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英国王 給仕人に乾杯!/OBSLUHOVAL JSEM ANGLICKEHO KRALE/I SERVED THE KING OF ENGLAND
2007年 120分 チェコ=スロヴァキア カラー
監督:イジー・メンツェル 脚本:イジー・メンツェル
撮影:ヤロミール・ショフル 音楽:アレシュ・ブジェジナ
出演:イヴァン・バルネフ/オルドジフ・カイゼル/ユリア・イェンチ/マリアン・ラブダ/マルチン・フバ/ミラン・ラシツァ/ズザナ・フィアロヴァー/イジー・ラブス/ペトラ・フシェビーチコヴァー/ルドルフ・フルシーンスキーJr./パヴェル・ノヴィー/エヴァ・カルツォフスカー/ヨゼフ・アブルハム/ヤロミール・ドゥラヴァ/シャールカ・ペトルジェロヴァー/イシュトヴァン・サボー/トニア・グレーヴス
劇中のヤンの祖父が、ヤン・ジーチェというチェコ名ではなく、ヨハン・ディティーというドイツ名で墓石が刻まれていて、それにヤンの恋人のリーザが狂喜したのを聞いて、あっと思ったんだよね。
チェコという祖国と、ドイツという隣国であり敵国であり時には同胞であるという、関係がややこしくくるくると変わるスデーテンを、この現代の若きスター、トマシュの名前にさえ、見い出すことが出来るなんて。
思えば“現在軸”として語られる、年老いたヤンが出所してきた1963年だなんて、本当にほんの最近のこと。私の生まれるほんの10年ほど前。
物語はそのヤンが刑期を受ける前、世界一のホテル王になることを夢見て、華やかな修行時代を送った時代なんである。
でもその華やかな時代は、だんだんと灰色を帯びてくる。ナチスだし、ヒットラーだし、そうした“世界史”的な雰囲気は特に後半に至ると存分に色濃くなるんだけれど、なんだかこれが、不思議にお伽噺なのだった。
「私の不運は、いつも幸運とドンデン返し」年老いて過去を回想するヤンは、そんな風に心の中でつぶやく。面白い言い回し……背中あわせとか、そういう意味にも思えるけれど。でもヤンの人生は、ただただ、どんどんと上がり調子にも見えた。
「お前は小さな国の小さな人間。それを忘れなければ、人生は美しくなる」ヤンの人生のすべてを見守り続けてきた紳士、ヴァルデン氏が、彼に告げた言葉。
最初はなんのことやら、意味が判らなかった。小さな人間なんて、ちょと皮肉にも聞こえたぐらい。でも、このチェコという小国が、まるで荒れ狂う嵐の中に浮かべられた小船のように翻弄されるこれからを考えると、その中でその“小さな国”のことを忘れようとしたことを考えると、確かにヤンの人生は……いやでもあの時、世界は全て、美しさなんて余裕はなかったのだ。
ヤンは、上背の小さな男。なんだかそれが、それだけで、お伽噺になるには充分に思わせた。
私、即座に「リュシアン 赤い小人」を思い出してしまった。全然、関係ない。国も関係なければ、あの作品の彼は小人症であり、ヤンはただ、小柄な男性というだけなのだから。
でも、なんだか、小さな男というのが、白雪姫に仕える小人を即座にイメージさせるもんだから。常に表情はストイックに引き締めていて、何よりヤンは、確かに仕える商売、給仕人なのだし、行く先々で気に入られては出世するのだし、なんだかそんな雰囲気を感じたのだ。
しかも、小さな男なのに、絶倫だという部分もリュシアンと共通!?いや、別にヤンが絶倫だなんて劇中で言ってる訳じゃないんだけど。
彼は行く先々で、老金持ちたちがうっとりと眺めるエロスたっぷりの美しい娼婦や、ちょっとSっ気のありそうなベテランメイドとイイ仲になるんだよね。
別にセックスの描写が赤裸々な訳でもなく、女たちが彼のナニに感嘆するっていうんでもないんだけど、でも女たちは一様に頬を上気させ、彼が女の裸体に花や果物で美しく施すアートを鏡に映しては、うっとりとしていたものだった。
でも、ヤンが最後に愛した、本当に愛して結婚までしたドイツ女性のリーザだけは、ヤンよりも小さくて、だからこそヤンは彼女を愛しく思ったに違いないんだけど、彼女だけはヤンのセックスに頬を上気させることも、ヌードを美しく飾られることもなかったのだ。
彼がリーザを愛し、ドイツ人を迫害する同胞のチェコ人に時に憤りを感じ、恐る恐るながらも「ハイル・ヒトラー!」と右手を上げたとしても、やはり、何かが違ったのだ。本当に、彼女のことを愛していたとしても。
リーザはヤンを見てセックスしなかった。いつもヒトラー総統の肖像画を見つめていた。ヤンは自分を見てほしいと思ったのか、ヒトラーのようなぺたりとした七三に分けて、口ひげまで生やしたりしたのに。
でもその口ひげは、彼のトウモロコシのヒゲのような美しい金髪と同じ色で、彼を優しい印象にしか、させないのだ。
そして今、年老いたヤンはまた、そんな過去を思い出しながら、出所して初めて出会った不思議な女性、マルツェラに「久々に性欲を思い出させた」とどこか苦笑い気味に感じていた。彼女は“教授”と共に、音楽の聞こえる樹を探していた。幹の中に、音楽が眠っている樹を。
なんだか本当に、夢のようなんだもの。
でも、常に毒は満ちていた。それは最初から。最初、ヤンは駅のホームでソーセージ売りをしていた。列車に乗っている客に車窓越しに声をかけて売り歩く。
おつりを渡すのにわざとモタモタして、渡しそこねるなんてやり方で、着実にお金を貯めていく。一方でヤンは小銭をわざとばら撒いては、人々が愚かしくはいつくばる様を見るのも趣味だった。なんとまあ、実に悪趣味。
ヤンは小さな男だけどまあまあのハンサム君だし、小さな男のお伽噺風味という萌えが、私の心をときめかせるんである。それだけに、この毒もまた、ツンデレのようにときめかせてくれちゃうんである。
しかし、ヤンが最初に給仕人として働いた小さなレストランで、おつりを渡しそこねた男、ヴァルデンと再会したんである。スライサーを売って大もうけしている富豪。
メニューを端から端まで頼む豪気に、ヤンは見とれた。彼はヤンの姑息ぶりを見抜いていたし、一方でその才覚も見抜いていた。ホテルの床一面に稼いだ紙幣を並べる男に、ヤンは将来の自分を夢見た。
そこで、まず最初にヤンは運命の女に出会うんである。
雨の中、淡い花柄の、薄っぺらいワンピースをぬらして、ノーブラのバストがくっきり透けて見えるのが、レストランのヒマなエロジジイたちを釘づけにした花のような若い娼婦、ヤルシュカ。
ふくよかなヒップをマリリン・モンローみたいにフリフリ歩いて、自分がどう見えているのかが、ハッキリ判っている。どこか清楚そうに見えるあたりが、ヤッカイなほどにイイ女。
ヤンの彼女への思いは、どこか初恋に似たものだったように思う。
「何も見るな、何も聞くな(細かくは。こだわるなということ)。そして、すべてを見ろ、すべてを聞け!(大きな懐で)」それはこのレストランで最初に学んだことだったけれど、そしてヤンはその頭の良さで飲み込んでいたけれど、ヤルシュカだけには、その法則が効かなかった。細かく、全てを知りたいと思ってしまった。
稼いだ金を握りしめて、ヤルシュカを買いに娼館に通った。彼女は嬉しそうな顔をして、ヤンの施したヒナギクのヌードアートにご満悦だった。
レストランで、ヤンがミスしたのをかばって自ら浴びたグレナデンシロップの甘い香りに包まれて、ハチをまとわらせてブリブリ歩いて去っていく様は、エロジジイたちを釘づけにしたりもした。ヤンは誇らしかった。
でも、彼女は本当に、ヤンにホレていただろうか。小さな従事者として、崇められる自分が気持ち良かっただけじゃないんだろうか……。
そう考えると、ヤンはいつでも美女とイイ思いをして、その度ごとに出世をしていくけれど、その美女たちは決してヤンのことを、心から愛していた訳ではなかったように思う。彼が小さな愛しい男で、自分に尽くしてくれるから。そんな快感があったように思う。
白雪姫に仕える小さな小人。しかもその小人は、見掛けによらず絶倫(多分)。何かそれは、この幸福だった美しい国を蹂躙するヒトラーの強大さに比している気がするのだ。
ヒトラーが実際どんな体躯だったかは知らないけど、そこここに巨大な肖像画が掲げられていて、その口ひげは性にサディスティックな男を思わせて、こいつがセックスしたら、絶対女はひとつやふたつのアザを作るだろうと思わせるようなキャラである。彼にツンデレのデレは、100パーセント皆無だ。
しかし、というか当然、というか、その口ひげ、苦虫を噛み潰したような顔、カギ十字の元で圧倒的な粛清を施したキャラが、そんなセクシャルなサドを、マゾ的に女に妄想させてしまうことも事実。
この顔で、女をネチネチといたぶる光景が想像されてしまう。あの、ぴっちりとはきあげたブーツは、いかにも女を冷徹に蹴り倒すのに似合いすぎだ。
ヤンは、リーザと結婚するために、ハズカシくも精液の検査さえも受けたのに(エロ写真などでもなかなか射精出来ず、ふくよかな中年看護婦さんにナデナデされてコトをなしえるのが、切ない(爆))、そして、スラブ人として彼女をはらませるのに資格充分と認定されたのに、でも、彼女をはらませることは出来なかった。だって……我が妻は、ヒトラーこそを、ヒトラーだけを、愛していたんだもの。
いや、戦争がもう敗色濃くなって、“絶対に価値が下がらない”切手を、連行されたユダヤ人の家から膨大な量持参して彼女が帰ってきた時には、もう彼女の頭からはヒトラーの姿は消えていたと思う。
ようやくヤンの、ホテル王になる夢を思い出したがごとく、そう、今までのことなんか、まるでなかったかのごとく、嬉しそうに高価な切手をかざしたものだ。
ヤンは確かに喜んだ。でも……その切手が、彼を給仕人としてここまで導いてくれた紳士のものであり、その最後の別れを、最初に会った時と同じように、誰かの食べかけのホットドッグを奪い取って、差し出した、その別れを鮮明に覚えていたから、ヤンはきっと、この時点で、この愛していた筈の妻の姿が、頭から消えていたのだ。
もうこの時点になると、華やかなホテル人、給仕人として経験を重ねてきたヤンの人生も、なかなかフクザツなものになっている。
リーザと出会ったのは、ヤンが最も誇るべきホテル・パリでの給仕人の時だったんだけど、その前に、いわばヤンの艶やかな人生を決定付けた、レストランからの転職先が、チホタ荘だった訳で。
一体、何なの、この場所は。前職のレストランはね、まだ人間の息吹きが感じられた訳。そりゃまあ、浮き世離れした美しい娼婦やらがいたにしてもね。
でもこのチホタ荘は、何もかもが夢物語のようだった。それは、高級ホテルとしての矜持を強力な誇りに持った、次の職のホテル・パリとも全然違って、ホテル・パリは超セレブだけど同時に超リアル(庶民にとっては超フィクションだけど)なのに対して、チホタ荘は、まさにお伽噺だったのだ。それも、大人のための、そう、エロの御伽噺。
同じ娼婦でも、高級娼婦は何かが違う。いや、決してお高く止まっている訳じゃない。同じように華やかで、楽しげで、男たちをとろけさせるんだけれど、なんていうのかな、触れさせてはいるんだけど、決して触れさせてはいない、みたいな。
それは、この後にヤンが勤めるホテル・パリの、秘密の階段の上でひっそりと行われている、女体盛りチックな、回転テーブルの上で半裸で流し目を送る女を眺めながらの酒宴にダイレクトに通じているのだ。
ホテル・パリの娼婦、ユーリンカをぐるりと取り囲んで、その半裸の美しさをデレデレ愛でながら、時には食べさせたりつついたりしながら食事をする老紳士たち。もう性欲なんてあるんかというような、居眠り気味の老紳士もいたりして、時々起きては穏やかな笑顔を見せる。いや、グダグダな笑顔と言おうか。
それはそれは、ストイックかつマゾヒスティックな画なんだけど、実際の性の自由で幸福な悦楽からは、どんどん遠ざかっている。
そう、時代なのだ。それは不幸なことの筈なのに、あの、ヒナギクで彩った、初恋の娼婦の思い出こそが幸福な筈なのに。人間はなんてアマノジャク、束縛のあるセックスに、興奮を感じるのだ。
それは、非日常=ハレだから。ヒトラーに熱狂したのも、国境における支配民族がころころ変わることに準じたのも。
ああ、こんなことを言ってしまったら、いけないことは判っているんだけれど。でも、日本人の私たちが、今やありえない遠い戦国時代をどこか憧憬をもって繰り返し語るのは、そんな思いがあるからじゃないのか。
最も輝ける栄光だった、ホテル・パリ。ちょっと汚い手を使ってヤンを嫌っていた給仕ボスを追い出した後は、ヤンの栄光の時代だった。
小柄な体ながら、肩の上にかざした手で大きなトレイに乗せたきらびやかな料理をくるくる回しながら給仕する様は、長身の美しさをこれ見よがしに見せていた先代よりも、小気味よく、躍動感に溢れていた。
エチオピア皇帝を招いた晩餐の、圧倒的なことといったらなかった。一頭のラクダが悲しげにいなないて、厨房へと連れて行かれる。豚がつめこまれ、鶏がつめこまれ、スパイスが無数に振り入れられる。
長い長いテーブルの両脇にズラリと並んだ紳士たち、その後ろにやはりずらりと並んだ給仕たちが、いっせいにグラスをワインで満たす。均整、統制にあふれた、美しさ。
でも、なんだか……そうじゃない食卓、庶民のみならず、位の高い人々の食事さえ、リラックスとほのかなエロが漂っていたのに、ここにはそんなものが、全然ない。
食は、セックスのためのエネルギー。食欲はそれだけでエロス。なのに、人間の支配欲は、食に隠されたエロスさえ、奪い去ってしまう。
ヤンはここで、皇帝からの勲章まで得てしまった。でも、ズルい!背が低くて給仕長に勲章をかけられない皇帝を見て、っていうか最初から計算ずく?給仕長の隣で、さりげなく?背をかがめて、勲章をまんまと頂いちゃうんだもの。まあ最初から小さな男同士である彼を、皇帝は気に入っていた風だったけれど……。
この時点でヤンはまたしても、所替えをしなければならないことを感じてたけど、その理由はまた違うところからやってきた。
そう、リーザとの出会い。時は国境の村にドイツ人とチェコ人の間に軋轢をもたらして、殺伐とした雰囲気に包まれていた。あんなにもどんな言葉も判っていたスクシーヴァネク給仕長が、ドイツ語だけは判らないフリをして、業を煮やしたドイツ客をビンタしてまで追い払う。そんな、時代。
ヤンはスクシーヴァネク給仕長のこと、尊敬していた。だって、英国王に仕えた、なんて言うんだもの。いや、そんなこと、ウソに決まってるのに。
でも彼の知性あふれる、給仕人としての誇りに満ちた堂々とした雰囲気は、それをうっかり信じさせちゃうものがあった。
しかも彼は、客が注文するものまでを、その客の体調まで見抜いてピタリと当てた。ずっと、ヤンは彼にかなわなかった。
でもそんなスクシーヴァネクでも、ドイツ人に対してだけは、そのプライドを保てなかったのだ。ヤンがそれをあっさりと捨て去ったのに。
何より、ドイツ人とチェコ人はずっと一緒に暮らしてきたというのに。
給仕としてのキャリアが培われたのはホテル・パリだけど、ヤンの人生の花が磨かれたのは、チホタ荘だった、だろう。でも後にここはナチスの“優生学研究所”になり、ヤンはリーザの口利きでここの給仕人となる。
このワケのワカラナイ名称は何かっつーと、つまり優秀な人材を生み出すために、純血ドイツ女性と純血ドイツ兵を交合して純血で優れた命を誕生させるための場所なんである。
……それは、一応はエロの筈なのに、ぞっとする思いしか抱かせない。一糸まとわぬ姿もいとわずに闊歩する美女たちと、その美女たちの部屋に廊下をキッチリと行進して入っていく謹厳なる兵士たち。
そんな機械的な画は、しかし妙にユーモラスで、そして困ったことに……ハダカを厭わず闊歩し、きらめく透明なプールに飛び込んで“自由を謳歌”している美女たちは、美しいのだ。
なんか、こんなパラドックスって、ないって思うんだけど。ヤンが女性たちに給するのが牛乳だっていうのも、ねえ。やけに生々しい。
でも、これ以上ない皮肉もきっちり用意されていて。……ていうか、むしろこっちの方がメインだったかもしれない。
戦争が進んで、純血ドイツ女性と、健康な兵士との交配は難しくなる。いや、そんな言い方はマズいかもしれない。兵士が失ったのはあくまで身体的な機能、片腕や片足、いや、両腕や両足、なのだから。
それは確かに、精子には何の異常もないに違いない。でも……その画は、あらゆる意味であまりにシンラツなのだ。戦争による、身体的な障害者だから、いわば種馬としては問題ないから、ここに召集されたのだろう。でも、それだけじゃすまない障害を負ってしまった兵士もいる筈だと、予想せずにはいられない。
いや、そこまで言及せずとも、今までは美しい完全体の美女たちが、きらめく水の中を泳いでいた画があまりにも完璧だったから。今は、四肢をあらゆる形状で欠いてしまった男たちが、それでも気持ち良さそうに水の中を、そう、一糸まとわぬ姿で泳いでいるのが、逆に愚かな支配者たちを糾弾しているのを感じて、恐ろしくて。画の雰囲気は全く同じだけに。
ヤンが15年の刑期をくらったのは、彼自身の希望だった。ヤンは愛する妻、リーザを病院の火事で失ってひとりぼっちになった。でも、彼女が焼け跡で抱きしめていたカバンの中にあの切手があって、ヤンは重い焦がれていたホテル王の夢をかなえたのだ。
しかし、時代が生み出す理不尽な法律によってホテルは没収されてしまう。ヤンは一瞬呆然とするけれど、“金持ちは、逮捕される”という話を聞いて、なぜか顔を輝かせる。自分は金持ちだ!と。わざわざ貯金通帳まで見せて。
そして15年もの長き間、監獄に入ることになってしまったのに、でもヤンは、今までの豪華絢爛な人生よりも、最も幸せそうなのだ。だってそれは、彼の夢が,本当の夢が、かなったのだから。
百万長者の金持ち紳士たちと同じになること、同じ立場になること、それは、彼らにいつも、小柄な体形も含めて見下ろされたヤンにとって、積年の願いだったのだ。
たとえ、15年、ブチこまれても。
最初は、ホテルの管理人としてそのままいてもいいと温情をかけられていたのに、わざわざ15年の刑期を自ら望んだのだ。百万長者であるという、肩書きだけのために。
かつての百万長者たちは、あの時ユーリンカを取り囲んでいたのと同じように、丸テーブルの周りに並んで座って、黙々と羽毛をむしっている。ふわりと山積みにされた羽は、しかしヤンが入ってきた時から部屋の空気が変わり、ジイさんたちはまるで嬉しげに、その羽毛の山を思いっきり吹き飛ばした。
まるで、夢のような、雪が舞っているかのごとき、美しい情景。ここは、監獄なのに。
冒頭、年老いたヤンは、同じなのはその小柄な体形だけ。すっかり白くなった髪とヒゲと落ち窪んだ瞳になってしまったヤンは、たった数ヶ月の特赦をもらって、14年数ヶ月の刑期で出てきた。
ドイツとの国境、いわくつきの土地、ズデーテン。
マルツェラと教授も去って、ヤンは孤独の闇に落ち込んだ。
思えば今まで、周りに人がいないことなんて、一度もなかった。彼はがらんとした廃墟の中に、鏡をいくつも立てかける。その真ん中に座る。全ての鏡に彼の姿が映る。孤独を癒すと思われた、鏡の中の自分たちは過去へと飛ぶ。あの地獄の、戦争を見る。
でも、ヤンにあてがわれた廃墟は、運命的と言えるほどに、うってつけの場所だったのだ。かつてビアホールとして使われていたのが一見して判る場所。ここは世界一ビールの美味い場所。
豪快に飲み干すビールが、この地の名産。人々の誇り。ただ、酔っぱらいに来ているだけではないのだ。
そして、そのビールを美味しく、美しく注ぐ技術。鮮やかに軽やかに給仕する技。その誇りをヤンは、どこかで忘れていたかもしれない。
ヤンの人生の最初から登場してたヴァルデンが、訪れる。収容所行きの列車に乗っていた筈のヴァルデンが。ヤンはあの時渡せなかったお釣りをテーブルに置く。バツグンの泡の比率のビールジョッキを持ち上げて、二人乾杯。
「ここのビールは、最高だよ!」
アルコールは脳を収縮させるなんてニュースが出てて、えーっと思った。
それでも、ビールの爽快感、ワインの甘美なよろめき、その魔力に人間は勝てない。酒でバカになるなら、それもいいような気がする。
そして人生の最後には、きっとこんな風に乾杯して、最高だよって言えたら、最高だ。★★★★☆
そして、こんな古い作品で志村喬を見るのも初めてで、キャストクレジットに名前を見てワクワクする。デビューから5年、怒涛の出演作品。すでにその時点で100本近く!うー、昔の役者さんはスゴすぎる……。
その頃マキノ作品にもあまた呼ばれてて、ということはこれからもそんな志村喬に遭遇出来るのか。楽しみ。
しかし若すぎてなんか顔が違ってて、これが志村喬だよね……と何度も確かめるように見つめてしまった。多少インチキ臭く調子のいい講談師役、これが志村喬だよね?
ガマの油売りの男と仕事が終わりゃあ酒ばかりくらって、二人とも弁ばかりは立つもんだから、いつも二人で小突き合うようにぽんぽん言い合っては酒を飲み倒す。「貴様は島崎なんかとは一桁は違う」「じゃあお前はどうなんだ」「俺は半桁ってところだ」なーんて具合にね。この二人がどこか先導役になって話が進んでいく感じなんだよなあ。
しかし冒頭は、花嫁さんが逃げ出すシーンからである。どうやら意に染まない結婚を強いられた花嫁さん、彼女のたった一人の味方であるらしいひい爺さんが、彼女を懸命に慰めている。
この時点からすっごく聞き取りづらく、彼が悪いと言っているのが誰のことなのか、判らなくて焦る。しかしそれもすぐに判るんだけどね……彼女の父親と祖父。これが後々にも悪に乗ってしまう輩だった。
彼女が婚礼から逃げ出すシーンは、短いシークエンスだけど鮮烈。雪深い中、厚く積もった屋根の雪が鋭いつららを巻き込みながらドサリ、ドサリ、と落ちる。白無垢姿が雪に足をとられながら逃げて行く。
騒然とする屋敷から、かがり火がいくつも飛び出してくる。そしてカットが変わり、江戸の町へ。
長屋で子供たちに手習いを教えている浪人、島崎三四郎は、住人たちにも子供たちにも慕われていた。彼が目をかけている母子家庭の弥一が連れて来たのが、彼の商売道具(なんか、おにぎりだかお団子だかを並べて売っている感じだった)を壊してしまった三吉という少年。実はこれが、くだんの逃亡した花嫁、浪(浪乃?)なのね。
演じているのが、この一年後にマキノ監督と結婚することになるという(ステキ!)轟夕起子。初見。確かに美しいお嬢さんなのに、覚悟を決めて三吉という身寄りのない少年に身をやつした彼女の、堂に入った悪たれ小僧っぷりは素晴らしく、しかし勿論女の子だから時々その地が出ちゃって笑わせるところなんか、なかなかのコメディエンヌっぷりなんである。
三四郎の長屋に居候させてもらうことになった三吉、朝も起きずにぐーすか寝ちゃってて、起きろ!と布団をはがされたとたんにキャッと悲鳴をあげ、「なにをなさるのですか!」目を白黒させる三四郎。笑った。裾がほつれているのを三四郎がちょいとつまんで縫ってやろうとすれば、悲鳴をあげてとびのき、逃げ回る。
その一方で子供たちと共に習うお習字の時間、「お父様のバカ」などと大書し、三四郎につまみだされる始末。お父様のバカ……か、かわいい。
三四郎はこのお喋りな三吉に戸惑わされてばかり。でも彼は結局、クライマックスで彼女の歌声を聞くまで少年と信じて疑わなかったわけよね……でもどこかの時点で心動かされていたのかなあ?アラカンの、どうも調子が狂うなあ、てな戸惑い顔は、彼が三吉を女の子だと気づいていたら、絶対意識しているように見えたけれど、その辺はなかなか難しい。
手内職に傘張りをしている三四郎が、おしゃべりな三吉にことごとくジャマされるシーンなんかその最たるものでさ。
三吉は三四郎に、自分のひいお爺さんに似ている、と話し出す。狩りの名手で、クマでもイノシシでもウサギでも何でも射止めて、最後にはひいお婆さまの心まで射止めたんですよ、と言い出すもんだから、そんなロマンティックな話なんぞ悪たれ小僧たちから聞いたことがなかった三四郎はドギマギしたんだか、ビックリしたんだか、戸惑ったんだか。
「もう一度最後のところ言ってみろ」「ひいお婆さまの心まで射止めた……」「こっちに来い、バカヤロウ!」(笑)。
ほおんと、女の子だと判ってたら絶対、意識しているに違いない場面なんだけどなあ。こまっしゃくれた女の子に翻弄されるおカタイ青年ってところで。
一方、行方知れずになった浪を探しに、その曽祖父が江戸にやってくる。もう全然足腰が立たず、両側から支えられつつも、プライドが許さないのか、その右手をパシリと払おうとするあたりの細かい芸で笑わせる。
「わしに似て、なかなか激しい気性の娘でしてな……」などと言いつつ、そのひ孫娘が自慢なのはアリアリなのよね。
その頃、長屋には大事件が持ち上がるのね。弥一が、母親から受け取った仕入れ金の一両を落としてしまう。その一両は母親が金貸しに頭を下げてようよう借りた一両だった。
ちなみにこの金貸しも長屋の一角で、金貸しといやあ普通は悪者と決まっているけどここではそうでもなく、いざ本当の悪を倒すという時には全財産を三四郎に「無期限無利息で」貸し出すという男気を見せてくれるんである。結構悪者顔してるのに(笑)。
まあこの金貸しにホイホイ金を借りに来る、講談師とガマの油売りというキャラがいるから、この金貸しさんが大いに困っているという場面もあり(返さなそうだもんなあ……)、そこらへんの描写は上手いんだよなあ。
だって、おーい一両貸してくれよ、ってな感じでやってきて、他の客のために用意していたお菓子を、懐にささっとニ三個放り込んだりするんだもん(笑)。
おっと、話が脱線。でね、弥一が家に帰れずにいる間、心配した母親が、いつも息子がその前で店を出している今評判の占い師、道満上人の屋敷を訪ねるのね。
するとこのインチキエロ占い師、美しい彼女にクラリときて……恐らくヤッちゃったんだろうなあ。そこはそれ、この時代の映画だからさ、暗示に留めて、後にそうだろうと推測する三四郎たちもズバリとは口に出さないんだけど。
でもその暗示がまた、鮮烈なのだ。道満の屋敷から出た彼女、抜き加減の襟足で髪が乱れ、呆然と佇んでいる。その彼女にガクリ、ガクリ、といった感じで寄っていくカメラ、絶望の表情がクローズアップされ、彼女は……絹を裂くような悲痛な叫び声をあげる。
いやあ……ゾウッとしたなあ。彼女の恐怖と絶望が、言葉なんかより、場面なんかより、ずっと貫くように感じられて。そしてフラフラと橋の真ん中まで来た彼女は、大川に身を投げてしまう……この引きのショットも緊迫感があった。
彼女の懐には道満の書いた札(?)があった。ことを察した三四郎達はなんとか彼の悪事を暴いてやりたいと思うのだが、いかんせん証拠がない。
ちょっとこのあたりからフィルムがいよいよひどくなってきて、どうも話の筋が見えにくくなるんだけど……リメイク作品のあらすじを参考にするとですね、道満の人気に目をつけた直参旗本の秋山典膳が、彼の祈祷所の建立を企てて、その場所が三四郎たちの住む長屋であり、つまり地上げしてこようとするのね。
この話と弥一の母親の仇をとろうとするのとは、結びつくようで結びつかないというか……長屋を守って悪を退けようとすることが、彼女の命を無駄にしないってことなのか、どうもそのあたりは判然としないんだけど。
で、ここで長屋を買い戻す五十両をかき集めるために、住人たちを集めてガマの油売りが大演説をぶつところがいい場面。自分を褒めちぎられることになる三四郎は、いたたまれずに仏頂面。しかし彼を慕う住人たちは拍手喝采、このがまの油売りから貧乏人呼ばわりされても気にしない(笑)。
ここで金貸しにも話が及ぶんだけど、「この金貸しも、己の財布に入っているのは似たようなもんだ。俺たちとおんなじだ」とぶちあげて、一見悪人面のこの金貸しが渋い顔をするのが、可笑しくてさあ。
実際、そうなんだろう。彼は口では「返せなければ、私もむごい取り立てをしなければいけない」なんて弥一の母親に言って一両を貸し出したけれども、そんなことをしたくないから重々言い含めたんだし、調子のいい講談師や油売りには金は貸さないし(笑)。
そして金貸しの全財産、二十三両と住人たちからお金をようやっと集めて、なんとか五十両を用意出来ようというところだった。
ところでね、ここが一番判んなかったんだけど……彼らが寄席につめているのよ。んでね、芸人が来ない、と焦っている訳。足りないお金をコネをつかって融通しに行った講談師も、うまく行かずに帰ってきたりと。
この寄席は一体何だったんだろう……どういう目的だったんだろう……広く江戸の町民たちに道満の悪事をバラすつもりだったのかなとも思ったんだけど、そういう訳でもなかったし。やっぱりより多くのお金を集めるために主催したってことだったのかなあ。
でも、芸人が来なくて、客席の騒ぎが大きくなる……と、三吉が舞台に飛び出すのね。そして素晴らしい歌声を披露する。当然その歌声は、すっばらしいソプラノは、少女のものなワケ!
ここで三吉が女の子だと知った一同、しかしあまり気にせず拍手喝采、一人気にしているのは当然、三四郎な訳で……。彼、舞台袖まで出てきて、総立ちの観衆に向かって歌う彼女の姿を呆然と眺める。やっぱりこの少年らしからぬ三吉に心騒いでいたんだよね!でも、彼女の少年っぷりはかなり堂に入っていたけどなあ。
しかししかし、結局道満たちは値を吊り上げてくる。せっかくの皆の心づくしの金がムダになってしまう。
一方、弥一が道満の屋敷に乗り込んだ。三四郎は相討ち覚悟で道満の屋敷に向かう。
道満はしたり顔で、自分には金が有り余っているバックがいて、いくらでも金を出すと言う。だからいくら抗ってもムダなんだと言うのね。でさ、この場面で浪の父親たちの名前が出たらしいんだけど、どうも聞き取れなかった。
三四郎がエロ道満を脅しつけて、弥一の母親にしでかしたことを言い当ててみせ、そっからはチャンチャンバラバラ、大乱闘となる訳だが……押し入れに押し込められていた弥一を助け出し、彼に、長屋買取りの金を出していたのが信州の手代木家だと長屋の皆に伝えに行かせるのね。……とゆーか、どの時点で浪の父親と祖父が道満とつながったんだっけ?金を出しているシーンなんかあったっけ……今日は気が遠くなってないと思うんだけどなあ(爆)。フィルムが飛んでいたんだろうか……。
と、とにかく、浪は自分の家が加担していたことを知ってショックを受け、飛び出してしまう。
実はね、彼女、自分の家はなんたって金持ちなんだから、こんな、皆が苦労して金を集めなくても、自分が家に帰って金を出してもらえば長屋は元通りになって、大好きな先生が助かるんだ……と逡巡してたんだよね。
大人が話し合っているところに飛び込んでいって、「金なら、あるところにはあるんだ!」と言ってみたり。「そう、あるところにはあるんだ」とかわされてしまうんだけど(笑)。
でもそれをやってしまえば、もう二度とここには戻れなくなる……そんな風に思っていたところに、この衝撃の事実だった。
彼女が飛び込んだのは、自分を探しに来ていた一同が身を寄せていた、鍵屋という問屋だった。バカ!バカ!と父親と祖父をなぎ倒し(笑)、泣きながら曽祖父の胸に飛び込む。その頃、騒乱は長屋に移り、住人たちが道満一味と戦っている中、手傷を負った三四郎は倒れてしまう……。
三四郎は目を覚ます。そこはいつもの自分の長屋の部屋だった。覗き込む住人たちがニッコリ笑う。「花嫁が来やすぜ」
そこへ到着したお輿、その中から出てきたのは……花嫁姿の三吉、いや、浪!冒頭の白無垢の彼女が悲しみの涙にくれていたことを思えば、同じ格好をしていて、この鮮やかな対照はどうだろう!
恐らく曽祖父が、粋な気をきかせてくれたんだろう。長屋はそのままだし、そして自慢の愛ひ孫娘を、彼女が心を寄せる男にこそ、添わせてやったのだ。
まー、三四郎の意見も聞かず、強引といえば強引だが(笑)。
でも、泣けるんだよなあ、だってやっぱり冒頭との対照、そしてずーっと悪たれ小僧を身を張って演じてきた彼女が、本当に綺麗な花嫁さんになって、まさにハキダメに鶴といった感じで、ボロ長屋にしずしずと入っていくんだもの。
曽祖父を戸口で引きとめた油売りは、いいんですかい、こんな貧乏長屋の……と聞いてみる。すると彼、関係ない、人物じゃ、人物!と声を張り上げて呵呵と笑う。いやー、いいなあ、粋なひい爺ちゃんだぜ!
花嫁さんを中に入れ、気を利かせて自分たちは外に出る住人たち。
布団から身を起こした三四郎は何を言うことも出来ず、まぶしい浪を見つめる。
目を伏せがちにした白無垢の浪の横顔でエンド。いやー、幸福だなあ。
で、この一年後、彼女は本物の花嫁さんになった訳だ。マキノ監督、やりやがるっ。★★★☆☆
しかも当時は松ケンという存在も知らず、どっちかというと主役の藤原竜也の名前で引っ張っていたようなイメージもあったもんだから、全くチョイス外だったのであった。ああ、なんてこと!まさかこんなスゴイ役者が登場していたなんて思いも寄らなかったのだ。宣材写真や予告編でちらちらと見る造形だけでは、キャラから入ったの?みたいな先入観があって、ここまで入り込んで体現してるなんて思わなんだ。
いやー、才能ちゅーものは、やはり若い頃から現出するもんなのよね。大器晩成なんつー言葉に騙されて、儚い望みを抱いてはいけない。
こんなに若いのに、彼には繊細さという未完成の完成形がある。ゲーリー・オールドマンのような凄みがある。
というわけで、本作公開に当たって、慌ててテレビ放送された「デスノート」前後編を、ざざっとチェックする。ハマる。ううう、面白いではないか。やはり先入観で排除するのはいけないクセだわ。
で、この金子監督ってのも、今までシリーズ物を多く手がけている人なので、勢い観ている作品数が少なくなっているのが困りもので。
でもそれだけエンタメで観客を引っ張っていける人だし、「デスノート」もしかり、「学校の階段」だって「ゴジラ」だってその独特の影や暗さが、ハリウッドのまねっこではない、日本独特のカラーを獲得した人だったのだった。
そしてシリーズ物じゃなくったって「1999年の夏休み」とかある訳だし、好きな監督のハズなのよね。
でも、このスピンオフ企画に際しては、「デスノート」成功の功労者であった金子監督ではなく、中田監督にバトンタッチした。その時点で「デスノート」の世界観が一旦捨てられることは、前提だったのかもしれない。
そりゃ中田監督だって「女優霊」「リング」と、陰に潜む恐怖と見える恐怖を絶妙に織り込んだホラー作品で、ジャパニーズホラーブームを巻き起こした人。
そういう点で言えば、見える人には見えている死神というモティーフと、死を自由に操れるという陰の部分はまさにうってつけと思われたのだけれど……。
中田監督がホラー映画で発揮してきたそうした魅力は、この作品には全く見いだせなかったんだよね。
まあ、物語自体がもう「デスノート」から離れてしまって、死神も全然関係なくなって、本当に、Lという一人の青年の存在しか、関連性はなくなっているんだものね。
しかもLの魅力であった「決して外に出ない名探偵」という、ネガティブなまでのインドアへのコダワリも、本作ではあっさりと廃棄され、Lはそのなまっちろい身体をいつものように折り曲げて、積極的に外へと出て行き、電車にも乗るし、海岸の船止めや車止めに素晴らしきバランス感覚であのL座りを見せる。海岸でのシーンなんて、背後の海に落ちそうでハラハラする。
そして時にはヒロインを救出するために走り、カーアクションや、ジャッキー・チェンもかくやといった、飛び立つ飛行機への決死のダイビングさえも見せるのだ。
勿論それは、今までのLのイメージをことごとくぶっ壊してみせるという、意外性を追及したものなんだろう……。本作が作られた大きな理由は、いくらLの人気にあやかったといっても、それだけに寄りかからないという意味で、必要なものだったのだろうとは思うけど。
でもそれって、果たしてLにやらせて本当に意味があったのだろうかと、根本的なことを思いたくなっちゃう。「デスノート」の時点で松ケンよりも人気スターであった主人公の藤原竜也を凌駕して、Lが人気を獲得したのは、その徹底してインドアでネガティブとも思えるほどに奥へ奥へと引っ込んでいくキャラがあったからじゃないのか。
まあ本作のLの造形に関しては当初は松ケンも相当抵抗し、監督と白熱の議論を交わしたらしいけど、それだけにこの異質なLに賭ける彼の思いを聞いたりするとなかなか言いにくい部分もあるんだけど……。
Lに日の光は似合わない。日の光の下のシーンは、ことごとくギャグに見えてしまう。ひたすら自転車をこいだり、その猫背スタイルのままヒロインの危機を救うべく必死に走ってみたり。そのヒロインから「背を伸ばした方がいい」と言われてポキポキと背骨を鳴らしながらようよう上体を起こしてみるシーンなんて、確実に確信犯的だし。
そう、勿論それは、全て判っててギャグになっているんだろう。脚本段階から、そして演出する監督も、演じる松ケンも、これがいわゆる現実離れしたLというキャラが、「デスノート」ではリアリスティックに置かれていたことへの一種のテレへの裏返しとして、パロディめいた表現をしているんだろうと感じる。
でもそれって……「デスノート」のLを愛していたファンに対してはどうなんだろう。裏切りなんて思われるんじゃないのか。
それともそんな風に考えるのはにわかファンの浅薄な見方であって、Lを真に愛している人は、笑って受け止めるのだろうか?
ヒロインとはいっても、通常の映画のような恋愛関係などはあり得るべくもない。Lは一応、FBIで同僚だった瀬戸朝香と何かがあった雰囲気は「デスノート」からも漂わせていたけれども、それを押すことはない。
本作でのヒロインの二階堂真希(福田麻由子)、そしてキーパーソンとなるタイの小村のたった一人の生き残りで名前さえも与えられない“BOY”(福田響志)、双方ともに幼い少女と少年なのである。
まあ、Lに子供とのカラミがあること自体、確かに意外ではあるんだけど。劇中彼も、「どうやら苦手分野のようです」と最初のうちは彼らとのコミュニケーションに戸惑っていた様子だったし。
でも、やはり恋愛を排除する時点で、本当の、Lに対する意外性を回避してしまっているから、結局はパロディ感覚の域を出ない感はあるんだよね。
「デスノート」での話は決着してしまっている。本作でも復習されているように、デスノートそのものを焼却してしまって、もうあとは、Lが23日後に死んで、全てが終わりなのだ。だから当然、デスノート絡みの物語は語れない。
劇中、デスノートの行方を捜しにFBIの一人(南原清隆)が彼の元を訪れ、半ば巻き込まれるような形でLの最期の23日間に付き合うことになるんだけれども、名残りがあるといえばその程度。そしてLが絶えず心から信頼していたワタリ(藤村俊二)のことを思い出していることぐらい。
このワタリは、物語の全編に渡って大きな影響力を放っている。本作の事件の首謀者であるKこと久條(工藤夕貴)はワタリが目をかけた才女で、彼の死の知らせに真っ先に追悼のメールを送ってきた人物だった。
そして、この事件の犠牲者となったFは、その死を賭けて、ワタリへのプレゼントだと、事件を解決する重要人物である少年を送り届けてきた。
ある意味、Lには獲得し得なかった多くの人からの信頼を、ワタリは彼の替わりのようにして受け取っていたのだ。
で、この事件というのが、ホンットに、デスノートとはあまりにも様変わりしすぎというか、いくらスピンオフ企画だといったって、これをLの物語にする意味があるのか、Lには意外性はあるけれど、映画としての意外性はなさすぎるというか、ってなモンなんだよね。つまり、これにLが関わる意味があるのか?という、根本的な疑問が頭をもたげてしまうわけ。
確かに、今の世界の、社会の、本質的な部分をついた、シリアスな内容ではある。
この地球という稀有なる美しい星に、人間は増えすぎた。しかも人間は自然な生態系からハジかれているくせに、自分たちで何とかできると奢っている。もはや地球の自浄能力に頼るにも時は遅すぎた。
こんな増えすぎた人間たちを減らすしか、地球を守る手立てはないと考える団体が起こすウィルス兵器事件に、Lが立ち向かうことになるのだ。
確かに、シリアスな内容だ。社会派映画にだってなりうる。結果的にはウィルス兵器をアメリカに売り渡して富を得ようとすることで、過激派のカクレミノを使ったタダ単に欲の深い男、という決着をしてしまったのが逃げになってしまったのが悔やまれるほど、確かに過激な思想だけど、間違っていると一概にも言いにくい。
確かに人間は増えすぎた。そして奢っている。生態系を壊しているくせに、それを戻す術も持っていない。ただ善人面して、困った困った、このままじゃ地球がダメになると言うばかりで、その原因が自分たちにあると本当には自覚していない。本当に神様がいたならば……こんな風に人間を間引いていったかもしれない。
「デスノート」で見せていたLのキャラは、明晰な探偵ではあるけれど、それはいつも物事を影の部分から追っていたから、巧みなまでに色んなものが見渡せていた。
まあ、こんなキケンな思想を持っているほどにバカではない、冷静な判断力がある。
でも、よくあるヒューマンドラマみたいに、「人間には未来を良くする力がある!」みたいに、それももうすぐに決着をつけなければここにいる全員が死んでしまうなんてタイムアクションの中で、よりにもよってそんな台詞をLに言わせるなんてと、まあ……ついつい思ってしまうのよね。そんなの熱血刑事に言わせる台詞じゃないのと。
という感じなので、本作ではLはひたすら「こんなことをLがするの?」「こんなことをLが言うの?」というパロディ的な要素でクスリと笑わせるって感じで、見せ場や儲け役といったら、別の人物にひたすら譲られることになる。
それを期待された、ウィルス兵器の解毒薬を作った二階堂教授(鶴見辰吾)の娘、真希を演じる福田麻由子嬢は、あまりにありがちな「キーワードを握る少女」ってなだけで、面白味に欠けたかなあ。まあ、父親を目の前で殺された少女、という影を持ち、そのにっくき相手に対して見せる視線の鋭さには、ちょっとだけおっと思わせたけれど……。
この場面、殺された、というよりは娘とウィルス兵器を守るために自らそのウィルスの犠牲となって死んでゆく鶴見辰吾、凄まじく悶え苦しむ彼にゾワリ!ここばかりはホラー映画の名手の面目躍如なんである。
ウィルス兵器の犠牲となったタイの小村の、数学の天才少年である“BOY”。Lが「(子供の世話は)苦手分野のようです」と漏らす相手だけれど、彼の天才的能力が後にLの能力とリンクして、攻ウィルス薬や事件解決のさまざまなヒントをもらい、最終的にはLのかけがえのない相棒のような存在となる。
Lは少年に対して英語でコミュニケーションをとるけれども、それも少年にとっては母国語ではない筈だし、少年は始終無口で、本当に大事な、キーワード的なことしか口にしない。
でも、二人の絆はどんどん深まり、ラスト、Lが少年を信頼できる施設に送り届けた後、自分の命の最期を迎えるわずかな時間に、「ワタリ、もう少し生きていたくなりました」とモノローグするんだよね。
つまり、誰あろうこの少年にこそそう思わされたという幕切れ、どんなにアウトドアに出ても、最後までLはストイックだったんだなあ。
とはいえ、やはりこの物語の一番のキーパーソンは、工藤夕貴演じる久條だけれど。ワタリがその将来を嘱望した才女。しかし彼女はあまりに頭の出来が良いゆえか、地球の運命を憂い、人口の強制削減、つまり殺戮、いやもっと極端な選択……この地球を守るために、人類全てを滅亡させる野望を胸に秘めるのだ。
それを遂行するべくカクレミノにしていた環境団体のリーダーが、私利私欲にまみれていることも薄々感じている。
でも彼女は目的のためには手段を選ばない。たとえ、攻ウイルス薬を開発するために利用していたとはいえ、心の底から尊敬し、自分の理想のためには真に必要だと感じていた二階堂教授が自らの命を賭して、自分を糾弾したとしても。
この教授の娘、真希が福田麻由子であり、彼女は父親の仇である久條を討とうとするのだけれど、もともと久條を慕っていたし、いろんな人の思いがこの短期間に真希の中に流れ込んで、「もう、いいよ」と彼女は振り上げたナイフをおろすのだ。
久條を演じた工藤夕貴は、ハリウッド風味なのか、やたら台詞をハッキリ口の形で表現するのがううむと思わなくもなかったけど。
人類の滅亡イコール自分の死と覚悟している彼女、しかしLから「僕は死神との契約でもう死にます。あなたが替わりに生きてください」(やっぱりLらしからぬ台詞だよなあ……)と言われて、ガクリと服従するのが、それまでの彼女の強気が浅薄に見えちゃって、惜しい気がしちゃう。
両手の人差し指一本で、天から振り下ろすようにキーボード操作をする松ケンも妙に画になるし、イタリア語やら英語やらを見事に駆使する松ケンには更に見惚れる。
うーん、さすが下北弁のバイリンガル青年は、そのあたりも見事? だから早く、そのネイティブを駆使する役が見たいところなのだが……次はカムイだって?これまた想像つかない!★★★☆☆
ならば、この大杉栄という革命家と、彼と運命を共にした愛人の伊藤野枝の存在を知っていたならば、予習して望んだならば、私はこの作品に世間の高評価同様にのめりこむことが出来たのだろうか……判らない。
ただ、私がまだ今よりはアンテナが敏感に張られていた昔には、例え無知でも、臆せずに感覚というものを信じて、こういう作品に入っていけた気がしてる。
若松監督や足立監督のATG作品に心を震わせていた自分は一体どこに行ってしまったんだろう、そうやって感覚という生命線を枯渇していって、生命の灯を段々と落としていくのだろうか、そんな絶望的な気分にもなる。
そのあまりの長尺に、その間、常に観念的な表現が、言葉が、役者の口から機関銃のようにこぼれ出ることに困惑している自分に、困惑した。以前の私ならと思った。
でも一体何が変わったのだろう?いくら手ですくいあげようとしても指の間からさらさらとこぼれていってしまう、ひとつも頭に残ってくれない観念的な言葉に、もっと若くエネルギーが満ちていた私は、ひどく惹かれていたではないか。その中に人生の何がしかを、確かに感じていたではないか。
この作品は、大杉栄と伊藤野枝の忘れ形見である魔子に、当時を知りたがる永子という女性がインタビューする形で始まり、その永子の時代であるこの当時の現代(1969年)と、魔子の両親が革命家として生きた大正の時代をかわるがわるモザイクのように映し出していく。
その構成自体が長尺を生み出しているとも言えるのだけれど、現代のパートは果たして必要だったのかと思うぐらい、永子や彼女につきまとう和田という青年(センシティヴ全開の原田大二郎!)が繰り広げる哲学チックな難解な台詞についていけなくなる。いや確かに必要であることは間違いないのだけど、ついていけなくなる自分にひどく落ち込む。
永子が惹かれていたのは、革命家である大杉の思想だったのか、それともその革命に潰されていく恋愛だったのか、あるいはその恋愛という俗物を侮蔑するがゆえに、革命の思想を突き詰めたかったのか?
永子がどこぞの図書館から引っ張り出したのか、大杉の著した古い本を和田が得々と読み上げる後半に至って、ようやく大正の、革命を信じていた大杉たちの時代にリンクする趣がある。それぐらい、最初のインタビューから観念という空気がずっと満ち続けている。
永子は気乗りのしないセックスに身をやつしているし、その永子のそばで和田はうつろな目をして独白を繰り返している。彼女が売春してるとか、売春を斡旋しているとかいう話も出てきて、殊更にエロなシーンは出てくるんだけど、常に彼らの哲学的な言葉が途切れなく続いていく。いわゆるフリーセックスの思想でつながっているんだろうけれど、この言葉たちに阻まれてしまう。
永子の小さな乳房が妙に象徴的で、いくらセックスしても、全裸でシャワー室のガラスに体を押し付けても、そこに何人もの男の手がのびてきても、エロな俗から引き剥がす意思を持っている。
彼らの台詞はまったくもって思い出せず、それだけにこのシナリオがどこかで公開されているのなら読んで、何か自分に残る台詞が本当になかったのかを、確かめたいぐらいだったのだけれど。
それともやっぱり、いや確かに、私のアンテナはくだらない時間ばかりを費やした人生というヤツに擦り切れすぎてしまったのだろう。
だって、覚えているのは、こんな台詞ぐらい。
「人生に不安を持っているんだね」「やりたいことがないから、人生に不安なんてないさ」
意味がすっと入ってきたのは、これぐらいだった。
しかし映像は、驚くほど全てのカットが完璧だった。本当に、一秒一秒が、完璧な構図。
日本画の、余白の美学を思い起こさせるショットが、特に際立っていた。左隅に人物を寄せ、スクリーンの大半が余白という緊張感で張り詰められる画には息を飲んだ。
あるいは画面に人物が大写しにされていても。野枝と彼女のライヴァルである大杉の妻とのショット、和傘を指した、その幾何学的な傘が二人の女の緊張感溢れる空気を見事に切りさいていた。
あるいは、あからさまにドラマティックを演出する場面でさえ。大杉が愛人である逸子に刺される場面、襖がバタバタと倒れてゆき、空間がバッと広がる場面はまるで奇蹟を見ているようだった。戦慄の場面なのに、まるで前衛芸術の舞台を見ているような、魅惑があった。
大杉栄、田舎から出てきた野枝、女性記者の逸子、あるいは野枝が心酔する平塚らいてうや女性解放運動、野枝の夫である詩人、辻潤らの背景が描かれていく。逸子は実際の名前とは劇中ではなぜか変えられているみたいだし(何か問題があったのだろうか……)、うろおぼえだけど、らいてうも作中では違う呼ばれ方をしていたような?
彼らも最初のうちは、私の頭の中にはちっとも入ってこない観念会話をずーっと繰り返している。その彼らと劇中現代である永子と和田とがループのように繰り返されて、私はこの場にいることをかなりホンキで後悔しはじめるのだけれど、ただ、革命に疲れ始めた大杉らが口にする、革命と自己との破綻の論理(詳しくは、やっぱり覚えてない(爆))に、やや眠りに入ろうとしていた頭が起き始める。なんというか……やっと、私の古びたアンテナでもリンクする何かが、見つかったような気がして。
でもそれは、やはり自虐的で、後ろ向きで、退廃的、だったからなのだろうか?だって今は革命なんて、信じられない。革命家=テロリストみたいな時代だもの。彼らの言葉が頭の中に入ってこないのは、言葉が力を持たなくなったからなのかもしれないと思う。
いや、この時代、作品が作られた70年代前後だって、そんな諦めのムードはあったんじゃないのか。執拗に繰り返される観念的な言葉は、空虚だということを判っていて吐かれているんじゃないのか。あるいは大正の革命家である大杉や野枝たちだって、もはやそうだったんじゃないのか。
言葉の力を、私はもっと信じていた筈なのに。
ただ彼らが、もう革命やら思想やら理想なんてことから外れて、三角どころか四角関係を繰り広げるに至ると、言葉が急に聞こえてくるというのは皮肉である。判りやすい物語が見えてくるから、眠りかけていた私の頭も起き出してくる。四角関係といっても、すでにこの時点では奥さんは置き去りにされて、愛人同士である野枝と逸子の、大杉を巡る闘いになるのだけれど。
大杉は、まあわっかりやすいヒドイ男で、夫婦関係や恋愛関係に縛られない自由を主張する。愛人においては、経済的に自立し、互いの自由を保証することを、これが理想だと言わんばかりに押しつける。当然、その“自由”には、セックスの自由も入っている、と言うんである。
逸子も、そして勿論野枝もそうだけど、“愛”にのめりこむまでは、大杉の思想に近いものを持っていたように思う。
でもまず逸子が「あなたはそう言うけど、私は女だから」と言い出す。それは勿論、当然の主張なのだけれど、そう言い出してしまうと、彼女が一気に俗物と化して色あせて見えてしまうことに、焦る。決して決して、この男の思想に賛同している訳じゃない筈なのに!
一方野枝は、大杉を愛しているからこそ、彼から離れる決心をする。しかも帰る場所を保証してくれている筈の家族、特に夫との別れさえも決心して。
でもそれは、逸子以上に大杉の存在と思想に敏感に反応してのことなのだよね。最後まで革命家(というより、思想家という感じが作中では強い)としての存在を、いわば愚直なまでに押し通し続けた大杉に対して、女はどんどん、“女”になってく。それはとりもなおさず、この難解な芸術作品を判りやすくさせている部分でもあるのは皮肉なのか。
後半になると、この四角、いや実質三角関係の、「日陰茶屋事件」と言われて有名な事件であるという部分に、ちょっと執拗なまでに迫っていく。ラショーモナイズ以上に、様々なバージョンを提示してみせる。
表向きは逸子が、野枝と一緒に旅館にシケこんでいた大杉に逆上して、眠っていた彼を刺したという事件。しかしそれを、彼女を押さえて大杉自身が自分を刺したとか、あるいは戻ってきた野枝が刺したとか、ほんっとに、様々なバージョンが提示されるのだ。
しかもカメラも様々に角度を変え、最後には袋小路に追いつめられた三人を、真上から幾何学的ともいえる構図でとらえるショットまで登場する。印象的な、襖がバタバタ倒れるシーンもここである。
首を刺し貫かれた大杉は、どう考えても生きているようには思えないのだけれど、史実的にも、そして劇中でも、死んだかと思ってもしつこいぐらい生きている。
大杉と、そして野枝が死ぬのは、関東大震災のどさくさに紛れての、憲兵隊による虐殺だったという。現代に戻って、永子がカシャカシャと映し出される震災の惨状の写真の前に佇み、和田がその事件を綴った本を朗読する。
しかし観ている時には、正直それがどういう意味を示しているのか、全く判らなかったのだった……(爆爆)。
中盤、一度画面がブラックアウトし、リンクする筈のない劇中現代1969年の永子と、野枝が行き合うのね。あそこは多分、新宿の西口。
会いたかったんですと永子は感激の面持ち。もうこの時点で疲れ切っていた私は、このわっかんないエーガももう終わるのかと一気に集中力が途切れたのだけれど、物語はここから主題の日陰茶屋事件へと突入していくんであった。
大杉栄を演じる細川俊之。今の時代には若干浮き気味かもしれない細川氏が、この難解な作品にはバッチリハマっていることに、なんか大いに納得。
革命にも思想にも、愛にも性にも自由を求めて破滅を招いた色男、どっかおよいでいるような目と、ヒゲヅラが醸す色気、しかしきっと身体は精神だけを宿したナヨリズムなのだろうと思わせるあたりが、文系フェチ女の私には非常に、フクザツに憎たらしくて。
ああ、やはり彼は、彼の演じる大杉は、事実はこの後生き延びているとしても、作中でもそう言われているにしても、きっとこの時、死んだのだ。
こんな男が雑然とした俗な世の中を生き延びていける訳がないのだと、思ってしまう。
そして、もしかして私も若い頃は、こんなアンテナを持っていたかもしれないと思う、今の姿からは想像できない、まだエロには青く未熟な、それゆえ萌える原田大二郎にも驚くんである。
言ってみれば、細川氏は変わらず、変わらないゆえに現代ではなんだか浮き世離れしているけれど、原田大二郎は、今や全く別人のよう。いい意味でも悪い意味でも、俗人で。人間としてどちらが幸せなのか、考えてしまう。
ところであの……初見だと思っていたのに、私、吉田喜重監督作品、観てたわ。ちょうど一年前、やはり頭を抱えた「煉獄エロイカ」。あまりに頭を抱えたから、記憶から消し去っていたのだろうか。
あの時も、感想を書くかどうかさえ躊躇していたの、思い出した。「吉田喜重監督作品、再トライする勇気ない」ってハッキリ書いてるじゃないの。ああ、私はバカだ。映画が好きだなんて言う資格もないんだ……。
本作、本来の上映では休憩が入るって聞いたんだけど、それってあの、私が集中力を途切れさせたブラックアウトの場面かなあ?実際、この長い尺で、この観念世界を一気に見せられるのは、現代のひ弱な人間にはツラすぎる……。
言葉はもう、形骸化されすぎてしまったんだ。
本当の自分の気持ち、感情、信じていることからどんどん離れていく。日常の道具でしかなくなっていく。
言葉を信じられる時代は終わってしまった。
大正は多分、そのハザマだったと思う。
昭和にはいると、言葉を信じながらも、どこかで信じてなくて。だからそんな気分を引きずったウソツキの太宰とかに惹かれたのかもしれないと思う。★★★☆☆