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「ね」


2008年鑑賞作品

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ
2007年 109分 日本 カラー
監督:北村拓司 脚本:小林弘利
撮影:小林元 音楽:高橋哲也 SoulJa
出演:市原隼人 関めぐみ 浅利陽介 三浦春馬


2008/2/6/水 劇場(新宿ジョイシネマ3)
この作品に心惹かれた理由は何たって、関めぐみ嬢の代表作がようやく来たか!と思ったから。
予告編で空高く舞うめぐみ嬢の凛々しいお姿に心踊り、「ナゾのチェーンソー男と戦う運命にある美少女戦士」という荒唐無稽な設定にもキた!と思った。こりゃー、さぞかし彼女に萌えまくる作品だとドキドキして迎えたのだが。

さにあらず。いや、これはひょっとしたら嬉しい方向のウラギリだったのか?これは……男の子の物語、だったのよね。
冒頭、この美少女戦士、雪崎絵理に実に非力につきまとう山本陽介(市原隼人)が描かれる。時代劇風なその場所は後に、江戸村的なアミューズメントパークだと知れる。
そう、冒頭に持ってきてはいるけれど、これはかなり後半の場面。物語に引き込む手法の王道で、彼らがなぜこんな状況になったのかを時間を引き戻して明らかにしていくんである。

明らか、といっても、彼女がこのチェーンソー男となぜ戦っているのかは、結局は最後まで謎だと言ってもいい。
絵理はチェーンソー男を、公園やら遊園地やら、高い飛び込み台のついているプールやらで待ち受ける。別に予告がある訳じゃない。その場所は、彼女がコイツが現われると予感した場所なのだ。
そしてそれらの全てが、絵理が家族と過ごした思い出の場所だと判るのは、ずっと先のこと。
その場所で待ち続け、雪がひらひらと舞い落ちて、それがふっとストップモーションになると、チェーンソー男が空から舞い降りてくるのだ。そして華麗なる戦いが繰り広げられる。

でね、男の子の物語だったなあと思うのは……美少女戦士でいる間の絵理は、実にカッコよかった。山本君がつきまとうのも判るような、凛々しさに溢れていた。つまりこの時、彼女は男の子、だったんだよね。純粋で何の打算もない、理想に向かって悲壮なまでに立ち向かう男の子だった。
山本君は自身、そんな男の子が理想だったから、絵理に憧れたのだ。いや、それ以前に彼は一人の友達に憧れていた……というか、憧れていたことに気づいた。彼、能登(三浦春馬)が死んでしまってから。
いつもはクールな能登は、しかし些細なキッカケでムキになったりケンカになったりした。その些細なキッカケっていうのは恐らく、彼の中の、妥協できない、曲げられない真実だったのだ。

しかし能登は、バイクの事故で死んでしまう。たった一人で、カーブを曲がりきれずに。何に命を賭けたというんでもなく、無意味なようにしか見えない死に方。それでも山本君は、この友達に追い越されたと焦るのだ。
別に、死にたいと思うほど絶望している訳じゃない。でも、一遍死んでみるかと、口に出してみたいような欲望がある。それは、今の自分にあまりにも……居場所がないから。

居場所がないだなんて言葉さえも、なんとなく気恥ずかしいような気がしてる。別に欲しくもない高級牛肉を万引きしてみたりして、自分の存在感を確かめてみる(このシーンは、薄切り肉を作る機械がどんどん肉を刻んでいくのが、チェーンソー男を暗示させてるのかな)。
先生からは、今の子供は昔の俺らよりも頭がいいから、校内暴力とかいう判りやすい方向にいかない、とため息をつかれた。そんなことをしても無意味だと判っているから、やる前から諦めてしまうのだと。
「こんなに若いのに、もう全てを諦めているのか?」そう先生に問われても、諦めるどころか,何をやりたいかも判らないのに。
そんな風にため息をつく先生に、山本君は何と言うことも出来ず……もう帰っていいですか、俺、転校するんですから、推薦状ちゃんと書いてくださいね、と笑ってごまかすぐらいのことしか、出来ない。

そう、山本君は転校することが決まった。両親は札幌でラーメン店を出して軌道に乗り、リッパな家まで建てたもんだから、息子を呼び戻したがっていた。札幌だって!と彼は吐き捨てるように言うけど……えー、ここだって、田舎っぽいのにさあ。
山本君は男くさーい学生寮に、友達の渡辺(浅利陽介)と同室で住んでいるのね。

ちょっと気になるのは、こんな風に山本君には両親の影はあるものの、電話の向こうの声さえ聞こえないし、絵理に至っては登場の時点で彼女以外の家族が死んでしまっているということなんである。
その他の登場人物たち……死んでしまった能登や、同室の渡辺にも親の影など微塵も見えない。渡辺にだって寮に入る家庭の事情がきっとあるはずなのに、明確にされないんだよね。
なんかそれがね……まあ高校生の物語なんてそんなもんかもしれないけど、なんたって絵理のことがあるから、意識的に排除しているのかなって気がしたんだよね。
大体、寮という設定をわざわざ用意しなくたって別にいいんだし。そこには学校以上に、家族というものから廃絶された世界がある気がしたんだ……。

でね、そういう要素も、ひょっとしたら男の子な感じなのかな、とも思ったんだよね。それは男の子がこういう時期には恐らく……家族を遠ざけたがる季節なんじゃないかなっていう。
高校生だから親の庇護からはまだまだ抜けられないんだけど、それが心底ウザイと思ってるっていう。そうした思いを、絵理という女の子に、あらゆるアンビバレンツとして託している感じがしたのだ。

絵理は確かに女の子。別に男の子になりたがっている訳じゃない。彼女が家族と仲が良かったことは、家中に飾ってある家族写真で知れる。
酔っぱらい運転のトラック事故で、自分以外の両親と弟が死んでしまった。彼女はその葬式の帰り、こんなひどいことが起きるのは、やはり悪魔がいるんだと心で念じた。
その時、あのチェーンソー男が現われたのだ。絵理の心がまさに真っ黒に塗りつぶされている時だった。その男を見た瞬間、彼女の身体はふわりと宙に舞い上がり、信じられない力を発揮したのだ。

男の子が、男としての自我に目覚める時に、最もうっとうしいと感じるのが親を始めとする家族、暖かいことが生ぬるさに感じる存在なんだと思う。アウトローに憧れる。悲しみにさえも憧れる。その究極が、能登が叶えてしまった自分自身の死。誰の庇護も受けない、究極の自立。
その能登を超える存在が、絵理だった。彼女は絶望的な哀しみに打ちひしがれ、その中で戦っていた。そうしたいと望んだんじゃないのに。彼女を守り死んでいくことが出来れば、能登に完璧に勝てる。そう山本君が思ったのもムリはない。
山本君はひょっとしたら、この物語の最後まで、絵理に対して、彼女だからこそ守りたいというラブな感情は持たなかったのだろうか。そんな気は……するんだよね。

絵理は、確かにずっと男の子だったのだ。山本君が憧れる、まさに理想の男の子。哀しみを抱え、敵に立ち向かう。
絵理は山本君に、「すぐ謝るんだね。謝ればとりあえず収まると思ってんの。そういう人、私信用しないから」と言い放った。その言葉には、彼女の愛する家族を奪った酔っぱらい運転手のことも含まれていた。いくら謝られたって、私が一人になってしまったことは変わらない。
実はそこには、一人が寂しいという絵理の、女の子としての弱さが見え隠れしていたんだけど、山本君にはそれが見えなかった。
ただそんな風に言い放つ彼女をカッコイイと思ってつきまとうだけ。一緒にごはんを食べてくれないかと誘う彼女の家の中にも、入ろうとしなかった……見ようとしなかったのだ、確かに存在していた彼女の弱さを。

それでいて山本君は絵理を、「ちゃん、って言わないで」と言うのもかまわず、ずっとちゃん付けで呼んでいた。自分よりカッコイイ存在として見ているくせに、その彼女を守ることで自分がカッコイイ男になるためにと、常に下に置いていたのを、彼は自身、気づいていただろうか……。
敵が段々弱ってくるのを、山本君は絵理の強さが勝ってきたからだと思っていた。でも違ったのだ。
チェーンソー男は彼女の悲しみ苦しみを具現化した存在。それが弱くなってきたということは……彼女の中を真っ黒に塗りつぶされていた悲しみに、光明が差し込んでいたのだ。それは、山本君に対する恋心。
つまり、ここで絵理は女の子になったんだよね、ようやく。いわば恋のパワーでより強くなれた。それなのに山本君が絵理の気持ちに応えてあげられなかったことで、また彼女の中の哀しみが増え、チェーンソー男に負けそうになってしまう。

この物語を引っ張っているのが、もはや死んでしまっている能登だというのが、泣けるトコなんである。能登は現時点で死んでしまっているのに、ずーっと存在感を発揮し続けている。
演じる三浦君は、「アキハバラ@DEEP」で最初に見た時はなーんか頼りなくて弱々しいコだったのに、あっという間にどんどん背も伸び、元々持ってる独特の影が更に印象を強くして、ここでは主演の市原君、そしてアイラブめぐみ嬢さえも軽く超える男子なのだ。
まあったく、ちょっとズルいよねー!

能登が何か悲しみや苦しみを抱えていたのか、あるいはただこの年頃のもやもやを抱えていただけだったのかは判らない。
同じ女の子を好きになってしまった二人の男の子がなあなあに仲直りをしたのに憤って、乱入して引っ掻き回して大乱闘になる場面なぞは、能登がそんなにも憤った気持ちがなぜなのか……実は彼もその彼女のことが好きだったのか、あるいは能登に思いの伝えられない好きな子が別にいたのか……とにかくホンットに自分の気持ちを整理しきれない男子そのものなんだもん。

三人でつるんでいた山本君と渡辺と能登との思い出シーンは、後半になるに従ってどんどん増してくる。
三人でヘボ気味のバンドを組んだりもした。というのも、渡辺が写真だの絵だの小説だのといつも中途半端に何かを始めては投げ出し、そのうちのひとつが音楽で、バンドを組むんだと二人を巻き込んだから。
でもね、その渡辺がたった一つ、最後まで全うしたのが、仲間と一緒にやった音楽だったのだ。「幽霊部員と本当の幽霊」と化してしまったバンド仲間、渡辺は一人パソコンに向かって打ち込み、曲を完成させる。しかもそれは能登の作詞による、山本君の背中を後押しする曲だったのだ。

絵理を助けに行くべく、教師の真っ赤なバイクを強奪して向かう山本君の前に、能登が現われる。並んでバイクを走らせ、山本君に向かってニヤリと笑う。この根性なし!と。
そうだ、絵理のこと気になってるくせに、自分は転校して遠くに行っちゃうから、誰かイケメンと恋して、あんなチェーンソー男なんて無視すればいいんだよ、なんて言っちゃったりしてさ。そんな腰抜けの彼を、能登は自分が事故ったカーブのある道をムリヤリ走らせて、後押しするのだ。
もうほんっとに、絵理は悲しみに覆われて、負けそうになってた。彼女を奮い立たせていたのはただひとつ、チェーンソー男は自分の悲しみ、山本君が好きだから、彼がこの地から離れてしまうのも凄く悲しい。だからこのチェーンソー男を倒せば、山本君も転校しなくて済むようになる。だから私はやらなきゃいけないんだ!と。

それは、山本君の方が先に言わなきゃいけなかったんだよねー、つまりさ。
ただ、山本君は結局は、恋の気持ちよりも、いかに自分がカッコよく生きるべきか、の方が大事だった訳で。まあそれはこの年の男の子と女の子の気持ちの乖離を如実に示してて、それはホント仕方ないことでさ……。
だからね、今までずうっと男の子として、理想の男の子としてカッコよく君臨してきた絵理は、山本君への恋心と、そしてそれが成就してしまったことで、女の子になって“しまう”んだよね。
その結果が、一応絵理を好きな筈の山本君にとって、肯定か否定かは微妙なのだ。確かに山本君は絵理を守って死にたいと思った。それは彼女が好きだから、の筈なんだけど……でもそのことで自分が完全で完璧な男(の子)になれると思ったからでしょ。

転校をやめる!と叫び、間一髪、チェーンソー男を倒した山本君。
死んだと思った絵理は、制服の下に山本君が誕生日にくれた「1.65倍の強度の鎖帷子」をつけて、助かってた。それをもらった時はどう考えてもジョークだと思ったのに、「こんなの着て歩けないじゃん」なんて笑ってたのに。それを彼女が身につけていたのも、彼に恋したからなんだよなあ。
それはひょっとして、山本君にとっては誤算だったのか……。
山本君、絵理を抱きしめて「俺はこれから絵理ちゃんと、だらだらとした幸せな人生を送るんだ……うらやましいだろ!」と、見えない能登に向かって叫ぶ。
それって、その言葉って、やっぱりどうしても「だらだらとした」って部分に、山本君自身の中でのひっかかりを感じずにはいられないしさあ。

ラストシーン、海岸をそぞろ歩く二人。絵理が、夕陽がきれいだね、と言う。
その彼女の台詞に、まぶしそうに夕陽を仰ぎ見る山本君。
「まあいいか。それなりに幸せなんだし……」みたいな台詞がモノローグされ、なんだかヒヤッとする。恐らく女の子は、そのそれなりに、の幸せこそを、最上の幸せだと感じるんであって、戦っている時は男の子だった絵理が、今はそうした女の子になっているっていう図式で……ひょっとしたらあの時戦っていた絵理に対してよりも、山本君の気持ちのトーンが下がっているのは、どうしても否定出来ないのだもの。
ああ、まるでそれは、極限状況でしかドキドキ出来ないというヤツ?まるで「スピード」のようだな……古いけど。
でもそれって、確かにあるのかもしれないなあ。

だから、ラストクレジット後の、最後の最後、絵理が「あ、雪……」と言い、その雪がストップモーションになるっていうシメが、シャレにならねーなと思うのよ。
今度は彼の心の闇につけこんだチェーンソー男が再登場したってことかって!

それにしても、この美少女戦士にピッタリのめぐみ嬢。3年前のデビューから女子高生で、今も女子高生。でもイヤミなく似合う清新さ。
そうか、たった3年なんだね。その間にこれだけ成長が目に見える形で現われた人を、私は他にちょっと思いつかない。
時代劇をパロったような、オープニングからの作りも冴えてる。スタントの切り替えが丸判りなのがちょっと興醒めかな……。まあ、こんなタイプの映画に本人のスタントにこだわるのも違うとは思うけどね。

あー、それにしてもそれにしても。私って保守的過ぎるのよね。オバチャンなのよね。
どーしてもあの腰履きが納得出来ない……ジーンズならともかく、制服じゃ更に。
市原君の制服のボトムを、背後から近寄ってザッ!と下ろしたくてたまらーん!★★★☆☆


ねこのひげ
2005年 100分 日本 カラー
監督:矢城潤一 脚本:大城英司
撮影:新妻宏昭 音楽:吉川清之
出演:渡辺真起子 大城英司 仁科貴 螢雪次朗 川上麻衣子 藤田朋子 モロ師岡 佐藤貢三 松山鷹志 藤貴子 原田佳奈 根岸季衣 中原丈雄 馬渕晴子

2008/5/13/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム/レイト)
大体私は、タイトルに猫、とついてると、無条件にチェックしてしまうんである。
猫を飼ったこともないくせに、猫キチなんである。
ノラ猫にずーっとカラんで、ホームレスのおじさんに「エサやっちゃだめだよー」と注意されたことだってある(ちなみに酔っぱらって遊んでただけで、エサはやってません(爆))。
でもこれは、意外だった。猫は、まあ主人公の二人が飼ってるんだけど、まず話に関係ない。もっと言うと、ひげも全然関係ない(あ、これは、その意味するところが私が汲み取れなかっただけか(爆爆))。更に言うと、あまり私の好みの猫ですらない(爆爆爆。だって、くすんだグレーと痩せた感じが、ちょっと野性的でコワいんだもおん)。
でも、定位置の、テーブルの下のお座布からお座布ことずるずる引き出されるあたりは可愛いのだが。

でもね、この猫はホントよく訓練されているというか、物語を見つめる客観的視線を常に保ち続けているんだよね。
テレビの上に置き物のように座って動かずにじっとしているだけで、その“見つめている感”が出る。好きだったのは猫ナメの画。画面の手前右に座った猫の後ろ姿の上半身をとらえ、ちょっと耳がピクピクしてたりなんかして、その状態のまま、つまり小津的な?ちょっと下から見上げる視線で、部屋手前の奥(つまり猫の背後)から賢治やえりが起き出して、電話に出たりする。その眠そうに歩いてくる足を、後ろ姿の猫がじっと見てる。画面に奥行きを感じさせる存在。
だからかな、このドロドロになりそうな物語が、猫の定位置からの視点で常に冷静に語られていくのは。
もちろん、登場人物の心中は冷静なんかじゃない。実に実に心中穏やかじゃないわけなんだけど。

渡辺真起子が子供を持っている年上の男と同棲して、その妻や子供の存在に心揺れる、という設定に、即座に「M/OTHER」を思い出した。
もうあれも10年近くも前の作品で、彼女もずっと大人の女になって、対応の仕方も、演じる仕事のキャリアも違ってきてるんだけど、あの作品があるせいなのか、あるいは彼女の演じる女性の年恰好が自分とかぶるせいなのか、凄く切実に、共感して見てしまう。

共感するなんて言ったら、あらぬ誤解を受けそうだが。べ、別にこんな経験をしているわけじゃないし(汗)、大体こんなバリバリ仕事してるカッコイイ女な訳もないし。
凄い、カッコイイんだよね、本作の渡辺真起子。ま、出版社のキャリアウーマンというだけでベタだと思うぐらいカッコイイ設定だけど。
雑然とした小さな編集部でラクーな感じで、時には仕事の途中に飲んじゃったり、二日酔いだったりして働いている彼女のナチュラルさがまたステキで。
しかもその胸元のボタンの開け方が、マニッシュなカッコに似合って上品にセクシー。

冒頭はもう、賢治とえりは同棲してる。日曜の朝、かかってくる電話に彼の方が出る。「お母さんが結婚式で上京してくるんだって」「泊まんの?」「ホテルとってるって。日曜の午後にはこっちに寄るって言ってたけど……大丈夫だよ」この台詞からは、何が大丈夫なのか、彼女が何に動揺しているのか、まだ判らない。
そしてこの台詞は後に、今度はえりの方の母親が上京してくるという設定で繰り返される。更に言うと、この後の、「買い物に行こうか」「もう開いてるの?」「朝市」「今日日曜か」という台詞のやり取り、あるいは「今日の夕ごはん、どうする?」「外に出ようか」「落ち着かないね」という応酬も、二度繰り返されるのだ。しかも男女で台詞が交換されて。
そしてその時には、ハッキリと状況が変わってる。一見、二人のテンションは変わらないし、そのシーンを仮に並べて見てみたらおんなじように見えるんだけど、ハッキリと違う。時間の経過、心の経過、凝っていながらあざとく見えない、役者の演技とナチュラルな演出に感嘆する。

で、どういう状況かっていうと……最初の時点で、二人は不倫関係なんだよね。というか、賢治は妻に離婚の承諾をもらえないまま、えりとの同棲に踏み切ってしまった。そこに、彼の母親から心配した電話がかかってくる。
「耀子さんに聞いたわよ。ビックリした。どうしてあんな人と……」「子供みたいなこと言うみたいだけど……好きなんだ」
彼は二人の子供と妻がいるにもかかわらず、えりと恋愛関係に陥り、彼女との生活を、選んだ。
いや、選んだ、とこの時点で実はハッキリと言えない。それは、彼の苦悩をそばで見ているえりが最も感じとってること。
後に妻の耀子と対峙する修羅場でえりは、「あの人も揺れているんだと思います。何かのきっかけであなたの元に戻ってしまうかもしれない」と言う。「それなら、あなたの方から別れてよ」と言われると、えりはうつむきながらも搾り出すように「それは出来ません」と答えた。

ありそうで、なかったかもしれない。あくまで不倫関係の二人の側からの視点に限定した物語っていうのは。二人の生活は穏やかで、お互いの仕事を尊重しているから同棲というよりは同居というようなドライさを持ってて、あんまりベタベタした感じはない。ラブシーンもない。だから手をつなぐシーンだけでちょっとドキドキしてしまうぐらい。
やっぱり、彼の妻が噛みつくように、二人は決して正しい関係ではないんだし、こっちの視点から物語を構築するのは、それだけで、キケンというか、ズルいのだろうと思う。
どの視点に加担しても、好きだから仕方ないとか、妻子がいるのに奪うとか、卑怯だとか、そういう、昼ドラやワイドショー的なドロドロさが入り込んでくる余地もある。 だから、ちょっとすごいなと思ったんだよね。

たった一つ、この妻だけが、川上麻衣子が存在感タップリに演じてるのもあって、多分、意図的に、昼ドラ的にベタな感じがある。
彼女が発する「子供たちはパパが帰ってくるって信じてる」とか、「あなた、正しいことをしてるって思ってるの?」ってな台詞、まるでオペラの舞台かと思うような節回しで言うのも、意図的に感じる。
それだけ、その言葉はこういう設定の物語で何度も聞いた覚えのある、いわば他人からの借り物の言葉で、恐らく彼女自身が心の底から湧き出た言葉じゃないんだもの。

正しいことじゃなくても、あの人が好きなんです。と、ゆっくりとえりは言う。苦しそうに。それしかない。決して堂々とは言えないけど、それだけが確かなことだから。
そしてその言葉は、賢治が母親に言った「子供みたいだけど、好きなんだ」という言葉とピタリとリンクして、それだけしか確信として持てない、でもそのことだけで「正しいこと」からハズれてしまわざるを得なかった、迷い込んでしまった二人に、胸が苦しくなる。
子供たちにはパパが必要だと言い募る妻に、「じゃあ、あなたはどうなんですか?」とえりは聞いた。ここで妻が、自分にも彼が必要だと言ったら、もしかしたら、えりは身を引いたかもしれない。それぐらい、今の境界線は危うかった。賢治は子供を恋しがっているのがありありだったし、正しいことをしていない自分に苦しんでいるのも、目の当たりにしていたから。
でも、妻は、黙り込んでしまう。自分が夫を欲しているとは、言わなかった。言えなかった、のかもしれない。

このあたりが、もしかしたらズルイかもしれない部分で。妻側からの視点は、このベタな修羅場にしか描かれないし、彼女の本当の葛藤は判らない。夫婦の間に何があったのかも。でもそこまで手を広げてしまえば、テーマ自体が崩れてしまう。
ただ、単純に、妻が子供という存在を盾にして、夫を取り戻そうとした、とも言い切れないけれど、ここではそういう図式にせざるを得ない。
ただ、えりは、やっぱり子供という存在を持ち出されると妻には勝てないし、賢治が子供を深く愛しているのも判っているから、辛いのだ。

えりの幼なじみが子供を連れて訪ねてくるシーン。この友人も夫と別れて女手ひとつで幼い娘を育てている。「私は、子供のいない人生なんて考えられないな」と、その友人は言う。勿論彼女はえりのことを心配しているんだけれども、子供を持つ母親としての経験も持っているから、忌憚ない意見をのべてくれる。演じる藤田朋子が、ナチュラルで凄くいい。
この場面、賢治が幼い女の子とムジャキに遊んでいるシーンから始まるから、一瞬、子供と再会しているシーンなのかと思ってビックリする。恐らく意図的なシーン構成。本作は、近い時間軸を絶妙に前後させてるのが非常に印象的なのだ。
まず、現段階の登場人物の感情を大事に描出して、なぜそんなことになったのかを、後から提示する。過去の時間軸であるとあえて説明しないのに、それが一瞬で判ってしまう台詞や場面構成も上手くて、全然混乱しなくて、実に洗練されているんだよね。

そして、この友人が帰った後に、賢治が皿洗いをしながら、自分が子供にしているヒドい仕打ちを思い知らされて、ブルブルと震えて泣くシーンにも、打たれる。
ガチャン、と大きな音がするから驚いたえりが彼の手元を除きこんでみると、「この汚れが取れないんだ」と執拗に磨き続けている賢治。赤い血が泡の中に溢れ出す。
俺、自分の子供にも会えないで何やってるんだろう、なんてひどい父親なんだろうって、彼は……えりに対しての思いやりから絶対に口にしなかった子供への思い、自責の念を爆発させる。それがえりにとってどんなに残酷なことかを判っていながら、止められない。
でも、でも、それを押し殺しているとえりはずっと感じていたから、そっちの方がずっと辛くて残酷だったから、このシーンは辛いけど必要だったのだ。二人がこれから一生、一緒に生きていくなら。
そして、このシーンも、猫ナメ、なんだよね。こんな激情のシーンも、猫の背中が流しに立っている二人を見つめている。
凄く、冷静なんだよなあ。

二人のところにしょっちゅう遊びに来る、階下に住んでる気の置けない友人、オカマさんの孝子(仁科貴)がまた、二人の関係をあぶりだす、いい存在感なんだよね。こんな自分だから親からも勘当されてるし、と寂しそう。
この物語、母の日がひとつのキーワードになっててね。えりの母親は、母の日をネラってわざわざ訪ねてくるようなチャッカリ者で、孝子は、パートナーにうながされて母親に花を贈る決意をする。
あ、そうそう、最初は孝子、一人モノなんだけど、中盤に螢雪次朗氏扮するシブい恋人が出来て、彼を加えて四人で休日の朝から飲み会する場面が印象的でさあ。

思えば最初に孝子が朝食に乱入してくる場面、コーヒー豆を切らしていたから、と賢治が外に買いに出かけ、えりと孝子が二人きりになる。「オカマは普段からテンション上げてなくちゃいけないのよ」と冗談交じりにお疲れ気味な孝子に、「そうなんだ……」と思わずマジシンクロするえりは、自分にも似た部分があると思ったからかもしれない。
実際、仕事場のえりは、確かにナチュラルな魅力はあるけど、やはり一人、女が社会に生きてる肩肘の突っ張らかし加減を感じなくもない。

こんなシーンも印象的。同僚らの持ち寄りパーティーで賢治を初めて連れて行った時、まだ奥さんとの離婚も成立してなくて、「じゃあ、まだ不倫関係なんだ」とサラッと言われてしまった。皆の好みが判らない賢治が、タマネギの効いたサラダを持っていってしまって気まずくなったりしちゃって。でも、単純にキズついた顔なんて出来ない。もう子供じゃないし。
それはでも、当然、賢治もまた、キズついた訳で、でも彼はえりを気遣って、夕暮れの帰り道、彼女の手をとって歩いていく。
なんかね、この、数回しかない手をつないで歩くシーンが、凄く胸に迫るのは、彼らが、責められても仕方ないとはいえ、辛すぎる傷を、だからといってさらけだすのも辛い感じで、凄い、辛いからさあ……。

で、ちょっと話が脱線したけど、そう、孝子が手作りのお寿司を携えてパートナーを連れてきて、天気がいいからテラスに出て飲み大会になって、皆のんべえだから、酒が切れちゃって、今度はえりと孝子が買いに出るのね。
そして、賢治と孝子のパートナーが二人きりになる。この、対峙する登場人物の組み合わせをどんどん変えていって、二人の人間の価値観がぶつかって化学変化して生まれる会話の変化が、面白いし、深いし、人間の面白さを感じるのだ。

それはこの他にも沢山あって、賢治が兄と二人で蕎麦をすする場面、兄が、弟の不義で母親が先方の父親から脅迫めいたことを言われて苦しんでいることを“説教”しながらも、「だけどお前は俺の弟だから」と慈愛に満ちた視線を送ってくれる。
あるいは、えりが母の姉である叔母と、昼間っから日本酒をかっくらう場面も凄くいい。この叔母とえりとは恐らくのんべえってことでウマがあってて、友達みたいに仲良し。
叔母は自分の妹であるえりの母親が、娘のことを心配しているのを汲み取って会いに来てるんだけど、でも、そんな説教めいたことは何も言わないの。ただ、賢治が妻と離婚が成立したのに、なんだかお互いなかなか踏み出せないことに「籍入れてみない? って、言っちゃえば?」と敢えて軽く言ってくれる。
また、この時の渡辺真起子の、すねたような、そりゃそうしたいけどさあ、みたいな叱られた子供みたいに口を軽く尖らした、ちょっと泣き出しそうにも見える表情が可愛くって、絶品でさあ!

この、賢治とえりそれぞれの、肉親との場面はタイムラグがあって、彼の方はまだ妻との関係に整理がついていない時、そしてえりの方は、もういつでも彼と結婚してもいい筈なのに、なぜかそれが出来ない時、なんだよね。
これがさあ、男と女の、悩みどころの違いを表わしているみたいでさあ。

で、またまた大分話が脱線しましたが(爆)。あの飲み大会の場面ね。賢治が悩んでいるのを孝子のパートナーは感じ取ってて、「子供たちは、学校で友達と楽しくやってる。そう考えた方がいいですよ」と言ってくれる。「子供たちだって、明るいお父さんの方がいいですよ」と。
その言葉は、賢治の心のうちをズバリと言い当ててたから、凄く含蓄があって、なんだか凄く、救われる感じがしたんだよね。

どっちを選んだって、後悔する。それはきっと、そうなんだ。そんな風に選ぶなんて言うこと自体、自分勝手だと、責められてしまうことなんだろう。だから、辛い。
結局、何が良かったかなんて、人生が終わる時点でしか、判らないのかもしれない。いや、終わってしまっても、判らないのかもしれない。
息子の“非道”を、恥ずかしく思っていただろう彼の母親も、離婚が成立し、“あんな人”と呼んでいたえりと、今も一緒に暮らしている息子に、まだ籍を入れられずにいる息子に、婚姻届を送ってきてくれる。
実は、賢治の母親も離婚していたから、息子の離婚に対して、強く言えなかった。
今度、えりさんを連れてきなさいと。ゆっくり温泉でもつかりなさいと。末永く二人で幸せになりなさいと。そんなあったかい手紙を送ってくれる。こんな風に言ってもらえるまでには、やっぱり相当の時間が必要だったのだ。

えりが同窓会に行くシーンがあって。ま、同窓会っていっても、いつもの、孝子が勤めてるバーに数人の仲のいい女友達が集まる程度の、ささやかなものなんだけど。
もうフツーに結婚して子供がいる人もいて、それでも皆友達だから、「私たちは、えりの視点で見ちゃうけどさ……」と前置きして、そう、つまりは、彼女たちは、えりのいわば敵であった、賢治の妻の気持ちも判っちゃうから。
オカマさんたちも交えてるから、かなりぶっちゃけたトークも炸裂して、最近、夫婦間でセックスってどうよ?みたいな話にもなって。もう思春期の子供を抱える友達は、もう家じゃ出来ないし、外でなんてねえ……なんて言い……。

そう言ってた彼女がね、一人、えりと最後まで残ってしんみりと酒を酌み交わしてたんだよね。
反面教師、なんて言ったら言葉が悪いのかもしれないけど、実際、賢治の妻がこういう機会を得て、夫の気持ち、自分の気持ち、夫婦の関係を見直すことがあったなら、今の状況はなかったのかもしれない、んだけど……そう考えると、何が良かったのか、それこそ、正しいことってなんなのか、正しいことには努力が必要なのかとか、気持ちを保つことの難しさとか、色々考えちゃうんだけど……。
この友人は、えりと話をしてて、「ダンナに会いたくなっちゃった」って、言うのだ。会いたい、って言葉、はなんだかここではそれだけで、ロマンティックに、エロティックに感じてしまう。エロが気持ちに結びついた時、それが一番、幸福だと思う。

えりはまだ30代だし、最終的にはいくつになっていたのかは判らないけど、登場シーンではまだ今年35になるってなぐらいだったし、子供を作ることは不可能ではなかったとは思う。
でもそういう雰囲気はこれも、意図的に排除しているよね。彼女は飲み過ぎて前夜の記憶をなくしたり、ひどい二日酔いになったり、仕事があるのに昼間から酒を飲んだりとかなりののんべえ。それだけじゃなく、煙草を吸う場面もふんだんに出てくる(しかしそれが、悔しくもカッコイイんだけど)。
賢治とのツーショットのシーンでも、二人が子供を作ろうとか考えている節は、全くないんだよね。まあ、酒を飲んだり煙草を吸ったりする女が、子供を産まない女、と定義されるのもちょっと差別的表現のようにも思わなくもないんだけど。

なんていうかさ……ここにはすんごく複雑な感情や、価値観や、二人の関係性が絡み合っている気がするんだよね。実は、えりが、賢治との間の子供が欲しいと思っているかどうかっていうのは、定かじゃない。それは“意図的に”明らかにされていない気がする。
この状況でそうした彼女の感情を絡めちゃうと、よりベタなメロドラマになってしまうからなのかな、とも思う。もしかしたらえりは彼との子供を欲しいと、思わなくもなかったかもしれない。
だけど、それ以上に、彼がもう会えなくなってしまった自分の子供に対して、会えなくなってしまった原因を作った自責の念に苦しんでいるのを目の当たりにしていたから、彼との間の子供を作ってしまったら、まるでその代替品にしているみたいで、そして彼が愛している子供や、その母親である妻に対しても、それはやっちゃいけない、道義に反するって、感じてたんじゃないのかなあ……って、思うのだ。

一見、二人だけで暮らす生活は、ひどい言い方をすれば、うるさい子供のいない恋人みたいな関係、って言えるのかもしれない。でも、それは、少なくとも彼が自分の子供を恋しがっている状況では、彼女にとっては苦しいだけで、それを払拭するために、彼との間の子供を作ってしまうのは手っ取り早いことなんだもの。
だから、えりが、そしてそんな彼女の気持ちを汲み取るように賢治も、子供を作ることを全く匂わせず、ただ、二人でいることだけを大切にしてくれたのが、なんか、グッときちゃったんだよなあ……。

後半、賢治とえりのこんな会話が印象に残ってる。それは人間がこの世に誕生した神話の話。
男と女は、ひとつの完全体を引き裂かれてしまった。だから自分の半身を探し続けている。
その暗喩は、セックスの生々しさも感じさせる。どこまで、どう到達するまで感じたら、自分の半身だと、完成したと、思えるのかな、なんて。
死ぬまで、死んでも判らないかも、って。それじゃ、結局最後まで人間は完全にはなれないんだね、って二人。傲慢だからこそ、切なさが代償になる人間というもの。
でも、ゲイのカップルも登場しているのに、この会話はよかったのかな?まあ、そんな硬いことを言うべきじゃないかしらん。

私たち、幸せにならなきゃね、と酔ってブランコをこぎながらえりは言った。
幸せの形ってなんだろう。それは子供がいなくても、っていう意味を含んでたのかな。
迎えに来た賢治は、そんな彼女の言葉に、帰ろう、としか言えなかったのが、ちょっと辛かったけど、でもその次のシーンでは、婚姻届をテーブルに出して、これ、出してみようと思うんだけど、とえりに言ってくれたから。
この時の渡辺真起子の、ちょっと驚いたような、不意打ちをくらった子供みたいな表情が凄く愛らしいんだもの!

ストーリーの解説に、「女38歳、男39歳。出会ったときは互いに別の相手と結婚していた」ってあるし、インタビューでもダブル不倫って言ってたから、あれ?って思っちゃった。劇中賢治の妻に「あなたは、キレイだし、誰でもいるでしょう」と言われてて、えりと賢治との年が離れている感じがあった気がしたんだよね。
えりが結婚してた経験なんて語ってたっけ?私は彼女の方は最初から一人身なのかとずっと思ってた。あれ、聞き逃したかなあ……。
あー、でもどうなのかなあ。実際の二人の年齢はそんなに離れてないから、やっぱりそうなのだろうか。うーむ。

話や電話には出てくるけど、実際には登場しない、受話器の向こうの母親たちが、その設定がとても印象的だった。やはりこれも、登場させるとベタすぎるからだろうかと思う。でもさらりとしてて。
アドリブかと思うような台詞の応酬、役者の感度の高さが素晴らしい。★★★★☆


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