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「た」


2005年鑑賞作品

大停電の夜に
2005年 132分 日本 カラー
監督:源孝志 脚本:カリュアード(源孝志/相沢友子)
撮影:永田鉄男 音楽:
出演:豊川悦司 田口トモロヲ 原田知世 吉川晃司 寺島しのぶ 井川遥 阿部力 本郷奏多 香椎由宇 田畑智子 淡島千景 宇津井健


2005/12/9/金 劇場(有楽町丸の内ピカデリー)
本当はね、こういうもうタイトルからしてロマンチックな物語って、苦手。だから、同じ監督の「東京タワー」も観に行かなかった。それは多分、耽溺してしまう自分を客観的に想像してイタいな、と思ったからであって、つまり本当は耽溺したいんだよね、そういう世界に。
でも、想像したより、スウィートな物語ではなかった。設定はロマンチックだし、画は本当に美しいんだけど、かなり大人のビターで、いや、少年少女も出てくるんだけど、それもまたとてもリリカルなビターさで、そう、品がいいっていうのかな、とてもセンスがいいのだ。
こういう設定の映画だと、やはりセンスのいい悪いがものを言う。それがスウィートすぎてベタになり、寒いとかかゆいとかいうことになっちゃうわけだけど。
ほおんと、センスがいいんだよね。まず、ジャズ。それもビル・エバンス。そしてあの名アルバムの誉れ高いワルツ・フォー・デビーの、それもアナログ盤!ジャズの名盤といえばまずあがるこのアルバムを、大好きなジャズをそういうイチから学ぼうという意味で私も昔購入したものが手元にあるけれど、そんなアカデミックな理由なんてすっかりすっ飛んで、その品のよい、センスの良い、優しく心地よいこのアルバムが私も大好きだから。

そしてもうひとつ。私、こういうエピソードがたくさんある映画も、苦手なんだよね。それはこうやって後で感想を書くことをついつい想定してしまうから。あー、めんどくさいとか思っちゃうわけ。
でも、この人間関係が不思議な運命の鎖のように連なってゆく、これもまたセンスの良さには、唸ったなあ。そりゃまあ、こんな上手いことつながってゆくわけねーよ!と思わなくもない。つながった輪の中で、顔を合わせてしまったらこの鎖が途切れてしまう人たちをその場面からハケさせるのには、ご都合主義といえばそうなのかもしれないとも思う。でもここまでそれがキレイにつながっていくと、もう、唸るしかないんだよね。しかもこの、非日常の画の中だから、それもアリかなと思ってしまう。

その中で、ふっとその輪から解き放たれるホテルのボーイや、あるいは最初からその輪の中に絡まずにエピソードが進行してゆく少年と少女のエピソードが、つながりの執着からいいバランスで離れていて、効いているし。なんかもう、本当に、上手い。
それにね、ロマンチックな画ではある……東京中の大停電、頼るはキャンドルの明かりのみ、なんて。でもクリスマスが近くなると、やたらと飾り立てられるイルミネーションの、闇よりも光りを強調する押し付けがましいロマンチックとは違って、とても慎ましやかなんだよね。メインはキャンドルの明かりではなく、闇なのだ。その中で照らされるキャンドルの明かりは、闇の力に勝てるわけがない。沢山沢山点しても、やっぱりとてもひっそりとしている。でもそれがとても落ち着く。大部分が闇の中に溶けているということが、自分の表情をスポットライトに照らされているようなイルミネーションや、あるいは日常の生活の蛍光灯だってそうだ……気恥ずかしさから解放してくれる。みっともないグチも、言えなかった気持ちも、言えてしまうようなそんな……闇と光り。生きていることに感謝したくなるような。

いくつもの人間関係が順繰りに絡み合ってゆくから、順繰りに追ってゆこう。でもそのどれも、二人ずつの人間関係。一人の人は誰もいない。それが……なんだか、こんな人恋しい季節に、胸に迫る。
一番最初は、あの少年だったと思う。天体マニア、いや本人言うところの人工衛星マニアの翔太。彼はその望遠鏡で向かいの病院の屋上で下を見下ろしている少女を見つける。ナゾの人工衛星に気をとられながらも、彼女のことが気になって仕方がない。
次は、誰だっけ。いやこっちが最初だったかな。イブの夜、今日で店を閉めると決めて、かつての恋人に電話をかけているジャズバーのマスター、木戸。バックに流れるのは、ビル・エバンスのマイ・フーリッシュ・ハート。そして店の名前もこの曲と同じ。彼女に電話をかける時には決まってこの曲を流しているなんてコソクというかなんかハズい気もしたけど。
その木戸を向かいのキャンドルショップから見つめている、店主ののぞみ。

余命いくばくもない父親の突然の告白にとまどっているのが遼太郎。その告白というのが、自分が父親の不倫相手の子だということ。そしてその、かつて愛した相手に、死ぬ間際に会いたいという父親。遼太郎自体が今不倫のドロ沼にはまっているというのに……。
そしてその不倫相手が美寿々。遼太郎の部下。遼太郎の今回の異動についていきたいと言い出す……自分では、こんな愚かな女にはならないと思っていたのに。
美寿々が遼太郎と別れ、ホテルのエレベーターに乗り込み、停電して止まってしまったエレベーターで乗り合わせたボーイが李冬冬。遠距離恋愛である上海の恋人に、夜の飛行機で帰って久しぶりに再会するはずだった。

遼太郎の妻が礼子。木戸のかつての恋人であり、このイブの晩に、木戸から店に来てほしいと誘われている……そして夫の浮気には以前から気づいていて、離婚届を用意しているんである。
遼太郎の本当の母親である小夜子は、かつて愛した人が死に瀕していて、自分に会いたがっていることを知る。そして初めて、夫にその秘密を打ち明ける。夫、義一は定年直後、第二の人生を妻と楽しく暮らそうと考えていたから戸惑い、怒る。
そして、この関係性から少し離れたところにいるのが、静江と銀次。銀次はいかにも元チンピラという風情。静江は彼とかつて恋人だった、今は人妻の妊婦。産気づいた静江は電車の中で停電に巻き込まれ、裏切った相手である銀次におぶわれて、病院へと向かい……その二人を車で拾ったのが妻から秘密を打ち明けられた儀一であり、運び込まれた病院は、遼太郎の父親が入院していて、遼太郎と儀一は顔を合わせるんであり……

あー!ややこしい!

こうやって書いてみるとほおんと、ややこしいんだけど、これが実に上手いつながりになってるんだよね。だって遼太郎と儀一が顔を合わせる場面にはドキッとする……二人はお互い通りすがりの他人だと思っているわけだけど、遼太郎のついさっき知った本当の母親は、儀一がついさっきその事実を知らされた妻であり、この二人が何も知らずに顔を合わせているというスリリングにドキドキせずにはいられない一方、ここに儀一の妻の小夜子がいたら、その事実は一発でバレてしまうわけで、“ここにいない人物”の絶妙さに、実に感じ入るんだよね。
それは、最終的に木戸のバーに集まる人たちにおいてもそう。もともと木戸のバーが、この停電の中唯一開けている飲み屋だということを儀一に教えたのは遼太郎だった。でも遼太郎は実の母親と会い、それを父親に、報告するでもないけど、顔が見たくなって病院に来て、母親に会いに行くべきだとうながしてくれた妻の元に早く帰りたいと、一緒に飲みに行こうという儀一の誘いを断わった。母親に会いに行く時、妻がどうしても持っていけと言った、自分の成長が記されたアルバム。それを繰る母親。見てて彼は、奥さんが自分にとって大切な存在であると思ったんだろうな……。この時、この夫婦の絆が改めて結びなおされたのだ。

で、儀一と銀次がバーに向かうと、店に入ろうかどうしようかと迷っている美寿々がいるわけで……ここで遼太郎が一緒に来ていたらさ、ぶち壊しになったわけじゃない。しかもその後、木戸のかつての恋人であり遼太郎の妻である静江が訪ねてくるわけだから、よけいじゃない。あー、説明が長いけど、こういう風に、絶妙に、いたら壊れてしまう人物を絶妙にハケさせてゆく脚本が見事なのよねえ。しかもその理由もムリヤリっぽくないし。

しかしやはり、そこから唯一離れている少年少女のエピソードが美しいから、ここからまず行っとこう。そう、この映画を観に来ようと思った理由は、私の好きな、イイ役者が揃ってるから。この少年少女に関しては、少年の方は今ひとつ知らなかったんだけど、少女、香椎由宇は「「リンダ リンダ リンダ」で、完璧な美貌だけではない存在感を感じさせてくれた子だったから。彼女、麻衣子は乳がんにおかされているのね。人気モデルの彼女は、やはりそのことにかなり打ちのめされてる。自殺しようと本気で思ったわけじゃないんだけど……翌日に手術を控えて、かなりナーヴァスになっていた。そんな彼女を見つけた人工衛星マニアの翔太は、彼女の頼みに応じて、イブの街をおめかしした麻衣子を自転車の後ろに乗せて疾走する。

あのね、中学生の男の子ってのが、イイのよね。彼女が、「バイクとかじゃないの?」と呆れ気味に言うのに対して、「僕、中学生ですから」なんて冷静に言うも、でもその自転車の二人乗りが、たまらなくリリカルなの。光りが一切消え去った、群青の夜を、自転車二人乗りのシルエットが、しかも粉雪が静かにふりそそぐ中をゆくなんて、なんかもう、あまりにリリカルに美しくて、呆然と見入ってしまう。
男の子の方は、年上の、しかもモデルをやっているなんていう美少女の彼女になんだかドギマギとしているし、彼女の方は、年下の男の子だから、今まで強がっていた気持ちを、この闇の中だから余計に、なんだか言えちゃって、しかも彼が連れてきてくれた、使われていないプラネタリウム、なんてルール違反のロマンチックじゃない!そしてこの光りが消えた東京の空を、天窓の一部が大きく開いて映し出すの。

見上げて、横たわる二人。
「私は、生きたいの。だから手術を受ける」
「胸がなくなったら、どうやって赤ちゃんにミルクをあげるのかな、とか考えるの。でもほ乳瓶であげればいいのよね」
そんな彼女に、「……なんでそんなこと言うんだよ」って、翔太は泣くの。
「どうして翔太君が泣くの」
なあんか、すんごい胸を打たれちゃうんだ……。

まだまだいーっぱいエピソードはあるんで、先を急ごう。じゃあ、今度は元チンピラの銀次と礼子の話。訪ねてきた彼に驚いて買い物袋をドサッと落とし、一目散に走って逃げる礼子は、地下鉄の改札で彼に追いつかれちゃって、産気づいちゃうの。
妊婦が全速力で走るなよ……。
と、さすがにここは突っ込みたくなったが、銀次が出てくるまで待ってる、と彼女は約束したのかどうか、とにかく銀次は愛する礼子だけを心の支えにお勤めをすごしてきたわけで。

でも、彼は思ったより、怒らない。いや、礼子が妊娠しているから、ということを差し引いても、案外平穏である。
唯一、二人が病院に向かう地下鉄に乗っている最中に停電に見舞われ、マニュアルにとらわれて、銀次が電車から降りて礼子を病院に連れて行くことを承知しない車掌にキレた時ぐらいで。
彼は、刑務所で、「オヤジに似た」牧師に説教され、「言われることがいちいちぐさぐさ胸に刺さってさ」と洗礼を受けたんだという。今はクリスチャン。だから愛する女が自分を裏切って結婚してしまったことも、怒らない。
でも礼子はそれが苦しくて、怒ってよ!って、言うのね。
彼は言われたとおり、この裏切り者!って叫ぶんだけど、でも、それでも、お前にホレてる、と言うの……。

地下鉄の線路から外に出て、拾ってくれたのが、妻から驚愕の事実を告げられた儀一だった。
そして、儀一は礼子の出産に立ち会い、赤ちゃんの新鮮な生命力に感動し、そこで知らずに遼太郎と出会い、ともに赤ちゃんの奇跡に感動を分かち合う。
この不思議なえにし。だって儀一の妻の小夜子は、かつてそのお腹に赤ちゃんの遼太郎を宿していたんだもの……。
そして銀次は、礼子から長男が自分の子供だと告げられる。……とハッキリ言っている場面があるわけではない。長男の写真を銀次に見せ、彼の顔をじっと、じっと見つめる礼子。それで銀次は判ってしまうのだ。

でも、この時点で銀次は、負けてしまったんだよね。お腹に別の男の子供を宿した礼子をまるごと愛して受け入れた男がいるってことなんだもん。忘れられない好きな人っていうのは、いると思う。礼子と銀次はお互いをそう思っている間柄。でもそれが運命の相手っていうわけではないんだ。それが幸せなわけではないんだ。それは一番、二番というだけじゃ片付けられないもので、いや……やっぱり一番、二番かもしれないな。好き、なんていうものを超越して、愛するなんていうのも、超越しているかもしれない。自分が一生一緒にいるべき相手として礼子が選んだのが、今の夫だったんだと思う。
その夫も、そういうことが判っているからこそ、礼子と結婚したんだろうと思う。
そして銀次は……以前の銀次なら、そんなこと、納得できなかったかもしれない。あるいは私だって、納得できなかったかも。好きだってことが、愛しているってことが、大事なはずじゃないかって。でも……違うかもしれない、って今はそう、思うんだ。きっと、銀次も。

そのことを、一緒にいた長い長い時間で感じさせてくれるのが小夜子と儀一の夫婦。一度は妻の告白に動揺して、聞きたくなかった、聞かずに死にたかった、と家を飛び出してしまう儀一だけど、この長い長い、でもたった一夜を経て、妻に、会いに行ってあげなさい、という場面には、思わず涙がこぼれた。
小夜子はきっと今でも、今死にゆくかつての恋人に恋心を失わずにいると思う。
もう長年連れ添った夫には、愛してるとかいうベタベタした感情を超えた、深い絆があって、それは忘れられない恋心と比べて弱い感情のようにも見えるんだけど、でも違うんだ。
儀一は、木戸のバーで、彼が待ち焦がれているかつての恋人、静江は来ないだろう、と言った。夫婦には築き上げてきた時間がある。そう思いたい、と。
そう確かにそのとおりだった。静江と木戸に関しては……半分だけだけど。

この半分だけ、というのがね!すんごく絶妙で、心に染み入ったエピソードなのだ。
あ、でももうそこまで行っちゃっていいのかな。何か忘れてる……そうだ、美寿々とエレベーターで乗り合わせたホテルのボーイ、李冬冬のエピソード。
この李冬冬を演じる阿部力は、本当に半分中国系で、帰化する前の本名がこのキャスト名だっていうんだからちょっと驚く。で、今はアジア圏をまたにかける国際派役者なんだって!
なんてことを言っているとかなりキリがないので……というのも、ここまで役者のことはかなりスルーしてきちゃったけど、ほおんとにイイ役者が揃ってて、全部言ってたらキリないのよ。でも、ここでの、美寿々役の井川遥に関してはやっぱり言っときたいかな。

彼女、イイよね。彼女の役者としての変遷、というか進化は、小島聖のそれを思わせるんだよね。最初大して重要視されてなかった女優だったのが、匂い立つコケティッシュと空気感で印象を植えつけ、その中で持ち前のガッツで演技力を身につけていくっていう……。天性のものと、努力とを備えているところが、素晴らしいんだよなあ。
エレベーターに閉じ込められる李冬冬とは、この限定の空間での共有感覚、それもかたや恋人にフラれ、かたや遠距離恋愛でヤバイ状況にあるという二人が客とボーイという立場をいつのまにやら超えながらも、でも安易な結果になったりせず、お互いの場所に戻っていくという……。それも、美寿々は不倫相手に決定的にフラれたわけで、李冬冬だって、最近カノジョとの距離感を感じて焦っているわけで……美寿々が、「フラれた者同士、付き合っちゃおうか」という展開だって、安易にありえたはずなんだけど。

でも、やっぱりそれって安易なんだよね。たとえ李冬冬が上海のカノジョにフラれる結果となったとしたって、そうなるまで全力で頑張らなきゃダメなんだってこと、美寿々だって好きな相手になりふりかまわずぶつかってきたんだから、判ってるはずなんだ。
ホテルに呼び出した遼太郎に、「こんなこと言えば、あなたが困るだけって判ってても、言わずにはいられないの」と涙ながらに迫っていた美寿々は、李冬冬の前で涙にくれる。
「奥さんと別れて、なんて言うバカな女にだけはならないと思ってたのに……」
でも、彼、こう言うのだ。
「全然みっともなくなんてありませんよ。普通じゃないですか。真剣に人を好きになったら、なりふりなんてかまってられません」
これで二人の気持ちが通じ合ったのは本当だけど、でもそれは、お互い好きな人を、本当に思っているから、だから、なんだよね。
ようやく救助が来て、助け出されて。タクシーを呼びますと言う彼に彼女、「外の風に当たりたいの。そして帰って熱いお風呂に入って寝るわ」と言い、名残惜しげながらも彼に背を向けて歩き出す……停電じゃ、お風呂を沸かすのも難しくないか?彼女が手回し着火の風呂に入っているとも思えないし……。などとツッコむのはルール違反かなあ。

ようやくメインにいけるかな。ジャズバーのマスター、木戸と、かつての恋人静江の話。
確かに、静江は来た。でも店の窓越しに彼と見つめあっただけで、中には入らずに、そのまま帰って行った。
でもそれがね、それがね、……とても大きく、深い意味を持つのね。
それは、来てほしくないと言った儀一の思いも、来てほしいと言った美寿々の思いもかなえたことに、なるんだもの。
静江は木戸のこと確かに好きだったし、愛人を作った夫との疎遠な夫婦生活に、離婚届を書くぐらい追いつめられていたのも事実。でもあの、店の窓の外から見つめあったしばしの時間に、私は夫と生きていきます、という気持ちがジンジン伝わってきて、さすがベテラン映画女優、原田知世の真骨頂、と感嘆する。

そして、まだまだそんな人生の深い機微を知らないように見える、ジャズバーの向かいのキャンドルショップの年若い店主、のぞみは、ずっとずっと木戸を見つめ続けて、つまり彼に恋していたのに、でも、だからこそ、彼が待ち続ける彼女が来て欲しい、と思う。
でも一方で、この停電の夜にふとしたきっかけで、……今までは向かい同士の店でもまるで付き合いがなかったのに、停電ってことでキャンドルショップが大賑わいで売り切れちゃって、外に出てきたのぞみを、木戸が自分の店で飲まないか、と誘って。
ちなみに、このキャンドルショップの最後の品を買ったのが、木戸が待ち続けている恋人の夫、遼太郎なんであり。
売り物のキャンドルは売り切れてしまったけれど、のぞみ手作りの、燃え残りのロウで作ったキャンドルがその手に沢山抱えられていた。木戸に店に迎えられて、のぞみはそのキャンドルをびっしりと店の周囲に点してゆく。
そして、美寿々、儀一、銀次のお客さんがやってくる。
のぞみは、沈んでいる美寿々の前に、「あなたにいいことがありますように」とキャンドルに火をつける。「燃え残りのローソクでつくるローソクが私大好きなんです。普通のローソクにはない深い色合いが出るんですよ」燃え尽きてしまった恋なんてないんだって、言っている気がする。そんな風に言われたような表情を美寿々を演じる井川遥は見せてくれる。

あ、そうだ。ひとつ忘れてた。銀次は、ほんのちょっとこのバーにいるんだけど、酒はやめたからと飲まないし、すぐに出て行ってしまう。「用事を忘れていた」と。
その用事とは、予定より早く出産してしまったことで、長男の迎えに行けなかった礼子の替わりに“わが息子”に会いに行くことだった。
偶然(ってあたりはちょいとツッコミたいけど)出会ったイベントかなんかのサンタさんの衣装を借りて、保育所?に忍び込む。
気配に気づいた彼の息子、「ぼくずっとサンタのおじさんに会いたかったんだ」って。銀次「……サンタさんも会いたかった」ああ、ああ!もう、この言葉の深い深い感情に、ゆさぶられずにはいられないじゃないの!

まあ、と言いつつ、この場面はサラッと流そう。戻ります。離婚届を書いていたぐらいだから、夫、遼太郎と別れるつもりだったと思われる礼子。夫が帰ってくる直前、木戸の元に行こうとしたんであろう、おめかしした彼女、でも夫が帰ってきて、二人、久しぶりに一緒に家での食事をともにする。
「そんなの、どこで買ってきたの?」
「通りすがりのキャンドルショップ。思ったよりハデだな」
「そんなブラウス持ってたっけ」「もう一年も前に買ったのよ。私はあなたがどんな服着てるか全部覚えてるわ。だから趣味が変わるとすぐ判るの。……ごめんなさいね、グチはやめましょう」
仕事が忙しくなって、いや愛人が出来てから、ほとんど家で食事をとらなくなった遼太郎、でも、木戸の元に行こうとした直前に夫が帰ってきたのはやはり運命だったのか。

のぞみを演じる田畑智子がイイんだよねー。これだけのイイキャストが揃っていながら、しかも彼女がタイ張る木戸が豊川悦司っていうツワモノながら、全てのキャストの中で彼女が一番のキラキラを放ってる。豊川悦司に対して、ほどほどの若さで、だけどアイドル女優じゃないしっかりとした存在感と演技力があり、しかしそれがイヤミにならない、若さゆえの愛くるしさがあって、っていうのがね!彼女の存在があったからこそ、扇の要がビシッと合わされたからこそ、この映画が素晴らしいものになったんじゃないかと言ったって過言じゃないでしょ!そりゃメインは木戸役の豊川悦司であり、その彼が思い続ける原田知世は、彼と見つめ合う何十秒かで全てを語る、さすがベテラン映画女優!のカンロクを発揮してるんだけど、でもやっぱりやっぱり、田畑智子なのだ!このイモっぽい名前と親しみやすい風貌でウッカリとりこぼしそうになるけれど、これは彼女の愛くるしさがなければ絶対に、成立しなかったでしょ!なんかねー、やたらカワイイのよ。彼女、木戸のことをずっとひそかに好きで、でも見つめるばかりで伝えることが出来なくて、このまたとはないキッカケに全てをさらけだしてしまうでしょ。「木戸さんは女の気持ちが判ってない!」なあんて。もう酔いに任せて、飲めないのに。もうそれがたまらなく可愛くてね!

そして夜が明けて、彼女のおかげで気が晴れて、やめようと思っていたバーも続けることにして、そしてのぞみにニューヨーク行きの航空券をプレゼントする。かつて、静江を呼び寄せようとしたニューヨーク。
「……マジですか」チケットを手に、ボーゼンとするのぞみ。
「ただ訪れるだけなら、ニューヨークはいいよ。好きな男とでも行ってこいよ」
なーんて、この期におよんでボケボケなこと言ってる木戸に捧げるようにチケットを持った手をせりあげるのぞみ。イイカゲン気づけー!
いや、でもこのシーンはそんな可能性を思わせるよね!

時間のマジック。いつもと同じ速さで時間は流れているハズなのに、この一晩が特別で一生忘れられないものになる。イヤミなく、本当にキレイで、心の中まで照らし出す光と闇。

映画のスポンサーである、ブレンディを飲む原田知世、には思わず笑っちゃったけど……。こういうのは仕方ないのかね、うーむ。

★★★★☆


大統領の理髪師  /THE PRESIDENT'S BARBER
2004年 116分 韓国 カラー
監督:イム・チャンサン 脚本:イム・チャンサン
撮影:チョ・ヨンギュ 音楽:パク・キホン
出演:ソン・ガンホ/ムン・ソリ/リュ・スンス/イ・ジェウン/チョ・ヨンジン/ソン・ビョンホ/パク・ヨンス/ユン・ジュサン/チョン・ギュス/オ・ダルス

2005/4/18/月 劇場(渋谷Bunkamura ル・シネマ)
韓国圧制の時代といわれる60〜70年代を舞台に、寓話的ではあるものの、主要な事件や状況は忠実に配し、市井の人を主人公に彼の視点で描いた本作。当然私は韓国の現代史なんてものは全然知らないし、その描写自体に時々判りにくさを感じなくもないけれど、基本的にはその中で右往左往する、でも一番大切なものは変わらないお父さん、という姿がじんわりとくるんである。床屋さんのお父さん。それを演じているのがソン・ガンホ。はー、良かった。彼は上手い役者だからホントにいろんな役を演じてるけど、まあその見た目で!?やっぱりこういうキャラクターが似合うよね。「復讐者に憐れみを」はホントにキツかったからなあ。
こういうキャラとか言いつつ、舞台となる時代は複雑にうねっているんであり、その中で悩み苦しむというお父さんの姿は、やっぱりこれぐらい上手い人でないと、“じんわり”こないんだよね、やっぱり。
でも、実は私はタイトルのイメージから、もっと単純にほのぼの系かと思ってたもんだから(前知識、一切ナシ!)この大きな韓国史の流れをダイナミックにつづっていくことに、あ、そうなんだ……と勝手にとまどっていたりもしたんだけど。イメージしていたより、ずっと大きな物語だったから。

主人公、ソンさんは、大統領官邸のある街に住んでいる。大統領のお膝元であるということが、彼ら街の人たちの誇りである。でも、ささやかな街なんである。人々もささやかに暮らしているんである。
大統領のお膝元ってだけで、彼らはその時代の大統領は無条件に信じてる。その大統領の権力存続のためにいいと信じるなら、不正選挙にだって手を貸してしまう。街にはそんな政治をアツく語るオジサンとかもいるんだけど、彼だって結局は“大統領のお膝元”であることを無条件に支持しているだけにすぎず、時代の流れに流されるしかないということに、気づいているわけではない。
そんな中、学生運動の波がやってきて、このオジサンなんかは、不正選挙のことなどどこへやらとタナにあげ、大学生のせいで大統領が失脚した、などとごちるんだけど、新しい大統領が決まれば、その政権に従う。きっとずっとそうやってこの街は暮らしてきたのだ。
このオジサンに象徴されるような、この街の人々と比べれば、理想を信じて時代を変えようとする学生運動の大学生たちの方が、正しいのかもしれないし歴史に刻まれるのかもしれない。でも私たちのほとんどは、その状況下に身をゆだねるしかない。今が正しいのだと信じるしかない。その弱さは時に罪深いものでさえあるけれど、でも大学生と違って、市井の人たちには今、自分たちの生活を必死に生き抜くことこそが大事なんだもの。
そんな自分の生活を大事にしてきたお父さんが、しかし大統領専属の理髪師になってしまったことで、大統領、ひいてはその政治社会こそが自分の生活に侵食してきてしまって、政治が市井の生活に与える影響が改めて浮き彫りになるんである。

こんな下町の小さな床屋の主人が大統領の理髪師に抜擢されるなんて、それこそ寓話なんだけど、でも彼がこの街に住んで長く、街の人たちのことも良く知っているということで抜擢されたんであって、それは彼にとってかなりコワいことであるに違いなく。
だって、つまりは彼は、他の街のみんなと同様に、時の政権に無条件に従っているだけであって、その政権を支持していたからってわけじゃなかったんだもん。そのことにさえ、彼は気づいていなかったのかもしれないけど、前の選挙で不正に手を貸したことなんかが、この時になって彼の心に大きな不安をよみがえらせる。
でもそんな中、彼には大事な家族が出来てる。ほとんどダマしに近い形で口説き落として妊娠させちゃった(しかも彼女には故郷に結婚を約束した人がいたというのに!)奥さんと、生まれた一粒種の長男である。この長男が生まれたのは、奇しくも学生運動の結果、政権が倒れた記念すべき日であった。そんな“覚えやすい日”が息子の誕生日であることをこのお父さんは自慢している。……自分が一応支持していた政権なのに。まあこのあたりの矛盾が、実にこの市井の人を表わしているとも言え。
それにしても、この産気づいた奥さんを荷車に乗せて、学生運動の波の中を運んでゆく場面はかなり笑えたけど。だって、ソンさん床屋さんの白衣着てるし、荷車に乗った奥さんはうんうん唸ってるから、患者さんを運んでるお医者さんに間違えられちゃって、流血の学生が次々と奥さんの乗った荷車に乗ってきちゃうんだもん(笑)。ちょっとブラックな絵なんだけど、このあたり秀逸なユーモアなんだよなあ。

かくして、ソンさんは大統領の理髪師とあいなる。もう最初は緊張して倒れこむぐらいで、官邸内での仕事のことも固く口止めされていたから、彼は自分が大統領の理髪師であるということを、家族にさえ言えなかった。でも彼のために専用の理髪ルームも用意され、大統領のみならず官邸の人々の髪も切り、何より大統領と一対一で、髭剃りさえも任されるという、信用第一のこの仕事を、ソンさんはとても誇りに思うのね。その後、いつでも大統領に従って各国とかにも行っちゃうから(ホンモノっぽいニュース映像に映りこむ、ソンさんの誇らしげな顔ッ!)街の人たちにも彼が専属理髪師だってことが知れ渡って、すっかり有名人になっちゃうの。
一方で、ソンさんは、政権が次第に独裁化していくのを目の当たりにしてゆく……。

マルクス病という北から持ち込まれたという感染病が広がりを見せ、誰が北のスパイと接触したのか、という展開になってゆく。下痢しただけで北との接触でスパイだってことになって、捕まっちゃう。街中が戦々恐々としている。
ソンさんはね、この大統領のそばにずっといて、でダンディでハンサムなこの大統領がソンさんを信頼して案外と気さくに心を開いてくれたりしたから、人間としてはきっと好きだったと思うのね。
でも、この大統領が、側近のアドヴァイスにも耳を貸さずに、その強硬な態度こそがリーダーシップであるみたいな感じになってゆくのを、ソンさんは結局はただの床屋さんで意見することなんて出来るわけないから、不安げに、哀しげに、見守るしかない。それはどこか、自分の友人が間違った道に進んでいくことを止められない、といった顔にも見える。
そりゃ、ソンさんはただの専属理髪師。友人であるはずも、友人になれるわけもないんだけど。

でもね、この大統領との最初の邂逅の時、ソンさんが、四捨五入の話をするでしょ。自分の息子は四捨五入で生まれてきた……つまり、妊娠が発覚した時もう五ヶ月目にはいっていたから、四捨五入の思想で生ませたんだと、まあ笑い話として言うのね。でもこの大統領、その話にはちっとも笑わずに、四捨五入は日本の考え方だ、自分は日本の陸士学校で学んだから知ってる。で、そうして持ち込まれた日本の思想に対して、ヤな顔をするじゃない。でソンさんが、しまった!余計な話をした!って……何か最初からコミカルで。
でも大統領ってばその時、ひとこと日本語で言うんだよね。何だっけ、「最高の気分だ」とかいうことを。でもさ、日本とは敵対してて、でもその日本の学校で学んでて、で独裁政治に邁進していくこの大統領が、ソンさんとの出会いの時にこんな台詞を言ったのって、なんというか、ちょっと複雑なものを感じるんだよなあ……。

ただ、この大統領がとっても孤独な人であり、自分で決めた圧制のはずもその実体をつかんでないところでどんどんヒドいことになっているっていうのが、その図式がソンさんには見えているし、何よりその中に愛する息子が巻き込まれてしまったのだもの。
ソンさんはこんな立場になってしまったから、息子が下痢になってしまったことを隠しとおすことが出来ない。でも何よりこんな立場なんだから、ただの下痢であることが証明されれば、帰してもらえると思ってた、んだけど、圧制の世はそう甘くはなかったんだよね。
だって、大統領は、ソンさんの息子が捕まったなんてことさえ、知らないんだもの。結局トップとはそういうこと。
捕まったスパイ容疑者たちは、電気拷問機にかけられる。こ、これが……「復讐者に……」に出てきたあの電気拷問機そのものであり、うわあれだ!この時代の名残りだったのかあ!と身震いする。うう、シャレにならん。しかもこんな子供にさえ、それをかけるんだもの。

でも、この息子の担当になった人はさすがに不憫に思ったのか、絶対よわーくしかかけなかったんだと思うんだ。一応そんな体質じゃないみたいな描写にはなってるけど。息子はくすぐったいとゲタゲタ笑うばかりで、しまいにはこの担当官とロックでノリノリで遊んじゃったりする。
本当は、このあたりはズルいような気がしたんだけど……子供に対する拷問は、そりゃ映画で見せるのは悪趣味だけど、多分、本当に、それさえもあったに違いないんだもん。
ただ、何とか解放されたこの息子には後遺症があらわれてしまう。あの継続的に行なわれた電気ショックのせいか、足がまったくきかなくなってしまったのだ。歩けない、どころか、立てもしない。ソンさんは怒りをどこにぶつけていいか判らないような状態で、街に出て、叫びまくる。
「俺の息子をこんな体にしやがって!!」
当然この場合の責任は大統領なんだけどね……でも、ソンさんは結局直談判も出来なかった。それ以前に、大統領に仕えているという立場にがんじがらめにされて、息子を差し出すようなことになってしまった。すぐ戻ってくると思った彼、でも心のどこかではこうなるんじゃないかということも判っていたかもしれない。当然奥さんはそんな彼をなじりまくる。ソンさんは何も言うことが出来なかった。官邸に入り込んでいても、大統領やその側近たちと親しく話す機会があっても、結局はソンさんは市井の人に過ぎなかったのだ。市井の人のために政治があるはずなのに、市井の人は意見さえも、言えない。

それは、こんな場面でもよく判る。ソンさん一家が大統領主催のパーティーに招かれる。ソンさんの息子が大統領や側近の息子たちにお父さんのことをからかわれて怒り、突き飛ばしてしまう。慌てて駆け寄ったソンさんに息子は、だってお父さんがからかわれたんだもの、と訴える。大統領や側近たちも異変に気づいて集まってくる。大統領は自分の息子に、「そう言ったのか?」と問うと、このバカ息子「言ってないよ」と。
この子供のズルさの図式っていうのは、そのまま街の子供たちとのやりとりでも全くおんなじことがあったわけで、その時はソンさんはからかった子供を、その子が言っていないと否定しても容赦なく叱りつけた。でもこの子の父親である練炭屋がソンさんが不正選挙に手を貸したことの目撃者であると知るや、ソンさんてば掌を返したようにその態度をあらためてこの子におこづかいなぞくれてやっちゃって、そのことにソンさんの息子は納得できないものを感じていたりしたんだけど。
で、この子供同士の図式はおんなじでも、でもやっぱり大統領の息子だから。大統領は「子供同士のケンカにすぎない」と見逃してくれるんだけど、ウラでソンさんは側近に「ここをどこだと思ってるんだ」と罵倒され、銃を頭につきつけられることさえされ(簡単に銃が出てくるあたりが怖いんだよな……)足を蹴飛ばされ、ソンさんはただただひれ伏すしかない。
あの時、練炭屋に対して態度を変えたのと、一見同じように見えて、違うんだということを、息子は判ったんだよね。この場合のソンさんのただただ頭を下げるしかないこと、理不尽なことに頭を下げるしかない姿を息子に見せなければならない父親っていうのは本当に哀しいんだけど、でも息子が、それは自分を守るためなんだって理解しているっていうのが大きな違い。練炭屋に対する態度は、ソンさん自身の保身のためだったけど、これは息子を守るためだってことをね。
ただ、そういうことでしか守ることができない市井の人の哀しさっていうのは無論、あるんだけれど……。

この時代にはベトナム戦争派兵もあり、ソンさんの理髪店の従業員は、アメリカ文化への憧れから意気揚揚として従軍する。でも、帰ってきた時にはめっきり無口になっちゃってる。とても明るい人だったのに。彼の従軍の描写は、せいぜいアメリカ兵にシカトされるぐらいしかなく、本当はもっと辛いことがいっぱいあったに違いないんだけど、でももしかしたら、本当にそれこそが一番象徴していたのかもしれない。アメリカ文化への憧れも皮肉な意味としてそういう……なんていうのかな、結局は大国に使われているしかない、そうして泥沼の戦争しているだけだ、っていう。
だって、やっぱりベトナム戦争は、世界的な結論で言えば、間違った戦争だったわけでしょ?この、韓国の圧制の時代の負の部分を象徴しているとも言えるんじゃないのかな……。

ソンさんは足の動かなくなった息子を背負って、国中の漢方医を訪ね歩く。なんてことも大統領は知らないでいる。で、ソンさんは、すごーい山奥の、まだ雪深い中を、冷たい川を素足で渡り(うわッ!)仙人みたいな名医に会いにゆく。その医者は体は治せるけれど、心は治せない、と言う。つまり息子の治らない足は、心の問題だっていうのかなー。でもあの電気拷問機にかけられ続けたせいだとしか思えないし、残酷描写を避けてあの担当官とは仲良くやっている描写をわざわざ用意していたのに、それが意味なくなるような気がするんだけど……。
ともかくもこの医者は、不思議なお告げをする。数年後、龍は死ぬ。菊のお輿に乗せられた龍の目を削り、菊の茶に混ぜて飲ませれば、この子の足は治る、と言うんである。
龍、と呼ばれていたのは当然、大統領である。ソンさんはそんな不思議なお告げに戸惑いながらも、当然ずっとその台詞を忘れられずにいた。

そして数年後。運命の日、ソンさんが大統領とかわした最後の会話がとても印象的なのだ。大統領はいつものように静かに仕事をするソンさんに言う。「君だけはずっと変わらない。控えめで誠実だ」そして言う。「もう何年になる?」「12年です」「君も長いな」「閣下も長いですね」「……」その意味が当然違うニュアンスだということを、二人とも言外で判っている。大統領の周囲の対立状態が今まで以上にデリケートになっていたから。
そしてその夜、大統領は暗殺されてしまう……。
私ね、やっぱりソンさんはこの大統領のこと、好きだったんだと思うよ。独裁者ではあったけど、最終的には祭り上げられた孤独なトップだった。やっと訪れたチャンス、大統領の肖像画の目を削り取る時、ソンさんが再三躊躇したのは、時の政権にいつでも無条件に従っていたことと、その政権を初めてハッキリと憎んだこと、でもその大統領を一人の人間として間近に見ていたこと、そんなことが複雑に絡み合っていたんだと思う。
政治というのは、個々の人間には既に抑えられない、バケモノのような大きなうねりなのだと思う。
カリスマリーダーだったであろうこの大統領も、把握しきれないものだったのだろうと思う。
ソンさんはこの政権に入り込みながら、この政権を憎みながら、そのことも判ってしまったから、……あの大統領との最後の静かな二人の時間が、お互いこんな立場じゃなかったら、いい友人になれたかもしれないのに、みたいな感慨を起こさせて。

次の政権でも仕事をしないか、とソンさんは誘われ、断わるものの、どこか有無を言わさずみたいに連れてかれる。でも、ソンさんてば、ハゲの大統領に言っちゃうんだよね。「髪が伸びたらまた来ます」
それで袋叩きにあっちゃって(笑)、放り出されてしまう。でもソンさん、「すっとした」って。その中にはこの単純な言葉以上に、長い長い間に積み上げられた複雑なものを感じさせるんだよなあ。
すっかり大きくなった息子が、あの煎じ茶を飲んで見事足が治る。まだおそるおそるな歩き方だけど。その息子の姿に妻は感涙ながら笑顔、ソンさんは、もうなんか……たまらない泣き出しそうな表情で迎えるのがね、この袋叩きのソンさんとともにこのラストの、寓話的ながらも見事な収斂がイイんだなあ!★★★☆☆


台所太平記
1963年 110分 日本 カラー
監督:豊田四郎 脚色:八住利雄
撮影:岡崎宏三 音楽:団伊玖磨
出演:森繁久彌 淡島千景 森光子 乙羽信子 京塚昌子 淡路恵子 水谷良重 団令子 大空真弓 池内淳子 中尾ミエ 小沢昭一 飯田蝶子 西村晃 若宮忠三郎 萬代峰子 都家かつ江 松村達雄 山茶花究 三木のり平 フランキー堺

2005/6/17/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(豊田四郎監督特集)
もう最近はスッカリ若い頃の森繁久彌にゾッコンなのでこの特集に通ってる次第なんだけど、もひとつ。森繁久彌が谷崎モノをやるということに関する興味もまた激しくあるんだわ。だって「猫と庄造と二人のをんな」はもうもう、最高!だったんだもん。しかもその時谷崎本人に声をかけられているというんだもん!
本作での森繁久彌は私の中での(つまり年をとってからの)彼のイメージに近づいてきており、それに何よりこの物語の主人公は女中さんたちだから、森繁久彌はひたすらそのワキをウロウロするような感じなんだけど、やっぱり、ね。タイプは違うといえど、同じエロオヤジ同士!?だから、谷崎を映したようなこの磊吉ってーのは森繁久彌じゃなきゃダメなのよね!小説中ではこんな風に狼藉(だよなー、既に……)を働く描写はない。しかし劇中の森繁久彌はまさにやりたい放題で、あんまをしてもらっちゃあ、うつぶせになった状態で足を折り曲げて女中さんの尻やら胸やらを足で触るし(やるかー?普通……)さりげなく手を握るなんてことはしょっちゅうで、このさりげなくの狼藉がいかにも森繁久彌で(これってさあ……ホントにこの人の地だよな、って思っちゃうよね)もうそれがおっかしくてたまらず、さぞかしカメラのこちら側のスタッフたちは笑いをこらえて撮影していたんだろうなと思われる。

でも、小説中ではそんな狼藉を働いていないとはいえ、もしかしたら書いてないだけで女中さんたちに本格的な狼藉を働いていたんじゃなかろうかというような含みが感じられるんだよね。結構連れ歩いたり、書斎で口述筆記やマッサージさせたりしてるんだもん。その延長線上を考えちゃうじゃない。でも実際には書いてない。んで、この小説家の主人が女中さんたちをそれぞれどんな風に好きだとか、それはこれこれこんな風にいい子だからとかっていうのは、あの谷崎のねちっこい筆致で延々と書かれるからこそ、その女中さんたちの人となりが詳細に判り、若い女の子好きってのはあるけど、この主人がその子たちを愛している理由がまあ、判るってなもんだけど、映画じゃ時間的限界もあり、しかも原作に出てくるほぼ全ての女中さんたちをとんとんと出してくるから、そんなことを語っているヒマはないわけ。それがね、森繁久彌のさりげない狼藉っぷりと、「私は君がいい子で好きだから」の一言で(普通、言えないよ。いい年のおっちゃんが若い女の子にさ)すべてが片付いちゃうんだもん。やはりこれは森繁久彌じゃなきゃ出来ない芸当なのよねー。

原作中でも最もキョーレツな印象を残した、磊吉がただ一人気に入らなかった女優、小夜のキャラづくりがなんたって最高なんである。小夜だけは自分から売り込んで住み着いた女中。どうやら小説家の磊吉の熱烈なファンらしく、しかも同性愛者、というそれだけでもスゴいキャラクターなんだけど、当然小説中ではどんなに筆致を尽くしても、具体的な感じ、というのはそうそうリアルに想像は出来ないじゃない。で……淡路恵子ッ!こうやっちゃってくれましたか!もう、ビックリ!!まず物陰からじいいッ……とばかりに唇を舐めまわしながら磊吉を覗き見る彼女のアップから始まる。スカートの裾やうなじにやたらと香水をふるあたりから、どーも異様である。同僚の節に呼ばれてシーツの洗濯を手伝う……かと思いきや、その裏側に彼女を引き込んで、シーツの下からにょっきりと出た二人の足、節の足になまめかしく絡められる小夜の足……どー考えても、なにやってんだか判っちゃう。そこに玄関のベルの音が。シーツから出てきた小夜、初めて声を聞かす……すっごい、低−い、アンニュイと言えば言えるかもしれない、というより気味の悪い声で「……お客さんだわ」こ、これだけで虚をつかれて爆笑!

とにかくこのトーンで押し通す小夜、磊吉に弟子入り志願にきた文学青年を、主人に断わりもせず、座ったっきり、しんねり、ねっちり断わり続けたり、音もなく磊吉の書斎に入ってきたり、影だけがさーっと横切ったり。磊吉の引き出しに入れた「鉛筆を借りました」というメッセージの紙、なぜ勝手に引き出しを開けた、と磊吉が彼女を怒る。んで部屋を憤然と出て行く。彼女、まったく表情を変えずに、その薄紙をくるくると指でたたんで、ぽいっと口の中に入れてしまう!?なあんかもう、そういう一連の意味不明な行為とかがやたらと可笑しくてたまらない!気味悪がって彼女を追い出せと妻に訴える磊吉が、ふと引き戸を開けるといきなりそこに座ってるし!もおー、本当に爆笑の連続!小夜の場面だけよ、こんなに磊吉があわてふためいて、動揺しまくってるの。んで、そういう森繁久彌がいっちばん可笑しくて、いっちばんカワイイんだよなあ!小夜の話をするのに声をひそめる奥さんに、「どうしてお前までそんな低い声で話すんだ!」と泣き出さんばかりに言うとことかサイコー。足音のしない小夜を「まるで猫だ」と気味悪がる磊吉だけど、そんな磊吉が猫をそれこそ猫っ可愛がりしているあたりの皮肉も効いてるのよね。
この小夜については原作の方では次に勤めた先で、追いかけてきた節とのもんのすごい生々しいレズビアン事件があって、それをここでも見たかったなと思わなくもなかったりして。他の女中さんのエピソードでも、有名女優の付き人になった百合の、その付き人時代の話の方が女中時代よりすっごいキョーレツでこれも映画で見たかったなと思ったけどそれもないのよね。つまりは、この千倉家での女中さん、というのを映画のルールとして決めているみたい。まあそうでもしなきゃ、こんなにたくさんの女中さんの、たくさんのエピソードをとても裁ききれないもんなあ。

あ、でも原作にないエピソードも作ってる。ま、それでなくてもこれだけの女中さんたちを映画では数珠繋ぎ形式にどんどん語っていくから、原作と時間軸が違ったり絡む女中さんが違ったりってことはあるんだけど(このあたりの処理の仕方はさすが巧み)、その原作にないエピソードがね、ふとっちょの女中さん、駒の恋物語である。原作では女中としての忠義に生きて、最後の最後、かなり大年増になってようやく結婚が決まるんだけれど、映画での彼女は自らペンフレンドと文通するという積極的な行為を見せ、しかもその二人が出会う場面が最高なんである。なんたって駒はふとっちょだし、会ってみた相手もなんかミスターオクレみたいな正直うわっ、て感じの人なんだけど、お互いガッカリする風もなく、ニコニコなんである。「僕を見てガッカリしたでしょう」と彼。「いいえ、私こそ」と駒。「全然そんなことありませんよ。考えていたより、少し圧迫感はあるけど」圧迫感!!!モノは言い様だけど、これはいい方向の言い様なのかどうかはビミョーだぞ!でも圧迫感って言い方が凄い好きだー!

「珍品堂主人」でとっても感じが良かった乙羽信子は、ここではてんかん持ちでおきゃんな騒動娘、梅である。冒頭、初のお見合いに浮かれて見合い相手に出す酒をしこたま飲んじゃって、興奮してしまったのか、いきなりの発作!仰向けにぶっ倒れて太もももあらわに、手をわきゃわきゃやって目と歯をむいている乙羽信子ッ!いや、それより、次のシーンの方が凄い。発作が収まって、いびきをかいて寝ている彼女、とつぜんムクリと起き上がってどたどたと土間に歩いていき、片足を土間にひっかけて、おしっこ!おーい!原作ではちゃんと便所に入ったってば!す、凄いなあ、この脚本での変化が……でもね、カワイイんだよね、乙羽信子がすっごく。彼女はフランキー堺演じる安吉という船乗りとイイ仲なんだけど、会いにきた彼にむくれたり、はしゃいだり、くるくると表情を変えて、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにまとわりついたりして、ほおんとに、カワイイの。乙羽信子がカワイイなんてちょっと意外だったなあ。

ところでこの時見合いをしている初というのが森光子。うわー、すっごい地味!むしろ今の方がキレイ!原作でも初は容貌が今ひとつみたいな設定だったからかもしんないけど、他の女中さんたちが皆平均以上にキレイなのと比べると(駒はビミョーだけど(笑))、この森光子の地味さは結構、驚く。森光子だよな、と思いつつも観ている間はちょっと信じがたく、後で確認して、やっぱりそうだったと思っても……なあんか、ビックリしちゃうのよね。
この初は登場する女中さんたちの中で最も古いタイプの女性。時代はどんどん移っていって、女中さんたちはそれぞれに個性的ではあるものの、どんどん新時代の女性になっていくのがよく判る。それが顕著なのが、結婚の仕方。親や女中として仕えている主人たちのお世話で紹介される見合いがもっぱらだったのが、いわゆる自由恋愛によって自身の幸せを勝ち取ってゆくようになり、その恋愛に没頭すると彼女らは自分の仕事をアッサリと投げ出してしまったりもする。でもそれもまた乗り越えて次に登場する最も新しい女性は、恋愛に没頭することさえせず、結婚に執着もせず、人間一人、自分自身の力で生きていくことこそを人生の最大重要事項ととらえているんである。

で、この最後の女中さんが中尾ミエで、もー、若くてカワイイッ!でも基本的に顔は全然変わんないッ!中尾ミエ演じる万里はね、原作ではただ一年ぐらい勤めて辞めてしまった、ぐらいにしか書かれていないんだけど、映画ではボーイフレンドにゴルフ場のキャディーの仕事を紹介してもらって、そちらに転職するために辞めるという筋書きになっているんである。しかもそのボーイフレンドとは別に結婚を前提としているというわけでもなく、彼女は自分自身の力で生きていくことだけを見つめているのね。で、彼女、オープンカーに乗った外国人観光客と流暢に英語で喋り、同乗してさっそうと去ってゆく。始終楽しげに歌を歌っている万里、その見事な歌声もふんだんに聞かせてくれる。原作でね、銀という女中の夫となった光雄が後年、磊吉の喜寿のお祝いで「可愛いベイビー」を歌った、というくだりがあって、そんなことを考えると、この中尾ミエのキャスティングはなかなかに楽しいんである。

そう、この銀というのがね、最も激しい恋愛模様を繰り広げた女中さんである。ハデでワガママなお嬢さんである百合と、モテモテのタクシー運転手の光雄を取り合う。といっても百合にはそれほどの気があるわけではなく、とにかく銀が光雄にベタ惚れですごいやきもち焼きだからタイヘンなのだ。しかしこの光雄を演じているのが小沢昭一で、正直あんまり美青年じゃないんだけど(失礼!)まあそのあたりは原作でもそういう設定だし、ぶっきらぼうなものの喋り方で、でも不思議に女にモテるという……。怒鳴りあうわ、殴りあうわ、「チクショー!」と言って強引にキスは奪うわ(あー、恥ずかしいッ)挙げ句の果てには丸太の陰で初めての経験を……(きゃー)。んで、銀は見事光雄をゲットするも、その時にはすでに妊娠中。銀と仲良しで何くれと助けてくれた鈴は、そんなことに刺激されたのか、彼女に言い寄っていた旅館の男と結婚、二人は同じ日に時間差で結婚式を挙げ、その日、万里もまた千倉家を辞するのだ。

ちょっと興味深かったのが、磊吉夫婦が、どんどん女中さんが辞めていって、時代も変わっていって、これからは二人マンションにでも暮らそう、という結論に至る所なんである。原作では最後までこの小説家夫婦は暮らしを変えず、女中さんがお手伝いさんと名が変わっても女の子を入れ替え入れ替え使い続けていったわけで、映画で最も変えてきたところがこの結末だと思われるんだけど、これはやっぱり時代というものなのかもしれないなあ。夫婦二人が豪華な家で、別荘とかもたくさん持って、女中さんをたくさん使って暮らし続ける、という設定のまま終われるような時代じゃ、映画の時にはなくなっていたんだろうと思う。もちろん昔のことを語ってはいるんだけれど……。

さー、次はどんな森繁久彌が観られるんだろ?★★★☆☆


誰がために
2005年 97分 日本 カラー
監督:日向寺太郎 脚本:加藤正人
撮影:川上皓市 音楽:矢野顕子
出演:浅野忠信 エリカ 池脇千鶴 小池徹平 宮下順子 小倉一郎 烏丸せつこ 香川照之

2005/10/25/火 劇場(渋谷イメージ・フォーラム)
久々にフィルムの手触りを感じさせる映画だなあ、と思う。デジタルなシャープさやクリアさではなくて、ふんわりと柔らかくて、だからなんだか哀しいような。
まるで前に進めない、みたいに回想シーンに何度も引き戻されるのも、この柔らかな手触りだから、いいんだろうと思う。
ヒロインの、こんな声や発音は最近なかなかお目にかかれない、美しいソフトボイスもまた、夢のような哀しさで、このフィルムの印象そのものである。
でも、この前に進めなさも含めて、何か、どこか、どうしても引っかかるものを感じてしまう。共感できない、と言ったらおかしいんだけど……。

出会ったとたんに、お互いの欠けている部分を埋めるかのように、運命的に愛し合う二人、民郎と亜弥子。民郎はかつて報道写真家として紛争地域を回っていたけれど、父の急死で実家の写真館をついでいる。その民郎の写真館に帰省していた幼なじみの妹、マリが成人式の写真を撮りに来て、連れてきていたのが友達の亜弥子だった。
「こんなキレイな人、このへんにいたっけ」と居酒屋の客が振り向くぐらい、漆黒の髪と、くっきりとした、しかし寂しげな顔立ちが美しい美女である。

実際、ヒロインのエリカの美しさには驚くべきものがある。エリカ、小田エリカ!いつ苗字取っちゃったの?「美しい夏キリシマ」にもメインで出てはいたけど、私のイメージはなぜか「ワンダフルライフ」で止まっちゃってたので、彼女があまりに美しい大人の女になっていることに、驚嘆してしまう。そりゃまあ、キレイなコではあったけど、独特の雰囲気も持っていたけど、こんな深さをたたえる美女になっていたとは!
そう、深さ、なのだ。彼女の生い立ちは、両親が離婚し、母親に引き取られて育ったという孤独さをまとっていて、そういう寂しさや哀しさ、あるいは予期めいた不安、といった心の深さを、彼女からは感じるんである。こんなにメンタルな部分のオーラを持っている人はめったにいない。キレイな女優さんはいくらもいるけれど、この雰囲気の深さは、ただごとではない。
何か、彼女が不幸に遭うのが、そう、彼女自身そんな風に、どこか予期する不安があったんじゃないかと思えるぐらいなんである。こんなこと言っちゃなんなんだけど、彼女が普通に幸せになるはずがない、みたいな雰囲気。

亜弥子が民郎の子を宿しても、彼女は最初、産むつもりはないから、と彼をつっぱねた。いい家族を作れる自信がない。幸せになる自信がない……あなたはいい家庭に育ったから、私の気持ちなんて判らないのよ、と。
雨の中、頑として彼をはねつける彼女を、民郎は必死に追いかけ、説き伏せる。欠けているものがあるから、それを埋めようとするんだと言ったのは君だろ、と。
泣き出した亜弥子を民郎が抱きしめる。雨の中。そして、「記念だから」と亜弥子の写真を撮る。「こういうのがあとあと思い出になるんだよ」と。
まるで皮肉。遺影になっちゃうんだもの。
雨に濡れた髪で微笑む彼女は、本当に美しい。

美大生だった彼女が大事にしていたのが、首のないニケの女神像だったのだ。どんな顔をしていたのか、デッサンの時に描いてみるんだけれど、どう描いてもしっくりこない。そんなところに惹かれる、と。
あのニケは何を象徴していたんだろう。殺されてしまう彼女?そのお腹の中にいた子供?それとも……夢に観ていた子供の頃の彼女?

周囲から祝福されて結婚し、産まれてくる子供を待ちわびていた二人を悲劇が襲う。亜弥子が通りすがりの少年につけられて、家に押し込まれ、首をしめられて彼女は殺されてしまったのだ。
少年犯罪を裁く家裁は、被害者家族でさえ立ち会えないことに民郎は憤りを隠せない。とにかく彼は、理由を知りたかった。なぜ亜弥子がこんな目にあってしまったのかを、知りたかった。
の、はずが、途中から、少年への復讐ばかりが胸にくすぶるようになる。裁判結果を閲覧しても、少年の気持ちは何も見えてこないし、「お腹の中に子供がいたことを知らなかった」という少年の供述に、「そんなのウソに決まってんだろ」と吐き捨てるようにつぶやく民郎。

こんな風に、少年犯罪を向こう側に設定して被害者側として語るのが、そう、あまりにも向こう側、で、それはやっぱりなんだか危険な感じがするのだ。
こういうこと言うと、それこそ及び腰な日本人みたいでイヤなんだけど、だって……私たちには何ひとつ判らないんだもの、やっぱり。
家裁審判が被害者家族にさえ公開されないのは、被害者側になってみれば確かに理不尽な思いはするだろうけど、そうじゃない立場で客観的に見ると、やっぱり日本の制度の慎重さは必要だと思うから。
安易に世の中のせいにするのもそりゃなんなんだけど、でも結局は誰も判らない少年の心を、「全く反省がない」と一言で片付けて復讐ありとするのは……どうなんだろう。そりゃ世間的な風潮はそっちの方だし、観客の共感は得られるんだろうけれど。

民郎のことが子供の頃からずっと好きで、お兄ちゃんが気をまわしてくれて彼のヨメさんになるべく交際するようになったマリが、民郎の復讐に気づき、必死に止めようとする。「民郎さんがしようとしていることは、その少年と同じなんだよ。少年を殺してしまえば、その家族が同じように傷つくんだよ」
そう、つまりはそういうことなんだけど、民郎にはそのマリの言葉が届いているようにはまるで見えないのだ。
あるいは作り手自身が、この台詞にあまり重さを感じていないからではないかとも思ったりする。

そもそも、民郎が、こうなってしまったかを知りたかっただけのはずが、なぜ復讐の方向に転じていったかというのは、一人の雑誌記者の来訪があったからだった。
香川照之が演じるこの記者は、自分が当事者でもないのに知ったように義憤に燃えた発言をして、聞いてもないのに少年の写真や本名や居所を、民郎に吹き込むんである。
ホント、いかにも人の神経を逆なでするヤツで、しかも二度も訪ねてきて、民郎はもう怒っちゃって、ほっといてくれと彼を怒鳴りつけるんだけど、この記者の押しつけがなかったら、ひょっとしたら民郎は復讐を考えなかったかもしれない。
この記者が実にイイカゲンなヤツで。最初こそ、こういう無責任を糾弾すべきとか言っておきながら、取材して少年の家庭が複雑なのを知ると、「かわいそうな家庭なんですよ」とか言ってくる。しかし一方で、そう、民郎がこの発言に怒ると、「もう少年院から出てくるんですよ。あんな罪を犯して、反省もしないで社会に復帰するんですよ」と、民郎に同調するような言にさらっとすり替わる。記者のこの、簡単にひるがえる気持ちは、世間一般を実に皮肉って投影している。そう、確かに当事者でない私たちは、情報に情けないぐらい左右される。それなのに、そのことが、常に正義の側にたって意見を発していると思っているのだ。そういう意味では、ただストレートに犯人を憎むことが出来る民郎がある意味絶対的に正解なのかもしれない、と思う。

でも、少年の描写は、やっぱりなんだか単純すぎるように思う。言ってしまえば、民郎の希望通り、あるいは作り手の希望通り、みたいな。
「反省なんか全然していない」というのは、あくまで第三者の推測に過ぎず、少年の心がここまでどういう経過をたどったのか、誰にも判らない。今の世に横行している少年犯罪が、私たちの心に不気味な影を落とすのは、そんな風に少年の心が見えないからなんだけど、それをイコール、少年自体のキャラにしてしまうのが、しかも物語のマイナス要素として単純に据えてしまうのが、どうしても私にはひっかかってしまうのだ。
例えば、出所した少年が意外にもマジメに働いていたりしたら、民郎は戸惑っただろうけれど……少年の実家である中古販売の会社に民郎は敵情視察、みたいに出入りすると、少年の客への対応はやけにドライで、しかも終いには、民郎にめんどくさそうに不遜な口の聞き方までする。その少年の姿は、私たちが、こんな犯罪を平気で犯すのはこういうコ、みたいなイメージそのままの単純さなのだ。
それに結局、民郎は少年と事件について話そうともしないし……自分の身分も明かさずに、いきなり彼の首しめるし。なぜ彼が亜弥子を殺したのか、それが知りたかったんじゃなかったの?
いつの間にか、彼に復讐を遂げることだけ考えてる。
それが人間の恐ろしさということなんだろうか。

民郎がそのことに気づいていたか、あるいは気づいていても問題にしていたかどうかは不明なんだけど、この少年と彼に殺された亜弥子は、鏡でうつしかえたような境遇で、家族に恵まれていないところは不思議に似ているのだ。
亜弥子は民郎に、母親が離婚したのは父親が暴力をふるう男だからだと言った。そして母親が女手ひとつで亜弥子を育てた。一方、少年の家庭は、父親が暴力をふるうからと母親が出て行き、少年はその暴力的な父親に育てられた。
暴力をふるう父親に、残された側だったのだ。
家族に恵まれないとか言いながら、亜弥子は意を決して彼女を連れて家を出た母親に連れられて、幸せだったのかもしれないのだ。
少年が、亜弥子のそんな境遇を知るはずもない。でもこれが実に皮肉で……まるで彼はおいていかれた復讐を亜弥子に遂げたようにも思えてしまうんだもの。

今は離れて暮らしている、この亜弥子の母親というのが、復讐心に燃える民郎と対照的に、諦念に貫かれた、不思議に魅力的なおっかさんなんである。
亜弥子の撮った風景写真が、すべて、風を映しこんでいると気づいたマリは、そのことを民郎に告げる。民郎は思い出す。自転車の二人乗りをした時に、目をつぶって、と言った彼女。風を感じ、草原に倒れこみ……幸せだったあの頃。
二人は、亜弥子が育った町を訪れる。風が強くて有名な土地。一周忌にもお線香をあげにきてくれた亜弥子のお母さんが話をしてくれる。「男に捨てられて泣いている私の背であの子も泣いて。優しい子だった」
そもそも亜弥子と民郎が急接近したのは、まだ両親が離婚する前、民郎達が暮らす町に住んでいた時、民郎の写真館で家族で撮った写真を探しに来たことからだった。離婚後、亜弥子の母親は父親の写真は全て捨ててしまったから。あの時、亜弥子が小さな頃の自分を見ていたと思っていた民郎、「父親を見ていたんだ」と初めて気づく。

亜弥子のお母さん、「もう、事件のことは忘れて、マリさんと幸せになって」と民郎に言う。それは、一周忌の時にも言われていて、その時は民郎は怒りを抑えられないように、忘れられるわけないじゃないですか、とつめよっていた。でもこの時は、彼は、何も言わなかった。「亜弥子も、それを望んでいると思う」という彼女の言葉をじっとうつむいて聞いていた。
亜弥子の母親は、本当に早くから割り切ってた。さすが人生苦労してきただけあるっていうか……娘が殺されたのは悔しいに違いないんだけど、民郎みたいな優しい男と短い間でも一緒にいられたことは、亜弥子にとって幸せだっただろう、と。

ずっとお兄ちゃんの友達の、幼なじみの民郎を好きだったマリ、演じる千鶴嬢、茶髪だと結構印象が違う。正直、黒髪の方が似合ってるが……。友達である亜弥子が彼と恋仲になった時、いやそれ以前に、亜弥子がマリに、二人の関係を尋ねた時から、マリはその気持ちを言うことが出来なかった。
お兄ちゃんは知ってるから、二人の結婚お披露目パーティーに「今日は飲もう」と言ってくれた。
亜弥子が死んでしまい、お兄ちゃんが妹を彼に推薦してくれる。妹ながら、絶対いいヨメさんになれると民郎に言う。
民郎は友達の心遣いをありがたく思っただろうか……「あいつ酔うと大げさになるからな」と言いつつ、マリとつきあうようになるんである。
本当は、こんなの哀しいの。失われた亜弥子は、彼の愛した人で、彼女の親友。二人にとって大事な人で、忘れることなんてできっこないし、二人とも忘れるつもりもない。だって彼女のことを忘れてしまったら、二人が一緒になる意味さえ、失われてしまうもの。
そんな関係って哀しいけど、でもこんな時には必要な関係なのだ。
それを、彼のことをずっと好きだったから、とその辛い関係を決心した彼女を、もっと考えてあげてよ。

この旅から、帰ってきてからだった。民郎が少年をその手にかけてしまったのは。
といっても未遂なんだけど、亜弥子がそうされたように、少年の首をしめた。でも、殺すまでには至らなかった。……少年は、気づいただろうか、民郎が何者かを。
カットがかわり、いつも皆が集まる居酒屋に、タクシーの中からマリの姿を認める民郎、がラストシーン、そしてカットアウト、である。
この時皆が集まっていたのは、マリの兄が、どうも進まない二人の仲をくっつけてしまえ!と画策した集まりだった。でも、きっと、民郎はこの場には入っていかないだろう。
汚れてしまった手で、マリを伴侶として迎えるなんてもう出来ない、そう思ったってことじゃないんだろうか、あのラストの彼の表情は。 だから、「復讐なんてやめて!」と彼女が言ったのに。何一つ、いい結果なんてないのに。一体、何のためにあの風の町を訪れたの。

でも、結局そうなのだ。埋められない溝なのだ。
復讐の無意味さは、第三者の人間だから見えることで、当事者には、頭では判ってても、見えないことなんだろう。 つまり、彼女は第三者、なのだ。彼女の親友で、彼のことを愛していても。
民郎は、紛争地域でカメラマンをしていた時、ああいう場所は死の感覚が失われていると言い、その感覚が自分にもしみついてしまった、などと言っていた。けれど……それは結局他人ごとだったのだ。この結果から思うと、民郎の執着は、それこそ亜弥子の母親の泰然自若とした態度と比べると余計に、何か、皮肉な人間の浅はかさを感じたりもしてしまう。
写真館は、街の人の記憶を保存している、ステキな仕事だと亜弥子は言っていた。だからこそ、彼女の子供の頃の家族写真も失われずに、この写真館から出てきたのだ。
でもそれは、失われた、常に過去の記憶なのだ。民郎の報道写真も、彼にとってはいまや、失われた過去。
前向きになれない感覚が常につきまとう。

矢野顕子のピアノが全編を悲しく、美しく彩る。こんな新人さんのインディペンデントに喜んで参加するのが彼女らしいけど、映画音楽として手がけるのは初めてなんだという。なんという贅沢!
浅野忠信の、作りこまないフラットな演技は、これに関してはちょっと浅すぎたかも……。★★★☆☆


タッチ
2005年 116分 日本 カラー
監督:犬童一心 脚本:山室有紀子
撮影:蔦井孝洋 音楽:松谷卓
出演:長澤まさみ 斉藤祥太 斉藤慶太 RIKIYA 平塚真介 上原風馬 安藤希 福士誠治 風吹ジュン 若槻千夏 徳井優 山崎一 高杉亘 渡辺哲 生田智子 本田博太郎 小日向文世 宅麻伸

2005/10/18/火 劇場(渋谷シネクイント)
やっぱさー、マンガ原作で映画を作るっていうのは、こういうことだと思うのよ。臆さずに落とすところは落とす!最後まで余裕を持って語るために、物語を一年短縮する決断力。切るところは切る、大事な部分は大切に語る 。私は原作の熱烈なファンって訳じゃなくて、アニメをなんとなく好きで観ていた、って程度だから気にならない、というのもあるのかもしれない。でもそれこそ「NANA」と違うところはさ、ある年齢以上の人たちにとっての「タッチ」の一定の共通認識というものが存在していて、それをこの映画化ではキッチリおさえているんだよね。それはアニメを観ていた人は勿論、もしかして観ていなかった人にとっても、「タッチ」といえばこういう登場人物が出てくるこういう物語で、こういうエピソードやこういう場面が出てきて……みたいな。それは昔のアニメを振り返るなんて時に必ず出てきたりすることもあって、そういう浸透の仕方をしているわけなんだけど、だからそれを裏切らずにツボをおさえて、最後までビシッと語ってくれた本作には、そうそう、「タッチ」ってこうだった!と思い出して嬉しくなっちゃうのだ。

あれだけの長さの原作を最後まで語って、全然焦った感じがしないのは、そういう潔さで構成したからに他ならない。余裕があるんだよなあ、つまり演出する余裕、あるいは役者に任せる余裕。決してコミックスそのままのカット割りなんかにこだわらなくて、犬童監督独特の柔らかさで物語が満ちている。もともと犬童監督は少女漫画好きでそういうテイストのある人。で「タッチ」は少年漫画ではあるけど、この作品にしても野球を題材にはしているけど熱血スポコンというわけではなく、あだち充自体、絵のやわらかさも少女漫画に通じるところがあるから、犬童監督にはピタリだったと思うのね。でも、やっぱり原作にヘンにこだわったりはしないんだよなあ。だから逆に、あの有名な、和也が死んでしまった時に南が橋の下で泣くシーン、下からあおった構図は原作(アニメともども)そのまま同じで、あ、同じだ、と気づいたのはこの場面くらいなんだけど、それが妙に違和感があったのは、それまでそういう部分にまったくこだわらなかったせいだと思うんだよね……。まあでもここはやはりファンサービスといったところかなあ、と思う。ここを別のアングルで撮ったら、ここぐらいは同じく撮ってほしかった!とか思ったかもしれない。

それにしてもいい双子がいたもんだ。この年頃で、キッチリと演技が出来て、何より野球が出来て、ルックスもいい双子の男の子なんてやっぱり難しいじゃないの。それをこの斎藤兄弟はしっかりクリアしてる。整った顔だけど線が細すぎもせず、ちょっとにきびっぽいのが青春を感じるねー。ヒロインの可愛さに負けない若さの力だな。
いやでもやはり長澤まさみミーツ浅倉南だよねえ!彼女の出現で浅倉南は、そして「タッチ」の実写化は現実となった。決して原作ソックリというわけじゃない。でもこういう、可愛いけど、普通の、ちょっとウブっぽさを残しつつしっかりしている女の子なんて、同世代でまさみちゃん以外に誰がいるの、って、まあそれなりにはいるだろうけれど、演技力という点をかんがみても、やはり彼女以外には考えられないんだなー。それにまさみちゃん自身のキャラを臆せず投入して、彼女の演じる浅倉南、になっているのも頼もしい。それが、それこそが彼女自身の少女の生々しさの部分をハミダシで残し、こんな時代錯誤ともいえる青春モノを生っぽくさせているんだよね。これだけのアップをまかされて、きっちりと繊細な表情を見せるのが実に素晴らしいんだな。タッちゃんとキスした後とか、タッちゃんの試合をラジオで聞いてストライクに歓声を上げた後にハッと我に返るところとか、カッちゃんにキスを迫られて何にも言えなくなるところとか、それこそコミックスもかくやというほどのドアップを要求されるんだけど、そこであれだけの感情を表情に出せる彼女はじっつに素晴らしい。それもね、繊細だけれど、微妙さはないの。ちゃんと要求されたものをキッチリと出してくるところが、こういうエンタメ作品なんだと理解している彼女のプロ意識なんだよねー。

正直、今「タッチ」を語ると、哀しいかな、ちょっと時代錯誤になっちゃう部分は、あるよね。まあもともとこういう世界観は日本人、好きなんだけれど……。野球という、逃げずに勝負、みたいな場面が出てくるところに武士道を発揮したり、そういう気持ちをチームメイトが判ってくれてたり、思いを果たせなかった同志の遺志をついだり。でもやっぱり多分現代の日本じゃあらたには作れないストーリーだと思う。良くも悪くも個人主義になってきてるから。和也の死後、達也が野球を始めようとすると、お母さんが止めるでしょ。あんたは和也じゃないんだって。確かにお母さんの言うとおり、死んだ人間に縛られる必要はないわけで……まあ達也自身も野球に未練があったのはそうなんだけど。でもほら、彼らが野球を続けてきた理由が、「どっちが南を甲子園に連れて行けるか」だったでしょ。女の子は甲子園に行けない、じゃあ、私を甲子園に連れて行って、と言ったのは南だった。でも和也が死んじゃって、達也は自分が替わりにと思って頑張って、ついに和也の果たせなかった甲子園出場をその手につかむ。その時に、「俺が南を甲子園に連れて行ってもいいのか」なんてつぶやく。あの言い方は、今の女だったらハラたつだろうなとも思ったり。……いろんな意味でね。連れてくっていうのもそうだし、誰かの替わりで語るのもヤじゃない。でもそれこそが「タッチ」なんだよね。あの頃作られた物語なんだよなあ、それが共通認識としてもう体に入っちゃってるから、ちゃんと泣けるわけ。

恋の部分はさらに、今じゃこんなのねえよなー、というこそばゆさなんだけど、まあ昔のワカモンだったこっちとしては単純に喜んじゃう。まさみちゃんはそういう甘ずっぱさを十二分に感じさせる女の子だからなー。ボクシングに負けた達也が「こういう時、女の子は黙って優しくキスでもしてくれるもんじゃない」と冗談で言ったのに対し、急に真剣な顔になってそっと唇を合わせるあの有名なシーンにしても、和也の死後、二人きりになってしまった子供部屋で、スコアをつけてる南にぬいぐるみを投げてチョッカイ出す達也、そして二人でぬいぐるみの投げ合いっこをしているうちに倒れ込んじゃって、ふと笑いがひっこんで見下ろす達也と見上げる南、なんていう場面は、ひゃー、甘ずっぱー!絶対、こんなことしねえ!しかもまさみちゃんトキメキのパジャマ姿だぜ!とか思って、あー、こんな王道の青春場面は、今じゃなかなかお目にかかれないよなー!とかすっかり嬉しくなってしまう。今じゃもうここからホンバンに行っちゃいそうだもんね!?いやいやいや!それは言い過ぎた!

まだ和也があの非業の死を遂げる前、幼なじみの延長でここまで来た三人が、それぞれを意識するようになるお年頃の感じも、イイんだよなあ。三人の共同の離れの子供部屋。あわただしい朝の短い時間にそれがさりげなくあらわれるのが、またさ。裸足で入ってきて、椅子に座り、白いソックスをはく南、それを横目で見る和也、白いソックスってのもいやー、今もあるの?青春のアイテムだよなー。そこへ寝坊して飛び込んでくる達也、カバンにマンガばかりを詰め込み、ワイシャツを探しまくる。持っているのは南。「脱いだらかける。なんでそれが出来ないの!」なんてお姉さんっぽい発言をあのまさみちゃん独特の舌ったらずで言うもんだから、もー、キューンとしちゃうんだよなー。一緒に乗った通学バスで、南に対してブスだのブサイクだのケンカを売る達也に「ヒドい」とプンとふくれるまさみちゃんもカワイイ。ああー、やっぱり確かに、少年漫画だけど少女漫画の趣なのよねー。

個人的に好きだったシーンをあげとこう。達也の実力を皆に知ってもらうために、誰も引き受けないキャッチャー役を南が買って出る。泥だらけになりながら必死に達也の球にくらいつき、「マジメにやりなさいよ!それともこの程度の球しか投げられないの!?」と挑発する南、演じるまさみちゃんが華奢な身体で必死に、食い入るような瞳で達也に挑むのが青春なのだ。それに誘発されたように、どこか遠慮気味だった達也が思いっきし投げて、南が吹っ飛ばされてしまう。それで皆、達也をチームメイトとして迎え入れるわけ。いやー、青春だね。

それと、雨の中、泣きじゃくる南とそれを達也が止めようとするシーンも好き。もうここは本当にリリカルで、こういうのは実写で力を発揮するよなー、と思う。「私がタッちゃんを好きになっちゃったから……それでもカッちゃんは三人の思いを大事にして、甲子園に行こうとして……カッちゃんの思いはどこに行っちゃうの?」なにげに達也への思いを口にしているんだけど、まあこの時点では二人はお互いの気持ちを、ハッキリと口にはしなくても判ってはいるんだけど、でもきちんと確かめてはいなくて、こんな風に、なにげなく言ってしまうところにもドキリとするし、でも今の二人にとってまだ和也の存在とその死の事実こそが大問題であり、っていうのが……ああこれぞ「タッチ」の世界なのよね、っていう……。泣きながら走り出す南を落ち着けよ、って止めようとしてもみ合いになって、雨の中へたり込んじゃう二人、あー、もうリリカルだなー、見上げるまさみちゃんの雨に濡れた泣き顔、ああ、たまらん。

そうそう、他のキャストでね、お気に入りなのは、達也の女房役(つまりキャッチャー)となる孝太郎と、達也を野球部に引き入れるキャプテンである。孝太郎は、あれだよね、アニメではこぶ平氏(現正蔵)がやってた役だよね?実に、イイんだよなあ。最初こそは和也の代わりみたいな達也とのバッテリーなんてゴメンだ!とか言ってるんだけど、一度信頼関係を築いてからは、達也の気持ちを誰よりも判ってて、達也が試合に負けたのを落ち込んでしばらく練習に顔を出さず、ある日ひょっこりあらわれた時、最初は何か見て見ぬふりをしているっていうか、いつものようにふるまっているんだけど、「あー、もうーガマンできない!」とか叫んで、達也に「俺はお前の女房役だろ!何で何も言わないんだ!」って抗議するところ、達也のどこかポカンとした顔もあいまって、いやー、すんごく好き、あの場面。ゴメン、と謝る達也に、それはそれはニッコリと満点の笑みで、じゃあ皆で校歌歌おうとか言い出して、うっ、青春だぜ。私ゃ、高校時代の校歌、もう忘れちゃったな……。

それとね、メガネのキャプテンね。どこか気弱で、なかなか皆をまとめられないんだけど、でもマジメで、達也の実力を判ってるから、和也がいた時から何かと声をかけてくれる。達也が入部してからは、遠くから見守っているような感じもちょっとほんわかしちゃうんだよね。前には出てこないキャプテンだけど、彼が後ろでしっかり守っているからこのチームは大丈夫なんだなあ、と思わせるキャプテンでさ、このキャスティングも良かったなあ。
それと、ボクシング部の原田君と、南の友達で出てくる若槻千夏っちゃんがなかなかイイ。原田君は男気一直線って感じがルックスもそのまんまRIKIYA君バッチリだし、落ち込む達也をそのパンチ一発で慰める?場面とか、説得力があるよねー。千夏っちゃんは、その制服姿に違う意味でドキドキするけど(笑)まさみちゃんと友達同士って感じもまたドキドキするけど(笑×2)、なあんか、イイ子って感じがしてさー。ちなみにこの二人は甲子園で隣り合って応援中、なんとなくイイ雰囲気になって手なんか握っちゃうところがカワイイのだ。うひゃー!

大人キャストがまた絶妙である。和也と達也の両親である、小日向さん。風吹ジュン。そして野球部の監督の本田博太郎。ほんわり笑顔の小日向さんは、あだち充ワールドの住人そのものって感じで、なんか思いっきりなごんじゃうし(あの笑顔はコミックスそのまま!)一方、お母さんを演じる風吹さんは一人シリアスを担ってるんだよね。こういう感じはコミックスではなかったような気がする。とにかく若者の青春、を追ってたから。息子を失った母親を掘り下げているのが映画ならではじゃないのかなあ。
「(達也が)野球を止めるように、南ちゃんからも言って!」
と言う部分なんか、実に顕著である。
お母さんの言うこと、判るけど、結局は、お母さんはやっぱり、死んだ息子、それも優秀な息子のことを思い出すのが辛かったってことなんだよね。それを静かに支えるお父さん=小日向さんがまたイイんである。

このお母さん、達也の決勝戦にも行かず、お父さんは隣の喫茶店、南風で試合を見ているんだけど、一人家の中でいつものように過ごしてる。その日は命日だったのかな……そこに、和也が助けた子供とその母親が訪ねてくるんだよね。静かに頭を下げて、お線香を上げにくる。この男の子がね、ニッコリと、お母さん(風吹ジュンの方ね)に顔を向けて笑うんだよね。つられて彼女も……どこか泣き笑いのような感じから、本当に、笑顔をもらった、って感じでこの子に笑いかける。何気ないシーンなんだけど、ここがジンとくる。この子は和也が助けた命で、それにその男の子の笑顔に、お母さん、小さな頃の息子たちを思い出したんじゃないかなって、思わせて、ジンとくるんだよなあ。
そして、お母さんも隣の喫茶店に行って応援に加わるのだ。
本田博太郎は、野球部の監督って感じだよねー。それも見守るタイプの。練習はすっごくキツくやるんだけど、ここの選手に必要以上に口を出さず、心配しながらも信頼して見守っている感じ。この人の喋り方ってすっごく独特でさ、私、誰かモノマネする人が出てくるんじゃないかなーっていっつも思うんだけど、誰もしないよね。本田博太郎!って感じ(?)なのに。

ライバル、須見工のエース、西田に真っ向勝負を挑み、見事甲子園をキメる名青ナイン。最初、会場には行けなくて、あの子供部屋でラジオを聞いていた南が、和也の形見のボールを握って、走って走ってかけつける、そして勝利の瞬間、泣き笑い、全開の、泣き笑い。
なんたって笑顔がバツグンのまさみちゃん、前半はそれを惜しげなくふりまいているんだけど、和也の死後、そして達也の苦悩の日々に、沈む表情になってきて、笑顔がバツグンなだけに、それがとてもツラいのね。だから、「南の笑った顔が見たいだろ」という台詞が利いて来るんだよなあ。
それで、この泣き笑いが、じっつに絶妙なわけなんだよね!!

いやー、やっぱりまさみちゃんは最高にカワイイな。ホントの意味でカワイイ。内面からあふれ出る可愛さとでも言うべきか。それに夏の、ドキドキの露出度の高さに、あのノースリーブの閉じられたやわらかそうなワキあたりとか(ヘンタイか……)ドキドキだわー。ティーンを演じてバツグンだったまさみちゃんが、これからどう成長していくのか……こういうメジャー売れ線でもきっちりイイ仕事をする彼女だから、このまま映画で突っ走ってほしい。犬童監督とも、こういうメジャータイプじゃなくて、また仕事してほしいな、と思う。

一個だけ、勝手な不満というか。クライマックスにかかる「タッチ」、この歌を復活させるんだったら、もう一度岩崎良美に歌ってほしかったなあ。★★★☆☆


タナカヒロシのすべて
2005年 103分 日本 カラー
監督:田中誠 脚本:田中誠
撮影:松本ヨシユキ 音楽:白井良明
出演:鳥肌実 ユンソナ 高橋克実 宮迫博之 市川実和子 小島聖 西田尚美 寺島進 伊武雅刀 上田耕一 加賀まりこ

2005/5/17/火 劇場(渋谷シネクイント)
予告編ではあんなに面白そうに見えたのに、うーん、このつまらなさはなんだろう?登場人物もエピソードもその要素のひとつひとつも、面白くなる可能性をすごく感じるのに、うーん、このつまらなさはなんだろう?
だって何たって鳥肌実なんである。この特異な人を持ってきて、なんで面白くならないんだろう?うーん、うーん。この、思いっきり人付き合いの悪い、不器用な男であるタナカヒロシというキャラクターに鳥肌実をぶつけてくるのって、オフビートな化学変化をとても期待させるのに、何かあまりにも……素通りって感じなんだよな。
せっかくの鳥肌実がもったいない……キャラクターが練られていないというか。
それに何より、このタナカヒロシは平凡ながらも穏やかな日々を過ごしていたのが、まるで坂道をころころと転がるように、どんどん不幸なことばっかり重なっていくんだけど、そのクレシェンドしてゆくひとつひとつのエピソードが、いちいちブラックアウトされて、ノリそうだったこっちの気持ちをブツリ、ブツリと分断しちゃうんだよね。気持ちの列車に乗せ続けてくれない、このもてあました気持ちがどうしようもない。
どんどん不幸になっていく男、っていうのはそりゃまあ人間は結構残酷だし、そういうのを見てカタルシスを得るっていうのがあると思うんだけど、オフビートと流れの悪さっていうのはまた別でさ、やっぱり最後まで気持ちよく映画という列車に乗せてほしいわけ。

ころころと不幸ばかりが重なってゆくけれども、このタナカヒロシにとって今、人生最大のモテ期であろうと思われる。彼に出会う女性という女性がそろって彼に惹かれる……というか、ほっとけない、と思っちゃう。
その女性たちは皆、彼よりずっと背が高い、というんだけど、そんなの後から解説読まなきゃ気づかなかった。そういうクスリとさせる部分が観てる時には全然判んないというのはもったいない。もっと丁寧に見せてほしい。
そうか……鳥肌実は背が低いのね。低いといっても私と同じぐらいだ。
しかし今時男が32ぐらいで、32にもなって……とこんなにうるさく身を固めることを言われないよな、と思う。女ならまだしも。
まあ彼に女っ気がまるでなくて、いまだに実家住まいだから言うんだろうけれど。
心配した両親や上司が見合いをセッティングしてくれたりするんだけど、これがまたかなりキッツイオールドミスで、タナカヒロシは名画座に逃げ込んですっぽかしてしまう。彼、映画が好きだと言っていたけど、それは上司に問われるままに言いつくろっただけで、実際は劇場に行ったことすらなく、多分この時初めてだったんだろうと思われる。こともあろうに?浅草新劇場である。実に楽しそうに観ている彼は、この映画一番のいい表情をしている。

女っ気がまるでないというより、女に限らず彼は人付き合いに興味がないんである。その気持ちは何となく判る気がする。社会でそれなりにスムーズに生きていくために最低限の人付き合いはしつつも、彼のようにサッパリスッパリそれをしないでいたいという気持ちもまあ確かにあるんだもん。
で、彼は性欲はあるけど女性とつきあいたいという欲望はない。これも何となく判る気がする(のは私も問題のような気がする……)。一人の心地よさっていうのは確かにあるよね。ただ彼の場合はそれも両親とともに暮らしている、守られてる中の一人の心地よさ。
両親の、というよりはやはり母親の、と言った方が正しいのかもしれない。最初に彼が帰宅する場面で、家には母親しかいない。彼がとる遅い夕食のテーブル、向かい側には父親の分とおぼしき夕食にラップがかけられたままになっている。次の日の朝の場面で父親は出てくるけれども、何か病気がちみたいで薬を何種類も飲んでる。そして次の場面ではいきなり昏倒して死んでしまうのだ。これがタナカヒロシの不幸の始まり。

でも彼はいつでもそのポーカーフェイスを崩さないから、不幸が重なっていってもあまりそれを感じさせない。後から考えると、転落人生だなーと思うけど、彼の表情はずっと変わらないまま、淡々とした生活も変わらないまま。
特に、この最初の、父親の死には、彼の動揺があまり感じられないのは……やっぱりどこか、マザコン的に見えるからなのかもしれない。
彼と出会う女性たちが、彼のことをほっとけないと思うのは、そうした空気を彼がどことなく発しているからなのかもしれないし(別に背が低いだけじゃなくてさ)。
そりゃあ、加賀まり子が母親だったら、コケティッシュで可愛らしいお母さんだもんねー。
でもね、このお母さん、“お父さんが家を建てた土地”にナンクセをつける。「私もここはキライ。浅草は良かったんだけれど……」劇中では特にハッキリと語られるわけではないこの街、というのは、解説を読むと(解説を読んで初めて判ることが多すぎるぞ……裏設定ってやつなんだろうけど、意味あるのか?)さいたま市らしい。そして家を売らなきゃいけなくなって移り住むのは春日部だったりするらしい。どちらにせよ住んでいる街に対するノリはすこぶる悪く、しかも監督は、このお母さんの発言に出てくる、浅草育ちであるらしい。
しっつれいだよなー。埼玉の人怒るぞ……私だって埼玉にちょこっと住んでたことあるから、裏設定といえどこんなことを知ると、何となく気分が良くない。まあこのあたりがブラックジョークというか、オフビートだってことなんだろうけどさ(案外、監督今は埼玉在住だったりして?などと想像してみたり)

最初にタナカヒロシのことを気にしているのは、露天の弁当屋さんの女の子。彼は毎日そこに弁当を買いに来る。「いつも、サケ弁かクリームコロッケ弁ですよね」と、途中割り込みされるタナカヒロシを気遣って、その二種類をとっておいてくれたりする。
しかし彼女が手渡してくれたフォーチュンクッキーが全ての始まり。そのおみくじに書かれていたのはこともあろうに「大凶」こういうモノで大凶は入れないだろうと思うけど……しかもタナカヒロシはこのおみくじをご丁寧に持ち歩いちゃうから良くないんだよ。
で、この女の子を演じるのがユンソナちゃん。彼女は警察官から肩を叩かれて「パスポートは?」と問われ、おびえた表情をしてその次のカットではいなくなっちゃってるから、てっきり強制送還されたのかと思っていたら、ラストエピソードになってまた別の場所で弁当を売ってる。あれ?あの時にどういう処罰受けたの?どうもよく判らん。

父親が死んでしまって、しかも父親が退職金を前払いでもらって愛人に貢いでいたから家のローンが払えず、やむをえず売り払って、タナカヒロシと母親、そして猫のミヤコは転居する。そこでタナカヒロシは偶然出会った男に誘われて「テルミンと俳句の会」に入会する。
この「テルミンと俳句の会」ってのもねー。テルミンを意味なく俳句に合わせたのは、無論その意味のなさとテルミンの雰囲気の面白さからなんだろう、だってテルミンを習うってわけじゃなくて、ただかたわらにテルミンとテルミン奏者がいて、俳句を詠んだ後に拍手と一緒に、うにうにーんと演奏されるだけなんだもの。“テルミンと俳句”だよ?第一にテルミンがきてるってのに。でね、これが想像よりはあんまり……面白くない。この会の主宰者が伊武雅刀っていうのはドンピシャのキャラクターだけど、それもそこどまりで、あまりキャラがたってこない。

ここでタナカヒロシは二番目の女の子にホレられる。市川実和子ふんするその子は、野外で俳句を詠むという時、タナカヒロシにストーカーのごとくついてまわって、彼の詠む句を「初めてにしては上手い、上手い」と手を叩きながらも、季語が二つ入っているとか、それは春じゃなくて冬の季語だとか、アドヴァイスというよりは自分の通っぷりをアピールするようなことをする。まあ、タナカヒロシ自体、最初に彼女がほめられてた句の「横切る」ばかりを自分の句にも乱用しているから、ねえ。
彼がにわか通を気取って、俳人の名前を間違って言っているのにも気づかずに得意気に語った後、彼女は会を退会してしまう。彼女にとっては、自分が間違って覚えていた、とショックを受けたらしいんだけど、でもそのあたりもビミョーである。半ば会公認のカップルみたいに言われていたけれど、会員の一人は彼に、「やっぱり男じゃムリだったか……彼女、レズビアンだから」と衝撃の事実を告げる。いやでも、それもまたビミョーである。単にやっかんで言っただけかもしれないし。その辺が意味のないあいまいさなんだよな。
ただ、彼女がタナカヒロシとピクニックみたいに敷き物しいておべんと作ってルンルンになってた時、タナカヒロシはそこで悠然とタバコ吸ってる。こ、これはいけない。タナカヒロシが女の子と付き合う気がまるでないのが一発で判る。そりゃピクニックでおべんとはイタイけど、でもそんな風にルンルンしている女の子の前で、タバコはいかん。彼女の熱はむしろそこで冷めたようにも思われ。

そして三番目の女性は、看護婦さん。それは母親に全身のガンの転移が見つかってしまった病院での看護婦さんである。どこかマザコン気味だったタナカヒロシにとってこれはかなり衝撃の事実なのだけれど、この看護婦さんはうーん……不可解。まあこのお母さんと仲良くなったってことなんだろう……でもそれは、「うちの息子、巨乳好きなのよー。あなたみたいな人がうちの息子のお嫁さんになってくれたら、嫁姑の問題もなくていいのに」なんて言ってる場面があるからそうなんだろうけど、でもその場面だけなんである。こんなこと言っちゃなんだけど、看護婦さんがそんないちいち患者さんの死にシンクロして号泣して、お葬式にまで参列しちゃったら、キリがない。それに彼女は他の女性たちと違ってお母さん側から入ってきてるから、彼に対して「ほっとけない」と思っているようなフシは全然ないのに、お葬式のお手伝いがすんで彼と二人きりになった場面で、いきなり彼を誘うようにお尻突き出してクネクネしてくるのが、まあ多分にギャグ的要素もあるんだろうけど、それにしたってねえ……ちょっとムリあるしさ。
まあ、確かに小島聖のナース姿と喪服姿は、こんなイイ女だからフェロモンたっぷりでそそられるんだけどさ。

四人目の女性は、タナカヒロシが呼んだデリヘル嬢である。女の子と付き合う欲望がなくても性欲はあるらしい彼は、マスかき未遂場面なども出てくるんで、まあこの流れは判る。結局それまで童貞だったんだろうか……などという想像もふくらんでちょっと楽しくなる。このデリヘル嬢は矢沢心。話をしている中で彼のことが気になったのか、気持ちを込めないと相手には伝わらないんだよ、私とお兄さんはお金の関係だから必要ないけど……なーんてことを親身になって言ってくれちゃったりして、なおかつ延長料金もとらないんである。
う、うーむ。看護婦さん以上に不可解かもしれない。彼女もまた、彼のことがほっとけないと感じてしまったのか?でもこれってここまでくると……なんつーか、男がこんな風に女に心配されたい、みたいな希望的描写にも思えて、女が薄っぺらく感じてなんか悲しくなってくるっつーか、あるいは、ただほっとけないと思われるばかりで、本当に好きになってもらえないこのタナカヒロシという男が、男という生き物を端的に象徴しているのかなとも思ったり、いや、そこまで深く考えられるわけじゃなくて、ただ、なんか、もう、……消化不良って感じ。想像するほどジンとは来てくれないんだよなあ……。

この四人の女性たちは、キャラというか女優そのもののキャラがいかにも思い込みたっぷりな感じではある。でもその女優そのもののキャラどまりで、登場人物としてのキャラにふくらみがないというのが正直なところで……流れっぱなしなんだよなあ、話もキャラも。

タナカヒロシはかつら工場に勤めており、その、いかにもサエない仕事風景と、ピンクの作業着と、何よりカツラ工場の上司が高橋克実だというのがちょっとした笑いをそそらなくもない。でもタナカヒロシが自身のストレスからなのか若ハゲをわずらった時の描写は、そんなこと気にするようにも見えないキャラなのに、いやそうだからこそやたら気にして、同僚や上司も腫れ物に触るように大丈夫、大丈夫というのが可笑しく見えるはずなんだけど、何でそれが全然面白くないんだろう……。
やっぱりこれは、登場人物のキャラにしても、このかつら工場というブラックジョーク的な職場にしても、設定ばかりでふくらみがないせいなんじゃないだろうかと思われ。
タナカヒロシの中学時代の友人として出てくる宮迫氏にしても、そう。彼はあれだけ上手い人だしさ、どこか邪悪さを思わせるキャラも独特な人だから、ビシッと使えば「蛇イチゴ」のような素晴らしい威力を発揮できるのに、彼もまた「ここどまり」な感アリアリなんである。でもそれでも、この作品中では宮迫氏が最も健闘していたとは思うけど……関係ないのに、遺産相続の話に一人納得顔でうんうんうなづいたりしているのは笑っちゃったし、「エンリョして誰も訪ねてきてくれないんだよ」という新婚家庭は、お前が友達いねえからだろうと即座に思わせ、じゃなかったら中学の同級生だったからって、タナカヒロシを招いたりしないよなー、などと思う。
しきりに仲が良かったって主張するし、何度もおまえんちに行ったよな、と彼は言うんだけど、タナカヒロシのお母さんはそれを覚えてない。彼だって、タナカヒロシのお父さんのお葬式で(ここで初めて登場)「あ、お母さんですか」と問い掛けるぐらいだから、やはりその仲が良かった説、はアヤしいんである。

女の子欲も、友達欲もないタナカヒロシが唯一必死になった場面は、猫のミヤコが病気になってしまった時。でもこのミヤコだってお母さんが(本当は犬が好きなんだと言いつつも)可愛がっていたんであって、タナカヒロシは特に執着していた感はない。ただ、どんどん転落してって、女の子欲はないとは言いつつも、心配してくれた女の子たちもどんどん離れていって、リフォーム会社や白アリ駆除会社にだまされて借金もかさみ(しかし、あれはいくらなんでも騙されないだろうと思うけどさあ……)今や小さなアパートに堅苦しく暮らす彼。ついには死んだ両親の幻影を見るまでになって、そうしたらミヤコが突然の出血である。慌てて彼はミヤコを獣医に連れてゆく……お母さんの時だってそんなことしなかったのに、「僕も泊まります!」と言って気の弱そうな獣医を(手塚とおる。こういうのをやらせるとバツグンだなー)困らせる。心臓病だってことだったんだけど、心臓病ってあんな風に外に出血するものなの?しかも、五分五分だって言ってたのが、一晩点滴しただけでヤマは越えましたってのも解せないよなー。
それにしてもこのミヤコちゃんはホント可愛いけど。あー、猫飼いたい。こんな風にふくふくの猫飼いたいよー。

ラストは、あの弁当屋のユンソナちゃんと再会。その時彼の会社はつぶれてしまったことが明らかになって、ユンソナちゃんも、外国人は雇ってもらえない、とボヤいているし、……そんなことを言いながら歩いていると、ふと立ち止まったところで上から鉄骨が降って来る!あわや!なんと不幸はここでクライマックスを迎えるのか!?と思ったら、彼ら二人を避ける形で、サークル型に落っこちるというありえんオチ。いや、それが面白いのだろうが……呆然とした二人に慌てて駆け寄る工事現場の監督らしきオッチャンに、タナカヒロシは「仕事ありますか!」と質問というより叫ぶように言う。つられたようにそのおっちゃん「ありますよ!」まだ呆然としているユンソナちゃんの手を引き、タナカヒロシ、「何とかなりますよ!」彼が初めて能動的に動いて、映画は無事終了するのである。うーん、まあ……ラストの収斂はわりと好きかな。つまりは彼はこれで大凶を脱したわけよね。そしてそれは、彼が自分から人生を生きていくスタートとなったわけだ。

彼が引っ越ししてから、キックボードを手に入れて、お気に入り状態で使ってる場面がある。キックボードを見ると「マンホール」を思い出すなー。あの頃は確かに流行っていたもの(いや、終わりごろかな)。ここでタナカヒロシがそれを見つけるリサイクルショップ。つまり、まんま、流行おくれ。今じゃ誰も乗ってない。確かに便利だと思うけど、すたれてるから恥ずかしくて今じゃ誰も乗れない。タナカヒロシにとって、流行なんて全然関係のないものだってことが良く判る。そして確かにそれって意味のないことで、だってキックボードを嬉々として利用しているタナカヒロシは、確かにそれが彼の役にとても立っているのが判るし、彼のいいところがあるとしたらそういう部分なのかなと思わせたりもする。そしてそれは女から見てちょっとカワイイところだったりも、確かにするんだよな。

「コーヒールンバ」だの、「これぞ恋」だの、昭和歌謡のオンパレードである。そしてラストクレジットに流れるのはクレイジーケンバンド。でもうるさいぐらいにかかるばかりで、作品世界に寄与しているとは思えんのだな。
まあ、そのあたりは監督もご承知のようなんだけど……そんなノリだけで音楽決められてもね、って気がしてしまう。音楽が陽気にかかる分余計に、気持ちがぶった切られる感が強くなる。
劇中、日吉ミミ扮する中華料理店のママが、「蘇州夜曲」で自慢のノドを披露する場面がある。確かに彼女の歌うこの名曲はステキだけど、作品の流れにはまるで関係ないのね。別に感動する場面でもないし。
いや、別に関係なくったって歌ったっていいんだけど、そりゃ。でも徹頭徹尾そうだから、やっぱり……考えてしまう。★★☆☆☆


愉しき哉人生
1944年 77分 日本 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 脚色:八住利雄 成瀬巳喜男
撮影:伊藤武夫 音楽:鈴木静一
出演:柳家金語楼 山根寿子 中村メイコ 横山エンタツ 花岡菊子 渡辺篤 清川玉枝 小高たかし 鳥羽陽之助 三條利喜江 清川荘司 田中筆子 杉寛 滝鈴子 西川寿美 菅井一郎 生方明 清水将夫 大崎時一郎 一ノ瀬綾子 嶺恵美子 永井柳筰 原緋紗子 川田晶子 広町トキ子

2005/9/16/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(成瀬巳喜男監督特集)
うわあ……何だかすんごい戦時下、って感じする。いや、戦時下なんだからそうなんだけどさ。基本的にはね、解説にあるように“爽快なコメディ”なんだろうし、実際結構笑っちゃったりもするんだけど、戦時下に、節約を美として、あらゆるところに楽しみを見つけて暮らしましょう、みたいな道徳的をちりばめちゃっててちょっと腰が引けてしまう。
あ、でも、“節約を美として”ってところがイコール戦時下!って思うから必要以上にそう思うのかなあ。確かに、どんなところにも楽しみを見つけることが出来る、と明るく暮らしているこの一家は幸せの基本を教えているとは思うし、町の人が感化されるように、うん、うらやましいなとは思うんだけどね。

冒頭、タイトルクレジットが出る前に、「撃ちてし止まむ」なんて大書されて出てきたから、もうそれでうわっとか思っちゃったんだな、私。一瞬、ギャグかと思った。んなわけないんだよね。メチャメチャ戦時下なんだから、思いっきりマジなんだよね。よもや成瀬巳喜男自身が入れたものでもなかろうが、これが国の当時の空気そのものだったんだと思うと、なんか背筋がゾゾゾゾッとなっちゃって。

まあ、それはいいや。でもこの物語は、不思議な魅力を持ってる。ある日、天気がいいのになぜかびゅうと風が吹いて、三人家族が、その風が運んできたみたいに町に突然現われるんだもの。「この貸し家を借りたのはどんな人たちなんでしょうねえ」などと町の人々が噂していた矢先だったのね。そして彼らは町の人々に影響をもたらしてゆく。
越してきた相馬家は、ひげがくるんと上を向いて生えているダンナと、その娘と思しき妙齢の美人、更にかなり年の離れた妹は、小学校にあがるかあがらないかぐらいの少女。その三人がガラガラと荷車の後ろににこやかに乗ってやってきて、ついたとたん、興味津々で集まっている人たちにチラシを配り始めるんである。
なんかね、そのチラシがかなり傑作でさ。あー、詳しくは忘れちゃったんだけど、物質的問題、とか、精神的問題、とか、機械修理、とか、よろず相談とか、とにかく思いつくままズラーッと並べて、つまりどんなことでも引き受けますよ、ということなんだけど、物質的問題、だの精神的問題、って言い方にちょっと笑っちゃった。しかもこのにこやかな家族、どこまで本気なんだろうとか思って。

そりゃあ町の人々はいぶかしがるわけ。あやしがるわけ。機械を修理するなんていう話に、時計屋さんなんか、戦々恐々としているわけ。ま、この時計屋さんは直した先からぶっ壊れて、店にある時計が全部違う時間をさしている始末で、他の店に時間を聞きに行くような状態だからムリもないんだけど(笑)。でも、この相馬さんとこに町を代表してお招きに上がった床屋のご主人は第一号、スナオに感化されちゃう。でもこの場面はもう先制攻撃!で衝撃的?で、相馬家の不思議な魅力を実に端的に表わしているのよね。今日の献立、と言って、カタカナだらけでなんかムヅカシイメニューが書いてんの。でも出てくるのはにんじんのしっぽの入ったスープとか、ただのゆで玉子とか、ジャガイモの皮を揚げたのとか、そんなんなの。でもこれが上手く料理してあって、おいしいのね。いらない部分は何もない。こうやって美味しく食べられるんだということにも感心するんだけど、何でメニューがドイツ語なんだと(笑)。でもドイツ語で言われると、何かすごいイイものを食べているような錯覚に(笑)。

しかも玉子に対する解説がふるってるんだよなあ。「この玉子をあっためればニワトリが生まれ、そのニワトリがまた玉子を産む。私の目には、庭に沢山いるニワトリが見えます。私はその沢山のニワトリを、この玉子を食べることによって、食べてしまうのです」と想像の泉を働かせて、実に愉しそうに、嬉しそうに、ぱくりとゆで玉子を口に入れる相馬主人。床屋のご主人、目をまんまるくして聞いていて、思いっきり感化されちゃって、彼の妄想でその手にはバタバタと暴れるにわとりが(笑)。早速彼は翌朝の生玉子を「俺はたくさんのニワトリを食べてるんだ」と嬉しそうにかきまぜるもんだから、奥さんはさもいぶかしげなのね。
時計を直してもらったお礼として相馬主人のヒゲをあたる床屋のご主人に、人生を楽しむワザを更に教授する相馬主人。まずこの鏡の前にキレイな花を飾ります……そうすると、ここに春がくる。冷たい水に手をさらすと、夏のさわやかさが思い起こされます。白髪をみると秋を(そう言われて隣りの客のハゲ頭を思わずじっと見る床屋のご主人が(笑))、そんで、あ、冬がなんだったか忘れちゃった(笑)。とにかく、この店にいながらにして、四季を感じることが出来る、それはなんて素晴らしいことかと相馬主人は言い、もうすっかり床屋のご主人、感心しちゃうわけ。

何かね、この一家、こんなよろず引き受けを掲げていながら、それで稼ぐ気は毛頭ないらしい。案の定時計の修理を持ち込まれ、「すぐにできますよ」とか言いながらそのまんまあの時計屋に持ち込んじゃうし(笑)。朝から爽快な体操で一日が始まり、桶屋の叩くリズムに乗って歌を歌うシーンなんてミュージカルか!って思っちゃうぐらい。この桶屋のリズムがジャズっぽく現代的で妙にノリがいいんだわー。最初、桶屋はこの音がうるさいって思われているのもあって、アテツケかと憤るんだけど、相馬一家はどこまでも楽しそうなもんだから、次第にどんな騒音だって町のみんなにも音楽に聞こえてきちゃうんである。凄い!

どうやらこの妙齢の娘さん、英子は、ご主人が出征しているらしい。同じようにこの戦時下、女だけが取り残されている家庭がいっぱいある。あるいは本屋の若い青年と恋人同士である女の子も、この時期自分のような若い女はただただ家にいるばかりで、何もすることがない。せめて工場に行って働きたいと思っているんだけれど、親の頭がカタくて……なんて言う。この場合の“工場”はひょっとして、もしかすると武器工場なのかもしれないんだけど……でも、“親の頭がカタくて”という部分が妙に現代的に聞こえもし、結婚前の娘が家に閉じ込められるという風潮を彼女が“古い”と思っているのがこの時代で?へえー、意外、などと思ったりする。
相馬一家があんまり楽しそうだから、ついのぞいてしまった、とこの娘さんは庭先から英子がつくろいものをしているところにやってくる。どんなぼろぎれでも何かできるかしらと考えればそれだけで楽しいし、ほらこんなものも、あんなものも出来るのよと、そんなアイディアを丁寧に書きとめた巻き物を見せてくれる。すっかり感心の娘さんは、考え方が変わった、私もそんな心持ちで自分を充実させたい。ただ結婚をすることだけが幸せなことじゃない。それまでに色んな考えを持ち、色んな経験をして、そうしてお互い持ち寄ったら充実した結婚生活が送れるんじゃないか、という話で若き恋人と意見が一致する。この青年もね、町に相馬一家が訪ねてきた時からご主人にただならぬオーラを感じたのか興味津々なんだよね。この考え方も、こんな現代の世でさえ、結婚そのものが幸せか否かなどと議論されているぐらいなわけで、普遍的なのと同時に、すっごく進歩的なものを感じるんだよなあ。

一番下の小さな女の子もちゃあんと町の感化に一役買っている。これを演じているのが子役時代の中村メイ子!うっわ、子役として演じているの、初めて観た!顔変わんない!凄い!でもオチャメな風貌とおませな言いっぷり、伸びやかに歌う歌声や小さいながら見事な剣舞など、真の天才子役っていうのはこういうことだって感じ。カワイイなー。彼女は道端で出会ったいがぐり頭の小学生の男の子、時計屋さんの息子ね、つまり相馬一家を目の敵にしていた家の男の子をすっかりとりこにしちゃうの。だってこの女の子、めぐみもまた、とにかく楽しそうなんだもの。考え方一つだと言う彼女は、すぐに出来るようになるわヨ、と次々に例を示してくれる。右手をけがしたら、両手でなくて良かったわね、と考えるのよ、はまだいいけど、腰の曲がったおじいさんがいたら、ものを拾いやすくていいわね、って考えるのよ、というのには思わず吹き出しちゃった。男の子はすっかり感心しちゃって、この年下の小さな女の子を友達っていうよりは尊敬する師みたいに思っている風なのが、カワイイんだよね。
彼が病気をして寝込んでしまい、めぐみちゃんがお見舞いにこないかなー、なんて言っている時にちょうど彼女が雨の中お見舞いにきてくれる。両親を締め出すところがおませでカワイイ(笑)。こんな時はどう考えればいいの、と問う彼に、そうね、と考えて、元気になったら楽しいだろうなと思えるでしょ、とめぐみちゃん。そして外の雨を見て、ほら、水たまりに雨がはねているの、雨が踊っているみたいネ、と言うんである。うーん、さすがは師匠。男の子の顔色は急速に良くなり(いや!それは早すぎないかい)相馬一家を目の敵にしていたこの時計屋のご夫婦も、一家に感服せざるを得なくなり。

酒好きの夫をただ頭ごなしに叱るばかりだった奥さんが、夫用のお酒を居酒屋に提供したり、町の様子はだんだんに変わってくる。それが最も顕著に現われたのは、自治会(床屋さんね)主催のハイキングである。相馬主人はいつのまにそんな仕込みをしたのか(笑)、地面のあちこちにタカラモノを埋めて、ここには歴史上のものが沢山埋まっている……と、まずは、ずっとべっ甲の櫛をほしがっていた床屋の奥さんに掘り当てさせ、その後も町の人にあちらこちらを掘らせて、「こんな楽しい福引きはないね」と感心されるんである。ただハイキングをするんじゃなく、ただ福引きをするんじゃなく、楽しめる方法はいくらでもあるんだということを彼は示して、町の人をすっかりトリコにするんだけど、この品物はひょっとして相馬さんの自腹では……そういうところからも、全然もうけようという気がないところからも、相馬さんは確かに節約の美を町の人々に教え、暮らしのどんなところにも楽しみがあると教えたけれど、暮らしに困ってはいないんじゃないかというか……何かワケありなのよね。

それが明かされることはついぞないんだけど、ここに訪ねてくる相馬主人の旧知の友人との話によると、ちゃんとした、あの感じだと学究関係とか、とにかくなんか良さそうな仕事だと思うんだけど、についていたはずで、でも何かの理由があって、あるいは彼もちょっと疲れちゃったのか、そこからしばらくの間離れることにしたわけで。でね、やっぱりある日突然この一家はいなくなっちゃうんだけど、その仕事場から呼び戻されたんじゃないかなー、と思いもするんだけど、またそれが風のようで、なんとも不思議なんだよね。天使的というか、仙人っぽいというか、天から使わされた一家って感じがするのよね。

相馬主人に扮する、柳家金語楼の、正体不明っぽいんだけど、おだやかでついつい耳を傾けちゃうような雰囲気が、この作品のカラーを決定づけてるって感じだったなー。★★★☆☆


誕生日 (痴漢電車 いやらしい行為)
1993年 55分 日本 カラー
監督:幡寿一(佐藤寿保) 脚本:五代響子
撮影:稲吉雅志 音楽:
出演:林由美香 今泉浩一 伊藤清美 石原ゆり 川崎浩幸 金子真一郎 宵待闇四郎 小林一三

2005/9/4/日 劇場(テアトル新宿/林由美香追悼オールナイト)
二十歳の誕生日に恋人から贈られたダイナマイトで死のうと決心している少女と、家族全員が精神的に壊れ、一人だけ取り残された“離人症”の少年の、ボーイ・ミーツ・ガールな物語。ラブ・ストーリーと言っていいのだろうか。二人の関係性はとても繊細で、ラブ・ストーリーだなどと単純に斬ってしまったら、ガラスのように壊れさってしまいそうで、怖い。友情、に近い気もするけれど、友情という感覚さえ経験不足な二人が、人間の暖かさと距離を取り戻そうと、柔らかに触れ合っている、そんな気がする。

こういう世界観って、日本のピンクに独特に存在するって感じだ。精神世界に降りていく感覚は日本文化的、いや日本文学的という感じだけれど、それを映画といういわばエンタテインメントのフィールドに持ち込めるのは、一般映画よりもよほど自由がきくピンク映画ならではなのだと思う。佐藤監督は四天王の一人で、四天王の作品は優れているけれど客が入らない、などという冗談話を聞いたことがあるけれど、そうした作家の思いをストレートに作れるところがピンクの面白さなのだと改めて感じ入る。四天王誕生のこの頃はきっとそれがより顕著に現われ始めた頃だったんだろうし……そして林由美香ピンク映画初期の代表作なのだという本作での彼女は、後年見せるようなコケティッシュな魅力はまだまだ影をひそめていて、その少女っぽさが、当たり前だけれど本物の少女なのだから……しかし本物の少女たちでもここまで直截には出ないだろうという少女っぽさで、作られている、っていう感じである。大人の女になっても変わらなかった、そのマンガチックにガーリーな声も、この時にはより強調されていて、まるで現実感がなくて、不思議な響き。しかも彼女と相対する、どちらかといえばこっちが主人公であろう少年の、自信なさげに小さく、囁くような声がこれまたとても印象的で(なんか、ARATAの声みたい)、なんだか声を聞いているだけで、現実の世界じゃないみたいだ。

彼女が、二十歳になったら死ぬんだと言っているのが、その少女めいたもの言いが、「明日が私の誕生日なの」と言い続けていた「式日」の女の子とやけに似ている気がして、そうか、「式日」の前に、もういたんだ、こんな女の子が……と思う。突然失踪した恋人は、この世界を否定し続けていた。死ぬことばかりを、口にしていた。ある日、一緒に電車に乗って、ふいに降りてしまった。その後、ダイナマイトが送られてきた……君が二十歳になったら会おう、そうメッセージがあった。彼女はそれを、ああもう恋人は死んでしまったんだ、そして私が二十歳になったらこのダイナマイトで死ななければならないんだ、と解釈する。

その彼女は、川辺にテントをたてて、毎日ただただあてどなく電車に乗っては帰ってくる毎日。そんな中で、少年と出会った。この少年は、常にビデオカメラを持ち歩いている。「全ての世界がカキワリみたいにしか見えない。こうしてカメラを通してみると、ようやく現実に見えるんだ」電車の中ではマゾ女がサド男に犯されてる(気づかないフリをしている一般客がリアルで……ゲリラ撮影のスリルを感じる!)。それをハアハア言いながら見ているオヤジや、露出狂の青年、飲んだくれて正体もないオバサンなどが、次々と出てくる……のは全て彼の家族なんだというんだから、ここまでくるとちょっと笑えるぐらいなんである。まあ、さすがに一度に出てくるわけじゃないんだけど……。皆出て行ってしまった、行方不明だ、という家族と少年が出会うのが、こうして電車の中で、彼はそんな壊れた家族たちをいつでもビデオカメラごしに眺めているのだ、まるで他人みたいに。

少女は少年をテントに招き入れる。抱いてもキスしても現実感がない、という少年に、「挿入してもダメなのかしら」と彼をハダカにする。一糸まとわぬ姿でされるがままに、どこか苦しげに彼女の上で果てる少年は、やはり現実感をその手に出来ないままだ。「誰とでもこんなことするの」そう少年は少女に聞いてみる。少女は否定し、この間まで恋人がいたから……と先の事情を彼に話すのだ。

凪いだ海につながれたゴムボート。つながれたまま、そのゴムボートに乗ってみる。別の世界への焦りを感じながら、でもつながれていることにやっぱり安心してしまう。二十歳の誕生日までは、こうしていられるんだと、そう思っているようにも見える。
家族の誰もが壊れてただ一人、家にぽつんといる少年に少女は言う。「君だけ、出て行けなかったんだね」そうかもしれない。そういうことなのかもしれない。普通に見れば、少年だけが正常だ。世界がカキワリに見えるぐらい、そんな非現実感ぐらいなら、一般人にも理解できるもの。でも、彼だけが家族から置いていかれたのだ。一緒に連れて行ってもらえなかったのだ。彼が現実感覚を失っているのは、少年と狭い時間の中で、数少ない現実であった家族を次々に失ってしまったから。若さは大人にとってうらやましいもの。けれどその未熟の中であがくしかない苦しさを、大人は忘れてしまっている。

少年は僕にもダイナマイトをくれと言う。少女の二十歳の誕生日、二人裸になってダイナマイトを巻きつけて抱き合い、火をつける。煙がもうもうと立ち込める。二人、お互いをぎゅっと抱きしめ合う。……でも、不発だった。ダイナマイトは爆発しなかった。そして少女は無事二十歳になり、……つまり大人になったのだ。少女が大人になる象徴や通過儀礼はさまざまにある。生理や処女喪失や、あるいは精神的な領域ならば恋愛や……でもこれの全てを少女は既に通ってきていて、でもやっぱりまだ、少女だった。今の時代は、どんなに通過儀礼を通っても、なかなか大人になることを許してくれない。その中で少女のまま、あるいは少年のまま、彼らはあがく。このダイナマイトは、恋人からの、自分と共に過ごした時間を清算して大人になっていいんだよ、という愛の証しだったんじゃないだろうか。不発だってことを、知っていたんじゃないかって。二人の時間の中に、少女は少女としての時を閉じ込めたままだったことを、恋人はきっと知っていたから。

少年は、だから少し、またも取り残されたような気がしてる。ただ、それはしょうがないのだ。男はいつだって、女より子供なのだから。少女はボートをこぐ。小林旭の「ダイナマイトが150屯」を歌いながら。ボートは、つながっている。いや、つながっていただろうか。あのまま彼女が大海に、小さなゴムボートで行ってしまいそうな気がした。少女だった時を、探しに……。★★★☆☆


壇の浦夜枕合戦記
1977年 94分 日本 カラー
監督:神代辰巳 脚本:神代辰巳
撮影:姫田真佐久 音楽:中谷襄水 沖至
出演:渡辺とく子 風間杜夫 丹古母鬼馬二 中島葵 牧れいか 宮下順子 田島はるか 山科ゆり 小松方正 花柳幻舟 石塚千樹 小宮山玉樹 村国守平 坂田金太郎 三谷昇 高橋明 橋本真也 中平哲仟

2005/4/28/木 劇場(銀座シネパトス/特集・日活ロマンポルノ・アラベスク2005/レイト)
そうかそうか、風間さんもロマンポルノの出だったんだねー。いや、彼の場合はそれよりずっとさかのぼった芸歴があるみたいなんだけど、ここでは割愛。いやあ、中学の時のね友達がね、風間杜夫のファンでさー、レコードまで持っててさー、今から思えばスゴい趣味の友達だったなあと、いやそんなことは全然関係ないんだけど、まあそんなわけで?私は風間杜夫というと、彼女に聞かされたそのレコードの歌声を思い出したりするんだなあ、いやはや。
まあ、私にとっては風間杜夫は、ベタなところで蒲田行進曲からだからねえ……あれにはハマって、しばらく友達に、私を銀ちゃんと呼んで!と言っていたっけ……(うーむ、アホまるだし)。
いやだから、そんなことは関係なくって、だからね、そうか、風間さんもロマンポルノだったのねと……ちょ、ちょっとすんごい、しんねり、ねっちり、エッチだなあ!って、ロマポルだから当たり前なんだけど……いやその、若い頃の、フツーにそれなりにハンサムな風間杜夫がしんねり、ねっちり……や、やばい、ちょっと心奪われちゃったかも!(……私も、風間さん結構好きかもしれん)。

しっかし、これが、時代劇。画的にはかなりしっかり作ってる時代劇なんである。神代監督なんだもんねえ。私、神代監督はちょっと苦手だったりするんだけど……でも、こんな、コミカルな感じというのは驚きだなあ。いや、というか、後半はもうそのしんねり、ねっちりで押していくんで、前半は“気迫のこもったコミカル”とでも言いたいような感じで。
私は歴史にうといんで、こんな有名な登場人物や時代背景でも、あーそうなのかと思うぐらいなんだけど……源氏と平家の物語なのね。平清盛である。うひゃー、小松方正、もう最初っからパワー全開だなあ!その権力にモノを言わせて、女色に溺れまくる。平伏し、許しを請う女を、レイプさながらにヤリまくっちゃう平清盛って、おいおい……時代劇、というフィクションの中だからまだ見ていられるけど、これってかなりツラいシーンだよなあ……。
そんで、彼の最期がまた凄いんである。原因不明の熱病にかかって断末魔の苦しみの中死んじゃうんだけど、熱がる彼に、水をかけても水をかけても、ジュワー!とばかりに水蒸気がたって、鉄板じゃないんだから。そうして彼は死に、その機に乗じて源氏の軍勢が平家を追いつめ、平家の女たちは生き恥をさらすぐらいならと、次々に海に身を投げるんだけど、死にきれない女たちの何人もが源氏の武将たちに引き上げられちゃって、まさに生き恥をさらすことになっちゃうのね。

そのうちの一人が安徳帝の母、建礼門院。八歳になる安徳帝とともに身を投げたものの、彼女だけが引き上げられてしまった。他の女たちがさっそく源氏の荒くれ武将どもの餌食になって、まさしく酒池肉林の、女たちにとっては地獄絵図となる宴が繰り広げられる中で、この“やんごとなきお方”だけはお付きの女官と共に、御簾の重く垂れ込める中に鎮座することを許されている。天下を取って意気揚揚の源氏の武将たちでも、彼女だけには手をつけられない。そんなことをしたら本当に、天からの罰が下るとおびえている。
でも、若き武将、源義経だけは、違ったのね。彼ももちろんそんなおびえがあるんだけど、彼女を恋い慕う気持ちの方が強い。というより、そんなやんごとなきお方を思慕するという形は、やはり彼の天井知らずの野心に違いない。ひたすら平伏しながらも、御簾を上げさせ、手を変え品を変え、かきくどく。

もうねえ、悲嘆にくれてる平家の女たちがひたすら泣き叫びながら台詞を言うもんだから、その台詞そのものも、男たちの台詞でさえ、さっぱり聞き取れなくってさあ(笑)。もんのすごいテンション高い、高い!で押しまくるってーの。弱ったなあ、話の筋が読めないよ、とか思ってたんだけど、話の筋なんか、あんまり関係なかったのよね。
つまりは、こんなやんごとなきお方が、時代が変わったことによって時の盛者に組み敷かれるということで、あるいはやんごとなきお方でも女であり、そのことを彼女自身がまざまざと自覚していく、というところにあるわけで。
で、そこんとこがしんねり、ねっちりで、彼女の“女”が開発されていく様を、じっくり見せていくんだけど、彼女が人間として、女として、一人の男によってこうも変わるかというのを、納得させられちゃって、感心しちゃうんだよね。いや、成人モノってこういう描写が、そんなんねえだろう、ってことがよくあるんだけど、ここまでじっくり緻密に見せられちゃうと、納得しちゃう。何にも知らなかった彼女が、ひたすら恐怖に震えていたのに、歓喜の声をあげるようになることに、深く得心しちゃうのね。これは凄いと思うなあ。

で、それをやりとげるのが風間杜夫なんである。義経、である。しんねりねっちりの義経。ふ、ふふふ、今タッキーが義経やってることを思うと、なあんか含み笑いが出ちゃうわあ。
しかしこの若々しい肉体に、瑞々しい若者の野心があふれ出ていて、そりゃー、今のタッキーなんぞ蹴散らす勢いだよなあ、と思う。
コミカルって言ったけど、コミカルだったのは風間杜夫だけだったかもしらんなあ。その烏帽子が梁や鴨居にぶつかりそうになるたびに、ぴょこん、ぴょこんと頭を曲げながら行き交うあたりがもう……そんな帽子をかぶってるのは、彼だけなのよ。今の自分が権力を握っていることを、示したいんだなっていうのがいかにもで、こんな風に逆におかしくて。で、喋る声がもう、思いっきり裏返る、裏返る(笑)。まあでもそれにも理由付けはあって、彼はやんごとなきお方を前に、すんごい緊張してるわけよね。だからもう、オカマちゃん並みに声が裏返っちゃうわけ。
彼が、建礼門院を抱こうとすることに、彼付きの武将は、さすがにそれは……と言葉を濁すのね。強い者が天下を取る!って感じの男たちでさえ、神の怒りを恐れてる。義経は、あんなにアホみたいに声裏返っちゃってコミカルだったのに、この時はやけにシリアスなの。いきなりそうだから、ドキッとしちゃう。「そんなことをしたら俺のイチモツがちぎれるとでも思っているのか。俺もそう思わないわけではない。そんなことになったら、お前にそれをくれてやる」言ってることはやっぱり可笑しいんだけど、そのマジメな顔に、あ、あららら、ちょっと素敵かも……とドキドキする。
彼は、女色に溺れているんではなくって、本当に、本気で、建礼門院に挑むつもりなんだっていうのが、判るから。

そして義経は、平惟盛を救うことを条件に、というか彼の命をちらつかせて半ば脅すような形で建礼門院に迫ってゆく。本当は惟盛を救う気持ちなんてコレっぽっちもないし、それにその頃既に惟盛はもう息絶えてしまっているのよ。建礼門院はでも、何たって自分は神にも等しい存在なのだから、この野心たっぷりの若者にひたすら抵抗する。でもそれを、義経は、それは重々承知だから、引くところは引き、言葉で崇め奉る。「あなたをお慕いしているのです」「この義経をお嫌いですか」「あなたをお慕いしている気持ちの現われです」と言いながら、唇を奪い、その裾から手を入れ、少しずつ、少しずつ、彼女を落としてゆく。
本当にね、この建礼門院は何にも知らないの。子をもうけているというのに、男女の睦みごとを何にも知らないの。これって、すっごく恐ろしいことじゃないだろうか。だって子をもうけているのに接吻さえ知らないんだよ。「この男はなんでこんなことをするのか」とか言うんだもん。だからあんな舌入れまくり、かきまわしまくりの接吻に困惑し(かきまわしすぎだよ……風間さん)、当然その最初はそれで気持ちが高まるなんてことさえない。だとしたら彼女が子をもうけたそのセックスが、いかに、本当に、ただ挿入するだけのことだったんだって、それこそがレイプさながらじゃなかったのかと、恐ろしく思えてしまうんだ。

義経は、後ろから抱きすくめるような形で、彼女の唇を狙ってくる。いやー、何かドッキドキだわー。何でってだってこれこそコスチュームプレイの興奮よねー。何重にも身を包んだ体を抱きすくめるあの感じが、あのまだまだ届かない感じが、実にイイのよねー(何かだんだん自分がヘンタイに思えてくる……)。彼は決して無理強いはしないんだもん。本当にとにかく彼女を上に崇め奉って、平伏しながら、じりじりと、端から崩していく。いわゆるセックスシーンのこの演出の緻密さには、本当に舌を巻いちゃう。でそれを体現する風間さんが上手すぎる。それをそういうことが上手そうなじーさんじゃなくって、この瑞々しい若者の男性でやっちゃうんだから、何ともそそられるのよ。だって建礼門院は彼よりずっと年上。10は上なんじゃないかと思う。でも何にも知らない処女のような恐れと戸惑いで、この若者に体を許すことを死にたいぐらいの陵辱に感じながらも、そんな考えさえしまいには頭からすっかりなくなってしまう様を、これだけ緻密に……いやあ、もう、ため息しか、出ないわけ。

自分はさておいて、とにかく彼女が感じるように、彼女の体をじっくり開発していくそのさまは、腰の上げ下げから、低い位置で回してみてくださいとか、すっかりレッスンだろっていう懇切丁寧さ。夜を徹して二人の戦いは続き、白々と夜が明けた時、彼の身体の下でうっすらと笑みを浮かべる建礼門院。あの固い、能面のような、表情を見せるとしたら悲嘆にくれて泣くしかなかった彼女が、満たされた女の顔になっている。そして昨日までなら絶対にありえなかった、彼女の方から義経の唇を求めにゆき、「わたくしは本当に何にも知りませんでした。これが生きるということなのですね」と自分が上になって抱き抱えられ、もう髪振り乱してぐりんぐりん状態なんである。

……いやあ、凄いわ、風間杜夫。レッスンプロだね(!?)。彼のロマンポルノ時代の作品、他にも観たいわ、ホントに。★★★☆☆


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