端に深刻か、極端にふざけるしか表現できないそれに対して。人間の、もっとも普通に存在する部分のことが、なぜ極端な形でしか受け止めることが出来ないのかということに対して。そのせいなのか、彼らが無邪気に(?)反応するこれらの描写に、なんだかヘンな恥ずかしさを感じて逃げ出したくなる衝動に駆られるのは。

先述のラクダもそうだが、仔豚たちに母乳を与えている母豚、その親子もろとも殺してしまったり、死にかけた仲間をつつきまわって羽を抜く鶏など、動物愛護団体が目をひんむきそうな、強烈な場面が数多く登場する。しかし、特にその鶏の描写は、人間が手を加えたものではなく、鶏自身(?)が仲間に対して何の疑いもなく(?)やっていることなのであり、それがさらに強烈なのだ。内にいるペペと監視する男のもとに鶏が投げ込まれ、男が狂ったように鶏を追い掛け回し、殺さんばかりの勢いで引っ掴んで振り回すさまも強烈である。それが何を意味するのか、などという頭も、とうに吹き飛ばされてしまう。意味などあるものか、いや、その見えている世界こそが意味のすべてなのだ……分析不可能な混乱の渦に巻き込まれる。

同じ小人が出るのでも、本当に大好きな「リュシアン 赤い小人」などと、こうもちがうかという……どちらにしてもその表現は極端であり、本当の彼らの姿とは遠いところにあるに違いないのだが、明らかに映像的に力のある、この小人という存在が、映画作家の想像力をかきたてるのは疑いないところなのだろう。それにしても……観てはいけないものを観てしまったような、あるいは、観たくないものを観てしまったような、なんだかイヤな後味ばかりが残ってしまう作品。しかし、判っている、それは作品ではなく、自分のイヤな部分を予期せず突きつけられたからだということが。だからこの作品を否定することは出来ないのだ。それは自分を否定することだから。……でも、そんな風に自分を納得させるのも、またウヌボレのような気がして、そんな観客が味わう気持ちの堂々巡りを、ヘルツォーク監督はニヤニヤ笑って観察しているのだろうか。★★☆☆☆


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