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うずく人妻たち 連続不倫
2006年 分 日本 カラー
監督:福原彰 脚本:福原彰
撮影:清水正二 音楽:大場一魅
出演:岡田智宏 佐々木麻由子 里見瑤子 中村方隆 美月ゆう子 なかみつせいじ 池島ゆたか
この作品で彼が男優賞をとるのは当然だし、そしてその相手となる佐々木麻由子が女優賞をとるのも当然。
ピンクという性格上、どんどん新しい若い女優さんが出てきて、彼女たちが女優賞をさらっていく中、女とは、女のサガとはこういうものなんだと、まさにその肉体で、表情で、震える言葉で見せつけてくれる。
彼女が、監督とは解釈が違ったみたいだとコメントを寄せていたのが印象的だった。それは監督が男で私が女だからなのか……と。
そういう違いが、いつもならばネガティブな意味にとってしまうヒガミ根性な私も、ピンクならば、まず女優ありき、女ありきのピンクならば、彼女の解釈と監督の解釈のぶつかりあいこそが、この心震える傑作が生み出した原動力になったのだと、確信した。
まず、1995年が描かれるのである。ラブホテルの一室。バブルが終わった直後の、祭りの後の寂しさのようなラブホの内装に、ぐっとつまるものがある。
でもそれは、考えすぎだっただろうか。だって、12年後として出てくる同じ場所は、ちっとも変わってないんだもの。その虚しさは当然のものとして、ずっと昔から変わらないものとしてそこにある。
人妻専門に相手をしている、見るからにプレイボーイの俊夫。プレイボーイという言い方自体が古いだろうか。でもこの90年代は、まだそういう言い方も通用すると思う。
もう腹もたるんで、化粧疲れも目立つ人妻が、ダンナとの待ち合わせ時間までのわずかな時間を惜しんで若い男と逢瀬を重ねる。
コトの後もシャワーを浴びず、「あなたの精液をそのままに……」とか言って、彼女は恍惚とした表情を浮かべる。
このスタートから、メインの佐々木麻由子演じる光枝との温泉旅館での逢瀬で見せる、20代半ば過ぎの、まだ遊びたい盛り、人妻を惑わせる自分の色男っぷりにも自信がアリアリの俊夫を演じる岡田智宏の、オレ様な演技にゾクゾクする。
長めの茶髪が振り乱される色っぽさ、自分の男としての魅力にも、セックスの技量にも、そして自分の未来にも絶対の自信がある男。
いや、自分の未来に絶対の自信がある、訳ではなかったのかもしれない。小説家を目指している彼は、12年後も奥さんのヒモ状態で泣かず飛ばずだけど、もう1995年のこの時点で、光枝から「小説、書いてるの?」と心配されていた。
20代と言えど半ばも過ぎ、彼もきっと焦っていただろうと思う。だからこそ、光枝からのあの台詞に、どこか冷たすぎる台詞で反応した、のだと、思いたい。
「俺を群馬の田舎にひっぱっていくつもりなの?10も年下の男つかまえて」
そう、光枝は10も年下の彼に、おぼれていた。親友と温泉旅行に行く、とダンナにウソをついて出てきた。娘ももう8歳になるから、一人でおいても大丈夫だろうと。
今から思えば、自分の背徳行為を、大丈夫と自分自身に言い聞かせるような彼女自身に、もう罪悪感があったのだろうと思う。
宿について、早速肌を重ねる二人。「好きだ、愛してる」という彼の言葉に、光枝は「嬉しい」とあえぐ。
貸し切り状態の小さな宿で、俊夫は「俺たち、どう見えるんだろうね」とどこかはしゃぎ気味に言った。
「姉と弟、夫婦、それともまんま不倫関係かな?」あまりに無神経な彼の言葉に、彼女は黙ってうつむくしかなかった。
夫は自分の浮気に気づいているみたいだ。離婚を切り出された。と光枝は言う。娘を引き取って、群馬の実家に戻って農業でもしようかと思う、と。
彼女はそう言って、俊夫の様子をうかがう。彼がそこでプロポーズしてくれると思ったのかもしれない。
だけど俊夫は、そんなに性急に結論を出すべきじゃないんじゃない、と言った。それは、この熟れた肉体を手放したくないという以上の意味には聞こえなかった。それでも恐る恐る、娘に会ってみないかと言ってみる光枝。そこであの冷たい台詞だ……。彼女は凍りつく。それならなぜ、愛してるなんて言うのかと吠える。
ああ、あまりに辛い、見るに耐えない修羅場だ……。女はいつも、こうやって男を責め、それはその言葉を待って待って、だからそれを得られた時には切り札にして責めるのだけど、男の方はそこまでの意味を持たずに、こう責められた時に、しまった、そんなに重い言葉だったかと思う、そんな哀しいギャップ。
それともそんな風に思うのは、あまりに男性に対してヒドい偏見を持ちすぎ?
でも男と女のギャップは、もうここから始まっていたように思うのだ。ある意味王道の、ギャップ。
彼は、そう彼女から問い詰められて、好きだよ、とまず言う。その後でまた愛してるよとは言うけど、まず好きだよ、という言葉を先に持って来るのが、なんだかハッキリとグレードダウンされたのを見せ付けられたようで、キツいのだ。
10も年下の男をつかまえて、なんて言われる女の辛さが、なんかもうあまりに胸に迫るので、それをオレ様な感じで言いやがる岡田氏が確かにそのとおり、デキた身体と甘いマスクで言ってのけるので、もうなんか、胸がうずいて、心が痛くて、たまらないのだ。
縛られ、猿轡をかまされ、それを自ら望んで、まるでレイプされるように激しく交わる光枝。これまでにオレだけじゃないだろ、と何人とウワキしてたんだよ、とかいたぶられて。
心の落胆の高ぶり(矛盾しているけれど、本当にそんな感じ)が、こんな形のセックスになってて、このあたりから心臓と心のドキドキがバトンタッチしてくる。
電話がかかってきた。夫からだった。この時にね、電話がかかってきた瞬間に、なぜか判っちゃったのだ。あ、きっと娘さんが死んでしまったんだって。なんかホントに不思議だったんだけど、判ってしまった。
それは、まるで、その電話のベルの音や、出た俊夫、彼から受話器を受け取る光枝の間が、全てがそう示唆しているように感じた。そして本当にその通りだったのだ。
娘が、交通事故にあって、死んでしまった。
若い愛人と、激しく交わっている時に。
そして2007年に飛ぶんである。まず、1995年当時の、イケイケな俊夫の写真をそっとたんすの奥にしまいこむ誰かの手のクローズアップが示される。
カットが変わると、黒髪に戻し、前髪を眉毛のはるか上に切りそろえた、もはやかつてのプレイボーイの栄光など見る影もない、地味に、年相応に落ち着いてしまった岡田智宏が現われる。
10年どころか、12年の時の流れを見事に体現する彼に驚嘆する。そりゃ、そうした髪型や、ファッションの違いはあれど、結局は肉体ひとつで表現するしかないのに、もう根拠のない自信など通用するはずもない30代後半の男に、こうまで完璧に変身するなんて。
結婚した彼、まず、彼の妻が浮気している場面から示され、それがあの、12年前の虚しさ満天のラブホの部屋なんである。
小説家志望とは名ばかりの、ヒモ状態の夫から浮気を責められて殴られた目のアザを気にして、その日会社を休んだ彼女は、年上の男とホテルに来ていた。
職場の上司との、いわゆるダブル不倫。彼女の境遇に同情を寄せながらも、事後、「僕には妻と子供がいる。判ってるよね」とクギをさされて興醒めな様子の彼女。
家に帰ると、夫は暴力を振るったことを反省し、二度としないと誓った。
それでも彼女の気持ちは晴れなかった。「少しの間、考えたい」と彼に旅行にでも行くよう勧めた。
そして、俊夫は12年前に光枝と行った、あの小さな温泉旅館に向かうんである。死ぬつもりで。
上映後にね、会話が聞こえてきて、「ご都合主義だった」とか言ってる声があったのね。この旅館で、偶然俊夫と光枝が出会ってしまうことを指していたんだと思う。そりゃそうだ。12年も経って、しかもその間二人はこの地を訪れたこともなく、この日この時にバッティングするなんてさ。
でも、それが映画なのだ。そしてこれが二人が結ばれる結末ならば、確かにご都合主義なのだと思う。
でも二人はここで再会してしまったがために、結局は自分たちに残されているのは、12年前に選択した道の続きしかないと思い知らされることになるのだ。
それは、ちっとも、ご都合主義なんかじゃない。残酷な運命なのだもの。
そういえば、ここで初めて俊夫に出会った光枝の夫が、「君は、人生の運命を信じますか?」(ちょっとニュアンス違ったかな)という台詞を口にする。
俊夫はその言葉に固まる。その言葉の意味を、きっと一晩中考えていた。そして、それを、その答えはなんだったのかを、彼に聞こうと思ったのか。
でも、冷たく拒否された。「何か?」という無表情と、そして「じゃ、さよなら」という笑顔で。
俊夫と光枝が出会ってしまったら、そりゃもう、肌を重ねるに違いない。そしてそれが破滅を呼ぶことも(どういう形でかは想像も出来なかったけど)、判ってしまう。
12年ぶりに再会した光枝は、変わらずに美しかった。一瞬目を見交わせた二人、この時の表情に、俊夫は彼女と再会し得た運命を、光枝はその破滅を予感した驚愕を感じた。
死ぬつもりだった俊夫は「あんたを見た瞬間に、その気がなくなった」としれっと言ってのける。
確かに、男と女のギャップはあるのかもしれない、と思う。
そして、佐々木麻由子もまた、驚異的な表現力で12年の月日を感じさせる。というか、1995年の、30代半ばを演じる彼女の、ちょっと石田ゆり子を思わせるような初々しさを残す熟れた魅力が、とても瑞々しくてキレイで、ちょっと目を見張らせるものがあったのだ。
それは今回技術賞を受賞していたキャメラの、恐るべきともいえるほどの透徹した画面が際立っていたことも大きいけれど、本当に、俊夫が溺れるのも判るような、大理石のミューズのような美しさだった。
「相変わらずきれいだ」と俊夫は言う。確かにキレイだ。でも、無造作に伸びた髪がほつれかかる疲れた顔は、やはり12年の年月を物語っていた。「もうすっかり農家のおばちゃんよ」と彼女は自嘲する。
その場面は、二人っきりになった風呂場。
小さな旅館だから、風呂場は男女共用で、「入浴中」の札を下げて入る形式だった。夜半、夫が寝てから起き出した光枝は、その札のウラの「入浴できます」がかかっていたから、風呂場に入ったのだけれど、そこに俊夫がいたのだ。
お互いの、この12年を反芻する二人。俊夫はずっと会いたかったと言って抱こうとする。光枝は、イヤ、こんな獣みたいなこと、と必死に逃げる。
娘が死んだ後、結局夫が自分を許してくれて、二人で群馬の実家で農業を始めた。農薬で身体を壊してしまった夫と、年に数回温泉めぐりをする日々。そんな夫を私は裏切れない。痛切に光枝はうめく。
それでも、ダメなの。こうなるのは運命だった。一番大きかったのは、彼女が思わず言ってしまった、「相変わらず自分のことだけなのね。小説が書けないのも判る気がする。奥さんが離れていくのも」という台詞。
思いがけず、俊夫がその言葉にひどく反応した。そのセクシーな肉体の中にくしゃくしゃになった顔を縮こませるような、泣き顔を見せた。
ずるい、ずるい、ずるい。そんな顔を見せられてしまったら、かつて溺れた男に見せられてしまったら、外れてしまったたがを止めることなんて、出来る訳がない。
この風呂場での“獣のような”カラミシーンは、そんな悲しくて深くてキツすぎるほどの切ない会話があるからこそ、大きな意味があるし、あるいはだからこそ、まるで意味がないとも言える。
妻が抜け出したのを、夫は気づいていた。寝たふりをしていた彼がぱちりと目を開けた瞬間から、辛い現実が間違いなく訪れるのが、判り過ぎるくらいに判ってしまうのが……。
それでも夫は、風呂場での二人の喘ぎ声に割って入ることはしない。でもそれが、余計にキツい。風呂場の外でガックリとへたりこむ老いた夫が、あまりにも辛い。
二人が出てくるのを、階段に腰掛けて待っている夫。ハッとする光枝。彼は妻にとも、俊夫にともない感じで一人語りを始める。
あの、2007年になってからの最初のシーン、写真をしまうシーンは、妻がこの写真をずっと隠し持っていたことを知っていた夫のものだったのだろう。彼は俊夫のことをずっと知っていたから、食堂で鉢合わせした時にもう、こうなることを予感していたのだ。
でもそれでも、彼は二人を責めることをしない。ただ、ただ、このささやかな幸せを失いたくないだけ。いや、もっと積極的に、渡すつもりなどないだけ。
大した人生じゃなかったが、ひとつだけ大切なことを学んだ、という。この台詞が胸に突き刺さった。
「出来るだけのことを知って、ありのままを受け止めるだけ」
後半の台詞は、そういう表現は聞くし、予測出来ると思う。その後に続く、「辛く過酷な現実に立ち向かうために」という台詞にリンクするにも予測出来る範囲の台詞だと思う。
でも、「出来るだけのことを知って」というのが、単純に思えるんだけどこれが、不思議に心にグサリと突き刺さったのだ。
だからこそ彼は、全ての現実を知るために、二人の過ちの現場に割って入ることをしなかったのだろう。全てを知っているからこそ、二人にものを言える権利と強さを得たのだし、そのために自分が途方もなく傷ついたとしても、自分が離したくないささやかな幸せのために、目をそむけることを決してしない覚悟なのだ。
そんな彼に、この二人がかなう筈がない。結局は甘美な恋人の追憶に溺れてしまった二人が、かなう訳がない。
夫の独白に悲痛な叫び声を上げる光枝。その妻を寛容な態度で抱えて部屋に戻るしな、夫は俊夫に言った。「君は人生の運命を信じていますか?」
1995年でも、2007年でも、この宿の近くの激しい波が打ち寄せる崖の遠い対岸に、激しく争っているカップルがいる。
単なる痴話げんかなのか、どちらかが死のうとしているのを止めようとしているのか。
1995年には、それを俊夫と光枝の二人でながめていた。そして2007年、夫婦を見送った俊夫は、一人でそれを眺めている。
この顔の見えない二人を演じているのが、やはり岡田智宏と佐々木麻由子だというのを知ると、深読みをしたくもなるけれど、監督は何も語ってはいない。
彼らが死ぬほどの辛い思いを抱えていたことが、結局世間的に見れば、こんなふうに遠くから眺める痴話げんかのくだらなさに過ぎないということなのだろうか……。
そのカップルを見ながら、俊夫は携帯電話で妻に電話する。留守電にメッセージを吹き込む。
小説を書きながら仕事を探す。もう一度チャンスをくれないかと。
このラストシーンに、監督は、彼の妻は決して許さないだろう、だからこれはハッピーエンドじゃないんだと語ってた。
それが一番ショックだったかもしれない。
私はホントに単純に、あの先輩夫婦と同じように、この若い夫婦もまた、苦い経験を経ながらも一緒に進んで行くと思ったから。
脚本も書いた監督がそう言うんだから、そうなんだろうとは思うけど、でもこここそが、麻由子姐さんが言った、男と女のギャップなのだと思いたい。
女は確かに男の浮気や甘さに厳しいけど、でも一方でホレた男にはとことん甘い弱さも持ってる、と思う。
あるいはそれは、女が自身、持ちたいと思っている願望なのかもしれないけれど。★★★★★
しかし彼から、「写真のモデルになってほしい」と言われたかすみ、告白じゃないことに拍子抜けしたものの、「それは美しい私を撮りたい、つまりそれって愛情表現、やっぱり私のこと好きなんじゃーん!」とあいもかわらず楽天的。
しかし、合唱部のコンクール壮行会で歌うかすみを撮ったその写真は、目をがっと見開き、口をすぼめたかなりのヘン顔。
彼はぷぷぷと噴き出し、「最高じゃない?ユーモラスだよね。まるでサケの産卵みたい」なんて言うもんだから、かすみは大いに傷ついてしまう。
しかもその写真が、学校新聞に載ってしまった。皆から笑い者にされたかすみは、荻野君をブン殴っちゃって、合唱への情熱も失いかけて、すっかり自信喪失。
その壮行会は、確かに生徒たちはビミョーな反応だった。かすみたちは、というかかすみは、牧村君に撮られる自分、にもかなり酔いまくってたし、自信マンマンで歌ってた。
でもそれをレナが吐き捨てる。「いっつも民謡とか、意味判んないし」
確かにその時歌っていた「待ちぼうけ」は、その後歌われる感情を表に出す歌たちと対照的にするべく選択されたと思われる技巧的な曲で、でも確かに合唱ってそういう、外から見れば「意味不明」な感じの曲って結構あるし、レナの言ってることもちょっと判るのだ。
そして、「皆が同じ表情。いかにも表現してますよって感じ」とレナは畳みかけ、その大げさの気持ち悪さを喝破する。「まるで、どこかの国の将軍様のために歌っているみたい」と。
これも確かに言い得て妙なんだよね。合唱、あるいはミュージカルとかを見る時、少なからず思うことだから。
本作は、そんな観客のイメージをくつがえせるかどうかにカギがあった。
もう合唱なんかやめる!と決心したかすみ、それでも夏祭りの合唱祭には出なさいと、産休代理のセンセに言われて、最後のステージと思い渋々出たものの、ちっとも身が入らない。
しかしそこでかすみは、湯の川学院高校の合唱に出会う。
普段は、ヤンキー校として皆から恐れられている軍団、しかし、まんまヤンキーのカッコで乗り込んできた権藤率いる湯の学合唱部は、尾崎豊の「15の夜」を魂溢れるパフォーマンスで熱唱して、かすみや他の七浜メンバーたちのドギモを抜くんである。
権藤は、中学時代荒れていた。その回想シーンも登場する。しかしケンカの最中、街中から天使の歌声が聞こえてきた。それは伝説の女流し、ストリートミュージシャンの裕子の歌う「oh my little girl」
その歌詞と歌声に心底感動した権藤は、裕子の楽譜をもらい(というか奪い)、尾崎豊に目覚め、高校に入ると同じソウルを持つ仲間を集めて合唱部を作ったのだ。「皆で歌った方がカッコいいだろ」と言って。
大河を表現するソウルを持ってるお前たちをリスペクトする、と権藤に言われると、かすみはきょとん。「だってそういう曲だから……」彼女は自分が曲の世界に素直に入っていけることを、それがどんなに素晴らしいことかを権藤に言われるまで判っていなかったのだ。
権藤は「オレたちは自分たちが共感できる歌しか歌えないから」と尾崎豊に邁進する。そして「お前たちのパフォーマンスは確かに凄い。でも全然負ける気がしねえんだ!」と胸を張る。
今まで敵なしの七浜高校に、切磋琢磨し合うライバルが現われたのだ。しかし権藤、確信犯的に間違う英語がサムい……。
かすみの失われた情熱を見抜いた権藤は、かすみたちのパフォーマンスをリスペクトしながらも、それまでの丁寧な態度が突然豹変、「ここからは真剣10代で行くけどいいか」「合唱をナメんじゃねえ!」とかすみをガツンとやるんである。
「フルチンになれ!心をハダカにしろってことだよ」とアドバイス。自分はやっぱり合唱が好き!と目覚め直すかすみ。海に向かって「アイ・アム・フルチーン!」と叫び、全国大会連続出場に向けて、イチからスタートする……。
という。最近ちょっとブームかもしれない?合唱モノの中でも、うーん、ちょっと、かなあ。脚本はイルミナシオン映画祭で大賞とってる。この映画祭から出た映画は、ハズレないってジンクス?が私の中にあるのになあ……。
大勢で何かひとつのものを作り上げる、成し遂げる、それってもうそれだけで私はぶわーっと涙腺が全開になるほどパブロフの犬状態で、それが合唱となると物語が語られなくても、そのシーンだけで泣いてしまう自信?があるほどだったんだけど……。
でもその理由、少なくとも二つはハッキリしてる。まずその合唱シーンをまっとうしてくれないこと。最初から最後まで通してくれたのはやっと最後の、優勝した七浜高校のアンコール曲「あなたに」だけで、その他はフェイドアウトどころかカットアウトされるものすらあるんだよね。
しかもそれが、ヒロインのかすみはじめ、七浜高校のメンバーたちが衝撃&影響を受ける、湯の川学院高校の合唱シーンからしてそうなんだから驚いてしまう。
えっ?というぐらいアッサリカットアウトされて、合唱への情熱を失いかけていたかすみが「凄かったー」と、これまたアッサリ合唱への魅力に取り戻されるシーンに唐突につながれるもんだから拍子抜けしてしまう。
そして二つ目は、そうした素晴らしい合唱への驚きや感動を、台詞にして言ってしまうことなのだ。
しかも、その合唱を聞きながら「凄くない?」だの「ここまで上手いと揚げ足取れない」だの「一生懸命打ち込めることがあるってステキじゃない」だのと、信じられない台詞を次々に吐くものだから、ええっと思ってしまう。
だって本当に圧倒されている時に、そんな言葉は出ないよ。いや、後から、こうだったよね、とか言うんならまだしもさ。そんな風に説明しなければ、この合唱は凄いんだと証明できないの?
なんかそれこそ、劇中の権藤の主張する「合唱をナメんじゃねえ!」ってことなような気がするんだけど……合唱シーン自体が素晴らしいなら、それに圧倒されている表情一発でいいし、そんな台詞を言わせている時間があるなら、歌を最後まで聞かせてほしいのよね。
この監督さん、「タナカヒロシのすべて」でちょっと思ったんだよね。キャラや要素はイイのに、組み合わせ方というか、構成というか、それがなんか違う、だからもったいない出来になっちゃう感じがするなって。
次の「雨の町」ではジャンルが違うせいか、割とストイックに作っててそんなことも感じさせなかったんだけど、そして次の「おばちゃんチップス」は未見だったんだけど、本作では、……正直、デビュー作の違和感に戻ってしまった感じがした。
なんかね、物語や、展開や、合唱そのものや、もっと言ってしまえば役者さんたちにさえ、きちんと信頼を置いてない感じがしたんだよな……。
だから、ヤボな説明を折々差し挟んでくる感じがして。
かすみは自分のことをカワイイからモテると思ってる。でも、演じる夏帆ちゃんは普通の魅力がイイ女優さんだし、アップの笑顔は出すぎの歯が気にもなるし。彼女をイジメにかかる因縁の相手とその取り巻きは判りやすいほどのゴージャス美少女なもんだから、かすみが自分のことをモテると思ってたり、男の子たちも「歌は上手いし、めんこいし」とアコガレの眼差しを向けているのが、ちょっとムリがあるんだよね。
そこにムリがあると、カワイくて人気のあるハズの彼女が、みっともない顔を新聞に載せられてどん底に突き落とされるギャップがうまく機能しないんだよなあ。だって彼女は普通だからカワイイんだもん。シャケ顔とだって、あんまり変わんないよ……。
その不自然を埋めるためなのか、彼女が鏡を覗き込むたびにシャケのCGが進入してくるのも……正直サムい気がする。
合唱は皆で作り上げるもの、というゴールがあるから、まず歌っている自分に酔いしれてるメッチャナルシストな女の子という対照で持ってくる。冒頭、かすみは海岸で陶酔に浸って歌い、皆がそんな自分にうっとりしていると思っている。うっとりしているのは自分だけなのに。
合唱部ではソプラノのパートリーダーである彼女。しかしそれに抜擢した先生の意図は、他にあったらしいのだ。
その先生は産休に入り、代理の女性教師がやってくる。この瀬沼先生がどうにもヤル気を感じさせないダルそーな先生で、彼女たちもまるで重視している感じがない。
ちょっとここは気になる。ヒロインのかすみこそは、この瀬沼先生に歌への情熱をなくしたことや、一人よがりな自分に気づいたことを相談したりもするんだけど、正直、この女先生の存在感が最後までピンとこないんである。
まあ、この瀬沼先生にはちょっとナゾというかサプライズがあって、彼女たち七浜高校の生徒に衝撃を与えた、ソウルフルな歌声を聴かせたヤンキー校湯の川学院の合唱部のボス、権藤を、尾崎にそして合唱に目覚めさせた、伝説のストリートシンガーだったのだ。
でもねー、これもねー、なぜ彼女が路上で歌っていたのか、なぜやめたのか、そして彼のことを覚えていたのかどうかもあの反応じゃ微妙って感じだし、この物語の盛り上がりに関係があるのかないのか、どーにも微妙な感じ、なのよね。
で、かすみにパートリーダーを任せた理由を、瀬沼先生が見抜くんである。つまり、一人浮いている彼女の一人よがりに気づかせるためだったのだと。
これがこの物語のキモになっていて、とにかくかすみのうぬぼれ、というか、自分勝手、というか、思い込みの激しさが糾弾される形になってるのね。
それは、彼女のことを嫌って色々とイヤミを言ってくる、同級生のレナからまずスタートしている。これは後で明らかになることなんだけど、彼女は生来のオンチで、音楽の時間に調子っ外れのフニクリフニクラでクラスメイトにからかわれて泣き崩れ、その後を次いで見事な歌声を披露したかすみのことを、逆恨みしているのだ。
逆恨み、なんだろうか、これって。もんのすごく直恨みだと思うけど。かすみ自身は、悪気はなかったっていうけど、あんな状態のあとに自ら手を上げて得意気に歌われたんじゃ、そりゃムカッとくるに決まってるじゃない。
しかもそれを、本人がスッカリ忘れているってんだから……幼なじみの友達たちは覚えているのに。
んで、「ホントに忘れてるの?」と驚く。そりゃそーだよなー。なんで当事者が忘れてて、相手をキズつけたことにも思いが寄らなくて、周りの友達たちが覚えてるんだよ……。
まあ、そうして、自分が気づかないままに人をキズつけていたことや、自分のことだけに夢中で後輩たちの面倒を見ることもなかったことに、かすみはようやく気づくのだ。
それでも、見事なソロを披露した彼女に憧れて、合唱部に入ってきた女の子たちは多く、だから離れていた心も、かすみが後輩たちに向けた途端に氷塊するんである。
でもこのあたりも微妙でね。瀬沼先生は、一人で歌うことはいつでも出来る。今は皆で歌うことを大切にすべきじゃないかな、と言うでしょ。それはかすみの、自分だけが上手いんだ、自分がスターなんだという一人よがりな気持ちを戒めて、皆と力を合わせる素晴らしさに導いたんだと思うんだけど……なんかそれって、すんなり受け入れるには微妙な感じがするんだよなあ。
だって、それって合唱という受け皿があるからいいけど、いや、あっても、その言葉だけをとると、まだ未熟なんだから、団体行動に従事しなさい、って言っているみたいじゃない。
かすみが歌が好きだという気持ちを、皆と歌うことへの充実感に向けるには理由が弱い気がするんだよね。
だって結局、かすみはアンコールでソロをとるんだしさあ。
それに、その気持ちをまたしても台詞で結論づけちゃうし。「歌って、こんなに感情を伝えられるんだ」みたいなさ(なんか、詳細忘れちゃったけど(爆))。
これ、最後までやっちゃうの?って思っちゃったよ……そんなことぐらい、役者の表情にゆだねられないのかって。なんか正直、もの凄く失望しちゃったんだよなあ……。
湯の川学院が、コンクールの予選をそのヤンキーなカッコで拒否され、あわや出場辞退となるかという場面。
かすみが権藤に、私にフルチンになれって言ったじゃないの、カッコなんか気にするなって!と言い、更に彼の女神である裕子が実は、彼女たちの顧問(の代用教員)である瀬沼先生だったことが判明すると、もう彼らはそれまでのポリシーもどこへやら、たった20分で夏服のさわやか男子高校生となって尾崎豊の「僕が僕であるために」を熱唱し、見事特別枠で全国大会への切符を勝ち取る。
でもね、これはどうかなと思ったんだよね。確かにかすみの言うことは正しい。歌はカッコじゃなくて心で歌うもので、まさにそう言われて彼女は吹っ切れることができたのだ。
でも、彼女が湯の川学院の合唱に衝撃を受けたのは……もしその時にも夏服で黒い髪できちっと整列して彼らが歌っていたら、恐らくショックは受けなかっただろうと思うのだ。
彼らはファッションでまず歌の心を表現しようとしていたわけでしょ。このカッコが彼らのありのままであり、そのありのままで尾崎を歌うからこそ、人の心を打ったんじゃない。
一緒に出演していたおばちゃんコーラスが、本当に尾崎豊みたいだったわ、というのも、カタチから入ったものに魂が宿ったからじゃない(あなたたちも浜崎あゆみみたいだった、などというオチはいらない)。
かすみたちは制服がありのままだからいいけど、彼らにとっては夏服になって髪の毛を黒くしただけで、ありのままではなくなってしまうんだよね。
それでも、心は侵食されない、というのは確かに正論だけど、彼らの登場シーンの「15の夜」があまりに良かっただけに(それなのにカットアウトされるしさ!)、夏服で黒い髪で、キッチリ整列して拳を振って歌う彼らがギャグにしか見えないのだ。
しかもかすみ以上に自分に入り込んでいるピアノ伴奏の男の子は、まるでXの誰かさんみたく力尽きてぶっ倒れちゃうし。「よくやった」じゃないっつーの。
なんで最近、「ガチ☆ボーイ」とか、意味もなく北海道が舞台なんだろう……。意味があるならいいんだけど。イルミナシオンに出された脚本だからかなあ。しかも撮影してる場所も違うのにさ。
あ、でも意味はあったのかなあ。一点だけ。おじいちゃんが孫娘のために作るお守り。好きな男の子に、歌っている姿がサケの産卵の時みたいだと言われて落ち込んだかすみに、本来は熊がサケをくわえている彫刻を、逆にサケが熊に食いついている形のおまもりを彫ってくれるおじいちゃん。
熊がサケをくわえている木彫りって、ジャマな土産工芸品の代表みたいに言われてて、今ではそれだけでギャグみたいなところがあって、それを作り続けているおじいちゃんっていう存在はちょっとイタイんだよね。
それを演じる間寛平は、なぜかいつも短パン姿で、彼自身がマラソンで鍛えているそのミョーに筋肉がついた足が、彫刻家には不自然だろ!とか思うし。
牧村君が、実は彼もかすみのことが好きで、だから写真に撮りたいと思ってて、なのに、「シャケの産卵」みたいな写真を撮って、「ユーモラスだよね」と笑い、しかもそれを学校新聞に載せて、彼女をどん底に突き落とす。
これが最大のナゾだったかもしれない。確かに牧村君は最後、一生懸命歌っている君のことが可愛くて、好きだから撮りたいと思ったと言うけれども、ならばなぜ、ユーモラスだなどと、シャケの産卵などと言ってしまったのか。
まあ、中学生ぐらいまでだったら、好きな女の子に対してちょっとシャに構えちゃうこともアリだけど、彼は彼女が好きだから撮りたいという思いは明確にしているんだし、百歩譲って、どんな顔でも彼女はカワイイと思っているんならまだしも、シャケの産卵のようだと言って、更にそれを前提にして新聞に載せるだなんて、いくら後から君のことが好きだったのに、なぜあんなことを言ってしまったんだろうとか言われても、はあ?とか思っちゃうわよ。
しかも、ラスト、じゃあ、もう一度私の歌っているところを撮ってくれる?とかすみが言い、牧村君がそれに応える感動のアンコール場面で、歌い終わって感極まった彼女の顔に向かってシャッターを切る彼。なぜその結果をスクリーンに映し出さないのよ!
彼女の充実の瞬間をとらえた写真をラストにバッと映し出してくれれば、それまでイマイチ引っ込みがちだった私の涙腺もきっとぶわっと破壊されただろうに!
なんかね……そりゃ期待通りに行くばかりじゃつまんないってのはそうなんだけど、でも、ここにはそうでしょ!っていうのが来ないと、凄くガッカリしちゃう、っていうかさあ……。
だってまず、あのフリの写真があるんだから、だったらそれに応えるオチの写真があるべきじゃないの?しかもそれが最も感動ポイントになりえるのに、もったいない!!!
たった一人ピアノが弾けるだけに、一人だけ歌えないという設定のミズキ。演じる徳永えり嬢がイイ。あまり欲を出さずにいいバイプレーヤーとして残っていってほしい女の子。
本選で七浜高校の歌うゴスペラーズの「青い鳥」、打ち寄せる波のようなクレシェンド、デクレシェンドは、ズルイほどにすばらしく心を揺さぶった。会場皆が総立ちになって歌うアンコールより、こっちが好きだったなあ。
あ、それと、喫茶店で針が飛んだレコードの替わりに彼女たちが即興っぽく歌うエノケンも!
でも結局、“意味判んない”と斬って捨てられた技巧的な合唱曲は置き去りにされたままだったな……。★★★☆☆