home! |
恋の風景/戀之風景/THE FLOATING LANDSCAPE
2003年 105分 香港=中国=日本=フランス カラー
監督:キャロル・ライ 脚本:キャロル・ライ/ライ・ホー
撮影:アーサー・ウォン 音楽:梅林茂
出演:カリーナ・ラム/リィウ・イェ/イーキン・チェン
女の子、という年ではないのだけれど。20代も半ばをすぎていると思われる、メイクの仕事をしているいわゆる都会のキャリア・ウーマン。でもこのヒロイン、マンを演じるカリーナ・ラムが本当に可愛くて、何か昔の、佐野量子ちゃんみたいな可愛らしさで(って、私も古いなー)私は不覚ながら彼女のことは初めて見て、全編、その可愛さに心ときめく。本当に、少女のような可愛らしさなんだけど、でもちゃんとそれなりの年を重ねているという重い哀しさみたいなものもちゃんと持ってる。回想での恋人とのシーンははつらつとした女の子で、で、現在の時間軸では、重い荷物を引きずっている魂の抜け殻のような状態で、この機微がとてもよく出てて、う、上手い。で、彼女の相手となる郵便屋さん、シャオリエを演じるリィウ・イェも、あ、また郵便屋さん!「山の郵便配達」で確かな演技力を発揮していた彼だから、実力俳優同士で、もう切ない物語を見せてくれるのには申し分なし!死んじゃった恋人はイーキン・チェンだけど……まあこれはあまりにもスターなんでね……とりあえずいっか、という感じだけど。
季節は冬。田舎町だから、冬の風景はことに寂しく寒々しく感じられる。傷心のマンにとっては、よけいにそうであろうと察せられる。愛するサムが生まれ育った街。そこここに、彼の息づいていた跡が感じられるように思う。
でも、冬、ということは、冬から春になるということなのだ。ここにこそ、この物語の真の美しさと、ありがと、って言いたくなる幸福感がある。
失った恋で傷ついた心を癒すのには、新しい恋をするのが一番。それはそうだけれど、なんといってもマンはそれを恋人の死という形でなくしたのだから、そんなこと、いきなり考えられるはずはなかった。考えてもみなかった。サムのお姉さんに、過去ばかりを見ていたってしょうがないじゃないと、私なら今をせいいっぱい生きることしか考えないわと言われても、そうかしら……とつぶやくばかりである。控えめに応えてはいたけれど、マンはきっと、恋人を神様に奪われたことのないあなたには判らない、と思っていたに違いない。
でも、きっと、サムこそが、神様ならぬ天使になって、マンにそれを教えてくれたんだよね、きっと。
おっと、それは感動のラストのことだから、まだここでは言わないけれど。
冒頭、いきなり私の心をつかんでくるんである。いや、何てことないシーンなんだけど。青島に着いたマン、ちょっと哀しげな笑みで砂浜を眺めている。その彼女の横顔に気をとられているシャオリエ、気づいた彼女が彼と目が合う。二人の顔がスクリーンいっぱいにとらえられるその冒頭シーンは、間違いなく彼ら二人の物語なんだよということを、そうして恋の予感を伝えてくれて、ドキドキする。
この時マンはシャオリエに、彼女が逗留することになるサムのお姉さんの家を訪ねるんである。シャオリエは当意即妙に応える。というのもシャオリエは郵便配達人であり、この辺の地理にはめっぽう詳しいのだ。
後に事情を知ったシャオリエが、マンに協力を申し出る時も、このことが素敵に効いているんである。曰く、
「僕は郵便屋だから、その風景を見つけることが出来ると思うんだ」
それは、マンが、なぜそんなに親切に協力してくれるの、と問うた質問に対する答えであり、彼のこの理由は素敵なんだけど、でも一方で、本当は彼女が気になっているからのくせに!なんて思ったり、で、彼女の方も、まだこの時点ではハッキリと自覚しているわけではないけれど、心のどこかでそんな期待を持っていたからこそ、こんな質問が出たに違いないのであり。
マンは死んでしまった恋人、サムのことを本当に愛していた。サムもマンのことを本当に愛していた。この物語はシャオリエとマンの気持ちが少しずつ近づいていく描写と同じ分量で、サムとマンの幸せな恋人時代も、回想として描かれる。その画は、シャオリエとマンが今いる青島の、冬の寒々しい風景とは違って、光りまばゆい中に、キラキラと思い出されるのだ。
マンはシャオリエにこんなことを言う。「死ぬって、覚悟がいるのよ」と。彼女がリストカットをするシーンも出てくる。流れ出た大量の血で床に血だまりが出来る。でも彼女は、思わずの自分の行動にうろたえるかのように、傷口をタオルで押さえ、床の血だまりを必死にぬぐい続ける……何だかそれが、やけに生々しく思えて。
だって、この彼女の台詞、まるで我にかえってしまった自分を責めるかのような口調だったんだもの。
彼の後を追えなかった自分の臆病を責めているみたいだったんだもの。
これだけでも、マンがいかにサムを愛していたか、判る。そしてサムも、残された日記の中でこんなことを語っている。自分が確実に死ぬことが判っているのに、なのにマンと別れられない、と。
彼女のことを本当に思っていなけりゃ、こんな台詞は出ないよね……そして彼女のことを本当に好きだから、自分が死ぬことを申し訳ないと思いながらも別れられない。自分の辛さを彼女で癒そうとしている自分を責めるかのようなサムの記述が、辛くて。
最終的にマンとシャオリエのハッピーエンドになるには、それを本当に幸福に感じるためには、同じ分量だけの、サムとマンの思いを描くことが必要だったんだ。
マンにホレてしまったシャオリエはそりゃ辛いし、キツい。でも、シャオリエが出会って好きになったのは、サムが思いきり愛したマンなんだもの。
マンは、サムの残した日記を、毎日一日分、書き写す。「一気に書き写すのは悪い気がして」とマンは言う。それは彼の思いを出来るだけ長く受け止めたいという彼女の思いであり、しかしそれは図らずも、彼のことを忘れてしまう恐れを、既にどこかで感じているようにも思えるんである。このことに関しては、かなり印象深い、というよりかなり強烈なエピソードがある。マンが逗留しているご近所さんにある老夫婦がいて、ダンナさんの方はいつも庭先で居眠りしているんだけれど、ある日とうとう、眠るように亡くなってしまうんである。奥さんはそれ以来こもりっきりになってしまって、マンが心配して訪ねてみると、彼女が訪ねてきたことなどまったく気づかずに、淡々と、しかし放心状態のような感じで、ひたすら写経をしているんである。マンが日記を書き写していることを聞いて、サムのお姉さんは、この奥さんの写経の話をし、落ち着くんだそうよ、と話していた。確かに落ち着くんだろう。マンが来たのにも気づかないぐらい。マンは、その姿にうろたえて、逃げ出して、走って、走って、お姉さんのどうしたのって声も振り切って、部屋に入って、泣きむせぶんである。この奥さんの姿は、ある意味では美しいものだと思う。でも、それがまだ若いマンにダブるっていうのは、やっぱりまだまだキツくって……。あるいはマンは、この時自分の姿を重ねることによって、サムの死をより強烈に再認識したのかもしれないけど、いや、やっぱりそれ以上に、自分の姿なんだと、自分が死んだようになっているんだと、そのことに愕然としたんだと、思う。そのことに愕然とした自分にも、ダブルでショックを受けたのかもしれない。間違ってないよ。だって、あなたは、まだまだ生きていく権利、いや!義務があるんだもの。
シャオリエは本当に頑張ってくれて、ここじゃないかって場所を見つけ出してくれる。くねった木々が等間隔で並ぶ場所、見るからにここだと思うんだけど、マンは違う、と言う。そうじゃないと感じる、と。
最終的には場所としてはここであって、季節が違った、ということだったんだけど、マンが違うと感じたのはそういう意味で当たっていたとも言えるし、この場所だってことを認めずに否定していたとも言える。
マンは、優しいシャオリエに惹かれていることを自覚し始めていて、そのことに愕然としていた。サムを思うより、シャオリエを思う時間の方が多いことに。一体何のために自分はここに来たのか、そんな風に思っていたのかもしれない。
彼女は、サムが思い続けた風景が見つかるのを恐れていた。「見つかってしまったら、現実に引き戻されて、サムが遠くに行ってしまう」それは、恋人が思い出になってしまうことが怖いんだということなんだろうけれど、微妙に、いや、確実に違うと思う。自分こそがだんだんとこの恋人のことを思い出にしてしまっていることに、きっと彼女は気づいたのだ。この場所が見つかったらそれが決定的になってしまうと、彼女は思ったのだ。
でも、サムが死んでしまった直後から、マンがこうやってサムを思うそれこそが、サムが思い出になったということなんだよね。それに気づくべきなんだよね。
マンがシャオリエの髪を切ってやるシーンが印象的。その時マンは同じようにサムの髪を切ったことを思い出す。髪を切る、という行為は、とても親密でどこかエロティックで、サムに対しては恋人同士だったわけだから、逆にそんなエロティックささえ感じないほどに、楽しそうにラブラブモードだったんだけど、シャオリエの髪を切ることでサムにそうしてやったことを思い出し、つまりはその時相手は恋人であって、今切ってる相手はそうじゃないけど、そうじゃないんだけど……みたいな、もう、そんな、ああッ!なんだろう、このドキドキ、ヤキモキ、ハラハラ、ムラムラ!?する気分って!
マンはこの場所を見つけることよりも、サムの過去の足跡をたどることに夢中になったりする。通っていた小学校、「私には判る」と、木の根元からサムの埋めたタイムカプセルを掘り出す。シャオリエは不機嫌になっちゃうんだよね。ちょっとカワイイんだけど、「オレもタイムカプセルは埋めた」なんてつぶやいたりして。でも、つまりは、過去ばかり見ているマンに、彼女にホレてしまったシャオリエは嫉妬しちゃったんだよね。
マンは、肝心の目的である、風景さがしよりも、この過去探索に没頭してしまっている。だって過去探索は、その後を考えなくていいんだもの。過去を過去として感慨深く受け止めればいいだけなんだもの。サムの風景探しとは、似て非なるもの。だってその風景は、今現在彼女の頭にこびりついているものであり、死んでしまった恋人の最大の謎であり、それがとけてしまったら、あとはもう、現在進行形で動いていくしかないから。現在、現実に直面してしまうことは、そこにはもうサムはいないんであって、マンがそのことを恐れたのは、当然と言えば当然。
この場所を一緒に探してくれたのは、そしてその思い出を共有してくれたのはシャオリエ。だから、サムの思い出をひっくるめて彼は彼女のそばにいるんだよ。
そのことに、お願い、お願い、早く気づいて!とやきもきする。彼女の傷ついている気持ち、判るから、そして彼の、そんな彼女をいたわり、慈しむ気持ちも判るから……、でも、だって、二人はサムが結びつけてくれた二人と言えるわけじゃない。
だからね、サムは天使なの。そう、ここであの胸を打つ絵本作家、ジミーの絵とアニメーションが登場する。
シャオリエは絵本作家を目指しているという設定。辛い過去に傷ついているマンを元気づけようと、似顔絵に折り目をつけて、角度で笑顔と泣き顔になるあれね、そうして彼女を微笑ませたりする。「君の恋人ほど絵が上手くないから……」と言いつつ、でも、最後にシャオリエがマンに贈った壁一面の絵は、彼女の心を、そして観客の心を、これ以上なく、激しく、波立たせるのだ。
それは、あの場所。シャオリエが見つけてくれた場所。そしてマンが否定した場所。冬だったから。でも、二人の距離が少しずつ少しずつ近づいていくうちに、季節はゆっくりと冬から春へ。あの木々は梨の木。白く可憐な花がいっせいに枝を彩り、まるで夢のよう。
この壁画ももちろんジミーの手によるもの。そしてこの後、マンが再び、春となったこの梨の木々の場所に向かう間、実に自然な流れで挿入されるのが、ジミーの絵から作り出されたアニメーションなんである。これがね、もう、もう、もう……涙出るよ、本当に。勿論、シャオリエが描いたという設定のスケッチブックによって。彼に惹かれていることを自覚していたマンは、彼から「君と出会ってから描いた」と渡されたこれも、開かずにうっちゃってたんだけど、この梨の木の場所に来て、開くんである。目に包帯をまいた少女。杖をついて。それはきっと、恋人の死に打ちひしがれていた彼女の姿。その少女を翼をつけた少年が、導いていく。それは、あの梨の木々の場所へと。真白い花をつけた場所へと。
これは、シャオリエではないでしょ。サムのことなんだよね。だって、天使なんだもん。マンを愛しているシャオリエは、彼女の愛する人が、君を見守って導いてくれるんだよと、きっとそんな意味で描いたんだと思うんだよね。でもこの天使が彼女を導いてきたところは、この場所で、青島から辞する日、マンはこの場所を再び訪ね、もう冬から春に季節は巡っていて、そしてそこには……シャオリエが、いるの!
シャオリエは、マンのことを愛して、それは、サムの存在を知って、だからこそマンをまるごと受け止めて愛して、だから、マンのことをサムは導いてくれるんだよっていう絵を描いたわけなんだけど、本当に、本当に、これって、運命だよね。だってそうしてシャオリエが描いたサムが導いてきたところに、シャオリエがいるんだもん!
タイトルが、効いてくるよね。原題も同じだから。恋の風景。サムへの思いをたどって、マンが探し求めたその場所を、シャオリエが見つけてくれて、暗く寒い冬から希望が芽生える春に、シャオリエとそこで再会するなんて。驚いて立ち上がるシャオリエに、マンはどこか予測していたかのように、嬉しそうに、本当に嬉しそうにニッコリと笑って、エンドなの。抱き合うどころか走り寄ることさえしないんだけど、そこがまた、そこがまた、もお、幸せ気分なんだよなあ!
シャオリエに“金魚のフン”と言われるほどくっついて回っていた男の子がいて。でもこの子がちょっとフシギな存在でね、マンが追いかけるとふっと消えてしまうことがあったわけ。それはマンがシャオリエの誘いに応じての、つまりはデートに出かけた時で、マンはシャオリエと一緒にいるのが楽しいから応じてしまったんだけど、このことでふと我に返ったようになっちゃうのね。
なんかこの男の子の存在って、シャオリエが描いた天使、つまりはサムの化身のように思えてならないんだなあ。あの梨の木の場所で、マンを導いてくれたのはこの男の子なんだもん。二人の初デートにちょっとヤキモチ焼いてイジワルしたように思えてならないんだもん。
こういう、ささやかなファンタジックさが、また切なさをどうにもこうにもかきたててくれちゃうんだなあ!
シャオリエは北京の出版社に認められて、明日には北京に出発するという状態で、マンは今日香港に帰ることになっていたわけだけど、どっちにしろ手に職を持つ同士になったわけだし、これはとーぜん、文句なしのハッピーエンドだよねッ!
雪が、すっごくキレイだったなあ。それは当然まだ冬。幸福なハッピーエンドを迎える前なんだけど、シャオリエとマンが、なんてことない会話を交わしながら歩く夜の道、その漆黒の闇の中に、音もなく舞い降りてくる雪は、まるで見守っているサムの天使の羽みたいに純白で、柔らかくて、軽くて、まるで、夢のようなんだ。
サムのお姉さんのエピソードも良くってね。彼女は別れた亭主にずーっとつきまとわれているんだけど、マンがね、まあ、自分のことを重ね合わせてうらやましく思ったんだろうなあ。「それはお姉さんのことをまだ愛しているからですよ」って言うのね。このお姉さんも、今つきあってるカレはいるみたいなんだけど、でも、この元亭主を振り切れなくって、この元亭主、彼女のデートとか散々ジャマしてくる。で、お姉さん、ケガした、この元亭主の方こそを送っていって、寝て、そっと出て行くと、元亭主ったら、パンツいっちょで走り出てくんのよ。お姉さん、思わず彼を抱きしめちゃってさ……このお姉さんのエピソードに割く尺は当然そんなにないし、なら別になくてもいいぐらいなんだけど、その中でギュッと語られるこれが、マンたちだけの話だったらロマンティックにすぎたのかもしれないところを上手いバランスに持っていく作用があったのかもしれないんだよなあ。
亡くした恋は、次の恋を、いつでも後押ししてくれる。かつての恋が見守っていてくれるから、人は恋をして、恋によって支えられるんだね。★★★★☆
ポップ、というのはこの映画の重要事項だと思うんだよね。俳句オタクの山岸君が「俳句はポップなんです!」と言い切り、チアガールたちに俳句なんて年寄りくさいとバカにされたヒロインの治子が「俳句はポップなんだから!」と半ばキレて叫び、そしてこの明るくサワヤカな高校青春物語なんだから。でも、ポップというには難しい、このまったりとした流れ。のんびり、ならいいけど、まったり。いや、のんびりでもこの場合、いけないと思うぞ?だってさ俳句甲子園でしょ?ここはやはり最低限の努力で青春を描いて欲しかったわけ。そして最初は俳句なんてと思っていたヒロイン以下部員たちが、だんだんとその面白さに目覚め、その延長線上に優勝があってこそやったー!と嬉し涙が激流となすわけでさ。彼らは努力……しているんだろうか。うーーーん、してないと思うぞ?こんなん、本当に俳句甲子園を目指して頑張っている高校生たちが見たら、ちょっとムッとしちゃうんじゃないだろうか。
だってね、まず、治子が「俳句はポップなんだから!」と言い放つ時点で、別に彼女は俳句が好きになっちゃってるから、だから悔しくて言ってるってわけじゃないんだもん。この時点では、この台詞は完全に受け売りで、言い返す言葉をひねり出すのに苦労してるだけなんだもん。で、そのあと一応彼らは俳句を好きになっていく、というのが描かれている、ハズではあるんだけど、……見えないんだよね、その過程が。顧問のマスオちゃんは彼らに、とにかく俳句を詠むことを楽しもうと、それを一貫して指導する。別にそれは間違ってはいないと思う。でもその楽しさもクレシェンドしては描かれないから気持ちがぐぐっと高まっていかない。ひとつひとつのシーンは心に残るものはあるんだけど……教室中に紙を貼りめぐらせて、皆でそこに俳句を書いていく……いつの間にか朝になってしまってみんな墨だらけで雑魚寝してる、とか、暑い部室で汗だくになりながら、マスオちゃんの買ってきたアイスにいっせいに手をのばす、とか。でもそういうシーンは、あまりに点景なの。やはり希望としては、クレシェンドの中に絶妙に位置してこその名シーンだと思うんだけど。それにウクレレ少女Pちゃんの伴奏による、校庭での「優しい悪魔」のパフォーマンスの意味は?……カワイイシーンだけど、かなり意味不明だなあ。
やっぱりね、私としては「ロボコン」みたいなイメージが頭にあったわけ。いやいやながら始めたけれど、悔しさを覚えて、挫折しそうになって、ロボットが好きになって、仲間との信頼関係を築いていって、で、最後にはヤッター!というね。最初こそ確かにまったりとしていたけれど、中盤からの追い込みは見事で、ここにはきちんとクレシェンドが存在していたんだよなあ。本作にはここで上げた全ての要素が感じられない。「ロボコン」にはなかった、青春には不可欠の恋の気分、はあるけれど、別にそれがジャマしているわけではなく、正直その恋の気分も中途半端なまま終わっているという印象。恋の気分というより、青年の悶々、ツッチーのオナッてるシーンに妙に集中してたりして、ちょっとこれはどうなのかなあ?いや、確かにこの年頃の男子高校生なんてこんなもんですよ。でも、俳句甲子園に向けての、あるいは俳句に向けての気持ちより、この悶々の方が印象強烈っていうのはどうも……鼻血出したりするぐらいならまあカワイイし、いいんだけどね。青春ものっていうのはこのあたりのバランスが確かに難しいんだよなあ。
彼ら、松尾高校のメンメンが、去年の優勝校古池高校の練習風景を見学に行くでしょ。おりしも陰鬱な雨が降っていて、そこからしてもうあやしい雲行きであり。この古池高校はメガネの男子生徒がズラリと並び、“句”の文字が大きくプリントされたTシャツにジャージ姿で、有名な俳句を発声練習さながら皆でそらんじている。圧倒された彼らは、「気楽にやりましょう」と挑発される練習試合に臆してしまって、もうぜんぜんダメ。あの唯一俳句好きの(伊藤園の俳句大賞に敗れ続けている)山岸君は、人前だとどもってしまうクセが出てしまって、もうひとことも出てこない。で、彼らは、ムリだよ、俳句甲子園なんて!と打ちひしがれて帰ってくるのね。
ここまでは別にいいんだよ。それはつまりは彼らが俳句を始めたばっかりで、しかも俳句がまだ好きにもなってないし、つまりは未熟で発展途上だってことなんだもん。こういう挫折のエピソードはその後の感動のためには必要なこと。でもね、これが実際に俳句甲子園に出ることになった時点で、全然、何ひとつ変わってないんだもん。これじゃ、あんたら何やってんだよお!と言いたくもなるでしょ?顧問のマスオちゃんは、君たちにはあんな練習をさせたくはない。俳句は楽しまなくちゃダメだ、と言う。いや、それはいいのよ、さっきも言ったけど。“あんな練習をさせたくない”ってのも別にいい。あんな有名句をそらんじるアホみたいな練習が役に立つとも思えないし。でも俳句甲子園では句を読むだけじゃなくて、その句に対する質疑応答があり、むしろそここそがメインと思われ、だからこそ“甲子園”と言われるだけ白熱するんでしょ?それにその質疑応答を深めてこそ俳句に対する面白さや愛情も感じられるようになるんじゃないの?おたがいの句を評し合えば成長だってするだろうし、クソー!っていう悔しさや挫折も内輪ながら得られるはずだし、そのことによってのめりこんでいく、っていうのが誰しもが見たいはずじゃないの?内輪での挫折や悔しさもなく、いきなり対外試合のそれじゃ、免疫も出来てなくて打ちのめされるのは当たり前なのに、それが、楽しんで俳句を作ってない相手だから気にすることない、なんて結論に至っているように見えちゃうのは、なんか違うんじゃないの?できないことに悔しい!って思うとか、俳句がだんだん楽しくて仕方なくなるとか、そういう王道をわざわざ外しているのはなぜなの?
それに山岸君だってさ、どもりで悩んでるんだったら、それを克服する練習もすべきだったんじゃないの。何もせずに試合に臨み、何度もどもってつまっちゃうというシーンもしつこくて。その後、敗者復活戦の段になってようやく、背中をどん!と叩かれると言葉が出る、という結果に落ち着くんだけど、これもさあ……叩いて言葉が出るなんて単純すぎるでしょ。
彼ら、ただただ俳句を作り流して、せいぜい「いいと思います」とぬるい批評をして、それで大会に臨んだら、まるで進歩なしに質疑応答で黙り込むのは当たり前だよ。せめてそこんところはクリアして、予選では緊張してなかなか手をあげられなかったとかさ、そういうんならいいけど、ハナからそれをやってないんだもん。そりゃそういう練習を深めている他校にボロクソにやられるのは当然じゃない。同情する気にもなれないなあ。
この、古池高校をまあいわば悪者みたいな扱いで描いちゃうのも、どうもね。そりゃこんなジャージ軍団で、みんなメガネで行進しながら「古池やー」なんて言ってるなんてギャグなんだろうとは思うよ。でも松尾高校の敵はこの古池高校だけみたいな感じで、それがこんなコテコテの悪役だったら、甲子園っていう名が泣くんじゃないの。松尾高校と対戦する学校はいくつか出てくるけど、ただ彼らを舌鋒鋭くやっつけるだけの通り一遍の描き方で、愛情が感じられない。あー、やっぱりそのあたりは「ロボコン」の、それぞれの学校への愛情を感じずにはいられないんだよなー。つまりは松尾高校だけに愛情をしぼって描いているんだろうけれど、それがこんなヘタレじゃどうしようもないじゃない。
しかも少々許せない気がするのは、彼らが何かちょっとイイ話みたいな感じで敗者復活戦で勝ち抜いちゃって(うーむ、正直マグレとしか思えん)、準決勝で当たった古池高校を撃破するという展開なんである。この敗者復活戦に関しては、その間に彼らの間の恋の葛藤なんぞが描かれ、オデブな理由でチアガールをクビになってこの俳句部に入部してきたマコが、治子のことを好きなツッチーに恋するも破れ、ほかの部員やマスオちゃんもそれぞれに放射状に片恋の思いをぶつけたりするわけなんだけど、なんかここがテーマなんかい!と思うような中心の据え方でね。自殺しようと石塀にしがみついているマコに、「俳句やってて楽しかった!」と治子が言うことでなぜだか円満解決するのだが、この治子の台詞もちょっと唐突っつーか、そりゃあそれまでに彼女がそう思うようになったってこと、感じられれば良かったけど、正直……うーん、どうなんだろう。
そしてその思いをそのまま敗者復活戦にぶつけて勝ち抜き、準決勝でライバル(というには実力の差が歴然としてるけど)古池高校と対戦する。ここでの勝ち抜きがね、またちょっとあまり……納得できるものとは思えないんだなあ。古池高校はとにかくテクニックで攻めてくる。古池高校にとっては基本も判ってない松尾高校と対戦すること自体がイラつくことのように映る。そこを松尾高校は古池高校に対して、(マコの失恋もからめて)心や気持ちがない部分、そしてテクニックに陥って年寄りくさくなっているといった感じで攻撃していくんだよね。……まあ、松尾高校にとってはそれしか責めどころはないわなあ。しかも高校生による大会ってことで、それは審査員の胸にも届いちゃうわけ。で、古池高校はこの通り、ギャグなぐらいの悪役キャラに徹せられているわけでしょ、この攻撃が効を奏した形で、松尾高校は奇蹟の大逆転劇を果たすんだけど、なあんか……喜んでる彼らのように素直に感動できないなあ。だってここでの質疑応答、それまではキンチョーして何ひとつ言葉が出てこなかった彼らがいきなりスラスラ言えるようになってるってのもアレだしさ。特に俳句に対する情熱が最も感じられなかった(というか、治子への執着だけだった)ツッチーがいきなり変貌して弁論の中心人物になるっていう様変わりがね、さすがにちょっとえー?とか思っちゃうなあ。
しかもそこからいきなり飛んで、マスオちゃんが優勝の盾を校長に手渡すシーンに飛んじゃうんだもん。え??あれって準決勝戦だったでしょ?決勝戦は?決勝戦を割愛するなんてアリかよー。でも確かにこの松尾高校の実力じゃ、この後の決勝戦でもミラクルを見せるなんて、描くのはキビしいと思うけど、この実力でマグレみたいに優勝されたんじゃ、ホントたまったもんじゃないじゃない。素直とか、俳句を楽しむ心とか、そんなのだけで優勝されちゃ。私はさー、俳句甲子園の話と聞いて、白熱した高校生のディベートにワクワクさせられるんじゃないかなー、ってすっごい楽しみだったのよ。実際、俳句甲子園はきっとそういう場だと思うんだよね。この、そのあたりを全く練習しないで出ちゃった松尾高校にスポットを当ててるから、もう彼ら黙り込んじゃってるし全然それが伝わらないけど。それこそスポーツ並の白熱だと思うんだよね。それで勝ち抜いていくからこそ感動するんじゃないの?こんな勝ち方なんてアリかよおー。
マスオちゃんは全然授業を聞いてもらえないような、ダメダメな国語教師だったわけで、で松尾高校の統廃合の話によって、少しでもこの高校の名前を残そうと、校長(もたいまさこッ!)が俳句甲子園をこのマスオちゃんにまかすわけね。つまりこれはマスオちゃんの成長物語にもなるべき話なんだけど、彼は先生としての功績を残しているようには思えないなあ……結局、マスオちゃんを応援してくれる女性教師(高岡早紀)に対する淡い恋心だけが宙に浮いている感じでさあ。その女性教師もテキトーな作りというか。「私、ドラえもんみたいな教師になりたかったんです」という話は、何か尻切れトンボのまま終わり、しかもそれがマスオチャンがドラえもんみたいに、必要な時に何でも出してくれる教師として成長したかっていうと、そんなこともなく、なんだったんだ、あの話は?みたいなさあ……。
ツッチーはたった一人の写真部であり、写真部といいつつ彼は自分のマドンナである治子ばかりを撮っている。その写真に込められた思いをマスオちゃんは汲み取り、写真と俳句は似ていると、一瞬の中に封じ込める思いだから、ということを言い、ツッチーが皆に頑なに見せなかった、書き溜められた俳句には確かにその片鱗は見られるんだけど、でもそれも一句が紹介されるだけだし、彼の才能の可能性という展開はそこでストップしてしまって、これもまた尻切れトンボで。俳句なんかどーでもいい、治子が一緒にいるから、というツッチーがそれこそ大変貌して素晴らしい句を次々に量産するとか、そんなドラマチックな展開があったら良かったのになあ、などとも思ったり。
つまりは誰一人として明らかに成長した、っていう跡が見られないんだよね。これって青春ドラマとして致命的なんじゃないの。楽しく過ごして、ちょっと緊張して、上手くいっちゃって終わった、なあんてさ。言いすぎかなあ?でもホントに俳句甲子園に青春の情熱を傾けている高校生が見たら、どう感じるんだろうと思っちゃうんだけどなあ、実際。
柄本明なんていう演技巧者を出してきて、物語に全く触らない上滑りなギャグ的ボケジジイであり(山岸君のおじいちゃんなのに、彼らと遭遇した時、なんらそこからの展開がないのも、何のためだったんだよー、って思っちゃう)これももったいないよなあ……。「バーバー吉野」が成功してたのは、もたいまさこという演技巧者をメインに据えていたからだったのかもしれない。そういうベテランが全部脇に置かれたら、こんなにガタガタになってしまうものなの?
海沿いの穏やかな街の雰囲気と、白くまばゆい夏の空気は地方の高校生青春ものとしていいお膳立てだったんだけどなあ……。あ、ウクレレ少女のPちゃんはちょいと可愛かったね。一人だけ設定年齢よりも思いきり若くて、ロリでフレッシュな魅力にあふれてる。ちょっと、加護ちゃんみたい。★★☆☆☆
この映画は観たかったんだよねー。どこでだったかなあ、この映画が、当時流行っていた高校生の恋人同士の心中をテーマにしたものだって聞いて、そんなことが流行っていたっていうのもかなりのオドロキだったけど、じゃあそれを納得のいく展開でどうやって見せるのかと、興味シンシンだったのだ(でも、心中が流行ってたなんて、ホントなのかしらん)。なるほど、そこで大映が効いてくるわけだよね。だって高校生同士の心中を納得いくように見せるには、そりゃあこれっくらいのウソだろっていうような状況設定と展開と、ウソだろってぐらいのテンションの演技じゃないと、おっつかないもの。正直このテンションについていって感動したり涙したりするのは相当の困難を伴なうけど(それとも当時は感動ものだったんだろうか……うーむ)、確かに納得はさせられちゃう、ううう。
このスゴいタイトルがバーンと赤字で出るにもかかわらず、キャストクレジットから冒頭への流れ込みは、明るい青春ドラマそのものの音楽と場面展開で、かなりシュールな感覚。この心中してしまう二人、由夫と洋子は最初から恋人ではなく、もう一人、仲本という、それこそ仲本工事みたいな黒ブチメガネをかけた男の子を含めた三人が幼なじみの仲良しで、中でも由夫と洋子は特に二人で行動することが多い、それでも恋人未満でさえない、気の合う友人同士なのである。という設定の青臭さ自体に、今じゃぜえったい、ありえねー、ってトコだな、と妙に感心する。だって二人、どちらかが片思い状態で駆け引きしているとかいうんでもなくて、本当に、純粋に、大切な友達として付き合っているんだもの。奇蹟のようなサワヤカさでさ。アハハハ、ウフフフ、と笑いあって、追っかけっこして、一緒にカレー食べて、授業中にメモ回して。ううう、ありえねー。この時代でも本当にありえたんだろうか……ウソだろ。
しかし、そんな明るい青春ドラマが突然暗転する。由夫の兄が父親を殺してしまったのである。それというのも、この兄は赤軍派の活動に入れ込んでいて、しかし父親は刑事であり、お互いの板ばさみで悩んで、追いつめられて、そして父親と激しい口論の末……あれは本当に勢いで、ナイフで刺してしまったのね。由夫は、いい兄貴だったんだ。早く家を出なかったのが失敗だったんだ、と兄をかばう。そうこうするうちに、今度は彼の母親が心労のため急死してしまう。本当に、あっという間に、由夫はひとりぼっちになってしまった。
この事件が起きた時点で、洋子の家庭では由夫との交際禁止令が出されるのね。父親殺しの家庭の息子と付き合うなんて、というわけ。それに洋子の家っていうのがすっごいお金持ちで……洋子はいわゆるお嬢様なわけ。で、由夫のトコはフツーの家庭。もう一人の幼なじみ、仲本も金持ち息子で、いわば由夫だけが、まあ、身分違いというヤツだったんだけど、こんな事件が起こる前は、フツーに付き合っていられた。でも、洋子の父親は近々選挙に打って出る予定で、こんなスキャンダルはイラナイわけ。「別に男の子の友達を作っちゃいけません、っていうんじゃないのよ。何も人殺しの家庭の息子と付き合うことないじゃないの。仲本さんの息子さんなら、喜んで何も言いませんよ」……うっわー、なあんて判りやすいイヤーな母親!父親もヤなヤツでさー。これは後で出てくるシーンなんだけど、由夫が意を決して洋子との付き合いを認めてもらおうと出向くと、500万の小切手切って、それで彼の頬をピシ、ピシ、と叩くわけ。財産目当ては外れたが、ここらへんが順当だろう、ええ?みたいなさ。うっわー、なあんてわっかりやすいヤな父親ッ!悔し涙を浮かべてビリビリに小切手を破る篠田三郎ッ!こんな思いっきりの男の子の泣き顔、初めて見たかも……。
おおっと、すっごいいきなり場面が飛んじゃった。そんなシーンに至るまではまだまだあるんですよ、いろんなことが。だってまだ二人は全然、恋人じゃない。というより、ひょっとしたら、心中直前まで恋人じゃないと言えるのかもしれない。もうねー、思いっきりマジメなんだもん。
両親が死んじゃって、兄の裁判費用を稼ぐためにと、高校を辞めて、両親の故郷に帰る由夫を、洋子が追ってくる。黙って行くなんて、水臭いじゃないの、私たち、友達でしょ!と。うー、友達だよ、友達!こおんなミニのスカートはいて来くさってからに。いや、でもさあ、洋子、いやさ関根恵子ってば、もう全編、こりゃヤリすぎだろ!ってぐらいの超絶ミニスカートでさあ、かなりの鼻血ものだよお。いやー、まさに70年代のハヤリなんだろうとは思うけど、それにしてもスゴい。ミニもミニ、ミニすぎ。いや、今と違ってね、制服のセーラー服姿の時はマジメに膝丈なのよ。それこそ今じゃありえないんだろーなーという。でも、私服になるといきなり悩殺状態ッ!フツーに家にいるときから、白のニットのワンピースはものすごいミニで、しかもニットなもんだから、で白なもんだから、かなりバストも生々しく強調されて、ソファに座ってるだけで、その胸と中が見えそな太ももがヤバすぎるよ、恵子さんッ!彼女はそのミニファッション、いつもカワイイんだよね。この、由夫の列車に駆けつける場面の、襟と袖口の折り返しが白いボアになってる茶色いハーフコートもすっごくカワイイ。さすが、お嬢様。いやそれだけじゃなく、着こなしもいいんだろうな。この時代だから、そんな化粧してるわけでもなく、髪だって真っ黒だけど、今の女の子より、ずっとカワイイし、洗練されている感じがする。
またしてもものっすごく話題が脱線しましたけど……でね、この見送りのはずだったシーンで、二人、これはお互いの気持ちを確認したという場面なんだろうなあ。いよいよ列車が出る、というベルが鳴って、お互いの顔の、特に洋子の方の、せっぱつまった表情、ものすっごいドアップで、二人の顔が、発車のベルの音に重ね合わせて、切り返しされて……さっきはこんなテンションついていけないよー、とか書いちゃったけど、この場面にはついつい引き込まれちゃって、だって、二人の、特に関根恵子の表情がバツグンなんだもんなあ。乗れ!乗れ!乗っちゃえ!と、乗るに決まってると判っていつつも、もうドキドキで心の中でせっついちゃう。……私、結構ハマってんじゃない。
ドアが閉まる直前に乗り込んじゃって、彼の腕の中に飛び込む、彼女の漆黒の髪が揺れるのがドアの窓から見えるのが良かったなあ。で、どうしても帰らない、という彼女に根負けする形で(帰らせようとする彼に頑迷に反抗する彼女、その、鼻にかかったイヤイヤ、イジワル、などと言う声が……んんー、何かちょっとエッチでいいわあ)、それに彼も本当は彼女に帰ってほしくなかったから、君が好きだ!と告白して(でもこの時のノリも、友達としての気分がひきずられているような感じだけど)それに応えて彼女も、私も丘ちゃん大好き!と(……ね?やっぱりそんな感じでしょ)、で、二人は働きながら、一緒に生活することにするのね。でも、何もしない。尊属殺人犯の弟と家出娘というレッテルが取れるまでは、兄妹でいようと決めるわけ。……まあ、こんなことをワザワザ言うぐらいだから、ソウイウ意味での好き同士だという自覚はあるはずなんだけど、でも、どうもまだまだポップに明るいノリなんだよね。
正直、お嬢様の洋子がアッサリキツいアルバイトや、炊事や洗濯、なによりあんな狭くて汚い一間での生活にすんなり溶け込めちゃう、というのがずいぶんと楽天的な描写ではあるんだけどさ。それはまあ、それだけ大好きな由夫との生活が楽しいということなんだろうけれど……。もう、ほっんとに、楽しそうだもんね。兄妹とか言いながら、思いっきり新婚夫婦のラブラブっぷり、いや、やっぱり、無邪気な兄妹の雰囲気かな。そう、ここまでは、状況的には結構スゴいことになっていながらも、二人がこんな調子だから、あんまりその深刻さが実感できなくて、明るい青春ドラマの趣のままであって。
でも、この直後からカラーが一変する。本当に、いきなりガラッと変わる。さっきまでのラブラブポップなサワヤカさはどこいっちゃったんだってぐらい。洋子の捜索願いが出されていて、由夫は彼女を誘拐したとして拘束され、洋子はあのタイクツなゴーカな家へ、連れ戻されてしまう。まー、改めて見ると、本当に冗談みたいに裕福な家。あんな下宿に住んでいられたのが不思議なぐらい。真っ白なグランドピアノとアプライトピアノが一つずつ、電話は部屋ごとにあって切り替え式(この時代でよ)、三面鏡の鏡台。時間つぶしに刺繍なんてやってるあたりが、まっことお嬢様だわよね……でも、思いっきりつまんなそうなの。由夫がいなければ、どんなに不自由ない生活でも、彼女にとっては、意味がないわけ。
あー、なるほど。だから、こういうお嬢様だって設定が効くわけなのね。こんなにゴーカな生活を与えられていても、好きな人とビンボーな生活の方がいいんだ、っていう……。富豪らしく、パーティーの場面なんかも出てくるのよ。白いチャイナドレスに身を包んだ彼女は、まさに深窓令嬢そのもの。仲本君と踊るダンスはあれはでも……ちょっとゴーゴーかい?(笑)顔には出さないものの、彼女は由夫に会えるチャンスをずっと待っていた。それは由夫の兄の裁判の日……。
で、先述のように、由夫は正々堂々と洋子の両親に二人を認めてもらおうとぶつかるんだけど、認めてもらえるわけもなく、またしても二人は引き裂かれる。洋子は仲本君のドライブの誘いに応じた……のは、閉じ込められている家から外に出れば、由夫に会えると思ったから。でもこの仲本君ってのが、三人で友達だったのに、彼もまた金持ちの毒牙に染まってるヤツで、まあ、もともと洋子にホレていたんだろうけど、この機に乗じて、彼女をモノに出来る、と思うんだよね。でも、彼女の拒否にあって、嫉妬とプライドに狂った彼は猛スピードで車を走らせながら、彼女を襲おうと……間一髪車から逃げ出した彼女、そして仲本君はハンドル操作を誤まって、崖から車ごとまっさかさま……炎上し、焼死してしまった。
警察から追われる身となった洋子は、由夫の勤める工事現場の宿舎に姿を現わす。私は由夫さんの(もう丘ちゃんとは呼んでいないのね)お兄さんと同じ、人殺しよ!と取り乱して。もう、正気じゃないの、完全に、イッちゃってる。由夫、何度洋子に往復ビンタをくらわしたことか(くらわしすぎだよ……)。由夫さんに会いたかった、だからドライブに応じたんだと洋子は繰り返す。ヒー、ヒー、と息を吸い込みながら、泣きながら、取り乱しまくってる関根恵子、かなりスゴすぎ……。
自首する、という彼女を由夫は強固に止める。神様はヒドい。僕から愛するものを次々に取り上げた。最後には洋子までも、と。絶対に、君を放さない。そう由夫は言って、洋子を抱きしめ、彼女はすがりつき、キスを交わす……いやー、あの前半の、カマトトじゃねーかと思うぐらいのオトモダチな雰囲気はどこいっちゃったのよ。もー、大映そのものに、濃すぎるじゃないのッ。で、彼は言うのね……彼女を抱きしめながら、耳元で、一緒に死のう、と。彼女は泣き続けてる。泣き続けてるけど、彼のその言葉に、抱擁で応える。それはイエスに他ならなかった。
心中、っていうことは、しかもそれが無理心中じゃない心中ってことは、どちらかがそれを言い出して、言われた相手がそれに同調して、納得しなきゃいけないわけでしょ。それにはここまで追いつめられなきゃいけないわけ。二人はお互いに離れたくないわけ。で、この状況ではもう、そのためには一緒に死ぬしかないわけなんだよね。
二人は列車に乗り込む。一緒に過ごした思い出の信州へ。あっと、その前に、彼らが初めて結ばれるシーンが、ちゃんと用意されているのにはちょっとビックリしたよー。だって、一応純愛、と打っているからさ……ま、でも、一緒に死のうと決めた時点では、ヤッてなかったわけだけど、死のうと決めて、じゃあヤっておくか、ってのもアレな気がするんだけどね……(私も下劣な言い方だなー)でもその、“儀式”な場面は、まさに儀式、なんとまあ、ドライアイスの中で繰り広げられるんである!どっ、どらいあいすかよー。見せないようにとの配慮もあるんだろうけど、この“儀式”もかなりスゴいな……撮影、さぞかし寒かっただろうに。
まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく二人は信州に旅立つわけ。神社ではお宮参りの赤ちゃんを連れた若い夫婦に行き会う。小さな靴下に、可愛いわねえ、と洋子は言い、由夫も笑顔でそれに応える。とてもこれから心中しようって二人には見えないんだけど……。
雪山に分け入っても、二人には悲哀の影は見られない。つないだ手を指を交差させるお祈りつなぎに握りなおすところにはちょっとドキッとしたけれど、雪のかけあいっこをしてはしゃぐ二人は(関根恵子、ぱんつ丸見え……雪山でこのミニスカートは寒かろう……)、あの、友人同士だった仲良しの頃そのままである。でもそれは、その楽しく、幸福だった頃を、死ぬ前の今、精一杯思い出しておこうということなのかもしれない。持ってもいないカメラでお互いを映しあいっこする。笑って、と言う彼に、彼女は涙をこらえきれず、なかなか笑顔を作れない。「本当は、あなただけは生きて、と言うべきだった」そう泣きながら言う彼女に、ちょっと、もらい泣きしそうになる……だって、この、“なかなか笑顔を作れない”でも、口の端を懸命にあげようとしながら涙が流れてくるのを止めようもない彼女の表情は、ホンモノだったもんなあ。ふとその口の端をあげるのを諦めるその表情は、カワイイが基本だった彼女が、ちょっと怖いぐらいに見えたもの。
死ぬ場面はね、描かれないの。雪原の中をひたすら分け入って、分け入って、歩いていく彼らが小さくなってゆく、そこで“完”なのね。最後は決して、暗くない。「もう、離れることはないのね」そう笑顔で二人は顔を見合わせ、しっかりと手を握り合って、ズボズボと深い雪の中を歩いてゆく。死ぬ、ということよりも、一緒に死ぬことで、もう離れることはない、ずっと一緒だ、ということに、本当に嬉しく思っているように見えるのがスゴイ。だからこのラストシーンも思ったほどにはシリアスに暗くはないのよ。
可愛くもエッチな関根恵子と、純真なアラン・ドロンとでも言いたい篠田三郎という、濃厚な二人のコラボがこの大映の世界をこれ以上なく描き出して、スバラシイの一言。★★★★☆
ところで、ユースケ・サンタマリアがカッコイイんである。この人がカッコイイなんて、意外なんである。うん、カッコイイというイメージはなかったなあ。でもこの人って、独特の面白さの裏に、なんか、どっか、知的な裏づけみたいなのが見え隠れしてて、それが今回のカッコよさに全面的に出ているんだよね。そういや、私の周りで時々、大泉さんとユースケさんが雰囲気というかイメージというかキャラというか、が似ている、という話が出ているんだけど、そこらへんは大泉さんにはないトコなんだよなあ(いや!イメージ上ではということです!決して、決して大泉さんがバカだといってるんじゃなくて!大泉さんは頭の回転の早い、才能あふれる素晴らしい人ですからッ!)、などと思ったり。彼がね、細身のスーツ姿にヘッドフォンして犯人の電話に動き回りながら受け答えするのがメチャメチャカッコいいんだよなあ。
その彼のカッコよさを大いに盛り上げているのは、「踊る……」でそのエンタテインメントの演出手腕を大きく世に知らしめた本広監督だからこそなんである。あ、その前に脚本家(あ、今回は原案だけか)の君塚さんの手腕でもある。この二人は最強のバッテリーだと思うんだけど、それは君塚さんの、ほんっと映画を(それもエンタメ系の映画を)好きでよく観ているのが、今回は劇中で犯人側から提示されるヒントとしてもふんだんに使われていて、シネフィルも降参するよなってぐらいなんだけど、でもそのエンタメ気質は、ハリウッド一辺倒でもなく、ヨーロッパ一辺倒でもなく、全てがミックスされて彼の中でひとつのカラーとして立ち上っている感じ、なのね。それを本広監督が受け取って、彼もまたハリウッドを過剰に意識するわけでもなく、ヨーロッパ的などでは決してなく、日本のエンタメやコメディが持っている大胆さやシニカルさをやりすぎの一歩手前ぐらいで絶妙にミクスチャーしてくるから、ホント最強のバッテリーなんだよなあ。ほら、最近よく、ハリウッドに対抗する!とかさ、ハリウッド並のエンタメ!だとかさ、肩肘張った結果思いっきり肩すかし、っていう大作映画がよくあるじゃない。ホント、違うんだよね、彼らのバッテリーだと。まず、自分たちの世界であって、そんな外のカラーなんて関係なく、自信に満ち溢れている。だからこそ、こんな唯一絶対の面白い映画が出来上がっちゃうんだよなあ!
んでね、何か脱線するなあ。ユースケ氏がなんでここまでカッコよくなっちゃうかって話をしてたんだっけ。これは基本密室劇。東京の地下鉄の全ての運行に指令を出す巨大な総合司令室がほぼメインの舞台なのね。だから結構動きが停滞しちゃう危険性があるんだけど、その中で彼をふんだんに動き回らせ、しかも贅沢なほどにカットを割って(踊るチームに長まわしなんて陳腐な手法は必要ないのだッ)しかもしかもうるさいほどの音量で心臓に迫りまくるカッチョイイ音楽をたたみかけるもんだから、そりゃ、ただ地下鉄に指令出して、犯人と電話で交渉してるだけといえばそれだけなのに、まるで激しいスポーツでもしているようなトンでもない躍動感なんだもん。その躍動感を、細身で知的で冷静に犯人と駆け引きを繰り返すユースケ氏のその落ち着きのギャップで、またワクワクさせちゃうんだよなあ!
犯人は東京中にクモの巣のように張り巡らされた地下鉄内を、乗っ取ったフリーゲージトレイン(搭載コンピューターの制御システムで、車輪の幅を変えてレール幅の違う線路にも乗り入れられる)を爆走させて、激突や爆発の危機を生じさせている。で、この犯人が交渉相手に指名してきたのがユースケ演じる警視庁初の交渉人、真下正義だったわけ。つまり、犯人にとって身代金とかいう、そんな物質的な目的はない。真下正義がレインボーブリッジでの事件で交渉人として全面に出てきたことで、彼を敵対視……というわけではないな、興味津々というか、この人となら面白いゲームが出来るんじゃないか、みたいな感じかな……この犯人の正確な動機が最後まで判らない(それどころか、正体も最後まで判らない!)ところがまたブキミなんだけど、そんな理由でこの稀有なる犯罪を繰り出してきたから、最初こそ、地下鉄司令部の、特にそこの片岡総合指令長(國村隼)は「巻き込まれた」と不快感をあらわにするのね。ま、もともと彼はプロ意識がものすごくて、この突然起きた地下鉄でのハプニングも、最初は自分たちで解決しようとしていた(何たって危機の原因となっているのっとられたフリーゲージトレインは、彼らの所有する、いわば自分たちに全てが判っているものなんだから)から、警視庁から派遣されてきた、真下率いる交渉課準備室チームを拒絶する。だってしかも、まだ“準備室”だからそのチームも5人しかいなくて、俺たちをバカにしてるのかッ!と彼が思うのもムリないわけ。
その気まずい雰囲気の間にうまーく入り込んでくるのが、いっかにも人当たりの良さそうな(しかしタイミングを時々ハズして更に気まずくしたりもするけど(笑))、TTR(っつーのは、劇中の地下鉄会社の名称。ほぼ現実にある東京の地下鉄路線を踏襲してるんだけど、その線の名前は全部違うわけ)広報主任の矢野君である。演じるアリキリの石井氏が絶妙すぎて可笑しい。渋面一点張りの片岡指令長の冗談に笑うか笑わないかのタイミングを彼一人逸しちゃって「……すみませんー!!」と固まっちゃうトコとかさあ。今までは真下さんはワキ役で、彼こそがそういう、空気を柔らかくするキャラを担っていたんだと思うんだけど、彼が主人公になっちゃったから、そういう役を別に振るキャラが必要で、それをもう全面に石井氏が担ってる。
で、更に。意外にイイのがこの準備室チームの一員で、CICルーム係長という肩書きの小池役、小泉孝太郎君なんである。彼も「レインボー……」からの参加人員かあ……うー、やっぱり観とけば良かったなあ、再三……。彼はね、あんな細面な風貌をしていながら、したたかさがチラ見えしているところがあって、今まではその人畜無害な印象にそれが隠れている印象だったんだけど、ここでの、金縁キラリのメガネ姿である彼には、そのチラ見えがじわり、じわりと押し出されていて、イイんだよね。まあ別に彼が何か陰謀を画策しているとかそんなんじゃなくて、あくまで優秀なスタッフとして真下の交渉を支える情報収集に当たっているだけなんだけど、少ない動きの中で彼のそういう雰囲気が感じられるというのはなかなかヨイのだ。
真下はねー、なんたってこの日はクリスマスイブなもんだから、雪乃さんとデートの約束をしているわけ。あ、指輪なんか用意しちゃって!もうキメるつもりバリバリなのが良く判る。そのデートの場所は雪乃さん指定なんだけど、彼女から渡されたチケットを見ないでおいて、と言われているんで、彼はまあ、映画かなんかだろうぐらいに思っているんだけど、それはクラシックコンサートだったんだよね。
で、なぜか、このなぜかって部分がホントコワいんだけど、犯人は知ってるの、このデート場所も、座席番号さえ!
犯人はフリーゲージトレインをメチャクチャに爆走させて衝突の危険を何度もギリギリでかわしてる。あ、それがね、地下鉄線路の電光掲示板?みたいなやつに、走っている通常の列車と、迫りくるフリーゲージトレインが違う色でピッコ、ピッコと表示されて、もうそれだけですっごい緊迫感なんだ!まあ、そりゃあ実際に電車が走るシーンも出てくる。それも凄い迫力なんだけど、ある程度特撮であるというのを見抜かれない程度にカットを割っているから、緊迫感に関しては、この電光掲示板のピッコ、ピッコに全てを任せている印象でさ、この大胆不敵さったら!いや、実際もうこれだけでドキドキすんのよ、上手いんだよなあ、このあたり。
で、このフリーゲージトレインに爆発物を搭載しているか否かで(犯人は遠隔操作で走らせているから、その可能性は大アリなの)その情報を引き出そうと真下は犯人からの電話での交渉に全てをかけてる。でも、それが引き出せないうちに、SWATが要請されちゃったりして、もし搭載されていたら彼らに危険が降りかかる!なんていうギリギリの場面もふんだんに用意されていてもー、もー、ドッキドキなんである。あ、そうそう、正確に言うと司令室だけの話じゃなくて、この間、寺島進扮するヤクザみたいに強引な木島刑事が、真下の交渉の行方を無線で把握しながら、クリスマスイブの夜を、ベタベタするカップルに悪態つきながら、走り回ってる。彼がまた、イイわけ。ホントヤクザみたいな物言いと風貌でさあ、あらゆる場所で不審人物に見られて止めまくられちゃってさあ(笑)、その傍若無人な電話での応対がこの総合司令室にも響き渡って、そこのスタッフたち、このヤクザな男は何なんだ、みたいな顔をしているんだけど、彼が実は単純なところが愛すべき人物だっていうのが段々と判ってくるんだよね。準備室チームの中にも、この木島さんと酒呑みたいっていうスタッフもいて、「……呑みたいかあ?」なんて周りからツッコまれるんだけど、いや、呑みたいでしょう!(実際、全てが解決してラストクレジットでこのチームと木島さんがゴキゲンで酒を呑んでる写真が出てくるあたりが好きッ!)
あーっと、何か大幅に話が脱線しちゃったわ。だから、犯人はなぜか、真下と雪乃さんのデートのことも、その場所も、座席番号まで知ってるわけッ!その場所というのは、だから、オーケストラのコンサート会場で、偶然にも(これだけ面白いから、これぐらいのご都合主義は許すッ!)片岡指令長がお母さんと一緒に行く(笑。笑っていいんだぞと言われてただ一人笑ってしまった矢野君が「……すみませんー!!」と言ったあの場面ね)はずだったコンサートだったわけ。このお母さんと雪乃さんが二人待ちぼうけを食わされてて、ちょっとした会話を交わすとこなんかなかなか粋である。で、片岡指令長は、犯人からのヒントに「ボレロ」があったことで、彼は勿論そのコンサートの内容を知っていたから、判っちゃうんである。
いやー、こっからのクライマックスだよ!だってボレロだもん、あの、じりじりと、じわじわと緊張感が増してくるあの曲だよ。シモダカゲキじゃないんだよ!同じフレーズが何度も繰り返される、その間に楽器が次々に足されていく、どんどんボリュームが増してくる。それまでもうるさいぐらいのたたみかける音楽が臨場感を盛り上げていたけれど、その延長線上にあるこれは、これはもう……ああー、すっごいドキドキするッ!西村雅彦演じる指揮者によってタクトがふられ、犯人が指定した時間はこのコンサートで演奏される、メインであり最後の曲である16分間のボレロの終了時間。コンサート会場中に爆弾が仕掛けられている、その解除に処理班が向かう。爆発物処理班班長に扮する松重さんがイイのよー。犯人はここまでに、あらゆる映画のタイトルをヒントとしてぶつけてくるんだけど、その中に「ジャガーノート」という爆発物処理の映画があって、それをこの処理班班長は、恐らく劇中の人物の中でただ一人観ていて、ただ一人、それにとっても思い入れがある人物と思われる。その映画を脳裏に思い浮かべながら、あの映画では赤か青の線を切るんだった……などと言いつつ、目の前の爆発物には七本もの線が!「めちゃくちゃレベル高いじゃねえかよ!」(笑)
でね、でねッ!もうこういうアイディアとかどこで思いつくんだろ!犯人はね、何だっけ、33.6とか、あ、末尾違ったかもしれないけど、何かそんなよーなナゾの数字をね、ヒントとしてぶつけてくるのね。周波数かなんかじゃないかと真下は言うんだけどそれに対して犯人は、「間違ってるけどいい線いってる」と言ったきり、電話を切ってしまう。そのナゾを解いたのがかの小池係長。それはボレロでの小節数。最後のシンバルが鳴る部分。つまり、そのシンバルの音の周波数を爆発物の起爆スイッチにしたわけ。直接周波数じゃないけど、それも連動してくるから、「いい線いってる」んだったわけ!
最後のシンバルー!でも最初からシンバルをおろしちゃったら、それを監視している犯人は手動で爆発させかねない。その前に、遠隔操作で起爆装置があるはずのフリーゲージトレインをまず見つけなきゃいけない。これがね、行方不明なのよ。どこに行ったか判らなくなる。というのも、地下鉄内には脇線と呼ばれる、緊急時に政治家を避難させるために作られた極秘の線路があるから(こういう説ってよく聞くよねー。ホントにあるのかなあ)、恐らくここに入り込んだんじゃないかと推測されるんだけど……あーそうだ、この脇線の存在を認めるまでにもかなりの紆余曲折があってさー、ま、まずあの広報の矢野君が地下鉄グッズにマニア心を陥落させられてバラしちゃうんだけど、指令長が認めるまでにはかなり時間がかかるわけ。でもそこに、地下鉄業界の怪物、線引き屋と呼ばれる、こういうコンラン時に緊急のダイヤを次々と書く御大がいて、彼は途中からの登場なのにすぐに真下を信頼しうる男、と見て取って、全ての脇線を描いてくれるんだよね。
でも、その脇線をしらみつぶしに探しても、フリーゲージトレインは見つからない。犯人からのヒントで、ようやく池袋→新宿間の新線の路線にいるんじゃないかと推測するんだけど、確実にして向かわないと、もう10分あまりしか時間がないわけ!で、真下は犯人にカマをかけるけど、何度も交わされ、もう……このスリルったらないの。で、真下「でも残念だったな。今日はクリスマス休暇で工事は休みだ。新線には入れないぞ」と……そしたら犯人うろたえて「そんなはずはない。日本にそんな休暇があるか。ちゃんと調べてるんだ」やったー!ひっかかりやがったー!確実にフリーゲージトレインは新線にいる!SWATが突入して、見事起爆装置を破壊させる。あとはギリギリのタイミングでシンバルをハズすだけ!
で、ここに一番の見せ場を発揮するのが、寒い中外回りをしていた木島刑事であり。彼が後ろから忍び込んで、あわやシンバルが鳴らされるっ!って時に、奏者の両腕をガッ!とばかりにつかんで引きずりおろす場面の痛快さときたら、もう忘れられないよ。可笑しいやらカッコいいやら、いや、カッコいいんだな!
でも結局犯人が何者だったのか……現場に駆けつけた(恋人を救いにね!)真下が、犯人の乗っていると思しき宅配便の車を発見するんだけど、追いかける彼からするり、するりと逃げるように、でも追うのを誘うようにスピードを上げたり落としたり。そしてあげくに……自爆、しちゃうわけ。真下はその爆発を見つめて立ち尽くす。その表情はアゼンとしているというよりは、こうなるのを予測していたようにも感じられ……犯人はいったん、めぼしはついてたんだよね。数年前、一度警察にイタ電をかけてきた男と声紋が一致していた。でもその男は、そのことで厳重注意を受けた一週間後に交通事故で死んでしまっていた人物。ファンタジーみたいな話だけど、結局そんなラストで、それは日本的な、生身の人間を追い詰めることをしないようにも、あるいはやはり日本的な、ちょっとオカルティックな余韻を持たせたようにも思えて。
ラストはねー、真下ってば雪乃さんに決死の(というか唐突の!)プロポーズをするも、指輪のつもりで差し出したのはなぜか彼女の写真で(笑)、違った、間違った!と指輪を取り出したら、あの木島がどーん!と体当たりしてきて、指輪、跳ね飛ばされちゃう!そこらを歩いている人に、動かないでー!と絶叫し、皆でコンタクトをさがすがごとくに指輪捜索……でジ・エンド。ま、その結末はタイトルクレジットにてスライドショーのように示されるという粋な趣向。これってさ、公開は風薫る五月なのに、舞台は撮影の時のまんまのクリスマスで、季節感全然ないんだけど、ドラマティックとロマンティックとコミカルがごちゃまぜの、踊るらしいラストをしめくくるにふさわしい季節だから、もう全然気になんない。カンヌのマーケットで売るって?絶対売れるって!っていうか、いっそハリウッドに持ってけー!
まあね、正直あまりにもタイミングがドンピシャで、この間のあまりに凄惨な列車脱線事故を思わずにはいられなかったんだけど、でもそこは踊るレジェンドの底力、観客をドキドキ、ワクワク、ニコニコでねじ伏せちゃうんだもの、やっぱ、スゴイよ。★★★★★
しかし今回はテーマ的に突き詰めればなかなかにシリアスな物語なんである。「前向健忘症」。何年か前、テレビのドキュメンタリーで見た覚えがあるんだよね。事故かなんかで頭に損傷を受けて、それまでの記憶はちゃんとあるんだけど、それ以降の新しい記憶を蓄積できないという病気。で、そのドキュメンタリーではもっと短い間隔、何時間、とかでそれが失われてしまうから、本作の24時間よりずっとずっと深刻で、その症状のダンナさんを抱える奥さんは本当に涙が出るような努力で、彼を支え続けていた。
記憶の障害というのは確かに映画向きでドラマティックで、でも現実にある症状だからこそヘタに取り扱うと各方面からやいやい言われる危険性がいっぱいあるんだけど、本作はそれをギリギリのところで回避している。24時間、寝て起きてしまうと昨日のことを忘れてしまっているという設定を、ロマコメとして上手に使いながら、そんなヒロインを愛していく男性は徐々に徐々に、その症状を「毎日生まれ変わる」という前向きな方向にしてしまい、ラストにはかなり大感動してしまうのだ。
そりゃあ、当たり前ながらヒロインはそんな軌道修正がなされたことなんて覚えてないはず、なんだけど、それも映画マジックというか、映画的希望的観測というか……本当はそんなに楽天的なことじゃないんだけど、そう、つまり、記憶は脳がつかさどってるけど、人間は心や、あるいは体全体で思い出というものを蓄積しているんだ、なんてそんなものすごくロマンティックなことを、映画だからこそ言える、という……それもやっぱり1日しか記憶が持たない、あるいは、一日記憶が持つ、というラインがギリギリだからこそ出来るんだと思う。
彼女のそんな症状と比する形で、10秒で記憶が失われてしまう「10秒トム」という青年が出てきて、そう、もうこうなってしまうとそんな努力がきかない世界になってしまい、彼がちょっと、ギャグ的存在にされてしまっているのはちょっとツラいものの……彼女との対比としては確かに上手いんだよね。
ルーシーと出会った時、ヘンリーは彼女がそんな症状におかされているなんて、知らなかった。ヘンリーは水族館の飼育員。ここハワイで旅先での行きずりの恋を求める女性観光客の欲望を満たしてやったりしてて、まあつまりは、彼にとってせつなの恋だけで充分だったのだ。ルーシーと出会い、話してみるとこれがまたイイ感じで、お互いに惹かれ、次の日また会う約束をするのに、翌日彼女はなぜか話し掛ける彼にうさんくさげな顔を向けるもんだから、ヘンリーは「やっぱり地元の子はイヤだ」とヘコんだりするんだけど、そのカフェの店員に聞かされるのだ。彼女が一年前事故にあい、記憶が一日しかもたないことを。
彼女は毎日事故の日の日曜日だと思ってて、日曜日の朝の習慣であるカフェでの朝食にこうして来ていて、毎日ワッフルを食べる。
彼女の家族(父親と弟)は、特別に取り寄せたその日の新聞を毎朝玄関口に置き、その日放送していたフットボールの試合を毎日ビデオで流し、毎日父親の誕生日だといってケーキを食べるのだ。
ルーシーの家族にとっては、それこそが彼女にとってベストだと思ってやってきた。それしかない、と。一日しか記憶のもたない娘を傷つけるな、とヘンリーを遠ざけた。もう二度とカフェにくるな、と。しかしヘンリーは彼女のことがどうにも諦めきれず、カフェに行かなきゃいいんだろう、と彼女がカフェから家に戻る道に毎日待ち構えて、毎日彼女と初対面の挨拶をする。
「ヘンリーだ」
「ルーシーよ。はじめまして」
これを、毎日繰り返す。
しかもヘンリー、いやさこれがアダム・サンドラーだからさ、出会うシチュエイションを毎日変えてくる、それがまたもう……おっかしくてさ。エンストしたといっては止め、道路工事だといっては止め、友達に頼んで暴漢に襲われているのを演出した時は、ルーシーが思わず知らず強くて、彼女ったらその友達を追いかけ回し、鉄棒で背中をグワングワンと殴りまくる!慌てたヘンリーが「もういいよ!」とこっち側で言っているのを聞かず、画面のとおーくの方で小さくなりながら彼女に殴られている親友が悲鳴をあげているのが、もう可笑しくて。
このあたりは、さすがチャリエンであるドリュー・バリモアの真骨頂でさあ、戦いが実に堂に入ってるのよね。
次の日は、これがまた爆笑モノで、ヘンリーったら、自分で両手両足を縛って、物盗りに襲われたことを演出してて、しかしルーシーの車ではない車がきたから、慌てて横を向き、大丈夫、気にせず行って、なんて言うあたりがもう吹き出しちゃうんだけど、その車は彼女の父親と弟のものだったのだ。
つまり、ヘンリーのそうした行為もバレバレだったわけ。
でも二人、ちょっと様子が違った。怒っている……のとはちょっと違った。ヘンリーを家まで連れていって、いつものようにガレージに絵を描いているルーシーを見せる。彼女はかなり調子っぱずれなビーチボーイズをしかしゴキゲンで歌っている。「君と会った時は、いつも歌っているんだ」
でね、その歌はね、お父さんの思い出の曲でもあったんだって。
そしてある朝、ルーシーは、ついに知ってしまうのだ。今日があの日曜日ではないこと、自分が記憶障害だということ。パニクりながらも、彼女は気丈に、自分の病気のことを知りたい、と主治医の元に行く。父親と弟、ヘンリーも連れ添って。「何度も聞いた」というその病気の話も当然彼女にとって全てが初めてのこと。
ヘンリーは、父親から恋人だと紹介される。「まだセックスはしていない……したいけど」父親からスゴい顔をして睨まれるヘンリー。
でもね、この時点でヘンリーは認められたとも言えるわけでさ。
ヘンリーは、ビデオを用意してくる。ルーシーを知る、そして心配している多くの人々を画面に登場させて、そして事故の新聞記事を映して。ルーシーが、この間みたいにウッカリ知ってしまったときに父親は事故の記事や入院している彼女の写真を貼ったスクラップブックを見せていたんだけど、そんなその場逃れみたいなんじゃなくて、一日の最初にそれを知って、哀しんでも、そこからの一日を新しい人生として前向きに生きることが出来るように、と。
そうなのよね。これって表向きは、恋人(の座にいつのまにかなってるけど(笑))のヘンリーに、毎日初めて会って、恋に落ちて、一日の終わりには彼を愛するようになっている、という、ラブストーリーに主眼が置かれているんだけど、もっと大きく、深い意味で、一日一日を新しい人生として迎えることこそに大きなテーマがあるんだよね。
そしてそれは、記憶障害を持っているわけではない私たちにとっても同様の意味をもつわけで。
ルーシーの父親と弟は、自分たちの人生と同じように、毎日が、変わり映えのしない、あの日と同じ一日を彼女にも過ごさせていた。それもまた彼らの愛情には他ならなかったんだけど、ルーシーを一人の女性として愛するようになったヘンリーだからこそ、このことに思いつくことが出来たわけで。
彼女に毎日新しい一日を過ごさせることは、図らずも周りの彼らにとっても毎日新しい一日を過ごすことになる。
毎日昨日のことを忘れて、ヘンリーと新しく出会うルーシーだけど、彼に恋に落ちるスピードが徐々に早くなっていくんだよね。最初はキスすることさえ出来なかったのに、次第にそれも出来るようになり、「最初のキスって最高ね」という台詞をルーシーは毎日繰り返し、ヘンリーは苦笑気味に「何度も聞いたよ」と言うようになり、ルーシーもまたそれに答えて「そうよね」と笑う余裕さえもつようになる。そして、「さすがに欲求不満だよ」と言うヘンリーに、そりゃそうよね、みたいな形で、ついには一日の終わりにセックスまでも許してしまうようになる。
そりゃ、確かにヘンなんだけどね。ルーシーにとってヘンリーはいつだってその日初めて会った人なだから……でも、観てるこっちにとっては二人の毎日は確実に蓄積されているからそれをヘンとも思わないし、やっぱり……ロマンティックな考えだけど、思い出は脳にだけ刻まれるものじゃないみたいに思わされてくるのだ。
ルーシーは毎日日記をつけている。それが彼女にとって昔からそうやってきたのか、ヘンリーと出会ってからそうするようになったのかは判らないけど、とにかく彼女の日記の中にはヘンリーとの楽しい一日、一日がギッシリなのだ。
毎朝が新しいルーシーが、その自分の日記を見て、彼への思いを次第に早く深められるようになったのは、なるほど理にかなっている。
浜辺で即興の歌をルーシーにプレゼントする場面が良かったなあ!「ウェディング・シンガー」でもそうだったけど、ミュージシャンであるアダム・サンドラーの真骨頂なんだよね。泣かせるの。「忘れっぽい君」だなんてシニカルなタイトルだけど、彼女への愛にあふれてる。
何より、この毎日恋人に改めて恋に落ちてもらう努力をする彼、というのがね、実によく出てるし。
アダム・サンドラーだから、イイんだよなあ。冒頭の、ハワイでの名うてのプレイボーイって設定はガラじゃないよな、と思ったけど、それもギャグに沈めてるしね(笑)。一日で恋をする相手として、“人なつっこくて、面白くて、気さくで、ウィットがあって、相手を笑わせるすべを心得ていて、それがチャーミングでセクシー”と評されている彼、ナルホドそのとおりで、そこまで持ってなきゃ出来ないというのもちょいとタイヘンだな……と思わなくもないけど(笑)。
でもね、ルーシー、ある日それに対して悩んじゃうわけ。ヘンリーが毎日自分に恋に落ちるように彼女を口説くことに懸命になっている。それが辛いって。愛する人だから自分の人生につき合わせるのが。それはでも一方で、彼女を口説くことに慣れてしまっている彼に対する奇妙な嫉妬も入っていたかもしれない。とにかくルーシーは、日記から彼の思い出を破って焼き捨てることを選択してしまうのね。もう会わない、と。どんなにヘンリーが説得しても聞かない。そして、彼女にとってはいつでも最初のキスだったけど、でも本当に最後のキスだ、と雨の中彼に泣きながら抱きついて、そして……次の日、いつものように彼を忘れ、そしてその後、家族に迷惑をかけたくない、と病院での生活を選択したのだ。
周りの人間にとっては、彼女の一日一日が積み重ね。愛だって思い出だって深くなる。それを毎日毎日、彼らは彼女に一日で還元する。つまり彼女の一日は毎日毎日深くなってゆく。
毎日初対面の彼に、ちゃんと恋に落ちるのも、そういう描写を積み重ねるから、何か納得させられちゃう。つまり彼女が、それまでの覚えていない記憶を、体の中に持っているように感じているんじゃないかっていう……欲求不満だよ、なんていう彼の言葉に、そうよね、と言いつつ、自分もそんな気になっているっていうのが、ムリがない。
もちろんそれは、観客である立場だからなのかもしれないけど……。
いつだって新しい一日の彼女が、彼や家族に悪いと、迷惑をかけたくないと思うようになったのがその証拠。
意気消沈したヘンリーが、かねてからの夢だったアラスカへの研究旅行に旅立つ準備をしていると、ルーシーの父親と弟がやってくる。そして父親は彼にCDを手渡すのね。ビーチボーイズの。
ヘンリーは、彼女との思い出の曲を手渡すなんてイジワルだ、とその曲を泣きながら聴くんだけど(ごめん、ちょっと笑える)、なぜこのCDを持ってきたのか、とふと考えるのだ。で、思い出すの。「あんたと会った時にはかならずこの歌を歌うんだ」と言っていたことを。
それをヘンリーは、自分のことを覚えているんだ!と解して、船をぐるりとユーターンさせるのね。なんでそう思ったのかよく判らんが……とにかく彼女のいる病院に一目散。
そこで患者さんたちに絵を教えているルーシーは、当然ながらヘンリーのことを覚えていない、んだけど、ガッカリするヘンリーに、「見せたいものがある」と連れて行ったのが、彼女のアトリエ。ああ、彼の、彼の顔を描いた絵が、所狭しと貼ってあるの!
あの時、ヘンリーとの別れを告げた時、彼の思い出を全部捨てて、だから彼の顔など知っているはずもないのに、なのに、彼女にとって初対面であるはずの彼の顔がいっぱいなの!
ルーシーは、「毎日あなたの夢を見る」んだという。毎日、というのは彼女にとってはいつも初めてのことのはずなんだけど、きっといつでもその夢が強烈で、その中で自分が彼を愛していることが判るから、こうして絵に描きとめて、そしてまた新しい朝を迎えた時に、どんどん蓄積されているその絵によって、毎日、であることを、実感していったんだ。
この戦法には考えたなあ!と感嘆すると同時に、かなり感動してしまう。やっと会えた、とばかりに彼と深く抱き合う彼女に。
次のシーンで目覚めた彼女が、いつものようにビデオを見て、いつものようにショックを受けて泣いて、でもその時間はかなり早くなっており、「寒いから上着を着て出ておいで」のメッセージに従がって出て行くと、そこは船上で!周りは氷の山がそびえたってて!釣りをしている父親と、ビデオで見た夫が出迎え、いやそこまではまだ想像の範囲内だけど何よりビックリするのは、小さな女の子が駆け寄ってくることなのだ!「ロス夫人、君の娘だよ」彼女はその子を抱き上げ、抱きしめながら、「信じられない!」と感激の笑顔を見せる……初めての一日の始まり、でも娘を抱き上げる様は慣れた手つきだし、何よりもう、彼らを愛していることを彼女は信じて疑っていないのだ。なんともはやドラマティック!
毎日娘に同じ一日を過ごさせていた父親、ある日鏡を見た彼女が自分がオバアチャンになっていることに気づいてしまうだろうとヘンリーが言っていた、何よりそれが危惧されることだったんだけど、年をとるということを何より喜びに変えて、年月がたつほどに、新しい一日の始まりの感動が足し算式に大きくなっていくという素晴らしさ。彼女にとっては平凡な一日などなく、それを支える彼らにとっても毎日が特別なんだ。一日一日を懸命に生きることをルーシーに教えられた。
毎日生まれ変わると言っていい。あるいは、そういう考え方にシフトチェンジしたから、ヘンリーはルーシーをこれからも生涯支え続けることが出来るんだと思う。そりゃ、彼女はその一日一日を覚えてはいないんだけど、それでも毎日感動の一日を迎えられるというのは、考えてみりゃスゴいことだもの。そしてそれを彼女は覚えていないにしても、自分の書いた日記なり、彼や家族が用意してくれたビデオなりで知るわけで、こんな哀しい病気にかかっても、自分の人生が充実していることを毎日、時を経るごとに深く、思い至るのだ。
ヘンリーが飼育しているセイウチ君の芸達者ぶりがスゴかったなー、あれってホンモノなのお?ベタなギャグをやらせすぎって感じもしたけど……同僚のゲイがまたキョーレツでね、ルーシーの弟である筋肉バカと最終的に恋に落ちちゃうのが笑える。それともこの筋肉バカはこのゲイ君に目覚めさせられたか!?
ハワイという、一年を通して気候がほとんど変わらない土地だから出来る、というのがナルホドと思ったりし、そしてこのハワイという明るい開放的な空気が、それをあまり深刻にせずに出来るのも良かった。★★★☆☆
そもそもこのメインの二人、ミムラと伊藤英明は、スターとしては中間レベルだよね。彼らをネームバリューとして客を呼ぶようなスターではない。そして二人とも造作も中間レベル、というか、ファニーフェイスと言った方がいい感じだから、共感が持てるのはそう。無邪気で、それでいながらマジメな感じが共通していて、兄妹みたいな雰囲気さえある。
あ、でもそれは重要だったかもしれない。もともと伊藤英明演じる鈴谷比呂志はミムラ演じる和美姉ちゃんを、そう、姉ちゃんと呼んで慕っていたわけだし。まあその中には初めて感じる異性への思慕も含まれていたわけだけど、和美姉ちゃんの方はヒロのことを癒される弟のように思っていたに違いないし、この兄弟のような雰囲気、というのは重要なんだ。
かつての故郷の門司に、彼らは降り立つ。駅弁フェアの担当者である鈴谷比呂志は、飛行機内で駅弁食いまくりで、そしてそのヒントを得ようと思ったのか、出張という形で、小学生の一年間を過ごした門司に着いた。でも、異変に気づく。その小さな頃、おばあちゃんの元に預けられた古い旅館は「あの頃のまま」それもそう、だってそこから20年前の自分が飛び出してきたんだもの。驚いた彼は慌てて喫茶店に飛び込み、新聞を、カレンダーを、確認しまくる。1986年。かかっている曲も当時のヒット曲「恋に落ちて」。途方にくれている彼に、声をかけてきた男がいた。男、というか男の子っていう感じだけど。同じ飛行機に乗り合わせた、仕事をしくじったチンピラ、布川である。そして後にやはり同じ飛行機に乗っていた臼井とも出会う。臼井はやはり同じ飛行機に乗っていた盲目の老女、朋恵と一緒になり、彼女が20年前死に目に会えなかった盲導犬のアンバーに再会し、突然消えてしまった話をする。「気になっていたことが解決すると、元の世界に戻れるのかな……」そう話し合ってはみるものの、どうも判然としない。
現代のお金も使えないし、ヒロはそのかつて育った旅館、子供の自分がいる鈴谷旅館に住み込みで働かせてもらうことになる。不信感あらわの子供のヒロが、「なんか、お前ムカつくんだよ」などと言うのは……この時代に、そういう感情を「ムカつく」とは絶対言わんだろう……と思い、こういうところで冷めちゃうのはヤだな、と思ったりする。ま、いいけど。そしてヒロはそこで、和美姉ちゃんとも出会うのだ……子供の頃、大好きだった姉ちゃん。バイオリンを教えてくれた姉ちゃん。でも病気で死んでしまった姉ちゃん……「和美姉ちゃんがまだ生きている」ヒロは子供のヒロが、そうかつての自分がこれからそのことに直面することを思う。
この、大人のヒロが和美姉ちゃんと初めて出会うシーンの唐突さが好き。ヒロがかつての自分の部屋で、姉ちゃんから習ったバイオリンを思い出し思い出し、ギーギーと弾いている。そこにふすまを急にストッと開けて、「……ヒロいる?」と問う和美姉ちゃん。驚いて振り向くヒロ……彼女はバイオリンの音でヒロがそこにいるものと思ったわけで、ヒロはかつての憧れの和美姉ちゃんが生きてそこにいることに驚いたわけで。
ヒロは子供のヒロに将棋での勝負を持ちかけて勝ち、彼に10カ条を課するのね。その一番は小学生のうちに逆上がりができるようになること。その他いろいろあるんだけど……最後の10カ条目だけが空白になってる。「そこはあとで教えるから」ヒロはこれから子供のヒロが直面する、今までの人生で一番辛い出来事のことを思っている。でもその時ヒロ自身も判ってなかった。子供のヒロに背中を押されて、ずっと好きだった和美姉ちゃんへの気持ちを再確認し、そして和美姉ちゃんを救うことが出来るだなんて。
伊藤英明と子供のヒロを演じる富岡涼君はなんともイイ雰囲気でね。仲良くなるのは後半なんだけど、ヒロに対して意地を張っている時点から、ヒロは彼をすごく慈しんでいる感じで、10カ条を読ませる時に、子供のヒロの背中から優しく抱くシーンなんて、あら、あららら、ちょっと伊藤英明ステキじゃないのと思ったりする。特に和美姉ちゃんが不治の病だと知って飛び出した子供のヒロを、かつての自分の記憶を辿って追いかけたヒロが、かつては逃げてしまった自分を悔いて、子供のヒロに、現実と向き合って後悔しないでほしいと、反発する彼を何度も何度も抱きしめようとしては子供のヒロがその中からもがいて逃れようとして……っていう繰り返しがね。本当に、最後まで子供のヒロは彼のウデの中に飛び込んで泣いたりしないの。泣いてはいるんだけど、どうしても認めたくないから、その腕の中から必死で逃れようとして、それがなんというか……逆に二人の親子のような絆を思わせてね。「だって仕方ないじゃないか、姉ちゃんは死ぬんだよ!」と叫ぶヒロ……。
でも、和美姉ちゃんは、手術を拒んでいるんだという。そのことは、ヒロは初めて知る。和美姉ちゃんの育ての親であるそばやの親父さんは、可能性が低くても、どんな姿になっても、私は和美に生きていてもらいたい、手術を受けてもらいたい。だけどあの子は……とせつせつとヒロに心情を吐露する。演じるキンキンがバツグンに素晴らしい。私、あまり彼を映画で観る機会がないんだけど、育ての親ではあっても本当の親以上に和美のことを心配して愛している、控えめで気弱そうな、愛すべき親父さんが、胸を打つのよ。ことにヒロが和美姉ちゃんに生へ向き直ってほしいとバイオリンを叩き割らせるなんていう荒療治を試みる時に、おろおろと見守るばかりのこの親父さんが、なあんか愛しいんだよなあ。
そしてこの親父さんがひそかに思いを寄せている、旅館を切り盛りしているヒロの祖母を演じる吉行和子がまた素晴らしいの。彼女もまた、他人の娘ではあるんだけど、和美姉ちゃんのことを真に心配して哀しんで、ヒロが和美姉ちゃんのことを慕っていることも十分に承知しているから、その厳しさの中に包み込むしかなくてさ。キンキンと吉行和子の深い演技は、この映画に滋味を与えたなあ……。
どうしてもガンコに手術を受けようとしない和美姉ちゃん。「どうして静かに死なせてくれないの……」と泣く彼女に、「あなたが好きだからです。だから生きてほしい」とヒロ。
恋愛はそれなりにしてきたけれど、彼はずっとずっと死んでしまった姉ちゃんが好きだった。この言葉を、彼は生きている時には言えなかった。そう、彼は死んでいたのだ。あの飛行機は事故に遭ったのだ。そして既に死んでしまっている彼を含む四人が、遺体が見つからないまま、思い出の地、門司の20年前にタイムスリップした。そのことに気づいたヒロは、「生きようとしない奴に、哀しんでる人間の心配する権利なんてない!」と彼女を叱責する。もう死んでしまっている彼だから言える言葉。
飛行機事故によるタイムスリップかあ。飛行機って確かに異次元に連れて行ってくれそう。そこに思いを残していたら。
子供のヒロが彼の気持ちを察して背中を押してくれるのがイイのよね。共にお風呂掃除をしながら「和美姉ちゃんのこと、好きなんでしょ」そして「僕、兄ちゃん好きだよ」と。「兄ちゃんって、呼んでくれるのか」そして小さなヒロは、和美姉ちゃんと一緒に行って来てくれ、とクラシックコンサートのチケット2枚を手渡すんである。
言葉につまったヒロ、「いつのまに大人になりやがって!」と小さなヒロをダッコしてふりまわす。
伊藤英明はホント、子供の扱いが上手いというか、子供と同じ目線で愛しそうに接するから、観ててキュンとくる。
いいパパになりそうだな。
そのクラシックコンサートにヒロは賭ける。リハーサル中に飛び込んでいって、土下座して頼み込む。「大好きな人の、命にかかわることなんです!」と。ヒロは彼女にこのコンサートでバイオリンを弾いてもらうことを画策したのだ。小さなヒロの思いを最大限生かすためにも。
突然名前を呼ばれて、ハメられた、とキッとヒロを振り返って睨む和美姉ちゃんだけど、逡巡しながらもすっと立ち上がり、渡されたバイオリンを超絶テクニックでオーケストラと共に弾きまくる場面は素晴らしい。ミムラ嬢はその思いつめたような表情といい、天才肌の弾き手をきっちりとうかがわせる。
弾き終わって、彼女、一瞬放心したようになって、会場は素晴らしい演奏に割れんばかりの拍手、ヒロのおばあちゃんも、親父さんも、涙をうかべて。でも和美姉ちゃんは舞台袖に走っていってしまう。それをヒロが追いかける。
「こんなのダメ!全然ダメ!生きたい!もっと上手くなりたい!」
後ろから、小さなヒロが見ているんだよね。ヒロと目を合わせる。静かにうなづく小さなヒロ(大人やのー)に彼もまたうなづき、姉ちゃんを抱きしめる。
これで、ヒロの思いは遂げられたんだろうなあ……。
20年後の和美姉ちゃん。不自由な足を引きずりながら、子供たちにバイオリンを教えている。四人の遺体が見つかったニュースが流れる。「あれはヒロだった」その時初めて和美姉ちゃんは知るのだ。
きっと、彼のことが好きだった。彼の必死さに勇気を奮い起こして、生きることを選択した。
でも目覚めた時には彼はもういなかったに違いないし、それ以降も生きることへの恐怖に震えた。でもそれもようやく慣れて……育ててくれた親父さんも死に、今はひとりぼっちの生活をしている。
この体のせいか、どうやら恋愛とか結婚とかとも無縁だった雰囲気であり。
静かに死のうと思っていた直前の、大人になったヒロとの出会いが彼女の最後の甘い記憶で、それを支えに生きてきたのかもしれない。
生きろと言ってくれた彼の死を、そして謎を20年後に知り、そして彼女はこれからどうやって生きていこうとまたしても途方にくれるんだけれど、でも生きていくしかないんだ。
それでも生きろ、とヒロが言ってくれたから。
このヒロと和美姉ちゃんの話がメインではあるけど、同じ飛行機に乗り合わせた、同じくタイムスリップした三人のエピソードも同時進行される。あ、賠償千恵子の話はさっさと終わっちゃったけど。
でも正直、この他の三人のエピソードはメインに集中する気持ちがそがれる気がしたんだけどさあ……。
特に、ヒロの次に尺が割かれる布川のエピソードは、ヒロのエピソードより過酷でドラマチックではあるんだけど……自分が産まれたために母親は死んだ。でもその自分はレイプされて出来た子供だったってことをこのタイムスリップで彼は知ることになり、それでもなぜ母親が産もうとしたのか知りたくて、いや、こんなクズを産んで死ぬくらいなら、産むのをやめさせたくて彼女に会うんだけど、「でも、もう動いているんです」という彼女の言葉と、お腹にあてた手に確かに感じる生命の動きに何も言えなくなる、と。
自分が動いているのを、生きたがっているのを、外の世界に出たがっているのを、その手で確認して、「あんた、強い人だよ」静かに去ってゆく彼はその後、昇天したんだろうな。
……という、こりゃー、役者としてはオイシイ役なんだけどさ。いかんせん……この勝地涼がなんでこんなに映画に起用されるのか自体がどうも理解に苦しむのよね。
はっきり言って演技ヘタだしさ……。
青臭いチンピラをやるには、まあ青臭いけど、青臭いのにいきがっている、というキャラに、彼の演技力と線の細さじゃなんとも弱いんだもん。
そしてクドカン演じる臼井なんだけど……存在が薄いと揶揄される彼のエピソードも、この中に挿入してくるにはそれこそ薄い。彼と中村勘三郎の演技合戦は興味深いけど、どうかなあ……中村勘三郎はともかく、クドカンの魅力が発揮されているとは言いがたい感じ。
臼井は実は世界的な化学者だった、ということが遺体が発見されたニュースで最後に明かされるけど、それが物語に影響を与えるということもないしねえ……。
で、臼井が引っかかっていたこと、は、花がきれいに咲いていた塀に埋められた植木鉢をかたっぱしから叩き割ってしまった中学生の時の記憶なんである。
それを片付けている中村勘三郎。「多分、臼井っていう中学生が割ったんだ」
「知ってたんですか?」
それを責めるでもなく、またここに花が咲いていたら、彼は自分のやったことを思い出して苦しむだろう、とか、そんなこと言ってたかな。
「ずっと謝ろうと思ってたんです」そう言ってクシャッと泣き顔になった臼井は、そのまま消えてしまう。持っていた鉢が取り落とされて割れる。
じんわりイイ話ではあるんだけど、他の三人に比べると、正直昇天の理由はヨワいもんだから、彼のエピソードが浮いちゃう気がするんだよね……。
それにしてもタイムパラドックス無視しまくりの話。そんなこと言うのもヤボなんだろうけど、どうしても気になっちゃう。だってこの映画が成立するためのエピソードが、そうやってかなえられると、どうしても物語自体が成立しなくなっちゃうんだもん。そう、ヒロが和美姉ちゃんを救う部分さ。だって20年後のヒロがタイムスリップして彼女の考えを変えさせて手術を受けさせ、彼女が生き延びたら、20年前にタイムスリップしたヒロが「まだ姉ちゃんが生きている」と感動することも、最後まで大好きだった彼女の思い出が20年前で止まっていることも、ましてやその彼女に生き延びてほしい、と奔走することもなかったわけでしょ。こうして書いてみるとなんだかヤヤこしいけど、タイムパラドックスのカラクリとしては一番単純な部類で。
ただ、この映画の元となっている原作では、よりSFチックに、タイムマシン的なものが登場するらしいんで……原作ではタイムパラドックスは解決されているのかもしれない。それにもうひとつ気になるのは、その原作とは物語全般からして、そして大きくラストが違うんだというのね。原作ファンは、なぜラストを変えたのかとかなり納得がいっていない様子で……気になるんだよなあ、どういうラストなのか。いや買って読めばいいんだけどさ(汗)。しかしこの映画のラストをどこだとするのかによって感慨も違うのだけど……一人不自由な身体で残されて、ヒロの死を知る和美姉ちゃん、か、それともあの天国のようなファンタジックな画の中で、20年前の和美姉ちゃんとそこにタイムスリップしてきたヒロとがハッピーエンドはこう!って感じの、キスを交わすシーンなのか。
門司の港町が印象深いロケーション。でもこれ最初、函館が舞台のはずだったんだって?函館でのが観たかったなあ。
それにしてもなんで柴咲コウがエンディングテーマ曲なんだよ……。いやどういう縁かは判るけどさ。どーにも二番煎じっぽくてヤだ。★★★☆☆
そんでもって、悪魔と天使、そして悪魔退治の話である。そうかー、そういう話だったのか。なんか、パタリロん中の の話みたいだなと思う(オタク的発言)。予告編ではそんなこと全然触れてなかったなー(私もこだわるが)。なんつーかもっと、斬新な話なのかと思った。いや別にいいんだけど。いわばキリスト教的な話。魔界(地獄や天国)が人間界とほとんど隣り合わせにある。窓だのドアだの、ちょっとしたきっかけだのでそこへ行けちゃう。ちょっとだけ、次元が違うだけ。いわゆる平行世界。それは、そのキリスト教的文化の中では新しい解釈?なのかもしれんけど(解説で“天国と地獄はこの世と共存している”ってのが新しいアプローチってワザワザ言ってたもんなー。)これって仏教文化的な思想の中にはよくあることだよね。キリスト教ではやっぱり天国は天上、地獄は地下にあるってイメージなんだろうな。仏教的な、人間と霊との関係(輪廻転生)と、キリスト教的な、人間と悪魔、天使の関係(固定形)の違いをちょっと興味深く思いながらも、この“新しい解釈”にだから違うだろーと思ってしまう。この根幹の部分を主軸としてそう思うようなところがいっぱいあって、言うほど新しさを感じない。仏教的信仰とキリスト教的信仰の生活や文化の中への取り入れ方や、あるいはアメリカと日本の歴史の長さの違いなのか、なんだろうけれど、それこそ予告編で感じたような新しさがないんだよな……(ほんっと、私もしつこいね)。
で、彼、ジョン・コンスタンティンは小さな頃から人には見えないものが見えていた。そしてそのことに苦悩して若かったある日、自殺未遂を起こした。たった二分間だけ、彼は地獄に落とされた。二分間だけだったけど、本当に、永遠のように感じられた。その時以来、彼は地獄行きを逃れるため、人間界にさまよい出る中途半端な悪魔たちを地獄へと送り返す“天国と地獄のエージェント”となる。まあ、悪魔退治屋さんである。
自殺をすると有無を言わさず地獄行きっていうのが、キリスト教の厳しさでさ、いやー、私、キリスト教徒じゃなくって良かったと思っちゃう。いや、自殺する予定はないけどさ。だって仏教的思想じゃ考えられないじゃない?というか、宗教って弱者を救済するものじゃないんだろうか……と考えるのは、仏教的文化の中で育ってきたからなんだろーなー。
でも何となく、この作中の中でも、それはいくらなんでも厳しすぎるんじゃないの、と言っているような気がする。だからこそコンスタンティンはあがき続けるんだし、アンジェラは自殺した双子の妹、イザベルを救済させようと奔走するんだし。実際、苦しみぬいて自殺した人を地獄に落とすなんて、宗教としては慈悲がなさすぎるよなー。
コンスタンティンはなかなか天国行きのきっぷをもらえない。それは彼に神への信仰が足りないからだという。自分が救済されるための打算で悪魔退治を行なっているんだと、ガブリエルは言う。ガブリエル、聖書的には大天使だけど、ここでは天界からのハーフブリード(完全な天使や悪魔ではない、神や悪魔が人間界へ影響を及ぼすための使者)。でもやっぱりガブリエルってなだけの意味はあるんだよな。あるいは皮肉な意味でかもしれない。ここでのガブリエルは天界の使者なのに、この人こそが打算アリアリというか、人間をコマのように見ているフシがある。それってキリスト教的世界で時々感じる雰囲気で、それをガブリエルという大天使の名前を持つハーフブリードに感じるっていうのが、実にシニカルなんだよね。
それにしても彼女胸に何か巻いてるの?やっぱり天使は中性的イメージだからということなのかな。人間の形であらわれるときもパンツスーツだし。何かこう、妖しげなものを感じるよねー。でも彼女の持っている翼、純白じゃないんだな。それはハーフブリードだからなのかな。だからか、天使というより、何か悪魔みたいなんだよね。私の中でのイメージでは、悪魔にも(黒い)翼があるからさ。
で、コンスタンティンが出会うのが、アンジェラである。女刑事さん。彼女は双子の妹イザベルを亡くしたばかり。精神病院の屋上から飛び降りたその妹を、アンジェラは殺されたと言ってはばからない。彼女は最初口を閉ざしているんだけれど、コンスタンティンと同じように、小さな頃から人には見えないものが見える能力があったわけ。それを正直に言って、イザベルは精神病院送りにされてしまった。だけど、アンジェラは見えないとウソをついて、世の中渡ってきた。そんな風に妹を裏切ったことに罪の意識にさいなまれている彼女。この能力のおかげで刑事の仕事も上手くいっているに相違ないんだけど、そのことも彼女の罪の意識に拍車をかけているのかもしれない。
いやー、ここらあたりにも宗教的文化の違いがあるわね、と思ったりして。だって、日本のような仏教的文化の国なら、人に見えないものが見えるぐらいで精神病院には行かないよな……そういう人って(特に子供の頃は)結構いるんじゃないかと思うけど、それってごく普通にいる、よね。親だってまあ多少は悩むかもしれないけど、ああこの子には見えるんだ、ぐらいにしか思わないんじゃない?そうでもないかな……。
それにしても、双子って霊感強そう……(完全に「シャイニング」の刷り込み)。
んで、アンジェラは自殺→地獄行きのイザベルを何とかして天国に行かせてあげたい、と思うわけ。そのためにコンスタンティンに接触する。というのも、監視カメラに映っていた屋上から飛び降りる直前の妹の口から「……コンスタンティン……」という言葉がもれ出たから。
かくして、彼女は後戻り出来ない世界へと彼と一緒に踏み入れてしまうわけ。
イザベルを探しに、コンスタンティンは彼女の“遺品”である飼い猫のダックを用いて異界へとゆく。「猫は霊感を持つ」このあたりの思想は共通。ってことは本当のことなのかも。うーん、猫は大好きだけど、それはコワいな……。
あ、でも彼、クモをコップの中に閉じ込めてタバコの煙を吹き入れるなんてところあったよなー。クモはいじめちゃダメだよー。アンジェラが助け出したけど、アメリカ文化にとってはやっぱりクモは邪悪なイメージなのかしらん。
コンスタンティンには助手の青年、チャズがいる。この子はコンスタンティンにすっごく憧れてて、何とか彼の役に立ちたいと思ってる。悪魔退治を手伝わせてほしいといつも言っているんだけど、彼はにべもなく、いつも運転手役ばかり。それをブーたれてるチャズはいかにも幼さを感じるんだけど、この子がねちょっと、泣かせるわけ。
影で、いろいろ勉強してたんだよね。コンスタンティンが悪魔どもに頼りにしていた友人たちを殺されちゃって窮地に立たされた時、“ただの水を聖水に変える二本の十字架”やら、“悪魔を地獄へ送り返す聖なるショットガン”やらを彼のために用意するんだもの(自分で弾丸まで鋳造してる!)。しかもしっかりとした知識を披露して、今まで子供だとばかり思っていた(んだろーなー)コンスタンティンはアゼンとする。そばに控えている“天使と悪魔には中立の立場”であるバー経営者、 はニヤニヤ。それにしても、悪魔を退治するのも飛び道具(ショットガン)ってあたりがアメリカやねー。
貯水タンクにこの十字架を沈めて、スプリンクラーから聖水撒き散らしてハーフブリードたちを一網打尽にするなんて、ちょっとユーモラスだわよね。でもさー、チャズってばさー、死んじゃうんだよー。コンスタンティンのためにこれだけの働きをしたのに。この時アンジェラは大悪魔ルシファーの野心ある息子、マモンにとりつかれちゃってる。その彼女を助け出すためにコンスタンティンはムチャをしているんだけれど、彼女の中の悪魔を何とか沈めて、コンスタンティンから初めて「よくやった」という言葉をもらって、あんなに嬉しそうにしてたのにさー。「あんたの言うとおりだ。本のようにはいかない」と切れ切れに笑顔を浮かべてこときれるチャズに、「……違う!」とやっと言葉を振り絞ったコンスタンティンは、本のとおりなんかじゃなく、チャズがちゃんと自分の能力を発揮したからこそ、「よくやった」と言ってあげたわけだからさ……。それにしてもチャズを死なせなくても良かったんじゃないのお?ラストクレジット後にオマケがあるんだけど(これ、久々だなー。でもこれがあるなら、劇場で告知しといた方が良かったんじゃない?大分人帰ってたぞお)、そこでチャズの墓を訪れるコンスタンティンの前に、天使となったチャズが一瞬現われ、天界へと飛びたっていく、んだよね。天使になるぐらいだったら、死なせなきゃいいような気がするんだけど……それこそ今後シリーズになるんだったらさー(もう決めつけてる……)。
しかし、チャズがこんなに頑張ったのに、この時まだアンジェラの体からマモンは抜けてないわけ。あの野心モリモリのガブリエルが現われる。彼女(彼?)こそマモンと取り引きした輩だったのだ。世界の運命を握ることの出来る、運命の槍を手に入れて。しかしそこでコンスタンティンは時間をとめる。あれほど天国に行きたがっていたのに、また自らの手首を切り、自分を心待ちにしているルシファーをおびき出す。自分の息子が運命の槍を手に入れていることを知らせ、ガブリエルの陰謀を阻止するんである。ガブリエルは哀れその翼を焼かれて、人間と落ちてしまう。そしてルシファーは手に入れたかったコンスタンティンをやっと手中に収めた喜びから、彼の最後の願いを聞いてしまう、のね。それはイザベルを地獄から天国に行かせてあげることだった。
コンスタンティンは自分の命と引き換えにイザベルを救った。それこそが、自己犠牲。ルシファーがいくら彼を引っ張っていこうとしても、出来ない。自己犠牲をはらったコンスタンティンを天国が迎え入れに来てたってワケ!カラクリのようなオチじゃー(いやオチじゃないけど)。ルシファーに向かってグッタリしながら中指をつきだすコンスタンティン(おいッ(笑))。
しかしあきらめきれないルシファー、「もっと生かしてやる!お前は絶対地獄に行くんだ!」とぐいと彼を引きずりおろして、胸んなかにグリグリッ!と手を入れて、病巣をとっちゃう。あれはやっぱり肺ガンの?末期の肺ガンじゃ病巣とるだけじゃ治らんのじゃないの?ちょ、ちょっと笑える展開だなー。
コンスタンティンはすっごいヘビースモーカーで、ここにいたるまで(リストカットでフラフラになりながらも)、カットが変わるたびにタバコに火をつけてる。ジッポをカチッとやるさまや、唇の端でタバコをくわえて、ひと吸いめで勢いよく煙を吐き出したりするのがやたらとカッコイイんだけど、今あんまりハリウッド映画ん中でタバコを(しかもここまで執拗に)吸うシーンを見ないから……というのはアメリカの病的なまでの禁煙一辺倒にあるからであり、だから珍しいなーとは思ってたの。でもここにもオチはあったんだな。何よりコンスタンティンはこのことで肺ガンになってしまうわけだし、しかも悪魔によって完治させられた後、アンジェラとちょっとイイ雰囲気になって、彼一人のカットになった時、こここそがジッポでカチッ!が決まるんでしょうというとこで、ガム(禁煙ガムかなー、やはり)を口に放り込むんだもん。これはやっぱ、オチでしょ、これこそが。アメリカの禁煙天国を逆手に取ったシニカルで、笑っちゃう。
このアンジェラとは最後までプラトニック、なのね。何もかもが終わり、もろもろの後始末をしなけりゃいけない、と言うコンスタンティンとの別れで、「また会える?」と言うアンジェラに「いいね」と返すコンスタンティンはまんざらでもなく、今にもキスをせんばかりの見つめあいをする。ここ以外でもアンジェラに魔除けのペンダントをつけてやるシーンなんかで、キスするんじゃないのかい!的なシーンはいくつかあり、でも最後までキスひとつしないんだよなー。実に、ストイック。最近なかなかここまでしてやらないってのはないから、そんなところも何かキアヌらしいというか。
キアヌは笑顔が似合わない役者だからねー。笑顔になるとマヌケになるから、こういう一徹な役がいいわけよ。ま、だからたまーに笑顔になるとそれが効くわけ。笑顔っても口の端を上げるぐらいだけどね。それがひそかにチャズに対する「良くやった」だったのになあ……(と思い返す)。
神なんてガキと言っていたコンスタンティン。ただ事態を見流しているだけだと。しかしラストには、全てを見通して、その掌に俺たちは生かされている、みたいな雰囲気で。やっぱり神をガキだと言ったまま終わるのはヤバいもんね。
それにしてもこの展開や世界観って、日本でいえば「陰陽師」って感じ?ハリウッドに持ってったれ!★★★☆☆